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近衛町の相馬閏ニ邸を拝見する。 [気になる下落合]

相馬閏ニ邸.jpg 相馬閏ニ邸跡.JPG
 開発当初の近衛町Click!の道路は、目白文化村Click!などと同様にずいぶん路面がぬかるんでいたようだ、雨が降らなくても、真冬に霜柱が立つととたんに泥んこ道と化していたらしい。アビラ村(芸術村)Click!では、靴についた泥を洗い落とす池が、玄関ポーチの傍らへ設けられた林唯一邸Click!のような例もある。近衛町の相馬閏二邸の場合は、玄関ポーチの両脇に手洗い場が設置されている。おそらく、外出から帰ったときに手を洗うばかりでなく、靴の泥を洗い流すのにも利用されたのだろう。1924年(大正13)1月発行の『住宅』(住宅改良会)に掲載された玄関ポーチの写真には、「衛生からばかりでなく霜解けのひどい郊外には親切な用意です」というキャプションが添えられている。
 相馬閏ニ邸は、目白駅前から金久保沢の斜面を登って近衛町へと入り、林泉園から御留山へとつづく谷間のすぐ手前に位置している。当時の地番でいうと、下落合404番地となり、水琴窟のある藤田邸Click!(花想容)や岡田虎二郎邸跡Click!=洋画家・安井曾太郎アトリエ跡と同一の区画、その北東側の角地だ。『落合町誌』Click!によれば、近衛町の相馬家は、新潟出身で東京計器製作所の専務取締役となっているので、すぐ西側に近接した御留山の相馬子爵家とはなんら関係がないようだ。たまたま、下落合で“相馬つながり”となってしまったらしい。同書によれば、「大正十二年分家を創立す」とあるので、相馬閏二が近衛町に家を建てたのも同年のことだろう。
岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。
側面図.jpg 相馬邸空中1947.JPG
 屋根は赤瓦を採用し、軒下から2階の窓下までがスタッコ仕上げで、以下が焦げ茶の下見板による外壁となっているのは、前回ご紹介した小林盈一邸Click!とほとんど同じカラーリングだ。窓枠を白く塗り上げたのも同じだが、小林邸と大きくデザインが異なるのは、鋭角な尖がり屋根が存在しない点だろうか。屋根の傾斜はゆるやかで、全体のかたちが大正時代の洋館建築にもかかわらず、どこか現代住宅のような雰囲気を漂わせている。施工したのは、小林邸と同様にあめりか屋Click!だ。
 玄関を入ると、すぐ左手が15畳もある広大な応接室となっており、その一部は書斎にも使われていた。客間を広く取って一画を書斎に活用するのは、第二文化村で見たMI邸Click!と同じコンセプトだ。来客とともに、なにか書き物をする必要が生じた場合などその場で処理できるので、物書きや学者でもなければ書斎は独立している必要などなく、このようなレイアウトのほうが合理的だったのだろう。応接室の南東側に、庭へ向けて少し張り出した4畳半大の書斎が設けられていた。ちなみに、応接室の壁に架かる油絵は、すべて相馬閏ニの弟が制作したと記事に残っている。
間取り図.jpg
玄関ポーチ.jpg 応接室1.jpg
 応接室の西隣りは、やはり同じ広さぐらいの居間兼食堂になっていた。応接室との境目は壁ではなく、横にスライド可能な扉が設置されていたので、大人数が集まるときには応接室と居間兼食堂との境界を取り払うと、つごう30畳ほどのスペースが確保できたことになる。このようなフレキシブルに間取りを変更できるのも、新しい考え方だ。企業の重役宅なので、社員や取引先を招いてのパーティも頻繁に開かれたにちがいない。居間兼食堂からは、総ガラス張りの大きなドアを開け放って、パーゴラ(植物棚)のあるテラスから南側の庭へと直接出ることができた。
 室内写真を細かく観察すると、各部屋にはいくつかの絵画が架けられ、またときに彫刻が飾られていたりする。明治期の「文明生活」が、おもに電気・ガス・水道による生活インフラや設備の充実など、生活の利便性の追求に主眼が置かれていたのに対し、大正期の「文化生活」では家庭内へさまざまな趣味や芸術を持ちこみ、生活を楽しむことに大きくシフトしていったことがわかる。
応接室2.jpg 食堂.jpg
 なにもかもが洋風でハイカラな生活空間にもかかわらず、広くて明るいシャレたフランス風の居間兼食堂の壁際に、いきなり松の盆栽が置かれてしまうところが、今日的なインテリア・コーディネートの考え方がいまだ浸透していない、大正時代らしい光景なのだ。

■写真上は、下落合404番地の近衛町に建っていた相馬閏ニ邸。は、現在の同所。
■写真中上は、東側から見た側面図。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる戦災にも焼け残った相馬邸。応接間つづきだった書斎の一画が、大きく増築されているのがわかる。
■写真中下は、北を右に描かれた相馬邸の間取り図で和室はひと部屋だけだった。下左は、玄関ポーチに据えられた小さな手洗い場。下右は、応接室から書斎のある一画を眺めたところ。
■写真下は、応接室の東側壁面。は、庭へ出られるフランス風のドアが印象的な食堂。


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mustitem

大正期の変化というのは,かなりこんにちに連なっている部分が大きいですね。

by mustitem (2008-07-02 08:15) 

ChinchikoPapa

mustitemさん、いつもコメントとnice!をありがとうございます。
大正期から昭和初期までの暮らしをていねいに見てきますと、生活スタイルや登場する生活用品は古めかしいものの、今日と非常に近しい生活観の側面を感じますね。でも、昭和初期の大恐慌を境に、大正期の自由で闊達な暮らしは終焉し、日本は破滅へ向けて坂道を急速に下りはじめます。
by ChinchikoPapa (2008-07-02 11:41) 

ChinchikoPapa

大板目、小板目、杢目・・・と樹木の種類によって描かれる多彩な木目は、ほんとうに美しいと思います。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-07-02 11:46) 

ChinchikoPapa

築地の魚河岸で、ヤマネコを飼ってたお店があるのでしょうか。(^^; エサには困らなさそうですが・・・。nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2008-07-02 18:46) 

sig

こんばんは。
昔は窓枠を白く塗った家が好きで、そういう家に住みたいものだと思っていました。できれば本体は全部緑色にして。床も木で、靴のままの生活。ベッドで寝ることに憧れたりしていました。
相馬閏ニ邸の写真がもし新築直後に撮られたものだとしたら、それこそインテリア・コーディネートとは縁遠い昔かたぎの誰かさんがお祝いとして持ち込んだものかもしれませんよ。相馬氏は迷惑に思いながら処分もできず、応接室には置かずに食堂に飾ったのでしょう。
by sig (2008-07-02 20:14) 

ChinchikoPapa

庭園の苔が、水分を含んで美しいですね。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-07-02 21:58) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございます。
そうですね(笑)、誰かのプレゼントで、しかもそれが親戚筋だったりするといつ来訪するかわからないので、処分できないまま食堂に置いておいた・・・という想像は、非常にリアルに感じます。^^
窓枠を白く塗るのは美しいのですが、ひときわ汚れが目立つので、きれいなまま保つのはたいへんだったでしょうね。数年おきに、ペンキを塗り替えていたのでしょうか。
by ChinchikoPapa (2008-07-02 22:07) 

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