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チンチンの自力健康器を愛用する藤田嗣治。 [気になるエトセトラ]

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 昭和初期に開発されたベストセラー機器に、国民健康振興会が開発し日本・ドイツ・イギリスで特許を取得した「自力健康器」というのがある。国民健康振興会は、神田区一ツ橋1丁目の帝国教育会館内にオフィスがあり、少なからず戦前の教育界とも結びついた省庁の外郭団体(天下り機関)のような臭いがする。
 自力健康器とは、ベルトのバックルのような形状をした、スプリングで下腹部(臍下丹田)を圧迫して、下腹を使った独特な腹式呼吸を行なうための、電源レス/バッテリーレスのマニュアル装置だ。やはり、ベルト状の腹帯を使って、自力健康器を漢方のツボである臍下丹田に固定し、下腹式呼吸がうまくいくと「♪チンチン」と、内部に装備されたチャイムが鳴るらしい。逆に、呼吸がうまくいかないと「♪チンチン」の音色が聞こえないので、うまくチャイムが鳴るまでは独特の使いこなしが必要だったようだ。
 広告や使用説明書に添えられた図版では、ヘソのかなり下のほうに当ててベルトを巻くようなので、洋服を着ると下腹部がせり出し、かなり目立って邪魔だったのではないだろうか。また、内部の機構を描いたスケルトン図版では、独特な呼吸法で小さなハンマーがベルに当たるよう組み立てられており、自力健康器を装着しているときは、いつも“社会の窓”あたりから、「♪チンチン」という音色が小さく響いていたらしい。
 自力健康器の効用は、あらゆる病気が改善・治癒するとしており、末期の肺結核や癌、重症の胃潰瘍以外なら、たいがい効果が表れて治癒するらしい。「うそくせっ!」といってしまえばそれまでだが、自力健康器の特長を1939年(昭和14)に発行された、「婦人倶楽部」2月号掲載の広告コピーから引用してみよう。
  
 運動不足や病弱も五分か十分の使用で
 運動不足で困る人や、慢性の胃酸過多、胃下垂、胃拡張、便秘下痢、胃アトニー、不眠症、神経衰弱等の患者が「自力健康器」を使用してからメキメキ食欲が進み便通も整ひ、身體が肥つた、日頃心配の血圧が下り安心した、ビタミンの吸収が良く脚気も共に全快した。体質が一変して蓄膿症まで治つた、夜は不思議に安眠出来て頭痛が明快、心身共に健康になり若返つた等々全国各地から続々と礼状が寄せられ大好評大評判です。/若し「自力健康器」を三日間も使用して食欲が進まぬ人、便通が整はぬといふ方は健康器のシメ方が弱いのが原因ですから健康器をグツと強くシメて下さればメキメキ食欲が進み便通も整ひ、頭脳もハツキリするのが目に見えて判り、なるほど「自力健康器」は効くなと御満足が得られませう。
  
 広告には、慢性胃腸病が完治して筋肉がムキムキになった静岡の「田村重一郎君」をはじめ、心臓病が治ってなぜか筋肉がムキムキになった島根の「岡崎安正君」、やっぱり筋肉がムキムキになった新潟の「松井健治君」ら3人の写真が大きく添えられている。まるで、米国の通販CMを先どりしたようなビジュアルだ。
自力健康器広告1.jpg
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伯剌西爾時報19380722.jpg
 コピーにもあるように、「♪チンチン」と効果を上げるためには、ベルトをかなりきつく締めなければならなかったようで、効果を得られないのはベルトの「シメ方が弱い」からだとしている。そのせいか、「きつく締めたらお腹が痛くなったよう!」という苦情が殺到したらしく、自力健康器の使用説明書にはいままで使用していなかった横隔膜が、腹式呼吸で急に伸縮運動を始めたので痛む現象だから、「少しも心配はない」とわざわざ赤文字で印刷している。(そうかなぁ?)
 ただし、「普通の腹痛の場合は、無理に我慢せず治つてから使用する事」と、逃げ道の注釈を添えることも忘れていない。そう、使用説明書をよく読んでみると、なにか不都合なことが起きた場合は、「使い方が悪い」あるいは「取り扱いが誤りだ」とすぐに逃げられるよう、30項目近い注意書きが連ねてあるのだ。その挙句、「無理に使用せぬこと、何事でも無理があるといけません」などと、一般論まで注釈に添えてある。w
 自力健康器は日本国内はもちろん樺太、台湾、朝鮮、満州、上海、米国、ブラジルなど世界各地に販売代理店を展開し、1939年(昭和14)現在で174拠点の店舗で販売していた。ちなみに東京では、日本橋×2店、神田×2店、駿河台下×1店、音羽(講談社)×1店、八王子×1店の計8店舗で販売されている。
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 さて、この自力健康器の宣伝キャラクターに、この時代には「確信犯的国粋主義者」と化していた洋画家・藤田嗣治Click!が起用されている。それだけでも、帝国教育会館にオフィスをかまえる国民健康振興会が、政府機関(特に軍部?)の息がかかった組織であることをうかがわせる。広告のコピーも勇ましく、パリで藤田嗣治が「日本主義」を貫徹した(?ことになっている)様子を紹介している。
  
