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グワッシュへ夢中になった川口軌外。 [気になる下落合]

川口軌外邸応接間.jpg
 画家が作品の制作過程を公開して、こと細かに解説するのはめずらしい。戦時中の1943年(昭和18)に独立美術協会Click!を脱退し、戦後は国画会の会員となった川口軌外Click!は、1951年(昭和26)の冬に一ノ坂上にある下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)のアトリエClick!を訪問した「美術手帖」の記者に、描きはじめのクロッキーから完成したタブローまで、実際の画面を見せながら細かく解説している。
 描かれたモチーフは、同年8月に江ノ島海岸へ海水浴にきていた人々、つまり海辺の群像をクロッキー風のスケッチとして記録したものがベースになっている。当時の川口軌外は、キュビズムから発展した独自の構成表現(アブストラクション)へと進んでおり、描画の手法も使い勝手がめんどうな油絵の具から、制作リードタイムが短くてすむグワッシュ(不透明水彩)を多用するようになっていた。また、タイトルにも具体的なネームはいっさいつけず、ただ単に『作品』とだけ呼ぶケースがこの時期に急増している。
 川口は、グワッシュを好んで使うようになった理由を、次のように説明している。1952年(昭和27)発行の「美術手帖」2月号・No.53(美術出版社)に掲載された、川口軌外「作品―質問に答えて―」から引用してみよう。
  
 グワッシュは水彩と同じ様に水でといて使用するので、大変乾燥が早いんです。従って、油絵よりずっと短時日に絵のマチエール(絵の具のつき具合の効果)がたやすく出来るということ、もう一つはグワッシュは非常に色が鮮明で強く、しかも不変色です。油絵ですと、色の上に色を重ねたい時には、長いこと下の色が乾くのを待たなければならない。長期間の制作中、ずっと最初からの感動を持ちつづけることは中々むずかしいことです。その点、グワッシュだと好都合です。色の上へすぐ色を重ねても混濁しませんし、しかも下の色を完全に隠します。私のこの絵もとりかかってから二日で出来上りました。これが油絵だったらどうしても数十日かかってしまいます。
  
 「この絵」とは、先の江ノ島海岸における群像のクロッキーからおこした、川口軌外『作品』(1951年)のことだ。東京画廊で開かれた個展に出品された『作品』だが、モノクロ写真で色味はわからないけれど、同時期に描かれた同じ表現のタブローを参照すると、おしなべて暗めの色調でブルー系やイエロー系、オレンジ系、ブラックなどの絵の具を用いた画面ではなかっただろうか。
 川口軌外が独立美術協会時代に描いた、有名な『花束』(1933年)や『少女と貝殻』(1934年)など油絵の特長を最大限に活かした、どこかシャガールを想起させるこってりとした作品に比べると、あまりにあっさりしすぎた画面に変貌していて、戦前からのファンはかなりの違和感をおぼえたのではないだろうか。また事実、そのような声がファンからも多く寄せられたものか、「グワッシュは僕の転換期なのです。去年から転換しようと思ってもとには戻らないけど、難しいですね。大体僕は始めから構成的な仕事をしていたから、僕としては自然なんですが……」と、川口は制作姿勢が以前とまったく変わっていないことを強調している。
川口軌外「花束」1933.jpg
川口軌外「少女と貝殻」1934.jpg
第二文化村坂1.jpg
川口軌外アトリエ跡.JPG
 また、記者の質問に答えて、自身の制作姿勢を次のように語っている。
  
 ナチュールな(自然な)スケッチだけでは、私の場合、タブロー(絵画)にならないのです。タブローにするためにはデッサンの構成を、ナチュールから開放(ママ:解放)してしまいます。つまり、海水浴場のスケッチをもとにして、アトリエでデッサンし直してだんだん構成していきます。/ことに色彩の場合は色と色とのコントラストのために構成を変えていかねばならない、ものをとり去ったり加えたりします。従ってもとのスケッチからは遠ざかりますが、最後まで最初の画因はなくならない。而し他の場合この画因ということはナチュールからスケッチした場合もあり、また記憶の場合もあり、偶発の場合もあります、このときの自然からの感情を如何に描き表すかは最も大切なことで、どんなに偶発の場合であっても絵画のもつ真実を失ってはならない、それは形象のことではなく画の感じ、この感じこそ芸術と言えましょう。
  
 そして、画面の色彩は画家の個性によって決定され、自然の形象自体が解放されて構成されるのと同様に、色彩も色の明暗や対比、量感などすべて画家の研究成果であり、自由に変えられるのはなんら不自然ではないと結んでいる。
川口軌外画道具.jpg
川口軌外絵の具箱.jpg
川口軌外グワッシュ制作.jpg
 では、実際にタブローが仕上がるまでの、制作プロセスを順ぐりに見てみよう。
 江ノ島海岸へ出かけ、スケッチブックに数多くのクロッキーを描いた群像の1枚。1枚に5~6分かかるが、制作上での貴重なメモになるといい、川口はボナールがよくこのようなメモ風のスケッチを多く描いていたと語っている。
 帰宅後に、アトリエで素描を再構成したもの。グワッシュのセピアを水でといてインクをつくり、ケント紙に事務用ペンでいきなり描いていく。素描の重要性を強調し、マチスやピカソが素晴らしいのは結局デッサン力の高さだと語っている。
 素描をもとに、6号のキャンバスに油絵の具でエチュード(習作)を描き、さらに構成を深めていく。さまざまなインスピレーションが生じて、左上や左下の三角形は全体の画面を引き締めるため、自然に構成されたものだという。人物のフォルムが、素描から大きく変化しているのがわかる。地色がイエロー系、人体がおもにオレンジ系、ブルー系やブラックが配色される。
 人体がますますフォルムを変え、のクロッキーからはかけ離れた画面になっている。グワッシュで描かれた画面は、油彩のエチュードに比べて密度が格段に増し、半日ほどで描き進められた制作途中のタブロー。
 あと1日を費やして完成したタブローで、川口軌外『作品』(1951年)。
 川口軌外は、当時の作品を20年前、つまり留学時代にフランスで買ったグワッシュを用いて描いていると語っている。チューブは腐り、中身が固まってしまったのを、いちいち細かく砕いてから水に溶いて使用していたようだ。それでも色味は昔のままの鮮やかさで、まったく変色はしていなかったらしい。
 戦時中、統制で油絵の具が容易に入手できなくなり、川口軌外は留学中に購入しておいた20年前のグワッシュを取りだして、少しずつ研究を重ねていたのかもしれない。その成果が、戦後になって一気に表出したものだろうか。
川口軌外「作品」①.jpg 川口軌外「作品」②.jpg
川口軌外「作品」③.jpg 川口軌外「作品」④.jpg
川口軌外「作品」⑤1951.jpg 川口軌外「作品」1954頃.jpg
 グワッシュは固まるのが早いので、戦後間もない時期という事情もあったろうが、当時は画材店でも扱っているところが少なかった。せっかく輸入しても、店頭へ並べたまま中身が固まってしまい、売り物にならなくなるリスクを避けたせいなのだろう。

