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劉生が「お父さん」と慕う大和屋7代目。 [気になるエトセトラ]

岸田劉生「新富座幕合之写生」1923.jpg
 フグ毒にあたって死ぬまで、8代目・坂東三津五郎Click!の年賀状が親父のもとにとどいていた。どこで知り合ったものか、親父とは20歳ほど年が上のはずだが、いまとなっては確かめるすべはない。どこかの料亭で、“うまいもん”Click!好きの寄合仲間だったものか、それとも親父のそのまた親父の代からつづく7代目・坂東三津五郎つながりの贔屓筋あるいは芝居連(中)だったものか、なにも話してはくれなかったのでわからないのが残念だ。7代目(ひちだいめClick!)は京橋の生まれだし、8代目は下谷(現・上野地域)の生まれなので、日本橋の親父とは地域での接点はないはずだ。
 わたしは、7代目は時代がちがうのでまったく知らないが、8代目・坂東三津五郎の芝居は小学生のころ、国立劇場や歌舞伎座の舞台で何度か見ている。どちらの劇場だったか、いまとなってはおぼろげな記憶なのだが、親父に連れられて舞台裏の楽屋を訪れたことがあり、それが8代目・三津五郎の楽屋だったのかもしれない。当時、竣工したばかりの国立劇場の楽屋にしては、なんとなく古びた風情で暖簾が下がる楽屋口の記憶があるので、きっと歌舞伎座のほうだったのだろう。大和屋が京都でフグ中毒死したとき、親父は心底残念な顔をしていた。
 さて、7代目・坂東三津五郎を「お父さん」と呼んで慕っていた画家がいる。同じ京橋区生まれ(7代目は新富町)で、片や銀座で育った岸田劉生Click!だ。劉生が、7代目になついている様子を記録した文章が残っている。下程勇吉が1975年(昭和50)に書いた『岸田劉生と坂東三津五郎』で、証言しているのは8代目・坂東三津五郎だ。ちなみに、同年10月に発行された「絵」No.140掲載の8代目が語った証言は、フグ毒で死ぬ10時間前に下程勇吉が、宿泊先である京都のホテルでインタビューをして録音したものだった。では、8代目・三津五郎の言葉を聞いてみよう。
  
 「かげでは“三津五郎は細い声を出して云々”などと、あれこれいってるくせに、父の前に出ると、きちんと坐って、“お父さん、お父さん”と呼ぶから、そのわけをきくと、“お前とおれは友達で、お互いのお父さんじゃないか”というほどであった。そんなにまでおやじを尊敬してくれるので、びっくりして岸田さんをたずねた。(中略) つまりおやじをほめてくれたので、よろこんで行ったら、いつとなく、“遊びに行こう、遊びに行こう”でまんぺいに行き、夜あかしとなり、それからはただら遊びになってしまって、“岸田さんを放蕩者にしたのは、八十助だ”などといわれたが、もともと教育などというものは、まともな言葉で語るよりも、遊びの間にバカなことをいいながら、ときどきピリッピリッと来るものが本当に人間を生かすのではあるまいか」云々。<正味の人間>の本音をぬきにしたいわゆる教育などナンセンスなのである。
  
 当時は7代目が健在で、8代目は坂東八十助を名のっていた時代だ。八十助が8代目を襲名するのは、戦後の1962年(昭和37)になってからのことだ。
7代目・坂東三津五郎.jpg 8代目・坂東三津五郎.jpg
7代目・坂東三津五郎「義経千本桜」.jpg
「絵」197506.jpg
 岸田劉生は、役者に対してはかなりきびしい眼で眺め、手を抜いたヘタな芝居などすれば、ときに罵倒するような文章も残しているが、こと7代目・坂東三津五郎に対しては讃美者に近い無条件の信頼を寄せ、終始その芸を愛していたようだ。それは、7代目の芸に対する思想が、岸田劉生の芸術に対する意思に深く重なったからだろう。「お客さまを相手にしてやると、自分が下落する」、「生きているお客さまを相手にやっちゃいけません」という、7代目の有名な言葉が残っている。この「現世超越的自覚」主義という点で、7代目と岸田劉生は共通の視座の上に起立していたように見える。
 西洋画の手法で「東洋の美」を追求した劉生だが、長与善郎から奨められたショーペンハウアー(ショーペンハウエル)哲学に傾倒し、彼の東洋哲学的な側面に共鳴したものか、8代目・坂東三津五郎(当時は八十助)は読むよう勧められている。
  
 私もその影響で若い頃、十八、九歳の頃ショーペンハウエルの処世哲学を読みました、分りもしないのに。まあ私にとっては大変な影響力をもった人です。……岸田さんが今生きていてくれたら、本当の友達としてつき合えるし、よろこんでもくれるでしょうが、それと同時に、年中“ばか野郎何をしていやがるんだ、ばか野郎”とやられることでしょう。岸田さんの“ばか”はただの“ばか”ではなくて、“bakka!”なのです。その“バッカッ!”は何ともいえぬ愛情のこもった魅力がありました。
  
