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2018年08月 | 2018年09月 |- ブログトップ

西片町の気になるアトリエ住宅。 [気になるエトセトラ]

金澤庸治邸(清水組).jpg
 西片町Click!を歩いていると、「椎の木広場」(現・西片公園)の近くに気になるアトリエ建築がある。接道の北西側を向いて、大きな採光窓を備えた洋風のアトリエだ。いつかの記事でもご紹介したように、東京美術学校Click!へ新たに設置された建築科の第1期生として卒業している、建築家・金澤庸治のアトリエだ。
 外観からはは、アトリエのみが洋風のデザインで、残りの住宅はすべて和建築のように見える。だが、平面図を入手したので細かく参照してみると、洋間はアトリエだけでなく1階の応接室(8畳大)と食堂(6畳大)、それに広い納戸(8畳大)が板の間のようで、2階は洋居間(8畳大)に物置(4畳半大)、調度室(3畳大)が板の間だったようだ。
 また、和室は思いのほか多く1階は8畳が2間に6畳が3間、3畳の女中部屋に2畳の衣装室が付属している。2階は、床(とこ)のある10畳の客間がひとつに、6畳の次の間がつづいている。さらに、1階には浴室がふたつにトイレがふたつ、化粧室がひとつ付属している。接道から眺めた建物の雰囲気からすると、かなりコンパクトな住宅のように見えるが、南東に向かってかなりの奥行きがあり、総建坪は約100坪ほどにのぼる。
 1階の居間×3室と2階の客間×2室を、真南に向けようと角度をつけて設計している。つまり、1階と2階のこの一画だけ屋根の大棟が東西を向き、家全体の軸は南東から北西に向いているのが面白い。そのため、納戸や奥の部屋へと向かう廊下が斜めに設置されていて、廊下を折れる確度が直角ではない。このような建て方の家を、わたしは落合地域とその周辺域で見たことがなく、できるだけ陽光を部屋へと採りこんで明るい家にしようという、金澤庸治ならではの工夫なのだろう。
 住宅内に洋風の生活様式を取り入れながら、どちらかといえば和建築にこだわった設計や意匠をしているように見える。木造2階建てで、「洋風一部和風」と記録さているが、「和風一部洋風」が正しい表現だろう。外壁は下見板張りおよびラス張りで、内部の壁は漆喰と砂壁、屋根は三州引掛け桟瓦という仕様だ。この平面図は、1930年(昭和5)8月に清水組の施工で金澤邸が竣工した直後のもので、1935年(昭和10)に土木建築資料新聞社から出版された、清水組『住宅建築図集』に収録されている。
 そこには、竣工直後の同邸の写真が内部の写真とともに掲載されているが、現在、西片町で目にすることができる実際の建物とほとんど差異がないのに驚く。おそらく、1982年(昭和57)に金澤庸治が死去したあとも、ていねいにメンテナンスが繰り返され使われつづけてきたのだろう。
 金澤庸治は、東京美術学校を卒業すると1926年(大正15)から同校で長く教師をつとめ、同時に建築家として多彩な作品を残している。恩師の岡田信一郎とともに手がけたコラボ作品も、各地に数多く存在しているようだ。東京藝術大学(旧・東京美術学校)のある藝大通り(都道452号線)を歩くと、周囲には洋風建築が多い中で、ひときわ目につく和風建築がある。金澤庸治が設計し、1935年(昭和10)に竣工した東京藝大美術館の正木記念館だ。隣り(北西側)には、同記念館へ接するように師の岡田信一郎が設計した洋風の東京藝大陳列館が並んでいる。コンクリート造りだが、明らかに日本の江戸期に造られた城郭を思わせるようなデザインで、内部は日本美術の展示に使われている。
金澤庸治邸平面図.jpg
金澤庸治邸客間(清水組).jpg
金澤邸1948.jpg
 金澤邸を施工した清水組の住宅作品について、もう少し当時の様子を見てみよう。ちょうど1930年(昭和5)8月に、金澤邸とほぼシンクロするように同規模の総建坪約100坪となる2階建て住宅を、同じく「東京市内」で手がけている。具体的な建設場所は不明だが、H氏邸と名づけられた家は、建築家の渡辺静が設計した外観は西洋館の和洋折衷住宅だ。竣工がまったく同時期であり、ひょっとすると同じ西方町内なのかもしれないが、金澤邸と比較すると面白いので少し余談めくがご紹介したい。
 H氏邸は、非常にオーソドックスな造りをしていて、洋間と日本間が混在する、外観も含めて今日の住宅につながるような仕様をしている。清水組の建設作業員にしてみれば、おそらく金澤邸よりもH氏邸のほうが造りやすかったのではないだろうか。木造2階建てで見た目は洋風、外壁は色モルタルラフ仕上げとされているが、モノクロ写真なのでカラーはわからない。
 1階は10室あるが、そのうち居間×2部屋と隠居部屋(老人室)、女中部屋、書生部屋の5部屋が和室だ。2階は客間と次の間が和室で、残りは洋間の造りになっている。部屋のかたちで設置されている「ベランダ―」(1・2階)も含めると、和室と洋室が半々ぐらいだろうか。浴室は1階にひとつだが、トイレは1階に2ヶ所、2階に1ヶ所の計3ヶ所が配置されている。大きめな応接室や書斎、ポーチが接道を向いて建てられている住宅(H氏邸は南向き)は、落合地域などでもよく見られた仕様だ。
金澤邸1.JPG
金澤邸2.JPG
金澤邸3.JPG
 当時の住宅建設の様子について、清水組の社長・清水釘吉が『住宅建築図集』の中に記している。同書の「序」から、少し引用してみよう。
  
