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鬼子母神の駄菓子屋に通った秋田雨雀。 [気になるエトセトラ]

上川口屋.JPG
 雑司ヶ谷24番地に住んでいた秋田雨雀Click!は、落合地域に関連する人物たちのエピソードには頻繁に顔をのぞかせている。古くはエスペランティストという側面から、下落合370番地にアトリエをかまえた竹久夢二Click!や、中村彝Click!のアトリエへモデルとして通ったエロシェンコClick!などとともに、全国を講演してまわっていた。
 また、上落合189番地に住んだ俳優の佐々木孝丸Click!は、秋田雨雀としじゅう会えるようにと、わざわざ雑司ヶ谷鬼子母神の近くに転居していた時代がある。同じ演劇がらみでは、上落合186番地の村山知義Click!とのつながりで、上落合502番地に設立された国際文化研究所へもやってきていた。さらに、上落合850番地(のち842番地)に住んでいた作家の尾崎翠Click!とも接点があり、また上落合469番地(のち476番地)にいた神近市子Click!とも、かなり親しく交流していた。
 秋田雨雀は、青森県から東京へやってくると東京専門学校(のち早稲田大学)の英文科へ入学し、小石川早竹町に住んだあと、1904年(明治37)には早稲田鶴巻町の下宿「松葉館」へと移った。この松葉館の主人が、武者小路実篤Click!の叔父であったことから、新体詩や社会主義に興味をおぼえはじめたようだ。翌1905年(明治38)には、早くも雑司ヶ谷24番地の山田方に下宿し、同年に隣接する24番地にある隣家・前田やす邸の2階へ転居。そして翌年、前田家の娘・きぬと結婚している。以降、雨雀は太平洋戦争がはじまるまで雑司ヶ谷の同所に住みつづけた。ちょうど、雑司ヶ谷鬼子母神Click!のほぼ門前、北東側に隣接した住宅街の路地奥にある2階建ての家だった。
 雨雀は、早稲田大学英文科を卒業したあと、島村抱月Click!に師事して「早稲田文学」に処女作『同性の恋』を発表し、新進小説家として注目を集めはじめた。また、戯曲集『埋もれた春』を発表して、演劇の脚本家としてもスタートしている。雨雀が島村抱月と松井須磨子が創立した、芸術座の幹事をつとめていたのは有名なエピソードだ。ところが、演劇の面白さが雨雀をとらえてしまい、劇団にのめりこむあまり書斎で作品を創作する機会が急減し、「私の創作力を減殺」(『雨雀自伝』)していくことになった。
 雨雀は娘が生まれると、娘の情操教育のためにと童話を創作するようになる。また、娘を小学校へは入学させず、みずから「自由教育」を企画してカリキュラムを作成し、自分以外の講師も依頼していたようだ。雨雀の根底にあったのは、「日本の封建主義的倫理教育に対する疑い」で、文部省教育からは完全に切り離されたカリキュラムとなった。社会学、生物学、地理学、英語、エスペラント語、文学、音楽、演劇などの授業が行われ、情操教育が主体の教育法だった。このあたり、ヴァイオリニストの巌本真理を輩出した巌本家Click!の教育法に近似している。
 文学や演劇、童話の各分野を問わず、雑司ヶ谷24番地の秋田雨雀邸は、ちょうど牛込早稲田南町(現・早稲田南町)の漱石山房Click!のように、多くの仲間が集い青年たちが出会う、ハブのような役割を果たすことになる。
講演旅行(大正期).jpg
早稲田文学190706(同性の恋).jpg 秋田雨雀.jpg
 「雑司ヶ谷巡り」と呼ばれた当時の様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。
  
 明治末期から大正にかけての鬼子母神の森は、実にうっそうとして樹木の中に家が点在するというほどで、雨雀の部屋も樹木におおわれて昼でも電灯を点していた。玄関から暗い階段を二階にあがると、そこが書斎となっていた。そこにはいつも「執筆中」の貼紙が貼られていたが、人声が絶えなかった。客が訪ねていっても「執筆中」の札に物を言わせることのないのは、本人自身やはり客好きで淋しがりやであったからだ。/当時雑司が谷には、藤森成吉、平林初之輔、小川未明、前田河広一郎、白鳥省吾らが住んでいた。この頃「雑司が谷めぐり」ということばがあって、インテリ―失業者たちが雑司が谷に行けば誰かに会えるし、事によると一椀一杯にあずかれるかも知れないし、あわよくば電車賃位は何とかなるというところから、「雑司が谷めぐり」が始まったという。秋田雨雀といえば雑司が谷でも鬼子母神の杜に住む主と言われたもので「雑司が谷めぐり」の本尊と見られていた。
  
 秋田雨雀自身も、雑司ヶ谷をあちこち散歩していたようで、「ハイゼの原」Click!にはよく姿を見せていたらしい。また、鬼子母神境内にある駄菓子屋「上川口屋」は常連だったらしく、そこの老婆(現在の店主の先々代だろう)とはかなり親しかったようだ。
 ちなみに、わたしも上川口屋さんの常連のひとりで、子どもが小さいころから鬼子母神の境内へ散歩に出かけると必ず立ち寄っていた。現在も必ずフラフラと立ち寄り、ラムネか粉ラムネ(粉末ジュース?)を買っては、家族にナイショで楽しんでいる。こういうところ、子どものころの習慣(クセ)はなかなか抜けないものだ。いまの店主は、確か戦後に同店へ嫁いできたお嫁さんだったと思う。乃手では、駄菓子屋さんへの出入りが禁止されていた家庭が多いせいか、この話をすると「まあ……」などとあきれ顔をされることが非常に多い。うちの連れ合いも、同店で子どもたちに駄菓子を買い与えると、「ダメですよ、添加物や着色料が心配だから」と眉をひそめていた。
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鬼子母神本堂1.JPG
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 ハイゼの原と駄菓子屋で目撃された雨雀の姿を、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』から少し長いが引用してみよう。
  
