So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

「玄米正食」と下落合の桜沢如一・里真夫妻。 [気になる下落合]

玄米正食料理教室.JPG
 食事療法や食養を前提とした、桜沢如一・里真夫妻の「玄米正食」を、ご存じの方も多いのではないだろうか。ヨーロッパでは戦前から普及しはじめ、フランス語ないしはイタリア語でmacrobiotique(マークロビオティク)と呼ばれる食療・食養を中心とした、東洋的な思想や哲学を基盤とする考え方だ。中国の陰陽五行や古代弁証法を用いて、食物をはじめすべての存在を陰(Yin=▽)と陽(Yang=△)とで分類・認識し、端的にいってしまえばそのバランス(中庸)をとることによって、日々の食事から健康を手に入れる……というような考え方だ。
 わたしの学生時代には、「玄米正食」を試みる人たち、特に健康や体調に問題を抱える女性たちが、よく試みていたように思う。彼女たちは、冷えや低体温症、便秘、貧血、めまい、生理不順、不眠、倦怠、精神の不安定、虚弱体質など女性特有の、あるいは偏食(甘味の摂りすぎとタンパク質の絶対的な不足)からくる体調不良を抱え、食生活の改善を目的に「玄米正食」をはじめる人たちが多かったように思う。
 そして、「玄米正食」の料理教室に通っては、自分たちの食生活を改めて見直し、栄養分の多くを削りとってしまった白米や胚芽米ではなく、玄米を主食とする食生活と、それに見合った副食物(野菜食中心)の摂取に切り替えていったのだろう。ちなみに桜沢如一の「食」をめぐる思想は、わたしが知る限りの周囲では「玄米正食」という表現で語られていたが、その後、本来のフランス語ではなく英語のmacrobiotic(マクロビオティック)と呼ばれることが多くなったように思う。
 わたしは、玄米がとても苦手だ。理由はしごく単純で、おかず=副食物が美味しく食べられないからだ。自宅で精米するときも、五分づき米まではなんとか食べるが、七分づき米となると箸が出ない。そのかわり、白米に麦や稗、粟、黍などの雑穀を混ぜるご飯や、赤米・黒米を加えたご飯は、独特な風味が出て好きなのだが……。また、玄米ご飯とは異なり、香ばしい玄米餅Click!は大好きだ。
 自宅では関東地方を含む東日本の米、特にコシヒカリやあきたこまち、ひとめぼれ、ササニシキ、庄内米など、日本を代表する銘柄米を生む新潟や東北に拡がる米作地帯の米を、玄米と白米で注文している。いま仕入れているのは、明治期に開発された稲に由来する山形産の「つや姫」という銘柄で、口に入れたときの“ほぐれ”感や歯ざわりが気に入っている。特に、やたら甘みの強い米が多い中で、「つや姫」は甘さひかえめでバランスがよく淡泊気味なのがいい。もちろん、甘味でおかずの風味を壊さず、美味しく食べられるからだ。だが、いくら「つや姫」でも玄米のままでは美味しく感じない。ちなみに、穀物ついででパンを焼くときは北海道産の小麦「春よ恋」、ときどき「はるきらり」と「ゆめちから」を使っている。
 「玄米正食」の料理教室では、無農薬有機米は当然としても、米の種類や産地まで指定していたのだろうか? 桜沢如一は、1966年(昭和41)に心筋梗塞で他界(74歳)してしまうが、その後を継いで「玄米正食」を教えていたのは、残された桜沢里真夫人だった。里真夫人が主宰する「玄米正食」の料理教室(リマクッキングアカデミー)は、下落合3丁目(現・中落合1丁目)の見晴坂の下、妙正寺川に面した小橋の北詰めに建っているマンションで開かれていた。このマンションに、桜沢如一と里真夫人は1964年(昭和39)ごろから住んでいたようだ。料理教室が開かれたのは翌年からで、わたしの連れ合いも1970年代の半ばごろの一時期、リマクッキングアカデミーへ通っていたらしい。
つや姫玄米.jpg
つや姫玄米ご飯.jpg
 「玄米正食」の基本的な考え方を、1973年(昭和48)に日本CI協会から出版された桜沢如一『東洋医学の哲学―最高判断力の書―』から引用してみよう。
  
 人間は動物、生物の手の中の王子様です。スベテの動物は、われわれを喜ばせたり、助けたりするために作られたかのようです。しかし、動物を殺してその肉をわれわれの食物に供するコトは、たいへん損なコトです。生物学的にいって、われわれは植物の子であり、植物なくして動物なしです。われわれは一から十まで植物に負っているのです。われわれの血潮も植物のクロロフィールの一変形にすぎません。スベテの植物性食品は、われわれの肉体を作る処女性の素材です。動物の肉は、人間という動物にとって処女性の素材でなく、中古品です。その上、動物性食品を現在の程度に用いていると、近い将来に土地がたりなくなります。オマケに体が酸性になる傾向が強くなって危険です。/だから原則として植物の子である動物や人間は、処女性の食物を植物に求めるべきです。これが元来の人間の食物の生物学的原則です。
  
 わたしは、「東洋医学」はかなり好きなほうで、慢性化したアレルギー性鼻炎(花粉症)や扁桃炎を漢方薬で治しているけれど、こんな植物食に収斂するような狭隘な考え方ばかりだっただろうか? 動物の肉は「中古品」などといわれても、わたしにとっては美味しい副食物の半分が消えてなくなってしまうので、残念ながら同意できない。
 そうなのだ、食事は人間の肉体を維持するための本能的な“義務”であると同時に、人は単なる動物ではなく「食文化」Click!という地域性や嗜好性の強い、大きな趣味をもった生きものでもある。だから、「身体に良い・悪い」以前に、好きか嫌いかのテーマが大きく起立してくるのだ。それによって得られる幸福感や精神的な充足度が高まれば、低体温症になろうが生理不順になろうが、ときに癌や肝硬変になる危険性を引き受けようが、好きで主体的に選択している食事や食物について、「白米は正しくない、玄米が正しい」などといわれたくないのは、人間として当然の理であり情だろう。それは、肺癌のリスクを引き受けつつ、桜沢如一がタバコをやめなかったのと同一の趣味・嗜好にちがいない。
桜沢如一「東洋医学の哲学」1973.jpg 桜沢如一.jpg
桜沢如一&里真夫人1.jpg
 そしてもうひとつ、「人はパンのみにて生くるものに非ず」(マタイ第4章)のたとえどおり、人生の目的は「身体にいいものを食べるため」「健康になるため」だけのものでもない。もちろん、健康であるのにこしたことはないが、健康や、ときに生命を削ってまで、優先したい“想い”やテーマが発生するのが人間だと思う。さまざまな生きがいや精神的な充足感・幸福感を味わいたいがため、多彩な思想やプランを実現したいがために、人は生きる意欲を獲得できるのであって、「食」は生きるための単なる手段にしかすぎない……という考え方をする人たちが大勢いたとしても、「その考えはまちがっている」などとは決していえないだろう。
 桜沢如一自身も、まさに思想的にはそのような生き方をしていたようで、1941年(昭和16)の日米開戦の年に発表した『健康戦線の第一線に立ちて』では、日本の必敗を予言して特高Click!から執拗にマークされ、つづく開戦直前の『日本を亡ぼすものはたれだ-白色人種を敵として、戦はねばならぬ理由-』はただちに発禁処分となり、特高に逮捕されて凄惨な拷問をともなう「取り調べ」を受けている。
 やがて、警察からは保釈されたが、1945年(昭和20)に今度は憲兵隊に逮捕され、敗戦まで刑務所内で拷問をともなう過酷な「取り調べ」を受けつづけ、最後には「銃殺の宣告」まで受けていたようだ。戦後、GHQの指令で釈放されたときは容姿が一変し、まるで「老人」のような姿に変わりはてていたという。再び、同書から引用してみよう。
  
