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淀橋浄水場が機能停止した関東大震災。 [気になるエトセトラ]

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 これまで、東京各地における関東大震災Click!の被害やエピソードをピックアップし、ときどき記事に書いてきたが、中でも落合地域とその周辺域の記事がもっとも多い。下落合のある目白崖線沿いは、武蔵野台地の豊島台と名づけられた丘陵地帯の南域の一部にあたるが、神田川をはさんでさらに南側は、淀橋台(下末吉段丘)という別名で呼ばれている。過去の記事を参照すると、落合地域を中心に豊島台の大震災記録か、あるいは東京市街地(東京15区Click!エリア)の記事が圧倒的に多く、すぐ南側に拡がる淀橋台の記事が意外に少ないのに気づく。
 淀橋台といってもピンとこない方も多いと思うが、町名でいえば戸塚(高田馬場)、早稲田、戸山、大久保(百人町含む)、新宿、千駄ヶ谷、四谷、市ヶ谷、神楽坂、飯田橋など坂道が多い丘陵地の市街のことだ。以前、下落合で出土する化石にからめて、目白崖線沿いと淀橋台における関東ロームの堆積Click!を比較した記事を書いたことがあるが、淀橋台よりも標高が4~5mほど低い目白崖線では、関東ロームの堆積も淀橋台の10m前後に比べ5~8mと相対的に薄く、ロームの下層にある武蔵野礫層Click!から地下水が湧きやすい地形であることがわかる。
 1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災の震動が、淀橋台ではどのようなものであったのかが気になったので調べてみた。きょうは、世界でもっとも利用客が多い(347万人/日)といわれる新宿駅に隣接して建っていた、淀橋浄水場Click!(つまり今日の東京都庁を中心とする新宿駅西口の高層ビル街エリア)が、関東大震災でどのような揺れにみまわれ被害を受けているのかを具体的に検証してみたい。その被害の様子から、豊島台や東京市街地とは異なる淀橋台における震動の特徴が浮かびあがるかもしれない。
 実は、1923年(大正12)に先だつ1921年(大正10)12月8日、淀橋浄水場はすでに地震による被害で大きな事故を起こしていた。この夜間に起きた強震が、関東大震災の予兆となる海洋プレート型の地震か、あるいは東京直下型の活断層による地震なのかは不明だが、早朝5時に和田堀からの取水路(新水路)の一部が決壊して、東京市全域への給水が3日間にわたってストップした。東京の全市断水は1898年(明治31)に浄水場が操業を開始して以来、初めての大事故だった。当時の東京市長だった後藤新平は、3日間の「断水がなお継続したならば往年の米騒動以上の事態をひき起したかもしれない」と、水道復旧後に語っている。しかし、関東大震災の被害はそれどころではなかった。
 その瞬間の様子を、淀橋浄水工場の製図室に勤務していた水道局員が記録している。1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)所収の、山田良実『関東大震災当時の淀橋浄水場』から引用してみよう。
  
 初期微動と云うのであろうか立っている人にはわからない位の、びりびりと形容したいような震動が6~7秒位もあってそれから本格的の震動が始まった。段々それが激しくなってきたので周囲の人達に早く外に出るようにどなった。その人達もその震動の状態をさとったのであろうか一斉に室外へ出ようとしたが、狭い出入口から一度には抜け出ることが出来なかった。そのときは最早相当のゆれ方になっていたので私は窓から飛び出るよう出入口の一団の人にどなった。そして私も最後に窓から飛びだした。私が外に出て6~7米も歩いた時に出入口の車寄が倒潰した。(中略) 傭員詰所前の庭木の間を通り抜けて真直広場に出てみた。そこに汽車の引込線路があり浄水池を隔てて浄水場の煙突が2本左右にゆれていた。左に撓み右に撓む毎に頂上部の煉瓦が壊れて落ちた。私は足を踏張ってただ茫然とそれを見ていた。(中略) 地震は2分間位も揺れ続いたのであろうか漸くにして煙突の煉瓦の壊れ落ちるのも止んで、そこらにだれの人影もみなかった。
  
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 東京の市街地では、いきなり下から突き上げるような震動があって、「突然弾き飛ばされた」「空中に投げ出された」という揺れはじめの証言が圧倒的に多いが、東京郊外の淀橋台に位置する淀橋浄水場では、微妙な初期の微動を感じていたのがわかる。つまり、関東大震災の本震がくる前に、短いながらも異変を察知する余裕があったということだ。これは、厚い関東ロームが堆積した段丘地である淀橋台に特有の揺れなのだろうか、目白崖線のある豊島台ではあまり聞かない証言だ。落合地域やその周辺域では、やはり「いきなり地面が大揺れして跳ね飛ばされた」というような証言が多い。
 この大地震で、淀橋浄水場は浄水場敷地内はもちろん、広範囲にわたって未曽有の被害を受けた。東京市の断続的な断水は4ヶ月後の12月までつづき、応急処置でなんとか平常に回復したのは、それ以降になってからのことだ。まず、和田堀からの取水路が全域にわたって被災し、高い位置を流れる水路では流水があふれて滝のように落下するのが目撃されている。護岸崩壊による単純な決壊ばかりでなく、地盤沈下によって水路そのものが寸断された場所が2ヶ所あった。また、約230ヶ所の亀裂が水路に生じ、いつ決壊してもおかしくない被害が出ている。
 浄水場内の被害では、いちばん東側に位置する沈澄池(1号沈澄池)の側壁が歪み、堤防の一部に亀裂と沈下が生じて満水にできなくなった。また、濾池は全池が損傷し、中には池底(敷=コンクリート構造)に亀裂ができて漏水し、全面補修の必要な濾池もあった。また、6池の池底にも多少の亀裂が生じ、順次修理が必要になった。もっとも被害が大きかったのは浄水池で、水の引入口と引出口および池底のコンクリートはいたるところで亀裂が発生し、本格的な修理はあきらめ応急修理のみを実施している。
 浄水場内の建物(配水施設)の被害も大きかった。6台のポンプと6台のランカシャー式気罐が配列され稼働していたが、うち3台のポンプの500mm送水管、および6台のポンプ送水管から送られた水が合流する1,100mm送水本管が同時に破断し、あふれた大量の水が機関室内に噴出して浸水した。これにより、全ポンプおよび全気罐が停止して稼働不能となった。つまり、淀橋浄水場は東京市内への送水機能をすべて喪失したことになる。
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 また、機関室に付属したレンガ造りの高さ121尺6寸(約37m)の煙突2本は、頂上部の10尺(約3m)ほどが2本とも崩落し、破片が煙突の内部や外側に墜落した。煙突の側面にも縦横の大きな亀裂が入ったが、なんとか倒壊はまぬがれている。煙突の倒壊を防ぐため、応急処置として2本の煙突には太い鉄バンドが巻かれたが、1925年(大正14)に新たな鉄筋コンクリート製の130フィート(約40m)煙突が建設されるまで、倒壊のリスクを抱えたまま2本のレンガ煙突は運用されつづけた。
 淀橋浄水工場Click!の、建屋自体のダメージも深刻だった。ポンプ室(機関室)の壁面には亀裂が走り、建物東西の壁が揺れで外側へ2寸(約6cm)も拡がったため、5トンの移動起重機(クレーン)が桁(ガーダ)もろとも墜落した。幸運だったのは、墜落場所が偶然にポンプとポンプの間だったため、かろうじて機械設備の破壊はまぬがれている。6台のポンプを応急修理し、なんとか稼働できるようになったのは、震災から半月だった9月15日の夜になってからのことだ。だが、いくら水道インフラの中核である淀橋浄水工場が応急修理で機能を回復しても、東京市の広い範囲での断水状態はつづいていた。それから1年近くにわたり、気の遠くなるような作業が水道局員たちを待ちかまえていた。
 東京市内で1,100mmの水道本管や、900mm以下の幹線を含む主要管の破壊地点は計382ヶ所、より細い支管の破裂や漏水、滲水の損傷箇所は無数に存在し、その修理口数だけで259,932ヶ所におよび、膨大な費用と復旧リードタイムを必要とした。1924年(大正13)5月までに、市内で修理した水道管の長さをつなぎ合わせると総延長が379,249間(約448km以上)にもおよぶ。関東大震災による地中・地下の破壊が、いかに凄まじかったがうかがえる数字だ。
 現在、東京の地中・地下には水道管ばかりでなく、ガス管や通信線、地下鉄、地下施設など関東大震災時には存在しなかった、多種多様な社会インフラが縦横に張りめぐらされている。同震災の当時、断水により火災が消火できなかった、あるいは東京市民の飲料水がない、風呂に入れない……どころではないだろう。これらの社会基盤が同様の震動により、いったいどれほどの被害を生じるのか、その復旧にはどれほどのコストやリードタイムを要するのかは、誰も知らない。
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 東京都水道局が出版した『淀橋浄水場史』の中で、『淀橋浄水場の想い出』を書いた塩原彦三郎という方は、当時の淀橋町には大規模な建物や施設、住宅街がなかったから、大きな破壊や混乱は幸いにも起きなかったとしたうえで、「今あのような事態が起きたら、どんな状況が出現するかを想像するときは、肌に粟たつ思いさえする」と書いている。しかも、彼がこの文章を書いたのは、現在のような淀橋浄水場跡地の高層ビル群や複雑な地下鉄網、地下街など存在しない、いまだ1966年(昭和41)の時点でのことだ。

◆写真上:淀橋浄水場跡地の現状で、初期副都心構想とはまったく異なる街になった。
◆写真中上は、関東大震災による淀橋浄水場1号沈澄池の被害状況。は、大正期に撮影された淀橋浄水工場の機関室に並ぶ気罐設備。は、同震災で大きな被害を受けた淀橋浄水工場の機関室に付属する2本のレンガ煙突。
◆写真中下は、同震災による淀橋浄水場全体の被害状況。特に右上の浄水池と、浄水工場内部の被害が甚大だった。は、大正末に撮影された淀橋浄水場の空中写真。は、1925年(大正14)ごろ撮影された建設中のコンクリート煙突。倒壊の怖れがある2本のレンガ煙突は、新たなコンクリート煙突が竣工したのち解体された。
◆写真下は、同震災による送水管(鉄管)の破裂被害。は、水道管の運搬で活躍した淀橋浄水場オリジナルの運搬自動車「マック号」。は、ようやく関東大震災による被害から復興した昭和初期撮影の淀橋浄水場全景。

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井上円了博士でも解けない「真怪」。 [気になる下落合]

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 落合地域の西側に隣接する、“お化け”博士で有名な井上哲学堂Click!井上円了Click!のもとに集まった怪談の中で、理性で解明し説明することのできない「真怪」Click!として位置づけられた体験譚がいくつか残っている。その中のひとつに、「三人見た白い手の幽霊」という記録が伝えられている。今年も夏がめぐってきたので、当サイトでは恒例化している怪談をいくつかご紹介したい。
 「三人見た白い手の幽霊」は、利根川の沿岸近くにある千葉県香取郡小見川町(現・香取市)にあった古い旅館が舞台となっている。同地の佐原小学校の教師たちと懇意になった、保田守太郎という人物がレポートし、のちに井上円了へ記録を提供しているとみられる。同県香取郡の郡書記が、この旅館に泊まった夜、血だらけになった女の幽霊が現われて大騒ぎになったのがはじまりだった。
 その後、同じ部屋に泊まった客たちが次々と不気味な女の幽霊に遭遇し、しかも旅館に宿泊した月日が3人とも同じだったという偶然(女性が死んだ命日か?)まで重なっていた。当時の記録を、1924年(大正13)に帝国教育研究会から出版された『精神科学/人間奇話全集』より引用してみよう。
  
