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安倍能成が証言する第二文化村空襲。 [気になる下落合]

安井曾太郎「安倍能成像」1944.jpg
 以前、目白文化村Click!は第二文化村の振り子坂Click!沿い、下落合3丁目1724番地(現・中井2丁目)に住んでいた星野剛男の戦時日記Click!をご紹介したことがある。1945年(昭和20)4月13日夜半の、第1次山手空襲Click!前後の状況を記録した貴重な資料だ。今回は、同じ第二文化村の下落合4丁目1665番地(現・中落合4丁目)に住んでいた、安倍能成Click!の証言をご紹介したい。
 安倍能成Click!は、罹災した直後に東京朝日新聞のインタビューに答えて空襲の様子を語り、1ヶ月後には「週刊朝日」にその後の所感をエッセイに発表している。それらの文章には、政府をストレートに批判した表現や、敗戦後の日本を展望するようなニュアンスの文章が見られるのだが、安倍能成は幸運にも特高Click!憲兵隊Click!に逮捕されることはなかった。もう少し時期が早ければ、確実に検閲にひっかかり当局からマークされていただろうが、東京大空襲Click!を経験しサクラが散ったばかりの1945年(昭和20)春ごろには、特高も憲兵隊も取り締まりの機能が衰えるかマヒしはじめ、政府自体もまったく余力を失っていたのだろう。それでも、安倍能成の周囲には筆禍による弾圧を懸念した友人たちから、心配する声がとどけられている。
 1945年(昭和20)4月13日の夜半、安倍能成は家族とともに空襲がはじまった東側の高田馬場駅方面や、南の新宿から東中野駅方面を眺めていた。当初、川沿いの工業地域や鉄道駅がねらわれていると判断したのだろう、自身の家が爆撃されるとは思ってもみなかったようだ。ところが、空襲から1時間ほどすると、おそらく妙正寺川沿いを爆撃したB29の大編隊は、第二文化村上空で焼夷弾をバラまきはじめた。当夜の様子を、空襲直後に東京新聞へ掲載された安倍能成『戦災にあひて』から、少し長いが引用してみよう。
  
 四月十三日夜の爆撃で私の家は全焼した。時刻は十二時頃だつたかと思ふ。これより前南の空と東の空とはぱつと紅くなつて盛んに燃え立つて居たが、時を移さず自分の家に弾が落ちて来るとは思ひまうけなかつた。油脂焼夷弾であらう。ぼろつぎのやうなものが庭一面に燃えて、一時にけしの花の盛りを見るやうであつたが、家の中が燃え出したので、家族三人は家に上つて消防に努めた。(中略) 燃えるカーテンを引きちぎつたり、ドアに着く火に水をかけたりして防火に努めたが、その内二階の天井に穴が開いて猛火が燃え下つて来たので、これはだめだと思つて避難を始めてぐるりと見ると、近隣の四五軒、向ふの一軒も盛んに火を吹いて燃えて居る。/一軒おいて隣のO氏の前を通ると、家の方はあきらめて頻りに防空壕に土をかけて居た。それを少し手伝つたが、その時既に疲れを覚えて居た。近くの神社の下の防空壕に避難する前、今一度我が家の側にいつて見たところ、もう屋根は落ちて柱が盛んに燃えて居た。/防空壕の入口には人が一ぱいでとてもはひれぬかと思つたが、おしわけてはひつて見ると、実に長い壕で奥の方には殆ど人が稀な位であつた。空襲警報解除をきいて三時頃家の側にいつて見ると、朝鮮から帰つて建てた書庫の壁だけが残つて、書物はなほ盛んに燃えて居た。
  
 読まれた方もお気づきのように、安倍能成は「カーテン」や「ドア」などの英語(敵性語Click!)をふつうに用いて文章を書いている。
 数年前であれば、とたんに検閲でひっかかり筆者は特高からマークされるか、近くの憲兵隊詰所に呼びだされて恫喝されるような状況だったはずだ。だが、安倍能成は同時期のエッセイでもそうだが、英語を平然と織りまぜながら文章を新聞や雑誌に発表している。このあたりも、周囲の友人たちが心配したゆえんだろうが、おそらく敗戦が近いことを重々承知していた彼は、当局の反応や取り締まりのゆるみ具合を、発表する文章から推し量っていたのではないだろうか?
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 上記の文章の中で、「一軒おいて隣のO氏」とは安倍邸から西へ2軒め、しばらく空き地がつづいていた敷地へ、日米開戦の前後に家を建てたばかりの大内邸のことだろう。もともと、第二文化村の販売時には山川家の敷地だった区画は、かなり長期にわたって空き地の状態がつづき、日米戦がはじまるころに大内家が大きめな西洋館を新築して転居してきているとみられる。
 「近くの神社の下の防空壕」とは、下落合の御霊社Click!(現在は中井御霊社Click!と呼ばれる)が建つ丘上の急斜面に掘られた大規模な防空壕のことだ。文章から、おそらく数百人は収容できそうな地域の大型防空壕Click!だったようだが、第一文化村の文化村秋艸堂Click!にいた会津八一Click!も、空襲時にはここへ避難してきている。また、「朝鮮から帰つて」とあるのは、5年ほど前まで京城帝国大学に赴任して教授をつとめていたからで、この文章を書いている1945年(昭和20)の時点では、駒場の第一高等学校(現・東京大学教養学部)の校長をつとめていた。
 この空襲で、安倍邸は全焼してしまうが、火が入らないようコンクリートで囲った書庫の壁のみが焼け残った。書庫に保管されていた膨大な書物も、また2階東角の書斎にあった多くの書籍や資料類も、すべてが灰となってしまった。燃え残った書庫の四角い壁は、1947年(昭和22)の空中写真でもハッキリと確認することができる。
 安倍能成は、明確に敗戦を前提とし意識している文章を、今度は「週刊朝日」同年5月12日号に発表している。『罹災のあとさき』から、最後の部分を引用してみよう。
  
