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新しがり村山籌子の上落合生活。 [気になる下落合]

三角の家.JPG
 上落合(1丁目)186番地のアトリエで、村山知義Click!と暮らしていた村山籌子Click!は、無類の新しもの好きだったようだ。その新しもの好きは、単に最先端の舶来品である生活家電が輸入されたから、さっそく自分も試してみたい……というような流行を追いかけるのではなく、それらの機器を導入することによって、主婦の労働負荷がどれだけ軽減され、効率的な生活が送れるかの1点のみに関心があったようだ。
 自身も童話作家だった村山籌子は、家事の合い間に仕事をするというのではなく、あくまでも仕事が主体であり、その合い間に家事をこなすという生活が理想だったようだ。当時、欧米から輸入された最先端の生活家電は、ちょっとした小さな家なら建てられるほど高価な製品が多かった。こちらでも、そのような家電に給料の多くをつぎ込んでいた、早稲田大学教授・山本忠興Click!「電気の家」Click!をご紹介している。ガス管の敷設が遅れた下落合(現・中落合/中井含む)の西部、目白文化村Click!アビラ村Click!の屋敷では、電気レンジや電気オーブン、電気ストーブが導入されたが、それらは目の玉が飛び出るほど高かった。
 たとえば、米国ウェスチングハウス社製の電気オーブンや電気レンジは、大正後期の価格で650円もしている。大正の前期、中村彝アトリエClick!の建設費は600円であり、佐伯祐三Click!が1927年(昭和2)に日本からシベリア鉄道でパリへ出かけ、一家で当座の生活ができる金額のめやすが600円だった。当時の最先端技術を装備した輸入家電が、いかに高価だったかがうかがわれる。
 2001年(平成13)にJULA出版局から刊行された、村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』から引用してみよう。
  
 とにかく母は無類の新し物好きであった。父に臨時収入があると、パン焼き器、電気掃除機、電気洗濯機、電気冷蔵庫など、すべて外国物で、日比谷のマツダデンキという輸入品専門店で買ってくるのであった。当時、それらはかなり高価なものであり、父は、「えっ、また買ったの? しょうがねえな、しょうがねえな」と、部屋の中を熊のように行ったり来たりして、心を落ち着けるのであった。このうち、掃除機はイギリス製で、まるで消防自動車のサイレンのようなけたたましい音をたてたので、さすがに母は隣近所をはばかり、窓を閉め切って使っていた。だが、これらは結局、生活の合理化のためであり、掃除機もホウキやハタキにくらべていかに能率的で衛生的であるかを、こんこんと講義するので、父は仕事机にもどり、天井を仰ぎ、タバコを矢鱈にふかすのであった。
  
 村山家には戦後に普及したテレビClick!がないだけで(ラジオはあったろう)、電気冷蔵庫に電気洗濯機など1960年代に生活の理想とされた「家電三種の神器」が、ほぼそろっていたことになる。この性格は母親(岡内寛)ゆずりだったようで、彼女の母親も米国から洋服を取り寄せ、乗馬や水泳、英語などを習う明治期の“ハイカラさん”だった。
 村山籌子は、幼い亜土にも早くから水泳を教えていたようで、出かけた先は「落合プール」Click!、すなわち二二六事件Click!の際に岡田首相Click!が隠れた佐々木久二邸Click!の、もともと敷地内にあった下落合(3丁目)1146番地の旧・邸内プールだった。もちろん水泳好きな村山籌子も、水着に着替えて息子といっしょに泳いでいたのだろう。同書から再び引用してみよう。
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 (前略)水泳の好きな母は、原さんを誘って、落合プールや明治神宮プールに出かけた。昭和十年頃、毎夏二週間ほど鵠沼海岸の画家のアトリエを借りた時も、新協劇団の俳優さんたちと一緒に原さんも来て、水泳の帰りに八百屋の店先で、西瓜を指でポンポンとはじいて、「ほらね、こういうにぶい音のほうが、甘いのよ」と自慢げに言ったのをおぼえている。
  
 「原さん」とは、中野重治Click!の夫人で女優の原泉Click!のことだ。原泉は、上落合48番地から上落合481番地、そして小滝橋近くの柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)へと、常に村山アトリエの近くに住んでいた。
佐々木久二邸.jpg
落合プール付近1938.jpg
村山籌子1929頃.jpg
 1933年(昭和8)2月21日、いつも穏やかな原泉が目を吊り上げ血相を変えて、庭先から村山アトリエへ飛びこんできた様子を、村山亜土はハッキリと記憶している。「あたし、先に行ってるからね」と半泣きのような顔でいい、原泉は駈け去った。築地署で小林多喜二Click!が虐殺された翌日、村山アトリエで見られた情景だ。
 村山籌子は、地下に潜行した共産党のレポ(連絡係)を、ひそかに引き受けていた。以前、佐多稲子Click!(窪川稲子)の『私の東京地図』(新日本文学会版)から、新宿通りに面した「近江屋」で、正月用品の買い物をタダでするエピソードClick!をご紹介したが、窪川稲子を誘いにきたふたり連れのうちのひとりとは、まちがいなく村山籌子だろう。その近江屋で、彼女は店員のレポとひそかに接触している。同書より、再び引用してみよう。
  
