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上野花薗町の江戸屋敷と明治住宅。 [気になるエトセトラ]

川上邸門.JPG
 かなり以前の話になるが、日本に亡命していた中国の革命家・孫文Click!も滞在していたとされる、江戸期に建設された新宿区の市谷加賀町の長屋門屋敷Click!をご紹介したことがあった。江戸東京地方は関東大震災Click!や、(城)下町と(山)乃手Click!を問わず大空襲Click!にみまわれているため、また住環境の急激な変化により、江戸時代に建てられた住宅が残っているのは非常にめずらしい。ただし、残念なことに市谷加賀町の屋敷はすでに解体され、ありふれた低層マンションになってしまった。
 下落合では、目白文化村Click!の第一文化村に接した南側、宇田川様Click!の敷地内に江戸期の住居Click!が一部改築されたまま残されていたのだが、惜しいことに1966年(昭和41)ごろ十三間通り(新目白通り)の敷設Click!にひっかかって解体されている。
 いまでも、江戸期の住宅がそのまま残っているというので、さっそく不忍池も近い上野花園町(現・池之端3丁目)を訪れてみた。この一画は、関東大震災や空襲からも焼け残り、江戸建築ばかりでなく明治建築もそのまま残されている地域だ。だが、訪ねてはみたものの江戸建築の川上邸(江戸千家の一円庵住宅)は内部を拝見できなかったが、隣接する明治建築は拝観することができた。もちろん、この明治建築とは水月ホテルの中庭に保存されている、有名な森鴎外邸のことだ。
 ちなみに、上野花園町はもともと寛永寺の境内に属するエリアで、江戸期には花畑遊園が設置されていたことに由来している。上野山の上にある、現在の上野動物園エリアは「上の花畑」、山麓のエリアは「下の花畑」と呼ばれており、それが明治初期の「花園」の町名に受け継がれていたものだ。
 森鴎外Click!が、上野花園町11番地に住まいをかまえたのは1889年(明治22)のことだ。ドイツから帰国してすぐ翌年のことで、結婚したばかりの赤松登志子と新婚生活を送る新居のつもりだった。だが、登志子との結婚は鴎外の同意を得ず母親が勝手に決めたものであり、鴎外は気に入らなかったらしい。翌1890年(明治23)9月に長男・於菟が生まれると、翌月には早々に離婚している。
 離婚した直後、鴎外は千駄木町57番地へ転居してしまうので、花園町の自宅はわずか1年ほどしか住まなかったことになる。たった1年間しか住まなかった家を、森鴎外の「旧邸」というのはおかしい気もするが、いまや貴重な明治建築なので保存のためには仕方がない側面もあったのだろう。ちなみに、鴎外が転居した千駄木町57番地の住宅は、のちに夏目漱石Click!が暮らすようになり「猫の家」と呼ばれることになった。
 鴎外の旧居は、現在では旧・玄関が水月ホテルの本館につながる位置(東側)で閉鎖され、新たに設置された玄関が反対側(西側)についている。したがって、新・玄関を入るとすぐ左手に蔵の入口が見えるが、本来は家のいちばん奥まった位置に蔵が設置されていた。4畳の玄関座敷が付属した旧・玄関、つまりホテル本館から見ると、まっすぐ東西にのびる廊下のすぐ右手(北側)が洋間の応接室だ。つづいて、北側には4畳の女中室、6畳の居間(おそらく旧・台所)、便所、風呂、蔵などの入口が並んでいる。
 また、旧・玄関のすぐ左手(南側)には、便所、3畳の茶室、7畳の室(浮舟)、つづいて西へ8畳の茶の間(歌方)、10畳の書斎(於母影)、15畳の客間(舞姫)とつづいている。(カッコ内は水月ホテルが作品名からつけた部屋名) 明治期の典型的な和洋折衷住宅だが、洋間の応接室は例外的な扱いで、ほとんどすべてが和館仕様となっている。特に8畳の茶の間、10畳の書斎、15畳の客間はすべて南の縁側に面しており、冬場は陽が奥まで射しこんで快適だ。また、3室とも池のある庭を見わたせるようになっている。
森鴎外邸平面図.jpg
森鴎外邸外観.JPG
森鴎外邸縁側1.JPG
森鴎外邸縁側2.JPG
 さて、道路をはさみ森鴎外邸の南に建っている川上邸だが、道路から奥まったところに建てられているので、入口の門から敷石伝いの玄関しかかろうじて撮影できない。江戸期から一部は明治期にかけての建築なので、来客用の刀掛けがそのまま残されているが、写真に撮れないのが残念だ。しかも、柱や調度品には鎌倉期や室町期の部材がそのまま使われている稀有な住宅なのだ。撮影できないので、1962年(昭和37)に撮られた室内写真をベースに、邸内の様子をご紹介したい。
 なお、モノクロ写真の出典は、同年に芳洲書院から出版された豊島寛彰『上野公園とその付近/上巻』からだ。同書より、少し引用してみよう。
  
