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田端駅付近も歩いた佐伯祐三。 [気になるエトセトラ]

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 1926年(大正15)4月の初めごろ、佐伯祐三Click!はフランスから大阪の光徳寺を経由して下落合のアトリエにもどると、ほどなく当時は田端で農民文芸研究会の拠点となっていた椎名其二Click!を訪ねているとみられる。アナキストでありフランスの文化や文芸を研究していた椎名其二は、佐伯とはウマが合ったらしく第1次渡仏前からふたりは親しく交流していた。椎名の周囲に目を光らせていた特高Click!は、この交際から佐伯をマークしはじめた可能性が高いことは以前にも書いたとおりだ。
 椎名を訪ねた際、おそらく佐伯は田端駅周辺の風情に惹かれたのだろう、1926年(大正15)の春から秋にかけ何度かスケッチに訪れているようだ。明確なタイムスタンプが残るものに、同年9月15日の『電車』と9月16日の『田端駅』が「制作メモ」Click!に記録されている。このうち、チョコレート色をした山手線の車両Click!を描いたとみられる『電車』は戦災で焼失しているが、記載された『田端駅』が現存する『田端駅附近』×2作のうち、どちらの画面をさすのかは不明だ。現存する田端駅付近の作品×3点は、いずれも広大な田端操車場かその近くを描いていると思われ、連なる電柱や信号機、信号手小屋などにおもしろい画因をおぼえたのかもしれない。
 ただし、田端作品ではないかといわれるようになった『休息(鉄道工夫)』のみが、ほかの作品とは異質な存在だ。当初、同作は工夫たちの様子からパリのプロレタリアを数多く描いた、前田寛治Click!の影響を受けた第1次滞仏作品で、1925年(大正14)作とみられていた。ところが、佐伯アトリエを訪ねた勝本英治に、佐伯は「仕事を終えての帰り途に鉄道工夫の溜り場を覗いたところ、こんな情景に出会った」(生誕100年記念佐伯祐三展)と、1927年(昭和2)3月に語っていることが前世紀末に判明している。
 藤本英治は、アトリエにあった作品の中で描かれて間もないとみられる『休息(鉄道工夫)』が気に入り、その場で手に入れているが、画面をよく観察すると工夫たちの作業着もフランスのものとは異り、日本の作業着のような気配であり、同作はパリの労働者や周囲の風情を似せて、田端の鉄道員を描いた1926~1927年(大正15~昭和2)の国内作ととらえられるようになった。佐伯の多くの画集や図録では、同作を1925年(大正14)の作としている記述が多いので、ちょっと留意が必要だろう。
 昭和期に入ると、長谷川利行Click!が田端駅周辺に出没して車庫や変電所、操車場などの風景を描いているが、佐伯が田端の椎名其二を訪ねた大正の終わりごろ、周辺には「春陽会」を結成した山本鼎Click!や小杉未醒、倉田白羊Click!森田恒友Click!などの画家たちが集って住んでいた。また、芥川龍之介Click!の肖像画やデスマスクを描いた小穴隆一、すでに結婚をして谷中初音町15番地に転居してしまったが、のちに下落合へアトリエをかまえる太平洋画会の満谷国四郎Click!なども一時住んでいる。
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 佐伯が何度か通い、田端駅界隈の風景をスケッチしていた周辺には、多くの文学関係者が住んでいた。田端608番地の室生犀星Click!を中心に、同人誌「驢馬」を刊行していたまわりには中野重治Click!をはじめ、窪川鶴次郎Click!堀辰雄Click!、西沢隆二、宮木喜久雄などが参集し、彼らの近くにはカフェ「紅緑」につとめる佐多稲子(田島いね子)Click!の姿もあった。大正末、「驢馬」が先鋭化していくとともに、室生犀星はいつ特高に逮捕されてもかまわないよう、常にヒゲを剃るのは夕方にし、洗面道具を包みに入れ風呂場にまとめておいたというエピソードは有名だ。これらの詩人や作家たちの何人かは、こののち落合地域やその周辺域へと転居してくることになる。
 なお、室生犀星の一家が1928年(昭和3)、12年間住みなれた田端から馬込文士村Click!と呼ばれた大森谷中1077番地へと転居する際に、大森地域の貸家を探して室生家に紹介したのは、萩原朔太郎の妻・稲子だったことが判明している。その3年後、萩原稲子Click!は下落合の妙正寺川に架かる寺斉橋北詰めに喫茶店「ワゴン」Click!を開店し、落合地域に住む多くの画家や作家たちの拠りどころとなった。
 また、下落合の「植物園」で『虚無への供物』Click!を執筆することになる中井英夫Click!も、一時期、芥川龍之介邸の南200m余のところに住んでいた。さらに、1927年(昭和2)7月24日未明、田端435番地で服毒自殺をとげた芥川龍之介Click!の枕もとへ駆けつけたうちのひとり、歌人であり文学者の土屋文明も、佐伯が田端駅周辺を描いていたとみられる前後、1926年(大正15)の夏に田端から下落合へ転居してきている。だから、芥川邸へ駆けつけたのは田端の旧邸からではなく、下落合の新邸からだったとみられる。しかし、拙サイトで土屋文明は、清水多嘉示Click!がらみの諏訪高等女学校Click!での教員として記念写真に登場したのみで、下落合のどこに住んでいたのかは不明だ。
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 さて、昭和初期に日本橋矢ノ倉町から田端へと転居して育った、当時の風情をよく知る近藤富枝Click!は、1975年(昭和50)に講談社から出版された『田端文士村』の中で、1964年(昭和39)出版の窪川鶴次郎の『東京の散歩道―明治・大正のおもかげ―』(社会思想社)を引用しつつ、次のように書いている。
  
 「(前略)沼地の右がはには、高台通り面して玉突屋と入り口を並べて更科そばと旅館(著者注 松が枝)があつて、それらが汽車の煙でくろずんだ横つ腹を沼の上に見せてゐた。そして左がはには駅からのぼつてきて高台通りへ出るところに沼の上にかかつているやうな格好で白十字の喫茶店があつた」/当時のようすがありありと目にうかぶ描写である。ただし白十字は白亜堂の間違いで、この店は全く崖の上にのり出すような形で建ち、ボックスに坐れば佐伯祐三や長谷川利行の好んで書(ママ)いた田端駅構内の、いくらかうらわびしい、何ごとかを語りかけてくるような、底に懐かしさを秘めた風景が木の間ごしにながめられた。そして例の鉄道の枕木をそのまま使った黒い長々と続く柵は、もうそれだけでここが田端以外のどこでもないことを語っていた。そして、この白亜堂の床は、歩けばぎしぎしと揺れそうな危うさがあった。
  
 喫茶店「白亜堂」は大正期からつづく店なので、貧乏な長谷川利行はともかく、画道具を抱えた佐伯祐三は立ち寄っているのかもしれない。
 芥川龍之介が、近くに住む洋画家・小穴隆一に大正末ごろ「金沢人に気を許すな」と囁いたのは、どのような意味合いからだったのだろうか。近藤富枝Click!は同書の中で、「詩人から芥川のジャンルである小説を侵そうとしていた」室生犀星のことではないかと推測しているが、はたしてそうだろうか。室生犀星もそうだが、同人誌「驢馬」を刊行していた中野重治や窪川鶴次郎も石川出身の「金沢人」だった。彼らは昭和期に入ると、上落合を中心にしたプロレタリア文学界の中心的な存在になっていく。予感にすぐれた芥川龍之介は、目前に迫った文学界の激動=プロ文学の席巻を、どこかで敏感に感じとっていたのではないか?……と考えるのは、はたしてうがちすぎだろうか。
 佐伯祐三は、「田端風景」を何枚描いたのかは不明だが、現在画集や図録などで確認できるのは4作品だ。この中で、『電車』と『田端駅附近』×2点のどちらかが「下落合風景」シリーズClick!の制作を本格化する直前、1926年(大正15)9月中旬に描かれているのかもしれないが、『休息(鉄道工夫)』は明らかに季節がちがう。工夫たちは長袖の作業着をシャツに重ね着しており、佐伯が帰国した1926年(大正15)の春か、藤本英治が証言するように1927年(昭和2)の冬から春にかけてということになりそうだ。
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 それらの作品からは、どこからともなく石炭の匂いが漂ってきそうな、近藤富枝も書いているが「うらわびしい」けれど、どこか懐かしい雰囲気がそこはかとなく漂ってくる。枕木をそのまま流用した黒い柵からは、クレオソートClick!の刺激臭が鼻をつきそうだ。

◆写真上:田端駅前の跨線橋である、新田端大橋の上から眺めた田端操車場。
◆写真中上から順に、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『シグナル』、同『田端駅附近』A、同『田端駅附近』B。AとBどちらかの作品が、1926年(大正15)9月16日に制作された画面だと思われる。は、新田端大橋から撮影した山手線(左)と京浜東北線の軌道(中央)、そして東北・山形・秋田新幹線の高架(右)。
◆写真中下は、1926年(大正15)9月15日の制作とみられる佐伯祐三『電車』(戦災で焼失)。は、第1次滞仏作と思われていた佐伯祐三『休息(鉄道工夫)』だが、新資料の発見により1926~1927年(大正15~昭和2)に制作された田端関連の1作とみられるようになった。は、西側からホームを見下した田端駅。
◆写真下は、1915年(大正4)制作の曾宮一念『田端駅にて』(上)と1928年(昭和3)制作の長谷川利行『汽缶車庫』(下)。は、1923年(大正12)撮影の田端駅。駅舎の向こう側に、長谷川利行の「汽缶車庫」に似た建物が見えているが別の建物だろう。は、現存する大井町操車場の旧・大井町変電所。

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のべ1,700万人のご訪問、ありがとう。 [気になる下落合]

