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「だらだら長者」の御蔵米買い占め資金。 [気になる神田川]

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 ある日突然、羽ぶりがよくなってカネ持ちになり「〇〇長者」になったという伝説は、江戸東京はもちろん全国各地に類似の物語として伝承され現存している。以前、落合地域の南西側に伝わる「中野長者(朝日長者)」をはじめ、いくつかの長者伝説Click!をご紹介した。きょうは落合地域の東側、牛込地域で語り継がれた「だらだら長者」伝説について検討してみたい。
 「だらだら長者」の「だらだら」は、しじゅうヨダレをたれ流しオバカのようにふるまっていたので(一条大蔵卿Click!のように偽装だったという説もある)、そう名づけられたとされているけれど、後世の芝居がかった付会臭がして真偽のほどはわからない。「だらだら」は、もうひとつ別の意味としての「だらだら」していた、つまりひがな1日働きもせずゴロゴロしていた怠け者にもかかわらず、なぜか突然おカネ持ちになった「長者」だから、あえて付与された副詞なのかもしれない。同様の伝承は、信州の有名な「ものぐさ太郎」に物語の類似形をたどることができる。
 「だらただら長者」と呼ばれた(生井屋)久太郎は、築土八幡社や津久戸明神社の裏手に大きな屋敷をかまえて住んでいたという以外、本人の素性には諸説あってまったくハッキリしない。築土八幡社の周囲は、幕府の旗本屋敷がひしめき合うように建ちならび、それぞれ氏名まで含めて素性はあらかた知られている。かろうじて町場が形成されているのは、築土八幡社と津久戸明神社、そして万昌院のそれぞれ門前町のみだ。根岸や向島の別荘地とは異なり、乃手Click!であるこれらの町辻には、町人が大きな屋敷をかまえる余地はなさそうに見えるが、寺社の境内や旗本の屋敷地の一画を借りて、大きな屋敷を建てていたものだろうか。
 築土八幡社の裏手には、現在でも銀町(しろがねちょう=現・白銀町)の地名が残っているが、この「銀」が「だらだら長者」と具体的にどうつながるのかも不明で、また上大崎や青山に残る「黄金長者」や「白金長者」との近似性や関連性も、もはや途絶えたのかまったく伝わっていない。だが、「だらだら長者」が実在の人物だったのは確かなようで、町奉行所の与力上席・鈴木藤吉郎(市中潤沢係/20人扶持)らとともに、不正蓄財の容疑で町奉行・池田頼方から摘発・追及を受けている。
 不正蓄財とは、米の価格をつり上げる相場師のようなことを、「だらだら長者」と役人の鈴木藤吉郎が組んでやっていたのだ。ふたりは、江戸市中の御蔵米を大量に買い占めて市場に出まわる米の流通量を抑制し、米価が高騰したところで売り逃げするというボロい商売をしている。鈴木藤吉郎は町奉行所の役人なので、当然米の買い占めや出荷の意図的な操作を取り締まる側のはずだった。御蔵米の買い占めで貯めた財産は、両人合わせて膨大な額になると想定されていた。
 それを裏づけるかのように、奉行所の家宅捜査では築土八幡裏の「だらだら長者」屋敷にあった手文庫から200両の現金と絵図が、また摘発からしばらくたった1859年(安政6)には、同屋敷から道をはさんだ向かいの廃墟のような屋敷へと抜ける地下トンネルから、油樽に入った1,200両の小判が発見されている。
 さらに奇怪なことに、奉行所に捕縛され小伝馬町牢屋敷Click!の揚屋へ入牢した鈴木藤吉郎は、ほどなく急死(毒殺といわれる)している。御蔵米の買い占めが、単に久太郎と鈴木による犯行ではなく、それを黙認して上澄みをかっさらっていたらしい、老中をはじめ幕閣の存在が浮かんできたため、口封じに殺されたのだとする説が有力だ。当時、米穀の売買には幕府の認可が必要で、鑑札がなければできないはずだった。このあたり、幕府上層もからんだ不正売買の可能性が臭うので、“口封じ”説がリアリティをもつ。
 同様に、与力・鈴木藤吉郎の捕縛から間もなく、「だらだら長者」こと久太郎も屋敷内で変死(こちらも毒殺といわれる)している。こうして、御蔵米買い占めで貯めた莫大な利益が、いったいどこに隠されているのかが、江戸市中の話題をさらうことになった。
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 そのときの様子を、1962年(昭和37)に雄山閣から出版された、角田喜久雄『東京埋蔵金考』所収の「築土八幡の埋宝」から引用してみよう。
  
 とにかく、そのような奇怪な、長者屋敷のからくりが世に出たため、埋宝説は一層有力となって、土地の有志が先達で、長者屋敷のそちこちが掘り起されたのは、安政六年の夏からである。この時は、町奉行所でも後援したらしく、与力や同心が毎日のように現場を見廻っていたと伝えられている。そして、地下道の一部から、油樽にはいった小判千二百枚を発見したと言われているが、その処分がどんな風に行われたものかは伝わっていない。長者の豪勢な生活からみても、それが埋宝の全部でないことは、当時誰しもの一致した意見で、その後も個人的にたびたび発掘を計画したものもあるが、ほとんど得るところなく明治維新を迎えたのである。
  