 年に一度だけ、私の誕生日に、母は新宿の中村屋で、一円のインドカリーを食べさせてくれた。当時、デパートの食堂のカレーは二十銭であった。そして、その隣に近江屋という小さな食料品屋があった。母はその店の前に立つと、いつもなにげないふうに奥へ目をやりながら、店頭のタラコを一腹つまみあげ、わざとゆっくり鼻に近づけて、クンクン匂いをかいだ。人目もあるのにと、私は恥ずかしかったが、母はすぐ、「ちょっと古いわね」とか言って、タラコをもどすと、指をハンカチでふきながら店をはなれ、真裏にあたる薄暗いコーヒー店に入った。すると、さっき店の奥に坐っていた若い男が、人目をはばかるようにひょいとあらわれ、母に手紙のようなものを渡して、たちまちいなくなった。母は何か秘密の連絡係のようなことをしていたらしい。
  
新宿角筈1丁目1938.jpg
近江屋跡.JPG
村山知義「村山亜土像」1970.jpg
 このとき、おそらく夫が豊多摩刑務所Click!に収監されていた村山籌子の背後には、特高Click!の刑事がピタリと尾行をしていただろう。特高はコーヒー店には入らず、店の外で張りこんでいたのか、あるいは彼女とシンパらしい近江屋の店員とをあえて泳がせていたものか、ふたりは検挙されていない。
 ちなみに、淀橋区角筈1丁目12番地にあった近江屋の真裏の「薄暗いコーヒー店」とは、新宿ホテルをまわり西へ少し入った右手、新宿武蔵野館の真ん前に開店していた角筈1丁目1番地の喫茶店「エルテルヤ」だろう。
 村山亜土は、子どものころ「人一倍臆病」だったらしく、火事の半鐘を聞いただけで「アワアワ、ガタガタと震え出」していたらしい。そこで、村山籌子はときどき起きる火災に慣れさせるため、あるいは息子に度胸をつけさせるためか、上落合で頻繁に燃えた前田地域Click!(工場地区)の火災を、小高い原っぱにのぼって見物させている。引きつづき、同書より引用してみよう。
  
 そこはちょっと小高くなっていて、今のように高いビルがないので、見晴らしがよく、かなり離れた火事場がパノラマのようによく見えるのであった。とりわけ、上落合のゴム会社とか氷会社の大火事は、すぐ近くで、火の粉がパラパラと落ちて来て、二時間以上も燃えつづけた。母は、私がどんなにもがいても、手をゆるめず、じっと見物させた。そのうち、私は、ふきあげる焔に見とれて、いつのまにか震えが止まっているのであった。
  
 「ゴム会社」とは上落合136番地の堤康次郎Click!が経営していた東京護謨Click!の工場、「氷会社」とは上落合3番地の山手製氷の工場で、昭和初期ともに大火事で焼失している。特に山手製氷の火事は、村山アトリエからわずか200mほどのところで起きている。
上落合前田地区1930.jpg
東京護謨跡.JPG
八幡公園.JPG
 村山籌子は、落合地域とその周辺に住んでいた原泉をはじめ、中野鈴子Click!壺井栄Click!藤川栄子Click!などと親しく交流し、多彩なエピソードを残している。村山亜土も、それらのめずらしい情景を記憶しているようだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:村山和義・籌子夫妻のアトリエがあった、上落合186番地界隈(右手前)。
◆写真中上は、邸内にプールがあった昭和初期の佐々木久二邸。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる佐々木邸から“独立”して町内プールとなった「落合プール」。は、1929年(昭和4)ごろに撮影された村山籌子。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる食料品店「近江屋」と真裏の喫茶店「エルテルヤ」の位置関係。は、工事中の近江屋跡(手前)で奥が新宿中村屋。は、1970年(昭和45)に制作された村山知義『村山亜土像』。
◆写真下は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる村山邸周辺の高台空地と前田地区。は、東京護謨工場跡に建つ落合水再生センター。は、月見岡八幡社の境内だった八幡公園の現状。境内の北東側に、眺めのいい高台の原っぱがあった。

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下落合を描いた画家たち・平塚運一。(2) [気になる下落合]