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 先日、拙ブログへの訪問者が15年めで、のべ1,700万人を超えました。いつもお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。きょうは、このサイトの記事を制作するにあたっての楽屋落ち……、というか情報の収集からテーマの設定、取材あるいは関連する資料集め、現地の取材や撮影、そして原稿書きにいたるまで、拙ブログの楽屋裏(内情)について少し書いてみたいと思います。少しグチが混じるかもしれませんが、いままでそれに類することはほとんど書いたことがないので、それに免じてご容赦……。w
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 先日、風呂に入っていたら、子どもたちが小さかったころ愛用していたカップを発見した。サンリオのキャラクター「KERO KERO KEROPPI(ケロ・ケロ・ケロッピ)」のイラストが入った、プラスチック製のカップだ。子どもたちは、小さいころこれで嫌々ながら歯磨きをしていたのを思いだした。
 湯船につかりながら、昔の想い出とともに、何気なくカップのデザインをぼんやり見ていたら、とんでもないことに気づいてしまった。カエルのイラストの上に書かれた、キャラクターの名前が「ERO KEROPPI(エロ・ケロッピ)」になっていたのだ。(冒頭写真) 「そっか、子どもに人気のケロッピは、実はエロだったのか」……とすんなり納得しかかったのだが、すぐに「ちがうだろ!」と湯船でのぼせ気味の頭でも、さすがにハッキリと異常さを認識できた。おそらく、校正ミス(不良品の品質チェック漏れ)ないしはミスプリントだと思うのだが、同じ「エロ・ケロッピ」が世の中に何千個か出まわってしまわなかったことを祈るばかりだ。
 ふだんから毎日、見慣れているもの、使い慣れているものは、改めてしげしげと眺めたりじっくり細部まで点検したりはしない。日常の風景の中に溶けこんでしまうと、そこに大きなミスや見落としなど“落とし穴”があることに気づかないのだ。日常的に作成する文章表現にも、ほぼ同じようなことがいえるだろうか。日々、同じようなテーマや関連する項目などで文章を書いていると、そこに入力ミスによる誤字脱字や、錯覚などによる誤記を見落としていることに気づかないケースがある。
 以前、ご指摘を受けた代表的なものには、西を「東」と書き、東を「西」と書きつづけてなんら不自然に感じなかった、東京大空襲Click!記事Click!があった。本人は東西を誤りなく書いているつもりなのだが、ご指摘を受けるまで錯覚に気づかなかった。また、つい右と左を逆にまちがえたり、西暦と元号の一致しないケアレスミスもときどきやらかしている。1985年が、「明治18」と書いてしまったこともある。(1885年が正しい) 事前の読みなおしで、“ヒヤリハット”のケアレスミスや勘ちがいを訂正したのは百度や二百度ではきかないが、事前に何度か目を通しているにもかかわらず、チェックをするりと抜けていく誤りや錯覚も少なくない。いわゆる、校正ミスや校正漏れというやつだ。
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 わたしは拙サイトの原稿を、仕事から午後8~9時ごろもどり夕食や風呂を終え、しばらくたった午後10時すぎからだいたい午前0時ぐらいまで、興が乗れば午前1時すぎまで書いていることがある。もちろん、毎日書いているわけでも、また書きつづけているわけでもなく、ときには本や資料を調べたり、疲れていればネットやBD、TVを見たり音楽を聴いたりしてボーッとすごすこともあるが、たいがい原稿にまとめるのは現在は深夜の時間帯だ。したがって、その記述には錯誤や入力ミス、おかしな表現がたくさんある……という前提で、翌日には必ず読みなおすことにしている。
 原稿のテーマは、自分で本や資料を漁っていて偶然「見~つけた」となることもあれば、どなたからか情報や資料をお送りいただき、改めて詳しく調べはじめることも少なくない。あるテーマについての取材や調べものは、仕事がなく時間を終日たっぷり使える土・日・祝日などの休みにまとめて行なうことになる。だから、原稿を書くのはどうしても平日の仕事を終えたあと、深夜にならざるをえないのだ。つまり、仕事でアタマがけっこう疲弊してボケており、深夜の時間帯でミスや錯覚、思わぬテンションの高まりなどが起きやすい環境での文章表現となってしまう。
 原稿を書いた翌日、サイトへ記事を「下書き」としてアップする前に、テキストのままもう一度よく読みなおし、しばらくしてからアップした「下書き」記事を、もう一度読みなおして公開することになる。以前は、サイトに「下書き」としてアップロードしてから、三度ないしは四度ほどは読みなおしができる余裕があったけれど、近年は記事のダラダラ長文化にともない、なかなか校正回数を十分に稼げなくなってしまった。だから、ときたま自分でも唖然とするほどの校正ミスが発生することになる。
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 いつだったか(ずいぶん昔だが)、当時、鎌倉にお住まいだった校正のベテランの方から、「広辞苑は校正ミスだらけなのよ」とうかがったことがある。『広辞苑』は、岩波書店から出版されている日本でもっとも信頼性が高いといわれている机上辞典だ。彼女は校正のプロフェッショナルとして、何十年間にもわたり『広辞苑』を校正しつづけてきたが、校正のたびに誤植や誤字脱字、表現の誤りなどを発見して、いっこうにミスが減らないのを、半ば自戒をこめて「ミスだらけ」と表現したものだろう。“校正の神様”と呼ばれるようなプロでさえそうなのだから、わたしの一度や二度の読みなおしなど、まるでザルの目が校正しているようなものだ。
 いまでこそあまり見かけなくなったが、平凡社の『大百科事典』レベルになると、いったいどれほどの誤りが存在したものか見当もつかない。お気づきの方もおられるだろうが、従来は紙媒体だったコンテンツや書類の電子化は、手作業による膨大な誤入力や誤変換をまねき、新たなミスを爆発的に増加させるリスクをともなうことになるのは、別に年金記録の課題に限らない。電子化された『広辞苑』や『大百科事典』は、いまだに紙媒体よりも校正ミスが多いのではないだろうか。くだんの“校正の神様”がチェックしたら、「誤りが増えてるじゃないの!」と怒りをあらわにされるのかもしれない。
 ましてや、いい加減な校正で記事を書いている拙ブログなら、なおさらミスや見落としが多いだろう。もし、どこかの記事で誤入力・誤変換や錯覚、誤字脱字を見つけられた方がいらっしゃれば、「ああ、また深夜の大ボケ頭でまちがえてるじゃねえか、おきゃがれてんだ!Click!」と、ぜひやさしくご指摘いただければ幸いだ。それに加え、最近は歳とともに長時間の集中力が持続できなくなりつつあり、注意や意識・気力が散漫になることがしょっちゅうだ。本格的なAIエンジンを搭載した、パーソナル向けの文章校正サービスが早く現実化してくれるとうれしいのだけれど、そのころには文章表現自体もAIやRPAにおまかせ……なんて時代になったら、さすがにイヤだな。
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 「エロ・ケロッピ」のカップ、ちょっと棄てるのが惜しいので、そのまま洗面所へ置いておくことにした。同じカップをお持ちの方は、ぜひお手もとの「ケロッピ」をご確認いただきたいのだ。ひょっとすると、「ケロ・ケロ・ケロッピ」ではなく洗面所や風呂場で、あなたにエロい眼差しを向けている「エロ・ケロッピ」なのかもしれない。

◆写真上:「ケロ・ケロッピ」ならぬ、目つきが怪しい「エロ・ケロッピ」のカップ。
◆写真中:建設業者に樹木が伐られて破壊された、オバケ坂の上半分。「下落合みどりトラス基金」Click!が伐採直後から抗議をつづけているが、責任者である建築業者の代表は逃げまわって電話にさえ出ない。の2葉は、下落合の風景。
◆写真下:下落合らしい風景のスナップショット。下のほうに掲載した写真は、わたしの安いデジカメでかろうじてブレずに撮影できる比較的大型の鳥たち。下落合には30種類を超える野鳥が確認されているが、いちばんはどこまで大きくなるのかハトほどにも成長した、相変わらず逃げまわっている野生化したインコ。

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平塚で記録された関東大震災。 [気になるエトセトラ]

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 以前、1923年(大正12)の9月現在、藤沢町(現・藤沢市)の鵠沼にアトリエをかまえていた岸田劉生Click!が、関東大震災Click!に遭遇した様子をご紹介Click!している。鵠沼の海岸近くは、地面が砂地なので揺れが激しく、岸田家は洋館だったアトリエ部を除き母家全体が倒壊してしまった。また、親たちから江戸安政大地震の伝承を耳にしていたのだろう、劉生は津波の来襲を怖れ、家族を連れて高台へと避難している。
 きょうの記事は、藤沢のもう少し西寄りにある街、湘南海岸の中央にある平塚町(現・平塚市)の関東大震災の様子を見てみたい。ちなみに、神奈川県の大地震被害の検討部会では、東日本大震災の発生を受けて2015年(平成17)に被害予測の全面的な見直しが行われたばかりだ。結果、平塚市はマグニチュード8.5の海溝型地震(相模トラフの震源想定)が発生した場合、最大で9.6mの津波が約6分で海岸域に到達するとした。また、同様の揺れで大磯と二宮では、約3分後に最大で17.1mの津波が到達するとしている。この時間差と津波の高さのちがいは、海底の地形に起因していると思われる。
 馬入川(相模川)と花水川にはさまれた平塚海岸は、海岸線から急に水深が深くなり遊泳禁止に指定されている。だが、大磯や二宮の海岸線は遠浅のため、津波の到達スピードや波の高さが大きく異なるのだろう。つまり、湘南海岸で海水浴場に指定されている海岸は、神奈川県が想定する海溝型の大地震(M8.5)が起きた際、津波の到達時間がきわめて早く、また波高もかなり高いということになる。おそらく、岸田家が住んでいた藤沢町の鵠沼海岸(海水浴場)でも、津波の到達はかなり早かったのではないだろうか。
 関東大震災のとき、平塚では約5kmも内陸にある四之宮の家々まで波が洗ったと伝えられているが、同地域は馬入川(相模川)に近いため、津波で逆流した川の水が堤防からあふれて、住宅を押し流したものだろう。海岸に近いエリア、すなわち平塚駅の南側では、どこまで津波が到達したのかがハッキリしない。なぜなら、大正期は国道1号線が通る駅の北側(旧・平塚宿)が市街の中心であり、いまだ砂丘だらけだった南側にはほとんど人家がなかったからだ。ちなみに、由比ヶ浜近くまで住宅が建っていた鎌倉ケースを例にとれば、坂ノ下にある御霊社ぐらいまで壊滅しているので、少なくとも津波は400~500mほど内陸まで押し寄せているのではないかとみられる。
 では、大震災が起きた瞬間の様子を、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(非売品)から引用してみよう。この時期、守山商会Click!は平塚町宮の前へ移転してきており、震災の様子は平塚駅のすぐ北側、国道1号線沿いの情景ということになる。
  
 震源地丹沢山とは四里とは距てゝはゐない。勿論朔日休業で寝てゐた(守山)鴻三氏の身体は一米も跳ね飛ばされた。縁側から庭前に三米も突き飛ばされて了つた。地震加藤宜敷の凄い形相で、工場へ匍匐(ころが)りつゝ行くと、女中始め二三士は真に腰が抜けて立つ事が出来ない。煙突は倒れてゐるが幸ひ工場は軽るい屋根であるから倒れる所迄は行つてゐない。付近の家は九割七分迄は将棋倒れになつて阿鼻叫喚の声が暗澹と漲つてゐる。日本に一ツしか無い、海軍の火薬廠の貯蔵庫は、次ぎから次ぎへと天柱も砕けるかと思ふ許りの大音響を立てゝ爆発する。火災は各所から起つた。阿修羅男(守山鴻三)は屋上に駈け上つた。そしてコスモスを根抜(ねこ)ぎにして防火に勉めた。人々には天譴でもこの工場に天祐であつた。風立つと余燼が危険であるから、彼は声を張り揚げて町の人を呼んだ。人々は言ひ合したやうに竹藪の中に逃げて仙台公に縋つてゐる許りで人影を見なかつた。数名の者と町の消防ポンプを持ち出して消火に努めて見たものの、道路は倒壊家屋で進行が出来ない。下の方から押し潰された人の断末魔の声が聴えて来る。(カッコ内引用者註)
  
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 大地震の直後、震源地は相模湾沖ではなく、「丹沢山」というデマが流れていたのがわかる。震源地が内陸部だというデマは、津波に対する危機感を鈍らせて非常に危険だ。
 身体が1mほど飛んだというのは、初期の突き上げるようなタテ揺れで、その直後に縁側から庭先まで3mほど突き飛ばされたのは最初の強烈なヨコ揺れた。本震のヨコ揺れはよほど強烈だったようで、台座に固定されていた露座の鎌倉大仏Click!が、前へ40cmほど弾き飛ばされて傾いているのを見てもわかる。
 このとき、平塚町内では死者476名、全壊家屋4192戸という大きな被害を出していた。また、地面が砂地の地域が多く、液状化現象で地中の砂や水が大量に噴出している。地面の液状化で家や人が呑みこまれたり、幹線道路を含め地割れが随所で起きていた。社史には、倒壊家屋で消防ポンプが進めないと書いてあるが、町内あちこちの道路で地割れが発生し、車両の通行ができなくなった。国道1号線では、馬入川(相模川)に架かる馬入大橋が壊滅し、また東海道線の馬入川鉄橋Click!も崩落している。いまでも、東海道線で馬入川(相模川)をわたると、関東大震災で崩落した旧・馬入川鉄橋のコンクリート橋脚跡を見ることができる。
 地震のあと、大規模な火災が発生しているのは東京や横浜と同様だが、平塚には海軍の火薬廠があったため、火薬庫の大規模な爆発事故も起きている。たまたま9月1日が土曜日だったため、工場に残っていた工員たちも少なかったのだろう。もし大地震が平日に起きていたら、火薬庫の爆発によりもっと深刻な人的被害が生じていたかもしれない。
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 その内に例の通り国府津に集金に行つた(守山)謙氏が、汽車は転覆又は火災の為の不通なので、自転車を買つて何回も川や田の中に跳ね飛ばされつゝ飛んで帰つて来た。勿論家族は全滅であらうと覚悟して来たので、一同手を執つて喜び合つた。(中略) 横浜も川崎も、帝都も、紅蓮が炎々天を焦がしてゐる。午前九時頃生家に辿り着いた彼は、そこに全滅した生家と健全であつた両親と弟達とを見出してホツとした。(中略) 雪隠許り造つてゐても仕方が無いので、平塚の工場へ舞ひ戻つて来た。すると汽車は馬入-国府津間、馬入-程ヶ谷間を気息奄々と運転してゐて、東から逃げて来た罹災者の群、西から上つて来る救援者の群が、絡繹蜒々(らくえきえんえん)として物凄い勢である。その人達は食べるに何物も無い。畑には甘藷も大根も最早や一片の残物も無い。買ふ金はあつても濁らぬ飲料水は一滴もない。(カッコ内引用者註)
  
