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下落合を描いた画家たち・江藤純平。 [気になる下落合]

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 下落合1599番地すなわち落合府営住宅内の、第三府営住宅24号に帝展画家・江藤純平Click!がアトリエを建てて住んでいた。第三府営住宅Click!は、1924年(大正13)前後から住宅の建設がはじまっているので、おそらく江藤純平はかなり早い時期からアトリエ兼自邸を建設しているのだろう。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にも、すでに名前が採取されている。
 江藤純平の名前は、これまで東京美術学校時代の佐伯祐三Click!深沢省三Click!の証言者として、このサイトでは何度か繰り返し登場Click!している。学生時代の佐伯祐三は、おかしなエピソードをたくさん残しているが、同時期に美校で身近にいた江藤純平もまた、佐伯の姿を強烈な印象とともに記憶しているひとりだ。彼は、大阪人の佐伯祐三が、めずらしく蕎麦屋へ出かけた様子を記録していた。
 1929年(昭和4)に出版された『一九三〇年叢書(一)「画集佐伯祐三」』所収の、江藤純平と田代謙助の共著による「学校時代の佐伯君」から引用してみよう。
  
 こんなこともあった。ある友達がホンのたわむれに、/「ざるがいゝの、天ぷらがうまいのと云つたところで、そばでは先づおあいに止めをさすね」/とかなんとか彼をからかつたところ、而も小さんの「うどんや」は知らなく共このおあいの愚にもつかない話はその時代の悪いシヤれ(ママ)で、誰も鼻につき過ぎて嫌味な位であつたに拘らず率直で気早い彼は早その友達を手近のそば屋につれ込んでしまつた。/「オイ、おあいを二人前あつくしてくれえ」/と大真面目で正々堂々と註文したのである。これは餘りに馬鹿馬鹿しく嘘くさい話であるが我が佐伯君の場合にのみ真実性があり、最も愛すべき笑ひ話として残つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 佐伯がめずらしく蕎麦屋に出かけ、まるで芝居の直侍Click!次郎吉Click!のような江戸東京弁のイキな台詞まわしで、蕎麦と思いこんだ「おあい」を注文している様子がおかしい。文中に登場している「小さん」は、大正期の3代目・柳家小さん(初代・柳家小三治)のことで、昭和の「目白の師匠」こと5代目・小さんClick!もよく演じた「うどん屋」は、十八番(おはこ)にしていた噺のひとつだった。
 わたしは当然、大正期の小さんの噺などまったく知らないので、マクラあたりで話されたらしいシャレの「おあい」がなんだったのかはわからないが、おあい(東京弁:おわい=糞尿)にひっかけた、なにか笑いを誘う臭いダジャレだったのではないか。
 粥(かゆ)Click!とまったく同様に、病気で寝こんでよほど重篤なときならともかく、ふだんからうどんの食習慣がない江戸東京地方では、小さんの演じる「うどん屋」Click!(5代目)に、江戸東京人らしい“うどんの定義”や食文化・美意識がよく表現されている。
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江藤純平アトリエ1936.jpg
江藤純平「自画像」1923.jpg 江藤純平「アトリエにて」1924.jpg
 さて、1923年(大正13)に東京美術学校を卒業した江藤純平は、翌1924年(大正13)に開催された第5回帝展に早くも入選している。かなり順調な滑りだしだが、もともと大分県の実家が裕福だったものか、あるいは長野新一と同様に教師などの安定した収入の職業に就けたものか、卒業とほぼ同時に下落合1599番地の第三府営住宅内にアトリエ兼自邸をかまえている。
 帝展へ初入選したのは、その新築のアトリエで裸婦を描いたとみられる『アトリエにて』という作品だった。美校を卒業して、すぐに自分のアトリエがもてたことが、とてもうれしかったのだろうか。裸婦の周囲に置かれた家具調度や吊るされたカーテン、板張りの床などが明るく鮮やかな色彩で表現され輝いて見える。この作品以降、帝展では毎年入選する常連となり、1928年(昭和3)には『S氏の像』で、翌1929年(昭和4)には『F君の像』で2年連続の特選に選ばれている。