◆写真上:川口軌外邸の応接間で、左手の壁に『花束』(1933年)が見えている。
◆写真中上は、独立美術協会時代に制作された1933年(昭和8)の『花束』()と1934年(昭和9)の『少女と貝殻』()。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合4丁目1995番地の川口軌外アトリエ。「火保図」はここでも、川口邸を「川田」邸と誤採取している。は、川口軌外アトリエの現状。
◆写真中下は、川口軌外のパレットとルフラン製およびレンブラン製の絵筆。は、大正の初めごろ文房堂で購入し使いつづけていた絵の具箱。絵の具は国産は使わず、すべてルフラン製などのフランス産。は、グワッシュで制作中の川口軌外。30度ほどの角度がつけられた、グワッシュ専用の手製イーゼルを用いている。
◆写真下:1951年(昭和26)制作の『作品(江ノ島海岸)』が、タブローになるまでの制作プロセス右下は、1954年(昭和29)ごろに制作された『作品』。

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松本竣介の「世界」とコンフォーミズム。 [気になる下落合]

松本竣介アトリエ.JPG
 この11月24日で、拙ブログは15年目を迎えました。これまで、のべ1,623万人の皆さまにお読みいただき、またさまざな方々より貴重な情報や資料をお寄せいただき、ほんとうにありがとうございました。改めて、心よりお礼申し上げます。
  
 2003年(平成15)に響文社から出版された柴橋伴夫『青のフーガ難波田龍起』には、目白中学校Click!について1909年(明治42)に創立された「当時は、細川護立の屋敷の内にあった」と書かれているが、同年の地図を参照しても創立当初から、落合村下落合437番地に「文」の記号とともに同中学校が採取されている。おそらく、目白中学校の計画中に文部省へ登録した学校法人としての登記所在地が、小石川区高田老松町63~65番地とされていたのだろう。
 同書では、洋画家・難波田龍起Click!が目白中学校の美術教師・清水七太郎Click!に絵を習った様子が書かれているが、難波田の父である難波田憲欽もまた、同校で木下利玄や金田一京助Click!らとともに教師をしていた。難波田憲欽は習字を教えたり、舎監をつとめたりしていたようだが、もちろん清水七太郎Click!とも親しかったろう。ひょっとすると、清水家と難波田家は家族ぐるみのつき合いをしていたのかもしれない。なぜなら、難波田龍起が目白中学校を卒業したあとも、清水七太郎と交流をつづけていたニュアンスが、松本竣介Click!が発行していた「雑記帳」Click!の誌上でも感じとれるからだ。
 1937年(昭和12)に下落合4丁目2096番地(松本竣介アトリエClick!)の綜合工房Click!から発行された、本号が終刊号となる「雑記帳」12月号には、清水七太郎が『大正初期の洋画界』、難波田龍起が『文化序説』という文章を寄せている。おそらく、古い時代の東京美術学校Click!と当時の画壇の様子を知悉していた清水七太郎に、難波田が声をかけて執筆を依頼しているのだろう。難波田は、清水七太郎を松本竣介ないしは禎子夫人に紹介しているのかもしれない。同号には小熊秀雄Click!をはじめ、高村光太郎Click!三岸節子Click!福澤一郎Click!佐伯米子Click!など多彩な顔ぶれが文や絵を寄せ、翻訳ものではO.ヘンリーとC.マンスフィールドの短編が紹介されている。
 ちょうど同号が編集されている1937年(昭和12)秋の綜合工房、すなわち松本竣介アトリエへ特高Click!の刑事が訪れている。おそらく、同年7月に勃発した日中戦争を意識して書いているのだろう、「雑記帳」9月号に「動くこの生活の中に、どのやうに非合理的なものが強行されようとも、又驚くべき欺瞞が眼の前で演ぜられようとも、知らぬ顔をしてゐる、いや感じない修練こそ伝統的処生(ママ:世)の秘法であつた。底の抜けた謙譲さはかうして作られたのであらう」(1937年8月記)と、遠まわしながら反戦を感じさせる批判的な文章を書いたのがひっかかったのかもしれない。なにやら、現在の政治や社会状況でも通用しそうな文章だが、お茶を出して気をもむ禎子夫人をよそに、しばらく松本竣介と筆談を交わしたあと、特高の刑事はそのまま引きあげていった。
 松本竣介が、1930年代から40年代にかけて急激に進む日本のファッショ化や、戦時中の軍国主義に抗した文章として取りあげられるのは、前述の「雑記帳」9月号に掲載された『真剣な喜劇』と、日米開戦が目前に迫った1941年(昭和16)、即日発禁処分となった石川達三Click!の『生きてゐる兵隊』(1938年)をもじった、「みづゑ」4月号に寄せている『生きてゐる画家』が挙げられる。だが、当時の政府当局や軍部をより痛烈に批判する文章は、実質的な終刊号となった「雑記帳」12月号に掲載された、松本竣介『コンフオルミズム』ではないだろうか。
柴橋伴夫「青のフーガ難波田龍起」2003.jpg 雑記帳193709.jpg
清水七太郎1922.jpg 難波田龍起1932.jpg
 『コンフオルミズム』は、同年の「雑記帳」10月号にアンドレ・ジイドについて触れた、エッセイ『孤独』のつづきのような体裁をとってはいるが、松本はジイド『ソヴェト紀行』の評論を装いつつ、ファシズムあるいは軍国主義への流れが一気に加速する、日本人のコンフォーミズム(画一主義・順応主義)について徹底した批判を繰り広げているように、どうしても読めてしまうのだ。
 小松清・訳のジイド『ソヴェト紀行』(岩波書店)では、その取材で「自然に生ひ立つて行く」革命後の民衆の「体温」に接することができず、「冷ややかな政治の感触」のみを感じて嫌悪や怒りをおぼえた……という箇所をクローズアップしている。1937年(昭和12)の「雑記帳」12月号(松本竣介は続刊のつもりだったが結果的には終刊号)より、松本竣介『コンフオルミズム』の出だしから引用してみよう。
  