 或る日のこと。母の郷里である青森県の三戸から祖母が上京してきた折、土産に持ってきてくれた「ごませんべい」を何枚かふところにして、私はふらりと「ハイゼの原」まで出かけて行った。もう夕方近くだったせいもあり、そこには子供達の姿は一人もいなかった。私は草原の斜面に腰を下ろして、はるか右手の方に見える鬼子母神を眺めていた。/するといつの間にか私の直ぐ左横に、一人の男の人が立っているのを発見した。鳥打帽子を冠りステッキを突いたその人を見た時、私は最初異人さんではないか――と思った程だった。体は決して大きな方ではなかったが色の白い童顔の人で、茶色のコール天のズボンをはき、今にして思えばルバシカだと分るが、当時としては見たこともない、黒色のビロード風のだぶだぶの上衣をつけ、腰の辺りを紐で強くしばった面白いものを着た人だった。その人は私にぽつりと言った。「夕やけが、きれいだね」(中略) 「珍らしい物を持っているね。ごませんべでしょう。小父さんにも少しくれる?」/と言った。私は無言でうなずき一枚とり出して渡した。(中略) それからしばらくして、鬼子母神のお会式が近づき、見世物の小屋がけなどを見に出かけた時、境内の売店の前で、私はいつぞやの「ハイゼの原」の小父さんにバッタリと出会った。同じような恰好をしていたので、私はすぐに気付いたが、その人は売店の小母さん(鬼子母神の項で書いた老婆のこと)と、何か親し気に話合っていたが、私の姿をみると手まねきして、/「この間は、ごませんべをありがとう。とてもおいしかったよ」と礼を言い、売店の小母さんからキャラメルの小箱を買って私に与えた。
  
 このあと、著者はキャラメルの小箱を家に持ち帰ったが、知らない人からモノをもらったということで父親にひどく叱られたらしい。ところが、三戸のごませんべいと「小父さん」とのいきさつの話をすると、父親は「雨雀さんだ」といって叱るのをやめた。相手の素性が知れたからではなく、父親は秋田雨雀とは同郷のよしみで親しかったからだ。
 文中で、上川口屋の店主を「老婆」と書いているが、このエピソードがあった当時はまだ若い「小母さん」、つまり昭和初期に店番をしていた現店主の先々代だった。著者が同書を執筆する際、つまり1977年(昭和52)の少し以前にはすでに老婆となっており、おそらく娘とふたりで店先に出ていたのではないだろうか。
鬼子母神境内1933.jpg
上川口屋1977.jpg
鬼子母神境内.JPG
 「稲荷社の鳥居のかたわらに佇むように建ち残っている茶店というか、鳩の餌などを売る店が、往時のままで残されていて、またそこで店番をしている老婆も昔のままの婆(当時は小母さんであった)でいてくれたのは、何といってもなつかしかった」と書いているが、著者の取材に対し上川口屋の「小母さん」は、秋田雨雀のことを克明に記憶していた。それほど雨雀は、この駄菓子屋が気に入って頻繁に通ってきていたのだろう。

◆写真上:江戸の創業から240年近い、鬼子母神境内で健在の駄菓子屋・上川口屋さん。
◆写真中上は、講演旅行の記念写真からエロシェンコの左が秋田雨雀で、その手前が竹久夢二。下左は、秋田雨雀『同性の恋』が掲載された1907年(明治40)発行の「早稲田文学」6月号。下右は、縞柄のルバシカ姿の秋田雨雀。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道。は、現在の鬼子母神本堂とザクロの絵馬が架かる本堂内部の様子。
◆写真下は、1933年(昭和8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の境内にある大イチョウ。は、1977年(昭和52)ごろに撮影された上川口屋の店先。は、秋も深まるとイチョウの落ち葉が目立つ鬼子母神境内の現状。


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70年使われた「キング切手印紙葉書入」。 [気になるエトセトラ]