 住宅建設は今が過渡期であります。欧米の建築を其儘模倣して満足出来ず、従来の和風建築の儘にても亦満足の出来ない立場であります。彼我生活状態の相違は、急激なる変化を許しませぬが故に、近時、住宅改良の諸問題が論議実行されつゝある時代であります。(中略) 住宅は、我日本人の今日に取つて或は洋風が便利であり、或は和風が便利であります。従而現代は和洋折衷式が、最も一般社会から取扱はれて居ります。蓋し、自然の趨勢であらうと思ひます。即ち、住宅は其時代の真実を語つて居るものでありまして、一国の文化国民教養の程度は住宅に拠つて察知する事を得るものであります。
  
 明治期からつづく和と洋の折衷・融合について、ハウスメーカーとして試行錯誤を繰り返していた様子がうかがい知れる。
 さて、1935年(昭和10)に出版された清水組の『住宅建築図集』は、明治末から1934年(昭和9)12月末までに竣工した、清水組の住宅や別荘を中心とした仕事を写真と図面でまとめたものだ。その中には、落合地域とその周辺域に建てられた住宅も含まれている。ただし、すべての住宅が施工主の頭文字をとり、アルファベットの1文字表記で邸名が記載されているので、住民の名前や住宅が建設された位置を特定するのは容易でない。
藝大正木記念館.JPG 藝大美術館陳列館.JPG
H氏邸(清水組)1930.jpg
H氏邸平面図.jpg
 こちらでも以前、下落合の近衛町Click!に建てられていた昭和期の長瀬邸Click!近衛邸Click!の2棟を清水組の仕事としてご紹介しているが、おそらく落合地域で手がけた仕事は、これだけにとどまらないだろう。新たに同書で近くの住宅が特定できたら、またこちらで取り上げたいと思っている。

◆写真上:1930年(昭和5)8月に撮影された、西片町に竣工直後の金澤庸治邸。
◆写真中上は、金澤邸竣工時の平面図。は、同邸2階の床のある10畳サイズの客間。は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる西片町の金澤庸治邸。
◆写真中下:椎の木広場(現・西片公園)の近くにある、金澤邸の現状。
◆写真下上左は、金澤庸治が設計した東京藝術大学の正木記念館。上右は、金澤庸治の師である岡田信一郎が設計した隣接する東京藝大美術館の陳列館。は、金澤邸とまったく同時期の1930年(昭和5)8月に竣工したH氏邸とその平面図。

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雑司ヶ谷で結婚した正宗得三郎。 [気になるエトセトラ]