平塚運一「染物の流し洗い」1939.jpg
 1939年(昭和14)に平塚運一Click!が描き、戦後の竹田助雄Click!による「落合新聞」Click!に掲載された『染物の流し洗い』と題するスケッチ作品だ。(冒頭写真) 落合地域やその周辺域には、大正時代からきれいな水質を利用した江戸友禅や江戸小紋、江戸藍染などの工房や工場Click!、会社などが市街地から数多く移転してきて、一大染め物産業エリアを形成していた。落合地域では、旧・神田上水(1966年より神田川)と妙正寺川の沿岸に染め物会社が集中している。
 こちらでも、田島橋の北詰めにあった三越呉服店(三越百貨店Click!)の染め物工場Click!をはじめ、松本竣介Click!が描いた同工場Click!や裏手の妙正寺川からスケッチした二葉苑Click!片山公一Click!が描いた妙正寺川の染め物工場街など、折りにふれてご紹介してきている。平塚運一の『染物の流し洗い』は、落合新聞によれば西武電鉄Click!の下落合駅のすぐ近くを描いたとされているので(おそらく平塚運一本人に確認しているのだろう)、描かれている川幅から見ても妙正寺川にまちがいないだろう。
 正面には小さな橋が架かり、流れの奥には丘の斜面に建てられたとみられる家々が描かれているので、川筋は左右どちらかにカーブしていると思われる。1935年(昭和10)前後からスタートした、落合地域における旧・神田上水と妙正寺川の直線整流化工事は、この画面が描かれた1939年(昭和14)当時はほぼ全域で終わっていたが、妙正寺川の大正橋下流の一部、二葉苑の裏手にあたる部分では、1944年(昭和19)現在でも工事が行われていた様子が、同年の空中写真でも確認できる。それは、松本竣介の素描『上落合風景』の記事でも触れたとおりだ。
 西武線・下落合駅の近くで、工場または銭湯の煙突が2本建ち、妙正寺川の右手には屋根に換気口の小屋根が載る、明らかに工場とみられる建屋が描かれている場所は、はたしてどこだろうか? 工場の手前は空き地となっており、休憩時間なのだろうかふたりの工員が一服しているように見える。川に架かる橋はかなり小さめであり、こちらでも何度かご紹介している滝沢橋Click!と同様に私設橋かもしれない。その小さな橋の下では、6~7人の職人たちによる染め物の水洗いが行われている。
 川の左手には、岸辺のギリギリまで塀が設置され、規模の大きなアパートか寮のような建物が描かれている。つまり、川の右手には川沿いにつづく道がありそうだが、川の左手には川沿いの道がなく、建物が川岸の間際まで迫って建てられているような環境だ。また、橋がある以上、少なくとも左手の大きな建物の向こう側には、必然的に道路があることになる。さらに、遠景の丘を観察すると、丘の連なりは右手へとつづいているように見えるので、妙正寺川の北側に連続する目白崖線なのだろう。そう考えれば、画面の右手が北で左手が南の方角になるだろう。
東京染晒1936.jpg
東京染晒1938.jpg
東京染晒19450402.jpg
 以上のような諸条件を満たす描画ポイントは、1939年(昭和14)現在の下落合駅近辺では1ヶ所しか存在しない。平塚運一は、下落合3丁目1110番地(現・中落合1丁目)にあたる妙正寺川のコンクリート護岸あたりから、上流の小さな氷川橋の方角(西側)を向いて描いていることになる。平塚運一のすぐ左手には、川をはさんで西武線の線路が走り、すぐ背後には落合橋と下落合駅が見えていたはずだ。
 右手に見えている工場と煙突は、下落合3丁目1128番地の(有)東京染晒工場であり、同工場は奇跡的に空襲による延焼をまぬがれて、戦後も操業をつづけている。また、手前にある空き地は1936年(昭和11)の空中写真でも、1944~1945年(昭和19~20)の写真でも、さらには戦後の1947年(昭和22)の米軍写真Click!でも三角形の空地のままであり、ひょっとすると同工場の干し場に使われていたのかもしれない。もっとも、1944年(昭和19)から敗戦までの期間は、防火帯36号江戸川線Click!(=建物疎開Click!)として機能していたとみられるが、生産拠点は重要視されたのか工場の建屋は解体されず、空襲でも焼けずに戦後までそのまま残った。
友禅染水洗い1938.jpg
東京染晒1947.jpg
 さて、妙正寺川に架かる氷川橋は、淀橋区から新宿区への資料に橋名が採取されておらず、もともとは滝沢橋と同様に私設橋だったのかもしれない。少なくとも、1966年(昭和41)の新宿区地図まで、上流の昭和橋と下流の落合橋にはさまれた小橋の名称は収録されていない。橋の左手は上落合だが、描かれた大きめな集合住宅は上落合1丁目279番地のアパート落合荘だ。同アパートは、右手に描かれた東京染晒工場よりもはるかに大きな建物で、1936年(昭和11)の空中写真を見ると大屋根が白く輝いて見える。おそらく、洋風で最新式のモダンアパートだったとみられるが、防火帯36号江戸川線の建物疎開にひっかかり、1945年(昭和20)に解体されたと思われる。
 さらに、落合荘の向こう側(西側)に見えている煙突は、わたしは当初銭湯のものだと思っていたのだが、どうやら工場か焼却炉の煙突らしい。ただし、なにやら煙突に文字が描かれているので、工場ないしは会社の可能性が高いだろうか。このスケッチが描かれる前年、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、煙突のある大きめな家は「高藤」(上落合1丁目280番地)という名前が採録されている。敷地内には、コンクリートの小規模な建屋と煙突が記録されているので、ひょっとすると個人名を冠した染め物に関連する工房、ないしは関連会社のひとつなのかもしれない。
平塚運一描画位置.JPG
東京染晒工場跡.JPG
氷川橋.JPG
 煙突のある高藤邸から、西へ2軒隣りの上落合1丁目308番地にはアパート静怡寮Click!があり、晩年の辻潤Click!が住んでいた。当時は病気がちだった辻潤も、この2本の煙突が見える風景を眺めながら暮らしていたのだろう。平塚運一が『染物の流し洗い』を描いた5年後、1944年(昭和19)11月に辻潤はここで死去している。

◆写真上:1939年(昭和14)に描かれた、平塚運一のスケッチ『染物の流し洗い』。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東京染晒工場とその周辺。は、『染物の流し洗い』の前年1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同所。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍偵察機から撮影された同界隈。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に撮影された妙正寺川の水洗い作業。(「おちあいよろず写真館」より) は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同所。
◆写真下は、平塚運一の描画ポイントあたりから氷川橋を眺めた現状。は、東京染晒工場跡の現状。は、もともとは私設橋とみられる氷川橋。