 角田喜久雄は、戦前に活躍した大衆小説や推理小説の作者であり、その文章を読んでいると、まるで自身がその場に立ちあって見てきたような会話や情景が描かれており、あちこちに講釈師あるいは講談師の臭気を感じて、どこまでが史的な裏づけがある事実なのかはハッキリしない。だが、築土八幡社周辺の“宝さがし”は明治以降もつづけられ、昭和に入ってからも新聞ダネになっているのは事実だ。
 さて、この「だらだら長者」伝説で重要なポイントは、不正蓄財でもうけた大判小判の宝がどこに埋まっているか?……ではない。生井屋久太郎が、御蔵米を買い占められるほどの元手を、どうやってこしらえたのか?……という点だ。すなわち、しじゅうヨダレを流している、あるいはふだんはなにもしないで遊び呆けているような人物が、ある日突然、御蔵米の買い占めという大きな資金を必要とする“投機”に手をつけはじめ、町奉行所の与力を巻きこみつつ、雪だるま式に財産を増やしていき、やがて築土八幡社の裏にたいそうな屋敷をかまえる富豪にまで「成長」することができたのは、どのようないきさつやきっかけがあったのか?……ということだ。
 以前にも書いたけれど、もともと蔵をいくつも所有しているようなカネ持ちが、なにかの事業に投資し改めて成功しても物語としては成立しにくいが、もともと貧乏だった人物が、ある日を境に突然カネまわりが目に見えてよくなり、次々とビジネスにも成功して大富豪になる、あるいは立身出世するという話は、人々へ強烈な印象を残すので、後世までの語り草となり伝承されやすいものだ。
 また、そのような物語には周囲の妬みや嫉みが強くからみ、「悪行のむくい」「祟り」「バチ当たり」「憑き物」「因果応報」「凶事」など、怪談や妖怪譚などをまじえた不幸な教訓話が付随・習合することもめずらしくない。おそらく「だらだら長者」にも、当初はさまざまな付会=怪しげなウワサや尾ひれがついていたのではないかと思われるのだが、今日まで伝わる不吉な出来事やエピソードは、主犯の変死以外には残っていない。
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 さて、久太郎が暮らしていた築土八幡社裏の高台は、神田上水Click!(大堰から下流は江戸川Click!)沿いに形成された河岸段丘の北向き斜面であり、室町期に起因するとみられる昌蓮Click!がらみの百八塚Click!伝承のエリア内だ。特に、築土八幡社から西へ万昌院、赤城明神社へと連なる丘は、北側が絶壁に近いバッケ(崖地)Click!状の段丘地形をしており、古墳が形成されてもおかしくない地勢をしている。事実、筑土八幡町と白銀町は下落合とまったく同様に、縄文時代から現代まで人々が住みつづけている重層遺跡として、新宿区から指定を受けている。もちろん、古墳時代の遺跡もその中に含まれている。
 そのような視点から、戦後の焼け野原となった同地域一帯を、1947年(昭和22)の空中写真で観察してみたが、残念ながら古墳らしいフォルムはもはや発見できなかった。いや、むしろ築土八幡社や万昌院、九段へ移転してしまった旧・津久戸明神社跡(住宅地)、そして赤城明神社など寺社の境内がそれらの遺跡なのかもしれないのだが、戦前の発掘調査の有無とともに明確に規定することができない。
 しかし、すぐ西隣りの下戸塚(現・早稲田地域)では、江戸時代に富塚古墳Click!(戸塚富士Click!)ないしはその倍墳域から、周辺を開墾していた農民が「竜の玉」と「雷の玉」という宝玉Click!を見つけ、牛込柳町の報恩寺(廃寺)へと奉納している。これらの宝玉は、たまたま盗掘をまぬがれていた玄室から発見された副葬品とみられており、当時はかなりの価値をもつものだったろう。同様に、古墳の玄室には金銀宝玉を用いたさまざまなアクセサリー類の副葬品が埋蔵されており、それらの財宝を掘り当てる(盗掘する)ことを職業にしていたプロも存在していた。
 副葬品の金銀財宝はもちろん高額で売れ、もはやサビだらけで朽ちそうな鉄剣・鉄刀などの古墳刀Click!もまた、江戸時代にはかなりの高値で取り引きされている。なぜなら、古代のタタラで鍛えられた古墳刀の目白(鋼)Click!を、江戸期の鉄鉱石から製錬された鋼に混ぜて折り返し鍛錬をすると、より強靭で折れにくく、斬れ味の鋭い日本刀が製造できたからだ。江戸に住み、新刀随一の刀匠とうたわれた長曾根興里入道虎徹(ながそねおきさとにゅうどうこてつ)の「虎徹」は、寺社の古釘や古墳刀の目白(鋼)を、つまり「古鉄」を混ぜる独自技法を発明したからそう名乗っているのであり、のちに模倣者が続出して稀少な「古鉄」の価格は急上昇することになった。
 また、古墳刀についた赤サビは、刀の研師Click!の最終工程である「刃どり」を仕上げる際の、理想的な磨き粉として貴重かつ高価なものだった。古い目白(鋼)にわいた赤サビを粉砕してつくる粉は、現在でも日本刀の磨き粉として研師の間で珍重されており、江戸期とまったく変わらない技法が伝承されている。
 さて、これらのことを踏まえて考えてくると、働きもしないでだらだら怠惰に暮らしていた生井屋久太郎こと「だらだら長者」が、なぜ御蔵米を買い占める元手=資金を突然手に入れられたのかが、なんとなく透けて見えてきそうだ。それは、淀橋をわたって大型の古墳域だったと思われる柏木地域へ出かけていく「中野長者」が、日々裕福になっていった経緯と同一のものだったのではないだろうか。もっとも、「だらだら長者」伝説には、とりあえず「橋」にまつわる出来事は伝えられていないが、より古墳の羨道や玄室をイメージさせる、地下トンネルにまつわるエピソードがリアルに伝承されている。
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二代広重「昔ばなし一覧図絵」1857.jpg
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 全国各地には、動物の導きで地面を掘ったり、藪をかきわけて山(森)に分け入ってみたら、大判・小判や財宝がザクザク出てくるフォークロアが伝承されている。すぐに思いつくだけでも、有名な「花咲爺」や「舌切り雀」などが挙げられるけれど、みなさんの地元では「にわか長者」に関するどのような昔話や民話が伝わっているだろうか?

◆写真上:築土八幡社の西側に隣接する、平将門を奉った津久戸明神社跡の現状。津久戸明神社は戦災で焼けたため、1954年(昭和29)に九段へと遷座している。
◆写真中上は、築土八幡社の拝殿へと向かう階段(きざはし)。は、同社の拝殿。は、右側が築土八幡社で左側が津久戸明神社の階段があった跡。
◆写真中下は、築土八幡社の階段上からバッケ状の地形を見下ろしたところ。は、津久戸明神社跡の崖地。は、1852年(嘉永5)に制作された尾張屋清七版の切絵図「牛込礫川小日向絵図」にみる、築土八幡社と津久戸明神社の周辺域。
◆写真下は、「花咲爺」の挿画(作者不明)。は、1857年(安政4)制作の二代広重「昔ばなし一覧図絵」。は、明治期の制作とみられる河鍋暁斎『舌切り雀』。

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清戸道の鶴亀松に登った景観は。 [気になる神田川]