 残されている作品を観ると、もともと人物の肖像画を得意とする画家のようにも思えるが、『F君の像』を描いて帝展特選になった同年、めずらしく野外へ出て30号Fサイズをタテにした風景画を制作している。セザンヌばりの色彩やタッチで描かれた作品は、単に『風景』とだけ名づけられているが、自邸から離れずアトリエにこもって制作することが多かったこの時期、周辺に拡がる近所の下落合風景を描いた可能性が高いように思われる。木立ちの間から、手前の草原ないしは造成と区画割りが済んだばかりの住宅敷地の向こうに、西洋館とみられる建物が2棟とらえられている。
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 2棟の住宅は、濃いブルーかグレーのスレート屋根のように見え、手前の住宅にはフィニアルらしい小さな突起が、切妻の上に見てとれる。壁はベージュに塗られ、オシャレな白い鎧戸が設置された窓は、いかにも郊外に建てられた文化住宅の趣きがある。手前に拡がる草原の色合いや、変色しかかっている樹木の風情、空に浮かぶ雲の様子などから、空気が澄んでいる晩秋の風景だろうか。住宅の周囲には電柱が1本も描かれていないので省略しているか、あるいは目白文化村Click!の家並みなのかもしれない。
 このような情景は、画面が描かれた1929年(昭和4)の当時、下落合(現・中落合/中井含む)の中西部に位置する江藤純平のアトリエ周辺では、あちこちで見られただろう。制作から6年後の、1936年(昭和11)に撮影された空中写真でさえ、アトリエの南西部にはいまだ随所に草原や宅地造成地を見ることができる。
 画面の光線は、左手やや後方から射しこんでおり、それが南面に近い方角だとすると、描かれている住宅の切妻は東西を向いていることになる。光がやや黄色味を帯びているのは、午後のせいだろう。アトリエの南に拡がる目白文化村の一部を描いたものか、あるいは第三府営住宅または第四府営住宅の一部なのか、これらの住宅地の周辺には描かれたような草原や、残された木立ちがあちこちに散在していた。
 最初は、少し離れた場所から自身のアトリエを眺めた風景なのかと疑ったが、下落合1599番地の江藤純平邸は、このような屋根の形状をしていない。第三府営住宅は、ほとんど空襲による延焼の被害を受けておらず、1947年(昭和22)の米軍が撮影した精細な空中写真で、江藤純平邸をハッキリと確認することができる。それを観察すると、屋根は明らかに日本家屋のような形状をしており、北面の一部にアトリエの洋間が付属したような、和洋折衷住宅の意匠だったのだろう。
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 江藤純平は、佐伯祐三が下宿していた上戸塚(高田馬場)時代も、また下落合661番地にアトリエを建てて転居してきたあとも、同窓のよしみで彼のごく身近にいたようだ。高田馬場の下宿Click!では、佐伯が毎日ていねいに削っておいた鉛筆を、イタズラ好きな下宿の女の子が全部折ってしまう話や、新築したアトリエの柱を片っ端からカンナで削ってしまうエピソードClick!なども、山田新一と同様に細かく記録している。

◆写真上:アトリエ周辺を描いたとみられる、1929年(昭和4)制作の江藤純平『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合1599番地の江藤純平アトリエ兼自邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同アトリエ。下左は、東京美術学校の卒制で1923年(大正12)に描かれた江藤純平『自画像』。下右は、第5回帝展に初入選した江藤純平『アトリエにて』。
◆写真中下は、江藤純平アトリエ跡の現状。は、『風景』の奥に描かれた西洋館の拡大。は、1936年(昭和11)現在の江藤アトリエ周辺に展開する草原(宅地造成地)。
◆写真下は、1941年(昭和16)の斜めフカンから見た江藤純平邸。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸。は、1938年(昭和13)制作の江藤純平『牛』。

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