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目白中学校の「目白社」と「赤い鳥」。 [気になる下落合]

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 下落合437番地の目白中学校Click!には、生徒と教師、そして同校を卒業したOBとで結成された、「目白社」という美術クラブが存在していた。1921年(大正10)6月で丸1周年と書かれているので、創立は前年の1920年(大正9)6月ごろだとみられる。目白社の顧問には、同校の美術教師・清水七太郎Click!が就任している。「目白社」展覧会は毎年、春と秋の2回ほど開催され、目白中学の図画教室や化学実験室、ときに中国Click!ベトナムClick!などアジアからの留学生が学んでいた、東京同文書院Click!の教室などを使って作品が展示されていた。
 たとえば、1921年(大正10)秋に開催された目白社第4回絵画展の様子を、1922年(大正11)3月に発行された同校の校友誌「桂蔭」Click!第8号から引用してみよう。
  
 筑波の峰より吹き下す寒い風が樹々の梢を掠めて凄い音を立て、広い校庭は一面に真白な霜で被はれた。其の霜月の(十月)二十九日より我が目白社は第四回目の展覧会を催した。会場は階段教室の隣の臨時図画教室である。今度は出品の数も増加し、加ふるに新に写真を募集した為、陳列するに非常に時間を費したので、月曜日に開場する予定であつたが、其の間に間に合はず、一日延期して火曜日の昼休みの時間に開場した。いつもの如く大勢一度に雪崩れ込んで、あまり広くない会場は非常に雑踏を来した。放課後も再び賑つたが四時半に閉場する迄には、一般観覧者も少くなかつた。/三十日にも相当に多くの観覧者があり早中美育部の委員諸君も来観して内容の充実せると生徒の熱心さに歓声を洩らして行かれた。一日には生徒平常成績品全部を掲げ変へたので、再び賑ひ殊にシリトリが人気を呼んだ。土曜日の午後全部取片つけて後、会場に於て委員一同に清水先生瀧浪先輩を加へて十余人茶話会を催し、目白社の万歳を三唱して解散した。(カッコ内引用者註)
  
 文中の「早中美育部」とは、早稲田中学校の美育クラブ部員たちの一行が来場した様子で、「清水先生」はもちろん顧問の洋画家・清水七太郎のことだ。第4回展では、絵画作品が63点、写真作品が23点も展示される盛況だった。同年春の第3回展では、絵画作品48点が展示されているが、写真作品の募集はいまだ行われていない。
 ちなみに、第4回展に出品した清水七太郎の作品は、『風景』、『風景』(同一タイトル)、『郊外の冬』、『千九百十五年の自画像』、『静物(鉄瓶)』、『山間の渓流』、『真昼の光』、『校内の風景(庭球コート)』、『市川風景』の9点にもおよび、風景作品では下落合とその周辺域を描いたとみられるタイトルが散見できる。
 また、写真作品の中にも『水車のある風景』、『夏の川辺』、『晩秋の神田川』、『雪の戸山ヶ原』、『戸山ヶ原』、『秋の戸山ヶ原』、『雪の十二社』と、下落合とその周辺を撮影したらしい作品がズラリと並んでいる。これらの作品画像はその後、出品者に返却されて散逸してしまったのだろうが、画像入りの図録でも作成してくれていれば、落合地域におけるきわめて貴重な1級資料となっていたにちがいない。
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 さて、目白中学校で目白社を率いていた清水七太郎は、目白通りをはさんだ「赤い鳥」社とも連携した仕事を残している。1919年(大正8)10月から刊行がスタートする、赤い鳥社の『「赤い鳥」童謡』第1集から、1923年(大正12)4月発行の第7集までの挿画を、清水七太郎が目白中学校の1年生と2年生の全生徒を対象に描かせ、その中から童謡に添える作品をチョイスするという、いわば絵画コンテストのような催しを実施していた。
 たとえば、『「赤い鳥」童謡』第6集と第7集には、鈴木三重吉Click!の「序」として目白中学校と清水七太郎のことが、次のように書かれている。両集から引用してみよう。
  
 『「赤い鳥」童謡』第6集 1922年(大正11)6月
 (前略) 本集の四色版の挿画は、赤い鳥の洋画家清水七太郎氏が、府下、目白中学校一二年級の全生徒に、原謡を課して画かされた、数百枚の自由画から選抜された傑作である。「こんこん小山」の画は一年級中野三郎君、「ちんころ兵隊」の画は同年級松原恒君の製作である。
 『「赤い鳥」童謡』第7集 1923年(大正12)4月
 (前略) 本集の作曲の内「涼風小風」は「赤い鳥」で推奨になつた傑作である。三色版の挿画は、清水七太郎氏が、府下、目白中学校一二年級の全生徒に原謡を課して画かされた数百枚の自由画から選抜された傑作である。「涼風小風」の画は二年級中島四郎君、「かちかち山の春」の画は同年級廣島正君の製作である。
  
