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<title>落合道人　Ochiai-Dojin</title>
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<description>下落合と上落合を中心に、周辺で起きた物語を想いにまかせて綴っていきます。テーマは「わたしの落合町誌」。記事のご利用についてはご一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。</description>
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<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-05-20T11:45:24+09:00</dc:date>
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<title>目白雑司ヶ谷の金山には石堂派がいた。</title>
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<description>　高田町(現・目白)の四ツ家Click!の先に、明治時代の地図から「金山(かなやま)」という小字を見つけていた。そこには、金川(かながわ)が流れていて隣接する南西側の一帯は「目白」と呼ばれていた。現在の目白駅から、東へ1,000mほどいったエリアで、鬼子母神が出現した「清土(せいど)」のごく近くだ。これだけ、“らしい”地名がそろっている場所は少ないので、必ず大鍛冶小鍛冶に関連のある工房、あるいは人物が住んでいただろうとあたりをつけていたのだが、先日、『高田村誌』を読んでいたら、ようやく刀鍛冶(小鍛冶)がいたことが判明した。　もともと高田地域は「金」の付く地名が多いが、これは「黄金(こがね)」のことではなく、中世以前から表現されている金属用語としての“鉄(かね)”のことだ。鉄を制する者が、武器や農具などを大量に生産でき、豊かな経済基盤をもとに勢力を伸ばせる時代が、弥生時代からずいぶん長くつづいた。「金山」といえば、山砂鉄あるいは川砂鉄が湧く丘陵のことであり、「金川」といえば川砂鉄がカンナ流しClick!によって採取できる渓流のことだ。そして、「目白」はタタラ製鉄(大鍛冶)によって精錬された“鋼(はがね)”の古語であり、江戸期まで刀鍛冶の間でつかわれていた用語でもある。ちなみに、目白にある「金川」は、埋め立てられてしまった弦巻川の古名だろうか。　わたしは刀剣Click!が好きなので、日本各地の地名と古代から中世にかけての大鍛冶小鍛冶との関連を調べてきたけれど、これほどみごとにセットになった地名は全国的にもめずらしい。しかも、時代や流派まで特定できる、刀鍛冶の氏名までが判明しているケースもまれだ。目白の金山に住んでいたのは関東の石堂(いしどう)、すなわち江戸期に入ると新刀Click!から幕末の新々刀Click!にいたる石堂派を形成し、石堂是一(これかず)や石堂運寿是一(7代)らを輩出した備前伝(「伝」は刀の造り方)の一派だ。金山に工房をかまえていたのは、『高田村誌』によれば元亀(1570～1573年)ごろの室町後期だが、それ以前から関東へとやってきていたのだろう。　石堂派は、もともと近江(滋賀)の石堂村から分岐し、室町期から江戸期にかけて全国へ散っていった刀鍛冶の一派だが、関東では明治期にいたるまでの400年間、相対的に目立たず地味な刀工集団だった。余談だけれど、江戸期の延宝年間(1673～1681年)ごろに活躍した、..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E98791E5B1B11.JPG" border="0" alt="金山1.JPG" width="450" height="337" /><br />　高田町(現・目白)の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-07-14" target="_blank">四ツ家</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の先に、明治時代の地図から「金山(かなやま)」という小字を見つけていた。そこには、金川(かながわ)が流れていて隣接する南西側の一帯は「目白」と呼ばれていた。現在の目白駅から、東へ1,000mほどいったエリアで、鬼子母神が出現した「清土(せいど)」のごく近くだ。これだけ、“らしい”地名がそろっている場所は少ないので、必ず大鍛冶小鍛冶に関連のある工房、あるいは人物が住んでいただろうとあたりをつけていたのだが、先日、『高田村誌』を読んでいたら、ようやく刀鍛冶(小鍛冶)がいたことが判明した。<br />　もともと高田地域は「金」の付く地名が多いが、これは「黄金(こがね)」のことではなく、中世以前から表現されている金属用語としての“鉄(かね)”のことだ。鉄を制する者が、武器や農具などを大量に生産でき、豊かな経済基盤をもとに勢力を伸ばせる時代が、弥生時代からずいぶん長くつづいた。「金山」といえば、山砂鉄あるいは川砂鉄が湧く丘陵のことであり、「金川」といえば川砂鉄が<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-10-31" target="_blank">カンナ流し</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>によって採取できる渓流のことだ。そして、「目白」はタタラ製鉄(大鍛冶)によって精錬された“鋼(はがね)”の古語であり、江戸期まで刀鍛冶の間でつかわれていた用語でもある。ちなみに、目白にある「金川」は、埋め立てられてしまった弦巻川の古名だろうか。<br />　わたしは<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-06-16" target="_blank">刀剣</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が好きなので、日本各地の地名と古代から中世にかけての大鍛冶小鍛冶との関連を調べてきたけれど、これほどみごとにセットになった地名は全国的にもめずらしい。しかも、時代や流派まで特定できる、刀鍛冶の氏名までが判明しているケースもまれだ。目白の金山に住んでいたのは関東の石堂(いしどう)、すなわち江戸期に入ると<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-10-03" target="_blank">新刀</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>から幕末の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-11-08" target="_blank">新々刀</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>にいたる石堂派を形成し、石堂是一(これかず)や石堂運寿是一(7代)らを輩出した備前伝(「伝」は刀の造り方)の一派だ。金山に工房をかまえていたのは、『高田村誌』によれば元亀(1570～1573年)ごろの室町後期だが、それ以前から関東へとやってきていたのだろう。<br />　石堂派は、もともと近江(滋賀)の石堂村から分岐し、室町期から江戸期にかけて全国へ散っていった刀鍛冶の一派だが、関東では明治期にいたるまでの400年間、相対的に目立たず地味な刀工集団だった。余談だけれど、江戸期の延宝年間(1673～1681年)ごろに活躍した、もっとも有名な石堂武蔵大掾是一は、鎌倉期の備前一文字派のような鎌倉古作を思わせる刀を数多く焼いているが、のちに茎(なかご)の石堂是一の銘を丸ごと消されて、備前一文字作に化けた作品が多数存在するといわれており、刀剣界では要注意の課題となっている。<br />　関東では鎌倉期から、正宗や貞宗を生んだ相州伝が東日本の武家全体に浸透し、室町後期からはその作品が全国的に人気を博していくので、室町以降の昔ながらの備前伝を焼いていたと思われる関東石堂派は、あまり流行らなかったのではないかと想像できる。でも、室町後期から末期(ちなみに「戦国時代」という時代区分は刀剣史には存在しない)に入ると、中国や朝鮮では日本刀の人気が沸騰し、西日本では良質な砂鉄が近くで採取できる備前鍛冶(岡山)、あるいは三原鍛冶(広島)を中心に、数十万振りといわれる膨大な量の日本刀が両国へ輸出されたと伝えられている。また、室町末期に国内の戦乱が激しくなってくると、美濃鍛冶(岐阜)や備前鍛冶はきわめて戦闘用で実用本位な刀を造りはじめ、中には「数打ちもの」と呼ばれた大量生産品、すぐにしなえ(曲がり)や刃切れが生じたり折れたりする、鋼の鍛錬も焼きも足りない粗悪品が数多く流通するようになる。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E6B19FE688B8E6988EE6B2BBE9878DE381ADE59CB0E59BB3-d294e.jpg" border="0" alt="江戸明治重ね地図.jpg" width="255" height="246" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59CB0E5BDA2E59BB31910-ecf04.jpg" border="0" alt="地形図1910.jpg" width="255" height="246" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E781ABE4BF9DE59BB31938-21872.jpg" border="0" alt="火保図1938.jpg" width="255" height="235" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E98791E5B1B12.jpg" border="0" alt="金山2.jpg" width="255" height="235" /><br />　そのような時代状況の中で、目白の金山に住んでいた石堂工房では、どのような作刀が行われていたのだろうか？　石堂孫左衛門について、1919年(大正8)の『高田村誌』から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼</font><br />　<font color="#333399">金山稲荷</font>　／　雑司谷金山の東にあり元亀年間此所の刀鍛冶石堂孫左衛門宅地にて稲荷を安置し常に刀剣の妙を祈念す、老て其所に入定すと言伝ふ、然るに文化の頃此地を開墾せし折一個の石櫃を掘得、蓋を退けて閲するに帽子装束せし故骨全体具足して生るゝが如く暫時にして崩れたり、是なん石堂氏入定の故骨なりと言ふ。<br />　　<font color="#008000">▲</font><br />　荒々しいチケイや金筋、銀砂を散らしたような錵(にえ)を見せ、抜群の斬れ味を誇る日本刀の代名詞のような鎌倉の相州伝による作品群を前に、室町期の関東石堂派は備前伝へどのような工夫をほどこしたのだろう？　備前伝の古作が備えた特徴は、丁子(ちょうじ)乱れや互(ぐ)ノ目混じり乱刃(らんば)の繊細で華々しい、どちらかといえば貴族趣味っぽい刀を焼いてきた。でも、関東ではそのような景色(刀剣美)は好まれず、人気がなかったのではなかろうか。あるいは、美術品としての鑑賞刀に徹し、関東のニッチな備前伝ファンの武家ために、江戸の石堂武蔵大掾是一がそうしたように、古来からの徹底した伝法を再現し守りつづけたのだろうか？<br />　室町の最末期から江戸期に入り、砂鉄から手間ヒマかけて鋼を精錬するタタラが廃れ、鉄鉱石による大量生産の鋼が輸入されるようになると、刀の質が大きく変わり新刀の時代を迎える。それまで、関東各地にいたと思われる石堂派は江戸市街に集まり、代々石堂是一を襲名するようになった。江戸後期に、上州館林の秋元藩中屋敷で<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-01-05" target="_blank">水心子正秀</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が新々刀を唱え、砂鉄タタラの復興と、古来からの作刀技術への回帰を提唱しはじめると、石堂派も新々刀へ取り組み、古(いにしえ)の備前伝再現へ注力しはじめている。江戸期を通じて、地味な存在の石堂一派だが、幕末に石堂運寿是一を輩出したことで刀剣史の最後を飾る仕事を残している。<br />　幕末の運寿是一は、備前伝へ相州伝のような美しい錵(にえ)を表現して人気が高かった、室町初期の刀工・備前兼光の造りを強く意識し、相州伝に備前伝を抱合したような作風で高い人気を誇った。これらの作品は、「兼光写し」あるいは「相伝備前」と呼ばれて運寿是一の特徴となっている。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E98791E5B1B13-f92ef.JPG" border="0" alt="金山3.JPG" width="520" height="390" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E98791E5B1B15-d5daf.JPG" border="0" alt="金山5.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E98791E5B1B14-35553.JPG" border="0" alt="金山4.JPG" width="255" height="191" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E98791E5B1B16.JPG" border="0" alt="金山6.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B889E8A792E5AF9BE697A7E982B8-2b781.JPG" border="0" alt="三角寛旧邸.JPG" width="255" height="191" /><br />　目白の石堂工房は、敷地内に「金山稲荷」を奉っているが、これは同じ高田村(現・目白)の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-06-28" target="_blank">金久保沢</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>にある<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-09-25" target="_blank">豊坂稲荷</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と同様、江戸期が近づくにつれ農業神へと変貌していく「稲荷」ではなく、それ以前の産鉄神として奉られた本来の「鋳成」神の姿だろう。町場では開運厄除けの神として、農村では凶作除けの神として、江戸期には大量に勧請された稲荷なのだが、田畑や街中ではなく丘陵の斜面や谷間、湧水源などに奉られた社は、古くからのいわれや伝承がもはや失われた「鋳成」神の転化をまず疑いたい。また、そのような立地の稲荷は、多くの場合「弁天」あるいは「市杵嶋姫」を同時に奉っているケースも多い。目白の金山稲荷は、「金(かね)」地名と鋳成(稲荷)、そして小鍛冶工房の存在と、3拍子揃った江戸東京でもめずらしいケースだ。<br />　金山稲荷は、石堂工房の移転とともに江戸期には廃社となってしまったようだが、不思議なことに明治から大正期の地図には再び復活して、鳥居マークが地図類に収録されている。当時、「金山稲荷」の存在を知った地元の有志たちが、稲荷社を再興して社殿を建立しているのかもしれない。でも、戦後になると再び廃社となり、現在では社殿跡さえ残っていない。<br />　金山稲荷の経緯は、これでおしまいではなかった。昭和に入り、地元で新たな資料が発見されて、元文年間(1736～1740年)に金山稲荷跡の斜面(現・日本女子大付属寮)が崩れ、鎌倉期のやぐらが発見されている。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』には、元・石堂工房のあった敷地裏の崖から、鎌倉時代の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-04-20" target="_blank">やぐら</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(おもに鎌倉武士の横穴式墓地)が発見され、しかも棺の中から人骨とともに新藤五國光(鎌倉の相州伝鍛冶の実質的な創始者)の短刀が、副葬品として見つかったことが記載されている。國光作の短刀が出土する経緯を、同町史のから引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼</font><br />　<font color="#333399">金山稲荷社(無格社)　雑司谷三百三十四番地(新町名／雑司谷町一丁目)</font>　／　(前略) この神社の西方に断崖があり、元文年中に崩れたが、其処の横穴の中は二段となり、上の段には骸骨又は國光の短刀があつた。其の短刀は戸張平次左衛門の家に伝来すると云はれ、下段の穴には、骸骨のみあり、刀はなかつたと称へらる。文化年間、この地を開墾し、一の石櫃を掘り出し、蓋を開きたるに、烏帽子装束の古骨であつた。之は石堂氏の遺骸であらうと口碑に残つて居る。<br />　　<font color="#008000">▲</font><br />　これは、鎌倉期からこの地に有力な武家、ないしは大鍛冶小鍛冶に関連したなんらかの集団が住みつづけており、しかも当時から貴重で高額だったと思われる國光の短刀を所有し、副葬品として惜しげもなく埋葬できるほどの富と勢力を誇っていたことが想定できる。國光は正宗の師匠筋にあたり、出土した短刀の状態がよく、研磨が十分にできて保存されたとすると、今日では見つかればすぐにも“国宝”に指定される作品だ。彫刻の世界でいえば、同じ鎌倉期の運慶作の仏像が発見されたほどのインパクトだろう。