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 親父の小引き出しを整理していたら、戦前に売られていた懐かしい「キング切手印紙葉書入」が出てきた。1937年(昭和12)4月から、1942年(昭和17)3月までの間に売られていた製品だ。なぜ販売期間までわかるのかといえば、同ハガキ入れには郵便料金が記載されており、手紙が4銭でハガキが2銭の時代は、上記5年の期間しかなかったからだ。そして、わたしが懐かしいのはもちろん同時代に生きていたからではなく、わたしが物心つくころから大学生になり独立するまで、わが家では「キング切手印紙葉書入」がそのまま現役で使われていたからだった。
 同ハガキ入れは、東京地方だけで売られたバージョンなのか、東京市内から地方各地あるいは「外地」への郵便料金や航空便料金が記載されている。他の都市で売られた製品は、その街を基準に料金一覧が掲載されていたのかもしれない。親父が日本橋の家から独立して大学予科へ入る際、実家から諏訪町Click!(現・高田馬場1丁目)の下宿先へ持ってきた品物のうちのひとつなのだろう。日本橋に置いてあったら、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で焼けているはずだが、親父の下宿先は同年4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲Click!に遭いながらも、かろうじて焼け残っている。
 「キング切手印紙葉書入」の仕様は秀逸で、二つ折りの扉を開くと袋状になった奥の収納が官製ハガキや往復ハガキ入れ、手前に少しずつずらしながら重なるように折られているページが切手・印紙入れになっている。しかも、切手は値段別に入れられ、二つ折りの底部は横から切手が滑り落ちないよう両側が接着されている。しかも、底には丸いパンチ穴が連続して開けられており、必要な値段の切手の有無が、いちいち二つ折りを開かなくてもすぐに確認できる。また、二つ折りの切手・印紙入れの裏側ページは住所録になっていて、頻繁に郵便をやり取りする相手の忘備録となっている。
 1937年(昭和12)の時点での郵便料金を見てみると、封筒の手紙が20gまで4銭(第一種郵便)。120gまでが4銭+3銭=7銭、以降120gごとに+3銭(第一種割増)となっている。また、ハガキは2銭、往復ハガキは4銭(第二種)で、手紙の半分の値段なのがいまと比べると割安感がある。新聞や雑誌を送る第三種郵便は60gまでが5銭、以降60gごとに+5銭増し。書籍や印刷物、写真、書画などを送る第四種郵便は120gまでが3銭、以降120gごとに+3銭が必要だ。
 特異なのは、第五種郵便として農作物の種子が料金に設定されている点だろう。当時は、寒冷地適応など品種改良された農作物の種子を、国内や「外地」に販売する事業が多かったのだろう。特に、冷害で恒常的な凶作にみまわれた地域では、さまざまな農作物の種子を大量に必要としていた。また、満州や台湾、朝鮮半島などの植民地(開拓村)では、農地拡大のために多種多様な農作物の作付けが実験的に繰り返されていた。したがって、種子を安価に配送する特別な郵便制度が不可欠だったとみられる。農作物の種子は、120gまでが1銭と極端に安く設定され、以降120gごとに+1銭ずつ加算されていく。つまり、種子を1kg超送ったとしても、わずか10銭の配送料で済んだわけだ。
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キング切手印紙葉書入裏扉.jpg
 同ハガキ入れには、電報料金も記載されている。通常電報で東京市内同士は、15字までで15銭、以降5文字ごとに3銭増し。内地(国内)相互間で15字以内は30銭、以降5文字ごとに5銭増し。内地(国内)と台湾、朝鮮、樺太、小笠原諸島、沖縄諸島間は15字以内で40銭、以降5文字ごとに5銭増しとなっており、「ウナ電」(至急電)の場合は上記料金の2倍が請求された。また、面白いのは「ムニ電」(照校電報)というのが存在したことだ。これは、打電する文面を局員が反復して復唱校正(電文反復照合)するサービスで、ただそれだけで上記料金の2分の1増しが請求された。
 たとえば、「アスエキニツク(明日駅に着く)」の電文で反復照合電報を依頼すると、その電文を受け付けたちょっと怪しい電報局員が、「♪あなたに捨てられてラ・メール~の“ア”、♪すずめ鳴け鳴けもう日は暮れた~の“ス”、♪江ノ島が見えてきたおれの家も近い~の“エ”、♪君を見つけたこの渚で~の“キ”、♪にしん来たかとカモメに問えば~の“ニ”、♪津軽海峡冬景色~の“ツ”、♪クジラのスーさんお空泳いできた~の“ク”……でまちがいないですね? きょうは、夏らしく海シリーズで反復唱合してみました」「…うるせ~よ!」と、1文字1文字を反復して確認してくれるのだ。
 同ハガキ入れには、「郵便取扱時間」も掲載されているが、これは郵便局がその業務を行っている開業時間のことで、季節により時間帯が異なるのがめずらしい。切手・印紙入れの裏に記載された開業時間について、そのまま引用してみよう。
  
 電信 電話(一、二等局)
  三月一日ヨリ 十月末日迄 午前六時ヨリ 午後八時迄
  十一月一日ヨリ 二月末日迄 午前七時ヨリ 午後八時迄
  三等局ハ一年間ヲ通ジテ 午前八時ヨリ 午後四時迄 但 時間外取扱ヒヲモナス
 為替 貯金 保険
  四月一日ヨリ 七月廿日迄 九月一日ヨリ 十月末日迄 午前八時ヨリ 午後三時迄
  其他ノ時期ハ午前九時ヨリ 何レモ土曜ハ正午限 日曜休
 小包 書留 其他
  一二等局ハ平日午前八時ヨリ午後十時迄 日曜祭日午後三時迄
  三等局ハ平日午前八時ヨリ午後六時迄 日曜 祭日ハ休
 年末三日間ハ日曜祭日モ平日通リ事務取扱ヲナス
  
 今日の郵便局よりも、かなり長時間にわたって開業していた様子がわかる。
キング切手印紙葉書入切手印紙収納.jpg
キング切手印紙葉書入業務取扱.jpg
中野町郵便局1933.jpg
 また、同ハガキ入れの奥付部分には、航空郵便のルートと料金が印刷されている。東京を起点にすると、航空郵便ルートは北へ東京-仙台-青森-札幌と、東京-富山-新潟の2ルート。西へは、東京-名古屋-大阪-福岡-京城-新義州-大連-奉天-新京-ハルピン-チチハル-満州里となっている。また、山陰へは大阪-鳥取-松江、四国へは大阪-高松-松山と分岐し、南へは福岡から分かれ福岡-沖縄-台北-台中-高尾までの航空郵便ルートが開拓されていた。
 航空便料金はそれなりに高く、内地同士(中国関東州含む)の手紙だと20gまで基本料金+30銭、内地-満州間は基本料金+35銭、ハガキだと内地同士は基本料金+15銭、内地-満州間は基本料金+18銭となっている。基本料金とは、先述した通常料金のことで、通常の手紙だと国内航空便は34銭、満州まで送れば39銭、ハガキは国内航空便で17銭、満州までなら20銭ということになる。
 「キング切手印紙葉書入」の製造元は、神田にあった名鑑堂だが、現在の同社は「キングジム」と表現したほうがピンとくる方も多いのではないだろうか。この記事を読んでいる方のお手もとにも、同社の製品が少なからずあるはずだ。「キングファイル」や「クリアファイル」をはじめ、「クリアバインダー」、ラベルライターの「テプラ」、テキストメモの「ポメラ」など、必ず一度はどこかで目にしているのではないだろうか。もともと神田の名鑑堂は、明治期あたりに起業した会社かと思っていたら、1927年(昭和2)創業と意外に新しい。おそらく、会社の創立後に初めて大ヒットした商品が、「キング切手印紙葉書入」だったのではないだろうか。
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 タイトルには「70年使われた」と書いたけれど、同ハガキ入れが出てきてから、再びわたしが切手やハガキを入れて使いはじめたので、80年以上つかわれている……ということになる。下部を閉じておく黒いゴム輪は失われたが、まだまだ現役でいけそうだ。