 目白中学校の生徒作品が採用されているのは、あらかじめ西條八十Click!北原白秋Click!、鈴木三重吉などが発案し、目白中学の清水七太郎へ打診してはじまったものかもしれない。作品コンテストも、鈴木三重吉あたりが思いつきそうなアイデアだ。
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 『「赤い鳥」童謡』シリーズは、1923年(大正12)4月に第7集が出たあと、同年9月1日に起きた関東大震災Click!で中断し、1925年(大正14)6月にようやく第8集を出版しているが、そのときはすでに清水七太郎の名前が、目白中学校の生徒挿画とともに目次から消えている。ちょうどこの時期、目白中学校は練馬への移転Click!計画で学内があわただしく、「赤い鳥」の童謡挿画コンテストどころではなかったのだろう。
 なお、手もとにある目白中学校の校友誌「桂蔭」(1922年/1924年)には、『「赤い鳥」童謡』の挿画に入選した中野三郎、松原恒、中島四郎、廣島正の四君の名前は登場していない。入選をきっかけに、同校の美術部である目白社へ入部したかどうかも確認したけれど、残念ながら名前が見あたらなかった。
 関東大震災の直後、あまり被害を受けなかった目白中学校では、1923年(大正12)10月5日~8日、15日~20日のスケジュールで目白社第8回展が開催されている。その様子を、1924年(大正13)3月4日に発行された「桂蔭」第10号から引用してみよう。
  
 目白の芸術益々花をかざして今は第八回になつた。九月一日未曽有の天災に先ず十月五日より八日迄同文書院の一教室を得て行はれた。中にも一二三年級の出品にして非常に当時の模様が何れも明白に表はれ目白健児以外に先輩諸君及び外客数十名あつた。/次に十月十五日より五日間震災を兼ねて第八回の展覧会を開催した。先生を初め在校生の出品勿論又校友先輩諸兄の出品多数にて諸先生及び外校生の多く入覧があつた。吾々末日に目白社一同の写真をとつて其の愉快さを語つた。
  
廣島正「かちかち山の春」1923.jpg
鈴木三重吉.jpg 鈴木三重吉乗馬.jpg
 目白社第8回展覧会で、清水七太郎は本所の被服廠跡Click!で制作したのか、『九月十五日頃被服廠』と題する油絵を出品している。また、震災を記録した絵画や写真も数多く展示された。特に写真の部では、馬入川Click!(相模川)に架かる東海道線の鉄橋崩落Click!や、大磯における列車転覆Click!、両国橋や錦糸町における東京市電の軌道破壊など、現存していればかけがえのない震災資料になりそうなタイトルが並んでいる。

◆写真上:下落合437番地の目白中学校跡で、目白通りの向こうにあるのは目白聖公会。
◆写真中上は、1922年(大正11)3月発行の「桂蔭」に掲載された教職員名簿の一部。は、1921年(大正10)6月に開催された目白社第3回展の様子と出展作品の一部。は、1922年(大正11)現在の目白中学校教職員。印が清水七太郎ではないかと思われるが、その左下には帽子をかぶった金田一京助Click!の顔が見える。
◆写真中下上左は、1920年(大正9)3月出版の『「赤い鳥」童謡』第2集。上右は、第5集・西條八十「風」の目白中学生の挿画。は、『「赤い鳥」童謡』第6集()と第7集()の鈴木三重吉「序」。は、同集の目次で印は目白中学生による挿画。
◆写真下は、1923年(大正12)4月出版の『「赤い鳥」童謡』第7集に掲載された、北原白秋「かちかち山の春」の挿画(廣島正)。は、鈴木三重吉のプロフィール()と乗馬練習中のスナップ()。当時は目白通り沿いにあった学習院馬場Click!で、鈴木三重吉は乗馬の練習をしており、近衛秀麿Click!とも馬で遠出をしている。

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病気でも元気でも創作する曾宮一念。 [気になる下落合]

曾宮一念「けしの花」(ペン画).jpg
 下落合623番地の曾宮一念Click!は、昭和に入るとしばしば体調を崩して病臥している。特に特定の病気に罹患していたわけではなく、体調がすぐれずに絵画の制作が困難な状況のようで、やや鬱の気配さえ読みとれるような症状だ。
 最初の大きな身体の不調は、1927年(昭和2)2月に「美術新論」へ発表するために、『中村彝の作品とその変遷』を脱稿した直後からで、兄事していた中村彝Click!の仕事とその死をふり返りながら、気持ちが徐々に沈みこんでいったせいなのかもしれない。同原稿は、中村彝が影響を受けたヨーロッパや東洋の画家たちの仕事と、彝の作品とを年代順に重ねあわせながら、その仕事を生涯にわたってたどるような構成で、曾宮一念にしてはめずらしい内容の原稿だった。
 この原稿を書いた直後から体調を崩し、曾宮一念は友人の会津八一Click!の勧めで長野県の山田温泉へ静養に出かけている。だが、体調の悪さはあまり回復せず、温泉からの帰途に宮芳平Click!を訪ねたところ、彼の紹介で富士見高原療養所Click!へすぐに入所している。その後、何度か入退院を繰り返しながら、翌1928年(昭和3)の9月中旬まで、長野県富士見町と下落合の間を往来していたようだ。曾宮一念が、34歳から35歳にかけてのころだった。
 同年9月に、新聞紙上で佐伯祐三Click!の「遺作展」記事を見たのも、下落合ではなく富士見高原療養所だった。でも、曾宮一念はその記事を「遺作展」だとは思いもせず、パリでの仕事ぶりを紹介する「滞欧作品展」だと勘ちがいしたまま療養所を退所している。東京の自邸にもどり、綾子夫人から佐伯の幽霊Click!が訪ねてきたことを聞き、初めて佐伯がパリで急死したことを知った。
 この年、東京美術学校Click!の同窓生たちが曾宮一念の健康を心配して、熊谷守一Click!安井曾太郎Click!らに協力してもらいつつ、扶助組織「一念会」を設立している。彼らの作品を1点ずつ持ちより、60点ほどの作品頒布会を新宿紀伊国屋書店の2階で開いて、約1,700円の売り上げを曾宮にとどけている。身体が思うようにいうことをきかず、仕事ができない曾宮一念にしてみれば、涙が出るほど嬉しかっただろう。この間、静養のために夏は八ヶ岳で冬は伊東ですごし、下落合では会津八一に油絵を教えている。
 その後、曾宮は少しずつ健康を回復していくが、再び1936年(昭和11)から翌年にかけて大きく体調を崩している。だが、今度は体調がどのような状態であろうと、絵を描くことも原稿を書くことも止めなかった。曾宮一念が病臥していた1937年(昭和12)6月に、下落合のアトリエを俳人の水原秋桜子が訪ねて5句の作品を残している。1937年(昭和12)発刊の「美術」9月号に掲載された、水原秋桜子『曾宮一念を詠む』から引用してみよう。
  
