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1945年3月11日のヴァイオリンソナタ。 [気になる音]

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 戦時中、日本本土への空襲が予測されるようになると、各町内には防護団による各分団が組織され、盛んに防空・防火訓練が行われた。以前にもこちらで、淀橋区の落合防護団第二分団の名簿とともに、団内の班組織を詳しくご紹介Click!している。
 だが、家々の間に緑が多く、延焼を食い止める余裕のある郊外の山手住宅地ならともかく、市街地の防護団による消火活動は“自殺行為”に等しかった。B29から降りそそぐM69集束焼夷弾や、ときに低空飛行で住宅街に散布されるガソリンに対して、悠長な防火ハタキやバケツリレーなどで消火できるはずもなく、逃げずに消火を試みた人々は風速50m/秒の大火流Click!に呑まれて、瞬時に焼き殺されるか窒息死した。
 かなり前の記事で、ふだんの訓練では威張りちらしていた、元・軍人だった東日本橋の防護団の役員が、空襲がはじまるやいなや「退避~っ!」と叫んで真っ先に防空壕へ逃げこんだ親父の目撃談をご紹介Click!しているが、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!が防護団の稚拙な防火訓練や、粗末な消火7つ道具などでとうてい消火できるレベルでないことが判然とするやいなや、これまた防護団の役員は真っ先に家族を連れて避難しはじめている。だが、この一見ヒキョーに見える元軍人の「敵前逃亡」は、結果論的にみればきわめて的確で正しかったことになる。
 当時、防護団の防空・防火訓練で必ず唄われた歌に、『空襲なんぞ恐るべき』Click!というのがあった。親父も、ときどき嘲るように口ずさんでいた歌だ。
 1 空襲なんぞ恐るべき/護る大空鉄の陣
   老いも若きも今ぞ起つ/栄えある国土防衛の
   誉れを我等担いたり/来たらば来たれ敵機いざ
 2 空襲なんぞ恐るべき/つけよ持場にその部署に
   我に輝く歴史あり/爆撃猛火に狂うとも
   戦い勝たんこの試練/来たらば来たれ敵機いざ
 陸軍省と防衛司令部の「撰定歌」として、全国の防空・防火訓練で必ず唄われていた。この勇ましい歌に鼓舞され、東京大空襲で消火を試みようとした人々は、ほぼ全滅した。取るものもとりあえず、火に周囲をかこまれる前、すなわち大火流が発生する前に脱出Click!した人たちが、かろうじて生命をとりとめている。
 ふだん、あまり紹介されることは少ないが、東京大空襲Click!がはじまってから出動した消防自動車の記録が残っている。もちろん、消防車による消火活動でも、まったく手に負えないレベルの大火災が発生していたのだが、それでも彼らは出動して多くの消防署員が殉職している。中には、出動した消防車や消防署員が全滅し、誰も帰還しなかった事例さえ存在している。
 前日の3月9日の深夜から、ラジオのアナウンサーは東部軍司令部の発表(東部軍管区情報)をそのまま伝えていた。「南方海上ヨリ、敵ラシキ数目標、本土ニ近接シツツアリ」 「目下、敵ラシキ不明目標ハ、房総方面ニ向ッテ北上シツツアリ」 「敵ノ第一目標ハ、房総半島ヨリ本土ニ侵入シツツアリ」 「房総半島ヨリ侵入セル敵第一目標ハ、目下海岸線附近ニアリ」 「房総南部海岸附近ニ在リシ敵第一目標ハ、南方洋上ニ退去シツツアリ、洋上ハルカニ遁走セリ」……と空襲警報も解除され、住民たちは安心して就寝しようとしていた矢先、おそらく、消防の各署でも待機していた署員たちは、休憩あるいは仮眠をとりはじめていただろう。だが、翌3月10日の午前0時8分、もっとも燃えやすい材木が集中して置かれた、深川区木場2丁目に、B29からの第1弾は突然着弾した。燃えやすくて、大火災の発生しやいところから爆撃する、非常に綿密に練られた大量殺戮の爆撃計画だった。
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 深川の消防隊が、火の見櫓から真っ先に着弾を確認して全部隊を出動させているが、焼夷弾とガソリン攻撃に消火活動は無力だった。また、周辺の地域へ応援隊30隊を要請しているが、まったくどこからも応援の消防隊はこなかった。深川区の周囲、すなわち本所区、向島区、城東区、浅草区、日本橋区も同時に火災が発生し、他区への応援どころではなかったからだ。大空襲当夜の様子を、1987年(昭和62)に新潮社から出版された、早乙女勝元『東京大空襲の記録』から引用してみよう。
  
 深川地区に発生した最初の火災を望楼から発見したのは、深川消防署員である。すぐ地区隊合わせて計一五台の消防自動車が、サイレンのうなりもけたたましく平之町、白河町方面の火災現場へと急行した。全部隊がならんで火災をくいとめようと必死の集中放水の最中に、隣接する三好町、高橋方面が圧倒的な焼夷弾攻撃を受け、火の玉がなだれのように襲ってきた。/あわてて消火作戦を変更しようとしたが、時すでにおそく頭上に鉄の雨が降りそそぎ、二台の消防自動車に直撃弾が命中、隊員もろともに火の塊になってしまった。(中略) 火を消しにいったはずの消防自動車一五台も、みな大火流に呑まれ、大勢の隊員は車もろともに焼失して殉職しなければならなかった無念の心情が、都消防部「消教務第二三一号」報告書にしるされている。
  
 隣りの本所区では、全隊7台の消防車を出動させているが、隊員10名と消防車全車両を失っている。特に空襲も後半になると、B29は煙突スレスレの低空飛行で焼夷弾やガソリンをまき散らし、7台の消防車のうち2台が狙い撃ちされ、直撃弾を受けて隊員もろとも火だるまになっている。
 この夜、各区で出動した消防車だけでも100台を超えたが、うち96台焼失、手引きガソリンポンプ車150台焼失、消火栓焼失約1,000本、隊員の焼死・行方不明125名、消火に協力した警防団員の死傷者500名超という、惨憺たるありさまだった。特に、消火消防の熟練隊員たちを一気に125名も失い、多くの隊員が重軽傷を負ったのは、東京都(1943年より東京府→東京都)の市街地消防にとっては致命的だった。たった2時間半の空襲で、市街地の消防組織は壊滅した。
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 燃えるものはすべて燃えつくし、ようやく延焼の火も消えつつあった翌3月11日、19歳の少女が巣鴨の住居焼け跡の防空壕からヴァイオリンケースを抱えながら、ひたすら日比谷公会堂をめざして歩きはじめた。顔はススで黒く汚れ、着ているものは汚れたブラウスにズボンでボロボロだった。あたりは一面の焼け野原で、日比谷の方角がどこだかさっぱりわからなかったが、カンだけを頼りに南へ向かって歩きつづけた。
 やがて、焼けていない日比谷公会堂がようやく見えはじめると、大勢の人々が少女へ向かって歩いてきた。そして、彼女とヴァイオリンケースを目にしたとたん、あわてて歩いてきた道を引き返していった。そのときの様子を、向田邦子Click!が「少女」にインタビューしているので、1977年(昭和52)発行の「家庭画報」2月号から引用してみよう。
  
