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曾宮一念が語る怪談好きの田辺尚雄。 [気になる下落合]

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 いまから10年ほど前、拙記事にロックケーキさんClick!が、また昨年にはお名前は不明だが下落合に住んでいた田辺尚雄Click!について、重ねてコメントをお寄せいただいた。少し前の記事Click!で、取り上げるテーマや人物について美術や文学のカテゴリーばかりでなく、これからは音楽分野についても触れていきたいと書いたばかりだ。
 そこで、今回は東洋音楽研究家の田辺尚雄について少し書いてみたい。田辺家は、大正時代から目白通りを北側へとわたった、下落合546番地に住んでいる。下落合540番地にあった、大久保作次郎Click!アトリエの3軒西隣りだ。音楽を研究対象にしているが、田辺尚雄は帝大の理学部物理科を卒業し、物理学の教師をしていた人物だ。田辺が音楽に興味をもったのは、大学院時代に専攻した音響心理学に起因しているのだろう。のちに、田辺は物理学の教師に加え、東京音楽学校(現・東京藝大)でも教鞭をとっている。
 1936年(昭和11)に、アジアに伝わる民族音楽の研究を中心に行う東洋音楽学会を設立し、同会は現在でも上野で活動をつづけている。1983年(昭和58)より、優れた研究論文には田辺尚雄賞が授与されているようだ。また、音響学をベースにした楽器の発明者としても知られ、大正期には中国の胡弓または日本の三味、西洋のチェロとを合体させたような「玲琴」Click!を発明している。いかにも理系の音響学を基礎にした、音が効率的に鳴り響くような設計の新楽器だが、あまり普及しているとはいえない。
 f型孔つきの、チェロをコンパクトにしたような台形の箱胴に、胡弓または三味に似た竿をつなぎ合わせ、駒上には3本の金属弦を張ってチェロのアルコで弾くという、そのメンテナンスだけでもどこの楽器店へもっていけばいいのか不明な、特異な形状や仕様をしている。音色は、ビオラとチェロの中間のような響きで、弾き方にもよるのだろうがアジアの物悲しい郷愁を誘うようなサウンドで鳴る。西洋楽器風に演奏すれば、またちがった音色で響きそうな、演奏者の腕に依存するデリケートな楽器のように思える。
 田辺尚雄は、怪談がなによりも好きだった。授業のはじめや合い間には、落語や怪談話をよく聞かせては、生徒たちを喜ばせている。1909年(明治42)に、当時は四谷区南伊賀町(現・新宿区若葉)に住んでいた、中学4年生になる曾宮一念Click!の証言から聞いてみよう。田辺尚雄は明治末、早稲田中学校Click!の物理学教師をしていた。1985年(昭和60)に文京書房から出版された、曾宮一念『武蔵野挽歌』から引用してみよう。
  
 新しい洋服を着た先生は色白の面長の美男子で四十近くに見えたが、私より十上だから二十七、八歳であった筈である。第一時間目にはギリシャの哲学者、数学者から音楽家、楽器の変遷、ついで日本物理学者の系列では田中館、寺田、つまり東西科学史を略述し、最後に「田辺尚雄がつづく」と少し頬笑んで話した。我々は烟に巻かれながら先生の小声を静粛に聞いた。ここに先生が少し頬笑んだと記したが、声を出して笑ったことも叱ったこともなかった。笑わない先生はつまらないどころか、一時間が知らぬ間に終るほど面白かった。講義が面白くて騒がぬから叱る必要もなかった。私は科学系は苦手でも田辺先生の時間をたのしみにした。物理そのものはみな忘れたのに、余談や落語の枕とも言えるものは今も憶えている。馬の話から先生は「私の顔も伸びすぎて途中で半分曲がりました」、よく見ると心もち左へ曲って見えた。これから怪談に移った。
  
 文中の「田中館」は、帝大を退職する際に中村彝Click!肖像画Click!を描いた田中館愛橘Click!であり、「寺田」はその教え子だった寺田寅彦Click!のことだ。
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 田辺尚雄が授業で取り上げた物語は、米国で起きた列車事故で死傷者がたくさん出ているのに、後部車両の乗客がそれに気づかず眠っていたのは、列車の連結バネが優れた設計だったのだろうとか、米国の山火事に遭遇した日本人が数年後に渡米すると、いまだに延焼中だったというようなエピソードだ。また、近く地球に接近するハレー彗星について生徒が質問すると、周期的に太陽系へとやってくる彗星の宇宙での軌跡を描いて説明したが、当時の中学生たちにはよく理解できなかったようだ。
 今日の高校で教える「物理」の授業よりも、はるかに面白そうな内容だったのが曾宮の文章から伝わってくる。早稲田中学を卒業した曾宮一念は、東京美術学校へと進んでしまうので物理学とは無縁になるが、なぜか恩師とは偶然も含めてときどき遭遇している。つづけて、曾宮の同書より引用してみよう。
  
 私は挨拶もせずに卒業して後、二度先生に会った。一度は大正四年頃、本郷会館で先生が手巻蓄音機で西洋音楽の説明をした時で、少女姿の中条百合子が来ていた。次は目白駅近くのバスで先生と偶然同席した。或いは一時学習院に出講の帰途であったか。/大正十年私は落合村にうつった。先生が同じ落合に居ることを知ったのは昭和の初めで、友人長尾雄が田辺先生の隣と知った。彼に連れられて一度先生の門を潜った日は不在で、その後無沙汰のままに過ぎた。どうして田辺先生を訪ねなかったのか、決して怖れも嫌いもせず、一つには私が不明の頭痛病にて鬱病を伴っていたからである。
  
 文中に登場する、曾宮の友人である長尾雄とは田辺尚雄邸の東隣り、すなわち下落合542番地に住んでいた長尾収一の息子のことだ。長尾邸は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にも収録されており、東西を大久保アトリエと田辺邸にはさまれた敷地にあたる。長尾雄は、昭和初期には慶應大学の教授をしており、「三田文学」に参加してのちに小説やエッセイ、演芸評論などを手がける文筆家だ。長尾収一1932.jpg 武蔵野挽歌1985.jpg
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 父親の長尾収一は、陸軍の軍医だった人物で、在郷軍人会落合村(町)分会を組織したり町会「協和会」の会長をつとめており、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』にも写真入りで、息子の長尾雄ともども紹介されている。『落合町誌』より引用してみよう。
  
 正五位勲三等功四級/在郷陸軍一等軍医正/協和会長  長尾収一  下落合五四二
 氏は鳥取旧池田藩士にして、万延元年を以て出生、若くして笈を負ふて東上し、明治十四年内務省医術開業試験に合格し、同十六年陸軍々医学校を終了す、而して同十七年陸軍三等軍医に任ぜられ同四十二年一等軍医正に累進す、(中略) 退職後は専ら現地に在りて田園生活に浸つてゐたが落合在郷軍人分会の組織に率先して協賛し、その設立に寄与し会長たること二度、克く同会の基礎時代に盡瘁せり、現に協和会々長に推され今尚ほ公的信望を収む。家庭夫人は子爵石山基弘氏の伯母君に当られ、嗣子雄氏は慶應大学英文科の出身にて現時同校教授たり。
  
 ちなみに、田辺尚雄は残念ながら『落合町誌』(1932年)には収録されていない。
 なぜ、訪問好きな曾宮一念が、田辺邸の訪問をたった一度だけでやめてしまったのかは、病気のせいとしているものの不明だ。曾宮は大正中期、田辺邸近く下落合544番地の借家Click!に住んでいたこともあり、周囲の街並みには馴染みがあったはずだ。田辺尚雄は教え子が訪ねてきたら、またなにか物語を語って聞かせていたのではないかと思うとちょっと残念だ。昭和初期のこの時期、田辺は音楽に関する研究へ本格的に取り組んでいたころであり、物理学のみならず音楽に関連した面白いエピソードを、たくさん知っていたと思われるからだ。
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 音楽にまつわる怪談や、地元の落合地域で語られていた幽霊・化け物譚などを、田辺尚雄は仕入れていやしなかっただろうか。少年だった曾宮一念が「物理」の授業中、目を輝かせながら聞き入っていた田辺尚雄の怪談だが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合546番地に住んでいた、東洋音楽研究家・田辺尚雄の旧居跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる田辺尚雄邸と長尾収一(長尾雄)邸。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にとらえられた田辺邸。
◆写真中下上左は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』収録の長尾収一。上右は、1985年(昭和60)に出版された曾宮一念『武蔵野挽歌』(文京書房)の表紙。は、下落合542番地にあった長尾収一・長尾修邸跡(左手)の現状。
◆写真下上左は、1951年(昭和26)に音楽之友社から出版された田辺尚雄『音楽音響学』。上右は、晩年の田辺尚雄。は、1951年(昭和26)に「沖縄芸術使節団」の一員で沖縄を訪問した田辺尚雄(右から3番目)。田辺尚雄からひとりおいて左隣りには、「下落合風景」を描いた落合在住のニシムイClick!の洋画家・南風原朝光Click!の姿が見える。

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村山籌子の「三角アトリエ」レポート。 [気になる下落合]

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 村山知義・籌子夫妻Click!が住んでいた、上落合186番地の三角アトリエClick!について、室内を詳しく紹介した文章を見つけた。アトリエ内の各部屋について、細々としたことまで詳細なレポートを書いているのはほかでもない、そこで暮らしていた村山籌子(かずこ)Click!本人だ。レポートは、1924年(大正13)8月5日に書かれており、どこか訪問記風な表現となっている。
 村山知義が、渡欧前に「たった千円」で建てた家に、自身の設計でアトリエを増築したのは1923年(大正12)5月のこと。村山(岡内)籌子と自由学園明日館Click!で結婚式を挙げたのが、翌1924年(大正13)6月15日なので、彼女のレポートは三角アトリエが竣工してから1年3ヶ月後、村山知義との新婚生活51日目のことだった。
 上落合186番地の「三角の家」は、アトリエ(変形10畳サイズ)に食堂(約4畳半でのち客間を合併して拡大?)、台所(食堂とほぼ同サイズ)、村山知義書斎(約6畳サイズ?)、村山籌子書斎(通称「勉強部屋」で中2階にあり約3畳サイズ)、風呂場(狭く1畳半ほどか?)、便所(五~六角形の妙な空間)、そして庭はかなり広くて多彩な樹木が植えられ、一部はトマト畑などの家庭菜園になっている。また、庭の一画には、村山知義の母親と弟が住む別棟が建っていた。
 村山籌子のレポートが掲載されたのは、1924年(大正13)に発行された「婦人之友」10月1日号(第18巻第10号/婦人之友社)に掲載の村山籌子『三角の家より』だ。さっそく、アトリエ内にある各部屋の様子を、実際に暮らしていた彼女にレポートしてもらおう。
  
 画室のこと/画室だけは、割合に大きくて、十畳敷位の板の間で、まるで工場のやうに荒れ果てゝゐる。方々に、柱のやうな、三角の長い隠戸棚がついてゐて、そのなかには、物尺や、絵具や、丈木や、紙や、原稿や、エハガキが、乱雑にはいつてゐるので活動写真の、変な仕掛のやうな気がして、誰もゐなくなると、一つ一つ開けてみたり、しめてみたりして、考へ込んでしまふ。本棚には、一杯本がつめこんである。壁には、壁画だの意識的構成主義の、髪の毛だの、コンクリートだの、切だの、人形だののぶらさがつた絵が一杯かけてある。そして、何でもかんでも、木の切でも、手袋の片輪でも、針金でも、空瓶でも蓄めこんであるから、物置みたやうで手がつけられない。そして、私が、時々、きたないものを、捨てようとすると、早速おこられてしまふ。
  
