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下落合が舞台の『バラ色の人生』? [気になる下落合]

落合橋から上流.JPG
 ……ということで、またひとつオマケ記事Click!です。w
  
 1973~74年(昭和48~49)という年は、目白崖線沿いの下落合から下戸塚にかけ、映画やTVドラマの撮影が集中していた時期のようだ。下落合では、こちらでも何度かご紹介している日本テレビ開局20周年記念ドラマの『さよなら・今日は』Click!のロケが行われており、少し下流の下戸塚から関口にかけては映画『神田川』Click!(監督・出目昌伸/東宝)が、まったく同時期に撮影されている。
 ロケ場所が新宿区なら、映画会社やTV局、撮影所などからそれほど離れてはいないし、俳優たちを長時間にわたり拘束する必要もなく、移動などでも効率的かつコスト的に有利で、またスケジュールが詰まっている人気俳優を起用するのも、さほど困難ではなかったのだろう。そしてもうひとつ、同じ時期に下落合でロケが行われたらしい作品があるのを見つけた。1974年に放映された、木下惠介の『バラ色の人生』(TBS)だ。
 木下惠介は、親父が好きだった映画監督のひとりだが、木下惠介アワーと呼ばれたTV作品も親父はよく観ていたような気がする。わたしが子どものころ、いちばん印象に残っているのは進藤英太郎の『おやじ太鼓』(1968~69年)だが、他の作品は子供には“地味”すぎるのか観た憶えがない。わたしの記憶に残る作品というと、向田邦子Click!と組んだ木下惠介・人間の歌シリーズの1作『冬の運動会』(1977年/TBS)ぐらいだろうか。
 木下惠介のドラマをあまり観なかったのは、俳優たちの台詞や動作、表情のみで物語を展開し、登場人物の思いや心の機微、行動などの解釈を視聴者へ全的にゆだねるのではなく、やたら状況や心理を“絵解き”するナレーションが多いクドさと、その言葉づかいの野暮ったさからだったように思う。
 たとえば、『冬の雲』Click!(1971年)ではこんな具合で、かなり大げさかつ「大きなお世話」ナレーションに、もはやついていけない。むしろ、俳優の台詞よりナレーションのほうが多いのではないかとさえ思えてくる。「一度はほぐれそうに見えた感情は再びもつれたまま、夏に入る日のそよ風は、桐原家の居間に何を語りかけるのか?」……などという芦田伸介のナレーションで“つづく”になったりすると、「だからだから、なにがど~したってんだよう?」と反発さえおぼえるのは、わたしのひねくれた性格のせいなのかもしれない。主題歌も仰々しく、とても1970年代の作品とは思えないし、だいたい電話がかかってくるときの田村正和を中心にした、あの家族全員の立ち位置はいったいなんなんだよう!?……と、キリがないのでこのへんでやめるけど。w
神田川と富士女子短期大学.jpg
バラ色の人生タイトル.jpg
 さて、そんな苦手な木下惠介のドラマなので、もちろん『バラ色の人生』Click!(1974年/主題歌Georges Moustaki「私の孤独」)もまったく観ていない。でも、ネットでそのタイトルバックを観たとき、下落合を流れる神田川で撮影されたとみられる映像が目にとまった。どのようなドラマなのか調べてみると、美術学校へ通う版画家をめざす画学生の物語で、寺尾聰や香山美子、仁科明子、森本レオ、草笛光子などの俳優が出演しているらしい。画学生は、川沿いの古いアパートに住んでいるようだが、どうやら美校生というシチュエーションの設定からして、落合地域の匂いがする。
 タイトルバックに使われている川のシーンは、いずれも汚染がピークになったころ、1970年代半ばの神田川Click!をとらえたものらしく、その水辺風景の最後近くに挿入されているカットは、まちがいなく下落合1丁目11番地にあった工場の敷地から、低い落差の堰堤が連なる神田川の水面近くにカメラをすえて撮影されたものだろう。カットの中には、下水から流れこむ生活排水で泡立っている川面が登場したりもするが、毎夏に子どもたちが川遊びや水泳を楽しめ、アユが遡上する水質にまで回復した今日の神田川Click!からみれば、まるで悪夢の情景を見ているようだ。
 では、画面に映されているものを具体的に検証してみよう。まず、川面には手前と奥に、ふたつの低い堰堤(流れの段差)がとらえられている。手前が下落合1丁目11番地、流れのカーブの奥が同1丁目12番地の南側に位置する神田川の堰堤で、画面からおわかりのように下流から上流を眺めている。画面中央に映っている小さな橋は、滝沢さんが設置した私設橋(通称「滝沢橋」Click!)で、1974年の当時はクルマは通れず、人間だけが往来できる狭くて小さな橋だった。その橋を渡った右手には、園藤染工場の建屋と煙突があるはずだ。正面奥に見えている鉄塔状のものは、西武線・下落合駅近くの鉄道変電所に設置された高圧線鉄塔Click!の一部で、高圧線(谷村線)はここからさらに終端となる田島橋Click!の南詰め、東京電力の目白変電所Click!へと向かう。
バラ色の人生1974.jpg
神田川妙正寺川1968.jpg
神田川妙正寺川1963.jpg
 神田川の左手は、高い塀に囲まれた工場ないしは倉庫のあったエリア(高田馬場3丁目)で、その建屋のすぐ南側には戸塚第三小学校Click!が建っている。落合地域や上戸塚地域にお住まいの方なら、もうおわかりかと思うが、画面には映っていないすぐ右手の枠外には、妙正寺川の合流点が口を開けていたはずだ。つまり、神田川のこの位置は、「落合」という地名が生まれる端緒となった、北川Click!(現・妙正寺川)と平川(旧・神田上水→現・神田川)が合流する地点の川面をとらえたものだ。画面右手に隠れている妙正寺川の河口では、すでに分水路の暗渠化工事に備えた住宅や工場の解体作業が、あちこちでスタートしていたかもしれない。
 当時の神田川は、水量が少ない夏季や冬季などは、両岸にコンクリートの川底が斜めに露出するような構造をしていたが、雨でも降ったのか映像の水量は少し多めなので、水面に近いカメラはクレーンで吊り下ろしているのかもしれない。あるいは、下落合1丁目11番地の工場敷地内に、川面近くへと降りられるハシゴ、ないしは小さなテラス状の設備でもあったものだろうか。
 タイトルバックに下落合の映像を見せられると、がぜん画学生を主人公にしたドラマの内容が気になるけれど、『バラ色の人生』は残念ながらBD/DVD化されていない。ネットにアップされた映像からは、どうやら最終回に草笛光子が急死してしまうネタバレの経緯と、タカラの「リカちゃん」(香山リカ)人形のモデルである香山美子がキレイだなぁ……ぐらいしかわからない。とりあえず、大きなお世話の妙なナレーションが聞こえてこないのはなによりだ。
滝沢橋から下流.JPG
香山美子.jpg
神田川妙正寺川1975.jpg
 木下惠介は1933年(昭和8)、落合町葛ヶ谷660番地(のち西落合2丁目596番地)にあった、オリエンタル写真工業Click!が運営するオリエンタル写真学校を卒業している。そのころから、すでに落合地域には馴染みがあったのかもしれない。ちょうど同じころには、長崎町大和田1983番地のプロレタリア美術研究所Click!(のちプロレタリア美術学校Click!)へ、黒澤明Click!が通ってきていたのが面白い。なにかと比較されるふたりの映画監督だけれど、ふたつの学校は直線距離でわずか1,000mほどしか離れていない。

