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ラムネ玉宝珠の「池袋の神様」岸本可賀美。 [気になる下落合]

豊島師範学校跡.JPG
 中村彝Click!へ結核治癒の祈祷を行なった、「至誠殿」の「巣鴨の神様」こと山田つるClick!と混同されたのが、詐欺で収監・起訴された「天然教」の「池袋の神様」こと岸本可賀美だ。山田つるは、オオクニヌシ(大黒天)の神託を伝え、おもに病気を治す「神通力」を発揮する巫女すなわち女性なのに対し、名前からしてまぎらわしいのだが岸本可賀美は「千里眼」を駆使する占い師であり男だった。
 「池袋の神様」こと岸本可賀美は、「透視」を行なう占い用の水晶玉「神水如意宝珠」(実はラムネのビー玉)を用いて、さまざまなものを発見する超能力者で、池袋駅の西側、東京府の豊島師範学校Click!に隣接した敷地に「神苑神殿」を設立して佐田彦大神(別名サルタヒコ)を祀り、失せ物探しや金塊・宝物の隠し場所、鉱脈の有無などを占って当てるのがメインの“仕事”だった。したがって、岡崎キイClick!が中村彝の結核平癒を願って連れていったのは、ほぼまちがいなく「巣鴨の神様」=山田つるのほうであって、同じ北豊島郡巣鴨村に居住していた「池袋の神様」=岸本可賀美のほうではないだろう。
 中村彝の伝記では、いつしかこのふたりが混同されて記述されるようになり、「巣鴨の神様」(女性)に祈祷してもらっているにもかかわらず、いつの間にか詐欺で捕まり「神水如意宝珠」がラムネ玉だったことが暴露された、「池袋の神様」(男性)の顛末で終わるようになってしまった。つまり、「巣鴨の神様」=山田つるのいかがわしさを強調するために(実際いかがわしいのだがw)、さらにうさん臭い「池袋の神様」=岸本可賀美のエピソードを“接ぎ木”して、山田つるを貶めるエピソードとして架空の物語を創作してしまった……ということなのだろう。この創作を行なったのが誰かはハッキリと規定できないが、中村彝が存命中の1924年(大正13)9月に新光社から出版された、『心霊現象の科学』の著者・小熊虎之助Click!あたりがいちばん怪しいだろうか?
 「池袋の神様」こと岸本可賀美は1916年(大正5)12月12日の午後、詐欺(騙取)の容疑で逮捕され東京監獄に収監されている。そのときの様子を、1916年(大正5)12月13日に発行された読売新聞の記事から引用してみよう。
  
 神様収監さる/池袋伏魔殿の主
 茨城県結城の城址に一億万円(ママ)の金塊ありとの神託を得たりとて 深川区佐賀町熊倉良助に多額の出資を為さしめたるを始めとし 神託を以て世人を迷はし巨額の金を騙取したる府下豊多摩郡高田村池袋(ママ)天然社々長岸本可賀美(四八)は 東京地方裁判所に於て小幡検事の係にて取調中のところ 十二日午後八時三輪予審判事の令状を以て東京監獄に収監されたり
  
 記者は、池袋地域の所在地を「豊多摩郡高田村池袋」などとしているが、もちろん北豊島郡巣鴨村(大字)池袋(字)中原(のち西巣鴨町池袋)の誤りだ。「巣鴨の神様」こと山田つるの記事(誤・伊勢神道のアマテラス→正・出雲神道のオオクニヌシ)でも気になったけれど、読売新聞は“ウラ取り”や校正が甘いのか、誤報や事実誤認の記事が多い。
小熊虎之助「心霊現象の科学」1924.jpg 小熊虎之助「心霊現象の科学」1974.jpg
小熊虎之助「心霊現象の科学」1924記述.jpg
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 同記事は、常陸の結城城の城跡に多額の金塊が眠っているのを、岸本可賀美が水晶玉(神水如意宝珠)を用いて「透視」をした結果、深川佐賀町の米穀問屋・熊倉良助をはじめ、日本橋区弥生町の諸田清次郎、芝区芝口の古着屋商・須崎すゞ、神田区神保町の古川きんなどから「天然教」の活動費のための多額の資金を募り、総額約15万円(現在の価値で約4億6千万円)を騙取したために検挙されたことを伝えたものだ。ほどなく、「神水如意宝珠」がラムネ玉(ビー玉)であったことが東京帝大の地質学教室による鑑定で判明し、「池袋の神様」こと岸本可賀美は東京地裁へ起訴された。
 池袋駅西口の豊島師範学校近くにあった、岸本可賀美の「天然教社」(神苑神殿)には一般の信者ばかりでなく、華族や政治家たちも多く出入りして占ってもらったらしく、中でも子爵・水野直(貴族院議員)の入れこみようは半端ではなかったようだ。そのため、岸本可賀美の逮捕・起訴は政界スキャンダルがらみでも取りあげられ、当時の新聞や雑誌の紙誌面をにぎわせている。特に水野直は、熱狂的に「池袋の神様」を信奉したせいか、周囲からは精神に異常をきたしたと思われ、宮内大臣が「天然教」の「神苑神殿」を調査する騒ぎにまで発展している。
 1923年(大正12)12月7日発行の、東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 (水野直は)仍つて例の天然教社に帰依し其の教主岸本可賀美なるものの処へ日参したものだ、此の天然教なるものは今日の大本教なぞと同巧異曲の一般世間からは一種の邪教視されて居たもので、其の教理はどんなものであつたか知らぬが、当時我が帝都に外国から飛行機の闖来する事を予言し盛んに国民の愛国的精神を説いて居たものである。水野はすつかり之に這入つて了つて、当時の内閣総理大臣大隈重信や陸海軍大臣などの処へ出掛けて真面目になつて天然教社の御先棒を勤めたものである。◇之れが為め水野は気が狂れたのではないかと親友等が心配し結局天然教の如何なるものかを確かめに、時の宮内大臣波多野敬直が態々天然教社を見に行つた始末、其の結果天然教は一邪教に過ぎぬと云ふ結論に達し以後断然水野に近寄らせぬ事にした、斯くて水野は慰安を求めた宗教にも失敗したので其の後学習院長との衝突を表向きの理由として遂に議員をも辞職し鎌倉の別邸に隠遁するに至つた。(カッコ内引用者註)
  