この短刀が、現在どこに収蔵されているのかは残念ながら不明だ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E58299E5898DE4B880E69687E5AD97E58987E688BF-a3257.jpg" border="0" alt="備前一文字則房.jpg" width="520" height="239" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E79FB3E5A082E9818BE5AFBFE698AFE4B8801.jpg" border="0" alt="石堂運寿是一1.jpg" width="520" height="142" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E79FB3E5A082E9818BE5AFBFE698AFE4B8802-cf74c.jpg" border="0" alt="石堂運寿是一2.jpg" width="520" height="120" /><br />　『高田村誌』には、地名などにルビがふられているケースが目立ち、とても興味深い記述も多い。目白や下落合では、古くから「きよとみち」と呼ばれることが多い<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-12-13" target="_blank">清戸道</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(ほぼ現在の目白通り)だが、『高田村誌』では一貫して「せいどどう」と発音されている。想像していたとおり、やはり清戸は「せいど」なのだ。鬼子母神の出現地である清土(せいど)ともども、本来は方言で濁らず「せいと」ではないか。古来から、この道沿いに「せいとばれえ」(江戸方言＝<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-12-16" target="_blank">どんど焼き</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>)と呼ばれる正月の厄払い火祭りが行われていた祭域(聖域)を貫く通り、それが「清戸道」だったのではないか？</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：金山の麓にある、おそらく大正期と思われる美しい和洋折衷住宅の和館部。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、「今昔散歩重ね地図」(ジャピール)で江戸期と明治期の金山界隈を透過した地図。<font color="#3366ff">上右</font>は、1910年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる復活した金山稲荷。<font color="#3366ff">下左</font>は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる金山界隈。<font color="#3366ff">下右</font>は、宅地造成中の金山の崖線で、画面の右手にむき出しになった崖の中腹に金山稲荷が建立されていたと思われる。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上</font>と<font color="#3366ff">中左</font>は、同じく宅地造成中の金山崖線で上に見えている建物が日本女子大の寮。<font color="#3366ff">中右</font>は、冒頭に掲載した和洋折衷住宅の洋館部。<font color="#3366ff">下左</font>は、金山の東側斜面を通う坂道で右手が日本女子大寮。<font color="#3366ff">下右</font>は、金山稲荷跡の斜面下にある「サンカ小説」で有名な旧・三角寛邸。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、鎌倉中期の備前一文字派(片山一文字)の代表刀工・則房が焼いた丁子乱れ。<font color="#3366ff">中</font>は、いまでも新々刀では人気が高い幕末の刀工・石堂運寿是一の銘。<font color="#3366ff">下</font>は、石堂運寿是一が焼いた刀の丁子刃。匂(におい)本位が主流だった一文字派の古い備前伝とは、もはや似ても似つかない豪壮な荒錵(あらにえ)がつき、人気の相州伝を取り入れた鎌倉期の備前兼光を想起させる刃文だ。すでに相州伝の範疇に入る、いわゆる「相伝備前」と呼ばれる典型作。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-17">
<title>下落合の家々をねらう「ルパン二世」。(下)</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-17</link>
<description>　読売新聞が「怪盗ルパン二世」事件Click!を報じたのは、1946年(昭和21)6月20日と朝日新聞に比べ17日もあとのことだ。しかも、読売新聞では犯人がすべて仮名報道となっている。犯人の中に16歳の少年が混じっていたためか、それとも人を傷つけないで「仕事」をしており、どこかユーモラスな犯人像に憐憫の情がわいたのか、当初は記事の書き方に配慮したものと思っていたのだが、読売はこの時期、社会面に載せる犯人の名前はほとんどが仮名扱いとなっている。おそらく、警備不十分な新聞社への報復を怖れていたのではないか。　報道が遅いのは、強盗団の全貌が明らかとなり、事件の関係者14名がすべて検挙されるのを待っていたようにも思える。同年6月20日の記事を、全文引用してみよう。　　▼　和製ルパン五人組／一味検挙・被害百万円　稀代の怪盗ルパンをまね、脅迫状をつきつけて東京を荒し廻ついてゐた和製ルパン五人組があつけなくも十八日戸塚署に検挙された、門田常二(二二) 高橋進(二一) 佐藤義夫(二二) 富田正作(二一) 原次郎(二五)＝いづ&amp;lt;ママ&amp;gt;れも仮名、住所不定＝で映画もどきに侵入前に投書で予告し犯行をつゞけてゐたもので、去る五月廿八日淀橋区下落合四の一九八〇著述業佐々木展雄さん方へ『今夜お伺ひする、ルパンより』と書いた紙片を投げ込み、つゞいて去る二日夜八時ごろ同家へ五人連れで玄関から侵入、ピストルをつきつけ／『おれたちはルパンだ、お約束のものを貰ひにきた』／と凄文句をならべ家人全部を縛りあげ、悠々と家内を物色、現金、洋服、写真機など時価二万円にのぼる金品を強奪逃走、これを手はじめに同じ方法で都内各所を荒し廻つてゐたがさすがのルパンも悪運つきて去る三日同区下落合四の二一四七八木鈴さん方へいつもの紙片を投げ込み、十六日同家へ侵入しようとしたところを張込み中にの刑事&amp;lt;ママ&amp;gt;富田がまづ&amp;lt;ママ&amp;gt;逮捕され、その後いもづる式に一味五人が検挙となつたもの、同署では目下厳重取調べ中であるがすでに自供した犯行だけでも五十数件、約百万円にのぼる見込み／なほこのほかまだルパンに推参され届出のない家庭も相当あるとみられてゐる　(&amp;lt;&amp;gt;内は引用者註)　　▲　この記事で、「今夜お伺ひする、ルパンより」と予告状を受けとったのが、下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)の佐々木邸と、下落合4丁目2147番地(同前)の八木邸だ..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-05-17T19:35:34+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E383ABE38391E383B3E381AEE5A4A7E5A4B1E69597.jpg" border="0" alt="ルパンの大失敗.jpg" width="450" height="345" /><br />　読売新聞が<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14" target="_blank">「怪盗ルパン二世」事件</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を報じたのは、1946年(昭和21)6月20日と朝日新聞に比べ17日もあとのことだ。しかも、読売新聞では犯人がすべて仮名報道となっている。犯人の中に16歳の少年が混じっていたためか、それとも人を傷つけないで「仕事」をしており、どこかユーモラスな犯人像に憐憫の情がわいたのか、当初は記事の書き方に配慮したものと思っていたのだが、読売はこの時期、社会面に載せる犯人の名前はほとんどが仮名扱いとなっている。おそらく、警備不十分な新聞社への報復を怖れていたのではないか。<br />　報道が遅いのは、強盗団の全貌が明らかとなり、事件の関係者14名がすべて検挙されるのを待っていたようにも思える。同年6月20日の記事を、全文引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font><font color="#333399">　和製ルパン五人組／一味検挙・被害百万円<br /></font>　稀代の怪盗ルパンをまね、脅迫状をつきつけて東京を荒し廻ついてゐた和製ルパン五人組があつけなくも十八日戸塚署に検挙された、門田常二(二二) 高橋進(二一) 佐藤義夫(二二) 富田正作(二一) 原次郎(二五)＝いづ&lt;ママ&gt;れも仮名、住所不定＝で映画もどきに侵入前に投書で予告し犯行をつゞけてゐたもので、去る五月廿八日淀橋区下落合四の一九八〇著述業佐々木展雄さん方へ『今夜お伺ひする、ルパンより』と書いた紙片を投げ込み、つゞいて去る二日夜八時ごろ同家へ五人連れで玄関から侵入、ピストルをつきつけ／『おれたちはルパンだ、お約束のものを貰ひにきた』／と凄文句をならべ家人全部を縛りあげ、悠々と家内を物色、現金、洋服、写真機など時価二万円にのぼる金品を強奪逃走、これを手はじめに同じ方法で都内各所を荒し廻つてゐたがさすがのルパンも悪運つきて去る三日同区下落合四の二一四七八木鈴さん方へいつもの紙片を投げ込み、十六日同家へ侵入しようとしたところを張込み中にの刑事&lt;ママ&gt;富田がまづ&lt;ママ&gt;逮捕され、その後いもづる式に一味五人が検挙となつたもの、同署では目下厳重取調べ中であるがすでに自供した犯行だけでも五十数件、約百万円にのぼる見込み／なほこのほかまだルパンに推参され届出のない家庭も相当あるとみられてゐる　(&lt;&gt;内は引用者註)<br />　　<font color="#008000">▲<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8AAADE5A3B2E696B0E8819E19460620-cc5b8.jpg" border="0" alt="読売新聞19460620.jpg" width="520" height="447" /><br /></font>　この記事で、「今夜お伺ひする、ルパンより」と予告状を受けとったのが、下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)の佐々木邸と、下落合4丁目2147番地(同前)の八木邸だったのがわかる。佐々木邸は、<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/saeki.htm" target="_blank">佐伯祐三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/saeki2/point.htm" target="_blank">『下落合風景』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を描くために蘭塔坂(二ノ坂)上へイーゼルを立てた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-09-07" target="_blank">現場</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の、まさに画面の左手(東側)枠外の敷地にあたる邸だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、比較的大きな邸宅だったのがわかる。下落合4丁目(現・中井2丁目)の全域は、ほとんど戦時中に空襲の被害を受けておらず、戦後も大正期から昭和初期の家々が建ち並ぶ、緑の多い閑静な住宅街だった。一方、八木邸は七ノ坂の中腹にある大正期に建てられた邸で、下落合4丁目2147番地へと地番変更になる前の「火保図」では2151番地となっている。<br />　いずれの邸も、オシャレな西洋館か和洋折衷の住宅だったのではないかと思われる。つまり、「怪盗ルパン二世」一味は、中井駅の北側に拡がる<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-03" target="_blank">アビラ村(芸術村)</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の住宅街をつれづれ下見しながら、予告状を投げこむ邸宅を物色していたことになる。でも、根っからのドジな「怪盗ルパン二世」は、予告状を投げこんだ八木邸へ、ちゃんとお約束どおり律儀に侵入しようとして、待ちかまえていた警官隊にまず一味のひとりが逮捕され、次々と実行犯の5人が捕まってしまった。引きつづき、6月20日までの間に従犯を含めた全員が検挙されている。<br />　読売と朝日の記事を比較すると、両紙の間で時系列的な齟齬が生じている。朝日では、6月2日までに主犯の男5人＋従犯らしい女ひとりが逮捕されたと、翌3日に実名で報道されているのに対し、読売では6月16日に八木邸へ侵入しようとした主犯のひとりが逮捕され、のちに一味5人が検挙されたことになっている。逮捕される前に主犯格5人の実名がわかるはずはないので、明らかに読売の記事に書かれた日にちがおかしいことになる。これは、犯人一味が東京地検へ送検された日にちを、逮捕日と勘違いして記述したのではないだろうか？<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BD90E38085E69CA8E982B8E7958CE99A88-94753.JPG" border="0" alt="佐々木邸界隈.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E585ABE69CA8E982B8E7958CE99A88-f3b5d.jpg" border="0" alt="八木邸界隈.jpg" width="255" height="191" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BD90E38085E69CA8E982B81938.jpg" border="0" alt="佐々木邸1938.jpg" width="256" height="320" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E585ABE69CA8E982B81938-056b1.jpg" border="0" alt="八木邸1938.jpg" width="255" height="320" /><br />　読売の記者は、「怪盗ルパン二世」をどこかユーモラスに描こうとしたフシが見えるのだが、当時の新聞には殺人を含む凄惨な強盗事件が、連日にわたり掲載されていた。たとえば、同年6月9日の読売新聞には、新宿を中心とする住所不定の不良少年10人組が西大久保や中野の住宅へ日本刀を手に押し入り、一家をメッタ斬りにして金品を強奪する事件が起きている。まるで、江戸期の押込盗賊のような仕業だが、このような凄惨で救いようのない事件に比べれば、ドジでオマヌケな「怪盗ルパン二世」一味はまだかわいげのあるマシな事件のように思えたのだろう。<br />　読売新聞ついでに、面白い記事のコピーをいただいたのでオマケにご紹介したい。新宿中村屋が金庫破りにねらわれた記事で、戦後ではなく戦前の1937年(昭和12)3月1日夜半に起きた事件だ。破られた金庫の写真がデカデカと掲載された、同年3月2日の記事から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font><font color="#333399">　新宿・深夜の怪犯行／中村屋の金庫破り<br />　一階大金庫に失敗、更に地下室で／一千四百余円を奪</font>ふ<br />　一日朝七時半ごろ淀橋区角筈一ノ一二中村屋菓子店(経営者相馬愛蔵氏)で女店員星眞木子(三二)さんが出勤すると同店地下室の金庫の扉がヤスリで破壊され前夜同金庫にしまつた売上金一千四百廿九円がそつくり盗まれてゐた、淀橋署では新宿目貫きの場所の大胆な犯行に驚き係官が現場にかけつけて調べてゐるが、賊は店内はいたるところ荒し廻つてゐる形跡があり、一階の帳場にある一万五千円入りの金庫も破りかけたらしく錠前は壊されてゐるが幸ひ頑丈たので盗まれなかつた、破られた金庫は書類金庫で幅が三尺、高さ四尺五寸であるが薄い鉄板なので簡単に破られたものらしい、(以下略)<br />　　<font color="#008000">▲<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8AAADE5A3B2E696B0E8819E19460609-7427d.jpg" border="0" alt="読売新聞19460609.jpg" width="215" height="329" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8AAADE5A3B2E696B0E8819E19370302-44f18.jpg" border="0" alt="読売新聞19370302.jpg" width="295" height="329" /><br /></font>　メインの金庫は無事だったらしいが、前日の売上げを収めた書類金庫が破られている。「山手銀座通り」(新宿通り)に面した大店をねらった、こちらのほうがよほど「怪盗ルパン」っぽいのだけれど、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-05-08" target="_blank">相馬愛蔵</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>・<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-09-29" target="_blank">黒光</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>夫妻のもとへは、どうやら予告状はとどかなかったようだ。ちなみに、この時期の中村屋は、従業員200名余を数える新宿の大店へと成長していた。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：2005年(平成17)にポプラ社から出版された、『ルパンの大失敗』の表紙イラスト。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：1946年(昭和21)6月20日の読売新聞から、「怪盗ルパン」一味逮捕の記事。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、旧・下落合4丁目1980番地の佐々木邸界隈。右側が佐々木邸跡で、道を進んだ左側が徳川義忠邸跡。<font color="#3366ff">上右</font>は、旧・下落合4丁目2147番地の八木邸界隈。中ノ道へと下る、七ノ坂の中腹左手が当時の八木邸跡。<font color="#3366ff">下</font>は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる佐々木邸と八木邸。八木邸は当時、2147番地ではなく2151番地として採取されている。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、1946年(昭和21)6月9日の読売新聞から、新宿周辺を荒しまわる日本刀を持った少年10人組による凄惨な強盗事件記事。<font color="#3366ff">右</font>は、1937年(昭和12)3月2日の読売新聞から、新宿中村屋の金庫破り事件記事。写真は、ヤスリで破られたロッカー状の書類金庫。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14">
