So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン
気になるエトセトラ ブログトップ
前の5件 | -

カルピスの三島海雲がいたお化け屋敷。 [気になるエトセトラ]

デ・ラランデ邸1980年代.jpg
 カルピスが好物だった中村彝Click!のせいで、こちらでも創業者の三島海雲Click!と絡めて何度かカルピスClick!を取りあげてきた。わたしは学生時代、その三島海雲が住んでいた家の前を、それとは知らずに1年近く何度も毎日往復していた。学生時代にアルバイトをしに通っていた会社が、新宿区の信濃町にあったのだ。
 わたしのバイト先は信濃町駅前から北へ少し歩き、右折して東へ300mほど歩いたところにあった。その道すがらの右手には、CBSソニーの大きな録音スタジオがあったのだが、その斜向かいにボロボロになったお化け屋敷のような西洋館が、樹木に囲まれてひっそりとたたずんでいた。そのときは、「このへんは、めずらしく空襲にも焼け残ったんだな」ぐらいの感慨しか持たなかったのだけれど、このお化け屋敷こそが「デ・ラランデ邸」であり、1956年(昭和31)から三島海雲が暮らしていた家だったのだ。
 アルバイト先の企業は、スーパーマーケットのさまざまなPOPやチラシをデザインして印刷し、それを店舗ごとに仕分けして発送する業務を行っており、わたしは印刷室から上がってきたばかりのPOPやチラシを、リストにもとづいて首都圏に展開する店舗ごとに仕分けする仕事をしていた。コーヒー専門店のカウンターClick!業務に比べたら、はるかに単調で考えたり工夫したりすることも少なく、休み時間にはストレス解消と気分転換のために、デ・ラランデ邸の東側に隣接していた公園で、よくアルバイト先の社員たちと野球やキャッチボールをしたものだ。
 投げたり打ったりしたボールが、細い道路をはさんだ同邸の敷地へ飛んでいったことも何度かあった。そんなときボールを拾いにいくのは、ジャンケンで負けた人が探しにいくことになっていた。誰もが、なにが出てくるかわからない、不気味な幽霊屋敷の敷地へなど入りたくなかったのだ。わたしはジャンケンが強かったので、ボールを探しにいったことは一度もなかったように思うが、いまから考えるとジャンケンなどせず、自ら進んで敷地内にボールを探しにいけばよかったと、心底後悔している。建物をすぐ間近から、ハッキリと仔細に観察できたからだ。
 デ・ラランデ邸の前身が建てられたのは、1892年(明治25)ごろとみられているが、当初は平家建ての住宅で物理学者で気象学者の北尾次郎が住んでいた。その家を、日本で設計事務所を開業していたドイツ人建築家のゲオルグ・デ・ラランデが、1910年(明治43)ごろ全面的に設計しなおし、木造3階建ての大きな西洋館へとリニューアルしたとされている。当時の西洋館では一般的だった下見板張りの外壁に、スレート葺きのマンサード屋根が特徴的な、お化け屋敷とはいえ美しい意匠の西洋館だった。ただし、デ・ラランデはあくまでも北尾家の借家人であり、その後の研究によれば正確には「北尾次郎邸」と表現しなければ誤りのようだ。
デ・ラランデ邸1947.jpg
デ・ラランデ邸1975.jpg
デ・ラランデ邸工事中2013.jpg
 デ・ラランデは、1910年(明治43)に同邸を改築したとすれば、1914年(大正3)に東京で肺炎が悪化して死去しているので、わずか3年余しか住まなかったことになる。彼の死後、妻が子どもたちを連れてドイツに帰国してしまうと、同邸は北尾次郎とその遺族が所有したまま、さまざまな住人が入れ代わり立ち代わり暮らしたようだ。そして、1956年(昭和31)に三島海雲が同邸を買収すると、1974年(昭和49)に彼が死去するまで暮らしている。三島の死後は、三島食品工業(カルピス)の事務所として1999年(平成11)まで使われていた。わたしがアルバイトで同邸の前を往来していたころは、カルピスの養蜂部門のオフィスとして機能していたことになる。
 そのころのデ・ラランデ邸は、近所からお化け屋敷と呼ばれても仕方がないほど傷んでいて、暗くなってから前を通ると独特な雰囲気を周囲へ発散していた。下落合の西洋館がいくら古いといっても、大正期から昭和初期の建築なので、どこかハイカラで明るい雰囲気を漂わせているのに対し、明治建築の同邸はよくいえば重厚、悪くいえば重苦しい気配を一帯にふりまいていたような記憶がある。
 それは、同邸を包むように大きく育ってしまった屋敷林の陰影が、より暗い雰囲気を演出していたせいなのかもしれないけれど、たとえば同時代に建てられた、よく手入れのゆきとどいている大磯Click!の西洋館などと比べてみると、いまにも朽ち果てそうな、廃屋へ一歩手前のような風情は、なにやら見てはいけないものを見てしまったような気がして、わたしには不気味な印象だけしか残っていない。同邸がついに解体されたと聞いたのは、前世紀の末ごろだったろうか。
デ・ラランデ邸内部1.jpg
デ・ラランデ邸内部2.JPG
デ・ラランデ邸内部3.JPG
 それから長い歳月が流れ、学生時代のアルバイトをしているときに見た風景など、とうに記憶の片隅から消えてしまいそうになっていたとき、わたしは再びこの西洋館を目にすることになる。2013年(平成25)に、小金井にある江戸東京たてもの園に同邸が復元されたというニュースを、添付された美しいカラー画像とともに知った。最初、復元された同邸の写真と、信濃町にあったお化け屋敷の印象とがあまりにもかけ離れているので、かなり意匠を変えた復元なのではないかなと疑ったが、実際に復元された同邸を近くで眺めてみると、確かに信濃町に建っていたころのファサードと同じなことがわかった。
 これはあとで知ったことだが、信濃町に建っていたデ・ラランデ邸は昭和期にかなりの増改築が行われており、江戸東京たてもの園に復元された同邸は、できるだけ1910年(明治43)に大改築された当初の姿にもどして復元されたようだ。だから、わたしの学生時代に見た同邸の印象と、江戸東京たてもの園のそれとが大きく乖離しているように感じたのだろう。
 また、同邸は園内の日当たりのいい場所に復元されており、信濃町で屋敷林に囲まれて建っていたころの薄暗い風情と、まるで180度異なる環境なのも大きな違和感をおぼえた要因なのかもしれない。しかも、同邸の1階はテラスまで含めてカフェが開店しており、まるで繁華街の店舗のような賑わいを見せていた。
デ・ラランデ邸1979.jpg
デ・ラランデ邸外観1.JPG
デ・ラランデ邸外観2.JPG
 わたしが同邸の前を往来していた1981年ごろ、門前には「カルピス」を想起させる表札や看板などは、特になかったように思う。あれば、すぐに気がついていたはずだ。どこかに「三島食品工業株式会社」のプレートはあったのかもしれないが、やはり野球のボールを取りにいくのさえちょっと怖い、いまにも朽ち果てそうなお化け屋敷と「初恋の味・カルピス」とは、どうしても結びつかなかったにちがいない。