 汽車の転覆とは、隣り町の大磯で地震と同時に起きた東海道線の脱線転覆事故Click!のことだ。自転車で走行中、川や田圃へ跳ね飛ばされるのは大きな余震のせいだろう。東海道線が馬入川(相模川)始点なのは、先述のように馬入川鉄橋が崩落したからであり、程ヶ谷(保土ヶ谷)から先の東へ進めないのは、横浜の市街地が大火災で壊滅Click!していたからだ。この大火災で、横浜の市街地は実に90%以上が焼失している。また、国府津から西へ進めないのは、小田原の手前で酒匂川鉄橋が崩落していたからだ。
 震災から数日後、川崎や横浜方面からの罹災者が、国道1号線を歩いて西へ避難していく様子が記録されている。そこで、「よし来たあの返品されたコーヒー牛乳を売り出せと兄弟は、一挙に何十箱も売つて了つた」……という、以前にご紹介した同社社史Click!の現代ではありえそうもない事業発展の文脈へとつながってくる。
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 平塚駅は地震で倒壊し、駅員や待合室にいた乗客が下敷きとなり、死者6名重軽傷者数十名を出している。また、もっとも被害が深刻だったのは相模紡績平塚工場の倒壊で、144名もの工員が犠牲になった。死者の中には、多くの女工たちが含まれていたという。

◆写真上:平塚駅から西を眺めた風景で、正面は高麗山から湘南平にかけての大磯丘陵。
◆写真中上は、関東大震災で崩壊した平塚駅ホームの屋根。は、倒壊家屋が目立つ平塚の明石町付近。は、校舎が全壊した平塚小学校(現・崇善小学校)。
◆写真中下は、崩落した花水川(金目川)の堤防。は、地割れで通行できなくなった花水川沿いの道路。は、崩落した国道1号線の馬入大橋。
◆写真下は、平塚海岸から見た三浦半島方面の眺め。突堤の上には江ノ島、先端には烏帽子岩が見えている。は、国府津駅近くの東海道線の惨状。は、鎌倉の津波被災地。由比ヶ浜から押し寄せた津波で、御霊社や江ノ電が走る坂ノ下の住宅地は壊滅した。

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「巣鴨の神様」の「至誠殿」と巌本善治邸。 [気になるエトセトラ]

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 以前、避難先の巣鴨にあった親の実家の防空壕から、日比谷公会堂めざして歩いた19歳の巌本真理(メリー・エステル)Click!について書いたことがある。1945年(昭和20)3月11日、東京大空襲Click!の翌日のエピソードで、向田邦子Click!のインタビューに巌本真理が答えた記事をご紹介していた。なお、このエピソードについては、向田邦子と巌本真理との間で認識の齟齬があると思われるので、改めて記事にまとめてみたい。
 この避難先(東京市内なので疎開とは呼びにくい)である巌本家、すなわち巌本真理の祖父が住んでいた住所は、豊島区西巣鴨653~703番地界隈の南西向きの丘上から斜面にあたる広い敷地で、大正初期の住所でいうと北豊島郡巣鴨村巣鴨庚申塚653~703番地ということになる。すなわち、「巣鴨の神様」Click!のいた「至誠殿」のある山田夫妻の住所と、明治女学校の創立者のひとりである巌本善治邸とが、同じ敷地で重なっているのだ。明治女学校があった丘上と、巌本邸や庚申塚大日堂のある南西斜面を含めて、一帯の小高い丘は江戸期から「大日山」と呼ばれていた。
 大正後期から昭和初期にかけて、大日山とその周辺を地元の方々が記録した資料があるので参照してみよう。地元の古老たちが集まり、1986年(昭和61)3月29日に座談会形式で当時の思い出を語りあったものだ。出席者は、明治末から大正初期生まれの方々が多く、1909年(明治42)に明治女学校が閉校になって間もない時期の情景についての証言ということになる。1989年(平成元)に発行された小冊子、『座談会集・巣鴨のむかし第1集』(巣鴨のむかしを語り合う会)より引用してみよう。
  
 田崎 (前略)坂を上って行くと右側が幼稚園になっていますが、そこが明治女学校のあった所ですね。西洋館が1軒有って、その周りがもう本当に森だったのです。その向こうの公務員住宅が2棟有る所と東大の学生寮の所が、帝大の農場でした。そこは後にテニスコートになったように記憶しています。トンボとりに絶好の場所でしたが、あの近所は怖いと言うか気味の悪い所と言うイメージが有りましたね。通るときは小走りに通り抜けたものでした。(中略)
 藤井 (前略)校舎と言うのは良く知りませんが、その西洋館は原っぱの突当りにポツンと有りました。巌本真理さんはそこの西洋館で育ったのかしら。
 西村 真理さんは帝国小学校で私と同級だったのですが、折戸に住んでいました。
  
 「田崎」という方は、1913年(大正2)生まれなので、大正後期には大日山でよく遊んでいたと思われる。「あの近所は怖いと言うか気味の悪い所」というイメージをお持ちなので、おそらく「至誠殿」にいた「巣鴨の神様」の印象が、いまだ地域の記憶として色濃く残っていたのかもしれない。
 「藤井」という方は、1914年(大正3)生まれで、森の中の原っぱに建っていた巌本家の西洋館を記憶している。「西村」という方はひとまわり若く1925年(大正14)生まれなので、1926年(大正15)1月の早生まれだった巌本真理とは同学年にあたる。巌本真理が小学生だったとき、すでに生家だった庚申塚の巌本善治邸を出て、より山手線の大塚駅に近い折戸に住んでいたのがわかる。
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 巌本善治が、市街地から郊外の巣鴨庚申塚に引っ越してきたのは、明治女学校が麹町区下六番町6番地から巣鴨への移転を余儀なくされた1897年(明治30)のことだろう。明治女学校は、巌本善治や田口卯吉Click!、木村熊二、植村正久、島田三郎の5人が発起人になり、1885年(明治18)に九段下に設立された。キリスト教をベースとしつつも、「欧米人が主導する女子教育ではなく、日本人民の手で女子の教育を行う日本の女学校」を標榜していた。明治女学校の関係者には、勝海舟をはじめ旧・幕臣(つまり江戸東京人)つながりが多いのが特徴だった。
 講師陣は当時の最先端をいく人々によって構成され、明治女学校は女子あこがれの高等教育機関となり、最盛期には300人の女学生が全国から集まった。同時に、巌本善治が1885年(明治18)から『女学雑誌』を、つづいて『文学界』を刊行しはじめたことで、さらに女子たちの人気が沸騰した。講師たちの顔ぶれを見ると、たとえば津田梅子や島崎藤村Click!、樋口一葉、田辺花圃、北村透谷、木村鐙子、中島湘烟、若松鎮子(巌本嘉志子)、星野天知、荻原守衛Click!戸川秋骨Click!、平田禿木、内村鑑三Click!、馬場孤蝶、荻野吟子……と、今日から見れば信じられないような顔ぶれがそろっている。そして、卒業生には野上弥生子Click!羽仁もと子Click!相馬黒光(良)Click!など既存のワク組みにとらわれない、新しい時代の女性たちを輩出していった。
 多くの人々を惹きつけた巌本善治の魅力について、横浜のフェリス女学校の杓子定規な校風が合わず、1895年(明治28)に明治女学校へ転校してきた相馬黒光(良)Click!の証言を、1977年(昭和52)に法政大学出版局から刊行された『黙移』より引用してみよう。
  
 (前略)ここでは校長先生(巌本善治)の講話というのに、女義太夫の「素行」の名が出る。「円朝」「小さん」というような人々のことが語られる、芸術至上の精神から、先生が捉えてきて示されるものは実にかくの如く自由で、味わい深く、聴いているうちに自分の視野がぐんぐんひろがり、あらゆるものに許されている向上の精神が、ここに、そこに、とさし示されるように感じられて、耀き深い人生の自分も許されたる一人であるという気がしたのでありました。/そういう魅力のある先生に対し、魅力の乏しい古い世界から出てきている教え子達は、ただもえ一途に憧憬を寄せ、求めていた完全なものをここに得たかの如くに、安心しきって、校内の空気に身も心も委ねてしまったようなところがあります。(カッコ内引用者註)
  
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 1909年(明治42)に、明治女学校が経済的に破たんして閉校したあとも、同校の校主だった巌本善治は敷地南西側の一画、つまり大日山の丘上と南西斜面の500坪といわれる敷地に住みつづけていたらしい。彼が住んでいた家屋は、旧・明治女学校の一部の建築または部材を移築したものかもしれない。それが大正後期になると、森に囲まれたちょっと不気味な風情になっていたのだろう。
 大正末ごろを想定して、地元の人たちが作成した「巣鴨新田周辺略図」(1975年)によれば、巌本邸の敷地は旧・明治女学校が建っていた「明治原」の丘上の南西端から、巣鴨第一尋常小学校(現・西巣鴨小学校)の北側に通う丘下の道路まで、つまり庚申塚大日堂の南側にあたる斜面全体だったようだ。また、西巣鴨第一国民学校(現・西巣鴨小学校)を1945年(昭和20)に卒業した方々でつくる、「鴨の会」が作成した「鴨の街」地図では、巌本家は「おばけ屋敷」などと書かれている。w
 巌本善治は、広大な敷地の一部を貸地ないしは貸家にしていたようで、その一画に建っていたのが「巣鴨の神様」の「至誠段」と山田勝太郎・つる夫妻の西洋館であり、大正末には星道会本部Click!だったようだ。また、大正末には巌本邸の南側斜面には新たな道路が拓かれ、住宅地化が進んでいるので一般住宅用に土地を貸したか、あるいは手放したかしているのだろう。
 メリー・エステル(巌本真理)は、大日山の巌本家で巌本善治の長男・荘民(まさひと)とマーグリト・マグルーダ(米国人)の長女として、1926年(大正15)1月に生まれている。小学校に上がると、さっそく“あいの子”としてイジメられたため4年で中退し、自宅で家庭教師による英才教育を受けることになった。このあたり、自由で主体性を備えた女性を育てるという、巌本家ならではのフレキシブルで自由な教育環境がうかがわれる。6歳からはじめていたヴァイオリンは、諏訪根自子(戦前)や前橋汀子(戦後)などを育てたロシアのアンナ・ブブノワ(小野アンナ)について学んでいる。
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 19歳になった巌本真理は、避難していた巌本善治(1942年歿)の邸敷地内、大日山の斜面に掘られた防空壕から、演奏会が予定されていた日比谷公会堂へ向けて歩きはじめた。小高い大日山からは、サーチライトで照らされながら市街地上空を旋回するB29の大編隊や、散開してバラまかれるM69集束焼夷弾の様子がよく望見できたかもしれない。