 罌粟咲かせ病かなしき人臥たり
 庭の花畠に罌粟(ケシ)が美しく咲いてゐる日であつた。画室の次ぎの室のベツドに画家はいつものとほり臥(ね)てゐたが、臥ながらも罌粟の花はよく見えるのである。私はまだ絵を描くほどに健康が回復せず、この好画材を見てゐる画家の心持を考へて見た。さうして句は出来あがつた。/しかし、この「病かなしき」には注釈を付ける必要がある。一般に病かなしきと言へば、それは癒る見込のすくない病気を指すことになる。しかし曾宮君の場合は決してそんな病気でなく、現にもう夕方は起きてゐて、僕の友人のN君が「秋からはすこし絵を描いても大丈夫です」と保証してゐるほどなのである。/ところが曾宮君は実に用心深く、規律的に摂生を守つてゐて、専門家のN君の保証をなかなか用ゐさうにもない。私はこれほど規律的に病床生活をする人をはじめて見て驚いたのであるが、実に曾宮君のはいたいたしいほど細心である。ある時は病を愛してさへゐるやうにも見える。かういふ心持を俳句で表現すると「病かなしき」といふことになるので私自身としてはこの句は会心の作と言つてもよい。(以下詠4句)
 描くべく咲かせし罌粟に人臥たり/あまつ日に罌粟は燃えつゝ人臥たり/花甕の罌粟むらさきに人臥たり/罌粟剪りて我にくれつゝ人臥たり
  
曾宮一念「けし畑」(素描淡彩).jpg
富士見高原療養所.jpg
 「人臥たり」ばかりで、かなり重症のような句作だが、曾宮一念はむしろ前々年の1935年(昭和10)から、絵にしろ文章にしろ多作期に入っていた。綾子夫人との離婚から5年たち、同年にはせつ夫人と再婚した曾宮は、新婚生活を送っている最中だった。
 二科会を退会し、独立美術協会Click!の会員になったのもこの年からだ。1935年(昭和10)から1937年(昭和12)にかけ、曾宮は次々と作品を発表し、体調がすぐれないときは美術誌などに随筆を書きつづけている。その合い間には、俳句を詠むことも忘れなかったようだ。つまり、体調が悪かったにもかかわらず、創作意欲はきわめて旺盛だった様子がうかがえる。
 曾宮一念が画家とは別に、エッセイストとして活躍するきっかけとなった初の随筆集『いはの群』は、1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版されている。同書の冒頭で、曾宮アトリエの庭に造ったケシ畑が登場しているので引用してみよう。
  
 それまでにひなげしは作つてゐた。ひなげしよりも大形の花げしと呼ばれる茎葉の白緑な、花は一重八重さまざまで中には焔の如く肉芽の如きものの咲いたのは昭和六年の初夏からである。はじめて出て来た蕾のほころびかけるのを待つて毎日スケッチをして、花の終る頃になつて褐色の葉に奇怪な花を咲かせた「けし畑」を作ることが出来た。その翌年は眼を傷めてゐる間に全く枯れ朽ちたので倒れたまゝ花草の残骸を画にした。それ以来毎秋十月には種子を播き霜除けを作るのが行事となつてゐる。秋に霜除(実は霜には強いので雪除けに役立つ)をしてやるのと翌春うろぬきをするほかに手のかからぬこの花は不精者の私に全く適当してゐた。この二種類の罌粟を播いてをけば五月からひなげしが咲き、これにつゞいて六月一ぱい大形の花げしを楽しむことが出来るのである。
  
曾宮一念「けし畑」(ペン描).jpg
曾宮一念(桜島).jpg
 1937年(昭和12)には、「絵の腕を磨かずさ、こいつらいってえなにやってんだよう!」と、独立美術協会のポスト争いや派閥争いに嫌気がさしてサッサと脱会し、宮田重雄Click!に誘われるまま国画会へと参加している。医師で画家だった宮田重雄もまた、句作の趣味をもっており、のちに俳人としても知られるようになる。
 水原秋桜子の『曾宮一念を詠む』が掲載された、「美術」9月号が書店に並んだころ、曾宮はカリエスの疑いで再び富士見高原療養所へ入所している。そこでは、毎日窓から見える山や雲をスケッチしつづけ、のちに独自の風景画を描くようになるベースが、このとき1年間の療養生活で育まれたとみられる。
 水原秋桜子がアトリエで見た曾宮一念の様子を、もう少し引用してみよう。
  