 其要領を記さんに、香取郡小見川町に皆花樓とて旅店と割烹店とを兼たる一樓あり、今より七年前の四月中旬一日、客あり(当時郡書記)此樓に宿り。其夜十一時過ぎ書見の後眠らんとする折しも、枕辺の方に当つて人の気はひするまゝら驚きて見れば、こは如何に今まで幽かなりし燭火の光り煌々として四辺まばゆきばかり照輝き、あなたの壁際に年頃二十余りとも覚しき女の、鮮血にまみれてをどろの黒髪を振り乱し、いと恨めし気に睨まへたる眼光の凄まじさ、見るより客の驚きは譬へんにものなく、忽ち五体打すくみて覚えず一と声絶叫せしかば、宿の主人等客の室に走り行きしに、既に面色土の如く声も得立てず、冷汗身を浸して打伏してゐた。
  
 この話が記憶されたのは、幽霊を見たのが郡書記であり友人など周囲の人間に話して、宿で遭遇した怪異エピソードを拡げたからだろう。宿に泊まると幽霊が出るという話は、別にそれほどめずらしくはないありふれた怪談のたぐいだが、このケースが特異なのは同じ宿で幽霊の目撃譚が繰り返し起きている点だ。
 「皆花樓」の心霊現象は、上記の血まみれの黒髪を振り乱した女の目撃談だけにとどまらなかった。それから3年後の同月同日、群書記が遭遇した怪談など知らない一般の宿泊客と、隣室に泊まった県会議員ともども、ふたりがほぼ同時に怪奇現象にみまわれている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 又他の一客(同く郡書記某なるも前の怪事を知らず)其室にて寝床に入り、まだ眠らずしてほの闇き燈火に四辺の屏風襖の絵杯打ち眺めてゐたるに、立てきりある襖の間より、白く細長き女子の腕が現はれた。下婢の戯れならんと思ひ、黙して注視したるに少時にして隠れると同時に隣室の客(県会議員某)忽ち一声叫んで急を人に告るものゝ如し。/前なる客驚き駈つけて其の故を聞けば、我今夢に墓場を過ぎしに、墓石の間より白く細長き女子の腕現はれて、我が袂を引くに驚き振り放さんとするも五体すくみ、動くも叶はずして救ひを呼びたるなりと。前の客も今みた奇を語り互ひに驚きしが、其後二人の内の一人が三年前に怪を見た人に偶逢ふて其怪談を聞き、話し合てみれば前後の怪事は同じ月同じ日であつたに益々驚いた。
  
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 なぜ、女の恨めし気な幽霊が出るのかといえば、「皆花樓」の先代主人が粗暴かつ性格も悪く、雇人の女子のひとりを虐待して、ついに死にいたらしめたことがあったからだ……と説明されている。これも、よくありがちな設定で、たとえば乃木希典Click!が金沢の旅館で遭遇した女の幽霊Click!も、先代の主人に虐待されて死んだ女中だった……というオチがついている。
 井上円了が、この怪談を「真怪」(理解不能)に分類したのは、当時の科学や論理では説明ができなかった点からだろう。まず、女の幽霊を目撃したのが年を隔てた、まったく関係性の見いだせない3人の人間(まったくの他人同士)であり、集団幻覚や集団暗示とは考えられないこと。しかも、目撃した月日が偶然にも合致しているところだ。偶然にしては、あまりに“できすぎ”の一致であり、それを合理的に説明できる論理を、井上博士はついに発見できなかったということなのだろう。
 こちらでも何度か登場している南方熊楠Click!もまた、怪談の収集家として有名だが、同書にはこんなエピソードが紹介されている。南方熊楠が住んでいた和歌山県田辺町(現・田辺市)に、近くの秋津村からウナギや箒を売りにくる坂本喜三郎(80歳)からの取材として記録したものだ。坂本翁がまだ30歳のころ、秋津村で実際に起きた怪異だという。
  
 其村の雑貨店の主婦が池に身を投て死んだ。村の大庄屋が村役場より夜帰る時、突然差してゐた傘の上に彼の女の幽霊が留つた、大いに惧れて矢庭に傘を投出し、近所の綿屋に駈込んだ。其頃坂本翁は一友と夜網を打ちにゆかんと、小泉堤を歩みしに、友は十四五間後れてゐた。萬呂村の方から鸛(こう)の如き白い物飛来り、五六間先になつて消えたと思ふと、三間ばかり前を普通の人の歩くやうな速度で行く女があつた。おどろの髪を被り、藍縞の着物を着て。(ママ)腰から下がない、水の入つた近所の綿畠の中へ立た所へ、後れ馳せの友が来て、今かゝる物が飛んできたと噪ぐ紛れに、彼の女の姿は見えなくなつた。予て幽霊に逢た者が、落ついて問へば、必ず其意趣を語ると聞いてをつたが、其の時尋ねなんだは残念なと力んでも、五十年もあとの祭で詰らない。
  
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 なぜ、女の霊が出現するのか、なぜ雑貨屋の主婦は池へ入水自殺したのか、その因果関係がまったくわからず怪異な現象だけが記録されている。なんとなく、化けて出られた大庄屋と雑貨屋の主婦との間に、なにかあったのではないか?……とも推測できるが、まったく関係のない坂本翁たちの前にも姿を現しているので、なんともいえない。
 既存の怪談には、幽霊が出現する因果関係が必ず説明されていた。井上円了の「真怪」では、先代が雇用人を虐待死させた、だから死んだ女の幽霊が恨みを抱いて必然的に出現しているのだ……という理屈とともに、聴者がなるほどと腑に落ちる説明がなされている。乃木希典が遭遇した金沢の宿の怪談もまったく同様だ。民谷伊右衛門が、お岩さんClick!を騙して殺したからお岩さんの霊に祟られた、皿を割っただけでお菊さんClick!を手打ちにし井戸へ投げこんだから祟られた……と、従来の怪談は必ず基盤としての原因=因果関係が必ず付随して語られていたはずだ。
 ところが、南方熊楠が採取した怪談にはそれがない。いきなり、女の霊が傘にとり憑いたり、なんの関係もない若者たちのゆく手へ、理由もなくフラフラ現れたりする。この幽霊の不条理かつ不可解な出現の仕方こそ、現代に語られる怪談に直結する構成でありストーリー展開なのだ。幽霊の出る原因を、妙なウワサ話でこじつけたり、ありがちな因縁話を持ちださないところ、すなわちわけのわからないうちに怪異現象に出あい、自身が巻きこまれていくところに、南方熊楠が記録した怪談の新しさがある。
 人間関係が希薄になり、隣りに誰が住んでいるのかも知らないような都会において、もっとも怖がられるのは、自分とはなんの関わりがないにもかかわらず起きてしまう、原因がまったく不明な怪奇現象なのだ。つまり、人を殺めても傷つけてもいないし、虐待してもイジメてもいないにもかかわらず、いつ誰がどこで巻きこまれても不思議ではない怪奇現象が、現代ではもっとも理不尽で怖ろしい怪談ということになる。
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 相変わらず、落合地域で語られる怪談を探しているのだが、すでに語り尽くされたのだろうか、最近はなかなか遭遇できないでいる。こんなときは、「コッコッコッコッコッ、おっかしいなぁ~、ギイィィ~~~~ッ、ドン! …いる、誰かいる! 怖い怖い、すごく怖い、冷たい汗がツーッと流れる。すごく怖いんだ、これが……」の稲川怪談に頼り、「落合のアパート」Click!をご紹介してキーボードを置きたい。下落合か上落合か、西落合かは不明だが、話の様子からして1970年代に落合地域で起きた出来事のようだ。

◆写真上:お化けの行進で、国芳『源頼光公館土蜘作妖怪図』(1842~43年/部分)。
◆写真中上:江戸期の怪談『累ヶ淵』の芝居をベースにした浮世絵作品で、は国芳『かさねぼうこん』(1833年/部分)。は、三代豊国『藤原敏行朝臣累の亡魂』(1852年/部分)。は、三代豊国『与右衛門女房かさね』(1857年/部分)。
◆写真中下:四世・鶴屋南北『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』の芝居をベースにした浮世絵で、は芳艶『おいわ』(1848年/部分)。は、三代豊国『お岩の亡霊』(1861年/部分)。は、周延『お岩ノ霊』(1884年/部分)。.
◆写真下:講談から生まれた『番町皿屋鋪』の芝居をベースにした、は国芳『お菊のぼうこん』(1851年/部分)。は、国周『皿屋鋪化粧姿鏡』(1892年/部分)。は、講談や芝居の「鍋島化猫騒動」がベースの国周『小笹の方猫の精』(1864年)。

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長崎仲町の旧家を描く片多徳郎。 [気になるエトセトラ]

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 いのは画廊Click!を通じてpinkichさんよりいただいた、片多徳郎Click!の“絶作”といわれる『風景』(1934年)の描画ポイントを探すのに手こずってしまった。同作は戦災で失われたのか、現在は行方不明のままモノクロ画像しか残されていないのも、手こずった要因のひとつだ。描画場所が落合地域なら、画面の地形や道路のかたち、家々の様子などを見れば、すぐに「あそこだ!」と見当がつくが、落合地域から離れると土地勘が薄れるせいか、年代を追って地形図と空中写真、事情明細図などとにらめっこすることになる。特に長崎地域の南部はともかく、北部の土地勘はほとんどないに等しい。
 おそらく前年の秋にスケッチされ、翌1934年(昭和9)の自死する直前に仕上げられたとみられる片多徳郎『風景』は、長崎地域を描いたものだという子息の証言があるようだ。確かに、1934年(昭和9)当時の落合地域(新たな葛ヶ谷→西落合を含む)で、このような風景にピンとくる場所はもはや存在していない。1935年(昭和10)前後の落合地域は急速に住宅街化が進み、地元の大農家は大地主に変貌していて、画面のような大農家然とした風情は数えるほどしか残っていない。1936年(昭和11)に撮影された空中写真で確認しても、落合地域の旧家はいずれも濃い屋敷森に囲まれた大邸宅に住んでおり、画面のような風情はすでに失われている。
 そこで、片多徳郎Click!が晩年に住んでいた長崎東町1丁目1377番地(旧・長崎町1377番地)から、画道具を抱えて歩いていけそうなエリアをすべて考慮し、長崎町(現在の千早町、千川、要町、高松などすべて含む)ばかりでなく、板橋区の板橋町3・4丁目、野方Click!と同様に荒玉水道Click!水道塔Click!が目立った大谷口町、向原町まで含めて考えてみることにした。参照したのは、各時代の1/10,000地形図をはじめ1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」、空襲をあまり受けていない地域なので1936年(昭和11)から1948年(昭和23)までの各年代を追った空中写真などだ。なお、旧・西巣鴨町だった池袋1~7丁目はすでに市街地化が進んでいて、概観しただけでも1932年(昭和7)の時点でさえ、もはや画面のような風景の場所は見られないので除外している。
 片多徳郎の『風景』について、山下鐡之輔は『酒中から得た寶玉』という文章で次のように書いている。1988年(昭和63)に大分県立芸術会館から刊行された、「片多徳郎展 大正洋画壇を駆け抜けた異才』図録収録の同文から引用してみよう。
  
 それは彼が逝って満中陰の佛事の晩であつたと思ふ。佛前の右側に六号の秋の郊外の風景が画架に架けて飾つてあつた。最初は漫然と見ただけであまり気に止めなかつたが、後でつくづくと眺めてゐるうちに、これは実に大したものだといふ感じがして来たのであつた。/これは全く従来の片多君のものとは大変趣の異つたものである それは実に修業を積んだ坊さんに逢つた様な感じ、而も仲々頭を使つたもので小さいが力の充実したものである。正直なところ僕は始(ママ)めて片多君の純粋な魂にふれた様な気がした。令息達の話に依ればこれは本人も大得意で携へて帰つて「これを以て如何んとなす……」と言つて皆なに見せてとてもいゝ気持になつて酒を呑み始めたといふ事である。こんな境地に迄鍛えられてゐた彼に今更乍ら残念に想ふ次第である。
  
