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画塾「どんたくの会」の月謝は5円。 [気になる下落合]

曾宮一念アトリエ跡.JPG
 10月1日からSo-netブログのドメインが変わり、名称も「SSブログ」へ変更になるとか。昨年のSSL対応は理解できるが、今回のドメイン変更には呆れた。昨年のSSL対応で、外部からのリンクの修正を少しずつ4ヶ月かけて済ませたが、今度はドメインの修正を延々とつづけなければならないのか。しかも、今回のWebサーバはSSL対応ではないようだ。再びSSL対応などということになったら、わたしは何度、メンテ作業をやらされるハメになるのだろう。システム計画や運用管理戦略を、ちゃんと立ててるのか?
  
 鶴田吾郎Click!は、アトリエを持っていなかった1921年4月から1923年(大正12)9月までの間、下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!で制作し帝展へ出品している。曾宮アトリエで描かれたタブローで、現在判明しているものが3点ほどある。
 1921年(大正10)に制作された、新築のアトリエから写生に出かけようとしている曾宮一念をとらえた『初秋』Click!。同年に描かれた、アトリエの中でぼんやりと立っている曾宮一念を描いた『余の見たる曾宮君』。同作は、翌1922年(大正11)の第4回帝展で入選している。そして、1922年(昭和11)に曾宮邸の隣りに住んでいた植木屋の娘を描いた『農家の子』Click!の3点だ。この3作とも、すでにこちらでご紹介している。
 鶴田吾郎は、仕事をするときは曾宮アトリエを訪ねていたようだが、ふだんすごしていたのは兄が紹介してくれた下落合645番地の借家Click!だった。1920年(大正9)には、新婚の“その”夫人との間に長男・徹一が生まれていたが、鶴田の家には若い画家たちや画学生たちが集まっては酒盛りをして騒いでいたようだ。当時の様子を、1982年(昭和57)に中央公論美術出版より刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』から引用してみよう。
  
 山の画家で通った茨木猪之吉などは、四、五日も泊りがけで来ていて、最後にもう倦きたから帰るんだといって、どこかまた出掛けて行くことがあり、曾宮は毎日のようにやって来ては、彼一流の話をして一人で愉しんでいるようであった。朝来て、また夕方になって手拭をぶらさげて湯屋に行こうと誘うこともあった。/私達の生活は、勿論定収入というものはない。絵だって頼まれもしないし、余程困った時には電車賃だけつくって、滅多にしない絵を買って貰うことをしたり、少しばかりの原稿料が入ったりするくらいのことだった。
  
 ここに登場する「湯屋」は、鶴田吾郎宅から東南東へ100mほど、曾宮アトリエからも北へ150mのところにある、目白通り沿いで現在も営業中の「福ノ湯」のことだろう。すでに大正期の地図に採取されているので、下落合でも最古クラスの銭湯だ。
 今村繁三Click!から支援を受けていたとはいえ、ふたりの画家には定収入がないため曾宮一念が鶴田にもちかけ、絵を趣味にするアマチュア画家相手の画塾を開くことになった。資金は曾宮が10円を用意し、画塾設立のパンフレットや生徒たちがアトリエで使う履物、椅子、休憩で必要な土瓶と茶碗、モチーフとなる静物などを準備している。画塾の名前は、曾宮がオランダ語で日曜を意味する「どんたく」がいいと、日曜画家にひっかけて「どんたくの会」と決めた。
 このとき、「どんたくの会」の趣意書を考案したのは鶴田吾郎で、パンフレットを新聞社あてに郵送している。その全文を、『半世紀の素描』から引用してみよう。
鶴田吾郎「余の見たる曾宮君」1921.jpg 鶴田吾郎「農家の子」1922.jpg
鶴田吾郎邸跡.JPG
  
 自然の美しさを知ること、解ることが何人にとっても生きがいの有る事と思います。/この美しさを表すには画をかくのが最善の方法です。/こういう意味から画家として志す方でなくとも、特に日曜だけを自然研究に費して、深い、愉快な生活をしたいという人々の為めにこの会を開きます(御夫人も差支えありません)。/右のようなお心さえあれば、全く初歩からはじめます。/科目は、素描(鉛筆木炭)及び彩画(油絵水彩)とします。/講師は鶴田吾郎、曾宮一念の両氏がうけもちます。/会場は曾宮氏のアトリエを用いますが、郊外写生にも出かけます。/会費は一ヶ月五円とします。但要具、材料は会員の皆さんの自弁です。/第四日曜日は会員作品の批評をし合う茶話会にあてます。そして、時には別に講師を招いて美術に就いての種々の話をしてもらいます。研究時間は当分毎日曜正午より五時までと致します。/入会希望の方は左記事務所へ御申越し下さい。/用具その他委細御きき合せの方(三銭切手封入)には御答へします。
  
 どんたくの会は、月に4~5回の教室なので、生徒さえ集まればなんとか元はとれると考えたらしい。新聞の消息欄に、どんたくの会の趣意書が掲載されると、翌週には10人ほどの生徒が集まった。この時点で、曾宮一念が出した資金10円は回収できている。なお、曾宮一念が主宰した第2次どんたくの会では、会費が10円に値上がりしている。授業は、石膏デッサンを鶴田が受けもち、油彩の静物画は曾宮一念が担当した。
 鶴田吾郎は、「恐らく画室を解放して土、日などにアマチュアの絵の勉強を施すことになったのは、このどんたくの会が最初ではなかったろうか」と書いているが、下落合540番地の大久保作次郎Click!は、もっと早くから画塾Click!を開いて絵を趣味にする近所の人たちや女学生を集めていたし、下落合679番地の笠原吉太郎Click!もまた、アトリエClick!でおもに女学生たちを相手に絵を教えていた。外山卯三郎Click!と結婚した一二三(ひふみ)夫人Click!も、笠原吉太郎が主宰していた画塾に通ってくる生徒のひとりだった。
鶴田吾郎「初秋」1921.jpg
鶴田吾郎「半世紀の素描」1982.jpg 曾宮一念「画家は廃業」1992.jpg
 1921年(大正10)から、2年弱ほどつづいたどんたくの会は、曾宮と鶴田のケンカで終わってしまったが、その仲たがいの内容についてはふたりとも黙して語らない。では、曾宮一念の側からどんたくの会について書かれた文章を、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された『画家は廃業』より引用してみよう。
  
