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新宿の花畑で暮らした芥川龍之介。 [気になるエトセトラ]

耕牧舎跡1.JPG
 わたしの実家があった、日本橋米沢町(薬研堀Click!=現・東日本橋)から大橋(両国橋)Click!を対角にはさんだ大川向うに、芥川龍之介Click!が住んでいた。本所小泉町(現・両国2丁目)には、発狂した母親・新原フクに代わり彼を引きとることになった、フクの兄にあたる東京府へ勤める芥川道章の家があった。また、彼は東京府を退職後、龍之介の実父が経営する耕牧舎の経理も担当していた。
 芥川家は代々、千代田城の茶坊主をつとめる家がらだったので、龍之介がまとっていた江戸東京の(城)下町Click!アイデンティティは、おもに養家の生活で身につけたものだろう。本所小泉町の界隈には、芝居でも頻繁に登場する本所回向院Click!や御竹倉、百本杭Click!吉良邸跡Click!勝海舟邸跡Click!などの名所があり、彼は後年、それらの情景を懐かし気にエッセイへ書き残すことになる。彼は養家から、わたしの親父の母校である府立三中、そして一高へと通っている。
 ちょっと余談だけれど、わたしが子どものころ、親父の本棚には芥川作品が少なからず並んでいたのを憶えている。あとで改めて気づいたことだが、親父は上記の先輩・芥川とまったく同様に府立三中から一高、帝大文科を進路コースに希望していたのではないか。だが、1943年(昭和18)の学徒出陣Click!にひっかかってしまったため、文系に進めば生命が危ういので泣く泣くあきらめ理系に進んでいる。後年、キライな数学や理科を無理やり勉強したことをさんざんこぼしていたが、おそらく芥川の学んだコースを進学の理想としていたのだろう。いまにして思えば、親父が凝った研究は文学に演劇、仏教美術、能楽と、例外なく一貫して文系好みの趣味だったことに気づく。
 さて、芥川龍之介というと、この本所小泉町にあった養家と、1914年(大正3)10月から移り住んだ田端435番地の家が圧倒的に有名だ。それは、1975年(昭和50)に近藤富枝Click!が出版した『田端文士村』(講談社)の中で芥川龍之介が大きくクローズアップされ、田端での生活が詳細に書きとめられているからだと思われる。だが、本所小泉町の時代と田端時代の間には、あまり目立たないが彼の新宿時代がはさまっている。芥川龍之介は、「牛屋の原」あるいは「牛屋横丁」と呼ばれた、内藤新宿町2丁目裏(現・新宿2丁目)の家で暮らしていた。
 当時の新宿駅東口は、青梅街道(現・新宿通り)沿いに商店や住宅がまばらに並んでいる程度で、家々の裏にまわると一面に草原や林が拡がっているような風情だった。そして、内藤新宿町2丁目裏には、芥川龍之介の実父・新原敏三が経営する東京牧場Click!のひとつ、約7,000坪を超える広さを誇る耕牧舎牧場Click!(本社:芝区新銭座町)があった。耕牧舎は、牛乳の品質がことによかったらしく、取引先には築地精養軒(旧・西洋館ホテルClick!)や帝国ホテルClick!などの名前が見える。
 芥川家が、本所小泉町から新宿へ転居したのは、養父の芥川道章が耕牧舎の経理を担当していたのと、1910年(明治43)8月に東京地方を直撃した台風による東京大洪水Click!で、本所小泉町の家が冠水したからだといわれている。
 同年に芥川家は本所の家を出て、内藤新宿町2丁目71番地の耕牧舎牧場内へと引っ越した。牧場内の家は、実父の新原敏三が建てて借家にしていた1軒だったという。当時の耕牧舎牧場とその周辺の風情を、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台』(私家版)から引用してみよう。
耕牧舎牧場1910.jpg
新宿区立図書館紀要2「豊多摩郡の内藤新宿」1968.jpg
耕牧舎看板1906.jpg
  
 耕牧舎は、春になるとまるで花園のようだった。カラタチの花は牧場の柵がわりとなり、ボケ、ツバキ、つつじが花を開き、サクラのトンネルができた。足元はレンゲ、ヤマユリで埋まった。/耕牧舎の支配人新原敏三は、昭和二年七月服毒自殺した作家芥川龍之介の実父で、富豪の渋沢、益田、三井の出資を得て経営していた。龍之介は生まれて間もなく芥川家の養子となったが、この牧場でよく遊んだ。近年、芥川家資料により明治三十五年当時の地所が七千四百四十八坪、飼牛の数百八頭だったことが確認されている。大規模な牧場だったのである。敏三は大正八年に歿し、後継者はいなかった。/大正十年三月、表通りの遊女屋は都市の体面を汚すという理由で、耕牧舎跡地に一括移転を命じられた。ご存知、戦後赤線として栄えたあの一画である。
  