<title>下落合の家々をねらう「ルパン二世」。(上)</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14</link>
<description>　敗戦から1年もたたない、1946年(昭和21)6月3日の朝日新聞に、当時としてはあまりめずらしくない強盗事件Click!の犯人逮捕を報じるベタ記事が掲載された。戦後の混乱期を反映して、新聞には連日にわたり強盗や泥棒、傷害事件の報道が見られる。新聞は裏表の2面しか印刷されない時代で、絞られたニュースの中での報道だけに、ことさら注目を集めた事件だったのだろう。　　▼　女も混る強盗団逮捕　警視庁では二日女もまじへた六人組強盗被疑者を検挙した、住所不定茨城県生れ無職田代ＸＸ（二五） 鹿児島県生れ富山ＸＸ（二一） 埼玉県生れテキ屋乾兒＜こぶん＞松沢ＸＸ（一六） 東京生まれ前科一犯桜井ＸＸ(二二) 栃木県生れ松澤ＸＸ（二二） 東京生れ元箱根遊覧バス車掌大畑ＸＸ(二五)で彼等は二十八日午前二時淀橋区十二社三一五旅館業池田仲次郎さん方で家人を縛り、千五百円、衣類三十一点合計約一万円を奪つたのを手始めに洋服、衣類等数万円を稼ぎ賊品は上野の闇市でかせいでゐた（ＸＸの伏字と＜＞内は引用者）　　▲　強盗団には女性が混じっていたことで、ことさら関心を惹いた事件だと思われるのだが、被害者には悪いけれど、当時の凶悪事件がつづく世相では、別にそれほどたいした事件だとは思われない。また、犯人たちは被害者を縛るだけで傷つけているわけでもない。でも、この強盗団は「怪盗ルパン」を名のって、いちいち押し入る被害者宅へあらかじめマメに予告状を送りつけており、しかもおもな舞台が下落合だったことから、がぜん、わたしの注意を引くことになったのだ。w 　事件は、淀橋区(牛込区と四谷区を含めて新宿区が誕生するのは翌1947年)下落合にある元自由新聞社報道局長の佐々木邸に、「かねて予告しておいたルパンはこの俺だ。静かにせぬと撃つぞ」と、ピストルをもった5人組の強盗団が押し入った。ルブランが描く「怪盗ルパン」はひとりの盗賊なので、不二子ちゃんらしい女性も混じった強盗団は、「ルパン三世」のような構成だったのだろう。いや、時代が早いから「ルパン二世」だ。突きつけたピストルはワルサーP38だったのか、それとも、どこか似ている旧軍の十四年式拳銃だったものか。　奪うのはおカネばかりでなく、衣類や調度品などカネめのものは片っぱしからだったようで、それらを上野の闇市で売りさばいていたらしい。現在では、衣類や調度品を奪ってもたいしてカネにはならないけれど、当時はハイパーインフレCli..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-05-14T18:39:34+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E696B0E5AEBFE784BCE8B7A1E99787E5B882.jpg" border="0" alt="新宿焼跡闇市.jpg" width="450" height="351" /><br />　敗戦から1年もたたない、1946年(昭和21)6月3日の朝日新聞に、当時としてはあまりめずらしくない<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-08-10" target="_blank">強盗事件</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の犯人逮捕を報じるベタ記事が掲載された。戦後の混乱期を反映して、新聞には連日にわたり強盗や泥棒、傷害事件の報道が見られる。新聞は裏表の2面しか印刷されない時代で、絞られたニュースの中での報道だけに、ことさら注目を集めた事件だったのだろう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　<font color="#333399">女も混る強盗団逮捕<br /></font>　警視庁では二日女もまじへた六人組強盗被疑者を検挙した、住所不定茨城県生れ無職田代ＸＸ（二五） 鹿児島県生れ富山ＸＸ（二一） 埼玉県生れテキ屋乾兒＜こぶん＞松沢ＸＸ（一六） 東京生まれ前科一犯桜井ＸＸ(二二) 栃木県生れ松澤ＸＸ（二二） 東京生れ元箱根遊覧バス車掌大畑ＸＸ(二五)で彼等は二十八日午前二時淀橋区十二社三一五旅館業池田仲次郎さん方で家人を縛り、千五百円、衣類三十一点合計約一万円を奪つたのを手始めに洋服、衣類等数万円を稼ぎ賊品は上野の闇市でかせいでゐた（ＸＸの伏字と＜＞内は引用者）<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　強盗団には女性が混じっていたことで、ことさら関心を惹いた事件だと思われるのだが、被害者には悪いけれど、当時の凶悪事件がつづく世相では、別にそれほどたいした事件だとは思われない。また、犯人たちは被害者を縛るだけで傷つけているわけでもない。でも、この強盗団は「怪盗ルパン」を名のって、いちいち押し入る被害者宅へあらかじめマメに予告状を送りつけており、しかもおもな舞台が下落合だったことから、がぜん、わたしの注意を引くことになったのだ。w<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69C9DE697A519460603-6c985.jpg" border="0" alt="朝日19460603.jpg" width="520" height="164" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B9B3E4BA95E5B79DE9968BE5A2BE19460603-3b42b.jpg" border="0" alt="平井川開墾19460603.jpg" width="300" height="318" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E980B2E9A790E8BB8DE58B9FE99B86E5BA83E5918A19460603-6d78e.jpg" border="0" alt="進駐軍募集広告19460603.jpg" width="210" height="318" /><br />　事件は、淀橋区(牛込区と四谷区を含めて新宿区が誕生するのは翌1947年)下落合にある元自由新聞社報道局長の佐々木邸に、「かねて予告しておいたルパンはこの俺だ。静かにせぬと撃つぞ」と、ピストルをもった5人組の強盗団が押し入った。ルブランが描く「怪盗ルパン」はひとりの盗賊なので、不二子ちゃんらしい女性も混じった強盗団は、「ルパン三世」のような構成だったのだろう。いや、時代が早いから「ルパン二世」だ。突きつけたピストルはワルサーP38だったのか、それとも、どこか似ている旧軍の十四年式拳銃だったものか。<br />　奪うのはおカネばかりでなく、衣類や調度品などカネめのものは片っぱしからだったようで、それらを上野の闇市で売りさばいていたらしい。現在では、衣類や調度品を奪ってもたいしてカネにはならないけれど、当時は<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-02-19" target="_blank">ハイパーインフレ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>により交換価値が下がりつづける貨幣よりも、絶対的に不足していた日用品や調度品などモノのほうが、よほど価値があったのだ。<br />　佐々木邸につづき、同じく下落合の仙台農地開発団職員の八木邸と、近接する日本貯蓄銀行職員の川崎邸に、「怪盗ルパン」名で強盗を予告する脅迫状を送りつけている。脅迫状がとどくのは、たび重なる<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-03-09" target="_blank">山手空襲</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>にもかろうじて焼け残った、昭和初期までは東京市外にあたる旧・下落合西部の住宅であり、強盗たちは焦土と化した東京市街では「商売」にならなかった様子がうかがえる。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B88BE890BDE59088E9AB98E9AB98E5BAA61947.jpg" border="0" alt="下落合高高度1947.jpg" width="520" height="212" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A8E982B81-78926.jpg" border="0" alt="下落合東部邸1.jpg" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A8E982B82-96386.jpg" border="0" alt="下落合東部邸2.jpg" width="255" height="191" /><br />　警視庁からは、銭形警部が出動したかどうかは記事に書かれていないけれど、1946年(昭和21)5月28日の淀橋区十二社にあった旅館の強盗事件で、まず一味の富山某が逮捕され、彼の自供から5人の仲間たちがいることが判明している。すなわち、それが記事に出ている残りの5名だ。そして、6月2日までにメンバーが次々と検挙されることになった。その後、7月までの捜査で強盗団「怪盗ルパン」は、実行犯5人のほかに、女性ふたりを含む合計14人の大強盗団であったことが判明し、7月19日までに全員が警視庁に逮捕されている。<br />　彼らの自供によれば、強盗や空き巣、窃盗を犯した回数は判明しているだけでも53件にのぼったらしい。「怪盗ルパン」の名前で、被害者宅へ強盗の予告状を送りつけるようになったのは、単なる目立ちたがり屋で、世間を騒がせたかっただけのようだ。<br />　「怪盗ルパン」事件の捜査が進展し、一味がぞくぞくと逮捕されている最中の同年6月18日、「怪盗ルパン」一味から脅迫状を送られた下落合の八木邸に、今度は「共産党ルパン2号」を名のる強盗の予告状がとどいたことから、事件はさらに衆目を集めることとなった。また、ほぼ同時に中野郵便局近くの甫庭邸にも、大学ノートにローマ字で書かれた「共産党ルパン2号」を名のる脅迫状がとどいている。当初は、「怪盗ルパン」一味の残党かと警視庁では疑ったようだが、捜査の結果、結局は中学生のイタズラであることがわかり、この生徒は警察や親からこっぴどく叱られただろう。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E696B0E5AEBFE9A785E69DB1E58FA3E99787E5B882.jpg" border="0" alt="新宿駅東口闇市.jpg" width="255" height="200" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E6B1A0E8A28BE9A785E69DB1E58FA3E99787E5B882-a8609.jpg" border="0" alt="池袋駅東口闇市.jpg" width="255" height="200" /><br />　考えてみれば、「怪盗ルパン」一味が脅迫状を送りつけた家は、勤め人や無職の一般家庭ばかりで、とりたてて大富豪やおカネ持ちではない。あまり大きな屋敷だと、警戒厳重で人も多いと判断したものか、普通の邸宅や高齢の退職者の家庭を中心にねらっていたようだ。それだけ切羽詰まり、食うに困る殺伐とした世相を感じるのだけれど、ホンモノの怪盗ルパンや<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-12-09" target="_blank">怪人二十面相</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が聞いたら、彼らのいい加減な仕事を嘆くだろうか？　それとも、明日をも知れぬ混乱期、「ルパン」を名のるユーモアが残っていたことに、思わずニヤリと頬をゆるめるだろうか？<br />　さて、センセーショナルな事件の話題性から真っ先に飛びつきそうな読売新聞なのだけれど、同紙が事件を報道したのは6月20日とかなり遅い。次回は、読売新聞の記事から事件を見てみよう。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：まだアーケード化もされていない、敗戦直後に撮られた新宿焼け跡闇市。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、1946年(昭和21)6月3日の朝日新聞に掲載された強盗団逮捕の記事。<font color="#3366ff">下</font>は、同日の新聞に掲載された西多摩の平井川河畔における食糧難解消のためのイモ畑開墾ニュース(<font color="#3366ff">左</font>)、および進駐軍勤労部による各種職員の緊急募集広告(<font color="#3366ff">右</font>)。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、いつもの低空写真ではなく1947年(昭和22)に撮影されたB29による高高度からの空中写真。<font color="#3366ff">下</font>は、激しい空襲から焼け残った旧・下落合東部の家々。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、新宿駅東口の闇市。<font color="#3366ff">右</font>は、池袋駅東口の闇市。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-11">
<title>下落合を描いた画家たち・吉武東里。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-11</link>
<description>　先日、下落合地域にある吉武東里設計の島津一郎アトリエClick!でお会いした東京大学の長谷川香様Click!より、吉武東里Click!が制作した絵画作品の画像をお送りいただいた。吉武東里は、もともと京都高等工藝学校図案科の出身であり、建築家であると同時に室内装飾や家具調度などのデザインを手がける、今日でいうなら建築分野のトータルコーディネーター・・・といったところだろうか。したがって、美術方面(特に西洋画)にも多大な関心を寄せていたと思われるのは、洋画家のアトリエをいくつか設計しているのでも明らかだ。　お送りいただいた風景画は、キャンバスがタテのせいもあるのだが画角が非常に狭い。カメラのレンズにたとえるなら、55mmほどの“標準レンズ”、つまり肉眼に近い見え方、描き方だろう。“広角レンズ”の視線をもつ画家たちの作品を見馴れた目には、やや窮屈に感じるのかもしれない。西陽のようなやわらかい陽光が、樹木のまばらな林に射しこんでいる。春なのだろうか、地表に映ずる樹影には枝葉が茂り、地面も新鮮でみずみずしい若草色をしている。土地は、手前に向けて緩傾斜しており、吉武東里の背後には泉から湧く小流れか、あるいはさらに急傾斜の斜面があり、やや大きめな川が流れているのかもしれない。描かれている樹木は、庭に植えられた庭木というより、もともと緩斜面に生えている原生林のようであり、不ぞろいな幹の太さからも自然林の風情を強く感じる。　木立ちを透かして、奥に西洋館と思われる建築が見えている。茶色の外壁をしているようだが、クレオソートClick!を塗布した下見板張りの壁面なのか、あるいはレンガ造りの建物かはマチエールが曖昧なので不明だ。ちなみに落合地域では、明治末以降に建てられた建築がほとんどであり、しかも関東大震災Click!後に建てられた家々も多く、地震の揺れに脆弱なレンガ造りの建物はきわめて少ない。すぐに思い当たるのが、箱根土地Click!の本社ビルClick!ぐらいだろうか。しかし、描かれた建物はレンガ造りのように思えるのだが・・・。　この画面からのみでは、落合地域なのか、同地域であればどの場所を描いたものなのかは不明なのだが、描かれた緩斜面のつづきが目白崖線のようにバッケClick!(崖)状の急斜面にならず、射しこんでいる光が西に傾き気味の太陽であるとするなら、モチーフに選ばれた場所は吉武東里の自邸が建っていた上落合の東部付近・・・..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-05-11T23:50:33+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59089E6ADA6E69DB1E9878CE3808CE890BDE59088E9A2A8E699AFE3808D(E4BBAE).jpg" border="0" alt="吉武東里「落合風景」(仮).jpg" width="400" height="549" /><br />　先日、下落合地域にある吉武東里設計の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-11-16" target="_blank">島津一郎アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>でお会いした東京大学の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-01-15" target="_blank">長谷川香様</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>より、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-26" target="_blank">吉武東里</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が制作した絵画作品の画像をお送りいただいた。