 ジイドのこの怒りを頑な心に託けたり、ジイドのソヴエトに対する認識の誤りから来た幻滅の怒りといふものがあるとすれば、それは彼の想ひとは大きな距離に立つてゐる人だ。何故なば、旅行記はジイドがソヴエトだけに書き送つたものと解すべきではない。凡ての人々に尋ねてゐる感懐ではないか。/*/この旅行記を終りまで赤面せずに読み了へ〇(欠字:る)ことの出来る政治家が【世界】に一人でもゐるかを考へて見るがいゝ。----赤面しない人は大勢あるだらう、それは判読できぬものと、人々の幸福をわれわれとはれ(ママ)はるかに違つて考へてゐる人である。----/*/封建的な美徳への非難は、画一や、順応の中に含まれる欺瞞への厭悪であつて、単なる古いものに対する新しいものゝ態度ではない。正しい判断の自由が一般の人々の所有になつて、正しさの意義が広まり、人々の生活には入つて来たことを意味してゐる。/それはそだてゝゆくもので、妨げることは現代に於ける最大の悪徳であると思ふのだ。(カッコ内および【 】引用者註)
  
 革命から約20年がたった1936年(昭和11)、ジイドが訪れたソ連はレーニンの歿後12年、スターリンによる「大粛清」のまっ最中であり、その独裁的な政治体制と個人崇拝、いわゆるスターリニズムClick!(スターリン主義)の傾向が顕著になりつつあっただろう。
コンフオルミズム挿画1.jpg
雑記帳193712.jpg みづゑ194104.jpg
コンフオルミズム挿画2.jpg
 「冷ややかな政治の感触」は、単なる旅行者だったジイドにも強く感じとれるほどであり、政敵を次々と抹殺していった独裁者スターリンを頂点とする官僚主義的なヒエラルキーと恐怖政治が、すでに強固で揺るぎないものになりつつあった。この官僚・テクノクラートらによる独裁的な全体主義は、その後、組織の腐敗や事業の停滞の温床となり、ジイドが夢みた国家とはかけ離れた姿となり果てて、革命から74年で崩壊を迎えることになる。『ソヴェト紀行』を書いてから、わずか55年後にソ連という連邦国家が崩壊・滅亡するとは、ジイド自身も考えてもみなかったろう。
 つづけて、松本竣介の『コンフオルミズム』から引用してみよう。
  
 人々の生活は多くの宗教を持つてゐる、倫理もあつた、人情の如何なものであるかもよく感じてゐる。それらは美しいものを齎してくれた。だが巧みな策謀の前には神の自尊まで高められるとともに、奴隷以下の境遇をさへ与へられる弱点をもつくつた。/かうした中に、人々とひろく共感するものゝ生れ出ることは望めない。/*/コンフオルミズムが心からの協同を意味されるためには一切のものがわれわれと共にある時をつくらなければならない。/理知性は今ごく尠かな人々のそのうちにだけしか保たれてゐない。【世界】が理性をもつこと、これが僕の願ひだ。(【 】引用者註)
  
 ふたつの引用文の中で、「世界に一人でもゐるか」と「世界が理性をもつこと」の「世界」を【 】でくくってみた。この【世界】をあえて【日本】と読みかえてみると、当時の日本の政治や社会状況にピタリと重なることに気づく方も多いはずだ。
 1937年(昭和12)は、第1次近衛文麿Click!内閣が「国民精神総動員運動」を発動した年であり、松本竣介がこの文章を書いていた同年秋には、議会で「八紘一宇」「挙国一致」「堅忍持久」の3つのスローガンClick!が叫ばれていた。国策のために、国民が進んで犠牲になる「滅私奉公」思想のもと、戦争遂行へ無理やり協力させようとする強制的な策動だった。そこには、「心からの協同を意味」するコンフォーミズムなど存在せず、国策や戦争に反対する人々は思想や宗教を問わず、「アカ」のレッテルを貼りつけて続々と監獄へ送りこみ、非協力的な人間は「非国民」として恫喝し抑圧・疎外する、「奴隷以下の境遇をさへ与へられる弱点」が現実のものになっていく。
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 このときから、大日本帝国は坂道を転げ落ちるようにファッショ化と軍国主義化を深め、わずか8年後の1945年(昭和20)に破滅、自ら「亡国」状況を招来することになった。松本竣介は、【世界】と書いて国家主体をボカしているが、ジイドに絡め一般論的な論旨に仮託しつつ、もっとも書きたかったのは【日本】という文字ではなかっただろうか。

