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ハイゼの原から仰ぐ雑司ヶ谷異人館。 [気になるエトセトラ]

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 昨年、雑司ヶ谷の異人館Click!に住まわれていた正木隆様より、1955~56年(昭和30~31)ごろに撮影された邸の写真をお送りいただいた。明治末近くに竣工した同邸は、明治政府の雇用外国人として1902年(明治35)に来日し、東京高等商業学校(現・一橋大学)や学習院でドイツ語教師をしていたドイツ人のリヒャルト・ハイゼが建てたものだ。だから、当初より「異人館」と呼ばれていたのだろう。
 陸地測量部Click!が作成した、明治末の1/10,000地形図を参照すると、弦巻川Click!に沿って南北に形成された河岸段丘の斜面には田畑が拡がり、北岸にある宝城寺や清立院、南岸にある大鳥社や本納寺、そして雑司ヶ谷鬼子母神の森が点在するゆるやかなU字型の谷間から眺めた高台に、ポツンと大きな西洋館が建っているような風情だった。異人館の北と東側には、東京市の雑司ヶ谷墓地が造成されていて、1910年(明治43)時点の地図でも異人館の周囲には、住宅はただの1棟も存在しなかった。
 やがて、雑司ヶ谷の宅地化が進むにつれ、弦巻川両岸の田畑は耕地整理が行われ、大正末から昭和初期にかけては、なにもない原っぱが拡がるような風景に変わっていった。そのころ、周辺に住む子どもたちの遊び場はこの原っぱであり、ことに正月などには凧揚げには格好の広い空き地となっていた。誰が名づけるともなく、この広大な原っぱは「ハイゼの原」と呼ばれるようになっていた。
 当時、ハイゼの原で遊んだ子どもたちの様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された一艸子後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。
  
 文字焼は現代のお好焼の元祖ともいうか、うどん粉を砂糖蜜に溶かし鉄板の上で焼き、熱いのをふきふき食べる。寒い正月には格好な食べものであった。/風のない日は羽根をつく女の子が喜び、風が出れば男の子が喜ぶ。風が出ると男の子は凧上げの場所に行く。場所はおおかた大鳥神社に近い異人屋敷につづく傾斜の原っぱである。
  
 また、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』にも、四季を通じてハイゼの原で遊ぶ子どもたちの様子が記録されている。
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 この異人館の東側の斜面が、宝城寺の墓場まで宏大な空地で、私達はこの空地を「ハイゼの原」と呼んでは天気さえよければ、自分達の運動場として使わせて貰ったものである。春から秋にかけては適当な長さの草が生い茂っていて、相撲をとって転がっても怪我もしなかったし、また草の斜面を下までゴロゴロと転がり落ちてあそんだりしたものである。毎年冬になって雪が積ると、此の斜面を利用して、スキーの真似ごとをしてあそんだこともあった。仲間の悪の中には隣接の宝城寺の墓場へ行き、卒塔婆を引き抜いてきて足の下へはき、スキーのつもりですべった者もいたが、よく仏罰が当らなかったものだ。/私がはじめて秋田雨雀さんと会ったのも、この「ハイゼの原」であった。
  
 ハイゼの原では、ときどき時代劇の映画ロケが行われたり、サーカスの小屋掛けがあったりして、周辺に住む子どもたちを楽しませていたようだ。
 リヒャルト・ハイゼは、大正期に入ると日本が第一次世界大戦でドイツに宣戦布告したため、敵性外国人として日本政府による全財産没収の危機にも遭遇したが、1924年(大正13)に帰国するまで日本に住みつづけている。雑司ヶ谷異人館の周辺では、ハイゼ一家が帰国して住民が日本人に入れ替わっても、相変わらず「異人館」や「ハイゼの原」の名称が活きつづけていたのがわかる。
 雑司ヶ谷を流れる弦巻川の周辺に住んだ人々に、強烈な印象を残している雑司ヶ谷異人館だが、昭和期に入ると船舶会社の重役である船津邸ないしは松平邸になり、戦後は広い邸内にはフロアごとに複数の家族が入居する、いわゆるマンション形式の使われ方をしていたようで、以前に書いた雑司ヶ谷異人館の記事のコメント欄には、元住民の方々の貴重な証言が寄せられている。このような意匠の明治建築だと、当時の和館よりも天井が相当高く、冬などはかなり寒かったのではないだろうか。
 建築されてから、それほど時間のたっていない雑司ヶ谷異人館の意匠について、詳しく記録した文章が残っている。『雑司ヶ谷界隈』から、再び引用してみよう。
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雑司ヶ谷異人館跡.JPG
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 かつて私の子供の時分、この建物は雑司ヶ谷の異人館として名物であった。当時この異人館の周囲一帯、南側の低地も東側の高地も人家らしいものは一軒もなく、開通したばかりの王子電車の窓からも、この異人館はハッキリと望見できたはずである。私もうろ覚えなので断言はできないが、明治時代日本に招かれて来た独乙人(ママ)のハイゼという鉄道技師(ママ)か何かが住んでいた邸宅であったと聞かされたことがある。敷地は丘の上から下まで何千坪かあり、南斜面を利用した宏壮なものであった。南面下の道路には当時としては珍しい鉄製の門扉が常時閉じられたままであり、南斜面の植込みの広い庭の奥、丘の上に南半分が洋館、北側半分が和風という、家そのものもひどく広い大きなものだった。洋館の二階にはベランダがつき出ていて、あそこからなら新宿のガスタンクや、夜になればネオンの赤い灯や青い灯もよく見えるだろうな----と羨しく眺めたものである。しかし和風の造りの方はいつも雨戸がたてたままで、洋館の方もかつて人の姿を見かけたことはなかったように思う。
  