 村山知義アトリエの「惨状」が、目に見えるようだ。壁に架けられた木製キャンバスから、髪の毛が生えていたり人形がぶらさがっていたりしたら、夜は怖くてアトリエに入りたくないだろう。それでも片づけたい村山籌子にしてみれば、「これってゲージュツ? それともゴミかガラクタ?」と、いちいち確認したくなったにちがいない。
 モノがなくなると、村山知義は妻のせいにして探させ、「早く。早くつたら。何て、仕末の悪い人間だらう。ものをきれいにする性質なんかちつともないのね」と、自分の整理が悪いのを棚にあげ、ちょっと気持ちの悪いおネエ言葉でマヴォを、いや、ダダをこねたりしている。w
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 食堂のこと/四畳半位で、矢張り板の間で、四角でない形をしてゐるので、敷物を買ふにも、うつかり買へない。壁には、意識的構成主義の大きい壁画がある。その壁画は随分いゝもので、部屋一杯にひろがつてゐる。そんな小さい部屋で、大きい窓一つに戸が五枚もついて外へ開いてゐる。朝晩その、工合の悪いねぢを、開けたり閉めたりする。カーテンが汚いので、取りかへようと、夏地まで、たつてあるのに、まだこしらへないので、時々、はつと立ちどまつて、「おや、夏は、もうすみさうになつてゐるのではないかしら。」と驚く。
  
 「なまけ者。早く、カーテンをぬひなさい。遊んでばかりゐて。勉強をするなら、勉強をしなさい。」と村山知義にいわれ、「ぢや、勉強を致します。」ということになり、結局カーテンは汚れたままいつまでも食堂に吊るされていた。
  
 台所のこと/母さんと、弟の忠夫さんは、私が来た時から、すぐ裏の家に行つてしまつたけれど、お台所は一緒につかつてゐる。私が何でも散らかしまはり、その上、始末が悪いので、母さんの心配も一通でない。あまり、自分がだらしがないので、非常に重々しく台所と自分の性質を考へて、おそろしくなつて来ると、大急ぎで流しをきれいにして、たわしでこすつて、清潔になると、特別、楽しみ深く、美しいものをしたやうな気になつて、感じいつて見てゐる。性質として、何でも、自分はさういふ風な感じ方をするのだけれど、こんな風では、おしまひには、一体、どうなるかしら、今のうちに直さなくては、私は、もう、どうにもならなくなる。と、慄へあがつて考へるのだけれど、こんな風に、心の内で真実に感じたことは、黙つてゐて、決して誰にも話さない。話したいのだけれど、言ふと気がぬけて、ほんとにならない気がするので、だまつてゐる。
  
 台所を清潔に保ったり、整理整頓ができない……と村山籌子は悩んでいる。料理は下手でない自覚はあるが、ときどき妙な料理をこしらえては食べ残されて落胆している。要するに、勝手全般のきりもりが面倒で苦手だったらしい。勝手口を訪問する、御用聞きClick!の相手もあまり得意ではなかったようだ。
 のちに、「母さん」こと彼女の姑が「籌子さんが、口をきいてくれないの」と村山知義に訴える“事件”が発生するが、その原因はこの共同で利用していた台所あたりにありそうだ。オカズコ姐ちゃんClick!にしてみれば、よほどアタマにくることがあったのだろう。
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 勉強部屋のこと/台所の真上の屋根部屋が私の勉強部屋になつてゐる。勉強部屋から首を出すと、下は食堂で、活動写真館の二階のやうに見える。勉強部屋は三畳位の広さで、大きい足音をたてると、床が、きいきいなる。食堂の脇に、その、階段があるけれど巾が、二尺位しかない。なかなか細くてひぢがつかへさうで、危いやうだけれど、馴れて来ると、自由に上り下りが出来る 風通しがよくて、静かで、勉強部屋にはとてもよくて、屋根裏の詩人とか哲学者とか、連想がいゝので、すつかり喜んで「これは、いつまでたつても、私の部屋だから。」と、念に念をおして、誰も上へあげないで、ひまがあると、上にあがつて原稿紙をまるめたり、勉強したりしてゐたけれど、此頃は、御用聞が来て、上り下りが度々なので、たうたう台所の隅に本を重ねて、第二の勉強部屋にしてしまつた。
  
 村山籌子は、自身の書斎のことを「勉強部屋」と呼んでいる。上り下りがたいへんなことを夫に訴えると、御用聞きがきたら2階から怒鳴って用件を聞き、とどけものがあれば2階から滑車を使って受け取れるようにしよう……などといっている。
 ちなみに、村山知義が1974年(昭和49)に『演劇的自叙伝2』へ掲載した三角アトリエの平面図では、2階にあった村山籌子の書斎=屋根部屋が省かれて描かれている。「いつまでたつても、私の部屋だから」と宣言した屋根裏の書斎だったが、昭和初期の村山邸全面リニューアルで消滅したのではないかと思われる。
  
 其他のこと/湯殿は少しせますぎる。湯殿に丈は、ちつとも特徴がない。あつても、なくても、別に大したことにはならないやうな平凡な部屋だけれど、それが、意識的構成主義からいつていゝことかも知れない。便所は、矢張り、五角か、六角か、変な形をして、戸のハンドルが逆にまはると開き、普通開けるやうにねぢると、閉るやうになつてゐる。玄関も、細くて変則な六角形をしてゐる。そこにも、絵だの、がらくたが山のやうに積んである。庭は割合に広くて、桃、無花果、葡萄、柿の木がある。今トマトが大分大きくなりかゝつた。母さんが大切にしてゐる。
  
 まともな湯殿はともかく、ドアノブを反対にまわすと開く5~6角形のトイレや、玄関の間も6角形をしているなど、もう十分にマヴォでダダだ。
 この広い庭があったせいで、一家の副収入を考えたのだろう、村山家では大正末ごろから敷地内へ賃貸アパートの建設を含めた、自宅のリニューアル計画を実施することになる。「美術年鑑」によれば、1927年(昭和2)から1930年(昭和5)ごろまでの4年間、村山夫妻はアトリエ兼自宅を下落合735番地Click!に移している。
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 村山夫妻が下落合で暮らしていた1927年(昭和2)3月の初め、「アサヒグラフ」のカメラマンが画室の夫妻をとらえた、書籍などにもよく掲載される写真が2葉残されている。このカメラマンは、前年の1926年(大正15)9月1日、二科展に入選した佐伯祐三・米子夫妻Click!を下落合661番地のアトリエで撮影したのと同一人物の可能性が高そうだ。

◆写真上:月見岡八幡社跡(現・八幡公園)へと抜ける、村山アトリエ(右側)前の小道。
◆写真中上は、1924年(大正13)6月15日撮影の自由学園明日館における村山知義・籌子夫妻結婚披露パーティの様子で、正面に新郎新婦がとらえられている。は、上落合186番地に建っていた「三角の家」こと村山知義・籌子のアトリエ。は、アトリエ内部を1924年(大正13/)と1925年(大正14/)に撮影したもので、下右に写っているのは村山知義と生まれたばかりの村山亜土Click!
◆写真中下は、1974年(昭和49)出版の『演劇的自叙伝2』(東邦出版社)に掲載された三角アトリエの平面図。中左は、1925年(大正14)ごろに撮影された村山知義。中右は、1927年(昭和2)に撮影された村山夫妻で下落合のアトリエかもしれない。は、1926年(大正15)にスケッチされた村山知義『村山籌子と亜土』。
◆写真下は、1923年(大正12)に撮影されたアトリエで踊る村山知義。は、1927年(昭和2)3月の初めに下落合735番地のアトリエで撮影された村山知義・籌子夫妻。


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燃料研究所に隣接した「川口文化村」。 [気になるエトセトラ]

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 以前、下落合の近衛町Click!を開発した東京土地住宅が、つづけて林泉園の周辺を近衛新町Click!として販売しはじめたところ、東邦電力の松永安左衛門がすべての分譲地を買い占めてしまい、そこに松永の自邸をはじめ会社の幹部宅や、家族のいる社員向けに社宅を建設している経緯を書いた。東邦電力は、1922年(大正11)の夏に用地を取得しているので、社宅は大正末から昭和初期にかけて少しずつ建てられていったとみられる。林泉園Click!の西側と南側に展開した東邦電力の社宅Click!は、すべてが西洋館仕様のオシャレでモダンな雰囲気が横溢していた。
 大正の後期になると、東京の郊外にまるで目白文化村Click!洗足田園都市Click!をまねた、文化住宅風の社宅やアパートメントを建てる企業が出はじめている。あるいは、社員が出勤する利便性を考え、企業の本社や工場のある敷地周辺の土地を買収し、まとめて社宅を建設するケースも見られた。これは企業ばかりではなく、官公庁の舎宅建設でもその傾向が顕著になりつつあった。
 京浜東北線・川口駅西口の川口町に、農商務省の燃料研究所が建設されたのは1921年(大正10)のことだ。その直後から、燃料研究所を取り巻く敷地に、研究所職員のための舎宅が建設されはじめている。燃料研究所では、舎宅を洋館にするか和館にするかで、職員たち全員にアンケート調査を実施している。その結果、和館の要望が多数を占めて、燃料研究所の舎宅群は和風建築が主体となった。ただし、舎宅の共有施設であるクラブハウスや共同浴場などは、すべて洋風のデザインが採用され建設されている。
 地元では、燃料研究所の舎宅街のことを、その設備のよさから「川口文化村」と呼んでいたようだ。すべてが和風建築なのに、「文化村」と呼ぶのは奇異な感じがするのだが、そう呼ばれてしかるべき先進の設備や仕組みを取り入れていた。燃料研究所が掲げた舎宅建設のコンセプトは、「よく働く者はよく遊ばなければならぬ、偉大なる仕事を要求するためには偉大なる遊楽を与へなければならぬ、而もそれが単に当事者にばかりでなく家族全体を包容しなければならぬ」というものだった。これにもとづいて建設されたのが、森林に囲まれた自然公園が付属する「川口文化村」だった。
 「川口文化村」の訪問記が、同年に発行された「主婦之友」3月号に残されている。
  
 小さな文化村
 汽車が埼玉県川口町駅に進入すると、すぐ構外にある白い建物が車窓に映ります。これが農商務省の燃料研究所で昨年竣成したものであります。この白亜館の前後に一風変つた住宅が冬木立の間に散在し、或は建築されつゝあるのが目につきます。荒涼たる平野の一部に富士の白峰を背景として、温か味に富んだ赤瓦の屋根が大小入り雑つて、それが何れも一定の方向に斜角をなして規則正しく列んでゐます。まだ二十戸ぐらゐしかできてゐませんが、四十戸ぐらゐは立ち並ぶ予定であります。この住宅に囲まれて中央に共同浴場(略)や倶楽部の建物が目を惹きます。このあたり一帯が共同庭園となるので、それから入口にかけて、八間幅の道路が一直線に貫いて、両側に並木を、中央に街燈を配置して巴里のシャンゼリゼー街を偲ばせるやうな美観を添えたいといふ計画でありますが、只今はその埋立工事中であります。/道路ができ庭園ができた暁には、これらの住宅全部が楽園に包まれることになります。
  
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 現在の川口駅西口からは、想像もできない情景なのだが、実際に写真も残っているので計画どおりに建設されたのだろう。1936年(昭和11)の時点でさえ空中写真を眺めてみると、駅前の緑ゆたかな「川口文化村」を確認することができる。
 住宅のタイプは、甲号・乙号・丙号・丁号と規模が異なる4種類が設計されている。甲号住宅は所長や役員たちとその家族が入居し、乙号住宅は上級管理職、丙号住宅は下級管理職か一般研究員、丁号住宅は一般研究員か判任官雇員、職工など、その様式によって各戸が住み分けられていた。建築費は、乙号住宅で4,850円、丁号住宅で2,650円だったという。
 「川口文化村」と呼ばれた理由は、生活スタイルが既存の住宅街とは大きく異なっていたからだ。まず、住宅の中心に共同炊爨所(給食センター)を設置し、希望する家庭に戸別配達するシステムを採用している。「主婦之友」が取材した時点では、まだ昼食のみの支給だったが、朝食や夕食を配達する仕組みづくりを準備している。これにより、希望する家庭では主婦の労働がかなり低減されることになった。燃料研究所の食堂では、共同炊爨所で調理した料理が出され、大正デモクラシーの世相を反映してか、所長から職工までが同じ部屋のテーブルで食事をしている。
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 天候に関係なく、洗濯物をすばやく乾かせるよう、燃料研究所の汽罐室の余熱を利用した乾燥室の設置も計画されている。また、丁号住宅には浴室がないので共同浴場へ通うことになるが、甲・乙・丙号住宅には浴室が付属しているものの、気分転換に広い共同浴場を利用することもできた。
 電気に水道、ガスなどの生活インフラが完備され、特にガスは燃料研究所の工場で生産したものが各戸に支給されるので、一般のガス会社のものより格安で利用できた。なお、目の前には緑が繁る庭園があるので、特に広い庭は設置されなかったようだ。
 同誌から、舎宅の風情についての記事をつづけて引用してみよう。
  
