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佐伯祐三の「中原工場」を突きとめた。 [気になる下落合]

中原工場跡.JPG
 以前、佐伯祐三Click!が描いた「踏切」Click!の画面で、踏切番の北側に建っている鉄道員宿舎あるいはアパートとみられる建物の壁面に、「中原工〇」Click!と書かれた看板について記事にしたことがある。以来、西巣鴨町(現・池袋地域)の字名である「中原」(立教大学の周辺)一帯、あるいは明治期以前に存在した高田村の字名である「中原」Click!一帯を探しつづけていたが、「中原工〇」に相当する工場を発見できなかった。
 特に、高田村(高田町)の雑司ヶ谷にふられた字名「中原」は、のちに「御堂杉」へ変更されているので、看板の工場が大正の早い時期に操業を開始していたとすれば、字名をとって「中原工〇」とされた可能性がある。そもそも、佐伯の画面では省略されている「中原工〇」の「〇」(佐伯は画面に「-」しか描いていない)には、どのような文字が入っていたのだろうか?
 1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)の「工場案内」、あるいは巻末に掲載された工場広告を参照すると、当時は「〇〇工場」と名づけられた製造企業が圧倒的に多いことがわかる。「〇〇」には、事業主の苗字や地名が入るわけだが、佐伯が描いた看板の「中原」は地名であり、つづく文字には「工場」ないしは「工業」が入ると想定していた。そして、固有名詞(人名・地名など)+「工場」と名のつく製造業では、圧倒的に繊維関連あるいは製綿関連が多いこともわかった。
 たとえば、『高田村誌』に収録された工場の一部をご紹介すると、田岡工場(メリヤス)、曙工場(毛糸)、天田工場(繊維染色)、岩月工業(メリヤス・製綿)、鈴木工場(包帯)、高砂工場(メリヤス)、菅野工場(製綿・包帯)、山口工場(人絹)、加藤工場(染色)、ヤマト工場(羊毛)、大蔵工場(製綿・毛糸)、アカネ工場(絹織・人絹)、坂本工場(メリヤス)……etc.といった具合だ。つまり、「中原工場(業)」はおそらく繊維関連の製造業者であり、特に繊維工場が集中していた高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原(現・南池袋3丁目)、あるいは池袋駅東口の南側にあたる西巣鴨町(大字)池袋(字)蟹窪(現・南池袋2丁目)のあたりを集中的に探すことにした。
 わたしが高田村の雑司ヶ谷中原にこだわったのは、同地域に佐伯祐三の隣人である納三治Click!が経営する曙工場Click!があったからだ。曙工場は、高田町雑司ヶ谷御堂杉953番地で操業しており、佐伯が描く「踏切」をわたって左手(北)へ350mほど歩いたところにあった。上掲のように毛糸が専門の繊維工場であり、1927年(昭和2)の晩春ないしは初夏のころ、社主の納三治は下落合666番地、つまり佐伯アトリエの西南隣りに大きな西洋館Click!を建てて転居してきている。
 再度パリ行きを意図していた佐伯は、納三治の自邸や工場の事務室へ、「下落合風景」作品の“営業”に出かけているのかもしれない。曙工場の地番は、明治末から大正初期までは高田村雑司ヶ谷中原953番地だったはずで、その周辺に展開する繊維工場の中に、くだんの「中原工場」ないしは「中原工業」もあったのではないかと考えた。
佐伯祐三「踏切」1926頃.jpg
佐伯祐三「踏切」拡大.jpg
踏切看板跡.JPG
 もうひとつ、わたしがこの地域にこだわったのは、山手線の車窓から見えるように掲げられた看板そのものの位置だ。踏切を渡って北へ歩けば、雑司ヶ谷中原(のち雑司ヶ谷御堂杉)へといたる位置に看板が掲げられているのであり、当然、その地域に「中原工場(業)」がある……と考えるのは、ごく自然に思えた。しかし、いくら雑司ヶ谷中原一帯をしらみつぶしに探してみても、各時代に「中原工場(業)」を発見することができなかった。苗字だけ採取されている可能性もあるので、念のため「中原」姓の家を探したが、それも見つけることができなかった。
 各種地図や住宅明細図などへの、採取漏れの可能性もありそうだとあきらめかけたころ、ひょんなところから答えが見つかった。それは、豊島区郷土資料館が発行する資料の中に、「中原工場」が眠っていたのだ。1988年(昭和63)に発行された「豊島区地域地図」の付録冊子をぼんやりと眺めていたとき、ふいに「中原工場」という文字が目に飛びこんできた。大正末ごろ、豊島区エリアに存在した企業や工場をリストアップした資料で、その中の工場一覧に「中原工場」が記録されていたのだ。製造していたのは、想像どおり繊維分野の「メリヤス」だった。
 そして、工場主の名前を見たとき、思わずため息が出てしまった。「中原」は地名ではなく、人名だったのだ。中原儀三郎が経営していた「中原工場」は、看板の位置が示唆する池袋駅に近い雑司ヶ谷中原(御堂杉)でも池袋中原でもなく、高田町高田四ツ家(四ツ谷)344番地(現・高田1丁目)で操業しており、まったくの方角ちがいだったのだ。目白通りを東へ向かい、学習院をすぎて千登世橋をわたった先、現在の「四つ家児童遊園」の向かいにある坂を南に下った坂下あたり、根生院の東隣りで中原工場は操業していた。
中原工場1926.jpg
薗部工場(メリヤス).jpg
広告鈴木工場.jpg 広告山田工場.jpg
 さっそく、1926年(大正15)に作成された「高田町住宅明細図」を参照すると、確かに中原工場を見つけることができた。住宅街の中に、中原工場がポツンとあるような環境で、事業の規模としてはそれほど大きくはなかったようだ。豊島区郷土資料館の資料を見ると、社主の中原儀三郎のほか男子の工員が6人、女子工員が1人の全従業員7人という規模で、周囲の環境から想像すると家内制手工業のような製造現場が想定できる。ちなみに、中原工場の北隣りには早稲田大学教授であり、早大野球部の創設者で衆議院議員(社会民衆党)の安部磯雄Click!が住んでいた。
 中原工場がいつごろまで操業していたのかは不明だが、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、周囲の大きめな屋敷街に囲まれた細長い屋根を確認できるようだ。また、1948年(昭和23)に撮影された空中写真には、空襲による中原工場の焼け跡とみられる、細長い敷地がハッキリと確認できる。空襲で全焼したまま、戦後に操業を再開できたかどうかはさだかでない。
 不可解に感じるのは、山手線沿いに「中原工場」の看板が掲げられていた位置だ。高田四ツ家(四ツ谷)に工場があるとすれば、その位置からして高田馬場駅か目白駅の近くに看板を設置するのが自然だろう。それが、なぜ池袋駅に近い位置に設置したのかが、いまひとつ腑に落ちないのだ。当時、繊維関連の中小工場が池袋駅東口の南西部(現・南池袋)に集中していたため、同地域の工場群の“一員”としてある種の“スケールメリット”をねらったものか、あるいは高田馬場駅の周辺では看板が多すぎて目立たず、目白駅の周辺では車窓から見える位置に看板を設置するスペースがなかった……と解釈することもできる。
中原工場1936.jpg
中原工場1948.jpg
安部磯雄邸跡.JPG
 佐伯祐三がパリでそうだったように、あるいは連作「下落合風景」Click!の中の1作「富永醫院」Click!のように、もう少し看板の文字を正確かつていねいにひろって描いてくれていたなら、おそらく「中原工場」の下には「高田町四ツ家三四四番地」という所在地までが記載されていたのではないだろうか。そうすれば、これほど時間をかけて探す必要もなかったはずだ……と、最後にちょっとグチめいたことを書いてしめくくりたい。

◆写真上:中原工場が建っていた、高田町四ツ家344番地(現・高田1丁目)の現状。
◆写真中上は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『踏切』。は、「中原工場」看板の部分拡大。は、看板が設置されていたあたりの現状。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「高田町住宅明細図」にみる中原工場。は、高田村高田938番地にあった高田村を代表するメリヤス製造業の薗部工場。は、1919年(大正8)の『高田村誌』巻末に掲載された当時の工場広告。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中原工場とその周辺。は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同界隈で中原工場らしい焼け跡が見える。は、中原工場の北東側に隣接していた安部磯雄邸跡の現状。(中央の褐色屋根の家から手前にかけて)

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都心と豊多摩が共存する下落合。 [気になる下落合]

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 「新宿の住宅地に、お百姓さんがいる、と聞いた」ではじまる、『いま下落合四丁目で(4)』は、1987年(昭和62)2月7日発行の朝日新聞(東京版/西部)に掲載された。2階建ての「ひなびた」民家を訪ねた記者は、薪で風呂をわかす情景に「まさか----」と驚いている。21世紀となった32年後の現在(2018年)、この「農家」はまったく変わらずに耕作をつづけている。おそらく、新宿区で残った最後の畑地だろう。
 畑は自邸の広い庭園内のほか、三間道路をはさんだ邸の向かいにケヤキの大樹やモクレン、カキ、ビワ、夏ミカン、ツバキ、ウメなどの木々に囲まれて、江戸東京の郊外で栽培されていた、ありとあらゆる「近郊野菜」が四季を通じて植えられ、また四季折々の園芸植物が花を咲かせている。もともと、落合地域の土壌は肥沃で、旧・神田上水や妙正寺川沿いの水田では米が、畑では麦や多彩な近郊野菜が豊富に収穫されていた。
 畑地の「農家」=S家は、薬王院の過去帳をたどると江戸時代は元禄期の下落合村からつづく地元の旧家で、大正時代までは落合地域の有名な特産物である落合大根Click!や、落合柿Click!を大量に栽培して出荷していたのだろう。いまでも畑では、相変わらず落合大根Click!や落合柿が100年前と変わらずに収穫されている。しかも記者と同様に、わたしも「まさか----」と驚いたことは、畑には現在の市販されている肥料はまかず、昔ながらの腐葉土と有機肥料、すなわち下肥えが用いられていることだ。だから、下肥えがまかれた直後、畑の前を散歩するとかなり匂う。
 32年前に掲載された朝日新聞の一連の下落合ルポから、少し引用してみよう。
  
 丸太が六、七本ころがる。まぎれもなく、マキでふろをわかしていた。(中略) 「湯あたりが、軟らかいんですよ」。モンペ姿の五十年配の婦人は、そう言う。たき口に残った消し炭は、七輪で魚を焼くのに使う。「味がまた格別なの」/広い庭の畑にはダイコンが植わり、ピンク色の寒ツバキが目にやさしい。(中略) 「落合草創の旧家」と、昭和初期の文献にはある。先代は、豊多摩郡落合町当時の収入役で、町会議員もつとめた。終戦直後までは田んぼもあった。いまや町内随一の大地主。貸地のほか、三カ所、約一千平方メートルの土地で、野菜を作る。/売るほどには、作っていない。「家庭菜園なんですよ」。土いじりが大好き。育つ姿がたのもしい。料理してもおいしい。「でも、こんな税金の高いところで百姓なんて、人さまからみると、ぜいたくなことなんでしょうね」
  