正宗得三郎「河港」1911.jpg
 二科会の「重鎮」といわれた正宗得三郎Click!が、若いころ高田村雑司ヶ谷で暮していたことが判明した。ちょうど日本画家になるのをやめ、東京美術学校Click!の西洋画科を卒業したあと、1909年(明治42)に初めて文展へ入選したころのことだ。しかも、雑司ヶ谷で寄宿していた先は、のちに高田町の町長をつとめることになる海老澤了之介Click!の新婚家庭だった。
 正宗得三郎というと落合地域の南西、豊多摩郡大久保町西大久保207番地に住み、大久保文学倶楽部に所属して南薫三Click!藤田嗣治Click!三宅克己Click!小寺健吉Click!、中澤弘光らとともに大久保で洋画展覧会を開催していたのは、こちらでもすでにご紹介している。また、曾宮一念Click!とも交流があったらしく、彼のエッセイには何度か訪問先として登場していた。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたのは、1909~1910年(明治42~43)ごろのわずか2年間のことで、このあと彼は結婚式を故郷で挙げるために1910年(明治43)の秋、岡山県和気郡伊里村へと帰省し、再び上京すると同年11月には妻とともに西大久保207番地の借家へ落ち着いている。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたとき、海老澤夫妻には子どもが生まれたばかりで、後藤徳次郎邸の門前に拡がる芝庭に、老母の隠居家つづきの2階家を建ててもらって住んでいた。明治末の地番でいうと高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原730番地、大正末には高田町雑司ヶ谷御堂杉733番地、1932年(昭和7)からは豊島区雑司ヶ谷5丁目732番地(現・南池袋3丁目)となる区画だ。当時の様子を、1954年(昭和29)に出版された、海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 かうした生活のさなかに、どうした事からか、二科会の元老正宗得三郎君が、私の所に暫時止宿して居た事があつた。同君は未だ独身時代で、今の様な名声も無く、純情朴訥な画家でありながら一切が無造作で、まことに愛すべき人柄であつた。彼が、ブラブラして居ると、手を離しかねる仕事をしている妻が「正宗さん、赤ん坊を抱いてちやうだいよ」と言ふ、ぶつきら棒な正宗君は「僕は赤ん坊嫌ひです」と一応言ふものゝ、再度の要請で、しぶしぶ両手を不器用に赤ん坊の方へ差し出す、妻がその上に乗せてやると、そのまゝの姿勢で前の芝生を一周する。両腕に赤ん坊を捧げて居る様な恰好であるから、直ぐくたびれてしまつて「奥さん、くたびれました」と誠に困つた様な顔つきで言ふが、その時も矢つ張り、前と同じ姿勢なのであつた。どうも正宗君は赤ん坊の抱き方を知らなかつたやうだ。この場面や、困却した彼の顔を回想すると、自づ(ママ)と微苦笑せざるを得ない。しかし彼も、間もなく私の中二階で、千代子さんと言ふ新妻をめとることとなり、又しても赤ん坊を抱かなければならない羽目とはなつた。
  
 故郷岡山での結婚式とは別に、正宗得三郎・千代子夫妻の東京での結婚披露宴は、海老澤家の中2階で行われたのがわかる。

海老澤家1909.jpg
雑司ヶ谷中原730番地1910頃.jpg
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 明治末から大正初期にかけ、海老澤家を含む雑司ヶ谷の後藤徳次郎の屋敷は、樹齢400年ほどのケヤキやスギの森に囲まれており、山手線の池袋停車場Click!まで田畑や林が拡がるような情景だった。武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)はいまだ敷設されておらず、池袋停車場で降りた観光客たちが雑司ヶ谷鬼子母神Click!とまちがえて、後藤屋敷を訪れるような風情だった。後藤屋敷の前に拡がる芝庭だけで数百坪はあったというから、おそらく後藤徳次郎の屋敷地はゆうに1,000坪を超えていたのだろう。屋敷の北東にかけて、ようやく市街地が形成されるような時代だった。
 さて、ここで少し横道にそれるが、後藤徳次郎邸=海老澤了之介邸周辺の字名が、少なくとも明治末まで「中原」と呼ばれていた点に留意したい。本記事に掲載した1/10,000地形図でも「中原」の字名が収録されているが、この字名は大正期(高田町が誕生した1920年ごろか)には「御堂杉」に変わり、「中原」という字名は池袋駅の西側、西巣鴨町大字池袋の立教大学周辺で存続していく地名となる。
 そこで、佐伯祐三Click!「踏切」Click!に描かれた看板に見える「中原工〇」Click!は、立教大学周辺の(字)中原ではなく山手線の東側、すなわち後藤徳次郎の屋敷があった周辺の(字)中原で、早い時期から操業していた工場である可能性があることだ。以前、同様の記事を書いたときは、山手線の西側の(字)中原界隈を探索していたが、新たな事実が判明したので山手線の東側一帯(現・南池袋界隈)にも注意を向けてみたい。この課題について、新たな事実が判明したらさっそくご報告したいと考えている。
 1910年(明治43)11月、正宗得三郎が西大久保へ落ち着くと、海老澤了之介Click!は盛んに彼の仕事を支援したり、面倒をみたりしていたようだ。正宗得三郎から海老澤了之介にあてた手紙が現存しているので、つづけて引用してみよう。
正宗得三郎(卒制)1907.jpg 正宗得三郎(晩年).jpg
海老澤邸1926.jpg
正宗得三郎「白浜の波」1938頃.jpg
  
