So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

江戸東京人の「4つのお願い」プロジェクト。 [気になるエトセトラ]

日本橋1.JPG
 この夏、日本橋「復活」のニュースがとどいたので急遽、記事を書いてみたくなった。
  
 別に親父は、ちあきなおみの歌が好きだったわけではなさそうだけれど、戦後は「♪4つのお願い聞いて~」の運動や活動へ取り組み、積極的にかかわってきた。(わたしも、及ばずながらそうしているが) その「4つの願い」とは、薩長政府の大日本帝国が滅亡した1945年(昭和20)以来、戦前から、いやおそらく明治期も含めた先祖代々一貫してつづく、江戸東京人のフリーメイソン的な友愛組織Click!をベースに、江戸東京ならではの文化や風情を復活させる運動や活動への取り組みだった。
 もっとも、表には目立たないフリーメイソン的な「地下組織」などなくても、いまや江戸期からつづく地付きの江戸東京人の人口は増えつづけ、250万~300万人(東京23区の人口の26~31%)ともいわれているので、地元民が結束して「大江戸ファン」の同調者や協力者をあまねく含めれば、親父の世代とは比べものにならない相当な活動力や事業力、そして機動力を発揮できるだろう。
 それらのテーマには、明治期から延々とつづいてきた課題もあった。ひとつめは、もちろん江戸東京総鎮守である神田明神社Click!へ、下落合の将門相馬家Click!ともゆかりの深い平将門Click!を主神へ復活させる運動だ。この活動は長く戦前からつづいていたが、戦後はさらに激化して神社本庁へヒートアップしたデモ隊が押しかけ、あわや討ち入り・打(ぶ)ちこわし寸前になったというエピソードさえ聞いている。そして、平将門は1984年(昭和59)、およそ100年ぶりに神田明神の主柱Click!へと復活している。(薩長政府が勧請したスクナビコナは、あえて追放Click!しなかったようだ)
 ふたつめが、1732年(享保17)に徳川吉宗Click!が伝染病と飢饉の厄落としとしてはじめた、両国花火大会Click!の復活だった。戦後、1961年(昭和36)から1977年(昭和52)までの16年間、大橋(両国橋)Click!の周辺はビルや商店、住宅などの稠密化による火災の危険や交通渋滞、大川(隅田川)Click!の汚濁による不衛生などを理由に、両国花火大会は中止されていた。この間、日本橋や本所などの地域をはじめ大橋(両国橋)周辺域の人々は、花火復活の運動を絶え間なくずっとつづけていた。だが、消防署の認可がどうしても下りずに、中止から16年もたってしまった。
 しかし、元祖の大橋(両国橋)ではなく、やや上流の駒形橋と言問橋付近で1尺玉以下の打ち上げ花火での開催が認可され、1978年(昭和53)の夏に、1732年(享保17)から1961年(昭和36)までつづいた「両国花火」Click!(戦時中は一時中断)という名称ではなく、「隅田川花火大会」という名前に衣替えして再開されている。ちょうど、わたしが学生時代に復活した大川の花火大会に、親父は「両国花火じゃなくて残念だ」といってはいたが、TVの中継を観ながら目をうるませていた。
 親父が生きていた時代に、かねての「4つの願い」のうち実現できたのは、上記のふたつだけだった。親父が願った3つめのテーマとは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、日本橋区が空襲とその延焼に巻きこまれたとき、ひとつの大きな避難目標Click!にしていた東京駅舎についてだ。親父の言葉をそのまま借りれば、「東京駅を元どおりにすること」だった。同年5月25日夜半の空襲で、東京駅はレンガの外壁を残してほぼ全焼している。戦後に応急措置として再建された駅舎は、建築・土木が専門Click!だった親父にしてみれば、「ぶざまな姿になっちまって」ということだったのだろう。
 自身が見慣れた東京駅舎とは、ほど遠い姿になってしまった駅舎を復元することが、次の大きな“目標”になっていたにちがいない。だが、東京駅の復元は今世紀に入ってから具体化しており、2007年(平成19)の起工時に親父はすでに他界していなかった。あと15年ほど長生きをすれば、親父がいつも目にしていた、そして東京大空襲のときには逃げのびてホッと見上げた、東京駅の姿を眺めることができたのに……と思うと残念でならない。
神田明神.JPG
両国花火1950年代.jpg
両国花火.JPG