 私の焼け去つたものに対する愛惜はスツパリと断ち切られてはゐない。しかし私はこの現実に即してどうか力強く生きたい念願を持つてゐる。日本人は今始めてほんたうの戦争をし、ほんたうの困難にあつてゐる。この戦争は日本人をたゝき直す戦争である。私自身も若しかくしてたゝき直されれば有難いと思つてゐる。
  
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 「日本人をたたき直す」とは、どこで道を踏みまちがえたのかを明確に認識し、大日本帝国に蔓延していた文字どおりの「亡国」思想を「たたき直す」、絶好の機会となる戦争だと位置づけている。また、それを防げなかった自身のふがいなさも、「たたき直」したいと宣言している。安倍能成の、戦前からの言動や主張の文脈を知悉していた人々にしてみれば、明らかに敗戦後の「たたき直」し=再出発を見すえた文章であることは明白だったろう。だからこそ友人たちは、当局の弾圧を危惧する声を寄せたのだ。
 そして1945年(昭和20)8月21日、敗戦からわずか6日後の毎日新聞に、『強く踏み切れ』と題して次のような檄文を書いている。
  
 日本は負けた、世界を相手にして負けた。今の日本人にとつて何より重要なことは、この負けたといふ事実、敗戦国である実相を、わるびれず、男らしく、武士らしく、認識することである。この正直な真実の認識からこそ、新しい日本の総ての新しい出発は始まるのである。このことを好い加減にごまかしては、日本人の今後の生活は全く好い加減なものになり、本当の正しい起ち上りも打開も出来るはずはない。
  
 安倍能成が危惧したように、大本営が撤退を「転進」とごまかしたのと同様、敗戦を「終戦」と曖昧化する「男らしく」ない現象がすぐにも表面化している。被占領国の被害をできるだけ小さく見積もり、中には「なかったこと」にしたがる、矜持もなく「武士らしく」もない卑怯な言動が、ほどなく出現している。21世紀になり、「世界を相手にして負けた」戦争などまるでなかったかのように、破産・破滅した大日本帝国の「亡国」思想のまま、70年以上も思考を停止した人々が跳梁跋扈しはじめ、「非国民」などという愚劣で没主体的な言葉を平然とつかう人間まで出現するにいたった。
 安倍能成は哲学者として、また国家を滅ぼした政府の官学の一隅に身を置いていた教育者として、「この戦争が如何にして起つたか、この戦争に何故に敗れたかとの原因を諦観して、これを適正に真実に国民に、殊に今後の日本を背負ふべき青年に知らせることが、生きた具体的教育の重要基調でなければならぬ」(『強く踏み切れ』)と書いている。
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 わたしの高校時代は、プリント資料まで用意して近現代史の授業が熱心に行われていたが、今日では近現代史を教えるのは「時間切れ」で「試験に出ない」からパスされることが多いそうだ。翌1946年(昭和21)に文部大臣に就任する安倍能成が聞いたら、よじのぼった箪笥の上Click!で「山上の訓」どころではなく、真っ逆さまに転げ落ちるだろう。

◆写真上:1944年(昭和19)に制作された、安井曾太郎Click!『安倍能成像』(部分)。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる第二文化村の安倍能成邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安倍邸。安倍邸の2軒西隣りの敷地が、のちに大内邸が建設される空き地。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に陸軍が斜めフカンから撮影した第二文化村と安倍邸。は、第1次山手空襲で焼失するわずか11日前の1945年(昭和20)4月2日に、F13偵察機Click!から撮影された安倍能成邸の最後の姿。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる安倍邸の焼け跡。敷地の北側には、焼け残った書庫のコンクリート壁が見てとれる。は、安倍能成の死去をトップで伝える1966年(昭和41)7月3日発行の落合新聞。このときは、すでに下落合4丁目1665番地の邸を息子に譲り、安倍能成は下落合3丁目1367番地(現・中落合4丁目1番地)の新居Click!へ引っ越していた。安倍邸へ弔問に訪れた皇太子夫妻(当時)の背後に見えているのは、工事がスタートしている十三間通りClick!(新目白通り)。

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淀橋浄水場の沈澄池で自殺をするな。 [気になる下落合]