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豊島師範学校(明治末).jpg
豊島師範学校(昭和初期).jpg
 「天然教」の内実を、宮内大臣がわざわざ確認しに出かけているのも、いまだ官僚主義的で硬直化した政府に変質していない、大正初期の匂いを強く感じるエピソードだが、いったい水野直は行政内でどのような言動を繰り返していたのだろう。
 「池袋の神様」こと岸本可賀美は、約15万円の巨額を騙取した起訴事実に対し、東京地裁の法廷でどのような弁明をしていたのだろうか。1917年(大正6)7月16日に開かれた弁護側による被告人質問を参照すると、すべて信者がみずから進んで財産や家屋を「天然教」へ寄進・寄贈したのであって、自分から寄付を要求したことは一度もない……と答えている。この日の公判では、弁護人が新たな被告側の証人として岸一太医学博士と秋山海軍少将、それに寄付者のひとりで元信者の諸田清次郎を申請しているが、諸田のみの証人尋問が許可されただけで、ほかの承認申請は却下されている。
 岸本可賀美の弁明は、この手の新興宗教をめぐるトラブルではごくありがちなものだが、ついでに「神苑神殿」を訪れた“有名人”をあえて証人として指名し、自身の権威づけとともに、いわず語らず「なにをしゃべるかわからねえぞ」という、「天然教」に関わった人々への無言の圧力を加えているようにも見える。ついでに、「神水如意宝珠」がラムネのビー玉だったことについて、彼は「知らなかった」と答えている。岸本可賀美は、4人もの弁護士を雇って「無罪」をめざしたが、騙取の目的は明らかだとして懲役6年の実刑判決を受けている。
 告発者のひとり、深川佐賀町の米穀問屋・熊倉良助は茨城県の結城に出かけ、実際に人夫を雇って「池袋の神様」のお告げどおり結城城址を掘り返している。現地に着いた彼は、金塊の発掘を前に、結城の町民へ紅白の餅を大量に配って景気づけをしたが、掘れども掘れどもなにも出てこなかった。この“被害事件”は、「埋蔵金塊」に目がくらんだカネの亡者が、エセ宗教でボロもうけをたくらんだカネの亡者を訴えた、どっちもどっちのようなケースのようにも見える。
 その後、「池袋の神様」こと岸本可賀美をめぐる「天然教」や、「神苑神殿」あるいは「神水如意宝珠」といったワードは、すっかりマスコミから姿を消しているので、おそらく岸本が逮捕された時点で「天然教」は解散、「神苑神殿」も解体(被害者たちへの賠償がらみだったかもしれない)されているのだろう。
西巣鴨町西部事情明細図1926.jpg
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東京朝日新聞19231207.jpg
 1926年(昭和元)12月に作成された「西巣鴨町西部事情明細図」を見ると、池袋駅西口の府立豊島師範学校の近辺には、もはや「天然教社」のネームを見つけることはできない。ただし、同師範学校のすぐ西側には、「岸本」姓の住宅が何軒か採取されている。

◆写真上:池袋駅西口の豊島師範学校の跡地で、同校に近接して「池袋の神様」こと岸本可賀美の「天然教社」および「神苑神殿」があった。
◆写真中上は、1924年(大正13)に出版された小熊虎之助『心霊現象の科学』(新光社/)と1974年(昭和49)に出た新版の同書(芙蓉書房/)。は、明らかに「巣鴨の神様」こと山田つると「池袋の神様」こと岸本加賀美を混同している記述。これがもとで、その後に出版された中村彝関連のほぼすべての資料が誤っていくのだろう。は、1916年(大正5)12月13日発行の岸本可賀美の逮捕を伝える読売新聞。
◆写真中下は、1917年(大正6)7月17日に発行された東京地裁での公判の様子を伝える読売新聞記事。は、明治末に池袋停車場の西側へ開校した東京府立豊島師範学校。は、昭和初期にほぼ同じ位置から撮影された豊島師範学校(奥)。
◆写真下は、1926年(昭和元)作成の「西巣鴨町西部事情明細図」に採取された豊島師範学校とその周辺。は、「天然教」にのめりこんでいた貴族院議員(当時)の水野直()と、同教の実態を調査した宮内大臣(当時)の波多野敬直()。は、「天然教」と貴族院との政界スキャンダルを総括する1923年(大正12)12月7日発行の東京朝日新聞。

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第一文化村の梶野邸を拝見する。(下) [気になる下落合]

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 梶野邸を設計したのは、目白文化村Click!でも事例が多い住民自身、すなわち末高邸Click!と同様に梶野龍三自身だが、そのコンセプトは明快だ。1926年(大正15)に実業之日本社から発行された「婦人世界」5月号より、つづけて引用してみよう。
  
 小学校の二人のお子さんと梶野氏夫妻と、それに女中一人のほんとうの家族的なお宅で、別に応接間と云ふやうなものもなく、お居間が応接室を兼ねると云つた風になつて居ります。氏は全然建築には素人でありますが、なかなか専門家以上に建築に関する識見をお持ちになつて居りますので、いろいろと新しい試みが取りいれられ、ほんとうに気持のよい住宅であります。
  
 冒頭の写真は、梶野邸を南北のセンター通りを間にはさみ、東側の空き地から撮影した同邸の全体像だ。手前の空き地の左隣り、すなわち南側には前回の記事Click!にも登場していた数学者の小平邦彦邸(1925年築)が建っている。ちなみに、手前の空き地は現在も駐車場になっていて住宅が建っていないが、わたしの学生時代はまったく逆で、梶野邸跡の敷地がずっと空き地のままだった記憶がある。
 梶野邸の左(南)隣りには、下見板張りの洋風建築らしい渡辺邸が見えているが、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には記載がないことから、おそらく同年の春にはいまだ建築中で転居前だったとみられる。梶野邸と同様に、この新築だった渡辺邸もまた昭和期に入ると、なぜかすぐに解体され新たに小木原(?)邸が建設されている。
 写真の左端に写る車庫の前には、梶野龍三が所有するクルマのヘッドランプや前輪、ボンネット部が見えているが、このクルマが停められている通りが目白文化村の南北を走るセンター通り(三間道路)だ。もちろん、市街地の道路のような舗装はされておらず、大雨が降れば一面ぬかるんでクルマの走行はもちろん(タイヤがスリップして泥沼から抜けだせない事例が多かっただろう)、人々が通行するのもたいへんだった。ずいぶん以前に、佐々木邦の『文化村の喜劇』で描かれる、雨の日の「発クツ調査」Click!をご紹介しているが、近衛町Click!相馬閏二邸Click!アビラ村Click!林唯一アトリエClick!には、泥だらけになった靴を洗うために、玄関ポーチへ専用の靴洗い場を設置していたケースもあるほどだ。つづけて、同誌の『住宅の新しき試み』より引用してみよう。
  
