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下町と山手の用法がゴチャゴチャする件。 [気になるエトセトラ]

歌舞伎座場内.JPG
 「下町」という言葉が、城下町をちぢめた用語であることは、ずいぶん前に江戸期からつづく江戸東京語のひとつであることを、三田村鳶魚(えんぎょ)Click!の証言としてご紹介したことがある。江戸東京地方では、まだるっこしい言葉はどんどんちぢめて発音されるので、別の地方の人が誤解することも多い。
 たとえば水道(すいどう)は「すいど」Click!と読まれ、それでも長いので「いど」と略されて呼ばれていたため、江戸の街中に乃手にあるような井桁が組まれた、地下水の井戸が登場するおかしな時代劇も少なくない。江戸市街地で井戸を掘っても、塩分を含む水が湧いて飲用に適さなかったから、ほぼ100%の水道網Click!の普及が幕府の大きな課題となったのだ。江戸期から白木屋の井戸や佃島の井戸が有名だったのは、めずらしく真水が湧いてしょっぱくはなかったからだ。
 ちょっと余談だけれど、先日、佃島の丸久Click!の主人と長話をしてたら、このところ佃島の井戸に塩分が混じりはじめてしょっぱくなり、生活水には適さなくなってしまったというのを知った。石川島の高層マンションや、月島に増えはじめたビルの杭打ちで、地下水脈の形状が変わるか、地層の破壊で海水が入りこんでしまったのではないかと思う。(城)下町にはめずらしい400年来の井戸だけに、たいへん残念なことだ。
 ちぢめ言葉の話をつづけよう。清元や常磐津、長唄などの三味Click!、あるいは茶道や華道、能、詩吟、踊りなどのお師匠さんも、「おししょうさん」などとは呼ばれずに「おっしょさん」あるいは「おしょさん」となり、師弟関係が親しくなるとついには「おしさん」と略されて呼ばれるようになる。「おしさん」を、江戸東京へ布教や商売(病気平癒の祈祷や巫術)にやってきた三峯講や大山講、富士講などの修験者や霊山ガイドの「御師」Click!と勘ちがいした時代劇もどこかにありそうだ。真剣で「真面目なこと」が、江戸芝居の世界で「マジ」Click!と略されたことはすでに書いた。
 「(城)下町」と「(山)乃手」が、あたかも海外の街のように、平地と丘陵地帯を表すダウンタウン(平地)やアップタウン(丘陵地)とほぼ同義でつかわれるようになったのは、おもに明治期以降のことだろうか。「(城)下町」は本来、「(山)乃手」を含む旧・大江戸(おえど)市街地(旧・東京15区Click!)の概念であり、「下町」は「山手」の対語ではない。それが、いつの間にか海外の街並みを表現する用法にならい、平地が「下町」で丘陵地が「山手」としてつかわれるようになっている。
 だが、少し考えればわかることだが、いわゆる山手にある江戸期からの町々のことを、そこに住む地付きの人たちは誰も乃手だとは思ってはいない。神田(旧・神田区エリア)の半分は丘陵地帯だが、岡本綺堂Click!が「銭形平次」の舞台に選び、神田明神Click!のある一帯を江戸期からの地付きの方は、誰も山手だと思ってやしないだろう。同様に、江戸期や明治期から江戸東京(というか日本)を代表する商業地として発達した、日本橋や京橋・尾張町(銀座)のことを誰も山手とは呼ばないのと同様だ。地形がどうであるにせよ、それとは無関係に神田も日本橋も京橋・銀座も(城)下町だ。
 うちの義父は麻布出身(ちなみに江戸期からの龍土町でも六本木町でもない)だが、チャキチャキの町っ子だった。わたしの家によく遊びにきては、家庭麻雀を楽しんで1週間ほど泊っていったが、典型的な下町の雰囲気を漂わせていた。逆に、根っからの下町である日本橋育ちの親父のほうが、謡(うたい)Click!をやるなど乃手人のような趣味をしていたので、このふたりの性格は合わなかった。東京弁も、義父のほうは江戸の少し品のない職人言葉の流れをくんだざっくばらんな町言葉(いわゆる「べらんめえ」)だったが、親父は江戸期からの商人言葉をルーツとするていねいな(相対的にきれいな)東京弁下町言葉を話すので、どっちが「下町」っぽいのかわからないふたりだった。
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 私立の麻布中学校に通うようになって、初めて(城)下町人と接したときの驚きを書いたエッセイがある。今年(2019年)の7月14日に日本経済新聞に掲載された、古典芸能評論家の矢野誠一『東京やあいッ』だ。少し引用してみよう。
  
 麻布中学に入って、私は初めて東京は東京でも、下町育ちの友達を知ることになる。彼ら下町育ちは、幼い頃から親の手に引かれ、芝居小屋や寄席の木戸をくぐり、相撲や洲崎球場の当時は職業野球と称していたプロ野球観戦などを体験していた。ごくたまに、文部省推薦の健全きわまる映画を観せてくれた、山の手の素堅気のサラリーマン家庭に育った身には信じかねることだった。/彼らはふだんの会話でも、下町特有の生活環境をうかがわせてくれた。中学生の分際で、/そりゃきこえませぬだの、絶えて久しき対面ですなとか、/遅なわりしは手前が不調法/などと芝居や浄瑠璃の文句が、ぽんぽんとび出すのだ。そんな下町育ちの手引きで、放課後の肩鞄を提げたまんまの格好で、盛り場をうろつき、映画館や日本劇場、国際劇場のレビューをのぞくことを覚えた。
  
