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「巣鴨の神様」の「至誠殿」と巌本善治邸。 [気になるエトセトラ]

明治女学校跡.JPG
 以前、避難先の巣鴨にあった親の実家の防空壕から、日比谷公会堂めざして歩いた19歳の巌本真理(メリー・エステル)Click!について書いたことがある。1945年(昭和20)3月11日、東京大空襲Click!の翌日のエピソードで、向田邦子Click!のインタビューに巌本真理が答えた記事をご紹介していた。なお、このエピソードについては、向田邦子と巌本真理との間で認識の齟齬があると思われるので、改めて記事にまとめてみたい。
 この避難先(東京市内なので疎開とは呼びにくい)である巌本家、すなわち巌本真理の祖父が住んでいた住所は、豊島区西巣鴨653~703番地界隈の南西向きの丘上から斜面にあたる広い敷地で、大正初期の住所でいうと北豊島郡巣鴨村巣鴨庚申塚653~703番地ということになる。すなわち、「巣鴨の神様」Click!のいた「至誠殿」のある山田夫妻の住所と、明治女学校の創立者のひとりである巌本善治邸とが、同じ敷地で重なっているのだ。明治女学校があった丘上と、巌本邸や庚申塚大日堂のある南西斜面を含めて、一帯の小高い丘は江戸期から「大日山」と呼ばれていた。
 大正後期から昭和初期にかけて、大日山とその周辺を地元の方々が記録した資料があるので参照してみよう。地元の古老たちが集まり、1986年(昭和61)3月29日に座談会形式で当時の思い出を語りあったものだ。出席者は、明治末から大正初期生まれの方々が多く、1909年(明治42)に明治女学校が閉校になって間もない時期の情景についての証言ということになる。1989年(平成元)に発行された小冊子、『座談会集・巣鴨のむかし第1集』(巣鴨のむかしを語り合う会)より引用してみよう。
  
 田崎 (前略)坂を上って行くと右側が幼稚園になっていますが、そこが明治女学校のあった所ですね。西洋館が1軒有って、その周りがもう本当に森だったのです。その向こうの公務員住宅が2棟有る所と東大の学生寮の所が、帝大の農場でした。そこは後にテニスコートになったように記憶しています。トンボとりに絶好の場所でしたが、あの近所は怖いと言うか気味の悪い所と言うイメージが有りましたね。通るときは小走りに通り抜けたものでした。(中略)
 藤井 (前略)校舎と言うのは良く知りませんが、その西洋館は原っぱの突当りにポツンと有りました。巌本真理さんはそこの西洋館で育ったのかしら。
 西村 真理さんは帝国小学校で私と同級だったのですが、折戸に住んでいました。
  
 「田崎」という方は、1913年(大正2)生まれなので、大正後期には大日山でよく遊んでいたと思われる。「あの近所は怖いと言うか気味の悪い所」というイメージをお持ちなので、おそらく「至誠殿」にいた「巣鴨の神様」の印象が、いまだ地域の記憶として色濃く残っていたのかもしれない。
 「藤井」という方は、1914年(大正3)生まれで、森の中の原っぱに建っていた巌本家の西洋館を記憶している。「西村」という方はひとまわり若く1925年(大正14)生まれなので、1926年(大正15)1月の早生まれだった巌本真理とは同学年にあたる。巌本真理が小学生だったとき、すでに生家だった庚申塚の巌本善治邸を出て、より山手線の大塚駅に近い折戸に住んでいたのがわかる。
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 巌本善治が、市街地から郊外の巣鴨庚申塚に引っ越してきたのは、明治女学校が麹町区下六番町6番地から巣鴨への移転を余儀なくされた1897年(明治30)のことだろう。明治女学校は、巌本善治や田口卯吉Click!、木村熊二、植村正久、島田三郎の5人が発起人になり、1885年(明治18)に九段下に設立された。キリスト教をベースとしつつも、「欧米人が主導する女子教育ではなく、日本人民の手で女子の教育を行う日本の女学校」を標榜していた。明治女学校の関係者には、勝海舟をはじめ旧・幕臣(つまり江戸東京人)つながりが多いのが特徴だった。
 講師陣は当時の最先端をいく人々によって構成され、明治女学校は女子あこがれの高等教育機関となり、最盛期には300人の女学生が全国から集まった。同時に、巌本善治が1885年(明治18)から『女学雑誌』を、つづいて『文学界』を刊行しはじめたことで、さらに女子たちの人気が沸騰した。講師たちの顔ぶれを見ると、たとえば津田梅子や島崎藤村Click!、樋口一葉、田辺花圃、北村透谷、木村鐙子、中島湘烟、若松鎮子(巌本嘉志子)、星野天知、荻原守衛Click!戸川秋骨Click!、平田禿木、内村鑑三Click!、馬場孤蝶、荻野吟子……と、今日から見れば信じられないような顔ぶれがそろっている。そして、卒業生には野上弥生子Click!羽仁もと子Click!相馬黒光(良)Click!など既存のワク組みにとらわれない、新しい時代の女性たちを輩出していった。
 多くの人々を惹きつけた巌本善治の魅力について、横浜のフェリス女学校の杓子定規な校風が合わず、1895年(明治28)に明治女学校へ転校してきた相馬黒光(良)Click!の証言を、1977年(昭和52)に法政大学出版局から刊行された『黙移』より引用してみよう。
  