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 かなり以前のことになるが、1857年(安政4)に発行された尾張屋清七版の切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」を見ていて、細川越中守の抱え屋敷Click!(現・目白運動場/肥後細川庭園界隈)の清戸道Click!(現・目白通り)門前に「鶴亀」の記載を見つけ、当時連載していた「ミステリーサークル」シリーズClick!で塚ではないかという記事Click!を書いた。
 すると、さっそくコメント欄で小江戸っ子さんより、松の大樹で「鶴松」と「亀松」と呼ばれていた名木だとお教えいただいた。その際、長崎大学図書館の古写真データベースに保存された、貴重な写真類もご教示いただいている。高田老松町のいわれにもなった鶴亀松の由来にはじまり、目白という地名に関する本来の故地らしい一帯にがぜん興味がわいて、その後、あちこちのフィールドワークや調べものを重ね金山稲荷Click!目白不動尊Click!の拙記事としてまとめてきた。その中で、もうひとつひっかかっていた資料類やテーマがある。
 天保年間に斎藤月岑が著し、長谷川雪旦の挿画で有名な『江戸名所図会/巻之四・天権之部』に目を通していたとき、古えには護国寺のある周辺一帯までが「西大塚」あるいは「富士見塚」と呼ばれた時期があり、執筆当時(天保期)の波切不動尊(本伝寺)が、その昔は塚の上に建立されていた……という伝承が収録されていることを知った。以下、市古夏生・鈴木健一の校訂による斎藤月琴『江戸名所図会』(筑摩書房)から引用してみよう。
  
 (前略)また南向亭(酒井忠昌、一八世紀中頃)云く、「安藤対馬侯[陸奥平藩主]の東の方、森川氏の構へのうちに一堆の塚あるといふ」とも。『紫の一本』[戸田茂睡、一六八三]に、「塚の上に不動堂あり」とあれば、いまの波切不動尊の地、大塚と称する旧跡にや。相云ふ、太田道灌(一四三二-八六)相図の狼煙を揚ぐる料に築きたる塚なり。ゆゑに、昔は太田塚と唱へけると。あるいはまた、鎌倉将軍守邦親王(一三〇四-三三)乱をさけて、武州比企郡大塚村に逝去す。その廟を王塚と称す。ここに大塚と号くるもこの類ならんといへども詳らかならず。(江戸の内に大塚の名多し。なほ考ふべし)。
  
 それによれば、後世に「塚」に関するさまざまな付会が創作されていることがわかるが、結局は不明として記述を終えている。著者が「大塚の名多し」としているとおり、落合地域とその隣接地域だけみても、すぐに3ヶ所の字名「大塚」を発見できる。江戸東京じゅうを見まわせば、「大塚」ないしは「〇〇大塚」と呼ばれる古くからの字名は、おそらく100ヶ所をゆうに超えるのではないだろうか。現在は平坦に整地された場所にある波切不動(本伝寺)が、『江戸名所図会』によれば江戸前期には塚の上に不動堂が建立されていたと伝えられており、小石川大塚とも呼ばれていたようだ。
 また、現在の行政区画ではなく、より古い時代の同所一帯はどこまでが「(西)大塚」と呼ばれていたのかに興味がわいてくる。いうまでもなく、目白から小石川にかけての地域は、旧石器時代から現代まで一貫して人が住みつづけてきた痕跡が見つかっており、明治以降の史観で植えつけられた無人に近い「武蔵野の原野」ではなかったことが、戦後の考古学的あるいは歴史学的な発掘調査の成果物によって裏付けられている。
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 そこで、同書の「なお考ふべし」を実践すると、上記にご紹介した拙記事のような風景が改めて見えてきた。それは、古代のタタラ(大鍛冶Click!)=製鉄との関連や、「目白」(砂鉄から精錬した鋼の古語)という地名考、そして金川=神奈川(弦巻川Click!カニ川Click!の古名)の由来などで書いたとおりだが、「金山」の南西に展開する「神田久保」(現・不忍通り沿い)の谷間にふられた字名、そして幸神社(荒神社)や目白不動などが建立されていた関口台(本来は目白台とも)に挟まれた地域、すなわち清戸道(現・目白通り)の北側は、これまで子細には観察してこなかった。先年に解体された東大病院分院の跡地や、筑波大学付属視覚特別支援学校がある目白台3丁目一帯だ。
 大正期に発行された古地図を見ていたら、ちょうど戦前には府立盲学校Click!(旧・盲学校永楽病院Click!)や東京帝大病院分院があったあたりに、大きな瓢箪型の盛り上がりがあるのを見つけた。その地形図を参照すると、その300m前後の大きな突起がきれいに採取されている。現在は、上掲の大規模な学校や病院の建設、または住宅地の造成による整地作業で、地形の盛り上がりは希薄になっているが、北は目白台3丁目24番地あたりから南は同3丁目7番地ぐらいまでの、北北西から南南東にかけて形成された地形の突起だ。江戸期の清戸道沿いにあった鶴亀松の枝に登ったら、おそらくこの瓢箪型に盛り上がった突起がよく見えたかもしれない。また、一帯は江戸期に「源兵衛山」とも呼ばれていたようで、台地の下には金川(弦巻川)が大きく蛇行しながら西から南へと方向を変え、旧・平川(のち神田上水)へ注いでいただろう。
 江戸後期には松江藩松平出羽守(16万8千石)の下屋敷になり、幕末には百人組同心大縄地にされていたようなので、射撃場などの設置により、すでに地形の大幅な改造が行なわれていたかもしれない。幕末は、頻繁に姿を見せる外国船や国内の政治的な緊張に備え、大江戸Click!の各地では土木工事が積極的に実施されていた時代だ。だが、大正期の地形図にも、その痕跡が明瞭に採取されているとおり、突起物を全的に消滅させるには至っていなかった。大正末から昭和期にかけ、大規模な学校や病院の建設(増築)で、より急速に整地開発が進捗したのだろう。そして、戦後はビル状のコンクリート建造物が一帯に林立するに及び、瓢箪型の突起はほぼ全的に消滅してしまった……、そんな気が強くするのだ。
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 現在、地形図に採取された瓢箪型に沿うかたちで歩いても、地面からの突起はほとんど確認できない。むしろ、規模の大きな東大病院分院があったせいか、地下階の設置で地面がえぐられているところさえある。また、瓢箪型地形の北西部にあたる住宅地も、おもに大正期の道路敷設や宅地開発で、本来の地形の面影は希薄となっている。ちなみに、瓢箪型の突起北西部には、腰掛稲荷が奉られている。なお、江戸期あるいは明治期に、このあたりの風情を記録した文献が残っていないか探しているのだが、いまだに見つけられずにいる。
 さて、瓢箪型の突起が北側に眺められたとみられる鶴亀松だが、その記述は寛政年間にまでたどることができる。金子直德の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
  
 六角越後守様御下屋敷 表御前に松の樹二本有り、有徳院殿御土産松と云て、道の上に覆ども枝を伐事ならず、寛政九年の春大雪降て、西之方の松倒れけるが、起して植ける。此松に十年斗前より蛇住て、木の空穴より出ては往来の枝の上に寝て、いびきの声高し。或時は男女縄のごとくなりて、三五日番居けるが、倒て後はその沙汰なし。
  