 矢野誠一は、「山の手の素堅気」などとユーモラスな表現をしているが、「すっかたぎ」は東京弁の下町言葉であって山手言葉には存在しない。
 著者の故郷は代々木八幡(旧・代々幡町代々木)だが、位置的にいえば落合地域と同様に山手線に接した内外地域は、大正期以降に住宅地が拓かれた新山手(新乃手)ということになる。中学生の当時、麻布という地域を「下町」ととらえていたのか「山手」ととらえていたのか、それとも(城)下町=旧・市街地という意味で下町ととらえていたのかは曖昧だが、少なくとも義父にいわせれば山だらけの麻布地域は、江戸からつづくれっきとした由緒正しい下町の認識だったろう。
 いつか、不用意に「日本橋や銀座は下町じゃないですよ~」などといったら、誇り高い下町人の岸田劉生Click!「バッカ野郎!」Click!とぶん殴られると書いたが、義父もまったく同じ感覚をしていたにちがいない。第一師団へ入営前の学生時代にはボクシングが趣味だったと聞いたので、義父の前で「麻布は下町じゃないですよ~」などといったら、マジにカウンターパンチが飛んできたかもしれない。
 つまり、海外の都市で見られるダウンタウンとアップタウンの関係と、東京の(城)下町と山手との関係は、少なくとも親の世代まではそこに暮らす住民の意識からして、まったく異なっている地域も少なくなかったのだ。そこには、「農工商」に寄生して生きる「士」に対する、「人が悪いよ糀町(麹町)」(町人からの借金を踏み倒す大旗本が住んでいた地域)に象徴される、江戸期からの階級的な反発の残滓もあったろうし、明治以降しばらくすると旧・幕臣たちClick!が続々と(城)下町にもどりはじめたとはいえ、丘陵地帯(用法がアップタウン化して混乱しはじめた「山手」)には地元民ではない人間が入りこみ威張り散らしているという反感が、少なくとも薩長政府(大日本帝国)が破産・滅亡する1945年(昭和20)までの77年間Click!、底流として執拗に連綿とつづいていたのかもしれない。
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 さて、うちの親はわたしが子どものころ、芝居(歌舞伎・新派・新国劇など)に寄席、都内の神社仏閣や名所旧蹟はほとんど連れまわしてくれたが、相撲は母親がキライで出かけず、プロ野球は親父がまだるっこしくて好まず観戦にはいかなかった。母親は、むしろ「文部省推薦の健全きわまる映画」(要するにつまんない映画)と怪獣映画Click!は見せてくれたが、夏になると『トゥオネラの白鳥』や『悲しきワルツ』(ともにシベリウス)を聴いている、おしなべて乃手人らしい趣味Click!をしていた。
 麻布出身で下町娘だった向田邦子Click!の母親は、正月になると来客の接待に駆り出される娘を哀れでかわいそうに思い、父親には内緒で遊びに逃がしてClick!くれたことがあった。下町の娘は、正月は外出して初詣のあと、街へ遊びに繰りだすのがあたりまえだったが、「山手」の一部では「おっかない父親Click!のもとに家族全員が集合してないと許されない家が多かったようだ。この「怖い父親」という概念も、たとえば日本橋育ちの小林信彦Click!にしてみれば、とうてい信じられない存在だった。
 矢野誠一『東京やあいッ』は、いわば新山手の眼差しから見た(城)下町人(旧・山手人含む)の姿だが、どこか乃手人の永井荷風Click!から見た(城)下町地域に通じる眼差しを感じる。矢野誠一『東京やあいッ』から、もう少し引用してみよう。
  
 世にいう江戸っ子気質、いなせな生活は、東京の下町にその威を見出してきた。山の手は地方から侵入してきた部外者によって構築された、言ってみれば植民地のようなものだった。/一九六四年の東京オリンピックは、その後の東京の町をすっかり様がわりさせてしまった。私たちが子供の頃を過ごした東京とは、およそ肌合のちがった東京に生まれ変ってしまったのである。気がついてみれば、風景、風俗、言語、文化、趣味嗜好、すべての面でかなりはっきりとしてあった、下町と山の手との生活習慣のちがいが失われてしまった。世の中みんな一色化していくこの国の傾きぐあいに、我らが東京も追従しているのがつまんない。
  
 「つまらない」ではなく「つまんない」と、東京方言の下町言葉をここでもう一度つかう著者だが、1964年(昭和39)の東京オリンピックが、そしてついでに同時期に行われた愚劣な町名変更Click!が、旧・大江戸市街地に当時まで連綿とつづいていたコミュニティを、次々と打(ぶ)ちこわしClick!ていったという認識は、わたしもまったく同感だ。
 だが、わたしはそれほど悲観はしていない。東京の風景は関東大震災Click!東京大空襲Click!、そして東京オリンピック1964Click!で破壊されたが、江戸東京地方ならではの風俗Click!言語Click!文化Click!趣味嗜好Click!は想像以上に根強くて根深く、かなり頑固に残りつづけている。換言すれば、それが残り守られつづけているからこそ、いまだ「江戸東京らしさ」がどこかで連綿とつづいているのだし、風景でさえ変革(復元)Click!していこうというモチベーションにつながっているのだと思うのだ。  
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歌舞伎稲荷大明神.JPG
「素堅気(すっかたぎ)」で思い出したが、いつかTBSの男性アナウンサーが千住の小塚原を「こづかはら」と読んだのを聞いて、思わず噴きだしてしまった。幕府の処刑場があり、杉田玄白が腑分けを行なった地名は「こづかっぱら」だ。噴きだすのとは逆にキレたのは、テレビ東京の女性アナが日本橋のことを「にっぽんばし」と読んだので、劉生ではないが思わず「てめぇ、もいっぺんいってみろ、バカ野郎」(職人言葉で失礼)とTVに向かって話しかけてしまった。w 地元のTV局であるテレビ東京が、江戸東京の中核であり日本の五街道の起点にある地名をまちがえるとは、心底、恥っつぁらしで情けない!

◆写真上:歌舞伎座が建て替えられた2013年(平成25)以前の、懐かしい4代目・歌舞伎座の場内。先年の秋、久しぶりに歌舞伎座を訪れたが、なぜか季節外れの黙阿弥Click!『三人吉三巴白浪』Click!(さんにんきちさ・ともえのしらなみ)を演っていた。最近、人気芝居なら季節には関係なくいつでも上演するのだろうか?
◆写真中上は、2019年7月14日に日本経済新聞に掲載された矢野誠一のエッセイ『東京やあいッ』。は、麻布中学の友人は上方の浄瑠璃か芝居、あるいは落語が趣味だったものだろうか、「そりゃきこえませぬ伝兵衛さん」の『近頃河原達引』(ちかごろかわらのたてひき)に登場する与次郎の文楽人形Click!
◆写真中下は、「絶えて久しき対面に~」の『仮名手本忠臣蔵』五段目で、千崎の3代目・市川左団次(右)に勘平の3代目・尾上松緑(左)。は、上方落語の『七段目』でも登場する「遅なわりしは不調法」の『仮名手本忠臣蔵』七段目。7代目・尾上梅幸のおかる(左)に、3代目・坂東寿三郎の由良助(右)。
◆写真下は、『仮名手本忠臣蔵』八段目で由良助の8代目・松本幸四郎や本蔵の2代目・市川猿之助などが見える。は、1955年(昭和30)ごろ撮影の山科大石閑居跡。は、歌舞伎座にある歌舞伎稲荷大明神の社(やしろ)にお詣り。
おまけ
「そりゃ聞えませぬの伝兵衛さん」でフテ寝するうちのネコで、仔ネコだったのが大型化して座布団からはみ出す最近のオトメオオヤマネコ(♀/2歳/御留山出身)。
伝兵衛さん.jpg