◆写真上:1980年代の撮影とみられるデ・ラランデ邸だが、もっと薄暗い印象だった。
◆写真中上は、1947年(昭和22)と1975年(昭和50)撮影の空中写真にみる同邸。1975年の時点では、邸の東側に野球ができるほど拡張された「もとまち公園」が存在していない。は、2013年(平成25)に江戸東京たてもの園で行われた復元工事。
◆写真中下:江戸東京建物園に復元された、デ・ラランデ邸内部の様子。三島食品工業の時代とは、かなり異なる意匠で復元されているとみられる。
◆写真下は、わたしがバイトで通っていた少し前の1979年(昭和54)に撮影された同邸。もとまち公園が東側に拡がり、わたしたちはここで昼休みにキャッチボールや野球をしていた。は、1階にカフェが入る復元された同邸の外観。

読んだ!(22)  コメント(22) 
共通テーマ:地域

西片町の気になるアトリエ住宅。 [気になるエトセトラ]

金澤庸治邸(清水組).jpg
 西片町Click!を歩いていると、「椎の木広場」(現・西片公園)の近くに気になるアトリエ建築がある。接道の北西側を向いて、大きな採光窓を備えた洋風のアトリエだ。いつかの記事でもご紹介したように、東京美術学校Click!へ新たに設置された建築科の第1期生として卒業している、建築家・金澤庸治のアトリエだ。
 外観からは、アトリエのみが洋風のデザインで、残りの住宅はすべて和建築のように見える。だが、平面図を入手したので細かく参照してみると、洋間はアトリエだけでなく1階の応接室(8畳大)と食堂(6畳大)、それに広い納戸(8畳大)が板の間のようで、2階は洋居間(8畳大)に物置(4畳半大)、調度室(3畳大)が板の間だったようだ。
 また、和室は思いのほか多く1階は8畳が2間に6畳が3間、3畳の女中部屋に2畳の衣装室が付属している。2階は、床(とこ)のある10畳の客間がひとつに、6畳の次の間がつづいている。さらに、1階には浴室がふたつにトイレがふたつ、化粧室がひとつ付属している。接道から眺めた建物の雰囲気からすると、かなりコンパクトな住宅のように見えるが、南東に向かってかなりの奥行きがあり、総建坪は約100坪ほどにのぼる。
 1階の居間×3室と2階の客間×2室を、真南に向けようと角度をつけて設計している。つまり、1階と2階のこの一画だけ屋根の大棟が東西を向き、家全体の軸は南東から北西に向いているのが面白い。そのため、納戸や奥の部屋へと向かう廊下が斜めに設置されていて、廊下を折れる確度が直角ではない。このような建て方の家を、わたしは落合地域とその周辺域で見たことがなく、できるだけ陽光を部屋へと採りこんで明るい家にしようという、金澤庸治ならではの工夫なのだろう。
 住宅内に洋風の生活様式を取り入れながら、どちらかといえば和建築にこだわった設計や意匠をしているように見える。木造2階建てで、「洋風一部和風」と記録さているが、「和風一部洋風」が正しい表現だろう。外壁は下見板張りおよびラス張りで、内部の壁は漆喰と砂壁、屋根は三州引掛け桟瓦という仕様だ。この平面図は、1930年(昭和5)8月に清水組の施工で金澤邸が竣工した直後のもので、1935年(昭和10)に土木建築資料新聞社から出版された、清水組『住宅建築図集』に収録されている。
 そこには、竣工直後の同邸の写真が内部の写真とともに掲載されているが、現在、西片町で目にすることができる実際の建物とほとんど差異がないのに驚く。おそらく、1982年(昭和57)に金澤庸治が死去したあとも、ていねいにメンテナンスが繰り返され使われつづけてきたのだろう。
 金澤庸治は、東京美術学校を卒業すると1926年(大正15)から同校で長く教師をつとめ、同時に建築家として多彩な作品を残している。恩師の岡田信一郎とともに手がけたコラボ作品も、各地に数多く存在しているようだ。東京藝術大学(旧・東京美術学校)のある藝大通り(都道452号線)を歩くと、周囲には洋風建築が多い中で、ひときわ目につく和風建築がある。金澤庸治が設計し、1935年(昭和10)に竣工した東京藝大の正木記念館だ。隣り(北西側)には、同記念館へ接するように師の岡田信一郎が設計した洋風の東京藝大陳列館が並んでいる。コンクリート造りだが、明らかに日本の江戸期に造られた城郭建築を思わせるようなデザインで、内部は日本美術の展示に使われている。
金澤庸治邸平面図.jpg
金澤庸治邸客間(清水組).jpg
金澤邸1948.jpg
 金澤邸を施工した清水組の住宅作品について、もう少し当時の様子を見てみよう。ちょうど1930年(昭和5)8月に、金澤邸とほぼシンクロするように同規模の総建坪約100坪となる2階建て住宅を、同じく「東京市内」で手がけている。具体的な建設場所は不明だが、H氏邸と名づけられた家は、建築家の渡辺静が設計した外観は西洋館の和洋折衷住宅だ。竣工がまったく同時期であり、ひょっとすると同じ西片町内なのかもしれないが、金澤邸と比較すると面白いので少し余談めくがご紹介したい。
 H氏邸は、非常にオーソドックスな造りをしていて、洋間と日本間が混在する、外観も含めて今日の住宅につながるような仕様をしている。清水組の建設作業員にしてみれば、おそらく金澤邸よりもH氏邸のほうが造りやすかったのではないだろうか。木造2階建てで見た目は洋風、外壁は色モルタルラフ仕上げとされているが、モノクロ写真なのでカラーはわからない。
 1階は10室あるが、そのうち居間×2部屋と隠居部屋(老人室)、女中部屋、書生部屋の5部屋が和室だ。2階は客間と次の間が和室で、残りは洋間の造りになっている。部屋のかたちで設置されている「ベランダ―」(1・2階)も含めると、和室と洋室が半々ぐらいだろうか。浴室は1階にひとつだが、トイレは1階に2ヶ所、2階に1ヶ所の計3ヶ所が配置されている。大きめな応接室や書斎、ポーチが接道を向いて建てられている住宅(H氏邸は南向き)は、落合地域などでもよく見られた仕様だ。
金澤邸1.JPG
金澤邸2.JPG
金澤邸3.JPG
 当時の住宅建設の様子について、清水組の社長・清水釘吉が『住宅建築図集』の中に記している。同書の「序」から、少し引用してみよう。
  