 なんだか、植物の花園が人間の「花園」になってしまった気もするが、耕牧舎牧場は実父・新原敏三の死とともに解散している。
 著者の国友温太は、芥川龍之介が内藤新宿町2丁目71番地に住んでいたのを知らなかったのか、「この牧場でよく遊んだ」ぐらいしか書いていない。だが、龍之介が18歳だった1910年(明治43)の秋から、22歳になった1914年(大正3)10月に田端435番地へ転居するまでの4年間、彼は内藤新宿に拡がる花畑の中ですごしていた。
 内藤新宿町には耕牧舎牧場だけでなく、大平舎牧場などいくつかの東京牧場Click!が建設されていた。それら牧場の草地が、春を迎えると花畑のようになったので、明治末から大正期にかけて華園稲荷社(のち花園稲荷社)や花園町の名称が生まれている。
 さて、芥川龍之介が内藤新宿町から田端へ転居したのは、養父・芥川道章とともに宇治紫山から一中節を習っていた宮崎直次郎が、田端で「天然自笑軒」という料理屋を出していたからだといわれる。うちでは、親父が子どものころから習っていた江戸の清元Click!が、音楽の素養(家庭や地域の教育における必須の習いごと)だったが、芥川家では上方の一中節が採用されていたらしい。芥川龍之介もまた養父から三味を押しつけられ、おそらくいやいやながら師匠のもとへ習いに通わされていたのではないだろうか。
 当時の田端には、画家や陶芸家、彫刻家たちが数多く住んでいた。落合地域とのつながりでいうと、谷中初音町15番地(現・谷中5丁目)へ転居する前の満谷国四郎Click!がアトリエをかまえている。また、同じ洋画家では田辺至Click!柚木久太Click!山本鼎Click!倉田白羊Click!森田恒友Click!などが住んでいた。
耕牧舎1.jpg
耕牧舎2.jpg
耕牧舎跡2.JPG
国友温太「新宿回り舞台」1977.jpg 近藤富枝「田端文士村」1975.jpg
 田端へ転居した翌1915年(大正4)に、芥川龍之介は田端をテーマにした詩をつくっている。近藤富枝の『田端文士村』から、孫引きしてみよう。
 田端にうたへる
 なげきつゝわがゆく夜半の韮畑 / 廿日の月のしづまんとす見ゆ
 韮畑韮のにおひの夜をこめて / かよふなげきをわれもするかな
 シグナルの灯は遠けれど韮畑 / 駅夫めきつもわがひとりゆく
 このころ、芥川龍之介は才媛だった吉田彌生に恋い焦がれて悩んでいた。結婚したいと養父母に打ち明けたところ、実母も含めた猛反対にあい失意のどん底にあった。それにしても、この詩に登場する「シグナル」や「駅夫」など、まるで第1次渡仏からもどったばかりで田端駅の操車場などを描いた、佐伯祐三Click!の画面を想起させるワードだ。
 芥川龍之介は、エッセイ『大川の水』の中で「自分は大川あるが故に『東京』を愛し、『東京』あるが故に、生活を愛するのである」と書いている。はたして、大川(隅田川)が見えない丘や坂道、崖地や谷間が多い田端の生活は、彼にとってどのようなものだったのだろうか? 同書を書いた近藤富枝もまた生粋の日本橋っ子で、わたしの実家があった日本橋米沢町(現・東日本橋2丁目)のすぐ南に隣接する日本橋矢ノ倉町1番地(現・東日本橋1丁目)の出身(母親の出自は生粋の神田っ子だった)であり、彼女たち一家はいやいや郊外の新乃手である田端へと転居している。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 わずか六歳の幼女であったけれど、(芥川龍之介と)同じようにこの郊外暮らしを、どうしても承服できかねるものが心の奥にくすぶった。大川のにおいがやはり恋しかった。縁日や川開きや祭りの賑わいを失ったのも悲しかったが、人情のニュアンスが全くちがうのにとまどう思いだった。それは生意気にも子ども仲間に歌舞伎のせりふが通じないもどかしさだったり、こっちの歯ぎれのよさが、お茶っぴいと批判される口惜しさでもあった。/その夏三百坪ある庭の蝉の鳴き声は、耳を覆いたいほどのろうがましさであり、緑のにおいさえ腹立たしくてならなかった。母が三人目の女の子を生んだが、お宮詣りもしないうちに、子なしの夫婦にもらわれていったのだ。そして母さえも神田福田町のさとへ帰り、二度と田端へもどらなかった。(カッコ内引用者註)
  
 この文章を読むと、大川で164mの大橋(両国橋)をはさんだ対岸の“近所”で育った芥川龍之介に、近藤富枝は非常な親近感をおぼえていたのがわかる。彼女の母親は、どうしても乃手の生活になじめず、早々に実家のある市街地の神田に帰ってしまった。
芥川龍之介旧居跡.JPG
田端駅1923.jpg
田端駅南口駅舎.JPG
 わたしもまったく同様に、ときどき寂しい思いをすることがある。なにかの会話にひっかけて、好きな黙阿弥Click!芝居のセリフなどちょっと口にしても、ピンときて洒落た返しをされた方は、落合地域ではほとんどいない。想像してみるに、洒落返しをされそうなのは、洋画家・刑部人Click!の芝居好きを受け継いだ、刑部家Click!の方々ぐらいだろうか。

◆写真上:耕牧舎牧場があった、内藤新宿町2丁目裏あたりの現状。日傘をさし、紺色の絽に弁柄帯を締めて歩く清楚な“男子”が、わたしとしては目ざわりで悩ましい。
◆写真中上は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる耕牧舎牧場。は、1968年(昭和43)発行の「新宿区立図書館紀要2」所収の『豊多摩郡の内藤新宿』に掲載された1902年(明治35)ごろの耕牧舎界隈。は、1906年(明治39)に撮影された青梅街道(現・新宿通り)。右手の商店壁面に、「牛」の文字とともに耕牧舎の看板広告が見える。
◆写真中下は、2葉とも明治期に撮影された耕牧舎牧場。柵内には、たくさんのホルスタインが見てとれる。は、耕牧舎跡地になる新宿2丁目界隈の現状。下左は、1977年(昭和52)出版の国友温太『新宿回り舞台』(私家版)。下右は、1975年(昭和50)に出版された近藤富枝『田端文士村』(講談社)。
◆写真下は、田端435番地にあった芥川龍之介邸跡の現状。は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!直後に撮影された田端駅周辺の騒然とした様子。は、芥川龍之介が利用した山側口の駅舎がそのまま残る田端駅南口。

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洋画家たちが惹かれた築地風景。 [気になるエトセトラ]