 最も心に残る演奏会は、東京大空襲の翌日、日比谷公会堂で催されたものだという。/すでに一度焼け出され、避難先の巣鴨も焼夷弾に見舞われた。ヴァイオリン・ケースだけを抱えて道端の防空壕に飛び込み命を拾った。こわくはなかった。明日演奏する三つの曲だけが頭の中で鳴っていた。/一夜明けたら一面の焼野原である。カンだけを頼りに日比谷に向って歩いた。公会堂近くまで行くと、沢山の人が自分の方へ向ってくる。その人達は、巌本真理を見つけ、“あ”と小さく叫んで、くるりと踵を返すと公会堂へもどって行った。恐らく来られないだろうと出された“休演”の貼紙で、諦めて帰りかけた人の群れだったのである。その夜の感想はただひとこと。/「恥ずかしかった……」/煤だらけの顔と父上のお古のズボン姿で弾いたのが恥ずかしかったというのである。明日の命もおぼつかない中で聞くヴァイオリンは、どんなに心に沁みたことだろう。その夜の聴衆が妬ましかった。
  
 公会堂では、「来られない」ではなく「大空襲で焼け死んだかも」とさえ思い、休演の貼り紙を出したのかもしれない。「あ」は、「あっ、生きてた!」の小さな叫びだろう。一夜にして、死者・行方不明者が10万人をゆうに超える大惨事だったのだ。
その後、巌本真理がコンサート会場である日比谷公会堂まで歩いたのは、第1次山手空襲の翌日=同年4月14日(土)であることが判明Click!した。彼女はそのときの空襲を「東京大空襲」と表現したため、向田邦子は当然同年3月10日の翌日と解釈したようだ。
 巌本真理(メリー・エステル)の演奏に聴き入る聴衆の中には、前日の空襲で焼け出され火災のススで黒い顔をした、着の身着のままの人々もいたにちがいない。この夜、演奏された3曲とはなんだったのかまで向田邦子は訊いていないが、すぐにブラームスの話に移っているので、演奏が許されていたブラームスのソナタが入っていた可能性が高い。
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 前夜、M69集束焼夷弾が雨あられのように降りそそいだ、生き死にのかかった(城)下町Click!の夜に聴く、たとえばブラームスのヴァイオリンソナタ第1番Click!は、はたしてどのように響いたのだろうか。明日死ぬかもしれない中で聴くブラームスは、美しい湖の避暑地に降りそそぐ雨の情景などではなく、ヴァイオリンのせつない音色に聴き入りながら、前日まで生きていた人々を想い浮かべつつ、よく生きのびて、いま自分がこの演奏会の席にいられるものだという、奇蹟に近い感慨や感動を聴衆にもたらしたかもしれない。

◆写真上:古いステーショナリーを集め、向田邦子ドラマClick!のタイトルバック風に気どってみた。擦りガラスの上に載せ、下からライトを当てないとそれっぽくならない。古いアルバムとドングリの煙草入れは、二度にわたる山手空襲をくぐり抜けた親父の学生下宿にあった焼け残りだが、現代のロングサイズ煙草は入らない。
◆写真中上:東京各地で行われた、さまざまな防空演習で新宿駅舎(現・新宿駅東口)の演習()に大病院の演習()、毒ガス弾の攻撃に備えてガスマスクを装着した東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)の防空演習()。
◆写真中下は、1945年(昭和20)1月27日の銀座空襲で消火にあたる防護団の女性。同爆撃は局地的なものだったので、消火作業をする余裕があった。は、偵察機F13が同年3月10日午前10時35分ごろに撮影したいまだ炎上中の東京市街地。
◆写真下は、空襲前の1944年(昭和19)に撮影された日比谷公園(上)と、戦後の1948年(昭和23)撮影の同公園(下)。は、日比谷公会堂の現状。は、ヴァイオリニストの巌本真理(メリー・エステル/)と向田邦子の左眼()。向田邦子の瞳には、敗戦から18年で自裁するカメラマンだった恋人の姿が映っている。

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ブートレグより正規盤がダメなアルバム。 [気になる音]

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 きょうの記事は、落合地域とその周辺の地域あるいは江戸東京地方とはまったく関係のない音楽がテーマなので、興味のない方はさっさと読みとばしていただければと思う。
  