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 1955年(昭和30)12月31日の正月をひかえた大晦日、下落合2丁目276番地(ママ)で水道管が破裂する事故が起きている。1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された、『淀橋浄水場史』(非売品)にも収録されるほどの大事故だった。ただし、当時の276番地は2丁目ではなく1丁目なので誤植ではないかとみられるが(2丁目になるのは1971年より)、氷川明神社Click!のすぐ北側に位置する地番だ。
 この大事故は、淀橋浄水場系の水道網から砧上浄水場系の水道網へと補水する、埋設された1,000mm(=1m)管が破裂したもので、大口径の水道管破裂からあたり一帯が水浸しになったのではないだろうか。特に斜面下にあたる氷川社は、境内まで浸水しているのかもしれない。当時の1,000mm管は、1895年(明治28)に鋳造された鉄管をそのまま埋設している地域も多く、翌1956年(昭和31)2月にも、淀橋浄水場から芝給水場に送水する幹線の1,000mm管が破裂事故を起こしている。
 淀橋浄水場Click!がその役目を終えて閉鎖された翌年、1966年(昭和41)に出版された『淀橋浄水場史』には、さまざまな事業経営や設備技術の概説とともに、1898年(明治31)から閉鎖される1965年(昭和40)までに起きた多彩なエピソードが紹介されている。元・浄水場の水道局員たちが綴る文章は、たいがい事業の苦労話や技術系の専門話が多いのだが、中には逸話ばかりを集めたエッセイ風の寄稿も見られる。
 淀橋浄水場の開業からしばらくすると、濾池と沈澄池が鳥たちの楽園になっていた様子が記録されている。新宿地域に飛来する渡り鳥は、新宿御苑Click!と淀橋浄水場が羽を休める格好の水場になっていたらしい。特にカモやコチドリの群れが多く、ときには孵化したヒナたちも見られた。だが、戦時中は食糧難から浄水場のカモに目をつけた猟師が犬を連れて入りこみ、次々と鉄砲で撃ち殺して以来、カモの群れは二度と飛来しなくなったという。また、代田橋の玉川上水から淀橋浄水場までの給水路(約4km)が開渠だった時代は、濾池までアユの大群が入りこみ、それを取り除くために漁をしなければならなかった。獲れたアユは、職員たちが塩焼きにして食べている。
 賭博容疑で、警察の手入れが行われたこともあった。濾池の周辺には、深さ1.5mほどの砂桝・格納桝と呼ばれる凹状の設備があり、夏は直射日光が避けられ冬は寒風が避けられる、場内作業員にとっては休憩場のような場所だった。淀橋浄水場では、作業員のすべてが水道局員ではなく、繁忙期には作業員を200人ほど雇って業務を委託していた。その作業員のうちの数十人が、砂桝・格納桝で花札賭博をしていたらしい。かなり以前から内偵していたらしく、ある日突然、濾池の周辺に警官隊が現われ、その場にいた全員を賭博の現行犯で逮捕したという。東京市の公共機関における摘発だったせいか、監督不行届きということで後始末がたいへんだったようだ。
 また、沈澄池や給水路では、たび重なる入水自殺事件に悩まされている。同書に収録された、粕谷武『模型室のことなど』から引用してみよう。
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 玉川上水路も自殺の場所によく選ばれるが水道局としては大変な迷惑である。それも、わざわざ淀橋まで来て沈澄池や水路に入水する者がかなり多い。敷地が広く監視の目がゆきとどかないから致し方ないが、困ったことである。/沈澄池は深さ4メートル、周囲は垂直なコンクリートの壁で、誤って落ちてもひとりでははいあがれない。よほど水泳が達者でもないと一巻の終りになってしまう。/戦時中、ある青年が入水自殺したことがある。池のふちに履物がならべて置いてあるのを職員が発見し、ただちに入水自殺と判断したので「イカリ」による捜査が開始された。まもなく身体におもりをつけて死んでいるのが発見された。/後で調べたところ、この青年は、父親が昔淀橋浄水場に勤務したことがあり、小学生の頃は、淀橋の公舎で育ったということであった。最近は精神異常になっていたとのことであるが、幼い日の思い出を追って中野あたりから、わざわざ死場所を求めてやって来た淀橋への愛着心には、立合った人々も思わず涙をさそわれた。
  
 当然、そのような事件が起きるたびに、多くの東京市民が利用する飲料水の浄水場で、入水自殺するのは「ケシカラン」という主旨の新聞記事や水道局からの広報が出たが、ほとんど効果はなかったようだ。むしろ、淀橋浄水場の池や水路までいけば入水で死ねると宣伝しているようなもので、自殺志願者はあとを絶たなかった。
 戦時中は、淀橋浄水場に限らずどこの浄水場でも人手不足で維持管理がたいへんだった。淀橋浄水場では、繁忙期には200名の作業員が必要なことは既述したが、男性が兵役や勤労動員でいなくなった戦時には、濾池の能力が日に日に落ちて安全な水道水を給水することができなくなり、やむを得ず陸軍に依頼して兵士を派遣してもらっている。だが、濾池の砂層を形成する担上作業に駆り出された兵士たちは、慣れない作業に疲れ果ててしまい、場長や机上の事務員まで総動員して作業を継続したという。
 戦時中に、淀橋浄水場が地図から“消えた”話は有名だ。戸山ヶ原Click!に林立していた陸軍施設Click!ともども、敵の空爆目標になるのを避けるため、淀橋浄水場は地形図や市街地図から“消滅”している。だが、米軍は空襲の数日前にF13偵察機Click!を爆撃目標の上空に飛ばし、高度1万メートルから最新の情報を入手していたので、いくら地図から消してもなんら効果はなかった。
 たとえば、1940年(昭和15)に作成された1/10,000地形図では、淀橋浄水場はまるで新宿御苑のような、巨大な都市型公園に描きかえられている。また、1941年(昭和16)作成の淀橋区詳細図でも、大きな池が5つほどある崖地と針葉樹林に囲まれた公園として描かれている。双方の地図では、池のかたちや位置がずいぶん異なるので、すぐに「おかしい」と気づかれてしまうレベルの稚拙な改竄だった。
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 戦争も末期に近づくと、浄水場内のベンチュリーメーターを使って「空襲予知グラフ」というのが作成されている。ベンチュリーメーターとは、水道管の配水量や送水圧力を測定する仕組みで、その水量や圧力が急激に下がれば事故や故障を発見することができる。つまり、爆撃によって水道管が破壊された時期や時間を克明に記録することで、その規則性や周期を割り出し、次の空襲の時期や時間を予測するというわけだ。だが、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で、同浄水場事務所は「空襲予知グラフ」ともどもすべて灰になってしまった。
 淀橋浄水場は、水辺のある広い原っぱに近かったせいかバッタが大量に発生している。戦時中は食糧不足のため、大量に発生したバッタを捕獲して職員たちは飢えをしのいでいた。同書の『模型室のことなど』から、再び引用してみよう。
  
 平和なときには、広い場内にはバッタ類、ヘビ類、鳥類などさまざまなものが共存していたものだが、食糧不足はこれら虫まで手を延ばす結果となってしまった。/当時は、一杯の酒を呑むにも、券を持って行列しなければならず、勿論、酒のさかながあるはずはない。窮すれば通ずで誰かが考え出したのであろう。バッタを獲えて串焼きにし酒のさかなに持参するのが流行した。/このため、休憩時間には場内はバッタとりで大さわぎとなった。たちまち場内のバッタはとりつくされてしまった。/その後、場内からは虫類も殆ど姿を消してしまったほどで、バッタどもも怖ろしい人間に目を付けられたとうらんでいたことだろう。
  
