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企画されかけて流れた笠原吉太郎展。 [気になる下落合]

笠原吉太郎「ガレージ」不詳.jpg
 笠原吉太郎Click!が1954年(昭和29)に死去したあと、しばらくして遺作の展覧会が企画されかけている。遺作展を企画したのは、『気まぐれ美術館』で知られる洲之内徹Click!だ。だが、笠原吉太郎について情報を集め作品を観て歩くうちに、同展の企画は白紙になってしまった。そのときの経緯を、洲之内徹は「芸術新潮」に連載していた『気まぐれ美術館』の中で触れている。
 洲之内が笠原吉太郎を知るきっかけとなったのは、洋画家・横手由男=雨情縁との交遊からだった。横手由男は群馬県渋川町の出身で、戦時中に笠原吉太郎とその家族が疎開してきた際、彼は笠原のもとへ絵を習いに通っていた。それがきっかけで、横手は画家をめざすようになったようだ。
 当時の様子を、1975年(昭和50)に新潮社から発行された「芸術新潮」8月号に所収の、洲之内徹『気まぐれ美術館20―大江山遠望―』から引用してみよう。
  
 雨情さんは、戦争中、上州の自分の郷里に笠原吉太郎という画家が疎開してきていて、自分はそこでその人に絵を習ったのだが、その笠原という自分の先生は、昔、榎本武揚の世話でフランスに留学したはずだと言うので、そう聞いて私は驚いた。私はその頃ちょうど、その笠原吉太郎の遺作展をやりたいと思っているところだったからである。私のほうは前に高良真木さんのお父さんの、高良武久博士の病院で、笠原吉太郎という未知の画家の作品を何点か見たことがあり、面白い画家だと思って、そのとき遺作展を思いついたのだったが、画家は生前高良博士の近所に住んでいたと聞くだけで、遺族の所在も判らず、まだ、どう手をつけていいか判らない状態であった。そこへ、突然、その笠原氏の弟子の雨情さんが現れたのだった。
  
 この証言は、きわめて重要な情報をいくつか含んでいる。高良武久Click!高良とみClick!夫妻は、下落合679番地(のち680番地)に住んでおり、下落合679番地の笠原吉太郎アトリエClick!から南へ2軒隣り(のち4軒隣り)に建っていた。大正末から昭和初期にかけ、高良武久は笠原の絵を気に入り、たびたび作品を購入している。そして、1940年(昭和15)に妙正寺川沿いの下落合(3丁目)1808番地へ高良興生院Click!を建設した際、同院の壁面に多くの笠原作品を架けている。
 空襲にも焼けなかった高良興生院だが、戦後、おそらく洲之内徹が目にした1960年代から70年代にいたるまで、同院の壁面には笠原作品がそのまま架けられていたのが確認できる。そして、高良武久が笠原作品を蒐集したのは、笠原吉太郎が近くに住む佐伯祐三Click!の影響を強く受け、「下落合風景」Click!を連作している最中の時期と重なることだ。つまり、笠原の「下落合風景」作品Click!のいずれかが、いまでも高良家の子孫宅を中心に、どこかで保存されている可能性が高いことがわかる。
海岸風景.jpg
房州.jpg
芸術新潮197508.jpg 峰村リツ子「洲之内さん」1985.jpg
 洲之内徹は、笠原吉太郎の略歴を次のように紹介している。つづけて引用してみよう。
  ▼
 笠原吉太郎氏は明治八年に桐生の、代々意匠と機業(ママ)を業とする家に生まれ、明治三十年、日本郵船のヨーロッパ航路試運転第一号に乗ってフランスに渡り、三十二年には日本政府海外実業練習生というのになって、リヨン国立美術学校に入って図案を学ぶのである。榎本武揚の世話になったというのはこのときのことだろう。三十六年に帰国して農商務省の技師になるが、四十二年に退官して、その後は画家生活に入る。しかし、明治四十四年には昭憲皇太后の御裳(トレーン)の図案をし、大正元年には皇后陛下の礼服の服地図案を七十種あまりも制作している。退官したとはいっても、ルイ王朝以来の伝統のある衣裳の服地図案をやれる技術者は、この人を措いて他にいないからであった。
  
 笠原吉太郎の三女・昌代様の長女・山中典子様Click!のお話によれば、それぞれのご子孫宅に「下落合風景」はほとんど残っておらず(『下落合風景(小川邸)』Click!の1点を除く)、その多くは東京朝日新聞社で開かれた個展で、また高良武久のような親しい近所の笠原ファンへ、あるいは十和田湖畔に建っていたホテルのオーナーのようなパトロンの手もとへ、譲渡されてしまったのではないかとみられる。だからこそ、戦後まで無事に高良家へ残されていたとみられる、「下落合風景」の作品群が気がかりなのだ。そしてもうひとつ、朝日晃が戦後に確認している『下落合ニテ佐伯祐三君(下落合風景を描く佐伯祐三)』Click!のゆくえも、大いに気になるところだ。
 このあと、洲之内徹は笠原吉太郎の遺族のもとを訪れ、実際の作品画面を観てまわるうちに、遺作展へのモチベーションを徐々になくしていく。それは、どの作品が笠原吉太郎「らしさ」なのか、どのような表現が笠原吉太郎「ならでは」のオリジナリティなのか、つかみどころが見つからなくなってしまったせいだ。
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笠原アトリエ(昌代様).jpg
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 多くの画家たちは、自身が惹かれる作家や作品の表現を模写をするところからスタートしている。これは画業に限らず、音楽でも文学でもしばしば見られる現象だ。だが、笠原吉太郎は日米戦争をはさみ、「らしさ」「ならでは」の表現を獲得する以前に、きっぱりと画業を止めてしまっている。戦後から1954年(昭和29)に死去するまで、笠原は絵筆(彼の場合はペインティングナイフ)をまったく手にしていない。洲之内徹は、模倣から脱しきれない途絶を画面から見切っていたのだろう。
 再び、洲之内徹『気まぐれ美術館20―大江山遠望―』から引用してみよう。
  
 私は雨情さんに笠原氏の遺族の居所を教えてもらい、その後間もなく訪ねて行って長男という人に会ったが、しかし、遺作展をやってみたいという私の気持は、そこで遺作を見て、変った。笠原氏は昭和の初め頃、同じ下落合の界隈に住んでいた前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三などと親しく、その関係で、一九三〇年協会が発足するとそこへ出品したりもしているが、佐伯に近づくと佐伯張りの絵をかき、里見に近づくと絵が里見風になり、そうかと思うと官展風のアカデミックな静物画もかくという具合で、才能はある人らしいが、いったいこの人のほんとうの姿は何なのか、正体が知れないような気がしてきたからである。/むしろ、この人の本領は、やはり図案だったのではあるまいか。
  
 洲之内は、図案(グラフィック・デザイン)をことさら軽視しているようなニュアンスの書き方をしているが、だからこそ今日の視点から見るなら、下落合の佐伯祐三や前田寛治Click!里見勝蔵Click!、ときに帝展風の画面などを野放図に模倣した、その先にどのような画風が現れたのか、戦前から戦後をはさみどのような表現へと移行し行き着いたのかが、興味をそそられるテーマなのだ。
笠原吉太郎「下落合風景(小川邸)」.jpg
横手由男.jpg 横手由男「慈音」.jpg
 いい意味でも悪い意味でも、笠原吉太郎はフランスの美術学校出身であり、日本の美術教育をまったく受けていない。東京美術学校Click!の権威や、日本洋画壇の派閥・人脈の影響からは、いちばん遠いところにいた画家だろう。そんな彼だからこそ、途中で絵筆(ペインティングナイフ)を折ってしまったのが、ともすれば残念に感じるゆえんだろうか。

◆写真上:昭和初期に制作されたとみられる、笠原吉太郎『ガレージ』。当時、目白通りのあちこちにできはじめたガレージか、1930年代の満州風景だろうか。
◆写真中上は、大正末か昭和初期に制作された笠原吉太郎『海岸風景』(仮)。は、大正末制作の笠原吉太郎『房州(舟の艫)』Click!下左は、1975年(昭和50)発行の「芸術新潮」8月号。下右は、1985年(昭和60)制作の峰村リツ子Click!『洲之内さん』。
◆写真中下は、昭和初期に制作にされた笠原吉太郎『下落合風景(笠原吉太郎アトリエ)』。は、同じく昭和初期の笠原邸内を描いた笠原吉太郎『室内風景』(仮)で、描かれている少女は四女の多恵子様とみられる。は、大正末か昭和初期に制作された笠原吉太郎『ピアノを弾く少女』(仮)。ピアノを弾く少女は、三女の昌代様。
◆写真下は、昭和初期にアトリエの向かいに建つ小川邸の門を描いた笠原吉太郎『下落合風景(小川医院)』。は、横手由男()とタブローの『慈音』()。
おまけ
下落合の北、高田町1152番地(現・西池袋2丁目)にあるF.L.ライト設計の自由学園明日館から眺めた夜のソメイヨシノ。近くでライトアップされていたシダレザクラも満開だ。
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目白台アパート時代の瀬戸内晴美(寂聴)。 [気になるエトセトラ]

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 以前、目白坂にある目白台アパート(現・目白台ハウス)へときどき立ち寄っていた、三岸好太郎・節子夫妻Click!の長女・陽子様Click!の連れ合いである、「芸術新潮」の創刊編集者であり三百人劇場のプロデューサーだった、向坂隆一郎様Click!(つまり、三岸アトリエの保存を推進されている山本愛子様Click!のお父様)について書いたことがある。向坂様は、劇団で起きたいろいろな悩みごとの相談に通っていたらしいが、まるでカウンセラーか占い師のような相談相手になっていたのが、同アパートに住んでいた小説家・瀬戸内晴美(のち瀬戸内寂聴)だ。
 目白坂については、同坂の中腹に目白不動Click!(新長谷寺)や幸神社(荒神社)Click!が建立されていた関係から、タタラの痕跡とともに大鍛冶集団の軌跡による側面から詳しくご紹介していた。ただし、目白不動は1945年(昭和20)の空襲で新長谷寺が焼失し廃寺となったため、戦後は西へ1kmほどのところにある金乗院Click!へと移転している。
 瀬戸内寂聴は、落合・高田(現・目白)の両地域をはさみ、東西両隣りの街に住んでいる。東側は文京区目白台つづきの目白台アパートであり、西側は旧・野方町にあたる西武新宿線・野方駅から歩いてすぐの、妙正寺川が流れる中野区大和町にあった貸家の2階だ。行き止まりの路地にあった貸家1階の8畳間は、愛人の小田仁二郎が仕事場として借りている。きょうは、瀬戸内寂聴が二度にわたって住み、ちょうど同時期には円地文子Click!谷崎潤一郎Click!などがいっしょに暮らしていた、目白台アパートの様子について書いてみたい。もうお気づきの方も多いと思うけれど、紫式部の『源氏物語』を現代語訳した3人の作家が、目白台アパートに住んでいたことになる。
 また、同じ目白崖線を西へたどると、下落合1丁目435番地(現・下落合2丁目)には同じく『源氏物語』を現代語訳した舟橋聖一Click!がいたのも面白い偶然だ。
 目白台アパートといっても通常のアパートではなく、今日的な表現でいえば「高級マンション」ということになるのだろう。施工主はマンションという言葉がことのほかキライで、あえて馴染みのあるアパートと名づけたようだ。ただし、アパートのままだと他の名称とまぎらわしく誤解も多かったのか、現在では通称・目白台ハウスと呼ばれることが多い。瀬戸内寂聴が住んでいたころは、すべて賃貸の部屋だったようだが、現在は分譲販売がメインとなり、賃貸の部屋はワンルームを除いてかなり減っているらしい。
 目白台アパートは、1962年(昭和37)に竣工しているので、もうすぐ築60年になるが、ていねいなメンテナンスが繰り返されているせいか、外観からはそれほどの古さを感じない。いまでも人気物件のようで、ときどき新聞に空き部屋の分譲チラシが入ってくる。ワンルームでも3,000万円弱の価格が設定されているので、いまだそれなりに人気は高いのだろう。当初、瀬戸内寂聴が支配人から奨められた最上階の広い部屋は、おそらくいまでも億に近い価格帯だと思われる。
 彼女が支配人に案内され、初めて目白台アパートを内覧したときの様子を、2001年(平成13)に新潮社から出版された瀬戸内寂聴『場所』から引用しよう。
  