◆写真上:函圧しに金文字と、かなり凝ったつくりの「キング切手印紙葉書入」題字。
◆写真中上は、同ハガキ入れの全体像。は、表紙をめくると各種郵便料金の記載とともに、「はがき入れ」と書いてあるところからハガキがタテに入れられる。
◆写真中下は、二つ折りの切手・印紙入れ。パンチ穴が開いており、切手の有無がすぐに確認できる。は、1937年(昭和12)の郵便局取り扱い郵便物と開業時間。は、1933年(昭和8)に撮影された落合地域の西隣りにあたる中野町郵便局。
◆写真下は、1929年(昭和4)に撮影された落合地域の北隣りにあたる椎名町郵便局。ちなみに、『中野町誌』と『長崎町誌』には郵便局の写真が掲載されているが、『落合町誌』と『高田町史』には未掲載だ。は、航空郵便のルートと料金表。

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田端駅付近も歩いた佐伯祐三。 [気になるエトセトラ]

田端操車場.JPG
 1926年(大正15)4月の初めごろ、佐伯祐三Click!はフランスから大阪の光徳寺を経由して下落合のアトリエにもどると、ほどなく当時は田端で農民文芸研究会の拠点となっていた椎名其二Click!を訪ねているとみられる。アナキストでありフランスの文化や文芸を研究していた椎名其二は、佐伯とはウマが合ったらしく第1次渡仏前からふたりは親しく交流していた。椎名の周囲に目を光らせていた特高Click!は、この交際から佐伯をマークしはじめた可能性が高いことは以前にも書いたとおりだ。
 椎名を訪ねた際、おそらく佐伯は田端駅周辺の風情に惹かれたのだろう、1926年(大正15)の春から秋にかけ何度かスケッチに訪れているようだ。明確なタイムスタンプが残るものに、同年9月15日の『電車』と9月16日の『田端駅』が「制作メモ」Click!に記録されている。このうち、チョコレート色をした山手線の車両Click!を描いたとみられる『電車』は戦災で焼失しているが、記載された『田端駅』が現存する『田端駅附近』×2作のうち、どちらの画面をさすのかは不明だ。現存する田端駅付近の作品×3点は、いずれも広大な田端操車場かその近くを描いていると思われ、連なる電柱や信号機、信号手小屋などにおもしろい画因をおぼえたのかもしれない。
 ただし、田端作品ではないかといわれるようになった『休息(鉄道工夫)』のみが、ほかの作品とは異質な存在だ。当初、同作は工夫たちの様子からパリのプロレタリアを数多く描いた、前田寛治Click!の影響を受けた第1次滞仏作品で、1925年(大正14)作とみられていた。ところが、佐伯アトリエを訪ねた勝本英治に、佐伯は「仕事を終えての帰り途に鉄道工夫の溜り場を覗いたところ、こんな情景に出会った」(生誕100年記念佐伯祐三展)と、1927年(昭和2)3月に語っていることが前世紀末に判明している。
 藤本英治は、アトリエにあった作品の中で描かれて間もないとみられる『休息(鉄道工夫)』が気に入り、その場で手に入れているが、画面をよく観察すると工夫たちの作業着もフランスのものとは異り、日本の作業着のような気配であり、同作はパリの労働者や周囲の風情を似せて、田端の鉄道員を描いた1926~1927年(大正15~昭和2)の国内作ととらえられるようになった。佐伯の多くの画集や図録では、同作を1925年(大正14)の作としている記述が多いので、ちょっと留意が必要だろう。
 昭和期に入ると、長谷川利行Click!が田端駅周辺に出没して車庫や変電所、操車場などの風景を描いているが、佐伯が田端の椎名其二を訪ねた大正の終わりごろ、周辺には「春陽会」を結成した山本鼎Click!や小杉未醒、倉田白羊Click!森田恒友Click!などの画家たちが集って住んでいた。また、芥川龍之介Click!の肖像画やデスマスクを描いた小穴隆一、すでに結婚をして谷中初音町15番地に転居してしまったが、のちに下落合へアトリエをかまえる太平洋画会の満谷国四郎Click!なども一時住んでいる。
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 佐伯が何度か通い、田端駅界隈の風景をスケッチしていた周辺には、多くの文学関係者が住んでいた。田端608番地の室生犀星Click!を中心に、同人誌「驢馬」を刊行していたまわりには中野重治Click!をはじめ、窪川鶴次郎Click!堀辰雄Click!、西沢隆二、宮木喜久雄などが参集し、彼らの近くにはカフェ「紅緑」につとめる佐多稲子(田島いね子)Click!の姿もあった。大正末、「驢馬」が先鋭化していくとともに、室生犀星はいつ特高に逮捕されてもかまわないよう、常にヒゲを剃るのは夕方にし、洗面道具を包みに入れ風呂場にまとめておいたというエピソードは有名だ。これらの詩人や作家たちの何人かは、こののち落合地域やその周辺域へと転居してくることになる。
 なお、室生犀星の一家が1928年(昭和3)、12年間住みなれた田端から馬込文士村Click!と呼ばれた大森谷中1077番地へと転居する際に、大森地域の貸家を探して室生家に紹介したのは、萩原朔太郎の妻・稲子だったことが判明している。その3年後、萩原稲子Click!は下落合の妙正寺川に架かる寺斉橋北詰めに喫茶店「ワゴン」Click!を開店し、落合地域に住む多くの画家や作家たちの拠りどころとなった。
 また、下落合の「植物園」で『虚無への供物』Click!を執筆することになる中井英夫Click!も、一時期、芥川龍之介邸の南200m余のところに住んでいた。さらに、1927年(昭和2)7月24日未明、田端435番地で服毒自殺をとげた芥川龍之介Click!の枕もとへ駆けつけたうちのひとり、歌人であり文学者の土屋文明も、佐伯が田端駅周辺を描いていたとみられる前後、1926年(大正15)の夏に田端から下落合へ転居してきている。だから、芥川邸へ駆けつけたのは田端の旧邸からではなく、下落合の新邸からだったとみられる。しかし、拙サイトで土屋文明は、清水多嘉示Click!がらみの諏訪高等女学校Click!での教員として記念写真に登場したのみで、下落合のどこに住んでいたのかは不明だ。
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 さて、昭和初期に日本橋矢ノ倉町から田端へと転居して育った、当時の風情をよく知る近藤富枝Click!は、1975年(昭和50)に講談社から出版された『田端文士村』の中で、1964年(昭和39)出版の窪川鶴次郎の『東京の散歩道―明治・大正のおもかげ―』(社会思想社)を引用しつつ、次のように書いている。
  