 ブートレグ(海賊盤・私家盤)Click!は音が悪いというのは、わたしが学生時代ぐらいまでの話で、1990年代以降はかなり音質のいいブートレグが出まわりはじめた。デジタル機器の普及によるのだろう、80年代以前の録音とは、比べものにならない品質のサウンドが急増している。また、ジャケットもLP時代の味も素っ気もないものから、グラフィックデザイナーが手がけたような、ちょっとこじゃれたパッケージが目立っている。LP時代の海賊版ジャケットといえば、手づくり感満載で版ズレや文字のにじみ、版下の傾きなどあたのまえ、ジャケットの紙質も実に粗悪なものが多かった。
 そもそもブートレグは、多くの国々では違法行為なのだが、ライブやコンサートの会場で違法録音している例は意外にも少ない。エアーチェック盤と呼ばれる、当日のコンサートやライブをラジオやTVなどで中継したサウンドを、リスナーが手もとのレコーダーで必死に録音し、それをLPやCDに焼いてこっそりとカタログに掲載するケースがいちばん多い。ポップスやクラシックでは、これらの行為は法的に厳しく追及されているが、JAZZやロックの場合は少々事情が異なる。
 もちろん、JAZZとロックはライブやコンサートのたびに、同一の曲目といえどもすべて異なるインプロヴィゼーション(即興演奏)のため、二度と同じ(類似の)演奏が聴けないことから、ミュージシャンの音楽的なステップやサウンドの変遷を知るうえでは、かけがえのない貴重な音源であり、「ブートレグ文化」は1級の史的な資料となる。中には、リスナーからではなくTVやラジオの放送局、あるいはライブやコンサートの主催者や団体から流出したらしい音源もあったりするので、そのようなブートレグはことのほか音質がよいケースもある。
 学生だった1980年前後、1枚のブートレグを必死に探していたのを憶えている。10年前の1970年、イギリスのワイト島Click!で開催されたワイト島ミュージック・フェスティバルに出演した、マイルス・デイヴィス・セプテットの海賊版が、イギリスで発売されていたからだ。同フェスは、イギリスのテレビ局が中継録画しており、もしも流出したのがその音源だとすると、かなり高品位な音が期待できたからだ。チック・コリアとキース・ジャレットのダブルkeyも、大きな魅力だった。1970年代末、マイルスは沈黙したままで新盤が出ず、彼のフリークたちはいまだ未聴のブートレグでも漁るしか楽しみがなかった。いまだ、『AT The Isle of Wight』(Videoarts Music)のビデオやDVDなど、どこにも存在しなかった時代の話だ。
 くだんのブートレグ『WIGHT!/Miles Davis』(LP)を、ようやく聴けたときには狂喜したが、少なからずガッカリもした。音源はテレビで放送されたものを、家庭用のテープレコーダーで録音したらしいのだが、当時の受像機の性能からか、ひどく貧弱なサウンドに聴こえた。くぐもったような劣悪な音質でひずみも多く、音楽を鑑賞するというより、史的な資料音源としては貴重だな……ぐらいの感想だった。おしなべて、ブートレグの音質は私的に録音されたせいか痩せていて貧弱で、同じ演奏を収録した正規盤がのちに発売されたりすると、驚くほどクリアな音質に感激した憶えは一度や二度ではなかった。
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コルトレーンLPブートレグ1.jpg コルトレーンLPブートレグ2.jpg
コルトレーンLPブートレグ3.jpg コルトレーンLPブートレグ4.jpg
 だが、例外もある。ブートレグではなく、双方ともに正規盤なのに、まったくサウンドが異なってしまった(悪化した)ケースだ。以前にも、こちらで記事にしたことがあるけれど、マイルス・デイヴィス(tp)の『アガルタ』Click!が好例だろうか。当初、発売されたオリジナルLPは、マイルス自身とプロデューサーのテオ・マセロの編集の手が入ったサウンドであり、それをデフォルトディスクとして聴きつづけてきた。ところが、CD化されたとたん、バランスが悪く妙なところでssやel-gがやたらと張りだし、まったく異質なまとまりのないサウンドになってしまっていた。
 1990年代のJAZZレコード業界では、テープ倉庫から演奏当初のマザーテープを発掘し、デジタルでCDにプレスするという仕事が一大ブームになっていた。テープ倉庫を専門に調査する、「発掘男(Excavator)」などと呼ばれる業界人も登場していたくらいだ。くだんの『アガルタ』も、単純にマザーテープの録音を野放図にそのままプレスするという、同アルバムと『パンゲア』に関しては、「やってはいけないこと」をやってしまったのだろう。(もっともマイルスとテオ・マセロによる意識的な録音編集は、1969年の『IN A SILENT WAY』からとされているが……)
 おかしなサウンドで楽器の音が散らかったままバラバラ、オリジナルのLPとはまったく別モノになってしまったCD版の『アガルタ』と『パンゲア』について、「音がヘンだよ、おかしいよ!」という批評家が現れなかったので、念のためCBSソニーへ問い合わせてみた。すると、やはり音源は倉庫にあったマザーテープからで、マイルスとテオ・マセロの編集テープが当時、どうしても見つからず行方不明であることがわかった。でも、2010年に米コロンビアから発売された。『The Complete Columbia Album Collection』を聴くと、LP発売当初のオリジナルサウンドへともどっているので、その後、米国のCBSかコロンビアの倉庫で編集テープが見つかったのだろう。以来、両作は日本公演にもかかわらず、米国のオリジナル編集版のCDを聴くようになった。
 さて、ブートレグに話をもどそう。1980~1990年代にかけ、もっとも多く出まわっていたブートレグLPはといえば、もちろん人気が圧倒的に高かったマイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーン(ss、ts、fl)の演奏だった。1990年代に入り、CDが爆発的に普及するようになると、LPよりもはるかに制作しやすい海賊版CDが急増することになる。そんな中でひそかに発売されたのが、『A DAY BEFORE』(MEGADISK/1998年)だ。1985年7月13日に、オランダのハーグで開催されたノース・シーJAZZフェスティバルに登場した、マイルス・デイヴィス・グループの全演奏を収録したものだった。
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 オランダのテレビ局が中継録画していた同演奏は、数日後にいち早く録音がFM-TOKYOにとどき、わたしは高価なメタルテープを用意して、エアチェックをしようと待ちかまえていた。ところが、マイルスの演奏(1曲目の『ONE PHONE CALL』)がスタートしているにもかかわらず、DJのしゃべりが終わらない。同フェスティバルについての解説をつづけ、背後でペットが鋭く響きわたっているのに話をやめない。スタートしてから数分がたち、ようやく「では、お聴きいただきましょう」と話を切りあげたころには、マイルスのソロは半分ほど終わってしまっていた。「こいつ、バカなのか?」とDJにキレながら、それでも録音したのを憶えている。ところが、これはDJが悪いのではなかった。オランダのテレビ局が、録音の大失敗をやらかしていたのだ。
 それが判明したのは、ブートレグ『A DAY BEFORE』を入手してからだ。冒頭の曲からして、おそらくマイクケーブルの接続ミスか端子の接触不良、ないしはいずれかのサウンド入力機器の不具合なのだろう、演奏音が大きくなったり小さくなったりとメチャクチャだ。つまり、FM-TOKYOのDJは、録音に失敗して演奏がメチャクチャなところに、解説をかぶせてフォローしていたわけだ。1曲目の半ばから、ようやく安定したように聞こえるのだけれど、その後もときどき音のバランスが崩れ不安定になる。同フェスで、マイルス・グループは13曲(メドレーを含めれば14曲)を演奏しているが、サウンドの不安定感は最後まで変わらなかった。
 それから15年がすぎた2013年、オランダからようやく正規盤の『NORTH SEA JAZZ LEGENDARY CONCERTS/Miles Davis』(AVRO/NTR)が発売された。よりまともな音が聴けると思ったわたしは、さっそく購入したのだが、これがまったくの期待外れだった。先の1998年に発売されたブートレグよりも、音質がはるかに劣悪なのだ。録音の失敗をカバーしようとしたのか、サウンドのヘタな編集作業をしつづけて、もとの演奏録音を台なしにしてしまった……というような出来だった。ブートレグのほうが不安定とはいえ、はるかにオーディオClick!から流れる音が鮮明で響きもよく、演奏の熱気がストレートに感じられるのに、正規盤はサウンド全体がくぐもっており、まるで水中にもぐったまま演奏を聴いているような、無残な仕上がりになっていた。
 同演奏では、録音機器ばかりでなくPA装置も不調だったらしく、正規盤『NORTH SEA JAZZ LEGENDARY CONCERTS/Miles Davis』にはコンサートのDVDも付属しているが、背後をふり返ってPA機器を指摘するボブ・バーグ(ss、ts)や、怒気を含んだけわしい表情で音響スタッフを呼ぶジョン・スコフィールド(el-g)の姿がとらえられている。マイルスが残した、1980年代のコンサートではもっとも好きな演奏なだけに残念でならない。『アガルタ』や『パンゲア』とはまったく逆に、ヘタな編集などいっさいせずブートレグの音質のまま、つまり録音の失敗が露わなマザーテープのまま、正規盤を出してくれればよかったのに……と、切に思ったしだいだ。
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 1990年代へと向かうマイルスの『トスカ』構想にからめ、復帰後の録音を追いつづけて「マイルス論はどんなものが出るか、赤痴(アカ)に白痴(バカ)と言わせるなよ」と書いたのは平岡正明だが、「白痴(バカ)」を承知でいわせてもらえば、1985年の演奏で唯一、ヴィンセント・ウィルバーンJr(ds)の存在がいただけない。マイルスの甥だというだけで、グループに入れたのかどうかは知らないが、微妙なタメをつくってリズムに“後ノリ”する場ちがいなドラマー(生来のリズム感なのだろう)が在籍中は、演奏の足を引っぱっているような気がしてならない。それまでのドラマーはリズムに“前ノリ”し、文字どおり前のめりの疾走感と、独特な緊迫感のある演奏を繰り広げたのではなかったか? だが、80年代半ばのグループはマイルスの悪い右足ではないが、少し足を引きずっている。