 確かに、有機肥料で育てられた落合大根の味は、おそらく昔ながらの美味しさだろう。毎年、「農家」では屋敷林から落ちた枯葉を燃やす落ち葉焚きClick!が行われ、風にのって香ばしい秋の香りを運んでくる。
 厳密にいえば、ダイオキシンやNOx、COxが発生しかねない低温燃焼の焚き火は、自治体の条例でとうに禁止されているのだけれど、みんな下落合らしい秋の風情を楽しみにしているので、誰も文句などいわない。タヌキが盛んに、「農家」の塀をくぐりぬけていくのもこの季節で、熟して落ちたカキを楽しみに通っているのだろう。
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 実は、わたしの家も明治期まではS家の畑地だった。大正期に入ると、すぐに大小の家々が入れ替わり建てられたようだが、1923年(大正12)ごろになると、この一画には丸太を組んだ高原ロッジのような川澄邸Click!をはじめ、まるで佐伯アトリエClick!のような緑の三角屋根に白ペンキで塗られた下見板張りの住宅、彝アトリエClick!のような赤い屋根にクレオソートClick!を塗布した焦げ茶色の下見板張りの住宅など、瀟洒な西洋館が次々と建ち並んでいたようだ。わたしの知る限り、わが家の敷地に建てられていた家は、大正期から数えて4~5軒目になるだろうか。戦前まではS家からの借地だったが、戦後になると住民=土地所有者に変わっている。
 記事に登場する「モンペ姿の五十年配の婦人」は、いまも変わらずご健在で、腰がまがって80年配の「おばあさん」にはなったが、毎朝、畑の入念な手入れは欠かさない。近所の畑作を見て育ったせいか、うちの上の子が今年から裏庭に、ネコの額ほどの畑を耕して茄子や大根を作りはじめた。もともと土が肥えているせいか、それほど手をかけなくてもそこそこの収穫はあるようだ。ちなみに、うちは水洗トイレなので肥料に下肥えは用いていない。w
 つづけて、1987年(昭和62)2月7日の朝日新聞から引用してみよう。
  
 昨年春、畑仕事をしていた時のこと。サラリーマン風の人が通りかかり、「子供に見せてやりたいんですが、いいですか」と声を掛けた。何事かと思ったら、ソラマメのことだった。咲き乱れる、チョウの形をした淡い紫色の花を見に、子供たちがやって来た。婦人は、「いいことをしているんだなあ」とも思う。(中略) すぐ近くに、「おばけ坂」と呼ばれる坂がある。木々がうっそうと生い茂るからだ。先代が土地を提供したので、「うちの坂」とも呼ぶ。かつての豊多摩が、ここには残っている。/緑の中にも、マンションは立ち並んでいる。「コンクリートの建物は、好きになれません。どうも、心まで檻の中って感じですよね」
  
 とても新宿区とは思えない風情だが、当時の情景は現在も変わらずつづいている。わたしが下落合に惹かれた理由のひとつも、畑が残り、まるで山道へ迷いこんでしまったかのような、昼なお暗い急峻なオバケ坂Click!があったからだ。
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 もっとも、この坂道は江戸期から通称「バッケ坂」と呼ばれていた急坂が、「バッケ」(崖地)Click!という江戸北部の方言が時代とともに通じにくくなり、いつの間にか周囲の鬱蒼とした風景に見合うよう、「オバケ坂」と呼ばれるようになった……と想定している。目白崖線には、あちこちに「オバケ坂」や「幽霊坂」と呼ばれる急坂が通うが、おそらくいずれも通称のバッケ坂がどこかで転化したのではないかと思われる。また、「オバケ」にも「幽霊」にも転化せず、本来の「バッケ坂」Click!と呼ばれる急坂が、現在でも落合地域の西端、目白学園西側の急斜面にそのまま残っている。おそらく、都内にみられる「八景坂」も「ハケ坂」または「バッケ坂」が転化したものだろう。
 オバケ坂は、いまでこそ整備されてしまい山道のようには感じられなくなったが、わたしの学生時代までは、森の下生えであるクマザサが両側から足元にせり出し、幅50cmほどにしか見えない細い土面の坂道だった。そして左手の鬱蒼とした森には、戦前からつづくS家一族のボロボロになった平家の廃屋が1軒、ポツンと放置され荒れたままになっており、大学からの暗くなった帰り道など、ほとんど街灯もない暗がりの山道を、ウキウキ・ゾクゾクしながら上っていったものだ。いまだ学生にもかかわらず、この街で暮らしたい!……と思った要因は、こんなところにもある。
 ここで、記事中に「うちの坂」という呼称が登場している。地主から見て、自分の土地に通う坂道だったから当然「うちの坂」と呼んでいたのだが、同じことが下落合に残る地名にもいくつか散見できる。江戸期に上落合の有力者たちが住んでいた集落(村)から見て、北に流れる川だから「北川」Click!(=妙正寺川)であり、川の北側にある土地だから字名「北川向」Click!と呼ばれていた。
 同様に、おそらく大地主(宇田川家)のすぐ前に口を開けていた谷戸だから、その谷間のことを「前谷戸」Click!と呼んだのだろう。「前谷戸」を周辺の土地一帯の字名として導入する際、江戸東京の各地にみられるように「谷戸前」としなかったのは、地主の力が強かったからだろうか、それとも字名とする以前から谷戸そのものに限らず、すでに広く一帯の土地をそう呼ぶことが慣例化していたからだろうか。
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 2011年(平成23)に従来のアナログテレビ放送が廃止され、地上波デジタル放送がスタートすると、おそらく大正建築のS家では突然、ブラウン管のテレビが映らなくなったのではないだろうか。屋根上のアンテナは交換されず、その後も数年間、そのままの状態がつづいていた。ところが一昨年、最先端のUHFアンテナにパラボラアンテナが邸の横へ新たに設置された。豊多摩郡時代の「農家」の風情と、最先端の通信機器が共存する風景に、当時の取材記者は、今度はどんな感想を抱くだろうか?

◆写真上:12月撮影の冬枯れが進む下落合で、背後に見える雑木林が目白崖線の斜面。
◆写真中上は、さまざまな樹木が植えられた下落合に残る「農家」の庭園。は、上から順に1月・2月・3月・4月(2葉)の畑と周囲の木立ち。
◆写真中下からへ、順に5月・6月・7月・8月・9月の畑の様子。
◆写真下は、拡幅され昔の面影がすっかり消えたオバケ坂。は、下落合(現・中井2丁目)の西端に残るバッケ坂。は、御留山Click!にみる典型的なバッケ状の急斜面。

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関東大震災の「土産」「贈物」グラフ誌。 [気になる本]

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 1923年(大正13)9月1日に起きた関東大震災Click!のあと、東京を中心に被災地見物の観光旅行が流行った様子が記録されている。こちらでも、物見遊山で被災地を訪れる観光客に、違和感をおぼえたらしい竹久夢二Click!のエッセイをご紹介Click!していた。そのような観光客相手に、記念絵はがきや写真集が出版され、当時の新聞には盛んに広告が掲載されている。
 そのコピーを読むと、地方への「土産」や「贈物」として最適……といった、今日の感覚では考えられない、被災者の心情を逆なでするような表現もめずらくしない。これらの写真を撮り、印刷をして販売していたのは、大震災の被害が比較的少なかった乃手Click!や郊外の出版社、または東京地方ではなく別の地方にある出版社が主体だった。
 もちろん、新聞社も画報(グラフ誌)などを通じて、写真集のような仕様の出版物を刊行していたが、市街地にあった新聞社や印刷・製本工場のほとんどが壊滅しているため、大震災の直後に出版できたところは稀だ。それらは、出版機能が回復した同年の10月下旬以降が多く、被害をあまり受けていない乃手や地方の出版社に比べると、およそ1ヶ月遅れで発行されたものが多い。
 東京市内でいえば、たとえば大正当時は本郷区駒込坂下町(現・千駄木2~3丁目)に社屋があった大日本雄弁会講談社(現・講談社)や、赤坂区丹後町(現・赤坂4丁目)にあった東京写真時報社、小石川区大塚仲町の歴史写真会など、火災が発生せず被害があまりなかったか軽微な地域にあった出版社だ。また、東京地方を離れると関西方面、特に大阪地方の出版社が多く、たとえば大阪市東区大川町の関西文藝社などが、記者とカメラマンを東京に派遣し被災地を次々と撮影してまわっている。
 震災から間もない同年9月23日には、被災地の取材や撮影を終え早くも印刷・製本を進めていた、大日本雄弁会講談社が発行元のグラフ誌『大正大震災大火災』は、横山大観に装丁を依頼し、同日の東京朝日新聞紙上で大々的に予約注文を募集している。そして、9月下旬には書店に並ぶと予告しているが、3日後の9月26日発行の読売新聞に掲載された広告では、「目下印刷中十月一日発売」と、印刷や製本が遅れている様子が伝えられている。おそらく、用紙やインクの手配が間に合わず、震災で印刷機の調子がかなり悪かったのかもしれない。
 余談だが、先の東日本大震災では、東北地方や関東北部にあった大手印刷工場が大きなダメージを受けている。別に工場が倒壊したり津波をかぶったわけではなく、強烈な揺れに印刷機がさらされ、メンテナンスを受けなければ印刷が不可能になってしまったのだ。ご存じの方も多いと思うが、印刷機は精密機械なので機構にわずか1mm以下のズレや狂いが生じても、もはや使い物にならなくなる。
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 さて、講談社のグラフ『大正大震災大火災』は9月下旬の発行に間に合わず、奥付には1923年(大正12)9月27日印刷、同10月1日発行となっている。そして、10月3日の新聞各紙上で大々的に販売広告を掲載している。この時点で、主要書店の店頭に平積みになったのだろう。地域によっては配送ルートが回復せず、配本が不可能だったものか講談社への予約注文も受け付けている。広告のキャッチフレーズを、少し引用してみよう。
  
 噫! 悲絶凄絶空前の大惨事! 後世に伝ふべき万代不朽の大記録成る
 読め! 泣け! 幾百万罹災同胞の上に万斛同情の灼熱涙を濺げ
 果然! 世の信望本書に集り注文殺到! 試みに店頭一瞥を給へ
 痛ましき哀話怖ろしき惨話はあはれ 涙なくして読み得ぬ一大血涙記! 老幼男女日本国民必読の名著! 各家庭必ず一本を備へよ! 永く子々孫々に伝へられよ
  
 もう大日本雄弁会講談社らしく、まるで講釈師が講談を朗々と語るかのようなキャッチが踊っている。そして、翌10月4日の新聞紙上では、グラフ『大正大震災大火災』の広告と同時に、おそらく月刊誌の復刊態勢が整ったのだろう、同社の発行する「婦人倶楽部」が10月8日に店頭に並ぶという予告が掲載されている。
 相変わらずの講談口調のまま、その予告口上を引用してみよう。
  