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 さて、片多徳郎の『風景』から読みとれる描画ポイントの条件は、以下の6つだ。
 ①地元の旧家らしい大農家のかまえで、屋敷には高めの塀がめぐらしてある。
 ②屋敷内にはケヤキとみられる大樹が生え、手前は畑地か空き地になっている。
 ③地形がやや左下りで、建物は丘上とみられる場所に建っている。
 ④光線の射し方から、画家の背後または左手が南の可能性が高い。
 ⑤旧家の南(ないしは西)に接した宅地には、モダンな住宅が建設されはじめている。
 ⑥旧家の塀に沿って、小路ないしは道路のある可能性が高い。
 この6条件に合う大農家(旧家)が、長崎地域とその周辺域にあるかどうか、丸1日かけてシラミつぶしに探してみた。すると、たった1軒だけ上記の6条件を満たす、地元の旧家を見つけることができた。この大きな住宅は、長崎地域のおもに北部に展開する、おそらく江戸期からつづく旧家・田嶋家一族の邸宅のひとつだ。片多徳郎は、東側の畑地ないしは空き地にイーゼルを立て、午前中ないしは昼近い陽の当たる田嶋鉄五郎邸(鉄二郎?/以下鉄五郎で記述)をモチーフに、西南西の方角を向いて描いている。
 田嶋鉄五郎邸は、長崎仲町2丁目3605番地(旧・長崎町3605番地)にあり、同町2丁目にあった立教大学運動場(現・都立千早高校)の南約230mほどのところに位置している。片多徳郎のアトリエ(長崎東町1丁目1377番地)から直線距離で800mと少し、道を歩いても1.2kmほどで、寄り道をせずにゆっくりめに歩いても20分ほどでたどり着ける距離だ。また、椎名町駅から武蔵野鉄道に乗って隣りの東長崎駅で降りれば、駅から直線距離で440m、道を歩いても600mほどで徒歩6~7分だったろう。現在の住所でいえば、豊島区千早3丁目13番地ということになる。
 田嶋鉄五郎邸は、1/10,000地形図の記号によれば敷地が塀で四方を囲まれており、1936年(昭和11)の空中写真で確認すると敷地の南東すみには、大きなケヤキとみられる樹木が繁っているのが見える。同邸は、標高36.25mの等高線が丸く描かれた、豊島台一帯のピークのひとつと思われる丘上西側の一画に敷地がかかり、地形は千川上水が流れる南西側(画面の左手)に向かってゆるやかに下がっている。田嶋邸の南側は、すでに耕地整理が終わり、大正末の時点からすでに住宅が建設されはじめている。また、同邸の塀に沿って、東南北側には畦道の名残りのような小路が刻まれ、西隣りの桑原邸+田嶋邸(長崎仲町2丁目3628番地)の敷地との間には道路が通っている。
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 片多徳郎はアトリエをあとにすると、のちに長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」Click!が建設される東西道を西に向かって歩みを進め、長崎町の旧字名で西原と呼ばれたあたりから右へ折れてまっすぐ北上していった。当時は、周辺の田畑の耕地整理が終わったばかりで、あたりには元・田畑だった空き地が一面に拡がる抜けのいい風景だったろう。北へ向かって歩けば、田嶋鉄五郎邸の大ケヤキは遠くからでも望見できたかもしれない。それを目印に歩いていくと、やがてモダンな住宅(平沢要邸)が建っている北側に、古めかしい土塀の旧家が姿を現した。片多徳郎は、念のために表札を確認すると「ここも田嶋さんちか」……とつぶやいたかもしれない。
 画家は、田島鉄五郎邸の東側に拡がる畑地ないしは空き地に入りこみ、ケヤキの大樹が画面中央やや左に位置し、南側に建設されたばかりで陽が当たり、白く輝くモダンな平沢邸の切妻が入るよう、西南西を向いてキャンバスに向かっているとみられる。田嶋邸内の大きな建物である2棟の黒々とした瓦屋根が描かれ、邸の向こう側には弁護士だった桑原信雄邸のシャレた住宅や、おそらく田嶋鉄五郎の近しい血縁なのだろう、同じくもうひとつの田嶋邸の屋根が見えている。ひょっとすると、道路をはさみ田嶋家の広い敷地に建つ弁護士の桑原邸は、同家の娘婿なのかもしれない。
 片多徳郎が、椎名町駅から電車に乗り東長崎駅Click!で降りて歩けば、道順はもっと単純になる。北口駅前の道を、まっすぐ北へと歩いて少し東側(右手)へ折れれば、周囲が「田嶋」の表札を掲げた大屋敷だらけの一帯に出る。耕地整理を終えた空き地が拡がる風景の中で、ことのほか画家の目を強く惹いたのは、田嶋鉄五郎邸の大ケヤキだったのではないだろうか。この大ケヤキは、戦時中の物資不足による供出でも伐られることなく残り、戦後の空中写真でもハッキリと確認することができる。実は田嶋邸敷地の北側にも、濃密なケヤキとみられる屋敷林が繁っているのだが、画家は南東側にポツンと1本だけ離れてそびえる大ケヤキに、強い画因をおぼえたのだろう。
 驚いたことに、田嶋鉄五郎邸の敷地には、現在でも旧家とみられる大きな邸が濃い屋敷林に囲まれて建っている。敷地の南東すみにあった大ケヤキは、1963年(昭和38)以前に伐られてすでに存在しないが、屋敷林の中は片多徳郎が描いた当時の風情をとどめているのだろう。また、西隣りだった桑原邸+田嶋邸の敷地は、屋敷林の一部がそのまま保存され、豊島区の「小鳥がさえずる公園」になっている。
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最後に余談だが、長崎町(村)の中部から北部にかけての大農家であり、長崎地域でもトップクラスの大地主だったはずの田嶋家一族が、『長崎町誌』Click!にはただのひとりも登場していない。それ自体が非常に不可解かつ異様な状況だが、同町誌は地勢や事蹟、史蹟の紹介ばかりでなく、人物紹介も非常に恣意的で偏向していたのではないだろうか。

◆写真上:自死する数ヶ月前、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『風景』。
◆写真中上は、戦後すぐのころに撮影された田嶋鉄五郎邸のある長崎仲町2丁目の北側に位置する千川町2丁目(現・千早4丁目)の風景。モチーフを探して付近を散策した片多徳郎も、これと同じような光景を見ながら歩いただろう。は、1935年(昭和10)ごろに長崎アトリエ村の洋画家・野口義恵がスケッチした『東長崎の駅から』。は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる田嶋鉄五郎邸。
◆写真中下は、1932年(昭和7)作成の1/10,000地形図にみる田嶋鉄五郎邸。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸。
◆写真下は、1950年(昭和25)ごろ撮影された、のちに千早児童館が建設される空き地。(洗濯物が干された敷地一帯) 偶然に撮影されたものだが、同敷地は田嶋鉄五郎邸の北側敷地の一部にあたる。なお、戦前の風景写真はいずれも『失われた耕地-豊島の農業-』(豊島区立郷土資料館/1987年)より。は、1963年(昭和38)と1975年(昭和50)の空中写真にみる同邸。大ケヤキは伐採され、庭が畑になっているのがわかる。

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落合周辺の種苗店と牧野虎雄の「花苑」。 [気になる下落合]

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 長崎村(町)荒井1721番地(現・目白4丁目)に小さなアトリエをかまえ、のちに下落合(2丁目)604番地(現・下落合4丁目)に転居してくる、牧野虎雄Click!が制作したアトリエ前の庭園シリーズClick!について記事にしたことがある。いわば、牧野虎雄の「長崎風景」シリーズといったところだ。
 その庭に描かれた盛り土は、近所の下落合540番地にあった大久保作次郎アトリエClick!にも見られた土盛り、すなわち園芸用の腐葉土でもつくっているのではないか?(それにしては土の山が大きすぎるのだが)……とも書いた記憶がある。牧野虎雄が住んだ、長崎アトリエの庭にうず高く積まれた土は、自然の起伏でも腐葉土の堆積でもないようだ。牧野が自身で庭先に設計した、「花園」のための築山だった可能性が高い。
 それが判明したのは、東京都現代美術館に収蔵されている牧野虎雄『花苑』(冒頭写真)の画面を観察できたからだ。彼は、さまざまな草花の種をこの築山一面にまいて、大切に水をやりながら育てていたようだ。それは、いずれ風景画あるいは静物画を描くときのモチーフとして、あらかじめ意識しながらの「花苑」づくりだったのだろう。
 この土の山は、牧野アトリエ西側の庭に築かれており、少なくとも1919年(大正8)に制作された『庭』で、すでにその存在を確認することができる。このとき、画面に描かれた築山はいまだ赤土が露出したままであり、牧野が庭園業者に依頼して土を運びこんだばかりのように思える。なぜなら、『庭』が描かれたのは、手前の女性が涼しげな浴衣姿なのでもわかるように、1919年(大正8)の夏季であるにもかかわらず、赤土の上には植物の繁茂が見られないからだ。
 赤土(関東ローム)が露出した、この地域の空き地をご存じの方ならおわかりだろうが、1年もたてば雑草が一面に生い茂り、土面が見えなくなるほど雑草が繁殖する。だが、牧野虎雄の『庭』には夏季にもかかわらず、その繁茂がほとんど見られない。これは、アトリエの庭に土が運びこまれ山が築かれてから間もない時期であり、牧野虎雄はできたばかりの築山を『庭』で写生している……と解釈するのが自然だろう。
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 さて、1919年(大正8)制作の『庭』と、翌1920年(大正9)に描かれた『花苑』とが、なぜ同じ場所の情景だと断定できるのかといえば、そこに描かれた樹木の位置と、幹枝のかたちがまったく同一だからだ。まず、『庭』に描かれたケヤキの若木のような形状の樹木を観察してみよう。左寄り手前には、幹がY字型に分岐した木(樹A)が描かれている。その奥にも、同様にY字型に分岐した木(樹B)が確認でき、その右手(画面のほぼ中央)には比較的まっすぐに幹がのびた木(樹C)が立っている。さらに、画面右手のアトリエに近い位置には、複雑に枝分かれした若木らしい木(樹D)が育ちつつある。
 この樹木の配置、つまり木立ちの風情を翌年に描かれた『花苑』に重ねてみると、ぴたりと一致することがわかる。すなわち、Y字型の樹Aのうしろに同じようなかたちをした樹B、樹Bの右横に比較的まっすぐな樹C、そしてアトリエの外壁近くにあたる画面右端に若木の樹Dという構成だ。『庭』に比べ、『花苑』ではY字型の樹Aと樹Bとの重なり具合から、スケッチの視点位置がやや右手(東寄り)にずれているのがわかる。
 『花苑』を観察すると、園芸用の多種多様な花の植えられているのがわかる。牧野虎雄は、庭の築山に種子をまきながら、文展・帝展が開かれる直前の夏季に、花々が咲き乱れる庭へイーゼルを持ちだして、その年の出品作を仕上げていたのだろう。花々の種子は、近くに住む大久保作次郎Click!から分けてもらったのかもしれないし、近くの園芸店から手に入れたのかもしれない。
 大正中期の当時、少しずつ建ちはじめた住宅地の造園ニーズを見こんで、落合地域とその周辺には植木業や園芸店が開業しはじめていた。長崎や落合のエリアは、いまだ宅地の数はそれほど多くはなかったが、山手線の内側域で市街地(15区時代Click!)にあたる牛込区や小石川区では、住宅が急増して園芸の需要が一気に高まっていた。
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 たとえば、牧野虎雄が描いた『庭』(1919年)や『花苑』(1920年)と同時期に出版された、1920年(大正9)の『高田村誌』(高田村誌編纂所)には、すでに大きめな造園業者が広告を掲載している。1社は、「高田村目白駅北二丁」のダリヤがメイン商品だった園芸種子の「富春園」であり、もう1社は池袋駅近くにオープンしていたとみられる、所在地が不明な園芸用品や種子の販売業「池袋花園」だ。
 また、長崎村の旧家である長崎バス通りの岩崎家Click!では、目白駅や目白通りを走るダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車)に看板を設置するなどの宣伝を繰り広げながら、すでに「岩崎種苗店」Click!を開店していたかもしれない。牧野虎雄は、これら近くに開店していた園芸業者や種苗店から、好きな草花の種子や球根を購入して、庭で栽培していた可能性もありそうだ。
 牧野虎雄は、下落合2丁目604番地に建てたアトリエClick!の庭でも、さまざまな花々を育てていたらしく、浅田邸をはさんで2軒西隣りにいた下落合623番地の曾宮一念Click!が、ときどき見学に訪れている。牧野は下落合のアトリエで、庭に咲くケシあるいは花瓶にさしたケシの花や実をよく描いている。曾宮一念アトリエClick!の庭にもケシの花が以前から栽培されており、彼もまたケシを挿画などによく描いていることから、牧野は曾宮から種子をもらって育てていたものだろうか。
 牧野虎雄のアトリエにあった築山だが、1921年(大正10)制作の『庭の少女(中庭)』には、いまだこんもりとした地面の盛りあがりがありそうだが、翌1922年(大正11)に描かれた『早春』では、『庭』(1919年)や『花苑』(1920年)に見られる大きな土盛りが消えているように見える。おそらく、1922年(大正11)の春先に、牧野は庭の築山をあらかた崩しているのではないだろうか。
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 そして、1922年(大正11)の夏に描かれた『園の花』には、やや小さめな“ふくらみ”は確認できるものの、『庭』や『花苑』に見られる大きな築山はすでに消滅しているようだ。庭の景色に飽きたのか、それともアトリエ西側の接道(南北道)工事がはじまり、築山の一部がひっかかって邪魔になったからかもしれない。

