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第一文化村の二間道路から前谷戸を望む。 [気になる下落合]

下落合風景(第一文化村).jpg
 きょうの記事は、すっごく長い。(爆!) 佐伯祐三Click!が描いた「下落合風景」Click!で、昨年以来、どこの風景を描いたのかなかなかわからなかった、目白文化村の街並みを描いたとみられる作品について、ようやく合致する描画ポイントを探し出すことができた。空襲を受けているので風景や風情の変化が激しく、また複雑な地籍の分割や統合のやっかいな問題も絡み合って、描画ポイントの確信を持つのにかなり手間どってしまった。おそらく、この風景は第一文化村の外れ、北側に接する二間道路(当初予想した三間道路ではない)から北西を向いて描いたものだ。画面の右手枠外は、目白通りに沿って建設された落合第二~第三府営住宅Click!のエリアだ。またしても、佐伯祐三は目白文化村の外れ、ないしはギリギリの境界あたりを描いていることになる。
 この作品の描画位置がなかなかつかめなかったわたしは、道路や地形、家並みといった風景全体の把握や印象をもとに探すのをやめ、描かれた家々や構造物などを探すための目標=“部品”として、ひとつひとつバラバラに切り離して考えることにした。画面を全体で把握して旧・下落合(現在の中落合・中井2丁目含む)のどこかに当てはめて探そうとするのではなく、画面に描かれているモノをひとつひとつ分解して取り出し、いわば各“部品”を帰納的に探していく方法だ。つまり、周囲の家並みや地形、道路の状況などはとりあえず無視し、描かれた個々の家や対象などに合致するものが、旧・下落合のどこにあるか、ひとつひとつシラミつぶしで探していくやり方だ。以前、久七坂沿いに建っていた「池田邸」Click!の特定でも試みた方法だ。
 具体的には、中央左よりに描かれた特徴のある西洋館ふたつ、左端にある独特な形状の和館、画面中央の右寄りに建っている側面を見せる瀟洒な西洋館、画面右寄りの道路沿いに建つ看板と、その奧に見えている明らかに鳥居のような形状の構造物・・・などなどだ。家のかたちは、1936年(昭和11)の空中写真、および1947年(昭和22)の戦後に撮られた空中写真では空襲から焼け残った家々のエリアを、1軒1軒チェックしながら探してみた。もちろん、箱根土地が1924年(大正13)ごろに作成した「分譲地地割図」Click!、および1938年(昭和13)にいちおう家々の形状まで採集されて作られた「火保図」(あまりアテにはならないが)も、同時に参照している。
 その経緯をエンエンと書きはじめるととんでもなく長くなるので省略するが、それらしい家が見つかったのは、やはり目白文化村Click!だった。中央左よりに描かれている西洋館Click!が、第一文化村を東西(正確には東南-西北)に走る三間道路沿いの建物(立花邸)に酷似している。左端の和館はどうだろうか? まるで寺院か武家屋敷のように、切妻のあるウィングが見えている家屋だ。箱根土地の「分譲地地割図」ではまだ家が存在していないが、1936年(昭和11)の空中写真や2年後の「火保図」を確認すると、第一文化村から第二文化村へと抜ける三間道路沿いに建てられたその住宅には、道路へ向けて突き出している構造物が見えている。住宅総合研究財団が80年代に調査・制作した「住宅分布図」(1989年)は、「火保図」と重ね合わせて住宅の意匠を特定している労作だが、それによるとこの建物(渡辺邸)は和風住宅となっていて一致する。
文化村分譲地地割図1924.jpg
文化村火保図1938.jpg
 描かれた建物のいくつかに、一致する場所が見えてきた。では、次に鳥居のようなフォルムはなんだろうか? 目白文化村界隈に鳥居がある場所は、箱根土地本社の庭である「不動園」Click!の庭園池へ新たに勧請された弁天社と、第一文化村の前谷戸Click!にある弁天池の端に古くから奉られていた弁財天の社殿の2箇所しかない。でも、元・箱根土地本社(佐伯が「下落合風景」を描いていた当時は、すでに箱根土地は国立へと移転したあとで、本社ビルは「中央生命保険倶楽部」となっていた)の大きな煉瓦ビルは見えない。すると、画面やや右よりに見える鳥居は、必然的に前谷戸の弁財天となるのだが、ここでまたやっかいな問題が浮上する。
 戦前の弁財天も、また現在の弁天社でも、鳥居は第一文化村の東西(東南-西北)に走る広い三間道路に向いて設置されていたのであり、中央左よりの西洋館(立花邸)や左端の和館(渡辺邸)がこのように見える北側の道路沿いにも設置されていたという記録は見あたらない。いまは南側の三間道路と水平の位置に鳥居が設置されているが、昔は弁天池のある谷戸へ下りた谷底の池の端に弁財天の社(やしろ)が建っていた・・・というお話は、以前から住民の方々にうかがっていた。では、北側の二間道路に面した鳥居はいったいなんなのだろうか?
