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大阪1時間の滞在レコードを持つ徳山璉。 [気になる下落合]

徳山璉邸跡.JPG
 8月15日というと、どうしても記事をアップしたくなります。単調でつまらなくて、ウンザリしているメンテ作業の息抜きに、ちょっと…。w 書きつづけていた習慣を突然やめると、なぜか書きたいテーマが二桁単位でたまってしまい、禁断症状が出ますね。
  
 わたしが旅行をした中で、目的地における滞在記録の最短レコードは、京都での3時間というのがある。もちろん仕事上の出張で、京都に事業所のあるクライアントの会議室でわずか1時間余の打ち合わせのあと、京都駅のカフェでひと休みしてから新幹線に飛び乗って東京へともどった。新幹線の中でも、ほとんどPCと向き合っていたから、旅行と呼ぶのもおこがましい“移動”だった。
 出張でもないのに、わたしよりも短い滞在時間のレコードを持っている人物が下落合にいた。下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)に住んだ、ビクター専属のバリトン歌手・徳山璉(たまき)Click!だ。ちょうど、中村彝アトリエClick!のすぐ北側、移動前の大正期に一吉元結工場Click!の職人長屋が建っていたあたりの一画に邸を建設している。
 徳山璉は17歳のとき、狂おしい想いを抱きながら東京駅から東海道線の夜行に飛び乗り、恋をした女の子を転居先まで追いかけて、早朝の大阪駅へと降り立った。駅前の公衆電話から、さっそく彼女の家へ連絡を入れると、やってきたのは彼女ではなく母親のほうだった。1935年(昭和10)に婦人画報社から刊行された「婦人画報」4月号に掲載の、徳山璉『春のモンタアジユ』から引用してみよう。
  
 僕は朝の大阪駅前に立つた。夜行で東京から来たのである。何故か腹が空いてゐた、途中一寸とも食べなかつたからである。/様子知らぬ駅前の公衆電話のボツクスに飛び込むと、僕はふるえる声でアル電話番号を呼ぶのであつた。暫くすると、その駅前の僕の方に向つて、彼女ではなく、彼女の母なる人が現れた。/『あの子の父が大変怒つてゐます。すぐに東京へお帰へりなさい』/『………』/滞阪レコード一時間に足らず、始めて踏んだ大阪の土地の水も飲まないで、僕は次の列車、上り列車の客となつてゐた。/涙がこぼれさうであつた。其処で僕は列車が止まる度びに弁当を買つたのである。癪にさわつて堪らなかつた、とうとう五つ弁当を食べた頃やうやく東京に帰へつて来た。/彼女に一言云ふどころか、影さへも見ないで帰へつて来た寂しいお腹の中には、東海道線のいろいろなお弁当がギツシリと詰つて胃壁を刺激するので、一層僕は悲しかつた。/その彼女が今では、妻となり、僕の子供の母となつて、精励これ努めてゐるのである。
  