 二つの空部屋を見せてもらったが、残りそうだというのは最上階の角の部屋で三LDKの大きな部屋は、私の住んでいる練馬の家がすっぽり収って余りが出るほど広く感じられた。南と西にベランダがあり、大きな硝子戸がはめられていた。(中略) 全館賃貸だという、その広い部屋の値を聞いた時、余りの高さに笑い声を立てそうになってあわてて掌で口を押えた。とうてい払える金額ではないと思った。(中略) 部屋を出る前、南の長いベランダに出て下界を見下した。すぐ目の下に新江戸川公園が川沿いに細長くのび、地下二階、地上六階の建物の下は崖になって公園に落ちていた。
  
 寂聴は「新江戸川公園」と書いているが、神田川沿いの細長い公園は江戸川公園Click!の誤りだ。新江戸川公園は、さらに西側にある現・肥後細川庭園Click!の旧名だ。彼女は年下の恋人へのあてつけから、この「笑い声」が出そうになった高い最上階の部屋に1年間住むことになった。また、二度めは1968~1972年(昭和43~47)の4年間にわたり、同アパートの地階(といっても崖に面した地上)に住んでいる。
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 さて、目白台アパートのことを調べていると、ここにはさまざまな人々が去来するのだが、ちょうど本郷にあった大正~昭和初期の菊富士ホテルClick!のような存在で、目白台アパートは戦後版「菊富士ホテル」のような趣きだったといえるだろうか。小説家や画家、音楽家、学者、俳優など多種多様な人たちが部屋を借りているが、あまり話題にならないのはいまだ同時代性が強く、現在でも建物がそのままの状態で残っているからだろう。瀬戸内寂聴も同じような感慨をもったらしく、同様のことをエッセイで書いている。同書から、再び引用してみよう。
  
 文筆家では、誰よりも早くから原卓也さんが仕事場にしていられた。有馬頼義さんも一頃ここで仕事をされた。アイ・ジョージと嵯峨美智子の愛の巣が営まれていたのも、建って間もない頃のこのアパートだった。田中真紀子さんの新婚時代もここから始まったと聞いている。北大路欣也さんともエレベーターでよく出会った。/大正時代、本郷菊坂にあった菊富士ホテルに、文士や学者や絵描き、革命家などが雑居していたが、規模はとうてい菊富士ホテルには及びもつかないが、それのミニ版にたとえられないこともない。
  
 寂聴は、歴史や物語的な厚みとしての「規模」と表現していると思われるのだが、単純に住環境の規模からいえば、目白台アパートは菊富士ホテルの比ではないほど規模が大きい。住民の数も、おそらく菊富士ホテルの4倍以上にはなるだろうか。
 瀬戸内寂聴の『場所』を読んでいると、結婚生活の破たんから年下の恋人との繰り返す確執、不倫相手とのいきさつに、不倫相手の家庭へ乗りこんでしまったこと……などなど、彼女の作品と同じく例によってもうドロドロのグチャグチャな状況にため息がでるので、そういうところは避けてご紹介したい。彼女は最初に目白台アパートへ住んだとき、二度にわたって自殺未遂事件を起こしている。
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 谷崎潤一郎と“同居”していたのは、同アパートができて間もない、寂聴が最初に住んでいた時期だった。さすがに言葉を交わすことはなかったようだが、彼女は江戸川公園を散歩する谷崎夫妻をたびたび見かけている。谷崎潤一郎は、地下の部屋を2ブロックにわたって借り、さらに寂聴と同じ最上階にも部屋をもっていたようで、松子夫人と『細雪』Click!の雪子のモデルとなった夫人の妹、それに何人かのお手伝いといっしょに暮らしていた。寂聴は、おそらく谷崎潤一郎の仕事部屋だったとみられる最上階のドアの前を通るとき、緊張しながら足音をしのばせて歩いた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 廊下に人影のない時は、す早くドアにおでこをくっつけたり、掌で撫でたりした。「あやかれますように」と口の中でつぶやくと、心を閉ざしている日頃の憂悶もその時だけは忘れ、うっとりといい気持になるのだった。/毎朝、決った時間に、中央公論社から差し廻される黒塗りの巨きな車が迎えに来て、文豪夫妻はその車で、公園の入口の江戸川橋の袂まで降りて行く。そこから車を降り、ゆっくりと時間をかけて公園を一廻りして、待たせてある車で、アパートに戻るのだった。その姿をひそかに眺めるのが、私の貴重な愉しみになっていた。/公園の川辺から見上げると、アパートの建物はいかにも巨きかった。地下二階は公園の崖ぞいに建っているので、地上六階がその上に載っていて、正面よりはるかに高く巨大に感じられる。
  
 目白台アパートから、江戸川橋ぎわの江戸川公園の入口まではわずか300mほどしかないが、目白坂の上り下りがあるため年老いた谷崎夫妻にはきつかったのだろう。目白台アパートは、目白崖線のバッケ(崖地)Click!に建てられているので、地階といっても南を向いた窓があった。神田川沿いから見上げると、同アパートは屋上の建屋も入れると9階建てのビルのように見える。
 平林たい子Click!も晩年、目白台アパートに住んで瀬戸内寂聴としじゅう顔を合わせることになった。平林はガンの治療のため、上池袋にあった癌研究会附属病院へと通う都合から、同アパートを契約して住んでいる。彼女はアパート内で寂聴の顔を見ると、「あのね、お互いにここは仕事場ですから、日常的なおつきあいはやめましょうね」といって、さっさと自分の部屋に引きあげていった。
 円地文子は、平林たい子と入れちがうようにして目白台アパートに入居し、『源氏物語』の現代語訳に没頭していた。円地文子は平林とは対照的に、「あなたがいるから、何かと頼りになると思って、ここに決めたのよ」といって、ふたりはごく親しく交流している。彼女は“深窓の令嬢”育ちらしく、台所仕事はまったくできなかったので、お茶や菓子の準備はいつも電話で呼ばれた寂聴がやらされていたらしい。
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 目白台アパートには、地階に喫茶パーラーがオープン(現在は閉店)していて、瀬戸内寂聴は原稿の受けわたしによく利用していたようだ。目白台アパートで暮らした最後の年、喫茶パーラーのTVには「あさま山荘事件」の生中継が映しだされていた。その日、寂聴のもとへ原稿を取りにきた編集者は、小説家になる前の後藤明生だった。

◆写真上:神田川端の江戸川公園側から見た、緑濃い目白台アパート(目白台ハイツ)。
◆写真中上は、目白台アパートの現状。下左は、2001年(平成13)出版の瀬戸内寂聴『場所』(新潮文庫版)。下右は、同アパートでの撮影らしい瀬戸内晴美(寂聴)。
◆写真中下:目白台アパートの南向きベランダと、そこから眺めた新宿区の街並み。
◆写真下は、代表的な部屋の平面図。寂聴が支配人から奨められた部屋は、もっと大きかったろう。は、崖地にひな壇状の石垣が築かれた江戸川公園。ちなみに、江戸期より1966年(昭和41)までは大洗堰Click!から舩河原橋(外濠出口)までの神田川は江戸川Click!と呼ばれていた。は、江戸川公園の西にある肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)。

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下落合の画家たちと東京藝大正木記念館。 [気になる下落合]

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 以前、本郷の西片町に清水組の施工で建設された、金澤庸治アトリエClick!をご紹介した。今回は、その金澤庸治が設計した東京美術学校に現存する、正木記念館の建設について少し書いてみたい。なぜなら、同記念館が1935年(昭和10)7月に建設されるに際し、落合地域と周辺域に住む画家たちが、その建設費を支援しているからだ。
 東京美術学校の正木記念館は、同校の5代目校長を32年間もつとめた正木直彦を記念したものだ。もともと美術とは直接縁のない東京帝大法科出身の正木が、東京美術学校の校長に就任したのは1901年(明治43)8月のことで、以来1932年(昭和7)3月に退任するまで延々と美校の校長をつとめた。つまり、絵画や彫刻、工芸、図案、建築などの分野を問わず、明治末から昭和初期にかけて東京美術学校へ通った学生たちは、すべて正木校長の下で学んでいたことになる。
 正木は、32年も校長をつとめる中で、何度か退任の意向を文部省に伝えているようだが、同省はそれを認めなかった。なぜなら、かろうじて統制がとれている東京美術学校の現状から、正木校長がいなくなると同校がバラバラになり、組織として混乱の収拾がつかなくなるのを同省が怖れたからだといわれている。つまり、「芸術家ではない人間」が校長をつとめているからこそ、かろうじてガバナンスがきいているのであり、いずれかの分野出身の「芸術家」が校長になったりしたら、たちどころに校内外からの反発や混乱が起き、東京美術学校は成立しないのではないかという危惧が大きかったらしい。
 要するに、個性が強い(わがままなw)芸術家ばかりの校内をまとめるのは最初からムリな話であって、正木直彦のもとで組織が破綻・崩壊せず曲がりなりにも内部統制がとれているのは“奇跡”に近い状態だから、このままソッとしておこう……というのが当時の文部省の本音だったようだ。ただし、正木直彦は校長就任後、奈良博物館学芸委員時代や一高の教授時代の経験を活かして、一時期は工芸史の講義も受けもっていたようなので、まったく美術とは縁がなかったわけではない。美校校長へ就任する直前には、美術視察の名目でヨーロッパへ出張したりしている。
 当寺の様子を、1977年(昭和52)に日本文教出版から刊行された、桑原實・監修による『東京美術学校の歴史』から引用してみよう。
  
 『校友会月報』(第31巻第1号、第3号)は職員及び生徒一同に対する正木の退官挨拶を掲載しているが、その中で正木直彦はこの長年月どのような方針で学校を導いてきたかということを謙虚に語っている。正木は自ら「際立ったことが嫌であるのと、何でも事柄をなだらかに済したい性質」といっているように穏やかな性格の人であったらしく、また数々の美術に関する役職のため、非常に多忙の人であった。天心時代の後の校長という困難な仕事を命ぜられた時、正木はまず教員達に精一杯働いてもらい、何ら掣肘(せいちゅう)を加えないようにしてかれらが十分に力を発揮しうるようにしようと考えたという。
  
 そこには、いずれも我か強く個性的な部門をいかに束ねるかに尽力し、不平や不満がミニマムになるよう常に腐心していた「中庸の人」のイメージ、いってみればいい意味での公務員的なバランス感覚が見え隠れしている。
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 そして、東京美術学校の運営に内外からの批判が強くなってくるたびに、なんとか批判を抑えて学校運営を切り盛りしていたため、退任すると決まってからは逆に留任運動まで起きそうになっている。換言すれば、正木直彦以外のどの人物が校長に就任しても、学内の問題が拡大・深刻化し、こじれる可能性のほうが大きく感じられたからだろう。引きつづき、同書より引用してみよう。
  