◆写真上:1920年(大正9)に、長崎村のアトリエ庭を描いた牧野虎雄『花苑』。
◆写真中上は、1919年(大正8)に同じくアトリエ西側の庭を描いた牧野虎雄『庭』。は、両作の画面に描かれた樹木の比較と規定。
◆写真中下は、1921年(大正10)制作の牧野虎雄『庭の少女(中庭)』。は、1922年(大正11)に描かれた同『早春』。すでに築山は崩されたのか、アトリエの西側には見えない。は、長崎村(町)荒井1721番地にあった牧野虎雄アトリエ跡の現状。
◆写真下は、1920年(大正9)出版の『高田村誌』に掲載された園芸店広告。は、目白通りを走る東環乗合自動車のバックに掲示された「岩崎種苗店」の看板広告。(小川薫様アルバムClick!より) は、1922年(大正11)制作の牧野虎雄『園の花』。

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鬼子母神の駄菓子屋に通った秋田雨雀。 [気になるエトセトラ]

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 雑司ヶ谷24番地に住んでいた秋田雨雀Click!は、落合地域に関連する人物たちのエピソードには頻繁に顔をのぞかせている。古くはエスペランティストという側面から、下落合370番地にアトリエをかまえた竹久夢二Click!や、中村彝Click!のアトリエへモデルとして通ったエロシェンコClick!などとともに、全国を講演してまわっていた。
 また、上落合189番地に住んだ俳優の佐々木孝丸Click!は、秋田雨雀としじゅう会えるようにと、わざわざ雑司ヶ谷鬼子母神の近くに転居していた時代がある。同じ演劇がらみでは、上落合186番地の村山知義Click!とのつながりで、上落合502番地に設立された国際文化研究所へもやってきていた。さらに、上落合850番地(のち842番地)に住んでいた作家の尾崎翠Click!とも接点があり、また上落合469番地(のち476番地)にいた神近市子Click!とも、かなり親しく交流していた。
 秋田雨雀は、青森県から東京へやってくると東京専門学校(のち早稲田大学)の英文科へ入学し、小石川早竹町に住んだあと、1904年(明治37)には早稲田鶴巻町の下宿「松葉館」へと移った。この松葉館の主人が、武者小路実篤Click!の叔父であったことから、新体詩や社会主義に興味をおぼえはじめたようだ。翌1905年(明治38)には、早くも雑司ヶ谷24番地の山田方に下宿し、同年に隣接する24番地にある隣家・前田やす邸の2階へ転居。そして翌年、前田家の娘・きぬと結婚している。以降、雨雀は太平洋戦争がはじまるまで雑司ヶ谷の同所に住みつづけた。ちょうど、雑司ヶ谷鬼子母神Click!のほぼ門前、北東側に隣接した住宅街の路地奥にある2階建ての家だった。
 雨雀は、早稲田大学英文科を卒業したあと、島村抱月Click!に師事して「早稲田文学」に処女作『同性の恋』を発表し、新進小説家として注目を集めはじめた。また、戯曲集『埋もれた春』を発表して、演劇の脚本家としてもスタートしている。雨雀が島村抱月と松井須磨子が創立した、芸術座の幹事をつとめていたのは有名なエピソードだ。ところが、演劇の面白さが雨雀をとらえてしまい、劇団にのめりこむあまり書斎で作品を創作する機会が急減し、「私の創作力を減殺」(『雨雀自伝』)していくことになった。
 雨雀は娘が生まれると、娘の情操教育のためにと童話を創作するようになる。また、娘を小学校へは入学させず、みずから「自由教育」を企画してカリキュラムを作成し、自分以外の講師も依頼していたようだ。雨雀の根底にあったのは、「日本の封建主義的倫理教育に対する疑い」で、文部省教育からは完全に切り離されたカリキュラムとなった。社会学、生物学、地理学、英語、エスペラント語、文学、音楽、演劇などの授業が行われ、情操教育が主体の教育法だった。このあたり、ヴァイオリニストの巌本真理を輩出した巌本家Click!の教育法に近似している。
 文学や演劇、童話の各分野を問わず、雑司ヶ谷24番地の秋田雨雀邸は、ちょうど牛込早稲田南町(現・早稲田南町)の漱石山房Click!のように、多くの仲間が集い青年たちが出会う、ハブのような役割を果たすことになる。
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 「雑司ヶ谷巡り」と呼ばれた当時の様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。
  
 明治末期から大正にかけての鬼子母神の森は、実にうっそうとして樹木の中に家が点在するというほどで、雨雀の部屋も樹木におおわれて昼でも電灯を点していた。玄関から暗い階段を二階にあがると、そこが書斎となっていた。そこにはいつも「執筆中」の貼紙が貼られていたが、人声が絶えなかった。客が訪ねていっても「執筆中」の札に物を言わせることのないのは、本人自身やはり客好きで淋しがりやであったからだ。/当時雑司が谷には、藤森成吉、平林初之輔、小川未明、前田河広一郎、白鳥省吾らが住んでいた。この頃「雑司が谷めぐり」ということばがあって、インテリ―失業者たちが雑司が谷に行けば誰かに会えるし、事によると一椀一杯にあずかれるかも知れないし、あわよくば電車賃位は何とかなるというところから、「雑司が谷めぐり」が始まったという。秋田雨雀といえば雑司が谷でも鬼子母神の杜に住む主と言われたもので「雑司が谷めぐり」の本尊と見られていた。
  
 秋田雨雀自身も、雑司ヶ谷をあちこち散歩していたようで、「ハイゼの原」Click!にはよく姿を見せていたらしい。また、鬼子母神境内にある駄菓子屋「上川口屋」は常連だったらしく、そこの老婆(現在の店主の先々代だろう)とはかなり親しかったようだ。
 ちなみに、わたしも上川口屋さんの常連のひとりで、子どもが小さいころから鬼子母神の境内へ散歩に出かけると必ず立ち寄っていた。現在も必ずフラフラと立ち寄り、ラムネか粉ラムネ(粉末ジュース?)を買っては、家族にナイショで楽しんでいる。こういうところ、子どものころの習慣(クセ)はなかなか抜けないものだ。いまの店主は、確か戦後に同店へ嫁いできたお嫁さんだったと思う。乃手では、駄菓子屋さんへの出入りが禁止されていた家庭が多いせいか、この話をすると「まあ……」などとあきれ顔をされることが非常に多い。うちの連れ合いも、同店で子どもたちに駄菓子を買い与えると、「ダメですよ、添加物や着色料が心配だから」と眉をひそめていた。
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 ハイゼの原と駄菓子屋で目撃された雨雀の姿を、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』から少し長いが引用してみよう。
  
 或る日のこと。母の郷里である青森県の三戸から祖母が上京してきた折、土産に持ってきてくれた「ごませんべい」を何枚かふところにして、私はふらりと「ハイゼの原」まで出かけて行った。もう夕方近くだったせいもあり、そこには子供達の姿は一人もいなかった。私は草原の斜面に腰を下ろして、はるか右手の方に見える鬼子母神を眺めていた。/するといつの間にか私の直ぐ左横に、一人の男の人が立っているのを発見した。鳥打帽子を冠りステッキを突いたその人を見た時、私は最初異人さんではないか――と思った程だった。体は決して大きな方ではなかったが色の白い童顔の人で、茶色のコール天のズボンをはき、今にして思えばルバシカだと分るが、当時としては見たこともない、黒色のビロード風のだぶだぶの上衣をつけ、腰の辺りを紐で強くしばった面白いものを着た人だった。その人は私にぽつりと言った。「夕やけが、きれいだね」(中略) 「珍らしい物を持っているね。ごませんべでしょう。小父さんにも少しくれる?」/と言った。私は無言でうなずき一枚とり出して渡した。(中略) それからしばらくして、鬼子母神のお会式が近づき、見世物の小屋がけなどを見に出かけた時、境内の売店の前で、私はいつぞやの「ハイゼの原」の小父さんにバッタリと出会った。同じような恰好をしていたので、私はすぐに気付いたが、その人は売店の小母さん(鬼子母神の項で書いた老婆のこと)と、何か親し気に話合っていたが、私の姿をみると手まねきして、/「この間は、ごませんべをありがとう。とてもおいしかったよ」と礼を言い、売店の小母さんからキャラメルの小箱を買って私に与えた。
  
 このあと、著者はキャラメルの小箱を家に持ち帰ったが、知らない人からモノをもらったということで父親にひどく叱られたらしい。ところが、三戸のごませんべいと「小父さん」とのいきさつの話をすると、父親は「雨雀さんだ」といって叱るのをやめた。相手の素性が知れたからではなく、父親は秋田雨雀とは同郷のよしみで親しかったからだ。
 文中で、上川口屋の店主を「老婆」と書いているが、このエピソードがあった当時はまだ若い「小母さん」、つまり昭和初期に店番をしていた現店主の先々代だった。著者が同書を執筆する際、つまり1977年(昭和52)の少し以前にはすでに老婆となっており、おそらく娘とふたりで店先に出ていたのではないだろうか。
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 「稲荷社の鳥居のかたわらに佇むように建ち残っている茶店というか、鳩の餌などを売る店が、往時のままで残されていて、またそこで店番をしている老婆も昔のままの婆(当時は小母さんであった)でいてくれたのは、何といってもなつかしかった」と書いているが、著者の取材に対し上川口屋の「小母さん」は、秋田雨雀のことを克明に記憶していた。それほど雨雀は、この駄菓子屋が気に入って頻繁に通ってきていたのだろう。

◆写真上:江戸の創業から240年近い、鬼子母神境内で健在の駄菓子屋・上川口屋さん。
◆写真中上は、講演旅行の記念写真からエロシェンコの左が秋田雨雀で、その手前が竹久夢二。下左は、秋田雨雀『同性の恋』が掲載された1907年(明治40)発行の「早稲田文学」6月号。下右は、縞柄のルバシカ姿の秋田雨雀。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道。は、現在の鬼子母神本堂とザクロの絵馬が架かる本堂内部の様子。
◆写真下は、1933年(昭和8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の境内にある大イチョウ。は、1977年(昭和52)ごろに撮影された上川口屋の店先。は、秋も深まるとイチョウの落ち葉が目立つ鬼子母神境内の現状。


