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誰も知らない鎌倉海岸。 [気になるエトセトラ]

由比ヶ浜.JPG
 わたしが少し前に書いた、「ほとんど人が歩いていない鎌倉」Click!を読まれた方から、もっと古くてめずらしい写真があるよ……と、明治初期からのめずらしい写真類が掲載された、非売品の貴重な地元資料をお送りいただいた。1983年(昭和58)に、かまくら春秋社から鎌倉市内のみで出版され、古くからの鎌倉人とゆかりの関係者のみに配られたとみられる『鎌倉の海』だ。
 1882年(明治15)に、大磯Click!で日本初の海水浴場Click!が開かれてからわずか2年後、1884年(明治17)には鎌倉・由比ヶ浜Click!の海水浴場がオープンしている。大磯の海水浴場は、徳川幕府の御殿医で明治以降は日本初の西洋医となった松本順(松本良順)Click!が開設したのに対し、鎌倉の由比ヶ浜(通称・中央海水浴場)は、文部省医務局長(初代)だった長與専斉が開設し、3年後には結核患者の保養所「海浜院」(サナトリウム)を設置した。しかし、鎌倉の市街化とともに結核のサナトリウムは移転し、1916年(大正5)になると跡地には海浜ホテルがオープンすることになる。
 長與専斉資料の『松香遺稿』より、由比ヶ浜にサナトリウムを開設するにあたり書かれた「鎌倉海浜院創立趣意書」の文章から引用してみよう。
  
 抑鎌倉ノ地タルヤ東北山ヲ周ラシ、西南海ヲ控ヘ、暑寒共ニ平和ニシテ冽寒酷暑ノ苦ヲ知ラス。浴泳ニ由比ケ浜ノ浅沙アリ。運動ニ松林ノ鬱蒼タルアリ。八幡ヲ拝シ、観音ニ詣テ、近キハ建長寺円覚寺ノ観アリ。遠クハ江ノ島金沢ノ勝アリ。魚ヲ釣リ貝ヲ拾ヒ漁網ヲ挙ケ小舟ヲ盪カス等。優游嬉戯三週モ一日ノ如ク、曽テ無聊鬱屈ヲ訴フル余暇ナキナリ。
  
 1889年(明治22)に横須賀線が開通すると、別荘を建設して避寒避暑に訪れたり、旅館に逗留して保養がてら海水浴を楽しんだりする人々が増えはじめた。夏目漱石Click!吉井勇Click!たちが、避暑避寒に訪れたのもこのころのことだ。
 1910年(明治43)に江ノ電が鎌倉市街まで乗り入れ鎌倉駅ができると、別荘街や市街地が由比ヶ浜から長谷、稲村ヶ崎Click!、そして七里ヶ浜Click!方面まで拡大しはじめ、別荘族や海水浴客でにぎわうようになる。当時の江ノ電は、現在の鎌倉駅西口が終点(起点)ではなく、鎌倉駅東側の表参道(現・若宮大路)の道路際、一ノ鳥居と二ノ鳥居の間にホームが設置されていた。大正中期は、江ノ電沿いに別荘や旅館が建ち並び、あとは畑の中に昔ながらの農家が点在するような風情だった。
 当時は間貸しの別荘もあったようで、年間200円で借りれば夏冬は避暑(海水浴)避寒に春はハイキング、秋は紅葉めぐりと1年を通じて鎌倉を楽しめたようだが、部屋代の設定がおかしい。間貸し別荘を、9月から翌年の6月まで借りると10ヶ月で100円だが、7・8月のたった2ヶ月借りただけでも100円だった。それだけ、夏場は海水浴の人気が高かったのだろう。ときに、陸軍幼年学校が水泳の訓練Click!をしに材木座の光明寺に滞在し、明治女学院が極楽寺Click!の成就院に滞在して避暑合宿をしている。避寒避暑の別荘地としての鎌倉は、大磯と同様に関東大震災Click!以降も変わらなかった。
 ところが、昭和初期になると市街地を走る乗合自動車(バス)の運行ネットワークが発達しはじめ、住宅を建てて東京へと通勤する住民たちが増えはじめる。いまほど大きな車体でないとはいえ、バスを舗装されていない山道の奥まで運行するには、高度で独特な運転スキルがドライバーに求められたようだ。
鎌倉の海カバー.jpg
鎌倉の海挿み込み.jpg
表参道一ノ鳥居1870年代.jpg
七里ヶ浜小動岬1870年代.jpg
 鎌倉は戦時中、おもに戦闘機の機銃掃射だけの被害で済み、街並みはほぼそのままのかたちで戦後を迎えている。だが、大きめな別荘はGHQが接収して利用し、由比ヶ浜などのビーチでは米兵たちがコーラ壜を割る遊びをして、海水浴場を整備してきた地元民を嘆かせている。また、発火しやすい暖炉の注意を呼びかけていたにもかかわらず、米兵たちの失火から由比ヶ浜の象徴ともいうべき、巨大な海浜ホテルが全焼してしまった。
 大正期の鎌倉について、中村菊三『大正初期の由比ヶ浜』から引用してみよう。
  
 ある朝。私は六時頃、独りで防風を採りに、例の砂山のかげに出かけた。海は波もなく、爽やかに澄んでいた。岸辺には、わかめを拾う人と散歩の人しか見えなかった。その時、一人の外国婦人が水浴を終えて上って来た。あと見たその婦人の海水着である。/それは海水着というよりは、寧ろツウ・ピースであった。短い袖のある上衣は、赤い横縞で、腰のあたりには細かい襞があった。丈は膝の所まであったので、下衣は見えなかったが、均整のとれた長い両足には、足首までピッタリした、黒い薄い靴下のようなものをはいていた。初めて見る西洋の女子海水着である。(中略) この女性は、大正九年に日本に亡命した白系ロシア人で、バレーリーナのエリアナ・パブロワであった。
  