 目白文化村はいろいろの点から云つて東京近郊の田園都市として最も理想的な所であります。種々の様式の文化住宅が立ち並んで居りますが、その中に梶野氏の住宅は一異彩を放つて居ります。何の様式にも囚はれない自由な氏の設計が面白いではありませんか。氏は自動車の愛用者で自ら運転もし、写真のやうに左方に車庫も設けられてあります。
  
目白文化村地割図1925.jpg
梶野邸跡.JPG
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 さて、梶野邸の玄関を入ると、1階には床面にコルクを張りフランス風の出窓を備えた居間(8畳サイズ)がある。居間は南に面しており、その隣りがカーテンで仕切られた子供部屋(6畳サイズ)になっている。子供部屋は、寄木細工の床を採用したやはり洋間で、子どもたちが広く遊べるよう必要に応じてカーテンの開け閉めをしていた。来客のときは、境界にあるカーテンを閉めて子供部屋を隠すしかけになっている。
 また、子供部屋の南側には広めのサンルームが設置されていて、陽当たりがよく暖かな室内には鉢植えの観葉植物などが置かれていた。下落合に建てられた文化住宅にサンルームが多いのは、空気が澄んだ郊外生活をすることで、病気にかかりにくい体質や体力を獲得すること、すなわち健康増進が一大テーマだったからだ。大正の中期、東京の市街地における結核患者数Click!は10万人をゆうに超えていた。日本の人口6千万人のうち、統計で判明しているだけでも2%が結核に罹患している時代だった。
 梶野邸の2階は、1階とは正反対に畳を敷いた日本間なのだが、建物の窓や壁は洋風のままなので、洋間に畳を敷いて並べている疑似「日本間」だったようだ。いわば、体育館に柔道用の畳を並べたような趣きだったらしい。特に、カーテンの下がった洋風の窓が日本間らしくないので、窓際に各部屋へ通う廊下を設置して日本間と窓辺をへだて、障子か襖を立てれば洋風の窓が隠れるような設計をしている。それでも洋風の意匠は消えないので、あくまでも日本間の気分が味わえる空間という趣向だったようだ。
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 「婦人世界」に掲載された梶野邸の紹介は、あと洗面所とトイレのみとなっている。特に同誌の記者が注目したのは、トイレや洗面所が当時の一般的な住宅には見られないほど、明るくて開放的だったからだ。同誌から、つづけて引用してみよう。
  
 便所。正面の細長い小窓は、夜間開放してあつても盗賊が侵入する事が出来ないやうに小さく作つたもので、臭気を防ぐ為めに開放的になつて居ります。そしてその窓の硝子は赫い銅色の硝子で、降雨や曇天でも常に太陽の光りが射しているやうな感じを与へます。
  ▲
 最先端の文化村といえども、すべての住宅が浄化槽を備えた水洗トイレだったわけではなく、昔ながらの汲みとり便所のお宅も併存していた。だから、臭いを逃がす空気抜きや換気扇Click!(当時は換気用電気扇風機と呼ばれていた)など、臭気を消すためのさまざまな工夫がなされている。梶野邸は、トイレや洗面所を住宅の陽が当たらない片隅につくるのではなく、日光がとどき換気のいい場所に設置しているのが新しい。
 梶野邸の外壁や、各部屋の内壁が何色をしていたのかは、特に記載がないので不明だ。建物の1階外壁は、下見板張りのようなのでモノクロ写真の濃い色から推定すると、焦げ茶色(あるいはクレオソートClick!塗布色)にホワイトの窓枠だったと思われるが、2階の東側外壁に塗られた明るい色がわからない。クリームかベージュ、あるいは卵色の薄い黄味がかったペンキで塗られていると美しいだろうか。屋根は、瓦が葺かれているようには見えず、おそらくスレート葺きだろう。上記のカラーリングからすると、しぶいオレンジかモスグリーンの屋根が似合いそうだ。
 内壁は、1階の洋間と2階の日本間とでは、色味が異なっていたようだ。おそらく壁紙を貼っているのだろう、1階はやや明るめの壁紙で、2階は濃いめのやや落ち着いた色合いの壁紙を採用しているのだろう。トイレと洗面所にも、腰高の白いタイル張りの上に濃い色の壁紙、またはペンキが塗られているようだ。
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 先述したように、1926年(大正15)に竣工した梶野龍三邸は、それからわずか数年ののちに解体され、1932年(昭和7)にはすでに桜井安右衛門が同敷地に新邸を建てて住んでいた。昭和の最初期、ちょうど金融恐慌や大恐慌をはさんで住民がめまぐるしく入れ替わり、建てたばかりの邸が壊されているケースは目白文化村に限らず、目白駅に近い近衛町Click!に建っていた小林盈一邸Click!の事例でも見ることができる。
                                   <了>

◆写真上:1926年(大正15)発行の、「婦人世界」5月号に掲載された梶野龍三邸全景。
◆写真中上は、1925年(大正14)現在の「目白文化村分譲地地割図」(第一・第二文化村)にみる梶野龍三邸。は、梶野邸跡の現状。は、梶野邸に設置された車庫と大正期の自家用車。当時は人気が高かった、米国のT型フォードだろうか。
◆写真中下は、梶野邸1階の居間(左側)と子供部屋(右側)で奥がサンルーム。が、同邸2階の日本間から見た廊下。は、同邸の手洗い所と便所。
◆写真下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された梶野邸跡に建つ桜井邸。は、1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲の8日前に偵察機F13Click!から撮影された桜井邸とその周辺。第二府営住宅と第一文化村北部は罹災しているように見えるが、桜井邸の周辺は焼け残っている。このあと、5月25日夜半の空襲で炎上しているのだろう。は、戦後の1947年(昭和)に撮影された桜井邸とその周辺。