◆写真上:下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の、松本竣介アトリエ跡の現状。
◆写真中上上左は、2003年(平成15)に出版された柴橋伴夫『青のフーガ難波田龍起』(響文社)。上右は、松本竣介が主宰する綜合工房から1937年(昭和12)に刊行された「雑記帳」9月号。下左は、1922年(大正11)に目白中学校で撮影された美術教師・清水七太郎。下右は、1932年(昭和7)に撮影された難波田龍起。
◆写真中下は、1937年(昭和12)の「雑記帳」12月号に掲載された松本竣介のエッセイ『コンフオルミズム』の挿画。中左は、『コンフオルミズム』が掲載された1937年(昭和12)の「雑記帳」12月号。中右は、松本竣介の『生きてゐる画家』が掲載された1941年(昭和16)発行の「みづゑ」4月号。
◆写真下は、同じく松本竣介『コンフオルミズム』の挿画。は、アトリエに置かれた書棚の前で1940年(昭和15)に撮影された松本竣介。

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1926年(大正15)9月1日の新聞広告。 [気になる下落合]

大黒葡萄酒1933.jpg
 大正期から昭和期にかけ、人々はどのような広告を目にしていたのか、これまで多種多様なメディアの広告をご紹介してきた。たとえば、大正期を代表する児童雑誌「赤い鳥」Click!に掲載の広告をはじめ、地域誌(たとえば『高田村誌』Click!『落合町誌』Click!)の広告、主婦向けの雑誌広告Click!、スポーツ広告Click!、グラフ誌の広告Click!、共産党の機関誌「戦旗」Click!の広告、新聞各紙の広告Click!、敗戦後まもない時期の広告類Click!、そして商品テーマごと(たとえば石鹸Click!ディベロッパーClick!牛乳Click!)など、さまざまな時代の世相を映す広告表現について取りあげてきた。
 本記事でご紹介する媒体広告も、当時の世相や風俗を知るうえでは面白い素材だろう。1926年(大正15)9月1日に発行された東京朝日新聞の、1面すべてを使って掲載された6社の広告だ。しかも、広告主の社名が伏字になって、それを当てるクイズ形式になっているのがめずらしい。モデルを起用した写真やイラストが中心の表現で、当時としては“流行り”で先端のグラフィック表現だったのだろう。では、1社ずつ見ていこう。
甲斐産商店.jpg
 召せ……………/純国産品の権威/大黒葡萄酒を
 葡萄天然の美味を保有し/優越なる滋養量と/然も経済にも適合せる
 キット皆様に/御満足をさゝげます
 東京市外下落合一〇  甲〇産〇店
 いわずと知れた、下落合10番地に壜詰工場Click!があった大黒葡萄酒Click!の広告で、社名は「甲斐産商店」が正解だ。どこか女給さんのような、派手な着物を着た女性がグラス片手にニッコリしているのは、この手の広告にありがちなビジュアルなのだけれど、コピーの日本語が不自由で明らかにまちがっている。
 この当時、専門のグラフィックデザイナーはもちろんコピーライターも存在せず、企業の広報部や役員自身が広告の文案を考えるのがあたりまえの時代だった。だから、中には表現や用法がおかしく、文章の主体や客体がクルクル入れ替わる、文脈の通らないコピーが少なからず存在している。
二輪屋株式会社.jpg
 米車/インデアンの/―特徴―/品質堅牢・優美・頗る経済的にして
 重量車 大チーフ型 (プリンセスサイドカー附)
 中量車 スカウト型 (軽量車プリンス型)
 何もインデアン独特の電気装置完備し価格最も勉強也
 東京四谷東信濃町  二〇屋〇式〇社
 現在でも販売されている、バイクマニアなら一度は乗りたいインディアン・モーターサイクル社のオートバイ広告だ。なぜか三つ揃えのスーツを着たヘンリー・フォンダ似の男が、プリンセスサイドカー(?)へ厚化粧した竹内結子みたいな女性を乗せて走っている。いや、女性に身体を左へ傾けさせ、カーブを疾走しているように見せかけて、実は停車して撮影しているのだろう。
 大正末の当時、米国インディアン社のバイクを買えるのは、よほどの高給とりかおカネ持ちに限られており、庶民にはまったく手がとどかなかった。クルマの普及はかなり早かったが、バイクはなかなか一般家庭には普及せず、各地でバイクレースを開催するなど、イベントを通じたプロモーションが盛んに実施されていた。日本におけるインディアンを輸入していた代理店の社名は、「二輪屋株式会社」だろう。
講談社.jpg
 日本人にシツクリ合つた/趣味の雑誌/『講談倶楽部』
 円満平和の家庭に/必ずこの雑誌あり
 東京本郷  講〇社
 怒ると八重歯が伸びそうでちょっと怖い、いまの東京都知事(2018年現在)の若いころのような顔をしたモデルが、派手な縞柄の普段着姿でニッコリする、家庭の主婦をターゲットにした「講談倶楽部」の広告だ。当時のモダンな文化住宅で流行った、縞柄の壁紙やテーブルクロスが写っているが、縞柄の着物に縞の壁紙がとても野暮ったくて、現代のスタイリストやカメラマンなら絶対にコーディネートしない組み合わせだろう。誌名に答えがのぞいているが、もちろん社名は「講談社」だ。