 これはわたしの想像だが、谷戸の弁天社へと向かう位置に、大正時代は南側の三間道路へ向いた鳥居ばかりではなく、北側の二間道路沿いにも鳥居が設置されていたのではないか? 社殿のある神域へ立ち入るには、神聖な鳥居をくぐって参詣するのが習わしだ。でも、北側に住む人々、特に府営住宅エリアに住んでいた人々が弁天社の鳥居をくぐるには、第一文化村の三間道路まで大きく迂回をしなければならない。目前の池の端に社殿が見えており、谷戸の斜面ないしは階段(大正時代から階段が設置されていたかどうかまでは不明)を下りればすぐ(40m前後)なのだが、鳥居をくぐって社にお参りするという習いを実行するためには、300m前後も遠まわりをしなければならない。そこで、谷戸北側の尾根上にも鳥居を設置しやしなかっただろうか?
画面拡大1.jpg 梶野邸立花邸跡.jpg
画面拡大2.jpg 画面拡大3.jpg
弁天社鳥居.JPG 谷戸階段.JPG
 このように考えてくると、描かれた家々や場所がそれぞれ特定できてくる。画面の左端に描かれているのは和館の渡辺邸、その右手にある黒い下見板外壁と思われる洋館は梶野邸、その背後に見える独特な形状をした大きめな洋館は立花邸、さらに背後に見えている少し低い洋館は小松邸。和館の渡辺邸と下見板の梶野邸の前には、第二文化村へとつづく三間道路(センター通り)があり、また梶野邸と独特な洋館デザインの立花邸のラインには、第一文化村を東西(東南-西北)に横断する三間道路(メインストリート)が通っている。そして手前には前谷戸が口を開けており、弁天社の鳥居が谷をはさんで南北2箇所に設置されていた。
 中央右寄りに見えている洋館と、その背後にチラリと見えている屋根は、岡本邸(初期1軒型の大きな家で、のちに敷地が2分割されて2軒となり、そのうち南側1軒は現存している)と、さらに右側手前の建物は箱根土地が最後まで買収に失敗したエリアで、住宅かまたは建設工事の作業施設のような建物だが、背後に見えている高い屋根は増村邸か千賀邸、右側の道路は第一文化村と第二府営住宅の境界を走る二間道路・・・ということになる。地形的にも、左手(南側)へ向けて少しずつ低くなっているところがピタリと一致している。
 さて最後に、手前に描かれた空地の課題だ。ここは、1923年(大正12)から翌年にかけて埋め立てられた谷戸の西北端にあたり、戦前には大きな永井邸が建っていた敷地だ。でも、1924年(大正13)ごろ箱根土地が作成した「分譲地地割図」に描かれた永井邸が、どこにも見えずに更地となっている。箱根土地の「分譲地地割図」と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」とを見比べると、家の規模や形状がまったく違っているのがわかる。つまり、第一文化村が建設された当初の永井邸(敷地が3分割されていた小規模な邸宅の時代)と、昭和10年代にみられる永井邸(敷地がひとつに統合され大規模な邸宅が建てられた時代)とは、まったく別物だったと思われる。
 下落合1601番地すなわち永井邸の敷地は、文化村販売の当初は敷地が3分割されていて、それぞれが「永井博」の土地名義になっている。ところが、3つの敷地が統合されて大きな1軒の邸宅が建つころには、おそらく姻戚(子息ではない)である「永井外吉」という人物が住んでいた。1932年(昭和7)に発行された『落合町誌』にも登場するこの人物は、堤康次郎が社長をつとめる東京護謨株式会社の取締役であり、また堤康次郎の妹婿でもある。また、当時の拓務大臣・永井柳太郎の従弟でもあった。なんだか、堤康次郎の大学-ビジネス-政治人脈がうっすらと透けて見えてくるようだ。つまり、ちょうど佐伯がこの作品を描いた当時、それまでの小さめな「永井博」邸から、大きな「永井外吉」邸へと建て替えられている最中ではなかったか?
第一文化村上空1936.jpg
立花邸1947.jpg 画面拡大4.jpg
 そこで、佐伯が描く1926年(大正15)秋以降の第一文化村の風景で、手前の広い敷地(下落合1601番地)の角に設置されている、ひときわ目立つ看板プレートに思いがおよぶ。このプレートには、「永井外吉邸建設予定地」と書かれていやしなかっただろうか? そして、このプレートの東並び、つまりイーゼルを立てた佐伯祐三の背後には、前年に松下春雄Click!が描いた『下落合文化村入口』Click!(1925年)に見えている、「目白文化村入口」の看板が立っていたものと思われる。