 関宿の城主久世候は川上不白に師事し茶道を嗜んだが、外神田にあったその下屋敷に不白が一円庵を建てた。/それを明治二年、川上家が譲りうけて現地に移築したのである。/門を入り敷石をつたっていくと玄関に達するが、玄関の正面には漆ぬりの桟唐戸があり、それを開くとさらに潜り戸がついた細格子の戸がある。上部の壁付には板蟇股が置かれ普通の民家には見られぬ珍しい意匠である。この蟇股も足利期を降らぬものと思われるもので、いずれかの社寺から古材をここに転用したものであろう。潜り戸を入ると東に連子窓を西に供侍を設けているが、これなども不白の創意が入っているといわれる。/玄関三畳の壁付太柱は、鎌倉建長寺の古材と伝える。
  
 川上邸は広く、また複雑な造りをしており、各部屋や庵をいちいち細かくご紹介してると、いくら紙数があっても足りないので、間取り図を参照いただきたい。
森鴎外邸客間書斎茶の間.JPG
森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨1890頃.jpg
川上邸平面図.jpg
川上邸一円庵外観.jpg
 いちばん広い部屋は、一円庵のほぼ中央にある10畳の「花月の間」で、8畳と6畳サイズの居間が2室に、6畳大の「陽炉の間」が付属している。また、茶室がメインとはいえ、ここで生活することも考慮されており、8畳大の台所や3畳の女中室、湯殿に便所が2ヶ所。そのほか、6畳大の居間が2室に3畳大の居間が1室、9畳大の玄関間や寄付、蔵は別にして物置部屋が4室、さらに離れとなっている茶室が2室という間取りだ。
 江戸は昔から、武家や町人を問わず「煎茶文化」の土地柄であり、抹茶はあまり好まれなかった。もちろん、一部の武家の間では茶道がたしなまれてはいたが、川上不白は武家や町人など身分を問わず「抹茶文化」を浸透させようと努めた人だ。いわば、茶道の大衆化を推進した人物で、江戸茶人の中では第一人者といわれている。「大正名器鑑」には、1799年(寛政11)3月16日の茶会に茶道大名として有名な松江の松平不昧と松平三助、蒔田緑毛、朽木近江守がそろって出席したことが記録されている。
 川上不白は、特に庶民へ茶道を教えたことで江戸市民の人気が高く、1807年(文化4)に90歳で死去したときは、葬列が牛込赤城下(現・新宿区赤城下町)から谷中安立寺(現・台東区谷中5丁目)までつづいたと記録されている。
 最後に余談だが、わたしの家にも茶道道具が一式あるのだけれど、どちらかといえば抹茶よりも煎茶が好きなので、特別に飲みたくなったとき以外は、ふだんから静岡産か狭山産の煎茶を楽しんでいる。静岡・狭山産にこだわるのは、茶葉が生育する土壌(富士山や箱根連山の火山灰層である関東ローム)と同じ土壌から湧きでた水で茶を飲むと、いわゆる「水が合う」相性のいい関係で、より茶が尖りのない甘味と旨味とで美味しく感じられるからだ。このあたり、日本酒の酒米と水に関する醸造でも通じるところがありそうだ。
川上邸玄関.jpg
川上邸玄関3畳壁付太柱.jpg
川上邸花月の間.jpg
川上邸茶席刀掛け.jpg
 外出すると、たまに煎茶のペットボトルを買うことがあるが、煎茶の中に「抹茶入り」という製品を見かける。なぜ煎茶の中に、あえて抹茶を混入するのだろうか? そのほうが、地域によってはどこか「高級」に感じるのかもしれないが、せっかく煎茶のサッパリと澄んだ風味が、抹茶の粉っぽくて重たい、くどい風味で台なしだ。最近は、パッケージの原材料をよく見て買うようにしているが煎茶は煎茶、抹茶は抹茶で個々別々の喫茶であり、ぜひやめてもらいたい不可解かつ不要な“ブレンド”だ。

◆写真上:上野花園町で奇跡的に保存されている、明治初期に移築された川上邸の門。
◆写真中上は、玄関が東にある森鴎外邸の当初平面図。は、同邸の庭から見た縁側外観。は、庭から見た縁側(上)と書斎の前の縁側から見た庭(下)。
◆写真中下は、森鴎外邸内観で15畳の客間から見た吹き抜けの10畳の書斎と8畳の居間。は、1890年(明治23)ごろに庭で撮影された左から右へ森鴎外に幸田露伴、斎藤緑雨。は、川上邸の平面図(上)と1962年(昭和37)に撮影された一円庵の外観(下)。
◆写真下は、川上邸の玄関(上)と玄関の3畳壁付き太柱(下)で、鎌倉期の建長寺古材と伝えられている。は、一円庵の「花月の間」。は、茶席に残る江戸期の刀掛け。茶室なので天井は低く、上段が大刀用(武家)で下段が脇指用(武家/町人)だと思われる。

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