 失意と駅弁の食べすぎの状態で東京駅にもどったあと、徳山璉は「若ければ啄ばむ果をも知らざりし唱ふ心は春なりし哉」という短歌を詠んで記念している。その後、なぜ東京と大阪で離ればなれになってしまった初恋の彼女が、いつの間にか徳山璉の連れ合いになっているのかは、書かれていないのでまったく不明だ。
徳山璉婦人画報193504.jpg
徳山璉.jpg キングレコード1939.jpg
 わたしは子ども時代を、湘南海岸Click!の真ん中あたりですごしているので、徳山璉のヒット曲というと条件反射のように、『天国に結ぶ恋』Click!(1932年)が思い浮かぶ。避寒避暑の別荘地・大磯駅Click!裏の坂田山で、服毒自殺した慶應大学の学生と深窓の令嬢との許されない恋を唄った坂田山心中事件Click!だ。「♪今宵名残りの三日月も 消えて寂しき相模灘~」と、わたしが子どものころまで、この歌を口ずさむ大人たちは、いまだ周囲にチラホラ存在していた。
 ちょうど、「♪真白き富士の根 緑の江ノ島~」と、逗子開成中学校のボート部の生徒たちが強風による高波で遭難Click!した『七里ヶ浜の哀歌』Click!(1916年)とともに、神奈川県の海辺ではいまだ“現役”で唄われていた歌だ。親に連れられ坂田山へ上り、ちょっと気味の悪い感覚で比翼塚Click!を目にしたのも、物心つくころだった。現在、坂田山心中の比翼塚は、海辺の明るい鴫立庵Click!に移されている。
 さて、戦争を経験されている方、あるいは敗戦後まもなく生まれ育った方は、徳山璉といえば日米戦争へ突入する前年、1940年(昭和15)に唄われた『隣組』Click!や『紀元二千六百年』などのほうが、圧倒的になじみ深いだろう。敗戦から、10年以上がたって生まれたわたしでさえ、これらの歌は親を通じて知っている。特に『隣組』のメロディーは、ドリフターズのテーマ曲やメガネドラッグのCMソングなどに使われているので、たいがいの方がご存じだろう。
 ♪とんとんとんからりと 隣組
 ♪格子を開ければ 顔なじみ
 ♪廻して頂戴 回覧板
 ♪知らせられたり 知らせたり
 明るいメロディとは裏腹に、同年の国家総動員体制や国民精神総動員運動のもと、近隣の相互監視と思想統制の密告・摘発・弾圧の仕組みとして、軍国主義のもと全体主義体制の推進を加速させた制度だ。あたかも「五人組」や「名主・差配・店子」などの制度と同様に、封建制の時代へと100年ほど時代を逆行させたかような「自治」組織であり、今日でいうなら北朝鮮の「人民班」とまったく同質のものだ。そもそも北朝鮮の「人民班」が、日本の「隣組」制度を模倣したとさえいわれている。
徳山璉「天国に結ぶ恋」1932.jpg
五所平之助「天国に結ぶ恋」1932松竹.jpg
徳山璉邸1938.jpg
 こちらでも、「隣組」制度によってJAZZレコードの存在を密告され特高Click!に検挙された事例をご紹介しているが、JAZZレコードなど聴いておらず、当局によりJAZZが禁止される日米戦の前に、家の外へ漏れていた音色からJAZZレコードの存在を類推できる家庭までが、「隣組」や「町会」などの組織の密告によって特高に摘発されている。中には、DGG(ドイツ・グラムフォン)のベートーヴェンやシューベルトのレコードさえ押収した愚かな事例さえあった。
 徳山璉は、そのほか『撃滅の歌』や『日の丸行進曲』、『大陸行進曲』、『太平洋行進曲』、『空の勇士』、『大政翼賛の歌』、『愛国行進曲』…etc.、日米開戦の直後、1942年(昭和17)1月に死去するまで一貫して軍部へ協力し、軍国主義を推進する歌を唄いつづけている。このあたり、4歳年下で同じく下落合にも住んだ淡谷のり子Click!とは対照的な歌い手だ。もし、3年後に大日本帝国が破産・滅亡するまで生きていたとしたら、そして戦後の「亡国」状況を目の当たりにしていたとすれば、いったいどのような感慨や思想的(芸術的?)な総括を行なっていたのだろうか。
 1945年(昭和20)5月17日に、米軍の偵察機F13Click!から撮影された落合地域の空中写真Click!を見ると、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!からかろうじて焼け残った、下落合1丁目504番地の徳山邸を確認することができる。また、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!でも、同邸はなんとか延焼をまぬがれて焼け残った。敗戦直後の空中写真を見ると、延焼の炎舌はわずか10mほど北側の隣家で止まっているように見える。
徳山璉邸1947.jpg
徳山璉「隣組」1940.jpg
日本蓄音機商会1912.jpg 大蓄商会1928.jpg
 徳山璉が敗戦時まで存命で、自邸がかろうじて焼け残った様子を見たら、「幸運だ」ととらえただろうか? それとも、焼け野原が拡がる周囲の下落合を呆然と眺め、さらに焦土と化した東京の市街地を望見して、「日本史上でかつてない、初の亡国状況を招来した最大の政治的失策であり不幸だ」と、はたして気づいていただろうか?
 まったく関係のない余談だが、いつか熊本県菊水町のトンカラリン古墳群Click!に出かけてみたい。侵入してきたヤマトを迎撃した伝承や、卑弥呼(フィミカ)との深い関連も指摘される、邪馬壱国(邪馬壹国)の有力な候補地のひとつだ。