聖路加国際病院トイスラー記念館.JPG
 東京の街で、もっとも劇的にガラリとさま変わりをした街といえば、おそらく築地がNo.1クラスだろうか。江戸末期から明治期にかけ、西洋館が建ち並ぶまるで日本とは思えないような、エキゾチックな街並みが形成され、1923年(大正12)の関東大震災Click!でほぼ全滅Click!したあとは、1935年(昭和10)に魚介類や青物などの市場が日本橋Click!から移転してきて、まったく趣きが異なる街へと変貌した。
 とはいえ、幕末から明治期にかけての外国人居留地の面影は、残されたキリスト教会や同教系の病院などに、かろうじて残されている。また、築地居留地生まれで発展したキリスト教系の学校も数多く、立教学校(現・立教大学)や築地大学校(現・明治学院大学)、女子大学(現・東京女子大学Click!)、耕教学舎(現・青山学院Click!)、東京中学院(現・関東学院大学)など、そしてミッション系ではないが慶應義塾(現・慶應義塾大学Click!)も築地地域が源流となっている。
 明治末から大正初期にかけ、築地の異国情緒ただよう街並みをモチーフにした絵画が、フュウザン会Click!や生活社、その後の春陽会Click!などの展覧会を中心に流行している。ちょうど、大正末から昭和初期にかけ、モダンな「田園文化都市」の街並みが拡がる落合地域の風景が、二科会や1930年協会Click!を中心にブームClick!を巻き起こしたのと同じような現象だ。前者の築地風景では岸田劉生Click!が、後者の落合風景では佐伯祐三Click!がそのブームの中心を担った画家だろうか。
 ただし、岸田劉生は築地のエキゾチックな風情を好み、進んでそれをとらえようとしているのに対し、佐伯祐三は下落合のモダンな雰囲気をほとんど描いてはいない。むしろ、宅地造成が終わったばかりの殺伐とした、赤土が露出したままの風景や、工事中の落ち着かない郊外の風景に視点をすえ、あえてまとまりがなく“キタナイ”過渡的な開発風景ばかりをモチーフにひろって描いているように見える。それは、劉生が築地の中心部を描いているとみられるのに対し、佐伯は下落合の外れや開発途上の地区(当時の新興住宅地の外れ)を好み、描画ポイントに選んでいるのとはちょうど対照的だ。
 さて、岸田劉生がせっせと築地に出かけて風景画を描いていたころ、1912年(大正元)に銀座で開催されたフュウザン会第1回展には、先の劉生をはじめ斎藤與里、高村光太郎Click!木村荘八Click!萬鐵五郎Click!小島善太郎Click!鈴木金平Click!、バーナード・リーチなどが参加していた。岸田劉生は築地風景とともに、数多くの肖像画も出品していた。当時の様子を、1971年(昭和46)に日動出版部から刊行された、土方定一『岸田劉生』より引用してみよう。
  
 このフュウザン会時代の岸田劉生の作品を顧みると、第一回展には十四点(肖像画を六点、風景画を八点) 第二回展には十九点(肖像画を十点、風景画を九点)と全く精力的に仕事をしている。すべてファン・ゴッホ、セザンヌの影響の強いもので、これは第二回展に続いて同年の秋(大正二年)に高村光太郎、木村荘八、岡本歸一とともに開催した生活社展(生活社主催、十月十六日から同月二十二日、神田のヴィナス倶楽部)に続いているものであり、また生活社展において岸田劉生のこの系列は一つの頂点に達している。(中略) 現在から見ると、これらの作品は習作を出ていないものが多い。けれども、『築地居留地風景』、『斎藤與里の肖像』、『バーナード・リーチ氏像』などは、逞しい、色調の美わしい作品であって、時代にとっても記念的な作品といっていいように、ぼくには思われる。
  
 二度にわたるフュウザン会展に出品された、風景画を合計すると17点にものぼるが、その作品の多くに築地風景が含まれていた。
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勝山英三郎「築地居留地近海之景」1891.jpg
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 当時の築地は、四方を川(隅田川河口)や堀割りに囲まれ、居留地の市街へ入るには三方いずれかの橋をわたらなければならなかった。築地は、東側には江戸湾(東京湾)も近い大川(隅田川)が流れ、現在は明石町から佃島へ佃大橋が架かっているが、昔は佃の渡し舟Click!があるきりだった。また、南北西の堀割りには、8ヶ所ないしは9ヶ所の橋が架かっており(1872年の大火で北部の敷地が拡大しているので変動がある)、居留地内の堀割りにも7ヶ所の橋が架かっていた。
 つまり、築地はその名のとおり江戸幕府が埋め立てた江戸湾に面する新しい敷地で、ほぼ標高数メートルの土地に堀割りが縦横に走り、西洋館がぎっしりと建ち並ぶさまは、居留地に住む南欧出身の外国人には、ヴェニスの街並みを想起させたかもしれない。それほど、江戸期から明治期にかけて築地の街は、東京のほかの街に比べて異質であり、「日本ではない」空間そのものだったのだ。
 日本画や洋画、版画を問わず、当時の画家たちはそんな築地風景に惹かれ、たくさんの作品を生み出している。ことに明治期には、江戸からつづく浮世絵師や版画家がその風景を多くとらえているが、明治後期になると洋画家たちも築地の風景にこぞって取り組みはじめている。ヨーロッパへ留学しなくても、日本でそれらしい風景や街並みが手軽に描ける写生地として、築地や横浜は画家たちの人気スポットになったのだろう。
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 関東大震災の直前、1923年(大正12)の春ごろには、築地に住んでいた当時は作家で翻訳家でもあった桑山太市朗の家へ入りびたり、次々と築地風景を制作していた洋画家に三岸好太郎Click!がいる。1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎―昭和洋画史への序章―』より、築地での様子を引用してみよう。
  
 三岸の出品画に、築地の風景があるが、外人居留地のあった築地は異国情緒に溢れ、鏑木清方の名作<築地明石町>(昭和二年帝展出品)に見られるように、多くの画家の画心をひらいたところであった。大正初年、岸田劉生もここを多く描いたことがあり、第一回春陽会展にも、中川一政<居留地図>、木村荘八<築地船見橋にて>が築地風景を出品している。三岸は築地に住んだ桑山と交友を深めており、前出節子夫人宛書簡にも記されているように、大正一二年春頃には、桑山宅に泊り込んで盛んに築地界隈を描いた。桑山書簡によれば、時には桑山がモデル代を出して、下谷の宮崎(註、モデル斡旋屋)からモデルを雇い、光線の具合のあまりよくない桑山宅の二階で三岸と岡田七蔵と三人で裸婦を描いたこともあり、また久米正雄の紹介状を貰って、当時鳴らした帝劇女優森律子の築地の家を訪ねて、律子の河岸沿いの家を描いた画を売ろうとして断られたこともあったという。
  