岸田劉生「演劇美論」1930刀江書院.jpg 岸田劉生「歌舞伎美論」1948早川書房.jpg
岸田劉生「新古細工銀座通・歌舞伎座附近」1927.jpg
 この劉生の眼差しに似た、ややアイロニカルな視座は、そのままうちの親父ももっていて、特に歌舞伎役者と落語家に対しては、わたしが物心つくころから死ぬまできびしく向けられつづけていた。親父の場合は、「ばか野郎!」ではなく「へたクソ!」だった。この“へた”は、ただの“へた”ではなく、“hetta!”だったので「へったクソ!」と発音されていた。向けられる役者や落語家は、老若・一門にかかわりなく、「歳ばっか食いやがって、へったクソ!」とか、「なにをもたもたモグモグしゃべってんだい、へったクソ!」と、まったく容赦がなかった。
 確かに、親父の世代には役者にしろ落語家にしろ、"名人"と呼ばれる粒ぞろいで優れた才能が目白押しだったので、へたな演技や噺をされたら即座にガマンができなかったのだろう。おそらく、いま生きていたら特に落語界に対しては、「お話んならねえやな、満足に東京弁もしゃべれてねえじゃないか、へったクソ! チヤホヤおだてるばっかで、誰もなんにもいわねえから、こんなへったクソな噺家が平気でまかり通るんだ!」と、罵声に近い言葉を投げつけていたにちがいない。確かに上方落語を「標準語」Click!で演じたら「このドアホッ!」となるのはまちがいないが、江戸落語もまったく同様に東京方言ではなく「標準語」で演じたりしたら、「バッカ野郎!」となるに決まっている。
 さて、坂東八十助(のち8代目・坂東三津五郎)も、劉生には徹底的にコキおろされているひとりだ。つづけて、大和屋の証言から引用してみよう。
  
 劉生が私に、“お前は何になるつもりか”ときいたので、“役者になるつもりだ”と答えると、“ばかをいえ、お前などが役者になれてたまるか、お前みたいな奴が役者になれるはずがねえじゃないか、何より証拠は、お前のおやじが最後の役者なので、外に役者はいねえじゃないか。” “今の歌舞伎は、パイン・アップルや蜜柑が入って、豆は少なくなっている今頃のみつ豆みたいなもので、まぜもののない歌舞伎はお前のおやじでおしまいだ。”
  
 豆が少なくなっている「今頃のみつ豆」という表現は、こういうところ、劉生ならではの洒落たメタファーなのだが、落語をよく聞きこんでいた親父もまた、こういう気のきいた喩えがうまかった。
7代目・坂東三津五郎「お染久松」.jpg
8代目・坂東三津五郎「天衣紛上野初花」1962.jpg
国立劇場.jpg
 坂東八十助(8代目・三津五郎)は、岸田劉生の周囲にいた友人たちが少しずつ距離を置きはじめている中、1929年(昭和4)の暮れに劉生が死去するまで、変わらずに親しくしていたようだ。「処生(ママ)に長けている人は、岸田さんとつき合わなかったでしょう、危険だから。どこへかみつくか分らない岸田さんとつき合うことはためらわれていた、木村荘八などもそうです」。晩年の劉生は孤独というか、やや偏屈にもなっていた。

◆写真上:1923年(大正12)に制作された、岸田劉生『新富座幕合之写生』。
◆写真中上は、7代目・坂東三津五郎()と8代目・坂東三津五郎()。岸田劉生との交流は、8代目が坂東八十助時代のこと。は、忠信(7代目・三津五郎)と静御前(3代目・中村時蔵)の『義経千本桜』(狐忠信鳥居前)。は、1975年(昭和50)発行の「絵」No.140に掲載された下程勇吉『岸田劉生と坂東三津五郎』。
◆写真中下は、岸田劉生が書いた芝居の本で1930年(昭和5)出版の『演劇美論』(刀江書院/)と、1948年(昭和22)に出版された『歌舞伎美論』(早川書房/)。は、1927年(昭和2)に東京日日新聞へ連載された岸田劉生『新古細工銀座通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』より「歌舞伎座附近」。
◆写真下は、三圍土手の場で猿まわし(7代目・三津五郎)に久松(3代目・市川左団次)とお染(7代目・尾上梅幸)の『道行浮塒鷗(みちゆき・うきねのともどり)』(お染久松Click!)。は、松江出雲守屋敷の場で高木小左衛門(8代目・三津五郎)と松江出雲守(2代目・尾上松緑)の『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』(河内山Click!)。は、“校倉”のモアレで昔からカメラマン泣かせの国立劇場正面。

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燃料研究所に隣接した「川口文化村」。 [気になるエトセトラ]

川口文化村共同浴場.jpg
 以前、下落合の近衛町Click!を開発した東京土地住宅が、つづけて林泉園の周辺を近衛新町Click!として販売しはじめたところ、東邦電力の松永安左衛門がすべての分譲地を買い占めてしまい、そこに松永の自邸をはじめ会社の幹部宅や、家族のいる社員向けに社宅を建設している経緯を書いた。東邦電力は、1922年(大正11)の夏に用地を取得しているので、社宅は大正末から昭和初期にかけて少しずつ建てられていったとみられる。林泉園Click!の西側と南側に展開した東邦電力の社宅Click!は、すべてが西洋館仕様のオシャレでモダンな雰囲気が横溢していた。
 大正の後期になると、東京の郊外にまるで目白文化村Click!洗足田園都市Click!をまねた、文化住宅風の社宅やアパートメントを建てる企業が出はじめている。あるいは、社員が出勤する利便性を考え、企業の本社や工場のある敷地周辺の土地を買収し、まとめて社宅を建設するケースも見られた。これは企業ばかりではなく、官公庁の舎宅建設でもその傾向が顕著になりつつあった。
 京浜東北線・川口駅西口の川口町に、農商務省の燃料研究所が建設されたのは1921年(大正10)のことだ。その直後から、燃料研究所を取り巻く敷地に、研究所職員のための舎宅が建設されはじめている。燃料研究所では、舎宅を洋館にするか和館にするかで、職員たち全員にアンケート調査を実施している。その結果、和館の要望が多数を占めて、燃料研究所の舎宅群は和風建築が主体となった。ただし、舎宅の共有施設であるクラブハウスや共同浴場などは、すべて洋風のデザインが採用され建設されている。
 地元では、燃料研究所の舎宅街のことを、その設備のよさから「川口文化村」と呼んでいたようだ。すべてが和風建築なのに、「文化村」と呼ぶのは奇異な感じがするのだが、そう呼ばれてしかるべき先進の設備や仕組みを取り入れていた。燃料研究所が掲げた舎宅建設のコンセプトは、「よく働く者はよく遊ばなければならぬ、偉大なる仕事を要求するためには偉大なる遊楽を与へなければならぬ、而もそれが単に当事者にばかりでなく家族全体を包容しなければならぬ」というものだった。これにもとづいて建設されたのが、森林に囲まれた自然公園が付属する「川口文化村」だった。
 「川口文化村」の訪問記が、同年に発行された「主婦之友」3月号に残されている。
  