 「防風」とは、生薬の一種であり食用のハマボウフウのことで、相模湾沿いの砂浜ではめずらしくない野草だ。ロシア革命から亡命したエリアナ・パブロアClick!が鎌倉でバレエを教えていたのは、以前、堤康次郎Click!の新宿園・白鳥座Click!での舞台と、アンナ・パブロワに絡めてこちらでご紹介していた。
由比ヶ浜1880年代.jpg
材木座1880年代.jpg
材木座1890年代.jpg
七里ヶ浜江ノ電1907.jpg
七里ヶ浜.JPG
 大正初期の水着は、和製のツーピース水着と呼ばれるもので、上半身は白い襦袢のようなものを着て、下半身はステテコのようなものを履き、麦わら帽子を深くかぶったまま波打ち際で遊んだり泳いだりするのが流行っていた。いまから見ると、まるでサザエかアワビを獲る海女のような格好だが、海女のコスチューム自体が大正期の女性水着を変わらずに踏襲しているのだ。女性の水着姿は、ハイカラな別荘が建ち並んだ材木座海岸あたりからはじまり、坂の下海岸から由比ヶ浜へと拡がったらしい。ちなみに、男子の水着は戦前まで、一貫してほとんど褌(ふんどし)のままだった。
 大正も中期以降になると、今日のワンピース水着に近いものが出はじめ、身体にピッタリとフィットして半分も身体を露出する、黒いモガ水着が大流行していく。でも、鎌倉が地元の住民たちは、海水浴の客たちが引き上げたあと、特に夜間には“お楽しみ”が待っていたようだ。水着などつけず、全裸で泳ぐ海水浴だ。
 そんな様子を、胡桃沢耕史『鎌倉ではすべてが美しい』から引用してみよう。胡桃沢は、まだ真っ暗な未明の由比ヶ浜へ女友だちと繰り出している。
  
 まだ暗いうちだが、二人だけでいると、何か感情が激してくる。/「泳ごうよ」/「水着持ってきてないわ」/「いいじゃないか。真っ裸で」(中略) 「いいわ、泳ぐわ」/浜辺に下着まで脱ぎ捨て海へ入って行く。臍のあたりまで入ると、安心して向い合う。どちらともなく抱き合って唇を重ね、もつれ合って波の中へ体をひたした。/これも由比ヶ浜が、まだ透き通るほどきれいだったころの話である。こうして何人かの、美しい娘さんと、かなり深いつき合いになることができた。軽井沢や、ディスコがまだ、ガール・ハンターの場所として登場してこない前の、唯一のデート場所だった。
  
 幼児のころならともかく、さすがに裸で由比ヶ浜の海を泳いだ経験はないが、20代のころ日本海の某島では真っ裸で泳いだことがある。
 なにかとロマンチックかつ華やかで、大磯と同様に明治期から別荘族や海水浴客を集めた鎌倉の由比ヶ浜だが、詩人・田村隆一が「耳をすませば、相模の潮騒い。そして中世のおびただしい死者の声がきこえてくる」と書いたように、砂浜の下には膨大な死者たちが埋葬されていた。それは、人骨に刀傷のある鎌倉幕府軍Click!新田義貞軍Click!の戦死者をはじめ、鎌倉時代に疫病や飢饉で死んだ住民たちが、大きな円形の穴を掘って由比ヶ浜の随所に埋葬されていたからだ。おそらく、数千人規模の死者が、由比ヶ浜から坂ノ下、あるいは材木座海岸にかけて埋葬されているのではないだろうか。
稲村ケ崎(大正最初期).jpg
稲村ケ崎(大正初期).jpg
稲村ケ崎.JPG
海浜ホテル(アッベル支配人・大正期).jpg
材木座別荘街1921.jpg
 1933年(昭和8)ごろ、長谷に住んでいたある人物が、舟大工へ由比ヶ浜の波に乗れる特製の板を初めてオーダーした。「フロート」と名づけられた波乗りボードは、またたく間に鎌倉海岸の全域へ普及していく。昭和初期にはじまった日本初のフロート波乗り、戦後の用語でいえばサーフィンなのだが、それはまた、機会があれば、別の物語……。

◆写真上:そろそろひと雨きそうな、由比ヶ浜から眺めた午後の稲村ヶ崎。
◆写真中上は、いずれも明治期に制作された楊洲周延の浮世絵で、『鎌倉の海』(かまくら春秋社)のカバーにもなっている『七里ヶ浜』(上)と『於相州鎌倉長谷割烹旅館三橋與八楼上望由井濱海水浴』(下)。は、明治10年ごろの表参道(若宮大路)に建つ由比ヶ浜も近い一ノ鳥居。明治末には、撮影者の背後に江ノ電・鎌倉駅が開業する。は、同じく明治10年代に七里ヶ浜から撮影された小動(こゆるぎ)岬と江ノ島。
◆写真中下からへ、明治20年代の由比ヶ浜から眺めた坂ノ下と稲村ヶ崎、同年代の材木座村で中央の建物は光明寺、明治30年代の材木座海岸で、麦わら帽の女性たちは海女ではなく別荘に滞在中のお嬢様たち。江ノ電が走る1907年(明治40)撮影の七里ヶ浜から眺めた小動岬と江ノ島、および富士山が美しい七里ヶ浜の現状。
◆写真下からへ、大正の最初期に飯島崎から撮影された稲村ヶ崎と江ノ島で、いまだ遊歩道路(ユーホー道路=国道134号線)Click!がV字型に掘削されていない稲村ヶ崎が新鮮な景色だ。大正初期の稲村ヶ崎と現状、大正期のアッペル支配人時代に撮影された海浜ホテル、1921年(大正10)撮影の材木座海岸に連なる別荘街で右端は光明寺。