 築地のオシャレな街には、当時の先端をいく文筆家や表現者たちが好んで住みつき、その後の魚臭い街角とは無縁だったことがわかる。
 築地の東側には、江戸期そのままの西本願寺(築地本願寺Click!)の大屋根がそびえ、堀割りの向こう側には江戸期と変わらぬ白壁の蔵に商家が林立し、反対側の隅田川の河口域には大小さまざまな船が帆をかけて往来する風情の中、橋をひとつわたっただけで、見たことのない“異国”にまぎれこんでしまったような錯覚をおぼえる街、それが1923年(大正12)8月までの築地の姿だった。
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 当時、横浜へ出かけるまでもなく、築地を散策した画家たちは、その特異でエキゾチックな風景や情緒を眼に焼きつけたまま銀座などへ出ると、ふだんはハイカラに感じていた銀座の街並みが、いかにも日本のせせこましく泥臭い街角のように感じて、再びモチーフを探しに築地を訪れてみたくなったにちがいない。

◆写真上:昔日の築地の面影をいまに伝える、聖路加国際病院のトイスラー記念館。
◆写真中上は、立教大学に保存されている1894年(明治27)の「築地居留地鳥瞰図」(上)と「築地居留地略図」(下)。は、1891年(明治24)に制作された勝山英三郎『築地居留地近海之景』。は、明治初期に撮影された築地写真×3葉。
◆写真中下:すべて岸田劉生が描いた築地風景で、上から1911年(明治44)制作の『築地居留地』と『築地風景』、同年ごろ制作の『築地風景』、1912年(明治45)6月19日制作の『築地居留地風景』、1912年(大正元)制作の『築地居留地風景』と『築地明石町』。
◆写真下は、ホテル「メトロポール(聖路加ガーデン)」(上)と「聖三一大会堂」(下)の写真。は、1923年(大正12)の大震災直前に描かれた三岸好太郎『築地風景』。は、制作年不詳の井上重生『居留地図』。

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上野花薗町の江戸屋敷と明治住宅。 [気になるエトセトラ]

川上邸門.JPG
 かなり以前の話になるが、日本に亡命していた中国の革命家・孫文Click!も滞在していたとされる、江戸期に建設された新宿区の市谷加賀町の長屋門屋敷Click!をご紹介したことがあった。江戸東京地方は関東大震災Click!や、(城)下町と(山)乃手Click!を問わず大空襲Click!にみまわれているため、また住環境の急激な変化により、江戸時代に建てられた住宅が残っているのは非常にめずらしい。ただし、残念なことに市谷加賀町の屋敷はすでに解体され、ありふれた低層マンションになってしまった。
 下落合では、目白文化村Click!の第一文化村に接した南側、宇田川様Click!の敷地内に江戸期の住居Click!が一部改築されたまま残されていたのだが、惜しいことに1966年(昭和41)ごろ十三間通り(新目白通り)の敷設Click!にひっかかって解体されている。
 いまでも、江戸期の住宅がそのまま残っているというので、さっそく不忍池も近い上野花園町(現・池之端3丁目)を訪れてみた。この一画は、関東大震災や空襲からも焼け残り、江戸建築ばかりでなく明治建築もそのまま残されている地域だ。だが、訪ねてはみたものの江戸建築の川上邸(江戸千家の一円庵住宅)は内部を拝見できなかったが、隣接する明治建築は拝観することができた。もちろん、この明治建築とは水月ホテルの中庭に保存されている、有名な森鴎外邸のことだ。
 ちなみに、上野花園町はもともと寛永寺の境内に属するエリアで、江戸期には花畑遊園が設置されていたことに由来している。上野山の上にある、現在の上野動物園エリアは「上の花畑」、山麓のエリアは「下の花畑」と呼ばれており、それが明治初期の「花園」の町名に受け継がれていたものだ。
 森鴎外Click!が、上野花園町11番地に住まいをかまえたのは1889年(明治22)のことだ。ドイツから帰国してすぐ翌年のことで、結婚したばかりの赤松登志子と新婚生活を送る新居のつもりだった。だが、登志子との結婚は鴎外の同意を得ず母親が勝手に決めたものであり、鴎外は気に入らなかったらしい。翌1890年(明治23)9月に長男・於菟が生まれると、翌月には早々に離婚している。
 離婚した直後、鴎外は千駄木町57番地へ転居してしまうので、花園町の自宅はわずか1年ほどしか住まなかったことになる。たった1年間しか住まなかった家を、森鴎外の「旧邸」というのはおかしい気もするが、いまや貴重な明治建築なので保存のためには仕方がない側面もあったのだろう。ちなみに、鴎外が転居した千駄木町57番地の住宅は、のちに夏目漱石Click!が暮らすようになり「猫の家」と呼ばれることになった。
 鴎外の旧居は、現在では旧・玄関が水月ホテルの本館につながる位置(東側)で閉鎖され、新たに設置された玄関が反対側(西側)についている。したがって、新・玄関を入るとすぐ左手に蔵の入口が見えるが、本来は家のいちばん奥まった位置に蔵が設置されていた。4畳の玄関座敷が付属した旧・玄関、つまりホテル本館から見ると、まっすぐ東西にのびる廊下のすぐ右手(北側)が洋間の応接室だ。つづいて、北側には4畳の女中室、6畳の居間(おそらく旧・台所)、便所、風呂、蔵などの入口が並んでいる。
 また、旧・玄関のすぐ左手(南側)には、便所、3畳の茶室、7畳の室(浮舟)、つづいて西へ8畳の茶の間(歌方)、10畳の書斎(於母影)、15畳の客間(舞姫)とつづいている。(カッコ内は水月ホテルが作品名からつけた部屋名) 明治期の典型的な和洋折衷住宅だが、洋間の応接室は例外的な扱いで、ほとんどすべてが和館仕様となっている。特に8畳の茶の間、10畳の書斎、15畳の客間はすべて南の縁側に面しており、冬場は陽が奥まで射しこんで快適だ。また、3室とも池のある庭を見わたせるようになっている。
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森鴎外邸縁側1.JPG
森鴎外邸縁側2.JPG
 さて、道路をはさみ森鴎外邸の南に建っている川上邸だが、道路から奥まったところに建てられているので、入口の門から敷石伝いの玄関しかかろうじて撮影できない。江戸期から一部は明治期にかけての建築なので、来客用の刀掛けがそのまま残されているが、写真に撮れないのが残念だ。しかも、柱や調度品には鎌倉期や室町期の部材がそのまま使われている稀有な住宅なのだ。撮影できないので、1962年(昭和37)に撮られた室内写真をベースに、邸内の様子をご紹介したい。
 なお、モノクロ写真の出典は、同年に芳洲書院から出版された豊島寛彰『上野公園とその付近/上巻』からだ。同書より、少し引用してみよう。
  
