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もうイヤだ! 昌平橋と萬世橋。 [気になる神田川]

 神田川のお茶の水から秋葉原にかけて、上流から昌平橋と万世橋が架かっている。こんなわけのわからない、ややこしい橋はそんじょそこらにはないだろう。江戸期の昌平坂学問所(湯島聖堂)界隈と、上野東照宮や寛永寺へとつづく御成道(おなりみち)の起点である筋違御門(筋違橋/すじかいばし)あたりを調べていると、あまりの煩雑さにウンザリしてくる。昌平橋と万(萬)世橋は、いったいどこに架かっていたのだ?
 江戸時代の切絵図から、確実に当時の橋の位置を特定しておこう。(ベースの切絵図風地図は、「EDO-TOKYO digital map」より)
■幕末(1850年・嘉永3)

 江戸期に架けられた昌平橋は、1873年(明治6)に洪水で流れてしまった。同年には、筋違御門の筋違橋を壊し、その部材を流用してアーチ状の眼鏡橋「萬代橋(よろずよばし)」が築かれた。
■明治初期(1873年・明治6)

 ところが、なにを考えたのか高橋次郎左衛門という分限者が、ひと儲けをしようとしたのかもしれないが萬代橋の下流に鉄橋をかけ、「昌平橋」と名づけて渡り賃(1厘5毛)を取り始めた。
■明治初期(1878年・明治11)

 1893年(明治26)に、ようやく現在の位置に近いところに「萬世橋(よろずよばし)」が架けられた。もちろん通行料など取らないので、周辺の人々はみんなこの橋を渡るようになり、有料の「昌平橋」は廃止されて取り壊された。
■明治中期(1893年・明治26)

 ところが、お気づきのように「萬代橋」と「萬世橋」とで字は違うものの、両橋とも「よろずよばし」と呼ばれるので、住民は混乱して橋で待ち合わせするのもややこしくなり、有料「昌平橋」の廃止とともに、「萬代橋」のことを「昌平橋」と改称することになった。
■明治中期

 ところがところが、1899年(明治39)に移転予定の交通博物館あたりに“萬世橋駅”が建設されると、「昌平橋」はあっさりと廃止され、さらに上流に新たな「昌平橋」が建設されることになった。また、同年には一帯の区画整理が行われ、「萬世橋」も壊されて移動することになった。
■明治後期(1899年・明治39)

 これでせっかく落ち着いたと思ったら、1923年(大正12)の関東大震災で「昌平橋」と「萬世橋」ともに被害を受け、「昌平橋」が同年に新たに建て替えられ、「萬世橋」も1930年(昭和5)に新しく生まれ変わった。このころから「よろずよばし」ではなく「まんせいばし」と呼ばれ始め、略して「万世橋」と表記されることも多くなった。
■大正~昭和初期(1923年・大正12~1930年・昭和5)


 つまり、明治から大正にかけて、「昌平橋」や「萬代(世)橋」の記述がある小説や記録は、よほど注意をしないとわけがわからなくなってしまうのだ。その記述が書かれた時期を限定しない限り、どの橋のことを指しているのか特定できないことになる。また、「萬代橋」がなくなり「萬世橋」となったあとも、「萬代橋」などと書かれたりするから混乱は止まらない。
 いちばん最初に「筋違橋」が壊されたとき、ほんの少し位置がズレたにせよ、なぜ「筋違橋」としないでいきなり「萬代橋」という名称になったのかはよくわからない。「萬代橋」のたもとには、日本橋の一石橋と同様に迷子しるべ石があったというから、もともと筋違橋のたもとにあったものを移したのかもしれない。千代田城の御門名や橋名が、完全に消えてしまったのは珍しいケースだ。
 
 江戸時代は、将軍が千代田城から出て上野山へ参詣するとき、必ずこの門を使った。筋違御門から下谷の町中を通り、下谷広小路から忍川の三橋、そして黒門へとつづく道は、通称「御成道(おなりみち)」と呼ばれた。将軍が「御成」になる日は、道路は掃き清められ、火事を出してはたいへんと火気厳禁、庶民は炊事はおろか煙草も吸えなかった。将軍の通行中は外出禁止で、声も立ててはいけなかったそうだ。赤ん坊の泣き声もダメということで、あらかじめ乳幼児は御成道から離れた家に預けられた。
 これらの禁止事項は幕府が決めたものではなく、町名主や差配が勝手に決めた町内自主規制で、どうやら町人たちは納得していなかったようだ。江戸市中は、たとえ大名行列が通ったとしても、いちいち土下座して控える必要はなかったから、将軍様とて例外じゃねえや・・・というような感覚があったのかもしれない。当時のお触れに、「壁のすき間や障子の穴から御成行列を覗いてはダメ」というのもあるから、物見高い連中はさかんに「まだ通り過ぎやしねえ」と、ジリジリしながら覗き見をしていたのかもしれない。
 
 この筋違御門から下谷御成道には、とっておきのエピソードがある。シーンと静まり返った町中を行く、将軍と駕籠横の側用人とのやり取りだ。
  
 将軍「なぜゆえに人通りがないのじゃ?」
 用人「御成の日でございますゆえ」
 将軍「ふむ、つまらぬの」
 用人「ははぁ」
 将軍「この次は、御成の日でないときに来ようぞ」
  
 この話は落語ではなく実話として伝わっているから、この“天然”ぶりは五代・綱吉のころだろうか? 駕籠の周囲を固めていた人々が、噴き出さなかったかどうかは記録にない。

■写真上:1930年(昭和5)に架けられた「萬世橋(まんせいばし)」。空襲でも破壊されなかった。
■写真中は、お茶の水の聖橋から見た昌平橋方面。は、昌平橋から眺めた萬世橋方面。
■写真下の図絵は、広重『名所江戸百景』第47景の「昌平橋聖堂神田川」。は、現在の昌平橋から眺めた湯島聖堂方面。橋の位置が違うので、風景も微妙に異なる。奥に見えるのは聖橋。


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ChinchikoPapa

ごていねいに、大昔の記事にまでnice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2011-04-29 13:40) 

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