 日曜の画学校だったどんたくの会は、初めの第一次は私と鶴田とで始めました。第一次の生徒は、住友海上火災保険の元社長の花崎さんたちです。今村繁三さんから後援費をいくらかもらっていましたが、絵が売れるわけじゃない。アトリエができたんだから、二人で日曜日だけの絵の塾をやろうということになり始めたのです。/腰かけだけは近所の道具屋から最も安いのを買ってきました。描くものは主に静物です。たまにモデルを頼むこともありました。今の油彩の教授なんていうのは、子供を教えるのに、一時間から二時間くらいで帰して、交代させるそうです。その自分の人は、朝九時ごろ来ると、日が暮れるまでいたものです。日曜に頑張って描いてました。それを鶴田と代わり番こに、描けない人はなんとかまとめてやりました。
  
 住友海上火災保険の関係者のほか、鶴田吾郎によればのちの美術評論家・今泉篤男Click!も、一高の制服を着たまま習いにきていた。当時の今泉篤男は画家をめざしていたようで、帝大の学生時代には1930年協会展に応募して入選している。
 パトロンの今村繁三Click!の名前が出ているけれど、このあと関東大震災Click!と昭和の大恐慌で今村銀行は経営が傾き、画家への援助どころではなくなってしまう。晩年の今村繁三が、曾宮アトリエから南へわずか260m、聖母坂の下にあたる下落合2丁目707番地(現・中落合2丁目)の小さな邸で暮らし、死去Click!することになるとは、曾宮一念も鶴田吾郎も当時は夢想だにしなかっただろう。
曾宮一念「麦秋(白潟)」1943.jpg
鶴田吾郎「池袋への道」1946.jpg
鶴田吾郎「早春の日光三山」1946.jpg
 曾宮一念と鶴田吾郎は、ときに連れ立って風景画のモチーフを探しに練馬方面まで遠征している。あるとき、曾宮は大根の収穫を終えた黒い畝を6号に描き、鶴田はカシの木に囲まれた農家をSM(サムホール)に描いたようで、曾宮の抜群の記憶力によれば「三月一日」とのことだ。どんたくの会をふたりで開催していた、1922年(大正11)か1923年(大正12)のいずれかの3月1日のことだろう。

◆写真上:曾宮一念のアトリエ跡から、諏訪谷のある南側を眺めた現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)の第4回帝展に入選した鶴田吾郎『余の見たる曾宮君』()と、翌1922年(大正11)に制作された鶴田吾郎『農家の子』()。は、関東大震災で傾き住めなくなってしまった下落合645番地の鶴田吾郎邸跡。
◆写真中下は、1921年(大正10)に新築のアトリエから写生に出ようとする曾宮一念を描いた鶴田吾郎『初秋』。同年の4月、建設中のアトリエの参考にとカラーリングを見学に訪れた佐伯祐三Click!は、腰高の板壁を同じグリーン系に塗っている点に留意したい。は、1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』()と、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された曾宮一念『画家は廃業』()。
◆写真下は、1943年(昭和18)に制作された素描彩色の曾宮一念『麦秋(白潟)』。は、1946年(昭和21)制作の鶴田吾郎『池袋への道』と同『早春の日光三山』。

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東京郊外にあった「遊園地」の系譜。 [気になる下落合]