 生粋の日本主義  藤田嗣治画伯
 独特の生彩を有つた(ママ)画風と、お河童頭で誰れ知らぬものもいない藤田嗣治画伯は、滞仏二十有余年、一時は花の都巴里の人気を一身に掻つさらつて、日本人のために気を吐いた。/画伯の生活様式が水際立つた欧風化に、兎角西洋文化の心酔者であるかのやうに見誤られがちであるが、画伯は生粋の日本主義者でシカも柔道の有段者であると聞いては驚かされる人もあらう。/巴里の社交界に柔道を紹介したり、滞仏中の友人と共に法被会を催して、江戸前の握り寿司を食べたりして、大に日本趣味を発揮したものである。/又画伯は極めて熱心なる『自力健康器』の愛用者である事も見逃せない。画房で彩管を揮ふときにも、街頭の散歩にも、写生の旅にも、いつも『自力健康器』が画伯の臍下丹田でチンチンと美妙な音色を響かせて居る。多忙な日常の疲労を之れに依つて癒しつゝ健康を増進する目的だとの事だが、流石に画伯だけに『自力健康器』の使用から来る所謂『肚の力』を、日本精神のどこかに結び着けての愛用らしく思はれる。
  
 パリをはじめヨーロッパ各地で柔道を紹介し、道場で教えていたのは画業に忙しい藤田ではなく、おもに黒メガネの旦那こと石黒敬七Click!(柔道8段)ではなかったか?
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 自力健康器は、使用をはじめてからたった1日で、「成程効く」という「自覚を与へる所に一大特色がある」そうだ。女性も子ども(12歳以上)も使用でき、効用の中には「頭脳も明快」「百歳の長寿を保つ事が出来る」とも書かれているので、これはぜひわたしも試してみたいのだけれど、いまではどこに影をひそめたものか販売されていない。たまに、地方の旧家から見つかったらしい中古品が、ヤフオクに出品されるぐらいだろうか。

◆写真上:広告に添えられた図版で、自力健康器を臍下丹田の下腹部に装着したところ。
◆写真中上は、1939年(昭和14)発行の「婦人倶楽部」2月号に掲載された広告。は、1938年(昭和13)7月22日の「伯剌西爾時報」(ブラジル)掲載の記事。
◆写真中下は、自力健康器と外箱。は、同梱された使用説明書。
◆写真下は、30項目近くの注釈がある使用説明書。は、藤田嗣治をキャラクターに起用した1939年(昭和14)発行の「婦人倶楽部」2月号の媒体広告。

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記憶の糸が途切れた武蔵野風景。 [気になるエトセトラ]

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 「♪かわる新宿あの武蔵野の~月もデパートの屋根に出る~」と唄われたのは、1929年(昭和4)にヒットした『東京行進曲』Click!だが、戦前から1950年代にかけては、「変わりゆく武蔵野」というフレーズがよく使われている。だが、1960年代から今日までは、「変わりすぎた武蔵野」という表現がいちばんピッタリとくるようだ。
 そんなことを痛感させてくれる出来事が、先日、府中を訪れたときに起きた。府中市郷土の森公園へ、大賀一郎Click!が育てた古代ハスClick!を観賞しに出かけたときだ。武蔵野線の府中本町駅で降りて、多摩川のある南へ歩いていく道すがら、「三千人塚」という史跡があった。近くの分倍河原では、鎌倉幕府軍と北関東の新田義貞軍が激突した古戦場跡も近いので、多数の戦死者を埋葬した塚なのだろうと想像した。同時に、どこかで聞いた史跡名だとも感じたが、先を急ぐのでそのまま塚をあとにした。
 近年の発掘調査によれば、「三千人塚」という名称やその謂れは後世の付会で、鎌倉末期の戦死者を弔った塚などではなく、鎌倉期から室町期にかけ地域の有力な一族を葬った塚墓のひとつであることが判明している。とんだ戦跡にされてしまった同塚には、鎌倉末期の板碑Click!が添えられていたので、よけいに分倍河原の合戦と結びつけられて口承伝承されてきたのだろう。
 どこかで聞いたような「三千人塚」の名称だが、ようやく思い出したのは塚を訪れてから1年後、つい最近のことだ。親父のアルバムに、「三千人塚」の手書きキャプションがあるのを思い出したのだ。1950年代後半から60年代にかけ、親父はよく武蔵野をあちこち散策して歩いている。もっとも、当時の武蔵野のイメージはすでに山手線の西域部ではなく、戦後の住宅難と市街地化に押されて、23区の西側に位置する三鷹市や武蔵野市、小金井市、府中市などへと移っていた。親父の書棚には、武蔵野に点在する石仏に関する本や資料が並んでいたころだ。
 そのころのアルバムをめくると、見憶えのある写真とともに「三千人塚」のキャプションを見つけた。大きなエノキが写る写真には見憶えがあったが、先日、そのすぐ前を歩いて通過しているにもかかわらず、まったく写真の情景と現実の風景とが一致せず、記憶の糸が途切れたままつながらなかったのだ。それほど、現在の「三千人塚」とその周辺はさま変わりをしていて、アルバムの写真と同一の場所とは思えなくなっていた。一連の写真には、幼稚園児ぐらいのわたしも写っているので、おそらく親と一緒にハイキングでも楽しんだのだろうが、府中本町で降りてから多摩川べりへ着くまでの間、まったくなにも思い出せなかった。こんなことは、ほとんど初めての経験だ。
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 たとえば、同じ武蔵野Click!のエリアでも、武蔵小金井の南に連なる国分寺崖線Click!は、ハケの道(同地域では崖線の急斜面をバッケClick!とは呼ばずにハケと呼称している)にしろ、貫井弁天社や滄浪泉園、野川、恋ヶ窪、小金井公園にしろ、高校生や大学生になってからも何度か散策しているので、いま現在そこを歩いても十分に既視感(既知感)があって、1950~60年代のアルバムに貼られた情景と一致せず、まったく気づかずに通り過ぎる……などということはありえない。でも、府中ではそれが起きてしまった。まるで、タイムスリップで未来にきたような、あるいは浦島太郎のような感覚とはこういうことか……と思う。アルバムに貼られた写真は、おそらく1960年代の撮影だろうから、それから50年以上が経過していることになる。
 同じく、50年以上がたっているにもかかわらず、それほど雰囲気や周囲の環境が変わらずに、すぐさま思い出せるような“武蔵野”もある。世田谷区にある、徳富蘆花の蘆花恒春公園などそれだ。親父のアルバムにある写真と、何年か前に訪れた同園とは、遠景の住宅街を除きほとんど50年以上前のままだ。つまり、記憶の糸がとぎれずに、なんとかたぐり寄せられる風情を残している。同様に、小金井公園の古びた郷土資料館や前方後円墳はなくなったが、新たに造られた江戸東京たてもの園の周辺には、当時の深い森や静謐な空気の名残りがそのままだ。ただし、サクラの名所でも有名な小金井橋は、まったく異なる次元の姿へと変貌してしまったけれど……。
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蘆花墓所1960頃.jpg 蘆花墓所.JPG
 恋ヶ窪にしても、今村繁三Click!の別荘跡ののちは、昔から大手企業の研究所になっていたので、武蔵野の湧水池と原生林の面影をよく残していて、公開日に散策すると清々しくて楽しい。もっとも、傾城伝説が残るここの美しい「姿見の池」は、いつの間にか「大池」という名前に変えられ、おそらく観光用に新たな湧水池を造成したのだろう、現在は同研究所の池から西へ400mほどのところに、新しい「姿見の池」が造られている。
 そんな武蔵野の残り香がただよう文章を、1951年(昭和26)に講談社から出版された大岡昇平Click!『武蔵野夫人』Click!から引用してみよう。ちなみに、描かれた情景は軍隊から復員してきた「俺」が、小金井のハケの家ですごした敗戦から間もないころだ。
  