◆写真上:1991年に死去する直前、最晩年に撮影されたマイルスのポートレート。
◆写真中上:1960~70年代にかけて登場した、マイルスとコルトレーンのブートレグLPジャケット。版ズレや印刷の不鮮明、版下の傾きなどはあたりまえだった。
◆写真中下が、1985年7月13日のノース・シーJAZZフェスティバルでの演奏を収録したブートレグ『A DAY BEFORE』(MEGADISK/1998年)のジャケット表裏。が、同録音の正規盤となる『NORTH SEA JAZZ LEGENDARY CONCERTS/Miles Davis』(AVRO/NTR/2013年)のジャケット表裏。ブートレグのほうが優れたサウンドで、編集で音をいじりすぎたため正規盤の音質がひどくなった典型的なケースだ。は、同日のコンサートをFMからエアチェックした懐かしいメタルテープ。
◆写真下:現在、膨大な「作品」がリリースされているマイルスのブートレグCDの一部。

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久しぶりに「Stereo Sound」を眺めると。 [気になる音]

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 きょうは、落合地域やその周辺、さらに江戸東京地方とはまったく関係のない記事だ。音楽やオーディオに興味ない方は、どうぞ読み飛ばしていただきたい。
  
 昨年の暮れ、季刊「Stereo Sound」誌が200号を迎えたというので、久しぶりに買ってはみたけれど、そのまま読まずにCDラックの中へ入れっぱなしにしておいた。ベルリンPhレコーディングスが制作している、付録のSACDにも惹かれたのだが、“おまけ”のディスクだけ聴いて本誌は開かないままだった。だが、ほんとうに久しぶりに同誌を読んでみて、わたしがほとんど“浦島太郎”状況なのに気がついた。
 最後に「Stereo Sound」を手にして読んだのは、もう20年近くも前のことで、それ以来、特にオーディオ装置Click!には不満をおぼえず音楽を聴いてきた。だから、かなり高価な同誌を買って情報を手に入れる必要がなくなり、ごく自然に離れてしまったのだ。わたしはオーディオマニアではないので、先のベルリンPhでいえば、せいぜいC.アバドの時代ぐらいまでで、SACDをみずから制作するS.ラトル時代のベルリンPhは、さほど録音など気にすることもなく、そのまま現装置でふつうに聴いてきた。
 そもそもディスク会社(いわゆるレコード会社)が、確実に売れるCD(レコード)しか制作しなくなり、それも売れなくなって青息吐息なのは知っていた。だが、思いどおりのCDを制作してくれないレコード会社を見かぎり、オーケストラ自身がCDを制作し音楽データサイトを起ち上げて販売する「直販」システムが、ここまで広まりつつあるのは知らなかった。BPhレコーディングスもそうだが、ロンドンOのLSOライブやロイヤル・コンセルトヘボウOのRCOライブなども、みなオーケストラ直営のレーベルだとか。確かに、音楽のカテゴリーを問わず、オーケストラやビッグバンドの演奏を録音することは、莫大な経費の発生とリスクを覚悟しなければならない。
 いまの若い子たちは、そもそもCDさえ買おうとはしない。好きな曲があれば、アルバムではなく1曲ごとにダウンロードし、ローカルのスマートデバイスで気が向いたときに聴くだけだ。街中からレコード店が次々と消滅していったのと、スマートデバイスの普及はみごとにシンクロしている。さすがに、録音時間の長いクラシックはCDが主流だったが、それでも通信速度が1Gbps時代を迎えたあたりからPCや専用コンソールへダウンロードし、オーディオ装置に接続して直接データを再生するファンが増えている。つまり、ディスクというメディア自体が不要な時代を迎えたわけだ。
 音楽業界でも、本の世界とまったく同じ現象が起きていたことがわかる。つまり、あらかじめ売れると営業判断されたレコーディングしか行われず、できれば定評のある過去の「名盤」だけをプレスしていれば、なんとか各ジャンルごとの部門ビジネスをつづけられる……というような事業環境だ。だから、よほど売れそうなミュージシャン(の演奏)でないかぎり、新盤を制作するプロジェクトは「冒険」と考えられ、クラシック(JAZZも同様だろう)などのジャンルだと音楽家の想いどおりのアルバム(CD)など、まず制作することが不可能になった。だから、音楽家やオーケストラ自身が直接CDをプレスするか、音楽データサイトを構築してサウンドデータを直販するのは必然的な流れだったのだろう。1980年代から90年代にかけて、世界じゅうの音楽会社が競い合うようにいい録音を繰り返し、多彩なコンテンツを制作していたころが、まるで夢のような状況になっている。
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 ちょうど、ある分野では重要で十分に意味のある内容なのに、本の量販が見こめないため首をタテにふらない出版社を見かぎり、やむなく著者がネット出版に踏みきるのと同様の流れだ。これは、レコード会社や出版社にしてみれば、一時的に「リスクと赤字を回避した」ように見えるけれど、もう少し長めのスパンで考えた場合のより危機的で深刻なリスク、すなわちメディア(ディスクや本など)自体がそもそも消滅しつつある事態に拍車をかけている……ということになる。徐々に、ときには急激に、マーケットが縮小する「自主制作」へのシフトは、書籍よりも音楽の世界のほうが速いのかもしれない。