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雑司ヶ谷地域の関東大震災。 [気になるエトセトラ]

目白駅付近より東京市街地19230901.jpg
1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!については、わが家の伝承も含め、これまで市街地の被害に関する数多くの記事を書いてきた。また、地元の落合地域はもちろん、隣接する高田町(現・目白)や戸塚町(現・高田馬場/早稲田)、野方町(現・上高田/江古田)などの資料からも、震災直後の街の様子を取りあげてきた。ついこないだも、新宿地域の淀橋台の揺れClick!について記事にしたばかりだが、今回は高田町の北東側に位置する、雑司ヶ谷の震災当時の様子を書いてみたい。
 雑司ヶ谷における関東大震災時のエピソードは、少し前に地震による延焼で全滅した洲崎遊郭から脱出し、楼主たち追手から逃れるために、鬼子母神参道前の雑司ヶ谷の交番へと駆けこんだ娼妓たちのエピソードClick!をご紹介している。その記事で、事件の経緯を記録していた資料として、同年10月1日に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)から引用しているが、地元の高田町の資料では関東大震災に関する記述がほとんどないことにも触れている。
 たとえば、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)では、関東大震災の記述はわずか5行弱にすぎない。同書より引用してみよう。
  
 突如、九月一日、関東地方に大震火災の事変あり、幸に此の町は其の災禍を免かれたが、東京市中は殆んど全滅の姿となり、避難し来るもの夥しく、町は全力を傾倒して、之が救済に努めた。爾来、この町に移住者激増し、従つて家屋の建築も増加して、田畑耕地は住宅と化し、寸隙の空地も余す所なく、新市街地を現出するに至つた。
  
 実際には、学習院の特別教室から出荷した火災で同校舎が全焼したり、住宅にも少なからず被害が出て負傷者もいたはずなのだが、それほど深刻な被害がなかったせいか東京市街地の街々とは異なり、非常にあっさりとした記述になっている。
 これは、豊島区全体の歴史を概観した区史でも同様で、たとえば1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)にいたっては、わずか2行と少しの記述で終わっている。同書の、「各町の町制時代」の項目から引用してみよう。
  
 大正十二年九月一日、関東地方に大震火災起り、幸にこの地方は災禍を免れたが、東京市中は殆んど全滅の状態となつた。罹災者は陸続とこの町に避難して来たので、町は全力をあげて救済につとめた
  
 豊島区のレベルで見るなら、立教大学のレンガ造りの本館が崩落したり、そこそこの被害は出ているはずなのだが、犠牲者がほとんど出なかったことが、おしなべて関東大震災の印象を希薄にしているのだろう。
 地震による被害よりは、市街地から押し寄せる膨大な被災者たちの救援や、罹災者の避難場所としての記憶のほうが強く残ったのだと思われる。大震災の当時は、住宅が近接して建てられておらず、火災が拡がる怖れはきわめて低かっただろうし、住宅の周囲には田畑や空き地があちこちに残っていたせいで、避難場所にも困らなかった。
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高田村役場(高田若葉7)1918.jpg
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 また、東京市街地と武蔵野の台地エリアでは、地震による揺れの大きさが異なっていた可能性が高い。2011年(平成23)の東日本大震災でも、東京の低地や埋め立て地を中心とする市街地一帯では震度5強を記録したのに対し、新宿区の上落合に設置されている地震計は震度5弱にとどまっている。関東大震災でも同様だったとは、具体的なデータが残されていないので断言できないが、目白崖線沿いの地盤は市街地よりも震動がひとまわり小さかった可能性がある。
 しかし、それまで経験のない関東大震災の大きな揺れは、雑司ヶ谷の住民たちを驚愕させるには十分だった。1977年(昭和52)に新小説社から出版された、中村省三『雑司ヶ谷界隈』から引用してみよう。著者は子どものころ雑司ヶ谷電停のすぐ西側、雑司ヶ谷水原621番地界隈(現・南池袋2丁目)に住んでいた。
  
 私の家は今でも残っているその土蔵の西側で、大震災の時にはこの土蔵の瓦が数枚、私の家のせまい庭先に落下してきたものだ。(中略) 大正十二年九月一日、いわゆる関東大震災は、私の小学校一年生の時、その雑司ヶ谷の家で遭遇した。始業式を終えて家へ帰ると、父が昼食の仕度をしていた。母は夏休みで郷里へ戻った姉と妹とを迎えるために帰省して不在であった。 / 父に言われるまま茶卓の上に茶碗や箸などを並べていたが、いきなり大きくゆれ出したと思うともう坐ってもいられなかった。襖が大きく弓なりに曲り、はじかれたようにとんできた。気が付くとその時はもう父は私のかたわらに居て、私をおさえつけるようにして茶卓の下にもぐり込ませていた。後での父の話だと、大ゆれがくる前にゴーッという物凄い地鳴りのような音がしたということだが、子供の私にはおぼえがない。
  
