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落合地域と「大日本職業別明細図」。 [気になる下落合]

商工地図画像.jpg
 拙サイトでは、江戸期から現代にいたるまで作成された、多種多様な絵図・圖書や地図類を引用してきた。これまで引用した地図類は、おそらく50種類をゆうに越えるだろう。明治以降に作成された地図では、参謀本部陸軍部の測量局が初めてフランス式で明治初期に作成した地形図Click!をはじめ、のちのち同本部所属の陸地測量部Click!が制作した1/5,000や1/10,000など縮尺ごとの地形図類Click!や、陸軍士官学校が演習用に作成した演習地図Click!、自治体が境界エリア内の地名・住所・番地などを表現した各種市街図など、挙げだしたらきりがない。
 また一方で、官製ではなく民間の個人や店舗、企業などが生活や観光、商売、事業などの便宜をはかるために作成した、いわゆる「民間地図」も数多くご紹介している。たとえば、その代表的なものに飲食店の出前、あるいは周辺住民が店舗を利用する際の利便性を考慮したとみられる大正期の「出前地図」Click!(1925年)や、現在の「住宅地図」と同様に居住する住民や店舗を網羅的に採取して掲載した大正末から昭和初期の「住宅明細図」Click!「事情明細図」Click!(ともに1926年前後)、火災保険会社が市場把握と営業活動を目的として、建物の仕様などを意識しながら特別に作成した昭和初期の「火災保険特殊地図」Click!(通称「火保図」/1938年前後)などがある。
 ただし、これらの地図は地域性が強く作成エリアが限定的だったり、都市部や市街地のみが作成の対象だったりしたため、全国を網羅する「民間地図」とはいいにくい。個人が地図会社を起ち上げ、大正の初期から昭和30年代にいたるまで、全国を網羅したビジネス地図を一貫して制作しつづけた事例がある。木谷佐一(のち改名して木谷彰佑)が創立した、東京交通社による「大日本職業別明細図」ないしは「大日本職業別住所入索引付信用案内明細地図」、すなわち通称「商工地図」と呼ばれる地図制作の一大プロジェクトだ。
 1917年(大正6)に、40歳で東京交通社を創立した木谷佐一は、社員のトレーサー2名と全国各地に現地調査用の契約社員を展開し、北は北海道から南は沖縄県、さらに朝鮮半島から中国大陸までの「商工地図」を作成している。これらの地図は定期的に改版が重ねられ、年代が下るごとに地図の表現は微細をきわめていく。もっとも古い地図は、1917年(大正6)に制作された日本の主要都市をカバーする都市案内図で、当初からすでに「大日本職業別明細図」というタイトルがつけられていた。
 「商工地図」の詳細について研究した資料に、柏書房から1988年(昭和63)に出版された『昭和前期日本商工地図集成―第1期・第2期改題―』(地図資料編纂会)がある。同書より、木谷佐一について書いた『「商工地図」をよむ』から引用してみよう。
  
 木谷佐一は、明治10(1877)年生れであるから、齢40にして東京交通社をおこし地図刊行事業を開始したことになる。それまで特に地図ないし出版業に関わっていたことはないようで、遺族によれば従来の仕事を中途退職し、前職は「鉄道関係」の由である。「東京交通社」の名はその職種に関わるものと思われるが、あるいは「交通」に人間の移動というより物流すなわち近代的経済活動の意味を含ませた面があったのかも知れない。(中略) 木谷の「独創性」とは、近代的手法が一般化した時代における都市地図と、伝統的な独案内の方法つまり業種別一覧を結合させたところにあった。すなわち業種別一覧の個別の内容を、ひとつひとつ注入した地図を作成したのである。ただしこれはそれ以前に各種店舗案内を記入した地図を作成したものがいなかったということではない。あくまで一定の地図刊行事業としてこのような形式を全国的に成功させたものがいなかったという意味においてである。
  
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商工地図「落合町」1925裏面.jpg
「商工地図」をよむ1.jpg 「商工地図」をよむ2.jpg
 「商工地図」制作の特色は、地図に企業や店舗を掲載することで広告料(掲載の種類別に料金メニューがあったとみられる)を徴収し、注文を予約制にして発行部数を決定し、あらかじめ印刷ロットを限定して余剰部数が発生するのを極力防止したこと、つまり印刷当初から黒字が見こめるビジネスモデルを確立していたことが挙げられる。だからこそ、「商工地図」は約40年もの間、継続して発行されつづけたのだろう。
 また、「商工地図」は官製地図のように厳密な測量数値を前提としないので、フリーハンドによる表現が主体だった。ただし、地域のかたちが変形し縮尺は正確でないものの、官製地図には見られない使いやすさやわかりやすさを追求している。
 木谷佐一は、ちょうど「火保図」が作られはじめた1938(昭和13)に死去するが、4人いた実子は誰も事業を継承しなかった。東京交通社を継続したのは、長女の夫だった西村善汎(よしひろ)だ。西村は、そのまま従前の地図を刊行しつづけ、戦時中の1942年(昭和17)に一時中断している。もちろん、戦争の影響で地図が勝手に作成できなくなり、国策の統制団体「日本統制地図株式会社」に事業を吸収されたからだ。だが、西村は敗戦後すぐに事業を復活させたらしく、昭和30年代までの「商工地図」を確認することができる。
 木谷佐一は、1937年(昭和12)に「商工地図」の制作コンセプトとでもいうべき、11項目を手書きで列挙している。同書より、少し長いが引用してみよう。
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商工地図「淀橋区」落合地域1934.jpg
  