 俺が幾度も狭山に登つて眺められなかつた広い武蔵野台地なんてものも幻想にすぎないぢやないか。俺の生れるどれだけ前に出来たかわからない、古代多摩川の三角洲が俺に何の関係がある。あれほど人がいふ武蔵野の林にしても、みんな代々の農民が風を防ぐために植ゑたものぢやないか。工場と学校と飛行場と、それから広い東京都民の住宅と、それが今の武蔵野だ。
  
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 この文章が書かれたのは、1949~50年(昭和24~25)だが、場所をさらに東京の外周域に移して、いまでもまったく変わらない情景が「武蔵野台地」で、人々の営みとして繰り返されている。「三千人塚」の近くには、大きな電機工場や団地、中央高速道路沿いのビール工場などが林立し、記憶の糸がたぐれないほどのたたずまいを見せていた。

◆写真上:いまや住宅や工場、高速道路などにすっかり囲まれてしまった「三千人塚」。
◆写真中上は、親父のアルバムにある1960年代の「三千人塚」と鎌倉期の板碑で、とても同じ場所とは思えない。は、「三千人塚」の現状。は、塚の南にある中央高速道路に面したビール工場で「♪左はビール工場~」の建屋だろう。
◆写真中下は、1960年代の世田谷にある蘆花恒春公園と現在の様子。は、1960年代初めごろに撮影された徳富蘆花の墓所()と現状()。
◆写真下は、わたしが1974年(昭和49)の高校時代に撮影した野川の源流域と恋ヶ窪の森(右手)。その下が、恋ヶ窪の森にある湧水源の元・姿見の池。は、1960年代の小金井の雑木林と1974年(昭和49)に撮影したハケの道の風景で、カラー写真は小金井公園に拡がる雑木林の現状。は、1960年(昭和35)前後に撮影された小金井公園の南西にある小金井橋で、現状の4車線道路の橋と比べたらまったく別世界の風景だ。

またまた、SSL化による不具合とみられる現象が起きた。左側のサイドカラムに貼りつけたバナーの画像が、一昨日の時点ですべて外れてしまっていた。Soーnetの運用管理チームは、改修にともない少しずつ不具合つぶしをしているように想像するのだが、こちらをいじるとあちらが不具合というような、モグラ叩きに状況に陥ってないだろうか?

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警視庁が牛乳販促ポスターで大顰蹙。 [気になるエトセトラ]

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 大正期から昭和初期にかけ、警視庁の衛生部では牛乳の衛生管理にことのほか厳しかったらしい。いや、警視庁に限らず全国の警察署では、牧場や牛舎の建設・運営にはじまり、乳牛の飼育環境から搾乳、牛乳の保管・運搬にいたるまで、大きな権限をもっていて執拗な「指導」を行なっていたようだ。
 乳牛を飼育する専門家の側にしてみれば、畜産や乳牛についてほとんど知識のない警察が、各種認可・許可の制度を盾に、半分シロウト考えでいろいろ注文をつけてくるのだから、たまったものではなかったろう。落合地域にも多かったとみられるが、農家で数頭の乳牛Click!を飼育し、毎朝搾った牛乳を契約した東京牧場Click!からまわってくる大八車やトラックに載せて、現金収入を得る兼業農家が各地で見られた時代だ。ところが、ほどなく農家での搾乳が警察により禁止されると、どこかの牧場か認可を受けている専門の搾乳業者へ乳牛を預けざるをえなくなった。
 また、牛乳を搾る人間にもなにかと注文をつけ、しまいには本人の健康診断書まで提出しなければ認可しないという、嫌がらせとしか思えないような指示までだされていた。搾った牛乳は、売るときばかりでなく購入するときも自治体や警察の許可が必要だった。牧場や畜産農家、牛乳加工業者にしてみれば、警察がいかに牛乳を搾らせないよう、あるいは乳製品を造らせないよう“邪魔”をしているとしか思えなかったようだ。警察へ何度も足を運んでいるうち、事業としてコストに見合わないと、転業してしまった酪農家や業者も多かったらしい。
 牛乳の生産事業を、なぜこれほど煩雑化して居丈高に取り締まるのかが、後世になって振り返ってみても不可解な時代だったようだ。当時の様子を、平塚の守山乳業Click!が1979年(昭和54)に出版した『守山乳業株式会社60年史』(非売品)所収の「座談会」から引用してみよう。
  