 そのうち東亜の風雲が急をつげ、ツイニ戦争となり、反戦論者である私は、軍国主義の政府のために何回も投獄され、最後には銃殺の宣告までうけたのですが、そのうち日本は史上空前の敗戦をとげ、マックアーサーの東京入りの数日後、私は生ける屍になって、半死半生の姿で釈放されました。それから八年間、私は私の畢生の事業、東洋哲学道場再建のために苦心し、ソレを完成し、三年前ツイニ日本に永久のサヨナラをつげて、終りなき世界巡礼に出かけました。
  
桜沢如一「食養講義録」1977.jpg リマクッキング500レシピ2015.jpg
桜沢如一&里真夫人2.jpg
 里真夫人が下落合の自宅で開いた料理教室では、どのようなレシピが実践されていたのか、玄米ギライのわたしは連れ合いに訊いたことはないが、「食」に関する講義をまとめた桜沢如一『食養講義録』(日本CI協会/1977年)には、病気と食事療法が具体的に紹介されており、「玄米正食」に興味がある方には最適な入門書だろう。ただし、わたしは疑問が次々と湧いて頭が痛くなり、最後まで読みとおす根気がつづかなかった。ちなみに、頭痛もちには「副食物が常に主食物に対して多くならない様にすること。常に鹽からく油気を加味して食すること。はしり物といつて、遠い土地の物を食べぬ事」だそうだ。

◆写真上:下落合3丁目(現・中落合1丁目)にある、桜沢如一と里真夫人が住んだマンション。里真夫人による、定期的なリマクッキング教室が開催されていた。
◆写真中上は、山形産「つや姫」の玄米と白米。は、「つや姫」の玄米ご飯。
◆写真中下上左は、1973年(昭和48)出版の桜沢如一『東洋医学の哲学』(日本CI協会)。上右は、戦後に講義中の桜沢如一。は、桜沢如一と里真夫人(左)。
◆写真下上左は、1977年(昭和52)に出版された桜沢如一『食養講義録』(日本CI協会)。上右は、2015年(平成27)出版の桜沢里真『リマクッキング500レシピ』(日本CI協会)。は、タバコを手に談笑中の桜沢如一と里真夫人のスナップ。

読んだ!(18)  コメント(21) 

佐伯祐三と佐野繁次郎の「大阪人」談義。 [気になる下落合]

船場(北船場)1929.jpg
 1928年(昭和3)に発刊された「三田文学」11月号に、佐野繁次郎による『佐伯祐三を憶ふ』と題された追悼文が掲載されている。この文章は、朝日晃により1979~1980年(昭和54~55)にかけて編集された、近代画家研究資料『佐伯祐三』(全3巻)にも収録されておらず、2007年(平成19)に神奈川県立近代美術館で開催された「パリのエスプリ 佐伯祐三と佐野繁次郎」展の図録に、初めて再録されたものだ。
 フランスでの佐伯祐三Click!の死を知った佐野繁次郎が、間をおかずに書いたとみられる文章だが、つづく佐伯の娘・彌智子Click!の死を知らないところをみると、8月16日の死去の知らせがとどいた直後、ほどなく書いた追悼文なのだろう。ちなみに、佐伯祐三の子どもを娘ではなく「一人つ子の坊ちやん」と書いているのは、1926年(大正15)9月の「アサヒグラフ」に二科賞を受賞した佐伯一家の写真Click!が掲載されたとき、記者が誤って彌智子のことを「令息」と書いてしまったため、同誌の愛読者だった佐野繁次郎は誤認したままだったとみられる。
 佐伯祐三と、2歳年下の佐野繁次郎は少年時代からの友人で、船場の佐野の実家が中津の光徳寺Click!とつき合いがあったため、佐野は佐伯に誘われて赤松麟作Click!の画塾へと通っている。佐野はすぐに画塾を辞めてしまい、一時期のふたりは疎遠になっていたようだが、東京へ出てきてからふたりの親しい交遊は復活している。
 佐野繁次郎は、『佐伯祐三を憶ふ』の中で文節を分けるように小見出しをつけ「佐伯は根気の強い男だつた」、「佐伯は執念強い男だつた」、「佐伯は生一本な男だつた」、「佐伯は絵ばかりの男だつた」、「佐伯は情の厚いたちの男だつた」……というように、それぞれのエピソードを紹介するような構成で綴っている。中でも、これら佐伯についての評価を、大阪人の「最もいゝものだけを持つたもの」「大阪人の意力」ととらえ、ふたりで語った「大阪人」談義を書きとめている。
 大正期から昭和初期にかけて、自身のアイデンティティでもあるふたりの「大阪人」像(大阪人に対するイメージ)が語られている、とてもめずらしい資料だろう。先の「パリのエスプリ 佐伯祐三と佐野繁次郎」展図録から、少し引用してみよう。
  
 「大阪人」のよくな(ママ:い)とこ、――それは僕同様、佐伯自身も認めてゐた。が、僕等はよくその非大阪人の常識になつてゐる大阪人の悪評について、一緒に語つたものだ。/――こんなことは勿論、語る対象の頗る漠然としたものだ。例へば、一人々々としてみれば、東京人のうちにも強欲な人がある如く、大阪人のうちにも案外、無欲なぐうたらべえもゐるし、又、現在の諸国から入り込んだ人が大部分である都会では、どの程度、どの範囲を以つて、大阪人、東京人と定めることはあたまで容易に出来得ることではない。だから、厳格に言ひ出したら、一寸仕末のつかないことだけど…。/が。――船場の中の家が、今の様に軒のないやうな形にならない――軒の深い、暗い格子があつて、隣近所がみんなしもた屋でも暖簾をつつてゐた、――夕方になると瓦斯燈屋が三弾程の脚立を持つて、軒並の軒燈に石油を差し火を点じに来た――あの頃の大阪なら、そして少なくとも、三代船場に住んでゐる家なら――どこかに、悪い意味でもいゝ意味でもの大阪を慥かに持つてゐたのである。
  