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小島善太郎がかいま見た長沼智恵子。 [気になるエトセトラ]

長沼智恵子「樟」1913.jpg
 1910年(明治43)ごろから大正期にかけ、小島善太郎Click!は洋画の勉強に谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所(旧)Click!へ、大久保の中村覚邸Click!から通わせてもらっている。同研究所は、中村不折Click!満谷国四郎Click!吉田博Click!らが1901年(明治34)に創立した太平洋画会を母体としているが、そこへ習いにきている画学生には中村彝Click!大久保作次郎Click!、足立源一郎、野田半三Click!らが、彫刻部には中原悌二郎Click!や戸張孤雁らがいた。
 ちょうど明治末から大正初期は、欧米へ留学していた画家や文学者たちが続々と帰国し、新しい思想を日本へと伝えている真っ最中の時代だった。洋画界では安井曾太郎Click!有島生馬Click!らがヨーロッパからもどり、文学では島崎藤村が渡欧して、国内では阿部次郎らの評論誌「白樺」や初の女性誌「青鞜」が創刊されている。また、1909年(明治42年)に欧米をまわって帰国した高村光太郎は、父親Click!が推薦してくれた東京美術学校Click!の教職をことわって駒込にアトリエを建設している。
 高村光太郎がヨーロッパで描いた画面を見せに、新宿中村屋Click!裏の柳敬助Click!アトリエ(のち中村彝のアトリエClick!)へ立ち寄っているとき、小島善太郎は偶然にも自身の作品を手に柳敬助を訪ねている。そこには、柳敬助と高村光太郎のほか、太平洋画会研究所の先輩でデッサンの「王者」Click!と呼ばれていた、新宿中村屋へ転居してくる直前の中村彝も同席していた。
 小島善太郎は、太平洋画会研究所での勉強を通じて、数多くの先輩画家や同輩の友人たちと知り合うのだが、その中にポツンと女性の画学生がひとり混じっていた。この当時、女性が洋画を習うには、本郷菊坂町89番地の女子美術学校Click!や師と仰ぐ画家、たとえば岡田三郎助Click!の私塾などへ通うのが一般的だったが、彼女は男ばかりの同研究所に通っては絵を勉強していた。名前は長沼智恵子といい、すでに目白の日本女子大学Click!を卒業して、洋画を改めて習得しに同研究所へとやってきていた。
 小島敦子様Click!にいただいた、1992年(平成4)出版の小島善太郎『桃李不言』(日経事業出版社)に収録された「智恵子二十七、八歳の像」から引用してみよう。同エッセイは、1977年(昭和52)出版の『高村光太郎資料第6集』に掲載されたものだ。
  
 その中に一人の女性の居るのがひどく目立ち、年の頃二十五、六歳に見えた。背は低かったが、丸顔で色が白く華車(ママ:華奢)な体に無口で誰とも親しまず、唯人体描写を静かに続けていた。その画架の間からのぞかせた着物の裾があだっぽく目につくといった女性的魅力を与え乍らも、ひとたび彼女のそうした気風に触れると誰としても話しかける訳にはいかなかった。画に向っては気むずかしく、時には筆を口にくわえ画面を消したりもする。しとやかに首をまげたなり考え込んでいる時もあった。手は絵具で汚れたりしたのであろうに、絵具箱は清潔で女らしい神経が現れていた。/人体描写が昼までで終ると、さっさと道具を片付けるなり例の無口さで帰って行く。帰る時コバルト色の長いマントの衿を立てたなり羽被って、白い顔をのぞかせ、顔の上には英国風に結った前こごみの束髪が額七分をかくし、やっと目を見せていた。彼女はやや前に首をかしげて歩く----それがくせの様にとれ、我々に見られるのがいやなのか、歩くのが早くて消えて行く様であった。
  
日本女子大.JPG
日本女子大泉山潜心寮正門.JPG
日本女子大泉山潜心寮舎.JPG
 小島善太郎は、その真面目な性格から絵の勉強に集中しているようでいて、けっこう同窓のめずらしい女性を細かく観察していた様子なのが面白い。
 長沼智恵子は、一見おとなしめでもの静かな印象とは裏腹に、気性や感情の起伏が激しいせいか、あるいは癇性できわめてプライドが高かったせいか、太平洋画会研究所内で行われた制作コンクールで、同研究所の実質的なボスである中村不折のアドバイスを、まったく無視して聞かなかったようだ。小島善太郎も参加していた、年末に行われる制作コンクールで、長沼智恵子は人体の色を太陽6原色(赤、橙、黄、緑、青、紫)で描いていた。彼女は、特にエメラルドグリーンが好きだったものか、この日のコンクールに限らず、それまでも画面へ常に多用していたようだ。
 制作中の画面を見た中村不折が、「エメラルドグリーンは、いちばんの不健康色だ。不健康色はつつしまねばならない」と忠告したらしい。エメラルドグリーンのどこが「不健康色」なのか、いまの感覚からすると意味不明な言葉だが、長沼智恵子は首をかしげたまま、師の言葉になにも反応せず黙ったままでいた。そして、中村不折が背後からいなくなると、「このアカデミズム!」と思ったかどうかは不明だがw、エメラルドグリーンをこれまで以上に画面へ塗りたくりはじめている。
 明らかに、師への反感・反抗が直接爆発した瞬間であり、小島善太郎はことさら印象深くその場面を眺めていたのだろう。彼は、師がまだ教室にいるにもかかわらず長沼智恵子が不満を爆発させたのは、欧米から最先端の洋画表現や技法をもち帰っていた高村光太郎と、すでに知り合っていたからだろうと推測している。
長沼智恵子.jpg 長沼智恵子2.jpg
太平洋画会研究所跡.JPG
太平洋美術会研究所.JPG
  
