So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

目白林泉園庭球部vs目白中学校庭球部。 [気になる下落合]

目白林泉園庭球部1.JPG
 1923年(大正12)の12月2日(日)、林泉園Click!にある東邦電力Click!の運動場でテニスのダブルスによる勝ち抜き戦の試合が行われた。東京中央気象台によれば、当日は前日にも増して快晴だったと記録されているので、初冬の気持ちのいい1日だっただろう。関東大震災Click!からわずか3か月しかたっていない時期だが、落合地域はほとんど被害らしい被害を受けていない様子が、このテニス大会からもうかがえる。
 目白中学校の庭球部は、ほぼ学校創立と同時に設置されたクラブで、毎年「関東庭球大会」に出場しては、関東各地にある中学と対戦している強豪チームだった。この年も、5月19日には渋谷にあった名教中学校とダブルスの勝ち抜き戦で対戦して快勝し、5月20日には茨城県まで遠征して龍ヶ崎中学校と対戦し、接戦のうちに勝利している。
 つづいて6月の下旬、千葉県千葉市に遠征して千葉師範学校と千葉中学校の混成チームと対戦したが、目白中学校庭球部は近年にない敗戦の屈辱を味わっている。同部の対戦記録には、「当日選手と共に出向かれたる岩本先生、一柳先生、林先生に対し、又本校生徒に対し、選手の面目を失ふ」と口惜しそうに書いているので、よほどまれになっていた敗戦がショックだったのだろう。
 9月1日の関東大震災の直後Click!から、目白中学校ではクラブ活動がしばらく中止されていたが、授業が平常にもどると同時に部活も再開された。そして、12月2日の目白林泉園庭球部との試合を迎えることになる。目白林泉園庭球部へ試合の橋わたしをしたのは、目白中学校庭球部の選手だった山本という生徒だ。そのときの様子を、1924年(大正13)4月に発行された校友誌「桂蔭」第10号から、試合の結果とともに引用してみよう。
  
 九月一日、前古未曽有の大激震関東地方を襲ひ、運動も一時中止のあり様なりしも、間もなく復活し、選手は日々腕を練り、目白庭球部の発展を急ぐ。
 対林泉園戦
 十二月二日、選手山本の斡旋により目白林泉園庭球部と林泉園コートに於て試合を行ふ。優退二組、不勝二組を持して我校の勝利に帰す。
  
