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下落合を描いた画家たち・中村忠二。(2) [気になる下落合]

雪の我が家1946.jpg
 「ぐりこ」さんより、主婦へのご褒美の「おまけ」が足りないという、ちょっとお叱りコメント(前記事参照Click!)が寄せられましたので、^^; あとひとつだけ「おまけ」の記事を追加します。これがメンテ作業前の最後ということで、どうぞよろしくお願いします。<(_ _;)> (アイスのジャイアントコーンに「おまけ」なんてないんだけどなぁ)
  
 「君を救う道は、僕との結婚以外にはない」…、この言葉は下落合に住んだ洋画家・中村忠二Click!が、30歳ほども年下の若い女画学生(のち弟子)に舞い上がったときに吐いたらしいセリフだ。また、1955年(昭和30)9月19日には、「芸術の興奮をよりよき恋愛にまで高めるために火の如き接吻をする」と書いたメモを、妻の洋画家・伴敏子Click!に見られている。このとき、中村忠二は57歳だった。
 それに対する伴敏子の反応は、「ドン・キホーテのお共は、もう御免よ」「男はもうこりごり」「あの人は今馬を屠殺場に遣って、豚にまたがって天国に行こうと思っているようよ」……などなど諧謔的なものばかりだった。それをどこかで漏れ聞いたのか、中村忠二は「偉い女など女房に持つもんじゃあないよ」と友人に語っている。そんな悲喜劇が繰り広げられたふたりのアトリエは、伴敏子の年譜によれば1935年(昭和10)に(中村忠二の年譜によれば1938年に)、下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)に竣工している。アトリエの建設費の多くは伴敏子が負担していたせいか、若い女にトチ狂った中村忠二は出ていかざるをえなくなった。
 ふたりが住んでいた下落合のアトリエを描いた、中村忠二の「下落合風景」を見つけたのでご紹介したい。今年の夏に練馬区立美術館で開催されている、「生誕120年中村忠二展―オオイナルシュウネン―」に展示されていたものだ。そう、中村忠二は佐伯祐三Click!と同じ1898年生まれであり、ともに今年が生誕120年Click!にあたる。下落合4丁目2257番地のアトリエは、目白学園の北東側に位置しており、玄関が南を向く和館とも洋館ともとれる微妙なデザインの2階家だった。
 南側の接道から、狭い路地を入ると突き当たりに細い門柱が立ち玄関へとつづく、53坪ほどの旗竿敷地だった。20畳サイズのアトリエを中心に、6畳のリビング、2階の寝室は4畳半というシンプルな間取りで、ふたりは生涯の多くをここですごし作品を制作しながら生活している。南側の接道から北に向き、降雪後の路地とアトリエをとらえた画面が、冒頭の敗戦間もない1946年(昭和21)に制作された中村忠二『雪の我が家』だ。
 「我が家」というタイトルを付けているが、すでに中村忠二と伴敏子は最初の“夫婦別れ”をしている。日本の敗色が濃くなりつつある1943年(昭和18)、伴敏子からの提案でふたりは夫婦関係を解消した。そこで、伴敏子は1階の広いアトリエにベッドを据えて寝室とし、中村忠二は2階の4畳半が居場所となった。だが、翌1944年(昭和19)になると、東中野に住んでいた伯母を引きとり2階を提供したので、中村忠二は居場所がなくなり、1階のアトリエで再び伴敏子と生活をするようになった。
 10年後の1955年(昭和30)8月、中村忠二は水彩連盟の講習会で画家をめざす若い女性と知り合い、急速に親密になっていく。57歳の中村忠二が、前出の歯の浮くようなキザな台詞を臆面もなく吐いたのはこのときだった。そして、9月になると練馬区貫井町1275番地(現・貫井5丁目)に小さな平家を借りて、伴敏子との別居生活に入り、ほどなく彼女とは正式に離婚している。
 そのときの様子を、1977年(昭和52)に冥草舎から出版された伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。同書は、登場人物たちの多くに仮名を用いており、「陽子」は伴敏子、「貞子」が中村忠二の入れあげている若い女性のことだ。
  
 「もう無駄よ、誰が何を云ったって。一度あの人の思うようにさせた方がいいのよ。とやかく云っても苦しめるばかりよ。お互い別々になって反省しましょう。私は他に好きな人が出来たわけではないから、あの人がもう一度惚れ直せるような男になったら、私から頼んでも帰って貰うわ」/靴を履く蔵原の後から、陽子は玄関で云った。/忠二は庭の花の根を起こして練馬の庭に植えに行ったり、上京して来ると云う貞子の妹を二人で迎えに行ったり、この二、三日はとても忙しかった。多忙のなかを高田馬場のパール座で貞子と二人で映画を見たり、暗い夜道では烈しい雨の中傘を傾けて熱い接吻を繰り返した。まるで彼の血が一度に若返って青春を取り戻したようであった。
  
中村忠二・伴敏子アトリエ跡.JPG
中村忠二・伴敏子アトリエ素描.jpg
中村忠二展2018.jpg 中村忠二・伴敏子1955.jpg
 余談だが、小さな名画座だった高田馬場パール座はわたしの学生時代まで営業しており、よく2本立ての映画を観に出かけた。いまも、その前をときどき通るけれど角の和菓子屋さんは健在だが、パール座はとうにつぶれてライブハウスになっている。
 中村忠二は、伴敏子と正式に離婚して練馬にアトリエをかまえているにもかかわらず、しばしば下落合の旧「我が家」を訪問している。それは、伴敏子が留守のときをねらって侵入していたようで、いろいろなものを貫井のアトリエへ運んでいたらしい。上野の展覧会で、偶然ふたりが出くわしたときの様子を、同書から再び引用してみよう。
  
 「しばらくね、今日は。お元気ですか。たまにはお気晴らしに、落合へも一杯やりにいらっしゃいよ、お二人で。貞子さんはお元気?」/と陽子は声をかけた。/留守を知りながら落合に行っては、柿を取って来たり、風呂に入ったりした忠二であった。面と向かってこんなふうに云われると、忠二は何となく慌ててどう答えたかも覚えがなく、別れた。/上村哲二の家のS連盟委員会の席上、忠二は陽子からやや離れたはす向かいに座を占めていた。横顔のやつれや人相が何となくみすぼらしかった。この人が私の良人であったのかと、陽子の心をひどくうそ寒い思いにした。
  