■写真上:1926年(大正15)の秋以降に描かれたとみられる、佐伯祐三『下落合風景』。画面の挿入写真は、第一文化村北側の二間道路の描画ポイントと思われる位置から眺めた現状。面白いことに、電力線の電柱は手前に10mほど動いているが、佐伯が描く白くて背が低い電話線の電信柱(今日では通信線用のコンクリート柱)は、佐伯が描いた当時のままの位置に残っている。
■写真中上は、箱根土地が1924年(大正13)ごろに作成した「分譲地地割図」。は、1938年(昭和13)の「火保図」をベースに住宅総合研究財団が80年代に調査・制作した「住宅分布図」。黒い家は西洋館、点々の入った家は和洋折衷館、白い家は和館の分類になっている。
■写真中下上左は、渡辺邸・梶野邸・立花邸の拡大。梶野邸も当初の姿と、1938年(昭和13)の「火保図」とは形状が変わって見える。上右は、梶野邸・立花邸あたりの現状。中左は、二間道路沿いに建つ鳥居フォルム。中右は、同じく二間道路沿いの永井邸敷地に建つプレート。下左は、三間道路沿いにある谷底から道路面へと移された現在の弁天社。下右は、二間道路から谷戸への階段。左手には永井邸敷地のプレートが、右手には谷底に建立された弁天社の北側鳥居があったと思われる。佐伯が描いた当時、永井博邸から永井外吉邸への建て替えで更地だったと解釈している。
■写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。下左は、戦後の1947年(昭和22)まで焼け残っていた立花邸。下右は、初期1軒型・岡本邸から増村邸(千賀邸)あたりの拡大。
■おまけ
 朗報です。☆彡 大正期の目白・下落合風景や甲斐産商店(大黒葡萄酒)を撮影した、甲州市に残る貴重なフィルムClick!が、新宿歴史博物館でもデジタルデータで保存されることが決まりました。すでに甲州市の了解は得られており、近日中に新宿歴史博物館から正式な依頼状が発送される予定だそうです。早ければこの秋には、同館での閲覧ができそうです。ただし、サイトでVODされている編集版のデータではなく、くれぐれもノーカット版でのデータ入手をお願いしたいものです。
大黒葡萄酒.JPG
 
前谷戸1947.JPG


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読んだ! 18

コメント 31

ナカムラ

あいかわらず凄い分析、恐れ入ります。戦前の資料や昔の話はどの時期であるかを特定しておかないと、危ないケースもあり、でもこうした記憶は今残しておかないと・・・です。甲州市所蔵の映像資料よかったです。早く見たいです。
by ナカムラ (2009-08-01 20:56) 