 わたしは、当時の「船場」がどのような街だったのかは、せいぜい江戸東京人で同郷だった谷崎潤一郎Click!描くところの、『細雪』ほどの知識しか持ちあわせていないのだけれど、日本橋と同様に古くからの文化や習慣をもっていた城下町であることは想像がつく。それが、『細雪』にみられるように崩壊しはじめたのが、谷崎や佐野が生きていた昭和初期なのだろう。ちなみに、古い時代の日本橋の崩壊は、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!が端緒だった。
 だが、日本橋のコミュニティ崩壊=江戸東京らしさの崩壊とはならないように、船場の崩壊=大阪の崩壊とはならないのではないだろうか? 佐伯と佐野は、そう規定しているようなのだが、日本橋が江戸東京のごく一部であるように、船場も大阪の一部にすぎないだろう。江戸東京には、日本橋以外にも神田や京橋、芝、麹町、下谷、麻布、本所、深川、牛込、四谷、小石川、本郷、浅草……と、江戸からの城下町だけでも独特な文化をもった、およそ20以上の地域や街があるように、大阪にも船場に限らず他の地域があったはずだ。そこでは、船場とは異なる文化や習慣が古くから根づき、受け継がれていたはずであり、そこで話される大阪方言もまた異なっていたのではないか。
佐伯祐三・彌智子.jpg
パリのエスプリ図録.jpg 佐野繁次郎.jpg
佐野繁次郎瀧野川アトリエ.jpg
 たとえば、京都の市街地(洛中Click!+外周市街域)は、ほぼ東京の港区(旧・芝区+麻布区+赤坂区)と同じぐらいのサイズだが、京都市街地においてすべてのエリアで同一の京都方言が話され、均一の文化が共有されている……とは思えない。港区は、東京23区の中では相対的に中ぐらいよりもやや小さめなサイズの区だが、そこで古くから話されてきた東京方言が同一でないのと同様だ。そこでは、エリアによって武家由来の乃手Click!方言と町人の(城)下町方言Click!、そして職人や漁師など独特な方言や生活言語ほどのちがいがあったはずだ。だから、「船場人=大阪人の象徴」とする佐伯と佐野の規定には、どこか「ちがうのではないかな?」という疑問が湧いてしまう。
 ふたりの大阪人規定には、わたしのついていけない側面もある。たとえば、「親戚に一寸百円取かえても利息はちやんと取つた」と書かれているが、親戚にカネを貸して利子まで巻き上げるのは、こちらの感覚では異様だ。親戚同士は、困ったときに助けあうお互いさまの関係であり、債権者と債務者の関係とは無縁のものだ……というのが、わたしが育った環境の感覚だ。
 「お金を儲けるといふことが男の仕事だつた」という規定は、こちらでもある側面ではまったくそのとおりなのだが、「儲ける」ではなく食えるほどには「稼ぐ」と表現したほうが、こちらの感覚に近いだろうか。また、「稼ぐ」のは別に「男」とは限らないのも、大阪とこちらとでは大きな文化のちがいかもしれない。江戸の昔から、マネジメントにおける意思決定の中核にいたのは、「お上さん」「女房」あるいは「奥方」たる女性のケースが多く(これは町人に限らず、幕府の御家人や小旗本の家庭でも見られた現象だ)、ことさら「男」が……という規定は、いまだ関西に残る「東女(あずまおんな)」Click!という言葉が象徴的なように、大阪よりもかなり弱いように思える。
船場警察署1912.jpg
船場(心斎橋筋)1929.jpg
 さて、佐伯祐三がフランスから帰国した1926年(大正15)の春、400点以上の滞仏作品を持ち帰っているのを、佐伯から直接聞いた佐野繁次郎が証言している。同追悼文より、「佐伯は絵ばかりの男だつた」から引用してみよう。
  
 描く日は一日六枚も七枚も描いてゐたやうだつた。/そして、その絵の上でも、佐伯は、これと見当をつけると生一本に、根気で、何処迄も執念強く押すといふいき方をしてゐるやうだつた。――佐伯が、あの決して強くない體でであれだけの仕事をしたのは、全くこれに他ならないと僕は思つてゐる。/――仏蘭西から帰つて来た時、夫人の実家である、土橋の像家屋さんで、三年彼地へ行つてゐた間に描いた絵が「大体四百枚、まだちよつとある」と聞いた時も、僕はつくづくさう思つた。
  
 第1次滞仏からもどった佐伯と、佐野繁次郎は土橋の池田象牙店Click!で再会していたのがわかる。関東大震災の直後に日本を発っているため、下落合のアトリエや母家は被害を受けたままの状態で、修理中だった可能性がある。アトリエの屋根に、通常の瓦ではなく軽い布瓦(石綿瓦)Click!を葺いたのも、この時期のことなのかもしれない。
佐野繁次郎装丁「お嬢さん放浪記」1958.jpg 佐野繁次郎「画家の肖像(死んだ画家)」1964.jpg
佐野繁次郎(戦後).jpg
 佐野の文章を読み返すと、「根気の強い男」「執念強い男」「生一本な男」「絵ばかりの男」だった佐伯祐三が、1926年(大正15)の真夏Click!から取り組みはじめ、「現代の文化式のものを画く」と小島善太郎Click!に宣言してスタートした連作「下落合風景」Click!を、わずか50数点(「制作メモ」Click!にタイトルはあるが、該当する作品が現存しないものを含めると60点余)で止めてしまったとはとても思えない性格が浮かび上がってくる。戦災で焼けてさえいなければ、必ずどこかに人知れず同作は埋もれているはずだ。

◆写真上:1929年(昭和4)に撮影された北船場界隈と、土佐堀川に架かる難波橋。
◆写真中上は、1926年(大正15)ごろ撮影の佐伯祐三と彌智子。中左は、「パリのエスプリ 佐伯祐三と佐野繁次郎」展(神奈川県立美術館/2007年)の図録表紙。中右は、大阪は船場(墨問屋「古梅園」)出身の典型的な“ぼんぼん”で貧乏知らずだった佐野繁次郎。は、東京の瀧野川に建っていた佐野繁次郎アトリエ(設計・大石七分)。
◆写真中下は、1912年(明治45)に撮影された船場警察署(右端)と船場界隈。は、1929年(昭和4)に撮影された心斎橋筋の船場界隈。
◆写真下上左は、1958年(昭和33)に佐野繁次郎が装丁した犬養道子『お嬢さん放浪記』。上右は、1964年(昭和39)に制作(加筆)された佐野繁次郎『画家の肖像(死んだ画家)』。は、「銀座百点」の表紙を描いていたころの佐野繁次郎。

読んだ!(19)  コメント(21) 