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第一文化村の梶野邸を拝見する。(上) [気になる下落合]

梶野龍三邸1926(拡大).jpg
 目白文化村Click!には、販売当初と今日とでは各文化村エリアのとらえ方が異なる、面白い現象がみられる。1922年(大正11)に販売された「目白文化村」エリア(いまだ第一文化村とは表現されていない)と、1923年(大正12)に販売がスタートした「第二文化村」エリアとの間に、今日的に見るなら大きなズレや齟齬が存在しているのだ。きょうは、これまでややこしいし不明なので取りあげずにきた、各文化村のエリア規定の変遷について、わたしの勝手な想像もまじえながら書いてみたい。
 すなわち、第二文化村の開発・販売をスタートした1923年(大正12)の時点で、箱根土地Click!はすでに販売済みの「目白文化村」エリアのことを初めて「第一文化村」と呼称するようになったのだろう。今回、ご紹介する第一文化村の梶野龍三邸の敷地、すなわち下落合(4丁目)1605番地は、1923年(大正12)の時点では当初「第二文化村」として販売されている。ところが現在、文化村弁天(厳島社)の斜向かいにある同邸の敷地を、地元では誰も「第二文化村」などとは呼ばない。第一文化村の中心地に位置する、「第二文化村へと抜ける」南北のセンター通り沿いのエリアなのだ。
 梶野邸はもちろん、1923年(大正12)に販売されたさらに西側のエリア、渡辺邸Click!井門邸Click!のあるエリアもまた第一文化村であり、今日の地元では誰も「第二文化村」とは呼ばない。また、1923年(大正12)の夏に大量の土砂が運びこまれ新たに開発・販売されている、箱根土地本社ビルClick!の西側に隣接した前谷戸の埋め立て造成地Click!もまた、いまでは第一文化村エリアであり、お住まいの方々も含めて誰も「第二文化村」ではなく、第一文化村と認識している。
 目白文化村にお住まいの方はもちろん、下落合にお住まいの方々なら想像がつくと思われるのだが……、そうなのだ、1922年(大正11)に販売された「目白文化村」(第一文化村とは呼称していない)のみを、「第一文化村」と規定してしまったら、同村にはわずか37棟(神谷邸Click!は敷地をふたつ購入しているので実質は36棟)しか住宅がないことになってしまう。逆に、「第二文化村」として販売されたエリアの住宅を、すべてそのまま第二文化村と呼称しつづけたとすれば、100棟を超える住宅が「第二文化村」となってしまい、販売時期から規定すれば当初の第一文化村(1922年現在)を、「第二文化村」(1923年現在)の家々が包囲するようなレイアウトになってしまう。
 つまり、どこかの時点で「目白文化村」(=第一文化村/1922年現在)と「第二文化村」(1923年現在)の開発名あるいは販売時の名称を再度とらえ直し、改めて各文化村の境界を規定しなおすプロセスがあったとみられるのだ。それは、ディベロッパーである箱根土地が、本社を国立へ移転する1925年(大正14)のタイミングで行なったものか、昭和期に入ると目につくようになる、目白文化村ならではの邸番号Click!をふったころに再構成された境界意識(エリア感覚)なのか、あるいは地元の自治会や購買組合、あるいは1940年(昭和15)前後に防空のために結成された防護団Click!などが実施した、昭和期に入ってからのエリア規定か、さらには戦災で両村の多くが焼けてしまった戦後のことなのかは不明だけれど、少なくとも戦前からお住まいの方の中にも、今日と同様のエリア分けをされる方がいらっしゃるので、「第一文化村」と「第二文化村」とのエリア規定の変遷は、少なくとも戦前からはじまっていたとみるのが妥当だろう。
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前谷戸埋立1.JPG
前谷戸埋立2.JPG
 また、「第二文化村」のみの具体的で明確な箱根土地による分譲地割り図を確認できないことも、第一文化村と第二文化村との“境界”を曖昧にする要因のひとつになっているのかもしれない。先の「目白文化村」(1922年販売)をはじめ、「第三文化村」(1924年販売)および「第四文化村」(1925年販売)のみの明確な分譲地割り図は存在している。だが今日、『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』(住宅総合研究財団/1989年)などで、「第二文化村分譲地地割図」として公開されている図面には、1922年(大正11)に販売された当初の「目白文化村」(あと追いで「第一文化村」と呼称することになる)、および前谷戸を埋め立て新たに造成された箱根土地本社の西側に隣接する埋立地が含まれており、その境界が明確化されておらずに曖昧だ。
 今日では第一文化村エリアの梶野龍三邸は、販売とほぼ同時に敷地を購入し、1926年(大正15)の春には、すでに車庫つきの邸が竣工している。1923年(大正12)の販売時点での梶野邸敷地は、当初「第二文化村」として販売されていたのだ。1926年(大正15)に実業之日本社から発行された、「婦人世界」5月号に掲載の『住宅の新しい試み』から引用してみよう。
  
 梶野龍三氏の住宅
 氏は東京市芝区南佐久間町に開業せられて居る医師であります。写真は市街目白第二文化村の氏の住宅であります。この住宅は氏が自ら試みられた設計通り建てられたものであります。只今までの住宅は多くはお客本位の住宅であつた事を遺憾とせられて、本当の家族本位の住宅を建てられたのであります。
  