 住宅建設は今が過渡期であります。欧米の建築を其儘模倣して満足出来ず、従来の和風建築の儘にても亦満足の出来ない立場であります。彼我生活状態の相違は、急激なる変化を許しませぬが故に、近時、住宅改良の諸問題が論議実行されつゝある時代であります。(中略) 住宅は、我日本人の今日に取つて或は洋風が便利であり、或は和風が便利であります。従而現代は和洋折衷式が、最も一般社会から取扱はれて居ります。蓋し、自然の趨勢であらうと思ひます。即ち、住宅は其時代の真実を語つて居るものでありまして、一国の文化国民教養の程度は住宅に拠つて察知する事を得るものであります。
  
 明治期からつづく和と洋の折衷・融合について、ハウスメーカーとして試行錯誤を繰り返していた様子がうかがい知れる。
 さて、1935年(昭和10)に出版された清水組の『住宅建築図集』は、明治末から1934年(昭和9)12月末までに竣工した、清水組の住宅や別荘を中心とした仕事を写真と図面でまとめたものだ。その中には、落合地域とその周辺域に建てられた住宅も含まれている。ただし、すべての住宅が施工主の頭文字をとり、アルファベットの1文字表記で邸名が記載されているので、住民の名前や住宅が建設された位置を特定するのは容易でない。
藝大正木記念館.JPG 藝大美術館陳列館.JPG
H氏邸(清水組)1930.jpg
H氏邸平面図.jpg
 こちらでも以前、各種の『住宅建築図集』から下落合の近衛町Click!に建てられていた昭和期の長瀬邸Click!と、近衛邸Click!の2棟を清水組の仕事としてご紹介しているが、おそらく落合地域で手がけた仕事は、これだけにとどまらないだろう。新たに同書シリーズで近くの住宅が特定できたら、またこちらで取り上げたいと思っている。

◆写真上:1930年(昭和5)8月に撮影された、西片町に竣工直後の金澤庸治邸。
◆写真中上は、金澤邸竣工時の平面図。は、同邸2階の床のある10畳サイズの客間。は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる西片町の金澤庸治邸。
◆写真中下:椎の木広場(現・西片公園)の近くにある、金澤邸の現状。
◆写真下上左は、金澤庸治が設計した東京藝術大学の正木記念館。上右は、金澤庸治の師である岡田信一郎が設計した隣接する東京藝大美術館の陳列館。は、金澤邸とまったく同時期の1930年(昭和5)8月に竣工したH氏邸とその平面図。

読んだ!(18)  コメント(20) 
共通テーマ:地域

雑司ヶ谷で結婚した正宗得三郎。 [気になるエトセトラ]