 文中に登場する王子電車は、現在の都電荒川線のことだ。当時は、雑司ヶ谷電停のすぐ南側に王子電車の車庫が設置されていた。
 1979年(昭和54)に解体といえば、わたしが学生時代にはまだそのまま建っていたわけで、都電荒川線には何度か乗車しているにもかかわらず、雑司ヶ谷異人館の存在には気づかなかったのが残念だ。もっとも、そのころは周囲に家々が建てこんでいて、大きな西洋館も見えにくくなっていたのだろう。
 解体直前の異人館は、さすがに傷みが激しく、下見板張りの外壁があちこちで破れ、窓ガラスも随所が割れているような状態だったらしい。1977年(昭和52)の時点では、「今は見るかげもない木造の異様な建物」(『雑司ヶ谷界隈』)と書かれているので、長い間メンテナンスをしておらずお化け屋敷のようなたたずまいを見せていたようだ。当時の様子は、著者の中村省三が写真に収めている。
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 さて、帰国したリヒャルト・ハイゼだが、1937年(昭和12)には再び日本の土を踏んでいる。そして、いまでは会津の白虎隊が眠る飯盛山に葬られているのだが、なぜ薩長政府に抵抗した会津にハイゼ家の墓所があるのか、それはまた、もうひとつ別の物語……。

◆写真上:かつて、ハイゼの原から仰ぎ見た雑司ヶ谷異人館(リヒャルト・ハイゼ邸)。
◆写真中上は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷異人館。この時期になっても、ハイゼの原には住宅が建っていない。は、戦前に大鳥社側から弦巻川が流れるハイゼの原を撮影したもので、中央を左右に横切るのは王子電車の軌道。異人館は、左手枠外の高台に聳えていたはずだ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる異人館で、濃い屋敷林に囲まれかろうじて戦災をまぬがれているのがわかる。
◆写真中下は、都電荒川線から見た1977年(昭和52)ごろの雑司ヶ谷異人館。は、西側の都電側から眺めた異人館が建っていた丘上の現状。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる雑司ヶ谷異人館(現・南池袋第二公園)。
◆写真下は、1933年(昭和8)に撮影された暗渠工事中の弦巻川が流れるハイゼの原。正面に見えているのは宝城寺で、画面の左手枠外の丘上に雑司ヶ谷異人館が建っている。は、解体が間近な1977年(昭和52)撮影の異人館外壁と窓。

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首都圏最大クラスの大船田園都市計画。 [気になるエトセトラ]

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 大正期になると、東京郊外に「文化村」「田園都市」と名づけられた、西洋館を中心とする新興住宅地が開発されはじめている。その嚆矢として、こちらでは1922年(大正11)に販売を開始した目白駅の西側に接する下落合の近衛町Click!目白文化村Click!、そして同時期に目黒駅の西側に位置する洗足田園都市Click!をご紹介している。
 また、一般の住宅地としてではなく社宅(官舎)街として、ほぼ同じ時期に建設が進んだ埼玉県の川口文化村Click!や、少し遅れて武蔵野鉄道沿線の東大泉に建設がスタートした大泉学園Click!、さらにそれらの計画を追いかけて開発された常盤台Click!や国立、田園調布などについてもチラリと触れてきた。今回は、ちょうど大泉学園の開発構想とほぼ同時にスタートしている、大船田園都市(株)による神奈川県の「新鎌倉」計画=大船田園都市構想について書いてみたい。
 わたしは子どものころ、大船駅には何度も下車して近くの山々へのハイキングや、横浜ドリームランドへ遊びに出かけているが、大船駅前でハイカラな「文化村」的な雰囲気を味わったことは、残念ながら一度もない。目立ったのは、松竹の大船撮影所と無秩序に建てられたと思われる商店や住宅街、工場、倉庫などの姿で、近衛町や目白文化村、洗足田園都市などで感じるモダンな街並みは認識できなかった。
 ところが、大船には上記の郊外住宅地が販売されはじめた1922年(大正11)に計画が進み、大正末から建設がスタートした大船駅前の大規模な「文化村」、大船田園都市が拡がる予定だったのだ。大船駅の東口にはじまり、北東側へと広がる住宅地の総坪数は10万坪以上で、当時の「文化村」計画としては最大クラスだった。計画図を見ると、敷地の西側半分は大泉学園を思わせる碁盤の目のような区画で構成され、敷地の東側半分は常盤台や田園調布のように、広場を中心として放射状に道路が四方へのびている。
 当時の様子を、1925年(大正14)発行の「主婦之友」2月号に掲載された、記者が現地を取材している「東京を中心とした二大田園都市の新計画」記事から、少し長いが引用してみよう。ここでいう「二大田園都市」とは大船田園都市(のちに「新鎌倉」と呼ばれるようになる)と、箱根土地Click!が目白文化村につづき練馬で開発していた大泉学園のことだ。
  
 田園都市はだらしなく発展した郊外の住宅地とは異つて、最初から広漠な土地に理想的な設計をして地割をなし、それに文化的の設備を施した都市を造るのでありますから、都会から解放された私共の住宅地としては、誠に理想郷となるのであります。広い公園道路が縦横に貫通して、青々とした街路樹の間を、四季とりどりの花弁で点綴し、運動場があり遊園地があり、学校、幼稚園、娯楽場、マーケットその他生活に必要なあらゆる設備が行届いて、都会が公園か公園が都会かの観があるべきなのであります。整然と区画した住宅地は尺地も余さぬ窮屈な都会の住宅とは違つて、裕に田園の趣味を味ふに充分であります。そこに子供はのびのびとした心で、すなほに育つてゆきます。私共は都会地の繁煩な労働、油断も隙もならぬ往来の危険から免れて、安楽な一夜をゆつくりと眠ることができます。そして日曜の一日をのんびりした自然の清らかな空気に触れて、新しい元気を培ふことができます。かやうにして私共は自己の仕事のために、家族の保護のために、生活の安定をつくるために、都会地よりも、郊外地よりも、更に一歩を進めて田園都市の生活に移るべく余儀なくされつゝあるのであります。
  