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70年使われた「キング切手印紙葉書入」。 [気になるエトセトラ]

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 親父の小引き出しを整理していたら、戦前に売られていた懐かしい「キング切手印紙葉書入」が出てきた。1937年(昭和12)4月から、1942年(昭和17)3月までの間に売られていた製品だ。なぜ販売期間までわかるのかといえば、同ハガキ入れには郵便料金が記載されており、手紙が4銭でハガキが2銭の時代は、上記5年の期間しかなかったからだ。そして、わたしが懐かしいのはもちろん同時代に生きていたからではなく、わたしが物心つくころから大学生になり独立するまで、わが家では「キング切手印紙葉書入」がそのまま現役で使われていたからだった。
 同ハガキ入れは、東京地方だけで売られたバージョンなのか、東京市内から地方各地あるいは「外地」への郵便料金や航空便料金が記載されている。他の都市で売られた製品は、その街を基準に料金一覧が掲載されていたのかもしれない。親父が日本橋の家から独立して大学予科へ入る際、実家から諏訪町Click!(現・高田馬場1丁目)の下宿先へ持ってきた品物のうちのひとつなのだろう。日本橋に置いてあったら、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で焼けているはずだが、親父の下宿先は同年4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲Click!に遭いながらも、かろうじて焼け残っている。
 「キング切手印紙葉書入」の仕様は秀逸で、二つ折りの扉を開くと袋状になった奥の収納が官製ハガキや往復ハガキ入れ、手前に少しずつずらしながら重なるように折られているページが切手・印紙入れになっている。しかも、切手は値段別に入れられ、二つ折りの底部は横から切手が滑り落ちないよう両側が接着されている。しかも、底には丸いパンチ穴が連続して開けられており、必要な値段の切手の有無が、いちいち二つ折りを開かなくてもすぐに確認できる。また、二つ折りの切手・印紙入れの裏側ページは住所録になっていて、頻繁に郵便をやり取りする相手の忘備録となっている。
 1937年(昭和12)の時点での郵便料金を見てみると、封筒の手紙が20gまで4銭(第一種郵便)。120gまでが4銭+3銭=7銭、以降120gごとに+3銭(第一種割増)となっている。また、ハガキは2銭、往復ハガキは4銭(第二種)で、手紙の半分の値段なのがいまと比べると割安感がある。新聞や雑誌を送る第三種郵便は60gまでが5銭、以降60gごとに+5銭増し。書籍や印刷物、写真、書画などを送る第四種郵便は120gまでが3銭、以降120gごとに+3銭が必要だ。
 特異なのは、第五種郵便として農作物の種子が料金に設定されている点だろう。当時は、寒冷地適応など品種改良された農作物の種子を、国内や「外地」に販売する事業が多かったのだろう。特に、冷害で恒常的な凶作にみまわれた地域では、さまざまな農作物の種子を大量に必要としていた。また、満州や台湾、朝鮮半島などの植民地(開拓村)では、農地拡大のために多種多様な農作物の作付けが実験的に繰り返されていた。したがって、種子を安価に配送する特別な郵便制度が不可欠だったとみられる。農作物の種子は、120gまでが1銭と極端に安く設定され、以降120gごとに+1銭ずつ加算されていく。つまり、種子を1kg超送ったとしても、わずか10銭の配送料で済んだわけだ。
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 同ハガキ入れには、電報料金も記載されている。通常電報で東京市内同士は、15字までで15銭、以降5文字ごとに3銭増し。内地(国内)相互間で15字以内は30銭、以降5文字ごとに5銭増し。内地(国内)と台湾、朝鮮、樺太、小笠原諸島、沖縄諸島間は15字以内で40銭、以降5文字ごとに5銭増しとなっており、「ウナ電」(至急電)の場合は上記料金の2倍が請求された。また、面白いのは「ムニ電」(照校電報)というのが存在したことだ。これは、打電する文面を局員が反復して復唱校正(電文反復照合)するサービスで、ただそれだけで上記料金の2分の1増しが請求された。
 たとえば、「アスエキニツク(明日駅に着く)」の電文で反復照合電報を依頼すると、その電文を受け付けたちょっと怪しい電報局員が、「♪あなたに捨てられてラ・メール~の“ア”、♪すずめ鳴け鳴けもう日は暮れた~の“ス”、♪江ノ島が見えてきたおれの家も近い~の“エ”、♪君を見つけたこの渚で~の“キ”、♪にしん来たかとカモメに問えば~の“ニ”、♪津軽海峡冬景色~の“ツ”、♪クジラのスーさんお空泳いできた~の“ク”……でまちがいないですね? きょうは、夏らしく海シリーズで反復唱合してみました」「…うるせ~よ!」と、1文字1文字を反復して確認してくれるのだ。
 同ハガキ入れには、「郵便取扱時間」も掲載されているが、これは郵便局がその業務を行っている開業時間のことで、季節により時間帯が異なるのがめずらしい。切手・印紙入れの裏に記載された開業時間について、そのまま引用してみよう。
  
 電信 電話(一、二等局)
  三月一日ヨリ 十月末日迄 午前六時ヨリ 午後八時迄
  十一月一日ヨリ 二月末日迄 午前七時ヨリ 午後八時迄
  三等局ハ一年間ヲ通ジテ 午前八時ヨリ 午後四時迄 但 時間外取扱ヒヲモナス
 為替 貯金 保険
  四月一日ヨリ 七月廿日迄 九月一日ヨリ 十月末日迄 午前八時ヨリ 午後三時迄
  其他ノ時期ハ午前九時ヨリ 何レモ土曜ハ正午限 日曜休
 小包 書留 其他
  一二等局ハ平日午前八時ヨリ午後十時迄 日曜祭日午後三時迄
  三等局ハ平日午前八時ヨリ午後六時迄 日曜 祭日ハ休
 年末三日間ハ日曜祭日モ平日通リ事務取扱ヲナス
  
 今日の郵便局よりも、かなり長時間にわたって開業していた様子がわかる。
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 また、同ハガキ入れの奥付部分には、航空郵便のルートと料金が印刷されている。東京を起点にすると、航空郵便ルートは北へ東京-仙台-青森-札幌と、東京-富山-新潟の2ルート。西へは、東京-名古屋-大阪-福岡-京城-新義州-大連-奉天-新京-ハルピン-チチハル-満州里となっている。また、山陰へは大阪-鳥取-松江、四国へは大阪-高松-松山と分岐し、南へは福岡から分かれ福岡-沖縄-台北-台中-高尾までの航空郵便ルートが開拓されていた。
 航空便料金はそれなりに高く、内地同士(中国関東州含む)の手紙だと20gまで基本料金+30銭、内地-満州間は基本料金+35銭、ハガキだと内地同士は基本料金+15銭、内地-満州間は基本料金+18銭となっている。基本料金とは、先述した通常料金のことで、通常の手紙だと国内航空便は34銭、満州まで送れば39銭、ハガキは国内航空便で17銭、満州までなら20銭ということになる。
 「キング切手印紙葉書入」の製造元は、神田にあった名鑑堂だが、現在の同社は「キングジム」と表現したほうがピンとくる方も多いのではないだろうか。この記事を読んでいる方のお手もとにも、同社の製品が少なからずあるはずだ。「キングファイル」や「クリアファイル」をはじめ、「クリアバインダー」、ラベルライターの「テプラ」、テキストメモの「ポメラ」など、必ず一度はどこかで目にしているのではないだろうか。もともと神田の名鑑堂は、明治期あたりに起業した会社かと思っていたら、1927年(昭和2)創業と意外に新しい。おそらく、会社の創立後に初めて大ヒットした商品が、「キング切手印紙葉書入」だったのではないだろうか。
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 タイトルには「70年使われた」と書いたけれど、同ハガキ入れが出てきてから、再びわたしが切手やハガキを入れて使いはじめたので、80年以上つかわれている……ということになる。下部を閉じておく黒いゴム輪は失われたが、まだまだ現役でいけそうだ。

◆写真上:函圧しに金文字と、かなり凝ったつくりの「キング切手印紙葉書入」題字。
◆写真中上は、同ハガキ入れの全体像。は、表紙をめくると各種郵便料金の記載とともに、「はがき入れ」と書いてあるところからハガキがタテに入れられる。
◆写真中下は、二つ折りの切手・印紙入れ。パンチ穴が開いており、切手の有無がすぐに確認できる。は、1937年(昭和12)の郵便局取り扱い郵便物と開業時間。は、1933年(昭和8)に撮影された落合地域の西隣りにあたる中野町郵便局。
◆写真下は、1929年(昭和4)に撮影された落合地域の北隣りにあたる椎名町郵便局。ちなみに、『中野町誌』と『長崎町誌』には郵便局の写真が掲載されているが、『落合町誌』と『高田町史』には未掲載だ。は、航空郵便のルートと料金表。

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安倍能成が証言する第二文化村空襲。 [気になる下落合]

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 以前、目白文化村Click!は第二文化村の振り子坂Click!沿い、下落合3丁目1724番地(現・中井2丁目)に住んでいた星野剛男の戦時日記Click!をご紹介したことがある。1945年(昭和20)4月13日夜半の、第1次山手空襲Click!前後の状況を記録した貴重な資料だ。今回は、同じ第二文化村の下落合4丁目1665番地(現・中落合4丁目)に住んでいた、安倍能成Click!の証言をご紹介したい。
 安倍能成Click!は、罹災した直後に東京朝日新聞のインタビューに答えて空襲の様子を語り、1ヶ月後には「週刊朝日」にその後の所感をエッセイに発表している。それらの文章には、政府をストレートに批判した表現や、敗戦後の日本を展望するようなニュアンスの文章が見られるのだが、安倍能成は幸運にも特高Click!憲兵隊Click!に逮捕されることはなかった。もう少し時期が早ければ、確実に検閲にひっかかり当局からマークされていただろうが、東京大空襲Click!を経験しサクラが散ったばかりの1945年(昭和20)春ごろには、特高も憲兵隊も取り締まりの機能が衰えるかマヒしはじめ、政府自体もまったく余力を失っていたのだろう。それでも、安倍能成の周囲には筆禍による弾圧を懸念した友人たちから、心配する声がとどけられている。
 1945年(昭和20)4月13日の夜半、安倍能成は家族とともに空襲がはじまった東側の高田馬場駅方面や、南の新宿から東中野駅方面を眺めていた。当初、川沿いの工業地域や鉄道駅がねらわれていると判断したのだろう、自身の家が爆撃されるとは思ってもみなかったようだ。ところが、空襲から1時間ほどすると、おそらく妙正寺川沿いを爆撃したB29の大編隊は、第二文化村上空で焼夷弾をバラまきはじめた。当夜の様子を、空襲直後に東京新聞へ掲載された安倍能成『戦災にあひて』から、少し長いが引用してみよう。
  
 四月十三日夜の爆撃で私の家は全焼した。時刻は十二時頃だつたかと思ふ。これより前南の空と東の空とはぱつと紅くなつて盛んに燃え立つて居たが、時を移さず自分の家に弾が落ちて来るとは思ひまうけなかつた。油脂焼夷弾であらう。ぼろつぎのやうなものが庭一面に燃えて、一時にけしの花の盛りを見るやうであつたが、家の中が燃え出したので、家族三人は家に上つて消防に努めた。(中略) 燃えるカーテンを引きちぎつたり、ドアに着く火に水をかけたりして防火に努めたが、その内二階の天井に穴が開いて猛火が燃え下つて来たので、これはだめだと思つて避難を始めてぐるりと見ると、近隣の四五軒、向ふの一軒も盛んに火を吹いて燃えて居る。/一軒おいて隣のO氏の前を通ると、家の方はあきらめて頻りに防空壕に土をかけて居た。それを少し手伝つたが、その時既に疲れを覚えて居た。近くの神社の下の防空壕に避難する前、今一度我が家の側にいつて見たところ、もう屋根は落ちて柱が盛んに燃えて居た。/防空壕の入口には人が一ぱいでとてもはひれぬかと思つたが、おしわけてはひつて見ると、実に長い壕で奥の方には殆ど人が稀な位であつた。空襲警報解除をきいて三時頃家の側にいつて見ると、朝鮮から帰つて建てた書庫の壁だけが残つて、書物はなほ盛んに燃えて居た。
  
