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ツネ公のところへ連れてってやろう。 [気になる下落合]

彝アトリエ屋根瓦.jpg 彝アトリエ屋根瓦1916.jpg
 鈴木良三の遺稿集に、1999年(平成11)に木耳社から出版された『芸術無限に生きて』(梶山公平・編)がある。絵描きになりたかった鈴木良三Click!は、興味半分で受けた東京慈恵医専へパスしてしまうと、いったん画家への道をあきらめた。でも、叔父がある日「ツネ公のところへ連れていってやろう」といって、下落合の中村彝Click!のもとへ連れて来られたときから、再び画業の道へと踏みこむことになる。東京の病院・医院でアルバイトをしながら、曾宮一念Click!が紹介してくれた川端画学校へと通いはじめ、彼が「目白バルビゾン」と表現する下落合とその周辺に住んでいた画家たちの仲間へ加わるのに、それほど時間はかからなかった。
  
 その頃の目白駅は、学習院の前から練馬の方へ通じる道路よりもずっと下の方、線路と同じ高さぐらいのところにあって、駅を出てから坂を登って道路へ出るか、後ろの方の狭い段々を上がって落合の方へ行く道をとるようになっていた。/練馬方面へ行く街道筋には大きな桜も数本並んでいたように記憶するが、この街道を横切って、線路沿いの高い、細い道を進むと左側に安井曾太郎先生のアトリエがあった。 (同書「目白のバルビゾン」より)
  
 大正期、金久保沢の谷間にあった目白駅Click!の様子が描写されている。大きな桜が並ぶ街道筋とは現在の目白通り(旧・清戸道)のことで、落合の方へ行く道とは下落合の近衛町Click!方面へと抜ける、豊坂稲荷の坂道筋のことだろう。ただし、昔の清戸道と現在の目白通りとは大きくズレており、厳密にいえば目白停車場付近の清戸道=目白通りではない。駅周辺の目白通りは、清戸道の北へズレた位置へ新しく拓かれた道路であり、江戸時代からつづく本来の清戸道は、おそらく鉄道が敷設されたころに目白停車場と学習院の下へ埋もれてしまっている。下落合界隈で、「目白通りは昔は存在しなかった」というお話をときどきうかがうにつけ、不思議に思っていた課題のひとつだ。このテーマについては面白いので、またいつか改めて書いてみたいと思う。
鈴木良三遺稿集.jpg 鈴木良三手術1939.jpg
 中村彝アトリエClick!へ頻繁に通うようになった鈴木良三は、付近に住む画家たちとの交流を深め、いっしょに写生旅行へ出かけたり、野球チームClick!を結成して井上哲学堂Click!の運動場で長崎村の児童画家チームと試合Click!をしたりした。ほどなく鈴木自身も、下落合の薬王院墓地近くに引っ越しClick!てきて住むことになり、関東大震災のときは彼の家が中村彝と岡崎きいの避難場所となっている。当時の彝アトリエを描写した箇所があるので、少し略しながら引用してみよう。
  
 (前略)そこの細い道をたどると大きな樫の木の木立が並び、道は桜の並木と変わる。その桜の枝の間から赤い瓦のトンガリ屋根が見え、間もなく右側の門柱に「中村彝」と小判型の表札を見つける。門は閉ざされて開かない。生け垣を曲がって直ぐ裏木戸があった。勝手口である。彝さんの生存中は遂にこの表門Click!は辰巳門で、縁起はよかったと思うのだが開かずじまいだった。(中略)旧藩主徳川侯でも、恩師満谷国四郎Click!先生でもこのお勝手口から腰をかがめて出入りされたのだった。もっともこの家には玄関というものが無く、門を入ってニ、三十歩進んだところに画室のドアClick!があり、客は直接画室に通さねばならないようになっていた。/外側は南京下見の板張りで防腐剤Click!を塗り、アトリエの窓枠やドアはダークグリーンのペンキ塗り、病室兼応接間の六畳ぐらいの部屋の窓枠は白ペンキ塗り、この南側の観音開きのドアを開けると芝生の庭、カナメの木の生け垣、その中央に大きな椿の木があって季節には真紅の花を咲かせて見事だった。庭の外の道路の下の林泉園Click!の向かい側にはポツポツと小さな洋館らしいものが見られた。庭の隅でたいてい彝さんは小用を足していた。 (同上)
  
 これを読むと、彝アトリエの色彩や部屋の配置や様子ががよくわかる。トイレがあったにもかかわらず、彝は芝庭の端で「小用を足」すのを好んでいたようだ。また、水戸徳川家の13代当主であり当時は侯爵だった徳川圀順(くにゆき)が、彝アトリエを訪問していたことがわかる。この文章の中で、他の中村彝関連の資料と大きく異なるのは、アトリエを建てる費用をカンパしたのは誰か?・・・という点だ。多くの資料では、パトロンの今村繁三Click!洲崎義郎Click!という記述が多いのだけれど、鈴木良三は「徳川家の家令福原脩氏の口添えで三井の重役高橋義雄氏から五百円の援助があった」としている点がめずらしい。
 また、戦後になってから鈴木良三が彝アトリエ、すなわち鈴木誠Click!の画室でもあったアトリエを訪問したときの様子も、ていねいに記述されている。少し長くなってしまうが引用してみよう。
鈴木良三今村邸.jpg 鈴木良三銀扇.jpg
  