 東京交通社発行/大日本職業別明細図の特色並に効用
 一、本図は全国各地数年毎に改版し新聞紙法により毎月十日、二十五日、定期刊行物として永続出版す 二、本図は出版報国の目的を以て全国的統一を計り多大な犠牲を払ひつゝ社会公共に寄与する処甚大なり 三、本図は「大日本職業別住所入索引付信用案内明細地図」とあつて去る大正六年独創著作し爾来各地一定の方針を以て遂に全国の完成を見たり 四、本図製本は之を加除式にしたれば後日改版の地図は其都度差替自由にして常に永久改正を保ち現状を維持するを以て一大特色とす 五、複雑にして多端なる現代の用務は須らく確実迅速を旨とす 本図は裏面職業別によりあらゆる撰択を自由にし索引によりて適確に然も敏速に表面各人の住所の位置を見出すことを得べし 六、本図には国税府県税の納税額を標準として信用ある店舗住所は剰すことなく之を掲載し加ふるに其営業種目電話番号等を詳細懇切に紹介し且名所旧蹟、社寺、官公衛、学校、銀行、会社、工場、病医院、著名商店並に名望家は写真を以て紹介したり 七、故に居ながら各地の情勢を比較対照考察し得て諸種の立案計測に資すべく 八、商工業の進歩を助け各地産業の開発を促がし 九、住宅の表札、営業家の看板の如くあらゆる商工業者の最も信頼すべき羅針盤なり あらゆる家庭の最も懇切な買物案内なり 十、移転、開業の考材として趣味娯楽の内に実益あり一面職業別電話帳の代用ともなる 十一、旅行、訪問、社交、取引、運輸、交通上欠くべからざる必携品なり
  
 わたしの手もとには、1925年(大正14)に発行された「大日本職業別明細図―高田町・落合町・長崎村―」と、東京35区Click!時代を迎え淀橋区が成立したあとの、1934年(昭和9)に発行された「大日本職業別明細図―淀橋区―」がある。
 大正期のものは、道路がオレンジ、市街地が墨囲みに斜線、収録した企業・店舗などは墨囲みに白ベタ墨文字、河川や池は水色で表現されている。また、昭和期のものは記載する項目が増えたせいか、企業・店舗などの所在地を黒丸印で表し、名称を黒丸に接して記載する表現に変わっている。市街地は、特に囲みや斜線が入れられず薄いオレンジ色のベタ塗りとなり、道路は白、鉄道やバス路線を赤色、河川や池は青色で表現されている。見やすさからいえば、やはり昭和期の表現法のほうが場所をハッキリと認識しやすい。
 これらの地図は、大正期から昭和期にかけて地域に存在した、さまざまな企業・店舗などを知るうえでは不可欠な要素を満載している。特に、地図の裏面には、おそらく広告費を払って出稿しているのだろう当時の企業や店舗の広告と、ときに社屋や店構えなどの写真も挿入されていて興味深い。年代順に地図を重ねてみると、どのような事業や商店の盛衰があったのかがひと目でわかる。同時に、時代背景や社会環境を重ねてみると、いままで気づかなかった地域の特色が姿を現したりもする。
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商工地図「淀橋町」1925.jpg
商工地図「牛込区・四谷区」1933.jpg
 東京が35区編成になったばかりの1933年(昭和8)、商工地図とは別に大東京市政審査協会から「各区便益明細地図」(別称「実地踏査図」)が発行されている。同地図も、「商工地図」と同様に企業や店舗などを収録している生活便利地図だが、カラー印刷でイラスト入りなのが大きなちがいだ。同地図には建物や公園、施設、邸宅などの絵が挿入されていて、元祖・イラストマップのような趣きだが、その表現や記載事項にかなり不正確な点が目立つことは、以前、こちらのサイトでもご紹介Click!ずみだ。

◆写真上:落合地域が掲載された、1925年(大正14)と1933年(昭和8)の「商工地図」。
◆写真中上は、1925年(大正14)発行の商工地図「高田町・落合町・長崎村」。は、同図裏面に掲載された企業や店舗。は、『昭和前期日本商工地図集成第 1期・第2期改題』(地図資料編纂会)付属の『「商工地図」をよむ』()と木谷佐一の趣旨()。
◆写真中下は、1934年(昭和9)に発行された商工地図の「淀橋区」(全図)。は、同図から拡大した下落合と上落合の全域。
◆写真下は、1934年(昭和9)発行の「淀橋区」裏面に掲載された企業・店舗。は、1925年(大正14)に発行された商工地図「淀橋町」の部分拡大。は、1933年(昭和8)に発行された商工地図「牛込区・淀橋区」の新宿駅周辺の部分拡大。

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聖母病院が敵国人抑留所になるまで。 [気になる下落合]