 先日は態々御出下されしも、不在にて失礼致し候、本日洋服店へ参り、インバネスの表地は貴兄と御同様に致し候、裏地はシユスに致し、代価十五円にて注文候、尚オーバー十七円にて注文候、油絵御周旋有難く候、肖像は、一度御本人に面会の上写真拝借致し候方都合宜敷、又似る点に於ても、写真の方宜敷く、色は、一度会えば大抵解り申し候、右の都合故、貴兄の御都合宜敷時、御一報下されゝば、小生は何日にても参る可く候、尚静物は何かの二十号なれば、御送付致し置きても宜敷候、代価は、額縁つき、五十円か六十円なれば結構に候、一時払ひでなくも、ニ三度にても宜敷く候、これより小さきもの、要求に候はば、至急、写生致すべく、右御聞かせ下され度く候/二伸 実業の日本社の御方、住所御通知合せて御願ひ申上げ候、本日実は千代子差上げ申す筈の所、少々用事出来、右手紙にて御尋ね申上げ候
   明治四十三年十一月十六日      府下西大久保二百七  正宗得三郎
  
 インバネスClick!やオーバーを注文しているところをみると、海老澤が馴染みの洋服店を正宗に紹介してあげたのだろう。このとき描かれた肖像画は、大蔵省醸造試験所の所長だった『桜井鉄太郎像』のことであり、静物画を欲しがっている「実業の日本社の御方」とは、海老澤了之介が早稲田大学文学部で同窓だった、のちに児童文学者となる滝沢永二(滝沢素水)のことだ。
 このあと、ほどなく正宗得三郎は官製の文展(文部省美術展覧会)に飽きたらず、1913年(大正2)には二科の創設運動へ参加し、翌1914年(大正3)には二科会を結成することになる。そして、同年4月に日本を発つと、第1次世界大戦が勃発するまでの丸2年間、ヨーロッパで遊学生活を送ることになる。
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 正宗得三郎は、大正末から昭和初期にかけ成城学園で美術教師をつとめ、アトリエを上落合に南接する中野区住吉町(現・東中野4丁目)にかまえていた。地下鉄東西線・落合駅の南側で、華洲園住宅地Click!の西側にあたる区画だ。だが、1945年(昭和20)の二度にわたる山手空襲Click!でアトリエは焼け、保管されていた絵画作品をすべて失っている。

◆写真上:1911年(明治44)に、西大久保の新婚時代に描かれた正宗得三郎『河港』。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる後藤徳次郎屋敷。は、海老澤了之介が描く1910年(明治43)ごろの後藤徳次郎邸。深い森に囲まれており、手前の芝庭には海老澤邸が描かれている。は、海老澤了之介邸の拡大。
◆写真中下上左は、正宗得三郎が描いた東京美術学校の卒制『自画像』。上右は、晩年の正宗得三郎。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる後藤徳次郎邸。は、1938年(昭和13)ごろ制作の正宗得三郎『白浜の波』。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる海老澤了之介邸(旧・後藤徳次郎邸)。は、第1次山手空襲後の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機から撮影された海老澤邸の焼跡(?)。は、昔日の面影が皆無な海老澤邸(旧・後藤邸)跡。

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100年の時を超えて出現するお化け。 [気になるエトセトラ]