 このあと父親は、著者を家の北側にあった空き地へ避難させたあと、隣家で腰を抜かして動けずにいた「小母さん」を助けだして、空き地へと連れてきている。
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学習院特別教室焼失192309.jpg
 父親は、昼食がまだなのを思いだし、家の中へ何度か駈けこんでは飯櫃や茶碗などの食事道具を持ちだすと、「小母さん」も含めた3人で茶漬けClick!を食べはじめた。その後、周辺の住民たちが全員無事なのを確認すると、家の中にいては余震が危ないということで、住民たちは柿の木のある広場状の空き地へ集まった。
 しばらくすると南の空、つまり早稲田方面に黒煙が上がりはじめたのを見て、著者の父親は様子を見に出かけている。この黒煙は、おそらく学習院のキャンパス内で起きた、特別教室が全焼した火災の煙だろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ところが夕方近くなっても父が戻って来ないので私は心細かったが、とにかく泣きもしなかったことだけはおぼえている。夜はその柿の木を中心に隣り組の者達が畳をしき蚊帳を吊って雑魚寝をした。流言が出始めたのはその頃からで、男の大人達は竹槍などを用意し交代に見張りについた。私の父も隣りのお兄さんもいつの間にか戻っていて、仲間に加わっていたのを蚊帳の中から眺めた記憶はある。/一方私の母は郷里で、東京方面全滅のニュースで居ても立ってもいられなかったそうである。(中略) 母と叔父は惨たんたる下町方面の被害状況を目のあたりにして、雑司ヶ谷までたどりついてみると、余り変っていない町の姿にかえってびっくりしたそうである。事実雑司ヶ谷の私の家の附近で、倒れたり傾いたりした家は殆ど皆無で、私の家の被害も障子や襖の破損と、棚の上などから落ちてこわれた器具などで大したことではなかったらしい
  
 しかし、1923年(大正12)当時の1/10,000地形図を参照すれば明らかだが、雑司ヶ谷はあちこちに森が点在する緑豊かな地域で、家々も密集して建てられてはおらず、随所に空き地が拡がるような風情だった。したがって、同じ関東大震災クラスの揺れが再び雑司ヶ谷地域を襲ったら、現在の稠密な住宅街では被害がどれほど拡がるのかは不明だ。
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 東日本大震災がそうだったように、(城)下町Click!に比べて揺れがやや小さめなのはまちがいかもしれないが、どこかで大きな火災が発生すれば、おそらくひとたまりもないだろう。関東大震災では、犠牲者のおよそ95%以上が大火災による焼死者だった。

◆写真上:関東大震災の直後、目白駅付近から眺めた東京市街地の大火災による煙。
◆写真中上は、1918年(大正7)に撮影された四ッ谷(四ッ家)付近の目白通り。右手に見えている白亜の洋館は、できたばかりの高田農商銀行Click!は、同年に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道近く(高田若葉7番地)にあった高田村役場。は、震災と同年に作成された1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷地域とその周辺。
◆写真中下は、1923年(大正12)9月の関東大震災で崩落した立教大学本館の中央塔。は、同震災で火が出て全焼した学習院の特別教室跡。
◆写真下は、いまも大正当時の面影が残る雑司ヶ谷の森の大樹。は、1975年(昭和50)ごろに撮影された中村省三の旧居跡。奥に見えるのが大震災で屋根瓦が落下した土蔵で、背後の高層ビルは建設中のサンシャイン60。は、本記事とは直接関係ないが鬼子母神の参道沿い雑司ヶ谷古木田487番地にあった初見六蔵邸跡。初見六蔵は、長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」Click!を企画して建設している。

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なぜ駅名と地名は乖離したがるのか。 [気になるエトセトラ]

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 先日、駅のホームで電車を待っていたら面白い……というか、愕然とする発見をした。西武新宿線の「新井薬師駅」で電車を待ちながら、駄菓子を大人買いしたあとホーム上でぼんやりしていたときのことだった。ここの駅名は「新井薬師駅」ではなく、「新井薬師前駅」が正確な名称だったのに気がついたのだ。(爆!) 帰ってから、さっそく拙サイトの13記事25ヶ所にわたる「新井薬師駅」を、「新井薬師前駅」に訂正した。
 でも、そこで気づいたことだが、勝巳商店地所部Click!が売り出した「新井薬師駅前分譲地」Click!でも、「新井薬師前駅前分譲地」ではなく同駅は「新井薬師駅」と認識されている。そうなのだ、同駅を「新井薬師駅」と認識しているのは、わたしや昭和初期の勝巳商店地所部のみに限らない。新聞に入ってくる日々の折りこみ不動産チラシでも、「新井薬師駅徒歩12分」とか「交通至便! 新井薬師駅より徒歩わずか3分」とか、同駅を「新井薬師駅」と認識している人たちが少なからず存在することに気づく。
 駅名をめぐる、このような面白い錯覚や「あれれっ?」と思うような誤解は、落合地域周辺でも多種多様なエピソードとともに伝承されている。西武池袋線の椎名町駅が、実際に江戸期から「椎名町」Click!と通称で呼ばれていた、長崎村(町)と落合村(町)にまたがる清戸道Click!沿いの街並みから、北へ500mほどズレているのは何度かここでも触れてきた。野方村(町)の江古田(えごた)地域から東北東へ800mほど離れた位置に、西武池袋線の江古田駅がある。同駅の駅名をめぐっては高田馬場駅と同様、大正期に地元からクレームでもついたものか、中野区の江古田(えごた)地域とはいちおう関係のない練馬の江古田(えこだ)駅となっている。
 山手線の目白駅Click!も、小石川村(町)目白(台)の地名位置から西へ1.2kmほどズレている。もともとは、日本鉄道が新長谷寺Click!目白不動尊Click!にちなんでつけた駅名のようなのだが、目白不動は室町末期ないしは江戸時代最初期に、足利から同寺へ勧請したといういわれがあるので、神田上水の大洗堰Click!が施工される以前、つまり江戸期に椿山東麓へ「関口」という町名が誕生する以前から、椿山一帯Click!は「目白」と呼ばれていた可能性が高い。目白駅が設置された当時、目白坂Click!の新長谷寺(目白不動)から同駅までは、直線距離で2.2kmも離れていたことになる。当時、駅が開設された高田地域では、駅名に関して「おかしい」「反対!」「なんだそりゃ?」という声は特に記録・伝承されてはいないものの、あまりの不自然な地名ちがいに徳川義親Click!がつい「高田駅と呼ばれた」……とつぶやいたのも、無理からぬような気がするのだ。
 その「高田」つながりで、ひとつ南の山手線・高田馬場(たかだのばば)駅は、設置当初から波乱ぶくみだった。山手線の駅設置請願運動の中心にいた上戸塚+諏訪町(現・高田馬場1~4丁目界隈)の町内では、具体的な駅名を地元の地名に由来する「諏訪之森」か「上戸塚」と規定して請願を展開していた。ところが、鉄道院は1910年(明治43年)に近くの史蹟である幕府練兵場の「高田馬場(たかたのばば)」を駅名にしてしまった。そのときの様子を、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)から、同書では異例の皮肉たっぷりな記述より引用してみよう。
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 当時新宿、目白間には停車場の設け無く、里人は専ら目白駅を利用する外に余儀なかつたが、明治四十三年九月十五日に至り、町民一致の請願と地主有志の献身的運動により、初めて開駅せられたのが、現在駅の発祥である、之より先駅名を戸塚里民は上戸塚駅と欲し、然らざる者は諏訪之森と申請して、こゝにも地方意識を暴露したが、遂に天降りて高田馬場と名づけられ、本町の存在が爾来著しくユモアー(ママ:ユーモア)さるゝに至つた。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、上戸塚にある駅がなんで高田馬場駅なのか、意味不明で「ユモアー」だ。
 これに黙っていなかったのが、幕府の高田馬場(たかたのばば)を抱える下戸塚(現・西早稲田地域)の町内だった。同地域の「里民」たちは、鉄道院へ強力な抗議(それもかなりの)を繰り返したらしい。戸塚村民(町民)が、なんらかの運動や気に入らないことが起きると「力づく」で「手段を選ばない」のは、以前、戸塚町議会の大混乱Click!でもご紹介しているとおりだ。w
 戦前の『戸塚町誌』は、それでも筆をかなり抑えて書いているが、1970年代から地元の町会や古老などに取材して、その伝承などをていねいに書きとめている芳賀善次郎は、1983年(昭和48)に山交社から出版された『新宿の散歩道―その歴史を訪ねて―』では、次のように書きとめている。
  