◆写真上:落合橋から、上流にある撮影地点の方角を眺める。堰堤上の右手に見える、茶色いむき出しの鉄骨あたりが、神田川と妙正寺川の合流点だった跡。
◆写真中上は、1980年代に撮影された下落合を流れる神田川。宮田橋から下流をとらえたもので、左側と正面に見えているビルは富士女子短期大学(現・東京富士大学)の時計塔と旧校舎。は、木下惠介の『バラ色の人生』タイトルバック。
◆写真中下は、タイトルバック映像に映るものたち。は、1968年(昭和43)に撮影された同位置の写真。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる撮影位置と画角。
◆写真下は、滝沢橋から下流の撮影位置方向を眺める。サクラ並木が繁っていてわかりにくいが、左手に妙正寺川の河口跡がある。は、同ドラマに出演しているシャキシャキとして好きな女優のひとり香山美子。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる撮影場所。すでに妙正寺川を神田川に合流させない暗渠化工事がスタートしており、周辺の環境は大きくさま変わりしようとしている。
おまけ
近所で空を見ていたら、「おや、あの影は?」ということで追いかけてみると、やはり大きなオニヤンマだった。今度は、琥珀色の翅が美しいギンヤンマを撮ってみたい。
オニヤンマ空.jpg
オニヤンマ.jpg

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大阪1時間の滞在レコードを持つ徳山璉。 [気になる下落合]

徳山璉邸跡.JPG
 8月15日というと、どうしても記事をアップしたくなります。単調でつまらなくて、ウンザリしているメンテ作業の息抜きに、ちょっと…。w 書きつづけていた習慣を突然やめると、なぜか書きたいテーマが二桁単位でたまってしまい、禁断症状が出ますね。
  
 わたしが旅行をした中で、目的地における滞在記録の最短レコードは、京都での3時間というのがある。もちろん仕事上の出張で、京都に事業所のあるクライアントの会議室でわずか1時間余の打ち合わせのあと、京都駅のカフェでひと休みしてから新幹線に飛び乗って東京へともどった。新幹線の中でも、ほとんどPCと向き合っていたから、旅行と呼ぶのもおこがましい“移動”だった。
 出張でもないのに、わたしよりも短い滞在時間のレコードを持っている人物が下落合にいた。下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)に住んだ、ビクター専属のバリトン歌手・徳山璉(たまき)Click!だ。ちょうど、中村彝アトリエClick!のすぐ北側、移動前の大正期に一吉元結工場Click!の職人長屋が建っていたあたりの一画に邸を建設している。
 徳山璉は17歳のとき、狂おしい想いを抱きながら東京駅から東海道線の夜行に飛び乗り、恋をした女の子を転居先まで追いかけて、早朝の大阪駅へと降り立った。駅前の公衆電話から、さっそく彼女の家へ連絡を入れると、やってきたのは彼女ではなく母親のほうだった。1935年(昭和10)に婦人画報社から刊行された「婦人画報」4月号に掲載の、徳山璉『春のモンタアジユ』から引用してみよう。
  
 僕は朝の大阪駅前に立つた。夜行で東京から来たのである。何故か腹が空いてゐた、途中一寸とも食べなかつたからである。/様子知らぬ駅前の公衆電話のボツクスに飛び込むと、僕はふるえる声でアル電話番号を呼ぶのであつた。暫くすると、その駅前の僕の方に向つて、彼女ではなく、彼女の母なる人が現れた。/『あの子の父が大変怒つてゐます。すぐに東京へお帰へりなさい』/『………』/滞阪レコード一時間に足らず、始めて踏んだ大阪の土地の水も飲まないで、僕は次の列車、上り列車の客となつてゐた。/涙がこぼれさうであつた。其処で僕は列車が止まる度びに弁当を買つたのである。癪にさわつて堪らなかつた、とうとう五つ弁当を食べた頃やうやく東京に帰へつて来た。/彼女に一言云ふどころか、影さへも見ないで帰へつて来た寂しいお腹の中には、東海道線のいろいろなお弁当がギツシリと詰つて胃壁を刺激するので、一層僕は悲しかつた。/その彼女が今では、妻となり、僕の子供の母となつて、精励これ努めてゐるのである。
  