 酒を手に入れる「券」とは、食糧を統制する政府が発行した「配給切符」のことで、すべての食糧は個人が自由に消費できないよう国家が厳しく管理していた。各家庭に配給される「券」がなければ、高価な闇市場で入手するしか方法がなく、その発行もままならない戦争末期になると、国民はいつも飢餓に苦しめられるようになった。
 東京から敗戦の傷跡が目立たなくなりはじめた、1965年(昭和40)3月に淀橋浄水場が廃止になると、東京都の首都圏整備委員会は浄水場の跡地を再開発する、「新宿副都心建設に関する基本方針」をまとめた。そして、浄水場移転跡地処分審議会を設置し、同年7~8月に跡地売却の告知を新聞各紙に掲載している。翌1966年(昭和41)2月に、初めての跡地売却入札が行われたが、まったく人気がなく入札に参加したのはたった2社のみで、しかも両社とも落札できずに不調で終わっている。
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 淀橋浄水場の埋立区画1・4・5号地に、丸の内にあった東京都庁が新庁舎を建設して移転し、淀橋地域(現・新宿地域)が「副都心」から「新都心」と呼ばれるようになるのは、それから25年もたった1991年(平成3)になってからのことだ。

◆写真上:1965年(昭和40)ごろ撮影された、淀橋浄水場沈澄池に飛来するカモの群れ。戦時中の猟師による殺戮を忘れたのか、戦後は再び飛来するようになった。
◆写真中上は、1965年(昭和40)ごろ撮影された淀橋浄水場全景。は、戦後に撮影された同浄水場の正門。は、濾池で行われる汚砂搬出作業。(戦後)
◆写真中下は、すべて“人海戦術”で行われていた濾池の汚砂削り取り作業と汚砂洗浄作業。(戦後) は、沈澄池(上)と濾池(下)の平面図。
◆写真下は、1932年(昭和7/上)と1940年(昭和15/下)の1/10,000地形図にみる淀橋浄水場の表現改竄。は、1935年(昭和10/上)と1941年(昭和16/下)の「淀橋区詳細図」にみる表現改竄。は、1945年(昭和20)5月25日夜半に照明弾で明々と照らされB29の大編隊による空襲を受ける淀橋浄水場。

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下落合の振り子坂沿いに建つ家々。 [気になる下落合]