正宗得三郎「河港」1911.jpg
 二科会の「重鎮」といわれた正宗得三郎Click!が、若いころ高田村雑司ヶ谷で暮していたことが判明した。ちょうど日本画家になるのをやめ、東京美術学校Click!の西洋画科を卒業したあと、1909年(明治42)に初めて文展へ入選したころのことだ。しかも、雑司ヶ谷で寄宿していた先は、のちに高田町の町長をつとめることになる海老澤了之介Click!の新婚家庭だった。
 正宗得三郎というと落合地域の南西、豊多摩郡大久保町西大久保207番地に住み、大久保文学倶楽部に所属して南薫三Click!藤田嗣治Click!三宅克己Click!小寺健吉Click!、中澤弘光らとともに大久保で洋画展覧会を開催していたのは、こちらでもすでにご紹介している。また、曾宮一念Click!とも交流があったらしく、彼のエッセイには何度か訪問先として登場していた。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたのは、1909~1910年(明治42~43)ごろのわずか2年間のことで、このあと彼は結婚式を故郷で挙げるために1910年(明治43)の秋、岡山県和気郡伊里村へと帰省し、再び上京すると同年11月には妻とともに西大久保207番地の借家へ落ち着いている。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたとき、海老澤夫妻には子どもが生まれたばかりで、後藤徳次郎邸の門前に拡がる芝庭に、老母の隠居家つづきの2階家を建ててもらって住んでいた。明治末の地番でいうと高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原730番地、大正末には高田町雑司ヶ谷御堂杉733番地、1932年(昭和7)からは豊島区雑司ヶ谷5丁目732番地(現・南池袋3丁目)となる区画だ。当時の様子を、1954年(昭和29)に出版された、海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 かうした生活のさなかに、どうした事からか、二科会の元老正宗得三郎君が、私の所に暫時止宿して居た事があつた。同君は未だ独身時代で、今の様な名声も無く、純情朴訥な画家でありながら一切が無造作で、まことに愛すべき人柄であつた。彼が、ブラブラして居ると、手を離しかねる仕事をしている妻が「正宗さん、赤ん坊を抱いてちやうだいよ」と言ふ、ぶつきら棒な正宗君は「僕は赤ん坊嫌ひです」と一応言ふものゝ、再度の要請で、しぶしぶ両手を不器用に赤ん坊の方へ差し出す、妻がその上に乗せてやると、そのまゝの姿勢で前の芝生を一周する。両腕に赤ん坊を捧げて居る様な恰好であるから、直ぐくたびれてしまつて「奥さん、くたびれました」と誠に困つた様な顔つきで言ふが、その時も矢つ張り、前と同じ姿勢なのであつた。どうも正宗君は赤ん坊の抱き方を知らなかつたやうだ。この場面や、困却した彼の顔を回想すると、自づ(ママ)と微苦笑せざるを得ない。しかし彼も、間もなく私の中二階で、千代子さんと言ふ新妻をめとることとなり、又しても赤ん坊を抱かなければならない羽目とはなつた。
  
 故郷岡山での結婚式とは別に、正宗得三郎・千代子夫妻の東京での結婚披露宴は、海老澤家の中2階で行われたのがわかる。

海老澤家1909.jpg
雑司ヶ谷中原730番地1910頃.jpg
海老澤邸1910.jpg
 明治末から大正初期にかけ、海老澤家を含む雑司ヶ谷の後藤徳次郎の屋敷は、樹齢400年ほどのケヤキやスギの森に囲まれており、山手線の池袋停車場Click!まで田畑や林が拡がるような情景だった。武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)はいまだ敷設されておらず、池袋停車場で降りた観光客たちが雑司ヶ谷鬼子母神Click!とまちがえて、後藤屋敷を訪れるような風情だった。後藤屋敷の前に拡がる芝庭だけで数百坪はあったというから、おそらく後藤徳次郎の屋敷地はゆうに1,000坪を超えていたのだろう。屋敷の北東にかけて、ようやく市街地が形成されるような時代だった。
 さて、ここで少し横道にそれるが、後藤徳次郎邸=海老澤了之介邸周辺の字名が、少なくとも明治末まで「中原」と呼ばれていた点に留意したい。本記事に掲載した1/10,000地形図でも「中原」の字名が収録されているが、この字名は大正期(高田町が誕生した1920年ごろか)には「御堂杉」に変わり、「中原」という字名は池袋駅の西側、西巣鴨町大字池袋の立教大学周辺で存続していく地名となる。
 そこで、佐伯祐三Click!「踏切」Click!に描かれた看板に見える「中原工〇」Click!は、立教大学周辺の(字)中原ではなく山手線の東側、すなわち後藤徳次郎の屋敷があった周辺の(字)中原で、早い時期から操業していた工場である可能性があることだ。以前、同様の記事を書いたときは、山手線の西側の(字)中原界隈を探索していたが、新たな事実が判明したので山手線の東側一帯(現・南池袋界隈)にも注意を向けてみたい。この課題について、新たな事実が判明したらさっそくご報告したいと考えている。
 1910年(明治43)11月、正宗得三郎が西大久保へ落ち着くと、海老澤了之介Click!は盛んに彼の仕事を支援したり、面倒をみたりしていたようだ。正宗得三郎から海老澤了之介にあてた手紙が現存しているので、つづけて引用してみよう。
正宗得三郎(卒制)1907.jpg 正宗得三郎(晩年).jpg
海老澤邸1926.jpg
正宗得三郎「白浜の波」1938頃.jpg
  