◆写真上:下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)の徳山璉邸跡(奥右手)の現状。
◆写真中上は、1935年(昭和10)発刊の「婦人画報」4月号に掲載された徳山璉『春のモンタアジユ』。下左は、昭和10年代の徳山璉。下右は、1939年(昭和14)発行の「主婦之友」に掲載されたビクターではなくキングレコードの広告。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に発売された徳山璉・四谷文子『天国に結ぶ恋』。は、同年に松竹系で公開された五所平之助・監督の『天国へ結ぶ恋』。は、1938年(昭和14)作成の「火保図」にみる林泉園近くの徳山璉邸。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる徳山璉邸。は、1940年(昭和15)に発売された徳山璉『隣組』。下左は、蓄音機が「嫁入道具」などといわれて高級品だった1912年(明治45)の日本蓄音機商会の媒体広告。下右は、「大衆的製品」となった1928年(昭和3)のナポレオン蓄音機こと大蓄商会の媒体広告。それにしても、後者の「だいちくしょうかい」という社名は、もう少しなんとかならなかったものだろうか。
おまけ
 御留山に飛来した、おそらく渡りをしない東京定住組と思われるアオサギ。
アオサギ.JPG
追記
徳山璉のご子孫にあたるEIWAさんより、貴重なコメントをいただきました。徳山璉・寿子夫妻の生活や人生について、まとめられたブログをご紹介いただきました。下記のサイトなので、ご参照ください。「萩谷清江」をキーワードに検索すると、徳山夫妻についての物語や年譜などを参照できます。
Beautiful World
http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-category-14.html
また、徳山璉随筆集』(輝文館/1942年)が国立国会図書館でデジタル化され、一般に公開されていますので、興味がある方はこちらもご参照ください。

読んだ!(23)  コメント(35) 
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読んだ! 23

コメント 35

tree2

お久しぶりです。いつに変わらぬエネルギッシュな投稿に敬服です。
私の方は、3月末に突然すったもんだに巻き込まれ、ただ今、埼玉県に仮住まい。ようやく落ち着いてきたので、ブログ再開しました。
今後ともよろしくお願いいたします。



by tree2 (2018-08-15 11:00) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>はじドラさん
by ChinchikoPapa (2018-08-15 14:28) 

ChinchikoPapa

C.ブレイの『TROPIC APPETITES』は、まるでオモチャ箱をひっくりかえしたようなアルバムで好きですね。いまや、輸入盤しか販売してないようです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2018-08-15 14:33) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2018-08-15 14:35) 

ChinchikoPapa

きょうは風があって、ようやく普通の夏のような体感温度でしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2018-08-15 14:36) 

ChinchikoPapa

ケンコーのフィルター類は、アナログ一眼レフでずいぶんお世話になりました。交換レンズは、残念ながら試してみたことがありません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2018-08-15 14:38) 

ChinchikoPapa

きょうは朝から風があり、気圧が不安定な感じです。こういう日は、夕立や雷がありそうですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okina-01さん
by ChinchikoPapa (2018-08-15 14:41) 

ChinchikoPapa

tree2さん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
それは、たいへんでしたね。お疲れさまでした。引っ越しは年齢に関係なく、エネルギーと神経をすり減らして消耗します。この暑さですから、くれぐれも体調を崩されないようご自愛ください。
わたしは、Soーnetの突然のSSL化により、外部サイトのメンテですったもんだしています。^^;
by ChinchikoPapa (2018-08-15 14:45) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2018-08-15 14:46) 