 「4つの願い」の最後は、もうおわかりの方も多いと思うが、もちろん江戸東京の中核である日本橋Click!の「復活」だ。日本橋は、もちろん19代目の石橋として現存するのだけれど、ここでいう「復活」とは、地元の反対にまったく耳を貸さず、1964年(昭和39)の東京五輪のドサクサにまぎれて「いけいけどんどん」Click!(小林信彦)で工事を強行した、犯罪的な首都高速道路をなくして日本橋の景観を元にもどす……という意味合いで使われている。親父は、このテーマにもっとも肩入れをしていたけれど、おそらく「4つの願い」の中ではもっともリアリティが希薄なテーマに感じていただろう。
 しかし、ようやく今年(2018年)の7月、2020年に開催予定の東京五輪の直後2021年より、ぶざまな高速道路を取っ払(とっぱら)って「復活」への工事がスタートすることに決定した。日本橋川の上に架かる首都高を、すべて解体して地下化するという工事計画だが、総事業費3,200億円がかかるという。このうち、2,400億円を“主犯”である首都高速道路(株)が負担し、残りを東京都と中央区、地元企業が各400億円ずつ負担するという事業計画だ。ある地域や街のアイデンティティが営々とこもる歴史的文化財や記念物、景観などを地元の声に耳を傾けることなく、なんの考慮や配慮もせずに「開発」(=破壊)すると、あとでどれほど高いツケがまわってくるかの典型的な見本だろう。事業の推進は、国土交通省に設置されていた検討会が主体となっている。
 工期は、いまだ調査段階でスケジュールがフィックスできていないが、2021年にスタートする工事は早くて10年、つまり2031年には地下高速道路が竣工すると見こんでいる。ただし、なんらかの理由で工事が遅延したりすると最長で20年、2041年までかかるとしている。前者の2031年なら、わたしはまだなんとか生きていられるかもしれないが、2041年となるとちょっと怪しい。そのかわり、東京駅舎の「元どおり」がそうだったように、わたしの子どもや孫の世代が確実に目にすることができるだろう。きちんとした本来の美しい日本橋の姿を、幼児期のおぼろげな記憶しかないわたしとしても、ぜひもう一度眺めてみたいものだ。
東京駅(戦後).JPG
東京駅空襲.JPG
東京駅.jpg
 さて、親父の世代までは「4つの願い」だったが、わたしの世代ではもうひとつ、大きなテーマが加わっている。これも、かなり昨今はリアルかつ話題にもなってきているので、東京にお住まいの方ならピンとくるだろう。もちろん、城郭としては世界最大の規模を誇る、千代田城の天守復活だ。防災とからめた一部外濠などの復元は、数寄屋橋の復活を視野に入れているとみられる銀座通連合会Click!などにおまかせすることにして、江戸期の早い時期(1657年の明暦大火)に焼けてしまい再建されなかった、千代田城の中核にあたる日本最大の天守をぜひ復元したい。
 千代田城は、江戸幕府が開かれてから建設されたと思われている方が多いが、同城は三方を海に囲まれたエト゜(鼻=岬)の付け根近くに位置する柴崎村西部の千代田(チオタ・チェオタ)地域へ、1457年(康正3)に太田道灌が「江戸城」Click!を築いたのがはじまりであり、現代までつづく最古クラスの城郭でもある。現存する天守台は、実際に天守が築かれていた時代から多少は加工されているが、それを元どおりにして日本最大(高さ約61m)の天守を復元し、日本橋とともに江戸東京のシンボルにしたいのだ。
 現在、内濠内には天守台を含む本丸、二ノ丸、三ノ丸、北ノ丸が公園として開放されているので、できれば天守の復活にからめて本丸の一部復元も視野に入れ、外濠域も含めた城郭全体の規模を、もう一度ちゃんと規定し位置づけしたい。そうすれば、「なにもない荒野にオフィス街を創出したのは三菱」などという、いまや250万人を超えるとみられる江戸東京人の神経を逆なでするような、三菱地所レジデンスのCM(荒野じゃねえし! お城つづきで文字どおり“丸ノ内”の大名小路の屋敷群を壊して燃やし、「荒野」化=陸軍演習地化したのは薩長政府だろうが)のような、この街の歴史を踏まえぬデリカシーのないキャッチフレーズやコピーは、江戸東京の地元で「創出」されなくなるにちがいない。
日本橋2.JPG
千代田城天守台.JPG
千代田城再建.jpg
 外壁が白と黒のツートンカラーだった巨大な千代田城天守Click!は、江戸東京の(城)下町Click!ならではのシンボルとして機能するばかりでなく、おそらく「世界最大の城郭」と「日本最大の天守」は、社会的なリソースとして海外から見れば日本観光の大きな目玉となるにちがいない。わたしが生きているうちの復元はおそらく無理だろうが、できればコンクリート構造の建築ではなく木造による天守復元へチャレンジしていただき、本丸も含めた「日本最大の木造建築」の復活も視野に入れていただければと思う。