 先日は態々御出下されしも、不在にて失礼致し候、本日洋服店へ参り、インバネスの表地は貴兄と御同様に致し候、裏地はシユスに致し、代価十五円にて注文候、尚オーバー十七円にて注文候、油絵御周旋有難く候、肖像は、一度御本人に面会の上写真拝借致し候方都合宜敷、又似る点に於ても、写真の方宜敷く、色は、一度会えば大抵解り申し候、右の都合故、貴兄の御都合宜敷時、御一報下されゝば、小生は何日にても参る可く候、尚静物は何かの二十号なれば、御送付致し置きても宜敷候、代価は、額縁つき、五十円か六十円なれば結構に候、一時払ひでなくも、ニ三度にても宜敷く候、これより小さきもの、要求に候はば、至急、写生致すべく、右御聞かせ下され度く候/二伸 実業の日本社の御方、住所御通知合せて御願ひ申上げ候、本日実は千代子差上げ申す筈の所、少々用事出来、右手紙にて御尋ね申上げ候
   明治四十三年十一月十六日      府下西大久保二百七  正宗得三郎
  
 インバネスClick!やオーバーを注文しているところをみると、海老澤が馴染みの洋服店を正宗に紹介してあげたのだろう。このとき描かれた肖像画は、大蔵省醸造試験所の所長だった『桜井鉄太郎像』のことであり、静物画を欲しがっている「実業の日本社の御方」とは、海老澤了之介が早稲田大学文学部で同窓だった、のちに児童文学者となる滝沢永二(滝沢素水)のことだ。
 このあと、ほどなく正宗得三郎は官製の文展(文部省美術展覧会)に飽きたらず、1913年(大正2)には二科の創設運動へ参加し、翌1914年(大正3)には二科会を結成することになる。そして、同年4月に日本を発つと、第1次世界大戦が勃発するまでの丸2年間、ヨーロッパで遊学生活を送ることになる。
海老澤邸1936.jpg
海老澤邸19450517.jpg
海老澤邸跡.jpg
 正宗得三郎は、大正末から昭和初期にかけ成城学園で美術教師をつとめ、アトリエを上落合に南接する中野区住吉町(現・東中野4丁目)にかまえていた。地下鉄東西線・落合駅の南側で、華洲園住宅地Click!の西側にあたる区画だ。だが、1945年(昭和20)の二度にわたる山手空襲Click!でアトリエは焼け、保管されていた絵画作品をすべて失っている。

◆写真上:1911年(明治44)に、西大久保の新婚時代に描かれた正宗得三郎『河港』。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる後藤徳次郎屋敷。は、海老澤了之介が描く1910年(明治43)ごろの後藤徳次郎邸。深い森に囲まれており、手前の芝庭には海老澤邸が描かれている。は、海老澤了之介邸の拡大。
◆写真中下上左は、正宗得三郎が描いた東京美術学校の卒制『自画像』。上右は、晩年の正宗得三郎。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる後藤徳次郎邸。は、1938年(昭和13)ごろ制作の正宗得三郎『白浜の波』。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる海老澤了之介邸(旧・後藤徳次郎邸)。は、第1次山手空襲後の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機から撮影された海老澤邸の焼跡(?)。は、昔日の面影が皆無な海老澤邸(旧・後藤邸)跡。

読んだ!(15)  コメント(15) 
共通テーマ:地域

100年の時を超えて出現するお化け。 [気になるエトセトラ]

墓地のある坂道.jpg
 本日、拙ブログへの訪問者がのべ1,600万人を超えました。いつもお読みいただき、ありがとうございます。地味なメンテナンス作業にもウンザリ気味ですので、しばらく記事をつづけて書いてみたいと思います。あまり秋が深まらないうちに、この夏書きそこなった落合地域の近辺で語られつづける、100年越しの怪談から……。w
アクセスカウンター20180914.jpg
  
 2014年(平成26)に角川書店から出版された『女たちの怪談百物語』(角川文庫)の中に、落合地域の西隣り、新井薬師駅の周辺で起きた妖怪譚が収録されている。脚本家で作家の長島槇子が、学生時代に下宿していたアパートで体験した怪談だ。大学1年生のときの体験というから、おそらく1970年代の初めごろのことなのだろう。
 収録されているのは、百物語のうちの第22話で長島槇子『人間じゃない』というエピソードだ。当時、彼女は新井薬師駅から徒歩15分ほどのところにあるアパートの1階に住んでおり、アパート前の接道は坂になっていた。その坂道の両側には、墓地が拡がっているような環境だった。アパート周辺の状況を、同書から少し引用してみよう。
  
 (前略)アパートの前は坂道なんですが、両側が墓地だったんですよ。坂の上から見下ろすと、塀ごしに墓が見える。片側は道に面して家が並んでいるんですが、その裏はやっぱり墓地なんですね。とにかく墓場だらけの所なんですよ(笑)。/アパートには共同の水場があって、当時の学生は洗濯機なんかなかったから、タライで洗濯していたんですが、その水場から建物の裏を抜けて、墓地に入って行けました。
  
 駅から女性の足で15分ぐらいの距離で、坂道の片側に塀がつづき、その向こう側に墓地が見えるが、反対側につづく住宅のうしろ側もまた墓地だ……という風情を聞けば、新井薬師駅の周辺に住んでいる方なら、「ああ、あそこだね」と思い当たる人も多いだろう。中野区の口承伝承の中でも、かなり「怪異・霊異」の説話が多く語られ、中野区教育委員会によって多くの伝承が記録されている某寺の近くにある坂道だ。
 学生だった彼女は、訪ねてきた学友のUさんとアパートで酒盛りをはじめるが、酔いがまわったところでUさんが墓場へ遊びにいこうといい出す。ふたりで墓場を一巡したあと、部屋にもどってみるとUさんの手が切れて出血していた。軽傷だったが、友人は「バチが当たった」と一言いうだけで、ふたりともすぐに寝てしまった。そのまま、当日はなにごとも起きずにすぎたが、友人が帰った翌日の夜のこと、ベッドで寝ていた彼女は夜中に目をさました。窓際に置かれた机のほうを見ると、椅子に白い影が座っている。
  