ChinchikoPapa

子どものころの“空耳”は、けっこうあとまで憶えているものですね。「開けてく屋敷玉手箱」もシュールですが。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2018-08-15 15:58) 

ChinchikoPapa

ヘリで阿蘇のカルデラをめぐったら、雄大で気持ちがいいでしょうね。どちらかというと高所が苦手なわたしでも、乗ってみたくなります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>soramoyouさん
by ChinchikoPapa (2018-08-15 23:49) 

ChinchikoPapa

大英帝国は、イースター島のモアイ像まで持ってきちゃったんですね。エジプトと同様に、チリとの間で文化財をめぐる軋轢が気になります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2018-08-16 11:56) 

ChinchikoPapa

このところ、かき氷の食べ歩きをしてまして、地域や店によってはいろいろな味がありそうなのが面白いですね。昔ながらのかき氷は、いつか哲学堂公園の売店で出会えたきりで、いまだ近所では出会えていません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2018-08-16 12:00) 

ChinchikoPapa

ベトナムは仕事をリタイヤしたら、一度は行ってみたい国です。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2018-08-16 12:16) 

ChinchikoPapa

オーディオの機器類は使わなくなったとしても、グズグズなかなか処分できずに取っておいたりするのですが、同じ機器のPCにはそういう感慨を持ったことがありません。どこか、PCは実用の道具であり、成果物を得るための“手段”だ……という感覚が強いんでしょうね。使い慣れたPCには愛着が湧きますが、やはり最新のPCに惹かれます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2018-08-16 12:23) 

ChinchikoPapa

いま、どこの企業でも「働き方改革」が盛んですが、会社や業務がどう変わるのか?……と眺めている社員が多いようですね。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>はっこうさん
by ChinchikoPapa (2018-08-16 12:26) 

ぐりこ

♪やめられない、とまらない、あれ、グリコではありませんね。痒いとこはカク、とか、書きたいことをカク、とか大事かも。いつでもオマケをつけてくださいね。
by ぐりこ (2018-08-16 14:48) 

ChinchikoPapa

ぐりこさん、またまたコメントをありがとうございます。^^;
じゃあ、土曜までに「おまけ」記事を書きますので、しばしご猶予を。かっぱえびせんにも、オマケは聞いたことないのですが、今度のオマケは落合地域の「バラ色の人生」です。w
by ChinchikoPapa (2018-08-16 16:59) 

ChinchikoPapa

東北へ旅行をすると、なにはさておいてもうまい海産物を味わうことですが、水温が低い海で育った魚介類は美味ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2018-08-16 17:02) 

ChinchikoPapa

街中にビデオ屋さんができたころ、早々に借りて観たのが『マタンゴ』と『吸血鬼ゴケミドロ』でした。もうワクワクしながら、爆笑しつつ観賞してましたね。ゴケミドロの佐藤友美は、この映画から20年たってもあまり変わらない雰囲気で驚いたのを憶えています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2018-08-16 17:10) 

pinkich

いつも楽しみに拝見しております。久しぶりの記事面白く拝見しました。トンカラリン古墳群のお話が突然出てきてビックリしました。先週熊本の山鹿付近に滞在し、観光案内の掲示板に江田船山古墳が紹介されていましたので、トンカラリン古墳群の近くにいたのかもしれませんね。このあたりは、温泉もあり、なかなかのどかないい田舎風景が広がっております。昨日から山鹿の灯籠祭りも始まっています。この時期がおススメです。
by pinkich (2018-08-16 17:58) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
そうなんですね。トンカラリン古墳群を見たあとは、山鹿の温泉に浸かりたいのです。w 温泉は古代から湧いていたと思いますので、古墳群の被葬者たちも楽しんだのではないでしょうか。
ただ、温泉があるところ火山ありで、古代に阿蘇山が大噴火を起こし、九州北部へ侵入・占拠していたヤマトの経済基盤が壊滅したため、瀬戸内海を通過する「東遷」を決意させた……というような学説もあるもあるぐらいですから、快適な環境ばかりではなかったかもしれません。
by ChinchikoPapa (2018-08-16 20:08) 