事件から間もないリアルな映画たち。 [気になる下落合]

三菱銀行中井支店.jpg
 戦後、それほど時間が経過しないうちに制作された映画には、非常にリアリティの高い表現を備えた作品がある。それは、戦後の混乱からそれほど時間が経過しておらず、街の風情や人々の生活風景に大きな齟齬がないからだろう。
 たとえば、戦後の混乱期に起きた事件を扱った作品などは、まさにその事件現場でロケーションを行なっているせいか、実際に事件を目撃しているような錯覚に陥る。ときおり当時の報道映像なども、シーンの合い間に織りこみながらモノクロの画面で見せられると、映像の質感がそれほど変わらないせいか、よけいに作品の世界へのめりこんでしまうのだ。そんな作品のひとつに、井上靖・原作の『黒い潮』がある。
 監督が山村聰Click!で、1954年(昭和29)に公開された『黒い潮』(日活)だが、この作品の主題である下山事件Click!(1949年7月5日)が発生してから井上靖の原作(小説)は3年後、山村聰が映画を撮影したのが4年半後と、ほとんど同時代の出来事だった。下山事件については、現在の解明度からは比較にならないほど、いまだ抽象的で漠然としたとらえ方のままだし、事件に関する追跡やトレースの仕方も、今日から見れば明らかに稚拙で、誤りや見当ちがいの箇所も散見される。
 同映画には、日本橋室町のライカビルに巣くっていた「矢板機関」の「ヤ」の字も出てこなければ、下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)に住んでいた「柿ノ木坂機関」の総帥・長光捷治Click!の「ナ」の字も出てこない。それでも、つい惹きこまれて見入ってしまうのは、事件当時の社会や世相、風景、人々の装い、話し方などまでが、ほとんど当時のまま記録されているからだろう。
 同作の出演者は、現代から見れば信じられないような名優ぞろいで、超豪華なオールスター映画とでもいうべきキャスティングになっている。監督の山村聰自身も、新聞記者役で出演しているが、ほかに滝沢修Click!千田是也Click!、信欣三、東野英治郎、芦田伸介、進藤英太郎Click!中村伸郎Click!、安部徹、下元勉、下條正巳、浜村純、内藤武敏、夏川静枝Click!、津島惠子、左幸子、沢村貞子……と、予算がいくらあっても足りないような顔ぶれだ。日活が、これほど力を入れて制作しているのは、世間ではいまだ下山事件に対する関心が非常に高かったせいなのだろう。
 下落合2丁目702番地(現・中落合2丁目)に住み、「下山事件研究会」を主宰した南原繁Click!も指摘しているように、戦後にようやく築かれた国民主権の民主主義国家を根底から揺るがし、戦前の「亡国」思想時代へと逆もどりさせかねないターニングポイント的な事件であるからこそ、途中で途切れることなく今日まで延々と捜査や調査、検証、取材が継承されてきているのにちがいない。井上靖の原作『黒い潮』と山村聰の同映画は、ともにその“初手”に起立する作品ということになるのだろう。
 同作は、さまざまな映画賞を受賞しているようだが、今日、熊井啓監督の『日本の熱い日々 謀殺下山事件』(1981年/松竹)よりも上映機会がなくなっている。
黒い潮1.jpg
黒い潮2.jpg
黒い潮3.jpg
 もうひとつ、1964年(昭和39)に制作された映画に、『帝銀事件 死刑囚』(熊井啓監督/日活)がある。落合地域にお住まいの方ならご承知のように、1948年(昭和23)1月26日の午後、お隣りの長崎1丁目33番地の椎名町駅前に開店していた帝国銀行椎名町支店に、東京都のマークが入った「防疫班」の腕章をした男がGHQの名を騙って現れ、遅効性の青酸化合物Click!と思われる毒物を行員全員とその家族に飲ませて、12人を殺害し4人に重症を負わせた事件だ。
 事件から16年後、同映画では実際の報道映像をまじえながら、国際聖母病院Click!へ次々と運びこまれてくる被害者たちを描いている。もちろん、聖母病院のシーンは映画の創作映像だが、実際に同病院の入口からエントランスでロケーションが行われており、そこに集まった警官や救急隊員、報道関係者、大勢の野次馬たちを含めとてもリアルに描かれている。夜間の撮影だが、聖母病院側はよくロケを許可したものだ。群衆のどよめきや警官たちの怒鳴り声、飛び交う報道関係者の怒声、救急車やパトカーのサイレンなどがひっきりなしに響くのだけれど、さすがに夜間の病院ロケなので現場ではなるべく音が出ないように撮影し、喧騒音はあとからのエフェクトなのかもしれない。
三鷹事件.jpg
帝銀椎名町支店19480127.jpg
帝銀事件現場.jpg
 さて、帝銀事件に先立つこと7日前の同年1月19日には、その予行演習ともいうべき同様の事件が、下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)に開店していた三菱銀行中井支店Click!(旧・佐々木質店)で起きている。このときは未遂に終わっているが、映画『帝銀事件 死刑囚』には同銀中井支店の映像が登場している。(冒頭写真) 1964年(昭和39)の当時、三菱銀行中井支店はとうに別の場所へ移転するか統廃合されていたのだろうが、銀行として使われていた元質店の旧・佐々木邸は、同地番の位置にそのまま建っていた。
 1963年(昭和38)の時点で、西側の蔵は解体されていたようだが、東側の母家はそのまま残っている。したがって、同映画では旧・佐々木邸(1960年現在では「光橇園」と「みのり屋」として、なんらかの店舗に使われていたようだ)の門前と玄関口に、事件当時の三菱銀行中井支店の姿を再現している可能性がありそうだ。左手に蘭塔坂(二ノ坂)Click!つづきの道があり、右手にも直角に折れた道が通う角地の風情は、まさに三菱銀行中井支店の立地のとおりとなっている。
 同作品では、熊井啓監督ならではの凝り性というか几帳面さで、帝国銀行椎名町支店の平面図や現場写真から事件現場を忠実に再現しており、犯人の服装をはじめ犯行に使われた器具類、毒殺に使われた湯呑みにいたるまで、すべて証拠品や証言どおりのものを用意して撮影している。したがって、聖母病院を使った実際のロケーションも含めて考えると、三菱銀行中井支店も旧・佐々木邸の建物を利用して、警視庁などに保管されていた写真のとおりに再現している可能性が高いように思える。
三菱銀行中井支店跡.JPG
聖母病院1964.jpg
三菱銀行中井支店1963.jpg
 戦後の混乱期に起きた不可解な事件の数々を調べていると、事件の裏側に身を置いていた者たちと、事件の直接的な被害者Click!と、さらに事件を忘れずにどこまでも追究しつづける人々とを問わず、落合地域との関係が少なからず見えてくる。新たな資料や証言が次々と公開されるにつれ、多種多様な人たちが追究をつづけている現在、新たな事実が判明したら改めてこちらでご紹介したいと考えている。