 何時か彼女の姿は研究所内に見かけなくなった。「長沼智恵子は高村光太郎と結婚したそうだ。----」/その後になって、なる程と僕は肯いた。彼女はすでに高村光太郎との接触が始まっていたのであろう。研究所内での態度はそれを物語っていたかの様にとれたからである。/僕は長沼智恵子がどの位同研究所に籍を置いていたかは知らない。時々顔を見せていたかと思うと暫く来なかったり、僕も休んだりして年数は覚えてはいないが、印象だけは深く残っていた。/僕の智恵子に対する知識は以上の様なもので、何も持っていないと云う方が正しいだろう。言葉一つ交わした事もなし又年齢からも五六年の開きがあった。しかし光太郎と結婚したと言う事で印象が改まり又関心も深まった。そうした事で光太郎氏を訪ねようと思ったりしていたが遂に実現はしなかった。
  
 正確にいうなら、長沼智恵子と小島善太郎は6歳ちがいで、彼女が結婚した1914年(大正3)現在、長沼智恵子は28歳で小島善太郎は22歳だったはずだ。
 小島善太郎にいわせると、彼女はある意味で貴族的かつ高踏的な志向を備えており、画面には「土色」や「ヤニ色」などの色素をいっさい使わなかったところから、画法を深め精進をつづけるうちに、どこかでいき詰まり悩みぬいたのではないか……と、暗に想像している。同時に、夫の現代風(当時)な表現を傍らで見つめながら、「きれいさ」から抜けだせない焦燥感にとらわれたのではないか。
 長沼智恵子は、どちらかといえば夫の『智恵子抄』とともに、統合失調症を発症してからの「紙絵」づくりとその作品にスポットが当てられがちだが、日本女子大時代から洋画家をめざしていた彼女は、絵画になにを求め、なにを表現しようとしていたのだろうか。
長沼千恵子デッサン1908頃.jpg
長沼智恵子「ひやしんす」不詳.jpg
 おそらく、病気の発症は芸術的な焦燥のみでなく、さまざまな要因が重なることで起きていると思うのだが、発症する40歳までの作品に、その苦しみの跡は残されていなかったのだろうか。でも、数多く描かれたであろう彼女の絵画作品は、夫によって処分されたものか、あるいは散逸してしまったものか、現在では目にする機会がほとんどない。

◆写真上:1913年(大正2)に制作された、長沼智恵子『樟(くすのき)』。
◆写真中上は、日本女子大学の正門と成瀬記念講堂。は、長沼智恵子が入居して通っていた日本女子大学泉山潜心寮の正門と寮舎の1棟。
◆写真中下は、女学校時代()と1914年(大正3)ごろの長沼智恵子()。は、谷中真島町1番地の太平洋画会研究所跡。は、現在の太平洋美術会研究所。
◆写真下は、1908年(明治41)ごろに描かれた長沼智恵子の石膏デッサン。は、制作年代が不詳の長沼智恵子『ひやしんす』。

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めずらしい関東大震災ピクトリアル。(2) [気になるエトセトラ]

被服廠跡1923.jpg
 前回は、神田や日本橋、京橋、尾張町(銀座)といった(城)下町Click!の中心部の写真をご紹介Click!したので、今回はもう少し範囲を拡げてみよう。同様に、関東大震災Click!の写真ではあまり見たことのない画面をピックアップしてみたい。引用するのは、やはり大阪の関西文藝社が1923年(大正13)9月25日に発行した写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』と、小石川の歴史写真会が同年11月1日に発行したグラフ誌『関東大震大火記念号』の2冊からだ。
 まず、震災の被害が比較的少なかったはずの、小石川区大塚仲町にあった歴史写真会Click!が、なぜ編集を終えているにもかかわらず、すぐにグラフ誌を販売できなかったのか、その理由を読者に釈明する“社告”から引用してみよう。同社告は、1923年(大正12)11月1日に博文館印刷所から出版された、『関東大震大火記念号』第2巻の裏表紙に掲載されているものだ。
  
 本誌十月一日発行『関東大震大火記念号第一巻』は社員一同必死の努力を傾倒したる結果、幾多の貴重珍奇なる資料を蒐集することが出来、東京に於て印刷発行せられたる各種災害写真帖中の先駆を為すを得たのでありましたが、果然註文殺到又殺到の盛況を来し未だ製本工場より受渡しを了せざる間に奪ひ合いの有様となり、而も下町方面幾多の工場焼失の為め製本能率に大障碍を来し其の困難到底名状すべからず、常に責任観念の尊重を以て第一義と心得る社員一同は、各位の御註文に対し空しく送本を延滞せしむることに就き日夜腸九回の思ひを続けましたけれども、奈何せん災後日尚浅く諸事一として意の如くならず、殊に輸送機関の大故障は一層此の恨みを深くするに与つて力あるもので遂に彼の如き不結果を招くこととなりました。(以下略)
  