ChinchikoPapa

英国のスパークリングワインというのは、おそらく一度も飲んだことがないと思います。英国=ブドウというイメージが、なかなか湧きにくいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2018-08-16 20:18) 

ChinchikoPapa

書かれているとおり、確かに明治期から昭和期まで「武士道」的な生き方を体現しているのは、薩長政府でも大日本帝国の支配層でもなく、情けないことに左翼やキリスト者、陸軍「皇道派」など反体制側だったというのは、いろいろな資料を調べていても感じることです。ただし、新渡戸稲造が規定する「武士道」的な範疇で……という前提がつきますが。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ハマコウさん
by ChinchikoPapa (2018-08-16 21:35) 

ChinchikoPapa

東海道線の鈍行(普通電車)の乗り継ぎ、懐かしいですね。おカネがない学生時代、西へ旅行するときはよく利用しました。たいがい停車時間が1分以内なので、駅弁を買いに走るのはスリルがありましたね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2018-08-17 12:41) 

ChinchikoPapa

うちの裏庭の畑では、そろそろナスとキュウリが食べごろのようです。ピーマンは、収穫しないでいたら赤みを帯びてしまい、いつ食べようかと迷っていたら真っ赤になってしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>水郷楽人さん
by ChinchikoPapa (2018-08-17 12:45) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>おぉ!次郎さん
by ChinchikoPapa (2018-08-17 21:05) 

アヨアン・イゴカー

蓄音機の広告が、仰々しくてとても面白いです。確かに、高級感は相当にあったとは思っていましたが、当時、このような位置づけだったのですね。
by アヨアン・イゴカー (2018-08-19 09:10) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
蓄音機の広告は仰々しいですが、それほどハイカラで貴重で高価なものだったんでしょうね。わたしが子どものころ、ターンテーブルにアンプ、スピーカーが一体化した家具調の家庭用ステレオ装置も、かなり高価でそんな感じの広告だったように記憶しています。
by ChinchikoPapa (2018-08-19 20:30) 

古田宙

徳山氏は随分若くして亡くなられたのですね。夫人は戦後音楽教師をなさってて、長命だったと思います。数年前『侍ニッポン』が話題になって、原作の小説を読んだ覚えがあります。
by 古田宙 (2018-08-24 10:10) 

ChinchikoPapa

古田宙さん、コメントをありがとうございます。
徳山璉の『侍ニッポン』は、聴いたことがなかったです。親の世代では、どうしても1940年(昭和15)前後の軍国調の歌が、強烈な印象に残っていたようですね。そんな中で、『天国に結ぶ恋』がひっかかっていたのは、やはり住んでいた海辺の地域性からでしょうか。
by ChinchikoPapa (2018-08-24 12:02) 

EIWA

ずっと楽しく拝見させていただいています。璉の孫 です。
一昨日 祖母の徳山寿子とその母のこと、併せて祖父のことを
50回ものblogにしてネットに載せていらしゃる方をみつけました。(萩谷清江(※曾祖母)で検索してみてください。)
今日 Chinchiko様も 10日前に祖父のことを書いてくださってのを見つけ
「わたしはもう寿命なのか....」と覚悟しています...。
本当であれば、メールなどでご連絡したいところですが
そのようにはされていないうようなので、個人情報上 差支えないことだけを。