新井薬師公園1.JPG
 明治期の後半から大正期にかけ、東京の郊外には「遊園地」が各地に造られた。ここでいう「遊園地」とは、今日でいう多種多様なアトラクションやゲーム、パビリオンなどが設置されイベントが開かれる、いわゆる遊園地のことではない。
 その名称のとおり「庭園を回遊する地」のことで、特に乗り物や遊具、展示館などは存在しなかった。現代風にいえば、整備された森林公園ないしは緑地庭園といったところだろうか。施設や整備が豪華で、手入れがいきとどいた大規模な遊園地は有料のところもあったが、むしろ現在の公園と同様に無料で誰もが気軽に利用できた施設も少なくなかった。経営主体も、地域一帯に広い土地を所有する地主が敷地の一画を活用した例や、広大な華族屋敷の一部を開放したもの、将来の宅地開発を見こんだディベロッパーが集客目的で開園したもの、参詣者でにぎわう寺社境内の一部を庭園化したもの、地域の自治体が設置したものなど形態もさまざまだった。
 「遊園地」の元祖型は、早くも江戸期の後半(大江戸時代)から郊外各地で見られていた。オオシマザクラとエドヒガンザクラを掛けあわせソメイヨシノClick!を産みだした、江戸の植木職人たちが大勢集まって住み、幕末に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンによれば、ロンドン王立植物園を凌駕する「世界最大のフラワーセンター」だった染井地区(現・駒込地域)をはじめ、ウメやキク、ショウブ、ツツジなどを屋敷の庭園や畑地に隣接して植え、季節になると観光客に見せていた「花屋敷」Click!あるいは「〇〇(花の名前)屋敷」の系譜など、明治以降に「遊園地」へと直結していく素地は、すでに大江戸(おえど)Click!の郊外で早くから育まれていた。
 落合地域にも、そのような遊園地がいくつか存在していた。たとえば明治期の下落合でいうと、近衛篤麿邸Click!の敷地内にあった谷戸の湧水源を整備し、庭園のような風情に仕立てて開放した「落合遊園地」Click!が挙げられる。牛込区馬場下町41番地(現・新宿区馬場下町)に下宿していた若山牧水Click!が、散歩がてら下落合を訪れて『東京の郊外を想ふ』に記録している庭園だ。
 東京土地住宅Click!「近衛町」Click!につづき、1923年(大正12)に落合遊園地を含む一帯を「近衛新町」Click!として販売したが、そのほとんどの敷地を東邦電力Click!が買い占め、のちに「落合遊園地」改め「林泉園」Click!と名づけた谷戸の湧水源だ。中村彝Click!は、1916年(大正5)に「落合遊園地」の北側にアトリエを建設したが、死去する1年ほど前、1923年(大正12)ごろから名称が「林泉園」Click!に変わり、社宅の西洋館群Click!やテニスコートなどが造られるのを庭先から眺めながら、晩年をすごしていただろう。
 また、下落合の中部では、箱根土地Click!堤康次郎Click!落合府営住宅Click!の土地を東京府に寄付したあと、その南側に「不動園」Click!という遊園地を開発している。落合遊園地と同様に谷戸地形を活用した遊園地で、府営住宅の住民たちへ憩いの場を提供するような趣向だったが、もちろん不動園は郊外への「人寄せ」プロモーションの一環だったとみられ、ほどなく同園は解体され1922年(大正11)より目白文化村Click!の建設がスタートしている。不動園の様子や、それが壊される過程を第二府営住宅に住んでいた目白中学校の生徒Click!が観察して、学内誌に記録を残している。
 箱根土地は、不動園を解体して文化村住宅地に整地したあと、下落合1340番地の本社ビルClick!建設とともに、その南側に造園した庭を改めて「不動園」Click!と名づけ、文化村をはじめ周辺の住民に開放している。また、前谷戸の弁天社Click!がある北西側の湧水地も、昭和初期までは遊園地風の風情(弁天社裏の谷戸にはモモの樹林が植えられていたようだ)を残して、周辺の住民に開放していた。第一文化村の北側、下落合1385番地にアトリエをかまえていた松下春雄Click!が、弁天池のほとりで遊び長女・彩子様Click!を抱っこしている写真Click!が残されている。
林泉園1935.jpg
松下春雄「文化村入口」1925.jpg
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 上落合の近くには、小滝台の上に四季折々の花々を咲かせる、明治期に造られた華洲園Click!(御花畑)があった。街道(現・早稲田通り)を越え、バッケ(崖地)Click!に通う急坂を上ると丘上が開け、広大な花畑が拡がっていた。この郊外遊園地もまた、大正期に入ると宅地造成が開始され、周辺でも名うての高級住宅街に変貌している。
 近隣住民たちや観光客に開放されていた、これらの郊外遊園地は昭和期に入るとその多くが住宅街となり、現在ではほとんど残されていないが、その雰囲気を感じとることができる「遊園地」(というか今日では「公園」や「庭園」と呼称される)は、明治期から大正期にかけて東京郊外だったエリアで、いまでもかろうじて見ることができる。落合地域の近くでは、大正初期に造られた新井薬師遊園(のち新井薬師公園)が、当時の遊園地にもっとも近い風情を残しているだろうか。
 新井薬師遊園は、妙正寺川へと下る新井薬師の北北西側に展開する丘の斜面と、麓全体を包括した敷地で、いまでは中野通りに南北を分断されているが、新井薬師境内の緑地も加えるとかなり広めな公園となる。明治期からつづいた遊園地の特徴として、広場があり一画には花々が植えられ、築山や斜面には武蔵野の雑木林が繁り、湧水源を含む谷間には池ないしは泉が形成されている……という“お約束”の風景と、同園はよく一致している。1914年(大正3)開園と、明治期からつづく遊園地ではないものの、本来は新井薬師の境内だった敷地を遊園地化して、参詣者や周辺の住民たちへ開放したものだ。
 現在の新井薬師公園は、1934年(昭和9)に改めて公園として整備されたあとの姿だが、江戸期には梅照院(新井薬師)の修行場でもあった経緯から、大正期の風情はより“自然公園”に近い趣きだったのではないかと想定できる。現在は、斜面には雑木林に囲まれた広場や児童館、児童遊園などが設置され、麓には妙正寺川へと注ぐ湧水源のひとつだったとみられる“ひょうたん池”(小規模化したとみられる)が残されているが、いずれも昭和期の公園化とともに本来の姿とはかなり異なっているのではないだろうか。
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 その旧・新井薬師遊園を取材していたら、気になる地形を見つけてしまった。当初は、郊外遊園地らしく斜面に盛り土をし、築山に見立てて木や花を植えたのだろうと考えていたが、家にもどって各時代の空中写真を検証すると、この築山がどうやら戦後すぐのころまで“鍵穴”のかたちをしているのに気がついた。特に、一帯が空襲を受けた戦後の焼け跡写真を観察すると、地面の色が異なり鍵穴のフォルムが浮きでて見えるようだ。全長は60m前後で、それほど大きな規模のフォルムではない。確かに地形的にも、谷間へ向けた見晴らしのいい斜面に位置しており、古代人が古墳を築造するにはもってこいの場所だ。念のため、周辺で発掘された古墳期の集落跡がないかどうか確認したが、地元の新井地域でも、また隣接する沼袋地域Click!でも古墳期の住居跡が発見されている。
 残念ながら、新井薬師公園の発掘記録は見あたらないが、水戸徳川家の上屋敷庭園だった後楽園古墳や上野公園の摺鉢山古墳Click!、三田の土岐美濃守の下屋敷庭園だった亀塚古墳Click!、新宿駅西口の松平摂津守下屋敷庭園にあった新宿角筈古墳(仮)Click!などと同様に、大名庭園や公園を造園する際に築山としてそのまま墳丘が利用された前方後円墳の残滓ではないだろうか。また、丘上にあたる新井薬師の境内自体も、もともとはどのような敷地の形状をしていたのかに興味をひかれる。
 昭和期に入ると、東京郊外の小規模な遊園地は次々と姿を消すか、大規模な遊園地はアトラクションやゲーム、パビリオンを備えた新しい呼称としての“遊園地”に変貌していったけれど、新井薬師のケースは遊園地から公園へとスイッチしたために、大正期の風情をなんとか想像することができるめずらしい事例だ。また、戦後もしばらくたつと遊具のある一般的な公園とは別に、本来の意味での「遊園地」に近い風情の施設が、再び自然公園や緑地庭園として整備されるようになってきた。
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 下落合でいえば、規模は小さいが第二文化村の島峰徹Click!邸の跡地に造られた「延寿東流庭園」Click!や、下落合の南側に接した上戸塚地域にある「藤兵衛公園」などが該当するだろうか。明治期から大正期にかけての郊外遊園地に比べれば面積や規模がかなり小さいので、さすがに丘や斜面などは存在しないけれど、小流れがあって池があり樹木が繁茂している風情は、100年前を模した「ミニ遊園地」とでもいうべき存在といえるだろう。