吉武東里は、もともと京都高等工藝学校図案科の出身であり、建築家であると同時に室内装飾や家具調度などのデザインを手がける、今日でいうなら建築分野のトータルコーディネーター・・・といったところだろうか。したがって、美術方面(特に西洋画)にも多大な関心を寄せていたと思われるのは、洋画家のアトリエをいくつか設計しているのでも明らかだ。<br />　お送りいただいた風景画は、キャンバスがタテのせいもあるのだが画角が非常に狭い。カメラのレンズにたとえるなら、55mmほどの“標準レンズ”、つまり肉眼に近い見え方、描き方だろう。“広角レンズ”の視線をもつ画家たちの作品を見馴れた目には、やや窮屈に感じるのかもしれない。西陽のようなやわらかい陽光が、樹木のまばらな林に射しこんでいる。春なのだろうか、地表に映ずる樹影には枝葉が茂り、地面も新鮮でみずみずしい若草色をしている。土地は、手前に向けて緩傾斜しており、吉武東里の背後には泉から湧く小流れか、あるいはさらに急傾斜の斜面があり、やや大きめな川が流れているのかもしれない。描かれている樹木は、庭に植えられた庭木というより、もともと緩斜面に生えている原生林のようであり、不ぞろいな幹の太さからも自然林の風情を強く感じる。<br />　木立ちを透かして、奥に西洋館と思われる建築が見えている。茶色の外壁をしているようだが、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-08-25" target="_blank">クレオソート</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を塗布した下見板張りの壁面なのか、あるいはレンガ造りの建物かはマチエールが曖昧なので不明だ。ちなみに落合地域では、明治末以降に建てられた建築がほとんどであり、しかも<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-09-28" target="_blank">関東大震災</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>後に建てられた家々も多く、地震の揺れに脆弱なレンガ造りの建物はきわめて少ない。すぐに思い当たるのが、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-23" target="_blank">箱根土地</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-10-04" target="_blank">本社ビル</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>ぐらいだろうか。しかし、描かれた建物はレンガ造りのように思えるのだが・・・。<br />　この画面からのみでは、落合地域なのか、同地域であればどの場所を描いたものなのかは不明なのだが、描かれた緩斜面のつづきが目白崖線のように<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-05-17" target="_blank">バッケ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(崖)状の急斜面にならず、射しこんでいる光が西に傾き気味の太陽であるとするなら、モチーフに選ばれた場所は吉武東里の自邸が建っていた上落合の東部付近・・・ということになるだろうか。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B88AE890BDE59088E6AEB5E4B898E982B8E5AE85E8A1971936-caba0.jpg" border="0" alt="上落合段丘邸宅街1936.jpg" width="520" height="272" /><br />　吉武東里が住んだ上落合470番地(のち地番変更で469番地)、すなわち上落合の東部は、妙正寺川へ向けた緩斜面(北向き斜面)がつづき、大正期から大きめでオシャレな邸宅が建ち並んでいたエリアだ。当作の制作年が不明なのは残念だが、吉武東里は1921年(大正10)に上落合470番地へ自邸を建設し、太平洋戦争も末期の1944年(昭和19)まで住んでいるので(このあと大分に疎開して翌年死去している)、いつごろ描かれた風景なのかによっても、描画場所の推定は大きく異なってくる。その間、落合地域の風景は激変しつづけていたからだ。<br />　下落合では、大正の中期から箱根土地や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-08-09" target="_blank">東京土地住宅</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>などディベロッパーによる大規模な宅地開発がスタートし、木立ちの中にひっそりと建つ西洋館・・・というようなシチュエーションよりは、ハイカラな大正の洋風住宅街といった風景のほうが目立ってくる。一方、上落合側では田畑や林が短期間のうちに丸ごと消滅するというような、大規模な宅地開発が行われた形跡は見えない。昔からの地主による小規模な宅地開発が、年代を経るにしたがって多くなったという印象が強いのだ。したがって、同作の描かれた年代にもよるのだが、もし大正期の作品ではなく、昭和初期から戦前までの期間に制作されたとすると、わたしの感触からすれば、吉武邸のあった上落合の周辺域の可能性がやや高いだろうか。<br />　吉武邸を含む上落合東部の河岸段丘には、緩やかな斜面沿いに大きめな邸宅が建ち並ぶ、いわゆる“お屋敷街”が形成されていた。吉武邸自体もかなり大きいのだが、南側に接して建っていた同じ大分県出身の野々村金五郎邸は、現在の落合第二小学校の全敷地を占めるほどの広大な屋敷だった。1938年(昭和13)に作成された「火保図」では「野々村金吾」、1932年(昭和7)に編集された『落合町誌』では「野々村金五郎」と記載されている人物の紹介文を、同誌から引用してみよう。ちなみに、住民名をいい加減に採取している<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-12-31" target="_blank">「火保図」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を考慮すれば、おそらく『落合町誌』に記された「野々村金五郎」が正しい氏名だと思われる。なお、同邸の建物の一部は戦時中、憲兵隊の詰所として使用されていたというお話を、落合第一地域センターでお会いした方からうかがった。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B88AE890BDE59088470E795AAE59CB01921-ef929.jpg" border="0" alt="上落合470番地1921.jpg" width="255" height="281" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B88AE890BDE59088470E795AAE59CB01938.jpg" border="0" alt="上落合470番地1938.jpg" width="255" height="281" /><br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　開発社々長　野々村金五郎　上落合四七二　／　大分県士族野々村正忠氏の三男、日本銀行理事島郁太郎氏の令弟にして明治元年九月を以て出生、同三十七年分家を創立す、先是同二十八年故井上侯爵の秘書として朝鮮に赴任、国学部顧問官となり後辞して大阪藤田組に入り、日本興業銀行に転じ営業部を檐任し、同三十九年南満州鉄道会社の創立と共に同社理事に挙げられ勤続八年、其間会社を代表して満国鉄道会議に出席、外遊一ヶ年大正九年以来川崎銀行常務取締役、麹町銀行取締役、東京銀行集会所監事たりしが昭和三年辞し現時大正二年以降主宰する開発社々長として邦家文教の進運に献替されつゝあり、著書に拿破崙(ナポレオン)戦史、露国史等あり、家庭夫人ジユン子は故貴族院議員秋月新太郎氏の二女、養嗣子亨氏は現時内閣統計局書記官の任にあり。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　野々村金五郎邸や吉武東里邸の周辺は、下落合の五ノ坂上の「熊本村」と同様に、大分県出身者が集まって住んでいた上落合の「大分村」だったのではないか？・・・と想定しているのだが、このテーマについては改めて別の機会に追いかけてみたい。<br />　吉武東里が描く木立ちの「落合風景」(仮)のような、いまだ家々が少なかった落合地域の風景作品に、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-06-06" target="_blank">里見勝蔵</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-01-18" target="_blank">『下落合風景』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(1920年)や<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/saeki.htm" target="_blank">佐伯祐三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-10-28-1" target="_blank">『目白自宅附近』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(1923年)、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-12-28" target="_blank">松下春雄</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-12-09" target="_blank">『木の間より』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(1926年)などがある。いずれも大正中後期の作品であり、大規模な宅地開発による本格的な住宅街が出現する前後の情景なのだが、これらの画家たちの仕事を、絵に興味があった吉武東里がまったく知らなかった・・・ということはありえないだろう。なぜなら、彼は下落合の島津一郎アトリエや<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-03-05" target="_blank">刑部人アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の設計を手がけており、当然、依頼者を通じて落合地域に数多く住んでいた画家たちの動向や仕事について、よく知っていたと考えるほうが自然だからだ。また、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-09-19" target="_blank">島津一郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-01-10" target="_blank">刑部人</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を通じて、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-01-26" target="_blank">金山平三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-12-09" target="_blank">満谷国四郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>とも知り合ってさえいたのかもしれない。さらに、本作は<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-02-22" target="_blank">『秋の庭』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(1933年ごろ)の金山平三とともに写生をする島津一郎のように、画家たちの野外写生会へ参加した際の作品なのかもしれない。そう考えると、当作品は下落合の西部(現・中井2丁目)、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-26" target="_blank">アビラ村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(芸術村)あたりにいまだ見られた風景なのだろうか。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B3B6E6B4A5E4B880E9838EE382A2E38388E383AAE382A8-716ba.jpg" border="0" alt="島津一郎アトリエ.jpg" width="520" height="329" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E58891E983A8E4BABAE982B8EFBC8BE382A2E38388E383AAE382A8-f84ab.jpg" border="0" alt="刑部人邸＋アトリエ.jpg" width="520" height="379" /><br />　そして、必然的にもうひとつの課題が見えてくる。すなわち、東京土地住宅が1922年(大正11)に起ち上げた下落合西部の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-03" target="_blank">アビラ村(芸術村)計画</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>、あるいは昭和初期にスタートした<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-16" target="_blank">島津家</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>による三ノ坂と四ノ坂界隈の大規模な<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-05-20" target="_blank">住宅街建設</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に、吉武東里も(近所の大熊喜邦ともども)どこかで関わっているのではないか？・・・というテーマなのだが、それはまた、別の物語。<br />最後に、作品掲載ではたいへんお手数をおかけしました。ありがとうございました＞長谷川香様</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：制作年代の不明なのが残念な、吉武東里が描く『落合風景』(仮)。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合東部で、大邸宅が建ち並んでいる。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、1921年(大正10)の新井1/10,000地形図。野々村邸は採取されているが、吉武邸はいまだ記載されていない。<font color="#3366ff">右</font>は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる吉武邸の周辺。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：吉武東里の設計による、島津一郎アトリエ(<font color="#3366ff">上</font>)と刑部人邸＋アトリエ(<font color="#3366ff">下</font>)。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-08">
<title>松下春雄アトリエを拝見する。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-08</link>
