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第一文化村の梶野邸を拝見する。(上) [気になる下落合]

梶野龍三邸1926(拡大).jpg
 目白文化村Click!には、販売当初と今日とでは各文化村エリアのとらえ方が異なる、面白い現象がみられる。1922年(大正11)に販売された「目白文化村」エリア(いまだ第一文化村とは表現されていない)と、1923年(大正12)に販売がスタートした「第二文化村」エリアとの間に、今日的に見るなら大きなズレや齟齬が存在しているのだ。きょうは、これまでややこしいし不明なので取りあげずにきた、各文化村のエリア規定の変遷について、わたしの勝手な想像もまじえながら書いてみたい。
 すなわち、第二文化村の開発・販売をスタートした1923年(大正12)の時点で、箱根土地Click!はすでに販売済みの「目白文化村」エリアのことを初めて「第一文化村」と呼称するようになったのだろう。今回、ご紹介する第一文化村の梶野龍三邸の敷地、すなわち下落合(4丁目)1605番地は、1923年(大正12)の時点では当初「第二文化村」として販売されている。ところが現在、文化村弁天(厳島社)の斜向かいにある同邸の敷地を、地元では誰も「第二文化村」などとは呼ばない。第一文化村の中心地に位置する、「第二文化村へと抜ける」南北のセンター通り沿いのエリアなのだ。
 梶野邸はもちろん、1923年(大正12)に販売されたさらに西側のエリア、渡辺邸Click!井門邸Click!のあるエリアもまた第一文化村であり、今日の地元では誰も「第二文化村」とは呼ばない。また、1923年(大正12)の夏に大量の土砂が運びこまれ新たに開発・販売されている、箱根土地本社ビルClick!の西側に隣接した前谷戸の埋め立て造成地Click!もまた、いまでは第一文化村エリアであり、お住まいの方々も含めて誰も「第二文化村」ではなく、第一文化村と認識している。
 目白文化村にお住まいの方はもちろん、下落合にお住まいの方々なら想像がつくと思われるのだが……、そうなのだ、1922年(大正11)に販売された「目白文化村」(第一文化村とは呼称していない)のみを、「第一文化村」と規定してしまったら、同村にはわずか37棟(神谷邸Click!は敷地を3つ購入しているので実質は35棟)しか住宅がないことになってしまう。逆に、「第二文化村」として販売されたエリアの住宅を、すべてそのまま第二文化村と呼称しつづけたとすれば、100棟を超える住宅が「第二文化村」となってしまい、販売時期から規定すれば当初の第一文化村(1922年現在)を、「第二文化村」(1923年現在)の家々が包囲するようなレイアウトになってしまう。
 つまり、どこかの時点で「目白文化村」(=第一文化村/1922年現在)と「第二文化村」(1923年現在)の開発名あるいは販売時の名称を再度とらえ直し、改めて各文化村の境界を規定しなおすプロセスがあったとみられるのだ。それは、ディベロッパーである箱根土地が、本社を国立へ移転する1925年(大正14)のタイミングで行なったものか、昭和期に入ると目につくようになる、目白文化村ならではの邸番号Click!をふったころに再構成された境界意識(エリア感覚)なのか、あるいは地元の自治会や購買組合、あるいは1940年(昭和15)前後に防空のために結成された防護団Click!などが実施した、昭和期に入ってからのエリア規定か、さらには戦災で両村の多くが焼けてしまった戦後のことなのかは不明だけれど、少なくとも戦前からお住まいの方の中にも、今日と同様のエリア分けをされる方がいらっしゃるので、「第一文化村」と「第二文化村」とのエリア規定の変遷は、少なくとも戦前からはじまっていたとみるのが妥当だろう。
第一文化村分譲地地割図1922.jpg
前谷戸の埋め立て192307.jpg
前谷戸埋立1.JPG
前谷戸埋立2.JPG
 また、「第二文化村」のみの具体的で明確な箱根土地による分譲地割り図を確認できないことも、第一文化村と第二文化村との“境界”を曖昧にする要因のひとつになっているのかもしれない。先の「目白文化村」(1922年販売)をはじめ、「第三文化村」(1924年販売)および「第四文化村」(1925年販売)のみの明確な分譲地割り図は存在している。だが今日、『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』(住宅総合研究財団/1989年)などで、「第二文化村分譲地地割図」として公開されている図面には、1922年(大正11)に販売された当初の「目白文化村」(あと追いで「第一文化村」と呼称することになる)、および前谷戸を埋め立て新たに造成された箱根土地本社の西側に隣接する埋立地が含まれており、その境界が明確化されておらずに曖昧だ。
 今日では第一文化村エリアの梶野龍三邸は、販売とほぼ同時に敷地を購入し、1926年(大正15)の春には、すでに車庫つきの邸が竣工している。1923年(大正12)の販売時点での梶野邸敷地は、当初「第二文化村」として販売されていたのだ。1926年(大正15)に実業之日本社から発行された、「婦人世界」5月号に掲載の『住宅の新しい試み』から引用してみよう。
  
 梶野龍三氏の住宅
 氏は東京市芝区南佐久間町に開業せられて居る医師であります。写真は市街目白第二文化村の氏の住宅であります。この住宅は氏が自ら試みられた設計通り建てられたものであります。只今までの住宅は多くはお客本位の住宅であつた事を遺憾とせられて、本当の家族本位の住宅を建てられたのであります。
  