 この時戸塚町民(ママ)は駅名を「上戸塚」または「諏訪森」(ママ)と要望したが、国鉄(ママ:鉄道院)は「高田馬場」とした。それをきいた戸塚一丁目(現・西早稲田地域のこと)の住民は、馬場跡から遠く離れたこの駅にその名がつくと、馬場跡が駅の近くにあるように間違われるからと猛反対運動を起した。困った鉄道省(ママ:鉄道院)は、窮余の一策、戸塚一丁目の方は「タカタノババ」だが、この駅名は「タカダノババ」だと言いのがれをしてけりがついたという話が残っている。/山手線で、駅所在地名を駅名としないのはここだけである。(カッコ内引用者註)
  
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 江古田(えこだ)駅もそうだが、高田馬場(たかだのばば)駅も開設当時は地名・地域とはなんの関係もない(とされる)、“架空”の名称のClick!だったことがわかる。鉄道院の担当者は、まさか説明会場の鉄道院席へ踊りこんだ下戸塚の議員ないしは住民から殴り倒され、のちの町議会のような流血騒ぎになってはいないだろうが、相当きつい猛抗議(つるし上げ)を喰ったであろうことは想像にかたくない。
 芳賀善次郎は、「駅所在地名を駅名としないのはここだけ」と書いているけれど、実は「目白」と目白駅のケースでも見たとおり、山手線の駅名はそのほとんどが所在地の本来地名と駅名とがまったく一致していない。高田馬場駅のひとつ南の新大久保駅も、当初はその地名どおりの「百人町停車場」とされて地図にまで駅名が記載・印刷されていたが、のちに「新大久保停車場」と改められた。いちばん近い本来の西大久保地域からでさえ、駅まで700m以上は離れている。
 さらに南の淀橋町角筈にある新宿(しんじゅく)駅も、実際の地名では存在しない駅名だ。旧・四谷区には「新宿(しんしゅく)」の地名はあったが、内藤新宿(しんしゅく)に由来するとこじつけても、江戸期に賑わった甲州街道の内藤新宿の西端である四谷大木戸から、約1.5kmも西へ離れた位置に開設されている。新宿駅は、当初より“新駅の名称”とされていたので、それほど混乱もなくスムーズに受け入れられたようだ。
 いまや、駅名に引きずられて地名変更Click!をしてしまった事例は、下落合の中井駅Click!や高田馬場駅などを例にとるまでもなく、都内のあちこちに存在している。これにより、地域の歴史や風土、史蹟・事蹟、伝統・伝承、人々の物語など広い意味での地域文化が朦朧とモヤモヤ曖昧化し、ひいては営々と培われてきた街々のアイデンティティが東京から棄損され失われていくのは、なんとも惜しくまた切ないことだ。
 近々、高輪に設置される山手線の新駅は、その地名どおりに「高輪駅」になるはずだった。ところが、「高輪ゲートウェイ駅」というわけのわからない駅名になったと聞いている。ICT用語では、GW(ゲートウェイ)ないしはCGW(コネクティッド・ゲートウェイ)は頻繁につかわれる用語だが、なんとなく「現代風」で「グローバル感」があり、「未来志向」で「カッコいい」からという理由で採用したのだろうか? 山手線のネットワーク以外に、いったいどことどこをつなげる“手順”からGWなのだろう?
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 田町駅と品川駅の間にポツンと設置された同駅は、GWはおろかノードにもネットワークスイッチにも、ルータにも、ハブにさえなってやしないじゃないか。ちゃんと、用語の意味を理解して命名しているのだろうか? 「高輪ゲートウェイ駅」などと名づけても、利用者からは「高輪駅」としか呼ばれないのが、いまから目に見えるようだ。

◆写真上「マジですか」Click!と絶句してしまった、新井薬師前駅のネームプレート。
◆写真中上は、新聞の不動産チラシでは当たり前のように使われている「新井薬師駅」。は、1914年(大正3)の大久保町市街図にみる設置当初の「百人町停車場」。は、戦後に目白不動が遷座した金乗院の境内に残る鍔塚Click!。茎櫃が小さく小柄櫃に笄櫃を備えた、大刀用ないしは太刀用の丸鍔(彫りは雲龍か)だったのが判明した。
◆写真中下は、1935年(昭和10)撮影の目白貨物駅に停車する6789機関車。は、1954年(昭和29)に撮影された目白駅を通過中の貨物列車を牽引するD51。は、停車場が設置される直前の1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図。.
◆写真下は、1968年(昭和43)撮影の高田馬場駅で、駅前広場の位置に見える家々は諏訪町の街並み。は、1985年(昭和60)に撮影された高田馬場駅。