 「(前略)沼地の右がはには、高台通り面して玉突屋と入り口を並べて更科そばと旅館(著者注 松が枝)があつて、それらが汽車の煙でくろずんだ横つ腹を沼の上に見せてゐた。そして左がはには駅からのぼつてきて高台通りへ出るところに沼の上にかかつているやうな格好で白十字の喫茶店があつた」/当時のようすがありありと目にうかぶ描写である。ただし白十字は白亜堂の間違いで、この店は全く崖の上にのり出すような形で建ち、ボックスに坐れば佐伯祐三や長谷川利行の好んで書(ママ)いた田端駅構内の、いくらかうらわびしい、何ごとかを語りかけてくるような、底に懐かしさを秘めた風景が木の間ごしにながめられた。そして例の鉄道の枕木をそのまま使った黒い長々と続く柵は、もうそれだけでここが田端以外のどこでもないことを語っていた。そして、この白亜堂の床は、歩けばぎしぎしと揺れそうな危うさがあった。
  
 喫茶店「白亜堂」は大正期からつづく店なので、貧乏な長谷川利行はともかく、画道具を抱えた佐伯祐三は立ち寄っているのかもしれない。
 芥川龍之介が、近くに住む洋画家・小穴隆一に大正末ごろ「金沢人に気を許すな」と囁いたのは、どのような意味合いからだったのだろうか。近藤富枝Click!は同書の中で、「詩人から芥川のジャンルである小説を侵そうとしていた」室生犀星のことではないかと推測しているが、はたしてそうだろうか。室生犀星もそうだが、同人誌「驢馬」を刊行していた中野重治や窪川鶴次郎も石川出身の「金沢人」だった。彼らは昭和期に入ると、上落合を中心にしたプロレタリア文学界の中心的な存在になっていく。予感にすぐれた芥川龍之介は、目前に迫った文学界の激動=プロ文学の席巻を、どこかで敏感に感じとっていたのではないか?……と考えるのは、はたしてうがちすぎだろうか。
 佐伯祐三は、「田端風景」を何枚描いたのかは不明だが、現在画集や図録などで確認できるのは4作品だ。この中で、『電車』と『田端駅附近』×2点のどちらかが「下落合風景」シリーズClick!の制作を本格化する直前、1926年(大正15)9月中旬に描かれているのかもしれないが、『休息(鉄道工夫)』は明らかに季節がちがう。工夫たちは長袖の作業着をシャツに重ね着しており、佐伯が帰国した1926年(大正15)の春か、藤本英治が証言するように1927年(昭和2)の冬から春にかけてということになりそうだ。
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 それらの作品からは、どこからともなく石炭の匂いが漂ってきそうな、近藤富枝も書いているが「うらわびしい」けれど、どこか懐かしい雰囲気がそこはかとなく漂ってくる。枕木をそのまま流用した黒い柵からは、クレオソートClick!の刺激臭が鼻をつきそうだ。

◆写真上:田端駅前の跨線橋である、新田端大橋の上から眺めた田端操車場。
◆写真中上から順に、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『シグナル』、同『田端駅附近』A、同『田端駅附近』B。AとBどちらかの作品が、1926年(大正15)9月16日に制作された画面だと思われる。は、新田端大橋から撮影した山手線(左)と京浜東北線の軌道(中央)、そして東北・山形・秋田新幹線の高架(右)。
◆写真中下は、1926年(大正15)9月15日の制作とみられる佐伯祐三『電車』(戦災で焼失)。は、第1次滞仏作と思われていた佐伯祐三『休息(鉄道工夫)』だが、新資料の発見により1926~1927年(大正15~昭和2)に制作された田端関連の1作とみられるようになった。は、西側からホームを見下した田端駅。
◆写真下は、1915年(大正4)制作の曾宮一念『田端駅にて』(上)と1928年(昭和3)制作の長谷川利行『汽缶車庫』(下)。は、1923年(大正12)撮影の田端駅。駅舎の向こう側に、長谷川利行の「汽缶車庫」に似た建物が見えているが別の建物だろう。は、現存する大井町操車場の旧・大井町変電所。

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平塚で記録された関東大震災。 [気になるエトセトラ]