 読まれた方もお気づきのように、安倍能成は「カーテン」や「ドア」などの英語(敵性語Click!)をふつうに用いて文章を書いている。
 数年前であれば、とたんに検閲でひっかかり筆者は特高からマークされるか、近くの憲兵隊詰所に呼びだされて恫喝されるような状況だったはずだ。だが、安倍能成は同時期のエッセイでもそうだが、英語を平然と織りまぜながら文章を新聞や雑誌に発表している。このあたりも、周囲の友人たちが心配したゆえんだろうが、おそらく敗戦が近いことを重々承知していた彼は、当局の反応や取り締まりのゆるみ具合を、発表する文章から推し量っていたのではないだろうか?
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 上記の文章の中で、「一軒おいて隣のO氏」とは安倍邸から西へ2軒め、しばらく空き地がつづいていた敷地へ、日米開戦の前後に家を建てたばかりの大内邸のことだろう。もともと、第二文化村の販売時には山川家の敷地だった区画は、かなり長期にわたって空き地の状態がつづき、日米戦がはじまるころに大内家が大きめな西洋館を新築して転居してきているとみられる。
 「近くの神社の下の防空壕」とは、下落合の御霊社Click!(現在は中井御霊社Click!と呼ばれる)が建つ丘上の急斜面に掘られた大規模な防空壕のことだ。文章から、おそらく数百人は収容できそうな地域の大型防空壕Click!だったようだが、第一文化村の文化村秋艸堂Click!にいた会津八一Click!も、空襲時にはここへ避難してきている。また、「朝鮮から帰つて」とあるのは、5年ほど前まで京城帝国大学に赴任して教授をつとめていたからで、この文章を書いている1945年(昭和20)の時点では、駒場の第一高等学校(現・東京大学教養学部)の校長をつとめていた。
 この空襲で、安倍邸は全焼してしまうが、火が入らないようコンクリートで囲った書庫の壁のみが焼け残った。書庫に保管されていた膨大な書物も、また2階東角の書斎にあった多くの書籍や資料類も、すべてが灰となってしまった。燃え残った書庫の四角い壁は、1947年(昭和22)の空中写真でもハッキリと確認することができる。
 安倍能成は、明確に敗戦を前提とし意識している文章を、今度は「週刊朝日」同年5月12日号に発表している。『罹災のあとさき』から、最後の部分を引用してみよう。
  
 私の焼け去つたものに対する愛惜はスツパリと断ち切られてはゐない。しかし私はこの現実に即してどうか力強く生きたい念願を持つてゐる。日本人は今始めてほんたうの戦争をし、ほんたうの困難にあつてゐる。この戦争は日本人をたゝき直す戦争である。私自身も若しかくしてたゝき直されれば有難いと思つてゐる。
  
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 「日本人をたたき直す」とは、どこで道を踏みまちがえたのかを明確に認識し、大日本帝国に蔓延していた文字どおりの「亡国」思想を「たたき直す」、絶好の機会となる戦争だと位置づけている。また、それを防げなかった自身のふがいなさも、「たたき直」したいと宣言している。安倍能成の、戦前からの言動や主張の文脈を知悉していた人々にしてみれば、明らかに敗戦後の「たたき直」し=再出発を見すえた文章であることは明白だったろう。だからこそ友人たちは、当局の弾圧を危惧する声を寄せたのだ。
 そして1945年(昭和20)8月21日、敗戦からわずか6日後の毎日新聞に、『強く踏み切れ』と題して次のような檄文を書いている。
  
 日本は負けた、世界を相手にして負けた。今の日本人にとつて何より重要なことは、この負けたといふ事実、敗戦国である実相を、わるびれず、男らしく、武士らしく、認識することである。この正直な真実の認識からこそ、新しい日本の総ての新しい出発は始まるのである。このことを好い加減にごまかしては、日本人の今後の生活は全く好い加減なものになり、本当の正しい起ち上りも打開も出来るはずはない。
  
 安倍能成が危惧したように、大本営が撤退を「転進」とごまかしたのと同様、敗戦を「終戦」と曖昧化する「男らしく」ない現象がすぐにも表面化している。被占領国の被害をできるだけ小さく見積もり、中には「なかったこと」にしたがる、矜持もなく「武士らしく」もない卑怯な言動が、ほどなく出現している。21世紀になり、「世界を相手にして負けた」戦争などまるでなかったかのように、破産・破滅した大日本帝国の「亡国」思想のまま、70年以上も思考を停止した人々が跳梁跋扈しはじめ、「非国民」などという愚劣で没主体的な言葉を平然とつかう人間まで出現するにいたった。
 安倍能成は哲学者として、また国家を滅ぼした政府の官学の一隅に身を置いていた教育者として、「この戦争が如何にして起つたか、この戦争に何故に敗れたかとの原因を諦観して、これを適正に真実に国民に、殊に今後の日本を背負ふべき青年に知らせることが、生きた具体的教育の重要基調でなければならぬ」(『強く踏み切れ』)と書いている。
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 わたしの高校時代は、プリント資料まで用意して近現代史の授業が熱心に行われていたが、今日では近現代史を教えるのは「時間切れ」で「試験に出ない」からパスされることが多いそうだ。翌1946年(昭和21)に文部大臣に就任する安倍能成が聞いたら、よじのぼった箪笥の上Click!で「山上の訓」どころではなく、真っ逆さまに転げ落ちるだろう。

◆写真上:1944年(昭和19)に制作された、安井曾太郎Click!『安倍能成像』(部分)。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる第二文化村の安倍能成邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安倍邸。安倍邸の2軒西隣りの敷地が、のちに大内邸が建設される空き地。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に陸軍が斜めフカンから撮影した第二文化村と安倍邸。は、第1次山手空襲で焼失するわずか11日前の1945年(昭和20)4月2日に、F13偵察機Click!から撮影された安倍能成邸の最後の姿。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる安倍邸の焼け跡。敷地の北側には、焼け残った書庫のコンクリート壁が見てとれる。は、安倍能成の死去をトップで伝える1966年(昭和41)7月3日発行の落合新聞。このときは、すでに下落合4丁目1665番地の邸を息子に譲り、安倍能成は下落合3丁目1367番地(現・中落合4丁目1番地)の新居Click!へ引っ越していた。安倍邸へ弔問に訪れた皇太子夫妻(当時)の背後に見えているのは、工事がスタートしている十三間通りClick!(新目白通り)。

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淀橋浄水場の沈澄池で自殺をするな。 [気になる下落合]

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 1955年(昭和30)12月31日の正月をひかえた大晦日、下落合2丁目276番地(ママ)で水道管が破裂する事故が起きている。1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された、『淀橋浄水場史』(非売品)にも収録されるほどの大事故だった。ただし、当時の276番地は2丁目ではなく1丁目なので誤植ではないかとみられるが(2丁目になるのは1971年より)、氷川明神社Click!のすぐ北側に位置する地番だ。
 この大事故は、淀橋浄水場系の水道網から砧上浄水場系の水道網へと補水する、埋設された1,000mm(=1m)管が破裂したもので、大口径の水道管破裂からあたり一帯が水浸しになったのではないだろうか。特に斜面下にあたる氷川社は、境内まで浸水しているのかもしれない。当時の1,000mm管は、1895年(明治28)に鋳造された鉄管をそのまま埋設している地域も多く、翌1956年(昭和31)2月にも、淀橋浄水場から芝給水場に送水する幹線の1,000mm管が破裂事故を起こしている。
 淀橋浄水場Click!がその役目を終えて閉鎖された翌年、1966年(昭和41)に出版された『淀橋浄水場史』には、さまざまな事業経営や設備技術の概説とともに、1898年(明治31)から閉鎖される1965年(昭和40)までに起きた多彩なエピソードが紹介されている。元・浄水場の水道局員たちが綴る文章は、たいがい事業の苦労話や技術系の専門話が多いのだが、中には逸話ばかりを集めたエッセイ風の寄稿も見られる。
 淀橋浄水場の開業からしばらくすると、濾池と沈澄池が鳥たちの楽園になっていた様子が記録されている。新宿地域に飛来する渡り鳥は、新宿御苑Click!と淀橋浄水場が羽を休める格好の水場になっていたらしい。特にカモやコチドリの群れが多く、ときには孵化したヒナたちも見られた。だが、戦時中は食糧難から浄水場のカモに目をつけた猟師が犬を連れて入りこみ、次々と鉄砲で撃ち殺して以来、カモの群れは二度と飛来しなくなったという。また、代田橋の玉川上水から淀橋浄水場までの給水路(約4km)が開渠だった時代は、濾池までアユの大群が入りこみ、それを取り除くために漁をしなければならなかった。獲れたアユは、職員たちが塩焼きにして食べている。
 賭博容疑で、警察の手入れが行われたこともあった。濾池の周辺には、深さ1.5mほどの砂桝・格納桝と呼ばれる凹状の設備があり、夏は直射日光が避けられ冬は寒風が避けられる、場内作業員にとっては休憩場のような場所だった。淀橋浄水場では、作業員のすべてが水道局員ではなく、繁忙期には作業員を200人ほど雇って業務を委託していた。その作業員のうちの数十人が、砂桝・格納桝で花札賭博をしていたらしい。かなり以前から内偵していたらしく、ある日突然、濾池の周辺に警官隊が現われ、その場にいた全員を賭博の現行犯で逮捕したという。東京市の公共機関における摘発だったせいか、監督不行届きということで後始末がたいへんだったようだ。
 また、沈澄池や給水路では、たび重なる入水自殺事件に悩まされている。同書に収録された、粕谷武『模型室のことなど』から引用してみよう。
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 玉川上水路も自殺の場所によく選ばれるが水道局としては大変な迷惑である。それも、わざわざ淀橋まで来て沈澄池や水路に入水する者がかなり多い。敷地が広く監視の目がゆきとどかないから致し方ないが、困ったことである。/沈澄池は深さ4メートル、周囲は垂直なコンクリートの壁で、誤って落ちてもひとりでははいあがれない。よほど水泳が達者でもないと一巻の終りになってしまう。/戦時中、ある青年が入水自殺したことがある。池のふちに履物がならべて置いてあるのを職員が発見し、ただちに入水自殺と判断したので「イカリ」による捜査が開始された。まもなく身体におもりをつけて死んでいるのが発見された。/後で調べたところ、この青年は、父親が昔淀橋浄水場に勤務したことがあり、小学生の頃は、淀橋の公舎で育ったということであった。最近は精神異常になっていたとのことであるが、幼い日の思い出を追って中野あたりから、わざわざ死場所を求めてやって来た淀橋への愛着心には、立合った人々も思わず涙をさそわれた。
  