 失意と駅弁の食べすぎの状態で東京駅にもどったあと、徳山璉は「若ければ啄ばむ果をも知らざりし唱ふ心は春なりし哉」という短歌を詠んで記念している。その後、なぜ東京と大阪で離ればなれになってしまった初恋の彼女が、いつの間にか徳山璉の連れ合いになっているのかは、書かれていないのでまったく不明だ。
徳山璉婦人画報193504.jpg
徳山璉.jpg キングレコード1939.jpg
 わたしは子ども時代を、湘南海岸Click!の真ん中あたりですごしているので、徳山璉のヒット曲というと条件反射のように、『天国に結ぶ恋』Click!(1932年)が思い浮かぶ。避寒避暑の別荘地・大磯駅Click!裏の坂田山で、服毒自殺した慶應大学の学生と深窓の令嬢との許されない恋を唄った坂田山心中事件Click!だ。「♪今宵名残りの三日月も 消えて寂しき相模灘~」と、わたしが子どものころまで、この歌を口ずさむ大人たちは、いまだ周囲にチラホラ存在していた。
 ちょうど、「♪真白き富士の根 緑の江ノ島~」と、逗子開成中学校のボート部の生徒たちが強風による高波で遭難Click!した『七里ヶ浜の哀歌』Click!(1916年)とともに、神奈川県の海辺ではいまだ“現役”で唄われていた歌だ。親に連れられ坂田山へ上り、ちょっと気味の悪い感覚で比翼塚Click!を目にしたのも、物心つくころだった。現在、坂田山心中の比翼塚は、海辺の明るい鴫立庵Click!に移されている。
 さて、戦争を経験されている方、あるいは敗戦後まもなく生まれ育った方は、徳山璉といえば日米戦争へ突入する前年、1940年(昭和15)に唄われた『隣組』Click!や『紀元二千六百年』などのほうが、圧倒的になじみ深いだろう。敗戦から、10年以上がたって生まれたわたしでさえ、これらの歌は親を通じて知っている。特に『隣組』のメロディーは、ドリフターズのテーマ曲やメガネドラッグのCMソングなどに使われているので、たいがいの方がご存じだろう。
 ♪とんとんとんからりと 隣組
 ♪格子を開ければ 顔なじみ
 ♪廻して頂戴 回覧板
 ♪知らせられたり 知らせたり
 明るいメロディとは裏腹に、同年の国家総動員体制や国民精神総動員運動のもと、近隣の相互監視と思想統制の密告・摘発・弾圧の仕組みとして、軍国主義のもと全体主義体制の推進を加速させた制度だ。あたかも「五人組」や「名主・差配・店子」などの制度と同様に、封建制の時代へと100年ほど時代を逆行させたかような「自治」組織であり、今日でいうなら北朝鮮の「人民班」とまったく同質のものだ。そもそも北朝鮮の「人民班」が、日本の「隣組」制度を模倣したとさえいわれている。
徳山璉「天国に結ぶ恋」1932.jpg
五所平之助「天国に結ぶ恋」1932松竹.jpg
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 こちらでも、「隣組」制度によってJAZZレコードの存在を密告され特高Click!に検挙された事例をご紹介しているが、JAZZレコードなど聴いておらず、当局によりJAZZが禁止される日米戦の前に、家の外へ漏れていた音色からJAZZレコードの存在を類推できる家庭までが、「隣組」や「町会」などの組織の密告によって特高に摘発されている。中には、DGG(ドイツ・グラムフォン)のベートーヴェンやシューベルトのレコードさえ押収した愚かな事例さえあった。
 徳山璉は、そのほか『撃滅の歌』や『日の丸行進曲』、『大陸行進曲』、『太平洋行進曲』、『空の勇士』、『大政翼賛の歌』、『愛国行進曲』…etc.、日米開戦の直後、1942年(昭和17)1月に死去するまで一貫して軍部へ協力し、軍国主義を推進する歌を唄いつづけている。このあたり、4歳年下で同じく下落合にも住んだ淡谷のり子Click!とは対照的な歌い手だ。もし、3年後に大日本帝国が破産・滅亡するまで生きていたとしたら、そして戦後の「亡国」状況を目の当たりにしていたとすれば、いったいどのような感慨や思想的(芸術的?)な総括を行なっていたのだろうか。
 1945年(昭和20)5月17日に、米軍の偵察機F13Click!から撮影された落合地域の空中写真Click!を見ると、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!からかろうじて焼け残った、下落合1丁目504番地の徳山邸を確認することができる。また、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!でも、同邸はなんとか延焼をまぬがれて焼け残った。敗戦直後の空中写真を見ると、延焼の炎舌はわずか10mほど北側の隣家で止まっているように見える。
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日本蓄音機商会1912.jpg 大蓄商会1928.jpg
 徳山璉が敗戦時まで存命で、自邸がかろうじて焼け残った様子を見たら、「幸運だ」ととらえただろうか? それとも、焼け野原が拡がる周囲の下落合を呆然と眺め、さらに焦土と化した東京の市街地を望見して、「日本史上でかつてない、初の亡国状況を招来した最大の政治的失策であり不幸だ」と、はたして気づいていただろうか?
 まったく関係のない余談だが、いつか熊本県菊水町のトンカラリン古墳群Click!に出かけてみたい。侵入してきたヤマトを迎撃した伝承や、卑弥呼(フィミカ)との深い関連も指摘される、邪馬壱国(邪馬壹国)の有力な候補地のひとつだ。

◆写真上:下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)の徳山璉邸跡(奥右手)の現状。
◆写真中上は、1935年(昭和10)発刊の「婦人画報」4月号に掲載された徳山璉『春のモンタアジユ』。下左は、昭和10年代の徳山璉。下右は、1939年(昭和14)発行の「主婦之友」に掲載されたビクターではなくキングレコードの広告。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に発売された徳山璉・四谷文子『天国に結ぶ恋』。は、同年に松竹系で公開された五所平之助・監督の『天国へ結ぶ恋』。は、1938年(昭和14)作成の「火保図」にみる林泉園近くの徳山璉邸。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる徳山璉邸。は、1940年(昭和15)に発売された徳山璉『隣組』。下左は、蓄音機が「嫁入道具」などといわれて高級品だった1912年(明治45)の日本蓄音機商会の媒体広告。下右は、「大衆的製品」となった1928年(昭和3)のナポレオン蓄音機こと大蓄商会の媒体広告。それにしても、後者の「だいちくしょうかい」という社名は、もう少しなんとかならなかったものだろうか。
おまけ
 御留山に飛来した、おそらく渡りをしない東京定住組と思われるアオサギ。
アオサギ.JPG

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下落合を描いた画家たち・中村忠二。(2) [気になる下落合]