 婦人倶楽部十月号予告/大震火災画報血涙記
 あゝ大正十二年九月一日! この日の追憶の如何に悲きことぞ! 花の都は一朝にして忽ち死灰の原と化した。わが『婦人倶楽部』はこの大震大火の真只中に必死の努力を続け大震災後いち早く皆様に見える事が出来たのは何たる幸ひでせう この血と涙と汗の結晶たる本号は是非多くの方に見て頂き良く又永く語り草として御家庭にお伝へが願ひ度いのであります
  
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 翌10月5日の読売新聞には、東京写真時報社が出版した『関東大震災画報』の小さな囲み広告が掲載されている。「類書中の白眉製本出来、九月二十九日より発売す」と、明らかに講談社の『大正大震災大火災』を意識し、同書よりも早くから出版していることを強調している。だが、講談社ほど配本ルートや取次網が整備されていなかったのか、「取次販売人至急募集」と「至急御注文ありたし(前金着次第即時送本す)」と、通信販売に力を入れている様子がうかがえる。
 10月も末になると、震災の画報や写真集はあらかた読者に行きわたったのか、広告の扱いも小さくなっていく。そして、東京の被災地をまわる観光客をめあてに、新聞紙上には小さめな広告を反復して掲載するようになった。同年10月29日の読売新聞から、広告の全文を引用しよう。
  
 地方へ海外へ絶好の贈物
 ◇地方への土産、海外同胞への無二の贈物として大日本雄弁会の『大正大震災大火災』と云ふ本が一番いいと大評判。郵便事務復興小包で送れる至極適当であるとて非常に売れる売切れぬ中至急郵送あれ(各地書店にあり)
  
 今日では、阪神・淡路大震災にしろ東日本大震災、熊本・大阪・北海道大地震などの被災地を写真に撮り、「土産」や「贈物」に最適……などと売り出したら、即日出版社は抗議の嵐にみまわれるだろうが、新聞以外にニュースを知る手段がない大正時代の当時、全国の出版社や新聞社は東京にカメラマンを派遣し、次々と同様の写真集やグラフ誌、記念絵はがきなどを出版・発行していった。
 講談社の『大正大震災大火災』は、1924年(大正13)1月に入ると累計50万部を超え、さらに増刷中の広告を掲載している。同年1月16日の東京朝日新聞には、「一挙売り尽す五十万部 増刷又増刷而も残部頗る僅少也/本書は以後絶対に増刊せず求め損つて悔を千載に残す勿れ」という広告を掲載しているので、おそらく60万部ほどは売り尽くしたのではないかとみられる。
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 現在、わたしたちが目にする関東大震災の写真は、その多くが東京地方にあった新聞社のカメラマンが撮影したり、記念絵はがきを制作するために写真館が撮ったものが多い。しかし、東京の中小出版社や地方から派遣されたカメラマンが撮影し、間をおかず写真集として出版されたものの中には、これまで見たことのない写真類が数多く収録されている。機会があれば、それらの貴重な写真類を、少しづつ紹介できればと考えている。
                                 <つづく>

◆写真上:震災直後に撮影された、大手町にある大蔵省の焼跡。中央の右手に前方後円墳の芝崎古墳Click!将門首塚」古墳Click!とみられる墳丘がとらえられている。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月23日の東京朝日新聞に掲載された大日本雄弁会講談社の『大正大震災大火災』広告。は、同年9月26日の読売新聞に掲載された同広告。は、同年10月3日の読売新聞に掲載された同広告。
◆写真中下は、1923年(大正12)9月25日発行(実際は10月1日発行だと思われる)の大阪にあった関西文藝社による『震災情報/SHINSAIJYOHO』。は、同年10月4日の読売新聞に掲載の『大正大震災大火災』広告。下左は、『大正大震災大火災』の表紙。下右は、同年10月29日の東京朝日新聞に掲載された同書の広告。
◆写真下は、1923年(大正12)11月1日に出版された歴史写真会の『関東大震大火記念号』。中左は、同年10月5日の読売新聞に掲載された写真時報社『関東大震災画報』広告。中右は、1924年(大正13)1月16日の東京朝日新聞掲載の『大正大震災大火災』広告。下左は、1923年(大正12)10月1日発行の写真時報社『関東大震災画報』。下右は、同年10月28日発行の遅れた東京朝日新聞社『アサヒグラフ-大震災全記-』。

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吉屋信子の手相占いをした記録。 [気になる下落合]

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 わたしは、占いをほとんど信じていない。巫術や占術、望記術、卜術、陰陽術、風水、手相、家相、星座、タロット、水晶玉……などなど、占いの名称や方法はどうでもいいのだが、その存在自体は否定しない。それらよって導き出された史的経緯や事実Click!が存在する以上、そして人々がそれらに依存して意思決定を行なったケースが多々ある以上、“単なる迷信”として存在自体まで否定をするつもりはない。
 1934年(昭和9)に講談社から発行された「婦人倶楽部」5月号に、当時から高名な占い師(手相見)・永鳥真雄が、下落合4丁目2108番地(現・中井2丁目)に住む吉屋信子Click!の手相を占なった記録が残されている。同時に、彼女の手相を写しとりキャプションを加えたイラストも掲載されている。吉屋信子は1973年(昭和48)、77歳ですでに人生を終えているので、これら占いの結果(当否)を彼女が実際に生きた軌跡と照合し、事実にもとづいて検証することができるのだ。
 そのときの占いの様子を、同誌に掲載された「女流名士花形のお手相拝見訪問」記事の中の、「女流作家の第一人者/吉屋信子女史」から引用してみよう。
  
 目下各婦人雑誌から引張り凧になつて、とてもお忙しくていらつしやる吉屋信子先生を丁度お暇の時を狙つて下落合のお宅を訪問いたしました。素晴らしい文化住宅のお庭には愛犬のセパードが耳を立てて頑張つてゐます。応接間には、艶やかなピアノが、張出しの日光室(サンルーム)の硝子を透して来る光にぴかぴかと光つてゐます。/『同じことなら将来の事を見て貰つた方がいいわ。』と流石は吉屋先生、気軽に右手を差出される。/『吉屋さんは一月生れでございましたね。十二月、一月生れの人は大体に骨格がしつかりしてゐて丈夫な筈ですが、生命線の初めがよれよれと鎖のやうになつてゐますから、子供の時は弱かつたやうですねえ。今は少し胃腸が弱くありませんか。』
  
 庭にいたシェパードは、副業でブリーダーをしていた上落合1丁目186番地の村山籌子Click!から、陸軍への寄付用にと「押し売り」Click!されたものだろう。
 ここで、すでにお気づきの方も多いだろう。占い師は、あたかも子どものときは病弱気味だった、いまでも胃腸が弱くないか?……などと、まるで相手を見透かすような口調で話してはいるが、吉屋信子に関する当時の本や出版社の資料をあらかじめ参照しておけば、多くの人々が既知のことを話しているにすぎないのがわかる。彼女の体形を見れば、誰が見ても骨格がしっかりしていることぐらい自明のことだ。
 これに対して、父親が胃がんで死去しているので心配だと彼女が答えると(この情報も仕入れていただろう)、以下、占い師は次のように重ねていく。
 『いや、目下さ(ママ:の)心配はないやうです。曾て山本権兵衛夫人が胃癌で亡くなられましたが、それは手相にちやんと出てゐました。(中略) しかし生命線の先が分れてゐますから、よく御旅行なさいますね。』
 ここで、「こんなすごい人物の手相も見たことがある」と自身の占いへ、コケ脅しにも似た権威づけをするのを忘れず、またしても新聞を読んでいれば誰でも知っていることを訊いている。このとき、すでに吉屋信子はヨーロッパや米国など各地を旅行して帰国したあとだった。また、彼女は講演旅行で全国をまわっており、「よく御旅行をなさいますね」は占いでもなんでもなく、ただ事実を述べているにすぎない。
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 『(旅行を)未だこれからもなさいますよ。――運命線が三十歳のあたりからハツキリしてゐます。三十歳位で名声が出来たしるしですね。』
 30歳になる大正末、『花物語』や『屋根裏の二処女』が大ヒットしたのは、別に吉屋ファンでなくとも、この時代なら誰でも(特に女性なら)既知のことで、別になにかをいい当てているわけでもなければ、占なっているわけでもない。
 『感情線が二つに切れてゐますから、親に早く別れましたね。――性質は暗くて考へ込む方です。なるべく朗らかになつていたゞきたいものです。』
 これも、公表されている吉屋信子の経歴を参照すれば誰でも知ることができることを、さも手相から読みとっているように話しているだけだ。また、小説家にやたら明るくて考えこまない人種など、ハナから存在しない。占いの常套手段である、「コールドリーディング」にさえなっておらず、吉屋信子の“基礎知識”を披露しているにすぎない。
 『結婚線が割れてゐてよくないですなあ。恋愛も駄目。たとへ結婚をなすつても、別れるやうなことになり易いですね。――拇指の長いのは意志が強くて一つの事をやり通す人です。しかし神経が過敏ですね。偏食の傾きがありませんか。』
 同性の門馬千代と、下落合で公然と同棲している吉屋信子に対して、異性との結婚や恋愛は「駄目」といったところで、どれほどの意味があるのだろうか。「駄目」だから、女性の伴侶と暮らしていたのではなかったっけ? 意志が弱くて、ひとつのことをやり通せない小説家は稀有だし、彼女が神経質で食べ物に好き嫌いがあるのも、すでに女性誌などのインタビューで既知のことだったろう。
 『(前略)手が大体小さいですね。かういふ手の方は、物事に几帳面ですが、手先の事は不器用で、むしろ頭を働かして仕事をなさる方です。』
 だから、永鳥真雄がもっともらしく占なっているその相手は、日々原稿用紙に向かい、頭を働かせて仕事をしている小説家の吉屋信子なのだ。
 『動物や花などはお好きですね。――最後にもう一つ遠慮のないところを云はして頂くと頭脳線の端が分れてゐるから文才があつて筆は達者(後略)』
 だからだから、あんたが占なっているのは文筆をなりわいとする小説家の吉屋信子センセだってば。w ほとんど、おきゃがれもんClick!の占いだ。こんないい加減な言質で、よく手相見や占い師がつとまったものだ。花が好きなのは、『花物語』をパラパラめくれば自明のことだし、動物がキライなら庭でシェパードなど飼ったりはしない。
 一連の手相「占い」は、「90日間、わたしは天に祈りつづけ、ついに雨を降らせることに成功したのだ」「3ヶ月も祈ってりゃ、いつか降るだろ!」とほとんど同レベルの稚拙さであり、ニコニコ聞いてはいても吉屋信子自身も呆れはてたのではないだろうか?
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 さて、この手相占いの中で唯一、当時の誰でもが知ってそうな人気作家の基本情報ではなく、未来を占なった箇所がある。再び、同誌より引用してみよう。
  
 『太陽線をみると、今後も大変好運です。今後約十年は益々よろしいでせう。四十二歳頃が一番頂上で大変な好運に見舞はれます。』/『それは有難いわね。そのつもりで大いに努力しますわ。四十二の時、素晴らしい事があるつていふのは一体何んでせうね? ノーベル賞でも貰へるのかしら? ホゝゝゝゝゝ。』
  