◆写真上:10~20年後には、確実に消滅することになる日本橋上の首都高速道路。
◆写真中上は、1984年から平将門が主柱に復帰している神田明神社。は、1950年代に撮影された両国花火大会。は、同大会で打ち上げられていた3尺玉。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に応急修復される東京駅。は、空襲の焼け跡がそのまま残る同駅舎内。は、ようやく65年ぶりに復元された東京駅。
◆写真下は、日本橋川から眺めた日本橋の中央部で2011年(平成23)の大洗浄から石組みの色は明るい。は、ひとつが人の背丈ほどもある築石が積み上げられた千代田城天守台の一部。は、平川濠に架かる北桔橋門ごしに眺めた千代田城天守の復元図。
おまけ
木造による再建(現在はコンクリート構造)が企画されている大垣城(左)と、千代田城(右)の同率比較の復元模型。千代田城の規模がよくわかる。
千代田城模型.jpg

読んだ!(24)  コメント(30) 
共通テーマ:地域

下落合が舞台の『バラ色の人生』? [気になる下落合]

落合橋から上流.JPG
 ……ということで、またひとつオマケ記事Click!です。w
  
 1973~74年(昭和48~49)という年は、目白崖線沿いの下落合から下戸塚にかけ、映画やTVドラマの撮影が集中していた時期のようだ。下落合では、こちらでも何度かご紹介している日本テレビ開局20周年記念ドラマの『さよなら・今日は』Click!のロケが行われており、少し下流の下戸塚から関口にかけては映画『神田川』Click!(監督・出目昌伸/東宝)が、まったく同時期に撮影されている。
 ロケ場所が新宿区なら、映画会社やTV局、撮影所などからそれほど離れてはいないし、俳優たちを長時間にわたり拘束する必要もなく、移動などでも効率的かつコスト的に有利で、またスケジュールが詰まっている人気俳優を起用するのも、さほど困難ではなかったのだろう。そしてもうひとつ、同じ時期に下落合でロケが行われたらしい作品があるのを見つけた。1974年に放映された、木下惠介の『バラ色の人生』(TBS)だ。
 木下惠介は、親父が好きだった映画監督のひとりだが、木下惠介アワーと呼ばれたTV作品も親父はよく観ていたような気がする。わたしが子どものころ、いちばん印象に残っているのは進藤英太郎の『おやじ太鼓』(1968~69年)だが、他の作品は子どもには“地味”すぎるのか観た憶えがない。わたしの記憶に残る作品というと、向田邦子Click!と組んだ木下惠介・人間の歌シリーズの1作『冬の運動会』(1977年/TBS)ぐらいだろうか。
 木下惠介のドラマをあまり観なかったのは、俳優たちの台詞や動作、表情のみで物語を展開し、登場人物の思いや心の機微、行動などの解釈を視聴者へ全的にゆだねるのではなく、やたら状況や心理を“絵解き”するナレーションが多いクドさと、その言葉づかいの野暮ったさからだったように思う。
 たとえば、『冬の雲』Click!(1971年)ではこんな具合で、かなり大げさかつ「大きなお世話」ナレーションに、もはやついていけない。むしろ、俳優の台詞よりナレーションのほうが多いのではないかとさえ思えてくる。「一度はほぐれそうに見えた感情は再びもつれたまま、夏に入る日のそよ風は、桐原家の居間に何を語りかけるのか?」……などという芦田伸介のナレーションで“つづく”になったりすると、「だからだから、なにがど~したってんだよう?」と反発さえおぼえるのは、わたしのひねくれた性格のせいなのかもしれない。主題歌も仰々しく、とても1970年代の作品とは思えないし、だいたい電話がかかってくるときの田村正和を中心にした、あの家族全員の立ち位置はいったいなんなんだよう!?……と、キリがないのでこのへんでやめるけど。w
神田川と富士女子短期大学.jpg
バラ色の人生タイトル.jpg
 さて、そんな苦手な木下惠介のドラマなので、もちろん『バラ色の人生』Click!(1974年/主題歌Georges Moustaki「私の孤独」)もまったく観ていない。でも、ネットでそのタイトルバックを観たとき、下落合を流れる神田川で撮影されたとみられる映像が目にとまった。どのようなドラマなのか調べてみると、美術学校へ通う版画家をめざす画学生の物語で、寺尾聰や香山美子、仁科明子、森本レオ、草笛光子などの俳優が出演しているらしい。画学生は、川沿いの古いアパートに住んでいるようだが、どうやら美校生というシチュエーションの設定からして、落合地域の匂いがする。