◆写真上:1964年(昭和39)に公開された映画『帝銀事件 死刑囚』(熊井啓監督/日活)に登場した、下落合4丁目2080番地の三菱銀行中井支店。
◆写真中上:いずれも、1954年(昭和29)に公開された映画『黒い潮』(山村聰監督/日活)のシーンで、常磐線と東武伊勢崎線ガードが交差する事件現場に立つ新聞記者役の山村聰()、事件現場を空撮したたシーン()、東京が見わたせる新聞社屋上のシーン()。いずれも、下山事件からわずか4年半しか経過していない情景で、特に事件現場でのロケーションは周囲の風景も含めて貴重だ。また、立体交差する鉄路とカーブで見通しのきかない下段線路の構図が、張作霖爆殺現場に酷似している点に留意いただきたい。
◆写真中下は、松川事件Click!の1ヶ月前に起きた『黒い潮』挿入の三鷹事件映像。は、1948年(昭和23)1月26日に大量毒殺事件が起きた帝国銀行椎名町支店の外観と、銀行内部の事件現場の様子。
◆写真下は、下落合4丁目2080番地の三菱銀行中井支店跡。は、1964年(昭和39)に公開された映画『帝銀事件 死刑囚』(熊井啓監督/日活)の国際聖母病院でのロケーションシーン。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる同銀行中井支店跡。

読んだ!(20)  コメント(25) 

西片町の気になるアトリエ住宅。 [気になるエトセトラ]

金澤庸治邸(清水組).jpg
 西片町Click!を歩いていると、「椎の木広場」(現・西片公園)の近くに気になるアトリエ建築がある。接道の北西側を向いて、大きな採光窓を備えた洋風のアトリエだ。いつかの記事でもご紹介したように、東京美術学校Click!へ新たに設置された建築科の第1期生として卒業している、建築家・金澤庸治のアトリエだ。
 外観からは、アトリエのみが洋風のデザインで、残りの住宅はすべて和建築のように見える。だが、平面図を入手したので細かく参照してみると、洋間はアトリエだけでなく1階の応接室(8畳大)と食堂(6畳大)、それに広い納戸(8畳大)が板の間のようで、2階は洋居間(8畳大)に物置(4畳半大)、調度室(3畳大)が板の間だったようだ。
 また、和室は思いのほか多く1階は8畳が2間に6畳が3間、3畳の女中部屋に2畳の衣装室が付属している。2階は、床(とこ)のある10畳の客間がひとつに、6畳の次の間がつづいている。さらに、1階には浴室がふたつにトイレがふたつ、化粧室がひとつ付属している。接道から眺めた建物の雰囲気からすると、かなりコンパクトな住宅のように見えるが、南東に向かってかなりの奥行きがあり、総建坪は約100坪ほどにのぼる。
 1階の居間×3室と2階の客間×2室を、真南に向けようと角度をつけて設計している。つまり、1階と2階のこの一画だけ屋根の大棟が東西を向き、家全体の軸は南東から北西に向いているのが面白い。そのため、納戸や奥の部屋へと向かう廊下が斜めに設置されていて、廊下を折れる確度が直角ではない。このような建て方の家を、わたしは落合地域とその周辺域で見たことがなく、できるだけ陽光を部屋へと採りこんで明るい家にしようという、金澤庸治ならではの工夫なのだろう。
 住宅内に洋風の生活様式を取り入れながら、どちらかといえば和建築にこだわった設計や意匠をしているように見える。木造2階建てで、「洋風一部和風」と記録さているが、「和風一部洋風」が正しい表現だろう。外壁は下見板張りおよびラス張りで、内部の壁は漆喰と砂壁、屋根は三州引掛け桟瓦という仕様だ。この平面図は、1930年(昭和5)8月に清水組の施工で金澤邸が竣工した直後のもので、1935年(昭和10)に土木建築資料新聞社から出版された、清水組『住宅建築図集』に収録されている。
 そこには、竣工直後の同邸の写真が内部の写真とともに掲載されているが、現在、西片町で目にすることができる実際の建物とほとんど差異がないのに驚く。おそらく、1982年(昭和57)に金澤庸治が死去したあとも、ていねいにメンテナンスが繰り返され使われつづけてきたのだろう。
 金澤庸治は、東京美術学校を卒業すると1926年(大正15)から同校で長く教師をつとめ、同時に建築家として多彩な作品を残している。恩師の岡田信一郎とともに手がけたコラボ作品も、各地に数多く存在しているようだ。東京藝術大学(旧・東京美術学校)のある藝大通り(都道452号線)を歩くと、周囲には洋風建築が多い中で、ひときわ目につく和風建築がある。金澤庸治が設計し、1935年(昭和10)に竣工した東京藝大の正木記念館だ。隣り(北西側)には、同記念館へ接するように師の岡田信一郎が設計した洋風の東京藝大陳列館が並んでいる。コンクリート造りだが、明らかに日本の江戸期に造られた城郭建築を思わせるようなデザインで、内部は日本美術の展示に使われている。
金澤庸治邸平面図.jpg
金澤庸治邸客間(清水組).jpg
金澤邸1948.jpg
 金澤邸を施工した清水組の住宅作品について、もう少し当時の様子を見てみよう。ちょうど1930年(昭和5)8月に、金澤邸とほぼシンクロするように同規模の総建坪約100坪となる2階建て住宅を、同じく「東京市内」で手がけている。具体的な建設場所は不明だが、H氏邸と名づけられた家は、建築家の渡辺静が設計した外観は西洋館の和洋折衷住宅だ。竣工がまったく同時期であり、ひょっとすると同じ西片町内なのかもしれないが、金澤邸と比較すると面白いので少し余談めくがご紹介したい。
 H氏邸は、非常にオーソドックスな造りをしていて、洋間と日本間が混在する、外観も含めて今日の住宅につながるような仕様をしている。清水組の建設作業員にしてみれば、おそらく金澤邸よりもH氏邸のほうが造りやすかったのではないだろうか。木造2階建てで見た目は洋風、外壁は色モルタルラフ仕上げとされているが、モノクロ写真なのでカラーはわからない。
 1階は10室あるが、そのうち居間×2部屋と隠居部屋(老人室)、女中部屋、書生部屋の5部屋が和室だ。2階は客間と次の間が和室で、残りは洋間の造りになっている。部屋のかたちで設置されている「ベランダ―」(1・2階)も含めると、和室と洋室が半々ぐらいだろうか。浴室は1階にひとつだが、トイレは1階に2ヶ所、2階に1ヶ所の計3ヶ所が配置されている。大きめな応接室や書斎、ポーチが接道を向いて建てられている住宅(H氏邸は南向き)は、落合地域などでもよく見られた仕様だ。
金澤邸1.JPG
金澤邸2.JPG
金澤邸3.JPG
 当時の住宅建設の様子について、清水組の社長・清水釘吉が『住宅建築図集』の中に記している。同書の「序」から、少し引用してみよう。
  