 吉屋信子が42歳を迎えたのは、1938~39年(昭和13~14)にかけてのことだった。当時は存在した「文壇」からは、彼女の作品は「子供がよむもの」で文学ではないと執拗に攻撃され、その急先鋒にいた小林秀雄Click!からは「どうせ通俗小説だ。そろ盤を弾いて書いてゐるといふ様なさつぱりとした感じではない。何かしら厭な感じだ」と、さんざんな嫌がらせの言葉を投げつけられた。
 「純文学」のみを相手にする「高踏的」な小林秀雄が、ことさら吉屋信子の作品へ執拗な攻撃を繰り返したのは、そこに明治以降の国家ではあってはならない「女性解放」の思想、今日的にいうならジェンダーフリーとフェミニズムの臭いを敏感に嗅ぎとったからだろう。彼女は小林秀雄と、正面から衝突していくことになる。
 同様に、天皇を頂点とする大日本帝国の家族主義的国家を支える政府当局は、吉屋信子の作品群を貫く経糸に、きわめて由々しき「危険思想・不良思想」Click!を読みとっていた。彼女は特高Click!から執拗にマークされ、1939年(昭和14)ごろから検閲で次々とクレームがつき、既存の作品までが警察からの圧力で事実上「発禁」Click!になっていく。自らペンを折り、鎌倉へ引きこもる時代が迫っていた。
 つまり、彼女にとって42歳を迎えた年は、作家生命を脅かされる人生最悪の状況だったわけだ。永鳥真雄の手相占いは、みごとに大ハズレということになる。彼女が再びペンをとり、戦後の代表作を次々と執筆するまで、およそ10年の歳月が必要だった。
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 最後に余談だが、吉屋信子が下落合から牛込砂土原町3丁目18番地の新邸へ引っ越したあとも、門馬千代の姻戚は下落合に残ったものだろうか。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、吉屋邸の2軒西隣りに「門馬」邸を確認することができる。めずらしい苗字なので、吉屋信子の連れ合いである門馬千代と、なんらかの関係がありそうだ。

◆写真上吉屋信子邸Click!が建っていた、下落合4丁目2108番地の敷地跡の現状。
◆写真中上は、1934年(昭和9)発行の「婦人倶楽部」5月号(講談社)に掲載された吉屋信子の右手相。は、書斎の本棚で記念撮影をする吉屋信子。上部の壁に架かった油絵は、甲斐仁代Click!が描いた作品の可能性がきわめて高い。
◆写真中下は、1934年(昭和9)の「婦人倶楽部」5月号に掲載された手相占いの記事。は、庭に面したテラスで編み物をする吉屋信子。
◆写真下は、下落合の庭で撮影されたとみられる吉屋信子と門馬千代。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる吉屋信子邸とその周辺。

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カルピスの三島海雲がいたお化け屋敷。 [気になるエトセトラ]

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 カルピスが好物だった中村彝Click!のせいで、こちらでも創業者の三島海雲Click!と絡めて何度かカルピスClick!を取りあげてきた。わたしは学生時代、その三島海雲が住んでいた家の前を、それとは知らずに1年近く何度も毎日往復していた。学生時代にアルバイトをしに通っていた会社が、新宿区の信濃町にあったのだ。
 わたしのバイト先は信濃町駅前から北へ少し歩き、右折して東へ300mほど歩いたところにあった。その道すがらの右手には、CBSソニーの大きな録音スタジオがあったのだが、その斜向かいにボロボロになったお化け屋敷のような西洋館が、樹木に囲まれてひっそりとたたずんでいた。そのときは、「このへんは、めずらしく空襲にも焼け残ったんだな」ぐらいの感慨しか持たなかったのだけれど、このお化け屋敷こそが「デ・ラランデ邸」であり、1956年(昭和31)から三島海雲が暮らしていた家だったのだ。
 アルバイト先の企業は、スーパーマーケットのさまざまなPOPやチラシをデザインして印刷し、それを店舗ごとに仕分けして発送する業務を行っており、わたしは印刷室から上がってきたばかりのPOPやチラシを、リストにもとづいて首都圏に展開する店舗ごとに仕分けする仕事をしていた。コーヒー専門店のカウンターClick!業務に比べたら、はるかに単調で考えたり工夫したりすることも少なく、休み時間にはストレス解消と気分転換のために、デ・ラランデ邸の東側に隣接していた公園で、よくアルバイト先の社員たちと野球やキャッチボールをしたものだ。
 投げたり打ったりしたボールが、細い道路をはさんだ同邸の敷地へ飛んでいったことも何度かあった。そんなときボールを拾いにいくのは、ジャンケンで負けた人が探しにいくことになっていた。誰もが、なにが出てくるかわからない、不気味な幽霊屋敷の敷地へなど入りたくなかったのだ。わたしはジャンケンが強かったので、ボールを探しにいったことは一度もなかったように思うが、いまから考えるとジャンケンなどせず、自ら進んで敷地内にボールを探しにいけばよかったと、心底後悔している。建物をすぐ間近から、ハッキリと仔細に観察できたからだ。
 デ・ラランデ邸の前身が建てられたのは、1892年(明治25)ごろとみられているが、当初は平家建ての住宅で物理学者で気象学者の北尾次郎が住んでいた。その家を、日本で設計事務所を開業していたドイツ人建築家のゲオルグ・デ・ラランデが、1910年(明治43)ごろ全面的に設計しなおし、木造3階建ての大きな西洋館へとリニューアルしたとされている。当時の西洋館では一般的だった下見板張りの外壁に、スレート葺きのマンサード屋根が特徴的な、お化け屋敷とはいえ美しい意匠の西洋館だった。ただし、デ・ラランデはあくまでも北尾家の借家人であり、その後の研究によれば正確には「北尾次郎邸」と表現しなければ誤りのようだ。
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 デ・ラランデは、1910年(明治43)に同邸を改築したとすれば、1914年(大正3)に東京で肺炎が悪化して死去しているので、わずか3年余しか住まなかったことになる。彼の死後、妻が子どもたちを連れてドイツに帰国してしまうと、同邸は北尾次郎とその遺族が所有したまま、さまざまな住人が入れ代わり立ち代わり暮らしたようだ。そして、1956年(昭和31)に三島海雲が同邸を買収すると、1974年(昭和49)に彼が死去するまで暮らしている。三島の死後は、三島食品工業(カルピス)の事務所として1999年(平成11)まで使われていた。わたしがアルバイトで同邸の前を往来していたころは、カルピスの養蜂部門のオフィスとして機能していたことになる。
 そのころのデ・ラランデ邸は、近所からお化け屋敷と呼ばれても仕方がないほど傷んでいて、暗くなってから前を通ると独特な雰囲気を周囲へ発散していた。下落合の西洋館がいくら古いといっても、大正期から昭和初期の建築なので、どこかハイカラで明るい雰囲気を漂わせているのに対し、明治建築の同邸はよくいえば重厚、悪くいえば重苦しい気配を一帯にふりまいていたような記憶がある。
 それは、同邸を包むように大きく育ってしまった屋敷林の陰影が、より暗い雰囲気を演出していたせいなのかもしれないけれど、たとえば同時代に建てられた、よく手入れのゆきとどいている大磯Click!の西洋館などと比べてみると、いまにも朽ち果てそうな、廃屋へ一歩手前のような風情は、なにやら見てはいけないものを見てしまったような気がして、わたしには不気味な印象だけしか残っていない。同邸がついに解体されたと聞いたのは、前世紀の末ごろだったろうか。
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 それから長い歳月が流れ、学生時代のアルバイトをしているときに見た風景など、とうに記憶の片隅から消えてしまいそうになっていたとき、わたしは再びこの西洋館を目にすることになる。2013年(平成25)に、小金井にある江戸東京たてもの園に同邸が復元されたというニュースを、添付された美しいカラー画像とともに知った。最初、復元された同邸の写真と、信濃町にあったお化け屋敷の印象とがあまりにもかけ離れているので、かなり意匠を変えた復元なのではないかなと疑ったが、実際に復元された同邸を近くで眺めてみると、確かに信濃町に建っていたころのファサードと同じなことがわかった。
 これはあとで知ったことだが、信濃町に建っていたデ・ラランデ邸は昭和期にかなりの増改築が行われており、江戸東京たてもの園に復元された同邸は、できるだけ1910年(明治43)に大改築された当初の姿にもどして復元されたようだ。だから、わたしの学生時代に見た同邸の印象と、江戸東京たてもの園のそれとが大きく乖離しているように感じたのだろう。
 また、同邸は園内の日当たりのいい場所に復元されており、信濃町で屋敷林に囲まれて建っていたころの薄暗い風情と、まるで180度異なる環境なのも大きな違和感をおぼえた要因なのかもしれない。しかも、同邸の1階はテラスまで含めてカフェが開店しており、まるで繁華街の店舗のような賑わいを見せていた。
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 わたしが同邸の前を往来していた1981年ごろ、門前には「カルピス」を想起させる表札や看板などは、特になかったように思う。あれば、すぐに気がついていたはずだ。どこかに「三島食品工業株式会社」のプレートはあったのかもしれないが、やはり野球のボールを取りにいくのさえちょっと怖い、いまにも朽ち果てそうなお化け屋敷と「初恋の味・カルピス」とは、どうしても結びつかなかったにちがいない。

◆写真上:1980年代の撮影とみられるデ・ラランデ邸だが、もっと薄暗い印象だった。
◆写真中上は、1947年(昭和22)と1975年(昭和50)撮影の空中写真にみる同邸。1975年の時点では、邸の東側に野球ができるほど拡張された「もとまち公園」が存在していない。は、2013年(平成25)に江戸東京たてもの園で行われた復元工事。
◆写真中下:江戸東京建物園に復元された、デ・ラランデ邸内部の様子。三島食品工業の時代とは、かなり異なる意匠で復元されているとみられる。
◆写真下は、わたしがバイトで通っていた少し前の1979年(昭和54)に撮影された同邸。もとまち公園が東側に拡がり、わたしたちはここで昼休みにキャッチボールや野球をしていた。は、1階にカフェが入る復元された同邸の外観。

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事件です、5億円です! [気になる下落合]