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 ファイルを整理していたら、ようやく振り子坂Click!沿いに建つ家々を写した、横長の鮮明なパノラマ写真が出てきたのでご紹介したい。このブログをスタートして1年めの2005年(平成17)当時から、どこかのストレージへ保存をしたまま行方不明になっていた画像データだ。当初、この写真は改正道路(山手通り)工事Click!にからめてご紹介したが、その後、どこに整理・保存したものか「行方不明」になっていた。確か、下落合1736番地の熊倉医院が新宿区へ寄贈し、いまは新宿歴史博物館Click!が収蔵している写真の1枚だったように記憶している。
 また、写真の左手にとらえられたモダンハウスの佐久間邸Click!をモチーフに描いた、宮下琢郎『落合風景』Click!(1931年)でも振り子坂界隈を取り上げているが、同記事を書いたころには今回ご紹介する鮮明な写真がすでに行方不明になっていた。その後、同坂沿いに実家(ないしは私邸)Click!があったとみられる、山口淑子(李香蘭)Click!の記事でも探したが見つからず、最近では振り子坂沿いに建っていた武者小路実篤Click!の家を特定する記事でも、記事中に挿入したかったのだが行方不明のままだった。画像ファイルにわかりやすいネームをふらなかったわたしが悪いのだが、同画像はバックアップ用の外付けHDDの1台にまぎれて保存されていた。
 このパノラマ写真は、振り子坂や山手坂に沿って建つ住宅の様子や、手前の道路に改正道路(山手通り=環六)建設用の部材がすでに運びこまれていることから、1935年(昭和10)をすぎたころに同坂界隈をとらえたものだろう。ただし、山手坂上の尾根道に古くて大きな宇田川邸がいまだ建っているので、1938年(昭和13)よりも前の撮影ではないかと思われる。また、連続写真といっても厳密なものではなく、おそらく手持ちのカメラでやや移動して撮影しているのだろう、家々の角度や接続部分が多少ズレており、また写真をつないだ箇所の風景が少なからず途切れていたりする。
 さて、画面の左から右へ住宅の間を横切っているのが振り子坂であり、丘上に近い坂沿いの斜面に見えている住宅群は、目白文化村Click!の第二文化村に建てられた南端の家々だ。また、大きな排水溝ないしは下水管とみられるコンクリートの“土管”が置かれた道が、山手通りの工事で消滅してしまう、当時としては敷設されて間もない三間道路だ。この三間道路は、左手の振り子坂に合流しており、坂を下れば中ノ道Click!(下ノ道=現・中井通り)へと抜けることができた。撮影者は、当時は改正道路の工事計画が明らかとなり、森が伐採されて赤土がむき出しになった急斜面(下落合1737~1738番地界隈)に上り、北東から南西の方角にかけシャッターを連続して3回切っている。
 では、写真にとらえられた家々を順に特定してみよう。数年前まで、写真にとらえられた家々のうち3邸までが現存していたが、第二文化村の嶺田邸が解体されてしまったので、現在でも見ることができるのは2邸のみとなっている。まず、手前の土管が置かれた三間道路に面し、画面の中央にとらえられている西洋館が、撮影者の住まいである熊倉医院だ。その右手に見えている、洗濯物を干した日本家屋が安平邸だが、旧・安平邸はやや増改築されているものの、いまもそのまま同所に建っている。
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 熊倉医院と安平邸の間に、チラリと平屋の屋根だけ見えているのが、振り子坂沿いに建つ栗田邸(熊倉医院の北西隣り)だろう。また、安平邸の屋根上に、主棟の狭いフィニアルの載った屋根の西洋館が、第二文化村の嶺田邸。そのまま坂上に向かって、右並びに見えているのが同じく調所邸だ。嶺田邸はつい先年まで、大谷石のみごとな築垣とともに現存していたが解体されて敷地が細分化され、いまでは8棟の住宅が建っている。また、熊倉医院の屋根上で、2段に重ねた瓦屋根の上半分が見えているのが、振り子坂をはさんだ斜向かいの安東邸Click!だ。そのまま坂上へたどると、山口邸(淀橋区長の山口重知邸)とひときわ大きな星野邸Click!(戦後は東條邸)がつづいている。以上が、坂上に向かって建つ第二文化村の住宅群だ。
 熊倉医院を中心に山手坂が通う斜面にとらえられた、そのほかの住宅群を見ていこう。まず、熊倉医院の屋根上に少しだけ見えている安東邸の左(南)隣り、同医院の左手にとらえられた切妻の端に、平屋の屋根の一部がわずかに写っているが、これが下落合1731番地の旧・武者小路実篤邸の可能性が高い。また、安東邸の屋根にかかり、その左手に見えているひときわ大きな西洋館は上田邸だ。また、安東邸の右手に見えている、少し離れた尾根上の位置に建つ2階建ての日本家屋は宇田川邸だと思われる。同邸は、1938年(昭和13)作成の「火保図」では、すでに敷地が更地になっていて存在しないので、おそらく同写真の撮影後ほどなく解体されたとみられる。
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 熊倉医院の庭には、往診用に使用したのだろう、クルマの車庫とみられる小さな建物が付属しているが、その向こう側に見えているひときわモダンな建築が佐久間邸だ。この邸をモチーフに、宮下琢郎が『落合風景』を仕上げ1931年(昭和6)1月に発表しているのは、すでに過去の記事でも書いたとおりだ。モダンハウス佐久間邸の裏に見えている、大きな日本家屋が山路邸、その上に見えている2棟の住宅は、山手坂を上りきった尾根上の下落合1986番地に建っていた住宅だ。この2棟の住宅のうち、どちらか一方が旧・矢田津世子邸Click!(1939年まで居住)ということになる。
 写真が少し途切れてしまっているが、山路邸の右上に見えている大きな西洋館の屋根が赤尾邸だ。赤尾邸は、この写真に写っている邸の中ではもっとも規模が大きく、右手(北側)には和館も付属していたと思われる。赤尾邸の右手(北側)には、屋根が3つ重なって見えるが、いちばん手前の2階家は尾根道の手前の斜面に建つ佐藤邸だ。その佐藤邸の屋根に、ほとんど重なってわずかに見えている屋根が、尾根道をはさんだ向かい側の橋谷邸。そして、これら2棟の屋根からかなり離れた位置にかぶさるように見えている大きな屋根は、蘭塔坂(二ノ坂)Click!の上に建っていた大日本獅子吼会本堂の大屋根だ。そして、手前の佐藤邸の右(北)並びに見える平屋の屋根が高津邸、その右(北)隣りが先述のオシャレな西洋館の上田邸……ということになる。
 さて、ここに写る住宅街は、振り子坂の最上部に建っていた第二文化村の星野邸と杉坂邸を除き、空襲の被害をまぬがれているので、戦後もほぼこのままの姿で建っていた。わたしの学生時代には、山手通りを南へ下り中井駅まで歩くと、写真とあまり変わらない住宅街の風情だったような気がする。だが、戦後の山手通りの開通とともに静寂な環境は失われ、1970年代後半はかなり排ガスの臭いがきつかったのを憶えている。
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 撮影者と思われる、下落合1731番地に住んでいた熊倉医院の医学博士・熊倉進は、『落合町誌』(1932年)によれば内科の専門医だったようだ。つい最近まで、自邸の位置を変えて開業していたような記憶があるが、現在の医院跡は駐車場になっている。

◆写真上:振り子坂沿いの住宅群をとらえたパノラマ写真の、熊倉医院(手前)と上田邸(奥)のアップ。熊倉医院の切妻に隠れて、わずかに見えている平屋の屋根の一部が、下落合1731番地に建っていた旧・武者小路実篤邸の可能性が高い。
◆写真中上は、振り子坂沿いに建っていた住宅写真の全体像と坂道の位置関係。は、写真右手(坂上)の住宅街。は、写真左手の住宅街に写る家々。
◆写真中下は、1935年(昭和10)すぎに撮影されたとみられるパノラマ写真(上)と同じ場所の現状(下)。は、1938年(昭和13)の「火保図」(左手が北)にみる同所と撮影画角。すでに山手坂上の尾根道沿いに建っていた大きな宇田川邸が解体され更地になっている。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同所と撮影画角。
◆写真下は、振り子坂沿いに建っていた独特のフィニアルが印象的な嶺田邸(2012年撮影)。は、昔とあまり変わらないたたずまいを見せる安東邸。日本橋出身のおばあちゃんは、お元気だろうか? は、何度か増改築を繰り返したとみられるが基本的に外観があまり変わらない日本家屋の旧・安平邸。

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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(6) [気になる下落合]