 小さな文化村
 汽車が埼玉県川口町駅に進入すると、すぐ構外にある白い建物が車窓に映ります。これが農商務省の燃料研究所で昨年竣成したものであります。この白亜館の前後に一風変つた住宅が冬木立の間に散在し、或は建築されつゝあるのが目につきます。荒涼たる平野の一部に富士の白峰を背景として、温か味に富んだ赤瓦の屋根が大小入り雑つて、それが何れも一定の方向に斜角をなして規則正しく列んでゐます。まだ二十戸ぐらゐしかできてゐませんが、四十戸ぐらゐは立ち並ぶ予定であります。この住宅に囲まれて中央に共同浴場(略)や倶楽部の建物が目を惹きます。このあたり一帯が共同庭園となるので、それから入口にかけて、八間幅の道路が一直線に貫いて、両側に並木を、中央に街燈を配置して巴里のシャンゼリゼー街を偲ばせるやうな美観を添えたいといふ計画でありますが、只今はその埋立工事中であります。/道路ができ庭園ができた暁には、これらの住宅全部が楽園に包まれることになります。
  
農商務省燃料研究所1921.jpg
川口文化村.jpg
川口文化村1936.jpg
 現在の川口駅西口からは、想像もできない情景なのだが、実際に写真も残っているので計画どおりに建設されたのだろう。1936年(昭和11)の時点でさえ空中写真を眺めてみると、駅前の緑ゆたかな「川口文化村」を確認することができる。
 住宅のタイプは、甲号・乙号・丙号・丁号と規模が異なる4種類が設計されている。甲号住宅は所長や役員たちとその家族が入居し、乙号住宅は上級管理職、丙号住宅は下級管理職か一般研究員、丁号住宅は一般研究員か判任官雇員、職工など、その様式によって各戸が住み分けられていた。建築費は、乙号住宅で4,850円、丁号住宅で2,650円だったという。
 「川口文化村」と呼ばれた理由は、生活スタイルが既存の住宅街とは大きく異なっていたからだ。まず、住宅の中心に共同炊爨所(給食センター)を設置し、希望する家庭に戸別配達するシステムを採用している。「主婦之友」が取材した時点では、まだ昼食のみの支給だったが、朝食や夕食を配達する仕組みづくりを準備している。これにより、希望する家庭では主婦の労働がかなり低減されることになった。燃料研究所の食堂では、共同炊爨所で調理した料理が出され、大正デモクラシーの世相を反映してか、所長から職工までが同じ部屋のテーブルで食事をしている。
主婦之友192203.jpg
燃料研究所食堂.jpg 川口文化村縁の下.jpg
川口文化村乙号住宅設計図.jpg
 天候に関係なく、洗濯物をすばやく乾かせるよう、燃料研究所の汽罐室の余熱を利用した乾燥室の設置も計画されている。また、丁号住宅には浴室がないので共同浴場へ通うことになるが、甲・乙・丙号住宅には浴室が付属しているものの、気分転換に広い共同浴場を利用することもできた。
 電気に水道、ガスなどの生活インフラが完備され、特にガスは燃料研究所の工場で生産したものが各戸に支給されるので、一般のガス会社のものより格安で利用できた。なお、目の前には緑が繁る庭園があるので、特に広い庭は設置されなかったようだ。
 同誌から、舎宅の風情についての記事をつづけて引用してみよう。
  
 日当りと風通しのよい家
 住宅は何れも東南向きとなつてゐます。そのために道路に沿うて、ある斜角をなして列んでゐることになります。これがために何の家も皆日光を十分に受けて、何の室一つとして日の当らないところはないのであります。少くとも一日一回は万遍なく日光が見舞つてゆきます。それで室中が明るくて風通しがよく、冬は温かで夏は涼しくできてゐます。それに床が高くて大人でも立つて肘がかゝる位であります。(中略) 床下の羽目板は板と板との間を隙して空気の流通をよくし、湿気を防いであります。/縁側には硝子戸をはめ、窓も出入口も皆硝子戸になつてゐます。すべて日本風の建築でありますが、これは所員の希望に基づいたもので、最初は和洋何れにすべきかゞ大分問題であつたさうですが、やはり習慣上日本住宅の希望が多かつたために、かうした形式をとるやうになつたさうであります。
  
川口文化村丁号住宅.jpg
川口文化村丁号住宅設計図.jpg
川口文化村1947.jpg
 「川口文化村」では、さまざまな娯楽施設の建設も予定されているが、「市中の低級な娯楽」を駆逐するとかで、「洗練された高雅な娯楽施設」の設置を計画している。「主婦之友」の記者が取材したときは、いまだ計画中で明らかにされていないが、その後、どのような施設が設置されたものだろうか。テニスコートや運動場はあったと思うのだが、大正末から昭和初期に大ブームとなるビリヤード場や映画館も、川口駅前という立地からほどなく建設されたのではないだろうか。