雪の我が家1946.jpg
 「ぐりこ」さんより、主婦へのご褒美の「おまけ」が足りないという、ちょっとお叱りコメント(前記事参照Click!)が寄せられましたので、^^; あとひとつだけ「おまけ」の記事を追加します。これがメンテ作業前の最後ということで、どうぞよろしくお願いします。<(_ _;)> (アイスのジャイアントコーンに「おまけ」なんてないんだけどなぁ)
  
 「君を救う道は、僕との結婚以外にはない」…、この言葉は下落合に住んだ洋画家・中村忠二Click!が、30歳ほども年下の若い女画学生(のち弟子)に舞い上がったときに吐いたらしいセリフだ。また、1955年(昭和30)9月19日には、「芸術の興奮をよりよき恋愛にまで高めるために火の如き接吻をする」と書いたメモを、妻の洋画家・伴敏子Click!に見られている。このとき、中村忠二は57歳だった。
 それに対する伴敏子の反応は、「ドン・キホーテのお共は、もう御免よ」「男はもうこりごり」「あの人は今馬を屠殺場に遣って、豚にまたがって天国に行こうと思っているようよ」……などなど諧謔的なものばかりだった。それをどこかで漏れ聞いたのか、中村忠二は「偉い女など女房に持つもんじゃあないよ」と友人に語っている。そんな悲喜劇が繰り広げられたふたりのアトリエは、伴敏子の年譜によれば1935年(昭和10)に(中村忠二の年譜によれば1938年に)、下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)に竣工している。アトリエの建設費の多くは伴敏子が負担していたせいか、若い女にトチ狂った中村忠二は出ていかざるをえなくなった。
 ふたりが住んでいた下落合のアトリエを描いた、中村忠二の「下落合風景」を見つけたのでご紹介したい。今年の夏に練馬区立美術館で開催されている、「生誕120年中村忠二展―オオイナルシュウネン―」に展示されていたものだ。そう、中村忠二は佐伯祐三Click!と同じ1898年生まれであり、ともに今年が生誕120年Click!にあたる。下落合4丁目2257番地のアトリエは、目白学園の北東側に位置しており、玄関が南を向く和館とも洋館ともとれる微妙なデザインの2階家だった。
 南側の接道から、狭い路地を入ると突き当たりに細い門柱が立ち玄関へとつづく、53坪ほどの旗竿敷地だった。20畳サイズのアトリエを中心に、6畳のリビング、2階の寝室は4畳半というシンプルな間取りで、ふたりは生涯の多くをここですごし作品を制作しながら生活している。南側の接道から北に向き、降雪後の路地とアトリエをとらえた画面が、冒頭の敗戦間もない1946年(昭和21)に制作された中村忠二『雪の我が家』だ。
 「我が家」というタイトルを付けているが、すでに中村忠二と伴敏子は最初の“夫婦別れ”をしている。日本の敗色が濃くなりつつある1943年(昭和18)、伴敏子からの提案でふたりは夫婦関係を解消した。そこで、伴敏子は1階の広いアトリエにベッドを据えて寝室とし、中村忠二は2階の4畳半が居場所となった。だが、翌1944年(昭和19)になると、東中野に住んでいた伯母を引きとり2階を提供したので、中村忠二は居場所がなくなり、1階のアトリエで再び伴敏子と生活をするようになった。
 10年後の1955年(昭和30)8月、中村忠二は水彩連盟の講習会で画家をめざす若い女性と知り合い、急速に親密になっていく。57歳の中村忠二が、前出の歯の浮くようなキザな台詞を臆面もなく吐いたのはこのときだった。そして、9月になると練馬区貫井町1275番地(現・貫井5丁目)に小さな平家を借りて、伴敏子との別居生活に入り、ほどなく彼女とは正式に離婚している。
 そのときの様子を、1977年(昭和52)に冥草舎から出版された伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。同書は、登場人物たちの多くに仮名を用いており、「陽子」は伴敏子、「貞子」が中村忠二の入れあげている若い女性のことだ。
  
 「もう無駄よ、誰が何を云ったって。一度あの人の思うようにさせた方がいいのよ。とやかく云っても苦しめるばかりよ。お互い別々になって反省しましょう。私は他に好きな人が出来たわけではないから、あの人がもう一度惚れ直せるような男になったら、私から頼んでも帰って貰うわ」/靴を履く蔵原の後から、陽子は玄関で云った。/忠二は庭の花の根を起こして練馬の庭に植えに行ったり、上京して来ると云う貞子の妹を二人で迎えに行ったり、この二、三日はとても忙しかった。多忙のなかを高田馬場のパール座で貞子と二人で映画を見たり、暗い夜道では烈しい雨の中傘を傾けて熱い接吻を繰り返した。まるで彼の血が一度に若返って青春を取り戻したようであった。
  
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 余談だが、小さな名画座だった高田馬場パール座はわたしの学生時代まで営業しており、よく2本立ての映画を観に出かけた。いまも、その前をときどき通るけれど角の和菓子屋さんは健在だが、パール座はとうにつぶれてライブハウスになっている。
 中村忠二は、伴敏子と正式に離婚して練馬にアトリエをかまえているにもかかわらず、しばしば下落合の旧「我が家」を訪問している。それは、伴敏子が留守のときをねらって侵入していたようで、いろいろなものを貫井のアトリエへ運んでいたらしい。上野の展覧会で、偶然ふたりが出くわしたときの様子を、同書から再び引用してみよう。
  
 「しばらくね、今日は。お元気ですか。たまにはお気晴らしに、落合へも一杯やりにいらっしゃいよ、お二人で。貞子さんはお元気?」/と陽子は声をかけた。/留守を知りながら落合に行っては、柿を取って来たり、風呂に入ったりした忠二であった。面と向かってこんなふうに云われると、忠二は何となく慌ててどう答えたかも覚えがなく、別れた。/上村哲二の家のS連盟委員会の席上、忠二は陽子からやや離れたはす向かいに座を占めていた。横顔のやつれや人相が何となくみすぼらしかった。この人が私の良人であったのかと、陽子の心をひどくうそ寒い思いにした。
  