 取材を受けた梶野龍三自身は、おそらく箱根土地による「第二文化村分譲地販売」というフレーズを受け、自身の邸敷地について「第二文化村の土地を買った」と認識していた様子がわかる。だが、梶野龍三はわずか数年で転居してしまい(昭和初期の大恐慌の影響だろうか?)、昭和に入ってからすぐに内務省社会局事務官の桜井安右衛門が、築数年の梶野邸を解体し新たに自邸を建てて引っ越してくる。彼が自身の邸敷地を、「第二文化村」だと認識していたかどうかはさだかでない。
 また、1991年(平成3)に日本評論社から出版された『目白文化村』のコラム欄では、数学者の小平邦彦がインタビューに答え、「大正一四年九月、小学生の時に第二文化村に越してきました」と答えているのが興味深い。小平邸は、神谷邸Click!から西へ2軒め隣り、南北のセンター通り(三間道路)をはさんだ梶野邸のすぐ斜向かいにあたる、同じ下落合1605番地の邸だ。すなわち、大正時代に土地を箱根土地から直接購入した住民は、当初、自邸のエリアを「第二文化村」だと認識していた様子がわかる。
第二文化村分譲地地割図1923.jpg
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 それが、先述したなんらかのきっかけ(エリア分けの理由)を契機に、初期の目白文化村(1922年現在)の範囲とされていた第一文化村が「拡大」し、前谷戸を埋め立てて1923年(大正12)の夏に販売がスタートしている新たな造成地(第二文化村分譲地または第一文化村追加分譲地のどちらかは不明)と同様の感覚で、同エリアが第一文化村の「追加分譲地」的な認識に変化していったのではないだろうか。
 そしてもうひとつ、ついに買収に応じることなく、強引な土地収用をつづける箱根土地とは最後まで対立Click!しつづけた、初期の第一文化村の南に拡がる宇田川邸の敷地の存在も、どこかで大きく影響しているのかもしれない。宇田川様Click!の敷地一帯の北側を東西に横切るのが、初期第一文化村の南辺の境界線であり、この境界線をそのまま西へ延ばしてセンター通りを越え、オバケ道Click!のカーブに沿って目白文化村を南北に分ければ、箱根土地に残る分譲資料や初期の住民証言とはまったく別に、ほぼ現在の地元で認識されている第一文化村と第二文化村のエリア概念に合致するからだ。目白文化村の開発全体がフィックスしたのち、改めて南北を分けるこの“宇田川ライン”に着目した住民、あるいは地元の組織や団体はなかっただろうか。
 さらに、箱根土地の社宅建設予定地とされていた、第二文化村の北側に拡がる広い空き地、すなわち第二文化村の水道タンクClick!があった北側の下落合1650番地(のち下落合4丁目1647番地)一帯が、昭和期に入ると第二文化村の追加分譲地として販売される。そこへは、目白文化村でも最大級の邸宅だった安本邸や水野邸などが建設されているが(戦後は下落合教会・下落合みどり幼稚園Click!)、この販売事例により第二文化村は目白文化村の“南側”という心象が強く形成されたのかもしれない。そして同時に、第一文化村は目白文化村の“北側一帯”という印象を、さらに高めたのかもしれない。
 さて、梶野邸の南側にある庭園の隅には、大正期の文化村としてもめずらしい自家用車の車庫が設置されており、梶野医師は南佐久間町(現・西新橋1丁目)の医院までクルマで出勤していたとみられる。当時の住宅の建て方としては、地面からの湿気を避けるために舗装されていない道路面から、住宅敷地を大谷石やコンクリートの縁石を設け、できるだけカサ上げして造成するのが一般的だった。したがって、戦後ならともかく道路面と水平に設置されている車庫はめずらしい光景だ。
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 梶野龍三邸には、訪問客を前提とした応接間あるいは客間が存在していない。なによりも家族や子どもたちの快適な居住性を優先して追求した設計は、遠藤新建築創作所Click!の仕事による下落合806番地の小林邸Click!へと通じる、現代住宅とほとんど変わらない設計コンセプトなのだが、その詳細については、また次につづく物語で……。
                               <つづく>

◆写真上:1926年(大正15)春に撮影された、竣工間もない梶野龍三邸の東側壁面。
◆写真中上は、1922年(大正11)に作成された最初期の「目白文化村分譲地地割図」で、第一文化村の呼称は存在していない。(『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』より) は、第二文化村分譲時期の1923年(大正12)の夏に埋め立てられた箱根土地西側の前谷戸部。は、埋立造成地の現状と前谷戸の谷間へと下りる西端の階段。
◆写真中下は、1923年(大正12)作成の「第二文化村分譲地地割図」だが、初期の第一文化村および前谷戸の埋立分譲地も描きこまれているため境界規定がない。(同上より) は、1936年(昭和11)の空中写真を用いた今日の目白文化村概念。は、南から北を写したセンター通り(三間道路)で、梶野邸は突きあたりの左手にあった。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる梶野邸。は、1936年(昭和11)の写真にみる桜井邸(元・梶野邸)。建物の形状が変わっており、『落合町誌』(1932年)にはすでに桜井安右衛門が収録されているため、梶野邸は竣工から数年で解体されたとみられる。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる桜井邸。

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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(5) [気になる下落合]