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 曾宮一念Click!が、下落合623番地にアトリエClick!をかまえてから1年後、1922年(大正11)に描いた『落合ニテ』と題するスケッチが残っている。明らかに冬季の情景で、光線は画家の正面やや右手の上から射しているようで、描かれた家々の主棟の向きからすると、正面やや右手が南の方角とみられる。
 手前には、太い樹木の伐り株だろうか、まるでオブジェのような面白い形の幹元が残り、葉を落とした木々が手前に、そして前方の林に繁っているのが見える。画面奥に描かれた林の下には、小さな谷間でもあるのか、その南向き斜面には平屋建てとみられる家屋の屋根が描かれているようだ。谷間の北側、つまり丘上に建つ手前の2棟の住宅は、南側にテラスを向けて冬でも暖かそうな造りをしている。
 画面右手の建物は、大正中期に東京郊外へ建てられた、“和”とも“洋”ともつかない意匠をしているが、左手の建物は明らかに洋館だ。しかも、東側に尖がり屋根の母家をもち、西側には台所があるらしい付属する下屋が確認できる。その手前の生け垣が枯れた柵には、勝手口とみられる入口らしい切れ目が見えている。南側に谷間があり、その北側に建てられているこのような意匠の建物は、下落合にお住いの方ならたちどころにピンとくるだろう。しかも、スケッチ『落合ニテ』を描いている画家は、この建物の住民とは親しくしょっちゅう出入りしていた。
 左手の洋館は、まずまちがいなく中村彝アトリエClick!だろう。そして、右手の建物は1920年(大正9)の年内、あるいは翌1921年(大正10)の早い時期に竣工している福田家別荘だ。福田別邸を建築中の音が、中村彝のアトリエまで響いてうるさかったのだろう、1920年(大正9)8月19日付け洲崎義郎Click!あての手紙で、彝は少しグチをこぼしている。同書簡を、1926年(大正15)出版の『藝術の無限感』(岩波書店)から引用してみよう。
  
 昨日は久しぶりで突然岡田先生が遊びに来ました。そして今度は僕の近処へ越して来るから、是非今一度坐つて体力をつけよと忠告されました。やさしい「をぢさん」でも見る様な、なつかしさを感じました。兎角の噂もありますが人間は確に温く、聡明ないゝ人です。これから近くへいらつしやる様になつたら時々会つて、色々為めになる話でもきかうかと思つて居ります。/僕の「おとなり」では今猛烈な大フシンをして居ります。松岡映丘(?)がそこへ越してくるのだ相です。非常に乱筆で読めないかも知れません。御判読して下さい。
  
 文中の「岡田先生」とは、このあとすぐに下落合350番地(のち下落合356番地)へ転居してくる、静坐会Click!を主宰していた岡田虎二郎Click!のことだ。また、日本画家の「松岡映丘(?)」がアトリエを建て、下落合に転居してくるというウワサ話が書きとめられているけれど、そのような事実はなく、彝アトリエ西側の広い敷地に建てられていたのは福田家の別邸だ。
 また、落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)の谷間南向き斜面に建てられ、屋根だけが見えている平屋の住宅は、のちに東邦電力Click!が開発する林泉園住宅とは関係のない敷地に位置する邸だと思われる。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、彝アトリエ前の位置から東側(右側)にかなりズレた位置に敷地の四角囲みのみが描かれているが、名前は採取漏れ、あるいは表札が出てなかったのか記載されていない。昭和に入ると、この住宅は下落合450番地の古島邸(古嶌邸)となるので、とりあえず1922年(大正11)の画面に描かれた住宅も、仮に「古島邸」と呼ぶことにする。
中村彝アトリエテラス1921.jpg
中村彝アトリエ事情明細図1926.jpg
中村彝アトリエ北西側.JPG
 古島邸は、中村彝アトリエと同様に関東大震災Click!の震動で少なからず被害を受けたのか、1924年(大正13)には住宅の位置をやや東に移動して、2階家に建て替えられているとみられる。それは、同年5月27日に彝アトリエの庭で催された園遊会で、南側の桜並木や林泉園のほうを向いて撮影された記念写真の左上に、2階家の屋根とみられる形状(建築中?)が、樹間を透かして見えるからだ。彝アトリエも含め、この一帯の住宅は空襲による延焼をまぬがれているので、戦後の空中写真でも彝アトリエの前、林泉園の斜面に建てられた古島邸を確認することができる。
 曾宮一念は、中村彝アトリエの西北側から、右手に竣工して間もない福田家の別邸を、左手の樹間には赤い尖がり屋根をもつ中村彝アトリエを、そして画面中央の奥には落合遊園地(のち林泉園)の谷戸に下がって見える、彝アトリエから道をはさんで真ん前にあたる古島邸(大正期の震災前)を描いていると思われる。画面の左枠外には、彝が何度か繰り返し描いた一吉元結工場Click!の干し場が拡がり、曾宮が振り返れば背後には目白福音教会Click!メーヤー館(宣教師館)Click!が見えていただろう。
 『落合ニテ』が描かれた1922年(大正11)の夏ごろ、曾宮一念は鶴田吾郎Click!たちとともに新潟県柏崎にいる彝のパトロンのひとり、洲崎義郎のもとを訪ねている。当時のリアルタイムで書かれた、中村彝から洲崎義郎あての1922年(大正11)9月10日(?)付けの手紙を、『藝術の無限感』よりつづけて引用してみよう。
  
 鶴田君や、曾宮君や、金平君の兄さん達が上つて大分賑かだつた相ですね。御上京は何時頃になりますか。上野の二科には曾宮君が一枚と清水君が一枚出して居ます。曾宮君のは僕の画室で見た時には確かにいゝ絵だつたのですが、何故か展覧会場では見劣りがすると言ひます。僕にはそんな筈がないと思はれるのですが、一つ君の鑑定をきゝ度いと思ひます。
  