 「S連盟」とは、もちろん現在も存続している水彩連盟のことだ。「貞子さん」こと若い女弟子の愛人は、中村忠二が貫井にアトリエを設けた翌年、1956年(昭和31)の夏ごろにはさっさと逃げていってしまったらしい。前年の冬から、そんな予感がしていたものか、中村忠二が日記がわりに書き残していた覚書きには、「これにて完全に大方は清算され、自分は孤立となる」と書かれている。
 翌1957年(昭和32)11月には、自分のもとを去った愛人の弟子に、いまさらながらの「破門状」を発送しているようだ。言い換えれば、1年は待ったことになるだろうか……。同時に水彩連盟も脱退し、各地のギャラリーで個展や二人展(山本蘭村と)を中心に活動している。そして1年がすぎるころ、中村忠二は下落合へ捨て去ったはずの伴敏子のアトリエに、再び現れるようになる。
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 このとき、中村忠二は「復帰という仮定の心組みの前で或る不定の期間を、お互いに現在の状態でいてみる。その期間で復帰することが最上のことかどうかが、はっきりして来るであろう。その上双方が復帰を肯定する時に、そのことを決める」などと、若い女弟子に舞い上がり家出して離婚した男の言い草とは思えないようなことを書いて、伴敏子に6ヶ条の要求を突きつけている。残された彼の覚書きを、同書より引用してみよう。
 一、お互いに過去の一切を放棄して触れない
 一、健康と仕事を第一義とし、それを愛情の上に置く
 一、落合、貫井の家は現在のまま仕事場として保有する
 一、相互の財物は復帰と同時に共用とする
 一、戸籍の復帰はどうでもよろしいが将来財物の関係もあるから適当と思われる時に復帰しておくべきである
 一、別々の家に於ける双方の素行については、お互いを信用し、その信用を裏切らないようにする 要はさらっとした明かるい愛情の上で仕事に専念し、お互いの未来について、一つの安心感を持って行こうということにつきる
 芸術家のあるタイプには、救いようのない底抜けの非常識で愚かな側面があるのは、ひとり中村忠二に限らない。「(戸籍を)復帰しておくべきである」「お互いを信用し、その信用を裏切らないようにする」とは、どの面(つら)下げて元妻に要求しているのだろうか? しかも、大雨で貫井のアトリエが水害に遭い、困った挙句に下落合の元妻のアトリエを頼って、避難してきた際に出した6ヶ条の要求らしい。
 おそらく、伴敏子が憤怒にあふれた怖ろしい顔をしたのだろう、中村忠二は彼女の誕生祝いと称して財布から1万円札を出すと、彼女(陽子=伴敏子)の手に握らせた。ちなみに、給与換算指標に照らし合わせると、当時の1万円は今日の約20万円に相当する。
  
 忠二は陽子の誕生祝と、復帰祝のための宴会費用として、一万円を彼女に手渡して、/「僕は細い鎖の首飾りが好きだから、そういうのを買いなさい」/と云った。/また落合に帰る土産として洗濯機を買ってやると忠二は云った。洗濯機は落ち着いたら、二人で秋葉原あたりに買いに出ようということになった。忠二は月の半ばを落合で暮すようになるので生活費として月々三千円を出すことにすると云った。/この三千円は、以後十七年に亘って再度貫井に引き籠る昭和四十九年まで続いたのであった。
  
 1973年(昭和48)暮れの忘年会で、中村忠二は元妻が激怒する取り返しのつかない失言をしたようで、伴敏子は「貫井に引き籠る」と表現しているが、ついに下落合のアトリエを永久に追放された。1975年(昭和50)2月28日、中村忠二は貫井のアトリエで倒れ、急性心不全のため死去している。77歳だった。
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中村忠二・伴敏子1960年代.jpg 貫井アトリエ.jpg
 戦後間もない1949年(昭和24)3月、中村忠二・伴敏子アトリエから北北東へ直線距離で280mほどのところ、西落合1丁目3番地に住んでいた料治熊太Click!が、ふたりのアトリエを訪問している。中村忠二は、料治熊太が出版した谷中安規の版画集を見て、のちに代表作のひとつとなる詩画集の刊行を思いついているようだ。
 練馬区立美術館で今夏開催中の、「生誕120年 中村忠二展―オオイナルシュウネン―」は7月29日(日)まで。それでは、またお会いできる日を、楽しみに……。

◆写真上:1946年(昭和21)の降雪日、自宅を南側から描いた中村忠二『雪の我が家』。
◆写真中上は、中村忠二・伴敏子アトリエ跡の現状。は、中村忠二が描いたアトリエ素描。下左は、2018年(平成30)夏に開催された「生誕120年中村忠二展―オオイナルシュウネン―」図録。下右は、1955年(昭和30)の第14回水彩連盟展で撮影された伴敏子(手前)と中村忠二(中央奥)。
◆写真中下は、1930年代に制作された中村忠二『不詳(畑)』で落合西部に拡がっていた畑地風景の可能性がある。は、1947年(昭和22)に制作された中村忠二『道』で同様に落合地域を描いた可能性がある。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下落合4丁目2257番地の中村忠二・伴敏子アトリエ。
◆写真下は、1951年(昭和26)制作の中村忠二『霜の花』で下落合アトリエの庭先だろうか。は、1984年(昭和59)の空中写真にみる伴敏子アトリエ。伴敏子は1993年(平成5)に死去しているので、この撮影時はアトリエに「水彩連盟」の看板を掲げ画塾を開いていたはずだ。下左は、1960年代半ばごろに撮影された中村忠二と伴敏子。下右は、練馬区貫井にあった中村忠二の小さな平家アトリエ。
おまけ
 セミたちがこの暑さで、一斉に地中から出てきたようです。写真の幼虫は、大きさからミンミンゼミの幼虫のようですね。
ミンミンゼミ幼虫.JPG

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下落合の急坂を駈けくだる中野鈴子。 [気になる下落合]

蘭塔坂.jpg
 …ということで、前回予告しましたように本日からスケジュールがまったく見えない、夜間や休日に少しずつ実施予定の、So-netブログSSL対応メンテナンスに入りますので、今回が最後の記事になります。また、ここでお会いできる日を、楽しみに……。
  