ChinchikoPapa

セミはたくさん羽化しているはずなのですが、今年はいまいち鳴き声に気合いが感じられません。どこか、羽化するには「まだ早かったかな?」という思いがこもる鳴き方のような気がしますね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-08-01 22:39) 

ChinchikoPapa

ナカムラさん、コメントとnice!をありがとうございます。
地元に残る口承伝承ですと、物語の時期が「戦前」と表現されるだけで、それが昭和10年代なのかヒトケタなのか、はたまた大正末のエピソードなのか曖昧なケースがありますけれど、風景画のような「記録」の場合は制作年を特定できるものがほとんどですので、時期をピンポイントに集中して調べることができ、けっこう助かります。それでも、空襲を受けた住宅街などでは、建物を特定していくのにはけっこう手間取りますね。
甲斐産商店のフィルム、ノーカット版が楽しみです。甲州市へのご連絡など、その節はいろいろとありがとうございました。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2009-08-01 22:55) 

ChinchikoPapa

ブログ開設、丸4周年おめでとうございます。
nice!をありがとうございました。>U3さん
by ChinchikoPapa (2009-08-01 23:01) 

sig

こんばんは。
大黒葡萄酒の映画、新宿歴史博物館で見られるようになってよかったですね。
ダイジェストでないものが届くといいですね。
by sig (2009-08-01 23:02) 

ChinchikoPapa

エジソンは分野別に分けて伝記を用意したほうがいいほとど、さまざまな発明をしていますね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2009-08-01 23:05) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございます。
ほんとうは複製された35mmフィルムがよいのかもしれませんが、公開の手間や保存性などを考えますと、やはり現状ではデジタルデータがベストでしょうか。
もし新宿歴史博物館のサーバやネット環境のキャパシティに余裕があれば、わざわざ歴博まで出かけずに、いつでもどなたでも閲覧できるように、映像データを登録・配信していただきたいものです。
by ChinchikoPapa (2009-08-01 23:21) 

漢

脱帽!
by (2009-08-02 10:33) 

ChinchikoPapa

Photo DVDを通じてのユニセフ活動、すばらしいですね。
nice!をありがとうございました。>shinさん
by ChinchikoPapa (2009-08-02 11:47) 

ChinchikoPapa

いつもnice!をいただき、ありがとうございます。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2009-08-02 12:01) 

ChinchikoPapa

書かれていますように、確かにハイビスカスを真っ先に想い浮かべる花姿ですね。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2009-08-02 12:14) 

ChinchikoPapa

なんとなくテリアを想起させる、めずらしいヒマワリですね。
nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2009-08-02 12:20) 

ChinchikoPapa

漢さん、コメントとnice!をありがとうございます。
わたしのほうこそ、いつも連載シナリオに脱帽です。『路傍の石』は、確か1960年代の映画もあったように思いますが、戦前の作品ともどもどちらも未見です。
by ChinchikoPapa (2009-08-02 12:27) 

ChinchikoPapa

暑中見舞のハガキ、さわやかでステキですね。
nice!をありがとうございました。>emiさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2009-08-02 14:52) 

ChinchikoPapa

誕生日おめでとうございます。ステキなフラワーアレンジメントですね。「サインはV」のジャケット、なつかしい。w nice!をありがとうございました。>麻里圭子さん
by ChinchikoPapa (2009-08-02 23:09) 

ChinchikoPapa

姪御さんのこと、たいへん残念でした。心よりお悔やみ申し上げます。
nice!をありがとうございました。>ponchiさん
by ChinchikoPapa (2009-08-03 11:49) 

ChinchikoPapa

先週の土曜は、東京各地で花火大会が開催されたようで、家までずいぶん音が響いてきました。nice!をありがとうございました。>まるまるさん
by ChinchikoPapa (2009-08-03 11:51) 