 「S連盟」とは、もちろん現在も存続している水彩連盟のことだ。「貞子さん」こと若い女弟子の愛人は、中村忠二が貫井にアトリエを設けた翌年、1956年(昭和31)の夏ごろにはさっさと逃げていってしまったらしい。前年の冬から、そんな予感がしていたものか、中村忠二が日記がわりに書き残していた覚書きには、「これにて完全に大方は清算され、自分は孤立となる」と書かれている。
 翌1957年(昭和32)11月には、自分のもとを去った愛人の弟子に、いまさらながらの「破門状」を発送しているようだ。言い換えれば、1年は待ったことになるだろうか……。同時に水彩連盟も脱退し、各地のギャラリーで個展や二人展(山本蘭村と)を中心に活動している。そして1年がすぎるころ、中村忠二は下落合へ捨て去ったはずの伴敏子のアトリエに、再び現れるようになる。
不詳(畑)1930年代.jpg
道1947.jpg
中村忠二・伴敏子アトリエ1947.jpg
 このとき、中村忠二は「復帰という仮定の心組みの前で或る不定の期間を、お互いに現在の状態でいてみる。その期間で復帰することが最上のことかどうかが、はっきりして来るであろう。その上双方が復帰を肯定する時に、そのことを決める」などと、若い女弟子に舞い上がり家出して離婚した男の言い草とは思えないようなことを書いて、伴敏子に6ヶ条の要求を突きつけている。残された彼の覚書きを、同書より引用してみよう。
 一、お互いに過去の一切を放棄して触れない
 一、健康と仕事を第一義とし、それを愛情の上に置く
 一、落合、貫井の家は現在のまま仕事場として保有する
 一、相互の財物は復帰と同時に共用とする
 一、戸籍の復帰はどうでもよろしいが将来財物の関係もあるから適当と思われる時に復帰しておくべきである
 一、別々の家に於ける双方の素行については、お互いを信用し、その信用を裏切らないようにする 要はさらっとした明かるい愛情の上で仕事に専念し、お互いの未来について、一つの安心感を持って行こうということにつきる
 芸術家のあるタイプには、救いようのない底抜けの非常識で愚かな側面があるのは、ひとり中村忠二に限らない。「(戸籍を)復帰しておくべきである」「お互いを信用し、その信用を裏切らないようにする」とは、どの面(つら)下げて元妻に要求しているのだろうか? しかも、大雨で貫井のアトリエが水害に遭い、困った挙句に下落合の元妻のアトリエを頼って、避難してきた際に出した6ヶ条の要求らしい。
 おそらく、伴敏子が憤怒にあふれた怖ろしい顔をしたのだろう、中村忠二は彼女の誕生祝いと称して財布から1万円札を出すと、彼女(陽子=伴敏子)の手に握らせた。ちなみに、給与換算指標に照らし合わせると、当時の1万円は今日の約20万円に相当する。
  
 忠二は陽子の誕生祝と、復帰祝のための宴会費用として、一万円を彼女に手渡して、/「僕は細い鎖の首飾りが好きだから、そういうのを買いなさい」/と云った。/また落合に帰る土産として洗濯機を買ってやると忠二は云った。洗濯機は落ち着いたら、二人で秋葉原あたりに買いに出ようということになった。忠二は月の半ばを落合で暮すようになるので生活費として月々三千円を出すことにすると云った。/この三千円は、以後十七年に亘って再度貫井に引き籠る昭和四十九年まで続いたのであった。
  
 1973年(昭和48)暮れの忘年会で、中村忠二は元妻が激怒する取り返しのつかない失言をしたようで、伴敏子は「貫井に引き籠る」と表現しているが、ついに下落合のアトリエを永久に追放された。1975年(昭和50)2月28日、中村忠二は貫井のアトリエで倒れ、急性心不全のため死去している。77歳だった。
霜の花1951.jpg
中村忠二・伴敏子アトリエ1984.jpg
中村忠二・伴敏子1960年代.jpg 貫井アトリエ.jpg
 戦後間もない1949年(昭和24)3月、中村忠二・伴敏子アトリエから北北東へ直線距離で280mほどのところ、西落合1丁目3番地に住んでいた料治熊太Click!が、ふたりのアトリエを訪問している。中村忠二は、料治熊太が出版した谷中安規の版画集を見て、のちに代表作のひとつとなる詩画集の刊行を思いついているようだ。
 練馬区立美術館で今夏開催中の、「生誕120年 中村忠二展―オオイナルシュウネン―」は7月29日(日)まで。それでは、またお会いできる日を、楽しみに……。

◆写真上:1946年(昭和21)の降雪日、自宅を南側から描いた中村忠二『雪の我が家』。
◆写真中上は、中村忠二・伴敏子アトリエ跡の現状。は、中村忠二が描いたアトリエ素描。下左は、2018年(平成30)夏に開催された「生誕120年中村忠二展―オオイナルシュウネン―」図録。下右は、1955年(昭和30)の第14回水彩連盟展で撮影された伴敏子(手前)と中村忠二(中央奥)。
◆写真中下は、1930年代に制作された中村忠二『不詳(畑)』で落合西部に拡がっていた畑地風景の可能性がある。は、1947年(昭和22)に制作された中村忠二『道』で同様に落合地域を描いた可能性がある。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下落合4丁目2257番地の中村忠二・伴敏子アトリエ。
◆写真下は、1951年(昭和26)制作の中村忠二『霜の花』で下落合アトリエの庭先だろうか。は、1984年(昭和59)の空中写真にみる伴敏子アトリエ。伴敏子は1993年(平成5)に死去しているので、この撮影時はアトリエに「水彩連盟」の看板を掲げ画塾を開いていたはずだ。下左は、1960年代半ばごろに撮影された中村忠二と伴敏子。下右は、練馬区貫井にあった中村忠二の小さな平家アトリエ。
おまけ
 セミたちがこの暑さで、一斉に地中から出てきたようです。写真の幼虫は、大きさからミンミンゼミの幼虫のようですね。
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下落合の急坂を駈けくだる中野鈴子。 [気になる下落合]

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 …ということで、前回予告しましたように本日からスケジュールがまったく見えない、夜間や休日に少しずつ実施予定の、So-netブログSSL対応メンテナンスに入りますので、今回が最後の記事になります。また、ここでお会いできる日を、楽しみに……。
  
 下落合の急坂を着物の裾をふり乱しながら、全力で駈け下りてくる異様な女性に出会い、恥ずかしくて思わず友だちに「知らない人」と答えてしまった小学生がいる。大きめな2階家へのリニューアルを終え、下落合735番地の借家アトリエから上落合186番地にもどっていた、村山知義・籌子夫妻Click!の息子・村山亜土Click!だ。坂を駈け下りてきたのは、村山亜土が「変なおばさん」と呼ぶ詩人・中野鈴子Click!で、母親と親しくしている彼女を亜土はよく知っていた。
 2001年(平成13)に出版された村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』(JULA出版局)から、さっそく中野鈴子の様子を引用してみよう。
  
 中野鈴子さんは、中野重治さんの妹で、詩人であった。だが、子供の私には「変なおばさん」として、思い出される。度の強い黒ぶちの眼鏡をずり落ちそうにかけて、眉間にしわをよせ、油気のない髪の毛をうしろで束ね、恐らく木綿か銘仙の和服をちょっとゆるやかに着ていた。彼女は下落合の斜面の中腹に間借りをしていたのだが、ある日、私が友だちとその近くを歩いていたら、坂の上から女の人が裾をはだけて、勢いよく駈け下りて来た。友だちが、「あのおばさんは頭がおかしいらしいんだ」と言うので、よくよく見ると、鈴子さんだったので、私はあわてて電信柱のかげにかくれて、やりすごした。「君、知ってるの?」と友だちがきくので、私は、「知るもんか!」と答えた。
  
