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駅売りコーヒー牛乳が流行った守山商会。 [気になるエトセトラ]

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 先日、知人から守山乳業(株)が販売していた「守山牛乳」の空き壜を2本と、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(守山商会/非売品)をいただいた。知人は、わたしが神奈川県央の海辺育ちClick!なのを知っているので、「これ、懐かしいでしょ」とプレゼントしてくれたのだ。
 2本の壜は、戦後すぐのころの仕様で、双方とも「守山文化牛乳」と書かれていて、気泡がたくさん入ったガラスの質が劣悪なところをみると、おそらく1940年代後半から50年代前半ぐらいの容器ではないかとみられる。色のついていない壜が、通常の牛乳を入れて販売され、まるでコーラの壜のように遮光の色がついているほうは、同社自慢のコーヒー牛乳を封入して売られていたものではなかろうか。守山牛乳は、鉄道駅のミルクスタンドでの販売が主流であり、一般の牛乳でよく見かける紙のキャップにビニールをかぶせた仕様ではなく、金属の王冠をかぶせ封入して売られていた。
 しかし、わたしは物心つくころから15歳まで、明治牛乳あるいは名糖牛乳しか飲んでこなかったので、地元でありながら守山牛乳の存在を知らなかった。湘南地方の平塚には、あちこちに牧場があることは知っていたし、それらの牧場が協同で主催する品評会が、海岸べりに多かった砂地の広い空き地で開かれていたのも記憶に残っている。でも、守山牛乳を飲んだ記憶はかつて一度もない。
 守山商会(のち守山乳業)の本社は、平塚駅北側の国道1号線に面した宮の前にあり、なんとなく街の風情や環境がちがう駅の南側エリアとは、東海道線に隔てられていて馴染みのないせいもあるのだろう。駅の南北では、小中学校の学区も異なっていた。
 また、駅売りの駅弁はあちこちで買って食べた記憶があるけれど、いっしょに買うのはたいがいお茶で、牛乳を飲んだことはなかったように思う。もし、親が東海道線のいずれかの駅で、牛乳かコーヒー牛乳を買って飲ませてくれていたら、おそらくそれが戦前から大流行していた守山乳業の製品だったのだろう。
 守山商会は、1918年(大正7)に神奈川の大山Click!(おおやま=阿夫利山)山麓、平安期の鉈彫りによる薬師三尊や十二神将で有名な日向薬師の近く、中郡高部屋村日向で創業している。のちに日向川の下流、七沢温泉の近くに事業所を移しているが、足が早い乳製品の物流には不便だったため、平塚駅北側へと移転してきた。1928年(昭和3)1月に、資本金40万円で株式組織に変更し、正式に(株)守山商会を名のるようになった。
 守山乳業というと、現在では日本初の「珈琲牛乳」を、東海道線の国府津駅で販売したことになっており、同社のWebサイトやWikipediaにもそのように記載されている。だが、日本で最初にコーヒー牛乳を販売したのは、東京府豊多摩郡の中野町に本社があった日本均質牛乳であり、1916年(大正5)出版の『豊多摩郡誌』によれば、「町内搾乳場十ヶ所、畜牛二百九十二頭(牝二三四、牡五八)あり、大正四年度の仔牛十四頭価額金二百六十円を挙ぐ」とあるように、中野は首都圏における酪農の先進地帯のひとつだった。日本均質牛乳は、鉄道省の指定品として認可を受け、すでに「クラブ印コーヒー牛乳」や「均質牛乳」を、東京内の省線や東海道線の主要駅で販売していた。
 『守山商会二十年史』(1938年)から、すでに最大のライバルとなっていた日本均質牛乳との、し烈な販売競争の様子を引用してみよう。
  
 その当時東京市外中野に日本均質牛乳株式会社なる先輩あり、クラブ印コーヒー牛乳、均質牛乳を造り東海道の主要大駅のみで販売し一大敵国の感をなしなかなかその堅塁は抜くことが出来なかつた。処が色々の事情があつて国府津駅の東華軒主飯沼相三郎氏、赤羽駅の都家故宮森六之助翁、組合長清水籐左衛門氏等の推奨、熱烈なる御後援があつて販路は俄然好転して来た。月末になると国府津駅迄飛んで行つて、その月中の品代金を貰つて帰り職工達の給料に充当したものであつた。
  