 また美校には美術と工芸という区分があり、世間でもそれを純正美術と応用美術とに区分し、幾分工芸に掣肘を加える傾きがあるが、それは立場の違いであって美術の上では軽重はないと考え、この信念を広めるために美術と工芸を平等に進展させようとした。更に美校の少ない予算の中で極力研究や教育のための美術品、資料等を集め、世の中に発展してゆく卒業生のために尽力し、教課の効果を実地に現すための依嘱制作に力を入れた。もとより正木校長の美校運営方針に反対の意見もなかったわけではなく、在職期間には数々の問題が生じ、特に美校改革運動の時のように激しく攻撃されたこともあったが、非常に統率しにくい美校をともかく大きな破綻もなく治めてきたのであり、その手腕、人物を高く評価する人人によって遺留運動まで起こりかけたのである。
  
 正木直彦の退官にあたり、美校の運営方針や美術に関する意見の相違は別にしても、「とにもかくにも、長い間お疲れさん」と感じた学内外の芸術家は多くいたようで、正木記念館の建設と銅像建設の企画がもち上がると、短期間で寄付金67,000円が集まっている。その中には、下落合の洋画家たちの名前も多い。
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 たとえば、1934年(昭和9)7月に発行された「校友会会報」第1号(東京美術学校校友会)には、「正木記念館建設資金寄付申込者芳名」として名簿の一部が掲載されているが、落合地域とその周辺からは金山平三Click!藤川勇造Click!南薫造Click!曾宮一念Click!満谷国四郎Click!笠原吉太郎Click!吉田博Click!野田半三Click!らの名前が見えている。また、落合地域にゆかりの洋画家や拙ブログの物語に登場している人物では、梅原龍三郎Click!和田三造Click!竹内栖鳳Click!荒木十畝Click!安宅安五郎Click!小寺健吉Click!住友寛一Click!中澤弘光Click!上村松園Click!辻永Click!藤島武二Click!柚木久太Click!などの名前も見える。
 変わったところでは、カルピスの三島海雲Click!や岩波書店の岩波茂雄Click!根津嘉一郎Click!安田善次郎Click!細川護立Click!寛永寺Click!三越Click!といった企業の経営者や店舗、団体などからも寄付を集めている。この名簿は4回目の掲載なので、1~3回に掲載された名前の中にも、落合地域の画家たちの名前が掲載されているのだろう。また、わたしは名簿の洋画家を中心に抽出しているので、落合地域に住んだ日本画家を含めるなら、寄付者の人数はもっと多いのではないかと思う。
 こうして、記念計画の実行委員会(委員長・和田英作Click!)のもとに集まった寄付金をもとに、金澤庸治の設計で1935年(昭和10)7月に純書院造りの日本間を備えた、総建坪約143坪で耐震耐火の鉄筋コンクリート仕様の正木記念館が竣工した。同記念館は戦災にも焼けず、どこか日本の城郭建築のような姿を藝大通りで見ることができる。
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 「校友会会報」第1号の最後には、東京美術学校内に開店していた食堂や出入りしていた洋服屋、画材店、文具店などの広告が掲載されている。洋服屋の広告が多いのは、美校の制服や制作作業衣、ルパシカなどの注文を受けていたものだろうか。美校の正門近くに開店していた、こちらではおなじみの浅尾丁策Click!が経営する画材店・佛雲堂Click!も、最後に広告を掲載している。

◆写真上:東京藝大美術館の陳列館の南東並びに建つ、金澤庸治設計の正木記念館。
◆写真中上は、正木記念館の鬼瓦。下左は、32年間も東京美術学校校長をつとめた正木直彦。下右は、1934年(昭和9)7月発行の「校友会会報」第1号。
◆写真中下:同会報に収録された、4回目の発表と思われる寄付者名簿。拙ブログでもお馴染みの画家たちが、ページのあちこちに散見できる。
◆写真下は、藝大通りから眺めた正木記念館。は、「校友会会報」に掲載された巻末の広告で、浅尾丁策の佛雲堂がトリの掲載となっている。

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陸軍科学研究所のもっとも危険な部局。 [気になるエトセトラ]

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 下落合の南、戸山ヶ原Click!にあった陸軍科学研究所Click!では、どのセクションも危険な兵器開発を行なっていたが、その中でも特別に危険な兵器や資材を開発していた部局がある。1927年(昭和2)5月に、戸山ヶ原の科学研究所第2部内へ、ひそかに設けられた「秘密戦資材研究室」だ。室長には、すでにこちらでも陸軍兵務局分室(工作室=ヤマ)Click!陸軍中野学校Click!との密接な関係をご紹介している、陸軍大佐・篠田鐐が就任している。以降、秘密戦資料研究室は「篠田研究室」とも呼ばれるようになった。
 第一次世界大戦の影響から、戸山ヶ原(山手線西側エリア)で繰り広げられた塹壕戦Click!の演習は、こちらでも何度かご紹介Click!してきているが、同大戦はそれまでの戦法を塗り変えたのに加え、戦争自体の姿も大きく変えてしまっていた。従来は、敵対国同士の軍隊が正面から衝突して、戦争の優劣や勝敗を決定づけていたが、第一次世界大戦は軍隊同士の戦闘にとどまらない、近代国家同士の「総力戦」であることを広く認知させた戦争でもあった。近代戦は、軍隊(軍人)たち同士が戦うだけでなく、国家間が国民とその生活のすべてを動員して戦われることを決定づけた。
 「総力戦」の中身は、単純に前線における軍隊の軍事作戦・行動のみにとどまらず、「思想戦」や「政略戦」、「経済戦」などの概念にもとづき、敵対国の国内を混乱させる後方攪乱(経済・通貨破壊など)をはじめ、情報・宣伝工作、スパイ(諜報)工作、要人の盗聴や暗殺、爆破などの謀略工作、防諜戦など表面化しない「秘密戦」が、不可欠な要素であることが知られるようになった。
 その秘密資材づくりに設置されたのが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所第2部の秘密戦資材研究室(篠田研究室)であり、同じく戸山ヶ原(山手線東側エリア)にあった陸軍兵務局分室(ヤマ)に属する中野学校出身の工作員Click!たちが、それを実際に使用する実践部隊という位置づけになる。彼らは外交官や商社員、観光客、新聞記者、商人、使用人などに化けて国内外に散っていった。
 日本における秘密戦の研究は、欧米に比べて大きく出遅れていたため、秘密戦資材研究室では当初、どのような機材を研究開発していいのか見当がつかず、スパイ資材の研究には外国の映画や小説、欧米の文献などを参考に手さぐりの状態だったらしい。だが、1931年(昭和6)の満州事変以後は、科学研究所とともに秘密戦資材研究室は規模拡充の一途をたどった。1935年(昭和10)ごろから、満洲の関東軍参謀部や関東軍憲兵司令部、各特務機関などを相手に技術講習会を開けるまでになり、中国やソ連での各種スパイ工作に協力している。
 1936年(昭和11)になると、陸軍科学研究所は陸軍技術本部の傘下に置かれることになり、戸山ヶ原の広大な敷地では東側が科学研究所、西側が技術本部として機能するようになる。秘密戦資材研究室(篠田研究室)では、スタッフや開発設備・機材も充実し、秘密戦のさまざまな兵器を完成させていった。また、同年には機密戦を実践する戦士を教育・養成するために、陸軍兵務局分室へ協力して「後方勤務要員養成所」(のちの陸軍中野学校)が設立されている。
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 秘密戦資材研究室(篠田研究室)には、大学の理工系学部を卒業した学生ばかりでなく、東京美術学校Click!の出身者も採用されているのが興味深い。これは敵国の経済破壊を目的として、中国をはじめアジア諸国のニセ札づくりのイラストや版下制作を担当したものだろう。大学や専門学校の卒業生ではなく、見習工などの若い所員は、陸軍科学研究所内で「戸山青年学校」という学習組織に属し、英語や理科、電気、機械などを履修することができた。彼らは、仲間同士で親しく交流できたようだが、どのような業務に携わっているかはタブーで、仕事の話はいっさいできなかったという。
 1939年(昭和14)4月、秘密戦資材研究室(篠田研究室)は規模拡充のため、戸山ヶ原から川崎市稲田登戸の拓殖学校跡地に移転し、陸軍科学研究所登戸出張所と改名される。さらに、3年後の1942年(昭和17)からは陸軍第九技術研究所となり、通称「登戸研究所」と呼ばれるようになった。当時の世界情勢を、1989年(昭和64)に教育史料出版会から出版された、『私の街から戦争が見えた』より引用してみよう。
  
 登戸研究所でニセ札づくりが本格化した一九三九(昭和一四)年、ヨーロッパではドイツがポーランドにへ侵攻、第二次世界大戦が開始された。同じころ大本営陸軍部は中国南部に支那派遣総軍を設置し、戦禍は拡大の一途を辿っていた。四〇年には「陸軍中野学校令」が制定され、中野学校と登戸研究所によって秘密戦の人的・技術的基盤は完成された。太平洋戦争前年のころまでに登戸では研究開発がほぼ完成し、実用化の段階になっていたと言われている。/日本国内では、大政翼賛会の発足により既存の政治団体は解散し、特高警察や憲兵などによる治安維持法の網のなかで、日本のファシズム体制は完成しつつあった。(中略) そのような状況下、登戸研究所は仏領インドシナ、サイゴンに進駐した南方軍参謀本部に対し、謀略器材を中心に研究所はじまって以来の数の補給・取り扱い指導を行なったのである。
  
 戸山ヶ原から稲田登戸へ移転した旧・秘密戦資材研究室(科学研究所登戸出張所)は、小田急線の東生田駅(現・生田駅)と稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)との間にある、小高い丘の上に設置された。約11万坪という広大に敷地に、24棟の工場や研究所が並び、農作物を枯死させる細菌や枯葉剤を実験する畑をはじめ、動物実験をするための動物舎、爆薬実験場などが付随していた。
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 研究所の一科では無線や電波兵器、怪力光線、風船爆弾などいわゆる物理系兵器が、二科では特殊爆弾や毒物、細菌、写真、特殊インクなどの化学系兵器が、三科では各国のニセ札や偽造パスポートなど印刷物が、四科は開発された兵器の製造・管理・移送がおもな業務だった。研究所員は、所長の篠田鐐(中将)をはじめ、将校クラスが134人、下士官クラスが54人、技師が16人、技手が55人、工員や雇人を合わせると同研究所は約1,000名ぐらいの大所帯となっていた。
 この中で、二科が爆薬や毒物、細菌などを直接扱うもっとも危険な研究室だったろう。暗殺用の毒物をはじめ、敵国の町にばらまく細菌兵器、穀物を枯死させる病原菌、土壌のバクテリアを死滅させる細菌、地上の植物を枯死させる枯葉剤、特殊爆弾(缶詰・レンガ・石炭・歯磨きチューブ・トランク・帯・雨傘などの形状をした暗殺爆弾)、謀略兵器(レンガ・石鹸・発射型・散布型の放火焼夷弾)、超小型カメラ(ライター・マッチ・ステッキ・ボタン型の写真機)などを開発・製造している。
 これらの膨大な研究資料は、敗戦直後に陸軍省軍事課より出された通達「特殊研究処理要領」により、「敵ニ証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰滅スル如ク至急処置」すべしという命令によって、ほとんどすべてが焼却された。戦後、GHQによる科学研究所員への訊問が行われたが、二科および三科所員の何人かは米軍にスカウトされて米国にわたり、朝鮮戦争やベトナム戦争に登場する生物兵器や枯葉剤の研究などに応用されたといわれている。また、国内においては、帝銀事件Click!で名前が挙がっている遅効性の猛毒「アセトンシアンヒドリン」(青酸ニトリール)Click!や、偽造千円札「チ-37号」事件などが、登戸研究所との関連を強く疑われている。
 登戸研究所では、研究員や工員たちが薬物(毒物)中毒になった場合の、救命治療マニュアルのようなものを用意していた。1943年(昭和18)現在では、同研究所で扱われていた死にいたる薬物は、30種類をゆうに超えている。これらによって製造された毒物兵器や毒ガス兵器は、ひそかに前線へと運ばれていった。
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 戸山ヶ原(山手線西側エリア)の住宅建設現場から、イペリット・ルイサイトなど毒ガス兵器が発見され、自衛隊の手で掘りだされたのは、それほど昔の話ではない。ほかにも、敗戦直後の「特殊研究処理要領」により、地中深くに埋められ廃棄された毒ガス兵器や毒物兵器、細菌兵器がどれほど眠っているものか、当時の証言者がほとんどいなくなってしまった今日では、戸山地域と登戸地域ともに見当もつかない。