◆写真上:1897年(明治30)から大日山に移転してきた、明治女学校のキャンパス跡。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる明治女学校。は、巣鴨庚申塚に移転してきた明治女学校。下左は、明治女学校の校長や校主をつとめた巌本善治。下右は、その孫娘にあたるヴァイオリニストの巌本真理。
◆写真中下は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる巌本邸敷地。は、地元で作成された大正末の様子を伝える「巣鴨新田周辺略図」(1977年)。は、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」にみる巌本邸の敷地界隈。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる巌本邸界隈。森に囲まれた原っぱに、ポツンと大きめな屋敷が見えている。中上は、1947年(昭和22)に撮影された同所。空襲で焦土と化しているが、大日山の斜面のどこかに巌本家の防空壕があるのだろう。中下は、地元の「鴨の会」が1945年(昭和20)現在を想定して作成した空襲直前の「鴨の街」地図。は、大日山の由来となった庚申塚大日堂。

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淀橋浄水場を描いた正宗得三郎。 [気になるエトセトラ]

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 先日、神田神保町の「いのは画廊」に寄ったら、画廊主が1枚の作品を見せてくれた。わたしが、落合地域とその周辺域の風景画に興味をもっているのをよくご存じなので、「下落合って、昔は淀橋区だったよね」と作品を出してきてくれたのだ。板に描かれた大正期の作品名は、そのものズバリ『淀橋風景』で、モチーフは新宿駅西口にあった淀橋浄水場Click!の淀橋浄水工場機関室に付属する節炭機室だ。描いたのは、雑司ヶ谷や西大久保に住んでいた正宗得三郎Click!だった。
 より正確にいうと、レンガ造りの淀橋浄水工場の喞筒室(しょくとうしつ)背後にある機関室+節炭機室と、機関室の排煙をする巨大な煙突を描いたものだ。光線の具合から見て、ふたつある機関室と煙突のうち南側の機関室の一部と煙突の下部を描いていると思われる。レンガ造りだった同工場の煙突は、関東大震災Click!の揺れでタテに大きなひび割れが何本も発生し、震災後は工場自体の建屋も含め全体が補修されているが、『淀橋風景』に描かれた浄水場の機関室は震災前の様子をとらえている。
 淀橋浄水場が通水を開始したのは、1898年(明治31)12月からだが、淀橋浄水工場の機関室と煙突が竣工したのは操業ギリギリの時期だった。機関室の建設について、1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)から引用してみよう。
  
 (淀橋浄水工場の)建物は3区分され、ポンプ室は建坪215坪余、汽罐室は321坪余、節炭機室は2室あり、各室建坪61坪余で、基礎工事はすべて杭打地形とした。ポンプ吸水井はポンプ室床下に煉瓦造、内法巾8尺7分5分、長114尺、深さ24尺、水深15尺5寸とし、上水池から径1,200mm鉄管で導水し、各ポンプごとに内径800mm鉄管で送水し、各送水管は室外で合して1,200mmの鉄管1条となり、市内高地へ送水される。/機関室の設計は明治27年中に調製したが、その後、設計変更があり、28年8月詳細図の調製にかかった。また用材搬入、基礎根掘工事に着手した。この掘さくは、出水と降雨などで山崩れがあり、揚水機破損もあって、工事を一時中止したが、その後も冬の寒気で煉瓦工事が休止したり、翌年9月の多摩川出水では砂利、砂の供給が欠乏して工事中止があり、そのほか31年には煉瓦供給を請負った東京集治監の手配が悪くて煉瓦不足で休業したりの困難のすえ、31年中ほぼしゅん工し、翌年8月に全部を完了した。(カッコ内引用者註)
  
 同書の記述によれば、工事は遅れに遅れて通水を開始したあとも、淀橋浄水工場自体はいまだ建設中だったことがわかる。通水から9か月後の、1899年(明治32)8月にようやく竣工して全機関の稼働がスタートしている。
 かなり細かく描きこまれた『淀橋風景』は、浄水工場の機関室へ引きこまれている高圧電線までが1本1本ていねいに描かれているが、絵の具はかなり厚めに塗られ、レンガ造りのどっしりとした建物の質感がよく表現されている。手前の草原が枯れているように見えるので、晩秋から冬にかけての風景だろうか。奥に描かれた、空を二分する巨大なレンガの煙突がひときわ目を惹くが、この煙突工事も事故が多発して竣工が遅延している。同書より、再び引用してみよう。
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 煙突は煉瓦造り2基で各1基は気罐3組(6個)に対応して使用するもので、用法は通常は2組(4個)ずつを輪転使用することにし、掃除と臨時修繕の余地をとった。煙突基礎は地盤上に直ちにコンクリートで築造し、厚さ3尺、直径43尺の8角形で、基礎の最下部は地盤以下15尺である。煙突は2基併用で煙道を接続し、なお中間に阻通扉を設け単用もできるようにした。高さは地盤上120尺、地面線では外径16尺、厚さ煉瓦4枚、頂上は内径6尺5寸、厚さ煉瓦1枚半、底より高さ20尺までは内部に耐火煉瓦を使用した。煙道の内部は高さ7尺、幅4尺5寸とし、煉瓦で築造して内側には耐火煉瓦を使用した。(中略) これら築造工事の主要材料は別に購入し、工事は直営で施工した。基礎工事は明治29年5月に始め、煙突工事は同年12月に開始したが、途中で30年9月8日の暴風雨があり、煙突の足場崩壊などの事故があったりした。
  
 淀橋浄水工場の機関室背後から突き出た、高さが37m(121尺6寸)前後の巨大な煙突は、淀橋地域はおろか高い建築の少ない当時は、東京市内のあちこちからよく望見できたのではないだろうか。この淀橋浄水工場の斜向かい、青梅街道をへだてた東北東120mほどのところ、旧・柏木成子北町100番地界隈(のち淀橋町柏木成子100番地界隈)で育ったのが洋画家・小島善太郎Click!だった。レンガ造りの大きな淀橋浄水工場と煙突は、小島善太郎が淀橋小学校へ入学したばかりのころ、6歳のときに竣工している。
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 『淀橋風景』は、正宗得三郎Click!が明治末に暮らしていた高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原730番地の海老澤了之介Click!邸を出て、豊多摩郡大久保町西大久保207番地にアトリエをかまえた大正前半期ごろの作品だとみられる。描かれた板の裏には、「正宗得三郎 淀橋風景」と署名と画題が墨で書かれており、墨蹟はかすれてかなり古いものだ。
 おそらく、正宗得三郎は西大久保のアトリエを出ると西へ向かい、道路の左手に大久保病院Click!の病棟(現・新宿ハローワーク+大久保公園)を見ながら、山手線の線路のほうへ歩いていった。山手線の手前で、線路と平行に敷設された道路(現・西武新宿駅前通り)を南へ一気に下ると、淀橋町(字)五十人町と(字)矢場の間にある山手線の小さなガード(現・新宿大ガード)をくぐり西へ向かって少し歩けば、青梅街道(現・旧青梅街道)が貫通し淀橋浄水場の正門がある五叉路(現・新都心歩道橋下交叉点)にたどりつく。西大久保のアトリエから淀橋浄水工場まで、およそ1kmとちょっとの道のりだ。
 正宗得三郎は、淀橋浄水場の正門を入ると場内引き込み線の線路を横断し、浄水工場の南側にある庭園に入りこんだ。そして、庭園に掘られた小さな池や引き込み線の分岐線に背を向けてイーゼルをたてると、レンガ造りの工場建屋から西へのびた機関室に付属する、3つの特徴的な窓がうがたれた節炭機室の角と巨大な煙突をモチーフに、持参した板へ絵の具を置きはじめた。おそらく、浄水場の濾過池と沈澄池への立ち入りは制限されていただろうが、工場南側の庭園には正門の守衛に断れば入ることができたのだろう。
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 画家の描画位置からほぼ北を向くと、機関室と節炭機室に付属する巨大な煙突は前後で2本見えそうだが、あえて1本を省略したか、あるいはちょうど2本が重なって見えるような位置関係を選んでイーゼルをすえている可能性がある。明治末から大正期にかけ、淀橋地域や大久保地域の住民たちは浄水場の煙突の見え方で、いま自分がどのあたりにいるのかを推し量ることができたのではないだろうか。そんな地域のランドマークを感じさせる、淀橋浄水工場の“お化け煙突”だった。正宗得三郎『淀橋風景』は、いまだ買い手が現れないので、大正期の淀橋浄水場に興味がおありの方は「いのは画廊」へ……。

◆写真上:大正前半期の仕事とみられる、板に描かれた正宗得三郎『淀橋風景』。
◆写真中上の2葉は、1899年(明治32)ごろに撮影された竣工間もない淀橋浄水工場。は、淀橋浄水場の正門で工場は入って右手にあった。は、沈殿池側から遠望した浄水工場。より高いコンクリートの煙突が完成後で、昭和期の撮影とみられる。
◆写真中下は、淀橋浄水工場計画時の初期側面図と平面図。は、淀橋浄水工場の西側から東を向いて撮影された機関室・節炭機室つづきの巨大な2本の煙突。煙突に鉄輪がはまっているので、関東大震災による大きな被害の補修後か。
◆写真下は、1911年(明治44)の淀橋町市街図にみる正宗得三郎アトリエがあった西大久保207番地。は、同アトリエから淀橋浄水場へ向かった正宗得三郎の想定ルート。は、『淀橋風景』裏面に書かれたサインとタイトル。
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雑司ヶ谷で暮らしたリヒャルト・ハイゼ。 [気になるエトセトラ]

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 リヒャルト・ハイゼが、東京高等商業学校(のち東京商科大学Click!:現・一橋大学)のドイツ語教師として来日したのは、1902年(明治35)8月のことだった。同年の3月に、前任のドイツ語教師が死去したため、後任の募集が行われハイゼが応募したという経緯だ。前任のドイツ語教師はイタリア人で、ドイツ語のほかスペイン語やイタリア語も教えていたため、おそらく発音が怪しかったのだろう、ドイツ語の授業は本格的なドイツ人教師に……という学校当局の意向で、改めて募集がドイツで行われたとみられる。
 ハイゼは、1869年(明治2)にキールで生まれているが、父親はキール大学教師で同時にプロテスタント教会の牧師、母親は地元では有名だった名門の学閥の家柄出身で、キールでは少なからず裕福な家庭だった。ハイゼは、おカネ持ちの子どもがみなそうであったように9年制のギムナジウムへ入学し、エリートコースを歩きはじめているが、途中で挫折や意思の変遷などにより紆余曲折したあげく、化学を専攻するためにキール大学へ入学する。だが、途中で「病気」のために退学し、東プロイセンやポーランドで農業に従事しながら身体を鍛えていたようだ。
 少年から青年にかけてのハイゼの経歴は、2012年(平成24)に中央公論新社から出版された瀬野文教『リヒャルト・ハイゼ物語―白虎隊の丘に眠る或るドイツ人の半生―』に詳しいので、ぜひ参照していただきたいのだが、ハイゼの“屈折”は、当時のドイツが置かれた複雑な政治状況ともからみ合い、さまざまな思想や意思が彼の青春時代には反映されていると思われる。
 来日したハイゼは当初、江戸期からの外国人居留地だった築地に住んでいる。明治に入ってからも、築地は欧米人の独特なコロニーを形成しており、そのエキゾチックな街並みに惹かれて多くの画家たちが通っているのは、以前にご紹介Click!したとおりだ。ハイゼは、東京高等商業学校でドイツ語教師として勤めはじめたが、その後、学習院、慶應義塾大学などでもドイツ語を教え、北里柴三郎の伝染病研究所ではドイツ語による医学ドキュメントの作成などに従事している。
 ハイゼが、学習院で教鞭をとるようになり、1908年(明治41)に学習院が四谷尾張町から高田村金久保沢・稲荷一帯(現・目白1丁目)に移転Click!してきたのとほぼ同じころ、小石川老松町59番地(カール・フローレンツ邸で仮住まい?)へ一時的に住み、さらに高田村雑司ヶ谷572番地へ自邸を建設して転居している。これが、いわゆる「雑司ヶ谷異人館」Click!の由来であり、ハイゼが日本を去りドイツへ帰国したあと、そして死去したあとも、71年間にわたって雑司ヶ谷とその周辺に住む多くの人々の目を惹きつづけてきた。同邸が解体されたのは、ハイゼの死去から39年後の1979年(昭和54)のことだった。
 瀬野文教『リヒャルト・ハイゼ物語』から、雑司ヶ谷でのハイゼを引用してみよう。
  