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 以前、1923年(大正12)の9月現在、藤沢町(現・藤沢市)の鵠沼にアトリエをかまえていた岸田劉生Click!が、関東大震災Click!に遭遇した様子をご紹介Click!している。鵠沼の海岸近くは、地面が砂地なので揺れが激しく、岸田家は洋館だったアトリエ部を除き母家全体が倒壊してしまった。また、親たちから江戸安政大地震の伝承を耳にしていたのだろう、劉生は津波の来襲を怖れ、家族を連れて高台へと避難している。
 きょうの記事は、藤沢のもう少し西寄りにある街、湘南海岸の中央にある平塚町(現・平塚市)の関東大震災の様子を見てみたい。ちなみに、神奈川県の大地震被害の検討部会では、東日本大震災の発生を受けて2015年(平成17)に被害予測の全面的な見直しが行われたばかりだ。結果、平塚市はマグニチュード8.5の海溝型地震(相模トラフの震源想定)が発生した場合、最大で9.6mの津波が約6分で海岸域に到達するとした。また、同様の揺れで大磯と二宮では、約3分後に最大で17.1mの津波が到達するとしている。この時間差と津波の高さのちがいは、海底の地形に起因していると思われる。
 馬入川(相模川)と花水川にはさまれた平塚海岸は、海岸線から急に水深が深くなり遊泳禁止に指定されている。だが、大磯や二宮の海岸線は遠浅のため、津波の到達スピードや波の高さが大きく異なるのだろう。つまり、湘南海岸で海水浴場に指定されている海岸は、神奈川県が想定する海溝型の大地震(M8.5)が起きた際、津波の到達時間がきわめて早く、また波高もかなり高いということになる。おそらく、岸田家が住んでいた藤沢町の鵠沼海岸(海水浴場)でも、津波の到達はかなり早かったのではないだろうか。
 関東大震災のとき、平塚では約5kmも内陸にある四之宮の家々まで波が洗ったと伝えられているが、同地域は馬入川(相模川)に近いため、津波で逆流した川の水が堤防からあふれて、住宅を押し流したものだろう。海岸に近いエリア、すなわち平塚駅の南側では、どこまで津波が到達したのかがハッキリしない。なぜなら、大正期は国道1号線が通る駅の北側(旧・平塚宿)が市街の中心であり、いまだ砂丘だらけだった南側にはほとんど人家がなかったからだ。ちなみに、由比ヶ浜近くまで住宅が建っていた鎌倉ケースを例にとれば、坂ノ下にある御霊社ぐらいまで壊滅しているので、少なくとも津波は400~500mほど内陸まで押し寄せているのではないかとみられる。
 では、大震災が起きた瞬間の様子を、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(非売品)から引用してみよう。この時期、守山商会Click!は平塚町宮の前へ移転してきており、震災の様子は平塚駅のすぐ北側、国道1号線沿いの情景ということになる。
  
 震源地丹沢山とは四里とは距てゝはゐない。勿論朔日休業で寝てゐた(守山)鴻三氏の身体は一米も跳ね飛ばされた。縁側から庭前に三米も突き飛ばされて了つた。地震加藤宜敷の凄い形相で、工場へ匍匐(ころが)りつゝ行くと、女中始め二三士は真に腰が抜けて立つ事が出来ない。煙突は倒れてゐるが幸ひ工場は軽るい屋根であるから倒れる所迄は行つてゐない。付近の家は九割七分迄は将棋倒れになつて阿鼻叫喚の声が暗澹と漲つてゐる。日本に一ツしか無い、海軍の火薬廠の貯蔵庫は、次ぎから次ぎへと天柱も砕けるかと思ふ許りの大音響を立てゝ爆発する。火災は各所から起つた。阿修羅男(守山鴻三)は屋上に駈け上つた。そしてコスモスを根抜(ねこ)ぎにして防火に勉めた。人々には天譴でもこの工場に天祐であつた。風立つと余燼が危険であるから、彼は声を張り揚げて町の人を呼んだ。人々は言ひ合したやうに竹藪の中に逃げて仙台公に縋つてゐる許りで人影を見なかつた。数名の者と町の消防ポンプを持ち出して消火に努めて見たものの、道路は倒壊家屋で進行が出来ない。下の方から押し潰された人の断末魔の声が聴えて来る。(カッコ内引用者註)
  
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 大地震の直後、震源地は相模湾沖ではなく、「丹沢山」というデマが流れていたのがわかる。震源地が内陸部だというデマは、津波に対する危機感を鈍らせて非常に危険だ。
 身体が1mほど飛んだというのは、初期の突き上げるようなタテ揺れで、その直後に縁側から庭先まで3mほど突き飛ばされたのは最初の強烈なヨコ揺れた。本震のヨコ揺れはよほど強烈だったようで、台座に固定されていた露座の鎌倉大仏Click!が、前へ40cmほど弾き飛ばされて傾いているのを見てもわかる。
 このとき、平塚町内では死者476名、全壊家屋4192戸という大きな被害を出していた。また、地面が砂地の地域が多く、液状化現象で地中の砂や水が大量に噴出している。地面の液状化で家や人が呑みこまれたり、幹線道路を含め地割れが随所で起きていた。社史には、倒壊家屋で消防ポンプが進めないと書いてあるが、町内あちこちの道路で地割れが発生し、車両の通行ができなくなった。国道1号線では、馬入川(相模川)に架かる馬入大橋が壊滅し、また東海道線の馬入川鉄橋Click!も崩落している。いまでも、東海道線で馬入川(相模川)をわたると、関東大震災で崩落した旧・馬入川鉄橋のコンクリート橋脚跡を見ることができる。
 地震のあと、大規模な火災が発生しているのは東京や横浜と同様だが、平塚には海軍の火薬廠があったため、火薬庫の大規模な爆発事故も起きている。たまたま9月1日が土曜日だったため、工場に残っていた工員たちも少なかったのだろう。もし大地震が平日に起きていたら、火薬庫の爆発によりもっと深刻な人的被害が生じていたかもしれない。
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花水川192309.jpg
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 その内に例の通り国府津に集金に行つた(守山)謙氏が、汽車は転覆又は火災の為の不通なので、自転車を買つて何回も川や田の中に跳ね飛ばされつゝ飛んで帰つて来た。勿論家族は全滅であらうと覚悟して来たので、一同手を執つて喜び合つた。(中略) 横浜も川崎も、帝都も、紅蓮が炎々天を焦がしてゐる。午前九時頃生家に辿り着いた彼は、そこに全滅した生家と健全であつた両親と弟達とを見出してホツとした。(中略) 雪隠許り造つてゐても仕方が無いので、平塚の工場へ舞ひ戻つて来た。すると汽車は馬入-国府津間、馬入-程ヶ谷間を気息奄々と運転してゐて、東から逃げて来た罹災者の群、西から上つて来る救援者の群が、絡繹蜒々(らくえきえんえん)として物凄い勢である。その人達は食べるに何物も無い。畑には甘藷も大根も最早や一片の残物も無い。買ふ金はあつても濁らぬ飲料水は一滴もない。(カッコ内引用者註)
  