 日当りと風通しのよい家
 住宅は何れも東南向きとなつてゐます。そのために道路に沿うて、ある斜角をなして列んでゐることになります。これがために何の家も皆日光を十分に受けて、何の室一つとして日の当らないところはないのであります。少くとも一日一回は万遍なく日光が見舞つてゆきます。それで室中が明るくて風通しがよく、冬は温かで夏は涼しくできてゐます。それに床が高くて大人でも立つて肘がかゝる位であります。(中略) 床下の羽目板は板と板との間を隙して空気の流通をよくし、湿気を防いであります。/縁側には硝子戸をはめ、窓も出入口も皆硝子戸になつてゐます。すべて日本風の建築でありますが、これは所員の希望に基づいたもので、最初は和洋何れにすべきかゞ大分問題であつたさうですが、やはり習慣上日本住宅の希望が多かつたために、かうした形式をとるやうになつたさうであります。
  
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 「川口文化村」では、さまざまな娯楽施設の建設も予定されているが、「市中の低級な娯楽」を駆逐するとかで、「洗練された高雅な娯楽施設」の設置を計画している。「主婦之友」の記者が取材したときは、いまだ計画中で明らかにされていないが、その後、どのような施設が設置されたものだろうか。テニスコートや運動場はあったと思うのだが、大正末から昭和初期に大ブームとなるビリヤード場や映画館も、川口駅前という立地からほどなく建設されたのではないだろうか。

◆写真上:舎宅街の中央に設置された、木立の中の洋風共同浴場。
◆写真中上は、竣工当時の農商務省燃料研究所。は、林に囲まれた「川口文化村」の舎宅街。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「川口文化村」。
◆写真中下は、1922年(大正11)に発行された「主婦之友」3月号の記事。中左は、職員全員が昼食をとる燃料研究所の食堂。中右は、湿気を防ぐために縁の下が1mを超える設計の舎宅。は、燃研幹部用の乙号住宅設計平面図。
◆写真下は、一般職員用の丁号住宅。は、丁号住宅の設計平面図。は、1947年(昭和22)に撮影された「川口文化村」で空襲の被害をあまり受けていない。

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美術展が起源らしい下町の怪談会。 [気になるエトセトラ]

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 今年は、4月末からすでに暑い夏日が断続的につづいているので、暦的には少し早いかもしれないけれど、(城)下町Click!の怪談記事をアップしてみたい。
 以前、1928年(昭和3) 6月19日(火)の午後6時から、新橋にあった料亭「花月」で行われた怪談会の模様をシリーズClick!でお伝えした。この怪談会の原型ともいうべき催しが、さかのぼること14年も前に京橋の北詰めで行われていたことが判明した。1914年(大正3)7月12日(日)の曇日、世間はお盆のまっ最中でホオズキ市が立ち、江戸東京へ働きに出てきた人たちにとっては、藪入りClick!がはじまったばかりの時節だ。
 怪談会が行われていたのは、日本橋区東中通りに面した具足町(現・京橋3丁目)の角地にあった美術店「松井画博堂」で、同店4階の展示場では幽霊画や化け物絵が100点以上も展示されている。画博堂の松井栄吉は、浮世絵の版元であり刷り師なので、江戸期からつづく浮世絵作品の展示も多かっただろう。つまり、美術展覧会に合わせて怪談会が開催されたわけで、当初はいわば真夏の美術展のオマケ的なイベントからスタートしていたのがわかる。この会に出席したのは、美術展とは切り離され、のちに新橋「花月」で毎年開催されるようになった怪談会のメンバーとかなり重複していることから、同会のプロトタイプではないかと思われるのだ。
 美術展の付随行事なので美術家の出席者が目立ち、黒田清輝Click!岡田三郎助Click!岡田八千代Click!、鈴木鼓村、岩村透、辻永Click!平岡権八郎Click!長谷川時雨Click!泉鏡花Click!柳川春葉Click!谷崎潤一郎Click!吉井勇Click!岡本綺堂Click!、坂本紅蓮洞、市川左団次、市川猿之助、松本幸四郎、河合武雄Click!喜多村緑郎Click!伊井蓉峰Click!、長田秀雄、長田幹彦、松山省三Click!など、作家や歌舞伎役者、新派俳優、当時の文化人など60名を超える大盛況だった。
 当日の様子は、出席者のひとり邦楽家で画家、随筆家の鈴木鼓村が、その一部を随筆にして記録している。1944年(昭和19)に古賀書店から出版された『鼓村襍記』収録の、鈴木鼓村「怪談が生む怪談」から少し引用してみよう。
  
 大正三年七月十二日、この日は、東京の盆の草市である。東京は新で盆をやるので、盆とはいえど梅雨あがりの、朝よりどんよりおおいかぶさった憂鬱な天気だった。家にいてもべっとりと脂肪汗がにじむようで、街全体がけだるく疲れていた。その日はかねてから計画のあった通り、日本橋区東中通り(略) 美術店松井画博堂の四階で化物の絵の展覧会が開会された(略)。当時在東京の色々な作者の作品が百余点以上も集まって、今は既に故人となった池田輝方氏及びその夫人の蕉園女史の、御殿女中か何かの素ばらしい幽霊の絵や、鏑木清方氏の物語めいたすごい大物が眼をひいた。私は半折の色々の化物を十枚出品していた。その中で精霊棚をかざって随分凝った嗜好が試みられていた。慥かその日の世話役が画博堂主人と奇人画家本方秀麟氏に、洋画家の平岡権八郎氏だったか? 表に直径五尺もある白張提灯等をつるしていた。
  
 この幽霊・化け物美術展と怪談会の世話役として、料亭「花月」の息子である文展画家の平岡権八郎Click!の名前がすでに挙がっていることから、おそらく画博堂が店じまいをしたとみられる1917年(大正6)以降に、毎夏恒例の怪談会を彼の実家である新橋の「花月」へ引っぱってきたのではなかろうか。
 この日の怪談会は、わずか5話でお開きになっている。鈴木鼓村の「怪談が生む怪談」によれば、伊井蓉峰の弟子のひとりで新派俳優の石川幸三郎が語る4話めと、飛び入りで参加した万朝報の営業部員・石河某という老人が語る5話めの途中で、怪談会は終わり散会してしまった。なぜなら、5話めの怪談を語ろうとした万朝報の石河某が、話の途中で卒倒して意識不明となり、そのまま2週間後に高輪病院で死亡してしまったからだ。
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 新派の石川幸三郎が4話めに語った怪談とは、ドサまわりの旅役者をしていたとき興業先の茨城県真壁町で知り合い、東京へ連れ帰って三越で銘仙を買ってやると騙してよい仲になった、「聾唖」(聴覚障害)で17歳になる娘の怨念話だった。娘はくっついて離れず、東京ではなく次の興業先である群馬県高崎町へいくために汽車に乗ることもできず、幸三郎はまったく途方に暮れた。同書から、再び引用してみよう。
  
 『困ったものを背負い込んだな』 そう思いながら娘の顔を見ると二、三日前にゆうた引つめの銀杏返しが藁をたばねたように雑然とあれてその下に白粉のはげた顔が、眼がどんより鈍いどよみを覗かせています。大正絣の垢じみた袢纏にちびた日和下駄と、嫌となったら何もかも徹底的に嫌なものに感じられます。『こんな女をどうして人前に出せるだろう』とつくづくその時愛憎(ママ:愛想)がつきました。(カッコ内引用者註)
  
 幸三郎は、そんな着物では東京へ連れていけないというと、娘は「家へ帰ればメリンス友仙の羽織」に「金も六円余りはためて」あると答えた。彼は、待っているから一度家までもどって着がえてくるようにと、娘をなんとか説き伏せて帰した。
 娘の姿が見えなくなると、幸三郎は一目散に鉄道駅へ駆けつけ高崎行きの汽車に飛び乗った。暮れのうちに高崎へ着くと、芝居の初日は翌正月の2日に予定されていた。
国貞(三代豊国)「四谷怪談戸板返し」1831.jpg
国周「番町皿屋敷お菊亡魂」1863.jpg
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 やがて1月2日の昼間、高崎の街を役者たちが俥(じんりき)を連ねて練廻りしているとき、利根川の土手を走っていると幸三郎は人だかりを見つけて俥をとめた。イヤな胸騒ぎがして人だかりを観察していると、どうやら岸辺に土左衛門が上がったらしい。
  
 見るともなく車の上から見ますと水死人らしい死体の上に筵が一枚かけてあってその筵の下から細い青白い二本の足がニュッと出ています。私は無意識でした、どうして車から飛下りたのやら――筵をまくって水死人の顔をのぞき込んだのやら――、筵の下には紅のはいった派手なメリンス友仙の羽織を着て、びっしょりぬれた髪の毛を無念そうに口に咬えた蝋細工のような顔。/『アッ!』 私は立すくみました。その眼はまだ生きているのでしょうか、私を睨みつけているその眼は……
  
 高崎まで追いかけてきた娘は、そこで絶望し利根川に入水して果てたようだ。それからというもの、舞台に楽屋に、風呂場に寝床にと、娘は執拗に幸三郎の身辺に現れつづけている……という、よくありがちな怪談話だった。石川幸三郎は、「人間の最後の恨みほど恐ろしいものはありません」と話を締めくくっている。
 ところが、つづいて予定されていた5話めに移ろうとしたとき、横合いから飛び入りで参加した老人が、「ええ本当に人間の恨みほど恐ろしいものは有りません」と急に話を継いだ。この人物が、万朝報の営業部につとめる石河某で、幕末、薩摩によって暗殺された田中河内介綏猷(やすみち)の話をはじめた。
 石河某は、自身が暗殺にかかわった刺客のひとりであることを告白し、泉鏡花が事件の仔細な様子を質問をしているうちに、いきなり高座から卒倒してしまった。「田中河内介」の名前を繰り返すうちに、舌がもつれて昏倒していることから、泉鏡花の問いに興奮したあげく、なんらかの脳疾患を発症したのではないかと思われる。
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 飛び入りの老人が、「田中河内介」の名を口にしながら倒れたので怪談会は一同騒然となり、怖がった参加者たちは散々に帰っていった。鈴木鼓村ら残った人たちは老人を座敷に寝かせたあと、万朝報社へ電話で問い合わせ当人の自宅が判明すると、翌朝、画博堂の主人が京橋南町の石河宅へと俥で送っていった。石河某は、すぐさま高輪病院へ入院したが「田中河内介」の名前をうわごとで繰り返すと、同年7月26日に死亡している。

◆写真上:美術展「松井画博堂」があった、東中通りは具足町角地の現状。
◆写真中上は、「怪談が生む怪談」の著者・鈴木鼓村。は、銀座の喫茶店「プランタン」の記念写真で怪談会のメンバーとかなり重なる。前列には松山省三や市川猿之助、平岡権八郎、後列には鈴木鼓村や辻永の姿が見える。
◆写真中下は、1831年(天保2)に描かれた国貞『東海道四谷怪談』Click!の「戸板返しの場」。は、1863年(文久3)に制作された国周『番町皿屋敷』Click!の「お菊亡魂」(部分)。は、1830年(文政13)に描かれた二代豊国『小幡小平次』(部分)。
◆写真下は、1834年(天保5)に制作された国芳『真景累ヶ淵』の「累亡魂」(部分)。は、1886年(明治19)に描かれた周延『佐賀(鍋島)化け猫騒動』Click!(部分)。は、1891年(明治24)に制作された芳年『牡丹燈籠』Click!(部分)。