昭和3年に旧宅は建てられたそうなので、学生結婚のようです。
が、新婚時代、藤沢(もうないが祖父側実家の医院)の近くの湘南海岸にしばらくいたようです。
片瀬江ノ島駅から徒歩3分の西浜側です。
祖母は1990年くらいまで毎年夏に数週間行ってましたから、小さなchinchikoさんとニアミスしてるかも。
若くして亡くなった祖父には会ったことはありませんが
父をはじめ4人の子供たちへの影響や残された写真、祖父の随筆を見るかぎり、
祖父は看板歌手として所属レコード会社の方針や国策に巻き込まれたのであって
能動的・積極的に軍国主義を推進する側だったようには感じられません。(父は御禁制のJAZZ演奏家です(笑))
なお旧宅が焼け残ったのは、すぐ真裏が教会(旧メイヤー館)だったからだそうです。
米軍は十字架の立っているメイヤーも聖母病院も見事に外して爆撃したそうです。
駅まで焼野原で家々が無くなり、旧宅から目白駅の駅舎が見えたと父が話してくれました。(駅舎は当時平屋)

長々すみません。今後も下落合のお話楽しみにしています。



by EIWA (2018-08-26 04:01) 

ChinchikoPapa

EIWAさん、ごていねいなコメントをありがとうございます。
ご紹介いただきましたブログ、まだすべてを閲覧してはおりませんが、お祖父様と大阪が故郷の寿子夫人との経緯や生活、人生が詳しく紹介されていて、たいへん興味深く拝読しました。さっそく、ご紹介いただきましたサイトを、のちほど記事末でご紹介させていただきます。
わたしが海辺で育ちましたのは、親父の仕事の関係で1歳から15歳までですが、片瀬江ノ島のあたりは多いときで隔週おきの休日に通っていました。ユーホー道路(湘南道路=国道134号線)を神奈中バスで東へ向かい、江ノ島から鎌倉のどこかで下車するというのを繰り返していました。(いまほど道路は混んでなかったですね) 西浜でも、子どものころから泳いでいますので、ほんとうに「ニアミス」しているのではないかと思います。w
調べてみましたところ、『徳山璉随筆集』(輝文館/1942年)は国立国会図書館でデジタル化され公開していますので、今度ぜひ拝読してみたいと思います。
こちらでも何度かご紹介しているのですが、聖母病院は1945年4月13日夜半の空襲で焼夷弾の集中爆撃を受け、付属の建物などを全焼していますが、フィンデル本館に延焼しなかったのは医師や看護士、近隣の人々たちの必死の初期消火が効を奏したことが、消火活動に当たった医師たちの証言として、戦後の座談会(竹田助雄「落合新聞」1967年8月10日号など)で語られています。
また、戦争末期にはP51とみられる戦爆機が、聖母病院へ250キロ爆弾を投下・命中させています。ただし、同病院は関東大震災の教訓から、厚さ60cmの要塞並みの外壁や屋上をしていたため、東ウィングに命中したとみられる同爆弾は建物を貫通せず、屋上を陥没させるだけでとどまったようですね。
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2016-08-13
目白福音協会ですが、建物疎開が行われる直前、4月13日夜半の空襲では、目白通りに面した宣教師館(旧・ポール宣教師邸)、英語学校校舎(当時)、教会堂、幼稚園などが爆撃を受けて炎上していることが、米国国立公文書館が公開した爆撃効果測定用の空中写真(1945年5月17日撮影)で明らかになっています。メーヤー館が延焼をまぬがれたのは、目白通り沿いの建物群とはやや距離があったのと、建物の周囲が樹木で囲まれていたため、また聖母病院と同様に、教会関係者や近所の人々の必死の消火活動のせいではないかと思います。
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2014-05-26
徳山様の邸も、北側に樹木が繁っていたために、かろうじて通り側からの延焼をまぬがれているのではないでしょうか。
戦後、原爆を落とされた広島・長崎では顕著ですが、日本人の反感を低減し日本の占領を円滑化するために、たまたま焼け残った病院や教会の周囲に、米国の特務やスパイが「爆撃を避けた」というデマを流布していた事例のひとつではないかと思うのです。

by ChinchikoPapa (2018-08-26 14:38) 