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 本日、拙ブログへの訪問者がのべ1,600万人を超えました。いつもお読みいただき、ありがとうございます。地味なメンテナンス作業にもウンザリ気味ですので、しばらく記事をつづけて書いてみたいと思います。あまり秋が深まらないうちに、この夏書きそこなった落合地域の近辺で語られつづける、100年越しの怪談から……。w
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 2014年(平成26)に角川書店から出版された『女たちの怪談百物語』(角川文庫)の中に、落合地域の西隣り、新井薬師駅の周辺で起きた妖怪譚が収録されている。脚本家で作家の長島槇子が、学生時代に下宿していたアパートで体験した怪談だ。大学1年生のときの体験というから、おそらく1970年代の初めごろのことなのだろう。
 収録されているのは、百物語のうちの第22話で長島槇子『人間じゃない』というエピソードだ。当時、彼女は新井薬師駅から徒歩15分ほどのところにあるアパートの1階に住んでおり、アパート前の接道は坂になっていた。その坂道の両側には、墓地が拡がっているような環境だった。アパート周辺の状況を、同書から少し引用してみよう。
  
 (前略)アパートの前は坂道なんですが、両側が墓地だったんですよ。坂の上から見下ろすと、塀ごしに墓が見える。片側は道に面して家が並んでいるんですが、その裏はやっぱり墓地なんですね。とにかく墓場だらけの所なんですよ(笑)。/アパートには共同の水場があって、当時の学生は洗濯機なんかなかったから、タライで洗濯していたんですが、その水場から建物の裏を抜けて、墓地に入って行けました。
  
 駅から女性の足で15分ぐらいの距離で、坂道の片側に塀がつづき、その向こう側に墓地が見えるが、反対側につづく住宅のうしろ側もまた墓地だ……という風情を聞けば、新井薬師駅の周辺に住んでいる方なら、「ああ、あそこだね」と思い当たる人も多いだろう。中野区の口承伝承の中でも、かなり「怪異・霊異」の説話が多く語られ、中野区教育委員会によって多くの伝承が記録されている某寺の近くにある坂道だ。
 学生だった彼女は、訪ねてきた学友のUさんとアパートで酒盛りをはじめるが、酔いがまわったところでUさんが墓場へ遊びにいこうといい出す。ふたりで墓場を一巡したあと、部屋にもどってみるとUさんの手が切れて出血していた。軽傷だったが、友人は「バチが当たった」と一言いうだけで、ふたりともすぐに寝てしまった。そのまま、当日はなにごとも起きずにすぎたが、友人が帰った翌日の夜のこと、ベッドで寝ていた彼女は夜中に目をさました。窓際に置かれた机のほうを見ると、椅子に白い影が座っている。
  
 ぼんやりと白く見えているだけなんですが、それが子供で、女の子で、おかっぱ頭でスカートをはいている、ということは分かるんです。/目が離せないで見ていると、その子がこちらを向き始めた。椅子は背もたれのある回転椅子だったんですが、首だけが、私の方に向いてくる。/ゆっくりと、首をひねって向いてくるのが、たまらなく恐いんですけど、やめてとも、キャーとも声が出せなくて、ただ、見ている他ないんです。/真っ白な顔でした。髪の毛も白くて、顔も白い。正面を向いた、その子の顔が……人間じゃない……。/目も鼻もなくて口だけの顔でした。その口も、耳まで裂けていたんです。(中略) 『お歯黒べったり』という妖怪に似ています。貉が化ける『のっぺらぼう』とも合致します。目も鼻もない顔の、耳まで裂けていた口を、今でも思い出せますから、夢ではなかったと思います。
  