◆写真上:戸山ヶ原に展開した陸軍科学研究所の、中枢部門があった跡の現状。
◆写真中上は、陸軍科学研究所の建物跡に残るコンクリート残滓。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された戸山ヶ原の陸軍技術本部・陸軍科学研究所。
◆写真中下は、毒ガスや毒物の研究開発からか独特な形状のフィルターがかけられた陸軍科学研究所の煙突群。1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原-今はむかし…-』より。は、1944年(昭和19)に撮影された最大規模になった戸山ヶ原の陸軍科学研究所。は、陸軍科学研究所跡の現状。
◆写真下は、日本に国内の全研究機関のリストと資料開示などを命じたGHQ文書の和訳(現物)。は、1944年(昭和19)撮影の陸軍第九技術研究所(登戸研究所)の全貌。

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贋作に箱書きする満谷国四郎。 [気になる下落合]

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 下落合753番地(のち741番地)に住んだ満谷蔵四郎Click!は、同じ岡山県賀陽郡門田村(現・総社市)の出身で、故郷の後輩で友人でもある建築家・薬師寺主計Click!に、下落合アトリエの設計を依頼している。おそらく、1917年(大正6)に設計を依頼し、翌1918年(大正7)の夏に竣工した自邸+アトリエClick!へ、谷中の初音町15番地(現・谷中5丁目)から転居してきたのだろう。
 岡山県の地元では、満谷国四郎の画名があがり太平洋画会Click!を結成してしばらくすると、彼の贋作(半折)やニセ色紙が大量に出まわりはじめていたらしい。満谷自身は、それをかなり気にしていたらしく、薬師寺主計に回収してくれるよう依頼している。もちろん、贋作の所有者は「故郷の偉人」の真作と信じて購入しているので、薬師寺は所有者に贋作であることを説得したうえで、満谷国四郎の真作と交換するという、たいへん面倒な仕事をまかされた。
 だが、次々と出まわる贋作は回収しきれず、薬師寺はついに回収をあきらめ、満谷自身もとても交換点数を描ききれないのでやめてしまった。よくよく調べてみると、満谷国四郎にゆかりのある親戚が贋作をこしらえ、1枚を5円から10円ほどで売っていたのが判明している。明治末から大正初期の5~10円は、今日の給与換算指標に照らすと、約7万~15万円ほどになるだろうか。贋作の画面は、美術にまったく素人の目から見ても似ておらず、かなり稚拙でヘタクソな絵だったようだ。
 満谷国四郎が、あまりの量に贋作つぶしをあきらめてしまったので、薬師寺主計は「自分のほうが、満谷の画面そっくりに描ける」とばかり、果物の静物画を描いて岡山の実業家のもとへ持ちこんだ。ところが、贋作騒ぎで用心深くなっていた実業家は、薬師寺の作品を満谷国四郎のもとへわざわざ送って、真作かどうかを確認している。この時点で、薬師寺の贋作がすぐにバレてしまうと思いきや、満谷国四郎はその贋作に箱書きをして送り返しているのだ。
 以下、満谷国四郎の死後、1937年(昭和12)に写山荘から出版された『満谷翁画譜』収録の、「満谷国四郎氏追悼座談会」から引用してみよう。
  
 薬師寺 その絵(贋作)を見るとどうも素人が見てもあまり似てゐない。そこで僕がいたづらに偽筆をやつて見たのですが、こいつ中々旨く行くのです。(笑声) それを或る岡山の実業家に満谷君の絵だと言つてから押し込んでやつたんですけれども。(笑声)
 成田 そいつは度胸がいゝですね。(笑声)
 薬師寺 ところがその先生「こいつは偽筆だらう」「いや、偽筆ではない本物だ、東京に送つて見ろ、箱書をするかせぬか、箱書をすれば本物だ」と云つたら到頭送つたのですが、ところが先生ちやんとそれに箱書をして来たのです。(笑声) さう云ふ中々面白い半面があつたやうですが……
 成田 それは今でも本物として存在してゐるのですか。
 薬師寺 ちやんと本物で通つてゐますよ。(笑声)
 片岡 それは柿の絵ですか。
 薬師寺 柿と枇杷でしたか、これはもう永久に本物になるだらうと思ひます。
  
 文中の「成田」は写真家の成田隆吉、「片岡」は満谷邸に寄宿していた弟子の洋画家・片岡銀蔵のことだ。贋作騒ぎにウンザリしていた満谷国四郎は、「ううむ……。オレこんな絵、描いたっけかなぁ?」と思いつつ、かなり自分の若描きに似ているのでつい箱書きをしてしまったのか、それとも「薬師寺のやつめ、まったく……」と苦笑しながら箱書きをしたものかは不明だが、そのとぼけてユーモラスな性格から、なんとなく前者のような気がしないでもない。
 この座談会のやり取りを読み、もし手もとにカキやビワなど果実を描いた満谷作品を所有している岡山方面の方がおられるとすれば、ドキッとして急いで画面と箱書きを確かめているのではないだろうか。w
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 満谷国四郎の死去から、ほどなく出版された『満谷翁画譜』には、若いころのエピソードなどが語られていて面白い。満谷は18歳ごろ東京にやってきて、団子坂にあった小山正太郎の画塾「不同舎」に入って絵の勉強をスタートしている。「満谷君といへば頭の禿げた、髪の毛が少しあつても真白い、眉毛まで白いといふやうに思つてゐますけれども、若い時からさうぢやなかつたのだ(笑声)」と、もともと満谷国四郎はハゲClick!じゃなかったという、洋画家・石川寅治の証言から語られる若き日の画家は、画学生では貧乏で生活ができないので盛んにアルバイトをしていた。彼らがやっていたのは、全国のパノラマ館の書割(背景画)を描く仕事だった。
 パノラマ館というと、浅草の日本パノラマ館が嚆矢で規模も大きかったが、パノラマ興業がブームになると同様の展示館が日本全国に拡がっていった。その多くは、日清戦争や日露戦争をテーマにした、有名な戦場のパノラマが多かったが、中には日本史上の有名な戦闘の場面を再現する企画もあった。満谷国四郎と石川寅治は、すでに洋画家・小山正太郎の助手として、浅草の日本パノラマ館で仕事をした経験があった。だから、1898年(明治31)ごろに京都のパノラマ会社から依頼があったときはふたつ返事で引き受けたのだろう。満谷と石川寅治は、さっそく京都へと向かっている。
 京都パノラマ館の画題は、幕末の鳥羽伏見の戦いだった。3月1日の開館に間に合わせるために、2月末まで描かなければならず、〆切が守られない場合は日割りで損害賠償をとられるという厳しい契約だった。ギャランティーは当時のおカネで2千円、山分けすればひとりあたり千円の高額報酬だった。1897年(明治30)現在における2千円の貨幣価値は、今日のおよそ4千万円に匹敵する。依頼されたキャンバスは、円形の長さ53間(約96m)×高さ6間(約11m)の巨大なものだった。
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 満谷国四郎は浅草での経験から、東京であらかじめ綿密な下絵を準備して現場に持ちこみ、パノラマ館の円形キャンバスに碁盤目を引き、その上へ下絵の構図を引き伸ばすという方法をとった。つまり、京都ではひたすら絵の具を塗る作業に徹したわけだが、キャンバスを2分してもひとり約48m×11mを描かなければならない。パレットでは間に合わないので、絵の具をどんぶりに溶いて使い、絵の具を練るだけの作業員を3~4人雇っていたようだ。そして、〆切3日前の2月25日に無事完成している。
 こうして、ひとりあたり千円、今日の貨幣価値でいうと2千万円ほどをもらえたが、満谷は帰りの汽車賃と土産賃を残し、京都滞在の1ヶ月間で全部つかい切った。その様子を、満谷から財布をまかされた石川寅治の証言より引用してみよう。
  
 どうもあの時位幅のきいたことはない。何時も紙入れに札がどつさり入つてゐる。方々へ行つちや僕がどしどし出すものだから、とてももてた訳なのです。その頃の千円といふ金は中々使ひでがあつた。それで帰る時に満谷君の言ふのには「僕がこれから帰つたらば子供が生れる時分だ」と言ふのだ。その頃あの三重子さんが腹の中に居つた。満谷君の言ふのには「帰る頃には子供がもう出来ると思ふが、なんか記念品を買つた方が宜い」と。それで「君は男か女かどつちが生れると思ふのか」と聞くと「どうも僕は女の子が生れさうに思ふ」と言ふのです。それで友禅縮緬のとても綺麗なのを一反買つたのです。さうして僕に向つて「君も何か買へ」と言ふ。けれども僕は独身で東京で下宿してゐるし、どうも何もあてがなく、仕様がないから毛布と信玄袋を買つた訳です。満谷君はこれから生れる子供と、それから令夫人に向つて何か結構なものを色々買つた訳です。それから満谷君が注意して言ふのに「汽車の切符を買へる位の金は残して置かなければいかんぞ」(笑声)
  
 当時の千円=約2千万円を、わずか1ヶ月ほどでつかい切るには、さまざまな娯楽や遊興のある現代とはちがって、かなり豪勢な遊びを日々つづけなければならない。石川寅治が「とてももてた」と証言しているので、おそらく若い女子が大好きな満谷国四郎は、先斗町やどこかの茶屋街、いずれかの“新地”(のちの五条楽園)あたりでさんざん遊びまわったあげく、帰り際に急いで家族への土産ものを買いそろえているのだろう。
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 満谷国四郎が、小山正太郎の助手として浅草の日本パノラマ館で描いたのは、日清戦争の戦役画×2景だった。ひとつは「平壌包囲戦」で、もうひとつは「旅順口総攻撃」の光景だったようだ。浅草の「日清戦争パノラマ館」が開館したときに平壌包囲戦を描き、上野公園内へ移転し「旅順戦パノラマ館」が設置された際には旅順口総攻撃を描いているのだろう。ともに、1896年(明治29)ごろのエピソードだ。

◆写真上:下落合753番地(のち741番地)の、満谷国四郎アトリエ跡の現状。
◆写真中上は、1937年(昭和12)に写山荘から出版された『満谷翁画譜』の函()と表紙()。は、制作年不詳の満谷国四郎『柘榴と枇杷』。
◆写真中下は、浅草にあった日本パノラマ館。は、1896年(明治29)刊行の「風俗画報」9月号に掲載された上野公園の上野パノラマ館。は、谷中初音町のアトリエで撮影された満谷一家。左から長女・三重子、満谷国四郎、すゑ夫人。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる薬王寺主計が設計した下落合753番地の満谷国四郎邸。は、下落合のアトリエで撮影された満谷国四郎と宇女夫人。は、好んで描いていたハゲ頭を強調した漫画風の満谷国四郎自画像。

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雑司ヶ谷で結成された「鬼子母神森の会」。 [気になるエトセトラ]