 取材を受けた梶野龍三自身は、おそらく箱根土地による「第二文化村分譲地販売」というフレーズを受け、自身の邸敷地について「第二文化村の土地を買った」と認識していた様子がわかる。だが、梶野龍三はわずか数年で転居してしまい(昭和初期の大恐慌の影響だろうか?)、昭和に入ってからすぐに内務省社会局事務官の桜井安右衛門が、築数年の梶野邸を解体し新たに自邸を建てて引っ越してくる。彼が自身の邸敷地を、「第二文化村」だと認識していたかどうかはさだかでない。
 また、1991年(平成3)に日本評論社から出版された『目白文化村』のコラム欄では、数学者の小平邦彦がインタビューに答え、「大正一四年九月、小学生の時に第二文化村に越してきました」と答えているのが興味深い。小平邸は、神谷邸Click!から西へ2軒め隣り、南北のセンター通り(三間道路)をはさんだ梶野邸のすぐ斜向かいにあたる、同じ下落合1605番地の邸だ。すなわち、大正時代に土地を箱根土地から直接購入した住民は、当初、自邸のエリアを「第二文化村」だと認識していた様子がわかる。
第二文化村分譲地地割図1923.jpg
目白文化村概念.jpg
センター通り.JPG
 それが、先述したなんらかのきっかけ(エリア分けの理由)を契機に、初期の目白文化村(1922年現在)の範囲とされていた第一文化村が「拡大」し、前谷戸を埋め立てて1923年(大正12)の夏に販売がスタートしている新たな造成地(第二文化村分譲地または第一文化村追加分譲地のどちらかは不明)と同様の感覚で、同エリアが第一文化村の「追加分譲地」的な認識に変化していったのではないだろうか。
 そしてもうひとつ、ついに買収に応じることなく、強引な土地収用をつづける箱根土地とは最後まで対立Click!しつづけた、初期の第一文化村の南に拡がる宇田川邸の敷地の存在も、どこかで大きく影響しているのかもしれない。宇田川様Click!の敷地一帯の北側を東西に横切るのが、初期第一文化村の南辺の境界線であり、この境界線をそのまま西へ延ばしてセンター通りを越え、オバケ道Click!のカーブに沿って目白文化村を南北に分ければ、箱根土地に残る分譲資料や初期の住民証言とはまったく別に、ほぼ現在の地元で認識されている第一文化村と第二文化村のエリア概念に合致するからだ。目白文化村の開発全体がフィックスしたのち、改めて南北を分けるこの“宇田川ライン”に着目した住民、あるいは地元の組織や団体はなかっただろうか。
 さらに、箱根土地の社宅建設予定地とされていた、第二文化村の北側に拡がる広い空き地、すなわち第二文化村の水道タンクClick!があった北側の下落合1650番地(のち下落合4丁目1647番地)一帯が、昭和期に入ると第二文化村の追加分譲地として販売される。そこへは、目白文化村でも最大級の邸宅だった安本邸や水野邸などが建設されているが(戦後は下落合教会・下落合みどり幼稚園Click!)、この販売事例により第二文化村は目白文化村の“南側”という心象が強く形成されたのかもしれない。そして同時に、第一文化村は目白文化村の“北側一帯”という印象を、さらに高めたのかもしれない。
 さて、梶野邸の南側にある庭園の隅には、大正期の文化村としてもめずらしい自家用車の車庫が設置されており、梶野医師は南佐久間町(現・西新橋1丁目)の医院までクルマで出勤していたとみられる。当時の住宅の建て方としては、地面からの湿気を避けるために舗装されていない道路面から、住宅敷地を大谷石やコンクリートの縁石を設け、できるだけカサ上げして造成するのが一般的だった。したがって、戦後ならともかく道路面と水平に設置されている車庫はめずらしい光景だ。
梶野邸1926.jpg
桜井邸(梶野邸)1936.jpg
桜井邸(梶野邸)1938.jpg
 梶野龍三邸には、訪問客を前提とした応接間あるいは客間が存在していない。なによりも家族や子どもたちの快適な居住性を優先して追求した設計は、遠藤新建築創作所Click!の仕事による下落合806番地の小林邸Click!へと通じる、現代住宅とほとんど変わらない設計コンセプトなのだが、その詳細については、また次につづく物語で……。
                               <つづく>

◆写真上:1926年(大正15)春に撮影された、竣工間もない梶野龍三邸の東側壁面。
◆写真中上は、1922年(大正11)に作成された最初期の「目白文化村分譲地地割図」で、第一文化村の呼称は存在していない。(『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』より) は、第二文化村分譲時期の1923年(大正12)の夏に埋め立てられた箱根土地西側の前谷戸部。は、埋立造成地の現状と前谷戸の谷間へと下りる西端の階段。
◆写真中下は、1923年(大正12)作成の「第二文化村分譲地地割図」だが、初期の第一文化村および前谷戸の埋立分譲地も描きこまれているため境界規定がない。(同上より) は、1936年(昭和11)の空中写真を用いた今日の目白文化村概念。は、南から北を写したセンター通り(三間道路)で、梶野邸は突きあたりの左手にあった。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる梶野邸。は、1936年(昭和11)の写真にみる桜井邸(元・梶野邸)。建物の形状が変わっており、『落合町誌』(1932年)にはすでに桜井安右衛門が収録されているため、梶野邸は竣工から数年で解体されたとみられる。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる桜井邸。

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