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 6年ほど前、敵国外国人(敵性外国人)の抑留所として使われた、国際聖母病院Click!について書いたことがある。米軍は、聖母病院を敵国民間人の抑留所として認知しておらず、敗戦直前に同病院へ向けP51とみられる戦爆機が250キロ爆弾を投下Click!している経緯や、日本の敗戦とともに同病院の屋上には「PW(Prisoners of War)」と書かれたシートが敷かれ、米軍機から救援物資の投下Click!が行われた経緯もご紹介した。
 聖母病院に収容されていたのは、警視庁が管轄する日本に住んでいた敵国(敵性)の民間人であり、前線の戦闘で捕虜になった敵軍の将兵ではない。捕虜は敵国民間人とは別に、陸軍の管轄である専用の捕虜収容所に入れられていた。東京では、大森海岸沿いの埋め立て地に大森捕虜収容所が建造されている。
 以前の記事では、1945年(昭和20)の敗戦が近づくとともに食糧事情が急速に悪化し、ついには1日に蕎麦1斤(600g)しか支給されなくなってしまった経緯を、国立公文書館に保存されている当時のスイス公使館の改善要望書を引用して書いた。おそらく抑留者は飢餓状態で、栄養失調にかかっていたと思うのだが、幸運にも聖母病院ではなんとか死者が出ていない。公文書では、聖母病院の抑留者は36名とされているが、日米開戦の初期から地下へ潜行して同病院に隠れ住んでいた、目白福音教会Click!のクレイマー牧師を入れれば、実質37名が抑留されていたことになる。
オジロ様より、貴重な資料をお送りいただいた。文中に登場しているクレイマー宣教師(女性)は、開戦後に帰国を拒否して「聖母病院に隠れ住んだ」というのは、地元の誤伝である可能性がきわめて高くなった。お送りいただいた敬和学園大学「人文社会科学研究所年報」No.15(2017年)所収の同校学長・山田耕太『太田俊雄とロイス・クレーマー』によれば、彼女は国内の収容所を転々としたあと関口の小神学校に収容され、1945年5月25日夜半の空襲で罹災したのち、民間女性や修道女ら36名とともに聖母病院に収容されたとある。つまり、空襲で焼けた小神学校から聖母病院に移送された敵国外国人は、クレイマー宣教師を含めて36名ということになる。
 聖母病院の抑留者から、食糧難による死者が出なかったのは、本来が病院施設とはいえ非常に幸運なケースだ。全国に設置された抑留所では、多いところで抑留者の10~18%が死亡している。たとえば、明治期から横浜に在住していた欧米民間人を収容した、秋田県の舘合抑留所では18%、神奈川第一抑留所では11%の抑留者が、戦争の終結を見ずに死亡している。最悪だったのはアッツ島にいた米国民間人の抑留所で、実に44%と収容者の半数近くが死亡した。これはジュネーブ条約に加盟していなかった、ソ連によるシベリア抑留者(基本的に日本軍捕虜)の平均10%前後の死亡率よりも高い。
 外務省では、ジュネーブ条約違反に問われるのを怖れたのか、早くから『外事月報』(1942年11月)で抑留者の間に「最近健康異常者の兆しあり」と警鐘を鳴らしていたが、戦争も末期になると、満足に支給する食糧がないため(ジュネーブ条約では抑留した敵国民間人には、1日パン600gの支給が義務づけられていた)、外国人の食べなれない日本の“代用食”が増え、しかも支給量も減りつづけて、慢性的なカロリー不足による栄養失調者が激増していくことになった。これは、日本の米軍人捕虜収容所ではさらに過酷な状況となり、全収容者の37%を超える死者が生じるまでに悪化している。
 だが、戦線が拡大するにつれ、抑留者は増えつづけていくことになる。戦地に住んでいた民間人の多くも日本へ強制連行されて抑留され、また外国の病院船を拿捕したために抑留しなければならない敵国人が急増し、さらにイタリアが降伏して臨時政府が日本に宣戦布告すると、日本国内にいたすべてのイタリア人たちも敵国人となって抑留され、しまいにはドイツ人全員も強制的に抑留しなければならなくなるという、混乱をきわめた状況だった。
 抑留所での敵国人の死因を見ると、慢性的な栄養失調で腹がせり出し、下痢がつづいて死亡する文字どおりの餓死をはじめ、栄養不足で免疫力が低下したため各種病気の罹患による病死、同様に栄養疾患がつづき持病の悪化による病死などがもっとも多い。詳細は、2009年(平成21)に吉川弘文館から出版された、小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人―』に詳しい。
 また、もうひとつの重大な問題として、戦争末期になるにしたがい国際赤十字社からとどけられる援助物資(食料品など)が、抑留者へほとんど渡らなくなるという事態を招いている。もちろん、敵国人抑留所を管理・監視していた警察が、援助物資の多くを横領・着服・隠匿してしまうからで、福島抑留所と神奈川第一抑留所では戦後に告発された特高刑事や警察官たちが、抑留者の餓死を招いた虐待の罪で裁判にかけられている。
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 さて、抑留者たちが聖母病院(1943年より「国際」を外された)へ収容される詳細な経緯が判明したので、改めてこちらでご紹介したい。聖母病院は、当初から敵国人の抑留所として予定されていたわけではない。1945年(昭和20)5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!で、それまでの収容先だった小石川区関口町の天主公教会(現・カトリック東京カテドラル関口教会)の敷地内にあった小神学校が焼失し、抑留者56名の収容先がなくなってしまったのだ。56名の内訳は、日本に滞在していた女性宣教師や修道女に加え、新たに抑留されたドイツ人18名を含む欧米人たちだった。
 抑留所の焼失にともない、おそらく問い合わせがあったのだろう、外務省は在京の瑞西国(スイス)公使館と瑞典(スウェーデン)公使館あてに、関口小神学校の被爆と抑留者の被害についての報告書を送付している。以下、公文書館に残る1945年(昭和20)6月4日に起草された、「警視庁抑留所罹災ニ関スル件」から引用してみよう。
  
 警視庁抑留所罹災ニ関スル件
 帝国外務省ハ在京瑞西国(瑞典国)公使館ニ対シ去五月二十五日夜半ヨリ二十六日ニ亘ル夜間ノ敵機東京無差別爆撃ノ為、警視庁抑留所(関口)ハ二十六日午前二時頃全焼セル為、右罹災ニ当リテハ内務省及警視庁係官ハ直ニ現場ニ趣キ機宜ノ措置ヲ講シタル結果、同所抑留者全員無事ニシテ不取敢之ヲ聖母病院ニ収容セル旨、並ニ同抑留所移転ノ目的ヲ以テ適当場所ノ早急物色方手配中ナル旨、通報スルノ光栄ヲ有ス。(中略)
 一、関口抑留所ハ五月二十五日ヨリ二十六日ニ亘ル夜間敵襲ニ依リ二十六日払暁焼失セル処、幸ニシテ抑留者ニハ何等事故ナク全員無事ナリ。同所尼僧等三十六名ハ不取敢聖母病院ニ、又独逸人抑留者十八名ハ日本女子大雨天体操場ニ仮収容中ナリ。(後略)
  