 ハイゼは、学習院が目白に移転した一九〇八年(明治四十一年)ころから一九二四年(大正十三年)に帰国するまで雑司ヶ谷(鬼子母神、雑司ヶ谷霊園のそば)に住んだが、外出するたびに近所の子供たちに付きまとわれたようだ。その界隈の古老たちの話では、子供のころハイゼがやってくるとみんなして「あっ、ハイゼだ、ハイゼだ」といっては面白がって取り巻いたという。大正末の話であり、ハイゼが日本を離れる少し前のことである。古老の話では「ハイゼは結婚していなかった」という。“二号さん” “愛人”を“異人館”とよばれる屋敷に連れ込んでは、取り替え引っ替えしていたが、近所の大鳥神社の縁日には気前よく寄付をしたそうだ。ハイゼは日本を去る二年前の一九二二年(大正十一年)、ドイツ・ハンブルグ郊外に家を建て、妻と四人の子供たちを先に帰して住まわせ、自分は一人日本に残り雑司ヶ谷の家に住んだ。
  
 このとき、ドイツへ先に帰国していた4人の子どもたちを抱えるヨシ夫人も、ハイゼとは箱根の温泉静養地で知り合ったとみられる日本女性だった。
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 東京高等商科学校や学習院では、さまざまな人物たちとの人脈が形成されている。ハイゼが学習院に勤務していたころの院長には、怪談の講演Click!で生徒たちの親から顰蹙Click!をかい、白樺派の学生たちからは前時代的と嘲笑されていた、こちらでもおなじみの乃木希典Click!もいる。ハイゼの教え子には、左右田喜一郎をはじめ、来栖三郎、印南博吉、久武雅夫、武者小路公共、そして昭和天皇などがいた。
 また、ハイゼが感銘を受け、終生にわたり尊敬しつづけた人物に北里柴三郎がいる。北里は、ドイツに留学して医学を学び、日本の医学を一気に世界レベルまで押し上げ、さらに伝染病に関しては世界をリードするまで研究を深化させた人物だ。北里は、ヨーロッパの学会で発表する論文の草稿や、著作の原稿などの校正をハイゼにまかせるようになっていたので、そこには相当の信頼関係が築かれていたのだろう。
 北里の伝染病研究所は、ドイツの師であるコッホの研究所とフランスのパストゥール研究所と並び、医学界の世界三大研究所と呼ばれるようになるまで成長した。ところが、面目を丸つぶれにされた東京帝国大学の医学部では、政府に陰湿な策謀や根まわしを繰り返し、北里の伝染病研究所を東京帝大医学部の下部組織にしてしまい、北里柴三郎を即座に辞任へ追いこんでいる。このあたり、東京帝大医学部における島峰徹Click!(歯科医学)への、欝々たる執拗なイヤガラセとよく似た体質であり経緯だ。こうして、北里は「国家もはやたのむに足らず」と宣言し、単独で私立の北里研究所を設立することになる。その後、今日へとつながる北里大学や北里病院へと発展するのは周知のとおりだ。
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 日本でのこのように多種多様な人脈が形成される中、ハイゼは旧・会津藩出身で東京帝大の総長だった山川健次郎から、会津戊辰戦争や少年たちで組織された白虎隊に関する悲劇のエピソードを知ることになった。ハイゼは、知人の宣教師アーサー・ロイドに奨められ、会津の白虎隊の少年たちが眠る飯盛山を訪れている。彼が薩長政府の「御雇外国人」でありながら、薩長史観に影響されずほとんど染まらなかったのは、急速に西洋化する日本の状況を非常に残念がっていたからだけではない。
 彼の会津や白虎隊に寄せる思いは、単に古き良き時代の日本への憧憬や、「忠」や「義」を尊重する「武士道」への単純なあこがれとは異なり、かなり複雑なイデオロギーの上に成立していたようだ。それは、限界を迎えていた西洋思想、あるいは西洋のシステムに対するアンチテーゼを模索しつづけ、そのヒントを東洋の当時は“新興国”だった日本に見いだしたかのような趣きがある。
 ハイゼは、東京高等商科学校の同僚で経済学を教えていた自由主義的な福田徳三とは、終生親しい関係をつづけている。同書より、再び引用してみよう。
  
 ハイゼはプロイセン式教育でゲルマン魂を日本の青年に叩き込み、武士道と日本人の忠誠心に心酔した人であり、西洋かぶれした日本人を何よりも残念がり、キリスト教を捨てて神道に宗旨替えした奇妙な外人であった。福田徳三も洋行して西洋の学問にひたりながらも、西洋のものの考え方には飽きたらず、資本主義と社会主義を克服したかなたに人類の明日を見ようとする、かなり奇妙な日本人であった。(中略) ハイゼと福田が妙に意気投合したのは、おそらく“反西洋”、“脱西洋”というところで気持ちが通じあったためだ。ところが白虎隊の丘に骨を埋めたハイゼを、単なる武士道の心酔者、封建制の遺物たるハラキリ・セップクの礼賛者、プロイセン仕込みの軍国主義者とのみ短絡的に解釈し、その一方で福田を近代経済学のパイオニア、デモクラシーの鼓吹者、ヨーロッパ・リベラリズムの伝道者=西洋思想の宣伝マンとしてこれまた短絡視すると、二人が終生変わらぬ親友であったことが理解できなくなってしまう。現代人の思考範囲の恐るべき狭さに、筆者は愛想が尽きているのでここでくどくど説明するつもりはないが、両者とも西洋を突き抜けたところに何かを見たいと思っていたのだろう。
  
 福田徳三は、昭和期に入ると西洋のデモクラシーを信奉する自由主義者=「国賊」として弾圧されたが、ハイゼは日本の「武士道」を理解したドイツ人として歓迎されている。だが、ふたりが見すえていたのは、そのような社会的な状況に左右されるご都合主義的な解釈の、さらにその先にあるモノだったのではないだろうか。
 ハイゼは1937年(昭和12)11月に再び来日し、雑司ヶ谷のハイゼの原Click!にたたずんで人手にわたったかつての自邸=雑司ヶ谷異人館をしばらく眺めている。そのあと会津若松に向かい、白虎隊の墓がある飯盛山を再訪して東山温泉に泊まり、当時の市長や町の人々から大歓迎を受けたようだ。
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 1940年(昭和15)4月23日、中国大陸を旅行中のハイゼは肝臓病で倒れ北京で死去している。遺骨はヨシ夫人と息子のエーリッヒ・カメイチロウ・ハイゼ、娘のゾフィ・ハイゼの手で日本に運ばれ、かねての遺言により会津の白虎隊が眠る飯盛山へ葬られた。

◆写真上:ハイゼ邸=雑司ヶ谷異人館跡で、現在は南池袋第二公園になっている。
◆写真中上は、1955~56年(昭和30~31)ごろに撮影された旧・ハイゼ邸。(提供:正木隆様) は、その“異人館”で撮影されたリヒャルト・ハイゼ夫妻と子供たち。
◆写真中下上左は、2012年(平成24)に出版された瀬野文教『リヒャルト・ハイゼ物語』(中央公論新社)。上右は、日本に着任したころのハイゼ。は、結婚前に日光で撮影されたハイゼとヨシ夫人。は、ハイゼも祭事には寄進した雑司ヶ谷の大鳥社。
◆写真下は、前列左の北里柴三郎と並ぶハイゼ。中左は、日本の近代経済学の祖といわれた福田徳三。中右は、会津の飯盛山に眠るリヒャルト・ハイゼの墓。ニベアクリームが供えてあるが、息子のエーリッヒ・ハイゼがドイツのニベアと日本の花王Click!との合弁会社を興したためであり、隣りのエーリッヒの墓と父リヒャルトの墓をとりちがえたものか。は、ハイゼ邸=異人館跡のあたりから望む“ハイゼの原”跡の現状。

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画壇と訣別して下落合に住んだ夏目利政。 [気になる下落合]

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 夏目利政Click!が、東京美術学校の日本画科へ学んだにもかかわらず、洋画の表現にも強く惹かれていたのは、やはり本郷区駒込動坂町109番地の実家2階に下宿していた、長沼智恵子Click!の影響が大きかったようだ。いまだ子どもだったにもかわらず、文展をはじめ多くの展覧会へ入選していた夏目利政は、しばしばその作品を彼女から容赦なく批判Click!された。夏目は、東京美術学校で日本画を学ぶかたわら、白馬会洋画研究所にも通って洋画の技術も身につけている。
 夏目利政は、1893年(明治26)に駒込動坂町の実家で生まれた。父親は腕のいい牙彫師Click!・夏目音作で、家庭の内証はかなり豊かだったらしく、江戸期には田安家に仕えた幕臣の家系だった。音作の父親、つまり夏目利政の祖父は彰義隊Click!に参加し、上野の戦争Click!で戦死している。ひょっとすると、夏目音作は銀座の池田象牙店Click!の仕事も引き受けていたのかもしれない。そのような家庭環境で、夏目利政はなに不自由なく育ち、子どものころから画才を発揮した。
 書(道)では、1902年(明治35)の9歳のときに展覧会で初入選しているが、絵画では1907年(明治40)の14歳のとき、日本勧業博覧会(東京府)で『畑時能』が、日本絵画展覧会(国画玉成会)で『競』が、そして第1回文展(文部省)で『春』が入選して世間を驚かせている。そのまま、夏目利政は連続して毎年なんらかの展覧会に入選しつづけており、1911年(明治44)の18歳のときには、第5回文展へ六曲一双の屏風絵『隅田川』を出品して再び入選している。
 周囲からその才能を認められて褒められ、チヤホヤされながら育ったであろう夏目利政は、長沼智恵子から「子供のくせにしてこんなまとまった絵をかくことはちっとも真実を知らないからで、個性のない、だれでも書(ママ)ける絵だ」と批判され、初めて大きなショックを受けたと思われる。それが、こまっちゃくれた子どもだったとみられる利政を、様式や技法にあまり縛られない洋画の世界へ目を向けさせ、ほどなく白馬会洋画研究所へと通わせるきっかけとなったのだろう。
 夏目利政は、11歳のときから梶田半古の画塾に入って日本画を習っている。1917年(大正6)の24歳のときに師の半古が死去すると、2年後の1919年(大正8)に未亡人の和歌夫人と結婚している。しかも、結婚した年の10月には早々に子どもが生まれているので、ひょっとすると「できちゃった」婚の可能性がある。そして、半古の子どもたち5人を引きとり、自分の母と祖母、そして生まれたばかりの実子も含め計10人の一家で、下落合793番地(のち夏目貞良アトリエClick!)へ、ほどなく下落合436番地のアトリエで暮らすことになった。夏目利政が26歳、和歌夫人は12歳年上の38歳になっていた。
 駒込動坂町から下落合のアトリエへの転居は、下落合にやってきたあまたの画家たちとは異なり、当時の「画壇」といっさい訣別するための転居だった。夏目利政は、師の日本画家・梶田半古の未亡人と結婚したために、周囲の画家たちから妬みや反感をかい、既存の画会や展覧会での創作・出品活動ができなくなってしまった。しかも、結婚してほどなく子どもが生まれたことも、不道徳だと見とがめられたゆえんかもしれない。当時の日本画の世界は、きわめて閉鎖的な人間関係であり「画壇」だったのだろう。以降、彼は独自で画業をつづけていくことになる。
 また、日本画だけでは生活できないため、本来の器用な才能や手先を活用して、下落合におけるアトリエ建築の設計などの仕事もこなしていたようだ。以前、下落合804番地の鶴田吾郎アトリエClick!を設計した事例をご紹介しているが、ほかにも夏目利政が設計したアトリエがありそうだ。また、自身のアトリエだった下落合793番地へ、弟の彫刻家・夏目貞良(帝展無鑑査)を呼び寄せたのをはじめ、下落合に住みたい画家たちの事情通、あるいは面倒見のよいコーディネーターのような役割りもはたしている。
夏目利政1921頃.jpg 夏目和歌1920.jpg
夏目利政「春」1907.jpg 夏目利政「寒山拾得」昭和初期.jpg
 下落合に先住していた中村彝Click!も、なにかあると最新情報を夏目利政に問い合わせていたらしい様子がうかがえる。1924年(大正13)10月28日、彝が死去する2ヶ月前に芝区三田に住む石若恵美あての手紙から引用してみよう。
  