合同蓄音機株式会社.jpg
 針の運びを止めて
 〇〇ちやん八重歯で/プツリと糸を………/うつとりと聴き惚れる
 最高級蓄音器/ライオン三号 ¥70,00
 レコードは/新進の紹介 曲種の最新/技術の優秀 実演其儘の
 ヒコーキレコード/九月新音譜発売/お買上げは最寄の蓄音器店へ
 東京銀座  合〇蓄〇器〇式〇社
 できるだけモダンな広告をつくろうと、各社が表現に工夫を凝らしている中で、なんだか江戸時代にもどってしまったのがレコードと蓄音器の広告だ。まるで芸妓のような女性が、裁縫をしながら歯で糸を切ろうとしているその刹那、レコードに聴き入って動きを止めた瞬間……というシチュエーションらしい。なぜ、このような表現なのかというと、当時のリスナーにもっとも売れていたのが洋楽でも歌謡曲でもなく、三味Click!をバックにした小唄や長唄、××節などお座敷唄のレコード類だったからだ。
 当時は、オーディオ装置Click!とディスクの販売がいまだ分離しておらず、レコードが蓄音器屋で売られていたのがわかる。ちなみに大正末の70円は、今日の給与換算指標に照らすと18万円ほどになる。クイズの社名は、「合同蓄音器株式会社」だろう。
フロー製薬合資会社.jpg
 復方チレオイン錠/若さ美しさの精
 東京市四谷見付外  フ〇―製〇合〇会〇
 このクイズ広告シリーズでは、もっとも短いキャッチコピーだ。それほど、大正末には有名な“若返り”の薬剤だったらしい。「復方」と書かれているので漢方薬っぽいが、牛の甲状腺からつくる「特殊製剤」だったようだ。効能も多岐にわたり老耄症・早発性老衰症や神経衰弱・ヒステリー、性欲衰弱、生殖器発育・官能不全、乳汁分泌不全、血圧亢進症、動脈硬化、貧血性諸症、鬱血症、喘息、新陳代謝機能障害……と、いわゆる「血の道」の病気と呼ばれる症状に効果があったらしい。
 南風洋子風のモダン髪の女性が、もの憂げにジトッと湿った眼差しをあらぬ方角へ向けているのが、なんとなく思わせぶりで艶っぽい広告なのだ。今日のキャッチフレーズでいえば、「強い男が好き!/みなぎる活力」とか「男の自信がV字回復」とか、「すごいわ……/男の自信を取りもどせ!」といった広告と同類の、大正時代のアンチエイジング薬または精力剤だったのだろう。社名は、「フロー製薬合資会社」だと思われる。
日米商店.jpg
 破天荒廉価提供/ラーヂオートバイ/世界唯一/四バルブ/四スピード
 廿五年来/盛名斯界に冠たる/ラージ自転車 (イラスト+ロゴマーク)
 東京銀座  日〇商〇   支店/大阪、名古屋、福岡、京城、台北
 6社の広告の中では、イラストやロゴマークを大きくあしらった広告らしい広告だろう。当時、バイクは一般家庭への浸透が遅れていたが、自転車は大正後半から爆発的に普及しだしている。「四バルブ/四スピード」とは、4気筒でギアが4変速ということだ。今日の大型バイク(リターン式)では7変速が一般的だが、当時は4変速が最先端の技術だった。自転車は、今日の仕様やデザインとほとんど変わらず(ただし変速ギアは未装備)、女性でも手軽に乗れるよう軽量化が進められている。
 この広告が秀逸なのは、イラストでターゲットと製品の用途・事例を具体的に描き分けているところだ。自転車は、工具をかついで現場に通う職人、通学の女学生、郵便配達員、クラブを背負って趣味のゴルフに出かける休日のサラリーマンが描かれている。また、バイクはサイドカーに恋人を乗せたデート中とみられる男と、サイドカーへ子供を乗せた主婦が描かれ、具体的な利用イメージが顧客へストレートに伝わるよう表現されている。クイズの社名は、ロゴマークの中に「NICHIBEI SHOTEN LTD」と答えが出てしまっているが、「日米商店」が正解だ。
東京朝日新聞19260902.jpg
 さて、佐伯祐三Click!米子夫人Click!は、1926年(大正15)9月1日の新聞広告を、おそらくウキウキ気分で眺めていたにちがいない。なぜなら、滞欧作が夫婦そろって二科展に入選(8月末に内定)しており、この日は東京朝日新聞の記者やカメラマンが来訪して、アトリエで記者会見Click!が予定されていたからだ。そして、翌9月2日の同紙には一家の写真とともに、「夫婦一緒に入選/佐伯祐三氏夫妻の喜び」の見出しで報じられている。

◆写真上:1933年(昭和8)に飛行機から撮影された、雑司ヶ谷道Click!添いの下落合10番地にあった甲斐産商店「大黒葡萄酒」の壜詰工場。画面下の細長い屋根群が工場で、目白貨物駅に着いた樽詰めワインをここでボトルに詰めて東京市場へ出荷していた。左上に見えている緑の斜面は、学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)。
◆写真中:1926年(大正15)9月1日発行の、東京朝日新聞に掲載されたクイズ広告。
◆写真下:1926年(大正15)9月2日発行の、東京朝日新聞に掲載された佐伯夫妻の二科展入選(佐伯祐三×18点、佐伯米子×2点)を伝える記事。

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幻の「目白工学校」のゆくえ。 [気になる下落合]