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 とりあえず、キリスト教関係の欧米女性たち36人は下落合の聖母病院へ、また新たに収容されたドイツ人たち18人は、近くの日本女子大学体育館に仮収容されているのがわかる。外務省では、本格的な収容所を警視庁とともに探すとしているが、すでに東京の市街地はほとんど焦土と化しており、彼女たちには聖母病院と日本女子大が最終的な抑留所となった。
 また、スイスとスウェーデンの公使館あて報告書には、急に敵国人となってしまった在日イタリア人の抑留者移転について、事前に両国から問い合わせがあったのだろう、移転計画の「実現ノ可能性ナシト察セラル」と回答している。外務省にしてみれば、日々東京のどこかが爆撃される状況で、同盟国だったはずのイタリア人やドイツ人の抑留者たちの面倒まで、とてもみちゃいられない……というのが本音だったろう。
 この報告書につづき、スイスの公使館員が聖母病院を視察し、同年6月25日に「聖母病院抑留者ニ対スル食料品供給善処方ニ関スル件」の要望書が、スイス公使館から正式に外務省へ提出されることになる。これに対して、外務省から内務省警保局長あてに、「至急改善」の要望書が発送されたのは以前の記事でも書いたとおりだ。だが、書類にスタンプがわりの「急」が挿入されているにもかかわらず、スイス公使館の要望書から23日後の7月18日になって、ようやく文書が起草されているのを見ても、当時の行政機関の混乱ぶりや戦災による処理遅延が透けて見える。
  
 聖母病院ニ収容中ノ抑留者ノ給食改善方ニ関スル件(急)
 聖母病院ニ収容セラレ居ル警視庁抑留所抑留者ハ蕎麦一斤(引用註:600g)ノミニシテ、全然他ノ食物ヲ給与セラレザル趣ヲ以テ右至急改善方、今般在京邦瑞西国公使館ヨリ別紙仮訳ノ通申出タリ、就テハ同病院実情御取調ノ上、右果シテ事実ナリトセバ敵側ニ悪宣伝ノ材料ヲ与フル虞(おそれ)モ有之、至急少クトモ最低限度ノ給食ヲ与フル様御配慮相成、結果何等ノ儀御回示相煩度。(カッコ内引用者註)
  
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 1日に蕎麦600gでは、誰でも栄養失調になるだろう。前掲の小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人―』によれば、前年1944年(昭和19)1月~3月期の赤十字国際委員会抑留所視察報告書でさえ、すでに食糧の配給不足が全国の抑留所で発生している。戦後にまとめられた、外務省の「抑留者関係」報告書の目次には、各地の抑留所で死亡した米国人やイギリス人、カナダ人、オーストラリア人などの後始末に関する報告が目につく。

◆写真上:米軍が採用しているZulu time=GMTで1945年(昭和20)8月28日に救援機から撮影された、屋上に「PW」の文字が入るシートを拡げた下落合の聖母病院。
◆写真中上は、公文書館保存の外務省「警視庁抑留所罹災ニ関スル件」全文。は、1945年5月25日夜半の第2次山手空襲で全焼した天主公教会の小神学校。
◆写真中下は、空襲で焼失直前の1945年(昭和20)5月17日に撮影された天主公教会(関口教会)。は、外務省の同年6月19日付け「聖母病院抑留者ニ対スル食料品供給善処方ニ関スル件」。は、国際聖母病院のリニューアルで解体された戦後のチャペル。
◆写真下は、外務省がまとめた「抑留者関係」書類の目次。は、敗戦間もない時期に米軍の救援機から撮影された福島抑留所。下左は、公文書館に保管されている外務省「聖母病院抑留者ニ対スル食料品供給善処方ニ関スル件」の表紙。下右は、2009年(平成21)に出版された小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人―』(吉川弘文館)。

本日のSo-netブログSSL化で、すでにfacebookとのパスが切れて、蓄積されたアクセスログがすべて「0」になってしまった。あと、どれほど影響が出るのだろうか?

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落合地域の荒玉水道は1928年より通水。 [気になる下落合]

野方水道塔.JPG
 落合地域に荒玉水道Click!が引かれたのは、同水道の野方配水塔Click!が1929年(昭和4)に完成し、つづいて翌1931年(昭和6)に大谷口配水塔Click!ができて、砧村の浄水場から板橋町まで全線が竣工・通水したあとだと考えていた。だが、落合地域への給水は野方配水塔ができる2年前、1928年(昭和3)11月1日からスタートしていることが判明した。
 だが、落合地域は富士山の火山灰土壌(関東ローム)で濾過された、清廉で美味しい水Click!が湧く目白崖線沿いの立地だったため、本格的に水道が普及するのは戦後のことであり、水道管はなかなか一般家庭にまでは普及していない。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』によれば、給水栓装置(いわゆる水道蛇口)の設置個数は、わずか1,880個(1932年7月現在)にすぎない。しかも、この普及数には消火栓や消防署など公共施設、工場、企業などへの給水件数も含まれており、家庭への設置件数はさらに少なかったろう。落合地域における同年現在の戸数は、7,000戸(1931年現在で6,967戸)をゆうに超えていたはずで、一般家庭への水道の普及は1割にも満たなかった可能性が高い。
 落合地域の水道事業について、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 就中文化生活の普及上、上水道の敷設は、衛生上は勿論防疫防火の上よりも急務とし、大正十三年豊多摩、豊島両郡関係町村上水道敷設調査会に加盟し、爾来着次事業を進め、昭和三年十一月一日を以て本町一般給水を開始するに至つた。現在町内給水栓装置個数は千八百八十個である。(昭和七年五月調)
  