曾宮一念「落合風景」1921.jpg
 大正中期の落合地域を描いた絵画作品は、本格的な宅地開発が行われる以前の風景Click!なので、描画場所の特定がきわめてむずかしい。描かれているモチーフは、田畑や耕地整理を待つ原っぱ(空き地)、農家、森林、ポツンポツンと建ちはじめた郊外住宅などで、現代につながる目標物がほとんど存在しないからだ。
 また、目白崖線の丘上を描いた風景だったりすると、平坦な地面が多いため地形的な特徴もつかみにくく、どこを描いたのかがさらにわからなくなる。田畑のままで、宅地化を前提とした耕地整理がなされていないと、農作業に使われた畦道や農道がそのまま描かれており、現代につづく道筋の形状が未整備のため、場所を想定することが非常に困難になる。それでも、小島善太郎Click!『下落合風景(仮)』Click!のように、特徴的な地形や明治以前からの街道筋を描いていれば、現代からでもピンとくる場所を想起できるが、単に草原や森林を描いただけでは見当もつかない。
 冒頭の画面は、1921年(大正10)に曾宮一念Click!が描いた『落合風景』だが、どこを描いたのかがよくわからない作品だ。同年の4月、曾宮一念は念願のアトリエClick!下落合623番地Click!に建てて、淀橋町柏木128番地Click!から引っ越してきているので、同作は転居早々に描かれたことになる。前年の暮れに描かれた『落合風景』Click!(1920年)のように、特徴的な建物(メーヤー館Click!)がモチーフに入っていればすぐに描画ポイントを特定することができるが、道もなにもない草原と樹々をとらえただけの画面では、手がかりがつかみにくくわからない。画面のような風景は、当時の下落合ではあちこちで見られただろう。
 なんだか画面上に雪か、植物の綿帽子が降りそそいでいるような表現が描かれているけれど、木々の枝葉が紅葉しかかっているので秋の落ち葉だろうか?(あるいは油彩画面に付着したカビの跡だろうか) 画面を左右に横ぎる並木のような樹木の下には、細い小径が通っていそうな風情だ。画面中央のやや右手に描かれている赤いフォルムは、紅葉した樹木なのか西洋館の屋根なのかが、茫洋とした表現でいまひとつハッキリしない。陽射しの具合から、どうやら手前、つまり画家の背後が南のようだ。
 当時の下落合は、目白駅の近くと目白通り(清戸道Click!)沿いの江戸期から発達した「椎名町」Click!を除き、草地や畑地が拡がる家々がまばらな光景だった。だから、家々が描かれているとすればかなり絞りこめるのだが、もし中央右手に表現されている赤いフォルムが建物の屋根だとすれば、当時の曾宮一念の生活やアトリエ周辺の環境を考慮すると、1ヶ所だけ思いあたる描画場所がある。それは、落合遊園地Click!(のち東邦電力による近衛新町Click!宅地開発Click!林泉園Click!と命名)の谷戸をはさみ、南から北を向いてサクラ並木が繁る道筋の中村彝アトリエClick!を描いたものではないだろうか。
曾宮一念「落合風景」1921想定.jpg
落合遊園地1923.jpg
曾宮一念「落合風景」1936.jpg
 手前の樹木3本の向こう側には、やや草原のスペースがあるように見えるが、その先には窪地(小さな谷戸)があると想定しても、あながち不自然な描写には感じられない。濃いグリーンに塗られた樹木は、落合遊園地(林泉園)の谷戸に生えている樹木の上部であり、崖地の影になっている部分が濃く塗られている……とも解釈できる表現だ。そして、その向こう側に明るい色で描かれた樹木が、谷戸の北側に通う小径のサクラ並木だと解釈することができそうだ。
 『落合風景』の描画ポイントを規定するとすれば、落合遊園地(林泉園)南側の下落合387番地にあたる草原から、谷戸をはさんで5年前に建てられた中村彝アトリエを含む、下落合463~465番地界隈をとらえているように見える。当時の1/10,000地形図を確認すると、谷戸に面したこの一画にはわずか3棟の家しか採取されていない。下落合464番地の中村彝アトリエと、画面の右手にあたる下落合463番地に建てられていた2棟の住宅(1棟は物置小屋?)だ。ただし、画面では手前右側の樹木にさえぎられて、下落合463番地に建っていた2棟の屋根は見えない。
 『落合風景』の描画ポイントとみられる位置、すなわち下落合387番地の一画に立とうとしても、現在は住宅が建ち並ぶ真ん中なので不可能だ。また、同ポイントからは家々の屋根が視界をさえぎり、中村彝アトリエを見とおすこともできない。同作が制作された当時の地図、あるいは古い空中写真から画面の情景を想像してみるしかなさそうだ。
中村彝アトリエ屋根.JPG
曾宮一念描画ポイント.jpg
曾宮一念1923.jpg
 もう1点、1920年(大正9)に制作された曾宮一念『風景』という作品がある。いかにも、本格的な宅地開発が進む前の東京郊外という風情だが、同年に曾宮はいまだ下落合に転居してきていない。したがって、転居前に住んでいた淀橋町柏木128番地(現・西新宿8丁目)の借家周辺で見られた風景なのかもしれない。
 落葉した樹木の様子や、ススキのように背丈の高い枯れた草叢が描かれており、おそらく同年の晩秋から冬にかけて制作されたものだろう。西日と思われる黄色い陽射しと、描かれた家々が並ぶ屋根の主棟の向きから推測すると、やはり画家の背後が南側のようだ。右手には、右へとカーブする道が描かれており、畑地の向こう側に建てられた住宅群の左手は、地形がやや下がっているように見える。また、右端には長い生垣と屋敷林がつづいているので、その内側には大きな農家か屋敷が建っていそうだ。
 1920年(大正9)現在の下落合で、このような地形や道筋、さらに家々の配置をわたしは知らない。ひょっとすると、曾宮一念は自身のアトリエを建設する予定地を下見にきて、その周辺の風景を描いているのか?……とも想像したが、道筋や家々の配置、地形などが微妙に異なり一致する場所が見つからない。あるいは、聖母坂の建設で消えてしまった住宅街の一画だろうか?
 当時の淀橋町柏木もまた、畑地が残るこのような風景が随所に拡がっていただろう。新宿駅と山手線をはさみ、大正中期に東口は急速に拓けていったが、西側は街道沿いや淀橋浄水場Click!の周辺を除き農地や空き地、雑木林などが散在する風情のままだった。曾宮一念が一時的に住んでいた柏木128番地は、中央線の大久保駅に近い位置であり、当時はまだあちこちに田畑が残るような風景だったろう。
曾宮一念「風景」1920.jpg
下落合東部1918.jpg
曾宮一念(写生中).jpg
 東京西部の郊外、山手線の西側一帯に拓けた多くの街々は、関東大震災Click!から少しあとの時代、大正末から昭和初期にかけて、それぞれの街がもつ特色が少しずつ形成されはじめている。したがって、それ以前の風景は東京市の近郊に拡がる農村風景で、どこも似たり寄ったりの風情をしていた。1920年(大正9)前後に曾宮一念が写した風景は、急速に変貌をとげる直前の、過渡的な東京近郊の様子を的確にとらえ表現している。