 あの時分、農家で乳を搾ることは禁止されていて、牛乳を売ることができない。だから、小田原の牧場に預けたんです。搾ったって、売りようがないからね。その時、たまたま、二宮へ中村畜産株式会社が東京から来て、牛乳を買うということになった。ところが、乳を買う場合にも許可がいる。それで役場やほうぼうへ頼んだものだった。たまたま私の知り合いがちょうど県の畜産技師をしていて、その人が見にやって来た。そこで、下をコンクリートか何かにして、窓もつくって、こういう牛舎にしてと言うんだ。また搾る本人が健康診断を受けるようにとも言われた。そして、健康診断を受けて初めて許可になって、認可証をもらったんだよ。(中略) 衛生の方面は警察がやっていたね。許可証は赤の字で印刷されていて、今でも家にとってありますよ。(中略) 牛舎をつくるんだって、あの当時は、便所から六間とか八間離れていなきゃ許可がおりなかった。私だって、藤沢の警察までどれほど通ったかわからないよ。
  
 確かに、牛乳生産では衛生管理が不可欠だが、商品化の過程で殺菌法がいまだ未確立だった明治時代ならともかく、大正後期から昭和初期にかけては、すでに生産技術や衛生管理技術がかなり進んでいたはずだ。それでも警察が衛生管理にこだわったのは、特に夏季に多い牛乳の腐敗事例が多かったからだろう。
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 当時、駅のミルクスタンドや販売店に置かれていた牛乳・乳製品には、大手メーカーの壜やパッケージをそっくりまねたニセモノも、数多く混じって出まわっていた。その中には、少し前にご紹介した「牛乳ホウ酸混入事件」Click!のように、夏場の腐敗を遅らせるために有害な薬物を混ぜた、劣悪な製品も市場で売られている。たとえば駅売りの業者は、日本均質牛乳や守山商会から仕入れるコーヒー牛乳よりも、1~2割安く購入できる「クラブ印コーヒー牛乳」や「守山コーヒー牛乳」があれば、利幅が増えるのでそちらのルートから仕入れただろう。
 だが、両社の壜を使っているとはいえ、中身までがホンモノかどうかまではわからなかった。商談では、ホンモノの「クラブ印コーヒー牛乳」や「守山コーヒー牛乳」を試飲させておき、実際に各駅へ納入するのは模造品というような、詐欺やペテンまがいの商売もあったようだ。
 また、電気冷蔵庫Click!が高価で普及していない当時、乳製品企業は夏場の腐敗をいかに防ぐかの研究に全力を傾けていた。牛乳を常温で保管したら、数日で腐ってしまう。そこで、さまざまな腐敗防止の技術が追究されていた。同社史から、つづけて引用しよう。
  
 大正十二年の震災の時には珈琲牛乳をつくり始めていますね。それは、親父(守山謙)が珈琲というものを飲まされて、ミルクを半分ぐらい入れて飲むとうまいということを知ったのですね。そこで、最初にそれをつくってビンに入れたわけですが、殺菌方法を知らないものだからみんな腐ってしまった。(中略) なにしろ二日か三日で腐ってしまう。そこで、あの当時やっていたバックへ入れて殺菌する方法を一生懸命考え出して、やっと十五日か二十日、もしくは一ヶ月ぐらいもつような珈琲牛乳ができたのです。(中略) 珈琲牛乳が腐ってしまっていくらやってもうまくいかないので、静岡のどこかの工場に(守山)謙社長さんが先方に泊まり込んで、教わりに行ったこともあったそうです。(カッコ内引用者註)
  