 ぼんやりと白く見えているだけなんですが、それが子供で、女の子で、おかっぱ頭でスカートをはいている、ということは分かるんです。/目が離せないで見ていると、その子がこちらを向き始めた。椅子は背もたれのある回転椅子だったんですが、首だけが、私の方に向いてくる。/ゆっくりと、首をひねって向いてくるのが、たまらなく恐いんですけど、やめてとも、キャーとも声が出せなくて、ただ、見ている他ないんです。/真っ白な顔でした。髪の毛も白くて、顔も白い。正面を向いた、その子の顔が……人間じゃない……。/目も鼻もなくて口だけの顔でした。その口も、耳まで裂けていたんです。(中略) 『お歯黒べったり』という妖怪に似ています。貉が化ける『のっぺらぼう』とも合致します。目も鼻もない顔の、耳まで裂けていた口を、今でも思い出せますから、夢ではなかったと思います。
  
絵本百物語「お歯黒べったり」1841.jpg
恋川春町「妖怪仕内評判記」1779.jpg
 髪の毛はおかっぱで、スカートをはいた女の子というかたちは、少なくとも大正期以降の風俗をしている「お化け」ということになりそうだ。書かれている、江戸期に多く出現した「お歯黒べったり」や「のっぺらぼう」とは風俗が合致しない。ただし、これらの妖怪たちが時代々々に合わせコスチュームを取り替える、つまり積極的に「現代風」のファッションを身にまとい、着替えを楽しみながら人々を脅かすために出現している……というなら話は別だ。
 実は、これと似たような怪談話が、長島槇子の住んでいたアパートの周辺一帯で、幕末ないしは明治初期にかけて語られていたことが、中野区教育委員会が作成した地元の資料に記録されている。もっとも、江戸時代が終わったばかりのころのその「お化け」は、家の中にではなく近くの川の橋の上に出現している。もし、長島槇子が暮らしたアパートの近くの川に出現しているとすれば、ほどなく落合地域へと流れこむ北川Click!、もちろん現代の妙正寺川Click!ということになる。
 1987年(昭和62)に中野区教育委員会が出版した報告書冊子、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』からさっそく引用してみよう。語っているのは1902年(明治35)生まれで、上高田の北側に位置する江古田地域に住んでいた男性だが、その父親の世代が体験した話だ。「お化け」が出現したのは江古田地域の橋とは限らないと、わざわざ最初に断りを入れてから話しはじめている。ちなみに、中野区教育委員会ではこのお化けのことを「口裂け女」と名づけている。w
水木しげる「お歯黒べったり」.jpg
日本民話の会「口裂け女」.jpg Slit Mouth Woman in L.A.2016.jpg
  
 ある晩ですねぇ、月夜の晩に、橋の上にですねぇ、耳の方まで裂けたね、婦人がねぇ、このぅ、なんていいますか、髪をすいてたっていうんですよ。橋の上で。それで、そこ行けない、渡って帰れなかったっていうんです。その人が。父の友人ですから。なに、どうして、そのね、ああいうとこに夜中にね、婦人が出てましてね、髪をすいてるんだろうって。/それは、髪をすいてたってことは、後の話なんですけども。最初はね、ここまで、耳まで口が裂けていて、それで、乱れ髪の、こう、髪がね、綴じてなくって。それで、橋の、ちょうどま上でね、やってたっていうんです。そういうのを遠くから見て、そこを通らなくっちゃ帰れないんで、ずいぶん立ち止まっちゃったそうです。その人が。
  
 橋を渡らなければ帰れない、つまり江古田村にある自宅へ帰宅できないとすれば、もちろんこのお化けは江古田村内の橋に出現しているのではない……という解釈が成立する。また、長島槇子がアパートで目撃したおかっぱ頭の「女の子」と、明治初期の橋の上に出現した乱れ髪を櫛でとかす「婦人」とは、年齢的にまったく一致しない。だが、これらの耳まで裂けた口をしている女が、幽霊ではなくお化け=妖怪のたぐいだと想定すれば、あながち不思議でも不可解でもないことになる。
 妖怪変化(へんげ)であれば、出現する場所や時代に合わせ、あるいは脅かす相手に応じて柔軟に変化自在であり、相手が若い男であれば近づいて注視するよう「妙齢の婦人」に化けて髪をとかし、相手がひとり暮らしの女子学生であれば、当時、少女マンガで流行っていたへび少女Click!風の「怖い女の子」に化けては勉強机の前に座っていたりする……。
光徳院太子堂.jpg
三代豊国墓.jpg
 しこたま酔っぱらって学友と墓場で遊んだ長島槇子は、江戸期から延々と同地域に棲みついている「お歯黒べったり」あるいは「のっぺらぼう」、現代風の名称でいうなら「口裂け女」(中野区教育委員会)に類似する妖怪に見とがめられ、二度と墓地の静寂を破らないよう戒めや教訓を与えようと脅かされているのかもしれない。ひょっとすると、その妖怪は彼女がもっとも怖がるシチュエーションを研究し、アパートの部屋にあった「少女フレンド」に掲載の、楳図かずおの作品かなにかを参考にしているのかもしれない。