 関宿の城主久世候は川上不白に師事し茶道を嗜んだが、外神田にあったその下屋敷に不白が一円庵を建てた。/それを明治二年、川上家が譲りうけて現地に移築したのである。/門を入り敷石をつたっていくと玄関に達するが、玄関の正面には漆ぬりの桟唐戸があり、それを開くとさらに潜り戸がついた細格子の戸がある。上部の壁付には板蟇股が置かれ普通の民家には見られぬ珍しい意匠である。この蟇股も足利期を降らぬものと思われるもので、いずれかの社寺から古材をここに転用したものであろう。潜り戸を入ると東に連子窓を西に供侍を設けているが、これなども不白の創意が入っているといわれる。/玄関三畳の壁付太柱は、鎌倉建長寺の古材と伝える。
  
 川上邸は広く、また複雑な造りをしており、各部屋や庵をいちいち細かくご紹介してると、いくら紙数があっても足りないので、間取り図を参照いただきたい。
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森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨1890頃.jpg
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 いちばん広い部屋は、一円庵のほぼ中央にある10畳の「花月の間」で、8畳と6畳サイズの居間が2室に、6畳大の「陽炉の間」が付属している。また、茶室がメインとはいえ、ここで生活することも考慮されており、8畳大の台所や3畳の女中室、湯殿に便所が2ヶ所。そのほか、6畳大の居間が2室に3畳大の居間が1室、9畳大の玄関間や寄付、蔵は別にして物置部屋が4室、さらに離れとなっている茶室が2室という間取りだ。
 江戸は昔から、武家や町人を問わず「煎茶文化」の土地柄であり、抹茶はあまり好まれなかった。もちろん、一部の武家の間では茶道がたしなまれてはいたが、川上不白は武家や町人など身分を問わず「抹茶文化」を浸透させようと努めた人だ。いわば、茶道の大衆化を推進した人物で、江戸茶人の中では第一人者といわれている。「大正名器鑑」には、1799年(寛政11)3月16日の茶会に茶道大名として有名な松江の松平不昧と松平三助、蒔田緑毛、朽木近江守がそろって出席したことが記録されている。
 川上不白は、特に庶民へ茶道を教えたことで江戸市民の人気が高く、1807年(文化4)に90歳で死去したときは、葬列が牛込赤城下(現・新宿区赤城下町)から谷中安立寺(現・台東区谷中5丁目)までつづいたと記録されている。
 最後に余談だが、わたしの家にも茶道道具が一式あるのだけれど、どちらかといえば抹茶よりも煎茶が好きなので、特別に飲みたくなったとき以外は、ふだんから静岡産か狭山産の煎茶を楽しんでいる。静岡・狭山産にこだわるのは、茶葉が生育する土壌(富士山や箱根連山の火山灰層である関東ローム)と同じ土壌から湧きでた水で茶を飲むと、いわゆる「水が合う」相性のいい関係で、より茶が尖りのない甘味と旨味とで美味しく感じられるからだ。このあたり、日本酒の酒米と水に関する醸造でも通じるところがありそうだ。
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 外出すると、たまに煎茶のペットボトルを買うことがあるが、煎茶の中に「抹茶入り」という製品を見かける。なぜ煎茶の中に、あえて抹茶を混入するのだろうか? そのほうが、地域によってはどこか「高級」に感じるのかもしれないが、せっかく煎茶のサッパリと澄んだ風味が、抹茶の粉っぽくて重たい、くどい風味で台なしだ。最近は、パッケージの原材料をよく見て買うようにしているが煎茶は煎茶、抹茶は抹茶で個々別々の喫茶であり、ぜひやめてもらいたい不可解かつ不要な“ブレンド”だ。

◆写真上:上野花園町で奇跡的に保存されている、明治初期に移築された川上邸の門。
◆写真中上は、玄関が東にある森鴎外邸の当初平面図。は、同邸の庭から見た縁側外観。は、庭から見た縁側(上)と書斎の前の縁側から見た庭(下)。
◆写真中下は、森鴎外邸内観で15畳の客間から見た吹き抜けの10畳の書斎と8畳の居間。は、1890年(明治23)ごろに庭で撮影された左から右へ森鴎外に幸田露伴、斎藤緑雨。は、川上邸の平面図(上)と1962年(昭和37)に撮影された一円庵の外観(下)。
◆写真下は、川上邸の玄関(上)と玄関の3畳壁付き太柱(下)で、鎌倉期の建長寺古材と伝えられている。は、一円庵の「花月の間」。は、茶席に残る江戸期の刀掛け。茶室なので天井は低く、上段が大刀用(武家)で下段が脇指用(武家/町人)だと思われる。

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目白台アパート時代の瀬戸内晴美(寂聴)。 [気になるエトセトラ]