<description>　「下落合を描いた画家たち・吉武東里」は、ネット掲載について所有者の方の最終確認がまだということですので、許可をいただけしだい再掲します。ということで、急遽登場する記事は・・・。　　★　西落合1丁目306番地(のち303番地)の松下春雄邸Click!には、建物が2棟建っていた。蔦植物(おそらくバラだろう)をはわせる、アーチが設けられた門のある東側が母屋で、西側の少し小さめな建物がアトリエだった。1932年(昭和7)に阿佐ヶ谷から落合地域にもどった松下春雄は、このアトリエで晩年の代表作を次々と生みだすことになる。　山本和男・彩子ご夫妻のもとにある松下春雄アルバムClick!には、アトリエで撮影した写真が数多く貼られているが、下落合1385番地から転居し阿佐ヶ谷520番地に借りていたアトリエと、2年後に落合地域へもどったときに新築した落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目306番地)のアトリエ写真が混在している。それらの写真には、アトリエで制作された絵も撮影されているので、それらの作品を見きわめながら松下アトリエを拝見していきたい。　まず、阿佐ヶ谷のアトリエと想定できる写真には、1930年(昭和5)に帝展へ入選した『母子』の写るものが数葉ある。次女の苓子様が、生まれて間もないころの写真類だ。『母子』(100号Fか)の現物を実際に観たことはないのだが、かなり巨大な画面だったのがわかる。松下春雄の背丈ほどもある大きなサイズで、キャンバスを支えるイーゼルがほとんど見えない。　同作に限らず、水彩から油彩へと転向し、展覧会への応募をめざす松下春雄の画面は巨大なものが多い。もちろん、100号以上のキャンパスサイズは、帝展での展示スペースを意識したものだろう。阿佐ヶ谷のアトリエでは、大作を載せたイーゼル背後の壁面に、15号あるいは20号とみられる作品群(おそらく静物画や肖像画だろう)が架けられているのが見てとれるが、それらの画面が“小品”に見えるほど、展覧会への出品作がケタちがいに大きかったのがわかる。  　次に、1932年(昭和7)の5月に竣工したと思われる、西落合のアトリエを見てみよう。松下邸は、当時の洋館建築では一般的だったコンクリートの基礎に下見板張りの外壁、その上がスタッコ仕上げの壁に軽いスレートの屋根が載るデザインだったように見える。アトリエも、母屋とおそろいの意匠だったのだろう。まず、ここで制作に取り組んでいるのは..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-05-08T12:23:29+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE59088E382A2E38388E383AAE382A81.jpg" border="0" alt="西落合アトリエ1.jpg" width="520" height="307" /><br />　「下落合を描いた画家たち・吉武東里」は、ネット掲載について所有者の方の最終確認がまだということですので、許可をいただけしだい再掲します。ということで、急遽登場する記事は・・・。<br />　　<font color="#008000">★</font><br />　西落合1丁目306番地(のち303番地)の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30" target="_blank">松下春雄邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>には、建物が2棟建っていた。蔦植物(おそらくバラだろう)をはわせる、アーチが設けられた門のある東側が母屋で、西側の少し小さめな建物がアトリエだった。1932年(昭和7)に阿佐ヶ谷から落合地域にもどった松下春雄は、このアトリエで晩年の代表作を次々と生みだすことになる。<br />　山本和男・彩子ご夫妻のもとにある<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-11" target="_blank">松下春雄アルバム</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>には、アトリエで撮影した写真が数多く貼られているが、下落合1385番地から転居し阿佐ヶ谷520番地に借りていたアトリエと、2年後に落合地域へもどったときに新築した落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目306番地)のアトリエ写真が混在している。それらの写真には、アトリエで制作された絵も撮影されているので、それらの作品を見きわめながら松下アトリエを拝見していきたい。<br />　まず、阿佐ヶ谷のアトリエと想定できる写真には、1930年(昭和5)に帝展へ入選した『母子』の写るものが数葉ある。次女の苓子様が、生まれて間もないころの写真類だ。『母子』(100号Fか)の現物を実際に観たことはないのだが、かなり巨大な画面だったのがわかる。松下春雄の背丈ほどもある大きなサイズで、キャンバスを支えるイーゼルがほとんど見えない。<br />　同作に限らず、水彩から油彩へと転向し、展覧会への応募をめざす松下春雄の画面は巨大なものが多い。もちろん、100号以上のキャンパスサイズは、帝展での展示スペースを意識したものだろう。阿佐ヶ谷のアトリエでは、大作を載せたイーゼル背後の壁面に、15号あるいは20号とみられる作品群(おそらく静物画や肖像画だろう)が架けられているのが見てとれるが、それらの画面が“小品”に見えるほど、展覧会への出品作がケタちがいに大きかったのがわかる。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E998BFE4BD90E383B6E8B0B7E382A2E38388E383AAE382A81-03667.jpg" border="0" alt="阿佐ヶ谷アトリエ1.jpg" width="255" height="424" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E998BFE4BD90E383B6E8B0B7E382A2E38388E383AAE382A82-458da.jpg" border="0" alt="阿佐ヶ谷アトリエ2.jpg" width="255" height="424" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E998BFE4BD90E383B6E8B0B7E382A2E38388E383AAE382A83.jpg" border="0" alt="阿佐ヶ谷アトリエ3.jpg" width="360" height="226" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E998BFE4BD90E383B6E8B0B7E382A2E38388E383AAE382A84-a1a6f.jpg" border="0" alt="阿佐ヶ谷アトリエ4.jpg" width="150" height="226" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE59088E382A2E38388E383AAE382A82-7335f.jpg" border="0" alt="西落合アトリエ2.jpg" width="520" height="359" /><br />　次に、1932年(昭和7)の5月に竣工したと思われる、西落合のアトリエを見てみよう。松下邸は、当時の洋館建築では一般的だったコンクリートの基礎に下見板張りの外壁、その上がスタッコ仕上げの壁に軽いスレートの屋根が載るデザインだったように見える。アトリエも、母屋とおそろいの意匠だったのだろう。まず、ここで制作に取り組んでいるのは『機織』だ。同年10月に完成直後と思われる、アトリエ内の写真が残されている。やはり巨大な画面で、かたわらに立つ松下春雄が小さく見える。同作は200号Mのようだから、松下春雄の身長は165cmほどだろうか。<br />　また、翌1933年(昭和8)前半に制作された『二人のポーズ』の写真も、モデルの写真とともに残されていた。この記念写真が貴重なのは、松下が2名のモデルを同時に描いているのではなく、まずひとりずつの習作を描き、それをのちに大画面へ合体して“構成”している点だ。『二人のポーズ』の画面左側のモデルを描いた、まったく同じポーズの習作とみられる15号作品が、モデルを撮影した写真の背後にとらえられている。おそらく『二人のポーズ』の画面右側のモデルのみを描いた、15～20号サイズの習作も同時に存在していたと思われるのだ。<br />　また、松下アトリエで仕事をする洋画グループ<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-02-29" target="_blank">「サンサシオン」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の盟友だった<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-07-23" target="_blank">鬼頭鍋三郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をとらえた写真も残されていた。鬼頭は松下と同時期の1932年(昭和7)、葛ヶ谷293番地(のち西落合1丁目293番地)に<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-15" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を建てていたはずだが、長女・彩子様によれば当初は小さな家だったので、しょっちゅう松下アトリエを借りに訪れていたらしい。鬼頭は画面にウシを描いているので、西落合の松下アトリエに近い<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-06-27" target="_blank">「東京牧場」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>、すなわち<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-12" target="_blank">安達牧場</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>か足立牧場、あるいは<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-09-22" target="_blank">長崎バス通り</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の先にある<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-09-15" target="_blank">籾山牧場</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>へ、西落合から写生に出かけているのかもしれない。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE59088E382A2E38388E383AAE382A83.jpg" border="0" alt="西落合アトリエ3.jpg" width="520" height="313" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE59088E382A2E38388E383AAE382A84-bc6a8.jpg" border="0" alt="西落合アトリエ4.jpg" width="520" height="309" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE59088E382A2E38388E383AAE382A85-cca20.JPG" border="0" alt="西落合アトリエ5.JPG" width="520" height="311" /><br />　アトリエのイスに、淑子夫人を座らせて撮影した写真もある。淑子夫人もまた、松下春雄のモデルを頻繁につとめていた。静物モチーフにすると思われる花瓶の活花の背後に、200号額が置かれる閑散としたアトリエ内は、作品を展覧会に搬出したあとの光景だろうか。<br />　さらに、1932年(昭和7)に撮影されたとみられる、淑子夫人が彩子様を抱き、松下春雄が次女・苓子様を抱っこする、よく知られた家族写真もある。背後に架けられた大作は、同年に制作された『女と子』(100号F)だろう。このとき、淑子夫人のお腹には、翌年3月に生まれる予定の長男・泰様がいたはずだ。子供たちが胸に抱く人形は、前年のクリスマスプレゼントだろうか？<br />　野外で「下落合風景」を制作する、松下春雄のめずらしい写真も残されていた。1928年(昭和3)に制作された『草原』の仕事をしており、年代から写生場所はまちがいなく下落合1385番地のアトリエ周辺、おそらく<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm" target="_blank">目白文化村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の第一文化村からそれほど遠くない場所だと思われる。緑が濃い林間の風情なので、目白文化村の西側にあった森の一画か、あるいは<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-03" target="_blank">アビラ村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の斜面近くに拡がる林のひとつだろうか。松下春雄の図録で縮小された画面を見ただけではわからなかったが、『草原』もかなり大きな画面で、たっぷり50号はありそうだ。<br />　松下春雄の「下落合風景」を制作中の姿は、必然的に少し遅れて同シリーズに取り組みはじめる、第1次滞仏から帰国した<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/saeki.htm" target="_blank">佐伯祐三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の姿をほうふつとさせる。もっとも、佐伯は絵具があちこちに染みついた、ボロボロの浮浪者のような汚い服に下駄ばきで野外写生をしていたのに対し、松下春雄はとてもオシャレなルパシカ姿に、大きめのハンチングをかぶっているのが印象的だ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE59088E382A2E38388E383AAE382A86.jpg" border="0" alt="西落合アトリエ6.jpg" width="255" height="421" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE59088E382A2E38388E383AAE382A87-f0a41.jpg" border="0" alt="西落合アトリエ7.jpg" width="255" height="421" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE59088E382A2E38388E383AAE382A88-6f7a9.jpg" border="0" alt="西落合アトリエ8.jpg" width="240" height="419" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E9878EE5A496E58699E7949F1.jpg" border="0" alt="松下春雄野外写生1.jpg" width="270" height="419" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E9878EE5A496E58699E7949F2-5ac39.jpg" border="0" alt="松下春雄野外写生2.jpg" width="520" height="320" /><br />　1928年(昭和3)の9月13日(木)に、松下は完成間近な『草原』を文化村近くで制作していることが、アルバム写真から判明した。東京気象台の記録によれば、前日は小雨もよいの天候だったが当日は快晴となっており、うるさいほどのセミしぐれとともに残暑もきびしかったと思われる。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：1933年(昭和8)8月15日、仕事の合間に西落合アトリエの窓から顔をだす松下春雄。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、阿佐ヶ谷アトリエの前で生まれて間もない次女・苓子様と。<font color="#3366ff">上右</font>は、搬出直前と思われる『母子』のかたわらに立つ松下春雄。<font color="#3366ff">中</font>は、1930年(昭和5)に撮影された阿佐ヶ谷のアトリエ内部の様子と完成した『母子』。<font color="#3366ff">下</font>は、1932年(昭和7)に西落合のアトリエで撮影された家族の肖像で、背後には同年に完成した『女と子』が見えている。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、1932年(昭和7)に西落合のアトリエで完成した『機織』のかたわらに立つ松下春雄。<font color="#3366ff">中</font>は、アトリエのイスに座る淑子夫人。<font color="#3366ff">下</font>は、松下アトリエで仕事をする鬼頭鍋三郎。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、『二人のポーズ』のモデルと左奥には同作の習作と思われる作品が見える。<font color="#3366ff">上右</font>は、1933年(昭和8)に撮影されたとみられる完成した『二人のポーズ』と松下春雄。<font color="#3366ff">中左</font>は、『二人のポーズ』とイスに座るモデル。<font color="#3366ff">中右</font>は、野外写生をする松下春雄。<font color="#3366ff">下</font>は、1928年(昭和3)9月13日に同年の第9回帝展に入選した「下落合風景」の1作『草原』を描く松下春雄。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-05">
<title>「憎らしいおなか」でガッカリする中村彝。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-05</link>
