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第一文化村の梶野邸を拝見する。(下) [気になる下落合]

梶野龍三邸1926.jpg
 梶野邸を設計したのは、目白文化村Click!でも事例が多い住民自身、すなわち末高邸Click!と同様に梶野龍三自身だが、そのコンセプトは明快だ。1926年(大正15)に実業之日本社から発行された「婦人世界」5月号より、つづけて引用してみよう。
  
 小学校の二人のお子さんと梶野氏夫妻と、それに女中一人のほんとうの家族的なお宅で、別に応接間と云ふやうなものもなく、お居間が応接室を兼ねると云つた風になつて居ります。氏は全然建築には素人でありますが、なかなか専門家以上に建築に関する識見をお持ちになつて居りますので、いろいろと新しい試みが取りいれられ、ほんとうに気持のよい住宅であります。
  
 冒頭の写真は、梶野邸を南北のセンター通りを間にはさみ、東側の空き地から撮影した同邸の全体像だ。手前の空き地の左隣り、すなわち南側には前回の記事Click!にも登場していた数学者の小平邦彦邸(1925年築)が建っている。ちなみに、手前の空き地は現在も駐車場になっていて住宅が建っていないが、わたしの学生時代はまったく逆で、梶野邸跡の敷地がずっと空き地のままだった記憶がある。
 梶野邸の左(南)隣りには、下見板張りの洋風建築らしい渡辺邸が見えているが、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には記載がないことから、おそらく同年の春にはいまだ建築中で転居前だったとみられる。梶野邸と同様に、この新築だった渡辺邸もまた昭和期に入ると、なぜかすぐに解体され新たに小木原(?)邸が建設されている。
 写真の左端に写る車庫の前には、梶野龍三が所有するクルマのヘッドランプや前輪、ボンネット部が見えているが、このクルマが停められている通りが目白文化村の南北を走るセンター通り(三間道路)だ。もちろん、市街地の道路のような舗装はされておらず、大雨が降れば一面ぬかるんでクルマの走行はもちろん(タイヤがスリップして泥沼から抜けだせない事例が多かっただろう)、人々が通行するのもたいへんだった。ずいぶん以前に、佐々木邦の『文化村の喜劇』で描かれる、雨の日の「発クツ調査」Click!をご紹介しているが、近衛町Click!相馬閏二邸Click!アビラ村Click!林唯一アトリエClick!には、泥だらけになった靴を洗うために、玄関ポーチへ専用の靴洗い場を設置していたケースもあるほどだ。つづけて、同誌の『住宅の新しき試み』より引用してみよう。
  
 目白文化村はいろいろの点から云つて東京近郊の田園都市として最も理想的な所であります。種々の様式の文化住宅が立ち並んで居りますが、その中に梶野氏の住宅は一異彩を放つて居ります。何の様式にも囚はれない自由な氏の設計が面白いではありませんか。氏は自動車の愛用者で自ら運転もし、写真のやうに左方に車庫も設けられてあります。
  
目白文化村地割図1925.jpg
梶野邸跡.JPG
車庫と自家用車.jpg
 さて、梶野邸の玄関を入ると、1階には床面にコルクを張りフランス風の出窓を備えた居間(8畳サイズ)がある。居間は南に面しており、その隣りがカーテンで仕切られた子供部屋(6畳サイズ)になっている。子供部屋は、寄木細工の床を採用したやはり洋間で、子どもたちが広く遊べるよう必要に応じてカーテンの開け閉めをしていた。来客のときは、境界にあるカーテンを閉めて子供部屋を隠すしかけになっている。
 また、子供部屋の南側には広めのサンルームが設置されていて、陽当たりがよく暖かな室内には鉢植えの観葉植物などが置かれていた。下落合に建てられた文化住宅にサンルームが多いのは、空気が澄んだ郊外生活をすることで、病気にかかりにくい体質や体力を獲得すること、すなわち健康増進が一大テーマだったからだ。大正の中期、東京の市街地における結核患者数Click!は10万人をゆうに超えていた。日本の人口6千万人のうち、統計で判明しているだけでも2%が結核に罹患している時代だった。
 梶野邸の2階は、1階とは正反対に畳を敷いた日本間なのだが、建物の窓や壁は洋風のままなので、洋間に畳を敷いて並べている疑似「日本間」だったようだ。いわば、体育館に柔道用の畳を並べたような趣きだったらしい。特に、カーテンの下がった洋風の窓が日本間らしくないので、窓際に各部屋へ通う廊下を設置して日本間と窓辺をへだて、障子か襖を立てれば洋風の窓が隠れるような設計をしている。それでも洋風の意匠は消えないので、あくまでも日本間の気分が味わえる空間という趣向だったようだ。
梶野邸居間子供部屋.jpg
梶野邸日本間.jpg
梶野邸手洗便所.jpg
 「婦人世界」に掲載された梶野邸の紹介は、あと洗面所とトイレのみとなっている。特に同誌の記者が注目したのは、トイレや洗面所が当時の一般的な住宅には見られないほど、明るくて開放的だったからだ。同誌から、つづけて引用してみよう。
  