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陸軍の地下壕が掘られた淀橋浄水場。 [気になるエトセトラ]

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 これまで、戦時中に東京の市街地が、どのような組織Click!によって米軍による空襲Click!から「防衛」され、またどのような施策Click!によって空襲の被害を抑えようとしていたかを、落合地域を問わず東京各地の様子をあれこれご紹介してきた。だが、東京市内にあった社会インフラの施設や設備が、どのような方法で守られようとしていたのかには、ほとんど触れてきていない。
 そこで、落合地域も含まれる新宿エリアに明治期から設置されていた、東京の代表的な社会インフラのひとつだった淀橋浄水場Click!の防空対策について検証してみたい。同浄水場で、本格的な「水道防衛」がテーマになったのは、1942年(昭和17)4月18日のB25によるドーリットル隊初空襲Click!からだった。同空襲では、牛込区(現・新宿区の一部)の早稲田中学校のグラウンドにいた生徒が、焼夷弾の直撃を受けて即死Click!している。東京市では、浄水場と水道網をいかに防衛するかが大きな課題となった。そこで、さまざまな「防衛工事」計画が策定されている。
 だが、新宿駅西口に10万坪以上の面積がある淀橋浄水場は隠しようがなく、爆撃機が高高度で飛行してもハッキリと視認Click!できるほど目立つ施設だった。いくら地図から抹消Click!したとしても、偵察機から空中写真を撮られればすぐにバレてしまう。また、施設の構造自体もきわめて脆弱なため、防御を強化するという発想よりも偽装、すなわちカムフラージュを主体とした消極的な「防衛工事」にならざるをえなかった。1944年(昭和19)の暮れまでに、淀橋浄水場では水面の遮蔽(水田偽装)や、場内の工場をはじめとする建物の偽装(壁面迷彩)、煙突など目立つ建築物の解体などが行なわれている。
 これらの施策は、東京市水道局と軍部が淀橋浄水場をめぐる6つの課題について検討する中で、漸次決定されていったものだ。以下、6つの課題を挙げてみよう。
 (1)浄水場と敷地の幾何学的な地形をどのように変更させるか。
 (2)防護に要する膨大な資材と労力が調達可能か。
 (3)短期間に完成する見込みがあるか。
 (4)浄水作業に支障をきたさないか。
 (5)水道水に汚染その他の支障が生じないか。
 (6)風雨雪等に対する耐久性はあるか。
 これらの課題にもとづき、濾池や沈澄池を水田に見立てる工事などが開始されたが、1940年代ともなれば新宿駅の周辺は、すでに商業地の繁華街や住宅街、学校、工場などがびっしりと建ち並ぶ都会化が進んでおり、その中へいかにも不自然な水田が拡がっているようにカムフラージュしても、ほとんどまったく効果がなかった。
 「防衛工事」は、まず濾池×24面(約28,800坪)に偽装網(綿糸製9cm各目)を張り、網目には木くずやシュロの葉などを貼りつけてカムフラージュした。濾池×4面(約27,700坪)には葦簀(よしず)を張り、丸太でそれを支えるようにして偽装している。また、浄水池や敷地内の水路など約60,000坪の施設は、水田や空き地に見せかけて(少なくとも計画者のアタマの中では) 浄水場には見えないように偽装した。広い浄水場内の「防衛工事」には、数百人の学徒が毎日動員されている。
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 建物の「防衛工事」としてポンプ所と滅菌室の周囲には、爆撃時の爆風による被害を防ぐために土嚢が積まれた。浄水場から東京市内へ向けた配水幹線の上部には、直撃弾の対策として厚さ1mにもなるコンクリート製の防護遮蔽が取りつけられている。また、高い建造物は目標になりやすいということで、高さ130尺(約39m)のコンクリート煙突は解体され、場内いたるところにカムフラージュ用の樹木が植えられた。さらに、細菌類の投下による謀略戦を想定し、浄水池の通風筒を密閉する機能も追加されている。
 さて、上記のような「防衛工事」が施された淀橋浄水場だが、第2次山手空襲Click!では大きな被害が出ている。米軍はもちろん、新宿駅西口近くにある同浄水場のことは研究済みで知悉していた。1945年(昭和20)5月25日の22時3分に、東部軍管区情報として警戒警報が発令され、つづいて同日22時22分には空襲警報に変わった。約250機のB29が、おもに山手線西部の焼け残り地域を空襲し、M69集束焼夷弾と250キロ爆弾などあわせて148,700発を投下した。翌5月26日の未明にかけ、約2時間30分の空襲により山手線西側の街々は壊滅した。今日の新宿区(四谷区+牛込区+淀橋区)でいえば、この日までに全住宅地や全商工業地の約80%以上が焼け野原となった。
 5月26日の午前1時0分に空襲警報は解除されたが、淀橋浄水場では場内の建物火災は5時すぎまでつづき被害は深刻だった。火災により事務所(本部)1棟、木工所1棟、鍛冶工場1棟、原水ポンプ所3棟、硫酸ばんど注入所1棟の計332坪の建物を焼失した。また、機器設備として電動ポンプ×7基、硫酸ばんど注入設備×全部、自動車×1台を焼失している。これにより、東京市街へ給水する水道は配水量が50%にまで低下した。
 淀橋浄水場の空襲のみに限ってみれば、わずか1時間ほどの空襲で東京市の大部分にわたる水道インフラの、約50%の配水機能が喪失したことになる。水道が完全に断水しなかったのは、幸運とみるか「防衛工事」のおかげとみるかは意見の分かれるところだが、この空襲に先立つ同年3月10日の東京大空襲Click!により、淀橋浄水場系の本郷給水所(現・本郷給水所公苑)と芝給水所(現・港区スポーツセンター+芝給水所公園)が完全に破壊されている事例を考慮すれば、幸運だったといえそうだ。
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 第2次山手空襲のあとに計画された、不可解な証言も残されている。淀橋浄水場の地下にトンネルを掘り、米軍の本土上陸に備えるために極秘の部隊が配置されたという、当時、淀橋浄水場長だった方の証言だ。空襲後、「池の水面や構造物には、偽装、迷彩、防護などが施されていたし、資材や労力の不足で維持管理が行届かず、(浄水場の)機能は半減していた」ような状況で、トンネル掘りを命じられた部隊が配備されている。
 1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)所収の、小林重一『淀橋浄水場の思い出』から引用してみよう。
  