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佐伯祐三生誕120年記念シンポ+街歩き。 [気になる下落合]

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 去る5月13日(日)の正午から、落合第一地域センター3Fの集会室で「佐伯祐三生誕120年記念」の講演シンポジウムと、地域センターを起点に下落合(現・中落合/中井を含む旧・下落合概念)東部に点在する佐伯祐三Click!描画ポイントClick!のほんの一部を回遊する、下落合の美術街歩きのご案内をさせていただいた。あいにくの雨にもかかわらず、街歩きの資料やマップが不足するほど、会場にはたくさんの方々が詰めかけてくださった。ありがとうございました。>参加されたみなさん。
 会場や街歩きで、ご挨拶させていただいた方々には、こちらでもおなじみの清水多嘉示Click!のお嬢様である青山敏子様Click!山口長男Click!のご子息である山口道朗様(山口様には貴重な資料をいただいた)、三岸好太郎・三岸節子アトリエClick!の保存をめざす中野たてもの応援団の塚原領子様、鈴木良三Click!の弟子で医師でもある画家の野口眞利様、松本清張Click!ばりのミステリーを書かれる高名な作家の方、児童文学の語り部の方、和のコンセプトで下落合・目白の街歩きをされているプロデューサーの方(一家でお越しくださった)、お父様が目白福音協会Click!に付属していた英語学校の中で日本語教室を主宰されていた方、有名な佐伯の書籍を出版されている著者の方々、美術家の方、地元・下落合にお住いの方々……など、多彩な人たちがおみえだった。
 また、この催しを企画してくださった、中村彝生誕130年記念パーティーClick!以来お世話になっている、元・新宿区議の深沢利定様と根本二郎様、新池袋モンパルナス「街のどこもが美術館」のプロデューサーである小林俊史様、そして吉住新宿区長に佐原新宿区議会議長(佐原様とは彝アトリエで少しお話させていただいた)、地元の町会関係の人たちなど、下落合でこれだけの方々がそろった佐伯祐三がテーマの催しは、おそらく佐伯祐三の歿後初めてではないだろうか? 米子夫人の実家・池田家で、夫人の歿後に遺品整理にも参加されている、つい先ごろ亡くなられた池田家の最後の証言者の方が不在なのは、非常に残念なことだった。佐伯の「制作メモ」Click!について、詳しくおうかがいする機会を逸してしまったままだ。
 わたしは教師ではないので、文章を書くのは好きだが大勢の人前でお話をするのが苦手なため、講演会は美術家の平岡厚子様Click!からの問いに答えるかたちで、対談シンポジウムのような形式で進めさせていただくことにした。いつだったかか、炭谷太郎様Click!のご紹介から慶應義塾大学Click!で開かれたシンポジウム(ゼミ)に呼んでいただき、そこでお話をさせていただいたのと同じ形式だ。平岡様は豊島区に在住の方で、地元各地に点在するアトリエ村Click!に集った画家たちを深く研究され、ご自身も現代美術のインスタレーション作家であり、教え子を抱えるデッサンの教授でもある。シンポジウムは予定時間(60分)をはるかに超え、わたしが微に入り細に入り詳細かつムダにしゃべりすぎたせいだろうか、1時間30分もかかってしまった。(汗)
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 プロジェクターで投影した、シンポジウム用のpptxファイルは、多数の作品画像や写真を用いたため111ページ(72MB以上)と膨大な容量であり、さすがにWebサーバへアップロードするのはためらわれるので、街歩きマップと街歩き資料のみをダウンロードできるよう設定させていただいている。当日、街歩きが雨の中で行われたため、マップや資料を濡らしてしまった方も少なくない。下記より、ダウンロードしていただければ幸いだ。
 下落合街歩きマップClick!(313KB)
 下落合街歩き資料Click!(7.12MB)
 街歩きは、資料には記載されていない場所も含め、以下のコースで実施させていただいた。下落合の佐伯祐三について現在判明している最新情報とともに、1930年協会Click!の画家たちを含めた、かなりマニアックな街歩きとなってしまった。
  
 今村繁三(画家たちのパトロンで今村銀行頭取)の終焉邸跡→第三文化村跡(不動谷/西ノ谷と青柳ヶ原)→吉田博アトリエ跡→青柳辰代(佐伯が「テニス」をプレゼント)邸跡→「八島さんの前通り」描画ポイント→木星社(福田久道邸)跡(特に青山様へ)→笠原吉太郎アトリエ跡(小川邸の門跡)→西坂・徳川義恕男爵邸跡(遠望)→東大総長の南原繁邸跡(遠望:特にミステリー作家の方へ)→八島邸跡→「八島さんの前通り」(北側からの描画ポイント)→鶴田吾郎アトリエ跡(遠望:関東大震災前)→佐伯祐三アトリエ(休憩)
 佐伯アトリエ→森田亀之助邸跡→里見勝蔵アトリエ跡→蕗谷虹児アトリエ跡→曾宮一念・佐伯祐三・清水多嘉示のトリプル描画ポイント(諏訪谷の北側)→曾宮一念アトリエ跡→セメントの塀痕跡→牧野虎雄・片多徳郎・村山知義・村山籌子アトリエ跡→高嶺邸(佐伯「セメントの塀」のモチーフ住宅)→「曾宮さんの前」描画ポイント(諏訪谷を南から)→「散歩道」描画ポイント(久七坂筋)→小林邸(遠藤新設計創作所による近代建築)→「見下シ」描画ポイント(池田邸跡)→「墓のある風景」描画ポイント→大正時代のアトリエ村ともいうべき鶴田吾郎・鈴木良三・鈴木金平・有岡一郎・服部不二彦・柏原敬弘アトリエ跡(下落合800~804番地)→タヌキの森(前田子爵邸の移築建築)跡と明治建築→夏目貞良(亮)アトリエ跡→九条武子邸跡→満谷国四郎アトリエ跡→三輪善太郎(ミツワ石鹸社長)邸・衣笠静夫邸跡(遠望:長谷川利行コレクション)
  
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 森田亀之助の旧邸跡・伊藤博文別荘跡(大倉山=権兵衛山)→相馬孟胤子爵邸跡=おとめ山公園(雨で休憩予定を中止)→竹久夢二アトリエ跡→林泉園と東邦電力住宅地跡(清水多嘉示の描画ポイント)→中村彝「目白の冬」その他の描画ポイント(一吉元結工場跡)→中村彝アトリエ(休憩)
  
 ……と、ここまできて雨が強まり、残り3分の1を残して街歩きは中止となった。残りのコースに興味がおありの方は、マップと資料をベースに後日、天気のよい日に歩いていただくということで解散。このあとは、林泉園つづきの谷戸=御留山(清水多嘉示「下落合風景」の描画ポイント)→安井曾太郎アトリエ跡→近衛篤麿邸跡→目白ヶ丘教会(遠藤新最後の設計作品)→近衛町(遠望:学習院昭和寮など)→近衛邸車廻し跡→夏目利政アトリエ跡→近衛文麿・秀麿邸跡→熊岡美彦アトリエ跡→伊藤応久アトリエ跡→佐伯が利用していた目白駅(地上駅)跡とめぐる予定だった。
 資料に記載した残りのポイント以外にも、松永安左衛門(東邦電力社長)邸跡、ヴァイニング夫人(平成天皇の家庭教師)邸跡、近衛町に残る1923年(大正12)築の藤田邸、学習院建設で遷座した八兵衛稲荷(豊坂稲荷)、エレベーター設置で消滅寸前の旧・目白駅のコンクリート階段……などなどの前を通過する予定だったので、そのエピソードともどもご紹介するつもりだったが、天候が許さずとても残念だ。立ち寄りポイントの詳細は、拙サイトで検索して参照いただければ幸いだ。
 また、今回は「美術」がテーマの街歩きだったので、文学や音楽の事績はほとんど省略させていただいた。特に文学に関していえば、下落合(現・中落合/中井含む)の東部・中部・西部、そして上落合と、講演や街歩きをテーマ別に3回実施しても、まだぜんぜん足りないぐらいだろう。それだけ、明治・大正・昭和を通じて夏目漱石から船山馨まで、新感覚派からプロレタリア文学、新戯作派、そして戦後文学まで近代文学史のエピソードにはこと欠かない、作家や文学者たちの宝庫なのが落合地域のもうひとつの“顔”だ。
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 今回は、下落合東部に散在する佐伯祐三の描画ポイントと散歩コースClick!、ならびに画家たちのアトリエ跡や描画位置をマニアックにめぐったが、実は佐伯に関していえば下落合西部(現・中落合/中井地域)の描画ポイントのほうが多いし、画家たちのアトリエは下落合西部も東部に劣らずたくさん散在している。もしこのような機会が再びあれば、今度は目白文化村Click!アビラ村Click!を中心に回遊する街歩きをやってみたい。ただ、街歩きも含め3時間をゆうに超えるプレゼンテーションは仕事上でも経験がなく、さすがに声も嗄れてクタクタになってしまった。w 早くこのような行事に、サーバと連携したRPAシステムやウェアラブルデバイスClick!が、活用できるようにならないかなぁ?

◆写真上:あいにくの雨の中、第三文化村を歩く街歩き参加者たち。(撮影:根本二郎様)
◆写真下:当日、プロジェクターで投影したpptxファイルの一部。(制作:平岡厚子様)

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劉生に描いてもらいそこなった安倍能成。 [気になる下落合]

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 漱石門下の安倍能成Click!は、自然主義に関する文芸評論をしていた1917年(大正6)ごろ、藤沢町鵠沼に住んでいたことがある。海外留学を除き、東京を離れることが少なかった安倍能成にしてはめずらしい転居だ。ちょうど1917年(大正6)の2月に、東京の駒沢村新町(現・世田谷区駒沢)から療養のために、一家で鵠沼に引っ越してきた画家がいた。現在では誤診といわれている、「肺結核」の病名を告げられた岸田劉生Click!だ。
 劉生は同年2月23日から6月23日までのわずか4ヶ月間、藤沢町鵠沼藤ヶ谷7365番地20号の貸別荘だった「佐藤別荘」に住み、なにか気に入らないことでもあったのか、6月24日からは鵠沼下岡6732番地13号の同じく貸別荘「松本別荘」Click!へと転居している。それから、1923年(大正13)9月1日の関東大震災Click!で「松本別荘」が倒壊Click!するまで、6年余を同地ですごしている。
 1917年(大正6)の当時、安倍能成宅の周囲には、引っ越し魔だった「白樺」Click!武者小路実篤Click!和辻哲郎Click!が住んでおり、自然主義文学の話をしに安倍は両邸へ頻繁に出かけていたのだろう。岸田劉生とは、和辻哲郎邸で出会って親しくなっているようだ。当時の劉生は、鵠沼海岸近くに拡がる風景を盛んに描いている最中だった。劉生との出会いを、1940年(昭和15)6月23日から「京城日報」に連載された、安倍能成『椿君と岸田君』から引用してみよう。
  
 大正の五六年頃、私は二年ばかり気まぐれに相州鵠沼の松林の中に住んでゐたことがあつた。和辻哲郎君の近処であつたが、岸田君も当時偶々鵠沼海岸に住み、和辻君の宅などで時々逢つて話しすることもあつた。その頃の岸田君の作品には、丘の周囲の松林の間の道や、そこいらの藁屋などを描いた簡単な構図のものがあり、それは和辻君の家でも見たし、京城でも同僚の尾高君の家で同じやうな画を見た。晴れた青空、緑の松林、渋色の藁屋、薄褐色の砂道などが実に細かく、美しく描出されており、平生散歩する寧ろ平凡な路傍の景色の中に、かういふ美しさを見出す岸田君に感心したこともあつた。
  