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 記者は、ことのほか「都会生活」(東京生活)を嫌悪し忌避しているようだが、おそらく江戸東京地方の生まれではないのだろう。冒頭に「都会生活を三代も続けると、その家は滅亡する」などと、読者を脅すような強い口調で書いているが(これ、いまや250万人を超える江戸東京の地付きの人間には、ずいぶんと無礼な表現だ。横浜や大阪、福岡、名古屋、仙台、札幌などの都市で、地元民を前に「この街は三代続くと家が滅亡するよ」などといえるのだろうか? それほどイヤなら、場ちがいなところに住まないで尻に帆かけてとっとと帰郷しよう)、核家族化と少子化が深刻な現代ならともかく、わたしの家はこの街で400年ほどつづいているけれど「滅亡」などしていない。
 さて、大船田園都市(新鎌倉)には、東京郊外の「文化村」を凌駕する設備やサービスがそろっていた。上下水道をはじめ、電燈線・電力線Click!を共同溝に埋設して、街中に電柱が存在しないのは目白文化村と同様だが、大船駅東口から「夕日ヶ丘」とよばれる中央の公園広場まで、まっすぐに街路樹が繁る七間道路がつづいている。「夕日ヶ丘」を中心に、北側には双葉公園、東側には東山遊歩場、大人用運動場、子供用運動場、女性(女児)用芝庭+花壇などの施設が展開している。また、駅前の商業地区と呼ばれる出店用のマーケット区画や各種学校、幼稚園、病院、購買組合、クラブハウス(サロン、宴会場、娯楽場、修養場)、馬場(競馬場)などの施設がそろう予定だった。
 また、大船田園都市(新鎌倉)の大きな特徴として、ディベロッパーである大船田園都市(株)が主食をまかなう炊飯工場を経営し、食事の時間に米飯の宅配サービスを予定している。さらに、同社はクリーニング業も運営して和・洋服の洗濯を代行し、住宅を建てる建設・工務業や清掃業も請け負って定期的に、あるいは要望があればいつでも建設や清掃の作業員を派遣するというサービスも計画していた。
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 大正末、東海道線から眺めた大船駅東口の様子を、同誌より引用してみよう。ちなみに、文中に登場する洋風住宅は、ほとんどがモデルハウスだった。
  
 東海道を汽車で旅行する人は、誰でも気付くでせうが、大船駅から東へ展開した平野に、広い道路が開かれてそこにちらほらと赤い屋根青い屋根の文化住宅が建つてゐるのを車窓から眺めることができるでせう。更に幾日かの後に再びこの駅を通るときは、全面の白い山が小さくなつて、低い地が埋立てられてあるのに気付きませう。この一画が新鎌倉と命名された十余万坪の田園都市で、大船田園都市株式会社の経営にかかるものであります。東西北の三方は小丘に囲まれ、南から西南にかけて遠く開け、遥に箱根連峰に対し、富士の雄姿を西方の丘上に親しみ得る大自然を抱擁し、気候温暖空気清澄、常に適当な海気を受けて健康には最も適してゐる地であります。
  
 1925年(大正14)2月の時点で、大船駅東口に近い「夕日ヶ丘」から西の碁盤の目のような区画はほとんど売り切れていたというから、実際に家を建てるのが目的の住民ではなく、投機目的の不在地主が土地を買い占めていたのだろう。ちょうど時期的にみても、不在地主の投機対象となり住宅がなかなか建たなかった、1924年(大正13)から販売を開始している目白文化村の第三文化村Click!のような状況だったとみられる。
 実際に住民が建てた洋館と、モデルハウスも含めた住宅がようやく数十棟ほど建ち並んだとき、1928年(昭和3)に大船田園都市(株)の経営が破綻した。前年からはじまった金融恐慌で、同社のバックにいた東京渡辺銀行が破産したからだ。1925年(大正14)に東京土地住宅(株)が破綻したとき、下落合で開発途中だった近衛町は、すぐに箱根土地(株)が手を挙げて開発事業を継承したが、東京から離れた大船田園都市の開発を引き継ぐディベロッパーは現れなかった。
 6年後の1934年(昭和9)、ようやく買い手として現れたのは、宅地開発業者ではなく映画会社の松竹だった。松竹は、未開発だった土地約9万坪を買収し、そのうち6万坪を「田園都市住宅地」として販売し、残りの3万坪に映画撮影所を建設している。
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 大船田園都市時代に建設された数十棟の洋館のうち、現存するのは駅に近い旧・小池邸の1棟のみだ。同邸の前には、鎌倉市による「大船田園都市」の記念プレートが設置されているけれど、もはや開発を記憶している人は地元でもほとんどいない。

◆写真上:1925年(大正14)に、大船駅側から東山遊歩場(予定地)の方向を眺めたところ。いくつかの西洋館が見えるが、その多くはモデルハウス。
◆写真中上は、大船田園都市(株)が作成したパンフレット2種。は、1925年(大正14)現在の大船田園都市(新鎌倉)の開発計画図。
◆写真中下は、同社が建設した平家建て24坪のモデルハウス。は、同モデルハウスと敷地160坪全体の庭も含めた平面図。は、現存する旧・小池邸。
◆写真下は、同社が建設した2階建て34坪のモデルハウス。は、同モデルハウスの平面図。は、1946年(昭和21)に撮影された大船駅東口の様子。

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夏目利政邸に下宿した長沼智恵子。 [気になるエトセトラ]

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 下落合436番地に住んでいた日本画家&洋画家であり、下落合一帯のアトリエを設計してまわったとみられ建築家でもある夏目利政Click!が16歳のとき、自宅の2階には長沼智恵子Click!(のち高村智恵子)が下宿していた。といっても、下落合にあった彼のアトリエではなく、1909年(明治42)にいた本郷区駒込動坂109番地の自邸でのことだ。
 いまだ中学生だった夏目利政は、日本画家・梶田半古の画塾に通っており、すでに14歳で文展に入選している。その後、夏目利政は東京美術学校の日本画科へと進学するが、当然、2階に住んでいた洋画家をめざす長沼智恵子とも、少なからぬ交流があったことは想像に難くない。日本画のみならず、彼が洋画をこころざす最初のきっかけに、ひとつ屋根の下に暮らしていた長沼智恵子の影響が大きかったのではなかろうか。
 長沼智恵子と目白・雑司ヶ谷界隈とのつながりは、学生時代も含めて非常に濃いものがある。ここでいう「目白」とは、現在のJR目白駅周辺のことではなく、小石川区(現・文京区)の目白台一帯Click!(おそらく本来の地名位置)のことだ。日本女子大学へ通っていた彼女は、同大学に近接した女子寮「自敬寮」で学生生活を送っている。そのころの智恵子の様子を、1年先輩にあたる平塚明(はる)=平塚らいてうの、『高村光太郎と智恵子』(筑摩書房/1959年)から引用してみよう。
  