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 以前、落合地域の南側にあたる大久保地域で、文学者や画家などが集まって結成され、洋画展覧会も開かれた「大久保文学倶楽部」Click!についてご紹介している。当時、山手線の内側である大久保地域(現・大久保1丁目/新宿6~7丁目/歌舞伎町2丁目)には、二科の正宗得三郎Click!をはじめ藤田嗣治Click!、小寺健吉、鈴木秀雄、中澤弘光、三宅克己Click!南薫造Click!などが住んでいた。
 同じような集まりが、明治末の雑司ヶ谷でも結成されていたことが記録されている。雑司ヶ谷に住んでいた文学者には、三木露風Click!や正宗白鳥、相馬御風、小川未明、徳田秋声、内田百閒Click!、楠山正雄、人見東明、谷崎潤一郎Click!、そして秋田雨雀Click!など地域がらからか、おしなべて早稲田文学グループが多かったようだ。
 また、画家には坂本繁二郎や斎藤與里Click!津田青楓Click!柳敬助Click!長沼智恵子Click!森田恒友Click!、戸張孤雁、斎藤豊作、そして正宗得三郎(海老澤邸に一時寄宿)などが住んでいた。秋田雨雀が呼びかけて、彼らが結成した集まりは「鬼子母神森の会」と呼ばれている。鬼子母神森の会は、地域の象徴としての鬼子母神を会名につけたわけでなく、実際に雑司ヶ谷鬼子母神の境内の茶屋に文人や画家たちが参集したので、そう呼ばれるようになった。
 1912年(明治45)に博文館から発行された「文章世界」4月号には、そのときの会合の様子が記録されている。当時の思潮論や芸術論が戦わされ、鬼子母神の森が暮れはじめミミズクが鳴くころまで、茶屋の焼き鳥(雑司ヶ谷名物のスズメ焼き鳥だろうか?)を食べながらつづけられたようだ。ちなみに、呼びかけ人だった秋田雨雀のあだ名は、「雑司ヶ谷の梟(フクロウ)」だった。
 当時の様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された、後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。文章は、秋田雨雀の言葉として紹介されている。
  
 私達はこの森の影の中に長い間住んでいる。この森の周囲には若い文学者や有名な画家の群が入れ替わり来て住んでいた。彼等の中にはもう立派な芸術を作りかけているものもある。年久しく住み慣れたこの森の影を逃れて都会の生活に入っているものもある。/「一旦都会に逃れて再び森の生活を慕って来たものもある。私達のやうに森の中に小さな家を造つてゐるものも亦森の外にゐるものにも、この森は一つの不思議な巣であつた」/御風、東明、未明、それから僕、この四人は現在に於いても、この森には一番深い縁故を持っている。それに近頃斎藤與里、津田青楓、柳敬助この三人の画家がこの森の近くにアトリエを造られた。
  
 秋田雨雀の自宅は、雑司ヶ谷鬼子母神の東側、本納寺の門前から弦巻川へと下る坂の途中の雑司ヶ谷24番地にあったが、現在は当時の緑深い面影はほとんどなくなっている。ちなみに、秋田雨雀の墓は自宅前の本納寺に分骨建立されている。
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 1912年(明治45)3月10日の日曜日、鬼子母神森の会は雑司ヶ谷鬼子母神境内の茶屋で集会を開いている。その様子を引用する前に、同書には落合地域についての記述が登場しているので、ためしに当該箇所を引用してみよう。
  
 落合と目白をはさんで新しく文化村が誕生したのは大正十一年ころのことであった。設計者は新劇の演出家村山知義であり、それ以来目白は少しずつ文化の香りが感じられるようになり、佐伯裕三(ママ:祐三)、大久保作次郎等が住むようになった。
  
 この一文を読まれた落合地域にお住まいの方々、あるいは拙サイトを以前からお読みの方々は「ウ~ン……」とうなって絶句し、首を傾げられるのではないだろうか。そう、上掲の記述のほとんどすべてが誤りなのだ。
 「落合と目白をはさんで」は、落合と目白(高田)は隣接していてどの地域も間にはさんではいない。「設計者は新劇の演出家村山知義」となっているが、目白文化村を企画・設計したのは下落合の箱根土地Click!にいた堤康次郎Click!であり、下落合の近衛町Click!アビラ村Click!も広く「文化村」としてとらえるのなら、企画者は東京土地住宅Click!の常務取締役だった三宅勘一Click!だ。当時、上落合の村山知義Click!は画家と舞台装置家であり、「新劇の演出家」ではないし目白文化村とはまったくなんの関係もない。
 また、佐伯祐三Click!大久保作次郎Click!は文化村には住んでおらず、大久保(1919年建築)や佐伯(1921年建築)が下落合にアトリエを建設して住むようになったころは、すでに多くの画家たちが落合地域にやってきてアトリエをかまえていた。ふたりが落合の画家たちの仲間入りをしたのは、ことさら早い時期のことではない。
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 このような文章を読むと、なんだか雑司ヶ谷地域に関する記述にも少なからず不安をおぼえるのだけれど、いちおう3月10日午後1時にスタートした鬼子母神森の会の様子を、『雑司が谷と私』よりつづけて引用してみよう。ちなみに、この日の焼き鳥料理は遅れに遅れて、実際に配膳されたのは午後2時30分ごろだったという。
  
 障子に射す午後の日が一分一秒毎に赤味を帯びて来るように森の会の人々の頬が赤くなって来る。臆病と皮肉を取交ぜた御風の顔もほんのり桜色となり、孤雁は例の如く首を曲げて黙想している。/夢二の絵にありそうな髪を伸ばして黒いネクタイを胸に大きく結んだ洋画家の津田清楓君、少年のような皮膚に黒く柔らかな髪を分けた斎藤與里君、白く四角な顔に濃い髭を生やした柳敬助君、六代目に似てそれよりも少し神経質な表情を持っている谷崎潤一郎君、僧侶のように丸く肥った顔に細い皮肉な目を持っている上司小剣君、整った顔だが惜しい事には少しあばたのある徳田秋声君(先生でもよろしい)。(中略) この騒ぎの次の間から蓄音器がしっきりなしに聞えて来る。夜は段々更けて行く。森にはふくろうが鳴く……/鬼子母神近くに住む森の住人長沼智恵子(高村智恵子)の姿はこの日の会合にはなかった。
  
 長沼智恵子が、近隣の画家たちも多く参加しているこの日の会合に出なかったのは、同年4月に予定されている太平洋画会展への出品制作に忙しく、のんびりと料理を食べてお酒を飲んでいる余裕がなかったのかもしれない。大久保地域とは異なり、雑司ヶ谷地域で近隣画家たちの展覧会が開かれたという記録は、残念ながら見あたらなかった。
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 長沼智恵子は、高田村雑司ヶ谷やその周辺に拡がる風景を、ずいぶん写生してまわっていたようだ。後藤富郎の記憶によれば、『鬼子母神境内』や『弦巻川』というタイトルの風景画が存在するようなのだが、わたしはいずれの画面も観たことがない。

◆写真上:かつての雑司ヶ谷の森をほうふつとさせる、晩秋の鬼子母神境内。
◆写真中上上左は、明治末の文学者たちが多く寄稿した「文章世界」(1911年2月号) 上右は、ルバシカと思われる洋装の秋田雨雀。は、明治末に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道と茶屋。は、1919年(大正8)撮影の鬼子母神本堂。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる秋田雨雀邸。は、現在の雑司ヶ谷鬼子母神参道と鬼子母神本堂。
◆写真下は、明治末に撮影された法明寺の森。長沼智恵子アトリエClick!は、2棟とも法明寺裏の北西150~250mほどのところにあった。は、1912年(明治45)1月25日の青鞜社新年会で撮影された長沼智恵子。は、谷中真島町1番地の太平洋画会研究所門前で記念写真に収まる長沼智恵子(左から3人目)。右から2人目には、同研究所の創立者のひとりであり中村彝Click!亀高文子Click!の師だった満谷国四郎Click!が写っている。

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めずらしい関東大震災ピクトリアル。(6) [気になるエトセトラ]

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 東京各地を往来するには、川や運河や外濠・内濠をまたぐ「橋」の存在は、欠かせない重要な交通のポイントClick!だった。もしも、その橋が崩壊すれば、あるいは火災で焼失すれば、逃げ場をなくしてしまう人々が大量に発生することになる。1657年(明暦3)の明暦大火(振袖火事)Click!では、大川(隅田川)に橋がなく大勢の人々が追いつめられて焼死したため、1659年(万治2年)に大橋(両国橋)Click!が架けられ、江戸の各地に火除け地としての広小路Click!が造られたのは有名なエピソードだ。そして、関東大震災Click!でも橋が崩落あるいは焼失して、多くの死傷者を出している。
 大震災の直後、次々と出版された写真集やグラフ誌Click!には、大火災で焼失・崩壊した橋や、奇跡的に炎上をまぬがれた橋が紹介されている。最新の鉄筋構造と、昔ながらの旧態然とした木造の橋とを問わず、大火流Click!に巻きこまれた橋はことごとく焼失、または崩落しているのが目につく。地震の揺れと大火災から、かろうじて奇跡的に大きな被害をまぬがれた、大川(隅田川)に架かる市街地のおもな橋は、大橋(両国橋)Click!とその下流に架かる新大橋のふたつのみだった。明治期に花火見物の観客が押しかけ、その圧力で欄干が崩落して大きな事故を引き起こした大橋(両国橋)Click!だったが、関東大震災では避難する多くの罹災者の生命を救っている。
 写真集やグラフ誌に取り上げられている橋は、吾妻橋をはじめ、厩橋、相生橋、永代橋、神田橋、今川橋などだが、これらは完全に焼失あるいは崩落して大量の犠牲者を出した橋だ。中でも1807年(文化4)の江戸後期に、深川八幡祭に集まる人々を乗せて大規模な崩落事故を起こした永代橋Click!が、再び関東大震災で全焼・崩落して多くの犠牲者を出している。深川(東岸)から大火災に追われて避難する人々と、新川(西岸)から同様に避難する人々とが永代橋の上で衝突し、身動きがとれなくなった群衆を乗せたまま、橋が全焼・崩落してしまったのだ。
 当時の様子を、かろうじて生き残った人物の証言から聞いてみよう。1923年(大正12) 10月1日に大日本雄弁会講談社から発行された、『大正大震災大火災』に掲載されている「死灰の都をめぐる」のレポートから引用してみる。
  
 深川は、午後三時頃には一面の火の海でした。独身者の私は、どちらかと云へば呑気に、そちこち逃げ廻つて居ましたが、日の暮れ合ひには、何うにもならなくなつたので、人の群れに押され押されて、永代橋までやつて来ました。あれから、橋を渡つて日本橋か京橋の方面へ逃げようといふのでした。ところが大変です、逃げようと思つた対岸がまた一面の火で、あちらから逆に、深川へ這入つて来ようといふのです。何の事はない、幾万かの人間が、猛火の挟み討ちを喰つた形です。/私は、橋の中頃に居ましたが、身動きもならぬ始末、女子供は潰されさうで、もう悲鳴をあげて居りました。其の中に遠慮の無い火は、ぢりぢりと迫つて来ました。岸近くに居た者は、何うも斯うも熱くてならず、人を押しのけて中頃へ来ようと、命がけで押し合ふのです。其の中、悲鳴が聞えなくなつたと思ふと、片ッ端から倒れて行くのです。それが五十百と、見る見る殖えて行き、恐ろしいつたらありません。
  
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 永代橋に限らず、焼失・崩落した市街地の橋では、どこでも似たような情景が繰り広げられていた。ある地域と地域とを結ぶ橋上で、避難者同士がぶつかり合い身動きがとれなくなって、大量の犠牲者を生む現象だ。関東大震災から22年後、東京大空襲Click!では大火災に追われて浅草(西岸)から避難する人々と、向島(東岸)から避難する人々とが言問橋Click!の上で衝突し、同じ悲劇が繰り返されている。
 現在では、橋上の道路幅が広くなり、人もクルマも通行しやすくなった半面、ガソリンを積んだ自動車が渋滞したり、あるいは震災時の避難から乗り捨てられたままだったりすると、阪神淡路大震災や東日本大震災での事例がしめすように、次々とクルマのガソリンタンクに引火して爆発を繰り返し、関東大震災や東京大空襲のときよりもはるかに危険な状況を招来するかもしれない。
 大きな川の存在で、大火災の延焼がストップするはずが、橋上に渋列するクルマのガソリンタンクに次々と引火して、火災が発生していない地域までが延焼する危険性があるからだ。橋上に駐停車するクルマが、文字どおり導火線の役割りを果たす怖れが多分にある。上掲のレポート「死灰の都をめぐる」から、つづけて引用してみよう。
  