 タイトルバックに使われている川のシーンは、いずれも汚染がピークになったころ、1970年代半ばの神田川Click!をとらえたものらしく、その水辺風景の最後近くに挿入されているカットは、まちがいなく下落合1丁目11番地にあった工場の敷地から、低い落差の堰堤が連なる神田川の水面近くにカメラをすえて撮影されたものだろう。カットの中には、下水から流れこむ生活排水で泡立っている川面が登場したりもするが、毎夏に子どもたちが川遊びや水泳を楽しめ、アユが遡上する水質にまで回復した今日の神田川Click!からみれば、まるで悪夢の情景を見ているようだ。
 では、画面に映されているものを具体的に検証してみよう。まず、川面には手前と奥に、ふたつの低い堰堤(流れの段差)がとらえられている。手前が下落合1丁目11番地、流れのカーブの奥が同1丁目12番地の南側に位置する神田川の堰堤で、画面からおわかりのように下流から上流を眺めている。画面中央に映っている小さな橋は、滝沢さんが設置した私設橋(通称「滝沢橋」Click!)で、1974年の当時はクルマは通れず、人間だけが往来できる狭くて小さな橋だった。その橋を渡った右手には、園藤染工場の建屋と煙突があるはずだ。正面奥に見えている鉄塔状のものは、西武線・下落合駅近くの鉄道変電所に設置された高圧線鉄塔Click!の一部で、高圧線(谷村線)はここからさらに終端となる田島橋Click!の南詰め、東京電力の目白変電所Click!へと向かう。
バラ色の人生1974.jpg
神田川妙正寺川1968.jpg
神田川妙正寺川1963.jpg
 神田川の左手は、高い塀に囲まれた工場ないしは倉庫のあったエリア(高田馬場3丁目)で、その建屋のすぐ南側には戸塚第三小学校Click!が建っている。落合地域や上戸塚地域にお住まいの方なら、もうおわかりかと思うが、画面には映っていないすぐ右手の枠外には、妙正寺川の合流点が口を開けていたはずだ。つまり、神田川のこの位置は、「落合」という地名が生まれる端緒となった、北川Click!(現・妙正寺川)と平川(旧・神田上水→現・神田川)が合流する地点の川面をとらえたものだ。画面右手に隠れている妙正寺川の河口では、すでに分水路の暗渠化工事に備えた住宅や工場の解体作業が、あちこちでスタートしていたかもしれない。
 当時の神田川は、水量が少ない夏季や冬季などは、両岸にコンクリートの川底が斜めに露出するような構造をしていたが、雨でも降ったのか映像の水量は少し多めなので、水面に近いカメラはクレーンで吊り下ろしているのかもしれない。あるいは、下落合1丁目11番地の工場敷地内に、川面近くへと降りられるハシゴ、ないしは小さなテラス状の設備でもあったものだろうか。
 タイトルバックに下落合の映像を見せられると、がぜん画学生を主人公にしたドラマの内容が気になるけれど、『バラ色の人生』は残念ながらBD/DVD化されていない。ネットにアップされた映像からは、どうやら最終回に草笛光子が急死してしまうネタバレの経緯と、タカラの「リカちゃん」(香山リカ)人形のモデルである香山美子がキレイだなぁ……ぐらいしかわからない。とりあえず、大きなお世話の妙なナレーションが聞こえてこないのはなによりだ。
滝沢橋から下流.JPG
香山美子.jpg
神田川妙正寺川1975.jpg
 木下惠介は1933年(昭和8)、落合町葛ヶ谷660番地(のち西落合2丁目596番地)にあった、オリエンタル写真工業Click!が運営するオリエンタル写真学校を卒業している。そのころから、すでに落合地域には馴染みがあったのかもしれない。ちょうど同じころには、長崎町大和田1983番地のプロレタリア美術研究所Click!(のちプロレタリア美術学校Click!)へ、黒澤明Click!が通ってきていたのが面白い。なにかと比較されるふたりの映画監督だけれど、ふたつの学校は直線距離でわずか1,000mほどしか離れていない。