 汽車の転覆とは、隣り町の大磯で地震と同時に起きた東海道線の脱線転覆事故Click!のことだ。自転車で走行中、川や田圃へ跳ね飛ばされるのは大きな余震のせいだろう。東海道線が馬入川(相模川)始点なのは、先述のように馬入川鉄橋が崩落したからであり、程ヶ谷(保土ヶ谷)から先の東へ進めないのは、横浜の市街地が大火災で壊滅Click!していたからだ。この大火災で、横浜の市街地は実に90%以上が焼失している。また、国府津から西へ進めないのは、小田原の手前で酒匂川鉄橋が崩落していたからだ。
 震災から数日後、川崎や横浜方面からの罹災者が、国道1号線を歩いて西へ避難していく様子が記録されている。そこで、「よし来たあの返品されたコーヒー牛乳を売り出せと兄弟は、一挙に何十箱も売つて了つた」……という、以前にご紹介した同社社史Click!の現代ではありえそうもない事業発展の文脈へとつながってくる。
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 平塚駅は地震で倒壊し、駅員や待合室にいた乗客が下敷きとなり、死者6名重軽傷者数十名を出している。また、もっとも被害が深刻だったのは相模紡績平塚工場の倒壊で、144名もの工員が犠牲になった。死者の中には、多くの女工たちが含まれていたという。

◆写真上:平塚駅から西を眺めた風景で、正面は高麗山から湘南平にかけての大磯丘陵。
◆写真中上は、関東大震災で崩壊した平塚駅ホームの屋根。は、倒壊家屋が目立つ平塚の明石町付近。は、校舎が全壊した平塚小学校(現・崇善小学校)。
◆写真中下は、崩落した花水川(金目川)の堤防。は、地割れで通行できなくなった花水川沿いの道路。は、崩落した国道1号線の馬入大橋。
◆写真下は、平塚海岸から見た三浦半島方面の眺め。突堤の上には江ノ島、先端には烏帽子岩が見えている。は、国府津駅近くの東海道線の惨状。は、鎌倉の津波被災地。由比ヶ浜から押し寄せた津波で、御霊社や江ノ電が走る坂ノ下の住宅地は壊滅した。

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「巣鴨の神様」の「至誠殿」と巌本善治邸。 [気になるエトセトラ]

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 以前、避難先の巣鴨にあった親の実家の防空壕から、日比谷公会堂めざして歩いた19歳の巌本真理(メリー・エステル)Click!について書いたことがある。1945年(昭和20)3月11日、東京大空襲Click!の翌日のエピソードで、向田邦子Click!のインタビューに巌本真理が答えた記事をご紹介していた。なお、このエピソードについては、向田邦子と巌本真理との間で認識の齟齬があると思われるので、改めて記事にまとめてみたい。
 この避難先(東京市内なので疎開とは呼びにくい)である巌本家、すなわち巌本真理の祖父が住んでいた住所は、豊島区西巣鴨653~703番地界隈の南西向きの丘上から斜面にあたる広い敷地で、大正初期の住所でいうと北豊島郡巣鴨村巣鴨庚申塚653~703番地ということになる。すなわち、「巣鴨の神様」Click!のいた「至誠殿」のある山田夫妻の住所と、明治女学校の創立者のひとりである巌本善治邸とが、同じ敷地で重なっているのだ。明治女学校があった丘上と、巌本邸や庚申塚大日堂のある南西斜面を含めて、一帯の小高い丘は江戸期から「大日山」と呼ばれていた。
 大正後期から昭和初期にかけて、大日山とその周辺を地元の方々が記録した資料があるので参照してみよう。地元の古老たちが集まり、1986年(昭和61)3月29日に座談会形式で当時の思い出を語りあったものだ。出席者は、明治末から大正初期生まれの方々が多く、1909年(明治42)に明治女学校が閉校になって間もない時期の情景についての証言ということになる。1989年(平成元)に発行された小冊子、『座談会集・巣鴨のむかし第1集』(巣鴨のむかしを語り合う会)より引用してみよう。
  
 田崎 (前略)坂を上って行くと右側が幼稚園になっていますが、そこが明治女学校のあった所ですね。西洋館が1軒有って、その周りがもう本当に森だったのです。その向こうの公務員住宅が2棟有る所と東大の学生寮の所が、帝大の農場でした。そこは後にテニスコートになったように記憶しています。トンボとりに絶好の場所でしたが、あの近所は怖いと言うか気味の悪い所と言うイメージが有りましたね。通るときは小走りに通り抜けたものでした。(中略)
 藤井 (前略)校舎と言うのは良く知りませんが、その西洋館は原っぱの突当りにポツンと有りました。巌本真理さんはそこの西洋館で育ったのかしら。
 西村 真理さんは帝国小学校で私と同級だったのですが、折戸に住んでいました。
  