 戦後の中野鈴子は、小滝橋Click!や上落合もほど近い豊多摩病院Click!の裏にあたる柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)、すなわち兄・中野重治・原泉夫妻Click!の家に同居しているが、昭和初期にひとりで暮らしていたとみられる下落合の住所は、村山亜土も書き残していないので不明だ。それ以前か以降か、やはり彼女は上落合481番地で兄夫妻の家に寄宿していた。彼女が駈け下りてきた坂とは、村山亜土が通っていた落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の近く、下落合(現・中落合/中井含む)の西部に通う坂道の可能性が高いように思う。
 「変なおばさん」にされてしまった中野鈴子だが、福井の実家にいたころは地元でも美人の評判が高かった。ワンマンな親たちに、望まない結婚を無理やり二度もさせられ、そのつど彼女の側から夫に「三下り半」を突きつけて離婚している。そんな生活の苦労を重ねるうちに、面立ちがやつれてしまったのだろう。
 四高で落第した兄・中野重治Click!のお目付け役として、福井の実家から金沢市古寺町の下宿で兄と同居するようになったとき、17歳だった中野鈴子は四高の短歌会で兄といっしょだった窪川鶴次郎Click!を知るようになる。やがて、彼への思慕とともに実家の“家制度”にとらえられていた彼女は、自我の解放期を迎えることになった。このとき、窪川鶴次郎は中野鈴子のことを「すずさん」と呼んで親しげだったが、窪川にはすでに愛人がいたようだ。1923年(大正12)10月26日、中野鈴子は3首の歌を詠じている。
 かなし子等人をしのびつさかり来しこの砂山のやまふかみかも
 照陽はげしき浜に居て木を伐る男をしみじみと君はながめり
 やまみちに我の姿の見えずなりしとき声高らかに呼び給ひしかな
 中野鈴子1934頃.jpg 中野重治・原泉夫妻.jpg
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 「すずさん!」という窪川の声が、潮の匂いのする風にのって樹々の間から聞こえてきそうな歌だが、この恋は成就しなかった。東京帝大に進んだ中野重治に連れられ、鈴子は東京にいる窪川鶴次郎へ会いにいったが、「あなたはわがままだ」という窪川の言葉に絶望している。こうして、彼女は望まない一度めの結婚を、父母から無理やり押しつけられることになった。二度めに強制された結婚生活の最中、彼女は1926年(大正15)7月に窪川稲次郎と田島稲子(のち佐多稲子Click!)の結婚を知ることになる。
 1925年(大正14)2月28日から翌日にかけて書かれた、中野鈴子から窪川鶴次郎あての手紙が残っている。1997年(平成9)に幻野工房から出版された、大牧冨士夫・編著『中野鈴子-付遺稿・私の日暮らし・他-』から引用してみよう。
  ▼
 (前略) この世とは、別れがあるばかりなのです。人は常に、過去をなつかしむと言ふ。それは過去の日に幸があつたからでしたでせう。遠い後の日に光を持つものはその光の日に一日も早く達することを急ぐでせう。あなたに別れて一年になるまでに日が流れてゐます。それが私にはありがたい。その間に何をして来たか、忘れ得ないものなどと言ふものは一つもなかつた。多くの人はかう言ふきもちで毎日を水のやうにながれてゐるのか。去るものをして、そのまゝ逝かしめ、来るものをしてそのまゝむかへて、人は眠るのです。かなしみもよろこびも、かまはず日がながれてゆきました。
  
 窪川稲子Click!(佐多稲子)は結婚後、中野鈴子が切々とつづった手紙を夫から見せられ、彼女の切ない一途さに泣いたと伝えられている。
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 そんな彼女たちが、わずか5年後、治安維持法違反で逮捕された中野重治や窪川鶴次郎、小林多喜二Click!村山知義Click!らを支援するグループを形成することになるなど、夢想だにしなかったにちがいない。特に小林多喜二の救援では、村山籌子Click!原泉Click!とともに、中野鈴子が活動の中心を担った。また、宮本百合子Click!や窪川稲子(佐多稲子)とともに、『働く婦人』の編集部員を引き受け、ときには同誌へ記事を連載している。彼女は、文芸誌の第一線で活躍するプロレタリア詩人に変貌していたのだ。窪川稲子(佐多稲子)とは親しくなり、よく肩を並べて話をしながら落合地域を散歩している。
 つづけて、村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』から引用してみよう。
  
 だが、母(村山籌子)は、彼女(中野鈴子)の素朴であけっぴろげな人柄を好んだようだ。そして、彼女は時々、とぼけたことを言った。「誰々さんは、私より三つ年上なのよ。だから、あと三年たてば同い年になるんだわ」。母が、「あなた、何を言ってるのよ。三年たてば、向こうも三つ年をとるのよ。同じ年になんかなるわけがないでしょ、永久に」。「あっ、そうか、そうか、そうだった」。彼女はそう言ってヒタイをポンと叩き、歯をむき出し、ゲタゲタ笑うのであった。/私が、彼女が詩人であることを知ったのは、戦後もずっと後のことで、詩集『花も私を知らない』は、北陸の農民の心を素朴に歌って、すばらしい。(カッコ内引用者註)
  
 なにやら、いつも村山籌子に突っこまれている大ボケかましの中野鈴子を想像してしまうが、こういうところが周囲から愛された彼女の性格(たち)なのだろう。村山亜土が電柱に隠れ、そそくさとくだんの坂道から立ち去らなければ、彼女のあとをいつも通り尾行していた特高Click!が、間をおかずに必死で駈け下りてきたのを目撃できたかもしれない。
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 落合地域で遅れてきた青春時代を送る、中野鈴子の面白いエピソードはまだまだたくさん眠っていそうだ。いつもおおらかで、“天然”のトンチンカンな彼女の姿ばかりでなく、ときには深刻な課題を抱え、ふだんは穏やかな壺井栄Click!から横っ面を張り飛ばされたりもしている。中野鈴子から壺井栄あてに出された、彼女らしい鄭重な「詫び状」10通が現存しているのだが、それはまた、いつか、別の物語……。

◆写真上:中野鈴子が駈け下りた可能性が高い坂のひとつ、寺斉橋近くの落合第二尋常小学校(現・落合第五小学校)へと抜けられる蘭塔坂Click!(二ノ坂)のイメージ。w
◆写真中上上左は、1939年(昭和13)ごろ撮影の中野鈴子。上右は、戦後の中野重治・原泉夫妻。米国アニメ「シンプソンズ」のお母さんみたいな中野重治の髪の毛は、もう少しなんとかならないものだろうか。は、もうひとつの駈け下り坂候補・三ノ坂。
◆写真中下は、中野鈴子が東京の兄夫妻邸へ寄宿しはじめたころの記念写真。左から右へ原泉(中野政野)、二度も望まぬ結婚を鈴子に強制した父・中野藤作、中野鈴子、中野重治。は、上落合481番地の中野重治・原泉邸跡界隈。
◆写真下は、川下から眺めた妙正寺川に架かる寺斉橋で、落合第二尋常小学校は橋の左手にあった。寺斉橋の上に見えているのは、山手通り(環六)の高架。は、旧敷地から南東へ200mほど移動した現在の落合第二小学校。