 下落合の急坂を着物の裾をふり乱しながら、全力で駈け下りてくる異様な女性に出会い、恥ずかしくて思わず友だちに「知らない人」と答えてしまった小学生がいる。大きめな2階家へのリニューアルを終え、下落合735番地の借家アトリエから上落合186番地にもどっていた、村山知義・籌子夫妻Click!の息子・村山亜土Click!だ。坂を駈け下りてきたのは、村山亜土が「変なおばさん」と呼ぶ詩人・中野鈴子Click!で、母親と親しくしている彼女を亜土はよく知っていた。
 2001年(平成13)に出版された村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』(JULA出版局)から、さっそく中野鈴子の様子を引用してみよう。
  
 中野鈴子さんは、中野重治さんの妹で、詩人であった。だが、子供の私には「変なおばさん」として、思い出される。度の強い黒ぶちの眼鏡をずり落ちそうにかけて、眉間にしわをよせ、油気のない髪の毛をうしろで束ね、恐らく木綿か銘仙の和服をちょっとゆるやかに着ていた。彼女は下落合の斜面の中腹に間借りをしていたのだが、ある日、私が友だちとその近くを歩いていたら、坂の上から女の人が裾をはだけて、勢いよく駈け下りて来た。友だちが、「あのおばさんは頭がおかしいらしいんだ」と言うので、よくよく見ると、鈴子さんだったので、私はあわてて電信柱のかげにかくれて、やりすごした。「君、知ってるの?」と友だちがきくので、私は、「知るもんか!」と答えた。
  
 戦後の中野鈴子は、小滝橋Click!や上落合もほど近い豊多摩病院Click!の裏にあたる柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)、すなわち兄・中野重治・原泉夫妻Click!の家に同居しているが、昭和初期にひとりで暮らしていたとみられる下落合の住所は、村山亜土も書き残していないので不明だ。それ以前か以降か、やはり彼女は上落合481番地で兄夫妻の家に寄宿していた。彼女が駈け下りてきた坂とは、村山亜土が通っていた落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の近く、下落合(現・中落合/中井含む)の西部に通う坂道の可能性が高いように思う。
 「変なおばさん」にされてしまった中野鈴子だが、福井の実家にいたころは地元でも美人の評判が高かった。ワンマンな親たちに、望まない結婚を無理やり二度もさせられ、そのつど彼女の側から夫に「三下り半」を突きつけて離婚している。そんな生活の苦労を重ねるうちに、面立ちがやつれてしまったのだろう。
 四高で落第した兄・中野重治Click!のお目付け役として、福井の実家から金沢市古寺町の下宿で兄と同居するようになったとき、17歳だった中野鈴子は四高の短歌会で兄といっしょだった窪川鶴次郎Click!を知るようになる。やがて、彼への思慕とともに実家の“家制度”にとらえられていた彼女は、自我の解放期を迎えることになった。このとき、窪川鶴次郎は中野鈴子のことを「すずさん」と呼んで親しげだったが、窪川にはすでに愛人がいたようだ。1923年(大正12)10月26日、中野鈴子は3首の歌を詠じている。
 かなし子等人をしのびつさかり来しこの砂山のやまふかみかも
 照陽はげしき浜に居て木を伐る男をしみじみと君はながめり
 やまみちに我の姿の見えずなりしとき声高らかに呼び給ひしかな
 中野鈴子1934頃.jpg 中野重治・原泉夫妻.jpg
三ノ坂.JPG
 「すずさん!」という窪川の声が、潮の匂いのする風にのって樹々の間から聞こえてきそうな歌だが、この恋は成就しなかった。東京帝大に進んだ中野重治に連れられ、鈴子は東京にいる窪川鶴次郎へ会いにいったが、「あなたはわがままだ」という窪川の言葉に絶望している。こうして、彼女は望まない一度めの結婚を、父母から無理やり押しつけられることになった。二度めに強制された結婚生活の最中、彼女は1926年(大正15)7月に窪川稲次郎と田島稲子(のち佐多稲子Click!)の結婚を知ることになる。
 1925年(大正14)2月28日から翌日にかけて書かれた、中野鈴子から窪川鶴次郎あての手紙が残っている。1997年(平成9)に幻野工房から出版された、大牧冨士夫・編著『中野鈴子-付遺稿・私の日暮らし・他-』から引用してみよう。
  ▼
 (前略) この世とは、別れがあるばかりなのです。人は常に、過去をなつかしむと言ふ。それは過去の日に幸があつたからでしたでせう。遠い後の日に光を持つものはその光の日に一日も早く達することを急ぐでせう。あなたに別れて一年になるまでに日が流れてゐます。それが私にはありがたい。その間に何をして来たか、忘れ得ないものなどと言ふものは一つもなかつた。多くの人はかう言ふきもちで毎日を水のやうにながれてゐるのか。去るものをして、そのまゝ逝かしめ、来るものをしてそのまゝむかへて、人は眠るのです。かなしみもよろこびも、かまはず日がながれてゆきました。
  
 窪川稲子Click!(佐多稲子)は結婚後、中野鈴子が切々とつづった手紙を夫から見せられ、彼女の切ない一途さに泣いたと伝えられている。
中野一家.jpg
中野重治・原泉邸跡界隈.JPG
 そんな彼女たちが、わずか5年後、治安維持法違反で逮捕された中野重治や窪川鶴次郎、小林多喜二Click!村山知義Click!らを支援するグループを形成することになるなど、夢想だにしなかったにちがいない。特に小林多喜二の救援では、村山籌子Click!原泉Click!とともに、中野鈴子が活動の中心を担った。また、宮本百合子Click!や窪川稲子(佐多稲子)とともに、『働く婦人』の編集部員を引き受け、ときには同誌へ記事を連載している。彼女は、文芸誌の第一線で活躍するプロレタリア詩人に変貌していたのだ。窪川稲子(佐多稲子)とは親しくなり、よく肩を並べて話をしながら落合地域を散歩している。
 つづけて、村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』から引用してみよう。
  
