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佐伯祐三から小島善太郎へ。 [気になる下落合]

佐伯祐三と小島善太郎1.jpg
 佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景』シリーズClick!の中に、曾宮一念アトリエClick!の西側空き地(下落合622番地=のち谷口邸敷地)から見える風景をモチーフに描いた、『セメントの坪(ヘイ)』Click!という作品がある。曾宮一念によれば、自宅の軒先をほんの少し入れた同作が気に入らないようで、40号の画面を不出来だと批判Click!している。だが、同作には「制作メモ」Click!に記載された15号サイズの作品と、1926年(大正15)9月1日に二科賞の受賞時に東京朝日新聞社のカメラマンによって撮影Click!された、同年の8月以前の制作とみられる10号前後の作品があるのが確認できる。
 佐伯が三度も同じ位置から作品を仕上げているので、曾宮邸の西横から眺めた風景モチーフがよほど気に入っていたのだろう。佐伯が画因にこだわって、3作以上の仕上げた『下落合風景』は、ほかに佐伯アトリエの西側を南北に通る西坂Click!筋の『八島さんの前通り』Click!と、曾宮邸の前に口を開けた諏訪谷を描いた『曾宮さんの前』Click!(秋・冬各2点)しか存在していない。
 もっとも、下落合623番地の曾宮邸Click!がある前の道路は、佐伯祐三に限らず画家たちの“人気スポット”だったものか、佐伯の3年前には曾宮一念自身も『夕日の路』Click!(1923年)に描いており、また昭和初期には曾宮の描画ポイントのややうしろ側、下落合731番地の佐藤邸敷地から清水多嘉示Click!『風景(仮)』Click!を制作している。曾宮の『夕日の路』には、いまだコンクリート塀は築かれていないが、大正末に進捗した諏訪谷の宅地開発とともに建てられたのだろう、1926年(大正15)の佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』および清水多嘉示『風景(仮)』には、同じデザインの塀が記録されている。
 さて、1926年(大正15)の夏に早くも仕上げられていた、10号前後の小品『下落合風景』(セメントの坪)だが、この作品を佐伯がいかに気に入って大切にしていたのかが、彼の手もとに置かれていた期間をみるとわかる。同年8月末には、すでに完成していたとみられる同作だが、佐伯は東京の画廊でも、また関西の作品頒布会を通じても決して売ろうとはせず、そのままアトリエで保存しつづけている。そして、1927年(昭和2)6月17日~30日に開かれた1930年協会第2回展Click!(上野公園内日本美術協会)で、初めて同作を出品している。その際、同展の記念絵葉書として『セメントの坪(ヘイ)』を印刷し、会場で販売するほどのお気に入りだった。
 佐伯は、なぜ『セメントの坪(ヘイ)』をそれほど気に入っていたのだろうか? 考えられることは、同作が第1次滞仏から帰国したあと、自宅周辺を描いた売り絵ではない『下落合風景』の中ではもっとも出来がよいと感じていたか、あるいは記念すべき第1作だった可能性がある。または、その両方だったのかもしれない。「制作メモ」に見られる、1926年(大正15)9月~10月に描かれた『下落合風景』のタイトルは、あくまでもほんの一時期の覚え書きであり、それ以前やそれ以降にも制作していたのはもはや明らかだ。同年の夏以前から制作していた『下落合風景』の中でも、『セメントの坪(ヘイ)』は特に佐伯好みに仕上がった作品なのだろうか。
 同作は、戦災で焼けて失われたか、あるいは個人蔵で行方不明になったままなのか、作品の現存は確認されていない。かろうじて、1930年協会第2回展の記念絵葉書と同展の会場写真、そしてアサヒグラフに掲載された記者会見の写真から、その存在を確認できるのみだ。だが、1930年協会第2回展の絵葉書には、もうひとつ重要な要素が確認できる。絵葉書の画面に、佐伯のサインが大きく書きこまれているのだ。
セメントの坪(ヘイ)1926.jpg
下落合現状1.JPG
佐伯祐三と小島善太郎2.jpg
 おそらくペンか万年筆で書かれたのだろう、走り書きの文字は「Mr.Kojima/Uzo Saeki(あるいはSaiki)」と読みとれる。「Kojima」とは、もちろん同展でいっしょだった1930年協会の会員である小島善太郎Click!その人だろう。のちに児島善三郎Click!も1930年協会に参加するが、佐伯が1927年(昭和2)6月に同絵葉書を作成して手渡すには、時期的にみて無理がある。佐伯と小島は、性格も育った環境もまったくちがうし、画風も一致点がまるでないほど異なっているが、どうやらお互いがなんとなく気の合う同士だったらしい様子が、残された各種の証言からうかがえる。
 1930年協会の記念写真を見ても、小島善太郎の隣りには佐伯祐三の姿が写っていることが多い。また、小島は帰国した佐伯の自宅に、パリ生活の延長とばかり何度か「随分入り浸っ」てもいる。そのあたりの心象を、1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『一九三〇年叢書(一)/画集佐伯祐三』所収の、小島善太郎「佐伯の追憶」から引用してみよう。ただし、引用元は朝日晃がまとめた『近代画家研究資料/佐伯祐三』(東出版)ではなく、小島善太郎のお嬢様である小島敦子様Click!が、1992年(平成4)に編集した『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』から引用してみよう。
  