 当時、浄水場には、隊長が大尉の小部隊が駐屯していた。話に依ると、敵軍の本土上陸が予想される。上陸した敵軍は、甲州街道と青梅街道を東京に向かって進撃してくる。これを邀撃するため、浄水場の下に縦横に地下道を掘り、作戦に機動性をもたすようにする。この地下道を造るのが、駐屯部隊の仕事だ、ということであった。/甲州、青梅両街道に面している浄水場が、敵軍邀撃の好個の拠点であることは肯けたが、深い池の多い浄水場の下にトンネルを掘ることは大変な難工事である。隊にはトンネルの専門家はいないらしい。新宿駅西口広場に集積された木材は支保工になるしろものではなかった。土木屋の私には全く狂気の沙汰としか思えなかった。本気で掘る積りなら、専門家によく相談して段取りをしなさいと注意した。/勿論、隊長は掘る気でいた。そして、上官から、おまえらの墓場を掘る積りでしっかりやれ、といわれてきた、ともいっていた。
  
 当時の陸軍は、湘南海岸の中央にあたる平塚海岸に大部隊を上陸させ、馬入川(相模川)沿いに北上して八王子を攻略し、甲州街道や青梅街道を東へ進撃して東京市街地へと侵攻する米軍のコロネット作戦Click!を、その空襲の規模や傾向などから、かなり正確かつリアルに把握していた様子がうかがえる。
 実際にトンネルが掘られたのかどうかは、小林重一の証言には書かれていない。空襲から敗戦まで、いまだ3ヶ月も残す時期のことなので、新宿西口広場に集められた資材を用いて、浄水場内のいずれかの地下にトンネルが掘られていたのかもしれない。また、敗戦から20年後の証言とはいえ、当時の軍事機密に属することなので、あえて証言が控えられている可能性も考えられる。
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 あるいは、淀橋浄水場の跡地が競売にかけられているまっ最中に書かれた文章なので、地中には陸軍の地下壕が眠っているなどと書けば入札に影響が出ると考え、あえて証言を避けたのかもしれない。だが、トンネルが浄水場のどこかに掘られていたにせよ、跡地の大規模な「副都心開発」計画で、とうに破壊されているのはまちがいなさそうだ。

◆写真上:機関室の煙突がそびえていた、淀橋浄水工場が建っていたあたりの現状。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に陸軍によって撮影された淀橋浄水場。は、沈澄池と濾池の偽装(カムフラージュ)工事。1944年(昭和19)に工事は実施されたが、大編隊のB29による絨毯爆撃にはほとんど意味がなかった。
◆写真中下は、爆風に備え滅菌室の周囲に積まれた土嚢。は、機関室に付属する130尺(39m)コンクリート煙突の解体工事。は、1944年(昭和19)撮影の偽装工事が完了したあとの淀橋浄水場。ご覧のように、いくら網や葦簀で池の水面を遮蔽しても、上空から見れば浄水場の形状は明らかでカムフラージュの効果はほとんどなかった。
◆写真下は、1944年(昭和19)に撮影された新宿駅西口から淀橋浄水場にかけての一帯。新宿駅南口から浄水場にかけ、防火帯35号線(淀橋浄水場線)の建物疎開Click!がはじまっている。は、1945年(昭和20)5月25日夜半にB29から撮影された空襲下の新宿駅(下)と淀橋浄水場(上)。は、1971年(昭和46)に撮影された淀橋浄水場跡地で、濾池跡の東端には京王プラザホテルが建設中だ。
おまけ
下落合の森でミンミンゼミやアブラゼミ、ツクツクボウシの大合唱に混じり、めずらしくクマゼミの声を聞きました。暑い日がつづいたので、西から迷いこんだものでしょうか。

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絵の具がひっ迫する戦時下の画家たち。 [気になるエトセトラ]

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 戦時下、戦争画Click!をなかなか描かず軍部に協力的でない画家たちは、統制下におかれた絵の具の配給が満足に受けられず、油彩・水彩を問わず本格的な作品が描けないでいた。逆に戦争画を描く画家には、軍部からふんだんに絵の具や筆、キャンバスなどの画材・画道具がまわされ、画面の制作に困ることはなかった。
 戦争画を描かない画家たちは、絵の具がなかなか手に入らないため、雑誌や小説などの挿画をペン・鉛筆・墨などで描きながら、かろうじて糊口をしのぐようなありさまだった。1941年(昭和16)12月の日米開戦以来、さらに配給の厳しさが増すにつれ、秋の展覧会に向けて絵の具の欠乏を食いとめ、公平で効率的な絵の具の分配を実現しようと、1942年(昭和17)5月に上野精養軒で「美術家連盟」が結成されている。同連盟の中心となったのは、戦争画をほとんど描かない木村荘八Click!で、自宅Click!のある杉並区和田本町832番地が美術家連盟の事務局となっている。
 美術家連盟の発起委員には、辻永Click!石井柏亭Click!有島生馬Click!など40名以上のそうそうたる画家たちが名を連ねていたが、軍部に非協力的な画家たちも少なからず含まれており、上野精養軒の結成集会に呼ばれた大政翼賛会文化部陸海軍報道部の代表は、内心にがにがしく思っていたかもしれない。表面上は、軍部へ協力する作品を描きやすいよう、統制された絵の具を効率よく画家たちへ確実に配給し、より「非常時」にふさわしい作品を制作するための、戦時における画材流通基盤の確立のように謳われたのかもしれないが、制作される作品がすべて軍部の要請する「聖戦貫徹」の画面になる保証は、まったくどこにもなかったからだ。
 事実、事務局長を引き受けた木村荘八からして、そもそも春陽会や新文展への出品用に東京の風俗や風景、芝居、静物などの作品しか描こうとはせず、あとは好きな時代小説や風俗帖などの挿画を手がけるだけといったありさまで、絵の具配給の指示・統轄部局である大政翼賛会文化部陸海軍報道部には、ほとんど目に見えての「プロパガンダ・メリット」はなかったように見える。おそらく、木村荘八を含めた美術家連盟のおもな画家たちが、大政翼賛会文化部を巻きこんで絵の具の安定的な入手ルートを確保しさえすれば、あとはモチーフになにを描こうがこちらの勝手だ……とかなんとか相談して、全国の画家たちへ参加を呼びかけたのだろう。
 1942年(昭和17)の7月下旬、全国の絵の具小売店あてに、神田小川町にある東京洋画材料商業組合から、次のようなハガキがとどいた。
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 面白いのは、業界が業界なだけに「ホワイト」「メーカー」「ルート」など、日米戦がはじまっているにもかかわらず英語を自粛せず、従来どおりに多用している点だ。
 確かに、絵の具の専門色名に横文字がつかえなくなれば大混乱をきたし、そもそも画材を扱う業界は成立しえなくなってしまう。油絵の具の「ホワイト」には、メーカーにもよるが7種類前後はあるのが当たり前なので、文面の「ホワイト」がどのホワイトを指しているのかが不明だ。だが、物資不足が深刻化している戦時では、ジンクやチタニウム、シルバー、パーマネント、セラミック……などの別なく、白系統の絵の具をおしなべて「ホワイト」としていたのではないだろうか。
 とにかく、秋の展覧会へ向けた作品の制作には、ホワイト系の絵の具が絶対的に不足しており、要望を受けた美術家連盟では急遽、洋画材料商業組合と協議して、ホワイトを優先的に全国の画家たちへ配給するよう手配したものだろう。
 このハガキの内容について、1942年(昭和17)発行の「新美術」8月号に掲載されている、美術家連盟事務局の木村荘八『連盟の経過』から引用してみよう。
  