 だが、母(村山籌子)は、彼女(中野鈴子)の素朴であけっぴろげな人柄を好んだようだ。そして、彼女は時々、とぼけたことを言った。「誰々さんは、私より三つ年上なのよ。だから、あと三年たてば同い年になるんだわ」。母が、「あなた、何を言ってるのよ。三年たてば、向こうも三つ年をとるのよ。同じ年になんかなるわけがないでしょ、永久に」。「あっ、そうか、そうか、そうだった」。彼女はそう言ってヒタイをポンと叩き、歯をむき出し、ゲタゲタ笑うのであった。/私が、彼女が詩人であることを知ったのは、戦後もずっと後のことで、詩集『花も私を知らない』は、北陸の農民の心を素朴に歌って、すばらしい。(カッコ内引用者註)
  
 なにやら、いつも村山籌子に突っこまれている大ボケかましの中野鈴子を想像してしまうが、こういうところが周囲から愛された彼女の性格(たち)なのだろう。村山亜土が電柱に隠れ、そそくさとくだんの坂道から立ち去らなければ、彼女のあとをいつも通り尾行していた特高Click!が、間をおかずに必死で駈け下りてきたのを目撃できたかもしれない。
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 落合地域で遅れてきた青春時代を送る、中野鈴子の面白いエピソードはまだまだたくさん眠っていそうだ。いつもおおらかで、“天然”のトンチンカンな彼女の姿ばかりでなく、ときには深刻な課題を抱え、ふだんは穏やかな壺井栄Click!から横っ面を張り飛ばされたりもしている。中野鈴子から壺井栄あてに出された、彼女らしい鄭重な「詫び状」10通が現存しているのだが、それはまた、いつか、別の物語……。

◆写真上:中野鈴子が駈け下りた可能性が高い坂のひとつ、寺斉橋近くの落合第二尋常小学校(現・落合第五小学校)へと抜けられる蘭塔坂Click!(二ノ坂)のイメージ。w
◆写真中上上左は、1939年(昭和13)ごろ撮影の中野鈴子。上右は、戦後の中野重治・原泉夫妻。米国アニメ「シンプソンズ」のお母さんみたいな中野重治の髪の毛は、もう少しなんとかならないものだろうか。は、もうひとつの駈け下り坂候補・三ノ坂。
◆写真中下は、中野鈴子が東京の兄夫妻邸へ寄宿しはじめたころの記念写真。左から右へ原泉(中野政野)、二度も望まぬ結婚を鈴子に強制した父・中野藤作、中野鈴子、中野重治。は、上落合481番地の中野重治・原泉邸跡界隈。
◆写真下は、川下から眺めた妙正寺川に架かる寺斉橋で、落合第二尋常小学校は橋の左手にあった。寺斉橋の上に見えているのは、山手通り(環六)の高架。は、旧敷地から南東へ200mほど移動した現在の落合第二小学校。

おまけ
 今年も、下落合の森には夏らしい生き物たちがたくさんもどってきた。左はカナブンの大群で、右はカブトムシ(♂)。ともに、うちの娘が見たら悲鳴をあげて卒倒するだろう。カブトムシとコクワガタClick!の♀は、かつて何度か家のベランダに飛びこんできたが、カブトムシもコクワガタも♂は住宅に近寄らないようだ。
カナブン.JPG カブトムシ.JPG
 今年三度めに卵がかえった、近くの池のカルガモ親子Click!。今回は、子ガモが最多の11羽も生まれた。またクルマが通る道路を、散歩しなければいいのだが……。
カルガモ親子.JPG

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「へび女」が怖い元・少女たち。 [気になる下落合]