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 1960~70年代にかけ、(城)下町Click!から山手線の外周域へと転居した人たちの中には、1964年(昭和39)の東京オリンピックをきっかけに、住環境の悪化と「町殺し」Click!による「人の住むとこじゃねえや!」の人たちもいれば、地元で小さな会社や店舗をかまえていたのに、「オリンピック景気」のとんでもない地価上昇によって相続税や固定資産税が捻出できず、やむをえず土地を売った(江戸東京方言で「出身地の町を離れた」「引っ越した」の意)人たちも大勢いる。
 地道に仕事や商売をつづけ、生活をしていくおカネぐらいはなんとか工面できていたのに、あずかり知らぬところで「億万長者」になってしまったというケースだ。せっかく先祖から受け継いだ、決して大きいとはいえない会社や店舗を維持・継続する土地があるのに、生活していくだけの現金しか稼げず、愛着のある地元で仕事や商売をつづけられないというジレンマが、多くの家庭でほぼ同時に発生していた。特に、東京35区Click!時代の地域でいえば神田区(千代田区)、麹町区(同)、日本橋区(中央区)、京橋区(同)、麻布区(港区)、芝区(同)、赤坂区(同)といった、(城)下町のコアを形成してきたエリアだ。
 まったく同じことの繰り返しが、20年後のバブル経済まっただ中に置かれた、落合地域のあちこちでも起きている。特に、目白通りに面した商店街のダメージは大きかった。坪あたり数百万円にすぎなかった地価が、アッという間に1千万円を超えたのだからたまらない。48坪(約160m2)前後の店舗敷地に、5億円の値がついた。目白通り沿いの商店や家々は動揺し、浮き足立った。毎日、地上げ屋が目白通りを徘徊し、戦前から地道に商売をつづけていた店舗が、相続税や固定資産税の重課にたえられず、商いに見切りをつけてクシの歯が抜けるように消えていった。
 そのあとにはビルや大型マンションが建ち、大手スーパーやコンビニが進出して小規模な個人商店を圧迫しつづけ、売り上げが減少して地代や税金が捻出できないという、20年前にどこか(城)下町の街角で見た、商店街の「衰退スパイラル」がそのまま進行することになる。当時の変転が激しい目白通りの情景は、わたしにとってもいまだ生々しい記憶として残っている。
 また、高騰する地価に目がくらみ、親族や昔馴染みの借地人が企業や商店をかまえているにもかかわらず、黙って不動産屋に土地を売りわたし挨拶もなしに、さっさと落合地域から離れていった地主もいたようだ。そのようなケースだと、なにも知らされていない会社や店舗では、ある日突然、不動産屋が訪ねてきて「立ち退き」を要求され、驚愕することになる。スズメの涙ほどの「借地権料」(立退き料)をわたされ、数ヶ月以内にすみやかに出ていけというわけだ。1964年(昭和39)の東京オリンピックのあと、まさに下町のあちこちで目にした、デジャビュそのものの情景だ。
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 1980年代の後半、目白通り沿いの商店街は少なからずパニックと疑心暗鬼の渦中にあったらしい。その様子を朝日新聞が取材し、7回にわたる詳細なルポとして連載している。同紙のルポには、次のような出だしで取材意図が語られている。1987年(昭和62)2月4日発行の朝日新聞(東京版/西部)に連載された、「いま下落合四丁目で(1)―ルポ・新集中時代―」から引用してみよう。
  
 都庁が移転する新宿のはずれ、下落合四丁目。起伏のある閑静な街を歩いた。中曽根民活。東京改造。東京新集中時代、とも言われる。どこにでもある何げない街角にも、何かが起きているのではないか、と。統一地方選挙を前に、問う。
  
 このサイトで「下落合4丁目」と書くと、本来の地名Click!である下落合西部の中落合3~4丁目と中井2丁目界隈(旧・下落合4丁目エリア)をイメージされる方も多いと思うので、誤解がないよう念のために書いておくけれど、この記事に限っては現在の下落合4丁目(旧・下落合2丁目エリア)のことだ。
 1980年代になると、目白駅西側の目白通り沿いにはすでにオフィスビルやマンションが建ち並んでいたが、駅前から西へ6~7分ほど歩いた下落合4丁目の通り沿いには、いまだ個人商店の数が多く、1951年(昭和26)より「目白通りニコニコ商店街」が結成されていた。大型スーパーの進出にあたり、商店街が一致団結して商品搬入を阻止したエピソードさえ残されている。同年2月6日の朝日新聞に掲載された、「いま下落合四丁目で(3)―ルポ・新集中時代―」から引用してみよう。
  
 創立三十五周年に当たった去年(1986年)の歳末大売り出し。商店街から恒例のキラキラした飾り付けが、なくなった。役員会の議論は、延々二時間に及んだ。「景気づけには、ぜひものだ」「歯抜けの商店街には、似つかわしくない」「費用十六万円もきつい」。最後に会長が、「ま、やめましょう」とまとめた。/飾り付けを強く主張した洋品雑貨店は、大売出しから抜けた。/八年前(1979年)の話だが、会長は「あの時は……」と思い出す。当時、近くに大型スーパーができた。客を取られ、商店会がすたれるのは、目に見えている。ほかの商店会とともに、「商品の搬入を阻止しよう」ということになった。/一回は、強行突破された。その晩から、スーパーの入り口前に泊まり込んだ。「ニコニコ」は、いつも二十-三十人を動員し、トラックの前に立ちはだかった。「若かったから、できたんですよ」。(カッコ内引用者註)
  
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 1970年代の末、進出してくる大型スーパーの前にピケを張るほど、団結力を誇っていた目白通り沿いの商店会は、わずか8年後には大売出しの飾りつけでさえ寄り合いの意見が割れ、歳末イベントから撤退する店舗まで現れている。文字どおり、クシの歯が抜けるように通りから商店が消えつづけたのは、それほど「1坪=1千万円」というカネの威力も大きかったのだろう。
 慰安旅行もかねた、「目白通りニコニコ商店会」新年会の参加人数にも、大きな変化が表れている。1980年代の初め、慰安旅行=新年会への参加者は50名を数えていたのに、同紙ルポが連載された1987年(昭和62)の時点ではわずか16名しか集まらなかった。同商店会の寄り合いがあると、いっそのこと「目白通りニコニコしてない商店会」にしたらどうか?……などという、なかば自虐的で、どこかあきらめが漂う冗談が囁かれていたと、同ルポの記者は書きとめている。
 バブルの崩壊をくぐり抜け、なんとか生き残った店舗も、現在はネットの普及でさらに厳しい状況に置かれているのではないだろうか。個人商店がつぶれ、すべてが大資本による均一化された品揃えやサービスになってしまったら、周辺に住む消費者としてもまったく面白くない。また、個性が消えアイデンティティが希薄になった、ならではの「地域性」や「地域文化」が不明な街に、人々は集まろうとはしないだろう。目抜き通りClick!に展開する商店街の衰退は、そこに住む住民たちの“脆弱化”に直結することを、過去に起きた(城)下町の多彩なケーススタディが教えてくれる。
 1980年代の狂乱地価は、家々の借地代ばかりでなくアパートやマンションなど集合住宅の賃料にもハネ返った。当時、下落合にあった古めな木造アパートの1DKの家賃は6万円。部屋を借りていたのは、近くにある大学の研究室に勤務する独身の女性で、下落合の街並みが気に入ってようやく探しあてたリーズナブルな物件だった。ところが、入居後わずか7ヶ月で大家から立ち退いてほしいと告げられた。大家が不動産屋を介して、アパートを丸ごと売り出したからだ。
 同一条件の物件は下落合に存在せず、彼女は都立家政や下井草、鷺宮まで探しまわったが、もはや6万円で1DKの部屋が借りられるアパートは、千葉県の浦安までいかなければなかった。彼女は、家賃条件を6万から7万に上げ、鷺宮にアパートを見つけて転居している。ちなみに、大家が売り出したアパートは山手線・目白駅Click!徒歩12分、一種住専、土地152.52m2(約46坪)の広さで1987年(昭和62)2月現在、3億9百万円だった。
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 「女性雑誌に載っているようなマンション住まいなんて、夢ですよ。寝る広ささえあれば、あとは入れ物に合わせて、生活するだけ。でも、ホント、今回はラッキーだったわ」と、彼女は記者の取材に笑って答えている。「億ション」という言葉が生まれたのも、ちょうどそのころのことだ。

◆写真上:1987年(昭和62)2月に、ピーコックストアが入る目白ビルの上階から南を向いて撮影された家並み。右手前に見えているのが、建て替えられる前の早川邸、手前の屋敷林は今年(2018年)解体された柿原邸、上部に見えている横長のアパートが東京電力林泉園寮、そして向こう側の家々が旧・東邦電力林泉園住宅地跡。
◆写真中上は、目白通りのショーウィンドウに映る解体業者のスタッフ。(粒子の粗いモノクロ画面は同紙ルポより) は、1979年(昭和54)に撮影された下落合4丁目界隈の目白通り。は、現在(2018年)の同一場所。(Google Earthより)
◆写真中下は、解体後の店舗跡に置かれた引っ越しの遺物。下左は、丘上から望遠レンズで撮影した新宿駅方面。下右は、住民が消えた古いアパートのガスの元栓。
◆写真下は、タクシーから眺めた下落合4丁目の目白通り。まだ、通りの上に見える空が広い。は、1980年代に目白通りの目白アベニューマンションあたりから撮影された新宿方面。目白中学校Click!跡地に建てられた、画面下の西洋館は今年(2018年)になって解体された。は、藤田家Click!が昭和初期に建てた解体される前の西洋館。

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大正初期の下落合を散歩する。 [気になる下落合]

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 これまで、目白中学校Click!で発行されていた校友誌「桂蔭」Click!や、学習院昭和寮Click!の寮誌「昭和」Click!などを引用しながら、大正後期から昭和初期にかけての「下落合散歩」と、その周辺に拡がる風情をご紹介してきた。だが、大正前期に描写された風景は、若山牧水Click!の「下落合散歩」ぐらいしか記事にしていない。
 今回は、若山牧水が記録したのとほぼ同時期の、下落合とその周辺域に拡がる風景の中を「散歩」してみたいと思う。大正初期の下落合は、いまだ東京近郊の農村地帯そのものの姿をしていただろう。開墾がむずかしい、目白崖線の斜面沿いには深い森がつづき、その森の中にはところどころに華族の別荘や山荘が点在するような風情だった。
 もっとも賑やかだったのは、江戸期からつづく下落合と長崎にはさまれた清戸道Click!(せいとどう=目白通り)沿いの「椎名町」Click!界隈だった。現在の西武池袋線・椎名町駅周辺のことではなく、山手通り(環六)と目白通りの交差点あたりを中心に東西へ250mほど、全長500mほどに細長く開けていた街道沿いの街並みのことだ。目白停車場Click!駅前Click!や周辺も、ポツポツ開発されはじめてはいたが、繁華な賑わいからいえば長崎村椎名町、あるいは落合村椎名町ほどではなかった。
 当時の目白通りの様子を、岩本通雄『江戸彼岸櫻』(私家版)から引用してみよう。岩本通雄は、現在の目白聖公会の並びあたりで生まれ育っている。ただし、同書は改めて当時の状況を正確に調べ直してから執筆されたものではなく、自身の記憶のみに依存して書かれたとみられるので、不正確な記述や錯覚が多いことをあらかじめ了解いただきたい。
  