 当時の混乱していた印刷・製本事情や、壊滅した物流(取次配本)ルートの状況がうかがえる。10月1日に第1巻を発行したことになっているが、実際に読者の手もとにわたったのは、おそらく10月も半ばをすぎてからではないだろうか。
 自前で印刷・製本工場や配送ルート、自動車(トラック)などをのネットワーク持っていた被害の少ない新聞社や大手出版社は、かなり早めに写真集やグラフ誌を販売できているが、中小の出版社は印刷・製本の手配さえままならず、せっかく印刷・製本が完了して社屋に運びこんでも、今度はそれを書店に配本する手段が見つからないような状況だった。また、通信販売では郵便が壊滅的で深刻なダメージを受けているため、郵便物の行方不明や配達遅延、郵便局員の行方不明が多く発生していた。
 郵便を統括する逓信省は、9月5日から預貯金の支払いを再開しているが、郵便業務は混乱をきわめていた。切手やはがき、封筒、便箋などが焼失してしまったため、メモのような紙きれやタバコの箱、布きれ、手拭い、ハンカチ、着物の端ぎれ、手袋などに文面と宛先を書いたものが郵便局に持ちこまれ、そのまま地方へ配達されるか、電報で文面を各地に配信している。特に無料化された災害電報が混雑をきわめ、おもに焼け残った乃手の郵便局前には長蛇の列ができている。
 さて、まずは歴史写真会の同誌から巻頭の人着写真を見てみよう。冒頭の写真は、本所の被服廠跡地で撮影されたもので、震災からいくらか日数がたったころのものだ。中央に築かれた山は、大川(隅田川)沿いで遮蔽物がなかった同廠跡地に避難し、大火流Click!に巻きこまれて死亡した38,000人の遺骨の一部で、画面の右手では骨壺に遺灰を収める気の遠くなるような作業が行われている。背後には濃い煙が漂っているので、いまだ遺体を焼却している最中なのだろう。
上野駅前1923.jpg
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上野広小路1923.jpg
田端駅1923.jpg
 同誌の2巻は、震災から1ヶ月半が経過したころ編集されているので、被災地の後片づけや避難者・避難地の状況、大杉事件(甘粕事件)Click!などを記録しているが、関西文藝社の写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』は震災直後の避難場所や、大火災をとらえたものが多い。特に、避難者が殺到して身動きがとれなくなった上野駅前や上野公園、浅草公園などを撮影している。
 上野のある下谷区では、上野松坂屋付近から出火した火災が北西にある東京帝大方面へと延焼し、本郷3丁目から新谷町、団子坂、白山、日暮里、そして南千住まで拡がって、ほとんどの住宅を焼きつくした。また、浅草方面から避難してきた人々と下谷の避難民が上野駅前に詰めかけ、身動きがとれなくなったところへ延焼が迫り、多くの死者を出している。上野駅前の人々は、火災から逃れようと上野山へ避難し、上野公園から道灌山、谷中墓地まで避難民であふれ返った。上野から谷中までの避難民数は不明だが、少なくとも30~40万人ではないかと推定されている。
 関東大震災で家をなくした罹災者は、100万人をゆうに超えるといわれているが、そのうちの8割近くが10日以内に地方へ疎開(帰郷)している。一方、故郷のない江戸期からの住民を中心に2割以上が、市内の大きめな公園や広場、寺社の境内などで避難生活を送ることになった。また、市街地にあった大使館や公使館の外国人たちも、避難者に混じってテントやバラックで生活をする姿もめずらしくなかった。
浅草公園1923.jpg
浅草1923.jpg
麹町区東京電燈有楽町1923.jpg
東京府庁・登頂市庁舎1923.jpg
 上野公園から道灌山、谷中墓地の界隈はかろうじて焼け残ったが、浅草公園は一度全焼しているものの、火災が収まると敷地が広かったせいか、周辺の被災者たちが次々ともどってきて避難街を形成している。浅草寺は本堂と五重塔、仁王門を残しほぼ全域が火災により焼失した。ここでも延焼は北側へと広がり、吉原から三ノ輪方面(現・千束界隈)はほぼ全滅している。特に吉原遊郭では、茶屋や妓楼がすべて倒壊または炎上し、塀に囲まれて外へ逃れられない娼妓たちや、吉原遊郭に勤めていた人々千数百名が、焼死または溺死している。その様子を、関西文藝社の同写真集から引用してみよう。
  
 吉原方面は一軒も残らず全部崩壊焼き払はれ全町の娼妓、娼夫、住民は命からがら裏手の公園に辿りついたが火は忽ち公園に及び千数百名は附近の池に飛び込み全部溺死を遂げた、こゝを脱れた数万は何れも市外へ遁げるべく迂回して両国橋を渡り寺島を経て千葉県、茨城県方面へ一進一退見るも哀れの状態で避難した。
  
 文中で「千数百人」としているが、吉原弁天池で溺死した娼妓は500名弱、残りの死者は遊郭内に住んでいた、または勤めていた人々の圧死や焼死も含まれている。
 関東大震災では被害が少なかった、おもに乃手のターミナル駅である田端駅や飯田町駅、新宿駅、品川駅、日暮里駅などから次々と避難列車で、実家のある故郷や出身地方へと帰る人々の流れが、何日も途切れることなくつづいた。自身が住んでいた被災地や地域に踏みとどまり、江戸東京の地付きの住民とともに進んで復興へ尽力した人たちは、はたしてどれほどいたのだろうか?
 関東大震災では、あらかた震災被害が片づいて落ち着き、復興が進んでから東京へもどってきた人々が圧倒的に多かった。つまり、震災の後片づけや被災地の救援という、いちばんたいへんで負荷の高いやっかいな作業フェーズは丸ごとパスして帰郷し、それが済んでから再び東京地方へとやってきた、「美味しいとこ取り」だけが目的の連中だ。自分たちの故郷が災害にみまわれ、その地で「わたしの故郷は東京地方だからさ、もう帰るね。じゃ、あとはよろしくね」と、さっさと引き上げる東京人がいたとしたら、地元で被災した人々はその姿に、いったいどのような感慨を抱くだろうか?
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被服廠跡納骨堂1923.jpg
 これは、1945年(昭和20)の東京大空襲Click!直前でも見られた現象だし、特に寺や墓地を守らず、さっさと「本山」に帰郷し、逃亡していった坊主Click!にもからめて書いたことだが、もしも近未来に同様の事態が起きたとしたら、「大江戸(おえど)の恥はかきすて」Click!とばかり尻に帆かけて逃げ出したりせず、ぜひ踏みとどまって街の再興に向け協力・支援をしてほしいものだ。それが、この街で暮らして生活し、さまざまなコミュニティやサービスの恩恵を受けていたことに対する、最低限の礼儀礼節というものだろう。
                                <つづく>