 この静岡にあった工場が、日本で初めてコーヒー牛乳を開発・販売した、東京の中野に本社のある日本均質牛乳だった。守山商会は、ここで消毒した壜に牛乳を詰め王冠打栓の密閉をすることで、腐敗を大幅に遅らせる技術を習得したらしい。
 さて、以上のような時代背景のもと、警察からさんざん絞られ、時代遅れのような指示や煩雑な手続きを厳しく押しつけられていた酪農家や乳製品業者は、1929年(昭和4)の初夏、東京じゅうに貼りだされた警視庁のポスターを見て、全員が呆気にとられただろう。ポスターのキャッチフレーズは、「牛乳ハ健康ノ素……警視庁」。ほとんど嫌がらせのように、酪農家や乳製品業者を締めあげていた警視庁が、いきなり酪農家や乳製品業者の“広報・宣伝部”になってしまったのだ。
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 当然、消費者からは「税金を使ってなにやってんだよ!」と、警視庁に批判が殺到した。当時の様子を、1929年(昭和4)5月26日の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 奇怪、警視庁が牛乳屋の提燈持ち/ポスター撤回騒ぎ
 牛乳といへば眼の敵のやうにしてゐた警視庁が川村衛生部長時代の罪亡ぼしとでも考へたものか、それとも何うした風の吹き回しなのか、写真の如きまるで牛乳屋の広告としか思えぬ しかも立派なポスターを管下の警察署や交番や街路のつじつじに張りださせた、喜んだのは牛乳屋でこの前 面皮なきまでとつちめられた苦しい思ひ出はケロリと忘れて「時代時節でお上のお役人さんも我々の提燈を持つてくれるわい」と今では警視庁大明神様々あがめ拝んでゐる、なるほどポスターには牛乳取扱に対しての注意も記してあるが、それは「つけたり」の如く下の方に小さく記し大きな字で「牛乳は健康の素」と真ツ正面から牛乳屋の大提燈を持つてゐるので牛乳屋の喜ぶのも道理である、途方もないこの見当違ひの宣伝ポスターに果然と攻撃のつぶてはあつちこつちから戸塚衛生部長の手許に投書され、中にはわざわざこのポスターを引つぺがして部長に直接面接の上「府費をつかつてまで牛乳屋の提燈をもつ気か……」と談じこんでくる者まで飛びだしてくる始末にさすがの戸塚さんもスツカリ弱りきつて早々このポスターは撤回させるといふ醜態をさらけだすことになつた
  
 警視庁では、すでに当該ポスターを3,000部印刷して、東京府内へくまなく配り終えたあとだった。サブキャッチ扱いで目立たなくなっている、「牛乳は冷い所におきなさい」と「牛乳は配達後なるべく早くお飲みなさい」ではなく、なぜ「牛乳ハ健康ノ素」がメインキャッチになってしまったのか、戸塚衛生部長は「文字の表現が悪かつたので誤解を招く因となつた」としているが、この表現は「誤解を招く」レベルではないだろう。
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 もうひとつ、当時は牛乳や菓子にグリコーゲンを混ぜ、「健康増進」をうたい文句にする製品がブームを呼んでいた。守山商会でも早々に「守山グリコ牛乳」を販売しているが、「グリコ〇〇」と名づけられた製品には、まるでロシアアヴァンギャルドの「プロレタリア体育祭」ポスターにでも登場しそうな、元気なお兄さんがゴールするイラストが付きものだった。警視庁のポスターは、そのようなグリコーゲンブームも意識してデザインされているところが、よけいに「大提燈」のように見えてしまったゆえんだろう。

◆写真上:昭和時代に、守山商会が制作した製品ポースター各種。右側の「富士エバミルク」ポスターのスチールモデルは、下落合を舞台にした『お茶漬の味』(監督・小津安二郎/1952年)の奥様役でお馴染みの木暮実千代Click!。左側のモデルは、森光子か?
◆写真中上は、戦前に神奈川県で撮影された典型的な酪農家。は、1928年(昭和3)の夏に吉屋信子Click!が下落合の散歩道で撮影した乳牛ホルスタインClick!
◆写真中下は、茅ヶ崎町中島にあった戦前の守山牧場。は、戦後の守山乳業宣伝車。は、1979年(昭和54)に撮影された平塚市宮の前の守山乳業本社。わたしが子どものころから建っていたはずだが、駅の北と南でエリアがちがうせいか見憶えがない。
◆写真下は、1929年(昭和4)5月26日(日)発行の東京朝日新聞。は、同年夏に警視庁衛生部が制作して東京じゅうにバラまいてしまった「牛乳ハ健康ノ素」ポスター。

過去に書いた記事で、SSL化が済んだhttpsページの選択カテゴリーテーマ「地域」設定が、すべて外れているのに気がついた。こういう細かいけれどとても重要な設定箇所を、So-netさんはちゃんと検証しているのだろうか。

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浅草寺境内の石棺と古墳群。 [気になるエトセトラ]

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 この春、久しぶりに浅草寺の伝法院の庭を訪れてみた。同院は、拝観期間が決まっているので、うっかりしていると見逃してしまう。小学生のころ、緒形拳Click!が主演する島田一男の『開化探偵帳』(NHK)というドラマをやっていて、親にせがみ連れていってもらったけれど、以来ほんとうに久しぶりだ。明治の初期、伝法院には屯所(警察署)が置かれており、同ドラマはそこに詰める探索方(刑事)の活躍を描いたものだ。
 でも、久しぶりに伝法院を拝観したのは、別に伝法院屯所跡を見たくなったからではない。庭園内に、浅草寺本堂裏にあった熊谷稲荷社古墳から出土している、おそらく房州石で造られたとみられる石棺(手水鉢に加工・流用されていた)があったのを思い出したからだ。本堂裏の熊谷稲荷社は、明治期の神仏分離政策で廃社となり、同社が奉られていた墳丘は丸ごと崩されて平地となった。
 ちなみに、浅草寺の本堂裏一帯が「奥山」と呼ばれていたのは、明治末から大正時代ぐらいまでだろうか。現在は平坦になってしまっている本堂の裏域だが、ここで「山」の名称が登場していることに留意したい。なにか塚状のこんもりとした起伏の地形、あるいは江戸期にはかなり鬱蒼とした森が拡がっていたので、「奥山」と呼ばれていた可能性が高そうだ。
 もともと、浅草寺の境内が古墳だらけだったのは古くから知られていたようで、関東大震災Click!が起きて東京が焼け野原になったあと、東京帝大の考古学者で人類学者の鳥居龍蔵Click!は神田や上野に次いで、浅草地域へ調査に駆けつけている。彼が伝法院に立ち寄り、石棺を調査している報告書が残っていた。1927年(昭和2)に東京磯部甲陽堂から出版された、鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』から引用してみよう。
  