 図画は女子大では自由科目でした。洋画の先生は、松井先生という中年の男の先生でしたが、智恵子さんはその先生について水彩画の勉強をしていました。桐の細長いスケッチ箱を撫で肩にかけて、学校裏の雑司ヶ谷方面にスケッチに出かけたりしていました。(中略) 書見に疲れた眼で窓の外をみると、人影の絶えて広々と見える運動場を、智恵子さんがただひとり、自転車を乗りまわしているのが実に自由で、たのしそうに見えました。自転車はこの人のお得意でしたから、当時の女子大運動会のよびものの一つだった自転車行進には必ず出ていました。
  
 智恵子に美術を教えていたのは、明治美術会(のち太平洋画会)の創設メンバーだった洋画家・松井昇のことだ。浅井忠や小山正太郎、柳源吉、長沼守敬らが1889年(明治22)に明治美術会を結成するが、吉田博Click!満谷国四郎Click!、中川八郎、丸山晩霞ら後進が続々と欧州留学から帰国すると、明治美術会は時勢の流れから解散して、ほどなく太平洋画会Click!が結成されることになる。
 長沼智恵子は、1907年(明治40)4月に日本女子大を卒業する以前から、おそらく松井昇の紹介があったのだろう、下谷区谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所Click!へと通っている。このとき、智恵子は日本女子大のOG会でつくる「桜楓会」が建てた、小石川区小日向台町1丁目14番地の「第一楓寮」に住んでいた。だが、1909年(明治42)に第一楓寮が閉鎖されると、本郷区駒込動坂109番地の夏目邸の2階へと転居している。夏目利政は16歳の中学生だったが、智恵子は7つ年上の23歳になっていた。
 1907年(明治40)前後の太平洋画会研究所には、落合地域あるいは新宿エリアでお馴染みの美術家たちが、続々と姿を見せている。洋画をめざす長沼智恵子の周囲には、中村彝Click!中原悌二郎Click!をはじめ、鶴田吾郎Click!堀進二Click!大久保作次郎Click!渡辺與平Click!小島善太郎Click!、足立源一郎、川端龍子、岡田穀、荻原守衛Click!、戸張孤雁などの面々だ。智恵子の研究所での様子について、彼女とは肩を並べて同研究所で学んでいた渡辺與平の妻・渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)の証言を、2004年(平成16)に蒼史社から出版された北川太一『画学生智恵子』所収の、亀高文子『わが心の自叙伝』(神戸新聞学芸部編)から孫引きしてみよう。
  
 こういう男性たちにまじって、ここでは、男女共学のハシリといえましょうか、私ともう二人の女性がいました。一人は女子美校で一緒だった埴原久和代さんで、もう一人は後に高村光太郎夫人となられた長沼智恵子さんです。(中略) 智恵子さんは、美しい、なよなよした女性で話す声も聞きとりにくいほどの控えめな感じの外見と、その仕事ぶりは、また反対に自由奔放で強い調子のものでした。男女同権にめざめていないそのころ、大勢の男性の中にはいって勉強することは、いろいろな困難を甘んじて受け、あるいは克服しつつの連続でした。とはいいましても、明治の質朴な画学生たちは、私たちにとって決して危険な異性ではありませんでした。ただ、いかつい、こわい存在だったのです。女にやさしくするのは男の恥というような虚勢からくる見せかけの不親切だったかも知れません。
  
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北川太一「画学生智恵子」2004.jpg 日本女子大寮.jpg
 夏目利政は生粋の本郷っ子で、1893年(明治26)に駒込動坂で生まれている。日本画には早熟で、14歳のとき第1回文展へ入選したことは先述したが、東京美術学校在学中の18歳のときにも、再び第5回文展に入選している。牙彫師Click!だった父親が早くに死んだため、母親とともに自邸の部屋や離れを下宿として人に貸していた。そこへ入居したのが、23歳の長沼智恵子だった。
 夏目利政は、文展に入選していたにもかかわらず、智恵子から作品の画面を徹底的に批判されていたようだ。前出の『画学生智恵子』収録の、1950年(昭和25)11月1日の新岩手日報に掲載された夏目利政の回顧録から孫引きしてみよう。
  
 その頃私は第一回文展に入選した。美術学校入学前のことなので私は皆からおだてられた。ところが智恵子さんから「子供のくせにしてこんなまとまった絵をかくことはちっとも真実を知らないからで、個性のない、だれでも書(ママ)ける絵だ」と頭から酷評された。これが私にとって自分の絵ということをまじめに考える大きな示唆となった。それからあの人のほんとうのものに心魂を打ちこんでスキもひまもない日常を見てたゞ驚嘆した。
  
