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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(5) [気になる下落合]

曾宮一念「落合風景」1921.jpg
 大正中期の落合地域を描いた絵画作品は、本格的な宅地開発が行われる以前の風景Click!なので、描画場所の特定がきわめてむずかしい。描かれているモチーフは、田畑や耕地整理を待つ原っぱ(空き地)、農家、森林、ポツンポツンと建ちはじめた郊外住宅などで、現代につながる目標物がほとんど存在しないからだ。
 また、目白崖線の丘上を描いた風景だったりすると、平坦な地面が多いため地形的な特徴もつかみにくく、どこを描いたのかがさらにわからなくなる。田畑のままで、宅地化を前提とした耕地整理がなされていないと、農作業に使われた畦道や農道がそのまま描かれており、現代につづく道筋の形状が未整備のため、場所を想定することが非常に困難になる。それでも、小島善太郎Click!『下落合風景(仮)』Click!のように、特徴的な地形や明治以前からの街道筋を描いていれば、現代からでもピンとくる場所を想起できるが、単に草原や森林を描いただけでは見当もつかない。
 冒頭の画面は、1921年(大正10)に曾宮一念Click!が描いた『落合風景』だが、どこを描いたのかがよくわからない作品だ。同年の4月、曾宮一念は念願のアトリエClick!下落合623番地Click!に建てて、淀橋町柏木128番地Click!から引っ越してきているので、同作は転居早々に描かれたことになる。前年の暮れに描かれた『落合風景』Click!(1920年)のように、特徴的な建物(メーヤー館Click!)がモチーフに入っていればすぐに描画ポイントを特定することができるが、道もなにもない草原と樹々をとらえただけの画面では、手がかりがつかみにくくわからない。画面のような風景は、当時の下落合ではあちこちで見られただろう。
 なんだか画面上に雪か、植物の綿帽子が降りそそいでいるような表現が描かれているけれど、木々の枝葉が紅葉しかかっているので秋の落ち葉だろうか?(あるいは油彩画面に付着したカビの跡だろうか) 画面を左右に横ぎる並木のような樹木の下には、細い小径が通っていそうな風情だ。画面中央のやや右手に描かれている赤いフォルムは、紅葉した樹木なのか西洋館の屋根なのかが、茫洋とした表現でいまひとつハッキリしない。陽射しの具合から、どうやら手前、つまり画家の背後が南のようだ。
 当時の下落合は、目白駅の近くと目白通り(清戸道Click!)沿いの江戸期から発達した「椎名町」Click!を除き、草地や畑地が拡がる家々がまばらな光景だった。だから、家々が描かれているとすればかなり絞りこめるのだが、もし中央右手に表現されている赤いフォルムが建物の屋根だとすれば、当時の曾宮一念の生活やアトリエ周辺の環境を考慮すると、1ヶ所だけ思いあたる描画場所がある。それは、落合遊園地Click!(のち東邦電力による近衛新町Click!宅地開発Click!林泉園Click!と命名)の谷戸をはさみ、南から北を向いてサクラ並木が繁る道筋の中村彝アトリエClick!を描いたものではないだろうか。
曾宮一念「落合風景」1921想定.jpg
落合遊園地1923.jpg
曾宮一念「落合風景」1936.jpg
 手前の樹木3本の向こう側には、やや草原のスペースがあるように見えるが、その先には窪地(小さな谷戸)があると想定しても、あながち不自然な描写には感じられない。濃いグリーンに塗られた樹木は、落合遊園地(林泉園)の谷戸に生えている樹木の上部であり、崖地の影になっている部分が濃く塗られている……とも解釈できる表現だ。そして、その向こう側に明るい色で描かれた樹木が、谷戸の北側に通う小径のサクラ並木だと解釈することができそうだ。
