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三ノ坂の別荘風住宅を拝見する。 [気になる下落合]

 別荘住宅2008.JPG
 以前、下落合に建っていた家々をご紹介Click!したとき、高台に建つわずか18坪のかわいらしい別荘のような住宅を取り上げたけれど、その間取り図と邸内のイラストが手に入ったので、改めてご紹介したい。かわいらしい住宅が建っていたのは、西部電気鉄道の中井駅Click!からすぐの三ノ坂中腹で、中井駅前の大工・高橋清次郎に依頼して建ててもらったものだ。
 外観とは裏腹に、邸内の洋室は応接室兼書斎だけで、他はみな和室という造りだった。敷地50坪上の建物は、建坪わずか18.75坪とまるで別荘のような仕様だ。主婦之友社編集局が1929年(昭和4)に出版した、『中流和洋住宅集』から引用してみよう。
  
 宅地は、高台に上る傾斜地を占め、東は坂道、西は雑木林と、それにつゞく畑、南と東は遠く開けて、採光の点に於ては申分ない位置にあります。 (同書「十八坪の平屋小住宅」より)
  
 

 1928年(昭和3)の『主婦之友』2月号に、この邸に取材した最初の記事が掲載されているので、邸の竣工は同年の1月か、あるいは前年の暮れあたりだろう。いまだ淀橋区は成立しておらず、同邸は丁目の存在しない豊多摩郡落合町の下落合(字小上)2096番地という住所で呼ばれていたころだ。もともと島津家Click!の土地だったと思われる、中ノ道の下から数えて4段目のひな壇状敷地に同邸は建っていた。上の文章では、妙正寺川が流れる南側だけでなく、東側もいまだ家々が建ち並んでおらず、見晴らしがきいていた様子がうかがえる。ちょうど、金山平三が『秋の庭』Click!(1933年ごろ)を仕上げたころだ。
 この邸の特徴は、目白崖線の中腹にあって、窓の多い各部屋が南を向いており、陽当たりがとてもよかったことだろう。まん中の茶の間は、直接南の庭には面していないけれど、廊下と茶の間それぞれに大きなガラス戸や障子が設置されているので、真冬でも陽がよく射しこんだだろう。昼間は暖房いらずと、取材記者に語っている。また、バッケ(崖線)の斜面をひな壇状に整地したため、泉でも湧いたのか湿気を避けるために、床下を通常の住宅よりもかなり高めにこしらえているところも、洋風の建物をよりスマートかつオシャレに見せている点かもしれない。


 屋根は天然スレートで外壁は下見板の渋塗り、軒裏や窓は白ペンキで塗られ胴壁は白漆喰と、昭和というよりは大正時代に郊外へ数多く建てられた田園住宅の趣きがある。きっと地元の大工も、それまでにアビラ村Click!(芸術村)の丘でいくつかの洋館建築を手がけていたのだろう。目白文化村Click!つづきのアビラ村らしく、玄関へは5~6段の大谷石階段が設置されていた。
 室内で面白いのは、廊下や応接室兼書斎の床面が一般的な板張りではなく、すべてコルク張りになっている点だろう。これは、夏はともかく冬を暖かく快適にすごすための工夫だったと思われる。各部屋とも、タンスや引き出しなどの大型家具類は、ほとんどすべてが作りつけで、部屋を最大限に広く使えるように配慮されていた。
 また、台所には独特な給水設備が見られる。荒玉水道Click!はいまだ引かれておらず、井戸水を給水タンクへ貯えるしくみだ。でも、このお宅では給水タンクを屋外へ建てると、邸の美観が損なわれると考えたのものか、台所の天井近くに大きなドラム缶状のものが設置されている。おそらく、井戸からは電燈線Click!の低電圧でも稼動する、大正末から普及しはじめた家庭用の小型ポンプClick!によって地下水を汲みあげていたのだろう。
 浴室は、三ノ坂に面した東北側にあったが、大正期の住宅仕様を引きずっているのか、かなり狭い造りだ。風呂場の北側に、外へ出られる扉が付いているのは、風呂の焚きつけ作業用だろう。生活インフラは電気のみで、ガスや水道がまだ引かれていない時代の設計だ。2つの洗面所に挟まれたトイレについては、「普通の壷に大正便器を取附けたものであります。が、『内務省式』にすれば、一層理想的でありませう」と書かれている。当時の内務省では、どうやら合理的で衛生的な生活の観点から、便器の設計まで手がけていたらしい。
別荘住宅1.jpg 別荘住宅2.jpg
 実は、この別荘風住宅を取材していてビックリしてしまうことがあった。この家が建っていた敷地から、三ノ坂を北へ3軒分上ったところに、東西の細い道をはさんでこの家とほとんどまったく同じデザインの家が現存している。最初はてっきり、場所の特定を間違えたのかと思ったけれど、どう考えても『中流和洋住宅集』の記述は、北側をひな壇の崖に遮られた三ノ坂の中途の家であり(事実、写真にも北側の崖が見えている)、坂上の家ではないのだ。これはいったいどういうことだろう?
 このあたりは戦災にも遭っていないので、1947年(昭和22)の空中写真を調べてみると、もう一度驚いてしまった。三ノ坂沿いには、この別荘風住宅にとてもよく似た家々が並んで建っていたのがわかる。ひょっとすると、みんな中井駅前の大工・高橋清次郎の仕事かもしれない。
 それとも、坂上に現存する邸は、なんらかの事情で坂の中途から移築された建物なのだろうか? 全体のデザインはそっくりなのだけれど、出窓の様子や窓枠のデザインが少しずつ違っている。でも、移築にともなって変えたという可能性も残るのだ。

■写真上は、東側の空地から撮影したと思われる邸の全景。手前を横切る道路が三ノ坂で、右手が丘上になる。は、三ノ坂に面した同邸跡の現状。驚いたことに、大谷石による築垣や竹垣をめぐらした風情は、昭和初期からまったく変わらないままだ。
■写真中上上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。上右は、1932年(昭和7)に作成された三ノ坂界隈の「家屋配置実測図」にみる同邸。は、同邸の間取り図。
■写真中下上左は、三ノ坂に面した応接室兼書斎(洋室)。上右は、中央部にある茶の間(和室)。下左は、島津邸の敷地に接した西側の居間兼客間。下右は、独特な給水タンクが設置された台所。アビラ村にガスはまだ引かれておらず、イラストに描かれた炊飯釜は七輪仕様のものだ。
■写真下:坂上に現存する、そっくりなデザインの邸宅。同じ大工・高橋清次郎による仕事だろうか?


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ChinchikoPapa

サンゴは観ていて飽きないですね。
nice!をありがとうございました。>納豆(710)な奇人さん
by ChinchikoPapa (2008-04-18 13:52) 

ChinchikoPapa

増田一眞氏の文章で「玉鋼」という言葉が、古代の古釘とからめて登場してますが、明治期に刀剣を鍛える良質な鋼で砲弾(特に海軍の)を製造してから、そう一般的に呼ばれるようになったもので、江戸期以前は鋼(かね)の表現のほうがいいように感じました。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-04-18 14:01) 

ChinchikoPapa

色の薄さから、わたしの好きなヤマザクラでしょうか。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-04-18 14:04) 

ChinchikoPapa

パット・メセニーで最近よく聴くのは、わりあい地味な「WORK」でしょうか。
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-04-18 20:11) 

ChinchikoPapa

いつも昔の記事まで、nice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-12-17 16:44) 

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