絵本百物語「お歯黒べったり」1841.jpg
恋川春町「妖怪仕内評判記」1779.jpg
 髪の毛はおかっぱで、スカートをはいた女の子というかたちは、少なくとも大正期以降の風俗をしている「お化け」ということになりそうだ。書かれている、江戸期に多く出現した「お歯黒べったり」や「のっぺらぼう」とは風俗が合致しない。ただし、これらの妖怪たちが時代々々に合わせコスチュームを取り替える、つまり積極的に「現代風」のファッションを身にまとい、着替えを楽しみながら人々を脅かすために出現している……というなら話は別だ。
 実は、これと似たような怪談話が、長島槇子の住んでいたアパートの周辺一帯で、幕末ないしは明治初期にかけて語られていたことが、中野区教育委員会が作成した地元の資料に記録されている。もっとも、江戸時代が終わったばかりのころのその「お化け」は、家の中にではなく近くの川の橋の上に出現している。もし、長島槇子が暮らしたアパートの近くの川に出現しているとすれば、ほどなく落合地域へと流れこむ北川Click!、もちろん現代の妙正寺川Click!ということになる。
 1987年(昭和62)に中野区教育委員会が出版した報告書冊子、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』からさっそく引用してみよう。語っているのは1902年(明治35)生まれで、上高田の北側に位置する江古田地域に住んでいた男性だが、その父親の世代が体験した話だ。「お化け」が出現したのは江古田地域の橋とは限らないと、わざわざ最初に断りを入れてから話しはじめている。ちなみに、中野区教育委員会ではこのお化けのことを「口裂け女」と名づけている。w
水木しげる「お歯黒べったり」.jpg
日本民話の会「口裂け女」.jpg Slit Mouth Woman in L.A.2016.jpg
  
 ある晩ですねぇ、月夜の晩に、橋の上にですねぇ、耳の方まで裂けたね、婦人がねぇ、このぅ、なんていいますか、髪をすいてたっていうんですよ。橋の上で。それで、そこ行けない、渡って帰れなかったっていうんです。その人が。父の友人ですから。なに、どうして、そのね、ああいうとこに夜中にね、婦人が出てましてね、髪をすいてるんだろうって。/それは、髪をすいてたってことは、後の話なんですけども。最初はね、ここまで、耳まで口が裂けていて、それで、乱れ髪の、こう、髪がね、綴じてなくって。それで、橋の、ちょうどま上でね、やってたっていうんです。そういうのを遠くから見て、そこを通らなくっちゃ帰れないんで、ずいぶん立ち止まっちゃったそうです。その人が。
  
 橋を渡らなければ帰れない、つまり江古田村にある自宅へ帰宅できないとすれば、もちろんこのお化けは江古田村内の橋に出現しているのではない……という解釈が成立する。また、長島槇子がアパートで目撃したおかっぱ頭の「女の子」と、明治初期の橋の上に出現した乱れ髪を櫛でとかす「婦人」とは、年齢的にまったく一致しない。だが、これらの耳まで裂けた口をしている女が、幽霊ではなくお化け=妖怪のたぐいだと想定すれば、あながち不思議でも不可解でもないことになる。
 妖怪変化(へんげ)であれば、出現する場所や時代に合わせ、あるいは脅かす相手に応じて柔軟に変化自在であり、相手が若い男であれば近づいて注視するよう「妙齢の婦人」に化けて髪をとかし、相手がひとり暮らしの女子学生であれば、当時、少女マンガで流行っていたへび少女Click!風の「怖い女の子」に化けては勉強机の前に座っていたりする……。
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 しこたま酔っぱらって学友と墓場で遊んだ長島槇子は、江戸期から延々と同地域に棲みついている「お歯黒べったり」あるいは「のっぺらぼう」、現代風の名称でいうなら「口裂け女」(中野区教育委員会)に類似する妖怪に見とがめられ、二度と墓地の静寂を破らないよう戒めや教訓を与えようと脅かされているのかもしれない。ひょっとすると、その妖怪は彼女がもっとも怖がるシチュエーションを研究し、アパートの部屋にあった「少女フレンド」に掲載の、楳図かずおの作品かなにかを参考にしているのかもしれない。

◆写真上:新井薬師駅からしばらく歩いた場所にある、墓地に面した坂道のひとつ。
◆写真中上は、1841年(天保12)に出版された桃山人『絵本百物語』の中に登場する「歯黒べったり」。は、1779年(安永8)に出版された恋川春町『妖怪仕内評判記』に掲載の口だけがついた「のっぺらぼう」に近似した妖怪。
◆写真中下は、水木しげるが描く妖怪「お歯黒べったり」。下左は、日本民話の会Click!・監修で2005年(平成17)に出版された「口裂け女」が登場する『学校の怪談/三』(ポプラ社)。下右は、最近はロサンゼルスまで出張してご多忙な「口裂け女」さん。『Slit Mouth Woman in L.A.』(2014年)より。
◆写真下は、上高田の光徳院にある太子堂。は、同じく上高田の萬昌院功運寺にある浮世絵師の初代豊国・二代豊国・三代豊国(歌川国貞)の墓。

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