 寛政年間の鶴亀松は、細川家下屋敷ではなく六角家下屋敷の門前にあったことがわかる。大雪で西側の松が倒れたとあるが、そのダメージがのちのちまで尾を引き、幕末ないしは明治初期の落雷により樹体の脆弱化が進み、枯死が決定的になったのだろう。明治期には、西側の松は枯死して伐られ、東側の老松だけになってしまった時期があったらしい。
 ただし、残った東側の老松も明治のうちに枯死して伐採され、大正期には後継の若松に植えかえられていた様子が伝えられている。大正期が終わったばかりの、1927年(昭和2)に東京日日新聞に連載された、上落合685番地のプロレタリア作家・藤森成吉Click!『小石川』から引用してみよう。
  
 学校(日本女子大)の斜め向いには、旧大名細川邸の長い黒板塀が連なっている。その正門の両側に、「細川さんの鶴亀松」と呼ばれて名高い老松があった。私の記憶でも、その一本――あとでは確か後継の若松――は震災前まであった。が、あの天災で門が大破し、そこを潰して一連の塀に変ったと同時に、松の姿も消えて了った。(カッコ内引用者註)
  
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 明治期に、鶴亀松の向かいには「美人の評判が高かった」(同書)娘がいたそうだが、やがて蔦のからまる西洋館のカフェに変わり、茶屋の娘のそのまた娘が経営していたようだ。藤森成吉は、目白台に住む青年たちが訪ねてくると、「親に似た美人だ」という評判を昭和初期にさんざん聞かされているらしい。

◆写真上:広い草原が拡がる、帝大病院分院(のち東京大学病院分院)の跡地。
◆写真中上は、幕末か明治の最初期に日下部金兵衛が撮影した細川家下屋敷門前の鶴亀松。は、大正期と思われる地形図にみる源兵衛山の瓢箪型台地。は、帝大病院の分院時代から残るレンガとコンクリートの塀。
◆写真中下は、同じく東京大学病院分院の跡地。は、盲学校永楽病院(のち東京府立盲学校)へ向かう西側接道。大正期には、この道を新宿中村屋Click!に寄宿していたエロシェンコClick!が通った道だ。は、現在の筑波大学付属視覚特別支援学校。
◆写真下は、瓢箪型突起の西北側に建立された腰掛稲荷社。は、神田久保の谷間(現・不忍通り)へと下るバッケ(崖地)Click!坂。は、明治期に撮影された鶴亀松。

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江戸東京の「長者」伝説と古墳域。 [気になる神田川]

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 江戸東京の各地には、「長者」伝説が散在している。その中で、もっとも有名なのが江戸期の資料にも数多く書きとめられ、近代に入ってからは民俗学の柳田國男Click!が採取して有名になった、東京の西北部に拡がる「中野長者」伝説だ。
 昔話に現れる長者というと、初めからおカネ持ちだったわけではなく、なにかの功徳を積む生活を送っていたり、正直者が夢や動物のお告げで示された場所を掘ったりすると、にわかにカネ持ち=長者になるエピソードが多い。確かに、最初からカネ持ちであれば、特に物語化する必然性が生まれにくいだろうし、また貧しい人々へ希望や夢を与えられる「教訓話」や「道徳話」としても成立しにくい。そこには、なにかがきっかけで長者へと生まれ変わる、変身譚が不可欠な要素となる。
 多くの昔話は、子どもに語るのを前提とするせいか、最後は「めでたしめでたし」で終わるパターンが多い。だが、実際の大もとになっている物語は、必ずしも幸福で終わるとは限らないものも少なくない。地域の長者物語が語られるとき、なにか不吉なエピソードとセットになっているケースも少なくないのだ。「中野長者」(または「朝日長者」とも)の伝説も、まさにその典型的な事例だと思われる。
 1732年(享保17)ごろに書かれた『江戸砂子』から、その様子を引用してみよう。
  
 むかし多摩郡中野の内、正観寺(成願寺)の薬師堂の棟札に、朝日長者正蓮(中野長者)が書たるには、漆千盃朱千盃、黄金千両、銭十六萬貫、朝日さす夕日かゞやく藤の下にありといふ。これを埋むる時、下男に負せて此のはしをわたりけるに下男が後にぬすむ事もあらんと、そこにて殺しけると也。その下男のわたりたるは人見たれども、帰る所を見ざるゆへに姿見ずの橋といふ也と、里人の物語也。
  
 『江戸砂子』は概略しか採取していないが、室町期の応永年間ごろ中野村字塔屋敷(現・中野区本町2丁目)の成願寺あたりに住んでいたとされる、元・武士の鈴木九郎(正蓮)という人物が浅草寺の観音に願掛けしたところ、にわかに長者になって大きな屋敷をかまえたところから物語がはじまる。次々に財宝が増えるものだから、九郎は屋敷内に貯蓄しておくことができず、やむなく橋をわたった「藤の下」に隠し場所を用意して、納まりきれない財宝を下男に運ばせて埋蔵した。
 ところが、隠し場所のありかが外部に知られると困るので、そのつど下男を殺害してくるため、長者ひとりが橋をわたって帰ってくる。村人はいつしか、この橋のことを「姿不見橋(すがたみずのはし)」と呼ぶようになり、それが現在の新宿・淀橋Click!に相当する橋だったという経緯だ。つまり、中野村側から淀橋をわたって角筈村側(東側=新宿側)のどこかへ、財宝を埋めていたことになる。「朝日さす夕日かゞやく藤の下」とは、どこか高台の地形を連想させるポイントだ。しかも、長者が“東”を意味する「朝日長者」と呼ばれていたことにも留意したい。夜間にいずこへか出かけ、朝日が昇るころ橋をわたって帰ってくるというイメージのネーミングだ。
 この話にはバリエーションが数多く存在し、その後、殺された下男の祟りで中野長者が一家全滅したり、長者の娘と殺される下男との悲恋物語をはさんだり、祟りで娘が龍(蛇)になって角筈十二社池へ飛びこんだりと、伝承のされ方は千差万別だ。中野区教育委員会も、「中野長者」伝説を多数蒐集しているが、1987年(昭和62)に発行された『中野の昔話・伝説・世間話』では、次のように書いている。
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 今回の調査では江戸時代の地誌や随筆などにも見られる中野長者の伝説が、中野区内ではどのように伝えられているかに注目し、各調査質問事項にもした。(略)長者伝説を伝える旧中野地区の地元の話者の中には、「長者の話は十人みーんなちがう」と話す人もあるように、「中野長者」の伝説は、多種多様に伝えられている。/淀橋(姿見ず橋)を嫁入りの行列が渡ってはいけない、という伝承は知る人も多い。そのいわれは、中野長者が財宝を隠させた下男を殺したところだからとする長者伝説の系統と、井の頭の主の伝説(宝仙寺の竜頭骨の由来)の系統との、二つの伝説に大別される。そして、その祟りのために、花嫁が通ると不幸になる、縁が切れるなどと、嫁入りのときに橋を渡ることが忌まれてきた。
  