 夏目利政が日本画家のみならず、洋画家もめざすようになったきっかけに長沼智恵子が大きく起立していたのは、当たらずといえども遠からずのような気がするのだ。こののち、夏目利政は駒込動坂の自邸を整理・処分し、下落合436番地にアトリエを建てて転居してくる。また、弟の彫刻家・夏目貞良(亮)Click!も呼び寄せ、九条武子邸Click!の南隣り下落合793番地にアトリエを建設している。さらに、下落合804番地の鶴田吾郎アトリエClick!をはじめ、下落合に建設されたアトリエの多くは、彼の設計と思われるふしがあるのは、すでに何度か書いてきたとおりだ。
 さて、母校が近くて落ち着き安心するせいなのか、長沼智恵子は日本女子大学の近辺に住みたがるようだ。1911年(明治44)になると夏目邸の下宿を出て、同じく日本女子大を卒業した妹・セキとともに、高田村雑司ヶ谷719番地(現・豊島区南池袋3丁目)に小さな新築の借家を見つけて住みはじめている。智恵子が同地域を離れがたいのは、母校とその周辺に馴染みが深かったせいもあるのだろうが、周辺には美術家たちが多く住んでいたのも要因のひとつなのだろう。
 当時の雑司ヶ谷には、智恵子の親しい日本女子大の先輩だった橋本八重がいた。彼女は洋画家・柳敬助と結婚して、高田村雑司ヶ谷331番地に住んでいた。また、小石川区雑司ヶ谷91番地には、岸田劉生Click!たちとフュウザン会を結成した斎藤與里Click!のアトリエがあった。大正期に入ると、早々に二科会創設に奔走した津田青楓Click!は、日本女子大のすぐ東側にあたる小石川区高田老松町41番地におり、坂本繁二郎は高田村雑司ヶ谷36番地にアトリエをかまえていた。つまり、当時の先端をいく画家たちと交流できる交叉点が、明治末の雑司ヶ谷地域だったのだ。
 長沼智恵子が訪問した先には、津田青楓をはじめ中村彝、斎藤与里、熊谷守一Click!などのアトリエが記録されている。やがて、雑司ヶ谷に住んでいた洋画家たちのネットワークを通じて、高村光太郎と出逢うことになる。
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 高田村雑司ヶ谷719番地の長沼智恵子アトリエを、1912年(明治45)6月に読売新聞の記者が訪問している。同年6月5日の同紙掲載の連載記事「新しい女(一七)」を、前出の『画学生智恵子』から少し長いが孫引きしてみよう。
  
 郊外の新屋 府下高田村雑司ヶ谷七百十九、鬼子母神境内の墓地を過って埃の白い街道を左へ郊外の閑かさを飽迄も吸った新築の家、夫は六畳と四畳半と丈の、小さくて明くて、サッパリとしてそれ自らが画室の様だ。こゝに妹と二人で住んでいる、室の一隅には露西亜更紗の三尺四方ばかりの上にプリミチブな泥人形やハリコ人形などが赤く青く白く黒く黄いろく散らかしてあり、床の間には古い印度瓶へ自分でエジプト風の図案を描き、それに挿した芍薬の花がもう萎れてゐる、その傍にはやゝ大きな額縁が二つ、自由な意匠の小さな壺が三つ四つ、窓の前の卓子にはガラス函入の絹毬が光り、その下の机には巻紙に何やら細かく書きかけてある、絵の具箱、カンバス、----このほかには箪笥もなく鏡台も見えない、こうした周囲を背景にして、素袷の襟を掻きあわせつゝ赤白の碁盤縞の布をかけたチャブ台の前に坐った二十四歳の、新しい女の芸術家を、まず想像して見たまえ(中略) ケチな芸術に非ず 「好きなのは、やはりゴオガンのです」話す時、その声は消えるように低くなる、「このごろ描きましたのは----」と立って壁によせかけた小さな板を裏返して「じきこの近くなのです」、見ると、木立の間から畠を越えて夕空が明るくのぞかれる、木の葉といい草の葉といい、女とは思われぬほど強く快く描いてある、ふとセザンヌの雨の画を思いだしたので、そのことをいうと「えゝセザンヌもほんとうにようございますわね」と子どもらしく口を開いて目をほそめた、好んで行くのは浅草の池の辺、あの活動写真の小舎などの毒毒しい色彩がたまらないそうな、けれども売らなければ食えないというのではない、そんなケチな芸術ではない
  
 文中には、「鬼子母神境内の墓地」というおかしな記述もあるが(鬼子母神堂北側の法明寺境内にある墓地という意味だろう)、おおよそアトリエの様子がわかる。
 長沼智恵子もまた、日本女子大の学生時代を含め、目白駅の東側に拡がる明治末から大正初期にかけての風景作品を、数多く描いていたにちがいない。その画面は、同じ時代をテキストで記録した海老澤了之介Click!の描写と、直接重なってくるだろう。このあと、智恵子は雑司ヶ谷719番地から、わずか北西に200mほどのところにある雑司ヶ谷711番地の借家へと転居している。
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 高田村雑司ヶ谷719番地と同711番地は、ともに海老澤了之介Click!が住んだ雑司ヶ谷733番地のすぐ裏手(東側80mと北側50m)にあたる。だが、彼の自伝的著作『追憶』Click!には新進画家として、あるいは「新しい女」として新聞や雑誌にたびたび取り上げられ、のちに高村光太郎と結婚する長沼智恵子の記述がまったく見あたらない。ほとんど同じ町内の近隣同士なので、芸術家の存在にことさら敏感な彼が記録しないのはめずらしいことだ。海老澤了之介は、『青鞜』に集う「新しい女」たちが嫌いだったものだろうか。

◆写真上:雑司ヶ谷719番地(現・南池袋3丁目)にあった、長沼智恵子アトリエ跡の現状。実際には、写っている邸の裏側(西側)あたりに建っていたと思われる。
◆写真中上は、1917年(大正6)に行われた日本女子大学運動会の絵はがき。は、同大の運動場で自転車に乗る学生たち。下左は、2004年(平成16)に出版された北川太一『画学生智恵子』(蒼史社)。下右は、同大の雑司ヶ谷泉山潜心寮をめぐる築垣。古い大谷石の築垣上にコンクリート塀をつぎ足し、さらに有刺鉄線をめぐらす厳重さだ。
◆写真中下は、日本女子大学寮の正門プレート。は、太平洋画会研究所で石膏デッサンをする女子研究生。長沼智恵子か文中に登場する渡辺ふみ、または埴原久和代かもしれない。は、谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所跡の現状。
◆写真下は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷719番地と同711番地の界隈。は、1929年(昭和4)作成の市街地図にみる同じエリア。微調整レベルの地番変更はあるが、明治末から昭和初期まで大きなズレは見られない。は、雑司ヶ谷711番地の東通りに面したあたりに建っていた長沼智恵子アトリエの現状。