 今ごろ小山敬三美術館とか東郷青児美術館とか各地に建設されているのに、中村彝のアトリエさえ保存されていないのは非常に淋しいのだが、水戸の美術館にさえ彝さんの作品が少なく、多くの画学生が彝さんの作品を当てにして来館されるのに期待はずれで帰って行くのは如何にも残念である。(中略)/さて彝さんのアトリエはその後酒井さんの手から新制作協会の鈴木誠氏に買い取られ、数年間ここで制作していたが、誠氏も亡くなって息子さんが住んでいる。(中略)/屋根瓦は昔のもので、外国製のものは質が悪く霜で破れてしまったので取り替えたこと、父(誠)が移ってきてからお勝手の上の方に二階を造ったこと、彝さんの毎日寝ていた部屋も少し拡げ、玄関をつけたこと、全体の材料、殊に木材が粗悪なので痛み(ママ)がひどいこと、庭の手入れなどとてもしていられないので、ご覧の通り荒れ放題であることなど話された。椿の木はそのままだが、樹も傷んでいた。青桐が大木になって庭一杯に葉かげをつくり、友人や弟子達で宴会を開いた芝生の面影はなく、雑草が生い茂っていた。 (同上)
  
 鈴木良三は、中村彝アトリエの保存は文部省か文化庁のマターだと記しているが、地元の新宿区は保存への意欲が満々だ。でも、所有者のご家族の意思統一がここへきてハッキリしなくなったようで、保存を願う下落合の地元ではなんともはがゆい思いをしている。

 ロックケーキさんより、東京国立近代美術館で中村彝「エロシェンコ氏の像」と鶴田吾郎「盲目のエロシェンコ」が、2作品Click!並んで展示されているという情報をいただきました。ほかにも、新宿中村屋が所蔵している「小女(少女)」も展示されているそうです。展覧会期は、来年の1月12日まで。

■写真上は、当初のベルギー製瓦は、のちに国産の瓦へ葺きかえられたとみられる中村彝アトリエの屋根。は、1916年(大正5)制作の中村彝『落合のアトリエ』に描かれた屋根(部分)。
■写真中は、1999年(平成11)に木耳社から出版された鈴木良三の『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(梶山公平・編)。は、1939年(昭和14)制作の鈴木良三『手術』。
■写真下は、1925年(大正14)に今村繁三邸で撮影された記念写真で、左から鈴木金平、鈴木良三、今村繁三。は、戦後の1946年(昭和21)に描かれた鈴木良三『銀扇』(部分)。


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コメント 7

ChinchikoPapa

見慣れた通路でも、人けがないと違った世界に見えるのが面白いですね。
nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
by ChinchikoPapa (2008-10-19 10:53) 

ChinchikoPapa

ベース代わりかチューバのバッキングが、効果的で面白いですね。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-10-19 11:06) 

ChinchikoPapa

赤羽はあまり馴染みのない街なのですが、埼京線でアッという間なんですよね。
nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-10-19 11:14) 

ChinchikoPapa

第2次世界大戦の映像を記録した米国フィルムに、ときどき取材記者たちが写っていることがありますが、手元で盛んに8ミリカメラのゼンマイを巻いている様子が見えますね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2008-10-20 11:04) 

sig

こんばんは。本題とはそれますが、最近niceやコメントの送信が出来なかったり、出来ないと思ったら出来ていたり、翻弄されっぱなしです。

戦時中のニュースや記録映画で活躍したムービーカメラは、米国ベル&ハウェル社製の「アイモ」の16ミリが有名です。フィルムは1巻100ftで2分半ほどしか写せませんでしたが、動力は手巻きですから重いバッテリーをいくつも用意する必要がなく、その点は機動性が高かったと思います。

by sig (2008-10-20 17:30) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございます。
ブログ操作上のおかしな動作は、どこかに不具合があるのでしょうね。それが、トラフィックの増えるときに顕在化するのか、あるいはある操作をつづけたときに表面化するのかはわかりませんが、わたしもときどき悩まされています。
戦時中の米国フィルムに映るカメラマンが、ちょくちょく手にしてゼンマイを巻いているのは8mmではなく、16mmカメラだったのですね。とすれば、ずいぶんと小さく機動的に造られていたものだと、改めて感心してしまいます。
by ChinchikoPapa (2008-10-20 20:28) 

ChinchikoPapa

こちらにも、。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。
 >takagakiさん
 >kurakichi
 >アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2015-05-17 23:33) 

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