 目白駅から一丁程西に目白街道を歩いて、落合村の入口にはドイツ風のきびしい鉄門と大理石の柱が立つ戸田子爵邸がありましたが、このお屋敷中が深く砂利道で、二、三町歩いてもお屋敷が見えません。あきらめて、今度は門の所から石塀に沿うて北に歩きますと、四、五町歩いて漸く裏口に出ました。池袋から出る武蔵野鉄道(後の西武鉄道)の椎名町の駅近くになります。そして裏口の傍らには、サーベルをさげたカイゼル髭を立てた老警官が立って辺りを睨んでおりました。/明治、大正の時代はこのようにお金を出して、警官の派出所を設けることが出来たのでした。当時の言葉ではこれを請願巡査派出所と申しました。/この戸田さんのお屋敷は後に、徳川義親公のお屋敷となり、(中略) 私、通雄などは小さかったので、温室にぶらさがっている網かけメロンに目を輝かせておりました。公はクロレラも世にさきがけて研究され、栽培されておりました。/駅通りにあった戸田子爵邸の鉄門の前を南に横丁を辿りますと、近衛篤麿公爵五万坪の広い森に突き当たります。/この森は公の死後、当時の心ある政治家はおおむね、死後、井戸塀だけが残るのでして、近衛さんもこの譬に恥じず遂に、堤康次郎の手に渡り、日本最初の大文化村として小さく分割され、販売されてしまいました。
  
 さて、大正初期の下落合の様子をなんとなく感じとれる文章なのだが、このサイトをいつもお読みの方なら、あちこちに誤記憶やまちがいを発見されるだろう。
 確かに、戸田康保邸Click!の正門は下落合村の「入口」、つまり目白通りの北側へ三角形状に張りだした下落合の端にあったけれど、戸田邸は高田町雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)で落合村ではない。また、戸田邸の西端は「椎名町の駅近く」ではなく、同駅までは直線距離でまだ700mも離れている。のちに徳川義親Click!が戸田家から敷地を譲りうけ、Click!を建設して転居してくるのは1933~34年(昭和8~9)のことなので、1909年(明治42)生まれの岩本通雄はそのとき、すでに24歳の大人になっていたはずだ。小さい子どもの「私」が、目を輝かせながら見上げた「網かけメロン」は、温室栽培が趣味だった戸田康保の大温室の情景だろう。
 同文の中で、記憶の混乱はまだある。1922年(大正11)に堤康次郎Click!箱根土地Click!が開発したのは、目白駅から離れた下落合中部の目白文化村Click!であって、目白駅が間近な下落合の丘上にある近衛町Click!ではない。近衛篤麿邸の敷地は、息子の近衛文麿Click!と学習院で同窓だった東京土地住宅Click!の常務取締役・三宅勘一Click!が、協同で近衛町開発プロジェクトを立ち上げ、目白文化村と同年に売り出したものだ。近衛町の開発を箱根土地が引き継いだのは、東京土地住宅の経営が破たんした1925年(大正14)以降のことだ。
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 ウロ憶えの情景を、そのまま文章化しているせいか誤記がまま見られるけれど、およそ大正初期の下落合風景をうっすらと感じとることができる。以下、つづけて近衛町が開発される前の近衛篤麿邸跡に拡がる、深い森の情景から引用してみよう。
  
 子供の時の大きな遊び場所、夏など蝉をよくとりに行きました奥深い森は、私達の眼から消えて行ってしまいました。他人のことながら私は残念で、何か覚えていてやろうと考えて、今だ(ママ)に私の頭に残っているのはちっこい二階建の洋館の玄関についていた恨みの表札です。/帆足計。早稲田大学の先生だそうですが、世の中のうつり変り、幸、不幸を見聞きするにつけ、恐らく私には永久に忘れられない名字でしょう。相手は御公卿さんです。恐らくこれが堤さん初期の資産を形成したのではなかったでしょうか。/「上つ方」の話をなしにすると、「目白」の異った特色は又鮮かに現れて来ます。/目白駅から池袋へ向う国鉄は高台を深く掘って崖の下を走ります。/その崖の左側に洋画家、梅原龍三郎氏のアトリエがあり、戸田子爵の裏口、髭の巡査の立っていた所から西へ小半町で、日露戦争の前、ドイツからの帰途ベルリンからシベリアを単騎横断した勇者、福島安正陸軍大将五百坪の家があり、南に向い街道に近づくと、石川家と「お花さん」の家かためて三百坪、これぞ小生生誕の地でありました。
  
 帆足計の連れ合いである帆足みゆきClick!が設計した、帆足邸Click!がヤリ玉にあげられて「恨み」をかっているが、帆足家が近衛町の敷地を購入したのは東京土地住宅からで、堤康次郎の箱根土地からではない。
 国立公文書館に残された、東京土地住宅の「近衛町地割図」Click!を参照すると、1923~24年(大正12~13)の時点、つまり東京土地住宅が破たんする以前に、帆足邸の敷地「近衛町41号」(北半分の三角地)は販売済みであり、すでに帆足家が購入しているのが明らかだ。ここに、中村式コンクリートブロックClick!工法の「ちっこい二階建」の西洋館が竣工するのは、東京土地住宅が経営破たんするのと同年、1925年(大正14)のことだった。堤康次郎とともに帆足計までが、事実誤認のとんだ濡れぎぬで“逆恨み”をかっていたことになる。
 また、堤康次郎が「初期の資産を形成した」のは、大正前期から中期にかけての伊豆・箱根や軽井沢での別荘地開発と遊園地の設立、東京護謨の起業、高田農商銀行Click!などをはじめとする金融機関の買収などからであって、下落合の宅地開発はそのあとの時代だ。近衛町の開発を主導していたのは、東京土地住宅の三宅勘一常務とともに、学友だった「相手は御公卿さん」の近衛文麿だ。「御公卿さん」がボンヤリして、世情にうとかった時代はとうに終わっている。
 山手線の線路沿いにアトリエがあった「梅原龍三郎」も、高田町大原1673番地(現・目白3丁目)に住んでいた安井曾太郎Click!の誤りだ。安井はこのあと、岩本通雄が堤康次郎の開発と勘違いして忌み嫌った、近衛町の下落合1丁目404番地にアトリエClick!を建設して転居してくる。
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古口運送店1925.jpg 古口運送店1926.jpg
比留間運送部1925.jpg
 下落合の崖線下の風景も記録されているので、記事が長くなるが引用してみよう。
  
 夏になりますと、連日の貨物運送に馬も疲弊したり、脚を痛めたりします。/古口(こぐち)さんの馬子のじいさんが、私に声を掛けて来ます。/「通ちゃん。川へ行こうか」/私は早速家を飛び出して、馬子のじいちゃんの引出した馬に乗せて貰います。/夏の間のこの馬との散歩は、私には大なる野心があったのです。/馬はかねてから知っている道ですから、落合一丁目古口さんの厩から二丁目の町はずれを南に曲って、少しだらだらと坂を降りて行きますと、目白の裾を流れる神田川(ママ)に突き当ります。/村の人達のお米や粉をひく水車小屋があります。水はきれいで澄んでいます。馬は何もいわれないのに、川の中へ歩み入って、水を飲んだり、あたりを少し歩いたりしておとなしくしていました。/私は馬から降りて、川底を探って見ると、相変らず、手に一杯しじみが掴めました。私の家族三人が朝必要とするしじみの分量位はあっという間にとれてしまいます。/馬子のおじいちゃんは、川岸の堤の所で鉈豆煙管をすぱすぱやったり、掌にすいがらを落したりしています。
  
 古口運送店は、もともと目白駅が地上駅時代には駅前、すなわち高田町金久保沢1127番地(現・目白3丁目)あたりにあったのだが、1922年(大正11)秋に目白橋西詰めとつながる橋上駅が竣工すると、目白通り沿いに移転している。岩本通雄は「落合一丁目」と書いているが、移転先の正確な地番は高田町金久保沢1114番地だった。同運送店は、1925年(大正14)の「商工地図」Click!(地上駅表現のまま)でも、また翌1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」(橋上駅化後の表現)でも確認することができる。
 さて、古口運送店にいた「じいちゃん」の馬子は、馬をどのような道筋で旧・神田上水(1966年より神田川)へ連れていったのだろうか。「二丁目の町はずれ」という曖昧な表現で書かれているが、もちろん大正前期には住所表記の「丁目」など下落合に存在しない。この「丁目」を、江戸期からの“お約束”や感覚にもとづく通称としてとらえるなら、先の「落合一丁目」から類推すると、街並み(商店街や住宅地)がいったん途切れるあたり、つまり「一丁目」は目白中学校Click!の西側接道で途切れ、「二丁目」は目白福音教会の西側接道で途切れるあたり……と解釈できるだろうか。
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 古口の「じいちゃん」が、馬の背に岩本通雄を乗せて連れ下りたのは、傾斜が比較的ゆるやかだった七曲坂Click!の道筋であり、坂を下りきった下落合氷川明神社Click!の先、南北に大きく蛇行を繰り返す旧・神田上水には、旧・田島橋Click!の西側に位置する東耕地の水車小屋Click!が、製粉の音をゴットンゴットン響かせていたはずだ。古口の「じいちゃん」は、鎌倉期に拓かれ幕府の騎馬軍団Click!の通行を考慮した切通し状の七曲坂Click!が、馬の上り下りにはやさしいことを知悉していたのだ。

◆写真上:旧・戸田邸の敷地跡に開発された、「徳川ビレッジ」の住宅街。2階建てで7LDKタイプの標準住宅だと、敷金4ヶ月で家賃は150万円/月だとか。
◆写真中上は、岩本通雄が生まれた1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる下落合界隈。は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」に描かれた戸田康保邸。は、1919年(大正8)に撮影された戸田邸の大温室。
◆写真中下は、1925年(大正14)の「商工地図」に掲載された古口運送店の広告。中左は、同年の「商工地図」に採取された地上駅前の古口運送店。中右は、橋上駅化された目白駅前に移転した同店。は、下落合481番地あたりにあった比留間運送部。1903年(明治36)より目白駅で貨物Click!の扱いがスタートすると、それを当てこんだ運送業と倉庫業が急増しており、同運送部でも馬を飼っていただろう。
◆写真下は、古口運送店にいた「じいちゃん」が馬とともに旧・神田上水まで散歩したコース。は、エレベータ―の設置で解体される旧・目白駅の階段。

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壺井栄に張り倒された中野鈴子。 [気になる下落合]

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 夫である壺井繁治Click!が、二度と政治活動は行わないと「転向」を表明し、1934年(昭和9)5月に豊多摩刑務所Click!から保釈されたあと、壺井栄Click!は留守番をしていた上落合(1丁目)503番地の借家を解約している。子どもも含めた一家は、いったん壺井繁治の故郷である四国の高松へと帰郷したものの、地元の警察が面倒を避けたかったのだろう、「どうか、1日でも早く東京へ引き揚げてくれ」とうるさいので、壺井一家は再び上落合(2丁目)549番地の借家へと舞いもどっている。
 壺井繁治はその家から、岡田復三郎が起ち上げた現代文化社に通勤するようになった。現代文化社は、壺井繁治の保釈とほぼ同時の1934年(昭和9)6月に、雑誌「進歩」を創刊している。当時の複雑な心境を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された壺井繁治『激流の魚・壺井繁治自伝』から引用してみよう。
  
 (前略)わたし自身についていえば、戦争とファシズムに反対する共産主義運動の組織から離脱したが、共産主義思想そのものの正しさを否定しているわけではなかった。だから戦争の拡大とファシズムの激化という外的現実は、自分の内部的論理と常に摩擦を起こさずにはいられなかった。けれども自分の内部的論理が、戦争とファシズムという現実と対決して行動の論理に転嫁し、実践化されるためには、その論理と分かち難く融合して統一された主体を構成しなければならぬ感性が傷つき、挫折していた。その傷を癒やすこと、挫折からもう一度起ち上がろうとすること自体が、辛うじて戦争とファシズムへの対決であった。
  