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めずらしい関東大震災ピクトリアル。(3) [気になるエトセトラ]

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 今回は、これまで参照してきたグラフ誌Click!写真集Click!から離れ、関東大震災Click!時には中堅の出版社となっていた本郷区駒込坂下町の大日本雄弁会講談社が、1923年(大正12)10月1日に発行した『大正大震災大火災』(当時価格1円50銭)より、あまり見たことのない写真類をご紹介したい。
 同社は本郷区という立地のせいか、大震災直後からカメラマンと記者を被害地域へ派遣しているので、震災直後の市街地の様子をとらえた写真も多い。のちに発生する大火災で、全域が焦土と化してしまう街並みや、余震や火災に追われて逃げまどう人々の様子が撮影されており、記録写真としてはきわめて貴重だ。
 同書の巻頭では、哲学者で国粋主義者の三宅雄二郎は、こんな「序」を寄せている。
  
 維新以後、長足の進歩を遂げ、文明の設備も、旧幕時代と比ぶべくもないと見え、幾階の高楼を指し帝都の誇りとしたが、安政位の地震で、見渡す限り焼跡となり、仲秋の月も、焼跡より出で焼跡に入るといふ状態である。これと云ふのも、前にそれぞれ用心し、後に耐震耐火で丈夫と思ひ、井戸をつぶし、火除地を除いたのに因ることが多い。今少しその辺を考へ、設備を整へたならば、大災害を幾分一に止め得たであらう。従来の如き設備では、安政の如き地震で、安政以上の災害を免れることが出来ぬ。或る人は予め之を明言したが、一般に何とも思はず、且つ地震学者は、早晩、断層の危険があると知り、之を公にすれば、世間が騒ぎ、有識者側より注意させようとして手を控へたやうなわけとなり、予想よりも早く震災に遭遇し、如何ともすることが出来なくなつた。識者の眼が何処までとゞくか、その手が何処まで及ぶか、旧幕時代に較べて、人智に何程の進歩あるかを怪しまねばならぬ。
  
 三宅は金沢育ちなので知らなかったのか、震災にみまわれた市街地で江戸期の「井戸」をつぶした事実はなく、廃止されたのは膨大な水道(すいど)網Click!だ。今日から見れば、直下型の活断層地震とみられる江戸安政大地震を、相模トラフの海洋プレート型地震の関東大震災とを同一に考えるなど、ピント外れな表現も多いけれど、文中の「安政位の」「安政の如き」大地震を、「関東大震災」に置き換えたような文章が、おそらく次に東京を襲う大震災のあとにも書かれるであろうことは想像に難くない。
 三宅が指摘しているように、「一般に何とも思はず」の状態が、特に1964年(昭和39)の東京オリンピック以降は恒常化しており、水道(すいど)の竪穴を埋めるどころか、重要な防火・消火用水として使用できたはずの河川や運河を次々に埋め立て、避難場所として設置された広場や火除け地を高速道路の橋脚用地として破壊したりと、防災インフラの食いつぶしになんの危機感も抱かなくなってしまった状況がある。
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 三宅は、あたかも大震災を口にする地震学者が、「之を公にすれば、世間が騒」ぐので公表を手控えたように書いているが、もちろん科学的な事象を積み上げながら大地震を正確に警告した地震学者はいた。関東大震災が起きる18年前、水道管の破断で消防機能がマヒし、地震直後に発生する大火災で、「東京市内各地の被害推測したら、全市焼失なら十万、二十万の死人も起こりうる」と予測した地震学者の今村明恒だ。だが、彼の警告は不安をあおる妄言(たわごと)として非難を浴び、提言のほぼすべてが各界から敵視され無視されている。
 さて、同書には震災直後の街角をとらえた写真が目につく。いまだ大火災が市街地全体に拡がらず、中には火事場を見物している“余裕”さえあった、9月1日午後の情景だろう。大火災(大火流Click!が生じた地域もあった)は、同日の夜から翌日にかけ急激に拡大していくことになる。同書でも、日比谷交差点近くで発生した火元のひとつとなるビル火災をとらえている。地震で倒壊した住宅の中で、4階建てのビルから出火している様子が写っているが、ここから拡がった火災は南からの類焼と合流して、麻布区や赤坂区のほうまで延びていくことになる。同じく、日比谷公園から同じ火災の拡がりを眺めている人々をとらえたスナップも残っている。
 また、神田駅の近く神田今川橋の通り沿いを、迫りくる火災から逃げまどう人々をとらえた写真も現場に居合わせるようでたいへんリアルだ。最初の強震で、比較的広くて幅員のある今川橋通り(電車通り)へ避難した人たちは、すぐそこまで迫っている大火災に愕然としただろう。余震の中、あわてて家内にもどり貴重品や家具調度品を持ちだして、火災とは反対方向へ逃げる様子が写っている。
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日本橋丸善1923.jpg
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品川駅1923.jpg
 大火災による被害が甚大だったため、語られることが少ないけれど、建物の倒壊による死傷者の数も多かった。東京市の推定によれば、5,000~6,000人が崩れてきた建物の下敷きとなって圧死している。震災直後に倒壊した建物の写真も、同書には記録されている。赤坂の住宅街で起きた惨状は、当時の重たい屋根瓦を葺いた日本家屋が、いかに危険でもろかったのかを証明するような写真だ。日本橋の白木屋Click!丸善Click!も、また上野精養軒Click!も倒壊して多数の死傷者を出している。中でも白木屋と丸善は、ほどなく延焼してきた火災が迫り、建物の下敷きになって救援を待っていた多くの生存者が、大火災にのまれて焼死した。
 同書の「序」を執筆している幸田露伴は、東京の建築について次のように書いた。
  