◆写真上:被服廠跡で焼却をつづける遺体から出た、遺骨の山と骨壺への収納作業。
◆写真中上:『震災情報/SHINSAIJYOHO』(関西文藝社)より。からへ、下谷地域と浅草地域から避難民が殺到した上野駅前、消息を訊ねる紙が貼られた西郷像と上野公園、全焼した東京市電の残骸が残る上野広小路、田端駅から地方へもどる避難民たち。
◆写真中下からへ、一度は焼けた浅草公園へ再び避難してきた人々、余燼がくすぶる全滅した浅草六区界隈、震災直後に東京電燈本社(有楽町)から出火した様子、東京府庁・東京市庁(合同庁舎)前に集まった貼り紙を見る被災者たち。
◆写真下:『関東大震大火記念号』(歴史写真会)より。からへ、ほぼ壊滅した幕末の疎開地以来のオシャレな西洋館街だった築地、震災直後に出火した丸ノ内界隈、膨大な死者を荼毘にふす被服廠跡、臨時のバラック納骨堂ができた被服廠跡。

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めずらしい関東大震災ピクトリアル。(1) [気になるエトセトラ]

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 少し前の記事で、関東大震災Click!を記念する「贈物」や「土産」として、被害をあまり受けなかった出版社や東京地方以外の出版社から刊行された、グラフ誌や写真集をご紹介Click!した。そこには、当時の新聞社が撮影した現在でもよく知られ、引用されている写真とは別に、これまで見たことのない写真が数多く掲載されている。また、新聞や新聞社発行のグラフ誌などによって報道された同一の被害箇所の写真でも、別角度から撮影されたものが多く、いまでは貴重な資料と思われる画面も少なくない。
 本日から、東京市街地とその周辺域の多くが壊滅した、関東大震災のあまり見たことのない、めずらしい写真類を少しずつご紹介していきたい。まずは、大阪市東区大川町に社屋を構えていた、関西文藝社が1923年(大正12)9月25日(実際は11月1日だと思われる)に発行した、写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』掲載の写真類から見ていこう。
 まずは、同写真集の序文から少し引用してみよう。
  
 大正十二年九月一日の正午――丁度十二時前頃俄然関東地方に大地震起り、一揺れ、又一揺れと間断なく震動し、其の被害の及ぶところ東京、横浜に於ては激震とともに大火災を起し加ふるに海嘯(つなみ)の襲来をうけ家屋の破壊、倒潰、焼失、流失算なく人畜の死傷者数十万を数へ、両市五十年の文化は一朝にして一望唯荒寥たる焼野原と化し、交通々信の機関杜絶し水道断絶して消防の途なく幾百万の罹災者は喰ふに食なく住む家なく光景惨憺酸鼻の極に達し、沼津、熱海地方は市中の大地亀裂して熱湯を噴出し、駿河町の如きは実に全町全滅の惨を見るに至り、伊豆、相模、安房、上総一帯の被害最も甚だしく家屋の倒壊流失、人畜の死傷無数、鉄道は鉄橋の墜落、トンネルの崩壊せし処数多、列車の転覆せしものもあり、電話電信線は切断され、帝都を中心に他地方との通信交通全く杜絶せり、其の他海上にありては船舶の沈没流出数知れず、其惨状言語に絶す、
  
 「五十年の文化」と書かれているけれど、横浜はともかく、室町期の太田道灌による江戸城Click!を中心とした城下町Click!を含む、600年にものぼるこの街の歴史と「文化」はどこに仕舞いこんじまったんだい?……と突っこみたくなるのが、大阪らしい執筆者の表現だ。だが、少なくとも江戸時代からつづく残り香の多くが、関東大震災を境に消滅してしまったのはまちがいない。
 さて、同写真集の巻頭に挿入されているのが、モノクロ画面に人着をほどこした炎上する日比谷の警視庁だ。添え書きによれば、人着をほどこしたのは大阪の安藤製版所というところらしい。この写真自体は何度か見たことはあるが、人着されたものは初見だ。消防車が3台出動しているが、内濠の水を汲みあげる態勢でいるものの、消火はあきらめたものか放水は行われていない。
大火災1923_1.jpg
大火災1923_2.jpg
大火災1923_3.jpg
 つづいて、瓦礫の山と焦土と化した日本橋界隈の写真も、これまで目にしたことのないものだ。どのあたりを写したものかは、おそらく執筆者が大阪人のために特定できていない。ひょっとすると、記者に同行したカメラマンも、大阪の写真館から東京へ出張しているのだろうか。同写真に添えられたキャプションから、その一部を引用してみよう。
  
 京橋を渡ると第一相互と星が対立して外形だけを止め、此辺一帯が焼けたのは二日午前一時頃、道路の木煉瓦は焼けこげてデコボコである、丸善は滅茶滅茶に潰れ、白木屋は影も形もなく、日本橋は破損を免れ、橋畔の森村銀行、村井銀行、国分商店、大倉書店等の大建築も全部烏有に帰し、魚河岸と青物市場は惨憺たるもので河岸には子供を背にした女や男の死骸が数十浮いてゐる、河岸は焼かれ船で一ぱいになつてゐる、三越の焼けたのは一日夜八時 三井物産、三井銀行は全焼して形骸だけを止めてゐる。
  