◆写真上:落合橋から、上流にある撮影地点の方角を眺める。堰堤上の右手に見える、茶色いむき出しの鉄骨あたりが、神田川と妙正寺川の合流点だった跡。
◆写真中上は、1980年代に撮影された下落合を流れる神田川。宮田橋から下流をとらえたもので、左側と正面に見えているビルは富士女子短期大学(現・東京富士大学)の時計塔と旧校舎。は、木下惠介の『バラ色の人生』タイトルバック。
◆写真中下は、タイトルバック映像に映るものたち。は、1968年(昭和43)に撮影された同位置の写真。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる撮影位置と画角。
◆写真下は、滝沢橋から下流の撮影位置方向を眺める。サクラ並木が繁っていてわかりにくいが、左手に妙正寺川の河口跡がある。は、同ドラマに出演しているシャキシャキとして好きな女優のひとり香山美子。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる撮影場所。すでに妙正寺川を神田川に合流させない暗渠化工事がスタートしており、周辺の環境は大きくさま変わりしようとしている。
おまけ
近所で空を見ていたら、「おや、あの影は?」ということで追いかけてみると、やはり大きなオニヤンマだった。今度は、琥珀色の翅が美しいギンヤンマを撮ってみたい。
オニヤンマ空.jpg
オニヤンマ.jpg

読んだ!(24)  コメント(36) 
共通テーマ:地域

大阪1時間の滞在レコードを持つ徳山璉。 [気になる下落合]

徳山璉邸跡.JPG
 8月15日というと、どうしても記事をアップしたくなります。単調でつまらなくて、ウンザリしているメンテ作業の息抜きに、ちょっと…。w 書きつづけていた習慣を突然やめると、なぜか書きたいテーマが二桁単位でたまってしまい、禁断症状が出ますね。
  
 わたしが旅行をした中で、目的地における滞在記録の最短レコードは、京都での3時間というのがある。もちろん仕事上の出張で、京都に事業所のあるクライアントの会議室でわずか1時間余の打ち合わせのあと、京都駅のカフェでひと休みしてから新幹線に飛び乗って東京へともどった。新幹線の中でも、ほとんどPCと向き合っていたから、旅行と呼ぶのもおこがましい“移動”だった。
 出張でもないのに、わたしよりも短い滞在時間のレコードを持っている人物が下落合にいた。下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)に住んだ、ビクター専属のバリトン歌手・徳山璉(たまき)Click!だ。ちょうど、中村彝アトリエClick!のすぐ北側、移動前の大正期に一吉元結工場Click!の職人長屋が建っていたあたりの一画に邸を建設している。
 徳山璉は17歳のとき、狂おしい想いを抱きながら東京駅から東海道線の夜行に飛び乗り、恋をした女の子を転居先まで追いかけて、早朝の大阪駅へと降り立った。駅前の公衆電話から、さっそく彼女の家へ連絡を入れると、やってきたのは彼女ではなく母親のほうだった。1935年(昭和10)に婦人画報社から刊行された「婦人画報」4月号に掲載の、徳山璉『春のモンタアジユ』から引用してみよう。
  