◆写真上:舎宅街の中央に設置された、木立の中の洋風共同浴場。
◆写真中上は、竣工当時の農商務省燃料研究所。は、林に囲まれた「川口文化村」の舎宅街。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「川口文化村」。
◆写真中下は、1922年(大正11)に発行された「主婦之友」3月号の記事。中左は、職員全員が昼食をとる燃料研究所の食堂。中右は、湿気を防ぐために縁の下が1mを超える設計の舎宅。は、燃研幹部用の乙号住宅設計平面図。
◆写真下は、一般職員用の丁号住宅。は、丁号住宅の設計平面図。は、1947年(昭和22)に撮影された「川口文化村」で空襲の被害をあまり受けていない。

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美術展が起源らしい下町の怪談会。 [気になるエトセトラ]

具足町角地.jpg
 今年は、4月末からすでに暑い夏日が断続的につづいているので、暦的には少し早いかもしれないけれど、(城)下町Click!の怪談記事をアップしてみたい。
 以前、1928年(昭和3) 6月19日(火)の午後6時から、新橋にあった料亭「花月」で行われた怪談会の模様をシリーズClick!でお伝えした。この怪談会の原型ともいうべき催しが、さかのぼること14年も前に京橋の北詰めで行われていたことが判明した。1914年(大正3)7月12日(日)の曇日、世間はお盆のまっ最中でホオズキ市が立ち、江戸東京へ働きに出てきた人たちにとっては、藪入りClick!がはじまったばかりの時節だ。
 怪談会が行われていたのは、日本橋区東中通りに面した具足町(現・京橋3丁目)の角地にあった美術店「松井画博堂」で、同店4階の展示場では幽霊画や化け物絵が100点以上も展示されている。画博堂の松井栄吉は、浮世絵の版元であり刷り師なので、江戸期からつづく浮世絵作品の展示も多かっただろう。つまり、美術展覧会に合わせて怪談会が開催されたわけで、当初はいわば真夏の美術展のオマケ的なイベントからスタートしていたのがわかる。この会に出席したのは、美術展とは切り離され、のちに新橋「花月」で毎年開催されるようになった怪談会のメンバーとかなり重複していることから、同会のプロトタイプではないかと思われるのだ。
 美術展の付随行事なので美術家の出席者が目立ち、黒田清輝Click!岡田三郎助Click!岡田八千代Click!、鈴木鼓村、岩村透、辻永Click!平岡権八郎Click!長谷川時雨Click!泉鏡花Click!柳川春葉Click!谷崎潤一郎Click!吉井勇Click!岡本綺堂Click!、坂本紅蓮洞、市川左団次、市川猿之助、松本幸四郎、河合武雄Click!喜多村緑郎Click!伊井蓉峰Click!、長田秀雄、長田幹彦、松山省三Click!など、作家や歌舞伎役者、新派俳優、当時の文化人など60名を超える大盛況だった。
 当日の様子は、出席者のひとり邦楽家で画家、随筆家の鈴木鼓村が、その一部を随筆にして記録している。1944年(昭和19)に古賀書店から出版された『鼓村襍記』収録の、鈴木鼓村「怪談が生む怪談」から少し引用してみよう。
  
 大正三年七月十二日、この日は、東京の盆の草市である。東京は新で盆をやるので、盆とはいえど梅雨あがりの、朝よりどんよりおおいかぶさった憂鬱な天気だった。家にいてもべっとりと脂肪汗がにじむようで、街全体がけだるく疲れていた。その日はかねてから計画のあった通り、日本橋区東中通り(略) 美術店松井画博堂の四階で化物の絵の展覧会が開会された(略)。当時在東京の色々な作者の作品が百余点以上も集まって、今は既に故人となった池田輝方氏及びその夫人の蕉園女史の、御殿女中か何かの素ばらしい幽霊の絵や、鏑木清方氏の物語めいたすごい大物が眼をひいた。私は半折の色々の化物を十枚出品していた。その中で精霊棚をかざって随分凝った嗜好が試みられていた。慥かその日の世話役が画博堂主人と奇人画家本方秀麟氏に、洋画家の平岡権八郎氏だったか? 表に直径五尺もある白張提灯等をつるしていた。
  
 この幽霊・化け物美術展と怪談会の世話役として、料亭「花月」の息子である文展画家の平岡権八郎Click!の名前がすでに挙がっていることから、おそらく画博堂が店じまいをしたとみられる1917年(大正6)以降に、毎夏恒例の怪談会を彼の実家である新橋の「花月」へ引っぱってきたのではなかろうか。
 この日の怪談会は、わずか5話でお開きになっている。鈴木鼓村の「怪談が生む怪談」によれば、伊井蓉峰の弟子のひとりで新派俳優の石川幸三郎が語る4話めと、飛び入りで参加した万朝報の営業部員・石河某という老人が語る5話めの途中で、怪談会は終わり散会してしまった。なぜなら、5話めの怪談を語ろうとした万朝報の石河某が、話の途中で卒倒して意識不明となり、そのまま2週間後に高輪病院で死亡してしまったからだ。
鈴木鼓村.jpg
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 新派の石川幸三郎が4話めに語った怪談とは、ドサまわりの旅役者をしていたとき興業先の茨城県真壁町で知り合い、東京へ連れ帰って三越で銘仙を買ってやると騙してよい仲になった、「聾唖」(聴覚障害)で17歳になる娘の怨念話だった。娘はくっついて離れず、東京ではなく次の興業先である群馬県高崎町へいくために汽車に乗ることもできず、幸三郎はまったく途方に暮れた。同書から、再び引用してみよう。
  
 『困ったものを背負い込んだな』 そう思いながら娘の顔を見ると二、三日前にゆうた引つめの銀杏返しが藁をたばねたように雑然とあれてその下に白粉のはげた顔が、眼がどんより鈍いどよみを覗かせています。大正絣の垢じみた袢纏にちびた日和下駄と、嫌となったら何もかも徹底的に嫌なものに感じられます。『こんな女をどうして人前に出せるだろう』とつくづくその時愛憎(ママ:愛想)がつきました。(カッコ内引用者註)
  