 いまの若い子たちは、オーディオ装置さえ持っていない。わたしのいうオーディオ装置とは、スマートデバイスに付随するイヤホンやヘッドホン、小型スピーカーではなく、TVモニターの周囲に展開され通常「AV」と呼称される、映像をともなうサラウンドシステムでもない。できるだけライブハウスやコンサートホールに近い空間のサウンドをめざし、純粋に音楽を再生する機器群、すなわちアナログ/デジタル各ターンテーブルやDAコンバータ、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカー、イコライザー、各種レコーダー……などの装置を組み合わせたものだ。
 いつか、子どもにFOSTEXの自作スピーカーとプリメインアンプ、CDプレーヤーを買ってあげたらほとんど興味を示さず、音楽はおもにヘッドホンで聴いていた。そのうち、お小遣いをためてステレオCDラジオを買っていたが、それもスマホが手に入るとあっさり不要になった。でも、音楽をちゃんと空気を震わせてリアルに聴きたいという欲求はあるらしく、ときおり椎名林檎Click!のCDやDVDを、わたしのオーディオ装置で聴いていた。
 なにが「いい音」なのか、あるいはどのような「音がリアル」なのか、おそらく音楽におけるサウンドの定義からして、わたしとはかなりズレがある世代なのだろう。深夜にヘッドホンで、大きめに鳴らすレスター・ケーニッヒの西海岸Contemporaryサウンドもいいけれど、やはりJAZZClick!やクラシックなどの演奏は実際の音で、空気をビリビリClick!震わせる少しでもリアルな空間で聴きたくなるのだ。
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 「Stereo Sound」200号を眺めていたら、SACDプレーヤーがずいぶん安価になり、手に入りやすくなっているのに気づいた。同時に、さまざまなオーディオ機器が目の玉が飛び出るほどの価格になっていることに唖然としてしまった。20年前と同じレベルの装置が、2倍あるいは3倍もするのに呆れ果ててしまった。ちょっとしたアンプやスピーカーは、100万円以下のものを探すのさえむずかしい。国産の中型スピーカーでさえ、従来は30~50万ほどでそれなりに品位が高く非常に質のいい音を響かせていた製品が、100万円を超えるのだからビックリだ。アンプにいたっては、もはや冗談としか思えないような値段の製品が並んでいる。これもまた、若い子のオーディオ離れとスマートデバイスの普及にシンクロした、先細りをつづけるマーケットにともなう現象なのだろう。
 それなりの品質をしたオーディオ機器は、各メーカーとも小ロット限定生産どころではなくなり、限りなく個別受注生産に近づいてしまったため、この20年間でとんでもない値上がりをしてしまったのだろう。また、大手オーディオメーカーの内部でさえ事業を支えきれなくなり、独立した技術者たちが新たにガレージメーカーを起ち上げ、良心的な製品を提供するとなると、「これぐらいの価格は覚悟してください」ということなのかもしれない。デフレスパイラルがずっとつづいてきた中、これほど高騰をつづけた製品分野もめずらしいのではないだろうか。
 そんな中で、がんばっているメーカーもある。高価なのでなかなか手に入れられず、せめてJAZZ喫茶やライブスポットなどでサウンドを楽しむだけだった、アンプ(とスピーカーXRTシリーズ)のマッキントッシュ(McIntosh)社だ。音楽好き(特にJAZZ好き)が「マッキントッシュ」と聞けば、アップル社のPCClick!ではなく、まずアイズメーターがブルーに光る同社のアンプをイメージするのは、いつかの記事にも書いたとおりだ。たまたま「Stereo Sound」200号には、同社の訪問記や社長・社員へのインタビューが掲載されているが、製品のラインナップと価格は20年前とそれほど大きく変わってはいない。一時期は日本のクラリオンに買収され、どうなってしまうのかと案じていたけれど、なんとか危機を脱して新社屋や開発研究拠点を建設し、米国の精緻な職人技を受け継いで、R&Dも含め経営は安定しているらしい。ちなみに、何十年にもわたって精緻な技術を支えている職人たちに女性が多いのも、同社の大きな特徴だろう。
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 残念な記事も載っている。わたしがサウンドの指針(師匠)として昔から頼りにしていた菅野沖彦が、数年来の病気で同誌の執筆を中止していることだ。このサイトでは、三岸節子Click!の再婚相手である菅野圭介の甥として、三岸アトリエClick!を訪れた菅野沖彦Click!をご紹介している。「Stereo Sound」誌を買うのは、彼が新製品や新たに開発された技術によるサウンドに対し、どのような受けとめ方や感想を述べるのかが知りたかったという側面も大きい。お歳からして無理なのかもしれないが、可能であれば執筆を再開してほしいと切に願うしだいだ。
 こんな記事を書いていたら、無性に音楽が聴きたくなった。夜中なので大きな音は出せないが、いまターンテーブルに載せたのはJAZZでもクラシックでもなく、丸山圭子の『どうぞこのまま』Click!。オーディオ+音楽文化が滅びませんよう、どうぞこのまま……。

◆写真上:「Stereo Sound」の名機たちにはとても及ばない、わが家の迷機の一部。
◆写真中上は、読んでいるだけで楽しかった1980~90年代の「Stereo Sound」表紙。掲載されている製品は、当時からほとんど手が出ないほど高価だった。は、長期間にわたり「Stereo Sound」誌のリファレンスモニターだったJBL4344の“顔”。
◆写真中下は、ニューヨーク州ビンガムトンにあるマッキントッシュ・ラボラトリー本社。は、JAZZ用のアンプリファイアーとして憧れのコントロールアンプC52。
◆写真下は、ベルリンPhレコーディングが制作したS.ラトル指揮のベートーヴェン・チクルス。日本で買うと非常に高価なので、ドイツに直接注文したほうが安く手に入りそうだ。下左は、1967年(昭和42)の創刊号から数えて「Stereo Sound」創刊50周年・200号記念号。下右は、執筆活動を再開してほしい菅野沖彦。