 (前略)ここでは校長先生(巌本善治)の講話というのに、女義太夫の「素行」の名が出る。「円朝」「小さん」というような人々のことが語られる、芸術至上の精神から、先生が捉えてきて示されるものは実にかくの如く自由で、味わい深く、聴いているうちに自分の視野がぐんぐんひろがり、あらゆるものに許されている向上の精神が、ここに、そこに、とさし示されるように感じられて、耀き深い人生の自分も許されたる一人であるという気がしたのでありました。/そういう魅力のある先生に対し、魅力の乏しい古い世界から出てきている教え子達は、ただもえ一途に憧憬を寄せ、求めていた完全なものをここに得たかの如くに、安心しきって、校内の空気に身も心も委ねてしまったようなところがあります。(カッコ内引用者註)
  
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 1909年(明治42)に、明治女学校が経済的に破たんして閉校したあとも、同校の校主だった巌本善治は敷地南西側の一画、つまり大日山の丘上と南西斜面の500坪といわれる敷地に住みつづけていたらしい。彼が住んでいた家屋は、旧・明治女学校の一部の建築または部材を移築したものかもしれない。それが大正後期になると、森に囲まれたちょっと不気味な風情になっていたのだろう。
 大正末ごろを想定して、地元の人たちが作成した「巣鴨新田周辺略図」(1975年)によれば、巌本邸の敷地は旧・明治女学校が建っていた「明治原」の丘上の南西端から、巣鴨第一尋常小学校(現・西巣鴨小学校)の北側に通う丘下の道路まで、つまり庚申塚大日堂の南側にあたる斜面全体だったようだ。また、西巣鴨第一国民学校(現・西巣鴨小学校)を1945年(昭和20)に卒業した方々でつくる、「鴨の会」が作成した「鴨の街」地図では、巌本家は「おばけ屋敷」などと書かれている。w
 巌本善治は、広大な敷地の一部を貸地ないしは貸家にしていたようで、その一画に建っていたのが「巣鴨の神様」の「至誠段」と山田勝太郎・つる夫妻の西洋館であり、大正末には星道会本部Click!だったようだ。また、大正末には巌本邸の南側斜面には新たな道路が拓かれ、住宅地化が進んでいるので一般住宅用に土地を貸したか、あるいは手放したかしているのだろう。
 メリー・エステル(巌本真理)は、大日山の巌本家で巌本善治の長男・荘民(まさひと)とマーグリト・マグルーダ(米国人)の長女として、1926年(大正15)1月に生まれている。小学校に上がると、さっそく“あいの子”としてイジメられたため4年で中退し、自宅で家庭教師による英才教育を受けることになった。このあたり、自由で主体性を備えた女性を育てるという、巌本家ならではのフレキシブルで自由な教育環境がうかがわれる。6歳からはじめていたヴァイオリンは、諏訪根自子(戦前)や前橋汀子(戦後)などを育てたロシアのアンナ・ブブノワ(小野アンナ)について学んでいる。
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庚申塚大日堂.JPG
 19歳になった巌本真理は、避難していた巌本善治(1942年歿)の邸敷地内、大日山の斜面に掘られた防空壕から、演奏会が予定されていた日比谷公会堂へ向けて歩きはじめた。小高い大日山からは、サーチライトで照らされながら市街地上空を旋回するB29の大編隊や、散開してバラまかれるM69集束焼夷弾の様子がよく望見できたかもしれない。

◆写真上:1897年(明治30)から大日山に移転してきた、明治女学校のキャンパス跡。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる明治女学校。は、巣鴨庚申塚に移転してきた明治女学校。下左は、明治女学校の校長や校主をつとめた巌本善治。下右は、その孫娘にあたるヴァイオリニストの巌本真理。
◆写真中下は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる巌本邸敷地。は、地元で作成された大正末の様子を伝える「巣鴨新田周辺略図」(1977年)。は、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」にみる巌本邸の敷地界隈。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる巌本邸界隈。森に囲まれた原っぱに、ポツンと大きめな屋敷が見えている。中上は、1947年(昭和22)に撮影された同所。空襲で焦土と化しているが、大日山の斜面のどこかに巌本家の防空壕があるのだろう。中下は、地元の「鴨の会」が1945年(昭和20)現在を想定して作成した空襲直前の「鴨の街」地図。は、大日山の由来となった庚申塚大日堂。

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