 『落合風景』の描画ポイントを規定するとすれば、落合遊園地(林泉園)南側の下落合387番地にあたる草原から、谷戸をはさんで5年前に建てられた中村彝アトリエを含む、下落合463~465番地界隈をとらえているように見える。当時の1/10,000地形図を確認すると、谷戸に面したこの一画にはわずか3棟の家しか採取されていない。下落合464番地の中村彝アトリエと、画面の右手にあたる下落合463番地に建てられていた2棟の住宅(1棟は物置小屋?)だ。ただし、画面では手前右側の樹木にさえぎられて、下落合463番地に建っていた2棟の屋根は見えない。
 『落合風景』の描画ポイントとみられる位置、すなわち下落合387番地の一画に立とうとしても、現在は住宅が建ち並ぶ真ん中なので不可能だ。また、同ポイントからは家々の屋根が視界をさえぎり、中村彝アトリエを見とおすこともできない。同作が制作された当時の地図、あるいは古い空中写真から画面の情景を想像してみるしかなさそうだ。
中村彝アトリエ屋根.JPG
曾宮一念描画ポイント.jpg
曾宮一念1923.jpg
 もう1点、1920年(大正9)に制作された曾宮一念『風景』という作品がある。いかにも、本格的な宅地開発が進む前の東京郊外という風情だが、同年に曾宮はいまだ下落合に転居してきていない。したがって、転居前に住んでいた淀橋町柏木128番地(現・西新宿8丁目)の借家周辺で見られた風景なのかもしれない。
 落葉した樹木の様子や、ススキのように背丈の高い枯れた草叢が描かれており、おそらく同年の晩秋から冬にかけて制作されたものだろう。西日と思われる黄色い陽射しと、描かれた家々が並ぶ屋根の主棟の向きから推測すると、やはり画家の背後が南側のようだ。右手には、右へとカーブする道が描かれており、畑地の向こう側に建てられた住宅群の左手は、地形がやや下がっているように見える。また、右端には長い生垣と屋敷林がつづいているので、その内側には大きな農家か屋敷が建っていそうだ。
 1920年(大正9)現在の下落合で、このような地形や道筋、さらに家々の配置をわたしは知らない。ひょっとすると、曾宮一念は自身のアトリエを建設する予定地を下見にきて、その周辺の風景を描いているのか?……とも想像したが、道筋や家々の配置、地形などが微妙に異なり一致する場所が見つからない。あるいは、聖母坂の建設で消えてしまった住宅街の一画だろうか?
 当時の淀橋町柏木もまた、畑地が残るこのような風景が随所に拡がっていただろう。新宿駅と山手線をはさみ、大正中期に東口は急速に拓けていったが、西側は街道沿いや淀橋浄水場Click!の周辺を除き農地や空き地、雑木林などが散在する風情のままだった。曾宮一念が一時的に住んでいた柏木128番地は、中央線の大久保駅に近い位置であり、当時はまだあちこちに田畑が残るような風景だったろう。
曾宮一念「風景」1920.jpg
下落合東部1918.jpg
曾宮一念(写生中).jpg
 東京西部の郊外、山手線の西側一帯に拓けた多くの街々は、関東大震災Click!から少しあとの時代、大正末から昭和初期にかけて、それぞれの街がもつ特色が少しずつ形成されはじめている。したがって、それ以前の風景は東京市の近郊に拡がる農村風景で、どこも似たり寄ったりの風情をしていた。1920年(大正9)前後に曾宮一念が写した風景は、急速に変貌をとげる直前の、過渡的な東京近郊の様子を的確にとらえ表現している。