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 以前、目白坂にある目白台アパート(現・目白台ハウス)へときどき立ち寄っていた、三岸好太郎・節子夫妻Click!の長女・陽子様Click!の連れ合いである、「芸術新潮」の創刊編集者であり三百人劇場のプロデューサーだった、向坂隆一郎様Click!(つまり、三岸アトリエの保存を推進されている山本愛子様Click!のお父様)について書いたことがある。向坂様は、劇団で起きたいろいろな悩みごとの相談に通っていたらしいが、まるでカウンセラーか占い師のような相談相手になっていたのが、同アパートに住んでいた小説家・瀬戸内晴美(のち瀬戸内寂聴)だ。
 目白坂については、同坂の中腹に目白不動Click!(新長谷寺)や幸神社(荒神社)Click!が建立されていた関係から、タタラの痕跡とともに大鍛冶集団の軌跡による側面から詳しくご紹介していた。ただし、目白不動は1945年(昭和20)の空襲で新長谷寺が焼失し廃寺となったため、戦後は西へ1kmほどのところにある金乗院Click!へと移転している。
 瀬戸内寂聴は、落合・高田(現・目白)の両地域をはさみ、東西両隣りの街に住んでいる。東側は文京区目白台つづきの目白台アパートであり、西側は旧・野方町にあたる西武新宿線・野方駅から歩いてすぐの、妙正寺川が流れる中野区大和町にあった貸家の2階だ。行き止まりの路地にあった貸家1階の8畳間は、愛人の小田仁二郎が仕事場として借りている。きょうは、瀬戸内寂聴が二度にわたって住み、ちょうど同時期には円地文子Click!谷崎潤一郎Click!などがいっしょに暮らしていた、目白台アパートの様子について書いてみたい。もうお気づきの方も多いと思うけれど、紫式部の『源氏物語』を現代語訳した3人の作家が、目白台アパートに住んでいたことになる。
 また、同じ目白崖線を西へたどると、下落合1丁目435番地(現・下落合2丁目)には同じく『源氏物語』を現代語訳した舟橋聖一Click!がいたのも面白い偶然だ。
 目白台アパートといっても通常のアパートではなく、今日的な表現でいえば「高級マンション」ということになるのだろう。施工主はマンションという言葉がことのほかキライで、あえて馴染みのあるアパートと名づけたようだ。ただし、アパートのままだと他の名称とまぎらわしく誤解も多かったのか、現在では通称・目白台ハウスと呼ばれることが多い。瀬戸内寂聴が住んでいたころは、すべて賃貸の部屋だったようだが、現在は分譲販売がメインとなり、賃貸の部屋はワンルームを除いてかなり減っているらしい。
 目白台アパートは、1962年(昭和37)に竣工しているので、もうすぐ築60年になるが、ていねいなメンテナンスが繰り返されているせいか、外観からはそれほどの古さを感じない。いまでも人気物件のようで、ときどき新聞に空き部屋の分譲チラシが入ってくる。ワンルームでも3,000万円弱の価格が設定されているので、いまだそれなりに人気は高いのだろう。当初、瀬戸内寂聴が支配人から奨められた最上階の広い部屋は、おそらくいまでも億に近い価格帯だと思われる。
 彼女が支配人に案内され、初めて目白台アパートを内覧したときの様子を、2001年(平成13)に新潮社から出版された瀬戸内寂聴『場所』から引用しよう。
  
 二つの空部屋を見せてもらったが、残りそうだというのは最上階の角の部屋で三LDKの大きな部屋は、私の住んでいる練馬の家がすっぽり収って余りが出るほど広く感じられた。南と西にベランダがあり、大きな硝子戸がはめられていた。(中略) 全館賃貸だという、その広い部屋の値を聞いた時、余りの高さに笑い声を立てそうになってあわてて掌で口を押えた。とうてい払える金額ではないと思った。(中略) 部屋を出る前、南の長いベランダに出て下界を見下した。すぐ目の下に新江戸川公園が川沿いに細長くのび、地下二階、地上六階の建物の下は崖になって公園に落ちていた。
  
 寂聴は「新江戸川公園」と書いているが、神田川沿いの細長い公園は江戸川公園Click!の誤りだ。新江戸川公園は、さらに西側にある現・肥後細川庭園Click!の旧名だ。彼女は年下の恋人へのあてつけから、この「笑い声」が出そうになった高い最上階の部屋に1年間住むことになった。また、二度めは1968~1972年(昭和43~47)の4年間にわたり、同アパートの地階(といっても崖に面した地上)に住んでいる。
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 さて、目白台アパートのことを調べていると、ここにはさまざまな人々が去来するのだが、ちょうど本郷にあった大正~昭和初期の菊富士ホテルClick!のような存在で、目白台アパートは戦後版「菊富士ホテル」のような趣きだったといえるだろうか。小説家や画家、音楽家、学者、俳優など多種多様な人たちが部屋を借りているが、あまり話題にならないのはいまだ同時代性が強く、現在でも建物がそのままの状態で残っているからだろう。瀬戸内寂聴も同じような感慨をもったらしく、同様のことをエッセイで書いている。同書から、再び引用してみよう。
  
 文筆家では、誰よりも早くから原卓也さんが仕事場にしていられた。有馬頼義さんも一頃ここで仕事をされた。アイ・ジョージと嵯峨美智子の愛の巣が営まれていたのも、建って間もない頃のこのアパートだった。田中真紀子さんの新婚時代もここから始まったと聞いている。北大路欣也さんともエレベーターでよく出会った。/大正時代、本郷菊坂にあった菊富士ホテルに、文士や学者や絵描き、革命家などが雑居していたが、規模はとうてい菊富士ホテルには及びもつかないが、それのミニ版にたとえられないこともない。
  
 寂聴は、歴史や物語的な厚みとしての「規模」と表現していると思われるのだが、単純に住環境の規模からいえば、目白台アパートは菊富士ホテルの比ではないほど規模が大きい。住民の数も、おそらく菊富士ホテルの4倍以上にはなるだろうか。
 瀬戸内寂聴の『場所』を読んでいると、結婚生活の破たんから年下の恋人との繰り返す確執、不倫相手とのいきさつに、不倫相手の家庭へ乗りこんでしまったこと……などなど、彼女の作品と同じく例によってもうドロドロのグチャグチャな状況にため息がでるので、そういうところは避けてご紹介したい。彼女は最初に目白台アパートへ住んだとき、二度にわたって自殺未遂事件を起こしている。
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 谷崎潤一郎と“同居”していたのは、同アパートができて間もない、寂聴が最初に住んでいた時期だった。さすがに言葉を交わすことはなかったようだが、彼女は江戸川公園を散歩する谷崎夫妻をたびたび見かけている。谷崎潤一郎は、地下の部屋を2ブロックにわたって借り、さらに寂聴と同じ最上階にも部屋をもっていたようで、松子夫人と『細雪』Click!の雪子のモデルとなった夫人の妹、それに何人かのお手伝いといっしょに暮らしていた。寂聴は、おそらく谷崎潤一郎の仕事部屋だったとみられる最上階のドアの前を通るとき、緊張しながら足音をしのばせて歩いた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 廊下に人影のない時は、す早くドアにおでこをくっつけたり、掌で撫でたりした。「あやかれますように」と口の中でつぶやくと、心を閉ざしている日頃の憂悶もその時だけは忘れ、うっとりといい気持になるのだった。/毎朝、決った時間に、中央公論社から差し廻される黒塗りの巨きな車が迎えに来て、文豪夫妻はその車で、公園の入口の江戸川橋の袂まで降りて行く。そこから車を降り、ゆっくりと時間をかけて公園を一廻りして、待たせてある車で、アパートに戻るのだった。その姿をひそかに眺めるのが、私の貴重な愉しみになっていた。/公園の川辺から見上げると、アパートの建物はいかにも巨きかった。地下二階は公園の崖ぞいに建っているので、地上六階がその上に載っていて、正面よりはるかに高く巨大に感じられる。
  