 僕は朝の大阪駅前に立つた。夜行で東京から来たのである。何故か腹が空いてゐた、途中一寸とも食べなかつたからである。/様子知らぬ駅前の公衆電話のボツクスに飛び込むと、僕はふるえる声でアル電話番号を呼ぶのであつた。暫くすると、その駅前の僕の方に向つて、彼女ではなく、彼女の母なる人が現れた。/『あの子の父が大変怒つてゐます。すぐに東京へお帰へりなさい』/『………』/滞阪レコード一時間に足らず、始めて踏んだ大阪の土地の水も飲まないで、僕は次の列車、上り列車の客となつてゐた。/涙がこぼれさうであつた。其処で僕は列車が止まる度びに弁当を買つたのである。癪にさわつて堪らなかつた、とうとう五つ弁当を食べた頃やうやく東京に帰へつて来た。/彼女に一言云ふどころか、影さへも見ないで帰へつて来た寂しいお腹の中には、東海道線のいろいろなお弁当がギツシリと詰つて胃壁を刺激するので、一層僕は悲しかつた。/その彼女が今では、妻となり、僕の子供の母となつて、精励これ努めてゐるのである。
  
 失意と駅弁の食べすぎの状態で東京駅にもどったあと、徳山璉は「若ければ啄ばむ果をも知らざりし唱ふ心は春なりし哉」という短歌を詠んで記念している。その後、なぜ東京と大阪で離ればなれになってしまった初恋の彼女が、いつの間にか徳山璉の連れ合いになっているのかは、書かれていないのでまったく不明だ。
徳山璉婦人画報193504.jpg
徳山璉.jpg キングレコード1939.jpg
 わたしは子ども時代を、湘南海岸Click!の真ん中あたりですごしているので、徳山璉のヒット曲というと条件反射のように、『天国に結ぶ恋』Click!(1932年)が思い浮かぶ。避寒避暑の別荘地・大磯駅Click!裏の坂田山で、服毒自殺した慶應大学の学生と深窓の令嬢との許されない恋を唄った坂田山心中事件Click!だ。「♪今宵名残りの三日月も 消えて寂しき相模灘~」と、わたしが子どものころまで、この歌を口ずさむ大人たちは、いまだ周囲にチラホラ存在していた。
 ちょうど、「♪真白き富士の根 緑の江ノ島~」と、逗子開成中学校のボート部の生徒たちが強風による高波で遭難Click!した『七里ヶ浜の哀歌』Click!(1916年)とともに、神奈川県の海辺ではいまだ“現役”で唄われていた歌だ。親に連れられ坂田山へ上り、ちょっと気味の悪い感覚で比翼塚Click!を目にしたのも、物心つくころだった。現在、坂田山心中の比翼塚は、海辺の明るい鴫立庵Click!に移されている。
 さて、戦争を経験されている方、あるいは敗戦後まもなく生まれ育った方は、徳山璉といえば日米戦争へ突入する前年、1940年(昭和15)に唄われた『隣組』Click!や『紀元二千六百年』などのほうが、圧倒的になじみ深いだろう。敗戦から、10年以上がたって生まれたわたしでさえ、これらの歌は親を通じて知っている。特に『隣組』のメロディーは、ドリフターズのテーマ曲やメガネドラッグのCMソングなどに使われているので、たいがいの方がご存じだろう。
 ♪とんとんとんからりと 隣組
 ♪格子を開ければ 顔なじみ
 ♪廻して頂戴 回覧板
 ♪知らせられたり 知らせたり
 明るいメロディとは裏腹に、同年の国家総動員体制や国民精神総動員運動のもと、近隣の相互監視と思想統制の密告・摘発・弾圧の仕組みとして、軍国主義のもと全体主義体制の推進を加速させた制度だ。あたかも「五人組」や「名主・差配・店子」などの制度と同様に、封建制の時代へと100年ほど時代を逆行させたかような「自治」組織であり、今日でいうなら北朝鮮の「人民班」とまったく同質のものだ。そもそも北朝鮮の「人民班」が、日本の「隣組」制度を模倣したとさえいわれている。
徳山璉「天国に結ぶ恋」1932.jpg
五所平之助「天国に結ぶ恋」1932松竹.jpg
徳山璉邸1938.jpg
 こちらでも、「隣組」制度によってJAZZレコードの存在を密告され特高Click!に検挙された事例をご紹介しているが、JAZZレコードなど聴いておらず、当局によりJAZZが禁止される日米戦の前に、家の外へ漏れていた音色からJAZZレコードの存在を類推できる家庭までが、「隣組」や「町会」などの組織の密告によって特高に摘発されている。中には、DGG(ドイツ・グラムフォン)のベートーヴェンやシューベルトのレコードさえ押収した愚かな事例さえあった。
 徳山璉は、そのほか『撃滅の歌』や『日の丸行進曲』、『大陸行進曲』、『太平洋行進曲』、『空の勇士』、『大政翼賛の歌』、『愛国行進曲』…etc.、日米開戦の直後、1942年(昭和17)1月に死去するまで一貫して軍部へ協力し、軍国主義を推進する歌を唄いつづけている。このあたり、4歳年下で同じく下落合にも住んだ淡谷のり子Click!とは対照的な歌い手だ。もし、3年後に大日本帝国が破産・滅亡するまで生きていたとしたら、そして戦後の「亡国」状況を目の当たりにしていたとすれば、いったいどのような感慨や思想的(芸術的?)な総括を行なっていたのだろうか。
 1945年(昭和20)5月17日に、米軍の偵察機F13Click!から撮影された落合地域の空中写真Click!を見ると、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!からかろうじて焼け残った、下落合1丁目504番地の徳山邸を確認することができる。また、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!でも、同邸はなんとか延焼をまぬがれて焼け残った。敗戦直後の空中写真を見ると、延焼の炎舌はわずか10mほど北側の隣家で止まっているように見える。
徳山璉邸1947.jpg
徳山璉「隣組」1940.jpg
日本蓄音機商会1912.jpg 大蓄商会1928.jpg
 徳山璉が敗戦時まで存命で、自邸がかろうじて焼け残った様子を見たら、「幸運だ」ととらえただろうか? それとも、焼け野原が拡がる周囲の下落合を呆然と眺め、さらに焦土と化した東京の市街地を望見して、「日本史上でかつてない、初の亡国状況を招来した最大の政治的失策であり不幸だ」と、はたして気づいていただろうか?
 まったく関係のない余談だが、いつか熊本県菊水町のトンカラリン古墳群Click!に出かけてみたい。侵入してきたヤマトを迎撃した伝承や、卑弥呼(フィミカ)との深い関連も指摘される、邪馬壱国(邪馬壹国)の有力な候補地のひとつだ。