 「第一相互と星が対立」の「星」は、こちらでも何度か媒体広告をご紹介している星製薬Click!の社屋だ。また、300年以上つづいてきた日本橋魚河岸Click!は、このとき芝浦河岸へと臨時移転している。日本橋区で焼け残ったのは、3階が延焼したもののなんとか消し止めた、ほとんど日本銀行1棟のみだった。このとき、地下にあった準備金(当時は金本位制復帰を準備中)や未発行紙幣、補助貨幣は焼け残り、東京復興に大きな役割を果たすことになる。
 京橋や銀座、築地地域が炎上したのは日本橋よりも早く、一日の午後から西南の風にあおられて東西に拡がり、中央新聞社や電報通信社(電通)、国民新聞社、時事新報社、実業之日本社、カフェパウリスタ、東京朝日新聞社などを全焼して、銀座・有楽町界隈は全滅した。大橋(両国橋)からは火災が拡がらなかったが、永代橋Click!が炎上して対岸への“導火線”のような役割をはたし、深川区も全滅のありさまだった。特に火災に囲まれて逃げ場を失った、月島や越中島、木場、洲崎地域に多くの死者が集中している。
警視庁1923.jpg
日本橋1923_1.jpg
日本橋1923_2.jpg
銀座通り1923_1.jpg
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 神田区は、神田三崎町と一ツ橋から出火した火災が延焼し、下谷(現・上野)方面からの火災と挟み撃ちにあい、神田川沿いの一部地域を残してほぼ全滅した。同誌のカメラマンは、多くの報道カメラマンと同様に、壊滅した万世橋駅前の“広瀬中佐と杉野上等兵曹”Click!の銅像をカメラに収めている。同写真のキャプションより、引用してみよう。
  
 万世橋駅は赤煉瓦と鉄骨を残し広瀬中佐の銅像がひとりポツネンと須田町の目標となつてゐる、名物のニコライ教会も内部は焼け外部だけが残つてゐる、最も災害の甚だしかつたのは神保町、小川町で神保町交叉点には地震で死んだ死骸を電車道に並べたまゝ後の火災で焼いてしまつた、神田橋も一つ橋は焼け落ち、商科大学の一部と如水会館、女子職業学校は火災を免かれた。
  
 大震災の約1ヶ月後に東京市がまとめた統計では、各区の死傷者は次のとおりだ。
関東大震災死傷者.jpg
 この中で、本所区がケタちがいに多いのは、被服廠跡地Click!に逃げこんだ人々38,000人が大火流Click!に巻きこまれて焼死しているからだ。また、東京大空襲Click!時の一家全滅や親戚一族全滅、隣り近所全滅、東京にやってきた人間関係が希薄な若い単身者の罹災ケースなどと同様に、今日にいたるまで行方不明者の実数が把握できず、実際の死者は東京市だけでも10万人に近いのではないかとみられている。
京橋1923.jpg
肴河岸1923.jpg
日比谷交差点1923.jpg
日比谷公園付近1923.jpg
万世橋駅1923.jpg
 上野の竹ノ台陳列館でスタートした二科展では、大震災の揺れとともに多くの絵画や彫刻が落下して破損した。(冒頭写真) 二科の東京展は即日中止され、破損・破壊をまぬがれた作品のみを集めた大阪展が、10月に入って開催されている。
                                <つづく>

◆写真上:上野竹ノ台陳列館で、9月1日にはじまったばかりの二科展の惨状。
◆写真中上:下志津の陸軍飛行学校から飛び立った飛行機が、関東大震災が発生した直後の東京市街地を上空から撮影している。大火災の焼煙で街並みがよく見えず不明だが、いちばん下の写真は湯島から御茶ノ水の外濠あたりだろうか。いずれの写真も、大日本雄弁会講談社が発行した『大正大震災大火災』より。
◆写真中下:以下、いずれも関西文藝社から発行された写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』、および歴史写真会のグラフ誌『関東大震大火記念号』より。からへ、炎上する丸ノ内の警視庁(人着)、焦土の日本橋(2枚)、全滅の銀座通り(2枚)。
◆写真下からへ建物倒壊が多かった京橋から銀座、数寄屋橋西の肴河岸・山城河岸から見た日比谷炎上、日比谷交差点付近の惨状(2枚)、壊滅した万世橋駅前。

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カルピスの三島海雲がいたお化け屋敷。 [気になるエトセトラ]