 「田崎」という方は、1913年(大正2)生まれなので、大正後期には大日山でよく遊んでいたと思われる。「あの近所は怖いと言うか気味の悪い所」というイメージをお持ちなので、おそらく「至誠殿」にいた「巣鴨の神様」の印象が、いまだ地域の記憶として色濃く残っていたのかもしれない。
 「藤井」という方は、1914年(大正3)生まれで、森の中の原っぱに建っていた巌本家の西洋館を記憶している。「西村」という方はひとまわり若く1925年(大正14)生まれなので、1926年(大正15)1月の早生まれだった巌本真理とは同学年にあたる。巌本真理が小学生だったとき、すでに生家だった庚申塚の巌本善治邸を出て、より山手線の大塚駅に近い折戸に住んでいたのがわかる。
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 巌本善治が、市街地から郊外の巣鴨庚申塚に引っ越してきたのは、明治女学校が麹町区下六番町6番地から巣鴨への移転を余儀なくされた1897年(明治30)のことだろう。明治女学校は、巌本善治や田口卯吉Click!、木村熊二、植村正久、島田三郎の5人が発起人になり、1885年(明治18)に九段下に設立された。キリスト教をベースとしつつも、「欧米人が主導する女子教育ではなく、日本人民の手で女子の教育を行う日本の女学校」を標榜していた。明治女学校の関係者には、勝海舟をはじめ旧・幕臣(つまり江戸東京人)つながりが多いのが特徴だった。
 講師陣は当時の最先端をいく人々によって構成され、明治女学校は女子あこがれの高等教育機関となり、最盛期には300人の女学生が全国から集まった。同時に、巌本善治が1885年(明治18)から『女学雑誌』を、つづいて『文学界』を刊行しはじめたことで、さらに女子たちの人気が沸騰した。講師たちの顔ぶれを見ると、たとえば津田梅子や島崎藤村Click!、樋口一葉、田辺花圃、北村透谷、木村鐙子、中島湘烟、若松鎮子(巌本嘉志子)、星野天知、荻原守衛Click!戸川秋骨Click!、平田禿木、内村鑑三Click!、馬場孤蝶、荻野吟子……と、今日から見れば信じられないような顔ぶれがそろっている。そして、卒業生には野上弥生子Click!羽仁もと子Click!相馬黒光(良)Click!など既存のワク組みにとらわれない、新しい時代の女性たちを輩出していった。
 多くの人々を惹きつけた巌本善治の魅力について、横浜のフェリス女学校の杓子定規な校風が合わず、1895年(明治28)に明治女学校へ転校してきた相馬黒光(良)Click!の証言を、1977年(昭和52)に法政大学出版局から刊行された『黙移』より引用してみよう。
  
 (前略)ここでは校長先生(巌本善治)の講話というのに、女義太夫の「素行」の名が出る。「円朝」「小さん」というような人々のことが語られる、芸術至上の精神から、先生が捉えてきて示されるものは実にかくの如く自由で、味わい深く、聴いているうちに自分の視野がぐんぐんひろがり、あらゆるものに許されている向上の精神が、ここに、そこに、とさし示されるように感じられて、耀き深い人生の自分も許されたる一人であるという気がしたのでありました。/そういう魅力のある先生に対し、魅力の乏しい古い世界から出てきている教え子達は、ただもえ一途に憧憬を寄せ、求めていた完全なものをここに得たかの如くに、安心しきって、校内の空気に身も心も委ねてしまったようなところがあります。(カッコ内引用者註)
  
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 1909年(明治42)に、明治女学校が経済的に破たんして閉校したあとも、同校の校主だった巌本善治は敷地南西側の一画、つまり大日山の丘上と南西斜面の500坪といわれる敷地に住みつづけていたらしい。彼が住んでいた家屋は、旧・明治女学校の一部の建築または部材を移築したものかもしれない。それが大正後期になると、森に囲まれたちょっと不気味な風情になっていたのだろう。
 大正末ごろを想定して、地元の人たちが作成した「巣鴨新田周辺略図」(1975年)によれば、巌本邸の敷地は旧・明治女学校が建っていた「明治原」の丘上の南西端から、巣鴨第一尋常小学校(現・西巣鴨小学校)の北側に通う丘下の道路まで、つまり庚申塚大日堂の南側にあたる斜面全体だったようだ。また、西巣鴨第一国民学校(現・西巣鴨小学校)を1945年(昭和20)に卒業した方々でつくる、「鴨の会」が作成した「鴨の街」地図では、巌本家は「おばけ屋敷」などと書かれている。w
 巌本善治は、広大な敷地の一部を貸地ないしは貸家にしていたようで、その一画に建っていたのが「巣鴨の神様」の「至誠段」と山田勝太郎・つる夫妻の西洋館であり、大正末には星道会本部Click!だったようだ。また、大正末には巌本邸の南側斜面には新たな道路が拓かれ、住宅地化が進んでいるので一般住宅用に土地を貸したか、あるいは手放したかしているのだろう。
 メリー・エステル(巌本真理)は、大日山の巌本家で巌本善治の長男・荘民(まさひと)とマーグリト・マグルーダ(米国人)の長女として、1926年(大正15)1月に生まれている。小学校に上がると、さっそく“あいの子”としてイジメられたため4年で中退し、自宅で家庭教師による英才教育を受けることになった。このあたり、自由で主体性を備えた女性を育てるという、巌本家ならではのフレキシブルで自由な教育環境がうかがわれる。6歳からはじめていたヴァイオリンは、諏訪根自子(戦前)や前橋汀子(戦後)などを育てたロシアのアンナ・ブブノワ(小野アンナ)について学んでいる。
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 19歳になった巌本真理は、避難していた巌本善治(1942年歿)の邸敷地内、大日山の斜面に掘られた防空壕から、演奏会が予定されていた日比谷公会堂へ向けて歩きはじめた。小高い大日山からは、サーチライトで照らされながら市街地上空を旋回するB29の大編隊や、散開してバラまかれるM69集束焼夷弾の様子がよく望見できたかもしれない。

◆写真上:1897年(明治30)から大日山に移転してきた、明治女学校のキャンパス跡。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる明治女学校。は、巣鴨庚申塚に移転してきた明治女学校。下左は、明治女学校の校長や校主をつとめた巌本善治。下右は、その孫娘にあたるヴァイオリニストの巌本真理。
◆写真中下は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる巌本邸敷地。は、地元で作成された大正末の様子を伝える「巣鴨新田周辺略図」(1977年)。は、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」にみる巌本邸の敷地界隈。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる巌本邸界隈。森に囲まれた原っぱに、ポツンと大きめな屋敷が見えている。中上は、1947年(昭和22)に撮影された同所。空襲で焦土と化しているが、大日山の斜面のどこかに巌本家の防空壕があるのだろう。中下は、地元の「鴨の会」が1945年(昭和20)現在を想定して作成した空襲直前の「鴨の街」地図。は、大日山の由来となった庚申塚大日堂。

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