◆写真上:新井薬師駅からしばらく歩いた場所にある、墓地に面した坂道のひとつ。
◆写真中上は、1841年(天保12)に出版された桃山人『絵本百物語』の中に登場する「歯黒べったり」。は、1779年(安永8)に出版された恋川春町『妖怪仕内評判記』に掲載の口だけがついた「のっぺらぼう」に近似した妖怪。
◆写真中下は、水木しげるが描く妖怪「お歯黒べったり」。下左は、日本民話の会Click!・監修で2005年(平成17)に出版された「口裂け女」が登場する『学校の怪談/三』(ポプラ社)。下右は、最近はロサンゼルスまで出張してご多忙な「口裂け女」さん。『Slit Mouth Woman in L.A.』(2014年)より。
◆写真下は、上高田の光徳院にある太子堂。は、同じく上高田の萬昌院功運寺にある浮世絵師の初代豊国・二代豊国・三代豊国(歌川国貞)の墓。

読んだ!(20)  コメント(32) 
共通テーマ:地域

江戸東京人の「4つのお願い」プロジェクト。 [気になるエトセトラ]

日本橋1.JPG
 この夏、日本橋「復活」のニュースがとどいたので急遽、記事を書いてみたくなった。
  
 別に親父は、ちあきなおみの歌が好きだったわけではなさそうだけれど、戦後は「♪4つのお願い聞いて~」の運動や活動へ取り組み、積極的にかかわってきた。(わたしも、及ばずながらそうしているが) その「4つの願い」とは、薩長政府の大日本帝国が滅亡した1945年(昭和20)以来、戦前から、いやおそらく明治期も含めた先祖代々一貫してつづく、江戸東京人のフリーメイソン的な友愛組織Click!をベースに、江戸東京ならではの文化や風情を復活させる運動や活動への取り組みだった。
 もっとも、表には目立たないフリーメイソン的な「地下組織」などなくても、いまや江戸期からつづく地付きの江戸東京人の人口は増えつづけ、250万~300万人(東京23区の人口の26~31%)ともいわれているので、地元民が結束して「大江戸ファン」の同調者や協力者をあまねく含めれば、親父の世代とは比べものにならない相当な活動力や事業力、そして機動力を発揮できるだろう。
 それらのテーマには、明治期から延々とつづいてきた課題もあった。ひとつめは、もちろん江戸東京総鎮守である神田明神社Click!へ、下落合の将門相馬家Click!ともゆかりの深い平将門Click!を主神へ復活させる運動だ。この活動は長く戦前からつづいていたが、戦後はさらに激化して神社本庁へヒートアップしたデモ隊が押しかけ、あわや討ち入り・打(ぶ)ちこわし寸前になったというエピソードさえ聞いている。そして、平将門は1984年(昭和59)、およそ100年ぶりに神田明神の主柱Click!へと復活している。(薩長政府が勧請したスクナビコナは、あえて追放Click!しなかったようだ)
 ふたつめが、1732年(享保17)に徳川吉宗Click!が伝染病と飢饉の厄落としとしてはじめた、両国花火大会Click!の復活だった。戦後、1961年(昭和36)から1977年(昭和52)までの16年間、大橋(両国橋)Click!の周辺はビルや商店、住宅などの稠密化による火災の危険や交通渋滞、大川(隅田川)Click!の汚濁による不衛生などを理由に、両国花火大会は中止されていた。この間、日本橋や本所などの地域をはじめ大橋(両国橋)周辺域の人々は、花火復活の運動を絶え間なくずっとつづけていた。だが、消防署の認可がどうしても下りずに、中止から16年もたってしまった。
 しかし、元祖の大橋(両国橋)ではなく、やや上流の駒形橋と言問橋付近で1尺玉以下の打ち上げ花火での開催が認可され、1978年(昭和53)の夏に、1732年(享保17)から1961年(昭和36)までつづいた「両国花火」Click!(戦時中は一時中断)という名称ではなく、「隅田川花火大会」という名前に衣替えして再開されている。ちょうど、わたしが学生時代に復活した大川の花火大会に、親父は「両国花火じゃなくて残念だ」といってはいたが、TVの中継を観ながら目をうるませていた。
 親父が生きていた時代に、かねての「4つの願い」のうち実現できたのは、上記のふたつだけだった。親父が願った3つめのテーマとは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、日本橋区が空襲とその延焼に巻きこまれたとき、ひとつの大きな避難目標Click!にしていた東京駅舎についてだ。親父の言葉をそのまま借りれば、「東京駅を元どおりにすること」だった。同年5月25日夜半の空襲で、東京駅はレンガの外壁を残してほぼ全焼している。戦後に応急措置として再建された駅舎は、建築・土木が専門Click!だった親父にしてみれば、「ぶざまな姿になっちまって」ということだったのだろう。
 自身が見慣れた東京駅舎とは、ほど遠い姿になってしまった駅舎を復元することが、次の大きな“目標”になっていたにちがいない。だが、東京駅の復元は今世紀に入ってから具体化しており、2007年(平成19)の起工時に親父はすでに他界していなかった。あと15年ほど長生きをすれば、親父がいつも目にしていた、そして東京大空襲のときには逃げのびてホッと見上げた、東京駅の姿を眺めることができたのに……と思うと残念でならない。
神田明神.JPG
両国花火1950年代.jpg
両国花火.JPG