<description>　中村彝Click!が周囲の友人たちに語った話で、現在ではあまり引用されることのない言葉がある。きょうは、それらをまとめてご紹介したい。彝の言葉は、本人が執筆し美術誌や新聞に掲載された文章や、書簡類から引用されることが多い。それらは、1926年(大正15)に岩波書店から出版された『芸術の無限感』Click!にまとめられている。　でも、彝が発した言葉で印象に残るものは、友人たちがそのつどノートにメモを残したり、改めて思い出しながら記録しているものも多い。そのひとりに、多くのエッセイをのちに出版することになる、彝アトリエから西へ300mほどの下落合623番地へアトリエClick!を建てた曾宮一念Click!がいる。曾宮は、彝が『エロシェンコ氏の像』（1920年）を描いた直後に、彼の言葉を思い出しながら1920年(大正9)に発行された『みづゑ』11月号(189号)へ記録している。　曾宮は、彝アトリエでイーゼル上の『エロシェンコ氏の像』を眺めながら、「未だ彝君のどの画にも表はされなかつた美しさを、此の画が表してゐると思つたが、それは寧ろ今迄考へて居り、又少しづゝ画面に表はされつゝあつた事を非常に強く信じさせた結果にすぎなかつた」と書いている。では、同誌の曾宮一念「エロシエンコの画を見て」から、彝の印象に残った言葉を引用してみよう。　　▼　彝君はこんな事を話した。「一時的、外面的効果を追へば追ふ程、内面的本質が薄くなる---例へば森を描くにしてもその一つ一つの葉の持つ美しさや、移りゆく光のエフエクテイブな美に注意を向け過ぎると、森の本当の味はひが忘れられてしまふ。」 又「これからは一層スナホに描きたい」と語つたが、この「スナホ」に描くといふ事は本当に自然と冥合して、自然が画家の腕を動かして描かすやうになることだと思ふ。／自分は今秋谷中にかざられた、ロダン、ルノアー等の作品を見て非常に感じた一人である。それらの画や彫刻は我々に現代的な刺激興奮を与へたといふよりは、更に、内面的な常住な美が静かに深く流れ込むのを感じた。そして近よつて見た時、如何にもスナホな筆触に再び頭がさがつた。　　▲ 　中村彝の言葉を記録しつづけたもうひとりの画家に、彝アトリエへ通いつづけた鈴木金平Click!がいる。鈴木良三Click!と混同されることの多かった鈴木金平だが、鈴木良三は中村彝について『中村彝の周辺』(中央公論美術出版／1977年)など数冊の..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-05-05T23:47:21+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B091E5A5B3E8A3B8E5838F1914.jpg" border="0" alt="少女裸像1914.jpg" width="450" height="341" /><br />　<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/tsune.htm" target="_blank">中村彝</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が周囲の友人たちに語った話で、現在ではあまり引用されることのない言葉がある。きょうは、それらをまとめてご紹介したい。彝の言葉は、本人が執筆し美術誌や新聞に掲載された文章や、書簡類から引用されることが多い。それらは、1926年(大正15)に岩波書店から出版された<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-05-27" target="_blank">『芸術の無限感』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>にまとめられている。<br />　でも、彝が発した言葉で印象に残るものは、友人たちがそのつどノートにメモを残したり、改めて思い出しながら記録しているものも多い。そのひとりに、多くのエッセイをのちに出版することになる、彝アトリエから西へ300mほどの下落合623番地へ<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-10-05" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を建てた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-10-02" target="_blank">曾宮一念</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>がいる。曾宮は、彝が『エロシェンコ氏の像』（1920年）を描いた直後に、彼の言葉を思い出しながら1920年(大正9)に発行された『みづゑ』11月号(189号)へ記録している。<br />　曾宮は、彝アトリエでイーゼル上の『エロシェンコ氏の像』を眺めながら、「未だ彝君のどの画にも表はされなかつた美しさを、此の画が表してゐると思つたが、それは寧ろ今迄考へて居り、又少しづゝ画面に表はされつゝあつた事を非常に強く信じさせた結果にすぎなかつた」と書いている。では、同誌の曾宮一念「エロシエンコの画を見て」から、彝の印象に残った言葉を引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　彝君はこんな事を話した。「一時的、外面的効果を追へば追ふ程、内面的本質が薄くなる---例へば森を描くにしてもその一つ一つの葉の持つ美しさや、移りゆく光のエフエクテイブな美に注意を向け過ぎると、森の本当の味はひが忘れられてしまふ。」 又「これからは一層スナホに描きたい」と語つたが、この「スナホ」に描くといふ事は本当に自然と冥合して、自然が画家の腕を動かして描かすやうになることだと思ふ。／自分は今秋谷中にかざられた、ロダン、ルノアー等の作品を見て非常に感じた一人である。それらの画や彫刻は我々に現代的な刺激興奮を与へたといふよりは、更に、内面的な常住な美が静かに深く流れ込むのを感じた。そして近よつて見た時、如何にもスナホな筆触に再び頭がさがつた。<br />　　<font color="#008000">▲<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A3B8E4BD931916-2cd45.jpg" border="0" alt="裸体1916.jpg" width="255" height="193" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E794BBE5AEB6E98194E4B98BE7BEA41919-86aa2.jpg" border="0" alt="画家達之群1919.jpg" width="255" height="193" /><br /></font>　中村彝の言葉を記録しつづけたもうひとりの画家に、彝アトリエへ通いつづけた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-10-19" target="_blank">鈴木金平</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>がいる。<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-01-11" target="_blank">鈴木良三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と混同されることの多かった鈴木金平だが、鈴木良三は中村彝について『中村彝の周辺』(中央公論美術出版／1977年)など数冊の書籍にまとめているが、鈴木金平は著作を出すと予告していながら、それをはたせずに死去している。彼のノートに記録されつづけた膨大な彝の言葉は、今日、なかなか見る機会が少ない。<br />　なお、鈴木金平は下落合800番地に住んでいたが、この住所は鈴木良三の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-10-22" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と同一地番であり、おそらく隣り同士か同一の建物内で暮らしていたものだろう。関東大震災のとき、中村彝が避難した家でもある。ちなみに、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-12-28" target="_blank">松下春雄</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-07-23" target="_blank">鬼頭鍋三郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>など名古屋の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-11-18" target="_blank">「サンサシオン」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の画家たちともつながる<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-12-23" target="_blank">有岡一郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>も、下落合800番地に住んでいた。<br />　中村彝の歿後25周年、1949年(昭和24)7月11日に鈴木金平は<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-12-07" target="_blank">鶴田吾郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-04-16" target="_blank">小熊虎之助</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-03-06" target="_blank">多湖實輝</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>、堀進二たちとともに水戸へ墓参りに出かけている。中村彝忌は、本来なら12月24日の命日に行なわれるはずなのだが、暮れだと画家たちが多忙で都合がつかず、この時期は夏に一同が集まって墓参をしていたようだ。茨城の水戸駅には、鈴木良三と本郷惇が出迎え、そのまま祇園寺へ墓参りに向かっている。<br />　鈴木金平がノートに記録した中村彝の言葉は、彝が下落合464番地に<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-08-01" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を建てた1916年（大正5）から、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-29" target="_blank">関東大震災</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が起きる1923年(大正12)までの7年間にわたる膨大なものだが、鈴木金平はその一部を1948年(昭和23)に美術出版社から発行された『美術手帖』12号で、「彝さんの言葉」として公開している。かなり長いが、貴重な記録なので引用してみよう。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E988B4E69CA8E98791E5B9B31917E9A083.jpg" border="0" alt="鈴木金平1917頃.jpg" width="190" height="250" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E988B4E69CA8E98791E5B9B3E3808CE69C89E6A5BDE794BAE99984E8BF91E3808D1913-0c0a1.jpg" border="0" alt="鈴木金平「有楽町附近」1913.jpg" width="320" height="250" /><br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　<font color="#0000ff">◎</font>今度描く絵は、梨の色の様に、人の目を刺激しない感じで描きたい。(エロシェンコ像を描く時)　<font color="#0000ff">◎</font>展覧会や、現社会を、我々は越えねばならない。　<font color="#0000ff">◎</font>人間は、他人から軽蔑されてもかまわない。人間は、裁定の位置にいて、人格者の行いをせねばならない。　<font color="#0000ff">◎</font>美しい女に魅せられて、恋をする。そのファーストインプレッションこそ、芸術的な感動だ。我々が美しい風景を見た感じだ。恋の進むに従って、相手の美醜がわかってくる様に、美しい風景もそれと同じだ。そこに理智が伴う。　<font color="#0000ff">◎</font>嘗て、私は博覧会に裸婦を出品した。一日私は自分の絵の前に立って居ると、二人の女学生が来て、私の裸婦を指して、「憎らしいおなか」と、さも憎らしそうに言った。私は失望してしまった。<font color="#0000ff">◎</font>(嵐の夜、電灯の消えた時。)闇は不思議な色をしている。目をとじてみても同じ色で、インプレッション式だ。感情は(蝋燭の灯を指して)此の灯の様なものだ。この灯によって、智を増す本を読む事も出来るし、美しいものを見る事も出来る。此の灯が、何もない所に置かれたら、それは無意味な光に過ぎない。だから感情は、所によって、良くも悪くもなる。今夜の様な嵐の夜は、風の音を聞きながら、額縁の陰や、絵を見ていると、何時もそれ程感じなかったものでも、非常に神秘的に感じる。　<font color="#0000ff">◎</font>智的な、物の見方をすると言っても、思わくだの、テクニックだのだけでは、厭味になり、感情的な絵で経験する不思議なものが、見えなくなる。<br />　<font color="#0000ff">◎</font>芸術は、科学的に説明するものではないと思う。自分の原則を守って、象徴的に表現するにあると思う。芸術は、無限さの大小によって価値は定まる。　<font color="#0000ff">◎</font>画家は先ず、自然の組織的なものを知らねばならぬ。物をよく見る事だ。腕で描くと思うな。　<font color="#0000ff">◎</font>感情で出来た絵は、後の智で、それを心理と見る時がある。感情と理智とは、入替ってくる。　<font color="#0000ff">◎</font>真の愛は、犠牲によって輝く。愛を感じた時、苦痛の陰は消える。そして意志的な和を感じる。　<font color="#0000ff">◎</font>近代絵画の傾向は、余り微妙な色彩、光に心を傾倒した為、色彩、線条を現わすに、非常に複雑になって、錯綜する様になった。それが為、全体の物質表現が弱められてしまった。例えば、マネー、ルノアール、モネーの如きである。クラシックの絵は、よく物質を現わすのに確かりした線を引いたのである。そこがクラシックの良いところである。　<font color="#0000ff">◎</font>オランダ派の画家は、実に偉大であった。例えば、レンブラントの如く、表現としては、写実であり、その上崇高な心をその中に見出した。レンブラントの肖像を見ると、よくわかる。　<font color="#0000ff">◎</font>私が自画像を描く時、実に困った。(骸骨を持てる自画像を描く時)顔は鏡を見て描けるけれど、手は動いて見る事が出来ない。私は何も知らないのだと思った。先ず本当の調子をのみこんで、自由に描きたい。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　この中で、意味がよくわからない言葉がある。展覧会に｢裸婦｣を出品して、彝が絵の近くに立っていると、女学生たちがやってきて「憎らしいおなか」といったことに対して、「失望」していることだ。この「裸婦」作品がどの絵を指すかは不明だが、彝が展覧会でひがな1日立ち合うことができた時期というと、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-07-04" target="_blank">相馬俊子</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の肖像を描いた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-02-25" target="_blank">新宿中村屋の時代</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>、大正初期のエピソードなのかもしれない。当時の女学生がいう「憎らしいおなか」とは、いったいどのような感覚なのだろうか。「憎々しい」という表現なら、まだなんとなく理解できないこともないのだが・・・。それとも、「しゃくに触る」というような意味合いで、江戸期の町言葉がそのまま活きていたのだろうか？<br />　「憎らしい」という表現が、おそらく少しズレた意味合いで用いられていた、明治末から大正初期にかけての“流行語”、ないしは若い子たちの慣用表現のような気がする。また、10代後半の女学生たちにそういわれて「失望」する彝の感覚が、現在の観点からはよくわからない。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8AAADE5A3B2E696B0E8819E19241225-ce16a.jpg" border="0" alt="読売新聞19241225.jpg" width="520" height="283" /><br />　「マジ～、お腹がチョーメタボみた～い」、「てゆ～か～、モデル圏外じゃ～ん」、「やだ～、もう信じられな～い」、「ウッソ～、オニかわいくないし」、「てゆ～か～、肉らしいし」、「これってフライング？」、「ね～、いこいこ」・・・というような彼女たちのシチュエーションだったら、彝はせっかく描いた絵を前に、「トシちゃんは、確かにちょっとお腹がおデブ」と「失望」したのかもしれないのだが・・・。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：1914年(大正3)に制作された中村彝『少女裸像』(部分)にみる相馬俊子のお腹。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、1916年(大正5)制作の中村彝『裸体』(部分)にみるモデルのお腹。<font color="#3366ff">右</font>は、1919年(大正8)に描かれた中村彝『画家達之群』(部分)にみるモデルのお腹。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、1916年(大正5)ごろに撮影された完成して間もない中村彝アトリエの芝庭に座る鈴木金平。<font color="#3366ff">右</font>は、1913年(大正2)に制作された鈴木金平『有楽町附近』。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：1924年(大正13)12月25日発行の読売新聞に掲載された中村彝の訃報。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-02">
<title>「花嫁」が手放せなくなった佐伯祐三。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-02</link>