 今回の大災禍も其地震は地殻の理学的理由によつて、或部分の陥没と、或部分の隆起とを惹起したのぶある。火災は地震によつて起されたものであるが、此の方には大に平時の防火準備及び方法、訓練等に関する考慮の不足であつたことを見はして居て、若し今少し平時に於て深い考慮が費されて居たなら、同じく災禍を受けるにしても、今少し災禍を縮小し得たらうと思はれる。地震の方も、一般家屋の建築が、今少し外観の美を主とせずに、実際に耐力の有るものであつたなら、即ち虚飾を少くして実質を重んずる建築法が取られてゐたならば、同じ程度の震動を受くるにしても、今少し軽い程度の災害で済んだことだらうと思はれる。市街の通路の広狭、空地の按排等も、今少し好状態であつたら震災火災によりて惹起された惨事を今少し軽微になし得たであらうし、又水道のみ頼る結果として、市中の井を強ひて廃滅せしめた浅慮や、混乱中を強ひて崇高な荷物を積載した車を押通して自己の利益のみを保護せんとした為に愈々混乱を増大し、且其荷物に火を引いて避難地をまで火にするに至つた没義道な行為や、さういふ類の事が少かつたなら、今少し災禍を減少し得たらうことは、分明である。
  
 この文章は、現在の東京にもそのまま当てはまる内容だろう。見栄えをよくするために、旧「白木屋」(現・COREDO日本橋)をはじめ、全面をガラス張りにしたビルが東京のあちこちに建設され、震動が激しく消防のはしご車さえとどかない死傷率がきわめて高そうな、高層マンションの上階に住むのをステータスとしているようなおかしな感覚が、関東大震災からわずか100年足らずで東京に蔓延している。
銀座通り1923.jpg
八丁堀1923.jpg
歌舞伎座1923.jpg
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 震災で水道管が破断することなく、また停電することもありえないことを前提に、火災が発生したらただちに天井のスプリンクラーから消火水が散布され、エレベーターを使って避難できると思っている、根拠のない楽観論(というかもはやおめでたい空想論だ)を唱える人間こそ、天災をより大きな人災へと変える元凶そのものにちがいない。
                                <つづく>

◆写真上:建物は倒壊せずに建っているが、内部は全焼した日本橋三越。
◆写真中上:1923年(大正12)10月1日発行の『大正大震災大火災』(大日本雄弁会講談社)より。からへ、日比谷の火元となった4階建てビルの火災、その火災の拡がりを日比谷公園から見守る人々、神田駅近くの今川通りに迫る火災から逃げまどう人々、震災と同時に崩壊した赤坂地域の住宅街。
◆写真中下からへ、地震で倒壊したあと火災が襲った日本橋白木屋の残骸、同じく日本橋丸善の残骸、地震で崩壊した上野精養軒、品川駅に殺到する避難民。
◆写真下からへ、全滅した廃墟の銀座通り、同じく壊滅した八丁堀、全焼の歌舞伎座、下左は、浅草寺の本堂と五重塔、仁王門を残して火に包まれる浅草を描いた横山大観の『大正大震災大火災』裏表紙。右下は、崩落した二重橋濠に架かる正門石橋の石垣。

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社長が急逝して楽隠居の会長が復帰。 [気になるエトセトラ]