 この物語が、いかに強烈な印象を地域に残していたかは、明治以降もずっと婚礼の行列は不吉な淀橋を通行せず、わざわざ上流や下流の橋を迂回していたことからもうかがえる。1913年(大正2)1月21日になって、ようやく迷信打破のための大規模な祭礼が淀橋で行われ、わざわざ結婚式を挙げたカップルに淀橋をわたらせている。この“厄払い”式典には、柳田國男も呼ばれて出席していた。1913年(大正2)1月22日の東京朝日新聞や東京日日新聞は、淀橋の祭礼の様子を大々的に報じているが、記事がよくまとまっている東京日日新聞から引用してみよう。
  
 府下淀橋町と中野町との間に架する淀橋に迷信ありて、婚礼の行列此の橋を渡るを忌む事は既に報じたが、同地の浅田政吉氏主催となり此の迷信を一掃する為め、昨日午前十一時から神官を聘して河精を祭り迷信払いの神事を執行した、式場は淀橋の畔の川上に床を張りて設け正面を祭壇として神官二十名にて最と荘厳に式が行はれ、式後食堂を開いて観盃を挙ぐる間に、関直彦(衆議院副議長)の「迷信と神経」の演説、神話童話の研究家柳田國男氏(法制局長官)の「伝説の尊重と迷信の打破」の演説があった。
  
 このあと、花婿花嫁の婚礼行列が淀橋の「わたり初め」をして祝福されている。
 室町期(江戸東京の「長者」伝説は鎌倉期までさかのぼるものもあるので、あるいはもっと以前からかもしれないが)、平川(神田上水→神田川)Click!に架かる淀橋を中野から向こう側(角筈側)へわたると不吉なことが起きる……という伝説に、中野長者の娘の悲恋あるいは娘が龍(または蛇)に化身する化け物譚が習合し、やがて嫁入り行列がわたると不幸になる……という物語が形成されているように見える。では、中野側から淀橋をわたり角筈の成子坂へと抜ける、青梅街道のどのあたりに不吉な影が射すのだろうか。
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 このサイトをつづけてお読みなら、すでにピンときている方も多いのではないだろうか。そうなのだ、成子坂の斜面から青梅街道を現在の新宿駅方面へ進むと、その両側には大きな古墳とみられるフォルムが並んでいたことが想定できる。こちらでもご紹介した、新宿駅西口に位置する「新宿角筈古墳(仮)」Click!と、成子富士のある天神山の「成子天神山古墳(仮)」Click!だ。これらは、かろうじて現代からたどれる古墳の痕跡だが、大規模な淀橋浄水場が建設される以前、あるいは一帯が住宅街で埋まる以前に、その広い斜面の畑地にはどのようなフォルムが残されていたのかは、いまとなっては不明だ。
 中野側から語られる、「橋をわたると不吉なことが起きる」、あるいは「橋をわたると不幸になる」など多彩な物語群は、より古い時代からの禁忌的なエリアへ足を踏み入れることを戒めた伝承なのではないか。古墳域で多く語られる、屍家・死屋(しいや)Click!伝説のバリエーションなのではないだろうか。当初は、墓域への敬虔な崇拝的慣習からくる禁足域だったものが、いつしか別の物語へと習合・転化を繰り返し、あるいは盗掘を戒めるための“怖い話”へと変じて、現代まで継承されている可能性が高いように思う。
 もうひとつ、「長者」伝説に多いパターンとして、突然にわかにカネ持ちになった人物は、あえて禁忌的な古墳域に足を踏み入れ、墳丘を掘り返し玄室にある宝玉や黄金(こがね)・白銀(しろかね)の副葬品を持ちだしているのではないか?……というところまで、想像の羽が拡がっていく。周囲の人々は、突然羽ぶりがよくなった「長者」を見て不審に思い、禁忌を侵したことに薄々気づいてウワサをし合っただろう。なにか「不吉」で「不幸」なことが起きれば、尾ひれをたっぷりつけて「それみたことか」と物語化したかもしれない。
 さて、このような「長者」伝説は、新宿のすぐ南にも散在している。地名にまでなっている目黒駅東側の上大崎地域の「長者丸」と、青山地域の「長者丸」だ。これらの地域に登場するのは、「黄金長者」と「白金長者」と呼ばれる人物たちだが、その物語にはやはり「不吉」な影と、鬼と化した幽霊が襲う「橋」が登場してくる。すでにお気づきのように、この地域にもまた巨大な古墳の痕跡と思われる人工構造物、すなわち上大崎には「森ヶ崎古墳(仮)」Click!「上大崎今里古墳(仮)」Click!が、南青山には「南青山古墳(仮)」Click!の痕跡を、古い地形図や空中写真からかろうじてたどることができる。
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 「長者」伝説に登場する「橋」とは、この世からあの世(死者の国)へとわたる象徴としての架け「橋」なのか、それとも周濠をわたって古墳域を侵すというメタファーとしての不吉な「橋」なのか……。江戸東京地方の屍家・死屋伝説と、「長者」伝説とがどこかで交わらないものか、非常に根が深くて興味深いテーマだ。

◆写真上:鈴木九郎こと「中野長者」の屋敷跡といわれる成願寺(別名:正観寺)。
◆写真中上は、1920年(大正9)に撮影された木橋のままの淀橋。は、1933年(昭和8)撮影の石橋となった淀橋。は、淀橋から神田川の上流域を眺める。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる成願寺と淀橋周辺。は、1941年(昭和16)ごろの斜めフカンで撮影された空中写真にみる同地域。は、1947年(昭和22)に撮影された淀橋東側の斜面に拡がる焼け跡の同地域。
◆写真下は、成子天神山古墳(仮)の倍墳のひとつに見える成子富士。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる「黄金長者」あるいは「白金長者」伝説が継承された上大崎地域。は、同年撮影の空中写真にみる同伝説が語り継がれた南青山地域。

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消えた柳橋芸者の一代記。 [気になる神田川]