 幸三郎は、そんな着物では東京へ連れていけないというと、娘は「家へ帰ればメリンス友仙の羽織」に「金も六円余りはためて」あると答えた。彼は、待っているから一度家までもどって着がえてくるようにと、娘をなんとか説き伏せて帰した。
 娘の姿が見えなくなると、幸三郎は一目散に鉄道駅へ駆けつけ高崎行きの汽車に飛び乗った。暮れのうちに高崎へ着くと、芝居の初日は翌正月の2日に予定されていた。
国貞(三代豊国)「四谷怪談戸板返し」1831.jpg
国周「番町皿屋敷お菊亡魂」1863.jpg
二代豊国「小幡小平次」1830.jpg
 やがて1月2日の昼間、高崎の街を役者たちが俥(じんりき)を連ねて練廻りしているとき、利根川の土手を走っていると幸三郎は人だかりを見つけて俥をとめた。イヤな胸騒ぎがして人だかりを観察していると、どうやら岸辺に土左衛門が上がったらしい。
  
 見るともなく車の上から見ますと水死人らしい死体の上に筵が一枚かけてあってその筵の下から細い青白い二本の足がニュッと出ています。私は無意識でした、どうして車から飛下りたのやら――筵をまくって水死人の顔をのぞき込んだのやら――、筵の下には紅のはいった派手なメリンス友仙の羽織を着て、びっしょりぬれた髪の毛を無念そうに口に咬えた蝋細工のような顔。/『アッ!』 私は立すくみました。その眼はまだ生きているのでしょうか、私を睨みつけているその眼は……
  
 高崎まで追いかけてきた娘は、そこで絶望し利根川に入水して果てたようだ。それからというもの、舞台に楽屋に、風呂場に寝床にと、娘は執拗に幸三郎の身辺に現れつづけている……という、よくありがちな怪談話だった。石川幸三郎は、「人間の最後の恨みほど恐ろしいものはありません」と話を締めくくっている。
 ところが、つづいて予定されていた5話めに移ろうとしたとき、横合いから飛び入りで参加した老人が、「ええ本当に人間の恨みほど恐ろしいものは有りません」と急に話を継いだ。この人物が、万朝報の営業部につとめる石河某で、幕末、薩摩によって暗殺された田中河内介綏猷(やすみち)の話をはじめた。
 石河某は、自身が暗殺にかかわった刺客のひとりであることを告白し、泉鏡花が事件の仔細な様子を質問をしているうちに、いきなり高座から卒倒してしまった。「田中河内介」の名前を繰り返すうちに、舌がもつれて昏倒していることから、泉鏡花の問いに興奮したあげく、なんらかの脳疾患を発症したのではないかと思われる。
国芳「真景累ヶ淵累亡魂」1834.jpg
周延「鍋島化猫騒動」1886.jpg
月岡芳年「牡丹灯籠」1891.jpg
 飛び入りの老人が、「田中河内介」の名を口にしながら倒れたので怪談会は一同騒然となり、怖がった参加者たちは散々に帰っていった。鈴木鼓村ら残った人たちは老人を座敷に寝かせたあと、万朝報社へ電話で問い合わせ当人の自宅が判明すると、翌朝、画博堂の主人が京橋南町の石河宅へと俥で送っていった。石河某は、すぐさま高輪病院へ入院したが「田中河内介」の名前をうわごとで繰り返すと、同年7月26日に死亡している。

◆写真上:美術展「松井画博堂」があった、東中通りは具足町角地の現状。
◆写真中上は、「怪談が生む怪談」の著者・鈴木鼓村。は、銀座の喫茶店「プランタン」の記念写真で怪談会のメンバーとかなり重なる。前列には松山省三や市川猿之助、平岡権八郎、後列には鈴木鼓村や辻永の姿が見える。
◆写真中下は、1831年(天保2)に描かれた国貞『東海道四谷怪談』Click!の「戸板返しの場」。は、1863年(文久3)に制作された国周『番町皿屋敷』Click!の「お菊亡魂」(部分)。は、1830年(文政13)に描かれた二代豊国『小幡小平次』(部分)。
◆写真下は、1834年(天保5)に制作された国芳『真景累ヶ淵』の「累亡魂」(部分)。は、1886年(明治19)に描かれた周延『佐賀(鍋島)化け猫騒動』Click!(部分)。は、1891年(明治24)に制作された芳年『牡丹燈籠』Click!(部分)。

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東京大空襲より大規模だった平塚大空襲。 [気になるエトセトラ]