 和辻哲郎の家の壁に架かっていたのは、1917年(大正6)に描かれた近隣の藁葺き農家の大屋根をモチーフにした、『風景(鵠沼)』シリーズの1点だと思われる。また、松林の砂道とは同年に制作されている『初夏の小路』か、それに近似した画面だったのだろう。同年の『初夏の小路』は、二科展第4回展に出品され二科賞を受賞している。
 鵠沼に転居した当時、劉生の風景画は前年までの代々木風景や大崎風景などに見られる赤土大地をベースにした、これでもかというほどの微細な描写は減退し、相模湾の潮風が運ぶ湿気の多い“空気感”に影響されたものか、あるいは海岸に見られる砂地特有の曖昧な地面の色合いのせいなのか、全体が朦朧としたような表現に変化している。
 海辺で長時間、カメラのファインダーをのぞきこんだことがある方なら、徐々に潮の粒子がレンズの表面に付着して景色全体が霞みはじめ、細かなディテールがわからなくなっていくような、特殊フィルターを装着したような写真に仕上がるのをご存じだろう。鵠沼に移ったあとの劉生の風景表現は、まさにそんな感じの画面になっている。クロマツの林や砂道の表現からは、どことなく潮風のべとつきや生臭ささえ伝わってくるようだ。
 劉生は、鵠沼生活をはじめると同時に風景画を制作しはじめているが、『麗子像』Click!シリーズや『村娘』シリーズなど、いわゆる童女像を描きはじめるのは翌1918年(大正7)の夏ごろからだ。横浜の原三渓Click!や原善一郎など、いわゆる原一族がパトロンとなって生活が安定したせいか、劉生にはめずらしく彫刻も手がけている。1918年(大正7)早々に、彼は生涯にわずか2点のみの彫刻作品となる、柏木俊一をモデルにした『男の首』と、蓁夫人をモデルにした『女の手』を制作している。
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 ちょうどそのころ、子連れで遊びに出かけた安倍能成の5歳になる息子を見て、岸田劉生がしきりに描きたがっていた様子が伝えられている。子どもをモチーフにした作品群が、実際に描きはじめられる1年ほど前、1917年(大正6)にはすでに具体的な表現のイメージが、劉生の中で育まれていたのではないだろうか。つづけて、「京城日報」に連載された安倍能成のエッセイから引用してみよう。
  
 岸田君が麗子像或は童女像を盛んに描いたのも、この頃ではなかつたかと思ふ。麗子といふのは恐らく岸田君の令嬢であり、童女像の中にそれを更に理想化したものもあつた。東京神田の岩波書店の応接間に、この童女像が一つかかつてゐるが、いつ見てもしつかりしたいい画だと思ふ。その頃私の長男が五歳位で、頬辺が林檎のやうに紅かつた。岸田君が彼を見て頻に描きたがつてゐたが、竟にその機を得なかつた。若しそれが出来てゐたら、或は世間の童女像の外に岸田君の珍らしい童男像の傑作を我家に残し得たかも知れぬと、一寸残念なやうな気もする。
  
 今日からみれば、「残念なやうな気もする」どころではなく、非常に残念至極なことだった。ただ、その作品を「我家」、つまり下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!に建っていた安倍邸Click!の壁に架けていたら、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で灰になっていたのかもしれない。
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 文中で安倍能成は、娘の麗子の顔を「理想化したもの」と書いているけれど、麗子ちゃんはあんな不気味でヘンな顔ではなかった……と証言する人物がいる。鵠沼に転居した劉生の自宅へ、頻繁に訪れていた河野通勢(みちせい)Click!の次男・河野通明(つうめい)だ。河野通明は、当時から麗子といっしょに遊び、大人になってからも画業で交流をつづけた人物だ。麗子ちゃんはキレイだった……という証言を、調布市にある武者小路実篤記念館が発行した『講演記録集』第3集収録の、河野通明「『白樺』のその後に就いて」(1990年講演録)から引用してみよう。
  
 さて、さっきお話が出ました岸田麗子さん、劉生さんのお嬢さんですけれども、「麗子像」の麗子さん。これは私たちと一緒に、今から三〇年前、来年三〇回目をやりますが、復活大調和展に最初に参加してくれました。我々と一緒に創立委員の一人として名前を連ねていましたのですけれども、この麗子ちゃんという人は美人でございます。よく「麗子像」の麗子をみて、あんな顔かと聞く人がありますが、ああいう顔ではないのです。もっと本当にかわいい。僕よりも四つぐらい上です。もしも僕が上だったら結婚している。(笑い)。描くというと、劉生先生はああいう顔でかいてしまう。/ところが、麗子さんのお嬢さんの夏子さん、(中略) その夏子ちゃんが、あの「麗子像」の麗子にそっくりな顔をしているのです。それがおかしくてしようがないのですけれども、どういうかげんでああいう顔になってしまったのか(笑い)。
  
 麗子像と似ている、「あんな顔」にされてしまった孫・岸田夏子には気の毒だけれど、確かに「麗子像」と岸田麗子本人とはあまり似ていない。どこか江戸期から、軸画や彫物細工などの題材でよく登場する、「寒山拾得」の詩僧たちのような表情をしている。
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 特に、『野童女』(1922年)や『二人麗子図』(同年)の麗子は、ホラー映画のワンシーンのようで夢に出てきそうな表情だ。もし長男をモデルに、「童男像」を描いてもらっていたとしたら「あんな顔」にされてしまい、安倍能成は腹を立てていたかもしれない。

◆写真上:1917年(大正6)2月に転居し、4ヶ月しか住まなかった「佐藤別荘」跡の現状。
◆写真中上は、1917年(大正6)4月に「佐藤別荘」で撮影された岸田一家。は、近所の藁葺き農家の大屋根をモチーフにした1917年(大正6)制作の『晩秋の霽日』。は、岸田一家が関東大震災が起きるまで暮らしていた「松本別荘」跡の現状。
◆写真中下は、1917年(大正6)の二科展で二科賞を受賞した岸田劉生『初夏の小路』。中左は、松林の砂道で写生する岸田劉生。中右は、1928年(昭和3)6月に撮影された14歳の岸田麗子。は、1922年(大正11)制作の岸田劉生『野童女』(部分)。
◆写真下は、1923年(大正12)に制作された岸田劉生『童女図(麗子立像)』(部分)。は、1930年代の前半に撮影されたキャンバスに向かう岸田麗子。は、1955年(昭和30)に次女の夏子をモデルに制作された岸田麗子『花と少女』(部分)。

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彝に頼まれ湘南に出かけた曾宮一念。 [気になる下落合]

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 曾宮一念Click!というと、千葉県の外房Click!や長野県の八ヶ岳Click!へ写生に出かけていたイメージ、戦後に下落合から移り住んだ静岡県の富士宮Click!における制作の印象が強いが、実は相模湾沿いの町々にもたびたび出かけている。特に、鎌倉Click!大磯Click!とのかかわりが深かったようで、同町の風景をモチーフにした作品をいくつか残している。
 曾宮一念は大磯の印象について、こう記している。ちなみに、彼は日本橋浜町の生まれなので、大磯に関しては松本順Click!(江戸幕府の御殿医時代は松本良順)が拓いた、江戸東京地方における憧憬の別荘地であったのをよく知っていただろう。1938年(昭和13)に座右宝刊行会より出版された、『いはの群』に収録の「大磯」から引用してみよう。
  
 汽車から窺つた大磯は立派な別荘とすきまのない住宅とで今迄近づき難く思つてゐた。今度はじめて下りて見ると春さきの大磯は青麦とげんげ田に菜の花と土の香、実は下肥のにほひをまぜて頬をなぜてくれる、どうしてまだのんびりとした田舎だ。線路のすぐ北にこんもりと茂つた山がある、春夏秋冬常盤木の色を主調としてゐるので、いつも変化の乏しい無能な山といふ印象を得てゐたのを、畑中から大観すると、なかなか形のととのつたよい山である。高麗山といふさうだ、目下のところ天国心中の坂田山に名誉を奪はれた形である。
  
 もし、曾宮一念が5月初旬に大磯を訪れていたら、高麗山の「常盤木の色」が山一面に霞がかかったような、薄いピンク色に変貌していたのを眺められただろう。高麗山は、大磯の丘陵の中でもヤマザクラが多い山だからだ。
 当時の大磯は、慶大生と深窓の令嬢とが駅の裏山で服毒自殺した、いわゆる自殺ブームのさきがけとなる「天国に結ぶ恋」の坂田山心中事件Click!で持ちきりであり、駅前では「心中最中」や「天国饅頭」などが売られていた時代だ。余談だけれど、わたしは子どものころ親に連れられ、心中の現場となった地点に建立された比翼塚Click!を見た記憶があるのだが、現在は事件現場ではなく鴫立庵Click!の敷地に移されている。
 曾宮一念が、湘南の町を訪れたのは、これが初めてではない。大磯旅行から15年ほど前、1922年(大正11)ごろに曾宮は病床の中村彝Click!からの伝言を携えて、平塚にいた宮芳平Click!を迎えにいっている。彝の弟子のひとりである宮芳平は、1915年(大正4)に東京美術学校を中退したあと、1920年(大正9)まで新潟の柏崎商業で嘱託教師をしていた。だが、画家への道をあきらめきれなかったのか、1920年(大正9)に柏崎商業を辞めると、病気の妻とともに平塚に移り住んでいた。
 中村彝は、平塚で呻吟している宮芳平を心配していたのか、長野県にある諏訪高等女学校の美術教師に推薦する伝言を、曾宮にもたせて派遣したのだ。この諏訪高等女学校Click!で空席になった教職こそ、同じく彝の弟子でフランス留学のために同校を辞職した、清水多嘉示Click!がいたポストだった。清水多嘉示Click!が渡仏したのは、1923年(大正12)3月なので、彝の伝言を伝えに曾宮が平塚の宮芳平を訪ねたのは前年中だったと思われる。
坂田山心中比翼塚.JPG
高麗山.jpg
大磯高麗山1938.jpg
松本順墓.JPG
 では、曾宮一念の来訪を、宮芳平はどのようにとらえていたのだろうか。1987年(昭和62)に野の花会が発行した宮芳平『音信の代りに友に送る-AYUMI』から引用してみよう。ちなみに、文中に登場する「Sさん」とは曾宮のことだ。
  
 その頃Sさんは日暮里の下宿屋の二階に病気を抱えて苦闘していた彝さんを知るようになり、後にわたしも彝さんを知るようになった。そしてわたしが病妻を抱えて相模の平塚にいたときSさんが彝さんの使者となって、わたしを信州諏訪へと赴かせるために迎えにきたのである。/その頃彝さんの作品は日の昇るような評判で褒賞を取り三等賞をとり二等賞を取って既に文展の審査員になっていたのである。Sさんは落選したり入選したりしていたがとうとう褒状を取って意気漸くに上っていた。/その頃、わたしはその群を離れて諏訪に来た。教師となったのである。わたしが教師をしている間にSさんはめきめきと売り出して、その名を曽宮といえば絵に関心を持つ人なら知らない人は無い程になった。わたしは羨しかった。Sさんの盛名はともかくとして、その作品に頭を下げざるを得ないのである。その色、その匂い、その才気、馥郁としていたのである。
  
 またちょっと余談だけれど、宮芳平が滞在した短い平塚時代に絵をならいに通っていたのが、わたしが小学生のときに通っていた画塾のおじいちゃん先生だった。
 諏訪高等女学校へ赴任した宮芳平は、しばらくすると平野高等女学校や諏訪蚕糸学校の美術教師を兼任しているので、教職が彼の肌には合っていたのだろう。彼が諏訪へ転居してから、わずか1年半で中村彝の訃報を聞き、下落合のアトリエへ駆けつけることになる。彼が休暇をもらって下落合に着いたとき、すでに中村彝は納棺が終わり、晩秋から初冬にかけて近所の野原に咲いていた花々で、その遺体の周囲は埋められていた。このとき、下落合に咲いていた野花とはノゲシやヒメジオン、スミレ、ツリガネニンジン、キツネノボタン、タツナミソウなどだろうか。中には野生化したスイセンや、サザンカも混じっていたのかもしれない。
 葬儀の写真を見ると、中村彝の棺を前に岡崎キイClick!満谷国四郎Click!にはさまれて立っているのが、若き日(31歳)の宮芳平のようだ。作品を彝に見てもらう機会が少なかった彼は、師の死後に痛切な文章を残している。同書から、再び引用してみよう。
宮芳平「AUMI」1987.jpg 宮芳平.jpg
中村彝葬儀192412.jpg
宮芳平「諏訪湖(立石より)」1930.jpg
  