東京朝日19260211.jpg
 下落合の目白通り沿いには、大正末に「目白工学校」という理系の専門学校が存在したらしい。「らしい」のまま断定的に書けないのは、目白工学校の実態がまったく把握できないからだ。いくら地元の資料や地図類を参照しても、「目白工学校」というネームは発見できない。同校の電話番号は「牛込一五一八番」なのだが、この電話は下落合437番地に開校していた目白中学校Click!の番号とまったく同一なのだ。
 目白工学校の生徒募集は、1926年(大正15)2月11日の東京朝日新聞に掲載されている。募集要項によれば、「予科約二百名募集」で「本科建築高等科各百名募集」の、つごう約400名の生徒を集める予定だった。試験日のスケジュールはなく、「三月十五日始業」と書かれているので、応募すれば誰でも無試験で入学できたらしい。問い合わせ先は、「牛込一五一八番」となっている。
 この募集広告の右隣りには、同じ枠内に目白中学校Click!の募集広告が掲載されていて、「一年約二百名」を募集しており、試験日は「三月三十日」と指定している。また、2年生と3年生の補欠生徒も「若干名」募集しており、試験日は「三月廿七、八日」としている。そして、問い合わせの電話は、共通で「牛込一五一八番」だ。(冒頭写真) この電話番号は、電話が普及しはじめた明治末から一貫して、目白中学校Click!の事務局に通じる連絡先だったはずだ。これはいったい、どういうことだろうか?
 たとえば、目白中学校が明治期に出稿した、早い時期の生徒募集広告を参照してみよう。1909年(明治42)3月20日の、東京朝日新聞に掲載された広告だ。
  
 私立 目白中学校 生徒募集
 第一学年(尋常小学卒業者は無試験) 〇願の者は寄宿を許す
 東京府豊多摩郡落合村目白停車場附近 〇電話番町一五一八番
  
 いまだ明治期なので牛込電話局が存在せず、電話は少し離れた番町局扱いになっているが、電話番号は当初より「一五一八番」だった。つまり、大正末には存在したとみられる目白工学校は、目白中学校とまったく同一の場所にあり、同じ事務局を共有していた、つまり学校業務を共有していた……と考えざるをえないのだ。
 1926年(大正15)2月11日の東京朝日新聞に掲載された、目白工学校の生徒募集広告では応募者が集まらなかったのか、同年3月11日に再び同紙上に募集広告を出している。ただし、目白中学校はすでに応募者数を満たしたのか、募集広告を出稿していない。以下、目白工学校の募集広告全文を引用してみよう。
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 目白工学校
 予科約二百名募集/本科建築高等科/各百名募集/三月十五日始業
 ◎東京市外目白駅上 ◎電話牛込一五一八番
  
 始業式を3月15日にひかえ、3月11日になっても生徒が集まらずに、焦って募集を繰り返していた様子がうかがわれる。
 1926年(大正15)春という時期は、目白中学校が下落合から上練馬村高松2305番地Click!へ移転する直前であり、山手線沿いの至便な立地から、交通が不便で通いにくいキャンパスへ変わるという計画は、同年に目白中学校へ入学した生徒たちも承知していただろう。その高いネームバリューから、なんとか生徒の定員は確保できたようだが、応募者数は大きく落ちこんでいた可能性が高い。
 目白中学校の経営陣は、上練馬村への移転とともに生徒数が漸減するのを予想し、大正末に新たな専門学校として目白工学校を創立しているのではないだろうか。そして、減った生徒数を目白工学校の生徒数で埋め、目白中学校の校舎を同校と新たに設置を予定している目白工学校とで、共有利用しようとしたのではなかったか。
 なぜなら、1926年(大正15)の初夏に地鎮祭が行われた上練馬村高松のキャンパスには、校舎を新たに建設するのではなく、下落合にあった目白中学校の校舎を、そのまま移築して使用する計画だったからだ。目白中学校の生徒が減れば、校舎は空き教室だらけになってしまうので、新たに目白工学校を立ち上げて生徒数を補い、従来と同様に安定した経営をつづけようとしていた……、そんな経営者の思惑が透けて見えそうだ。
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 1926年(大正15)秋に上練馬村高松2305番地へ移転した直後、1927年(昭和2)3月26日の東京朝日新聞に掲載された目白中学校の募集広告を引用しよう。
  
 目白中学校 生徒募集
 ◎第一学年 (四月六日入学試験) 試験科目 (国語、算数)
 ◎第二、第三学年補欠若干名 (三月廿八、廿九日入学試験)
 府下/上練馬村高松/武蔵野線中村橋下車八丁
  
 明治期から生徒募集広告ではおなじみだった、「一五一八番」の電話番号が記されていない。このあと、目白中学校は人気が急落し、生徒数が減りつづけることになる。そして、1934年(昭和9)にはついに全学年で生徒数65名にまで落ちこんでしまった。
 大正末に生徒を募集していた目白工学校だが、目白中学校が上練馬村高松へと移転した1926年(大正15)の秋以降、パッタリとその校名を見かけなくなってしまう。翌1927年(昭和2)に、新聞紙上に現れた募集広告は上掲のように目白中学校のみで、目白工学校の募集広告は見かけない。おそらく、目白中学校の経営陣の思惑が外れ、生徒がほとんど集まらなかったのではないだろうか。
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 うがった見方をすれば、新たに創立した目白工学校は、「目白」で生徒をできるだけ募集して人数をそろえ、当初は下落合の校舎で授業を行いつつ、半年後には上練馬村へ移転したあとも「目白工学校」を名のりたかったのではないだろうか。しかし、応募してくるはずの生徒たちは、目前に迫る目白中学校の練馬移転を知っていたため、入学希望者がほとんどなかったように思われるのだ。

◆写真上:1926年(大正15)2月11日発行の東京朝日新聞に掲載された、目白中学校と目白工学校の同時募集広告で、電話番号が共用な点に留意したい。
◆写真中上は、目白通りに面した下落合437番地の目白中学校。は、1909年(明治42)3月24日発行の東京朝日新聞に掲載された目白中学校の募集広告。は、目白中学校の跡地から目白通りを眺めた現状で正面は下落合523番地の目白聖公会。
◆写真中下は、1926年(大正15)3月11日発行の同紙に掲載された目白工学校の生徒募集広告。は、1926年(大正15)の夏に行われた上練馬村高松キャンパスの地鎮祭。は、上練馬へ移転後の目白中学校と東京同文書院Click!の正門と本館。
◆写真下は、上練馬村高松2305番地へ移転後の目白中学校正門。は、近隣から見た上練馬高松キャンパスの遠景。は、上練馬へ移転したあと1927年(昭和2)3月26日発行の東京朝日新聞に掲載された目白中学校の生徒募集広告。