平塚海岸1.JPG
 守山商会Click!の『守山乳業株式会社四十年史』(1957年/非売品)を読んでいたら、1945年(昭和20)7月16日の夜半にみまわれた平塚大空襲の様子が記録されていた。子どものころ、親父の仕事Click!の都合で10年以上は住んでいた街Click!なので、同空襲のことは地元でも頻繁に耳にしていた。今回は、平塚大空襲の全貌を守山商会の被災とからめてご紹介したい。
 平塚市の空襲が、なぜ「大空襲」と呼ばれているのかを知らない方が多い。実は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!や、同年5月29日の横浜大空襲よりも、焼夷弾の投下数で比較すれば、その規模がはるかに大きかったからだ。湘南海岸に面した街は、戦争も終わりに近づくにつれ、頻繁に爆撃や機銃掃射の被害に遭っているが、平塚市への攻撃はケタ違いだった。東京大空襲で投下された焼夷弾は約38万本で、横浜大空襲は約35万本に対し、平塚大空襲は約45万本もの焼夷弾が投下されている。文字どおり、草木も残さない焦土化殲滅作戦だった。
 これは、同年8月2日の八王子大空襲(約67万本)に次いで全国で2番目の空襲規模であり、中規模な市街地に対する攻撃としては、八王子ともどもごくごく異例のものだった。その理由としては、これまで都市部への爆撃とは異なり爆撃目標が分散していたからとか、海軍の重要な施設があったからだといわれてきた。平塚には、確かに海軍の火薬廠や横須賀海軍工廠分工場、海軍飛行機工場などがあったのだが、それらを破壊するにはあまりに爆撃規模が大きすぎるのだ。では、なぜ平塚と八王子にだけ、類例のない大規模な爆撃が行われているのだろうか?
 わたしが子どものころ、湘南海岸の随所にはコンクリートでできた台状の塊や残骸、廃墟などが残されていた。それらは、地元の人々の話によれば、米軍の「オリンピック作戦」に備えた砲台やトーチカの跡だと説明されてきた。だが、「オリンピック作戦」は沖縄の次に予想された、九州への上陸作戦名だったことが明らかとなり、湘南海岸への上陸は「コロネット作戦」と呼ばれていたことが、米国公文書館の情報公開で明らかになっている。だが、この情報が公開されるまで、関東地方の海岸線への上陸作戦は「オリンピック作戦」とされていたので、おそらく敗戦前からの呼称、つまり軍部が戦時中からそう呼んでいた可能性が残る。
 1945年(昭和20)夏の時点で、軍部は湘南海岸が本土上陸の主戦場になるとは想定していなかった。それは、同時期に作成され国立公文書館に保存されている、海軍資料「聯合国移動艦隊ノ本土攻撃」からも明らかだ。「戦勢ノ推移ニ鑑ミ敵ガ対本土上陸作戦ヲ企図スルデアラウコトハ概ネ確実トナツタ」ではじまる同資料には、沖縄上陸の次は「予想上陸地区タル南九州及四国南西部」としている。だが、先の米国公文書館が公開した軍事資料によれば、南九州に上陸するオリンピック作戦と同時に、首都東京へまっしぐらに侵攻できる湘南海岸の中央部、すなわち平塚海岸への上陸が、コロネット作戦と名づけられて計画されていた。
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 コロネット作戦では、平塚海岸へ上陸した米軍は平塚を中心として湘南海岸に大規模な橋頭保を確保し、そのまま馬入川(相模川)沿いを北進して八王子を攻略、東海道(東海道線沿い)と甲州街道(中央線沿い)を進撃しながら、2方向から東京を攻略するというシナリオだった。そのためには、平塚市と八王子市をあらかじめ徹底的に焦土化、殲滅しておく必要があったのだ。米軍は、破壊が不徹底のまま上陸した沖縄戦で、膨大な死傷者が出たことに懲りており、本土上陸では上陸地点と作戦要所の市街地を、草木も残さぬ焦土と化しておくことにしたのだろう。このような作戦計画上の文脈から、7月16日の平塚大空襲と8月2日の八王子大空襲が実施されている。
 平塚大空襲は、7月16日の深夜から翌未明にかけ、138機のB29により行われた。B29の大編隊は平塚の南西側から侵入し、22時30分ごろ花水川の河口付近へ照明弾を投下すると同時に平塚の市街地に対する爆撃がはじまった。その様子を、『守山乳業株式会社四十年史』(1957年)から引用してみよう。
  
 愈々来るものが来た。昭和二十年七月十六日夜半、五百機(ママ)の大編隊は、平塚市を目標に、相模湾を北上中と、ラヂオはガンガン鳴り響いた。平塚市の南西部に曳光弾(ママ)が落下して全市真昼の明るさとなった。初めて聞く異様な音響と共に焼夷爆弾が雨の様に降って来る。焼夷弾の波状攻撃は二時間も続いた、妖焔は地を匐って数時間の内に全市の七割(ママ)を灰燼と化した。民家も軍需工場も焼け落ちて無辜の市民多数も犠牲となった。火葬場も間に合わない。無論棺桶も材料がない、惨憺たる戦禍の惨めさであった。(カッコ内引用者註)
  
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 当時、平塚市の全住宅10,419戸のうち約8,000戸が焼失し、また大小の工場や倉庫、商店はほぼ全滅しているので、被害は全市の8割以上にもおよんでいる。約2時間ほどの空襲で、343人の市民が犠牲になった。平塚を爆撃したB29の編隊は、通常の絨毯爆撃ではなく、外側からまるでスクリューを回転させるように内側へと攻撃範囲を狭めていく、渦巻き状の爆撃を繰り返している。
 これは、東京大空襲において本所区や深川区、向島区などで行われた爆撃法とまったく同様だ。あらかじめ市街地の外側を爆撃して火の壁をつくり、その内側で暮らす住民たちの逃げ道をふさいだあと、中央部に大量の焼夷弾や250キロ爆弾を投下して皆殺しにする爆撃手法だ。東京大空襲では、火で囲まれた市街地にB29から大量のガソリンがじかに散布されているが、平塚市の爆撃ではどうだったろうか。
 これほどの攻撃を受けながら、相対的に犠牲者が少ないのは、当時の平塚市はいまだ田畑や緑地、空き地などが多く、建物がそれほど密集してなかったのと、東京大空襲時のような強風が吹いていなかったため、大火流Click!が発生しなかったのも人的被害を少なくした要因だろう。ただし、同市の中心部だった平塚駅北側、国道1号線沿いの新宿と本宿の街並みは、ともに壊滅している。
 守山商会の工場は、どうなっただろうか。同社史から、つづけて引用してみよう。
  