おまけ
 今年も、下落合の森には夏らしい生き物たちがたくさんもどってきた。左はカナブンの大群で、右はカブトムシ(♂)。ともに、うちの娘が見たら悲鳴をあげて卒倒するだろう。カブトムシとコクワガタClick!の♀は、かつて何度か家のベランダに飛びこんできたが、カブトムシもコクワガタも♂は住宅に近寄らないようだ。
カナブン.JPG カブトムシ.JPG
 今年三度めに卵がかえった、近くの池のカルガモ親子Click!。今回は、子ガモが最多の11羽も生まれた。またクルマが通る道路を、散歩しなければいいのだが……。
カルガモ親子.JPG

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「へび女」が怖い元・少女たち。 [気になる下落合]

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 わたしとほぼ同世代の女性に、「子どものころ、なにが怖かったの?」と訊くと、多くの元・少女たちはたいがい楳図かずおの「へび女」と答える。少女漫画を知らないわたしは、その「怖さ」がよくわからず、きっと執念深くどこまでも追いかけてくる、『娘道成寺』の芝居のような筋立てを想像していた。日高川で大蛇(うわばみ)になった清姫が、どこまでも安珍を追いかけてくる、道成寺縁起のストーカー芝居だ。
 芝居の『娘道成寺』は、実際の舞台を観た憶えがない。(TVの劇場中継ならあるが) もっとも、舞踊「京鹿子娘道成寺」はときどき6代目・中村歌右衛門で上演されていたのを憶えている。現代では、坂東玉三郎あたりが得意としているのだろうか。芝居の経験はないが、国立劇場の小劇場で上演された文楽の『娘道成寺』は、じっくり鑑賞したのでよく憶えている。もちろん、わたしの大好きなガブClick!が登場するからだ。
 「日高川渡の場」にいたるまで、延々と男女間の恋愛の機微(オトナの事情)を見せられても、あまり退屈せずにすんだのは、ガブがいつ出るか、いま出るかと、心待ちにしていたからだろう。安珍にいい含められた船頭に、川の渡しを断られた清姫が、みるみる形相を変えて大蛇に変身するさまは、もうウキウキとゾクゾクの連続で、わたしは幸福感にひたりながら見とれていたものだ。だから「へび女」と聞くと、どうしても男のあとを執拗に追いかけてくる、大蛇の化け物になった女……というイメージをもっていた。ところが、楳図かずおの「へび女」の設定は、まったくちがっていたのだ。
 少し余談になるが、警視庁が昨年度にまとめた統計によれば、ストーカーによる被害者は約11%が男性で、残りの約89%の被害者が女性とのことだ。つまり、「執念深い女がヘビに姿を変えて男を追いかけてくる」……というシチュエーションは、江戸期のある時代のとある階層ではリアルに感じられ、説得力のある怖さだったのかもしれないが、現在は状況がまったく逆転し、いつまでもイジイジとメメしい思いを引きずって、執念深く追いかけるのは、情けないことに「へび男」のほうが圧倒的に多いのだ。いや、こういういい方は下落合に数多く棲息する、たいがい大人しいヘビさんClick!に対して失礼だろう。
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 さて、楳図かずおの「へび女」は、物語の成立事情がまったく異なっていた。それは、ふだんは美しい母親ややさしい姉、養女に引きとられた先の義母や娘、そして親しいクラスメイトの友人などが、ある日を境に突然「へび女」の性格や本性を顕在化させはじめる……というようなストーリーだ。つまり、自分がもっとも親しい、あるいは自分にもっとも近しい人物の本性がもし「へび」だったりしたら……という、変化(へんげ)による怖さや意外さがテーマになっている。身辺の安穏とした、楽しい日常が少しずつ崩れだして、ついには「へび女」に見こまれた非日常へと推移していくところに、少女たちを震えあがらせた恐怖があるのだろう。
 きっかけは、外出してヘビに咬まれたり(あんたはバンパイアか?)、その家系に代々受け継がれたヘビ神憑きの“血筋”だったり(このあたり民俗学の吉野裕子が得意そうな分野だ)、あるいは七代あとまで祟る昔殺したヘビの呪いだったり(日本民話の会Click!が採取しそうだ)……と、要するに原因はなんでもよくて(爆!)、ヒロインの少女のいちばん身近にいる人物が、「へび女」ウィルスに感染していたり、「へび女」の変異遺伝子が急に活動をはじめたり、「へび女」の呪いで自己暗示にかかり幻覚を見るようになったりと、まあ、たいへんで忙しくて怖いことになっていく。
 そんな舞台となる屋敷は、たいがい東京の郊外域に位置していそうな大きな古い西洋館であり、1960~1970年代を落合地域ですごした女の子たちにとっては、まったく他人事ではなかっただろう。遊び疲れ、少し暗くなってから家路を急ぐ少女たちにしてみれば、近衛町Click!の洋館から、林泉園Click!のほの暗い谷底から、御留山Click!大倉山Click!の森蔭から、薬王院の真っ暗な墓地Click!から、そして目白文化村Click!のポッと灯りの点いた屋敷群から、いつ「へび女」が鎌首もたげて飛びだしてくるか気が気ではなかっただろう。きっと、楳図かずおの世界は、自身のすぐ隣りに存在していたにちがいないのだ。
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 でも、そんな古い西洋館はバブル景気の地上げで消し飛び、つづく不況の津波をまともにかぶって相続税が払えずに解体され、「へび女」の伝説はもっとずっと郊外へ、あるいは東京地方を離れどこか別の地方の山間へと転移していった。落合地域には、人と共存できるアオダイショウClick!は多いが、棲みつく縁の下や天井裏も少なくなって、なかなかマンションのロビーではとぐろを巻きにくい。うっかりマンションなどに入りこめば、ソッと森の中へ逃がしてくれるどころか、警察に電話されかねない、ヘビくんたちにとっては「怖い」日常を迎えている。映画版の「へび女」Click!も、もはや東京が舞台ではリアリティがないものか、どこか山間の“村”が舞台となっていた。
 楳図かずおの「へび女」は、あの人はふだんは美しい顔をしてニコニコしているけれど、裏にまわれば先が2枚に分かれた舌をペロリと出しながら、あることないこと悪口を陰でいいふらす、ほんとは怖くてゲスな人なのよ……というような、一種の処世訓を少女たちに教えようとしたのだろうか? それとも、「グワシ! へび女はほんとにいるのら~、ギョエーーッ!!」と、その伝説でも信じて描いていたのだろうか。
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 そういえば、楳図かずおは高田馬場か下落合にオフィスがあったものか、駅前に近い栄通りの入り口あたりで、過去に何度か見かけたことがある。赤白のTシャツを着て色褪せたジーンズのジャケットを羽織っていたと思うのだが、まさか吉祥寺の自宅外壁のカラーリングまで赤白のツートーンカラーにするとは思わなかった。ギョエーーーッ! 外壁が赤白のお屋敷じゃ、「へび女」だってサマにならず棲みにくいだろうに。