子桜インコ

ChinchikoPapaさんはまるで推理小説作家ですね。思わず読みきってしまいました。それから、私はカフェ杏奴のママさんに佐伯祐三さんの絵画集を見せていただきました。やっぱりユトリロでした。影響を受けていらっしゃったとか。。。。無知な私ですが、元彼がユトリロが好きでしたので^^;
そろそろ下落合に行きたくなりましたが、もう少し天候が落ち着いてからにします。レコードやテープをCDに落として記録するコンポを買いました。(主人がレコードを一杯持っていますので買ってくれました)これで準備okです。でもしばらくはPapaさんの推理ブログを楽しんでいます。nice×5個です。では失礼します。
by 子桜インコ (2009-08-03 19:28) 

ChinchikoPapa

子桜インコさん、コメントをありがとうございます。
佐伯祐三というと、すぐに直接出会っているヴラマンクの名前が出てくるのですけれど、作品をジッと眺めているとヴラマンクよりもむしろ、一時期の(オワーズ以前の)ゴッホや、ユトリロの表現をより強く感じることがあります。でも、ゴッホでもユトリロでもましてやヴラマンクでもなく、サエキですね。
ホームズやポワロばりの「推理」というよりは、むしろひとつひとつ「足」で稼いで“裏取り”をしていく、あるいは“アリバイ”を探していく、ものすごく地味で汗をふきふき街中を歩きつづける刑事のような作業のように感じます。^^; イスに座りながら指を組んで、居ながらにしてすぐに「推理」がはじめられると、とってもラクなのですが・・・。そういうテーマも、たまにはあるといいですね。ww
「カフェ杏奴」は、8月からほぼ平常営業にもどっていますので、だいたい開いていると思います。ただし、13日から16日までが夏休みとのことでした。
by ChinchikoPapa (2009-08-03 23:42) 

ChinchikoPapa

そういえば、ここしばらく焼き肉屋さんにはご無沙汰しています。
nice!をありがとうございました。>yuki999さん
by ChinchikoPapa (2009-08-04 00:02) 

アヨアン・イゴカー

地理探偵、風景探偵とでも呼んだら宜しいのでしょうか、脱帽です。
祝、甲州市フィルム、新宿歴史博物館デジタル保存決定。
by アヨアン・イゴカー (2009-08-04 08:48) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、こちらにもコメントとnice!をありがとうございます。
とても緻密な推理を重ねる「探偵」まではとどかず、現場をウロウロして行きつもどりつする「迷子」のような気がしています。きっと、地域の歴史や時空の狭間に迷いこんでしまったのでしょうね。
甲州市のフィルム、ノーカット版で早く観たいです。
by ChinchikoPapa (2009-08-04 11:47) 