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昔とはちがう現代学生気質(かたぎ)。 [気になる音]

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 久しぶりに、都内にある某大学のキャンパスへ出かける機会ができ、キャンパスじゅうを歩いて学生たちと話をしてきた。学食でランチを食べたり、史的資料がぎっしり詰まった研究室で休息したりと、なんだか学生時代にもどったような懐かしい1日だった。学食のメニューは信じられないほど充実しており、400円も出すとボリュームたっぷりの豪華なメニューが食べられる。有名な洋食屋と大学との協同運営で、ステーキランチ650円にはビックリした。わたしが出た1970年代後半から80年代にかけての大学とは、“食糧事情”が雲泥の差なのだ。わたしの時代には、学生会館にあったほとんど具の入っていない、学食の100円カレー(のち150円に)が人気だった。
 ところで、いまの大学キャンパスを歩いてみて、いちばん印象深く感じたことは、女子学生の数がやたら多いということだ。わたしがうかがったのは各学部が揃っている総合大学のはずなのだが、キャンパスはまるで女子大学へ出かけたようだった。この現象は、別にこの大学に限らず、わたしの母校にも常々感じていることだ。男子学生の数が相対的に減ってしまったものか、キャンパスを往来するのは女子学生ばかりが目につく。(もっとも、そもそも講義へ出てこない男子学生は、割り引いて考えなければならないだろう) 今回は、学生たちへの取材で出かけたのだが、教授たちが紹介してくださった学生10人のうち、なんと9人までが女子学生だった。女子の割合がなんと90%。おかげで、話をするのがちょっとタイヘンだったけれど。w
 わたしは知らない世代に属するのだが、1970年代末からスタートした共通1次試験とか、つづく大学入試センター試験の影響で、着実かつ地道にステップ・バイ・ステップで学習を積み重ねている、まじめで勉強をサボらない子たちが有利になり、わたしのようにいつもは遊んでいるのに、大学入試ではなんとか一発花火を打ち上げて、あわよくば合格ラインにひっかかってやろう……などという、ふとどき千万な生徒が激減したものだろうか。必然的に、ふだんから授業をちゃんと聴いてノートを几帳面にとっている生徒が多い、女子が有利になるのかもしれない。おそらく、いまわたしが受験をしたら、「もうちょっとマジメに高校で勉強して、成績がマシだったらよかったのにねえ」……と、内申書レベルですぐにハネられるような気がする。
 驚くことは、まだある。教授と学生との距離が、わたしたちの時代に比べてかなり近接しているのだ。わたしの時代も、3・4年生になると専門別のゼミでは少人数のため、教授とはかなり親しく接することができたけれど、いまは入学したばかりの1年生(100人単位の大教室時代)から、気に入った講義の教授へ気軽に話しかけて勉強や進路のこと、あるいはさまざまな学内の相談事などを持ちこめるシステムのようだ。教授のほうも面倒がらず、ひとつひとつの相談にのってあげている様子には感心してしまった。わたしの時代なら、「自分で考えてなんとかしろ」と突き放していわれてしまいそうなことにも、きちんと対応しアドバイスしてあげているらしい。少子化のせいで、大学の評判や学生の質をたいせつに考えてのことなのだろうが、とてもうらやましく感じた点だ。
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 履修科目の選択や進路の相談では、大学に専門の相談窓口があるのもうらやましい。また、どの科目を履修すればどのような資格が取得できるのかも、すべて目的別やコース別で細かく相談にのってもらえる。わたしの学生時代は、ぜんぶ自己管理の自己責任でカリキュラムを組み立てて、必要な単位を履修しなければならず、細かなことまで相談できる専門窓口などほとんど存在しなかった。学部ごとに学生課はあったが、おもな業務は必要な書類などをやり取りするカウンター窓口であり、なにか気軽に相談を持ちこめるような部局ではなかった。
 大学の評価や実績に直結するからだろう、就職のサポートもたいへん親切で手厚い。わたしの大学にも就職課は存在したが、利用したことがないので詳細はわからない。でも、傍らで友だちが利用しているのを眺めていると、まるでハローワークか不動産屋のような雰囲気だったのを憶えている。就職課の掲示板に張り出されている、各社の求人・募集の貼り紙をメモして相談カードに書きこみ、「ここの入社試験を受けてみたいんですけどぉ」とカードをカウンターに提出すると、係員が学生の学部や学科を見て「うーーん、キミは資格とかちゃんと取ってるの? なにか履歴書の資格欄に書きこめるものがないと、ここの1次書類審査は狭くてキビシーんだよ~ん」とか、「この会社は地方とか海外勤務が多いから、覚悟して入社しないと転職したOBが多いよ~ん」とか、そんなレベルの応談だった。ところが、今日の大学では就きたい仕事や方向性が漠然とでも見えていれば、1年生から相談にのってくれるそうだ。つまり、いまだ曖昧な将来の“夢”や仕事のイメージレベルから、履修しておいた方がいい科目のアドバイスにさえのってくれる。
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 こうまでいたれりつくせりだと、学生の自主性や主体性が育たないじゃないかなどという懸念Click!がアタマをもたげてくるのだけれど、どうやらそんな心配は杞憂のようだ。もちろん、個々の学生の性格にもよるのだろうが、少なくともわたしが取材した学生たちは、自分でしっかり自律して目的意識をもった学生生活を送らないと、面白くて充実した勉強が思うように進まないし、まずは自身が積極的に動きまわり視野を広げて多角的に学問をとらえ、興味のある研究テーマを早く見つけて主体的に取り組んでいくことがとても重要で大切だと思う……と、わたしの学生時代では信じられないような、強い問題意識や主体性をもった答えが返ってきた。別に、近くに担当教授や大学関係者がいて、彼らの言葉に聞き耳を立てているわけではなく、ラフな雰囲気で雑談風に訊ねたことに対する彼らの回答だ。わたしのように、とりあえずはこの大学に入って、それからなにかを探してみようか……などという、いきあたりばったりな姿勢ではないのだ。
 ことさら、教授たちに紹介いただいた優等生に取材をした……という側面は否定できないけれど、学食やラウンジで他の学生の話に耳を傾けても、おしなべて彼女たち(彼ら)は真摯でマジメな雰囲気であり、くわえタバコで競馬新聞を拡げながら長椅子に寝っ転がっている(爆!)、大学のラウンジだか競馬場だかわからないような風情は、もはやどこにも存在していない。あるいは、キャンパスはきわめて清潔で美しく、もちろん立て看やところ狭しと貼られたサークルのポスター、風に吹かれてキャンパスに舞う夜目にも白いビラなど絶無だ。サークルのポスターや告知ビラなどは、ちゃんと「学生自由掲示板」に行儀よく貼られていた。
 この大学環境を、「きちんと勉強しやすい、理想的な学府の姿だ」ととらえるか、「問題意識のレベルが現象面を脱しておらず、管理され飼いならされた羊ちゃんのようだ」ととらえるかは、各時代の世相を背景に大学生活を送った世代によって、おそらく千差万別だろう。少なくとも、勉強や研究というテーマのみに絞れば、わたしには非常にいい環境のように映るのだけれど、それでは得られない多彩な人間関係や、4年間しか許されない知的経験とそれ以外のさまざまな体験を味わうには、どこか高校生活の延長線上のような気がして、ちょっと物足りなく感じるのも確かなのだ。
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 まかりまちがっても、「我々は~理工学部のスト突入を最後とし~圧っ倒的な力を結集して~諸君とともに~全学バリストを克ちとり~今回の~学費値上げ阻止斗争を契機として~わが学園の自治破壊をもくろむ~大学当局の~分断マヌーバを粉砕し~歴史的な転回点をうつために~最後まで~徹底した要求貫徹と~来たるべき総長団交の~圧っ倒的な勝利をめざして~全学的に~断固起ち上がることを~改めてここに~宣言する!」というようなw、尻あがりの聞きづらい学生アジ演説Click!など、もはや風の音ばかりで、どこからも聞こえてきはしない。静寂なキャンパスの高層化した学舎の窓をたたくのは、遠くで救急車のサイレンが混じる、風の音だけだ。