 東京の西部郊外に位置する、豊多摩郡と豊島郡に上水道が必要になったのは、もちろん関東大震災Click!直後からはじまった、市街地から郊外への人口流入だった。震災が起きた1923年(大正12)現在、すでに両郡の人口は49万2千人をゆうに超えており、震災後は爆発的に人口が増えつづけることになった。おそらく、上水設備を造っても造っても足りなかった、1960年代の神奈川県Click!のような状況だったのだろう。
 もうひとつの課題として、人口が増えるほど地下水を汲みあげる量も増え、地下水脈が深く下がってしまい、既存の井戸が枯渇しはじめたことも挙げられる。特に、町村へ誘致した工場の近くでは深刻な問題で、工場や企業へ上水道を引くことにより地下水の深層化を防止するという意味合いも含まれていただろう。当時は「井戸」といっても、モーターで地下水を汲みあげて一度給水タンクClick!にため、家庭の各部屋に設置された蛇口へと給水する、水道と同じような使われ方をしている。
 荒玉水道が敷設される予定の町々は、豊多摩郡と豊島郡(計画当初の郡名は北豊島郡)の合わせて13自治体におよんだ。豊多摩郡は中野町をはじめ、野方町、和田堀町、杉並町、落合町の5町。(北)豊島郡は板橋町をはじめ、巣鴨町、瀧野川町、王子町、岩淵町、長崎町、高田町、西巣鴨町にまたがる8町の計画だった。このうち、落合町とその周辺域へ給水する、本線から枝分かれした幹線は、第5幹線から第8幹線までで、落合町に給水していたのは、中でも第5幹線と第7幹線と呼ばれていた支管だった。
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荒玉水道砧村浄水場1931.jpg
荒玉水道砧村浄水場内部1931.jpg
荒玉水道杉並鉄管試験所1931.jpg
 第7幹線は、長崎町字五郎窪Click!の武蔵野鉄道・東長崎駅付近で本線から分岐し、高田町字四谷(四ッ家Click!)、つまり現在の目白台あたりに設置された幹線終点までつづいていた。また、第5幹線は中野町青原寺付近で本線から分岐し、上落合八幡神社付近(現・八幡公園付近Click!)まで通水している。つまり、第7幹線は下落合と西落合のエリアを、第5幹線は上落合エリアをカバーしていたことになる。また、第6幹線は落合地域の西に隣接した野方・上高田一帯をカバーし、第8幹線は長崎町の北部から池袋を含む西巣鴨町一帯に給水していた。
 ちなみに、第5幹線には口径400mmの水道管が使われ、第7幹線には口径500mmの水道管が採用されている。幹線ごとの給水状況を、1931年(昭和6)に東京府荒玉水道町村組合が出版した、『荒玉水道抄誌』から引用してみよう。
  
 第五幹線
 分岐地点:中野電信聯隊西北隅裏通 経過地:吉祥寺街道ヲ東方ニ進ミ戸塚町境界ニ至ル 給水区域:野方町、落合町及中野町ノ一部
 第七幹線
 分岐地点:長崎町籾山牧場前(ママ) 経過地:府道第二一号線ヲ東南ニ進ミ落合町下落合ニ出テ省線ヲ横断シ学習院前ヨリ小石川区境界ニ至ル 給水区域:長崎町、落合町、西巣鴨町ノ一部及高田町ノ一部
  
 配水の本管から支管の一覧では、第7幹線の分岐点が長崎町の籾山牧場Click!となっているが、本文では「東長崎駅付近」が分岐点となっており、両者には200m以上の距離がある。ひょっとすると、本文に書かれているのが実際に工事を終えた分岐点で、支管一覧の表記は計画段階のリストを、そのまま掲載してしまったものだろうか。
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 本線・幹線含めた水道管の敷設の様子を、『荒玉水道抄誌』から再び引用してみよう。
  
 配水鉄管は全給水区域を十一区に介(ママ:分)ち各区の中央部に一條宛の幹線を敷設し、之より各種の支管を分岐しつゝ末流部に至るに随ひ漸次管径を縮小し、末端及各支管は隣接幹線と相互に連絡せしめ鉄管網を作り配水機能を完全ならしむ、尚五百粍(mm)以上の幹線に対しては給水副管を設く、給水区域は制水弇(えん)に依り更に九十一の断水区域に区分し非常の際に備ふるものとす、(カッコ内引用者註)
  
 荒玉水道で敷かれた水道管には、主管用に口径700~900mmのもの、幹線用に口径300~600mmのもの、支管用に口径75~250mmのものなど、11種類の水道管(鉄製)が使用されている。その長さは、実に43万7,286間(約80km)にもおよんだ。
 余談だが、落合地域の南と南西に隣接した戸塚町(現・高田馬場地域)は、荒玉水道を利用していない。1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)によれば、当初は荒玉水道事業に加盟しようと、町議会Click!へ加盟案が提出されたが否決され、結局、郡部の水道事業ではなく東京市の水道網を延長して戸塚町内まで引き入れ、東京市へ上水分譲契約料を支払って、戸塚町独自の町営水道としてスタートさせている。水道の延長支管は、おそらく東側に隣接する牛込区から引っぱってきているのだろう。
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 荒玉水道は、1925年(大正14)4月の水源工事(砧村浄水場の建設)にはじまり、翌1926年(大正15)4月からの送水鉄管と配水鉄管の敷設工事、1927年(昭和2)1月からの配水塔設置を含む給水場と鉄管試験所の工事スタート、そして、1931年(昭和6)の大谷口配水塔の竣工まで、建設リードタイムに6年間を要した一大プロジェクトだった。ただし、工事を終えた区域から通水をはじめたため、1928年(昭和3)8月には試験通水と鉄管内掃除を終え、落合地域では同年11月1日から上水道の利用が可能になっている。

◆写真上:現在は災害時の貯水タンクとして使われている、荒玉水道の野方配水塔。
◆写真中上は、1931年(昭和6)撮影の砧村にあった荒玉水道浄水場の空中写真と全景。は、浄水場の地下内部。は、杉並町の荒玉水道鉄管試験所。
◆写真中下は、竣工間もない野方配水塔。は、建設中の大谷口配水塔。
◆写真下は、荒玉水道の送水管埋設工事で、鉄管の口径からみて主管の埋設工事現場と思われる。は、巣鴨町(現・豊島区巣鴨1丁目)で山手線を横断する江戸橋鉄管橋。は、西巣鴨町の池袋病院近くで行われた消火栓の水圧テスト。

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気になる新聞記事の資料いろいろ。 [気になる下落合]