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下落合の事件簿「さまざま」編。 [気になる下落合]

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 1890年(明治23)1月に新島襄が大磯Click!で死去すると、妻の新島八重は夫の終焉地となった大磯の風光が気に入ったのか、大磯町神明前906番地外に土地を購入している。避寒・避暑Click!の別荘にするつもりだったのか、それとも歳をとってからの隠居邸でも建てる計画だったのかは不明だが、国道1号線へ通じる「佐土原さんの坂」上から眺める相模湾の風情に惹かれたのだろう。
 神明前906番地外は、ちょうど大磯駅近くの南東側に位置する森の中で、現在では「パンの蔵」が開店している北側あたりの敷地だ。1927年(昭和2)の夏、佐伯祐三Click!一家が借りてすごした、山王町418番地の別荘Click!へ向かう手前の位置にあたる。見晴らしのいいロケーション抜群の地所なのだが、八重夫人のその後の人生は多忙をきわめ、9年後の1899年(明治32)にはせっかく手に入れた大磯の土地を手放している。
 その地所を新島八重から購入したのが、下落合330番地に住んでいた華族(男爵)の箕作(みつくり)俊夫だった。旧・幕臣の家柄である箕作俊夫は、その地所に別荘を建て真夏と真冬に一家で保養がてら、下落合と大磯を往来していたのだろう。下落合330番地は、七曲坂Click!を上がりきった右手の敷地で、現在は落合中学校のグラウンドの下になってしまったとみられる。位置的には、七曲坂に面したグラウンド北側の一画だ。箕作俊夫は、1923年(大正12)1月に下落合で死去している。
 同年1月9日発行の、読売新聞の訃報記事から引用してみよう。
  
 箕作家の/当主逝く 下落合の自邸で
 箕作俊夫男(三五)は宿痾の腎臓炎を加療中の処八日午前十一時半市外下落合三三〇の自邸に夫人長江(前陸軍大臣大嶋大将長女)長男祥一(五つ)次男俊次(四つ)を残して逝去した
  
 文中の「前陸軍大臣大嶋大将」は、大嶋健一中将の誤りだ。これによれば、箕作家は箕作俊夫がいまだ11~12歳のころ、大磯の土地を俊夫名義で購入していることになる。箕作俊夫が死去してから、3年後に作成された「下落合事情明細図」には、すでに箕作邸は採取されておらず空き地表現になっている。
 ここで気になるのが、いまは落合中学校が建てられている大倉山(権兵衛山)Click!北側の、丘上に拡がる敷地一帯の課題だ。ここには明治期に、伊藤博文の別荘Click!が建てられていたという伝承が地元に根強く残っており、箕作邸の存在とともに、古い時代の華族別荘地の区画ではなかったか? ……というテーマが改めて浮上する。
 さて、事件・事故や犯罪は当時の世相・風俗を映す鏡といわれるけれど、このサイトでは落合地域で起きた多種多様な事件Click!をいままで取りあげてきた。大正初期まで、ほとんどのエリアが田園地帯だったせいか、事件の多くは宅地化が急速に進んだ大正中期以降に起きている。だが、中にはめずらしく明治期に起きた事件もある。1910年(明治43)3月19日発行の、読売新聞から引用してみよう。
  
 病牛火葬の紛擾/悪煙中野、落合を蔽ふ
 牛疫流行につれて病牛の撲殺日に日に盛に是等は悉く北豊島郡落合村の焼場にて火葬に附しつゝあるが一体同焼場は落合村にても窪地に在り之が煙突の如きも随分高いとは云ふものゝ北方に位する同村字上落合並に中野町字原は煙突と殆ど並行の高地に在りて風向が悪いと煙は横なぐりに吹附け村民の迷惑少からず最も人間の死体を焼いた煙は一度低い所に下り水を潜りてから出る様に装置しあれば左程臭気も甚しくないが豚や牛を焼いた煙は油切つた黒い煤を交へて其儘に吹出で黒い雨が降るかとばかり屋根と云はずベタ附き且つ悪臭鋭く鼻を衝くので村民も黙つて居られず前記二字の代表者二十名は落合村村長及び中野町長を先に十六日午後五時頃新宿署へ出頭して只管嘆願し容れられざれば警視庁迄出掛けると敦圉(いきま)きたるも署長の説諭にて一先退出し同夜新宿署長は現所を視察したる上病牛の火葬は夜間に行ふことと定めて無事落着したり
  
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 当時、落合村は豊多摩郡ではなく、いまだ北豊島郡に属していた。明治末の郊外には東京牧場Click!があちこちに開業しており、乳牛が伝染病にかかると感染を防ぐため殺処分にして、火葬にしていた様子がわかる。今日では考えられないが、人間と動物をいっしょの焼却炉で灰にしていたのだ。
 いま風にいえば、明らかに悪臭と煤塵をともなう煙害=“公害”事件が発生していたわけだが、当時は環境行政などないに等しいので、この手の苦情の取り締まりは警察にまかされていた。また、この記事からは、明治期の焼却炉の仕組みがわかって興味深い。死者を焼いた排煙は、一度貯水の“フィルター”を通して脱臭・脱塵したうえで、煙突から排出されるシステムだったのがわかる。
 大正後期になると、落合地域の各地で宅地開発が盛んになるが、大規模な工事現場の飯場(工事小屋)に常駐していた大工や石工、土工たちの間でいざこざ事件が多く報道されるようになる。以前、箱根土地による目白文化村Click!の大工たちによる傷害事件Click!をご紹介したが、今度は目白文化村の開発(整地作業)にたずさわっていた、土工たちによる暴力事件が発生している。しかも、のちに暴動に近いかたちで駐在所へ押しかけているのは、朝鮮半島から出稼ぎにきていた人々だ。
 第一文化村の開発が一段落し、1922年(大正11)6月20日から販売がスタートする直前の事件だった。同年6月5日発行の、読売新聞から引用してみよう。
  