 1回戦は、目白中学の「五十嵐・大澤」のペアが、目白林泉園の「伊藤・帆足」ペアと対戦して3:0で圧勝。つづいて2回戦は、目白中学の同じペアが目白林泉園の「安武・若績」ペアと対戦して、再び3:0で圧勝。3回戦は、目白中学の「杉本・小谷野」ペアが、目白林泉園の「両角・小川」ペアと対戦して3:2で勝利。4回戦は、目白中学の同じペアが目白林泉園の「松前・占部」ペアと対戦し、またまた3:2で勝利している。
桂蔭192404記事.jpg
林泉園テニスコート1926.jpg
目白林泉園庭球部2.JPG
 最後の5回戦は、目白中学の「清水・岩尾」ペアが、目白林泉園の「神谷・長谷川」ペアと対戦し3:0で圧勝と、目白林泉園庭球部は目白中学にまったく歯が立たなかったようだ。目白中学の「戸口田・倉賀野」と「山本・桑澤」の各ペアは、せっかく大震災後の初試合で活躍できると勇んで出場したにもかかわらず、応援するだけで終わってしまって残念だったろう。
 さて、目白中学校に惨敗した目白林泉園庭球部とは、どのようなチームだったのだろうか。東邦電力の運動場を利用していることから、またそれが同社の社宅が並ぶ敷地に設置されたテニスコートであることから、東邦電力の社員たちが結成した社内クラブのようにも思えるが、クラブの名称が「東邦電力庭球部」ではなく、「目白林泉園庭球部」というところが気になるのだ。
 つまり、隣接する社宅に住んでいる社員や、下落合以外の地域に住む社員たちばかりでなく、林泉園の周辺に住んでいる下落合住民も、自由に参加できるテニスクラブではなかっただろうか。大正期の古い話なので、「目白林泉園庭球部」の名称を憶えておられる方がいないのか、わたしは一度も同クラブについて聞いたことがない。もし、テニスが大流行した大正末から昭和初期まで存続していたとすれば、どこかに記録が残っているのかもしれないが……。
 目白中学との試合に参加した、目白林泉園チームの選手の中には、明らかに東邦電力の社員だと思われる人物が4人いる。すなわち、林泉園住宅地にある社宅ないしは邸宅で、その同一の名字を確認することができる、「伊藤」「安武」「小川」「神谷」の4名だ。伊藤邸と小川邸は、ともに林泉園テニスコートの西側、下落合368番地に同一仕様で建てられた洋館社宅の中に住む社員だったと思われる。
東邦電力林泉園1936.jpg
林泉園テニスコート1938.jpg
東邦電力林泉園1947.jpg
 また、「安武」は管理職が住んでいたとみられる林泉園の南側、社長の松永安左衛門邸Click!(当時は副社長)つづきに並ぶ、少し大きめな邸(下落合367番地)で名前を確認できる、東邦電力会計課長の安武専助だろう。安武課長は東邦電力とともに、同じく松永安左衛門が設立した永楽殖産の監査役も兼任している。
 もうひとりの選手「神谷」は、下落合367番地の安武邸の斜向かい、松永安左衛門邸から2軒西隣りに住んでいた神谷啓三だろう。神谷は、東邦電力の理事であると同時に重役の秘書もつとめていた。1932年(昭和7)に出版された、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 東邦電力株式会社理事兼秘書役 神谷啓三  下落合三六七
 愛知県人神谷庄兵衛の令弟にして明治二十三年二月を以て出生、大正十一年分家を創立す、是先大正四年東京帝国大学政治科を卒業し、爾来業界に入り現時東邦電力会社理事兼秘書役たる傍ら永楽殖産会社監査役たり。夫人田代子は同郷松井藤一郎氏の令姉である。
  
 目白中学との試合が行われたとき、神谷啓三はすでに34歳であり、とても現役の中学生(現・高校生)プレーヤーの体力にはついていけそうもなかっただろう。だからこそ、最後のペアに配置されたのだろうが、やはり予想どおり3:0で惨敗している。
目白林泉園庭球部3.JPG
目白林泉園庭球部4.JPG
目白林泉園庭球部5.JPG
 この4名以外の名前は、東邦電力の社宅+管理職宅の敷地内で確認することはできない。だが、中には助っ人として呼ばれた、別の地域に住む同社社員も含まれているのかもしれないが、周辺の下落合に住むテニス好きの住民も、一部混じっているのではないだろうか。残る目白林泉園庭球部の選手名には、1924~25年(大正13~14)の下落合町内名簿で重なる苗字が、いくつか散見できるからだ。

◆写真上:目白林泉園庭球部があった、東邦電力の社宅に隣接するテニスコート跡。
◆写真中上は、1924年(大正13)4月発行の目白町学校校友誌「桂蔭」第10号に掲載された対戦記事。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる林泉園界隈。東邦電力社宅に入居している社員名と、目白林泉園庭球部の選手名が一致する家が何軒か見える。は、林泉園の池を埋め立てて1970年代半ばに建設された低層マンション。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林泉園界隈。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」掲載の選手とみられる安武邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる林泉園界隈で、空襲による延焼がなく大正期の面影をよく残している。
◆写真下は、東邦電力の社宅があったあたりの現状。は、林泉園の北側に通う東西道で、右手が東邦電力合宿所や下落合家庭購買組合が建っていたあたり。

読んだ!(18)  コメント(18) 
共通テーマ:地域