 先程石若君逝去の報に接しましたが、余り突然で信ずることが出来なかつた為め、夏目君に使を走らせやうやくそのほんたうなのを知つて驚きました。ついこの間来られた時の元気な顔が未だ目に残つてゐるのに、もう再びあの温い様子を見ることが出来ないのかと思ふと泣かずには居られなくなります。
  
 知人の死を確めるため、誰かを近衛町Click!に近い夏目アトリエまで走らせたのだろう。
 また、夏目利政は「アビラ村」計画Click!にも積極的に参加していた。1922年(大正11)6月の計画を伝える新聞記事に、アビラ村の発起人として洋画家の満谷国四郎Click!金山平三Click!らと並び、日本画の夏目利政と彫刻家・夏目貞良の名前を見ることができる。同年6月10日に発行された、読売新聞の記事から引用してみよう。
  
 画家の満谷国四郎氏を名主にして新しい芸術家村が出来る。場所は目白奥の市外下落合小上二千九十二、二千八百六(ママ)、七百八十九の五番地に渡つて約七千坪、住民には昨日まで決定したものに洋画家では前記満谷(国四郎)氏を始め南薫造 金山平三の両画伯、日本画の夏目政利(ママ:利政)氏、彫刻家で北村西望、夏目貞亮(ママ:貞良)の諸氏だが、丁度眼前に開けた落合村の谷の景色が西班牙で有名なアビラの風景其儘といふ所からその名も阿比良村と名付け、満谷画伯を村長様に仰ぐ事に相談一決、目下銀座一丁目の東京土地住宅会社の手で地所を買収整理に従事してゐる。(カッコ内引用者註)
  
 夏目利政は、画壇やメジャーな展覧会とは訣別しているので、彼の絵が好きな個人からのオーダーや広告用の絵画、書籍などの挿画などでなんとか生活していた。だが、1921年(大正10)に第2子が生まれると家族は11人に増え、生活を支えていくのはたいへんだったろう。そこで、下落合に越してきたい画家たちのコーディネーターや、アトリエを建てたい画家の設計、地元の地主が建てる貸家の設計などを引き受けたりして、少しでも家計の足しになるような事業を試みているようだ。
夏目利政「処女と白鳥」1919.jpg 夏目利政「勿来関」1947頃.jpg
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夏目利政アトリエ1926.jpg
 1923年(大正12)9月に関東大震災Click!が起きると、下落合645番地の借家が傾き住めなくなった鶴田吾郎Click!は、夏目利政に相談して下落合804番地にアトリエを設計してもらっている。下落合800番地のアトリエにいた鈴木良三Click!は、その様子を見ていたのだろう、1999年(平成11)に木耳社から出版された『芸術無限に生きて』から、鶴田吾郎についての思い出を引用してみよう。
  
 (鶴田吾郎は)この年(1923年)夏目利政さんという建築好きの人がいて盛んに貸家を造っていたが、その人の世話で小画室を造られ移った。大震災に遭い長男の徹一君が疫痢で亡くなった。/翌年(1924年12月)は彝さんの死にあい、全力を尽くしてその後始末をするのだった。葬儀のことは勿論、遺作展、遺作集、遺稿集、画(室)保存会、遺品の分配等々。(カッコ内引用者註)
  
 この証言にもチラリと書かれているが、夏目利政がアトリエや貸家の設計を積極的に引き受けていた様子がうかがわれる。だが、もともと育ちがよくて人もよかったらしい芸術家の夏目利政が、ビジネスで十分な収入を得て成功するのはなかなか難しく、またアビラ村の事業計画は東京土地住宅が経営破たんClick!してしまったため、途中で頓挫してしまう不運にもみまわれている。
 1925年(大正14)ごろから、夏目利政は「寸土山人」という画号を使いはじめているが、日本画の注文は思うように取れなかったらしい。また、大正末から昭和初期にかけ、油絵にも積極的に取り組みはじめている。1931年(昭和6)には、下落合から和田堀和泉(現・世田谷区和泉)へと転居し、下宿屋を営むかたわらアトリエで地道に制作をつづけた。さらに、アトリエの近くにアパートを建設し、おもにアジアからの留学生を積極的に受け入れて面倒をみている。
 夏目利政は、1968年(昭和43)に死去しているが、現在、評価が高い作品は晩年のものが多い。特に洋画の連作『自画像』は、自身の内面を深く見つめて描いたような独自の表現域に達しており、しばらく目が離せず見つめつづけてしまう画面だと思う。
夏目利政「吹雪」1952頃.jpg 夏目利政「褐色の自画像」1965頃.jpg
夏目利政「灰色の自画像A」1967.jpg 夏目利政「黒の自画像」1967.jpg
夏目利政1941頃.jpg 夏目利政1963頃.jpg
 1957年(昭和32)、64歳の夏目利政は「下落合医院」の襖絵『浮舟』その他を手がけている。下落合からは1931年(昭和6)に転出しているにもかかわらず、彼を憶えていて絵の注文をしてくれる住民がいたことになる。このあたり、夏目利政の人がよく面倒見のいい性格を感じさせるエピソードだ。この「下落合医院」がどこにあったのかは、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図」を参照しているが、いまだ見つけられないでいる。

◆写真上:1919年(大正8)から夏目利政アトリエがあった、下落合436番地の現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)ごろに撮影された夏目利政()と年上の和歌夫人()。下左は、1907年(明治40)の第1回文展に入選した夏目利政『春』、下右は、昭和初期に制作された同『寒山拾得』。このような日本画の画題や構図が、長沼智恵子にはこざかしく思え痛烈に批判する要因となったのだろう。夏目利政と作品の画像は、1997年(平成9)に青梅市立美術館で開催された「夏目利政展」図録より。
◆写真中下上左は、1919年(大正8)ごろに制作された夏目利政『処女と白鳥』。上右は、1947年(昭和22)制作の同『勿来関』。は、1942年(昭和17)に撮影された世田谷の自宅庭を散歩する49歳の夏目利政。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる夏目利政アトリエ。
◆写真下上左は、1952年(昭和27)ごろ制作の夏目利政『吹雪』。上右は、1965年(昭和40)制作の『褐色の自画像』。は、1967年(昭和42)制作の同『灰色の自画像A』()と同『黒の自画像』()でいずれも洋画作品。下左は、1941年(昭和16)ごろの夏目利政。下右は、晩年の1963年(昭和38)ごろにアトリエで撮影された夏目利政。

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国立の佐野善作邸を拝見する。 [気になるエトセトラ]

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 先日、BS-TVを観ていたら、目白文化村Click!に建っていたような西洋館が出てきたので、思わず録画してしまった。山田太一の脚本で、1983年(昭和58)に放送された『早春スケッチブック』(フジテレビ)というドラマだった。これもまた、下落合でロケClick!されたものかな?……と一瞬思ったのだが、同年はすでに下落合に住んでいたので、なにかのロケが行われていたとすれば耳に入ってもいいはずだった。
 さっそく調べてみると、くだんの西洋館は国立(くにたち)に建っていた東京商科大学(現・一橋大学)の学長・佐野善作邸だった。どうりで、目白文化村の風情と似ているわけだ。下落合の第一文化村から、1925年(大正14)12月に箱根土地本社Click!が社屋を中央生命保険Click!に売却し、移転していった先が「国立(くにたち)大学町」であり、同社は新たな本社屋を国立駅前の広場に面して建設している。つまり、「国立大学町」の開発や佐藤善作邸は、目白文化村と同様に箱根土地の仕事なのだ。
 箱根土地は、1924年(大正13)ごろから、下落合に住む地主の姻戚つながりで東大泉に大泉学園都市Click!を、また小平には小平学園都市の開発をはじめていた。しかし、国立大学町と小平学園都市には、東京商科大学(および同大学予科)の誘致に成功しているが、大泉学園への専門学校あるいは大学の誘致は失敗している。ただし、学校の誘致には失敗したものの、戦前まで開発済みだった土地のほぼ6~7割の敷地が売れ、住宅街と呼べるような街並みが形成されていたのは大泉学園だった。
 国立の場合は、ちょうど大泉学園ケースの逆で、まず東京商科大学が移転してきて大学町がスタートするのだが、本格的な住宅街の形成は戦後になってからスタートしている。1941~42年(昭和16~17)に撮影された空中写真を見ると、ほとんどがアカマツ林と草原で、おそらく大学関係者の家々がところどころに点在するような風景だった。
 関東大震災Click!により主要な校舎が破壊され、東京商科大学が神田一橋から東京郊外への移転を模索していたころの様子を、2004年(平成16)に新潮社から出版された辻井喬(堤清二)『父の肖像』から引用してみよう。ちなみに「次郎」は堤康次郎Click!、「中島」は堤康次郎の右腕でのちに箱根土地の社長になる中島陟(のぼる)のことだ。
  
 大学の建物に入って、次郎は学長室が狭くて薄暗い場所にあるのに驚いた。/佐野善作の最初の質問は、場所は何処か、というのだった。/「まだ決めていません。移転の御意思の有無を伺い、どんな条件の場所が大学から見て好ましいかを知ってから土地を探すつもりです。手持の土地を利用して欲しいというのではありません。しかし、その意志があれば土地は見付けられます」と次郎は断言した。/佐野善作は大きく頷き、副学長と事務長のあいだにも寛いだ空気が生れた。事務長が、場所は今の大学から出来れば電車で四、五十分、乗換えなしで行けるところが望ましい。駅に近ければなお結構だ、と説明し、/「まあ、そうした場所はなかなかないだろうが、広さは最小で二万坪は欲しい。今は四千坪だから、学科を増やすにも、まず場所を決めるのが大変なんだ。国の予算獲得は吾輩が責任を持つ」と佐野善作が事務長の話を引取った。(中略) 電車が国分寺を過ぎて切通しを抜けると中島が言っていたように一面の草原が目に入り、次郎は思わず感歎の声をあげた。彼は多摩湖鉄道の視察に国分寺駅までは何回も来ていたのだが、それから先へ足を伸ばしていなかったのである。
  