◆写真上:新井薬師公園の斜面に見られる、現在は40mほどが残る“ふくらみ”部分。
◆写真中上は、1935年(昭和10)に撮影された林泉園。(提供:堀尾慶治様Click!) は、1925年(大正14)制作の松下春雄『文化村入口』に描かれた箱根土地本社前の庭園「不動園」と、第一文化村の谷戸にあった弁天池で遊ぶ松下春雄。(提供:山本彩子様) は、大正初期に撮影された小滝台の華洲園(御花畑)。
◆写真中下は、公園として再整備された直後の1936年(昭和11)に撮影された新井薬師公園。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された新井薬師公園。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる鍵穴状のフォルム。
◆写真下は、丘麓にある新井薬師公園のひょうたん池。中野通りが貫通する、背景左手の斜面から丘上までが新井薬師公園になっている。は、下落合の目白文化村(第二文化村)にあった島峰邸跡に造られた延寿東流庭園。は、上戸塚(現・高田馬場3丁目)の中村邸跡に造られた日本式庭園の藤兵衛公園。
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1916年(大正5)に記録された落合村の民俗。 [気になる下落合]

下落合駅前牛.jpg
 1916年(大正5)の落合村の風景は、明治期から華族や政治家、財閥、おカネ持ちの別荘地として東部の一部が拓けていた以外、江戸近郊の農村地帯の風情をそのまま残していただろう。旧・神田上水Click!や妙正寺川(北川Click!)の周囲には稲田が拡がり、そこから眺める目白崖線には鬱蒼とした雑木林が繁っていた。
 いまだ数が少なく、赤土がむき出しで滑りやすい坂道を上ってようやく丘上に出ると、一帯には畑か草原が拡がっており、ところどころに屋敷林に囲まれた大農家や小規模な墓地が点在している。ところどころに見えるこんもりとした雑木林の下には、大小の谷戸が口を開け、関東ロームの地層から露出した東京層Click!付近からは清水が噴出していた。その清水で形成された湧水池が、落合村のいたるところで澄んだ水面をたたえ、ときおり近所に住む農家のおかみさんたちが農作物を籠に入れて背負い、洗い場Click!と呼ばれた池で野菜を洗っている姿が見られただろう。
 南側を眺めながら、目白崖線の丘上を歩いていくと、麓には村の総鎮守である下落合氷川明神Click!の杜が見え、山腹には薬王院Click!の大きめな灰色の屋根と茅葺きの太子堂Click!が見え隠れしている。旧・神田上水の浅瀬で水浴びしている馬は、目白駅(地上駅)Click!前にある古口運送店Click!の飼い馬たちだろうか。川面がキラキラ光り、大きく蛇行する神田川に架かる田島橋の向こうには、3年前に建てられたばかりの独特な意匠をした目白変電所Click!のコンクリート建築が見え、変電所までつづく東京電燈谷村線Click!高圧線木製塔Click!が、西のほうから田畑の中に建ち並んでつづいている。
 旧・神田上水と妙正寺川が落ちあう向こう岸には、一面の麦畑の中に福室軒牧場Click!の乳牛だろうか、放し飼いにされているホルスタインClick!が何頭か点のように小さく見え、その左側には月見岡八幡社Click!の藁葺き屋根が木立ちに囲まれてチラリとかいま見えている。また、牧場のやや右手にある深い森の中には、光徳寺Click!の堂宇が、少し離れて最勝寺Click!が建っているはずだ。そして、はるか彼方の上高田との境界あたりに、落合火葬場Click!の高い煙突がかすんで見えている……。
 1916年(大正5)に豊多摩郡役所から出版された『豊多摩郡誌』には、当時の落合村の風情や民俗が採取されている。今日の落合地域からは想像できない、昔ながらの江戸東京の近郊風景が展開していた。その紹介文を、少し引用してみよう。
  
 風俗 村内土着の民は一般に淳朴(ママ)にして、旧幕時代の組合今も其俤を存し、隣侶相助くるの美風あり、衣食住また質素なるも、近時移住し来れる都人士多きを加へ、従て風俗漸く華奢ならんとす。 信仰 村内の寺院は尽く真言宗なるを以て、従来の住民は殆ど全部同宗の檀徒たり、近来耶蘇教天理教等の伝道を試むるものなきにあらざるも、未だ著しき勢力を認むるに至らず。
  
 近衛町Click!の開発前、目白駅(地上駅)前の丘上には近衛篤麿邸Click!が、目白通りをはさみ北側には戸田康保邸Click!(徳川義親Click!が転居してきて自邸Click!が竣工するのは1934年)が建っていた。近衛家が所有する谷戸には、若山牧水Click!が目にした「落合遊園地」Click!という碑が建立されたままで、いまだ周囲から林泉園Click!とは呼ばれていない。
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 御留山Click!に目を向けると、前年(1915年)に竣工したばかりの豪華な相馬孟胤邸Click!がそびえ、少し西に目を移せば岬のように突き出た西坂Click!バッケ(崖地)Click!上には、徳川義恕邸Click!の大きな西洋館が建っていた。徳川邸の南崖下、下落合では本村(もとむら・ほんむら)のエリアである旧・安井息軒邸Click!の西側に、軍人らしい質素さでこじんまりした川村景明邸Click!が見えていただろう。
 相馬孟胤邸と徳川義恕邸の中間にあたる、鎌倉期に拓かれた七曲坂Click!には、翌年(1917年)の竣工をめざす大島久直邸Click!が建設中で、足場が組まれた西洋館の尖塔のある特徴的な大屋根Click!ができあがっていただろうか。その北側には、大倉山(権兵衛山)Click!の丘上にあたり伊藤博文Click!の別荘があったという伝承が残る一画に、箕作俊夫邸Click!が瀟洒なたたずまいを見せていただろう。
 落合村にあった真言宗の寺院とは、薬王院と最勝寺、自性院Click!、光徳寺の4寺だ。蘭塔坂Click!(二ノ坂Click!)上には、いまだ大日本獅子吼会Click!(日蓮宗系)は移転してきていない。また、「耶蘇教」(キリスト教)の教会は、明治末に竣工した清戸道Click!(目白通り)沿いの目白福音教会Click!はあるが、東京同文書院Click!(目白中学校Click!)の斜向かいにあたる目白聖公会Click!は、まだ設置されておらず病院施設のままだ。目白駅(地上駅)前や、目白通り沿いにはようやく企業や商店が増えてきたが、いまだ江戸期からの繁華街である椎名町界隈Click!(現・山手通りと目白通りの交差点あたりを中心とした東西の街道筋)のほうが賑わっていただろう。
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 『豊多摩郡誌』から落合村の風情を、つづけて引用してみよう。
  