 住宅建設は今が過渡期であります。欧米の建築を其儘模倣して満足出来ず、従来の和風建築の儘にても亦満足の出来ない立場であります。彼我生活状態の相違は、急激なる変化を許しませぬが故に、近時、住宅改良の諸問題が論議実行されつゝある時代であります。(中略) 住宅は、我日本人の今日に取つて或は洋風が便利であり、或は和風が便利であります。従而現代は和洋折衷式が、最も一般社会から取扱はれて居ります。蓋し、自然の趨勢であらうと思ひます。即ち、住宅は其時代の真実を語つて居るものでありまして、一国の文化国民教養の程度は住宅に拠つて察知する事を得るものであります。
  
 明治期からつづく和と洋の折衷・融合について、ハウスメーカーとして試行錯誤を繰り返していた様子がうかがい知れる。
 さて、1935年(昭和10)に出版された清水組の『住宅建築図集』は、明治末から1934年(昭和9)12月末までに竣工した、清水組の住宅や別荘を中心とした仕事を写真と図面でまとめたものだ。その中には、落合地域とその周辺域に建てられた住宅も含まれている。ただし、すべての住宅が施工主の頭文字をとり、アルファベットの1文字表記で邸名が記載されているので、住民の名前や住宅が建設された位置を特定するのは容易でない。
藝大正木記念館.JPG 藝大美術館陳列館.JPG
H氏邸(清水組)1930.jpg
H氏邸平面図.jpg
 こちらでも以前、各種の『住宅建築図集』から下落合の近衛町Click!に建てられていた昭和期の長瀬邸Click!と、近衛邸Click!の2棟を清水組の仕事としてご紹介しているが、おそらく落合地域で手がけた仕事は、これだけにとどまらないだろう。新たに同書シリーズで近くの住宅が特定できたら、またこちらで取り上げたいと思っている。

◆写真上:1930年(昭和5)8月に撮影された、西片町に竣工直後の金澤庸治邸。
◆写真中上は、金澤邸竣工時の平面図。は、同邸2階の床のある10畳サイズの客間。は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる西片町の金澤庸治邸。
◆写真中下:椎の木広場(現・西片公園)の近くにある、金澤邸の現状。
◆写真下上左は、金澤庸治が設計した東京藝術大学の正木記念館。上右は、金澤庸治の師である岡田信一郎が設計した隣接する東京藝大美術館の陳列館。は、金澤邸とまったく同時期の1930年(昭和5)8月に竣工したH氏邸とその平面図。

読んだ!(18)  コメント(22) 

雑司ヶ谷で結婚した正宗得三郎。 [気になるエトセトラ]

正宗得三郎「河港」1911.jpg
 二科会の「重鎮」といわれた正宗得三郎Click!が、若いころ高田村雑司ヶ谷で暮していたことが判明した。ちょうど日本画家になるのをやめ、東京美術学校Click!の西洋画科を卒業したあと、1909年(明治42)に初めて文展へ入選したころのことだ。しかも、雑司ヶ谷で寄宿していた先は、のちに高田町の町長をつとめることになる海老澤了之介Click!の新婚家庭だった。
 正宗得三郎というと落合地域の南西、豊多摩郡大久保町西大久保207番地に住み、大久保文学倶楽部に所属して南薫造Click!藤田嗣治Click!三宅克己Click!小寺健吉Click!、中澤弘光らとともに大久保で洋画展覧会を開催していたのは、こちらでもすでにご紹介している。また、曾宮一念Click!とも交流があったらしく、彼のエッセイには何度か訪問先として登場していた。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたのは、1909~1910年(明治42~43)ごろのわずか2年間のことで、このあと彼は結婚式を故郷で挙げるために1910年(明治43)の秋、岡山県和気郡伊里村へと帰省し、再び上京すると同年11月には妻とともに西大久保207番地の借家へ落ち着いている。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたとき、海老澤夫妻には子どもが生まれたばかりで、後藤徳次郎邸の門前に拡がる芝庭に、老母の隠居家つづきの2階家を建ててもらって住んでいた。明治末の地番でいうと高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原730番地、大正末には高田町雑司ヶ谷御堂杉733番地、1932年(昭和7)からは豊島区雑司ヶ谷5丁目732番地(現・南池袋3丁目)となる区画だ。当時の様子を、1954年(昭和29)に出版された、海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 かうした生活のさなかに、どうした事からか、二科会の元老正宗得三郎君が、私の所に暫時止宿して居た事があつた。同君は未だ独身時代で、今の様な名声も無く、純情朴訥な画家でありながら一切が無造作で、まことに愛すべき人柄であつた。彼が、ブラブラして居ると、手を離しかねる仕事をしている妻が「正宗さん、赤ん坊を抱いてちやうだいよ」と言ふ、ぶつきら棒な正宗君は「僕は赤ん坊嫌ひです」と一応言ふものゝ、再度の要請で、しぶしぶ両手を不器用に赤ん坊の方へ差し出す、妻がその上に乗せてやると、そのまゝの姿勢で前の芝生を一周する。両腕に赤ん坊を捧げて居る様な恰好であるから、直ぐくたびれてしまつて「奥さん、くたびれました」と誠に困つた様な顔つきで言ふが、その時も矢つ張り、前と同じ姿勢なのであつた。どうも正宗君は赤ん坊の抱き方を知らなかつたやうだ。この場面や、困却した彼の顔を回想すると、自づ(ママ)と微苦笑せざるを得ない。しかし彼も、間もなく私の中二階で、千代子さんと言ふ新妻をめとることとなり、又しても赤ん坊を抱かなければならない羽目とはなつた。
  