 こうして、東京商科大学の移転先は谷保村(現・国立市)に決定した。大学の移転は、1925年(大正14)に文部省の認可が下り、1927年(昭和2)に兼松房治郎(兼松商店)が寄贈した講堂が竣工したのを皮切りに、図書館や大学本部などの建物が次々と建設された。そして、1930年(昭和5)にすべての移転が完了し、翌年には大学移転記念式典が谷保村で挙行された。佐野善作が千駄ヶ谷の自邸から、国立に竣工したばかりの新邸に転居したのは1929年(昭和4)のことだった。
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 佐野善作の東京商科大学と、堤康次郎の箱根土地がかわした国立開発をめぐる「覚書」を参照すると面白い。下落合の目白文化村では、土地を売らない地主Click!に対しては強引かつワンマンClick!で威圧的だが、相手が国の大学だとなんでもいいなりになっていたのがわかる。東京商科大学と箱根土地の間では、1925年(大正14)9月9日と同年9月12日の二度にわたる「覚書」の存在が確認されているが、土地でも駅でも道路でも上下水道でも、なんでもお望みのまま無償で提供します…というような、とてもビジネスの交渉とは思えない一方的で卑屈な内容になっている。それほど堤康次郎は、なんとか日本で「国立大学町」を実現したかったのだろう。
 同「覚書」には、箱根土地の所在地が「豊多摩郡落合町下落合五七五番地」と記載されている。下落合575番地は、堤康次郎の自宅Click!の住所であり、下落合1340番地に建っていた実際の箱根土地本社の所在地ではない。おそらく、法務局への株式会社登記の所在地欄に、堤は自宅住所を書いているのだろう。堤康次郎が下落合から転居したあと、大正末の下落合575番地の同邸には、堤が経営する駿豆鉄道の取締役だった長坂長が転居してくる。また、堤自身が仕事の都合で転居したあとも、家族は下落合に残って新たな自邸で暮らしていたようだ。
 さて、映像に残された佐野邸を観察すると、薄いブルーに塗られた下見板張りの外壁に赤いスレート葺きの屋根、その上には傷みが進んだのか斜めに傾く尖がったフィニアルが載っている。窓枠は白で、ところどころの窓には色ガラスが嵌めこまれている。独特な館のかたちをしており、映像から見る限り敷地に入って右手にある、東向きの門に近い位置から見上げると、大きな切妻の屋根がふたつ直角に組み合わされ、建物全体はおおよそ凹型しているのがわかる。だが、門を入るとすぐにエントランスや玄関ではなく、東棟を左手に見あげながら回廊のような小路をグルリと邸前の道路に沿って西側へ廻りこむと、西棟の下にある玄関へたどり着けるというレイアウトだ。
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 建設された当初は、樹木の背も低く陽当たりもよかったのだろう、佐野邸の南側には広い芝庭を含む庭園が拡がっていた。1940年(昭和16)の空中写真を確認すると、同邸を取り巻く屋敷林がそこそこ育っており、住みやすそうな邸になっていたのがわかる。だが、戦後は邸を取り巻く樹木が大きく育ちすぎ、かなり陽当たりを妨げていたのではないかと思われる。1980年代の空中写真を見ると、ときどき樹木を剪定しては陽当たりを確保していたようだが、南の芝庭はほぼ樹々におおわれて全体が日蔭になってしまっている。さらに、佐野邸が最後にとらえられた1992年(平成4)の写真では、赤い屋根まで屋敷林の大樹が覆うようにかぶさっているのが見てとれる。
 ドラマ『早春スケッチブック』では、佐野邸の外観ばかりでなく、内部までそのまま撮影に使用しているようで、床鳴りや窓をたたく枝葉や風の音などがそのまま録音されているが、時代をへて焦げ茶色になった柱や階段の手すり、昭和初期の落ち着いた室内の意匠を細かく観察することができる。また先述したけれど、窓のところどころには色ガラスが嵌めこまれ、陽光を少しでも多くとり入れるよう設計された大きな窓や石造りの暖炉など、当時のモダンな雰囲気を醸しだしている。
 さっそく、佐野邸跡(現:一橋大学佐野書院)を中心に、「国立大学町」をひとめぐり歩いてきた。ちょうど、箱根土地の河野伝Click!が設計した旧・国立駅を元通りに再建する建設工事が進捗しており、赤い尖がり屋根とドーム状の採光窓には大工が貼りついている最中だった。(冒頭写真) 佐野邸がいつ解体されたのかは不明だが、少なくとも1992年(平成4)の空中写真まではその存在を確認することができる。保存運動まで起きたらしい佐野邸だが、北側の一橋大学キャンパス内にある職員集会所の大きな西洋館と三間道路をはさんで向き合い、美しい風景を見せていたのだろう。
 しばらく国立の市街を散策したが、一橋大学の構内にある校舎や講堂、図書館などの近代建築を除けば、戦前の建物らしい住宅は1~2棟(しかも1棟は廃屋)ぐらいしか見つからなかった。下落合の目白文化村や近衛町Click!に残された、大正期の住宅群よりも建築年数が若く、ほとんどの住宅が昭和の前半期に建てられている国立の街並みだが、よほど早くから建て替えが進んでしまったのだろう。中でも、記念館としても残せそうな佐野善作邸の解体は非常に残念だったと、ドラマの邸を内外から見ていて強く感じたしだいだ。
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 余談だが、主演している岩下志麻がいい。この女優は、わたしの故郷の隣り街出身で、演じる役柄やプライベートを問わず、江戸東京の(城)下町Click!育ちの典型的な女性を体現しているのだが、そのややキツイ気質と男まさりの性格に加え、少なからず“天然”気味でツンデレな内面とをどう掌握し、うまくコントロールしながら機嫌をそこねず、微笑をたたえた上機嫌のまますごさせてあげられるのかが、下町男のまさに腕の見せどころ……といったモチベーションを、無性にかき立てられるような女性なのだ。

◆写真上:屋根についたドーム状の採光窓が特徴的な、復元が進む中央線の国立駅舎。
◆写真中上は、1940年(昭和15)と1941年(昭和16)の空中写真にみる国立大学町。駅前には、箱根土地の新社屋が見えている。は、国立開発で発行された絵葉書写真(1926年~1931年ごろまで)。駅前広場の檻は、閉園した新宿園Click!で飼われていた鳥たちを収容する「水禽舎」。「水禽舎」を中心に撮影された絵葉書の、右手に見えているビルが新しい箱根土地の本社屋。下落合の本社屋が、まるで東京駅のように前時代的なレンガ造りだったのに対し、国立駅前の新社屋はよりモダンな木造モルタル建築のようだ。下左は、東京商科大学の学長・佐野善作。下右は、1914年(大正3)に内閣が作成した佐野善作を東京高等商科学校(のち東京商科大学)の校長に任命する決定書。
◆写真中下:『早春スケッチブック』(フジテレビ/1983年)で、ロケ現場となった佐野善作邸。門から入り、左手(南側)の建物を見ながら西側の玄関前に立つ。
◆写真下から、1940年(昭和15)ごろの佐野善作邸(南が上)、南側斜めフカンから見た1941年(昭和16)の同邸、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同邸、同じくカラーで撮影された1989年(昭和64)と1992年(平成4)の同邸。は、佐野邸と向かい合わせにある一橋大学職員集会所と、佐野邸の跡地に建てられた同大学の佐野書院。

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下落合を描いた画家たち・片多徳郎。 [気になる下落合]

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 片多徳郎Click!が、名古屋の寺院で自裁する少し前に描いた、絶作『風景』(1934年)という作品が残されている。通常のキャンバスではなく、板に描かれ木目が浮き出ているから薄塗りで、かつ23.5×33.0cmの小品だ。収蔵先の大分県立美術館によれば、「自宅近くを描いたもの」と規定されている。
 片多徳郎は最晩年、下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエから、目白通りをはさんだ長崎のアトリエ(地番不明)に転居しているが、『風景』に描かれたような大規模なバッケ(崖地)Click!は、当時の長崎地域では地形的にも想定しにくい。長崎地域の西端、西落合との境には千川上水の落合分水Click!が流れていた崖地があるけれど、妙見山Click!の麓にあたる谷戸はV字型渓谷で、画面のような風情ではなかっただろう。おそらく、パレットよりも小さな板を携えて、片多徳郎は近所を彷徨しながらどこの情景を描いたものだろうか?
以前にも、pinkichさんよりご教示いただいたのを失念していました。長崎の住所は、長崎東町1丁目1377番地です。ただし、片多徳郎が転居してすぐの1933年(昭和8)より、長崎東町1丁目90X番地に変更されています。詳細はコメント欄をご参照ください。
 片多徳郎の下落合アトリエについて、鈴木良三Click!がこんな証言を残している。1999年(平成11)に木耳社から出版された、鈴木良三『芸術無限に生きて』から引用してみよう。なお、九条武子Click!の邸が出てくるけれど、これはまったくの方角ちがいなので、明らかに鈴木良三の誤記憶だと思われる。
  
 二瓶(等)さんのところを逆戻りして西の方へ五十メートルほど進むと九条武子夫人(ママ)の住居があり、その角を二、三軒行った左側に二階建ての庭もない、木戸を開けると直ぐ玄関がある、あまり大きくないサラリーマンの住宅といったところの二階に片多さんは下宿していたらしい。私は一度も訪ねたことはないが、中村研一さんの洋行中は初台のアトリエを借りていたらしく、それ以外はみな畳の上で制作していたそうだ。/研一さんが帰朝したので、下落合の家に移った。その頃江藤純平さんがその付近に住んでいたので、江藤さんの世話で移ったとのことであった。(中略) 二瓶さんはときどき訪ねてボナールの画集など見せたりして喜ばれたし、曽宮(一念)さんも近いし、美校の卒業だったから訪ねたり、訪ねられたりしたが、一度だけ酒を振る舞ったらたいそう意気投合して、色紙に榛名湖の絵を描いてくれたそうだ。/酒好きの牧野虎雄さんのところは勿論訪ねて杯を酌み交わした仲だったろう。(カッコ内引用者註)
  