◆写真:わたしが訪問した大学と、掲載している大学の写真とは関係がありません。


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深夜に聴く小学生のあこがれサウンド。 [気になる音]

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 このところ、お隣りで好物のギョウザや鶏肉をもらって食べているタヌキたちが、ときどき縄張りのネコを牽制して脅かしているのか、なんともいえないすさまじい声をあげて鳴くことがある。暗くなると、3~4匹のタヌキが家のまわりをウロウロして、晩秋の“食いだめ”をしているようだ。
  
 わたしはませた子どもだったので、小学生のころからラジオの深夜放送をよく聴いていた。当時はめずらしかった、秒針がなめらかに動く目ざまし電気時計に付属していた粗末なラジオで、音質はひどく、最悪だった。イヤホンを耳に、それを親に隠れて寝床の中で聴いていたのだ。「パック・イン・ミュージック」(TBSラジオ)とか、「オール・ナイト・ニッポン」(ニッポン放送)をよく聴いただろうか。「セイ・ヤング」(文化放送)は、少し遅れてスタートしたように記憶している。真っ暗な中、布団の中で聴くわけだから、ときに眠ってしまうこともめずらしくなかった。もう少し音質のいい、ナショナルの「ワールドボーイ」を買ってもらったのは、中学に入学してからのことだ。
 時計ラジオが置かれた横には、小学館版『少年少女世界の名作文学』(全50巻)が並んでいたけれど、親が買ってくれたこの全集は半分も読まなかったのではないか。むしろ、親父の書棚からこっそり『戦艦大和ノ最期』Click!とか、『風立ちぬ』、『古寺巡礼』、『硝子戸の中』、『芝居台詞集』、『浮世絵全集』などを抜き出しては、勉強をしているフリをして読んでいた。親に気づかれるとまずいので、たいがい夕食前には元へもどしておいたのだが、翌日になると再び抜き出してはつづきを読んでいた。親にあてがわれた本を、わたしは熱心に読んだ記憶がない。
 中でも、漱石の『硝子戸の中』はどこがどう面白かったものか、小遣いを片手に生まれて初めて書店で買った本は、つい最近まで手もとにあった旺文社文庫版の『吾輩は猫である』だ。わたしはさっそく親父をマネて、この薄緑色でしゃれた装丁の内扉に、蔵書印ならぬ郵便小包の受けとり用“みとめ印”を押している。こういう、どうでもいいこと、あるいはどうしようもないことにこだわるわたしの妙な性癖は、今日にいたるまでそのまま治らずにつづいている。
 さて、その当時聴いていた深夜放送からは、さまざまな歌声が流れてきた。1964年(昭和39)の東京オリンピックが終わって、数年たってからのことで、印象的だったのは浅川マキや長谷川きよし、加藤登紀子、新谷のり子、カルメン・マキなどの歌だろうか。どこか、大人の世界がプンプン匂うような、そんな歌声に強く惹かれたのを憶えている。これらの曲を楽しんだ翌朝、学校の教室で意識朦朧としていたわたしは、教師に指されたのも気づかないことがあった。
 1960年代後半の深夜は、外からいろいろな物音が聞こえてきた。通奏低音のように響く相模湾の潮騒や、ときおりユーホー道路Click!(湘南道路=国道134号線)を走るクルマの音にまじって、フクロウだかミミズクが鳴くのを聞いたのもこのころのことだ。でも、この鳴き声は西湘バイパスが完成してユーホー道路の交通量が急増し、防風・防砂用のクロマツ林にヘリコプターによるDDTの空中散布Click!がはじまったころから、まったく聞こえなくなった。
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 遠くで、ラッパが鳴っていたのも憶えている。トランペットのようなキラキラした音ではなく、豆腐屋が吹くラッパのような物寂しく枯れた音色でもない。最初は、誰かが海岸に出て、深夜の浜辺でトランペットの練習をしているのかと思った。でも、たった一度だけ鳴ってすぐに消えてしまうラッパの音は、明らかに練習音ではなかった。この音色がなんだったのか、気がついたのはもう少し成長してからのことだ。「新兵さんはか~わいそ~だね~、また寝て泣くのかね~」と、陸軍の消灯ラッパだったのだ。おそらく、旧・陸軍の元ラッパ手が近くに住んでいて、ときどき深夜に懐かしんで鳴らしていたものか、それとも死んだ戦友たちを悼んで吹いていたのか、いまならすぐにもこのラッパ手を探し出して、お話を聞いてみたいところだ。
 当時は、お祭りへ出かけると、手足を爆弾や砲弾で吹き飛ばされた傷痍軍人たちが、陸軍病院を模した白い寝間着姿でアコーディオンやハーモニカを演奏しながら、通行人たちに土下座をして施しを受けている光景によく出くわした。「御国(みくに)」を守るために身体を張った傷痍軍人が、なぜ平和に暮らし祭りで遊ぶ人たちに土下座をしなければならないのか、小学生だったわたしにも理不尽に感じた姿だ。わたしの義父は、退役軍人なので軍人恩給を毎月もらっていたが、補充兵や動員兵として戦争末期に臨時徴兵された人の中には、きわめて短期間のために恩給対象から外れたり、戦後の混乱から記録が不十分で見つからず、恩給の認定から漏れた方々もいたものだろうか。ただ、これには後日譚があって、「戦争中はどう見たって小中学生じゃねえか、オレより若いだろ」と、親父が疑念をもちながら五体満足な「傷痍軍人」たちを眺めはじめたころ、組織的に集金するこの種の「詐欺団」が摘発されている。