 やがて、橋の中頃に居た私でさへ、熱くてならなくなつたので、折柄修繕中で、足場を組んであつたのを幸ひと、それを伝はつて、ズルズルと川へ落ちて行き、退き潮で、水が浅かつたのを幸ひ、少し下の、とある杭に辿りついて、それにつかまり、首だけ川から出してふるへて居ました。/と、何うでせう、今し方まで、私の居たあたりの橋板に、いつの間にか火がつき、燃え出したではありませんか。川へ飛び込みたいにも飛び込めず、もがいてゐた女や子供、老人などは、声がしなくなつたかと思ふと、バタバタ倒れ、其の儘息が絶えるのです。八九時頃でせう。到頭橋は焼け落ちました。それ迄に川へ落ちた人の数つたら、いや、何とも云へない凄じい光景でした。/私は到頭翌朝まで、かうして川の中に居り、川一杯の死骸と、溺るゝ苦しみに、何でも構はず、しがみつく人々の断末魔のむごたらしさを見て居ましたが、今になつて考へると、命の助かつたのが、我ながら、不思議でなりません。
  
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 同じことが、現在では埋め立てられ道路になってしまったが、日本橋川から箱崎川、そして隅田川へと注ぐ竜閑川に架かっていた今川橋でも起きている。今川橋は完全に焼失・崩落し、震災後にはほとんどなにも残ってはいなかった。日本橋川の神田橋も焼失・崩壊したが、ここでは川面に停泊していた達磨舟にまで火が燃え移り、川面へ避難していた人々を焼き殺した。
 そのほか、吾妻橋や厩橋でも永代橋と同様のことが起きて、大量の焼死者と溺死者を出している。橋の木造部分が全焼し、火災が収まったあとには鉄骨の残骸しか残っていなかった。深川と月島を結ぶ相生橋は、橋全体が炎上してほどなく焼け落ち、橋上で焼死した人々も多かったが、その後、月島にいて逃げ道を絶たれた人々が大量に焼死している。延焼をまぬがれた佃島方面に逃げた人々は助かったが、反対側(南側)へ逃げた人々は迫る火災に刻々と追いつめられ、その多くが命を落とした。
 震災後、陸軍の工兵隊が焼け落ちた橋の応急修理をしているが、木橋はもちろん、大火流で罹災した鉄橋も、焼け残った鉄骨部分の傷みが激しく、ほぼすべての橋の架け替え工事が必要だった。現在、東京の(城)下町Click!に見る橋のほとんどは、このときの新築あるいは耐火耐震のために大規模な補修工事が行われたあとの姿だ。
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 ほぼすべての橋が、石造りや鉄筋コンクリート製になった現在、大火災が起きても「橋は焼け落ちない」と思っている方が多いと思うが、大正時代にはほとんど問題にならなかったクルマの存在が、新たな脅威として大きく浮上している。震災時の条例にもとづき、大量のクルマが橋上で渋滞したまま、ドライバーの徒歩避難で放置された場合(東日本大震災では、事実として東京各地での橋上渋滞が現実化している)、ガソリンタンクが並ぶ橋は再び炎上して、人々の避難を妨げ生命を脅かすのではないか。
                                  <了>

◆写真上:全焼した実家のある日本橋米沢町側から眺めた、焼け残った大正期の大橋(両国橋)。橋自体は焼失しなかったが、両側に設置された歩道橋は崩落した。
◆写真中上は、炎上ののちに崩壊して大量の死者を出した永代橋。は、跡形もなく崩壊した竜閑川の今川橋。は、全焼し人々は応急の通路をわたる厩橋。
◆写真中下は、工兵隊による応急工事が進む全焼した吾妻橋。左手に見えているのは、多くの死傷者を出し壊滅したサッポロ麦酒工場。は、炎上・崩落したあとに応急の板がわたされた日本橋川の神田橋。は、月島の悲劇を生む原因となった相生橋の壊滅。佃島の一画を除き、石川島と月島の市街は全滅した。
◆写真下は、新大橋とともに焼け残った大橋(両国橋)。両側の歩道が、崩落している様子がわかる。は、簡易舗装された道路を走る地割れ。あちこちの道路で亀裂が入り、消防車の出動はもちろん市電や乗合自動車の運行も妨げた。

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1945年3月11日のヴァイオリンソナタ。 [気になる音]

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 戦時中、日本本土への空襲が予測されるようになると、各町内には防護団による各分団が組織され、盛んに防空・防火訓練が行われた。以前にもこちらで、淀橋区の落合防護団第二分団の名簿とともに、団内の班組織を詳しくご紹介Click!している。
 だが、家々の間に緑が多く、延焼を食い止める余裕のある郊外の山手住宅地ならともかく、市街地の防護団による消火活動は“自殺行為”に等しかった。B29から降りそそぐM69集束焼夷弾や、ときに低空飛行で住宅街に散布されるガソリンに対して、悠長な防火ハタキやバケツリレーなどで消火できるはずもなく、逃げずに消火を試みた人々は風速50m/秒の大火流Click!に呑まれて、瞬時に焼き殺されるか窒息死した。
 かなり前の記事で、ふだんの訓練では威張りちらしていた、元・軍人だった東日本橋の防護団の役員が、空襲がはじまるやいなや「退避~っ!」と叫んで真っ先に防空壕へ逃げこんだ親父の目撃談をご紹介Click!しているが、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!が防護団の稚拙な防火訓練や、粗末な消火7つ道具などでとうてい消火できるレベルでないことが判然とするやいなや、これまた防護団の役員は真っ先に家族を連れて避難しはじめている。だが、この一見ヒキョーに見える元軍人の「敵前逃亡」は、結果論的にみればきわめて的確で正しかったことになる。
 当時、防護団の防空・防火訓練で必ず唄われた歌に、『空襲なんぞ恐るべき』Click!というのがあった。親父も、ときどき嘲るように口ずさんでいた歌だ。
 1 空襲なんぞ恐るべき/護る大空鉄の陣
   老いも若きも今ぞ起つ/栄えある国土防衛の
   誉れを我等担いたり/来たらば来たれ敵機いざ
 2 空襲なんぞ恐るべき/つけよ持場にその部署に
   我に輝く歴史あり/爆撃猛火に狂うとも
   戦い勝たんこの試練/来たらば来たれ敵機いざ
 陸軍省と防衛司令部の「撰定歌」として、全国の防空・防火訓練で必ず唄われていた。この勇ましい歌に鼓舞され、東京大空襲で消火を試みようとした人々は、ほぼ全滅した。取るものもとりあえず、火に周囲をかこまれる前、すなわち大火流が発生する前に脱出Click!した人たちが、かろうじて生命をとりとめている。
 ふだん、あまり紹介されることは少ないが、東京大空襲Click!がはじまってから出動した消防自動車の記録が残っている。もちろん、消防車による消火活動でも、まったく手に負えないレベルの大火災が発生していたのだが、それでも彼らは出動して多くの消防署員が殉職している。中には、出動した消防車や消防署員が全滅し、誰も帰還しなかった事例さえ存在している。
 前日の3月9日の深夜から、ラジオのアナウンサーは東部軍司令部の発表(東部軍管区情報)をそのまま伝えていた。「南方海上ヨリ、敵ラシキ数目標、本土ニ近接シツツアリ」 「目下、敵ラシキ不明目標ハ、房総方面ニ向ッテ北上シツツアリ」 「敵ノ第一目標ハ、房総半島ヨリ本土ニ侵入シツツアリ」 「房総半島ヨリ侵入セル敵第一目標ハ、目下海岸線附近ニアリ」 「房総南部海岸附近ニ在リシ敵第一目標ハ、南方洋上ニ退去シツツアリ、洋上ハルカニ遁走セリ」……と空襲警報も解除され、住民たちは安心して就寝しようとしていた矢先、おそらく、消防の各署でも待機していた署員たちは、休憩あるいは仮眠をとりはじめていただろう。だが、翌3月10日の午前0時8分、もっとも燃えやすい材木が集中して置かれた、深川区木場2丁目に、B29からの第1弾は突然着弾した。燃えやすくて、大火災の発生しやいところから爆撃する、非常に綿密に練られた大量殺戮の爆撃計画だった。
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 深川の消防隊が、火の見櫓から真っ先に着弾を確認して全部隊を出動させているが、焼夷弾とガソリン攻撃に消火活動は無力だった。また、周辺の地域へ応援隊30隊を要請しているが、まったくどこからも応援の消防隊はこなかった。深川区の周囲、すなわち本所区、向島区、城東区、浅草区、日本橋区も同時に火災が発生し、他区への応援どころではなかったからだ。大空襲当夜の様子を、1987年(昭和62)に新潮社から出版された、早乙女勝元『東京大空襲の記録』から引用してみよう。
  
 深川地区に発生した最初の火災を望楼から発見したのは、深川消防署員である。すぐ地区隊合わせて計一五台の消防自動車が、サイレンのうなりもけたたましく平之町、白河町方面の火災現場へと急行した。全部隊がならんで火災をくいとめようと必死の集中放水の最中に、隣接する三好町、高橋方面が圧倒的な焼夷弾攻撃を受け、火の玉がなだれのように襲ってきた。/あわてて消火作戦を変更しようとしたが、時すでにおそく頭上に鉄の雨が降りそそぎ、二台の消防自動車に直撃弾が命中、隊員もろともに火の塊になってしまった。(中略) 火を消しにいったはずの消防自動車一五台も、みな大火流に呑まれ、大勢の隊員は車もろともに焼失して殉職しなければならなかった無念の心情が、都消防部「消教務第二三一号」報告書にしるされている。
  
 隣りの本所区では、全隊7台の消防車を出動させているが、隊員10名と消防車全車両を失っている。特に空襲も後半になると、B29は煙突スレスレの低空飛行で焼夷弾やガソリンをまき散らし、7台の消防車のうち2台が狙い撃ちされ、直撃弾を受けて隊員もろとも火だるまになっている。
 この夜、各区で出動した消防車だけでも100台を超えたが、うち96台焼失、手引きガソリンポンプ車150台焼失、消火栓焼失約1,000本、隊員の焼死・行方不明125名、消火に協力した警防団員の死傷者500名超という、惨憺たるありさまだった。特に、消火消防の熟練隊員たちを一気に125名も失い、多くの隊員が重軽傷を負ったのは、東京都(1943年より東京府→東京都)の市街地消防にとっては致命的だった。たった2時間半の空襲で、市街地の消防組織は壊滅した。
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 燃えるものはすべて燃えつくし、ようやく延焼の火も消えつつあった翌3月11日、19歳の少女が巣鴨の住居焼け跡の防空壕からヴァイオリンケースを抱えながら、ひたすら日比谷公会堂をめざして歩きはじめた。顔はススで黒く汚れ、着ているものは汚れたブラウスにズボンでボロボロだった。あたりは一面の焼け野原で、日比谷の方角がどこだかさっぱりわからなかったが、カンだけを頼りに南へ向かって歩きつづけた。
 やがて、焼けていない日比谷公会堂がようやく見えはじめると、大勢の人々が少女へ向かって歩いてきた。そして、彼女とヴァイオリンケースを目にしたとたん、あわてて歩いてきた道を引き返していった。そのときの様子を、向田邦子Click!が「少女」にインタビューしているので、1977年(昭和52)発行の「家庭画報」2月号から引用してみよう。
  