 壺井繁治は、「内部的論理」と外部的な「行動の論理」とに矛盾を抱える、「転向」者として苦悩していた。その苦悩や葛藤は、妻の壺井栄Click!にもひしひし伝わっていただろう。だが、壺井栄は相変わらず獄中の“同志”を支援しつづけ、宮本百合子Click!窪川稲子(佐多稲子)Click!中野鈴子Click!らとともに「働く婦人」を編集しつづけており、「内部的論理」と「行動の論理」が統合された世界に生きていた。壺井繁治は、沈黙する妻との乖離感に、少なからず息苦しさをおぼえていたにちがいない。
 壺井繁治は、翌1935年(昭和10)になると現代文化社の岡田復三郎を説きふせ、詩誌「太鼓」を創刊している。解体されてメディアを失った、日本プロレタリア作家同盟に参加していた詩人たちを集め、再び文学活動を再開するのがおもな目的だった。当時の心情を、壺井繁治は詩に託して詠んでいる。
  
 あの標本室には/わたしの死骸が並んでいる/たくさんの仲間と共に/ピンで止められて/喪章の如く静かに
 それなのに/あの痩せて尖った昆虫学者は/首をひねりひねり/考えこんでいる/ときどきわたしの翅が/微かに動くので/こいつ/まだ死にきれぬのか/太い野郎だ/それとも風のせいかな/そういって/昆虫学者はぴしゃりと窓を閉めた
  
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 1935年(昭和10)11月に創刊された詩誌「太鼓」には、巻頭論文として小熊秀雄Click!の『風刺詩の場合』が掲載されている。また、壺井繁治自身は“からめ手”から政府を批判し、英米語の排斥運動を行う国粋主義者たちを揶揄する、風刺詩「英語ぎらい」を発表した。そのほか、金子光晴や松田解子、森山啓、大江満雄、新島繁など発表のメディアを奪われた詩人たちが作品を寄せている。そして、同じ創刊号には中野鈴子の詩『一家』と、随筆『「父親しるす」について』が掲載されている。
 壺井繁治と中野鈴子が急速に親しくなったのは、詩誌「太鼓」の創刊号を準備していたころ、すなわち1935年(昭和10)の秋ごろからだと思われる。そして、ふたりの関係が壺井栄にバレたのが、翌1936年(昭和11)4月ごろのことだといわれている。壺井栄は、ふだん温厚な彼女にしてはめずらしく激高した。
 壺井夫妻は、中野重治Click!原泉Click!夫妻と妹の中野鈴子とは家族ぐるみの付き合いであり、特に中野鈴子とは戸塚(4丁目)593番地の窪川鶴次郎・稲子邸Click!でつづけられていた、雑誌「働く婦人」の編集仲間でもあった。だから、ごく親しい友人であり同志、というか7つ年下の妹のような存在に裏切られたという意識から、ことさら強いショックを受けたのだろう。まるで、鎌田敏夫のドラマ『金曜日の妻たちへ』のような展開だが、謝罪に訪れた中野鈴子の横っ面を、壺井栄は思いきり張り倒して泣きわめいた。それでスッキリしたのか、壺井栄は中野鈴子を許している。
 「転向」をめぐり、妻との間にできてしまった溝からくるさびしさや不安を、壺井繁治はいつも明るく少し“天然”でトボけた中野鈴子と付き合うことで、まぎらわせようとしたのかもしれない。同じようなことが、窪川稲子(佐多稲子)Click!と夫の窪川鶴次郎との間でも起きている。夫の「転向」に対し、揺るがずに活動をつづける妻たちを目の当たりにした夫たちは、自身の敗北感や挫折感をイヤというほど味わされ、徐々に妻を鬱陶しく煙たい存在として意識していたのかもしれない。
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 壺井栄は晩年、川西政明Click!のインタビューに応じ、「今でも思い出すと恥かしいと思う。だから私は、金輪際その時のことを誰にも口に出さなかったのよ。普通なら夫婦別れもしたかもしれないわ。だけどさ、私には、自分の選んだ結婚を、築き上げてゆかねばならないという責任と云ったら偉そうだけど、くだいて云えば意地もあったろうし、おやじ(繁治)と別れられなかったんだね」(『新・日本文壇史』第4巻・岩波書店/2010年)と、しみじみ答えている。
 中野鈴子は、さっそく壺井繁治と訣別したあと、壺井栄あてに10通もの詫び状を書いている。これを読んだら、壺井繁治の立つ瀬はまったくなかっただろう。
  
 わたしは、栄さんが壺井さんがそんなに公明正大なのに対して、私は何と云ふうそつきで不正直なのでせう。わたしは自分の不正直さをみんなこゝに申上げまして改めて御了解して頂きたいと思います。わたしが中条さんいね子さんに壺井さんを悪く云ふと云ふことを結果においてさうなりましたかも分かりません。/わたしは、自分のあの当時のことを正直に告白して、そして、壺井さんを悪いやうに云ふてあることについては徹底的に取り消します。責任をもつて取り消します。そして深くお詫び申し上げます。(中略) ありのまゝを申し上げました。この手紙は書きあやまりのないやうに注意をして書きました。この手紙のまゝですと、わたしの気持ちの中には壺井さんに対して心が残ツてゐると理解になりますかと思います。/自然な心持としてはのこりますのが本当かも分りません。昨日までは、わたしは残つてゐないと自分に思い込んでゐました。しかし、鏡に映し出されゝばのこつてゐるかも分りません。けれども、これは、わたしは自分の責任として、背負います。と同時に、一日も早く、忘れてしまいたいと思いますし、出発点のことや、自分の犯したことに対する反省と良心とで消し去るものであることを信じます。わたしは改めて、もう決して、不正なことはしない決心でをります。決して自分をあまやかしたりしないことを誓います。
  
 既婚者を好きになることが、今日的な倫理観からみれば総じて「不正」なことなのかどうかは別にして、壺井栄は彼女の真摯で一途な姿勢を受け入れたのだろう。
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 壺井繁治の『激流の魚・壺井繁治自伝』には、もちろん中野鈴子との関係はまったく触れられていない。現代文化社から刊行された詩誌「太鼓」は、壺井繁治が「転向」直後に模索したきわめて重要な抵抗のかたちであり、印象的なエピソードであるにもかかわらず、サラッと1ページほどの記述で済ませている。そして、すぐにも上落合のサンチョクラブClick!結成へと話を進めている裏側には、ふだんはニコニコと温厚な壺井栄がかいま見せた修羅が、彼にはよほどこたえ、怖かったものだろうか。

◆写真上:上落合(2丁目)549番地にあった、壺井繁治・栄夫妻邸跡を東側の接道から。
◆写真中上は、豊多摩刑務所(のち中野刑務所)の正門。は、同刑務所正門の扉を内側から。下は、1960年代の撮影とみられる同刑務所の独居房。
◆写真中下は、上落合(2丁目)549番地の壺井繁治・栄夫妻邸跡(正面)を西側の路地から。は、1940年(昭和15)に撮影された壺井栄。下左は、1959年(昭和34)に撮影された壺井繁治。下右は、1939年(昭和13)ごろ撮影の中野鈴子。
◆写真下は、上落合(2丁目)783番地のサンチョクラブ跡。は、鷺宮の自邸で1960年代半ばごろに撮影された壺井繁治と晩年の壺井栄。

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大正期に落合地域へ集合する工務店。 [気になる下落合]

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 以前、下落合768番地に事務所をかまえていた服部政吉Click!が経営する、服部建築土木請負い事務所Click!(工務店)について記事を書いたことがある。服部工務店は、下落合の同社周辺に建っていた住宅建設を請け負っていると思われ、また新宿中村屋Click!の建築(中村屋会館)なども手がけたことが判明している。
 おそらく、郊外住宅地として注目されはじめた大正中期ごろ、下落合に事務所をかまえて営業をスタートしていると思われ、大正末の1/10,000地形図にはすでに社屋とみられる建物が採取されている。服部工務店は、建築の設計士(2名)から施工の大工たち、屋根を葺く瓦職人まで抱えており、同社に建築を依頼すれば設計から竣工まで、ワンストップで住宅や施設が建てられるような組織になっていた。
 大正期から、下落合のあちこちで確認できる建築土木請負い業(工務店)だが、もっとも早くから進出していたのが、明治末から計画が進み大正初期には建設がはじまっていた、落合府営住宅Click!の周辺域だろう。落合府営住宅の敷地は、堤康次郎Click!が東京府に寄付したもので、郊外遊園地「新宿園」Click!と同様に、遊園地「不動園」Click!のマーケット形成が目的だったとみられる。
 しかし、開発状況の進捗を見つつ、入場者数の推移と維持費との採算が合わないと判断したのか、あるいは当初からの目論見だったのかは曖昧だが、堤康次郎は不動園のプロジェクトを突然中止すると、目白文化村Click!の建設計画に切り替えている。落合府営住宅の連続的な建設(落合第一府営住宅~第四府営住宅)とともに、この箱根土地Click!の大規模な開発計画を知った市街地の工務店は、高い建築需要が見こめると踏んで落合地域への社屋移転を考えただろう。
 落合府営住宅は、東京府の制度を利用して住宅建設資金を積み立ててきたオーナーが、好みの意匠の住宅を建てられる仕組みだった。したがって、工務店も自由に選択することができ、長期にわたり面倒をみてもらえそうな、下落合とその周辺域が地元の工務店に依頼するケースも多かっただろう。箱根土地の建築部にも設計士や大工たちがいて、盛んにモデルハウス(西洋館)も建設し文化村の敷地内に展示していたが、目白文化村に建っていた住宅の大半は同社の仕事ではない。おそらく、地元の工務店が建てた住宅も少なくはなかっただろう。
 冒頭の写真は、落合第三府営住宅の近くで営業をしていた、下落合1536番地の宮川工務店の社屋だ。第一文化村に近接した北西、落合第二府営住宅のすぐ西側にあたる位置で開業していた。1925年(大正14)に撮影されたもので、当時の「大日本職業別明細図」(通称「商工地図」Click!)に広告入りで掲載されている。社屋とはいえ、まるで目白文化村か近衛町Click!に建っていそうな西洋館の意匠をしており、同社のオフィス自体がモデルハウス(自宅兼用)として機能していたのかもしれない。社主は宮川操という人物だが、残念ながら『落合町誌』(1932年)には収録されていない。
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 さて、宮川工務店から東北東へ150mほど、落合第二府営住宅の北側で目白通りに面した位置に、もうひとつ石井菊次郎が経営する石井工務店が営業していた。現在の街並みでいうと、長崎バス通りの出口にある二又交番の、目白通りをはさんで向かいにあたる位置、当時の地番でいうと下落合1521番地で開業していた。社屋の写真が残る宮川工務店よりも、むしろ目白通りに面した石井工務店のほうが、事業の規模が大きかったかもしれない。なぜなら、1926年(大正15)発行の「下落合事情明細図」を参照すると、宮川工務店の南側に「石井石材店」(下落合1597番地)が採取されており、石井工務店の系列会社だった可能性があるからだ。
 石井石材店は、1925年(大正14)発行の「商工地図」や「出前地図」には広告も含め掲載されていないが、翌年の「下落合事情明細図」には店舗が採取されている。また、13年後の「火保図」(1938年)では、すでに石井石材店の敷地へ一般の住宅が2棟建設されているので、おそらく下落合での営業期間は10年ほどではなかったかとみられる。当時の石材店は、宅地開発の築垣や塀、礎石、縁石、側溝のフタなどに用いられた大谷石に代表される石材をはじめ、住宅の庭石までを幅広く手がけているが、同時代の広告でもよく見かけるように、商材にはセメントも扱っていた。
 石井工務店の石井菊次郎もまた、宮川操と同様に『落合町誌』(1932年)の人物事業編には、残念ながら収録されていないので、どのような人物だったかは不明だ。
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 1925年(大正14)発行の「商工地図」には、落合地域から宮川工務店と石井工務店の2社だけが、裏面に広告を掲載している。また、石材店では小野大理石工場と宇田川石材店の2社がエントリーしている。おそらく、大正期に入ると郊外住宅地の大規模開発をあてこんで、多くの工務店や石材店、材木店、塗装店などが市街地から移転してきて、落合地域やその周辺域で事業をスタートしているのだろう。
 最後に余談だが、宮川工務店から第一文化村の方角(東側)へ向かう道をたどり、目白通り(小野田製油所Click!のある角地)へと出られる三間道路の左手に、「下落合事情明細図」(1926年)には「萩ノ湯」Click!(下落合1534番地)という名称で採取されている銭湯があった。この銭湯は、少し前まで「萩ノ湯」→「伊乃湯」→「人生浴場」という店名の変遷だと思っていたが、大正期の「萩ノ湯」のあとに、「第一美名登湯」という店名時代のあったことが、「火保図」を参照していて判明した。
 したがって、近隣の方々にはおなじみのこの銭湯は、大正期(おそらく創業時)から昭和初期にかけては「萩ノ湯」、1930年代後半から戦時中ぐらいまでが「第一美名登湯」、戦後から1960年代末ぐらいまでが「伊乃湯」、そして1970年代から廃業するまでの間が「人生浴場」……という経緯だったようだ。
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 わたしがアパート暮らしをしていた学生時代、最寄りの銭湯「久の湯」(旧・仲の湯)が休業のとき、たまに通った際の店名は「人生浴場」だったことになる。年に数回、ほんのたまにしか出かけない銭湯だったので、目白文化村に直近のこの店名の記憶がない。その裏側わずか40mほどの西寄りに、宮川工務店は開業していたことになる。