 此の伝法院の椽先に、石灰岩で作つた手水鉢が据えられて居る、それが石棺ではないかといふ疑ひがあつて、吉田君から其の調査に就いて話があつたので、伝法院に行くと、早速其の手水鉢のある所へ行つて見た。而して注意して見ると、どうも石棺らしい。長方形のもので、中は近頃不完全に掘つて水を入れてある。どう見ても石棺らしい。浅草寺境内は古墳群のある所で、此処に石棺らしいものゝ存在して居るのは極めて興味がある。『江戸夢跡集』によると同寺には尚、別に石棺があつた。此の事は『武蔵野及其の周囲』「石の枕」の所に記して置いた。
  ▲
 鳥居龍蔵は「石灰岩」と書いているが、どう見ても色彩や質感からして凝灰質砂岩(房州石Click!)のように見える。当時は、火山灰により生成された岩石を、総じて「石灰岩」と呼称していたものだろうか? 伝法院の石棺ばかりでなく、浅草寺の境内にはもうひとつ別の石棺が存在していたことが指摘されている。
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 「浅草寺境内は古墳群のある所」と書かれているが、これは江戸湾に面した大きな入り江の突き当りに浅草湊が拓かれ、古墳時代から物資を集積する物流の一大拠点として繁栄していたからだ。房総半島で切りだされた房州石が、江戸湾を縦断して浅草湊や、横断して三浦半島の六浦湊へと陸揚げされ、そこから関東各地へと運ばれていった。その運搬もまた、各河川をさかのぼる水運が最大限に活用されたのだろう。関東各地に散在する古墳の玄室や羨道に、房州石が多く用いられているのは、当時の南武蔵勢力圏にあったクニ同士の交易や物流ルートを解明する重要な手がかりを与えてくれている。
 さて、そんな繁栄をつづけた浅草湊には、地域の有力な勢力がいたのはまちがいなく、また物流の一大拠点ともなれば多くの人々が暮らし、いわば“町”を形成していただろう。それを物語るように、浅草寺の境内には、伝法院に石棺が残る本堂裏の熊谷稲荷古墳だけでなく、本堂の南東側には弁天山古墳、関東大震災の火災によって出現した、いまだ無名の古墳群などが連続して築造されていた。これらの古墳は、寺社の伽藍や殿を建設するために墳丘が崩され、また前方後円墳の前方部は参道や階段(きざはし)に流用され、かろうじて江戸期まで原型Click!を保っていたケースが多い。
 そもそも、浅草寺の宝蔵門から参道、そして本堂さえ大型古墳の塚を均して建立されたものなのかもしれない。それは、同寺の北東550mほどのところにある待乳山古墳Click!のケーススタディに、典型的な姿を見ることができる。浅草寺の創建は645年だが、そのころからすでに境内全体がなんらかの聖域化していた可能性もありそうだ。また、幕末から明治期にかけ、本堂の南東側に弁天社が奉られた弁天山古墳には、周濠の残っていたことが地図などで確認できる。鳥居龍蔵の同書より、つづけて引用してみよう。
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 少なくとも江戸の高台にて古墳を築造した此の原史時代に於ては、今の下町の或部分は沖積して居つたものと考へられる。其の頃の古墳が今も下町の彼方此方に遺つて居つて、今回の震災にて周囲の建物が焼払はれた為めに、古墳の形が明白に現はれて来たのである。/今此のことに就いて大體を云ふと、第一は浅草の地であつて、此処は古くから沖積して居つたもので、観音よりも以前の遺跡が残つて居る。彼の弁天山の弁天塚は、其の名の如くに古墳であり、此の他にも、浅草寺の境内には嘗つてそれがあつた。されば此の境内が古墳群の跡であることは言ふまでもない。
  
 かつて、浅草寺には伝法院の石棺のほかに、境内にはもうひとつ石棺が置かれていたという江戸期の記録から、伽藍や社を建立するため墳丘を崩した際に、玄室から出土したもののひとつではないかと推測できる。だが残されているもの、あるいは記録にあるものは石棺のみで、副葬品についての伝承は存在していないようだ。かなり早くから寺社の境内にされたため、散逸してしまったものだろうか。
 小学生のとき以来訪れた伝法院の庭園は、さほど大きくは変わっていないのだろうが、周囲に高い建物が増えたせいか、大きめな箱庭のようにも見える。ただし、浅草寺参道のラッシュアワーのような喧騒を離れ、戦災をまぬがれた建築とともにひっそりとしたたたずまいを見せているのは、昔もいまも変わらない風情だ。わたしが子どものころ、庭から見えていたのは本堂の大屋根のみで、五重塔は空襲で焼けたまま存在しなかった。また、スカイツリーが妙な借景を見せているのが、アンバランスな風景で落ち着かない。
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 それほど詳細に見てまわったわけではないが、伝法院の庭園には玄室や羨道の石材に用いられていたのかもしれない、房州石らしい大きな庭石がところどころに配置されている。伝法院に限らず、浅草寺の境内各所に置かれている石材には、多くの古墳から出土した房州石が、いったいどれほど残されているのか、ちょっと面白いテーマだ。