 最も心に残る演奏会は、東京大空襲の翌日、日比谷公会堂で催されたものだという。/すでに一度焼け出され、避難先の巣鴨も焼夷弾に見舞われた。ヴァイオリン・ケースだけを抱えて道端の防空壕に飛び込み命を拾った。こわくはなかった。明日演奏する三つの曲だけが頭の中で鳴っていた。/一夜明けたら一面の焼野原である。カンだけを頼りに日比谷に向って歩いた。公会堂近くまで行くと、沢山の人が自分の方へ向ってくる。その人達は、巌本真理を見つけ、“あ”と小さく叫んで、くるりと踵を返すと公会堂へもどって行った。恐らく来られないだろうと出された“休演”の貼紙で、諦めて帰りかけた人の群れだったのである。その夜の感想はただひとこと。/「恥ずかしかった……」/煤だらけの顔と父上のお古のズボン姿で弾いたのが恥ずかしかったというのである。明日の命もおぼつかない中で聞くヴァイオリンは、どんなに心に沁みたことだろう。その夜の聴衆が妬ましかった。
  
 公会堂では、「来られない」ではなく「大空襲で焼け死んだかも」とさえ思い、休演の貼り紙を出したのかもしれない。「あ」は、「あっ、生きてた!」の小さな叫びだろう。一夜にして、死者・行方不明者が10万人をゆうに超える大惨事だったのだ。
 巌本真理(メリー・エステル)の演奏に聴き入る聴衆の中には、前日の空襲で焼け出され火災のススで黒い顔をした、着の身着のままの人々もいたにちがいない。この夜、演奏された3曲とはなんだったのかまで向田邦子は訊いていないが、すぐにブラームスの話に移っているので、演奏が許されていたブラームスのソナタが入っていた可能性が高い。
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 前夜、M69集束焼夷弾が雨あられのように降りそそいだ、生き死にのかかった(城)下町Click!の夜に聴く、たとえばブラームスのヴァイオリンソナタ第1番Click!は、はたしてどのように響いたのだろうか。明日死ぬかもしれない中で聴くブラームスは、美しい湖の避暑地に降りそそぐ雨の情景などではなく、ヴァイオリンのせつない音色に聴き入りながら、前日まで生きていた人々を想い浮かべつつ、よく生きのびて、いま自分がこの演奏会の席にいられるものだという、奇蹟に近い感慨や感動を聴衆にもたらしたかもしれない。

◆写真上:古いステーショナリーを集め、向田邦子ドラマClick!のタイトルバック風に気どってみた。擦りガラスの上に載せ、下からライトを当てないとそれっぽくならない。古いアルバムとドングリの煙草入れは、二度にわたる山手空襲をくぐり抜けた親父の学生下宿にあった焼け残りだが、現代のロングサイズ煙草は入らない。
◆写真中上:東京各地で行われた、さまざまな防空演習で新宿駅舎(現・新宿駅東口)の演習()に大病院の演習()、毒ガス弾の攻撃に備えてガスマスクを装着した東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)の防空演習()。
◆写真中下は、1945年(昭和20)1月27日の銀座空襲で消火にあたる防護団の女性。同爆撃は局地的なものだったので、消火作業をする余裕があった。は、偵察機F13が同年3月10日午前10時35分ごろに撮影したいまだ炎上中の東京市街地。
◆写真下は、空襲前の1944年(昭和19)に撮影された日比谷公園(上)と、戦後の1948年(昭和23)撮影の同公園(下)。は、日比谷公会堂の現状。は、ヴァイオリニストの巌本真理(メリー・エステル/)と向田邦子の左眼()。向田邦子の瞳には、敗戦から18年で自裁するカメラマンだった恋人の姿が映っている。

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ようやく見えてきた上野山の古墳群。 [気になるエトセトラ]

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 いろいろな資料を漁りながら調べているうちに、上野山に展開した古墳群の様子が少しずつ明らかになってきた。以前、上野公園内に唯一残された摺鉢山古墳Click!について、下落合の摺鉢山Click!とからめて触れているが、近年、上野の山も「古墳群」と名づけられるほど、大型古墳が密集して築造されたエリアだったことがわかってきた。
 眼下には谷田川(藍染川)Click!や忍川が流れ、なによりも不忍池Click!が拡がる雄大な景観は、見晴らしのいい場所に大型古墳を築造する古墳時代の葬例によく適合したのだろう。これらの古墳を見わたすと、残された摺鉢山古墳(残存100m弱)はむしろOne of themで、さらに規模の大きな古墳が築造されていた様子がうかがえるのだ。特に、戦後になると東京都などによるていねいな発掘調査が行われているが、明治以降に公園化されてからの特に大型古墳の破壊は、どれほどの規模だったのかが不明だ。
 まず、帆立貝式古墳と規定されている摺鉢山古墳だが、江戸期に安藤広重が描いた吉祥閣に隣接する摺鉢山古墳を見ると、当時から前方部が摺鉢山へ向かう参道として改造れていたのは明らかで、本来は100mをゆうに超える前方後円墳だったのではないかと思われる。(冒頭写真) 江戸の初期、摺鉢山の墳丘には五条天神Click!が移設され、摺鉢山ではなく「天神山」Click!と呼ばれていたことも判明した。また、五条天神が南西の現在地へ遷座すると、代わりに清水観音堂が建立されている。
 そして、同観音堂が南の現在地へ移設されるころから、摺鉢山と呼ばれるようになった。つまり、五条天神あるいは清水観音堂を建設する際に、すでに墳丘が整形され改造されていた可能性が非常に高いということだ。現存している100m弱の墳丘は、寺社建設に適合するよう整形された“残滓”にすぎず、さらに大規模な前方後円墳だったのではないだろうか。さらに、上野の公園化とともに墳丘は削られ、“見晴らし台”として整形がほどこされたとみられる。現在の帆立貝式古墳の規定は、現存する墳丘を計測したにすぎず埴輪片は採取されているものの、なぜか本格的な発掘調査は行われていない。
 次に、出雲の大国主(大己貴)を奉った五条天神社(大もとは第六天Click!ではないか?)や、花薗稲荷が鎮座している丘(旧・忍岡稲荷境内)だが、同天神の移設の際に上方の斜面から洞穴が出現し、さっそくキツネの「穴」と見なされて穴稲荷が建立されている。もちろん、狐穴が地中に埋もれているはずがなく、古墳の羨道ないしは玄室の一部が出現したとみられる。五条天神の境内や穴稲荷の規模からすると、50~70mクラスの円墳ないしは前方後円墳を想定できる。その北側に隣接する、上野の“時の鐘”も正円形に近い丘のかたちをしており、韻松亭も含めて古墳ないしは倍墳の可能性があるように見える。もちろん、現状では社殿や鐘楼、料亭が建っているため発掘調査は無理だ。
 室町時代に太田道灌が勧請したといういわれが今日まで伝わる、この忍岡稲荷のキツネ伝説(狐穴)は、江戸初期の寛永寺造営時にまでさかのぼれるため、当時は上野山の随所に洞穴が見つかっていた可能性がある。中でも、天海僧正がらみの伝説は有名で、江戸中期に書かれた菊岡沾涼『江戸砂子』から、その一部を引用してみよう。
  
 天海僧正此山御開基の時忍の岡に年へて住みつける狐、山もあわれに成ければ、住み所に迷ひ歎き悲しみて、此旨を大僧正へ夢中にうつたへ申事度々なれば。僧正不憫と思召、爰の地を与へ、則ち、をのが住むほこらの上に社を建て稲荷大明神とあがめおかせ給ふとなり
  
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 次に、1916年(大正5)に上野山一帯を調査した鳥居龍蔵Click!は、上野停車場のホームから見上げた景観を記録している。1993年(平成5)に学生社から出版された、坂詰秀一・監修『古墳を歩く』からの孫引きになるが引用してみよう。
  
 上野の停車場を見下ろす方の崖に臨んだ所に、三四の丸塚の上を削られたものが分布している。(中略) 埴輪の破片を出す古墳を中心として、此処に古墳が多く存在していた。
  
 上野山の公園化で、すでに墳丘がかなり改造されている様子が指摘されているが、この「三四の丸塚」のうち、東京文化会館が建っている場所に築造されていたのが、1915年(大正4)に大野延太郎の調査で埴輪が採取された桜雲台古墳だ。現在は文化会館の下になってしまっているが、桜雲台古墳の周囲には、同規模の古墳か、あるいは倍墳とみられる墳丘が、少なくとも大正期まで残存していたことがわかる。古墳の規模は不明だが、東京文化会館の敷地規模を考慮すると100mほどになるだろうか。また、「三四の丸塚」は、北側の国立西洋美術館の側へ展開していたものか、あるいは南側の日本芸術院会館側なのかは、調査がなされずに破壊されているので不明のままだ。
 その近く、摺鉢山古墳に近接して料理屋「三宜亭」が建っていた丘があった。この丘からも、古墳期の埴輪片が発掘されていたようだが、発掘調査が行われることなく破壊され整地化された。古墳の規模としては、摺鉢山古墳よりもやや小さめだったとみられる。同様に、時の鐘の向かいにある上野大仏の丘陵全体も、古墳の可能性がきわめて高い。やはり、埴輪片などの遺物が斜面から採取されているからだが、後円部とすれば直径が50m前後となり、前方部を含めると摺鉢山古墳と同レベルの古墳を想定することができる。また、現在の清水観音堂が建っている丘も、昔日より古墳の伝承があるようだが、上に建物があるために発掘調査ができないケースだ。
 1962年(昭和37)に芳洲書院から出版された豊島寛彰『上野公園とその付近/上巻』には、昭和期の再開発で破壊される前の、古墳期の遺物が出土したエリアを取材していて貴重な資料だ。同書より、その一部を引用してみよう。
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 摺鉢山、三宜亭の小さい丘、大仏の丘、美術館脇の小丘、国立博物館内の丘、表慶館の地などを古墳としてあげられているが、これらの古墳はいずれも原形を失ってしまったのである。その中でも摺鉢山は都内屈指の古墳であったようで発掘当時、直刀その他の副葬品が発見されたということである。
  
 上記の中て、「美術館脇の小丘」と書かれているのが、東京都美術館の敷地にあった後円部とみられる墳丘=蛇塚古墳のことだ。当初は、北側の前方部を崩して1926年(大正15)に東京府美術館が建設されたようだが、現在は後円部も破壊されて全体が東京都美術館となっている。蛇塚古墳の墳頂には、谷文晁を記念する石碑が建てられていたが、現在は北側の広場脇の平地に移された。ここは、東京都による発掘調査が行われ出土物が保存されているはずだが、出土した遺物展や報告書を目にした憶えがない。古墳の規模としては、50~100mほどの前方後円墳ないしは円墳だったのではないか。
 また、文中の「表慶館の地」と書かれているのは表慶館古墳のことで、国立博物館を入った左手に、やや大きめな規模の古墳があった。国による発掘調査が行われているが、出土品は国立博物館内に保管されたままで公開されていない。同様に、国立博物館の庭園の築山として“活用”されたのが、文中の「国立博物館内の丘」だ。造園のため、かなりの人手が加わっているとみられるが、正円形の後円部はそのまま残されており、現存する規模は100mを超える前方後円墳だ。同庭園には、ほかにもいくつかの小丘があるので、それらも円墳または小型の前方後円墳なのかもしれない。
 前出の『古墳を歩く』から、表慶館古墳の箇所を再び引用してみよう。
  
 一方、明治三十五年(一九〇二)には「東京帝室博物館奉献美術館(現東京国立博物館表慶館)」の建設工事によって、直刀、鍔、鉄鏃、辻金具(馬具の一種)などが出土し、古墳の存在が明らかとなっていた。/また、旧東京都美術館の南正面には蛇塚と呼ばれる土盛りがあり、そこから須恵器の破片も採集されていた。/このように上野公園には、摺鉢山の前方後円墳をはじめ、多くの古墳が存在していた。現在、これらの古墳の中で残されているのは摺鉢山だけである。
  