EIWA

Chinchico様

旧宅はたしかに北側半分は庭で、3m近い大きな椿の木が十数本、大きなヒマラヤ杉や、目白の古いお宅にはたいていあった棕櫚などが植わっていました。特に椿は非常に燃えにくい樹木ですよね。

そうでしたか。教会も聖母も被弾していたのですね。
父は米国の宣伝は知らなかったようですが、4/13まで教会も聖母も、結果として残っていたので(?) 戦争終盤の極限の中、「米軍が直撃を避けている」と誤認識していたのかもしれません。
現に(たぶん4/13より前) 一度 祖母は長男以外の3人の子供と、
聖母病院に逃げております。なので、父は余計そう思い込んだのかもしれません。
父に聞いた余談ですが、その時ペットとして飼っていて、食糧がなくなってもつぶさないでかわいがっていた鶏を、祖母はリュックの一番上の部分にのせ、布蓋をかぶせ顔だけ出させて一緒に連れていったそうです。
しかしあまりに必死に走ったので、聖母についたとき、哀れにも鶏はリュックの中の下のほうに入ってしまっており圧死、家族で半泣きで食べたそうです。


by EIWA (2018-08-27 03:57) 

ChinchikoPapa

EIWAさん、たいへん貴重なコメントをありがとうございます。
実は、わたしも1980年代まで「米軍は病院や教会、文化財都市の爆撃は避けた」と、親父の世代の人たちがときどき漏らす言葉を、そのまま受け取って認識していました。それにしては、(城)下町や新宿駅の周辺もそうですが、大病院や有名な教会があるにも関わらず、無差別絨毯爆撃が平然と行われている矛盾に、「?」と感じていたのですが……。
ところが、1990年代から今世紀にかけ、米国の情報公開法にもとづき、戦時中の米軍資料が次々と米国立公文書館で公開されるにつれ、「大ウソ」であることが明らかになってきました。親父も話していた、「日本の文化財都市への爆撃は避けた」を例にとりますと、「奈良」の場合は市街地爆撃の順番リストが80番目に予定されており、64番目の上田市への空襲を最後に、日本はポツダム宣言を受諾してしまっています。
また、「京都」のケースは東山の一部への通常爆撃を最後に、意図的に爆撃が避けられていたことが判明しています。それは文化財を保護するためなどではなく、新潟や小倉、広島、長崎と並び京都が原爆攻撃の最有力候補都市として、投下後の効果を測定するために爆撃が中止され、都市として「温存」されていたことまで判明しています。
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-03-10
それまで、親の世代から聞いていたことは、米軍による戦後の結果論的なプロパガンダだったのですね。日本のさまざまな組織や工作員などを通じ、これらのデマを巷間に流した組織が、占領政策を推進するGHQ内の宗教系(キリスト教系)関連部局だったことも、最近では明らかになりつつあります。
お祖母様が、聖母病院へ避難されたというとっさの判断は「正解」だと思います。前回も書きましたが、250キロ爆弾を受けてもほとんどビクともしなかった同病院の“装甲”は、軍の要塞なみに頑丈でしたから(現在も地震には強そうですね)、もし避難先で空襲を受けられたとしても、助かった公算がかなり高そうです。
書かれています、かわいがっていたペットのお話、食糧事情が悪化して徐々に飼いづらくなっていくエピソードは、下落合のあちこちでうかがいます。特に純粋なペットだった、イヌやネコの場合はかわいそうですね。空襲で逃げ出し野犬化するのを防ぐために、イヌは次々と殺処分されたお話はあちことでうかがいました。また、ネコは軍の革製品の代用皮革として、やはり殺されたようですね。
日本橋地域のケースですが、小鳥の飼育は見逃され、ニワトリは「食糧」とみなされて、これも見逃されたようです。池でのコイの飼育も、「食糧」とみなされて黙認されていたようですが、ペットを殺処分したり「食糧」とみなすような時代は、二度ときてほしくないですね。

by ChinchikoPapa (2018-08-27 11:57) 

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