◆写真上:下落合に転居早々の、1921年(大正10)に描かれた曾宮一念『落合風景』。
◆写真中上は、『落合風景』に描かれている風景やモチーフの推定。は、1923年(大正12)に作成された1/10,000地形図にみる推定描画ポイント。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる描画ポイント。
◆写真中下は、中村彝アトリエの赤い屋根だが建設当初はもう少しオレンジに近い赤だったろうか。は、『落合風景』が描かれた描画ポイントあたりの現状。中村彝アトリエは、突きあたりにある谷戸の向こう側やや右手のサクラ並木沿いに建っている。は、1923年(大正12)に下落合のアトリエで撮影された曾宮一念。
◆写真下は、下落合の描画場所に心あたりがない1920年(大正9)制作の曾宮一念『風景』。は、田畑や草原、森林、などが随所に拡がる1918年(大正7)現在の下落合東部。は、昭和初期に撮影されたとみられる野外写生中の曾宮一念。

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中村彝と「巣鴨の神様」山田つる。(下) [気になる下落合]

至誠殿への道.JPG
 山田つるClick!が、どのようにして「神通力」にめざめたのかは、実際に目撃した第三者がいないので委細は不明だが、夫の山田勝太郎によれば、医者も見離した難病に苦しめられ病臥を繰り返していた中、突然「神霊」のお告げを受けて、「身を清めてから死にたい」と夫に別れを告げたころからはじまる。医者から、余命わずかといわれたのがショックだったのか、半ば自暴自棄のような精神状態でもあったようだ。
 1918年(大正7)に太卜出版から刊行された竹齋山人『仙神伝授魔法神通力』によれば、山田つるは「深山の神霊」へ病気平癒を祈願するために、真冬の雪が降り積もった「霊山」(社殿が奉られた北国の山のようだが、どこの山かは特定していない)へ登り、道に迷って危うく遭難しかかる。崖地の雪庇を踏みぬいて渓谷へ転落し、雪解けがはじまった渓流に全身が浸かってしまい、濡れねずみになって意識を失ったまま凍死しかかるが、もともと生命を捨てて自暴自棄になりながら冬山に登っているので、意識をとりもどすと再び山頂の社殿めざして歩きはじめた。
 すると、しばらくしてどこからか「再攀せば安全なる道を発見すべし」という声が響きわたり、その声を頼りに上っていくと、やがて頂上にある社殿にたどり着いた。以来、彼女は「自己心神の統一」ができるようになり、物体の「透視」や「千里眼」の能力を備えるようになった……ということらしい。明らかに、体温が急速に奪われる冬山の遭難時に起きがちな、幻視幻聴症状の一種だと思われるが、下山して巣鴨庚申塚にもどってきたときは、すでに「神がかり」になっていて、端からは異様に見える言動をするようになっていたという。以降毎日、夜に水垢離をつづけていると自身の病気も快方に向かい、しだいに「神通力」を発揮するようになったということらしい。
 山田つるのもとには、大勢の弟子たちが集まったが、その中には著名人たちも多く含まれていた。どこか岡田虎二郎Click!による「静坐会」Click!の活動にも似ているが、その様子を1916年(大正5)9月27日の東京朝日新聞より引用してみよう。
  
 此神様の弟子三千人とは話半分に聞いても大した者(ママ)だが、周囲に四五人の使徒のような高弟があつて、其下ツ葉の弟子連の中には小山内薫、生田長江、沼波瓊音、栗原古城、広瀬哲士、阿部秀助、山田耕作、諸口十九などの人々がある、いづれも神様を礼拝する時は感極まつて踊り出す、其姿の珍妙な事は話にならない、岡田三郎助君も此程小山内君に勧められて神様を拝みに行き聾を癒して貰つたといふ▼中にも沼波君の熱心は大したもので今は雑誌の方も潰せば一切の生活の道を犠牲にして朝から晩まで神様の家に入り浸りの姿である、此間福来博士が沼波君を訪れると夕立が来た 「傘を持つて来なかつた」と博士が心配するのを沼波君は「お帰りになる時雨を晴らせて上げます」と云つたが、果して博士が帰りかけると、雨はカラリと上つたと当人の自慢話、それから先頃電燈料を払はないかして電線を切られた、すると「アンナ物はなくとも点火して見せる」と云つてそれ以来神通力で電燈を点けて居るといふ話もある
  
 「ほっといても、雨はいつか降ったり止んだりするだろ!」とか、「おまえは電気ウナギみたいなやつだな!」とか、ヤマダClick!のようなツッコミを不用意に入れてはいけない。本人たちは、いたって大マジメなのだ。
仙神伝授魔法神通力1918.jpg 仙神伝授魔法神通力1918山田つる.jpg
小山内薫.jpg 岡田三郎助.jpg
 記事に書かれている小山内薫Click!は、「事故物件」や「化け物屋敷」ばかりを引き当てて転居を繰り返していたが、もともと「心霊(神霊)現象」には興味があったのだろう。また、福来博士とは目白にやってきた超能力者・御船千鶴子Click!の記事で登場している、東京帝大の福来友吉Click!のことだ。
 小山内薫は、1916年(大正5)6月3日から、帝劇で新劇場の初回公演を行っているが客がほとんど集まらず、どうやら“拝み”の「巣鴨の神様」頼みになっていたらしい。当時の小山内薫の様子と、「巣鴨の神様」への奉納劇について、1961年(昭和36)に青蛙房から出版された戸板康二『対談日本新劇史』より引用してみよう。インタビューに答えているのは、当時は新劇の俳優で映画監督もこなした田中栄三だ。
  
 それから間もなく七月になりまして、暑い日でしたが巣鴨の神様の至誠殿に一周年記念のお祭りがありました。富士の裾野の方に神様の本体をたずねて、みんなが御幣を持って行ったんです。御幣が風になびく方向に行ったら、須走の百姓家の庭にある物置の中へ導かれた。その物置の中に大黒様が八体あったんで、それを頂いて帰って来た。その時の仮装をして一周年のお祭りをしたわけですね。芝居や踊りを奉納するというわけで、小山内先生のおやじで、私の客、諸口の娘で、チェーホフの『犬』(結婚申込)をやったんですよ。(中略) 小山内先生も隠し芸の「夕ぐれ」を踊りましたよ。(中略) そのころ新劇場は失敗してお金がないころなんで、小山内先生もちっともお金がないんですよ。玄関の畳の下をあけたら五十銭銀貨が出来たから巣鴨の神様へ行こう、という時代でした。昼間至誠殿でやった小山内先生の講話の時には「何事もあなた任せの年の暮」の句を引いていろいろ話をしていられました。
  