 同年秋の第9回二科展で、曾宮一念が入選したのは『さびしき日』だった。また、「清水君」とは清水多嘉示Click!のことで、同展には『風景』が入選している。
中村彝園遊会19240527.jpg
中村彝アトリエ火保図1938.jpg
曾宮一念「落合ニテ」1922 構成.jpg
中村彝アトリエ空中1947.jpg
 曾宮一念が中村彝と知りあい、東京美術学校を卒業して池袋の成蹊中学校Click!の美術教師をしていた時期、1916~17年(大正5~6)ごろに制作した、『戸山ヶ原風景』と題する作品も残っている。一面に広大な草原が拡がり、遠景に比較的密な森林が描かれ、手前にはポツンと1本の目立つ樹木が描かれている。
 当時の戸山ヶ原Click!は、山手線をはさみ東側には、いまだ露天のままの大久保射撃場Click!をはじめ、近衛騎兵連隊の兵舎Click!軍医学校Click!戸山学校Click!衛戍病院Click!など数多くの陸軍施設Click!が建てられていて、明治末とは異なりこれほど“抜け”のいい草原は残されていなかった。だが、当時は「着弾地」と表現された西側の戸山ヶ原は、ほとんどなにも建設されてはおらず、曾宮の『戸山ヶ原風景』のような風情のままだったろう。そして、周囲を森林に囲まれた草原の真ん中には、「一本松」と呼ばれた特徴的なクロマツが生えていた。
 曾宮一念は、射撃訓練が行われていない安全な日を選び、山手線の西側に拡がる戸山ヶ原に出かけ、「一本松」を画面に入れて『戸山ヶ原風景』を描いているように思われる。晩秋ないしは初冬のような風情を感じる画面だが、空がどんよりと曇っているせいか太陽の位置がわかりにくい。手前には、「一本松」へと通じる逆S字型の“けもの道”ならぬ散歩者が歩く“人の道”が描かれ、遠景の森林は地形が下へ落ちこんでいるのか、樹木の上部が描かれているような感じがする。
 「一本松」へと通じる小路は、東側にある山手線の高田馬場駅南に位置する諏訪ガードClick!からも、また小滝橋のある西側からも通っていたとみられ、また地形も東西どちらを見ても急激に落ちこんでいるので断定はできないが、曾宮一念は山手線側から戸山ヶ原へと入りこみ、建物や煙突が見えない西側を向いて描いているのではないだろうか。画面の右端には、戸山ヶ原に接する北側に建立されていた天祖社境内の、神木(=大ケヤキ)とみられる葉を落とした大きな枯れ木が描かれているように見える。
曾宮一念「戸山ヶ原風景」1916-17.jpg
陸軍士官学校地図1917.jpg
どんたくの会(第2次).jpg
 この「一本松」のある戸山ヶ原の風景は、3~4年後の1920年(大正9)ごろ、当時は戸塚町(現・高田馬場4丁目界隈)に下宿していたとみられる佐伯祐三Click!『戸山ヶ原風景』Click!として制作し、またそれから18年後の1938年(昭和13)の“記憶画”として、濱田煕Click!が『天祖社の境内から一本松を望む』を描いている。

◆写真上:1922年(大正11)の冬季に描かれた、曾宮一念のスケッチ『落合ニテ』。
◆写真中上は、1921年(大正10)に中村彝アトリエのテラスで撮影された曾宮一念(後列右からふたりめ)。前列左端が中村彝で、右へ中原信Click!(中原悌二郎夫人)と中原悌二郎Click!は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる中村彝アトリエとその周辺。は、中村彝アトリエを北西側から見た様子。
◆写真中下は、彝が死去する半年前の1924年(大正13)5月27日にアトリエの前庭で行われた園遊会の記念写真(部分)。写真の左背後に、古島邸(震災~)とみられる2階家の屋根らしいかたちが見えている。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる中村彝アトリエとその周辺。中下は、『落合ニテ』に描かれているモチーフ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる『落合ニテ』の描画ポイント。
◆写真下は、1916~17年(大正5~6)ごろ制作の曾宮一念『戸山ヶ原風景』。は、1917年(大正6)作成の陸軍士官学校の演習地図「戸山ヶ原」(現・西戸山)。は、1931年(昭和6)ごろ画塾「第2次どんたくの会」Click!で撮影された曾宮一念(右)。

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のべ1,700万人のご訪問、ありがとう。 [気になる下落合]