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 このサイトを書くために、昔の多種多様な新聞記事を眺めていると、落合地域とは直接関係がなくても、なんとなく気になる記事にめぐりあうことがある。たとえば、明治時代の新聞には、社会インフラをめぐる事件や事故のニュースが多い。それだけ、いまだ運用技術の精緻さや、それを扱う人間のノウハウやスキルが低く、うっかりミスや勘ちがいが多かったのだろう。中でも、鉄道の事故がことさら目をひく。
 落合地域における鉄道事故というと、1932年(昭和7)3月4日の夜に山手線の高田馬場駅-目白駅間で起きた、軍用の特別列車を見送る群衆に貨物列車が突っ込んだ、大規模な人身事故Click!が想起されるが、これは省線側の技術が拙劣で運転技術が未熟だったわけではなく、立入禁止の線路内に入りこんだ群衆に起因する事故だった。
 また、西武電鉄Click!の山手線をくぐるガード工事が営業開始に間に合わず、やむなく高田馬場仮駅Click!を山手線の土手沿いに設営した1927~1928年(昭和2~3)、仮駅へと向かう軌道(線路)のカーブが鋭角すぎて脱線事故を起こしやすく、ときに下落合駅が実質的な始点(終点)になっていたという話も、無理を承知で開業を宣言するための応急処置的な特殊ケースだろう。脱線(脱輪)事故で、死傷者が出たという話も聞かない。
 ところが、明治期に起きた鉄道事故は、駅に停車中の列車に後続がそのまま突っこんだというような、通常はありえない事故が多い。たとえば、多くの死傷者を出した事故に、1912年(明治45)6月17日に東海道線大垣駅で起きた「軍用列車衝突事故」もそのひとつだ。以下、翌6月18日の読売新聞から引用してみよう。
  
 ●軍用列車衝突/△死者七名△重軽傷五十三名
 十七日午前十一時四十分東海道線大垣駅構内に於て貨物列車が軍用列車に衝突し為に軍用列車は脱線破壊して搭乗兵士五名即死別に重軽傷者五十三名を出せる大椿事あり、今約二時間に中部管理局運転課へ到着せる電報廿数通に及び本社着の名古屋電報を綜合して其詳報を記さん ▲発車間際の大椿事 丁号軍用列車は四輪三等車廿三輌、四輪三等緩急合造車二輌、計廿五輌より成り搭乗兵員は約八百名(中略)にて十六日午前十一時四十七分新宿を発し十七日午前名古屋着同九時五分同駅を発車し同十一時大垣駅に着し下関行客車第十五号の通過を待つ為四十分停車せしより兵士一同下車して構内に於て休息し第十五号列車通過の後隊伍を整へて露台(プラットホーム)を進み新に本線に押下げられし丁号列車へ乗込み将に発車せんとする十一時四十分、後方より名古屋発の第四百五十九号貨物列車が常置信号機の危険を示し居るにも拘はらず勢ひ込むで進行し来り機関車乗込の名古屋機関庫在勤清水吟次郎(二九)火夫川村泰三郎(二二)の両名がそれと気附きし時は既に遅く轟然たる音響と共に機関車は丁号列車の最後車輌に衝突せり(カッコ内引用者註)
  
 記事中には死者5名重軽傷者53名と書かれているが、実際には同日のうちに重傷者2名が死亡しているので、死者7名重軽傷者51名が正しいようだ。
 この軍用列車は、仙台の第二師団の予備役兵たちを乗せ、途中の東京で第一師団の予備役兵士、そして名古屋で第三師団の予備役兵たちを乗せて、3個師団による混成軍用列車だった。予備役兵たちの行先は、下関で下車し大陸に向かう航路に乗船して「満州」をめざすことだった。おそらく、日露戦争で獲得した南満州鉄道の周辺警備に召集された予備役兵たちだったのだろう。貨物列車の運転士の信号機見落としが原因とされているが、事故直後の報道なので可能性のひとつを書いているだけかもしれない。明治期には、ポイントの切り替えミスによる衝突事故も多かった
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 また、昭和に入ってからも高田馬場駅でこんな事故が発生している。1929年(昭和4)1月11日に発行された、読売新聞から引用してみよう。
  
 高田馬場駅でレール浮く/工事中に土砂崩れ
 省線高田馬場駅では目下構内に西武鉄道高田馬場駅との貨物連絡用エレベータ取付工事中であるが十日午後二時十五分坂井組の人夫十五六名が右箇所に横穴を掘つて土取作業中突然天井の土砂が崩壊し其上にあつた架線の電柱が傾斜した上レールが浮いたので直ちに内廻り線だけ運転を停止し同駅及目白駅から折り返し運転を行つた 新宿保線事務所から応援工夫多数駆けつけ午後四時四十五分復旧したがラツシュアワーの(ママ:こ)ととて一時は大混雑を呈した。尚此際逃げおくれた人夫渡辺亀次郎(五三)は右手に軽傷を負ふた
  
 おそらく、高田馬場駅構内から山手線の線路土手に横穴を掘っていたら、上を通過する電車の振動で天井が崩落し、地上の電柱も傾いて、下から見上げると山手線内回りの線路がむき出しになって浮いていた……というような事故だったらしい。
 深刻な人的被害もないので、現場では「あ~あ、やっちゃった。知らないよ~知らないよ~」と、坂井組のスタッフたちは青ざめながら現場を取り囲んでいたのだろう。作業員が軽傷で済んでなによりだが、山手線を2時間半ストップさせた西武鉄道は、鉄道省に賠償金を取られたのはまちがいなさそうだ。
 戸山ヶ原Click!の陸軍施設にからみ、陸軍科学研究所Click!と陸軍技術本部の動向も気になっていた。陸軍技術本部と同科学研究所は、1919年(大正8)4月8日の閣議決定で新設されている。前者は陸軍技術審査部が拡張された組織で、後者は陸軍火薬研究所の規模を大きくしたもので、当時は戸山ヶ原ではなく板橋に本拠地が置かれていた。1919年(大正8)4月19日発行の、東京朝日新聞から引用してみよう。
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 陸軍技術本部新設/技術審査部拡張
 八日の閣議に於て陸軍技術本部令(勅令)を附議決定せるが右は現在の陸軍技術審査部を拡張するものにして本部長は陸軍大臣に対するも技術審査部長又は砲兵工廠提理兵器本部長等より権限を重くし陸軍技術官並に技術に関する総ての事項を統括することゝし従つて本部長は陸軍大将又は中将を以て補され同本部を総務部第一第二第三部に区分(部長は少将又は大佐)し総務部は人事其他一切の事務を整理し第一部は砲兵科第二部は工兵科第三部は兵器検査を夫々担任する事とし従来技術本部の担任せる設計に関する事項は之を砲兵工廠に移管し又陸軍兵器本廠に於挙行したる兵器検査は一切之を技術本部にて担任することゝなす由
 陸軍科学研究所設置/火薬研究所拡張
 陸軍にては今般陸軍科学研究所を新設することゝなり八日閣議に於て決定したるが右は現在板橋にある火薬研究所を拡張し火薬に限らず総ての科学を研究することゝし同所を二部に区分し第一部は理学に関する事項第二部は爆発物又は毒瓦斯等即ち化学に関する事項を研究するにありと云ふ
  