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 このブログをはじめたころ、「柳橋物語」シリーズClick!というのを連載していたことがある。大江戸(おえど)Click!の時代からつづく花柳界の柳橋だが、戦前の親父の想い出などを織りまぜながら、戦災で壊滅したあと戦後に料亭街Click!が復興し、やがて高度経済成長で大川(隅田川)や神田川の汚濁とともに滅んでいった様子を概観したものだ。
 神田川をはさみ、東日本橋に家があった親父は、近くの千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)へ通っていた。その小学生時代の同級生に、柳橋の芸者になった女子がいたこともご紹介している。三味Click!や踊り、長唄などの稽古事がことさら好きだったのか、よほど芸事にのめりこんでいたものか、ついに柳橋の芸者になり看板を張るまでになったようだ。ちなみに、三味や踊り、長唄などは女性の一般教養であり、別に芸者になるために習うわけではない。これは男子もまったく同様で、できないと江戸東京人としてはお話にならなかったので、親父は三味に清元などを習わされていた。
 花柳界は、どこか相撲の世界に似ているだろうか。いや、この言い方はまったく逆で、角界が花柳界や梨園(歌舞伎界)を模倣しているということだろう。柳橋で看板を張るということは、角界でいえば大関(江戸期に横綱は存在しない)になるということだ。当時は、あまた存在した江戸東京の花柳界で、柳橋は日本橋と並んでもっとも歴史が古く、特別な存在だった。くだんの千代田小学校の女の子も、よほど精進して勉強をつづけ、芸事に磨きをかけつづけたのだろう。
 戦前の芸者は、とにかく芸事が好きで勉強熱心でないとつとまらなかった。芸がヘタで趣味や教養が高くなければ、すぐさまお客に見透かされて贔屓が付かないからだ。そう語るのは、上野黒門町や同朋町界隈で修業を積み、ついには柳橋の看板芸者にまで上りつめた榎本佳枝だ。彼女の故郷は神田だが、親の仕事の都合で幼少のころは神戸に住み、のちに黒門町に住んでいた伯父を頼って芸者見習いになっている。彼女の半玉名は「竹千代」、柳橋に出たときの芸者名は「若水あい子」、のちに榎本健一(エノケン)の夫人になる女性だ。
 彼女は、三度のご飯よりも芝居や芸事が好きだった。三味や踊り、長唄などを5歳のころから習いはじめ、同朋町の「月松葉」という芸者屋へ養女に入っている。その一流になるための修業は、今日では考えられないほど厳しいものだったようだ。その様子を、1991年(平成3)に台東区下町風俗資料館から出版された、『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』第6巻から引用してみよう。
  
 あたしは芸事が好きで、もう五歳ごろからやっていたものですから、あまり苦労はしなくて済みました。/長唄は杵屋栄蔵さんに習ったんですが、この方は日本邦楽校の校長をしていた方です。踊りは若柳喜芳さんでした。女のお師匠さんで、いまの喜芳さんは息子さんです。数寄屋町の方は花柳流なんです。大体花柳界には必ず二つの派が入ってましたね。柳橋ですと若柳流と藤間流でしたね。新橋でも西川流と花柳流という様でした。/ただね、踊りのけいこは吉芳さんておっしょさんはすごくやかましかったですね。吉芳さんの所へは役者衆がみんなおけいこに来ているんです。けいこ場では一方にはずっと役者衆が並ぶんです。こっち側には花柳界の芸者衆が並ぶんです。あたしたちはまだ子供でしょう。それでも厳しくてね。
  
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 当時、下谷(上野)界隈の花柳界は、同朋町と数寄屋町に分かれていたそうだ。黒門小学校を卒業した榎本佳枝は、同朋町側の花柳界にいたことになる。ただし、見番は両町とも同じだったというから、特に座敷のエリア的な区別はなかったのだろう。彼女はそこで、13歳で“おしゃく”(座敷に出る資格試験に合格すること)になり、15歳で半玉の芸者見習いになっている。
 不忍池界隈の料亭に出入りするのは、学生たちがけっこう多かったようだ。東大や早大、東京美術学校などの学生たちだが、近くの美校生がいちばん多かったという。また、画家や彫刻家もよく通ってきて、彼女は中でも横山大観とは親しくなったらしく、座敷で絵を描いてもらっている。
 ちなみに、3ヶ月に一度実施される“おしゃく”試験は非常に厳しく、ここで優れた芸者の才能がない者は容赦なくふるい落とされた。花柳界の大幹部が居並ぶ中で、さまざまな芸を披露して合格しなければ、決して座敷には出られなかった。彼女は13歳で合格しているが、年齢制限もあって15歳にならなければ半玉(見習い)として扱われない。彼女は芸者屋の養女なので、別に年季や借金もなく精神的に安定していたせいか、多種多様な芸事に打ちこむことができ、幼くても試験に合格できたのだろう。
 ところが、榎本佳枝が所属する「月松葉」へ主人と血縁のある養女が入り、血のつながりがない彼女は居づらくなってしまう。そこで一大決心をして、花柳界のてっぺんである柳橋へ挑戦することにした。そのときの様子を、再び引用してみよう。
  
 どうせ出るなら柳橋がいいと思って、出入りの桂庵(口入屋)に頼んでこっそり柳橋へ連れて行ってもらったんです。「菊増田」さんていう家だったんです。そしたらここがね、新派の河合武雄さんの二号さんの家だったんです。(中略) このご夫婦が一緒に見えましてね、そこで私の三味線などを聞いてくれました時に奥さんが「あんた、背が高しい、芸も出来てるし、もうおしゃくさんでもないから一本さんで出なさい。あたし、気に入ったから、あたしが旦那になってあげる」っていうんです。(中略) 養育費として当時のお金で八百円位出してもらったんですよね。(カッコ内引用者註)
  