 あの人は死にました
 あの人はいつもアトリエにいませんでした。/あの人はアトリエの隣の小さな南の部屋のベッドの中にいました。/絵を描くと熱が出る。熱が出るとこの部屋でやすむ。/わたしが会う時もたいていこの部屋でした。/この部屋にあの人がいない時は絵を描いている時ですからわたし達はアトリエに入れません。わたし達がこの部屋で待っているとおばあさんがお茶をもってきてくれました。おばあさんはあの人にはあかの他人です。しかし誰もあの人を看病してくれなかった時――誰しも長い病気に辛抱しきれなかったのです――このおばあさんがきてあの人を看病してくれるようになりました。枕もとには用事がある時人を呼ぶ呼鈴がついていました。/あの日/あの人はこの呼び鈴を押さなかったのです/押せなかったのかもしれません/おばあさんが来た時 死んでいました/あの人は喀血したのです/その血が喉につかえて死んだのです/喉をおさえ苦しんでいるうちに死んだのです
  
 平塚に宮芳平を迎えにいった曾宮一念は、彼が諏訪高等女学校の美術教師に就任すると、さっそく写生旅行がてら訪ねていった。だが、宮夫妻の部屋が狭かったので泊まれず、近くの諏訪湖近くの下宿屋に泊まって大雪にみまわれている。あまりの寒さに、曾宮は甲府へと出て鰍沢からポンポン蒸気で田子の浦へと南に向かった。曾宮が富士の裾野と接点ができたのは、このときが最初だったかもしれない。
 曾宮一念は、相模湾沿いの鎌倉町もときおり訪ねている。それは、彼の絵を夫妻で気に入り、たまに下落合623番地の曾宮アトリエへ寄っては作品を買ってくれていた、酒井億尋と妻の朝子が鎌倉に家を建てて病気の療養をしていたからだ。酒井夫妻とネコ嫌いの曾宮一念が親しくなったのは、朝子夫人が飼っていたネコに石をぶっつけたのがきっかけだった。おそらく、曾宮は遊びに出かけた佐伯祐三Click!アトリエの敷地から、佐伯と同じ地主の山上家Click!から借りた土地に家を建てて住んでいた、北隣りの酒井邸周囲をうろつく飼いネコが目障りで、思わず投石したものだろう。
曾宮一念野外写生.jpg
曾宮一念「梨畑道」1924.jpg
曾宮一念「漁家」1938.jpg
 以来、曾宮は酒井夫妻が下落合から鎌倉に引っ越したあとも、しばしば病気の夫人を見舞いがてら鎌倉を訪ねている。鎌倉の酒井邸は、滑川Click!が流れ杉本寺や報国寺などの伽藍が建ち並ぶ、静かな浄明寺ヶ谷(やつ)に建っていた。曾宮一念は、浄明寺ヶ谷を起点に周囲の鎌倉風景を次々と写しとっているのだが、それはまた、別の物語……。
  
[アート]ご連絡
 ご連絡がギリギリになってしまいましたが、あさって13日(日)に聖母坂沿いにある落合第一地域センターClick!で、「佐伯祐三生誕120年記念」講演シンポジウムおよび下落合の街歩きを行ないます。吉住新宿区長もご参加予定ですが、午前11時30分に開場、正午には講演シンポジウムをスタートする予定です。
 街歩きは、今回は佐伯アトリエも近い「八島さんの前通り」から目白駅までの「下落合風景」描画ポイント、および佐伯祐三や中村彝の各アトリエをはじめ、吉田博、笠原吉太郎、森田亀之助、里見勝蔵、蕗谷虹児、曾宮一念、牧野虎雄、片多徳郎、鈴木良三、鈴木金平、鶴田吾郎、有岡一郎、九条武子、満谷国四郎、竹久夢二、相馬孟胤、安井曾太郎、近衛篤麿、近衛文麿、熊岡美彦…etc.の各アトリエ跡や邸跡をめぐる予定です。もしご興味がおありでしたら、お気軽にご参加ください。
[アート]下落合街歩きマップ/街歩き資料ダウンロード
13日(日)は雨の中、たくさんの方々にお集まりいただきありがとうございました。あいにくの雨で、街歩きの資料類が濡れてしまったため、下記のURLよりダウンロードができるようにいたしました。ご参照ください。
下落合街歩きマップClick!!(313KB)
下落合街歩き資料Click!(7.12MB)

◆写真上:大磯の国道1号線(東海道)沿いに残る茅葺き農家で、背後の山は高麗山。
◆写真中上は、鴫立庵へ移設された坂田山心中の比翼塚。は、平塚市街から眺めた高麗山から湘南平(左)にかけての大磯丘陵と、1938年(昭和13)に描かれた曾宮一念『大磯高麗山』。は、鴫立庵の敷地にある徳川幕府御殿医で西洋医学を修めた、日本初の海水浴場と避寒・避暑別荘地「大磯」の開拓者である松本良順(松本順)の墓碑。
◆写真中下は、1987年(昭和62)発行の宮芳平『音信の代りに友に送る-AYUMI』(野の花会/)と宮芳平()。は、1924年(大正13)12月の中村彝の葬儀における宮芳平。は、1930年(昭和5)に制作された宮芳平『諏訪湖(立石より)』。
◆写真下は、野外で写生中の曾宮一念。は、1924年(大正13)制作の曾宮一念『梨畑道』。は、1938年(昭和13)に鉛筆で描かれた曾宮一念『漁家』。

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佐伯祐三から小島善太郎へ。 [気になる下落合]

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 佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景』シリーズClick!の中に、曾宮一念アトリエClick!の西側空き地(下落合622番地=のち谷口邸敷地)から見える風景をモチーフに描いた、『セメントの坪(ヘイ)』Click!という作品がある。曾宮一念によれば、自宅の軒先をほんの少し入れた同作が気に入らないようで、40号の画面を不出来だと批判Click!している。だが、同作には「制作メモ」Click!に記載された15号サイズの作品と、1926年(大正15)9月1日に二科賞の受賞時に東京朝日新聞社のカメラマンによって撮影Click!された、同年の8月以前の制作とみられる10号前後の作品があるのが確認できる。
 佐伯が三度も同じ位置から作品を仕上げているので、曾宮邸の西横から眺めた風景モチーフがよほど気に入っていたのだろう。佐伯が画因にこだわって、3作以上の仕上げた『下落合風景』は、ほかに佐伯アトリエの西側を南北に通る西坂Click!筋の『八島さんの前通り』Click!と、曾宮邸の前に口を開けた諏訪谷を描いた『曾宮さんの前』Click!(秋・冬各2点)しか存在していない。
 もっとも、下落合623番地の曾宮邸Click!がある前の道路は、佐伯祐三に限らず画家たちの“人気スポット”だったものか、佐伯の3年前には曾宮一念自身も『夕日の路』Click!(1923年)に描いており、また昭和初期には曾宮の描画ポイントのややうしろ側、下落合731番地の佐藤邸敷地から清水多嘉示Click!『風景(仮)』Click!を制作している。曾宮の『夕日の路』には、いまだコンクリート塀は築かれていないが、大正末に進捗した諏訪谷の宅地開発とともに建てられたのだろう、1926年(大正15)の佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』および清水多嘉示『風景(仮)』には、同じデザインの塀が記録されている。
 さて、1926年(大正15)の夏に早くも仕上げられていた、10号前後の小品『下落合風景』(セメントの坪)だが、この作品を佐伯がいかに気に入って大切にしていたのかが、彼の手もとに置かれていた期間をみるとわかる。同年8月末には、すでに完成していたとみられる同作だが、佐伯は東京の画廊でも、また関西の作品頒布会を通じても決して売ろうとはせず、そのままアトリエで保存しつづけている。そして、1927年(昭和2)6月17日~30日に開かれた1930年協会第2回展Click!(上野公園内日本美術協会)で、初めて同作を出品している。その際、同展の記念絵葉書として『セメントの坪(ヘイ)』を印刷し、会場で販売するほどのお気に入りだった。
 佐伯は、なぜ『セメントの坪(ヘイ)』をそれほど気に入っていたのだろうか? 考えられることは、同作が第1次滞仏から帰国したあと、自宅周辺を描いた売り絵ではない『下落合風景』の中ではもっとも出来がよいと感じていたか、あるいは記念すべき第1作だった可能性がある。または、その両方だったのかもしれない。「制作メモ」に見られる、1926年(大正15)9月~10月に描かれた『下落合風景』のタイトルは、あくまでもほんの一時期の覚え書きであり、それ以前やそれ以降にも制作していたのはもはや明らかだ。同年の夏以前から制作していた『下落合風景』の中でも、『セメントの坪(ヘイ)』は特に佐伯好みに仕上がった作品なのだろうか。
 同作は、戦災で焼けて失われたか、あるいは個人蔵で行方不明になったままなのか、作品の現存は確認されていない。かろうじて、1930年協会第2回展の記念絵葉書と同展の会場写真、そしてアサヒグラフに掲載された記者会見の写真から、その存在を確認できるのみだ。だが、1930年協会第2回展の絵葉書には、もうひとつ重要な要素が確認できる。絵葉書の画面に、佐伯のサインが大きく書きこまれているのだ。
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 おそらくペンか万年筆で書かれたのだろう、走り書きの文字は「Mr.Kojima/Uzo Saeki(あるいはSaiki)」と読みとれる。「Kojima」とは、もちろん同展でいっしょだった1930年協会の会員である小島善太郎Click!その人だろう。のちに児島善三郎Click!も1930年協会に参加するが、佐伯が1927年(昭和2)6月に同絵葉書を作成して手渡すには、時期的にみて無理がある。佐伯と小島は、性格も育った環境もまったくちがうし、画風も一致点がまるでないほど異なっているが、どうやらお互いがなんとなく気の合う同士だったらしい様子が、残された各種の証言からうかがえる。
 1930年協会の記念写真を見ても、小島善太郎の隣りには佐伯祐三の姿が写っていることが多い。また、小島は帰国した佐伯の自宅に、パリ生活の延長とばかり何度か「随分入り浸っ」てもいる。そのあたりの心象を、1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『一九三〇年叢書(一)/画集佐伯祐三』所収の、小島善太郎「佐伯の追憶」から引用してみよう。ただし、引用元は朝日晃がまとめた『近代画家研究資料/佐伯祐三』(東出版)ではなく、小島善太郎のお嬢様である小島敦子様Click!が、1992年(平成4)に編集した『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』から引用してみよう。
  
 日本に帰っての彼の一年間の生活は、丁度五月に帰朝して翌年の六月(ママ:8月)日本を再び立つまでの彼は、相変わらず巴里生活の延長をやっていた。僕達は随分入り浸ったものだった。よく遊び又よく勉強をしていた。彼は日本では現代の文化式のものを画くのだと言って随分彼の住っていた落合のそういった風景を描いた。そして旅行などもした様だったが、日本の風景に充分なじみ切らぬうちに、再度の渡仏をしてしまった。もう一度自信のつく勉強をし直したいと言い残して。/今にして思出すに、彼は何処かに淋しさがあった。それはどんなに有頂天にさわいでいた時でも、彼は醒めていた所がある様で、其処には何か見詰めていた何かがあった様に見受けた。それは何か? 僕は思う。彼の死?に対する覚悟を求めていたのではなかったか?(カッコ内引用者註)
  