 故郷岡山での結婚式とは別に、正宗得三郎・千代子夫妻の東京での結婚披露宴は、海老澤家の中2階で行われたのがわかる。

海老澤家1909.jpg
雑司ヶ谷中原730番地1910頃.jpg
海老澤邸1910.jpg
 明治末から大正初期にかけ、海老澤家を含む雑司ヶ谷の後藤徳次郎の屋敷は、樹齢400年ほどのケヤキやスギの森に囲まれており、山手線の池袋停車場Click!まで田畑や林が拡がるような情景だった。武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)はいまだ敷設されておらず、池袋停車場で降りた観光客たちが雑司ヶ谷鬼子母神Click!とまちがえて、後藤屋敷を訪れるような風情だった。後藤屋敷の前に拡がる芝庭だけで数百坪はあったというから、おそらく後藤徳次郎の屋敷地はゆうに1,000坪を超えていたのだろう。屋敷の北東にかけて、ようやく市街地が形成されるような時代だった。
 さて、ここで少し横道にそれるが、後藤徳次郎邸=海老澤了之介邸周辺の字名が、少なくとも明治末まで「中原」と呼ばれていた点に留意したい。本記事に掲載した1/10,000地形図でも「中原」の字名が収録されているが、この字名は大正期(高田町が誕生した1920年ごろか)には「御堂杉」に変わり、「中原」という字名は池袋駅の西側、西巣鴨町大字池袋の立教大学周辺で存続していく地名となる。
 そこで、佐伯祐三Click!「踏切」Click!に描かれた看板に見える「中原工〇」Click!は、立教大学周辺の(字)中原ではなく山手線の東側、すなわち後藤徳次郎の屋敷があった周辺の(字)中原で、早い時期から操業していた工場である可能性があることだ。以前、同様の記事を書いたときは、山手線の西側の(字)中原界隈を探索していたが、新たな事実が判明したので山手線の東側一帯(現・南池袋界隈)にも注意を向けてみたい。この課題について、新たな事実が判明したらさっそくご報告したいと考えている。
 1910年(明治43)11月、正宗得三郎が西大久保へ落ち着くと、海老澤了之介Click!は盛んに彼の仕事を支援したり、面倒をみたりしていたようだ。正宗得三郎から海老澤了之介にあてた手紙が現存しているので、つづけて引用してみよう。
正宗得三郎(卒制)1907.jpg 正宗得三郎(晩年).jpg
海老澤邸1926.jpg
正宗得三郎「白浜の波」1938頃.jpg
  
 先日は態々御出下されしも、不在にて失礼致し候、本日洋服店へ参り、インバネスの表地は貴兄と御同様に致し候、裏地はシユスに致し、代価十五円にて注文候、尚オーバー十七円にて注文候、油絵御周旋有難く候、肖像は、一度御本人に面会の上写真拝借致し候方都合宜敷、又似る点に於ても、写真の方宜敷く、色は、一度会えば大抵解り申し候、右の都合故、貴兄の御都合宜敷時、御一報下されゝば、小生は何日にても参る可く候、尚静物は何かの二十号なれば、御送付致し置きても宜敷候、代価は、額縁つき、五十円か六十円なれば結構に候、一時払ひでなくも、ニ三度にても宜敷く候、これより小さきもの、要求に候はば、至急、写生致すべく、右御聞かせ下され度く候/二伸 実業の日本社の御方、住所御通知合せて御願ひ申上げ候、本日実は千代子差上げ申す筈の所、少々用事出来、右手紙にて御尋ね申上げ候
   明治四十三年十一月十六日      府下西大久保二百七  正宗得三郎
  
 インバネスClick!やオーバーを注文しているところをみると、海老澤が馴染みの洋服店を正宗に紹介してあげたのだろう。このとき描かれた肖像画は、大蔵省醸造試験所の所長だった『桜井鉄太郎像』のことであり、静物画を欲しがっている「実業の日本社の御方」とは、海老澤了之介が早稲田大学文学部で同窓だった、のちに児童文学者となる滝沢永二(滝沢素水)のことだ。
 このあと、ほどなく正宗得三郎は官製の文展(文部省美術展覧会)に飽きたらず、1913年(大正2)には二科の創設運動へ参加し、翌1914年(大正3)には二科会を結成することになる。そして、同年4月に日本を発つと、第1次世界大戦が勃発するまでの丸2年間、ヨーロッパで遊学生活を送ることになる。
海老澤邸1936.jpg
海老澤邸19450517.jpg
海老澤邸跡.jpg
 正宗得三郎は、大正末から昭和初期にかけ成城学園で美術教師をつとめ、アトリエを上落合に南接する中野区住吉町(現・東中野4丁目)にかまえていた。地下鉄東西線・落合駅の南側で、華洲園住宅地Click!の西側にあたる区画だ。だが、1945年(昭和20)の二度にわたる山手空襲Click!でアトリエは焼け、保管されていた絵画作品をすべて失っている。

◆写真上:1911年(明治44)に、西大久保の新婚時代に描かれた正宗得三郎『河港』。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる後藤徳次郎屋敷。は、海老澤了之介が描く1910年(明治43)ごろの後藤徳次郎邸。深い森に囲まれており、手前の芝庭には海老澤邸が描かれている。は、海老澤了之介邸の拡大。
◆写真中下上左は、正宗得三郎が描いた東京美術学校の卒制『自画像』。上右は、晩年の正宗得三郎。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる後藤徳次郎邸。は、1938年(昭和13)ごろ制作の正宗得三郎『白浜の波』。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる海老澤了之介邸(旧・後藤徳次郎邸)。は、第1次山手空襲後の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機から撮影された海老澤邸の焼跡(?)。は、昔日の面影が皆無な海老澤邸(旧・後藤邸)跡。

読んだ!(15)  コメント(15) 

100年の時を超えて出現するお化け。 [気になるエトセトラ]

墓地のある坂道.jpg
 本日、拙ブログへの訪問者がのべ1,600万人を超えました。いつもお読みいただき、ありがとうございます。地味なメンテナンス作業にもウンザリ気味ですので、しばらく記事をつづけて書いてみたいと思います。あまり秋が深まらないうちに、この夏書きそこなった落合地域の近辺で語られつづける、100年越しの怪談から……。w
アクセスカウンター20180914.jpg
  
 2014年(平成26)に角川書店から出版された『女たちの怪談百物語』(角川文庫)の中に、落合地域の西隣り、新井薬師駅の周辺で起きた妖怪譚が収録されている。脚本家で作家の長島槇子が、学生時代に下宿していたアパートで体験した怪談だ。大学1年生のときの体験というから、おそらく1970年代の初めごろのことなのだろう。
 収録されているのは、百物語のうちの第22話で長島槇子『人間じゃない』というエピソードだ。当時、彼女は新井薬師駅から徒歩15分ほどのところにあるアパートの1階に住んでおり、アパート前の接道は坂になっていた。その坂道の両側には、墓地が拡がっているような環境だった。アパート周辺の状況を、同書から少し引用してみよう。
  
 (前略)アパートの前は坂道なんですが、両側が墓地だったんですよ。坂の上から見下ろすと、塀ごしに墓が見える。片側は道に面して家が並んでいるんですが、その裏はやっぱり墓地なんですね。とにかく墓場だらけの所なんですよ(笑)。/アパートには共同の水場があって、当時の学生は洗濯機なんかなかったから、タライで洗濯していたんですが、その水場から建物の裏を抜けて、墓地に入って行けました。
  