◆写真上:下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)の徳山璉邸跡(奥右手)の現状。
◆写真中上は、1935年(昭和10)発刊の「婦人画報」4月号に掲載された徳山璉『春のモンタアジユ』。下左は、昭和10年代の徳山璉。下右は、1939年(昭和14)発行の「主婦之友」に掲載されたビクターではなくキングレコードの広告。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に発売された徳山璉・四谷文子『天国に結ぶ恋』。は、同年に松竹系で公開された五所平之助・監督の『天国へ結ぶ恋』。は、1938年(昭和14)作成の「火保図」にみる林泉園近くの徳山璉邸。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる徳山璉邸。は、1940年(昭和15)に発売された徳山璉『隣組』。下左は、蓄音機が「嫁入道具」などといわれて高級品だった1912年(明治45)の日本蓄音機商会の媒体広告。下右は、「大衆的製品」となった1928年(昭和3)のナポレオン蓄音機こと大蓄商会の媒体広告。それにしても、後者の「だいちくしょうかい」という社名は、もう少しなんとかならなかったものだろうか。
おまけ
 御留山に飛来した、おそらく渡りをしない東京定住組と思われるアオサギ。
アオサギ.JPG
追記
徳山璉のご子孫にあたるEIWAさんより、貴重なコメントをいただきました。徳山璉・寿子夫妻の生活や人生について、まとめられたブログをご紹介いただきました。下記のサイトなので、ご参照ください。「萩谷清江」をキーワードに検索すると、徳山夫妻についての物語や年譜などを参照できます。
Beautiful World
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-category-14.html
また、徳山璉随筆集』(輝文館/1942年)が国立国会図書館でデジタル化され、一般に公開されていますので、興味がある方はこちらもご参照ください。

読んだ!(23)  コメント(35) 
共通テーマ:地域