◆写真上:1925年(大正14)に撮影された、下落合1536番地の宮川工務店。まるで文化村住宅のような社屋で、同社のモデルハウスも兼ねていたのかもしれない。
◆写真中上は、1925年(大正14)の「商工地図」に掲載された宮川(操)工務店と石井(菊次郎)工務店。宮川工務店の位置を、まちがえて記載している。は、同地図裏面に掲載された宮川工務店と石井工務店の広告で、宮川工務店には電話が引かれていた。は、1925年(大正14)作成の「出前地図」(南北が逆)にみる宮川工務店。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる宮川工務店。は、1938年(昭和13)発行の「火保図」にみる宮川工務店。は、二度にわたる空襲から焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる宮川工務店。
◆写真下は、1925年(大正14)の「出前地図」(南北が逆)にみる石井工務店。は、同年の「商工地図」裏に掲載された石材店。は、宮川工務店跡の現状。(右手)

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未来生活先どりの山本忠興と帆足みゆき。 [気になる下落合]

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 1927年(昭和2)4月20日発行の「アサヒグラフ」に、下落合404番地の近衛町Click!に住んでいた随筆家で評論家の帆足みゆきClick!と、目白駅東側の高田町四ッ家1417番地(現・高田2丁目)に住んでいた早大理工科教授の山本忠興Click!が、くしくも同じページで家電製品についてのエッセイを書いている。特に山本忠興の住宅は以前、「オール電化の家」Click!としてご紹介していた。
 山本忠興は、同誌に『家庭電化の妙味』というタイトルで書いているが、今日ではあたりまえに使われている家電製品の出現を、大正時代が終わったばかりのこの時期に、正確に予測しているのが驚きだ。同誌から、少し引用してみよう。
  
 無線電信、無線電話の発達により世界の隅々まで通信が可能になつた事 殊に「ラヂオ」の放送により家庭の娯楽と実用に貢献する処甚だ大で一日を通じて労苦の多き婦人達の為に慰安の種となるのは何より新慶事であります。欧州と米国との間に無線電信で橋渡しされて電話が自由に通ずるに至つた事や写真の電送の実施された事は孰れも人間の耳と眼を世界の隅々まで働かすと同じ訳でやがては活動写真の無線伝送も実現さるゝはずで地球が次第に小さく感ぜらる様な思ひが致します。
  
 文中の「活動写真の無線伝送」は、今日のテレビのことだが、この記事から3年後の1930年(昭和5)には、山本忠興と川原田政太郎らの手によって「早稲田式テレビジョン」の開発に成功している。
 最初に早稲田式テレビで放送されたのは、早大戸塚球場Click!(のち安部球場)で行われた大学野球の試合だった。戸塚球場で撮影した映像を、早大キャンパスの理工学部まで電送している。ただし、のちのブラウン管形式のテレビではなく、今日のプロジェクターのようなスクリーン投影型だったため、日本の住環境では一般に普及しなかった。
 また、エアコンや真空掃除機、食洗器、電動ミシン、精米機など、戦後の家庭に普及しはじめる家電製品はおろか、自動ドアや家事ロボット、飛行自動車などを「ナンセンス」と断りながらも“予言”している。
  
 家庭用電熱器としまして電気熨斗(ゆのし)は既に普及してをります又温湯発生用にも便利でありますが稍々入費が多い嫌いがあります。これは全く正反対の応用ではありますが電気により冷蔵用の製氷も可能でありまして調法な形の品も出来てをり夏期食料品の保存や冷たき飲料を得る上に欠き難い品であります。今に室内の空気を冷たくするために電気冷却装置の応用を見るではないかとも思はれます。(中略) その他真空掃除機は塵埃を徹底的に取り去り、「ミシン」に小電動機を付加すれば足踏器を略する事が出来ます。なほ皿洗、精米、その他人力を省きて電動機に託することは人間の活動の利用上意味深い事でありましてこれがために消費する電力量は極めて些少に過ぎぬものであります。
  
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 「電気熨斗」とは電気アイロンのことだが、当時は鉄の器に焼けた炭を入れ、服のシワを延ばす火熨斗(ひのし)が一般的に使われていた。
 山本忠興が「些少に過ぎぬ」といっているのは、手間がかかる家事の負担を軽減する効果に比べれば、電気料金などたかが知れているという意味合いも含まれている。それは、主婦の労働負荷の軽減課題のみにとどまらず、当時の中流以上の家庭においては家電を積極的に導入することで、女中の人数を減らし人件費を抑制するという、より大きなテーマがからんでいたからだ。
 そのテーマを徹底的に追求したのが、近衛町に住んだ帆足みゆきだった。彼女は長い米国留学の経験があり、夫の帆足理一郎Click!とも米国で知り合っている。したがって、徹底した合理主義的な思想の持ち主で、近衛町の中村式コンクリートブロックClick!による自邸建設も、およそ彼女が設計を仕切っていたようだ。
 そして、彼女がめざしたのは、邸内に「女中をおかないこと」だった。昭和初期の女中にかかる人件費は、食事つきの住みこみで月々軽く30円は超えていた。1年で360円、それに光熱費や必要経費を加えると、かなりの出費を覚悟しなければならない。そのぶん、家電製品を積極的に導入して「生活能率増進」をめざせば、女中がひとりもいなくても生活できると考えたようだ。これも米国生活で学んだ、彼女ならではの合理精神なのだろう。当時、中流以上の広い邸で女中のいない家庭は、きわめてめずらしかった。
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 同誌掲載の、帆足みゆき『能率本位の家庭』から引用してみよう。
  
 一昨年建てた現在の家は外見、身分不相応のやうにも思はれますが、一体に、日本人が衣服に割合多額を費して、住宅はマッチ箱のやうなもので満足してゐる、それに較べてはいさゝかぜい沢のやうですが、欧米の住宅に較べれば、まだまだ比較にならぬほど貧弱な設備であります。/生活能率を高めるには住宅を全く洋風にすることだと信じまして、建坪(延坪)五十余坪の中村式ブロック建築で、耐震耐火的にできてゐますが、内部の設備は至つて簡素であります。(中略) 私共の実際試みてゐるところでは、暖房、料理、洗たくを電化しました。五百円余りの時計仕かけの電気レンヂで、自動的に御飯がたけますから、仮令留守中でも思ふ時間に出来てゐます。(中略) ふろは今のところ電力代が高価ですから、ガスぶろにしてありますが、何の手間もいりません。便所も五六百円で浄化装置ができますから、洋風にすれば、綺麗で、衛生的で、掃除も楽です。以上大略二千円位の設備費で、女中資本の残り四千円を預金としておくといふ考へでゐますれば、それ利子、月二十円で、電気代、ガス代、水代は大略払へるわけです。
  
 帆足みゆきは、家での執筆や講演・打ち合わせなどの仕事で外出することも多く、いちいち商店街へ買い物にいかずに済むよう、いろいろな仕組みを考えている。目白通りまでは距離があるので、「私共住宅と商店との距離がかなり遠いので、買ひだしに行つて時間を費すことは却て不経済」と、どこまでも合理的な考えをする女性だった。
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 玄関わきに設置した“宅配ボックス”も彼女の考案で、家庭購買組合Click!へ注文していた物品の宅配便や、窓へ掲示しておく御用聞きClick!への配達伝言メッセージなど、すべて手間と時間がかからないようシステム化している。もし、帆足みゆきが現代に生きていたら、おそらくICTやAI/IoTを駆使した最先端のスマートホームを建ち上げるだろう。

◆写真上:高田町四ッ家1417番地の、「オール電化の家」こと山本忠興邸跡。
◆写真中上上左は、1935年(昭和10)撮影の山本忠興。上右は、大正期の早稲田大学理工学部校舎。は、明治末に撮影された山本忠興も座ったとみられる電気工学主任室。は、1927年(昭和2)4月20日の「アサヒグラフ」記事。
◆写真中下は、帆足邸の台所で電気レンジや電気湯沸し器が見える。は、台所から料理が手わたせるよう“窓”が開いた食堂で卓上電気コンロが見える。は、1933年(昭和8)に空撮された下落合404番地の帆足邸とその周辺。
◆写真下は、1925年(大正14)に竣工直後の帆足邸で中村式コンクリートブロックの外壁がよくわかる。左に立っているのが帆足理一郎で、下にかがんでいるのが帆足みゆき。は、住宅が建設される前の帆足邸跡で背後の緑はおとめ山公園。

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