<description>　このところ福島県を中心に、東北の産物を買うようにしているのだが、会津の伝統的なお惣菜「花嫁ささぎ」もそのひとつだ。できるだけ放射線量の低そうな食品を購入しているが、会津の産物は被曝地から距離があるせいか、相対的に低レベルのものが多い。「花嫁ささぎ」も、放射線測定器を密着させて表面線量を測定したが、わずか0.09μSv/hにすぎなかった。　この数値は、毎週とどけてもらっている東都生協の食品(全国各地の生産物)に比べてもかなり低く、ほとんど事故にかかわりのない平常値に近い。むしろ、関東や中部地方の野菜のほうが数値が高いくらいだ。「ささぎ」というのはエンドウマメのことで、地域によっては「ささげ」や「はなまめ」と呼ばれている。東京地方では、「(大)角豆」と書いて「ささげ」と読まれることが多く、おそらく江戸時代からの町言葉Click!のひとつだろう。サヤエンドウは、実(種)が熟す前に収穫するので豆が小さいが、成熟したエンドウマメは肉厚で大きい。現在は瓶詰めの「花嫁ささぎ」だが、戦前は缶詰めにして東京地方へ出荷されていなかったか？・・・というのが、きょうのテーマだ。　佐伯祐三Click!のファンで、もうカンのいい方はお気づきだろう。佐伯は、食べ物や料理に一度凝りはじめると、とことん食べつづけなけれ気がすまない性格をしていた。1921年(大正10)に、下落合661番地Click!へアトリエClick!を建てた直後は「すき焼き」Click!に凝り、毎日三度の食事はすき焼きばかりを食べつづけている。肉食好きの山田新一Click!でさえ、呆れて気持ちが悪くなるぐらいだから、佐伯は日々徹底的に食べつづけたのだろう。基本的には菜食Click!だった米子夫人Click!は、三度の食事がすき焼きだったことに相当こたえたのではないか。　すき焼きの次に凝りはじめたのが、目白通りにあった食料雑貨店から御用聞きClick!がやってきて、おそらく試供品として置いていったのだろう、「はなよめ」という缶詰めだった。山田新一Click!は、缶詰めの中身を“福神漬け”のようなものとして記憶しているが、当時もまた現在でも福神漬けの商標で「はなよめ」は発見できない。「はなよめ」の中身について山田新一が誤記憶をし、福神漬けのような食べ物ではないと仮定すると、大正期から今日までお茶請けやご飯のお供として食べられつづけているのは、缶詰めならぬ現在は瓶詰めとなっている..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-05-02T20:37:42+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E88AB1E5AB81E38195E38195E3818E1.JPG" border="0" alt="花嫁ささぎ1.JPG" width="450" height="337" /><br />　このところ福島県を中心に、東北の産物を買うようにしているのだが、会津の伝統的なお惣菜「花嫁ささぎ」もそのひとつだ。できるだけ放射線量の低そうな食品を購入しているが、会津の産物は被曝地から距離があるせいか、相対的に低レベルのものが多い。「花嫁ささぎ」も、放射線測定器を密着させて表面線量を測定したが、わずか0.09μSv/hにすぎなかった。<br />　この数値は、毎週とどけてもらっている東都生協の食品(全国各地の生産物)に比べてもかなり低く、ほとんど事故にかかわりのない平常値に近い。むしろ、関東や中部地方の野菜のほうが数値が高いくらいだ。「ささぎ」というのはエンドウマメのことで、地域によっては「ささげ」や「はなまめ」と呼ばれている。東京地方では、「(大)角豆」と書いて「ささげ」と読まれることが多く、おそらく江戸時代からの<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-29" target="_blank">町言葉</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のひとつだろう。サヤエンドウは、実(種)が熟す前に収穫するので豆が小さいが、成熟したエンドウマメは肉厚で大きい。現在は瓶詰めの「花嫁ささぎ」だが、戦前は缶詰めにして東京地方へ出荷されていなかったか？・・・というのが、きょうのテーマだ。<br />　<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/saeki.htm" target="_blank">佐伯祐三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のファンで、もうカンのいい方はお気づきだろう。佐伯は、食べ物や料理に一度凝りはじめると、とことん食べつづけなけれ気がすまない性格をしていた。1921年(大正10)に、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-04-05" target="_blank">下落合661番地</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>へ<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-06" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を建てた直後は<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-08-04" target="_blank">「すき焼き」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に凝り、毎日三度の食事はすき焼きばかりを食べつづけている。肉食好きの<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-04-16" target="_blank">山田新一</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>でさえ、呆れて気持ちが悪くなるぐらいだから、佐伯は日々徹底的に食べつづけたのだろう。基本的には<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-06-21" target="_blank">菜食</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>だった<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-03-27">米子夫人</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は、三度の食事がすき焼きだったことに相当こたえたのではないか。<br />　すき焼きの次に凝りはじめたのが、目白通りにあった食料雑貨店から<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-10-25" target="_blank">御用聞き</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>がやってきて、おそらく試供品として置いていったのだろう、「はなよめ」という缶詰めだった。<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-01-22" target="_blank">山田新一</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は、缶詰めの中身を“福神漬け”のようなものとして記憶しているが、当時もまた現在でも福神漬けの商標で「はなよめ」は発見できない。「はなよめ」の中身について山田新一が誤記憶をし、福神漬けのような食べ物ではないと仮定すると、大正期から今日までお茶請けやご飯のお供として食べられつづけているのは、缶詰めならぬ現在は瓶詰めとなっている会津の「花嫁」だ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E88AB1E5AB81E38195E38195E3818E2-e1efa.JPG" border="0" alt="花嫁ささぎ2.JPG" width="220" height="250" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E88AB1E5AB81E38195E38195E3818E3-57358.JPG" border="0" alt="花嫁ささぎ3.JPG" width="290" height="250" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E383AAE383A5E383BBE38387E383A5E383BBE382B7E383A3E38388E383BC13E382A2E38388E383AAE382A8192512-db3ad.jpg" border="0" alt="リュ・デュ・シャトー13アトリエ192512.jpg" width="520" height="357" /><br />　佐伯祐三が、缶詰め「はなよめ」に夢中になるのは、すき焼きに凝ったあとだから1922年(大正11)から、渡仏する直前の1923年(大正12)にかけてのことだろう。そのあたりの様子を、1980年(昭和55)に中央公論美術出版より出版された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　米子を迎えてからの佐伯家は、どんな家庭生活を営んでいたのか。新婚当初、“すきやき”がたいそう好きになり----当時、すきやきは相当に贅沢な献立といえる----毎晩でも多いと思うのに、朝昼晩と毎日のように三度、三度すきやきなのである。／ちょうど、彼の本拠のアトリエが下落合に建って、僕も池袋から通って一緒に絵を描いている頃のことであった。かなり肉食偏向の僕自身が佐伯の“すきやき”には、うんざりして、／「そんな君、朝昼晩とすきやきばかり食べて、気持ち悪くないか」／と訊くと、<br />　<strong>「うまいがな、うまいがな」<br /></strong>　と答えて、少しもひるむところがなかった。／また或日、出入りの食品屋の丁稚が持ってきた、“はなよめ”という、なんのことはない福神漬のような缶詰めが好きになり、当分すきやきはやめて、毎日はなよめばかり注文して食べている始末である。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　ちなみに、「花嫁ささぎ」は時間をかけてエンドウマメを甘露煮にしたものだが、煮豆にありがちな強い甘味ではなく、お茶請けはもちろん、飯のおかずにもなりそうな、そこそこの甘さをしている。豆の芯まで味を染みこませるには、相当な手間や時間が必要だろう。だから、お茶請けばかりでなく、箸休めのおかずのひとつとして食べられる点が魅力だ。飯がどんどん進む、漬け物のような食品ではないけれど、メインディッシュから味覚を変えるための口直しには最適な1品だろう。すき焼き好きな佐伯は、けっこう甘めなおかずで飯を食べていた気配がするのだ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BD90E4BCAFE381A8E381AFE381AAE38288E382811.jpg" border="0" alt="佐伯とはなよめ1.jpg" width="310" height="234" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BD90E4BCAFE381A8E381AFE381AAE38288E382812-ca371.jpg" border="0" alt="佐伯とはなよめ2.jpg" width="200" height="234" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BD90E4BCAFE381A8E381AFE381AAE38288E382813-f13f0.jpg" border="0" alt="佐伯とはなよめ3.jpg" width="255" height="317" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BD90E4BCAFE381A8E381AFE381AAE38288E382814-9db9d.jpg" border="0" alt="佐伯とはなよめ4.jpg" width="255" height="317" /><br />　すき焼きをやめ、「はなよめ」のほうに目が向いた佐伯を見て、米子夫人は心底ホッとしただろう。1923年(大正12)の第1次渡仏の際、パリで日本の味が恋しくなるのを予想して、トランクに「はなよめ」をいくらか詰めていったかもしれない。あるいは、先に渡仏していた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-12-28" target="_blank">里見勝蔵</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-04-04" target="_blank">前田寛治</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に、<strong>「うまいがな、うまいがな、ほんま、うまいのんや！」</strong>と日本からの土産がわりに配ったかもしれない。さらに、ヴラマンク邸を訪れたとき“日本の味”のお土産として持参し、ひと口味わったヴラマンクから<strong>「この、甘豆煮ズムが！」</strong>と怒鳴られたかどうかは知らないけれど、とにかく「はなよめ」への執着は並みの凝り方ではなかったようだ。<br />　さて、佐伯のアトリエへ「はなよめ」缶詰めを配達していた店、すなわち丁稚を御用聞きにまわらせていた食料雑貨店はどこの商店だろう？　大正の中期、目白通りには何軒かの食料雑貨店が並んでいたと思うのだが、下落合661番地にある佐伯アトリエ近くの店というと、自ずと限られてくる。決められた食品の専門店ではなく、缶詰めをはじめ各地のいろいろな食料雑貨を扱い、佐伯邸に近い商店というと「高幸商店」がある。高幸商店は下落合607番地、すなわち子安地蔵が建立されている角地で営業しており、高田幸三郎という人が経営していた。<br />　高幸商店は、米や雑穀、鶏卵、茶、缶詰め、乾物、砂糖、海産物、小麦粉、蕎麦粉・・・と多彩な食品や雑貨を手広く販売しており、郵便切手や収入印紙まで売る店だった。規模もそれなりに大きかったものか、1919年(大正8)現在の『高田村誌』へ出稿した媒体広告までが残っている。この食料雑貨店の店員が、以前から佐伯邸に出入りしていて、1922年(大正11)のある日、会津産の缶詰め「はなよめ」を置いていったのかもしれない。もちろん、この丁稚くんは、佐伯アトリエの増築を手伝わされ材木運びなどをやらされた、あの丁稚くんだろう。それまで、毎食すき焼きを食べつづけていた佐伯は、その缶詰めの中身を味わうと、翌日からピタリとすき焼きを止め、「あのな～、店にあんだけの“はなよめ”缶詰めな～、はよ持ってきてんか～」と、御用聞きに言いつけたのだろう。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E9AB98E5B9B8E59586E5BA97E5BA83E5918A1919.jpg" border="0" alt="高幸商店広告1919.jpg" width="160" height="309" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E587BAE5898DE59CB0E59BB31925-28a56.jpg" border="0" alt="出前地図1925.jpg" width="350" height="309" /><br />　以来、「はなよめ」ばかりを毎日、三度三度飽きもせず食べつづけ、一度めのフランス行きの時期を迎えたように思われる。1923年(大正12)9月に起きた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-29" target="_blank">関東大震災</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のとき、佐伯が家族や友人たちの次に心配したのが、「はなよめ」を販売していた店の無事だったのかもしれない。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：会津の伝統的なお惣菜、(有)平野物産店が製造する瓶詰め「花嫁ささぎ」。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、「花嫁ささぎ」の容器と中身。<font color="#3366ff">下</font>は、1925年(大正14)12月に撮影されたモンマルトル近くリュ・デュ・シャトー13番地の佐伯アトリエで、背後の棚に酒瓶といっしょに缶詰めらしきものが写っている。人物は左から佐伯米子、彌智子、佐伯祐正(兄)、佐伯祐三。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：缶詰め「はなよめ」を、いつも手放せなくなってしまった佐伯祐三。w<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、1919年(大正8)出版の『高田村誌』に掲載された高幸商店広告。<font color="#3366ff">右</font>は、1925年(大正14)の「下落合及長崎一部案内図」(<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-09-22" target="_blank">出前地図</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>)にみる高幸商店と佐伯邸の位置関係。<br /><font color="#333399"><font color="#ff0000">★</font>下落合の環境サウンド(おまけ)<br /></font><font color="#333399">連休に早起きしたので、ベランダから5月の朝の環境音を録ってみた。鳥たちのさえずりや、十三間通りを聖母病院へと向う救急車のサイレン、西武線や山手線を通過する電車の微かな響きなど、下落合から「出張中」あるいは少し長めの「お留守」の方には、ちょっと懐かしい里心をくすぐられるサウンドではないだろうか。少し大きめのスピーカーで再生されると、よりリアルに聴こえます。<br /><div class="audio-link"><object classid="clsid:D27CDB6E-AE6D-11cf-96B8-444553540000"
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29">
<title>津波被害が透けて見える東京大洪水。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29</link>