 深夜放送でひときわ耳をそば立てたのは、新宿のライブハウスに忽然と姿を現わした浅川マキだった。この人が、寺山修司とのコラボ時代のことだろうか、ちょっとくずしたアンニュイかつ蓮っ葉な声で「♪夜が明けたら~、いちばん早い汽車に乗るから~・・・」と唄うのを聴いて、小学生のわたしはひとりで歩いたことさえない新宿駅から、いまだ経験のないひとり旅に出るワクワクと楽しい想像をしていた。汽車を乗り継いで出かける先は、毎日眺め暮らしながら育った、穏やかでやや食傷気味の太平洋ではなく、波が荒々しく紺色が濃いといわれるわたしにはあこがれの日本海だった。なぜか旅というと、そのころは日本海側の海岸線が多くイメージされていたように思う。
浅川マキの世界1970.jpg 長谷川きよし加藤登紀子LIVE1978.jpg
 当時の浅川マキに匹敵するインパクトや、オリジナリティ、圧倒的な存在感のある歌手は、いまの音楽界を眺めまわしても椎名林檎Click!ぐらいしか見あたらないな・・・などと、何年か前、高校生だった下のオスガキと話していたら、クラスには林檎ファンがたくさんいるという。いまや、音楽をめざす子や音楽好きな子にとって、椎名林檎はカリスマであり“神様”であり、もはや“伝説”なのだそうだ。うちには、ほとんどのアルバムやDVDがそろっているからと教えたら、さっそく家でDVDコンサートをやることになってしまった。下の子がいそいそと連れてきたのは、なんと全員が女子だったのだ。どうやら、椎名林檎は男子よりも圧倒的に女子のファンが多いらしい。
 アルバムやDVDを片手に、キャーキャー「これ聞きた~い!」などといっている彼女たちは、わたしが浅川マキの曲を聴いては、深夜あれこれ“大人の世界”をわくわく想像していたのと同様に、どんな夢を見ていたのだろう? 「〇〇パパ(〇〇は子供の愛称)、インプロヴィゼーションってなんですかぁ?」、「メロディラインのコード進行ないしはモードにのせて奏でる、アドリビトュムの演奏やヴォーカルのことだよ」・・・などと、女子高生たちにまじってウキウキはしゃぎながら、調子にのって“解説”していたわたしは、すぐに深く、深く反省している。男子ばかりで、やたら男くさい家の中にさんざん飽きていた、小学生のころから“お調子者”のわたしは、久しぶりに大勢の女子の匂いに囲まれて舞いあがってしまったのだ。
 深夜放送では、浅川マキばかりでなく長谷川きよしや加藤登紀子の曲も流れていた。少しあとの時代になるけれど、このふたりが歌った『灰色の瞳』は、いまでも諳んじている。その長谷川きよしと、椎名林檎がデュオで歌う『灰色の瞳』や『りんごのうた』、『化粧直し』、『別れのサンバ』などを聴いて、めずらしく全身がゾワゾワと総毛立ってしまった。歌や曲を聴いただけでそんな気分になるのは、実に何年ぶりのことだろうか。どこかで、40年以上も前の感性や感情が目をさまし、すり減った精神にちょいとイタズラをしたのかもしれない。そういえば、小学生のわたしは寝床の中でわけもわからないまま、ラジオから流れる大人たちの歌に涙を流したこともあったっけ。
椎名林檎「第一回林檎班大会の模様」2007.jpg 椎名林檎with長谷川きよし.jpg
 ラジオではなく、加藤登紀子が長谷川きよしをエスコートしてステージに登場するシーン(長谷川きよしは目が見えない)を、いつかTVで見たことがある。そのときは、なんら違和感をおぼえなかったのだが、ほとんど当時と変わらないサングラスでギターを抱えた長谷川きよしを、椎名林檎がエスコートするのを見て、思わず「あれ?」と思ってしまった。長谷川きよしが、やたら小さいのだ。「なぜ、1969年のボクの曲を林檎さんが知っているのか、非常に不思議ですが・・・」とMCで楽しそうに話す、ギターの腕も歌唱も衰えない長谷川きよしなのだが、“21世紀女子”の椎名林檎と並ぶと、いやでも40年以上の歳月を思い知らされる。
 久しぶりに、ラジオをこっそり寝床へ持ちこみ、イヤホンで深夜放送でも聴きながらゆっくり寝てみようか。でも、深夜の暗闇にいくら耳をすましても、「新兵さんはか~わいそ~だね~、また寝て泣くのかね~」の消灯ラッパは、もはやどこからも聞こえてきはしないだろう。

◆写真上:代官山UNITで開催された、椎名林檎と長谷川きよしのライブコンサート。椎名林檎『第一回林檎班大会の模様』のアルバムジャケットより。
◆写真中上は、2010年に亡くなった浅川マキ。下左は、その大半を読まなかった小学館版『少年少女世界の名作文学』(全50巻)の第1巻。下右は、真夜中に聞こえた旧・陸軍のラッパ。
◆写真中下は、1970年(昭和45)にリリースされたアルバム『浅川マキの世界』。は、1978年(昭和53)にリリースされたLPで加藤登紀子・長谷川きよし『LIVE』。
◆写真下は、2007年にリリースされ長谷川きよしとのデュオを収録した椎名林檎『第一回林檎班大会の模様』。は、ステージで長谷川きよしをエスコートする椎名林檎。


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