 当然、そのような事件が起きるたびに、多くの東京市民が利用する飲料水の浄水場で、入水自殺するのは「ケシカラン」という主旨の新聞記事や水道局からの広報が出たが、ほとんど効果はなかったようだ。むしろ、淀橋浄水場の池や水路までいけば入水で死ねると宣伝しているようなもので、自殺志願者はあとを絶たなかった。
 戦時中は、淀橋浄水場に限らずどこの浄水場でも人手不足で維持管理がたいへんだった。淀橋浄水場では、繁忙期には200名の作業員が必要なことは既述したが、男性が兵役や勤労動員でいなくなった戦時には、濾池の能力が日に日に落ちて安全な水道水を給水することができなくなり、やむを得ず陸軍に依頼して兵士を派遣してもらっている。だが、濾池の砂層を形成する担上作業に駆り出された兵士たちは、慣れない作業に疲れ果ててしまい、場長や机上の事務員まで総動員して作業を継続したという。
 戦時中に、淀橋浄水場が地図から“消えた”話は有名だ。戸山ヶ原Click!に林立していた陸軍施設Click!ともども、敵の空爆目標になるのを避けるため、淀橋浄水場は地形図や市街地図から“消滅”している。だが、米軍は空襲の数日前にF13偵察機Click!を爆撃目標の上空に飛ばし、高度1万メートルから最新の情報を入手していたので、いくら地図から消してもなんら効果はなかった。
 たとえば、1940年(昭和15)に作成された1/10,000地形図では、淀橋浄水場はまるで新宿御苑のような、巨大な都市型公園に描きかえられている。また、1941年(昭和16)作成の淀橋区詳細図でも、大きな池が5つほどある崖地と針葉樹林に囲まれた公園として描かれている。双方の地図では、池のかたちや位置がずいぶん異なるので、すぐに「おかしい」と気づかれてしまうレベルの稚拙な改竄だった。
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 戦争も末期に近づくと、浄水場内のベンチュリーメーターを使って「空襲予知グラフ」というのが作成されている。ベンチュリーメーターとは、水道管の配水量や送水圧力を測定する仕組みで、その水量や圧力が急激に下がれば事故や故障を発見することができる。つまり、爆撃によって水道管が破壊された時期や時間を克明に記録することで、その規則性や周期を割り出し、次の空襲の時期や時間を予測するというわけだ。だが、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で、同浄水場事務所は「空襲予知グラフ」ともどもすべて灰になってしまった。
 淀橋浄水場は、水辺のある広い原っぱに近かったせいかバッタが大量に発生している。戦時中は食糧不足のため、大量に発生したバッタを捕獲して職員たちは飢えをしのいでいた。同書の『模型室のことなど』から、再び引用してみよう。
  
 平和なときには、広い場内にはバッタ類、ヘビ類、鳥類などさまざまなものが共存していたものだが、食糧不足はこれら虫まで手を延ばす結果となってしまった。/当時は、一杯の酒を呑むにも、券を持って行列しなければならず、勿論、酒のさかながあるはずはない。窮すれば通ずで誰かが考え出したのであろう。バッタを獲えて串焼きにし酒のさかなに持参するのが流行した。/このため、休憩時間には場内はバッタとりで大さわぎとなった。たちまち場内のバッタはとりつくされてしまった。/その後、場内からは虫類も殆ど姿を消してしまったほどで、バッタどもも怖ろしい人間に目を付けられたとうらんでいたことだろう。
  
 酒を手に入れる「券」とは、食糧を統制する政府が発行した「配給切符」のことで、すべての食糧は個人が自由に消費できないよう国家が厳しく管理していた。各家庭に配給される「券」がなければ、高価な闇市場で入手するしか方法がなく、その発行もままならない戦争末期になると、国民はいつも飢餓に苦しめられるようになった。
 東京から敗戦の傷跡が目立たなくなりはじめた、1965年(昭和40)3月に淀橋浄水場が廃止になると、東京都の首都圏整備委員会は浄水場の跡地を再開発する、「新宿副都心建設に関する基本方針」をまとめた。そして、浄水場移転跡地処分審議会を設置し、同年7~8月に跡地売却の告知を新聞各紙に掲載している。翌1966年(昭和41)2月に、初めての跡地売却入札が行われたが、まったく人気がなく入札に参加したのはたった2社のみで、しかも両社とも落札できずに不調で終わっている。
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 淀橋浄水場の埋立区画1・4・5号地に、丸の内にあった東京都庁が新庁舎を建設して移転し、淀橋地域(現・新宿地域)が「副都心」から「新都心」と呼ばれるようになるのは、それから25年もたった1991年(平成3)になってからのことだ。

◆写真上:1965年(昭和40)ごろ撮影された、淀橋浄水場沈澄池に飛来するカモの群れ。戦時中の猟師による殺戮を忘れたのか、戦後は再び飛来するようになった。
◆写真中上は、1965年(昭和40)ごろ撮影された淀橋浄水場全景。は、戦後に撮影された同浄水場の正門。は、濾池で行われる汚砂搬出作業。(戦後)
◆写真中下は、すべて“人海戦術”で行われていた濾池の汚砂削り取り作業と汚砂洗浄作業。(戦後) は、沈澄池(上)と濾池(下)の平面図。
◆写真下は、1932年(昭和7/上)と1940年(昭和15/下)の1/10,000地形図にみる淀橋浄水場の表現改竄。は、1935年(昭和10/上)と1941年(昭和16/下)の「淀橋区詳細図」にみる表現改竄。は、1945年(昭和20)5月25日夜半に照明弾で明々と照らされB29の大編隊による空襲を受ける淀橋浄水場。

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下落合の振り子坂沿いに建つ家々。 [気になる下落合]

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 ファイルを整理していたら、ようやく振り子坂Click!沿いに建つ家々を写した、横長の鮮明なパノラマ写真が出てきたのでご紹介したい。このブログをスタートして1年めの2005年(平成17)当時から、どこかのストレージへ保存をしたまま行方不明になっていた画像データだ。当初、この写真は改正道路(山手通り)工事Click!にからめてご紹介したが、その後、どこに整理・保存したものか「行方不明」になっていた。確か、下落合1736番地の熊倉医院が新宿区へ寄贈し、いまは新宿歴史博物館Click!が収蔵している写真の1枚だったように記憶している。
 また、写真の左手にとらえられたモダンハウスの佐久間邸Click!をモチーフに描いた、宮下琢郎『落合風景』Click!(1931年)でも振り子坂界隈を取り上げているが、同記事を書いたころには今回ご紹介する鮮明な写真がすでに行方不明になっていた。その後、同坂沿いに実家(ないしは私邸)Click!があったとみられる、山口淑子(李香蘭)Click!の記事でも探したが見つからず、最近では振り子坂沿いに建っていた武者小路実篤Click!の家を特定する記事でも、記事中に挿入したかったのだが行方不明のままだった。画像ファイルにわかりやすいネームをふらなかったわたしが悪いのだが、同画像はバックアップ用の外付けHDDの1台にまぎれて保存されていた。
 このパノラマ写真は、振り子坂や山手坂に沿って建つ住宅の様子や、手前の道路に改正道路(山手通り=環六)建設用の部材がすでに運びこまれていることから、1935年(昭和10)をすぎたころに同坂界隈をとらえたものだろう。ただし、山手坂上の尾根道に古くて大きな宇田川邸がいまだ建っているので、1938年(昭和13)よりも前の撮影ではないかと思われる。また、連続写真といっても厳密なものではなく、おそらく手持ちのカメラでやや移動して撮影しているのだろう、家々の角度や接続部分が多少ズレており、また写真をつないだ箇所の風景が少なからず途切れていたりする。
 さて、画面の左から右へ住宅の間を横切っているのが振り子坂であり、丘上に近い坂沿いの斜面に見えている住宅群は、目白文化村Click!の第二文化村に建てられた南端の家々だ。また、大きな排水溝ないしは下水管とみられるコンクリートの“土管”が置かれた道が、山手通りの工事で消滅してしまう、当時としては敷設されて間もない三間道路だ。この三間道路は、左手の振り子坂に合流しており、坂を下れば中ノ道Click!(下ノ道=現・中井通り)へと抜けることができた。撮影者は、当時は改正道路の工事計画が明らかとなり、森が伐採されて赤土がむき出しになった急斜面(下落合1737~1738番地界隈)に上り、北東から南西の方角にかけシャッターを連続して3回切っている。
 では、写真にとらえられた家々を順に特定してみよう。数年前まで、写真にとらえられた家々のうち3邸までが現存していたが、第二文化村の嶺田邸が解体されてしまったので、現在でも見ることができるのは2邸のみとなっている。まず、手前の土管が置かれた三間道路に面し、画面の中央にとらえられている西洋館が、撮影者の住まいである熊倉医院だ。その右手に見えている、洗濯物を干した日本家屋が安平邸だが、旧・安平邸はやや増改築されているものの、いまもそのまま同所に建っている。
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 熊倉医院と安平邸の間に、チラリと平屋の屋根だけ見えているのが、振り子坂沿いに建つ栗田邸(熊倉医院の北西隣り)だろう。また、安平邸の屋根上に、主棟の狭いフィニアルの載った屋根の西洋館が、第二文化村の嶺田邸。そのまま坂上に向かって、右並びに見えているのが同じく調所邸だ。嶺田邸はつい先年まで、大谷石のみごとな築垣とともに現存していたが解体されて敷地が細分化され、いまでは8棟の住宅が建っている。また、熊倉医院の屋根上で、2段に重ねた瓦屋根の上半分が見えているのが、振り子坂をはさんだ斜向かいの安東邸Click!だ。そのまま坂上へたどると、山口邸(淀橋区長の山口重知邸)とひときわ大きな星野邸Click!(戦後は東條邸)がつづいている。以上が、坂上に向かって建つ第二文化村の住宅群だ。
 熊倉医院を中心に山手坂が通う斜面にとらえられた、そのほかの住宅群を見ていこう。まず、熊倉医院の屋根上に少しだけ見えている安東邸の左(南)隣り、同医院の左手にとらえられた切妻の端に、平屋の屋根の一部がわずかに写っているが、これが下落合1731番地の旧・武者小路実篤邸の可能性が高い。また、安東邸の屋根にかかり、その左手に見えているひときわ大きな西洋館は上田邸だ。また、安東邸の右手に見えている、少し離れた尾根上の位置に建つ2階建ての日本家屋は宇田川邸だと思われる。同邸は、1938年(昭和13)作成の「火保図」では、すでに敷地が更地になっていて存在しないので、おそらく同写真の撮影後ほどなく解体されたとみられる。
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 熊倉医院の庭には、往診用に使用したのだろう、クルマの車庫とみられる小さな建物が付属しているが、その向こう側に見えているひときわモダンな建築が佐久間邸だ。この邸をモチーフに、宮下琢郎が『落合風景』を仕上げ1931年(昭和6)1月に発表しているのは、すでに過去の記事でも書いたとおりだ。モダンハウス佐久間邸の裏に見えている、大きな日本家屋が山路邸、その上に見えている2棟の住宅は、山手坂を上りきった尾根上の下落合1986番地に建っていた住宅だ。この2棟の住宅のうち、どちらか一方が旧・矢田津世子邸Click!(1939年まで居住)ということになる。
 写真が少し途切れてしまっているが、山路邸の右上に見えている大きな西洋館の屋根が赤尾邸だ。赤尾邸は、この写真に写っている邸の中ではもっとも規模が大きく、右手(北側)には和館も付属していたと思われる。赤尾邸の右手(北側)には、屋根が3つ重なって見えるが、いちばん手前の2階家は尾根道の手前の斜面に建つ佐藤邸だ。その佐藤邸の屋根に、ほとんど重なってわずかに見えている屋根が、尾根道をはさんだ向かい側の橋谷邸。そして、これら2棟の屋根からかなり離れた位置にかぶさるように見えている大きな屋根は、蘭塔坂(二ノ坂)Click!の上に建っていた大日本獅子吼会本堂の大屋根だ。そして、手前の佐藤邸の右(北)並びに見える平屋の屋根が高津邸、その右(北)隣りが先述のオシャレな西洋館の上田邸……ということになる。
 さて、ここに写る住宅街は、振り子坂の最上部に建っていた第二文化村の星野邸と杉坂邸を除き、空襲の被害をまぬがれているので、戦後もほぼこのままの姿で建っていた。わたしの学生時代には、山手通りを南へ下り中井駅まで歩くと、写真とあまり変わらない住宅街の風情だったような気がする。だが、戦後の山手通りの開通とともに静寂な環境は失われ、1970年代後半はかなり排ガスの臭いがきつかったのを憶えている。
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安東邸.JPG
旧・安平邸.JPG
 撮影者と思われる、下落合1731番地に住んでいた熊倉医院の医学博士・熊倉進は、『落合町誌』(1932年)によれば内科の専門医だったようだ。つい最近まで、自邸の位置を変えて開業していたような記憶があるが、現在の医院跡は駐車場になっている。