 遊芸 従来農村部落なりし本村にありては、遊芸等の流行を見ず、学校の女児の如き師に就て之が修得を為すものなし、但近来移住し来れる都人士中にありては琴曲其他の音楽趣味の喜ばるること、都会の風と異なるなし。 衣食住 一般に質素にして、近年移入せる都人士一部を除くの外、平常は綿衣を着け麦飯を用ふるを例とす。旧来土着の民家にありては、住宅物置等多くは茅葺にして、左方に入口を設け土間を広く取りて農業用に便せり。  村内の鉄道線路に近くして市街化したる部分を除き、旧来の住民は今尚ほ一ヶ月遅れの盂蘭盆及び正月をなす、是を月おくりの盆、正月と称ふ。
  
 「都人士」という言葉が頻出するが、これは東京市街地から武蔵野Click!の緑が多く、自然環境が保全されている郊外へ移住してきた市民たちのことをさしている。
 1922年(大正11)に目白文化村Click!近衛町Click!の販売がスタートしてから、あるいは関東大震災Click!以降に市街地からドッと移住者が押し寄せてきた“民族大移動”とは異なり、まだ落合村が牧歌的な時代のことだ。この時代、落合尋常小学校Click!(現・落合第一小学校Click!)に通っていた子どもたちは、下校すると習いごとどころではなく、家の用事=農作業を手伝わされていたのだろう。
 1916年(大正5)現在、移住してきた「都人士」には、目白駅(地上駅)前の丘上にアトリエをかまえていた熊岡美彦Click!、のちに豊玉水道Click!の落合町水道組合員を引き受けることになる下落合435番地の舟橋了助Click!夫妻、落合遊園地の北側にアトリエを建てたばかりの下落合464番地に住む中村彝Click!笠井彦乃Click!がアトリエを訪問していたとみられる下落合370番地の竹久夢二Click!、そして旧・伊藤博文別邸があったとされる敷地の斜向かい、大倉山ピークに近い下落合323番地には東京美術学校Click!森田亀之助Click!も住んでいただろうか?
 目白通りの北側、下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!の近くにあった茅葺きの「百姓家」には、大阪の小出楢重Click!が一時期住んでいたが、大久保作次郎が引っ越してくるのは2年後なので、まだ小出楢重の「行き倒れ」Click!物語は生まれていない。
 風習で興味深いのは、いまだ暦が江戸時代のままだったことだ。正月を2月1日(旧正月)に祝い、8月中旬(旧盆)に迎え火を焚いていたのだろう。落合地域に限らず現代の新宿区では、さすがに1月1日が正月で、7月中旬には街中で僧侶の姿を多く見かけ、8月中旬は地方で旧盆を迎える人たちのために「夏休み」、あるいは古い人々には「藪入り」Click!と呼ばれている。
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 大正初期には、「麦飯を用ふるを例とす」とあるが、現代の下落合住民であるわたしも、麦飯や雑穀米を常食としている。健康を考えてのことだが、当時は白米を節約し質素な食生活を送るための、江戸時代からつづく変わらぬ食習慣だったのだろう。

◆写真上:最近、東京牧場Click!が復活したのか下落合駅前にいる大きなガンジー種。
◆写真中上は、1880年(明治13)の1/20,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、上落合の南耕地にあった福室軒牧場のホルスタイン。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、吉屋信子Click!が1928年(昭和3)の夏に中ノ道(現・中井通り)の西武電鉄沿いで撮影したホルスタインClick!で、線路向こうにある牧成社牧場の乳牛だとみられる。
◆写真下は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三Click!連作『下落合風景』Click!のうち「洗濯物のある風景」Click!だが、洗濯物をホルスタインだといい張る美術家の方がいる。w

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小島が棄て佐伯が拾い里見が保存した作品。 [気になる下落合]