 日本に帰っての彼の一年間の生活は、丁度五月に帰朝して翌年の六月(ママ:8月)日本を再び立つまでの彼は、相変わらず巴里生活の延長をやっていた。僕達は随分入り浸ったものだった。よく遊び又よく勉強をしていた。彼は日本では現代の文化式のものを画くのだと言って随分彼の住っていた落合のそういった風景を描いた。そして旅行などもした様だったが、日本の風景に充分なじみ切らぬうちに、再度の渡仏をしてしまった。もう一度自信のつく勉強をし直したいと言い残して。/今にして思出すに、彼は何処かに淋しさがあった。それはどんなに有頂天にさわいでいた時でも、彼は醒めていた所がある様で、其処には何か見詰めていた何かがあった様に見受けた。それは何か? 僕は思う。彼の死?に対する覚悟を求めていたのではなかったか?(カッコ内引用者註)
  
 佐伯祐三が、下落合の宅地造成や道路敷設の工事中、あるいは工事が終わった直後の場所ばかりをモチーフに選んで描いているのは、たびたびここの記事でも指摘してきたけれど、それに対し「日本では現代の文化式のものを画くのだ」という佐伯の言葉を、小島が記録・証言している重要な一文だ。
佐伯サイン.jpg
曾宮一念「夕日の路」1923.jpg
清水多嘉示「風景(仮)」昭和初期.jpg
 小島善太郎もまた、自分とは性格も画風も、趣味嗜好もかなり異なる佐伯に少なからず惹かれていたらしく、「佐伯、君は君の作品と一緒に僕に永久に力を与えてくれる」(同書)とまでいい切っている。佐伯が死去して間もない文章なので、多少の感傷や思い入れのある表現を割り引いて考えても、小島が佐伯について書いた文章は、相対的に文字数が多くボリュームも大きい。
 互いに反りが合った者同士、佐伯は第2次渡仏の直前に、もっとも気に入っている『下落合風景』の絵葉書へサインを書きこみ、小島善太郎へ記念として贈ったのではないだろうか。1930年協会の他の会員たちには、少なくとも現存する資料からは、同じように絵葉書を贈った形跡が見られない。
 小島善太郎は、佐伯祐三が第1次滞仏中のパリで仕事をする様子を間近で見ている。クラマールでは、佐伯の「化け猫」騒ぎClick!に巻きこまれ、のちに小島はその物語をわざわざ戯曲化Click!して清書した原稿として残してもいる。小島がことさら佐伯に親しみを感じたのは、このときからではないだろうか。佐伯がパリで仕事をする様子を記した、1957年(昭和32)発行の「みづゑ」2月号掲載の、小島善太郎「佐伯祐三の回顧」から引用してみよう。ただし、引用元は上掲の『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』から。
  
 僕がパリでアトリエをもった頃、佐伯は僕の近くでリュウ・ド・シャトウ十三番の大きなアトリエを借り、そこであの数々の汚れたメーゾン(家)を描き出した。仲よくなった靴屋の真前で、そのままの家を一気に描き上げる。靴屋の親父が飛出してそれを欲しがったのも無理はない。実に素晴らしい靴屋の店である。しかもそれが二、三時間で二十号の立派な油絵が出来上ったのだ。また彼が自分の仕事に飽きたらず焦々した時は、タッチが幅広くそれが針金をくの字に曲げたように奔放のまま終っている。色は灰褐。まるで魔界を彷徨する気持である。時にはあの有名なパリの簡素な便所に向かって数枚の傑作を描いた。鉄板の周りには花柳病の広告ビラが、彼に依ってあんな詩化されている。こうしたパリの冬、灰色の空の下で彼が夢中で描き続けていった無数の仕事の中には、狂的な程の熱中さが刻印されている。このことは佐伯の作を見た人達の識るところであるが実に甘い描写のない彼の詩であった。
  
 おそらく、小島善太郎が国内の洋画家について語った、最大の賛辞のひとつだろう。
下落合現状2.JPG
小島敦子「桃李不言」1992.jpg 小島善太郎1982.jpg
 さて、佐伯祐三と小島善太郎に共通する趣味がひとつある。それは、ふたりが無類の野球好きClick!だったことだ。おそらく、当時の六大学野球Click!全国中学校野球大会Click!の話題を、ふたりは頻繁に交わしていたのではないか。小島善太郎は、戦前は早慶戦Click!に夢中であり、戦後は熱烈な巨人ファンだったようで、王がホームラン記録を出しそうな試合を観戦しに、わざわざ後楽園球場へと出かけている。北野中学時代Click!には野球部のキャプテンClick!だった佐伯祐三もまた、第2次渡仏直前の多忙な時期に、わざわざ甲子園まで出かけて中学校野球大会(現・全国高校野球大会)を観戦している。案外、野球を通じてこのふたりは意気投合しているのかもしれないのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:記念写真では隣り同士が多い、小島善太郎(右)と佐伯祐三(左)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の8月以前に制作された佐伯祐三『下落合風景』=『セメントの坪(ヘイ)』。は、佐伯の描画ポイントあたりから見た下落合の現状で、手前から左手の駐車場が、下落合623番地の曾宮一念アトリエ跡。は、1926年(大正15) 5月15日~24日に開かれた第1回展(室内社)での小島善太郎と佐伯祐三。
◆写真中下は、『セメントの坪(ヘイ)』のサイン拡大。は、1923年(大正12)に制作された曾宮一念『夕日の路』。は、昭和初期に描かれた清水多嘉示『風景(仮)』。いずれも諏訪谷の北側に通う、佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』と同じ道筋を描いている。
◆写真下は、佐伯祐三と清水多嘉示の画面に描かれたコンクリート塀跡(左側)。下左は、1992年(平成4)に出版された小島敦子様・編『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』(日経事業出版社)。下右は、1982年(昭和57)にアトリエで撮影された小島善太郎。
掲載されている清水多嘉示の作品は、保存・監修/青山敏子様によります。

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