◆写真上:振り子坂沿いの住宅群をとらえたパノラマ写真の、熊倉医院(手前)と上田邸(奥)のアップ。熊倉医院の切妻に隠れて、わずかに見えている平屋の屋根の一部が、下落合1731番地に建っていた旧・武者小路実篤邸の可能性が高い。
◆写真中上は、振り子坂沿いに建っていた住宅写真の全体像と坂道の位置関係。は、写真右手(坂上)の住宅街。は、写真左手の住宅街に写る家々。
◆写真中下は、1935年(昭和10)すぎに撮影されたとみられるパノラマ写真(上)と同じ場所の現状(下)。は、1938年(昭和13)の「火保図」(左手が北)にみる同所と撮影画角。すでに山手坂上の尾根道沿いに建っていた大きな宇田川邸が解体され更地になっている。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同所と撮影画角。
◆写真下は、振り子坂沿いに建っていた独特のフィニアルが印象的な嶺田邸(2012年撮影)。は、昔とあまり変わらないたたずまいを見せる安東邸。日本橋出身のおばあちゃんは、お元気だろうか? は、何度か増改築を繰り返したとみられるが基本的に外観があまり変わらない日本家屋の旧・安平邸。

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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(6) [気になる下落合]

曾宮一念「落合ニテ」1922.jpg
 曾宮一念Click!が、下落合623番地にアトリエClick!をかまえてから1年後、1922年(大正11)に描いた『落合ニテ』と題するスケッチが残っている。明らかに冬季の情景で、光線は画家の正面やや右手の上から射しているようで、描かれた家々の主棟の向きからすると、正面やや右手が南の方角とみられる。
 手前には、太い樹木の伐り株だろうか、まるでオブジェのような面白い形の幹元が残り、葉を落とした木々が手前に、そして前方の林に繁っているのが見える。画面奥に描かれた林の下には、小さな谷間でもあるのか、その南向き斜面には平屋建てとみられる家屋の屋根が描かれているようだ。谷間の北側、つまり丘上に建つ手前の2棟の住宅は、南側にテラスを向けて冬でも暖かそうな造りをしている。
 画面右手の建物は、大正中期に東京郊外へ建てられた、“和”とも“洋”ともつかない意匠をしているが、左手の建物は明らかに洋館だ。しかも、東側に尖がり屋根の母家をもち、西側には台所があるらしい付属する下屋が確認できる。その手前の生け垣が枯れた柵には、勝手口とみられる入口らしい切れ目が見えている。南側に谷間があり、その北側に建てられているこのような意匠の建物は、下落合にお住いの方ならたちどころにピンとくるだろう。しかも、スケッチ『落合ニテ』を描いている画家は、この建物の住民とは親しくしょっちゅう出入りしていた。
 左手の洋館は、まずまちがいなく中村彝アトリエClick!だろう。そして、右手の建物は1920年(大正9)の年内、あるいは翌1921年(大正10)の早い時期に竣工している福田家別荘だ。福田別邸を建築中の音が、中村彝のアトリエまで響いてうるさかったのだろう、1920年(大正9)8月19日付け洲崎義郎Click!あての手紙で、彝は少しグチをこぼしている。同書簡を、1926年(大正15)出版の『藝術の無限感』(岩波書店)から引用してみよう。
  
 昨日は久しぶりで突然岡田先生が遊びに来ました。そして今度は僕の近処へ越して来るから、是非今一度坐つて体力をつけよと忠告されました。やさしい「をぢさん」でも見る様な、なつかしさを感じました。兎角の噂もありますが人間は確に温く、聡明ないゝ人です。これから近くへいらつしやる様になつたら時々会つて、色々為めになる話でもきかうかと思つて居ります。/僕の「おとなり」では今猛烈な大フシンをして居ります。松岡映丘(?)がそこへ越してくるのだ相です。非常に乱筆で読めないかも知れません。御判読して下さい。
  
 文中の「岡田先生」とは、このあとすぐに下落合350番地(のち下落合356番地)へ転居してくる、静坐会Click!を主宰していた岡田虎二郎Click!のことだ。また、日本画家の「松岡映丘(?)」がアトリエを建て、下落合に転居してくるというウワサ話が書きとめられているけれど、そのような事実はなく、彝アトリエ西側の広い敷地に建てられていたのは福田家の別邸だ。
 また、落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)の谷間南向き斜面に建てられ、屋根だけが見えている平屋の住宅は、のちに東邦電力Click!が開発する林泉園住宅とは関係のない敷地に位置する邸だと思われる。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、彝アトリエ前の位置から東側(右側)にかなりズレた位置に敷地の四角囲みのみが描かれているが、名前は採取漏れ、あるいは表札が出てなかったのか記載されていない。昭和に入ると、この住宅は下落合450番地の古島邸(古嶌邸)となるので、とりあえず1922年(大正11)の画面に描かれた住宅も、仮に「古島邸」と呼ぶことにする。
中村彝アトリエテラス1921.jpg
中村彝アトリエ事情明細図1926.jpg
中村彝アトリエ北西側.JPG
 古島邸は、中村彝アトリエと同様に関東大震災Click!の震動で少なからず被害を受けたのか、1924年(大正13)には住宅の位置をやや東に移動して、2階家に建て替えられているとみられる。それは、同年5月27日に彝アトリエの庭で催された園遊会で、南側の桜並木や林泉園のほうを向いて撮影された記念写真の左上に、2階家の屋根とみられる形状(建築中?)が、樹間を透かして見えるからだ。彝アトリエも含め、この一帯の住宅は空襲による延焼をまぬがれているので、戦後の空中写真でも彝アトリエの前、林泉園の斜面に建てられた古島邸を確認することができる。
 曾宮一念は、中村彝アトリエの西北側から、右手に竣工して間もない福田家の別邸を、左手の樹間には赤い尖がり屋根をもつ中村彝アトリエを、そして画面中央の奥には落合遊園地(のち林泉園)の谷戸に下がって見える、彝アトリエから道をはさんで真ん前にあたる古島邸(大正期の震災前)を描いていると思われる。画面の左枠外には、彝が何度か繰り返し描いた一吉元結工場Click!の干し場が拡がり、曾宮が振り返れば背後には目白福音教会Click!メーヤー館(宣教師館)Click!が見えていただろう。
 『落合ニテ』が描かれた1922年(大正11)の夏ごろ、曾宮一念は鶴田吾郎Click!たちとともに新潟県柏崎にいる彝のパトロンのひとり、洲崎義郎のもとを訪ねている。当時のリアルタイムで書かれた、中村彝から洲崎義郎あての1922年(大正11)9月10日(?)付けの手紙を、『藝術の無限感』よりつづけて引用してみよう。
  
 鶴田君や、曾宮君や、金平君の兄さん達が上つて大分賑かだつた相ですね。御上京は何時頃になりますか。上野の二科には曾宮君が一枚と清水君が一枚出して居ます。曾宮君のは僕の画室で見た時には確かにいゝ絵だつたのですが、何故か展覧会場では見劣りがすると言ひます。僕にはそんな筈がないと思はれるのですが、一つ君の鑑定をきゝ度いと思ひます。
  
 同年秋の第9回二科展で、曾宮一念が入選したのは『さびしき日』だった。また、「清水君」とは清水多嘉示Click!のことで、同展には『風景』が入選している。
中村彝園遊会19240527.jpg
中村彝アトリエ火保図1938.jpg
曾宮一念「落合ニテ」1922 構成.jpg
中村彝アトリエ空中1947.jpg
 曾宮一念が中村彝と知りあい、東京美術学校を卒業して池袋の成蹊中学校Click!の美術教師をしていた時期、1916~17年(大正5~6)ごろに制作した、『戸山ヶ原風景』と題する作品も残っている。一面に広大な草原が拡がり、遠景に比較的密な森林が描かれ、手前にはポツンと1本の目立つ樹木が描かれている。
 当時の戸山ヶ原Click!は、山手線をはさみ東側には、いまだ露天のままの大久保射撃場Click!をはじめ、近衛騎兵連隊の兵舎Click!軍医学校Click!戸山学校Click!衛戍病院Click!など数多くの陸軍施設Click!が建てられていて、明治末とは異なりこれほど“抜け”のいい草原は残されていなかった。だが、当時は「着弾地」と表現された西側の戸山ヶ原は、ほとんどなにも建設されてはおらず、曾宮の『戸山ヶ原風景』のような風情のままだったろう。そして、周囲を森林に囲まれた草原の真ん中には、「一本松」と呼ばれた特徴的なクロマツが生えていた。
 曾宮一念は、射撃訓練が行われていない安全な日を選び、山手線の西側に拡がる戸山ヶ原に出かけ、「一本松」を画面に入れて『戸山ヶ原風景』を描いているように思われる。晩秋ないしは初冬のような風情を感じる画面だが、空がどんよりと曇っているせいか太陽の位置がわかりにくい。手前には、「一本松」へと通じる逆S字型の“けもの道”ならぬ散歩者が歩く“人の道”が描かれ、遠景の森林は地形が下へ落ちこんでいるのか、樹木の上部が描かれているような感じがする。
 「一本松」へと通じる小路は、東側にある山手線の高田馬場駅南に位置する諏訪ガードClick!からも、また小滝橋のある西側からも通っていたとみられ、また地形も東西どちらを見ても急激に落ちこんでいるので断定はできないが、曾宮一念は山手線側から戸山ヶ原へと入りこみ、建物や煙突が見えない西側を向いて描いているのではないだろうか。画面の右端には、戸山ヶ原に接する北側に建立されていた天祖社境内の、神木(=大ケヤキ)とみられる葉を落とした大きな枯れ木が描かれているように見える。
曾宮一念「戸山ヶ原風景」1916-17.jpg
陸軍士官学校地図1917.jpg
どんたくの会(第2次).jpg
 この「一本松」のある戸山ヶ原の風景は、3~4年後の1920年(大正9)ごろ、当時は戸塚町(現・高田馬場4丁目界隈)に下宿していたとみられる佐伯祐三Click!『戸山ヶ原風景』Click!として制作し、またそれから18年後の1938年(昭和13)の“記憶画”として、濱田煕Click!が『天祖社の境内から一本松を望む』を描いている。

◆写真上:1922年(大正11)の冬季に描かれた、曾宮一念のスケッチ『落合ニテ』。
◆写真中上は、1921年(大正10)に中村彝アトリエのテラスで撮影された曾宮一念(後列右からふたりめ)。前列左端が中村彝で、右へ中原信Click!(中原悌二郎夫人)と中原悌二郎Click!は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる中村彝アトリエとその周辺。は、中村彝アトリエを北西側から見た様子。
◆写真中下は、彝が死去する半年前の1924年(大正13)5月27日にアトリエの前庭で行われた園遊会の記念写真(部分)。写真の左背後に、古島邸(震災~)とみられる2階家の屋根らしいかたちが見えている。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる中村彝アトリエとその周辺。中下は、『落合ニテ』に描かれているモチーフ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる『落合ニテ』の描画ポイント。
◆写真下は、1916~17年(大正5~6)ごろ制作の曾宮一念『戸山ヶ原風景』。は、1917年(大正6)作成の陸軍士官学校の演習地図「戸山ヶ原」(現・西戸山)。は、1931年(昭和6)ごろ画塾「第2次どんたくの会」Click!で撮影された曾宮一念(右)。

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