小島善太郎サイン.jpg
 小島善太郎Click!が描いた、初期の代表作である『四ツ谷見附』Click!(1914年)には、10点ほどの画面があったようなのだが、わたしは1作を除いてできの悪い作品はすべて、小島自身の手で写生現場にキャンバスごと棄てられたか、処分されたと思っていた。ところが、少なくとも1918~1919年(大正7~8)ごろまでは3種類の画面が残っており、小島の部屋の壁に架けられていたという証言が残っている。
 そもそも、四谷見附の隧道(トンネル)をモチーフにした『四ツ谷見附』は、小島善太郎が21歳の1913年(大正2)から取り組みはじめ、翌々1915年(大正4)に安井曾太郎Click!から作品を賞賛されるまで、制作はつづいていたとみられる。わたしは、現存するひとつの画面しか観たことがないが、時刻や季節を変え同じタイトルで3つの画面が、少なくとも大正中期まで存在していた。そう証言しているのは、画家で劇作家の松岡義和だ。しかも、3作品のうち『四ツ谷見附』の1作「夕景」を、彼は小島から贈られている。松岡義和は、同作を自分の部屋の壁に架けて、訪れる友人たちに自慢していた。
 なぜ、小島善太郎が四谷見附の風景画を、3年間にもわたり数多く描きつづけることになったのか、その秘密についても松岡は証言している。当時、四谷(正確には麹町区麹町)にあったF女学校(四ツ谷駅前の雙葉高等女学校Click!)へ通ってくる、Fという女性に恋をしていたのだ。だから、彼女が登下校で利用する省線・四ツ谷駅東口のすぐ近くで、イーゼルを立てて描きつづけていた。雙葉高等女学校と小島の描画ポイントは、わずか200mほどしか離れていない。ふたりは毎朝、同じ時間の電車で落ちあい、おそらく帰るときもいっしょの電車に乗ったのだろう。
 だが、女学生のFは女学校を卒業すると、別の地方へ転居してしまい、ふたりは二度と逢えなくなってしまった。また、小島のほうでは、いまだ絵画を勉強中の身で生活の自立ができず、彼女を迎えにいけないという現実に苦悩していた。3年にわたり、10点にもおよんだ『四ツ谷見附』の画面の背後には、小島善太郎の悲哀に満ちた恋の物語が隠れていたのだ。
 では、松岡義和が小島から譲られた夕景の『四ツ谷見附』は、どのような画面だったのだろうか? 小島善太郎の次女・小島敦子様Click!よりいただいた、1992年(平成4)出版の『桃李不言―小島善太郎の思い出―』(日経事業出版社)収録の、松岡義和『「四ツ谷見附」の思い出―小島善太郎兄に捧ぐ―』(1920年)から引用してみよう。
  
 レモンイエロウを基調とした巳に夕陽が斜めにさし込んで、その画面上の総てのもの、隧道も、桜の木々、電信柱、向こうの側の土堤も逆光線の為に黒ずんで、レモンイエロウの悲哀に満ちた光線の中に浮かんでいた。桜の葉の全く落ちた梢の先端まで、そして端正に堀に沿うてカギ形に曲って並んでいる杭の一本、一本まで涙と悲哀の中にたどって画かれた事は、それを見る人は直ぐ感ずるであろう。そして木々の陰、向こう側に立っている電信柱の長く引いた影、これ等はK(小島)の震える手で画かれた事を見ることが出来る。それから隧道の真っ暗な、中に吸い込まれる様な深さ。Kはこの闇を画くに、どれ程苦心したか知れぬ事をよく物語った。闇に対する空想、恐怖が常に彼を捕らえ、それがKが幾度小刀を出してカンバスを削って画き直しても、Kは、それ等が知らず知らずの中に表れるのを見た。彼はその絵を抱いて、戸山ヶ原で絶望のあまり号泣した事もあった。
  
 松岡義和が壁に架けていた『四ツ谷見附』(夕景)は、隣家から出火した火災で松岡家が全焼し、あえなく同作は失われている。また、残った2作の『四ツ谷見附』のうち、現存する画面でないもう1作も失われたのか、現在では目にすることができない。
小島善太郎「四ツ谷見附」1914.jpg
四谷見附隧道.jpg
雙葉高等女学校1912.jpg
 さて、小島善太郎Click!は野外で風景画を制作をしている際、画面のできが悪いとキャンバスごと写生地へ棄ててくるクセがあった。松岡の証言にも出てきた戸山ヶ原Click!で、小島はずいぶんキャンバスを遺棄Click!しているようだ。まず、キャンバスの表に風景を描きはじめるが、気に入らないとナイフで削っては描き直しを繰り返し、それでも気に入らないと今度はキャンバスの裏を使って描く。それでも思うように描けないと、おもむろにキャンバスを棄てて帰ってしまう。
 この性癖は、フランス留学中にも表れて、クラマールの森では小島が描きかけたキャンバスがずいぶん棄てられていたらしい。そんな棄てられた『クラマール風景』のキャンバスを、「もったいない」と拾って持ち帰っていたのが佐伯祐三Click!だ。誰かは忘れたけれど(鈴木良三Click!だったか?)、確か戸山ヶ原Click!でも遺棄された小島善太郎のキャンバスを見つけて、持ち帰った人物がいたはずだ。
 同書に収録された、里見勝蔵『小島の生活と芸術』(1933年)から引用してみよう。
  
 小島の巴里時代の作品の一つ『クラマール風景』は、佐伯がクラマールの森の中から----小島のこんな傑作が捨ててあった……と言って拾って来た。そして、今は僕が珍蔵している。二十号/第一面はプランタンの並木、地面は影になって黒と緑の交叉。第二面は建築中の家と丘へ登る道。道の両側の家はやがて遠景となり明るい空に連続する。/半完成ではあるが、調子は実に制限としている。筆触は単純で強い。色彩は美しい。小島のモチーフにおける第一印象は十分に表現されている。
  
 里見勝蔵は他界する1981年(昭和56)まで、小島善太郎との60年近い交流Click!がつづいていたので、おそらく死ぬまで未完の『クラマール風景』は、フランスでの懐かしい留学生活の思い出として手もとに置いていたのだろう。
四谷見附隧道1912.jpg
小島善太郎「戸山ヶ原風景」1911.jpg
戸山ヶ原.JPG
 その20号の『クラマール風景』と格闘する、小島自身が書いた文章が残っている。画面がどうしても気に入らず、小島善太郎はクラマールからパリへと出て、画家仲間たちと気晴らしの交流をしている。当時、フランスへ留学していた小島が知る画家たちの顔ぶれは、初期の1930年協会Click!でいっしょになる画家仲間のほか、川口軌外Click!鬼頭鍋三郎Click!、中山魏、林倭衛Click!、坂本繁二郎、小松清Click!、阿以田治修、宮坂勝Click!などだった。
 1981年(昭和56)に出版された小島善太郎『巴里の微笑』(小島出版記念会)から、クラマールで制作する様子を引用してみよう。
  