◆写真上:下落合2丁目14番地と目白1丁目4番地の町境(新宿・豊島区境)が通るビルの前にある、郵便局「グワシ!」ポスト。ぜひ、「へび女」ポストも作ってほしいのら。
◆写真中上は、12代目・片岡仁左衛門の清姫による『娘道成寺』(日高川渡の場)。は、7代目・尾上梅幸の「白拍子花子」。は、1960年代の日高川(和歌山県)。
◆写真中下は、文楽『娘道成寺』でガブになりかけの清姫。中左は、楳図かずお『へび女』(小学館)。中右は、同『へび少女』(講談社)より。は、同『へび女』より。
◆写真下:いずれも、楳図かずお『へび女』より。

お知らせ
 先月25日のSo-netブログのSSL化にともない、もともと外部サイトも含めたpathの多い拙サイトでも、ひと通りメンテナンスをしなければならないハメに陥りました。いまさらSSLを導入するなら、10年前のベリサイン時代にやっといてほしかった仕組みですが、セキュリティが強化できるのでしかたがないのでしょうね。
 カテゴリーの設定が勝手に外れたり、サイドカラムのバナー画像がいつの間にか消滅したり、facebookとのpathで蓄積されたログが全滅したりと、さまざまなインシデントや表示不具合はこれまで少しずつ記事末で報告してきましたが、検証・修正作業がいつ終わるのかスケジューリングができないので、とりあえず次回の記事を最後に、期限を設定しないサイトメンテナンスに入ります。
 外部からアクセスすると、少し前まではhttpとhttpsのページが混在(キャッシュサーバ?)していたようですが、現状ではhttp→httpsのページへ自動ジャンプするようです。でも、Soーnetさんのことだからリソース不足が深刻になると、「この仕組みは廃止」なんて告知がアップされかねませんので、少なくとも外部ポータルからのpath修正はしといたほうがよさそうです。その際、ご不便をおかけするかもしれませんが、秀逸なアルゴリズムのGoogleサーチエンジンなどから「落合道人」のワードを“枕”に、キーワードを組み合わせて検索していただくのが確実かもしれません。
 夜は長いので、いろいろ改修の方法を考えてみたいのですが、こういうときはつい演奏にジッと聴き入って作業に集中できなくなるJAZZではなく、気軽に聴き流せる「♪夜は長い~だ~から…」と、懐かしい1980年代末の森山良子『男たちによろしく(DANCE)』Click!でも聴きながら……。
 写真は、新宿区の西北部にある落合地域とは、反対側の地域にあたる西南部の夕景。
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落合地域と「大日本職業別明細図」。 [気になる下落合]

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 拙サイトでは、江戸期から現代にいたるまで作成された、多種多様な絵図・圖書や地図類を引用してきた。これまで引用した地図類は、おそらく50種類をゆうに越えるだろう。明治以降に作成された地図では、参謀本部陸軍部の測量局が初めてフランス式で明治初期に作成した地形図Click!をはじめ、のちのち同本部所属の陸地測量部Click!が制作した1/5,000や1/10,000など縮尺ごとの地形図類Click!や、陸軍士官学校が演習用に作成した演習地図Click!、自治体が境界エリア内の地名・住所・番地などを表現した各種市街図など、挙げだしたらきりがない。
 また一方で、官製ではなく民間の個人や店舗、企業などが生活や観光、商売、事業などの便宜をはかるために作成した、いわゆる「民間地図」も数多くご紹介している。たとえば、その代表的なものに飲食店の出前、あるいは周辺住民が店舗を利用する際の利便性を考慮したとみられる大正期の「出前地図」Click!(1925年)や、現在の「住宅地図」と同様に居住する住民や店舗を網羅的に採取して掲載した大正末から昭和初期の「住宅明細図」Click!「事情明細図」Click!(ともに1926年前後)、火災保険会社が市場把握と営業活動を目的として、建物の仕様などを意識しながら特別に作成した昭和初期の「火災保険特殊地図」Click!(通称「火保図」/1938年前後)などがある。
 ただし、これらの地図は地域性が強く作成エリアが限定的だったり、都市部や市街地のみが作成の対象だったりしたため、全国を網羅する「民間地図」とはいいにくい。個人が地図会社を起ち上げ、大正の初期から昭和30年代にいたるまで、全国を網羅したビジネス地図を一貫して制作しつづけた事例がある。木谷佐一(のち改名して木谷彰佑)が創立した、東京交通社による「大日本職業別明細図」ないしは「大日本職業別住所入索引付信用案内明細地図」、すなわち通称「商工地図」と呼ばれる地図制作の一大プロジェクトだ。
 1917年(大正6)に、40歳で東京交通社を創立した木谷佐一は、社員のトレーサー2名と全国各地に現地調査用の契約社員を展開し、北は北海道から南は沖縄県、さらに朝鮮半島から中国大陸までの「商工地図」を作成している。これらの地図は定期的に改版が重ねられ、年代が下るごとに地図の表現は微細をきわめていく。もっとも古い地図は、1917年(大正6)に制作された日本の主要都市をカバーする都市案内図で、当初からすでに「大日本職業別明細図」というタイトルがつけられていた。
 「商工地図」の詳細について研究した資料に、柏書房から1988年(昭和63)に出版された『昭和前期日本商工地図集成―第1期・第2期改題―』(地図資料編纂会)がある。同書より、木谷佐一について書いた『「商工地図」をよむ』から引用してみよう。
  
 木谷佐一は、明治10(1877)年生れであるから、齢40にして東京交通社をおこし地図刊行事業を開始したことになる。それまで特に地図ないし出版業に関わっていたことはないようで、遺族によれば従来の仕事を中途退職し、前職は「鉄道関係」の由である。「東京交通社」の名はその職種に関わるものと思われるが、あるいは「交通」に人間の移動というより物流すなわち近代的経済活動の意味を含ませた面があったのかも知れない。(中略) 木谷の「独創性」とは、近代的手法が一般化した時代における都市地図と、伝統的な独案内の方法つまり業種別一覧を結合させたところにあった。すなわち業種別一覧の個別の内容を、ひとつひとつ注入した地図を作成したのである。ただしこれはそれ以前に各種店舗案内を記入した地図を作成したものがいなかったということではない。あくまで一定の地図刊行事業としてこのような形式を全国的に成功させたものがいなかったという意味においてである。
  