 守山商会も工場並に尊天堂、社長住宅等も全焼の厄に会い、焼け野原の中に大煙突のみが吃然と立っていた。工員今井君は最後まで工場に頑張り、手押ポンプの腕木を握ったまま直撃弾の命中(ママ)を受け即死した。馬入川対岸の守山牧場も全焼して、多数の乳牛が焼死した。社長は余燼あがる市内の状況を調査し、翌朝から焼失した工場の灰掻きを行い、コンデンスミルク、粉乳などの焼け残りを、甘味に飢えた附近の住民に分配した。/工場の焼失により毎日集まる百余石の牛乳は処理を一応森永乳業平塚工場に依託して酪農家達の急場を救う事にした、百余名の全従業員に対しては、工場の焼失と尚戦争は熾烈を極めているので涙を揮って工場の解散を宣告した。(カッコ内引用者註)
  
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 コロネット作戦は、米軍100万人を動員しての上陸作戦計画だったが、平塚大空襲と前後して前線の米軍基地には、6万発もの毒ガス弾(サリン弾)が輸送されている。沖縄戦で20,000人を超える死者を出した米軍は、市街地の焦土化とともに生き残った軍隊や住民をひとり残らず殲滅する、空からのサリン攻撃を準備していた。

◆写真上:コロネット作戦計画で、米軍の上陸が予定されていた平塚海岸。
◆写真中上は、1946年(昭和21)に撮影された馬入川(相模川)近くの海岸線。は、敗戦後まもなく相模湾に集結した連合国軍の艦隊で、背景は真鶴半島から箱根・富士山。
◆写真中下は、1945年(昭和20)夏に作成された海軍の「聯合国移動艦隊ノ本土攻撃」(公文書館蔵)。は、風と波でできた平塚海岸の砂丘。は、平塚市の戦災地図。7月16日のほか、焼け残った地区に向け7月30日と8月2日にも爆撃が行われている。
◆写真下は、1946年(昭和21)撮影の平塚大空襲時に最初の照明弾が投下された花水川河口あたりの海岸線。すでに、戦後の住宅建設がはじまっている。は、平塚海岸近くのあちこちに残るクロマツ林。は、同年撮影の平塚駅周辺にみる市街地の惨状。

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大川の近くにいちゃダメだという教訓。 [気になるエトセトラ]

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 1945年(昭和20)3月10日深夜の東京大空襲Click!では、おもに大川(隅田川)の東側である向島・本所・深川一帯がB29による爆撃の目標とされ、あらかじめ意図的に避難経路を断ち無差別に東京市民の生命をねらう、徹底したジェノサイド(大量虐殺)攻撃が行われた。そのとき、本所側から両国橋をわたり、いち早く日本橋側へと避難した人々の中には「大川の近くにいちゃダメだ」という、1923年(大正12)9月1日の教訓が活かされていたケースが多々見られる。
 幅の広い河川沿いは障害物や遮蔽物が少なく、大火災による空気の急激な膨張で、大火流Click!火事竜巻Click!が起きて巻きこまれやすいという、関東大震災Click!の際に起きた事実を記憶し、教訓化していた人たちだ。ちなみに、大川の川幅は両国橋のところで約143m、大火流や火事竜巻で3万8,000人が亡くなった被服廠跡地Click!(現・震災復興記念館Click!一帯)では約125mほどある。わたしの東日本橋Click!にあった実家でも、もちろんその教訓はしっかり記憶されており、火災の方角と風向きを確認しながら大川(隅田川)とは反対方向へと逃げだした。日本橋人形町から日本橋川、東京駅、さらに山手方面へと逃れて、非常に幸運にも大空襲で命を落とした家族(親戚は除く)はいない。
 東京大空襲は、3月10日午前0時8分に第1弾が投下され、焼夷弾や250キロ爆弾、そして空襲の後半には低空飛行でガソリンが住宅街へじかにまき散らされ、2時間半後の午前2時37分に終わった。この間、本所区や深川区、浅草区、向島区の4区(現・台東区/江東区/墨田区)がほぼ全滅し、死者・行方不明者10万人以上、負傷者5万人以上、家を焼かれた罹災者100万人超という空前の犠牲者が出た。特に行方不明者に関しては、一家・姻戚全滅のケースや東京へ単身でやってきた独身者の場合は、親戚や友人など周囲の証言が残りにくく、実際の犠牲者数は1.2倍とも1.5倍ともいわれている。
 空襲がはじまるとともに、「大川の近くにいちゃダメだ」という生死を分けた逃避行の様子を、菊池正浩という方が書いた『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。この記録は、2015年(平成27)に日本地図センターが発行した、『1945・昭和20 米軍に撮影された日本』に収録されたものだ。著者は本所区千歳町、つまり両国橋の東詰めに住んでいて罹災している。そして、両国橋をわたりそのまままっすぐ西へ、できるだけ大川から離れるように避難しながら上野山をめざしている。
  
 祖父母の家は両国橋畔、隅田川沿いにあり、二階建てであった。ここまで辿り着く間の光景はあまり話したくない。これまでも人には話してこなかった。人口10万余人だったこの地が、翌日に確認できたのは僅か1千人ほどであったと知らされた。いかに凄まじい惨劇であったかがわかる。/防空頭巾と衣服が、周りの炎と火の粉で燃えだす。母は真綿入りの「ねんねこ」、私は半纏を着ていたので、布は焦げてもすぐには燃えないことがわかった。防空頭巾を被っていない女の人は、髪の毛が燃え出す。「熱いー助けてー」と叫びながら走っていく。気の毒だがどうすることもできない。コンクリート製か石なのか判らないが用水桶が家々の前にあった。火災に備えての水桶だが、その水を頭から被り濡らしてはまた走った。頭から被ってびしょびしょに濡らしても、すぐに炎の熱さで乾いてしまう。用水桶の中に身を沈め、難を逃れようとした人もいたらしいが、息継ぎのために顔を水面に出した途端、熱風と煙を吸い込み、気管を焼いて焼死したという。逃げる途中の家々では防空壕に避難したが穴の中に閉じ込められて、蒸し焼き状態になった人が多かった。両国橋まで逃げてきたが、すでに祖父母の家も風前の灯火だったので、そのまま両国橋を渡って難を免れた。
  