◆写真上:伝法院の庭園で手水鉢に加工された、房州石をくり抜いたとみられる石棺。
◆写真中上は、1923年(大正12)に鳥居龍蔵が撮影した同石棺。は、伝法院の庭に集合した東京帝大の鳥居龍蔵古墳調査団。は、伝法院庭園の現状。
◆写真中下は、幕末の絵図に描かれた弁天山古墳で周濠の残っていたのがわかる。は、関東大震災の直後に撮影された弁天社と参道の階段。前方後円墳と思われ。周濠が消えて江戸期からさらに小規模になった様子がうかがえる。は、伝法院の北側の池。
◆写真下のモノクロ写真は、関東大震災の焦土から次々に姿を現した浅草寺の無名古墳群で、大きな主墳に付随していた倍墳群かもしれない。は、浅草寺の五重塔を伝法院の庭下から眺めたもので、無粋なスカイツリーがどうしても隠れなかった。は、東日本大震災で墜落した五重塔の宝珠と破壊された水煙。

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翔んだカップル・変なカップル。 [気になるエトセトラ]

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 高校生のころ、「どうしてあのふたり、付き合ってるの!?」と思うような、妙なカップルがいた。たとえば、たくましく大きな体育会系の女子に対して、ヒョロヒョロッとしたガリ勉の男子がカップルだったりすると、「なんで?」というようなウワサが流れてきた。誰もが認める美貌で評判の女子が、気弱そうで地味な男子と「すげえ仲がいい」と聞くと、「はぁ?」となったのを憶えている。人は、自分にはないものを求めるというが、DNAレベルでそういう本能をどこかに宿しているのかもしれない。
 街を散歩していると、たまにそんなふたり連れに遭遇することがある。このふたりは夫婦でないし、恋人同士にも見えないし、上司と部下や役員と秘書、パトロンと愛人、タレントとマネージャーのようにも思えないし、姿かたちや仕草もしっくりこなくて、装いの趣味だって全然ちがう……というようなカップルだ。つまり、お互い仲がよさそうに歩き親しそうに話していながら、それぞれの周囲にはちがう空気が流れている、あるいは、それぞれ異なる“気”を発散している……そんな雰囲気のふたり連れだ。
 わたし自身も、そんな“空気”がちがう異性を連れて親しげに歩いたことがある。お互いにまったく共通点がなく、育った環境もちがえば共通の話題も少ないし、性格だって似ているとは思えない。ましてや、つき合っているわけでもないのに、なぜかウマが合うというのか、反りが合うClick!というのか、お互い惹かれ合って仲よくなるという妙な関係だ。まあ、親しい友だち関係といえばその通りで、別にめずらしくない間がらなのだけれど、異性同士でこういう関係というのはそう多くなく、新鮮な感触にはちがいない。
 そのひとりは、大学を出てすぐのころに仕事で知り合った、米国ボストンのH大学の某研究所につとめる女性だった。仕事で教授とともに来日したのだが、わたしが地元だということで東京の街を案内する世話役をおおせつかった。……というと聞こえがいいのだけれど、大学を出たてのわたしには、いまだ任せられるまとまった仕事がほとんどなく、教授が日本のあちこちで仕事をしている間、かなり手持ちぶさたとなる秘書の“お守り”兼ボディガード役をしなければならなくなったというわけだ。英会話が得意でないわたしは、半分途方に暮れて気が重かった。
 ところが、この女性は少なからず日本語ができたのだ。さすがに、むずかしい語彙や複雑ないいまわし、当時の流行り言葉などはわからなかったけれど、ふつうの日常会話にはほぼ困らなかった。どうしても通じないときは、わたしが辞書で調べてなんとか“通訳”した。しかも、彼女とはウマが合うというのか、妙に気が合ったのだ。わたしは彼女を連れて、東京のあちこちを歩いた。知らない人が見たら、いまだ学生のように見えるラフな姿の男と、わたしと同じぐらいの背丈がある、米国イーストコーストの典型的なWASP然とした20代のブロンド女性のカップルは、妙ちくりんな組み合わせだったろう。
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 お互い性格もかなり異なり、彼女は米国人らしく大らかで大雑把(はっきりいえばガサツ)な質(たち)なのだけれど、歯の手入れにはなぜか執着し熱中していて、当時はなかなか東京でも手に入らなかったデンタルフロスを求め、ふたりで薬局を訪ね歩いたのを憶えている。また、日本の音楽に興味を持っていて、あらかじめどこかで仕入れたらしい曲のフレーズを口ずさんでわたしに聴かせ、「この曲の入ったアルバムがほしいの」といった。そんなこといわれても、わたしは米国のJAZZ事情なら彼女よりもよほど詳しかったけれど、日本の歌謡曲には不案内なので途方に暮れた。これはレコード屋でメロディを歌わなきゃダメか……と思っていたところ、たまたまTVから流れてきた曲に気づき、彼女と店で岩崎宏美のアルバムを無事に買うことができた。
 かなりの時間をいっしょにすごすうち、彼女とはなんとなく以心伝心でやり取りができる関係になっていった。縫製に優れた、日本製のやわらかいパンプスがほしいというので、わたしは銀座にある第二文化村Click!東條さんClick!の店(ワシントン靴店)へ連れていった。製品をいろいろ見せてもらい、彼女がmaterialを気にしたので店員に訊ねると、彼女に向かって流暢な英語で「素材は柔らかなカーフです」と答えた。「カーフ?」と首をかしげ、何度か男性店員に訊き返していた彼女は、困った顔をしてわたしをふり返ったので、「仔牛の皮だって」と日本語で通訳すると「ああ、了解」と日本語で納得したのに笑ってしまったが、店員は途方に暮れたような眼差しをわたしたちに向けた。きっと、このふたり、いったいどういう連中なのだろうと怪しんだにちがいない。