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商工地図「落合町」1925裏面.jpg
「商工地図」をよむ1.jpg 「商工地図」をよむ2.jpg
 「商工地図」制作の特色は、地図に企業や店舗を掲載することで広告料(掲載の種類別に料金メニューがあったとみられる)を徴収し、注文を予約制にして発行部数を決定し、あらかじめ印刷ロットを限定して余剰部数が発生するのを極力防止したこと、つまり印刷当初から黒字が見こめるビジネスモデルを確立していたことが挙げられる。だからこそ、「商工地図」は約40年もの間、継続して発行されつづけたのだろう。
 また、「商工地図」は官製地図のように厳密な測量数値を前提としないので、フリーハンドによる表現が主体だった。ただし、地域のかたちが変形し縮尺は正確でないものの、官製地図には見られない使いやすさやわかりやすさを追求している。
 木谷佐一は、ちょうど「火保図」が作られはじめた1938(昭和13)に死去するが、4人いた実子は誰も事業を継承しなかった。東京交通社を継続したのは、長女の夫だった西村善汎(よしひろ)だ。西村は、そのまま従前の地図を刊行しつづけ、戦時中の1942年(昭和17)に一時中断している。もちろん、戦争の影響で地図が勝手に作成できなくなり、国策の統制団体「日本統制地図株式会社」に事業を吸収されたからだ。だが、西村は敗戦後すぐに事業を復活させたらしく、昭和30年代までの「商工地図」を確認することができる。
 木谷佐一は、1937年(昭和12)に「商工地図」の制作コンセプトとでもいうべき、11項目を手書きで列挙している。同書より、少し長いが引用してみよう。
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 東京交通社発行/大日本職業別明細図の特色並に効用
 一、本図は全国各地数年毎に改版し新聞紙法により毎月十日、二十五日、定期刊行物として永続出版す 二、本図は出版報国の目的を以て全国的統一を計り多大な犠牲を払ひつゝ社会公共に寄与する処甚大なり 三、本図は「大日本職業別住所入索引付信用案内明細地図」とあつて去る大正六年独創著作し爾来各地一定の方針を以て遂に全国の完成を見たり 四、本図製本は之を加除式にしたれば後日改版の地図は其都度差替自由にして常に永久改正を保ち現状を維持するを以て一大特色とす 五、複雑にして多端なる現代の用務は須らく確実迅速を旨とす 本図は裏面職業別によりあらゆる撰択を自由にし索引によりて適確に然も敏速に表面各人の住所の位置を見出すことを得べし 六、本図には国税府県税の納税額を標準として信用ある店舗住所は剰すことなく之を掲載し加ふるに其営業種目電話番号等を詳細懇切に紹介し且名所旧蹟、社寺、官公衛、学校、銀行、会社、工場、病医院、著名商店並に名望家は写真を以て紹介したり 七、故に居ながら各地の情勢を比較対照考察し得て諸種の立案計測に資すべく 八、商工業の進歩を助け各地産業の開発を促がし 九、住宅の表札、営業家の看板の如くあらゆる商工業者の最も信頼すべき羅針盤なり あらゆる家庭の最も懇切な買物案内なり 十、移転、開業の考材として趣味娯楽の内に実益あり一面職業別電話帳の代用ともなる 十一、旅行、訪問、社交、取引、運輸、交通上欠くべからざる必携品なり
  
 わたしの手もとには、1925年(大正14)に発行された「大日本職業別明細図―高田町・落合町・長崎村―」と、東京35区Click!時代を迎え淀橋区が成立したあとの、1934年(昭和9)に発行された「大日本職業別明細図―淀橋区―」がある。
 大正期のものは、道路がオレンジ、市街地が墨囲みに斜線、収録した企業・店舗などは墨囲みに白ベタ墨文字、河川や池は水色で表現されている。また、昭和期のものは記載する項目が増えたせいか、企業・店舗などの所在地を黒丸印で表し、名称を黒丸に接して記載する表現に変わっている。市街地は、特に囲みや斜線が入れられず薄いオレンジ色のベタ塗りとなり、道路は白、鉄道やバス路線を赤色、河川や池は青色で表現されている。見やすさからいえば、やはり昭和期の表現法のほうが場所をハッキリと認識しやすい。
 これらの地図は、大正期から昭和期にかけて地域に存在した、さまざまな企業・店舗などを知るうえでは不可欠な要素を満載している。特に、地図の裏面には、おそらく広告費を払って出稿しているのだろう当時の企業や店舗の広告と、ときに社屋や店構えなどの写真も挿入されていて興味深い。年代順に地図を重ねてみると、どのような事業や商店の盛衰があったのかがひと目でわかる。同時に、時代背景や社会環境を重ねてみると、いままで気づかなかった地域の特色が姿を現したりもする。
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 東京が35区編成になったばかりの1933年(昭和8)、商工地図とは別に大東京市政審査協会から「各区便益明細地図」(別称「実地踏査図」)が発行されている。同地図も、「商工地図」と同様に企業や店舗などを収録している生活便利地図だが、カラー印刷でイラスト入りなのが大きなちがいだ。同地図には建物や公園、施設、邸宅などの絵が挿入されていて、元祖・イラストマップのような趣きだが、その表現や記載事項にかなり不正確な点が目立つことは、以前、こちらのサイトでもご紹介Click!ずみだ。

◆写真上:落合地域が掲載された、1925年(大正14)と1933年(昭和8)の「商工地図」。
◆写真中上は、1925年(大正14)発行の商工地図「高田町・落合町・長崎村」。は、同図裏面に掲載された企業や店舗。は、『昭和前期日本商工地図集成第 1期・第2期改題』(地図資料編纂会)付属の『「商工地図」をよむ』()と木谷佐一の趣旨()。
◆写真中下は、1934年(昭和9)に発行された商工地図の「淀橋区」(全図)。は、同図から拡大した下落合と上落合の全域。
◆写真下は、1934年(昭和9)発行の「淀橋区」裏面に掲載された企業・店舗。は、1925年(大正14)に発行された商工地図「淀橋町」の部分拡大。は、1933年(昭和8)に発行された商工地図「牛込区・淀橋区」の新宿駅周辺の部分拡大。

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チンチンの自力健康器を愛用する藤田嗣治。 [気になるエトセトラ]

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 昭和初期に開発されたベストセラー機器に、国民健康振興会が開発し日本・ドイツ・イギリスで特許を取得した「自力健康器」というのがある。国民健康振興会は、神田区一ツ橋1丁目の帝国教育会館内にオフィスがあり、少なからず戦前の教育界とも結びついた省庁の外郭団体(天下り機関)のような臭いがする。
 自力健康器とは、ベルトのバックルのような形状をした、スプリングで下腹部(臍下丹田)を圧迫して、下腹を使った独特な腹式呼吸を行なうための、電源レス/バッテリーレスのマニュアル装置だ。やはり、ベルト状の腹帯を使って、自力健康器を漢方のツボである臍下丹田に固定し、下腹式呼吸がうまくいくと「♪チンチン」と、内部に装備されたチャイムが鳴るらしい。逆に、呼吸がうまくいかないと「♪チンチン」の音色が聞こえないので、うまくチャイムが鳴るまでは独特の使いこなしが必要だったようだ。
 広告や使用説明書に添えられた図版では、ヘソのかなり下のほうに当ててベルトを巻くようなので、洋服を着ると下腹部がせり出し、かなり目立って邪魔だったのではないだろうか。また、内部の機構を描いたスケルトン図版では、独特な呼吸法で小さなハンマーがベルに当たるよう組み立てられており、自力健康器を装着しているときは、いつも“社会の窓”あたりから、「♪チンチン」という音色が小さく響いていたらしい。
 自力健康器の効用は、あらゆる病気が改善・治癒するとしており、末期の肺結核や癌、重症の胃潰瘍以外なら、たいがい効果が表れて治癒するらしい。「うそくせっ!」といってしまえばそれまでだが、自力健康器の特長を1939年(昭和14)に発行された、「婦人倶楽部」2月号掲載の広告コピーから引用してみよう。
  