 陸軍科学研究所は、第一次世界大戦で多用された毒ガスとなどの化学兵器を、すでに板橋時代から研究していたことがわかる。濱田煕Click!が描いた戸山ヶ原の陸軍科学研究所の記憶画では、煙突の頂部に排煙を濾過する巨大なフィルターがかぶせられている様子が描かれているが、もちろん毒ガス研究は戸山ヶ原でもつづけられていただろう。さらに、アセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)Click!に代表される、兵務局Click!特務Click!を派遣して要人暗殺などに使われる毒薬研究も、戸山ヶ原の陸軍科学研究所や、のちに設置される登戸出張所Click!の重要なマターだった。
 さて、戦前の新聞には華族や政財界の誰それが、いまどこにいて、なにをしているかなどという消息記事もあちこちで目につく。下落合に関連する記事を、1936年(昭和11)3月6日発行の読売新聞から引用してみよう。
  
 近衛公目白の別邸へ
 近衛文麿公は五日午前十一時半永田町の自邸を出で同五十五分目白の別邸に赴き母堂貞子刀自と午餐を共にし歓談に時を過ごし午後二時再び自邸に帰つた
  
 このとき、東京は二二六事件Click!の直後であり、責任をとって辞職した岡田啓介首相Click!の後任を誰にするか、西園寺公望Click!と会談し首相就任を辞退した翌日のことなので、ことに新聞は近衛文麿Click!の動きに注目して1面に消息を伝えたのだろう。
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 ここでは、下落合の近衛邸Click!が「別邸」と書かれているけれど、来客が頻繁で家族ともどもほとんど居つかなかった麹町邸と同様、永田町時代でも近衛の本邸意識は「荻外荘」Click!を購入するまで、近衛町の近衛篤麿邸Click!跡も近い下落合だったろう。

◆写真上:戸山ヶ原の西端に位置する、陸軍技術本部があった跡地。
◆写真中上は、下戸塚側にある高田馬場仮駅が設置されていたあたりから見上げた山手線の線路土手()と、下落合側のガード脇の線路土手()。は、1912年(明治45)6月18日発行の読売新聞に掲載された「軍用列車衝突事故」記事。は、1929年(昭和4)1月11日発行の読売新聞にみる高田馬場駅の土砂崩落事故。
◆写真中下は、山手線の西武線ガードClick!をくぐる西武新宿線。は、1919年(大正8)4月19日発行の東京朝日新聞で報じられた陸軍技術本部と同科学研究所の新設記事。は、戸山ヶ原の西端にあたる陸軍科学研究所跡。
◆写真下は、近衛文麿の消息記事。は、1929年(昭和4)に下落合436番へ竣工した近衛文麿邸。は、最近ときどきうかがう下落合の某喫茶店。

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中村彝はドアに女の顔を描いている。 [気になる下落合]

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 下落合464番地の中村彝Click!は、体調の悪化からキャンバスづくりが思うようにできなくなったり、制作用のキャンバスが足りなくなったり、あるいは急に習作を描きたくなったりすると、そこいらにある板片などを画布がわりにして絵を描いていた。それは、ときに菓子箱の裏やストーブにくべる薪がわりの廃材など、油絵の具がのる平面でさえあれば、なんでも活用していたようだ。
 そのような環境の中で、以前にも少し触れたが、アトリエのドアに絵を描いていた様子が伝えられている。そう証言しているのは、定期的に支援金をもって中村彝アトリエClick!を訪れていた、中村春二Click!の息子である中村秋一Click!だ。多くの画家たちは、今村繁三Click!などパトロンからの支援金を受け取りに、中村春二の自宅を毎月訪れていたが、中村彝は病状の悪化から中村秋一がそのつど、封筒を懐に入れては下落合のアトリエを訪ねていた。1942年(昭和17)に春鳥会から発行された「新美術」12月号収録の、中村秋一『中村彝のこと』から引用してみよう。
  
 父は彝のアトリエからスケッチ板ぐらゐの小品を持ち帰ることがあつた。面白いから貰つてきた、彝さんはそんなものをかけられては困るといつてゐたよ、と話し乍ら、板の表と裏に描かれた画を、どつちにしようか、と迷つてゐた。みんな描きかけの板片で、置いてをくとあの人はストーブに燻べちやふからね、と父は笑つてゐた。かういふ小品には商品としての価値はないかも知れないが、筆致の面白さがあるので、今でも私は好きであるが、惜しいことに悪い石油を使つてゐるので、ホワイトなどは鉛色に変色し、ボロボロ落ちてしまつて跡片もなくなつたものもかなりある。/彝さんは気が向くとどこへでも絵を描くひとで、菓子折の蓋へスケツチしたり、画室の扉へ女の顔が描いてあつたりする。画板が不足してゐたと見えて、裏表へ風景や静物を描いたものがかなりある。さうしたもので気に入つたものを父が取つて置いたらしいが、みんな破れたり、折れたりしてゐて、現存してゐるものは極めて尠い。
  