 鮮人土方三十余名/駐在所を襲ふ 内十五名は淀橋署に引致取調中
 三日午前零時頃府下下落合村駐在所の弘田巡査が同村二〇三五不動園を警邏中同園内の工事小屋より女の悲鳴が聞えるところから駈付けたるに鮮人土方卅余名が一人の日本婦人を捕へて折檻して居るので取鎮めて説諭したところ鮮人等は何れも棍棒を携へ同巡査に打つてかゝつたので内三名を引致しやうとするや今度は三十余名が一団となつて駐在所を襲つたので此の旨淀橋署に急報本署より警官十数名出張の上啓仁義(廿六)京華澤(廿九)外十三名を引致して取調中
  
 記事中の地番表記が、またしてもおかしい。箱根土地本社Click!の庭園である「不動園」Click!は、本社ビルClick!とともに下落合1340番地にあり、下落合の西部地番である2035番地にはない。下落合2035番地は、アビラ村Click!にある刑部人アトリエClick!前の中ノ道(下の道)Click!をはさんだ南側にあたる島津家の敷地だ。ちなみに、「下落合村」は江戸時代の呼称であり、当時は落合村下落合が正しい。
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 さて、なんの理由もなく日本での仕事や賃金を棒にふってまで、いきなり交番を襲撃するとは思えないので、なにかと悪評の多い箱根土地(堤康次郎Click!)による雇用か給与に関する契約不履行への不満があったものか、あるいは工事小屋に出入りしていた賄い婦による、あからさまな差別に対する怒りでもあったのだろうか。新聞には続報が見あたらないので、その原因はいまだ不明のままだ。
 落合地域が住宅地化するにともない、昭和期に入ると東京市街地とさして変わらない悲惨で凶悪な事件が発生しはじめている。大正期までの落合地域は、ケガ人は出ても人が殺されるような事件はめったに起きなかったが、昭和期に入るとさっそく「ピス平事件」Click!が起きて、落合地域はじまって以来の大騒動となった。次の事件も、従来の落合地域では見られなかった事件だ。
 1930年(昭和5)2月2日発行の、読売新聞から引用してみよう。
  
 生活難の凶行か/下落合の幼児絞殺死体
 一日午前九時頃府下落合町字葛谷四三一御霊神社境内の密林中に年齢二、三歳位のメリンスの着物を着た男子の絞殺死体が横たはつてゐるのを通行人が発見所轄戸塚署に急報したので浅沼署長、山下警視刑事部から江口捜査課長、田多羅、中村両警部、吉川鑑識課長、万善警部、荒木医学士等現場に急行し千住行李詰事件の二男の死体ではないかとの疑ひで種々検視したが全く別箇のものであることが別(ママ:分)つたが犯人厳探に着手した/現場臨検の結果殺害したのは払暁一時ごろで二歳ではあるが生後五、六ヶ月と推定、栄養状態は良いけれども着衣から見て中流以下の家庭のもので生活難からの凶行とにらみ現場を中心に職人等下層階級を物色してゐるが死体は今二日午前十時東大法医学教室に送つて解剖に付する事になつた
  
 この記事では「葛谷」と記載されているが、正確には葛ヶ谷(のち西落合)だ。被害者が「二歳ではあるが生後五、六ヶ月」とは、数えの年齢表記だろう。嬰児の死体発見にしては、戸塚署の対応が署長が出動するなどかなり大仰だが、どうやら嬰児の遺棄死体に関連して、すでに「千住行李詰事件」というのが発生していたらしい。
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 大正期以前には、いまだ農村共同体としての“しばり”や密なコミュニケーションがあったせいか、「大事件」といっても水利争いClick!や畑地の境界線争い、火事・失火Click!、ケンカ、痴情のもつれによる傷害、窃盗Click!、空き巣……と、人命にかかわる重大犯罪はほとんど見られないが、昭和期に入ると一気に強盗や殺人といった凶悪犯罪が目立つようになり、落合地域とその周辺域では「都市型」事件が増えていくことになる。

◆写真上:左手の落合中学グラウンドに設置された青い金網あたりが、下落合330番地にあった箕作俊夫男爵邸の跡。その東側には、伊藤博文別荘の伝承が残っている。
◆写真中上は、1923年(大正12)1月9日発行の読売新聞に掲載された箕作俊夫の訃報。は、1925年(大正14)作成の「落合町市街図」にみる下落合330番地。は、1910年(明治43)3月19日発行の読売新聞に掲載された排煙公害記事。
◆写真中下は、かなり前から煙突がなくなり最新設備が導入されている落合斎場。は、第一文化村の販売開始15日前の1922年(大正11)6月5日に発行された読売新聞の「土工駐在所襲撃」事件。は、佐伯祐三が1926年(大正15)ごろ制作の『雪景色』Click!(部分)に描く目白文化村の“簡易スキー場”で、箱根土地本社の「不動園」南側つづきの前谷戸上に建っていた工事小屋(飯場)とみられる長屋群。
◆写真下は、1930年(昭和5)2月2日発行の読売新聞にみる「幼児絞殺」事件の記事。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる緑が濃い葛ヶ谷御霊社の杜とその周辺。は、1932年(昭和7)から「西落合」に地名が変わった葛ヶ谷御霊社の現状。

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