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 カルピスが好物だった中村彝Click!のせいで、こちらでも創業者の三島海雲Click!と絡めて何度かカルピスClick!を取りあげてきた。わたしは学生時代、その三島海雲が住んでいた家の前を、それとは知らずに1年近く何度も毎日往復していた。学生時代にアルバイトをしに通っていた会社が、新宿区の信濃町にあったのだ。
 わたしのバイト先は信濃町駅前から北へ少し歩き、右折して東へ300mほど歩いたところにあった。その道すがらの右手には、CBSソニーの大きな録音スタジオがあったのだが、その斜向かいにボロボロになったお化け屋敷のような西洋館が、樹木に囲まれてひっそりとたたずんでいた。そのときは、「このへんは、めずらしく空襲にも焼け残ったんだな」ぐらいの感慨しか持たなかったのだけれど、このお化け屋敷こそが「デ・ラランデ邸」であり、1956年(昭和31)から三島海雲が暮らしていた家だったのだ。
 アルバイト先の企業は、スーパーマーケットのさまざまなPOPやチラシをデザインして印刷し、それを店舗ごとに仕分けして発送する業務を行っており、わたしは印刷室から上がってきたばかりのPOPやチラシを、リストにもとづいて首都圏に展開する店舗ごとに仕分けする仕事をしていた。コーヒー専門店のカウンターClick!業務に比べたら、はるかに単調で考えたり工夫したりすることも少なく、休み時間にはストレス解消と気分転換のために、デ・ラランデ邸の東側に隣接していた公園で、よくアルバイト先の社員たちと野球やキャッチボールをしたものだ。
 投げたり打ったりしたボールが、細い道路をはさんだ同邸の敷地へ飛んでいったことも何度かあった。そんなときボールを拾いにいくのは、ジャンケンで負けた人が探しにいくことになっていた。誰もが、なにが出てくるかわからない、不気味な幽霊屋敷の敷地へなど入りたくなかったのだ。わたしはジャンケンが強かったので、ボールを探しにいったことは一度もなかったように思うが、いまから考えるとジャンケンなどせず、自ら進んで敷地内にボールを探しにいけばよかったと、心底後悔している。建物をすぐ間近から、ハッキリと仔細に観察できたからだ。
 デ・ラランデ邸の前身が建てられたのは、1892年(明治25)ごろとみられているが、当初は平家建ての住宅で物理学者で気象学者の北尾次郎が住んでいた。その家を、日本で設計事務所を開業していたドイツ人建築家のゲオルグ・デ・ラランデが、1910年(明治43)ごろ全面的に設計しなおし、木造3階建ての大きな西洋館へとリニューアルしたとされている。当時の西洋館では一般的だった下見板張りの外壁に、スレート葺きのマンサード屋根が特徴的な、お化け屋敷とはいえ美しい意匠の西洋館だった。ただし、デ・ラランデはあくまでも北尾家の借家人であり、その後の研究によれば正確には「北尾次郎邸」と表現しなければ誤りのようだ。
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 デ・ラランデは、1910年(明治43)に同邸を改築したとすれば、1914年(大正3)に東京で肺炎が悪化して死去しているので、わずか3年余しか住まなかったことになる。彼の死後、妻が子どもたちを連れてドイツに帰国してしまうと、同邸は北尾次郎とその遺族が所有したまま、さまざまな住人が入れ代わり立ち代わり暮らしたようだ。そして、1956年(昭和31)に三島海雲が同邸を買収すると、1974年(昭和49)に彼が死去するまで暮らしている。三島の死後は、三島食品工業(カルピス)の事務所として1999年(平成11)まで使われていた。わたしがアルバイトで同邸の前を往来していたころは、カルピスの養蜂部門のオフィスとして機能していたことになる。
 そのころのデ・ラランデ邸は、近所からお化け屋敷と呼ばれても仕方がないほど傷んでいて、暗くなってから前を通ると独特な雰囲気を周囲へ発散していた。下落合の西洋館がいくら古いといっても、大正期から昭和初期の建築なので、どこかハイカラで明るい雰囲気を漂わせているのに対し、明治建築の同邸はよくいえば重厚、悪くいえば重苦しい気配を一帯にふりまいていたような記憶がある。
 それは、同邸を包むように大きく育ってしまった屋敷林の陰影が、より暗い雰囲気を演出していたせいなのかもしれないけれど、たとえば同時代に建てられた、よく手入れのゆきとどいている大磯Click!の西洋館などと比べてみると、いまにも朽ち果てそうな、廃屋へ一歩手前のような風情は、なにやら見てはいけないものを見てしまったような気がして、わたしには不気味な印象だけしか残っていない。同邸がついに解体されたと聞いたのは、前世紀の末ごろだったろうか。
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 それから長い歳月が流れ、学生時代のアルバイトをしているときに見た風景など、とうに記憶の片隅から消えてしまいそうになっていたとき、わたしは再びこの西洋館を目にすることになる。2013年(平成25)に、小金井にある江戸東京たてもの園に同邸が復元されたというニュースを、添付された美しいカラー画像とともに知った。最初、復元された同邸の写真と、信濃町にあったお化け屋敷の印象とがあまりにもかけ離れているので、かなり意匠を変えた復元なのではないかなと疑ったが、実際に復元された同邸を近くで眺めてみると、確かに信濃町に建っていたころのファサードと同じなことがわかった。
 これはあとで知ったことだが、信濃町に建っていたデ・ラランデ邸は昭和期にかなりの増改築が行われており、江戸東京たてもの園に復元された同邸は、できるだけ1910年(明治43)に大改築された当初の姿にもどして復元されたようだ。だから、わたしの学生時代に見た同邸の印象と、江戸東京たてもの園のそれとが大きく乖離しているように感じたのだろう。
 また、同邸は園内の日当たりのいい場所に復元されており、信濃町で屋敷林に囲まれて建っていたころの薄暗い風情と、まるで180度異なる環境なのも大きな違和感をおぼえた要因なのかもしれない。しかも、同邸の1階はテラスまで含めてカフェが開店しており、まるで繁華街の店舗のような賑わいを見せていた。
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 わたしが同邸の前を往来していた1981年ごろ、門前には「カルピス」を想起させる表札や看板などは、特になかったように思う。あれば、すぐに気がついていたはずだ。どこかに「三島食品工業株式会社」のプレートはあったのかもしれないが、やはり野球のボールを取りにいくのさえちょっと怖い、いまにも朽ち果てそうなお化け屋敷と「初恋の味・カルピス」とは、どうしても結びつかなかったにちがいない。

◆写真上:1980年代の撮影とみられるデ・ラランデ邸だが、もっと薄暗い印象だった。
◆写真中上は、1947年(昭和22)と1975年(昭和50)撮影の空中写真にみる同邸。1975年の時点では、邸の東側に野球ができるほど拡張された「もとまち公園」が存在していない。は、2013年(平成25)に江戸東京たてもの園で行われた復元工事。
◆写真中下:江戸東京建物園に復元された、デ・ラランデ邸内部の様子。三島食品工業の時代とは、かなり異なる意匠で復元されているとみられる。
◆写真下は、わたしがバイトで通っていた少し前の1979年(昭和54)に撮影された同邸。もとまち公園が東側に拡がり、わたしたちはここで昼休みにキャッチボールや野球をしていた。は、1階にカフェが入る復元された同邸の外観。

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