 しばらく話してゐるうちに、曾宮君は庭の罌粟を剪らせ、それを紙につゝんで私へおみやげに呉れた。この時のことは随筆に書いて東日(東京日日新聞)に載せたが、わたしはしみじみ君の厚情をうれしく思つたのであつた。かういふことはまだ短い年月しかたゝぬ交りの中でも、何度かあつたことで、そのたびに私は家に帰つて花を花瓶に挿し、それを句に詠むことを常とするのであつた。この罌粟も一週間ほど花瓶に咲いてゐた。/これで私の俳句は終りであるが、曾宮君も亦近頃はをりをり句を詠む。さすがにものゝ観方が鋭く、それに要領もいゝので忽ち上達してしまひ、これも最近作句しはじめた宮田重雄氏と好敵手である。/それに曾宮君はいつ行つても必ず本を読んでゐる。これは病閑を慰める意味もあるだらうが、それよりも画心を深める上に期するところがあるのではなからうかと私は考へてゐる。病床一年の読書と思索とが、この画家の画境をどう転換させるか、これは勿論私一人だけの期待でなく、画壇全体の期待であるにちがひない。
  
曾宮一念「いはの群」1938.jpg 曾宮一念「いはの群」目次.jpg
曾宮一念1934.jpg 宮田重雄.jpg
 翌1938年(昭和13)は絵画作品こそ少なかったものの、3月には初の随筆集『いはの群』と、12月には美術工芸会より『曾宮一念作品集(3)』が出版されている。水原秋桜子が想像したように、精神生活ではずいぶん充実した時期だったのではないだろうか。

◆写真上:1937年(昭和12)ごろ、庭に咲くケシを描いた曾宮一念『けしの花』(ペン)。
◆写真中上は、素描淡彩の曾宮一念『けし畑』。は、富士見高原療養所。
◆写真中下は、同時期の曾宮一念『けし畑』(ペン)。は、戦後にスケッチ場所を探しながら鹿児島県桜島の溶岩道を歩く曾宮一念。
◆写真下は、1938年(昭和13)に初の随筆集として出版された曾宮一念『いはの群』(座右宝刊行会)の函()と目次()。よほど気に入っていたのか、「けし畑」が文頭に掲載されている。下左は、1934年(昭和9)に下落合のアトリエで撮影された気だるそうな曾宮一念。下右は、曾宮の親しい友人だった画家で医師、俳人、俳優だった宮田重雄。

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続・東京府「落合府営住宅」の勘違い。 [気になる下落合]

第二府営住宅跡2006.JPG
 明治末から大正期にかけ、東京各地に建設計画が持ちあがっていた府営住宅について、かなり以前に記事Click!を書いたことがあった。東京府がはじめた府営住宅制度は、今日の都営住宅のような低家賃で家屋を賃貸する制度とはまったく異なり、マイホームを建てるための積立準備貯金・返済制度のような仕組みが中心だった。
 下落合に建設された、落合第一府営住宅と第二府営住宅は各戸の敷地が100坪前後あり、建てられている住宅も大きめで、それぞれバラバラな意匠をしている。つまり、府営住宅制度を利用していた府民が、それぞれ自分好みの設計デザインで持ち家を建てた……という経緯だった。和館もあれば和洋折衷館もあり、ときには南側に接する目白文化村Click!の西洋館と見まがうような仕様の住宅も建設されている。
 東京府の府営住宅制度を利用するためには、東京府住宅協会の会員として登録しておく必要があった。会員には「甲種会員」と「乙種会員」の2種類があり、甲種会員は10年から15年後に建設した自邸の所有権を獲得することができ、乙種会員は持ち家ではなく賃貸契約のまま借りられる規定になっていた。だが、実際に登録した会員は甲種会員がほとんどで、乙種の会員は異動・転勤族や一時的な住まいなど特殊な事情だったようだ。1920年(大正9)の登録申し込みの割り合いをみると、甲種会員が85%に対して、乙種会員はわずか15%にすぎなかった。
 府営住宅に住んだ住民については、1922年(大正11)に東京日日新聞が行った、落合府営住宅の151軒にわたる職業調査によれば、官吏が61棟、会社員が49棟、教師が14棟、新聞記者が9棟、弁護士が1棟、その他が14棟(未回答棟数は除く)となっており、府営住宅制度の利用者がおしなべて堅い職業で、高めの給与をもらい積立貯金が可能な当時の「中産階級」だったのがわかる。それは、同時期に東京市内の各地へ建てられた、おもに低所得者層を対象とした東京市営住宅とは、まったく異なる目的で企画された、府営住宅の一戸建て持ち家制度だった。
 ところが、大正期も半ばをすぎると、会員のニーズに大きな変化が表れたようだ。新聞紙上には、新たな府営住宅の竣工を知らせる記事とともに、入居希望者を募集する告知が掲載されるようになる。つまり、甲種会員ではなく、乙種会員のニーズが高まったことを背景に、東京府住宅協会があらかじめ一戸建て住宅を建設し、賃貸で入居者を募集するケースが急増したのではないかと思われる。それは、無理して持ち家を建てるよりも、借家住まいのほうが経済的で楽だと考える、勤労者層のライフスタイルが変化したせいもあるのだろうが、勤め人(サラリーマン=ホワイトカラー)の急増で、異動や転勤を考慮した柔軟性のある住まい探しがはじまっていたことをうかがわせる。
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 1921年(大正10)9月6日に発行された、読売新聞の記事から引用してみよう。
  