 目白台アパートから、江戸川橋ぎわの江戸川公園の入口まではわずか300mほどしかないが、目白坂の上り下りがあるため年老いた谷崎夫妻にはきつかったのだろう。目白台アパートは、目白崖線のバッケ(崖地)Click!に建てられているので、地階といっても南を向いた窓があった。神田川沿いから見上げると、同アパートは屋上の建屋も入れると9階建てのビルのように見える。
 平林たい子Click!も晩年、目白台アパートに住んで瀬戸内寂聴としじゅう顔を合わせることになった。平林はガンの治療のため、上池袋にあった癌研究会附属病院へと通う都合から、同アパートを契約して住んでいる。彼女はアパート内で寂聴の顔を見ると、「あのね、お互いにここは仕事場ですから、日常的なおつきあいはやめましょうね」といって、さっさと自分の部屋に引きあげていった。
 円地文子は、平林たい子と入れちがうようにして目白台アパートに入居し、『源氏物語』の現代語訳に没頭していた。円地文子は平林とは対照的に、「あなたがいるから、何かと頼りになると思って、ここに決めたのよ」といって、ふたりはごく親しく交流している。彼女は“深窓の令嬢”育ちらしく、台所仕事はまったくできなかったので、お茶や菓子の準備はいつも電話で呼ばれた寂聴がやらされていたらしい。
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 目白台アパートには、地階に喫茶パーラーがオープン(現在は閉店)していて、瀬戸内寂聴は原稿の受けわたしによく利用していたようだ。目白台アパートで暮らした最後の年、喫茶パーラーのTVには「あさま山荘事件」の生中継が映しだされていた。その日、寂聴のもとへ原稿を取りにきた編集者は、小説家になる前の後藤明生だった。

◆写真上:神田川端の江戸川公園側から見た、緑濃い目白台アパート(目白台ハイツ)。
◆写真中上は、目白台アパートの現状。下左は、2001年(平成13)出版の瀬戸内寂聴『場所』(新潮文庫版)。下右は、同アパートでの撮影らしい瀬戸内晴美(寂聴)。
◆写真中下:目白台アパートの南向きベランダと、そこから眺めた新宿区の街並み。
◆写真下は、代表的な部屋の平面図。寂聴が支配人から奨められた部屋は、もっと大きかったろう。は、崖地にひな壇状の石垣が築かれた江戸川公園。ちなみに、江戸期より1966年(昭和41)までは大洗堰Click!から舩河原橋(外濠出口)までの神田川は江戸川Click!と呼ばれていた。は、江戸川公園の西にある肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)。

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陸軍科学研究所のもっとも危険な部局。 [気になるエトセトラ]

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 下落合の南、戸山ヶ原Click!にあった陸軍科学研究所Click!では、どのセクションも危険な兵器開発を行なっていたが、その中でも特別に危険な兵器や資材を開発していた部局がある。1927年(昭和2)5月に、戸山ヶ原の科学研究所第2部内へ、ひそかに設けられた「秘密戦資材研究室」だ。室長には、すでにこちらでも陸軍兵務局分室(工作室=ヤマ)Click!陸軍中野学校Click!との密接な関係をご紹介している、陸軍大佐・篠田鐐が就任している。以降、秘密戦資料研究室は「篠田研究室」とも呼ばれるようになった。
 第一次世界大戦の影響から、戸山ヶ原(山手線西側エリア)で繰り広げられた塹壕戦Click!の演習は、こちらでも何度かご紹介Click!してきているが、同大戦はそれまでの戦法を塗り変えたのに加え、戦争自体の姿も大きく変えてしまっていた。従来は、敵対国同士の軍隊が正面から衝突して、戦争の優劣や勝敗を決定づけていたが、第一次世界大戦は軍隊同士の戦闘にとどまらない、近代国家同士の「総力戦」であることを広く認知させた戦争でもあった。近代戦は、軍隊(軍人)たち同士が戦うだけでなく、国家間が国民とその生活のすべてを動員して戦われることを決定づけた。
 「総力戦」の中身は、単純に前線における軍隊の軍事作戦・行動のみにとどまらず、「思想戦」や「政略戦」、「経済戦」などの概念にもとづき、敵対国の国内を混乱させる後方攪乱(経済・通貨破壊など)をはじめ、情報・宣伝工作、スパイ(諜報)工作、要人の盗聴や暗殺、爆破などの謀略工作、防諜戦など表面化しない「秘密戦」が、不可欠な要素であることが知られるようになった。
 その秘密資材づくりに設置されたのが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所第2部の秘密戦資材研究室(篠田研究室)であり、同じく戸山ヶ原(山手線東側エリア)にあった陸軍兵務局分室(ヤマ)に属する中野学校出身の工作員Click!たちが、それを実際に使用する実践部隊という位置づけになる。彼らは外交官や商社員、観光客、新聞記者、商人、使用人などに化けて国内外に散っていった。
 日本における秘密戦の研究は、欧米に比べて大きく出遅れていたため、秘密戦資材研究室では当初、どのような機材を研究開発していいのか見当がつかず、スパイ資材の研究には外国の映画や小説、欧米の文献などを参考に手さぐりの状態だったらしい。だが、1931年(昭和6)の満州事変以後は、科学研究所とともに秘密戦資材研究室は規模拡充の一途をたどった。1935年(昭和10)ごろから、満洲の関東軍参謀部や関東軍憲兵司令部、各特務機関などを相手に技術講習会を開けるまでになり、中国やソ連での各種スパイ工作に協力している。
 1936年(昭和11)になると、陸軍科学研究所は陸軍技術本部の傘下に置かれることになり、戸山ヶ原の広大な敷地では東側が科学研究所、西側が技術本部として機能するようになる。秘密戦資材研究室(篠田研究室)では、スタッフや開発設備・機材も充実し、秘密戦のさまざまな兵器を完成させていった。また、同年には機密戦を実践する戦士を教育・養成するために、陸軍兵務局分室へ協力して「後方勤務要員養成所」(のちの陸軍中野学校)が設立されている。
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 秘密戦資材研究室(篠田研究室)には、大学の理工系学部を卒業した学生ばかりでなく、東京美術学校Click!の出身者も採用されているのが興味深い。これは敵国の経済破壊を目的として、中国をはじめアジア諸国のニセ札づくりのイラストや版下制作を担当したものだろう。大学や専門学校の卒業生ではなく、見習工などの若い所員は、陸軍科学研究所内で「戸山青年学校」という学習組織に属し、英語や理科、電気、機械などを履修することができた。彼らは、仲間同士で親しく交流できたようだが、どのような業務に携わっているかはタブーで、仕事の話はいっさいできなかったという。
 1939年(昭和14)4月、秘密戦資材研究室(篠田研究室)は規模拡充のため、戸山ヶ原から川崎市稲田登戸の拓殖学校跡地に移転し、陸軍科学研究所登戸出張所と改名される。さらに、3年後の1942年(昭和17)からは陸軍第九技術研究所となり、通称「登戸研究所」と呼ばれるようになった。当時の世界情勢を、1989年(昭和64)に教育史料出版会から出版された、『私の街から戦争が見えた』より引用してみよう。
  