ものたがひ

こんにちは。遅ればせながら、大黒葡萄酒のフィルムの展開、良かったです。遠からず、新宿区でも見る事が出来るのですね。^^
今回の記事も、たいへん興味深く拝読いたしました。この描画ポイントから少し進んで振返ると、視点は低いものの、箱根土地が第一文化村を写して作った絵葉書の構図のポイントとなりますね。(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-08-01)絵葉書の鏡像のような印象さえ受ける、文化村の外れの家並の雰囲気が漂っています。そして二間道路に立つ人の目線からは、この画面の中央に、実は結構深い前谷戸の谷があっても、ほとんど道沿いの土手しか見えない事になり、佐伯の画面を大きく占める茫漠とした空地の意味が具体的に了解されてくるように思います。佐伯は、曾宮さんちの前の諏訪谷でも中景が窪んだ構図をとっていますし、窪地に興味があるのかもしれませんが、こちらの前谷戸には、まだ家が建っておらず、宅地開発中の下落合の別の一面を捉えているようにも思います。
「永井博/外吉」邸に関しては、私は「外吉」邸があったのではないかと考えています。1926年の秋以前の状況を示すであろう「事情明細図」に、永井外吉の名前と、二間道路に面する門の位置の記入があるからです。描画ポイントが永井外吉邸の角近くまで進んでも、画面中の家々の、それぞれの敷地内での適格性は、なんとか維持出来るように思います。しかし、そうすると、「看板プレート」は永井家敷地ではなく、前谷戸の谷の中で箱根土地に地所を売らなかった地主さんの土地に立っている事になるので、看板には「ここは目白文化村分譲地にあらず」と書かれているでしょう。^^;
by ものたがひ (2009-08-05 10:46) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、コメントとnice!をありがとうございます。
おっしゃるとおり、目白文化村の絵はがきと描画ポイントは、きわめて近い位置で重なりますね。ただ、1923年(大正12)に制作された絵はがきの風情と、同年から翌年にかけて行なわれたとみられる、前谷戸の東側半分の大規模な埋め立て造成によって、前谷戸の雰囲気はずいぶん変わっていたのではないかな・・・と想像しています。
この埋め立て工事では、第一文化村を東西に横切る三間道路(メインストリート)が整備され(絵はがきは明らかに未整備だったことがうかがわれます)、前谷戸の西側の谷間には大量の土砂を入れて、南北両面に住宅敷地を造成し、なおかつ弁天社自体にもなんらかの手を入れている可能性がありますね。
1924年(大正13)の埋め立て後に制作された「分譲地地割図」では、弁天社はすでに三間道路沿いに移されているようにも見え(箱根土地が整備しているようにも見え)、戦前には弁天社の本殿は谷底にあったという伝承と必ずしもピタリと一致しませんが、前谷戸の北側にあったようにも見える大正期の鳥居は、谷戸東側の埋め立て(それほど迂回しなくても弁天社へは南側の鳥居をくぐって参詣できるようになった)と本殿の移動とともに、佐伯がこの風景を描いたころには、すでに実質的には用済みになっていた・・・とも解釈できます。
それから、永井外吉邸の新しい建物がもし建っていたとすれば、1936年(昭和11)の空中写真でも明らかなように、わたしが想定する描画ポイントからは大きな邸の西端が見えていなければなりません。それが見えないまでに描画ポイントを西へずらすとすれば、視界に入っている家々をこのように描くには、佐伯の視線をかなりの「広角レンズ」、画角がほとんど90度にもなるほどの不自然な視線にしなければならず、従来の「下落合風景」の画角からはちょっと想定しづらいのです。
もうひとつ、「下落合事情明細図」の門の位置ですが、永井外吉氏は入居と同時に新邸を建設していたのか?・・・という課題もあります。従来の永井博邸へと移り住み(あるいは地籍の名義や表札だけ書き換えて)、のちに空中写真に見える大きな新邸を建設しているのではないかということです。そして、その旧・永井博邸(といっても埋め立てられた敷地ですので築数年だったでしょうが・・・もったいない!)を取り壊したのが、「下落合事情明細図」が出版される前後だとしたら、あながち佐伯が描く風景のようになっていたと考えても、なんら不自然さを感じません。すなわち、「事情明細図」に描かれたのは解体直前の永井外吉邸=旧・永井博邸の門を採取していた・・・ということになります。
くだんのプレートですが、埋め立てられた第一文化村の敷地の一画だと解釈していますので、やはり「永井外吉邸建設予定地」と書かれていたのではないかと思います。でも、「目白文化村建設反対!・・・下落合地主一同」などと書かれていたら、のけぞってしまいますね。(笑)
by ChinchikoPapa (2009-08-05 14:39) 

ものたがひ

佐伯が、現在進行中の宅地造成の現場を、半日も要せず捉えられる、という観点から考えるならば、どの地図にも伝承にも採取されていない状況が描かれている可能性は、十分にありますね。そういう意味で、下落合風景シリーズは、ある日を捉えた早描きの作品群だと思います。
by ものたがひ (2009-08-05 19:00) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、重ねてコメントをありがとうございます。
前回のコメントには書かなかったのですが、手前の空地をどうしても旧・永井博邸が解体され、整地された永井外吉邸の敷地として見たいのは、遠景に描かれた第一文化村の家々の「角度」の問題も絡んでくるからです。
特に、第二文化村へと通うセンター通り(三間道路)に面し、独特な形状をした和館の渡辺邸が、このような角度で見えそうな位置は、現在の前谷戸へと下りる北階段の西側ではなく、東側の位置だったろう・・・と想定するからです。階段の西側まで描画ポイントをずらしてしまいますと、渡辺邸のかなりの部分が梶野邸の陰に隠れてしまい、このような角度では見えなかったろうと思うのです。
by ChinchikoPapa (2009-08-05 19:23) 