 芸は身を助けるというけれど、彼女の場合はよほど幸運なケースだろう。「若水あい子」の名で柳橋に出たのが1931年(昭和6)ごろで15歳、1936年(昭和11)には若干20歳で「分菊増田」という自前の看板を持っているから、よほど才能に恵まれて贔屓の客が多かったにちがいない。
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 このころ、彼女の名は広く知られるようになり、ポスターのモデルや映画の出演に追われるようになる。特に、日本へ初めて輸入された「ブラジル珈琲」のポスターでは、彼女が洋髪でコーヒーを入れている姿が撮影され、東京じゅうの喫茶店に貼りだされて一世を風靡した。また、輸入された外車のモデルや、外国へ日本を紹介する観光誘致映画などにも頻繁に登場しているようだ。当時、絵画のモデルClick!やデパートのショーモデルClick!は存在したが、広告のスチールモデルなど存在しない時代なので、柳橋で名高い彼女はひっぱりだこだったらしい。
 榎本健一(エノケン)との出会いも、そんな柳橋時代だった。だが、世の中では軍靴の音が少しずつ高まり、戦争の破滅へ向けてまっしぐらに転げ落ちていく時代だった。花柳界にも、金糸の入った着物を着てはいけないとか、髪は島田に結ってはいけないとか、おかしな禁止令が次々と押しつけられた。彼女は、「それじゃカフェーの女給と同じだてんで、あたしは座敷へ出るのをやめちゃったんですよ」と書いている。榎本佳枝が24歳になった、1940年(昭和15)ごろのことだ。
 エノケンに、「女の人は、お嫁に行った方がいいよ」と勧められ、最初は慶大卒の会社員と結婚して田園調布に住んだ。でも、すぐに徴兵で夫を戦争にとられ、1946年(昭和21)にようやく復員してきたが、ほどなく浮気から外に子どもをつくられ、結局、自分から愛想をつかし家を出て離婚した。そして、再び柳橋で芸者として生きることになるのだが、その後、あれやこれやといろんなことがあって、1964年(昭和39)にようやく榎本健一と結婚している。
 一度、柳橋に腰をすえて住みつくと、なかなか離れがたくなっていく心情を、新派の花柳章太郎Click!がうまい文章で表現している。1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、互笑会・編の『柳橋界隈』から引用してみよう。
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 明治座が復活してから、私は柳ばしの住居から、十五分で楽屋に這入れます。/その往き来の、大川端の水の色は下町に居る余徳と申しませうか…朝夕、すみだ川のたたずみを眺めて居ることは、こよなく楽しく、倖せを感じ、春は、芽ざした柳の枝をくぐり、夏は湯上りの肌に滑らかな涼を与へ、秋は潮満ちる月の波映、冬は霜に都鳥の翼の光り。/夜とは云はず、昼のあからさまな景色、東京に住む果報をつくづく感じるのであります。/戦争中、ふるさとの在る友達はそれぞれその故郷に身を寄せたのでありますが、かたくなな東京者気質は、如何にしても東京の影から去ることは出来ませんでした。/それの、おほかたは、此隅田川の魅力から逃がれられない為と謂へませう……。
  
 仕事Click!の都合で湘南Click!に一時期暮らした親父も、また同じ気持ちだったろう。

◆写真上:1929年(昭和4)に竣工した、神田川の出口に架かるいまの柳橋。
◆写真中上は、明治末に撮影された柳橋で右手に見えているのは料亭「亀清楼」。は、柳橋から見た大川に架かる大橋(両国橋)。は、柳橋の芸者たちに信仰された石塚稲荷社。玉垣には、芸者や芸者屋の名前がズラリと並ぶ。
◆写真中下は、江戸期の撮影とみられる本所百本杭側から見た対岸の柳橋界隈。は、同じく江戸期に柳橋から撮影された浅草見附(御門)=浅草橋。は、1933年(昭和8)に制作された「ブラジル珈琲」のポスターに出演する「若水あい子」=榎本佳枝。
◆写真下は、大川端の料亭「柳水」の座敷から眺めた本所の風景。向かいに見えているのは、本所国技館(回向院境内)のドーム。は、榎本健一(エノケン)と佳枝夫人。下左は、1991年(平成3)出版の『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』第6巻(台東区下町風俗資料館)。下右は、1953年(昭和28)出版の互笑会・編『柳橋界隈』(東峰書房)。タイトルは背表紙だけで、表紙はおそらく絽紬の柄のみという粋で凝った装丁だ。

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学習院の丘の南斜面を考える。 [気になる神田川]

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 早稲田大学図書館に保存されている、寛政年間に書かれた金子直德『和佳場の小図絵』Click!の写本には、直德が選び絵師の県麿が再写して描いた鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」が付属している。当時の牛込馬場下町あたり(現・喜久井町界隈)の上空から北を向いた鳥瞰図で、東は関口から目白台、雑司ヶ谷、下高田、下落合、池袋などまでの展望が描かれている。
 そこには、下落合の藤稲荷(東山稲荷)に連なる下高田村の学習院の丘のことが、「根岸大山」と記載されている。それが記憶に残っていたので、現在の目白駅東側から金乗院のある宿坂までの丘陵地帯を、「大山」と呼んでいたのだと思っていた。江戸時代の中期ごろから、相模(現・神奈川県)の大山山頂の阿夫利社参りが大流行しており、富士講Click!に先駆ける大山講が江戸の各地で形成されていたから、その流行で「大山」というようなネーミングがされているのかもしれない……と考えていた。
 だが、同じ早大に保存されている白兎園宗周(実は金子直德の別筆名)による『富士見茶家』を参照すると、それが「大ノ山」ないしは「大山」と呼ばれていたことがわかった。同じく寛政年間に書かれた『富士見茶家』には、『和佳場の小図絵』と同じような鳥瞰図が添えられている。この鳥瞰図は、『和佳場の小図絵』とはまったく正反対に、遺構が現存している学習院内の富士見茶屋(珍々亭)Click!の上空から、南を向いて描かれている。
 目前に展開している地域は、下高田をはじめ下落合、上落合、上戸塚、下戸塚、諏訪、そして戸山方面までが遠望できるのだが、手前の学習院の丘にふられている名称は「根岸大山」ではなく、小山と集落にそれぞれ「大ノ山」と「子ギシノサト(根岸の里)」というキャプションが添えられている。改めて『和佳場の小図絵』を参照すると、「大ノ山」と「根岸の里」についての解説があることに気づいた。「大ノ山」から、金子直德の原文を引用してみよう。
  
 大野山 又おほ山とも云。此なら山は、大阪落城の節、大野道見、同子修理、弟主馬と共に没し、主馬の従弟勘ヶ由は関東をうかゞひ諸国流転して、元和元年(1615年)の十二月下旬に此山に忍び居けるか。郎党七八騎にて廿七日に餅を搗(つ)けるとて、末葉今に餅つきは廿七日也。無程正月の規式あれとて、幕を打廻し家居と定、萱葭を以、年神の棚をかき、松の枝を折て門に立、そなへのみ供して御燈もあげざりしは野陣なれば也。刀鎗をかざり、具足鎧兜など忍びやかに錺(かざ)りて春を迎へけると。其例とて今に其家の者、燈をかかげず、門松を縁者同士盗合て立てるなど吉例とせり。其いさましき事、昔の豫讓にも似んよひけん。其後、彌十郎は十五歳の時、浅草海禅寺にて切腹仰付られけると也。当時名主甚兵衛・同吉兵衛など、その末裔なり、今に栄へぬ。(カッコ内引用者註)
  