エロケロッピ.jpg
 先日、拙ブログへの訪問者が15年めで、のべ1,700万人を超えました。いつもお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。きょうは、このサイトの記事を制作するにあたっての楽屋落ち……、というか情報の収集からテーマの設定、取材あるいは関連する資料集め、現地の取材や撮影、そして原稿書きにいたるまで、拙ブログの楽屋裏(内情)について少し書いてみたいと思います。少しグチが混じるかもしれませんが、いままでそれに類することはほとんど書いたことがないので、それに免じてご容赦……。w
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 先日、風呂に入っていたら、子どもたちが小さかったころ愛用していたカップを発見した。サンリオのキャラクター「KERO KERO KEROPPI(ケロ・ケロ・ケロッピ)」のイラストが入った、プラスチック製のカップだ。子どもたちは、小さいころこれで嫌々ながら歯磨きをしていたのを思いだした。
 湯船につかりながら、昔の想い出とともに、何気なくカップのデザインをぼんやり見ていたら、とんでもないことに気づいてしまった。カエルのイラストの上に書かれた、キャラクターの名前が「ERO KEROPPI(エロ・ケロッピ)」になっていたのだ。(冒頭写真) 「そっか、子どもに人気のケロッピは、実はエロだったのか」……とすんなり納得しかかったのだが、すぐに「ちがうだろ!」と湯船でのぼせ気味の頭でも、さすがにハッキリと異常さを認識できた。おそらく、校正ミス(不良品の品質チェック漏れ)ないしはミスプリントだと思うのだが、同じ「エロ・ケロッピ」が世の中に何千個か出まわってしまわなかったことを祈るばかりだ。
 ふだんから毎日、見慣れているもの、使い慣れているものは、改めてしげしげと眺めたりじっくり細部まで点検したりはしない。日常の風景の中に溶けこんでしまうと、そこに大きなミスや見落としなど“落とし穴”があることに気づかないのだ。日常的に作成する文章表現にも、ほぼ同じようなことがいえるだろうか。日々、同じようなテーマや関連する項目などで文章を書いていると、そこに入力ミスによる誤字脱字や、錯覚などによる誤記を見落としていることに気づかないケースがある。
 以前、ご指摘を受けた代表的なものには、西を「東」と書き、東を「西」と書きつづけてなんら不自然に感じなかった、東京大空襲Click!記事Click!があった。本人は東西を誤りなく書いているつもりなのだが、ご指摘を受けるまで錯覚に気づかなかった。また、つい右と左を逆にまちがえたり、西暦と元号の一致しないケアレスミスもときどきやらかしている。1985年が、「明治18」と書いてしまったこともある。(1885年が正しい) 事前の読みなおしで、“ヒヤリハット”のケアレスミスや勘ちがいを訂正したのは百度や二百度ではきかないが、事前に何度か目を通しているにもかかわらず、チェックをするりと抜けていく誤りや錯覚も少なくない。いわゆる、校正ミスや校正漏れというやつだ。
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 わたしは拙サイトの原稿を、仕事から午後8~9時ごろもどり夕食や風呂を終え、しばらくたった午後10時すぎからだいたい午前0時ぐらいまで、興が乗れば午前1時すぎまで書いていることがある。もちろん、毎日書いているわけでも、また書きつづけているわけでもなく、ときには本や資料を調べたり、疲れていればネットやBD、TVを見たり音楽を聴いたりしてボーッとすごすこともあるが、たいがい原稿にまとめるのは現在は深夜の時間帯だ。したがって、その記述には錯誤や入力ミス、おかしな表現がたくさんある……という前提で、翌日には必ず読みなおすことにしている。
 原稿のテーマは、自分で本や資料を漁っていて偶然「見~つけた」となることもあれば、どなたからか情報や資料をお送りいただき、改めて詳しく調べはじめることも少なくない。あるテーマについての取材や調べものは、仕事がなく時間を終日たっぷり使える土・日・祝日などの休みにまとめて行なうことになる。だから、原稿を書くのはどうしても平日の仕事を終えたあと、深夜にならざるをえないのだ。つまり、仕事でアタマがけっこう疲弊してボケており、深夜の時間帯でミスや錯覚、思わぬテンションの高まりなどが起きやすい環境での文章表現となってしまう。
 原稿を書いた翌日、サイトへ記事を「下書き」としてアップする前に、テキストのままもう一度よく読みなおし、しばらくしてからアップした「下書き」記事を、もう一度読みなおして公開することになる。以前は、サイトに「下書き」としてアップロードしてから、三度ないしは四度ほどは読みなおしができる余裕があったけれど、近年は記事のダラダラ長文化にともない、なかなか校正回数を十分に稼げなくなってしまった。だから、ときたま自分でも唖然とするほどの校正ミスが発生することになる。
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 いつだったか(ずいぶん昔だが)、当時、鎌倉にお住まいだった校正のベテランの方から、「広辞苑は校正ミスだらけなのよ」とうかがったことがある。『広辞苑』は、岩波書店から出版されている日本でもっとも信頼性が高いといわれている机上辞典だ。彼女は校正のプロフェッショナルとして、何十年間にもわたり『広辞苑』を校正しつづけてきたが、校正のたびに誤植や誤字脱字、表現の誤りなどを発見して、いっこうにミスが減らないのを、半ば自戒をこめて「ミスだらけ」と表現したものだろう。“校正の神様”と呼ばれるようなプロでさえそうなのだから、わたしの一度や二度の読みなおしなど、まるでザルの目が校正しているようなものだ。
 いまでこそあまり見かけなくなったが、平凡社の『大百科事典』レベルになると、いったいどれほどの誤りが存在したものか見当もつかない。お気づきの方もおられるだろうが、従来は紙媒体だったコンテンツや書類の電子化は、手作業による膨大な誤入力や誤変換をまねき、新たなミスを爆発的に増加させるリスクをともなうことになるのは、別に年金記録の課題に限らない。電子化された『広辞苑』や『大百科事典』は、いまだに紙媒体よりも校正ミスが多いのではないだろうか。くだんの“校正の神様”がチェックしたら、「誤りが増えてるじゃないの!」と怒りをあらわにされるのかもしれない。
 ましてや、いい加減な校正で記事を書いている拙ブログなら、なおさらミスや見落としが多いだろう。もし、どこかの記事で誤入力・誤変換や錯覚、誤字脱字を見つけられた方がいらっしゃれば、「ああ、また深夜の大ボケ頭でまちがえてるじゃねえか、おきゃがれてんだ!Click!」と、ぜひやさしくご指摘いただければ幸いだ。それに加え、最近は歳とともに長時間の集中力が持続できなくなりつつあり、注意や意識・気力が散漫になることがしょっちゅうだ。本格的なAIエンジンを搭載した、パーソナル向けの文章校正サービスが早く現実化してくれるとうれしいのだけれど、そのころには文章表現自体もAIやRPAにおまかせ……なんて時代になったら、さすがにイヤだな。
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 「エロ・ケロッピ」のカップ、ちょっと棄てるのが惜しいので、そのまま洗面所へ置いておくことにした。同じカップをお持ちの方は、ぜひお手もとの「ケロッピ」をご確認いただきたいのだ。ひょっとすると、「ケロ・ケロ・ケロッピ」ではなく洗面所や風呂場で、あなたにエロい眼差しを向けている「エロ・ケロッピ」なのかもしれない。

◆写真上:「ケロ・ケロッピ」ならぬ、目つきが怪しい「エロ・ケロッピ」のカップ。
◆写真中:建設業者に樹木が伐られて破壊された、オバケ坂の上半分。「下落合みどりトラス基金」Click!が伐採直後から抗議をつづけているが、責任者である建築業者の代表は逃げまわって電話にさえ出ない。の2葉は、下落合の風景。
◆写真下:下落合らしい風景のスナップショット。下のほうに掲載した写真は、わたしの安いデジカメでかろうじてブレずに撮影できる比較的大型の鳥たち。下落合には30種類を超える野鳥が確認されているが、いちばんはどこまで大きくなるのかハトほどにも成長した、相変わらず逃げまわっている野生化したインコ。

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