ものたがひ

こんばんは。前谷戸へと下りる北階段の西側は、確かに行きすぎでしょうね。先程の書き方、漠然としていて済みません。私の想定位置も階段の東側、C.P.さまの御想定の10m位北西でした。空中写真でいうと、永井邸の北の隅の淡いグレーの、東の道の上です。
家々の重なりは、地図類では誤差が多過ぎ考えにくいため、空中写真で敷地の形を割り出し、当時の形の参考図を考慮して可能性を考える他ないようですが、10m移動しても、渡辺邸は大丈夫だと思います(梶野邸は、敷地のやや北寄りに建つ?)。むしろ、画面外の小平邸が重ならなくなり、よいかと思いました。
問題は永井邸の北の隅ですが、火保図を見ると、四角いスペースと塀の途切れのような表現があるのが、気になります。ここが、地割りの上では永井家の敷地でも、凹んだ塀の外の叢であったりしたら、大変好都合(汗)です。それが画面の左下の白っぽい場所であり、階段が僅かにのぞき、反・文化村看板へと続く、という想定でした。10mばかしの事で、恐縮です。
by ものたがひ (2009-08-05 21:58) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、こんばんは。コメントをありがとうございます。
そうですね、画角の左にひっかかるかもしれない、西洋館の小平邸の存在がありました。ただ、「火保図」では三間道路(センター通り)ギリギリに邸が建っていたように描かれていますけれど、北西側つまり通り側には庭園があったものか、邸の位置が南東に引っこんでいます。上掲の1936年(昭和11)撮影の空中写真は、やや東寄りの上空から撮影されている点にご留意ください。
もうひとつ、小平邸の洋館はかろうじて空襲をまぬがれています。つまり、1947年(昭和22)の鮮明な空中写真で確認できるのですが、それをベースに画角ラインを引いていくと、わたしの描画ポイントからでも小平邸の庭先をかすめて、なんとか渡辺邸が眺められる位置が存在したのではないかと想像しています。記事末の空中写真をご参照ください。

by ChinchikoPapa (2009-08-05 23:41) 

ものたがひ

お早うございます。(笑)なるほど、そうでしたか。では、この風景は永井邸が無いときだった、と考えてみます。すると佐伯は、前谷戸の向うや奥の新築まもない文化村の家々と、昔の風情を僅かに留める谷間と、一旦造成され家が建ったけれど、また建替えの為に更地化した永井家敷地の混在、という町の発生中の慌ただしい現場に立っていたんですね。興味深い眺望です。
by ものたがひ (2009-08-06 10:19) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、おはようございます。コメントをありがとうございます。
画面の左端に見えている、渡辺邸の手前に植えられた樹木や生け垣らしきものは、渡辺邸の庭に植えられたものにも見えますけれど、ひょっとすると戦後は子息の数学者・小平邦彦邸となる庭の一部が見えているのかもしれません。
ほんとうに佐伯祐三の視線というのは、下落合の中でも工事中の場所、造成中の場所、鄙びた場所ばかりに向けられていますね。落ち着いた風情の場所や、街並みとしてすでに整っていた場所、あるいはビルなどが建ちはじめていた賑やかな場所は、徹底して避けられています。
でも、むしろこの第一文化村(外れとはいえ)の風景や、先の六天坂のスパニッシュ西洋館を描いたらしい「下落合風景」は、まだ大正期の“下落合という街らしさ”をすくい上げているという意味では、どちらかといえば例外的といえるのかもしれません。少なくとも「テニス」や「タンク」のように、目白文化村に「背」を向けて描いてはいませんから。(笑)
by ChinchikoPapa (2009-08-06 11:05) 

ChinchikoPapa

元町界隈は、アルバイトにライブハウスにと懐かしいエリアです。
nice!をありがとうございました。>F.マサヤさん
by ChinchikoPapa (2012-07-30 21:43) 

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