 クラマールの宿の裏門の丘から見下ろした風景画は、二十号大で大作といえないのに、1ヵ月もたつが出来ない。場所に惚れて描くのでなく、与えられた場で腰を据えて描いているのだが、ただ塗っていけばよいのではなく、画としての空間処理に気を配りながら、色々有機的な関係の問題とか、その色感とか立体感、物質感などの総合したものを組み立てながら思索し、徐々に進めるといったやり方である。/ことにパリに来てからは、日本での垢が気になり、自分を苦しめる。詩情に浸るのでなく、理に立ち向かうような切迫感があって、できた画面を削っては直す。これは私の癖で画は一向に出来上がらない。こういう時、酒の味をしらなかった私は、ぶらっとパリの学生街に出るのが常であった。
  
 ひょっとすると、制作途中でカンシャクを起こし、宿へ帰る途中の森の中へ遺棄してきた20号の『クラマール風景』は、上記の画面のことかもしれない。
小島善太郎「晩秋(戸山ヶ原」)1915.jpg
フェニックス会1923頃.jpg
小島善太郎「パリ郊外」1923.jpg
 パリの「サロン・ドートンヌ」展Click!に、クラマールで描いた小島善太郎『パリ郊外』が入選するのは、1923年(大正12)のことだった。その後、彼はティントレット『スザンナ』(300号)を模写するために、ルーブル美術館へ2年間も通いつづけることになる。

◆写真上:小島様にいただいた本の、内扉に書かれた小島善太郎の直筆サイン。
◆写真中上は、1914年(大正3)に制作された小島善太郎『四ツ谷見附』。は、当時とほとんど変わらない四谷見附隧道(トンネル)の現状。は、1912年(大正元)に撮影された雙葉高等女学校の校庭でボール遊びをする女学生たち。
◆写真中下は、1912年(大正元)作成の「四谷区全図」にみる描画ポイントと雙葉高等女学校の位置。は、1911年(明治44)に描かれた小島善太郎『戸山ヶ原風景』。は、現在は一部が公園になっている戸山ヶ原の現状。
◆写真下は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋(戸山ヶ原)』Click!は、パリでは「フェニックス会」のホスト(主人)だったフェニックス役の小島善太郎。は、1923年(大正12)にサロン・ドートンヌ展に初入選した小島善太郎『パリ郊外』。

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下落合を舞台にしたドラマ2019。 [気になる下落合]