 登戸研究所でニセ札づくりが本格化した一九三九(昭和一四)年、ヨーロッパではドイツがポーランドにへ侵攻、第二次世界大戦が開始された。同じころ大本営陸軍部は中国南部に支那派遣総軍を設置し、戦禍は拡大の一途を辿っていた。四〇年には「陸軍中野学校令」が制定され、中野学校と登戸研究所によって秘密戦の人的・技術的基盤は完成された。太平洋戦争前年のころまでに登戸では研究開発がほぼ完成し、実用化の段階になっていたと言われている。/日本国内では、大政翼賛会の発足により既存の政治団体は解散し、特高警察や憲兵などによる治安維持法の網のなかで、日本のファシズム体制は完成しつつあった。(中略) そのような状況下、登戸研究所は仏領インドシナ、サイゴンに進駐した南方軍参謀本部に対し、謀略器材を中心に研究所はじまって以来の数の補給・取り扱い指導を行なったのである。
  
 戸山ヶ原から稲田登戸へ移転した旧・秘密戦資材研究室(科学研究所登戸出張所)は、小田急線の東生田駅(現・生田駅)と稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)との間にある、小高い丘の上に設置された。約11万坪という広大に敷地に、24棟の工場や研究所が並び、農作物を枯死させる細菌や枯葉剤を実験する畑をはじめ、動物実験をするための動物舎、爆薬実験場などが付随していた。
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 研究所の一科では無線や電波兵器、怪力光線、風船爆弾などいわゆる物理系兵器が、二科では特殊爆弾や毒物、細菌、写真、特殊インクなどの化学系兵器が、三科では各国のニセ札や偽造パスポートなど印刷物が、四科は開発された兵器の製造・管理・移送がおもな業務だった。研究所員は、所長の篠田鐐(中将)をはじめ、将校クラスが134人、下士官クラスが54人、技師が16人、技手が55人、工員や雇人を合わせると同研究所は約1,000名ぐらいの大所帯となっていた。
 この中で、二科が爆薬や毒物、細菌などを直接扱うもっとも危険な研究室だったろう。暗殺用の毒物をはじめ、敵国の町にばらまく細菌兵器、穀物を枯死させる病原菌、土壌のバクテリアを死滅させる細菌、地上の植物を枯死させる枯葉剤、特殊爆弾(缶詰・レンガ・石炭・歯磨きチューブ・トランク・帯・雨傘などの形状をした暗殺爆弾)、謀略兵器(レンガ・石鹸・発射型・散布型の放火焼夷弾)、超小型カメラ(ライター・マッチ・ステッキ・ボタン型の写真機)などを開発・製造している。
 これらの膨大な研究資料は、敗戦直後に陸軍省軍事課より出された通達「特殊研究処理要領」により、「敵ニ証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰滅スル如ク至急処置」すべしという命令によって、ほとんどすべてが焼却された。戦後、GHQによる科学研究所員への訊問が行われたが、二科および三科所員の何人かは米軍にスカウトされて米国にわたり、朝鮮戦争やベトナム戦争に登場する生物兵器や枯葉剤の研究などに応用されたといわれている。また、国内においては、帝銀事件Click!で名前が挙がっている遅効性の猛毒「アセトンシアンヒドリン」(青酸ニトリール)Click!や、偽造千円札「チ-37号」事件などが、登戸研究所との関連を強く疑われている。
 登戸研究所では、研究員や工員たちが薬物(毒物)中毒になった場合の、救命治療マニュアルのようなものを用意していた。1943年(昭和18)現在では、同研究所で扱われていた死にいたる薬物は、30種類をゆうに超えている。これらによって製造された毒物兵器や毒ガス兵器は、ひそかに前線へと運ばれていった。
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 戸山ヶ原(山手線西側エリア)の住宅建設現場から、イペリット・ルイサイトなど毒ガス兵器が発見され、自衛隊の手で掘りだされたのは、それほど昔の話ではない。ほかにも、敗戦直後の「特殊研究処理要領」により、地中深くに埋められ廃棄された毒ガス兵器や毒物兵器、細菌兵器がどれほど眠っているものか、当時の証言者がほとんどいなくなってしまった今日では、戸山地域と登戸地域ともに見当もつかない。

◆写真上:戸山ヶ原に展開した陸軍科学研究所の、中枢部門があった跡の現状。
◆写真中上は、陸軍科学研究所の建物跡に残るコンクリート残滓。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された戸山ヶ原の陸軍技術本部・陸軍科学研究所。
◆写真中下は、毒ガスや毒物の研究開発からか独特な形状のフィルターがかけられた陸軍科学研究所の煙突群。1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原-今はむかし…-』より。は、1944年(昭和19)に撮影された最大規模になった戸山ヶ原の陸軍科学研究所。は、陸軍科学研究所跡の現状。
◆写真下は、日本に国内の全研究機関のリストと資料開示などを命じたGHQ文書の和訳(現物)。は、1944年(昭和19)撮影の陸軍第九技術研究所(登戸研究所)の全貌。

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