 運動不足や病弱も五分か十分の使用で
 運動不足で困る人や、慢性の胃酸過多、胃下垂、胃拡張、便秘下痢、胃アトニー、不眠症、神経衰弱等の患者が「自力健康器」を使用してからメキメキ食欲が進み便通も整ひ、身體が肥つた、日頃心配の血圧が下り安心した、ビタミンの吸収が良く脚気も共に全快した。体質が一変して蓄膿症まで治つた、夜は不思議に安眠出来て頭痛が明快、心身共に健康になり若返つた等々全国各地から続々と礼状が寄せられ大好評大評判です。/若し「自力健康器」を三日間も使用して食欲が進まぬ人、便通が整はぬといふ方は健康器のシメ方が弱いのが原因ですから健康器をグツと強くシメて下さればメキメキ食欲が進み便通も整ひ、頭脳もハツキリするのが目に見えて判り、なるほど「自力健康器」は効くなと御満足が得られませう。
  
 広告には、慢性胃腸病が完治して筋肉がムキムキになった静岡の「田村重一郎君」をはじめ、心臓病が治ってなぜか筋肉がムキムキになった島根の「岡崎安正君」、やっぱり筋肉がムキムキになった新潟の「松井健治君」ら3人の写真が大きく添えられている。まるで、米国の通販CMを先どりしたようなビジュアルだ。
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 コピーにもあるように、「♪チンチン」と効果を上げるためには、ベルトをかなりきつく締めなければならなかったようで、効果を得られないのはベルトの「シメ方が弱い」からだとしている。そのせいか、「きつく締めたらお腹が痛くなったよう!」という苦情が殺到したらしく、自力健康器の使用説明書にはいままで使用していなかった横隔膜が、腹式呼吸で急に伸縮運動を始めたので痛む現象だから、「少しも心配はない」とわざわざ赤文字で印刷している。(そうかなぁ?)
 ただし、「普通の腹痛の場合は、無理に我慢せず治つてから使用する事」と、逃げ道の注釈を添えることも忘れていない。そう、使用説明書をよく読んでみると、なにか不都合なことが起きた場合は、「使い方が悪い」あるいは「取り扱いが誤りだ」とすぐに逃げられるよう、30項目近い注意書きが連ねてあるのだ。その挙句、「無理に使用せぬこと、何事でも無理があるといけません」などと、一般論まで注釈に添えてある。w
 自力健康器は日本国内はもちろん樺太、台湾、朝鮮、満州、上海、米国、ブラジルなど世界各地に販売代理店を展開し、1939年(昭和14)現在で174拠点の店舗で販売していた。ちなみに東京では、日本橋×2店、神田×2店、駿河台下×1店、音羽(講談社)×1店、八王子×1店の計8店舗で販売されている。
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 さて、この自力健康器の宣伝キャラクターに、この時代には「確信犯的国粋主義者」と化していた洋画家・藤田嗣治Click!が起用されている。それだけでも、帝国教育会館にオフィスをかまえる国民健康振興会が、政府機関(特に軍部?)の息がかかった組織であることをうかがわせる。広告のコピーも勇ましく、パリで藤田嗣治が「日本主義」を貫徹した(?ことになっている)様子を紹介している。
  
 生粋の日本主義  藤田嗣治画伯
 独特の生彩を有つた(ママ)画風と、お河童頭で誰れ知らぬものもいない藤田嗣治画伯は、滞仏二十有余年、一時は花の都巴里の人気を一身に掻つさらつて、日本人のために気を吐いた。/画伯の生活様式が水際立つた欧風化に、兎角西洋文化の心酔者であるかのやうに見誤られがちであるが、画伯は生粋の日本主義者でシカも柔道の有段者であると聞いては驚かされる人もあらう。/巴里の社交界に柔道を紹介したり、滞仏中の友人と共に法被会を催して、江戸前の握り寿司を食べたりして、大に日本趣味を発揮したものである。/又画伯は極めて熱心なる『自力健康器』の愛用者である事も見逃せない。画房で彩管を揮ふときにも、街頭の散歩にも、写生の旅にも、いつも『自力健康器』が画伯の臍下丹田でチンチンと美妙な音色を響かせて居る。多忙な日常の疲労を之れに依つて癒しつゝ健康を増進する目的だとの事だが、流石に画伯だけに『自力健康器』の使用から来る所謂『肚の力』を、日本精神のどこかに結び着けての愛用らしく思はれる。
  
 パリをはじめヨーロッパ各地で柔道を紹介し、道場で教えていたのは画業に忙しい藤田ではなく、おもに黒メガネの旦那こと石黒敬七Click!(柔道8段)ではなかったか?
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 自力健康器は、使用をはじめてからたった1日で、「成程効く」という「自覚を与へる所に一大特色がある」そうだ。女性も子ども(12歳以上)も使用でき、効用の中には「頭脳も明快」「百歳の長寿を保つ事が出来る」とも書かれているので、これはぜひわたしも試してみたいのだけれど、いまではどこに影をひそめたものか販売されていない。たまに、地方の旧家から見つかったらしい中古品が、ヤフオクに出品されるぐらいだろうか。

◆写真上:広告に添えられた図版で、自力健康器を臍下丹田の下腹部に装着したところ。
◆写真中上は、1939年(昭和14)発行の「婦人倶楽部」2月号に掲載された広告。は、1938年(昭和13)7月22日の「伯剌西爾時報」(ブラジル)掲載の記事。
◆写真中下は、自力健康器と外箱。は、同梱された使用説明書。
◆写真下は、30項目近くの注釈がある使用説明書。は、藤田嗣治をキャラクターに起用した1939年(昭和14)発行の「婦人倶楽部」2月号の媒体広告。

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記憶の糸が途切れた武蔵野風景。 [気になるエトセトラ]