 下落合584番地の二瓶等アトリエClick!から、下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!まで、およそ東西の道のりで200m強。文中に登場している画家たちのアトリエは、下落合732番地の片多アトリエに下落合604番地の牧野虎雄アトリエClick!と、この東西の道沿いの両側に点在していた。また、片多とは西ヶ原以来のつき合いである帝展の江藤純平Click!長野新一Click!も、それぞれ下落合1599番地と下落合1542番地の第三府営住宅Click!内にアトリエをかまえていた。
 鈴木良三が「九条武子夫人の住居」と勘ちがいしているのは、下落合595番地の田中浪江邸(一時期は本田宗一郎邸Click!、現在の下落合公園Click!の敷地)のことで、住民が女性だったことから誤記憶につながったものだろうか。
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片多徳郎「春畝」1932.jpg
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 さて、『風景』の画面を観察すると、家々や樹木に当たる光線と陰影の具合から右手が南か、または右寄りの奥が南東のように感じられる。手前は、平地に近いなだらかな斜面のように見え、傾斜は左から右へ微かに下っているようだ。画面中央から左手にかけては、明らかにバッケと思われる崖線が連なっており、手前に描かれた微妙な傾斜の様子を勘案すると、左手が丘になっていそうな地形であることは容易に想像がつく。左手につづく崖線の下、微かな傾斜地あるいは平地のように見える土地には、なにやら住宅には見えない横長の建物が重なるように建設されている。ことに、手前の建物の屋根向こうに大きく突きでて見える、空気抜きのありそうな青い屋根などの形状は、当時の大型倉庫か工場を連想させるような規模の建物だ。
 垂直に近い崖地の下にも、家々の屋根らしいかたちがいくつか並んでいるが、こちらは通常の住宅ぐらいの大きさだろうか。この家並みに沿うようなかたちで、崖下には道路が通っていそうだ。画面全体は、樹木の葉が変色するか落ちたあとの晩秋ないしは初冬の景色のように見えるが、同作が1934年(昭和9)に描かれたものだとすると、片多徳郎は4月末には名古屋の寺で自死してしまうので、同年1~2月に制作しているのだろう。ひょっとすると、前年の秋か暮れ近くにスケッチしておいたものを、翌年になり改めて手を加えて完成させているのかもしれない。
 『風景』にはたった1点、描画場所を特定できそうな大きなヒントが描きこまれている。それは、崖上の樹間にかいま見えている、白っぽいビル状の建物だ。小さく見えるビルのような建物には、窓が規則的に並んでいるのが確認でき、屋上の片側には大きな突起物が見てとれる。画面のような擁壁のない崖地に建つ、このようなビル状の建物は、1934年(昭和9)現在の落合地域をはじめ長崎地域や高田地域を含めても、わたしが思いあたる場所は1ヶ所しか存在しない。白いビル状の建物は、崖上に開発された近衛町Click!42・43号敷地Click!にあたる、1928年(昭和3)に下落合406番地へ竣工した学習院昭和寮Click!寮棟Click!のひとつだ。
 より詳しく位置関係を規定すると、見えている寮棟は丘上から南側に張りだしている、第四寮棟ないしは第二寮棟のうちのどちらかだろう。そう規定すると、手前に見えている赤い屋根の建物は石倉商会の包帯材料工場であり、その向こう側に見えている横長の青い屋根や大きな建築群は、甲斐産商店(大黒葡萄酒)Click!の壜詰め工場や倉庫、あるいは事務所の建物群である可能性が高い。画面手前が少し高まって見えるのは、近衛町のある丘から張りだした等高線が、まるで半島か岬のように崖下まで舌先を伸ばしているからで、崖下に沿うように通っている雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)も、この時期にはいまだ切通し状の場所が、いくつか残っていたかもしれない。
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 おそらく、片多徳郎はこの場所を下落合に住んでいたころから、近所の散策などでよく知っていただろう。彼は転居してきたばかりの長崎のアトリエから、画道具と小さな板切れを持って目白通りをわたった。下落合側に入ると、いずれかの坂道を下り、目白崖線の麓に沿って鎌倉期に拓かれた雑司ヶ谷道へと出ると、東に向かって歩いている。下落合氷川社Click!から相馬孟胤邸Click!のある御留山Click!をすぎると、崖上の色づいた樹間から白亜の学習院昭和寮Click!が見えてくる。高い建物が存在しなかった当時、丘上の寮棟Click!はかなり目立っただろう。
 工場の建屋の向こう側、画面右手には山手線の線路土手Click!が斜めに望見できてもよさそうな位置だが、あえて省略されたのか、あるいは昭和期に入ると工場や倉庫などの建物の陰で実際に見えにくくなったのかは不明だ。片多徳郎がイーゼルを立てたのは、雑司ヶ谷道の南側で下落合45番地あたりの敷地だ。この敷地は、もともと山本螺旋(ねじ)合名会社伸銅部工場が建っていたところだが、昭和初期の金融恐慌あるいは大恐慌で倒産したのか1934年(昭和9)現在は更地になっていたとみられる。(1936年の空中写真でも、更地のままに見える) この敷地の南側にあったのが、昭和初期の地図類に採取されている硝子活字工業社目白研究所ということになる。
 さて、同空き地にイーゼルをすえた片多徳郎は、近衛町42・43号の崖地が大きく左手に入るアングル、北東の方角を向いて画面に向かいはじめた。学習院昭和寮の南側を囲む、背の高い樹木の間から寮棟の3階から上の部分がのぞいている。おそらく、完全にアルコール依存症になった最晩年のことだから、ポケットの中には日本酒の入った小壜か、ポケットウィスキーが入っていたかもしれない。彼は、それをときどきグビッとあおりながら、少し震える筆先で風景を写しとっていったような気がする。ひょっとすると、ときおりなんらかの幻覚でも見えていたのかもしれない。
 指先の震えをカバーするためか、筆づかいは風景を大胆に大づかみにして切りとり、局所的で微細な描写は避けているように見える。従来の作品にみられる、厚塗りで繊細な筆致とはかなり異なるマチエールで、どことなく投げやりな筆づかいさえ感じとれる仕上がりだ。画面を綿密に仕上げる根気が奪われているのは、もちろん身体から抜けきらないアルコールと、この時期に陥っていた精神状態のせいだろう。これまでの片多徳郎とは、かなり異なる別人のようなタブロー画面となっている。
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 それでも、制作をつづけようとする意欲は残っていたらしく、長崎地域から下落合の近衛町下の工業地まで、最短で往復3km強の道のりを画道具を抱えてやってきている。絶作となる『風景』の出来が不本意だったのか、あるいはなんらかの別の要因から絶望のスイッチが入ってしまったものか、このあと片多徳郎は数ヶ月しか生きなかった。

◆写真上:自死する数ヶ月前、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『風景』。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に掲載された片多徳郎。は、1932年(昭和7)に制作された片多徳郎『春畝』。は、1926年(大正15/)と1929年(昭和4/)に制作された片多徳郎『自画像』。
◆写真中下は、『風景』に描かれた崖上の拡大。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『風景』の描画ポイント。は、1933年(昭和8)に撮影された近衛町に建つ学習院昭和寮。右下には甲斐産商店の工場が見え、点線は片多徳郎の描画方向。
◆写真下は、空襲で工場街が焼けた1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。は、現在の学習院昭和寮(現・日立目白クラブClick!)の崖地。は、集合住宅の建設のために解体中の学習院昭和寮(現・日立目白クラブの寮棟)でGoogle Earthより。
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清水多嘉示の「タピ」が彝自画像のモチーフに。 [気になる下落合]

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 先年、中村彝Click!がパリに留学中の清水多嘉示Click!にあてて、できるだけ早急に「タピ」(タペストリー=室内装飾の模様入り織物または布地)を送るよう依頼している、1923年(大正12)秋に出された手紙をご紹介Click!した。彝が死去した直後、木星社Click!福田久道Click!が撮影したとみられるアトリエ内の写真にとらえられた、まるで織物の模様のようなデザインのドアペインティングClick!にからめて書いた記事だ。
 中村彝の清水多嘉示にあてた手紙は、おそらく1ヵ月ほどでパリのシテ・ファルギエール14番地に到着して、手紙を読んだ清水多嘉示は大急ぎで樹々が紅葉しはじめたパリの街へと飛びだし、彝の要望に沿いそうなタペストリーや布きれなどを室内装飾店で何点か購入しているのだろう。そして、間をおかずに品物を梱包し、日本行きの船便で下落合464番地の中村彝あてに送っているとみられる。なぜ、その経緯がわかるのかといえば、中村彝はパリの清水多嘉示から送られた「タピ」(織物または布地)を画面に入れて、おそらく1923年(大正12)の暮れまでに最後の自画像を仕上げているからだ。
 彝の手紙の一部を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された『藝術の無限感』収録の、清水多嘉示あての手紙から再び引用してみよう。
  
 さて別封の為替百円は、これで何か静物や人物画のバック等に用ゆべきタピの類で(中略)ごく安物で、比較的気持ちの悪くないものを古でいゝから仕入れて欲しいのだがどうだらう。馬越(舛太郎)君と相談して散歩のついでにでも目に止つたものをいゝ加減に買つて呉れゝばそれで結構だ。御忙しい処をほんとに御気の毒だが、なるべく早く送つてくれ。それでないと僕の寿命が長くは待ち切れさうもないから……余り吟味せずに、どんなのでもいゝからなるべく早く、ナルベク。(カッコ内引用者註)
  
 1923年(大正12)10月ごろから、中村彝は髑髏(頭蓋骨)をモチーフに何点かの画面を仕上げている。髑髏の周囲には、「建築物の残骸や、毀れた車輪、布片、破れ人形、ペーパー、鉄片等」(『藝術の無限感』より)を配置したもので、同年10月5日付けの洲崎義郎Click!あての手紙に制作の予告をしている。そして、10月末ごろからその髑髏を手にした、40号の『頭蓋骨を持てる自画像』の制作に着手した。だが、制作の途中で高熱が出てしまい、自画像の制作はいったん中断する。
 そのときの様子が、黒澤久乃にあてた1923年(大正12)11月26日付けの手紙に書かれているので、再び『藝術の無限感』より引用してみよう。
  
 この秋から毎日一二時間位づゝ制作が出来る様になつて、久しぶりで充実した幸福を味へる様になつたのも束の間、この月初めから又しても発熱して折角開いた画室を再び閉めねばならなくなり、色々描いた空想も構図も又さのまゝ葬り去られねばならないのかと、毎日不快な日を送つてゐる処へ御手紙を戴いたのです。どんなにうれしく拝見したでせう。この写真はその時まで続けて居た未成の自画像(四十号)を友人の医師が撮つたものです。レンズが小さくて下の方が入らなかつたのです。
  
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 そして、暮れも近いころに、清水多嘉示がパリから送った荷包が下落合464番地のアトリエに到着していると思われる。彝は、なにやら模様が入った、向こうが透けて見える薄めな織物(レース状の布地?)を、まるでカーテンでも吊るすかのように背景に配して、『頭蓋骨を持てる自画像』を完成させた。
 パリからとどいた「タピ」を、中村彝は吊り輪をつけたり(岡崎キイClick!の仕事かもしれない)、棒に通したりして多少加工しているようだが、『頭蓋骨を持てる自画像』の画面に配置されたモチーフについて、鈴木良三Click!の証言を聞いてみよう。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された鈴木良三『中村彝の周辺』より。
  
 多湖実輝から借りた髑髏をいろいろな工夫をして----煉瓦を重ねたり、粗末な台の上にのせたりしてデッサンや、パステルや、油彩で描き、バックに用いるつい立てみたいなものを河野栄広(ママ:河野輝彦)に作らせたり、清水多嘉示がフランスから送って来た布をそれにかけ、おばさんに黒いガウン様のものを縫わせたりして、「髑髏を持てる自画像」(現在では『頭蓋骨を持てる自画像』)を描き上げたりしたものだ。画風もキュービズムの傾向を加味し、グレコの昇天のリズムを取り入れたりして、静物などにも大きな変化を来した。後に批評家の中にはこれらの作品に賛辞を送る者が多くなったようにも思われる。(カッコ内引用者註)
  
髑髏を持てる自画像デッサン1923.jpg 頭蓋骨を持てる自画像1923?.jpg
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 文中にも註釈を入れたが、今日では『髑髏を持てる自画像』はタブローを描く以前に残された、同作のスケッチにふられたタイトルであり、40号キャンバスのタブローは『頭蓋骨を持てる自画像』として差別化されている。また、酒井億尋Click!の紹介で新潟県の佐渡からやってきた、画家志望の大工・河野輝彦Click!のことを、鈴木良三はなぜか「河野栄広」と誤記している。
 鈴木良三によれば、『頭蓋骨を持てる自画像』に描かれたモチーフの手配あるいは制作には、少なくとも4人の人物が協力していたのがわかる。この記事のテーマである、清水多嘉示がパリで購入した濃い青色の「タピ」は、彝の背後へカーテンを吊るすようにセッティングされた。タペストリーにしては、向こうが透けて見えるほどの薄さなので、おそらくレースカーテンのような材質のものを採用しているのだろう。その手前には、大工が本職だった河野輝彦によって、アーチ状の木工細工が設置されている。
 中村彝が肩にかけている、まるでインバネスClick!の上半分のような縫い物は岡崎キイの針仕事だ。また、彝が手にしている頭蓋骨は、理科(植物学)の教師だった多湖實輝がモチーフ用として彝に貸しだしたものだ。画面右端のテーブルの上には、彝が日々愛飲していた『カルピスの包み紙のある静物』Click!でもおなじみの、大正後期に販売されていたカルピスClick!の容器が花瓶のように置かれている。彝は、制作に用いる小道具類やモチーフをけっこうマメにこしらえているが、この時期は発熱がつづいて、自分で思うように小道具を制作できなかったのだろう。
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 1923年(大正12)11月5日の時点で「未成の自画像(四十号)」だった『頭蓋骨を持てる自画像』、2003年(平成15)に出版された『中村彝の全貌』展図録の年譜によれば「八分通り仕上げた」同作は、おそらく暮れも押し詰まった時期に完成しているのだろう。

◆写真上:中村彝『頭蓋骨を持てる自画像』の上部で、清水多嘉示がパリから送った布地が吊るされた部分。清水は、大急ぎで購入して返送しているのだろう。
◆写真中上は、1923年(大正12)に連作された中村彝『髑髏のある静物』。は、中村彝から清水多嘉示あてた1923年(大正12)12月22日パリ消印の封筒。
◆写真中下上左は、1923年(大正12)秋に描かれた中村彝のスケッチ『髑髏を持てる自画像』。上右は、同年の暮れに完成したとみられる中村彝『頭蓋骨を持てる自画像』。は、『頭蓋骨を持てる自画像』に使われた小道具類の構成。
◆写真下は、銀座伊東屋の原稿用紙に書かれた中村彝から清水多嘉示あての手紙。下左は、1919年(大正8)に清水多嘉示が撮影したアトリエの庭に立つ彝。下右は、パリのシテ・ファルギエール14番地のアトリエで制作する清水多嘉示。
掲載されている清水多嘉示関連の写真・資料は、保存・監修/青山敏子様によります。

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