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 わたしとほぼ同世代の女性に、「子どものころ、なにが怖かったの?」と訊くと、多くの元・少女たちはたいがい楳図かずおの「へび女」と答える。少女漫画を知らないわたしは、その「怖さ」がよくわからず、きっと執念深くどこまでも追いかけてくる、『娘道成寺』の芝居のような筋立てを想像していた。日高川で大蛇(うわばみ)になった清姫が、どこまでも安珍を追いかけてくる、道成寺縁起のストーカー芝居だ。
 芝居の『娘道成寺』は、実際の舞台を観た憶えがない。(TVの劇場中継ならあるが) もっとも、舞踊「京鹿子娘道成寺」はときどき6代目・中村歌右衛門で上演されていたのを憶えている。現代では、坂東玉三郎あたりが得意としているのだろうか。芝居の経験はないが、国立劇場の小劇場で上演された文楽の『娘道成寺』は、じっくり鑑賞したのでよく憶えている。もちろん、わたしの大好きなガブClick!が登場するからだ。
 「日高川渡の場」にいたるまで、延々と男女間の恋愛の機微(オトナの事情)を見せられても、あまり退屈せずにすんだのは、ガブがいつ出るか、いま出るかと、心待ちにしていたからだろう。安珍にいい含められた船頭に、川の渡しを断られた清姫が、みるみる形相を変えて大蛇に変身するさまは、もうウキウキとゾクゾクの連続で、わたしは幸福感にひたりながら見とれていたものだ。だから「へび女」と聞くと、どうしても男のあとを執拗に追いかけてくる、大蛇の化け物になった女……というイメージをもっていた。ところが、楳図かずおの「へび女」の設定は、まったくちがっていたのだ。
 少し余談になるが、警視庁が昨年度にまとめた統計によれば、ストーカーによる被害者は約11%が男性で、残りの約89%の被害者が女性とのことだ。つまり、「執念深い女がヘビに姿を変えて男を追いかけてくる」……というシチュエーションは、江戸期のある時代のとある階層ではリアルに感じられ、説得力のある怖さだったのかもしれないが、現在は状況がまったく逆転し、いつまでもイジイジとメメしい思いを引きずって、執念深く追いかけるのは、情けないことに「へび男」のほうが圧倒的に多いのだ。いや、こういういい方は下落合に数多く棲息する、たいがい大人しいヘビさんClick!に対して失礼だろう。
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 さて、楳図かずおの「へび女」は、物語の成立事情がまったく異なっていた。それは、ふだんは美しい母親ややさしい姉、養女に引きとられた先の義母や娘、そして親しいクラスメイトの友人などが、ある日を境に突然「へび女」の性格や本性を顕在化させはじめる……というようなストーリーだ。つまり、自分がもっとも親しい、あるいは自分にもっとも近しい人物の本性がもし「へび」だったりしたら……という、変化(へんげ)による怖さや意外さがテーマになっている。身辺の安穏とした、楽しい日常が少しずつ崩れだして、ついには「へび女」に見こまれた非日常へと推移していくところに、少女たちを震えあがらせた恐怖があるのだろう。
 きっかけは、外出してヘビに咬まれたり(あんたはバンパイアか?)、その家系に代々受け継がれたヘビ神憑きの“血筋”だったり(このあたり民俗学の吉野裕子が得意そうな分野だ)、あるいは七代あとまで祟る昔殺したヘビの呪いだったり(日本民話の会Click!が採取しそうだ)……と、要するに原因はなんでもよくて(爆!)、ヒロインの少女のいちばん身近にいる人物が、「へび女」ウィルスに感染していたり、「へび女」の変異遺伝子が急に活動をはじめたり、「へび女」の呪いで自己暗示にかかり幻覚を見るようになったりと、まあ、たいへんで忙しくて怖いことになっていく。
 そんな舞台となる屋敷は、たいがい東京の郊外域に位置していそうな大きな古い西洋館であり、1960~1970年代を落合地域ですごした女の子たちにとっては、まったく他人事ではなかっただろう。遊び疲れ、少し暗くなってから家路を急ぐ少女たちにしてみれば、近衛町Click!の洋館から、林泉園Click!のほの暗い谷底から、御留山Click!大倉山Click!の森蔭から、薬王院の真っ暗な墓地Click!から、そして目白文化村Click!のポッと灯りの点いた屋敷群から、いつ「へび女」が鎌首もたげて飛びだしてくるか気が気ではなかっただろう。きっと、楳図かずおの世界は、自身のすぐ隣りに存在していたにちがいないのだ。
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 でも、そんな古い西洋館はバブル景気の地上げで消し飛び、つづく不況の津波をまともにかぶって相続税が払えずに解体され、「へび女」の伝説はもっとずっと郊外へ、あるいは東京地方を離れどこか別の地方の山間へと転移していった。落合地域には、人と共存できるアオダイショウClick!は多いが、棲みつく縁の下や天井裏も少なくなって、なかなかマンションのロビーではとぐろを巻きにくい。うっかりマンションなどに入りこめば、ソッと森の中へ逃がしてくれるどころか、警察に電話されかねない、ヘビくんたちにとっては「怖い」日常を迎えている。映画版の「へび女」Click!も、もはや東京が舞台ではリアリティがないものか、どこか山間の“村”が舞台となっていた。
 楳図かずおの「へび女」は、あの人はふだんは美しい顔をしてニコニコしているけれど、裏にまわれば先が2枚に分かれた舌をペロリと出しながら、あることないこと悪口を陰でいいふらす、ほんとは怖くてゲスな人なのよ……というような、一種の処世訓を少女たちに教えようとしたのだろうか? それとも、「グワシ! へび女はほんとにいるのら~、ギョエーーッ!!」と、その伝説でも信じて描いていたのだろうか。
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 そういえば、楳図かずおは高田馬場か下落合にオフィスがあったものか、駅前に近い栄通りの入り口あたりで、過去に何度か見かけたことがある。赤白のTシャツを着て色褪せたジーンズのジャケットを羽織っていたと思うのだが、まさか吉祥寺の自宅外壁のカラーリングまで赤白のツートーンカラーにするとは思わなかった。ギョエーーーッ! 外壁が赤白のお屋敷じゃ、「へび女」だってサマにならず棲みにくいだろうに。

◆写真上:下落合2丁目14番地と目白1丁目4番地の町境(新宿・豊島区境)が通るビルの前にある、郵便局「グワシ!」ポスト。ぜひ、「へび女」ポストも作ってほしいのら。
◆写真中上は、12代目・片岡仁左衛門の清姫による『娘道成寺』(日高川渡の場)。は、7代目・尾上梅幸の「白拍子花子」。は、1960年代の日高川(和歌山県)。
◆写真中下は、文楽『娘道成寺』でガブになりかけの清姫。中左は、楳図かずお『へび女』(小学館)。中右は、同『へび少女』(講談社)より。は、同『へび女』より。
◆写真下:いずれも、楳図かずお『へび女』より。

お知らせ
 先月25日のSo-netブログのSSL化にともない、もともと外部サイトも含めたpathの多い拙サイトでも、ひと通りメンテナンスをしなければならないハメに陥りました。いまさらSSLを導入するなら、10年前のベリサイン時代にやっといてほしかった仕組みですが、セキュリティが強化できるのでしかたがないのでしょうね。
 カテゴリーの設定が勝手に外れたり、サイドカラムのバナー画像がいつの間にか消滅したり、facebookとのpathで蓄積されたログが全滅したりと、さまざまなインシデントや表示不具合はこれまで少しずつ記事末で報告してきましたが、検証・修正作業がいつ終わるのかスケジューリングができないので、とりあえず次回の記事を最後に、期限を設定しないサイトメンテナンスに入ります。
 外部からアクセスすると、少し前まではhttpとhttpsのページが混在(キャッシュサーバ?)していたようですが、現状ではhttp→httpsのページへ自動ジャンプするようです。でも、Soーnetさんのことだからリソース不足が深刻になると、「この仕組みは廃止」なんて告知がアップされかねませんので、少なくとも外部ポータルからのpath修正はしといたほうがよさそうです。その際、ご不便をおかけするかもしれませんが、秀逸なアルゴリズムのGoogleサーチエンジンなどから「落合道人」のワードを“枕”に、キーワードを組み合わせて検索していただくのが確実かもしれません。
 夜は長いので、いろいろ改修の方法を考えてみたいのですが、こういうときはつい演奏にジッと聴き入って作業に集中できなくなるJAZZではなく、気軽に聴き流せる「♪夜は長い~だ~から…」と、懐かしい1980年代末の森山良子『男たちによろしく(DANCE)』Click!でも聴きながら……。
 写真は、新宿区の西北部にある落合地域とは、反対側の地域にあたる西南部の夕景。
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