 佐伯祐三が、下落合の宅地造成や道路敷設の工事中、あるいは工事が終わった直後の場所ばかりをモチーフに選んで描いているのは、たびたびここの記事でも指摘してきたけれど、それに対し「日本では現代の文化式のものを画くのだ」という佐伯の言葉を、小島が記録・証言している重要な一文だ。
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 小島善太郎もまた、自分とは性格も画風も、趣味嗜好もかなり異なる佐伯に少なからず惹かれていたらしく、「佐伯、君は君の作品と一緒に僕に永久に力を与えてくれる」(同書)とまでいい切っている。佐伯が死去して間もない文章なので、多少の感傷や思い入れのある表現を割り引いて考えても、小島が佐伯について書いた文章は、相対的に文字数が多くボリュームも大きい。
 互いに反りが合った者同士、佐伯は第2次渡仏の直前に、もっとも気に入っている『下落合風景』の絵葉書へサインを書きこみ、小島善太郎へ記念として贈ったのではないだろうか。1930年協会の他の会員たちには、少なくとも現存する資料からは、同じように絵葉書を贈った形跡が見られない。
 小島善太郎は、佐伯祐三が第1次滞仏中のパリで仕事をする様子を間近で見ている。クラマールでは、佐伯の「化け猫」騒ぎClick!に巻きこまれ、のちに小島はその物語をわざわざ戯曲化Click!して清書した原稿として残してもいる。小島がことさら佐伯に親しみを感じたのは、このときからではないだろうか。佐伯がパリで仕事をする様子を記した、1957年(昭和32)発行の「みづゑ」2月号掲載の、小島善太郎「佐伯祐三の回顧」から引用してみよう。ただし、引用元は上掲の『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』から。
  
 僕がパリでアトリエをもった頃、佐伯は僕の近くでリュウ・ド・シャトウ十三番の大きなアトリエを借り、そこであの数々の汚れたメーゾン(家)を描き出した。仲よくなった靴屋の真前で、そのままの家を一気に描き上げる。靴屋の親父が飛出してそれを欲しがったのも無理はない。実に素晴らしい靴屋の店である。しかもそれが二、三時間で二十号の立派な油絵が出来上ったのだ。また彼が自分の仕事に飽きたらず焦々した時は、タッチが幅広くそれが針金をくの字に曲げたように奔放のまま終っている。色は灰褐。まるで魔界を彷徨する気持である。時にはあの有名なパリの簡素な便所に向かって数枚の傑作を描いた。鉄板の周りには花柳病の広告ビラが、彼に依ってあんな詩化されている。こうしたパリの冬、灰色の空の下で彼が夢中で描き続けていった無数の仕事の中には、狂的な程の熱中さが刻印されている。このことは佐伯の作を見た人達の識るところであるが実に甘い描写のない彼の詩であった。
  
 おそらく、小島善太郎が国内の洋画家について語った、最大の賛辞のひとつだろう。
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小島敦子「桃李不言」1992.jpg 小島善太郎1982.jpg
 さて、佐伯祐三と小島善太郎に共通する趣味がひとつある。それは、ふたりが無類の野球好きClick!だったことだ。おそらく、当時の六大学野球Click!全国中学校野球大会Click!の話題を、ふたりは頻繁に交わしていたのではないか。小島善太郎は、戦前は早慶戦Click!に夢中であり、戦後は熱烈な巨人ファンだったようで、王がホームラン記録を出しそうな試合を観戦しに、わざわざ後楽園球場へと出かけている。北野中学時代Click!には野球部のキャプテンClick!だった佐伯祐三もまた、第2次渡仏直前の多忙な時期に、わざわざ甲子園まで出かけて中学校野球大会(現・全国高校野球大会)を観戦している。案外、野球を通じてこのふたりは意気投合しているのかもしれないのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:記念写真では隣り同士が多い、小島善太郎(右)と佐伯祐三(左)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の8月以前に制作された佐伯祐三『下落合風景』=『セメントの坪(ヘイ)』。は、佐伯の描画ポイントあたりから見た下落合の現状で、手前から左手の駐車場が、下落合623番地の曾宮一念アトリエ跡。は、1926年(大正15) 5月15日~24日に開かれた第1回展(室内社)での小島善太郎と佐伯祐三。
◆写真中下は、『セメントの坪(ヘイ)』のサイン拡大。は、1923年(大正12)に制作された曾宮一念『夕日の路』。は、昭和初期に描かれた清水多嘉示『風景(仮)』。いずれも諏訪谷の北側に通う、佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』と同じ道筋を描いている。
◆写真下は、佐伯祐三と清水多嘉示の画面に描かれたコンクリート塀跡(左側)。下左は、1992年(平成4)に出版された小島敦子様・編『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』(日経事業出版社)。下右は、1982年(昭和57)にアトリエで撮影された小島善太郎。
掲載されている清水多嘉示の作品は、保存・監修/青山敏子様によります。

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昭和初期に走る山手線の姿は? [気になる下落合]

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 So-netには、数多くの鉄道ファンがブログを開設しているので、船ならともかく鉄道音痴のわたしが電車についてここに書くのも、まったくおこがましい限りなのだが、明治末から昭和初期にかけて落合地域に在住した美術家や作家たちの証言には、鉄道や停車場(駅)についての記録がときに登場している。西武線Click!については、陸軍鉄道連隊の演習Click!がらみで多少記事にしているが、今回は日本鉄道(株)の品川・赤羽線を起源とする、この地域を走る山手線について少し書いてみたい。
 西武電鉄Click!が敷設される以前、大正期を通じて落合地域に住んだ人々は山手線(目白駅・高田馬場駅)、ないしは中央線(柏木駅=東中野駅)を利用している。さまざまな資料では、下落合(現・中落合/中井含む)の東部から中部に住んでいた人々は目白駅Click!高田馬場駅Click!を、上落合あるいは下落合の中部から西部にかけて住んでいた人々は柏木駅Click!東中野駅Click!を利用していた様子が記録されている。
 おそらく周知の方も多いだろうが、山手線の歴史を概観すると、1885年(明治18)に日本鉄道が品川・赤羽間に鉄道を敷設したあと、1906年(明治39)には鉄道院が同社を買収して国有化されている。その後、東海道線の烏森駅(のち新橋駅)や東北本線の上野駅、東海道線の呉服橋駅(のち東京駅)へと乗り入れたり、1925年(大正14)にはようやく現在の姿と重なる、東京-品川-新宿-池袋-上野-東京と主要ターミナル駅を結ぶ環状運転がスタートしている。この間、池袋駅と赤羽駅を結ぶ環状に含まれない区間も、1972年(昭和47)に「赤羽線」として独立するまで、山手線として規定され運行がつづいていた。現在は、埼京線や湘南新宿ラインとして運行されている区間だ。
 下落合に住んだ芸術家たちの記録で、山手線が頻繁に登場するのは、やはり彼らが数多く集まりはじめた大正後期から昭和初期にかけてのものが多い。ちょうど豊多摩郡落合村が落合町に変わるころ、佐伯祐三Click!松下春雄Click!らが「下落合風景」シリーズを描いていたとき、山手線の土手上にはどのような車両が走っていたのだろうか?
 たとえば、1927年(昭和2)3月末現在で山手線を走っていた車両は、馴れない鉄道資料を調べてみると、環状線の軌道上は5両編成の客車と2両編成の荷扱専用車だったことがわかる。昭和に入ると郊外人口が増えるにつれ、同線は5両編成の電車計18便が定期運行している。また、2両編成の定期荷扱専用車は、計4便の電車が就役していた。
 環状線の定員は1車両に100名で、5両編成の環状線は500名、先頭と後尾には100kw(キロワット)出力の「デハ」車両がそれぞれ連結されていた。鉄道ファンなら自明のことだろうが、「デ」は運転台のある発動車のことで、「ハ」はイロハの3番目すなわち3等車両(一般車両)のことだ。前後2両の「デハ」にはさまれた、真ん中の客車3両は「サハ」車両で、「サ」は発動機を持たない付随車、つまり中間車両を意味する記号だ。「デハ」×2両と「サハ」×3両の計5両編成で、定員500名の乗客を運搬することができた。
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山手線水道橋.jpg
山手線電車編成表1927.jpg
 さらに、環状線を定期的に走る荷扱専用車は「デハ」(100kw)の2両編成、ないしは「デハ」+「デヤ」(70kw)の2両編成だった。「ヤ」は、なんらかの業務を行なう職用車と呼ばれた車両で、「デヤ」は運転台のある発動機付き職用車ということになる。ふたつの車両とも乗客は乗せず、荷物専用の便で東海道線まで乗り入れていた。
 また、同じく定期運行していた山手線の池袋駅-赤羽駅間は2両編成で、「デハ」(100kw)と「クハ」の組み合わせだった。「ク」は、運転台があるだけで発動機は付属していない車両だ。定員は2両で200名だが、ときに全4便のうち1便を荷扱車両兼用として運行させており、その場合は「デハ」車両が100名+「クハ」車両が50名の、計150名の乗客を運んでいる。
 以上の車両編成が、1927年(昭和2)3月末の定期運行時における山手線の電車編成だが、乗客が急増する季節(正月や藪入りClick!など)や沿線で人気行事が開かれる時期には、臨時増発の不定期便も運行していた。不定期便は、環状線で6便、池袋・赤羽線で1便が用意されている。環状線は、「デハ」2両+「サハ」3両の5両編成で、定期運行便と変わらず500名の乗客を運べた。一方、池袋駅-赤羽駅間の不定期便は「デハ」×2両の編成(200名)で、定期便の「クハ」車両は使われていない。
 大正末から昭和初期にかけては、以上のような車両編成の山手線だったが、『落合町誌』Click!(1932年)や『高田町史』Click!(1933年)が出版されるころになると、新型車両の登場や車両編成、便数などがすでに大きく変わっていると思われる。
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 たとえば、1933年(昭和8)4月末現在の山手線の車両編成や運行状況を見てみよう。まず、すべての便が定期運行となって不定期便が事実上なくなり、環状線の電車が32便と6年前に比べ40%以上も急増している。しかも、そのうちの8便には従来の5両編成ではなく、6両編成の電車が登場している。
 その車両編成は、先頭と後尾の2両が「モハ」(100kw)、中間が「サハ」「クハ」「モハ」「サハ」という連結だった。「モ」はモーター、つまり運転台のある発動機を備えた車両のことで、「モハ」3両に「サハ」(付随車)2両、「クハ」(運転台付き車両)1両の計6両編成となっている。車両も新型が投入されているのか定員615名と、1両あたりの乗客数も増えているようだ。
 環状線の残り24便は、従来どおりの5両連結で「モハ」3両に「サハ」「クハ」が各1両、定員は509名という編成だった。環状線を走る荷扱専用車としては、荷物を8tまで積載できる「モニ」車両が登場している。「モニ」は、運転台のある発動機付き(モ)の荷物車(ニ)が1両のみで運行し、5便が就役していた。
 池袋駅-赤羽駅間では、「モハ」と「クハ」の2両編成(203名)の電車が3便就役していたが、1日のうち3回の運行時に車両の半分が荷物車として代用されていたらしい。また、実際の乗降客数をベースに編成されたのだろう、赤羽駅の手前の池袋駅-十条駅間で2便が用意され、池袋駅-赤羽駅間と同じく「モハ」と「クハ」の2両編成(203名)の電車が走っていた。
 以上が、大正末から昭和初期にかけて山手線の軌道上を走っていた電車だが、塗装はもちろん懐かしいチョコレート色の車両で、いまだ黄緑色はしていない。当然、わたしはチョコレート色の山手線などほとんど記憶にないが、子供のころに同様の木製車両が郊外の路線ではいまだ使われていて現役のまま走っていた。山手線に黄緑色の車両が登場するのは、東京オリンピックが近づく1960年代初めのころだ。
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戸山ヶ原の大地から山手線のガードを1935.jpg
三角山の大地から新大久保方面を1937.jpg
 さて、下落合の画家たちが、スケッチをしながらしじゅう目にしていた山手線だが、下落合を走る電車を描いた風景作品は、いまだほとんど目にしたことがない。思いつくところでは、蒸気機関車に牽引され山手貨物線Click!を走る貨物列車を描いたとみられる佐伯祐三の『線路(山手線)』(仮)Click!か、東京美術学校を出たがプロの画家にはならず、のちに戸塚風景を記憶画として数多く残している濱田煕Click!の作品群ぐらいだろうか。