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 最近はほとんど使わなくなってしまったけれど、その昔、わたしは万年筆でよく文章を書いていた。だから、道具としてのペンには書きやすさばかりでなく、長年使っていても壊れない耐久性を重視して選んでいた。
 メインに使用していたのは、プラチナから1978年(昭和53)に発売された#3776初代だ。当時、学生だったわたしは、発売から少したって大学生協で購入し、学校を出る際はこれで卒論を書いた憶えがある。握りやすく滑らないよう、ボディには独特なヒダが刻まれていて、漆黒の初代#3776は「ギャザード」と呼ばれていた。以後、今日までずっとプラチナ#3776を愛用してきた。3776の数字は、もちろん富士山の標高値だ。
 それまでは、中学へ入学したころに、親父が海外旅行の土産として買ってきてくれた、パーカーの#75(スターリングシルバー)を使っていた。このパーカー万年筆は、それほどペン先を使いこまなくても抜群に書きやすく、けっこう筆圧が高いわたしには使い勝手もよかった。その合い間には、パイロット万年筆やスワン万年筆などをプレゼントでもらったり、賞品で当てたりしたけれど、パーカーの滑らかな書き味にはほど遠かった。だから、他の万年筆はペン先がすり減ったり、ゆがんでダメになり惜しげもなく棄てても、パーカーだけは大切にしてきた。
 でも、欧米のローマ字を崩した横文字ではなく、日本語の縦書きがいけないのか、ペン先に妙なクセがついたように思えてきた。万年筆の軸がスターリングシルバーなので、不精なわたしは満足に手入れをしないせいか、手垢で黒ずみや染みのようなものがたくさん付着し、見た目もかなり汚らしいので、これ以上書きやすさを損じないよう……という名目で現役から引退させ、できるだけ温存することにした。その代わりに手に入れたのが、先述したプラチナ#3776初代だった。
 しばらく、数年の間は、手になじんだパーカー#75を「社長」と呼び、新たに手に入れたプラチナ#3776を「部長」のサブとして使っていたが、パーカー社長を楽隠居にして「会長」に奉り上げ、プラチナ部長を「社長」に昇格してメインに使うようになった。こうして、プラチナ社長は40年近い勤続年数を働きつづけてきた。途中で、もしプラチナ社長が倒れて入院したときのことを考え、1990年(平成2)ごろ予備にペリカンクラシックM205(スケルトン)を購入し、プラチナ社長の下で「秘書」として働かせることにした。うっかりもののわたしは、置き忘れたりなくしたりするので、外出するときはプラチナ社長の行方不明が心配で、ペリカン秘書をお供に連れていった。
 ところが先日、プラチナ社長が急逝してしまったのだ。落としたりぶつけたりして、グリップの部分にひび割れができていたが、ひびが拡大して割れプラスチックがくぼんでしまい、それが直接の原因かどうかは不明なものの、インクを入れておくと大量に漏れるようになってしまった。これでは、もう使いものにならない。修理に出すことも考えたけれど、おそらく新しい万年筆を買ったほうが安く済みそうなほどの、瀕死の重傷だった。しかたがないのでプラチナ社長をおシャカにして弔い、楽隠居させていたパーカー会長を、再び現役の「社長」にもどすことにした。
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 ただし、ペリカン秘書を雇用したころから、世の中、ほとんど万年筆を使わない時代を迎えつつあった。1980年代も半ばになると、仕事の原稿や書類づくりはほとんどPCのワープロソフトで済ませるようになっていたし、複写用紙のフォーム類ではボールペンしか使えない。万年筆の出番は、せいぜい手紙やハガキを書いたり、ボールペンで書けばいいのに仕事の特別な書類や原稿にのみ使うだけになっていった。現在では、手紙でさえ時間がないとWordでちゃっちゃか入力し、印刷した最下段に万年筆で横書きのサインを入れるだけのことが多い。つまり、現役復帰したパーカー社長もペリカン秘書も、昔ほど忙しくなくなってかなりヒマなのだ。
 エジプトで生まれヨーロッパで育った万年筆が、ペン先を傷めたり壊したりする要因として、もっとも挙げられていたのが、日本語の縦書き文化だろうか。万年筆は、もともとローマ字を筆記体で左から右へ流れるように書くのに、最適な筆記用具として発達してきた。だから、日本の便箋や原稿用紙のように上から下へ一字一字区切って、さまざまな角度をもった文字の縦書きには適さず、ペン先を酷使するため傷めやすいというのが、もっともな理屈なのだろう。それとも、日本産の万年筆は縦書きに対応し、欧米とは異なる特別なペン先を開発していたものだろうか。
 万年筆で縦書きをして、店員に怒られたエピソードを読んだ記憶があるので、本棚をあちこち探してみた。パリの文房具店で、万年筆の試し書きをしながら日本語を縦に書き、店員に怒られていたのは向田邦子Click!だ。1980年(昭和55)に文芸春秋より出版された、向田邦子『無名仮名人名簿』から引用してみよう。  パーカー#75.jpg
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 試し書きをしてもよいかとたずねると、どうぞどうぞと、店名の入った便箋を差し出した。/私は名前を書きかけ、あわてて消した。稀代の悪筆なので、日本の恥になってはと恐れたのである。/「今頃は半七さん」/私は大きな字でこう書いた。少し硬いが、書き味は悪くない。ところが、金髪碧眼中年美女は、「ノン」/優雅な手つきで私の手を止めるようにする。/試し書きにしては、荒っぽく大きく書き過ぎたのかと思い、今度は小さ目の字で、/「どこにどうしておじゃろうやら」/と続け、ことのついでに、/「てんてれつくてれつくてん」/と書きかけたら、金髪碧眼は、もっとおっかない顔で、「ノン! ノン!」/と万年筆を取り上げてしまった。/片言の英語でわけをたずね、判ったのだが、縦書きがいけなかったのである。「あなたが必ず買上げてくれるのならかまわない。しかし、ほかの人は横に書くのです」(中略) 彼女の白い指が、私から取り上げた万年筆で、横書きならかまわないと、サインの実例を示している。それを見ていたら、東と西の文化の違いがよく判った。
  
 店員は縦書きにする日本語を見て、あわててペン先の傷みを気にしたのだろう。それにしても、試し書きをする文字が、芝居のセリフだったり馬鹿囃子(ばかっぱやし)なのが、(城)下町育ちにあこがれる乃手Click!女子の向田邦子らしい。
 わたしは手紙にしろハガキにしろ、最近は縦書きにすることがあまりない。便箋も横書きのものが増えたし、ハガキもつい横書きで書いてしまう。特に理由もなく、無意識なのかもしれないけれど、ようやく出番ができ、このときとばかり万年筆を使うと、やはり縦書きよりも横書きのほうがスムーズな書き味に感じるせいだろうか。
 日本画家で書家でもあった祖父は、わたしに手紙をくれるときには、必ず便箋に筆でしたためてきた。子どものわたしには、あまりに達筆すぎてまったく読めないので、親に代読してもらっていた。やはり、縦書きの日本語には、万年筆ではなく筆がいちばん適した筆記用具なのだろう。もっとも、人前で恥をかくほど悪筆なわたしは、絵筆ならともかく、書の筆など習字の時間以外にもったことはない。
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 それにしても、パーカー社長は40年以上も働きづめで、どこか体力が衰えて文字にも力がない。キャップもゆるゆるでバーカーになってきているし、やっぱり楽隠居のほうが性に合っているようだ。かといって、ペリカン秘書は書き味がイマイチだし、そもそも引退した社長の座を秘書が継ぐなど、世の中では聞いたこともない。ここは、できるだけペン先を傷めないよう横書きに徹し、なかば楽隠居のバーカー社長、いやパーカー社長を騙しだまし使うしかなさそうだ。そういえば、縦書きの文書や表示が日本から減っているのを嘆き、自刃した作家にならい「縦の会」を結成したのも、向田邦子Click!だった。

◆写真上:長いものは中学生時代から使いつづけている、愛用のペン類。
◆写真中上:先ごろお亡くなりになった、1978年生まれの故プラチナ社長の#3776初代。すでにおシャカで廃棄したので、写真はプラチナ万年筆(株)のサイトから。
◆写真中下は、中学生のとき親父から土産でもらい代取に返り咲いたパーカー社長の#75 Sterling silver。かなり薄汚れガタガタでくたびれているが、いまだ現役だ。は、つい欲しくなってしまう寄木細工万年筆だがパーカー社長がいじけると困るし、そもそも万年筆を使うシチュエーションが減りつづけているので我慢。
◆写真下は、愛用のペン類とインク。は、ペリカン秘書のClassic M205。

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