小苦楽庭.JPG
 下落合が気になったきっかけのひとつとして、同地を舞台にした1974年(昭和49)のドラマ『さよなら・今日は』Click!(NTV開局20周年記念作品)のことを、最初期の2004年(平成16)11月にアップした記事Click!以来、わたしは何度かつづけてここに書いてきた。コメント数もかなりの数にのぼり、気になっていた方もたくさんいらっしゃるのだろう。今年(2019年)の旧盆(藪入りClick!)の真っ最中である8月13日午後3時すぎ、場所は下落合の喫茶「小苦楽(こくら)」Click!の、1階と2階をウロウロと往来しながら、わたしはドラマの“出番”を待っていた、下落合を舞台にしたドラマの撮影現場は初めてだが、まさか自分が出演することになるとは思わなかった。
 単にインタビュー番組で出演するだけなら、気が楽だし自分の言葉で自由に話せるのだけれど、インタビューに加え3つのシーンにしっかり長めのセリフもある。当然、役者はもちろん演劇の経験はゼロなのでセリフなどはまったく憶えられず(夏なので浮かれて遊び、憶えようともせず/爆!)、ノートPCにカンニングペーパーならぬセリフのテキストデータを用意して撮影にのぞんだ。わたしの役どころが、ノートPCを開いて喫茶店で原稿を書いている役どころだったからだ。それでも、自分の言葉ではない脚本家が書いたセリフは、どこかわざとらしく感じてスムーズに口にはなじまず憶えられない。そこで、まことに僭越ながら『さよなら・今日は』に出演した森繁久彌の台本Click!のように、セリフへいろいろとアカ入れ修正を加えさせていただいた。
 ところが、わたしのカンニングデータを用意したノートPCは、製品名のロゴがディスプレイの背後に大きく書かれていたため急きょ却下となり、かわりに抽象的なマークしか入っていないSurfaceに変えられてしまった。ズルを考えてたわたしは、さあたいへん。そう、このドラマはNHKが制作している作品なので、企業名や製品名はすべて基本的にNGなのだ。当日は撮影が押していたのか、本番前に2時間ほどの待ち時間があったため、少しでもセリフを記憶しようとしたのがよかったのかもしれない。シーンの変更や道具立ての入れ替え待ち時間を除けば、わたしの撮影は正味40分ほどで終了した。俳優を相手にセリフをいうわたしは、きっと紅潮していたにちがいない。
 ドラマは、NHKのEテレで2015年(平成27)より放送されている、4年越しの連続ドラマ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』Click!だ。わたしのお相手「ハルさん」は、俳優・渡部豪太氏だった。舞台が古民家(近代建築)の「小苦楽」(下落合3丁目/旧・下落合1丁目542番地)だったので、わたしは番組ディレクターを下落合(現・中落合/中井含む地域)の東部Click!へご案内した。近衛町Click!から御留山Click!、林泉園の中村彝アトリエClick!へとご案内したが、このうち近衛町の目白ヶ丘教会Click!学習院昭和寮Click!本館(現・日立目白クラブClick!)が、ドラマの台本に登場している。
 ストーリーは、ハルさんが下落合を訪れ、街を散策するうち昭和初期に建てられた数寄屋の古民家(築90年余)を発見して、そこで開業している喫茶店に入り、内部を見学しながら地元の人たちと出会う……という展開だ。「小苦楽」の建物は空襲からも焼け残り、わたしは知らなかったが戦後に不二山というお茶のお師匠さん(おっしょさん・おしょさんで親しい場合はおしさん)が住んで、弟子たちに茶道(表千家)を教授していたそうだ。
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 わたしは、同店の開店早々に女将の瓜生美行様より茶室を含む室内を拝見していたが、建物が古くて落ち着いているせいか空気がゆったりしており、小庭を眺めながら飲むお茶の味は、近衛町の「花想容」Click!(喫茶部は閉店)にも似て、その後、落合地域の休憩ポイントとして何度か利用させていただいている。このお店を紹介してくれたのは、以前、「佐伯祐三生誕120年記念シンポジウム」Click!にご家族で参加された木下元介様だ。瓜生女将も出演されているので、いまから放送を楽しみにしている。
 先ほど「紅潮していたにちがいない」と書いたが、わたしの“出番”に合わせてか、4時ごろになると続々とお客さん役のエキストラたちが現場に入りはじめた。昼間は甘味喫茶のせいか、お客さん役も女性が多い。女優さんや女優の卵さんが多いものか、みなさん美しくてきれいな方ばかりだ。そのうちの濃紺(?)の着物姿のおひとりが、「セリフがあるとタイヘンですよね」と同情してくれた。そんなウキウキ気分で“本番”に臨んだため、セリフも“楽屋裏”でマジClick!に憶えようとけんめいに悪戦苦闘し、結果、なんとかご迷惑をかけずに撮影を終えることができたものだろうか?
 5時すぎより撮影をスタートし、6時すぎには終了していた。監督は黒澤明Click!大島渚Click!ばりに、スタッフたちへ「ばっかやろ-!」「まぬけ!」「のろま!」と怒鳴りつけていたけれど、スタッフたちはニヤニヤ笑いながらセッティングしていたので、ほんとは優しい監督で撮影現場のノリかポーズのひとつなのだろう。わたしがどのシーンもテイク1~3ほどで撮り終えたせいなのか、「なんだよ、タバコを吸ってるヒマもねえじゃないか!」と、ブツブツいう声が背後で聞こえた。w ときどきドラマや映画のクランクアップで見かけてはいたが、ほんとうに花束と記念品と拍手をいただいてから、ロケ現場の「小苦楽」=旧・不二山邸をあとにした。
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 本番の7日前に台本(最終稿)をいただいたのだが、それを読んでいて改めて感じたことがある。ちょうど、このドラマが撮影されているさなか、わたしも映像の構成台本を書いているまっ最中だった。もちろん、ドラマではなく米国や国内で上映される、ICTシステム関連の映像だった。おもに、レベル4~5のコネクティッド・カー(いわゆる自動運転)に関する内容だが、車内のECUや配置されたIoTセンサーから、OpenFlowプロトコルの仮想ネットワーク(SDN)を通じて収集された多種多様なデータを、CGWを介して外部に設置されたAI仕様のクラウド監視マネジメント基盤とリアルタイムに連携し、クルマへ安全で最適な指示だし(操作命令)をする……という、Society 5.0では大前提として企画されているモビリティ環境(いわゆるCASE)のテーマだ。
 昨年の仕事でも感じたのだが、映像作家やディレクターが頭の中で構成するシナリオと、わたしが構成するテキスト台本との間には、いつも少なからず齟齬が生じることになる。わたしの頭の中はテキストの集積で構築・構成されているが、映像作家やディレクターの方はもっとも効果的なイメージの集積と展開で構成されている。だから、テキストで構成された台本は、読めば順序だててわかりやすく感じるのだが、それを音声と映像で表現する場合には、まったく事情が異なってくるのだ。特に映像が完成したあとの作品を観ると、「なるほど」と納得するシーンがいくつもあった。
 この感覚は、昨年(2018年)5月に美術家の方にご協力いただいた前述の佐伯祐三Click!生誕120年記念シンポでも、強く感じたことだ。こちらは映像ではなく、パワポを使ったスライドショーのシナリオづくりだったが、美術家の方は次々と湧きあがるイメージの展開でスライドを構成したけれど、わたしはアウトラインのストーリーを前提にテキストの集積で順序だてながらシナリオを考えていった。だから、双方がその流れを突き合わせてみたとき、イメージが先行する思考とテキストが先行する思考とであい入れず、収拾がつかなくなりそうになった。わたしのテキスト頭は、イメージが先行する思考の方には理屈っぽくてまだるっこしく、饒舌でクドく感じられたのではないだろうか。今回のドラマの台本を拝見したとき、テキスト頭のわたしは改めてそのことを痛感したしだいだ。
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 戦後、「小苦楽」の古民家に住んでいた茶道の不二山という方、茶道具には「不二山」(楽焼白片身変茶碗)という作品もあるので本名かどうかは不明だが、この地域をドリルダウンするうちになにか発見したら、改めて書いてみたいと思う。そういえば、下落合には関東大震災Click!東京大空襲Click!の直後からだろう、清元や常磐津など三味のお師匠さんClick!や浮世絵の刷師など、(城)下町Click!の人たちが多くやってきては住んでいる。
 ◆ドラマ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』 下落合編
  ・2019年9月12日(木) PM9:00~ NHK Eテレ(地上D/2ch)
  ・毎週木曜 午後9時/再放送:毎週水曜 午後0時25分
 余談だけれど、保存運動がつづく上鷺宮の三岸好太郎・節子アトリエClick!(1934年築/国登録有形文化財)も、月に何日かカフェを開催しているようなので、このドラマにはぴったりな舞台ではないだろうか? 同アトリエは、美術(独立美術協会Click!)や建築(設計・山脇巌Click!/バウハウス様式)をめぐる物語が数多く眠る宝庫のひとつだ。

◆写真上:「小苦楽」の庭で、左側に見えている躙り口が数寄屋。手水が「花想容」の藤田邸Click!とそっくりで、地中には水琴窟Click!が隠れているのではないか。
◆写真中上:暖簾の下がった「小苦楽」の入口()と室内()、そしてネコ()。大正期から大久保作次郎アトリエClick!の南庭へとつづく、路地の左手に位置する。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲直前にF13Click!から撮影されたのちの不二山邸と1947年(昭和22)に撮影された同邸。は、1980年代の「住宅明細図」(下落合1~4丁目)に収録された不二山邸。
◆写真下は、躙り口から点前座のほうへ向いた茶室内。は、黒蜜で甘みが調節できる「小苦楽」のあんみつ。は、クランクアップの花束と記念品。左側にいるのは、御留山でスカウトしてきた洋種が混じるキバが大きなオトメオオヤマネコClick!(♀/2歳)。

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