◆写真上:雑司ヶ谷道(新井薬師道)と交差した、下落合のガードClick!上を走る山手線。
◆写真中上は、1925年(大正14)に下落合の線路土手を走る4両編成とみられる山手線。手前の工場は、下落合71番地にあった池田化学工業Click!で、遠景は学習院の森。は、大正末ごろ巣鴨町を走る山手線で線路を跨ぐのは荒玉水道の水道橋「江戸橋鉄管橋」。は、1927年(昭和2)3月末現在の山手線電車編成一覧。
◆写真中下は、昭和初期に戸山ヶ原を走る山手線。は、1928年(昭和3)ごろ撮影された新宿駅に入線する山手線とみられる車両。は、1933年(昭和8)撮影の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の高架をくぐり踏み切りClick!にさしかかる山手線。
◆写真下は、1933年(昭和8)4月末現在の山手線電車編成一覧。は、1935年(昭和10)に山手線の西側から諏訪通りガードClick!上を走る山手線を描いた濱田煕の記憶画『戸山ヶ原の大地から山手線のガードを』(部分)。は、山手線の東側から新宿方面を向いて描いた同『三角山の大地から新大久保方面を』(部分)。左手の線路は、陸軍が戸山ヶ原へ西武線からのセメントや砂利など資材運搬用に敷設した引き込み線Click!の終端。

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ちょっと古めな新宿区文化財資料。 [気になる下落合]

下落合横穴古墳跡.JPG
 新宿区の教育委員会が、戦後ほどなく発行していた文化財資料(冊子類)を見ると、それが作成された時点での写真や伝承などが掲載されており、改めて貴重なことに気づく。先年、知人から譲り受けた貴重な資料類とは、1963年(昭和38)に新宿区教育委員会から発行された『新宿区文化財』と、1967年(昭和42)にややボリュームが増えて同教育委員会から発行された『新宿区文化財』の2冊だ。後者は、1963年版に比べて紙質もよく、倍ほどの厚さになっている。
 現在でも、同様の小冊子(『ガイドブック 新宿区の〇〇〇』シリーズ/新宿歴史博物館)が地区別やテーマ別に刊行されているが、新しい写真撮影が行われ昔日の写真が入れ替えられていたり、そもそも史跡や建物自体が開発のために消滅して、項目そのものが全的に削除されていたりする。区民のために、リアルタイムで把握できるようにする区内の「文化財」なのだから、それで編集の方向性は十分だしまちがいないと思うのだが、消えてしまった写真・図版類や省かれてしまった解説には、どうしても惜しいと感じてしまうものが少なからず存在している。
 戦前を含む、古い時代に作成された地域の文化財資料は、なぜか墓所の紹介からスタートするものが多い。地域の有名人の“お墓”の記述とその所在地から入るのだが、ご多聞に漏れず両誌ともに新宿区内に眠る服部半蔵や恋川春町、山県大弐、塙保己一、月岡芳年Click!、松井須磨子、関孝和Click!などなど、墓地の紹介からはじまっている。死者とその墓所を優先する「文化財」の編集方針は、早くも明治期の文化財資料類からチラホラと見かけるので、どうやら「文化財」=「有名人の墓」と一義的に考える概念は、そのころから生まれているのではないだろうか。
 1963年版の『新宿区文化財』には、たとえば現在では消えてしまった旧・玉川上水の名残り流路や大隈重信Click!邸の庭園、富塚古墳Click!(高田富士Click!)の山頂に通う浅間社の鳥居と参道、下落合西端で発見された落合遺跡Click!の、発掘作業が行われている現場のリアルな写真などが掲載されている。1967年版ではさらに記述が詳しくなり、写真や図版などが1963年版に比べてかなり増えている。
 たとえば、同時期にはすでに崩されてしまった早大キャンパス内の富塚古墳Click!跡は、古墳自体の写真および解説と浅間社を奉った高田富士Click!の紹介とで分けて記述されている。また、戸山荘Click!(尾張徳川家下屋敷)の敷地図版や、史跡のある場所の詳細な地図、間取り図つきの永井荷風Click!旧居跡をはじめ、由井正雪や夏目漱石Click!大隈重信Click!尾崎紅葉Click!小泉八雲Click!島崎藤村Click!など旧居の紹介が数多く掲載されており、1963年版からもう一歩内容を拡げ、テーマをより深くドリルダウンした記述が明らかに増えている。
 では、落合地域に限って両誌の内容を見ていこう。まず、どちらの版とも落合遺跡が占めるウェイトが高いのは、同遺跡が発見されてそれほど時間が経過していなかったからだろう。縄文や弥生、古墳など各時代を通じての集落跡が発見されて話題になったが、がぜん注目を集めたのは、群馬県の岩宿遺跡Click!の発見から間もない時期に、東京でも同様に関東ロームから旧石器Click!が次々と発見されたからだ。1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』では、落合遺跡が発掘写真とともに大きく取り上げられ、「新宿区」には数万年前から住民がいた……といわんばかりの記述になっている。w
高田富士1967.jpg
富塚古墳1963.jpg
玉川上水1963.jpg
 1967年版の『新宿区文化財』から、同遺跡の記述を引用してみよう。
  
 目白学園の遺跡園にある。/落合遺跡は昭和29年早稲田大学考古学研究室によって発掘が行われた。縄文式、弥生式、土師式の住居跡群とそれぞれの時代の土器、石器類が発掘された。目白学園構内には住居跡の復元があり、土器や石器類は早稲田大学考古学研究室、目白学園、区資料室に分けて保存されている。(中略)/この遺跡の特色は、縄文時代以前から、縄文、弥生、土師、古墳時代までの長年月の居住跡が、狭い範囲に見つかっていることである。
  
 遺跡の年代は、当時はいまだ縄文期から古墳期までとされており、その後に規定されている奈良から平安、そして近世までつづく遺跡の記述がまだない。換言すれば、「土師時代」という耳馴れない用語がつかわれ、土師器は弥生以降から古墳時代にいたる間に存在した文化の遺物と解釈されている。現代では、出土物の正確な年代測定により、土師器は古墳時代から奈良、平安の各時代までつづく焼き物であり、「土師」時代というような文化区分はとうに消滅してしまった。
 また、目白学園キャンパスに遺跡をそのまま保存した、「遺跡園」と呼ばれる公園のような施設が存在したことがわかる。現在はキャンパスに校舎の数も増え、記載されている落合遺跡のエリアは目白大学短期大学部の建物の下になっている。
 『新宿区文化財』の両誌に掲載されている落合遺跡の写真は共通で、復元された縄文時代の“粗末な”竪穴式住居とともに、高い位置から発掘現場がとらえられている。同遺跡はエリアを少しずつ変え、何度も繰り返し発掘調査が行われているが、掲載写真は初期のころに撮影された現場の様子だろう。掘り返された目白学園Click!のキャンパスは、校舎のある北側から中井御霊社Click!のある目白崖線のバッケClick!(崖地)方向、すなわち南南西に向けて撮影されている。手前に竪穴式住居が再現されているが、現状の縄文期研究からすればあまりに粗末すぎる復元だろう。
 また、落合地域の文化財では、いずれも非公開でわたしは見たことがないが、薬王院に保存されている鎌倉時代の板碑Click!や、月見岡八幡社に保存されている谷文晁の天井絵の1枚、江戸時代の最初期に造られた庚申塔(宝篋印塔形)、天明年間の鰐口などが写真入りで紹介されている。この中では、鰐口にからむ面白い物語が紹介されている。
落合遺跡1963.jpg
落合遺跡空中1963.jpg
薬王院板碑1963.jpg
下落合横穴古墳鉄刀1967.jpg
 以下、1967年版の『新宿区文化財』から引用してみよう。
  
 鰐口とは神社仏閣の前にかけつるして、綱で打ちならす道具で、銅または鉄の合金製があり、平たい円形で中は空、下方に横長の口がある。/表には上部中央に「奉納八幡宮」とあり、右側には「武州豊島郡上落合村氏子中」、左側には「天明五乙巳年六月吉日」ときざまれている。ちなみに天明5年ごろは東北地方には天明の大飢饉があり、関東では大洪水があり、天災の連続した時代であった。/この鰐口はどうしたものか不明だが、北海道にわたり、村まわり芝居興業が打ち鳴らしていたのを、昭和7年に北海道に旅行した地元の人が見つけて、それをもらい受けてもとに納めたものだという。
  
 「どうしたものか不明」とされているけれど、明らかに同社から盗まれたものだろう。それを北海道にたまたま旅行していた上落合の住民が、1932年(昭和7)に偶然発見してとりもどす経緯も面白い。できれば、発見した上落合の住民に取材してお話をうかがいたいものだ。また、現在の資料でも写真入りでよく見かける、中井御霊社の「龍王神」Click!と書かれた雨乞いの筵旗や、葛ヶ谷御霊社の力石なども掲載されている。
 そのほか落合地域に限らず、新宿区内の各史跡や文化財の写真および記述も、現在の資料では割愛されたり削除されているものが多く、図版なども含め非常に貴重なものが多い。同誌の刊行について、1963年版から新宿区教育委員会の序文を引用してみよう。
  
 新宿区は旧四谷、牛込、淀橋の三地区をあわせ、その歴史的遺産はかなりの数にのぼっております。/教育委員会では、かねがね、これらのうち、文化的価値のあるもの、歴史的に重要な史跡、旧跡などを、体系的に整理し、古文書、文献を裏付けとした正確な資料の必要性を痛感いたしておりましたが、このたび2年有余にわたる調査研究の結果、ここに「新宿区文化財」を編さん、発行のはこびとなりました。/おさめられた文化財は、あらたに指定された11点を含めて、文化財64篇、資料篇22点、合計86点、載せられた写真は74葉の多きにのぼりました。
  
 現代から見れば、86点とはなんて少ない点数なんだろうと感じるが、本誌が編纂されはじめたのは1945年(昭和20)の焦土と化した敗戦からわずか15年余のことで、街中からようやく戦争の傷跡が目立たなくなり、翌年には東京オリンピックを控え高度経済成長が端緒についたばかりのころであり、いまだ「文化」を落ち着いて探求するほど人々に余裕がなかった時代だ。また、戦争で日本じゅうの膨大な文化財が破壊・消滅し、取り返しのつかないことに改めて気づきはじめた時期でもある。
月見岡八幡天井絵1967.jpg
月見岡八幡鰐口1967.jpg
新宿区文化財1963.jpg 新宿区文化財1967.jpg
 人々はようやく食べる心配がなくなり、家電の「三種の神器」が家庭に入りはじめて生活に少しは余裕が出はじめたころ、それが1963年(昭和38)という時代だった。新宿区教育委員会の両誌からは、そんな当時の世相の匂いが漂ってくるようだ。

◆写真上:下落合横穴古墳群が発見された斜面跡で、右手の祠は下落合弁天社。
◆写真中上は、富塚古墳と溶岩が積み上げられた「高田富士」。階段下の人物や鳥居と比べると、古墳の規模がわかる。(1967年版) は、富塚古墳の上り口にあった浅間社の鳥居。は、暗渠化されずに残っていた旧・玉川上水。(ともに1963年版)
◆写真中下は、初期の発掘エリアを北側から眺めた落合遺跡の現場。(1963年版) および、1963年(昭和38)の空中写真にみる目白学園の「遺跡園」。は、左から右へ徳治2年(1307年)、建武5年(1338年)、貞治6年(1367年)の年号が彫られた板碑。(1963年版/1967年版) は、下落合横穴古墳群から出土した鉄刀Click!(直刀)のひと振りで長さ(刃長)は2尺に足りず比較的短めだ。(いずれも1967年版) 
◆写真下は、月見岡八幡社に保存されている谷文晁の天井絵。(1963年版) は、同社から江戸期に盗まれたとみられる鰐口。(1967年版) は、1963年(昭和38)に発行された『新宿区文化財』()と、1967年(昭和42)発行の同誌()。

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