 「4つの願い」の最後は、もうおわかりの方も多いと思うが、もちろん江戸東京の中核である日本橋Click!の「復活」だ。日本橋は、もちろん19代目の石橋として現存するのだけれど、ここでいう「復活」とは、地元の反対にまったく耳を貸さず、1964年(昭和39)の東京五輪のドサクサにまぎれて「いけいけどんどん」Click!(小林信彦)で工事を強行した、犯罪的な首都高速道路をなくして日本橋の景観を元にもどす……という意味合いで使われている。親父は、このテーマにもっとも肩入れをしていたけれど、おそらく「4つの願い」の中ではもっともリアリティが希薄なテーマに感じていただろう。
 しかし、ようやく今年(2018年)の7月、2020年に開催予定の東京五輪の直後2021年より、ぶざまな高速道路を取っ払(とっぱら)って「復活」への工事がスタートすることに決定した。日本橋川の上に架かる首都高を、すべて解体して地下化するという工事計画だが、総事業費3,200億円がかかるという。このうち、2,400億円を“主犯”である首都高速道路(株)が負担し、残りを東京都と中央区、地元企業が各400億円ずつ負担するという事業計画だ。ある地域や街のアイデンティティが営々とこもる歴史的文化財や記念物、景観などを地元の声に耳を傾けることなく、なんの考慮や配慮もせずに「開発」(=破壊)すると、あとでどれほど高いツケがまわってくるかの典型的な見本だろう。事業の推進は、国土交通省に設置されていた検討会が主体となっている。
 工期は、いまだ調査段階でスケジュールがフィックスできていないが、2021年にスタートする工事は早くて10年、つまり2031年には地下高速道路が竣工すると見こんでいる。ただし、なんらかの理由で工事が遅延したりすると最長で20年、2041年までかかるとしている。前者の2031年なら、わたしはまだなんとか生きていられるかもしれないが、2041年となるとちょっと怪しい。そのかわり、東京駅舎の「元どおり」がそうだったように、わたしの子どもや孫の世代が確実に目にすることができるだろう。きちんとした本来の美しい日本橋の姿を、幼児期のおぼろげな記憶しかないわたしとしても、ぜひもう一度眺めてみたいものだ。
東京駅(戦後).JPG
東京駅空襲.JPG
東京駅.jpg
 さて、親父の世代までは「4つの願い」だったが、わたしの世代ではもうひとつ、大きなテーマが加わっている。これも、かなり昨今はリアルかつ話題にもなってきているので、東京にお住まいの方ならピンとくるだろう。もちろん、城郭としては世界最大の規模を誇る、千代田城の天守復活だ。防災とからめた一部外濠などの復元は、数寄屋橋の復活を視野に入れているとみられる銀座通連合会Click!などにおまかせすることにして、江戸期の早い時期(1657年の明暦大火)に焼けてしまい再建されなかった、千代田城の中核にあたる日本最大の天守をぜひ復元したい。
 千代田城は、江戸幕府が開かれてから建設されたと思われている方が多いが、同城は三方を海に囲まれたエト゜(鼻=岬)の付け根近くに位置する柴崎村西部の千代田(チオタ・チェオタ)地域へ、1457年(康正3)に太田道灌が「江戸城」Click!を築いたのがはじまりであり、現代までつづく最古クラスの城郭でもある。現存する天守台は、実際に天守が築かれていた時代から多少は加工されているが、それを元どおりにして日本最大(高さ約61m)の天守を復元し、日本橋とともに江戸東京のシンボルにしたいのだ。
 現在、内濠内には天守台を含む本丸、二ノ丸、三ノ丸、北ノ丸が公園として開放されているので、できれば天守の復活にからめて本丸の一部復元も視野に入れ、外濠域も含めた城郭全体の規模を、もう一度ちゃんと規定し位置づけしたい。そうすれば、「なにもない荒野にオフィス街を創出したのは三菱」などという、いまや250万人を超えるとみられる江戸東京人の神経を逆なでするような、三菱地所レジデンスのCM(荒野じゃねえし! お城つづきで文字どおり“丸ノ内”の大名小路の屋敷群を壊して燃やし、「荒野」化=陸軍演習地化したのは薩長政府だろうが)のような、この街の歴史を踏まえぬデリカシーのないキャッチフレーズやコピーは、江戸東京の地元で「創出」されなくなるにちがいない。
日本橋2.JPG
千代田城天守台.JPG
千代田城再建.jpg
 外壁が白と黒のツートンカラーだった巨大な千代田城天守Click!は、江戸東京の(城)下町Click!ならではのシンボルとして機能するばかりでなく、おそらく「世界最大の城郭」と「日本最大の天守」は、社会的なリソースとして海外から見れば日本観光の大きな目玉となるにちがいない。わたしが生きているうちの復元はおそらく無理だろうが、できればコンクリート構造の建築ではなく木造による天守復元へチャレンジしていただき、本丸も含めた「日本最大の木造建築」の復活も視野に入れていただければと思う。

◆写真上:10~20年後には、確実に消滅することになる日本橋上の首都高速道路。
◆写真中上は、1984年から平将門が主柱に復帰している神田明神社。は、1950年代に撮影された両国花火大会。は、同大会で打ち上げられていた3尺玉。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に応急修復される東京駅。は、空襲の焼け跡がそのまま残る同駅舎内。は、ようやく65年ぶりに復元された東京駅。
◆写真下は、日本橋川から眺めた日本橋の中央部で2011年(平成23)の大洗浄から石組みの色は明るい。は、ひとつが人の背丈ほどもある築石が積み上げられた千代田城天守台の一部。は、平川濠に架かる北桔橋門ごしに眺めた千代田城天守の復元図。
おまけ
木造による再建(現在はコンクリート構造)が企画されている大垣城(左)と、千代田城(右)の同率比較の復元模型。千代田城の規模がよくわかる。
千代田城模型.jpg

読んだ!(24)  コメント(30) 
共通テーマ:地域
前の5件 | - 気になるエトセトラ ブログトップ