 この一文を読んで、すぐに思い浮かぶのが、中村彝の死去からおそらく1ヶ月前後に撮影された、アトリエ西側の壁面をとらえた写真だ。1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された写真には、画室から岡崎キイClick!の部屋、そして便所や勝手口まで通じる南西側のドアが写っている。そして、そのドアの表面には、なにやらペインティングされている“模様”が見てとれる。
 中村秋一が、アトリエのドアで見たのは「女の顔」だが、写真にとらえられたペインティングは「女の顔」には見えない。なにやら織物の模様のような絵柄で、1923年(大正12)の秋に渡仏中の清水多嘉示Click!あて、タペストリーClick!を購入して送るよう依頼する手紙を書いているので、実際に雑誌などで目にした織物などの模様を、ドアに模写したものなのかもしれない。
 このドアの向こう側について、鈴木良三Click!はこう書いている。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から発刊された、鈴木良三『中村彝の周辺』より引用してみよう。
  
 アトリエの南西にドアがあり、一穴の便所と勝手口へ通ずるようになっていて、あらゆる来訪者はみなここから出入させられた。勝手口に三畳の小部屋があり、おばさんが起居していたが、この部屋で彝さんに聞かせられないような話向きはヒソヤカに取りかわされるのだ。この部屋の傍らに流しがあり、直ぐ裏木戸に出られるようになっていたので、彝さんの外出の時の人力車もここで待っているし、お医者も、画商も、友人もみんなここを通るのだった。木戸を入って左側に井戸があり、少しばかりの空地があって、おばさんはここでゴミを燃やしていた。
  
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 この南西側のドアだが、写真で見るとおり、もうひとつの大きな特徴がある。それは、彝アトリエに設置されていた他のドアに比べ、このドアの幅がかなり狭いことだ。他のドアの幅が、700mm余の通常サイズなのに対し、この南西側のドアは600mm前後の幅にしか見えない。また、他のドアには中央にタテの枠が入るのに対し、なんらかのペインティングがほどこされた狭い幅のドアには、中央のタテ枠が存在しない。つまり、1923年(大正12)の関東大震災Click!以降に増築され彝アトリエに設置されていたドアの中では、かなり特殊な意匠のドアだったのではないかということだ。
 彝アトリエが、1929年(昭和4)より鈴木誠アトリエClick!になってからも、南西側のドアの幅は変更されていない。鈴木様に、アトリエ内を何度か拝見させていただいたとき、このドアの周辺は何枚かの写真に収めているが、画室と新たに設けられた“廊下”とを隔てるパーティションこそ設置されているものの、南西側のドアの幅は周囲のドア枠の意匠とともに、中村彝の時代とほとんど変わっていなかった。すなわち、アトリエ内ではこのドアだけが、特殊な仕様をしていたことになる。
 わたしが鈴木誠アトリエを拝見したとき、玄関から西へとつづく細い廊下の突き当りにあたるドアは、すでに撤去されて存在しなかった。ということは、鈴木誠Click!がアトリエの南西側に母家を増築したあと、アトリエの南東側へ玄関を設置した際、アトリエの南辺を幅60cmほどのパーティションで区切って、玄関から母屋へと抜ける“廊下”を新たに設置した時点で、このドアは取り外されている可能性が高い。あるいは、取り外されたドアは、新たに建設された母家のどこかに、流用されていたのかもしれない。たとえば、食堂や台所のドアとして……。
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 中村秋一は毎月、支援金の配達をつづけていて、たまたま彝アトリエのドアに描かれた「女の顔」を発見しているが、彝アトリエに出入りしていた画家たちは、ドアに描かれた“なにか”を必ず目撃しているはずだ。すべての中村彝関連の資料に目を通しているわけではないので、いまだそれを発見できないでいるだけなのかもしれない。それは、たまたま彝アトリエを取材しに訪れた美術誌の記者や新聞記者が、どこかに何気なく書きとめている印象にすぎないのかもしれない。
 中村春二の息子・中村秋一は、パトロンからの支援金を彝アトリエへ定期的にとどけながら、画家という職業をうらやましく思っていたようだ。彼は、のちに大沼抱林の画塾に通いつつ、父親を通じて作品を中村彝に見せたところ、「筋がよい」といわれている。また、彝が1922年(大正11)に帝展審査員になって以降、無料パスを借りては帝展を観に出かけている。1942年(昭和17)発行の「新美術」12月号から、もう少し引用してみよう。
  
 当時は世話する方もまた世話される方も、それが当然であるやうに思はれてゐた時代だから、今日のやうな画家とパトロンとの関係はなく、ひどく恬淡としてゐた。父が負担したのはごく僅かで、多くは富豪からの出費を取次いでゐたに過ぎないが、直接手渡しする私の母は、催促されたりすると、美術家つてずゐ分変つた人たちだねと困りもし呆れてもゐたやうだつた。今ではみんな大家だから、こんな話は省いた方が礼にかなふと思ふが、当時ののんびりとした芸術三昧の生活は、ちよつと羨しいと思ふし、また、さうした生活がこれら優れた作品を生んだのであらう。
  
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 中村秋一は同年の「新美術」に、中村彝の思い出を数回にわたって連載しているので、機会があればまた彝やアトリエのことを書いてみたい。また、彼は画家たちを支援するパトロンたちの様子も書きとめているので、こちらもいつかご紹介したいと思っている。

◆写真上:鈴木誠アトリエ時代の玄関から母家へと向かう、幅の狭い廊下の突き当りの南西ドアがあった跡で、600mm幅ほどのドアはすでに撤去されている。
◆写真中上は、1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された画室西側の壁面。は、南西ドアの拡大。は、玄関側から眺めた廊下の突き当り。
◆写真中下は、母屋の建設につづいて行われた玄関部の増築工事の写真。(提供:鈴木照子様) は、南西ドアにつづく廊下の腰高壁の様子。
◆写真下は、彝アトリエの時代から使われていた通常仕様のドア。幅は700mm余あり、中央にはタテ枠が入っている。は、中村彝が描きとめた戯画の一部。右上に描かれた印象的な人物は、明らかに野田半三Click!だろう。

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