 貧乏な演劇青年、しかも日本に入ってきて間もない新劇をめざしていた青年たちが、まったく集客できずに「巣鴨の神様」頼みだった当時の様子がわかって面白い。このとき演じられたのは、チェーホフの『犬』のほかスティーブンスンの『失踪商人(ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件)』だったという。
 「至誠殿」に集合していた画家や作家、演劇人、歌人などの様子を見ると、岡田虎二郎が主宰する「静坐会」に凝っていた相馬黒光(良)Click!の、新宿中村屋Click!のとある時代を見ているようだ。36歳か42歳か年齢が不詳の、ちょっと垢抜けて艶っぽかったらしい山田つるは、その「神通力」や「千里眼」「透視」の能力はともかく、多くの人を惹きつけ集めることができる魅力は備えていたようだ。
 もともと山田家は資産があって裕福だったらしく、山田つるは「神通力」を使いながら貧しい病人は無償で「治療」したり、「千里眼」を使って失せモノや未来を「透視」してやったりしていたのも、多くの人々から信用された要因らしい。病気の「治療」法とは、病人を正座させ意識を集中させてから御幣を振りかざして祈祷を加えるというようなもので、電車賃や俥代が払えない貧者には俥をかってタダで「往診」までしていた。
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 おそらく、中村彝Click!も「至誠殿」の床に座らせられ、山田つるが唱える祈祷の言霊を聞きながら、御幣の祓いを受けていたのだろうが、結核菌を殺す「治療」が無償だったかどうかまではさたがでない。貧しい小山内薫ら演劇青年たちは、おそらく無償で……というか、「至誠殿」で「巣鴨の神様」から食事をふるまわれるなど、持ちだしで面倒をみてもらっていたようだ。
 弟子のひとりで、電気ウナギのように自家発電ができるらしい省エネでエコな沼波瓊音は、読売新聞の記者に「仕て始めて感得されるので語るものでない、末世と悲しんだ此世にかやうな光明をなげられ人生至高の境に行く路の開かれたるを喜ぶ」(1916年6月10日朝刊)と語り、また東京朝日新聞の記者には「太陽もけさうと思へば必ず消せる」(1916年9月27日朝刊)などと語っているので、どうやら山田つるの能力は修行を重ねれば弟子たちにも相伝するらしい。
 だが、天理教の中山みきや大本教の出口なほが、その後、大きな教団として成長していった……というか、事業戦略としてのマーケティングやプロモーションが上手で、組織を大規模化していった「女神」たちに比べ、「巣鴨の神様」こと山田つるは、あくまでも個人による私的な「治療」や「施術」の域を出ず、また夫の山田勝太郎とはのちに別居して巣鴨から田端へ転居してしまったため、「教団」としてのまとまりや組織化ができないうちに、彼女のブームは下火になってしまったように見える。
 「巣鴨の神様」が、田端へ転居しているのが興味深い。彼女が主柱にすえていたのはオオクニヌシ(=オオナムチ=大黒天)であり、同神は「北辰」、すなわち北極星あるいは北斗七星の象徴でもあるからだ。先の「今⽇も⽇暮⾥富⼠⾒坂」さんClick!によれば、転居先は大正末の電話帳で北豊島郡瀧野川町田端171番地(現・田端3丁目)ということだが、この位置は千代田城の天守跡からほぼ正確に真北の方角にあたる。おそらく田端でも、彼女は細々と「神通力」を発揮しつづけていたのではないかと思われるが、それから「田端の神様」が出現することはなかった。
 また、巣鴨庚申塚660番地の「至誠殿」があったとみられる跡地には、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」を参照すると、「星道会」という宗教団体らしい名称の本部が置かれている。これが、大正期の後半から昭和初期にかけ山田勝太郎が主宰していた「巣鴨の神様」の、のちの姿ではないか……と想像がふくらむ。
 「至誠殿」跡の取材では、地元で生まれ育った庚申塚大日堂(山田夫妻宅に隣接)の方に、山田つるや「至誠殿」のことをうかがってみたが、大正末の「星道会」も含めてすでにご存じではなかった。庚申塚の地元では、「巣鴨の神様」の山田つるも「星道会」の建物も、戦争前後には早々に忘れ去られたようだ。
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中村彝と岡崎キイ2.jpg
 1916年(大正5)の夏、東京各地ではコレラが大流行していた。山田つるのもとへは、コレラの患者も訪れたらしく、コレラ菌を殺す祈祷なども行われていたようだ。結核よりもはるかに症状が激烈な、体内のコレラ菌を殺せて快癒させられるなら、中村彝の体内に巣くう結核菌などたちどころに殺せるのではないか……と、大江戸の「コロリ」時代の安政期生まれだった岡崎キイが考えたとしても、無理からぬことだったかもしれない。
                                <了>

◆写真上:「至誠殿」があったとみられる場所へ向かう、大正時代からつづく道。中村彝も岡崎キイに連れられて、この道を「至誠殿」まで歩いたのだろう。
◆写真中上は、1918年(大正7)に出版された竹齋山人『仙神伝授魔法神通力』(太卜出版)と山田つるの解説ページ。は、熱心な「巣鴨の神様」信者だった小山内薫()と、山田つるに難聴を治してもらった岡田三郎助()。
◆写真中下上左は、1921年(大正10)発行の「婦人世界」1月号に掲載された石橋臥波『女神様列伝』。ちなみに「巣鴨の神様」は巫女であり、ときに不治の患者や下層階級を慰める「女神」だが、逮捕された「池袋の神様」こと岸本加賀美は占い師であり男性だ。上右は、「至誠殿」についての証言が語られた1961年(昭和36)出版の戸塚康二『対談日本新劇史』(早川書房版)。は、奉納新劇や奉納踊りの様子を伝える1916年(大正5)9月10日発行の読売新聞。は、「至誠殿」周囲の現状。
◆写真下は、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」に掲載された「星道会本部」(星道会館)。なお、赤い点線で囲んだ鳥居マークは庚申塚大日堂(寺院)で「卍」マークが正しい。は、アトリエのテラスに座る岡崎キイと病臥する中村彝。

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