 駅から女性の足で15分ぐらいの距離で、坂道の片側に塀がつづき、その向こう側に墓地が見えるが、反対側につづく住宅のうしろ側もまた墓地だ……という風情を聞けば、新井薬師駅の周辺に住んでいる方なら、「ああ、あそこだね」と思い当たる人も多いだろう。中野区の口承伝承の中でも、かなり「怪異・霊異」の説話が多く語られ、中野区教育委員会によって多くの伝承が記録されている某寺の近くにある坂道だ。
 学生だった彼女は、訪ねてきた学友のUさんとアパートで酒盛りをはじめるが、酔いがまわったところでUさんが墓場へ遊びにいこうといい出す。ふたりで墓場を一巡したあと、部屋にもどってみるとUさんの手が切れて出血していた。軽傷だったが、友人は「バチが当たった」と一言いうだけで、ふたりともすぐに寝てしまった。そのまま、当日はなにごとも起きずにすぎたが、友人が帰った翌日の夜のこと、ベッドで寝ていた彼女は夜中に目をさました。窓際に置かれた机のほうを見ると、椅子に白い影が座っている。
  
 ぼんやりと白く見えているだけなんですが、それが子供で、女の子で、おかっぱ頭でスカートをはいている、ということは分かるんです。/目が離せないで見ていると、その子がこちらを向き始めた。椅子は背もたれのある回転椅子だったんですが、首だけが、私の方に向いてくる。/ゆっくりと、首をひねって向いてくるのが、たまらなく恐いんですけど、やめてとも、キャーとも声が出せなくて、ただ、見ている他ないんです。/真っ白な顔でした。髪の毛も白くて、顔も白い。正面を向いた、その子の顔が……人間じゃない……。/目も鼻もなくて口だけの顔でした。その口も、耳まで裂けていたんです。(中略) 『お歯黒べったり』という妖怪に似ています。貉が化ける『のっぺらぼう』とも合致します。目も鼻もない顔の、耳まで裂けていた口を、今でも思い出せますから、夢ではなかったと思います。
  
絵本百物語「お歯黒べったり」1841.jpg
恋川春町「妖怪仕内評判記」1779.jpg
 髪の毛はおかっぱで、スカートをはいた女の子というかたちは、少なくとも大正期以降の風俗をしている「お化け」ということになりそうだ。書かれている、江戸期に多く出現した「お歯黒べったり」や「のっぺらぼう」とは風俗が合致しない。ただし、これらの妖怪たちが時代々々に合わせコスチュームを取り替える、つまり積極的に「現代風」のファッションを身にまとい、着替えを楽しみながら人々を脅かすために出現している……というなら話は別だ。
 実は、これと似たような怪談話が、長島槇子の住んでいたアパートの周辺一帯で、幕末ないしは明治初期にかけて語られていたことが、中野区教育委員会が作成した地元の資料に記録されている。もっとも、江戸時代が終わったばかりのころのその「お化け」は、家の中にではなく近くの川の橋の上に出現している。もし、長島槇子が暮らしたアパートの近くの川に出現しているとすれば、ほどなく落合地域へと流れこむ北川Click!、もちろん現代の妙正寺川Click!ということになる。
 1987年(昭和62)に中野区教育委員会が出版した報告書冊子、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』からさっそく引用してみよう。語っているのは1902年(明治35)生まれで、上高田の北側に位置する江古田地域に住んでいた男性だが、その父親の世代が体験した話だ。「お化け」が出現したのは江古田地域の橋とは限らないと、わざわざ最初に断りを入れてから話しはじめている。ちなみに、中野区教育委員会ではこのお化けのことを「口裂け女」と名づけている。w
水木しげる「お歯黒べったり」.jpg
日本民話の会「口裂け女」.jpg Slit Mouth Woman in L.A.2016.jpg
  
 ある晩ですねぇ、月夜の晩に、橋の上にですねぇ、耳の方まで裂けたね、婦人がねぇ、このぅ、なんていいますか、髪をすいてたっていうんですよ。橋の上で。それで、そこ行けない、渡って帰れなかったっていうんです。その人が。父の友人ですから。なに、どうして、そのね、ああいうとこに夜中にね、婦人が出てましてね、髪をすいてるんだろうって。/それは、髪をすいてたってことは、後の話なんですけども。最初はね、ここまで、耳まで口が裂けていて、それで、乱れ髪の、こう、髪がね、綴じてなくって。それで、橋の、ちょうどま上でね、やってたっていうんです。そういうのを遠くから見て、そこを通らなくっちゃ帰れないんで、ずいぶん立ち止まっちゃったそうです。その人が。
  
 橋を渡らなければ帰れない、つまり江古田村にある自宅へ帰宅できないとすれば、もちろんこのお化けは江古田村内の橋に出現しているのではない……という解釈が成立する。また、長島槇子がアパートで目撃したおかっぱ頭の「女の子」と、明治初期の橋の上に出現した乱れ髪を櫛でとかす「婦人」とは、年齢的にまったく一致しない。だが、これらの耳まで裂けた口をしている女が、幽霊ではなくお化け=妖怪のたぐいだと想定すれば、あながち不思議でも不可解でもないことになる。
 妖怪変化(へんげ)であれば、出現する場所や時代に合わせ、あるいは脅かす相手に応じて柔軟に変化自在であり、相手が若い男であれば近づいて注視するよう「妙齢の婦人」に化けて髪をとかし、相手がひとり暮らしの女子学生であれば、当時、少女マンガで流行っていたへび少女Click!風の「怖い女の子」に化けては勉強机の前に座っていたりする……。
光徳院太子堂.jpg
三代豊国墓.jpg
 しこたま酔っぱらって学友と墓場で遊んだ長島槇子は、江戸期から延々と同地域に棲みついている「お歯黒べったり」あるいは「のっぺらぼう」、現代風の名称でいうなら「口裂け女」(中野区教育委員会)に類似する妖怪に見とがめられ、二度と墓地の静寂を破らないよう戒めや教訓を与えようと脅かされているのかもしれない。ひょっとすると、その妖怪は彼女がもっとも怖がるシチュエーションを研究し、アパートの部屋にあった「少女フレンド」に掲載の、楳図かずおの作品かなにかを参考にしているのかもしれない。

◆写真上:新井薬師駅からしばらく歩いた場所にある、墓地に面した坂道のひとつ。
◆写真中上は、1841年(天保12)に出版された桃山人『絵本百物語』の中に登場する「歯黒べったり」。は、1779年(安永8)に出版された恋川春町『妖怪仕内評判記』に掲載の口だけがついた「のっぺらぼう」に近似した妖怪。
◆写真中下は、水木しげるが描く妖怪「お歯黒べったり」。下左は、日本民話の会Click!・監修で2005年(平成17)に出版された「口裂け女」が登場する『学校の怪談/三』(ポプラ社)。下右は、最近はロサンゼルスまで出張してご多忙な「口裂け女」さん。『Slit Mouth Woman in L.A.』(2014年)より。
◆写真下は、上高田の光徳院にある太子堂。は、同じく上高田の萬昌院功運寺にある浮世絵師の初代豊国・二代豊国・三代豊国(歌川国貞)の墓。

読んだ!(20)  コメント(32)