 府営住宅竣成/落合と世田ヶ谷
 府下落合村(三、四号地)及世田ヶ谷村に建設中の府営住宅は今回略ぼ修正したるに付各申込者に就き近く抽籤の上会員を決定すべし住宅種別建設戸数等左の如し
 △落合
      戸数   申込数
 四室   一二    一四
 五室   二七    二四
 六室    五    一八
 七室    四    三六
  計   四八    九二
 (以下略)
  
 この時期に、落合府営住宅の第三府営住宅および第四府営住宅が竣工したのがわかる。第三府営住宅は、大正初期にすでに竣工していた第二府営住宅のさらに西側、つまり第一文化村の北西側一帯のエリアであり、第四府営住宅は第一文化村の西側に接した、他の府営住宅地に比べると相対的に小規模な住宅地だった。
 この記事によれば、東京府住宅協会の乙種会員であっても、希望すれば全員が入居できるわけではなかったことがわかる。入居は抽選であり、落合府営住宅の場合は建物の間取りにもよるが、全体の倍率が2倍近かったことがわかる。ちなみに、世田ヶ谷府営住宅も140戸に対して206人の申し込みがあり、競争率は1.5倍近くになっている。
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 住宅の種類もバラエティに富んでいて、たとえば「四室」とあるのはキッチンや玄関室、納戸、洗面所、テラスなどを除いた、純粋な部屋数だと思われる。「七室」はかなり大きな住宅だとみられ、今日でいえば6LDKぐらいの感覚だろうか。しかも、落合府営住宅のケースでは大きな住宅ほど人気が集中し、「六室」が競争率3.6倍、「七室」が同9.0倍と非常に高かったことがわかる。
 読売の記事が掲載された1921年(大正10)は、いまだ目白文化村の第一文化村開発Click!はスタートしたばかりで、森を伐採したり畑地をつぶす整地作業がつづいていただろう。目白通りに面した土地を、府営住宅建設予定地として東京府に寄付した箱根土地Click!堤康次郎Click!にしてみれば、大正初期の落合第一・第二府営住宅の建設とともに、目白通りへダット乗合自動車Click!の路線も引けたことだし、そろそろ郊外遊園地「不動園」Click!をつぶして、文化村の建設へ本腰を入れはじめた時期にあたる。
 下落合の中部(現・中落合エリア)では、次々と竣工する東京府の府営住宅とともに、箱根土地による目白文化村の造成が報じられ、下落合の東部では東京土地住宅Click!によるお屋敷街・近衛町Click!の開発が新聞紙上へ大々的に発表され、さらに下落合の西部では同社による画家のアトリエを中心としたアビラ村(芸術村)Click!計画が公表されて、大正期のモダンな郊外文化村ブーム、あるいは田園都市ブームの到来を予感させていた。
 自身の職業が、従来はほとんど存在しなかった新しいサラリーマン=ホワイトカラーという、先端の仕事に就いていた人たちは、それに見あうモダンな衣食住の生活を求めて、江戸期からつづく古いコミュニティ的なしがらみや慣習の少ない、郊外に建ちはじめた文化住宅街に注目しだしたのだろう。特に郊外文化村での、健康的な田園生活が注目を集めだした大正中期の状況でいえば、山手線・目白駅Click!あるいは高田馬場駅Click!からほど近い落合地域(昭和初期になるとさらに西の荻窪Click!国立Click!など)と、山手線・目黒駅から東急電鉄で通える洗足田園都市Click!(昭和初期になるとさらに外れの多摩川べりにあたる田園調布Click!)の人気が、ことさら高くなっていったとみられる。
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第三第四府営住宅1936.jpg
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 ただし、落合と洗足ふたつの文化住宅地ともに、西洋館を主体とした比較的大きめな家々が数多く建ち並び、当時としてはかなりの高給を得ていたサラリーマンでなければ、住宅を建てることも、また家を借りることもむずかしかったかもしれない。実際に入居している勤労層を調べてみると、官吏や会社員ともに上級管理職や役員クラスが目につく。また、落合地域では「文化村」や「アビラ村(芸術村)」というネーミングのせいか、府営住宅を含め画家や彫刻家、作家、音楽家など芸術家の多いのが大きな特色となった。

◆写真上:落合第二府営住宅跡の街並みで、戦後はほとんどが一戸建て個人住宅になっている。2006年の写真だが、右手に竹田助雄Click!の写真製版所が見える。
◆写真中上は、1921年(大正10)9月6日の読売新聞に掲載された落合第三・第四府営住宅竣成の記事。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる落合第一・第二府営住宅。は、落合第二府営住宅跡の現状。
◆写真中下は、1926年(大正15)の同事情明細図にみる落合第三府営住宅(上)と落合第四合営住宅(下)。は、第三府営住宅跡(上)と第四府営住宅跡(下)の現状。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる落合第一・第二・第三・第四府営住宅。は、1941年(昭和16)にめずらしく斜めフカンで撮影された空中写真にみる落合府営住宅の最終形。1945年(昭和20)4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲で、第一・第二府営住宅は全滅、第三・第四府営住宅はその一部分が焼失した。

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