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 読まれた方は、すぐにおかしな点に気づかれるだろう。豊臣家の遺臣であり、大阪冬の陣(1614年)あるいは夏の陣(1615年)から落ちのびたはずの大野氏が、いまだ戦後の落ち武者狩りの詮索・詮議が厳しい中、「諸国流転」して戦と同年である1615年(元和元)にわざわざ「敵」の本拠地である江戸へやってきて、しかも天領(幕府の直轄地)だった街道沿いの下高田地域に棲みつくことが可能かどうか?……ということだ。
 既存の村民からすれば、江戸の郊外方言とは言葉づかい(イントネーション)からしてまるっきり異なる、関西弁を話す騎馬姿だったらしい「落ち武者」たちに、なんの疑念も抱かなかったとは考えにくい想定だ。以前、江戸期には「豊臣の遺臣」で明治以降はなぜか「南朝の遺臣」へと“変化”した、雑司ヶ谷村の某家系について触れたけれど、『和佳場の小図絵』の現代語訳である『新編若葉の梢』Click!の編者・海老澤了之介Click!も書いているように、「ありえない」ことだろう。名主だった甚兵衛さんや吉兵衛さんが依頼した、大江戸で大流行した「系図屋」(家系図を創作する商売)のずさんな仕事ではないか。
 寛政年間には、「大山」または「大ノ山」と呼ばれていたということなので、本来は大山講の影響からそう呼ばれていたものが、いつのころからか地元の有力者である名主の大野家と結びついてそう呼ばれるようになったか、あるいは逆に寛政以前の江戸前期に、大野家が当該の丘陵地帯に住んでいて「大ノ山」と呼ばれていたものが、大野家がよそへ移るとともに、やがて「大山」と省略して呼ばれるようになったものか……、いずれかの経緯のような気がする。ちなみに、海老澤了之介は『新編若葉の梢』の中で、赤城下改代町にあった近江屋主人の物語を記録した『増訂一話一言』を流用し、「大山」または「大野山」が、以前は「大原山」と呼ばれていた事蹟を紹介している。それによれば「大原山」が、「大山」または「大ノ山」に転化したと解釈することもできる。
 さて、きょうの記事は「大ノ山」の由来がテーマではなかった。宗周(直德)の『富士見茶家』に添付された鳥瞰図には、今日の地形から見ておかしな表現がいくつか見えている。まず、現在の学習院が建つ丘の南斜面は凸凹もなく、かなりストンと山麓まで鋭角に落ちている。ところが、『富士見茶家』の鳥瞰図には、あちこちに小山(塚)のような突起が南斜面に描かれていることだ。そのうちのひとつ、富士見茶屋(珍々亭)の南東にある斜面の突起には「大ノ山」と書かれている。雑司ヶ谷道Click!に接するこの位置には、1927年(昭和2)の初夏に目白通りの北側から移転してきた学習院馬場Click!がある位置だ。
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 また、同図によれば茶屋の南側にあたる斜面にも、「見晴処」とキャプションがふられ丸い小山(塚)が描かれている。現在では、富士見茶屋跡の南側はすぐに急斜面であり、そのまま大きなマンションの目白ガーデンヒルズ(それ以前は運輸技術研究所船舶試験場の細長い建物)まで鋭角に落ちている地形だ。もっとも、この鳥瞰図に描かれた富士見茶屋の位置をどこにするかで、地形の読み方も変わってくるのかもしれない。鳥瞰図にも描かれ、安藤広重が描く『富士三十六景』の「雑司ヶや不二見茶や」Click!にも取り入れられた、葦簀張りの日除けがつく縁台が、溜坂の坂下と同じ地平にあるようなおかしな表現も見うけられる。もし鳥瞰図に添えられたキャプションの位置が誤りで、「見晴処」とふられた小山の上が富士見茶屋(珍々亭)だとすれば、また地形の見え方も変わってくる。
 だが、それにしても学習院が建つ丘の南斜面の表現が、あまりに今日とはちがいすぎるのだ。同斜面にあったいくつかの塚状のふくらみを、江戸後期から明治期にかけて田畑の拡張開墾の際、あるいは学習院が移転してきた明治末の敷地整備の際にすべて崩して、斜面全体の地形を大きく改造しているのではないだろうか。1880年(明治13)に陸軍が作成したもっとも早い時期の1/20,000地形図Click!には、等高線が粗いせいか南斜面の凸凹は確認できないが、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図では、すでに今日とあまり変わらないバッケに近い急な斜面状になっているのがわかる。
 幕末から明治期にかけ、鎌倉時代に拓かれた雑司ヶ谷道、やがては大きく蛇行を繰り返す神田上水へと下る斜面を形成していた、通称「大山」(あるいは丘陵全体を総称して「根岸大山」と呼ばれていたのかもしれないが)の南斜面には、いくつかの塚状突起が存在していたのではないか。鳥瞰図によれば、「見晴処」や「大ノ山」を含め3~4基の塚状突起を見ることができる。江戸後期の耕地拡張か、あるいは明治期の学習院キャンバスの造成時かは不明だが、大がかりな土木工事が同斜面に実施されている可能性がある。斜面を鋭角に切り崩すことによって確保できたのが、戦前から逓信省船舶試験所の敷地であり、「子ギシノサト(根岸の里)」までつづく学習院馬場の敷地だったのではないだろうか。
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 さて、「根岸の里」について詳細に記述する余裕がなくなってしまったが、『和佳場の小図会』によれば「ねがはら(根河原)」の里とも呼ばれ、古くから人が住みついており「冬暖にして夏涼し。水清くして野菜自然に生立ちぬ。めで度所なるべし。蛍大きくして光格別につよしと云」と書かれており、この地域では非常に住みやすいエリアだったことがわかる。目白崖線の南斜面を背負っているので、丘上とは異なり北風が吹く冬場には特に暖かかったのだろう。同書の鳥瞰図を見ると、大名の中屋敷や下屋敷、旗本屋敷などを避けるように、下高田村の家々が建ち並んでいる様子が描かれている。

◆写真上:富士見茶屋(珍々亭)跡の下に建つ、元・船舶試験場跡の巨大なマンション。
◆写真中上は、金子直德『和佳場の小図絵』写本(早稲田大学蔵)に付属する鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」の一部。は、白兎園宗周(=金子直德)『富士見茶家』に付属する鳥瞰図の中央部。は、同図の「大ノ山」周辺の部分拡大。
◆写真中下は、学習院大学内に残る富士見茶屋(珍々亭)跡。中左は、早大に保存されている宗周(=金子直德)『富士見茶家』。中右は、安藤広重の『富士三十六景』のうち「雑司ヶや不二見茶や」。は、雑司ヶ谷道から見た「大山」山麓の現状。
◆写真下は、斜面を削って整地化した敷地に造られた学習院馬場。は、「根岸の里」方面へ下りる学習院内の山道。は、「根岸の里」があったあたりの現状。このあたりの斜面も削られ、垂直に近いコンクリートの擁壁が造られている。


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