 便所。正面の細長い小窓は、夜間開放してあつても盗賊が侵入する事が出来ないやうに小さく作つたもので、臭気を防ぐ為めに開放的になつて居ります。そしてその窓の硝子は赫い銅色の硝子で、降雨や曇天でも常に太陽の光りが射しているやうな感じを与へます。
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 最先端の文化村といえども、すべての住宅が浄化槽を備えた水洗トイレだったわけではなく、昔ながらの汲みとり便所のお宅も併存していた。だから、臭いを逃がす空気抜きや換気扇Click!(当時は換気用電気扇風機と呼ばれていた)など、臭気を消すためのさまざまな工夫がなされている。梶野邸は、トイレや洗面所を住宅の陽が当たらない片隅につくるのではなく、日光がとどき換気のいい場所に設置しているのが新しい。
 梶野邸の外壁や、各部屋の内壁が何色をしていたのかは、特に記載がないので不明だ。建物の1階外壁は、下見板張りのようなのでモノクロ写真の濃い色から推定すると、焦げ茶色(あるいはクレオソートClick!塗布色)にホワイトの窓枠だったと思われるが、2階の東側外壁に塗られた明るい色がわからない。クリームかベージュ、あるいは卵色の薄い黄味がかったペンキで塗られていると美しいだろうか。屋根は、瓦が葺かれているようには見えず、おそらくスレート葺きだろう。上記のカラーリングからすると、しぶいオレンジかモスグリーンの屋根が似合いそうだ。
 内壁は、1階の洋間と2階の日本間とでは、色味が異なっていたようだ。おそらく壁紙を貼っているのだろう、1階はやや明るめの壁紙で、2階は濃いめのやや落ち着いた色合いの壁紙を採用しているのだろう。トイレと洗面所にも、腰高の白いタイル張りの上に濃い色の壁紙、またはペンキが塗られているようだ。
桜井安右衛門邸1941.jpg
桜井安右衛門邸19450517.jpg
桜井安右衛門邸跡1947.jpg
 先述したように、1926年(大正15)に竣工した梶野龍三邸は、それからわずか数年ののちに解体され、1932年(昭和7)にはすでに桜井安右衛門が同敷地に新邸を建てて住んでいた。昭和の最初期、ちょうど金融恐慌や大恐慌をはさんで住民がめまぐるしく入れ替わり、建てたばかりの邸が壊されているケースは目白文化村に限らず、目白駅に近い近衛町Click!に建っていた小林盈一邸Click!の事例でも見ることができる。
                                   <了>

◆写真上:1926年(大正15)発行の、「婦人世界」5月号に掲載された梶野龍三邸全景。
◆写真中上は、1925年(大正14)現在の「目白文化村分譲地地割図」(第一・第二文化村)にみる梶野龍三邸。は、梶野邸跡の現状。は、梶野邸に設置された車庫と大正期の自家用車。当時は人気が高かった、米国のT型フォードだろうか。
◆写真中下は、梶野邸1階の居間(左側)と子供部屋(右側)で奥がサンルーム。が、同邸2階の日本間から見た廊下。は、同邸の手洗い所と便所。
◆写真下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された梶野邸跡に建つ桜井邸。は、1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲の8日前に偵察機F13Click!から撮影された桜井邸とその周辺。第二府営住宅と第一文化村北部は罹災しているように見えるが、桜井邸の周辺は焼け残っている。このあと、5月25日夜半の空襲で炎上しているのだろう。は、戦後の1947年(昭和)に撮影された桜井邸とその周辺。

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