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 日本で初めてコーヒー牛乳を開発・製造したのは、中野町の日本均質牛乳であり守山商会でないのは明白だろう。また、東海道線の主要駅でコーヒー牛乳を販売していたのも、日本均質牛乳のほうが先であり、堤康次郎Click!が開発していた別荘地のある東海道線の国府津駅へ、初めてコーヒー牛乳を納入・販売したことのみが、守山商会の「初めて物語」だったことも明らかだ。
 では、どうして現在では「日本初」が守山乳業になってしまったのかというと、日本均質牛乳は関東大震災Click!で大きなダメージを受け、その直後から事業継続がうまくいかなくなってしまったのだ。そして、1930年(昭和5)になると大恐慌の影響もあって、守山商会へ合併・吸収されることになる。
 守山商会が日本均質牛乳を買収できるほど、なぜ急速に台頭しえたのかというと、関東大震災の際に製品を被災地の横浜や東京へ集中的に運び入れ、水や飲み物が不足している被災者に売って、莫大な利益を上げたからだ。このあたり、守山商会が理想として私淑していた三島海雲Click!カルピスClick!が、大震災が起きると同時にストックしていた全工場のカルピスと氷をかき集め、トラックで被災地へ配って歩いたのとは対照的な企業姿勢であり、「うーーん……」となってしまうところなのだが、あくまでも資本主義社会なので正当な商売なのだろう。
 守山商会が急成長をする経緯なので、その記述も詳細をきわめているが、関東大震災が発生した直後の様子を同社史から、少し長いが引用してみよう。
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 よし来たあの返品されたコーヒー牛乳を売りだせと兄弟は、一挙に何十箱も売つて了つた。幸に庭には壜が残つてゐた。よし造つて売れ、壜は拾つて来い、と許りに、四日目には工場から景気のよい煙が濛々として昇り始めた。仁徳天皇なら御嘉賞になる所であるが、近処の人は気が小さい。曰く『時節柄遠慮せい!』。毎日現金が捨てる程沢山集るが、焼け爛れた札や金の置き所に困つた。勿論銀行等明(ママ)きつこが無い。地下室へ金銀財宝を納れて、その上にどつかと坐り込んで、夢寐の裡にも伝家の宝刀を抱いてゐた。金持ち程辛いものは無いと思つた。(中略) その内、壜も、王冠も、珈琲も欠乏して来た。(守山)謙氏は東京へ行つて焼け出されの製造所の一家族を引率して来て、工場の一隅に製壜工場を急設した。(中略) 森氏の斡旋で砂糖や、珈琲豆を買ひ付けたが、陸路は絶対に送品が出来ない。海路を国府津に陸揚げして物資を関西に仰いだ。一ヶ年間虐められた日本均質会社は中野の工場が大破して、製造は当分見込みが付かないので、東海道線でも東北線方面でも、守山珈琲牛乳の配給を――この物資欠乏の秋にも奮闘してゐる――感謝の許に受入れて下すつた。(カッコ内引用者註)
  
 これって、人の弱み(罹災した日本均質牛乳)につけこんだ販路拡大であり、被災者の不幸や欠乏を見越したひどい商売じゃないか……などと憤ってはいけない。ムキ出しの資本主義社会は弱肉強食、たとえ天災とはいえ弱ったり、口に入るものが欠乏したり、不幸にみまわれたほうが「敗者」であり、どのような手段を用いても儲けたほうが「勝者」ということになるのだろう。わたしは、このような企業姿勢は好きじゃないので、被災者に無償で商品を配ってしまい周囲からバカにされた、カルピスの三島海雲のほうにより共感をおぼえるのだが……。
 さて、大震災肥り……いや失礼、千載一遇の天佑で事業拡大をなしとげた守山商会は、駅の売店を仕切る鉄道弘済会へ深く食いこみ、守山牛乳と守山コーヒー牛乳の販路を全国の省線各駅へと拡げていった。工場も大幅に拡張し、平塚町宮の前に本社機能を残したまま、馬入川(相模川)河口の左岸(茅ヶ崎町中島)へ、巨大な守山商会平塚工場&研究所を開設するまでになっている。
 そして、守山コーヒー牛乳や守山牛乳のほかに、新製品として国産無糖煉乳「富士ミルククリーム」、育児用煉乳「富士ミルク」、「アテナミルク」(輸出用)、「守山グリコ牛乳」、「守山アイスクリームの素」、「ビタマウスミルク」(輸出用)などを次々と開発していった。わたしが子ども時代をすごした、親しみのある懐かしい湘南の地場産業とはいえ、美辞麗句やウソは書けないので事実を記事にしてみたしだい。次回は、全国的に大ヒットした守山コーヒー牛乳にニセモノが現われ、警視庁衛生部を巻きこみ事件にまでなったエピソードをご紹介したい。
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 現在は、牛乳の市販をやめてしまったらしい守山乳業だが、スーパーなどではプラスチックカップに入った、「喫茶店の味ココア」や「はちみつレモネードティー」などを買うことができる。ためしに飲んでみたが、1960~70年代の砂糖をたっぷり入れた「非常に甘い=美味しい」時代の飲み物のような仕上がりで、わたしの口には合わなかった。

◆写真上:戦後間もないころの、守山乳業が製造していた「牛乳文化牛乳」壜。コーヒー牛乳(右)と通常の牛乳(左)で、封入には金属の王冠が用いられていた。
◆写真中上は、日向時代の守山商会で中央の人家あたりに工場があった。正面中央の山向こうには日向薬師があり、左手の高い山は江戸期の大山詣りで有名な大山(阿夫利山)。中上は、日向薬師へ向かう同所の現状。中下は、七沢時代の守山事業所兼工場で中央下の建物。は、冒頭の空き瓶の一部拡大。
◆写真中下は、帆船がもやう昭和初期の馬入川(相模川)河口。中上は、1938年(昭和13)撮影の茅ヶ崎町中島に建つ守山商会平塚工場&研究所。中下は、同年に撮影された守山酪農研究所。は、1946年(昭和21)に撮影された守山平塚工場。建物が残っているように見えるが、1945年(昭和20)7月16日夜の平塚大空襲で全焼している。
◆写真下は、農業と酪農を兼業する昭和初期にみられた大磯の典型農家。中上は、1923年(大正12)に撮影された関東大震災直後の馬入川(相模川)Click!の様子。国道1号線の馬入橋が崩落し、臨時に渡し舟が運行されていた。中下は、守山商会の空き壜に刻印された同社のトレードマーク。は、守山乳業の現行製品で「喫茶店の味ココア」(左)と「はちみつレモネードティー」(右)。

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