 さて、駆け足で上野山古墳群を見てきたが、かんじんの中心部、つまりもともと寛永寺の中堂や六角堂、宝篋印塔などが造営されていた上野山の中核エリアは、明治政府の廃仏毀釈により寛永寺が破却され、すべて平坦に整地されてしまい、いまでは広場と大噴水のある「竹の台広場」になってしまっている。せめて、江戸期の地形のまま公園化されていたなら、寛永寺の“土台”からより大規模な古墳が発見されていたかもしれず、上野山が“古墳の巣”であったことがより判然としていたかと思うと残念だ。
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 薩長政府の教部省(のち文部省)は、その皇国史観Click!による歴史学や教育の観点から、100mを超える“王”または“大王”クラスの古墳が、関東地方のあちこちで築かれていたのではマズイと考えたにちがいない。あくまでも、坂東(関東)を人跡まれな「草木茫々たる未開の原野」のイメージに洗脳しておきたかったのだろうが、偏見にとらわれない戦後の科学的成果を踏まえた考古学や歴史学、古代史学の流れは、もはや止められない。

◆写真上:安藤広重『上野摺鉢山花見』に描かれた摺鉢山古墳で、前方部が登山道に改造された様子がよくわかる。おそらく、100m超の前方後円墳だったのだろう。
◆写真中上は、摺鉢山古墳の前方部斜面。は、穴稲荷古墳(仮)の羨道または玄室が出現した墳丘。は、大仏山古墳(仮)の後円部。
◆写真中下は、大仏山古墳(仮)の墳頂から東の摺鉢山古墳を眺める。中上は、昔から古墳が疑われている清水観音堂。中下は、蛇塚古墳(現・東京都美術館)の墳頂にあったころの谷文晁碑。は、国立博物館内の表慶館古墳跡。
◆写真下は、南側から眺めた国立博物館古墳(仮)の前方部。は、西側から眺めた国立博物館古墳(仮)の後円部。は、上野山で判明している古墳群。

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めずらしい関東大震災ピクトリアル。(5) [気になるエトセトラ]

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 関東大震災Click!の直後に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)には、1923年(大正12)9月13日現在で政府が首都圏の被害をまとめた、図版「東京近県震害情況概見図」が掲載されている。それを見ると、東海道線や横須賀線、御殿場線、内房線など鉄道沿いの被害が目立っている。
 同図の中で、「全滅」あるいは「殆ど全滅」とされている街は、東京市街地をはじめ東海道線方面では横浜、戸塚、藤沢、茅ヶ崎、平塚、小田原、真鶴、御殿場線沿線では松田、横須賀線方面では鎌倉、腰越、横須賀、浦賀、三崎、内房方面では布良(館山)、南観音(千倉)などとなっている。大地震による家屋倒壊はもちろん、火災による延焼で街全体が焼失してしまったところもあるが、海岸沿いに「全滅」「殆ど全滅」が多いのは津波(海嘯)の襲来による被害だ。特に、相模湾沿いや房総半島の先端部分は、高さ8~10mの津波に襲われている。
 相模湾や房総半島を襲った津波(海嘯)について、同書より引用してみよう。
  
 鎌倉 震源地が相模灘中にあつた為めか、三浦半島の外側、相模灘に面した鎌倉逗子、葉山から湘南一帯、並びに伊豆の海岸及び内房州の東京湾口に近い各地は、悲惨の上に悲惨を重ねしめられた。(中略) 次いで来たつた海嘯(つなみ)では、海浜近く一帯の町々悉く水浸しとなり、近代恋愛館に治まつてゐた文学博士白村厨川辰夫氏夫妻は波にさらはれ、夫人は電線にからまつて助かるを得たが、博士自身は帰らぬ旅に赴いた。倒壊家屋六千三百戸、死者五百。
 湘南一帯 (前略)茅ヶ崎、平塚全滅し、殊に平塚は海軍の火薬廠が爆発して死傷を出した。(中略) 藤沢は倒壊家屋七千、死者三百六十、大磯は倒壊家屋千九百、死者二百三十、東海道線は道路は亀裂縦横、鉄道は馬入川鉄橋の陥落を始め当分開通の見込み立たぬ迄の大損害を蒙つた。
 房総地方 千葉県に於ては、東京湾口に近き内房州の諸邑程損害甚しく、就中北條、船形、布良等は殆んど全滅し、鋸山トンネル崩壊、館山町では次で来つた海嘯で、船が銀行の屋根の上に置き去りを喰ふ奇観さへ演ぜられた。
  
 湘南地方の茅ヶ崎や平塚に、津波の被害が書かれていないのは、現在のように住宅が海辺まで建てられておらず、南部では砂丘が拡がる地勢だったためだ。だが、海の近くまで住宅が建っていた鎌倉や逗子、葉山では津波による大きな被害が出ている。
 震動や火災、津波によって多大な被害が出たのは、幹線道路とともに首都圏の物流動脈たる鉄道各線だった。鉄道は、地震による軌道や鉄橋の崩落、隧道(トンネル)の崩壊、駅舎やホームの破壊、崖崩れによる埋没などによってほぼ全線が不通となり、復旧の見こみがまったく立たない状況に陥った。
 上記の引用にもあるが、震源地からの揺れをまともに被った東海道線の馬入川(相模川)鉄橋Click!の壊滅は、首都圏の物流にとっては“致命的”だった。大震災の被害を受けなかった地域からの物流や支援が、陸路ではほとんど受けられないことを意味していた。
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 また、走行中の列車が揺れで転覆し、多くの死傷者を出す事故も多発した。熱海線(東海道線)の根府川駅では、駅に停車していた第109列車が線路やプラットホームごと崖下の海に墜落し、乗客約300名のうち33名が救助されたのみだった。同じく東海道線の平塚駅と大磯駅の間では、第74列車Click!が脱線転覆し死者8名、重軽傷者30名が出ている。常磐線では、土浦駅と荒川沖駅間で第814列車が大破し死者8名、重軽傷者43名。横須賀線では、沼間駅と田浦間で第514列車が脱線し、死者2名と重軽傷者を出している。特に横須賀線の横須賀駅では、駅舎やホームの屋根が倒壊して列車がつぶされ下敷きとなり、修学旅行で到着したばかりだった静岡高等女学校の生徒200名余と、一般の旅客約100名の計300名余が生き埋めとなり圧死している。
 地震と同時に、東京湾岸や横浜港に設置されていた大型船用の桟橋が、海中に崩落するか破壊され、港湾の機能も喪失して、船による物資輸送もままならなくなっていた。大型船は着岸できる桟橋がないため、沖で小型船に荷を小分けに積み替えて運搬せざるをえず、幹線鉄道網の崩壊とともに大きなダメージとなった。もちろん、電信電話などの通信ネットワークも寸断され、首都圏の状況を各地へ知らせるのに、前世紀の軍用鳩(伝書鳩)が使われるというありさまだった。
 さて、鉄道網を1日でも早く復旧するために、陸軍の鉄道連隊Click!と工兵隊が首都圏のほぼ全線に投入されている。ただし、千葉の鉄道第一連隊の主軸は上越南線の鉄橋敷設と、富山の黒部鉄道の線路敷設の演習中であり、千葉には残留部隊しかいなかった。また、津田沼の鉄道第二連隊は、ほとんど200余名の全隊員が北総鉄道の線路敷設演習に出動しており、あいにくこちらも不在だった。これらの部隊は、東京の様子がつかめないまま、昼夜兼行で引き返すことになる。その様子を、同書から引用してみよう。
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 千葉に在営中の(千葉鉄道第一連隊)残留部隊に対して、近衛師団長から飛行機で、帝都大震災大火災の伝令が来た。時に九月二日の早暁であつた。こゝに於て直ちに出動して赤羽線に急行し、東北線の運転状態恢復の為めに大活動を開始して、開通促進の為めに奮闘した。上州及び黒部方面に出動中であつた前述の二隊は、昼夜兼行で行軍を続け、七日に入京すると共に、一隊は東海道線復旧土木工事に従事するために横浜方面に出動し、一隊は房総線に出動し、大貫江見間の隧道復旧工事に従事した。(中略) 大地震と同時に、総武線は不通となり、電車も亦立往生の状態に陥つたのを知つて前記の部隊(津田沼鉄道第二連隊)は、直ちに偵察員を派遣して、実地の状況を視察した。荒川放水橋は傾斜して列車運転が不能となり、千葉方面の被害は大であるけれども、東京方面の状況はまだこれを知る事が出来なかつた。そこで、連隊は両国運輸事務所長と協議して、市川、幕張間の復旧計画を立てゝ各自被害箇所に於て復旧工事に従事した。かくて津田沼連隊を、炭水補給の機関車代用として、一日の夜から鉄道兵によつて運転をなし、鉄道従業員によつて営業をなし、市川、幕張間に不定期の運転を開始した。(中略) 二日になつて、間田大隊(鉄道第二連隊)は、東京方面に出動し、三日から東海道線品川、横浜間の復旧作業に従事した。連隊に残つてゐた隊は、前記の様な活動をすると同時に、更に東京に進み、交通の要路に当る江東橋の復旧工事に従事し、其の工を竣へ、江の東西を連絡した。/連隊長の関正一大佐は、品川に本隊を置いて東海道線の復旧工事を指揮してゐる。そして十二日には本隊を東神奈川に移して、西進した。(カッコ内引用者註)
  
 この記録によれば、相模川の馬入川鉄橋を修復したのは、津田沼の鉄道第二連隊ということになりそうだ。でも、臨時に応急修復した馬入川鉄橋は、9月24日に来襲した台風とみられる暴風雨に再び破壊されて流出した。
 東海道線の要所である馬入川鉄橋が、本格的に修復されるのはもう少しあとのことになるが、関東大震災で崩落した鉄橋の橋脚はそのまま残され、現在でも湘南電車の車窓から川面に見ることができる。東海道線が全線にわたって復旧するのは、大震災から3ヶ月後の11月になってからのことだ。
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 首都圏における私営鉄道の復旧は早く、9月の中旬には主要線がほぼ全線運転を再開している。大震災から2週間余の、9月17日の時点で全線にわたり運転をはじめているのは、東武鉄道、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)、目黒蒲田電鉄(目蒲線)、池上電鉄、多摩鉄道、西武鉄道、青梅鉄道、秩父鉄道、鐘ヶ崎鉄道、駿豆鉄道の10私鉄だ。
                                <つづく>

◆写真上:日本橋の魚河岸Click!が壊滅したため、臨時に魚市場となった竹芝桟橋。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月13日現在で判明した被害状況。多くの町が、赤文字で「全滅」「殆ど全滅」「被害大」と記入されている。は、倒壊物の少ない鉄道の線路へ逃げる避難民たち。は、横須賀線の崩壊した隧道(トンネル)。
◆写真中下は、被害が少ない市電車両を人力で車庫まで運ぶ東京市電の職員たち。は、帰国する交通手段を奪われた大使館や公使館、領事館の館員たちは日比谷公園に張られたテントで暮らした。写真は、毛布で仮設テントを覆う外国人女性。は、壊滅した横浜駅(遠景建物)の線路やホームへ避難した近くの住民たち。
◆写真下は、海中に崩落した桟橋の代りに臨時桟橋を建設中の横浜港。は、崩落した相模川の馬入川鉄橋と大震災時の橋脚がそのまま残る現状。(GoogleEarthより) 馬入川鉄橋は9月中旬に応急橋が造られたが、9月24日の台風とみられる暴風雨で再び崩落した。は、出動した鉄道連隊の作業風景だが第一連隊か第二連隊かは不明。

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