 当時、TVで流行っていた『チャーリーズ・エンジェル』のシェリル・ラッド(どこか少し面影が似いていた)が履くような、ブロンドの髪に似合う明るいベージュ色に細いストライプの入った、わたしが「やっぱり、これかな?」と奨めたパンプスに決まり、以降、それを履いていると露わな脚をわたしの前に突き出して、「カーフ!」と日本語でいっては笑っていた。こういうところ、米国の女性は無防備というかあけっぴろげで、こちらがドギマギするのもおかまいなしだ。
 もうひとり、わたしとはまったく住む世界がちがう異性と親しくなったことがあった。学生時代のアルバイト先で知り合った先輩の、そのまた知り合いだった女性だ。彼女とも、妙にウマが合うというか気がよく合って、食事をしたりコーヒーを飲んだりしながら、とりとめなく他愛ない会話したのを憶えている。わたしとは、やはり出身地も育った環境も経歴もまったく異なり、共通の話題がほとんど皆無だったにもかかわらず、平気で楽しくおしゃべりしつづけてしまうという、妙に気のおけない関係だった。彼女の職業は芸者、いや正確にいうなら芸者の“卵”だった。
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 高校を卒業してから花柳界に入り、いろいろな稽古ごとに励んでいるまっ最中だった。この世界では、中卒から修業をはじめるのがあたりまえなので、彼女のスタートは3年遅れでたいへんだ……というようなことをいっていた。だが、1980年(昭和55)前後ともなると、昼間の時間がぜんぶつぶれるような、ぎっしりと詰まった稽古事カリキュラムを強制したりすれば、さっさと辞めて転職してしまう子も多いので、午後の早い時間にはけっこう自由時間が与えられていたらしい。まさにバブル経済がはじまろうとしていた時期で、仕事探しにはそれほど困らなかった時代だ。
 彼女は、いつも小ぎれいな普段着(和服)姿に、江戸東京らしい紅い琉球珊瑚玉をひっつめにした長い髪に、1本かっしと挿して現れたので、学生っぽい薄汚れたジーンズ姿のわたしとはまったく非対称で釣り合わず、やはり怪しいカップルに見えただろう。彼女は日本舞踊や、ならではの作法を習っているせいか、当然、芸者(の卵)らしいシナをつくるのが自然で、喫茶店や牛鍋屋でそんな艶っぽい(玄人っぽい)姿を見せられたりすると、彼女が薄化粧にもかかわらず周囲からは好奇の目で見られた。幼馴染みの『たけくらべ』関係と見られるのならまだしも、芸者と悪いヒモとか、犠牲になって苦労している姉と大学へ通う弟……それにしちゃ似てねえなぁとか、ロクな目で見られていなかったような気がする。もちろん、彼女の方がわたしより3つ4つ年下のはずだった。
 なにをそんなに話すことがあったのか、よく待ち合わせてはお茶や食事をしていたけれど、その会話の中身をほとんど憶えていない。わたしは、(城)下町Click!のことをずいぶん話したような気がするが、彼女は高校時代やいまの生活のこと、故郷(確か茨城だった)のことなどを話題にしていたような気がする。いずれにしても、ほとんど忘れるぐらいだからたいした話題ではなかったのだろう。東京には友だちが少なく、気さくな世間話に飢えていたのかもしれないし、わたしはといえばめずらしい職業の気の合う異性相手に、ふだんとはちがう時間をリラックスしながら楽しんでいたのかもしれない。
 もし、これが戦前だったりすれば、たとえ“卵”といえども芸者を呼ぶには、それなりの格のある待合や料理屋に上がらなければならず、少なからず玉代(祝儀)を用意する必要があったろう。ましてや、昼間の「お約束」(芸者を昼間、散歩や食事に連れ歩くこと)ともなれば、その時間によってはとんでもない花代を覚悟しなければならない。お茶か食事を付き合って話をするだけの、今日の「レンタル彼/彼女」ビジネスの時間給に比べたら、その4~5倍はあたりまえの花代になりそうだ。とても貧乏学生が経験できる世界ではないのだが、そこは戦後の労働環境と民主主義の世の中だから、自由意思による行動がある程度許されていたのだろう。いずれにしても、貴重な体験をさせてもらったものだと思う。
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 出身地や生活、性格、考え方、職業、趣味嗜好などがまったくちがう人、ときに国籍や人種までが異なる人と、妙にウマが合って相手の心が読めるほど親しくなることがある。本来なら接点がまったくないはずの、質(たち)が正反対で釣り合いそうもない異性と、少なからず面白い時間をすごすことができる。そこが、人間同士の「ないものねだり」の性(さが)であり、人間関係の妙味なのだろう。ちなみに、芸者の“卵”の彼女は、座敷に出るようになってからほどなく結婚して芸者を辞めたと、風の便りに聞いている。戦前なら、そんな自由で“わがまま”な行為は、決して許されなかっただろう。

◆写真上:そよ風が吹くとキラキラ美しい、街を歩くブロンド髪の女性。
◆写真中上は、クリスマスの時期に撮影した銀座ワシントン靴店本店。は、わたしとの会話中に撮影した写真で赤いLARKが似合う彼女のしぐさが懐かしい。
◆写真中下は、幕末に来日したベアトが撮影した江戸芸者で、おそらく日本橋か柳橋芸者だと思われる。は、いまでも芸者さんを呼べる山王に残った古い料亭の軒下。
◆写真下は、江戸東京各地のお座敷で唄われた江戸小唄で一世を風靡した立花家美之助Click!は、そろそろ芸者さんたちの出勤時刻となる神楽坂の夕暮れ。

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