 去る七月二十日付けを以つて左のやうな印刷ハガキが東京洋画材料商業組合から全国の絵具小売店へ送達された。/美術家聯盟の会員を限り臨時にホワイトを売渡す配分約束についての通牒であるが、美術家聯盟加入のものは、同時に左の購入券を受取つた。この購入券は絵具工業組合と材料商業組合及び聯盟の合議で印刷したものを(官製ハガキ)聯盟が一纏めに受取つて事務所から改めて全国の聯盟加入者に一人一通づゝ送つたものである。/一体が油絵本位の話だつたので此の購入券を見ても一言の説明さへも用ゐず、頭から油絵具に限るものとされてゐるが――聯盟会員の需要の関係から見て、それは後に、油絵具ならば一人十号チューブ二本、水彩ならば一人四本、といふことに此の同じ購入券を以つて便法風な取扱ひの出来ることを申合はせた。しかしこれは東京以外には徹底されぬ一部の便法に止どまつたかもしれない。――筆者が今この報告文章を誌すのは八月九日であるが、ホワイト購入券に依ればその現品引渡時期は八月八日以後としてあるから、もうそろそろ引渡しの手続になることだらう。
  
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 配給券=「ホワイト引替券」には、油絵の具を前提として「壱名に付十号チューブ弐本」としたが、水彩画家を考慮し水彩絵の具なら2本ではなく4本だと、急いで追加の告知をしている。でも、「新美術」8月号が店頭に並んだのは8月の中旬なので、油彩以上にホワイトを多用する水彩画家も、油絵の具と同様にチューブ2本と交換してしまったのではないかと危惧している。
 また、絵の具の原材料が稀少となり値上がりしているため、絵の具の販売価格についても触れている。戦時のため、絵の具の値段は一時的に「停止価格」(政府の統制により値上げをせず一定価格を維持すること)のまま推移していたが、原材料の高騰で改めてコストに見あった価格を設定したい、業者の要望が強まっていたと思われる。つづけて、木村荘八の『連盟の経過』から引用してみよう。
  
 一方の洋画材料商業組合から各小売店に廻された通牒に依れば、「現品は公定価格発表と同時に」送るといふことになつてゐるけれども、これはまだ暫く時間の要る見込である。予めそれがわかつてゐるので、我々聯盟側は、不取敢この二本の臨時配給は公定価格発表以前であつても、品ものやその取扱上の手順さへ付いたならば成る可く早く現品引渡しの段取りとしてくれ、互ひに責任もあるし又秋を控へて需要の差し迫つてゐることでもあるからと、業者に懇談した。業者も亦首肯したのであつた。/この「公定価格の発表」といふことが外界からは説明されないとわかりにくい事情であらうが、又一つには、抑々それが凡ての「根」であつて、聯盟が受動的に絵具業者や材料商業組合とタイアップの形になつたのも誘因はそこにあれば、また、臨時ホワイト配給の今回の事も動機はそこから起つたと云へる。
  
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 先にも記したように、「新美術」8月号が書店の店頭に並んだのは早くても8月中旬、地方ではさらに遅くなったと思われるのだが、早い美術展は9月に幕を開ける。ホワイトのストックがない画家たちは、作品が完成できずかなり焦っていただろう。だが、このような配給が一般の画家たちまであるうちは、まだマシな状況だった。日本の敗色が強まるにつれ、軍部に協力的でない画家たちには絵の具はおろか画材がほとんど配給されず、闇で超高価なそれらを手に入れざるをえない時代が、すぐそこまで迫っていた。

◆写真上:敗戦時に工場が焼け残り、戦後いち早く絵の具を製造を再開した旧・長崎5丁目15番地のクサカベClick!のホワイト各種。上からチタニウム、ジンク、パーマネント。
◆写真中上は、1942年(昭和17)に発行されたホワイトの購入券(配給切符)。は、美術家連盟の役員だった木村荘八()と有島生馬()。
◆写真中下は、ホワイト配給券と同年の1942年(昭和17)制作の木村荘八『残雪』。は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!直前に制作された木村荘八『浅草元旦』。浅草が大空襲で壊滅する、2ヶ月前のにぎわいをとらえている。
◆写真下は、1943年(昭和18)に制作された木村荘八『大鷲神社祭礼』の習作(下絵)。は、1943年(昭和18)に制作されたタブローの画面。

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