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 「♪かわる新宿あの武蔵野の~月もデパートの屋根に出る~」と唄われたのは、1929年(昭和4)にヒットした『東京行進曲』Click!だが、戦前から1950年代にかけては、「変わりゆく武蔵野」というフレーズがよく使われている。だが、1960年代から今日までは、「変わりすぎた武蔵野」という表現がいちばんピッタリとくるようだ。
 そんなことを痛感させてくれる出来事が、先日、府中を訪れたときに起きた。府中市郷土の森公園へ、大賀一郎Click!が育てた古代ハスClick!を観賞しに出かけたときだ。武蔵野線の府中本町駅で降りて、多摩川のある南へ歩いていく道すがら、「三千人塚」という史跡があった。近くの分倍河原では、鎌倉幕府軍と北関東の新田義貞軍が激突した古戦場跡も近いので、多数の戦死者を埋葬した塚なのだろうと想像した。同時に、どこかで聞いた史跡名だとも感じたが、先を急ぐのでそのまま塚をあとにした。
 近年の発掘調査によれば、「三千人塚」という名称やその謂れは後世の付会で、鎌倉末期の戦死者を弔った塚などではなく、鎌倉期から室町期にかけ地域の有力な一族を葬った塚墓のひとつであることが判明している。とんだ戦跡にされてしまった同塚には、鎌倉末期の板碑Click!が添えられていたので、よけいに分倍河原の合戦と結びつけられて口承伝承されてきたのだろう。
 どこかで聞いたような「三千人塚」の名称だが、ようやく思い出したのは塚を訪れてから1年後、つい最近のことだ。親父のアルバムに、「三千人塚」の手書きキャプションがあるのを思い出したのだ。1950年代後半から60年代にかけ、親父はよく武蔵野をあちこち散策して歩いている。もっとも、当時の武蔵野のイメージはすでに山手線の西域部ではなく、戦後の住宅難と市街地化に押されて、23区の西側に位置する三鷹市や武蔵野市、小金井市、府中市などへと移っていた。親父の書棚には、武蔵野に点在する石仏に関する本や資料が並んでいたころだ。
 そのころのアルバムをめくると、見憶えのある写真とともに「三千人塚」のキャプションを見つけた。大きなエノキが写る写真には見憶えがあったが、先日、そのすぐ前を歩いて通過しているにもかかわらず、まったく写真の情景と現実の風景とが一致せず、記憶の糸が途切れたままつながらなかったのだ。それほど、現在の「三千人塚」とその周辺はさま変わりをしていて、アルバムの写真と同一の場所とは思えなくなっていた。一連の写真には、幼稚園児ぐらいのわたしも写っているので、おそらく親と一緒にハイキングでも楽しんだのだろうが、府中本町で降りてから多摩川べりへ着くまでの間、まったくなにも思い出せなかった。こんなことは、ほとんど初めての経験だ。
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 たとえば、同じ武蔵野Click!のエリアでも、武蔵小金井の南に連なる国分寺崖線Click!は、ハケの道(同地域では崖線の急斜面をバッケClick!とは呼ばずにハケと呼称している)にしろ、貫井弁天社や滄浪泉園、野川、恋ヶ窪、小金井公園にしろ、高校生や大学生になってからも何度か散策しているので、いま現在そこを歩いても十分に既視感(既知感)があって、1950~60年代のアルバムに貼られた情景と一致せず、まったく気づかずに通り過ぎる……などということはありえない。でも、府中ではそれが起きてしまった。まるで、タイムスリップで未来にきたような、あるいは浦島太郎のような感覚とはこういうことか……と思う。アルバムに貼られた写真は、おそらく1960年代の撮影だろうから、それから50年以上が経過していることになる。
 同じく、50年以上がたっているにもかかわらず、それほど雰囲気や周囲の環境が変わらずに、すぐさま思い出せるような“武蔵野”もある。世田谷区にある、徳富蘆花の蘆花恒春公園などそれだ。親父のアルバムにある写真と、何年か前に訪れた同園とは、遠景の住宅街を除きほとんど50年以上前のままだ。つまり、記憶の糸がとぎれずに、なんとかたぐり寄せられる風情を残している。同様に、小金井公園の古びた郷土資料館や前方後円墳はなくなったが、新たに造られた江戸東京たてもの園の周辺には、当時の深い森や静謐な空気の名残りがそのままだ。ただし、サクラの名所でも有名な小金井橋は、まったく異なる次元の姿へと変貌してしまったけれど……。
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蘆花墓所1960頃.jpg 蘆花墓所.JPG
 恋ヶ窪にしても、今村繁三Click!の別荘跡ののちは、昔から大手企業の研究所になっていたので、武蔵野の湧水池と原生林の面影をよく残していて、公開日に散策すると清々しくて楽しい。もっとも、傾城伝説が残るここの美しい「姿見の池」は、いつの間にか「大池」という名前に変えられ、おそらく観光用に新たな湧水池を造成したのだろう、現在は同研究所の池から西へ400mほどのところに、新しい「姿見の池」が造られている。
 そんな武蔵野の残り香がただよう文章を、1951年(昭和26)に講談社から出版された大岡昇平Click!『武蔵野夫人』Click!から引用してみよう。ちなみに、描かれた情景は軍隊から復員してきた「俺」が、小金井のハケの家ですごした敗戦から間もないころだ。
  
 俺が幾度も狭山に登つて眺められなかつた広い武蔵野台地なんてものも幻想にすぎないぢやないか。俺の生れるどれだけ前に出来たかわからない、古代多摩川の三角洲が俺に何の関係がある。あれほど人がいふ武蔵野の林にしても、みんな代々の農民が風を防ぐために植ゑたものぢやないか。工場と学校と飛行場と、それから広い東京都民の住宅と、それが今の武蔵野だ。
  
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 この文章が書かれたのは、1949~50年(昭和24~25)だが、場所をさらに東京の外周域に移して、いまでもまったく変わらない情景が「武蔵野台地」で、人々の営みとして繰り返されている。「三千人塚」の近くには、大きな電機工場や団地、中央高速道路沿いのビール工場などが林立し、記憶の糸がたぐれないほどのたたずまいを見せていた。

◆写真上:いまや住宅や工場、高速道路などにすっかり囲まれてしまった「三千人塚」。
◆写真中上は、親父のアルバムにある1960年代の「三千人塚」と鎌倉期の板碑で、とても同じ場所とは思えない。は、「三千人塚」の現状。は、塚の南にある中央高速道路に面したビール工場で「♪左はビール工場~」の建屋だろう。
◆写真中下は、1960年代の世田谷にある蘆花恒春公園と現在の様子。は、1960年代初めごろに撮影された徳富蘆花の墓所()と現状()。
◆写真下は、わたしが1974年(昭和49)の高校時代に撮影した野川の源流域と恋ヶ窪の森(右手)。その下が、恋ヶ窪の森にある湧水源の元・姿見の池。は、1960年代の小金井の雑木林と1974年(昭和49)に撮影したハケの道の風景で、カラー写真は小金井公園に拡がる雑木林の現状。は、1960年(昭和35)前後に撮影された小金井公園の南西にある小金井橋で、現状の4車線道路の橋と比べたらまったく別世界の風景だ。

またまた、SSL化による不具合とみられる現象が起きた。左側のサイドカラムに貼りつけたバナーの画像が、一昨日の時点ですべて外れてしまっていた。Soーnetの運用管理チームは、改修にともない少しずつ不具合つぶしをしているように想像するのだが、こちらをいじるとあちらが不具合というような、モグラ叩きに状況に陥ってないだろうか?

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