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 菊池一家は、両国橋を西へわたると、そのまま両国広小路から靖国通り(大正通り)の大通りを進まず、右折して柳橋Click!から神田川をわたり、神田川と総武線にはさまれた道路を、できるだけ大川から離れるように真西へ向かっている。
 そして、万世橋から右折して旅籠町から末広町を駆け抜け、黒門町を通って湯島天神Click!の境内をめざした。ところが、本郷や湯島方面からの火の手が迫っていたので、湯島天神には寄らずに上野広小路の交差点を抜け、不忍池へとたどりつくと池沿いに上野山へとようやくたどり着いている。
 もし、柳橋をわたって浅草橋から蔵前、菊屋橋、松屋町を抜けて上野山方面へ最短コースで逃げようとしていたら、おそらく菊池一家は大火災に巻きこまれて助からなかっただろう。両国橋をわたり、神田川沿いをまず真西に向かって大川からできるだけ遠ざかったのが、大火流に呑みこまれないで済んだ大きな要因だとみられる。
 わたしの実家にいた家族たちは、やはり川向こうの本所側に大きな火災が発生しているのを確認すると、大川からできるだけ離れるために西へと向かった。日本橋両国から橘町、久松町、人形町とたどり江戸橋あたりで日本橋川に出ると、日本橋から呉服橋をへて東京駅北口に近い大手町側へと抜ける丸の内ガードをくぐり、東京駅前へと逃れている。そこから、どこで一夜を明かしたのかは聞きそびれているが、おそらく丸の内側の駅前広場か、近くの日比谷公園にでも退避していたのだろう。
 燃えるものはすべて燃え尽くし、なんとか火災が下火になってから自宅のあったあたりへと帰ったのは、菊池一家もうちの家族も同じだ。わたしの実家のなにもない焼け跡では、焼け落ちた蔵の中の小銭類までが溶けていた。親からもらったそのときの十銭銅貨Click!を、わたしはいまでも大切に保存している。
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 つづけて、『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。
  
 まだ燻り続ける中を両国千歳町へ戻った。(中略) 筆舌に尽くせない惨劇であった。母は「見るんじゃないよ」と言うが、そんなわけにはいかない。真っ黒焦げになっている人、半焼のような人、隅田川にぷかぷかしている人、水で膨らんでいる溺死体、小さな子供たちの死体、鎖に繋がれたままの犬、猫も毛が焼けて皮が剥き出し、鳥籠だけが燃え爛れて鳥の姿がなくなっている。人が生活していたということが全く嘘のような光景である。/地震、土砂崩れ、台風などの災害で亡くなった光景とは違う。広島、長崎の原爆とも違う。/想像を絶する光景である。読者は何もなくなった見渡す限りの大地、雀や鳥もいない世界、犬や猫もいない世界、樹木が一本もなく植木や草花もない世界。こういう世界を想像できるでしょうか。/どのくらい経過したのか思い出せないが、大人たちはまず生存者の確認、怪我人の保護、死体処理から始めた。臭気と野犬に食べられるのを防ぐため急ぐのだそうである。隅田川、堅川、横十間川に浮いたり沈んでいる溺死体を鳶口で引っかけては大八車やリヤカーに積んで、隅田川畔や公園、空き地に穴を掘って埋めていた。埋めていたというより、どんどん放り込んでいた。
  
 著者は先にも記しているが、このとき10万余人いた本所区の人口は、数日後にはわずか1,000人ほどしか確認できなくなっていた。おそらく、ほぼ全滅した浅草区や深川区、向島区でも同様の状況だったろう。10万人超とされている、東京大空襲の被害者の中にさえカウントされず、たった一晩でこの世から消滅してしまった人たち、家族全員や独身者、子どもたちがはたして何千人、何万人いたのかは現在にいたるまで、地元の自治体でさえまったく把握できていない。
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 東京市内(東京35区Click!=現・東京23区内)は、1944年(昭和19)11月から翌1945年(昭和20)8月の敗戦時まで、都合130回にのぼる空襲を受けている。これにより、死傷者・行方不明者は25万人以上にのぼり、罹災者は300万~400万人におよんだ。当時、東京市の人口は687万人だったが、敗戦時には253万人に激減している。もちろん、地方への疎開や徴兵・徴用による移動も含まれているが、消えた434万人のうち、戦後に再び東京へ生きてもどれた人々の数を差し引いても、消えてしまった人々の数に呆然とする。

◆写真上:「猫塚」のある、本所回向院の境内で眠るネコ。証言者の菊池一家は、空襲と同時に関東大震災でも焼け残った回向院の境内へ避難するが、同院の本堂が燃えだしたのを機に急いで両国橋を西へわたって逃げる決心をした。
◆写真中上は、1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろに米軍のF13偵察機から撮影された東京市東部の惨状。は、両国橋東詰めに近い本所回向院の山門。は、両国橋西詰めからつづく日本橋側の両国広小路。
◆写真中下は、神田川の柳橋から上流の浅草見附跡(浅草橋)を眺めたところ。は、神田川から万世橋を望む。は、冬枯れの上野不忍池とミヤコドリ(ユリカモメ)。
◆写真下は、菊池家とわたしの実家とがたどった1945年(昭和20)3月10日深夜の大川から離れる逃避経路。菊池家やわが家は逃げのびたので矢印を書けるが、逃げる途中で焼死して途切れた人々の線は10万本をゆうに超える。は、東京駅丸の内北口で正面は新丸ビル。命からがらたどり着いた親父たちが目にして、一息ついた東京駅はこの意匠だったが、同年5月25日夜半の空襲で駅舎は炎上している。は、丸の内北口のホール。

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