◆写真上:下落合に転居早々の、1921年(大正10)に描かれた曾宮一念『落合風景』。
◆写真中上は、『落合風景』に描かれている風景やモチーフの推定。は、1923年(大正12)に作成された1/10,000地形図にみる推定描画ポイント。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる描画ポイント。
◆写真中下は、中村彝アトリエの赤い屋根だが建設当初はもう少しオレンジに近い赤だったろうか。は、『落合風景』が描かれた描画ポイントあたりの現状。中村彝アトリエは、突きあたりにある谷戸の向こう側やや右手のサクラ並木沿いに建っている。は、1923年(大正12)に下落合のアトリエで撮影された曾宮一念。
◆写真下は、下落合の描画場所に心あたりがない1920年(大正9)制作の曾宮一念『風景』。は、田畑や草原、森林、などが随所に拡がる1918年(大正7)現在の下落合東部。は、昭和初期に撮影されたとみられる野外写生中の曾宮一念。

読んだ!(15)  コメント(18) 

読んだ! 15

コメント 18

ChinchikoPapa

千鳥ヶ淵の濠の端、石垣ではなく室町期からの築城の慣習を残した土塁が、独特な風情を醸しだしていますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2019-05-13 10:42) 

ChinchikoPapa

A.アイラーが、イーストリバーに死体となって浮んでいたとき、わたしは中学生になったばかりで、その「死」の意味がわかりませんでした。現在では、投身した目撃情報まで明らかになっているんですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2019-05-13 10:48) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2019-05-13 10:49) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2019-05-13 10:49) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2019-05-13 14:28) 

ChinchikoPapa

家のクルマは子どもが運転するだけで、わたしはほとんどまったく運転しなくなってしまいました。たいがいのところは電車や地下鉄、バスでスムーズに行けますし、またそちらのほうが速いと気づいたからなんですが、できるだけ歩いて運動不足を解消するという目的もあったりします。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-05-13 16:56) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>はっこうさん
by ChinchikoPapa (2019-05-13 22:03) 

ChinchikoPapa

「赤城山」は名前からして、独立し別れ別れになる門出の祝い酒のようなイメージが湧いてきます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2019-05-13 22:08) 

skekhtehuacso

ChinchikoPapa様、もしかして国定忠治でしょうか。
それ故にあたしゃこの酒は“あかぎやま”かと思ったのですが、どうやら“アカギサン”の誤りでございましたとさ。
by skekhtehuacso (2019-05-13 23:42) 

ChinchikoPapa

子どもは思いっきり遊ばせないと、心の(精神的な)引き出しや多角的な視点、それにもとづく多様な価値観を理解する眼ざしや、自身が選択して身につけ責任を負う姿勢(主体性)が育たないですね。「(学校の)お勉強」はよくできるけど「バカ」な子にならないよう、わたしは子どもへ意識的に「(学校の)勉強をしろ」とは一度もいいませんでした。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2019-05-14 10:54) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
思わず新国劇を思い浮かべてしまったのですが、「赤城さんも今宵限り」じゃ島田正吾もサマにならないですね。w
by ChinchikoPapa (2019-05-14 10:59) 

ChinchikoPapa

シジュウカラの声を聞くと、うちのネコは耳をそばだてますね。ヒヨドリやウグイスなど大きな鳴き声には反応しないのに、シジュウカラに敏感なのは、どこか気に障る鳴き声なのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>soramoyouさん
by ChinchikoPapa (2019-05-15 09:39) 

ChinchikoPapa

神高橋の下流に毎年、子どもの日の鯉のぼりのほか、たまに水洗いを終えた染め物などが不定期で干されていますね。染物博物館によるイベントが、ときどき行われているのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2019-05-15 15:56) 

アヨアン・イゴカー

最後の写真を見ていて、昭和初期には今の二十三区内もこんなに自然が多かったことが分かり、驚きました。
私が小学生の頃には、世田谷区喜多見と成城の間には田圃も、雑木林も結構ありましたが、今では殆ど何も残っていません。

by アヨアン・イゴカー (2019-05-16 00:23) 

ChinchikoPapa

歳をとってからの認知症は、どこかで諦めもつきますが、若年性の場合は体力もあって介護がたいへんでしょうね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ピストンさん
by ChinchikoPapa (2019-05-16 09:48) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
いちばん最後の写真は、おそらくキャンバスに描かれている風景から、長野または伊豆方面ではないかと思います。
うちの近くには、まだ畑が残っていますけれど、農作業をしている方がだんだんお歳をめして、いつ消滅してもおかしくない状況ですね。
by ChinchikoPapa (2019-05-16 09:51) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2019-05-16 10:23) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>タッチおじさん
by ChinchikoPapa (2019-05-16 14:01) 

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