<description>　1910年(明治43)は、東京市民にとっては最悪の年だった。1894年(明治27)の明治東京大地震とともに、のちの1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!や、戦争による“人災”としての東京大空襲Click!などによって、それ以前に起きた大災害の印象は薄められがちだが、明治期の東京は江戸の安政年間Click!と同様に、地震と火災と洪水のトリプルパンチにみまわれている。　1910年(明治43)の8月、小型の台風が静岡県沼津に上陸したのだが、勢力がそれほどでもない熱帯低気圧だと、東京中央気象台Click!ではタカをくくっていたのかもしれない。ところが、台風の直接的な威力はそれほどではなかったものの、降雨量が並みではなかったのだ。豪雨は8月10日と11日の2日間にわたって降りつづき、関東地方の河川のほとんどが氾濫した。東京では8m以上も水位が上がり、大川(隅田川)Click!をはじめ神田上水Click!と江戸川Click!(ともに1960年代より神田川)、荒川、六郷川(多摩川)など、ほぼ主要なすべての河川が氾濫している。　東京市街の深刻な被害地域は、(城)下町Click!では下谷区と浅草区(現・台東区)、本所区(現・墨田区)、深川区(現・江東区)、山手では牛込区(現・新宿区)、小石川区と本郷区(現・文京区)などにおよび、洪水による低地(乃手では丘陵の谷間)への出水は、牛込区(現・新宿区)がもっともひどく水深3.3mで、下谷区(現・台東区)の3mを上まわっている。また、岩淵村(現・北区)や志村(現・板橋区)の平地では、水深が5m近くにもなり、もはや家屋の屋根上へ逃げても危険な状況だった。もちろん、水深が3mを超えれば2階屋までが浸水することになり、当時の一般的な住宅建築を考えると、被害がいかに深刻だったかがわかるだろう。　東京市街地の水没戸数は14万3千戸にもおよび、避難所となった学校や寺院、公共施設などには被災者がすし詰め状態となった。竣工したばかりで、まだ使われていなかった新築の両国国技館Click!(現在の国技館ではなく別名・本所国技館のこと)を、罹災者たちの避難所にあてたのは、いまでも下町の語り草になっている。洪水の被害を食い止めるために、8月11日には東京府が政府へ軍隊の出動を要請し、赤羽工兵大隊が隅田川の決壊堤防を修復するために派遣されている。　でも、工兵隊が出動したのは主要河川が中心であり、神田..</description>
<dc:subject>気になる神田川</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-29T23:38:55+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E6B19FE688B8E5B79D(E7A59EE794B0E5B79D)1.jpg" border="0" alt="江戸川(神田川)1.jpg" width="520" height="326" /><br />　1910年(明治43)は、東京市民にとっては最悪の年だった。1894年(明治27)の明治東京大地震とともに、のちの1923年(大正12)に起きた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-29" target="_blank">関東大震災</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や、戦争による“人災”としての<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-03-09" target="_blank">東京大空襲</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>などによって、それ以前に起きた大災害の印象は薄められがちだが、明治期の東京は江戸の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-04-08" target="_blank">安政年間</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と同様に、地震と火災と洪水のトリプルパンチにみまわれている。<br />　1910年(明治43)の8月、小型の台風が静岡県沼津に上陸したのだが、勢力がそれほどでもない熱帯低気圧だと、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-23" target="_blank">東京中央気象台</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>ではタカをくくっていたのかもしれない。ところが、台風の直接的な威力はそれほどではなかったものの、降雨量が並みではなかったのだ。豪雨は8月10日と11日の2日間にわたって降りつづき、関東地方の河川のほとんどが氾濫した。東京では8m以上も水位が上がり、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-04-13" target="_blank">大川(隅田川)</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をはじめ<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-01-18" target="_blank">神田上水</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-06-17" target="_blank">江戸川</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(ともに1960年代より神田川)、荒川、六郷川(多摩川)など、ほぼ主要なすべての河川が氾濫している。<br />　東京市街の深刻な被害地域は、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-07-06-2" target="_blank">(城)下町</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>では下谷区と浅草区(現・台東区)、本所区(現・墨田区)、深川区(現・江東区)、山手では牛込区(現・新宿区)、小石川区と本郷区(現・文京区)などにおよび、洪水による低地(乃手では丘陵の谷間)への出水は、牛込区(現・新宿区)がもっともひどく水深3.3mで、下谷区(現・台東区)の3mを上まわっている。また、岩淵村(現・北区)や志村(現・板橋区)の平地では、水深が5m近くにもなり、もはや家屋の屋根上へ逃げても危険な状況だった。もちろん、水深が3mを超えれば2階屋までが浸水することになり、当時の一般的な住宅建築を考えると、被害がいかに深刻だったかがわかるだろう。<br />　東京市街地の水没戸数は14万3千戸にもおよび、避難所となった学校や寺院、公共施設などには被災者がすし詰め状態となった。竣工したばかりで、まだ使われていなかった新築の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-06-04" target="_blank">両国国技館</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(現在の国技館ではなく別名・本所国技館のこと)を、罹災者たちの避難所にあてたのは、いまでも下町の語り草になっている。洪水の被害を食い止めるために、8月11日には東京府が政府へ軍隊の出動を要請し、赤羽工兵大隊が隅田川の決壊堤防を修復するために派遣されている。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E6B19FE688B8E5B79D(E7A59EE794B0E5B79D)2-ba042.jpg" border="0" alt="江戸川(神田川)2.jpg" width="520" height="327" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E6B19FE688B8E5B79D(E7A59EE794B0E5B79D)3-71969.jpg" border="0" alt="江戸川(神田川)3.jpg" width="520" height="329" /><br />　でも、工兵隊が出動したのは主要河川が中心であり、神田上水と江戸川(ともに現・神田川)は自然に水が引くのを待つような状況がつづいた。また、六郷川(多摩川)では台風が通過したあとでも洪水がつづき、河川敷の近くに建設された家々が次々に流されるなど、被害を止めることができなかった。多摩川のケースは、まったく同じ災害が戦後にも再び繰り返されることになる。「岸辺のアルバム」として印象深い同洪水は、堤防を過信しすぎて氾濫地域に住宅地を造成した明治期のケースと、まったく同じ轍(てつ)を踏んでいることになる。<br />　東京大洪水は、1923年(大正12)の関東大震災のときと同様に、「記念絵はがき」が発行されるほどの被害を東京地方にもたらしたのだが、それらの貴重な記録や写真類の多くは関東大震災で焼失し、その後の東京大空襲による戦災でもダメ押しのように失われて、現在ではきわめて貴重な記録となっている。大正期から昭和にかけて、東京は二度の大規模なカタストロフにみまわれているせいで、明治期以前の大洪水や大地震、大火災の記憶が薄れがちになっている・・・ともいえるだろうか。いまでは、見ることもまれな東京大洪水の記録写真なのだが、そのうちの93枚が近くの学習院大学にある<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-02-28" target="_blank">史料館</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(図書館)に残されていた。<br />　これらの写真が貴重なのは、東京を襲った台風による被害の資料としてばかりではない。江戸の元禄期や安政期に起きた直下型と思われる大地震による、江戸湾から襲来した津波の被害地を、ある程度想定することができるからだ。3mとも5mともいわれる津波は、江戸の河川を遡上しつづけ、市街地の奥まで深刻な被害をもたらした。河川の流れを押しもどすほどの津波が、流れくだる川と衝突してあふれさせるほどの威力をもつのは、今回の東日本大震災でも明らかだ。<br />　つまり、海から「動く高い堤防」がそれぞれの河川に次々と押し寄せ、流れにフタをし、水流を上流へと押しもどすことで、かなり内陸部にまで洪水を起こさせる現象が発生するということなのだ。よく、東京湾には津波を防ぐ水門があるといわれるが、開閉式の水門は電源が失われず激震でも機構のどこかが壊れない・・・という大前提で、初めて運用できるのだということを想起したい。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E99A85E794B0E5B79D(E5A4A7E5B79DE7ABAF)-c8088.jpg" border="0" alt="隅田川(大川端).jpg" width="520" height="321" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E99A85E794B0E5B79D(E697A5E69CACE6A98BE6B59CE794BA).jpg" border="0" alt="隅田川(日本橋浜町).jpg" width="520" height="318" /><br />　江戸湾内に震源がある思われる津波なので、外洋性の津波に比べ高さはそれほどでもないのだが、河川をいっせいにさかのぼることで東京市街の平地や低地、さらに山手の河川沿いにある谷間などへ洪水をもたらす危険性が高いことがわかる。江戸期に起きた大地震の津波による内陸被害は、このようなメカニズムで発生したのだろう。そして、東京大洪水で河川による浸水被害を受けた下町から山手にかけての流域が、地震の規模と同時に津波の高さや威力にもよるのだろうが、再び冠水する危険性の高いことが想定できるのだ。<br />　東京大洪水では甚大な被害が出た牛込地域だが、当時は江戸川と呼ばれていた神田川の関口から大曲(おおまがり)一帯が大きく浸水している。もともと室町期まで、奥東京湾の名残りとみられる大きな<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-07-14" target="_blank">白鳥池</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>があったあたりの谷間だ。また、江戸期に開拓された<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-06-20" target="_blank">早稲田田圃</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と呼ばれる湿地帯も近い。その名のとおり、大曲は川の流れが急激にカーブを描いている地点なので、江戸期から洪水が起きやすい地勢なのだろう。のちの関東大震災でも、大曲一帯は大きな地割れや地面の陥没により、道路や市電の線路が壊滅的な被害を受けている。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E99A85E794B0E5B79D(E590BEE5A6BBE6A98B)-fbd46.jpg" border="0" alt="隅田川(吾妻橋).jpg" width="520" height="335" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E585ADE983B7E5B79D(E5A49AE691A9E5B79D)-dfed6.jpg" border="0" alt="六郷川(多摩川).jpg" width="520" height="315" /><br />　先ごろ、タイのバンコクで起きた都会を飲みこむ大洪水だが、東京の市街地でも決して“他所事”や例外ではないのだ。かろうじて保存された、いまに伝わる当時の貴重な資料類が、これから再び起きるかもしれない惨事の危険性をハッキリと警告してくれている。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：江戸川(現・神田川)の石切橋の惨状で、洪水の流れがかなり速いのがわかる。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、江戸川(現・神田川)の大曲付近から上流の江戸川橋方面を向いて眺めたところ。<font color="#3366ff">下</font>は、当時は東京市電の終点のひとつだった大曲停留所あたりの被害。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、大川(隅田川)の本所・大川端あたりの惨状だが、もはや道路なのか川なのかも判然としない状況になっている。<font color="#3366ff">下</font>は、日本橋浜町で前方に見えているのは大橋(両国橋)。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、大川(隅田川)の大川橋(吾妻橋)周辺の浸水で右手はサッポロビール工場。<font color="#3366ff">下</font>は、洪水で護岸や堤防が削られて流出する六郷川(多摩川)沿いの住宅。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-26">
<title>下落合まであと一息のアユの遡上。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-26</link>
<description>　神田川をさかのぼるアユが、JR高田馬場駅からほど近い高戸橋(明治通り)の西側まで確認された。コンクリートの段差を崩して、魚たちが遡上できるように魚道Click!をこしらえたのが功を奏しているのだろう。また、下水処理も薬物を用いず、土壌処理や紫外線殺菌などが導入されて水質が飛躍的に改善されてもいるのだろう。下落合へは、あと一息の距離だ。　江戸初期から、1898年(明治31)に淀橋浄水場Click!が完成し翌1899年(明治32)まで、もともと上水道として使われていた神田上水Click!は、少し遅れて造成された玉川上水Click!とともに、江戸東京でもっとも清潔で澄んだ河川だった。上水としての役目を終えたあとも、きれいな川の水は製紙業や製薬業、染め物業Click!に適していたので、沿岸には数多くの工場や工房が建ち並んでいた。当時の様子を、1993年(平成5)に朝日新聞へ連載された、ルポ「神田川」から引用してみよう。　　▼　神田上水の取水施設があった関口大洗堰より上流の神田川は、上水管理の必要から、お留川として漁獲が固く禁じられていたし、当然のことながら遊泳も禁じられた。／明治九年七月十一日の新聞には、関口台町で釣りをした人が罰金に処せられ、翌十年七月五日にも中野村の子供二人が泳いだため罰金を取られたことが報じられている。／明治二十四年六月に上水としての利用が廃止(ママ)されてからの関口大洗堰あたりは、子供たちの格好の水遊び場となった。この堰下から江戸川橋あたりまでは、かつてかなりの急流の早瀬が所々にあり、竿一本でこの難所を乗り切る舟遊びは、急流に流されたり、川へ投げ出されたり、横転しながらも、子供たちにとっては、スリルに富んだ魅力的な遊びだった。／関口大洗堰から下流は、江戸時代より上水管理から解放され、広重(ママ)もお茶の水の神田川に糸を垂れる釣り人の姿を描いている。当時から大人も子供もアユ釣りに興じ、護岸の石垣をはうカニを追いかけて楽しんでいた。　　▲　ところどころに、「おや？」と思う気になる記述があるけれど、明治以降も御留川Click!としてつづいた神田上水の風情を活写した文章だ。もちろん、江戸期に神田上水で釣りをしたり泳いだりすれば「罰金」などでは済まず、水番の役人にしょっ引かれて「入牢」はまちがいなしだった。 　さて、きれいだった神田川が急激に濁りはじめたのは、戦後の1950年代からだった。中小工場からの排..</description>
<dc:subject>気になる神田川</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-26T18:55:21+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E9AB98E688B8E6A98B1.JPG" border="0" alt="高戸橋1.JPG" width="520" height="390" /><br />　神田川をさかのぼるアユが、JR高田馬場駅からほど近い高戸橋(明治通り)の西側まで確認された。コンクリートの段差を崩して、魚たちが遡上できるように<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-09-25" target="_blank">魚道</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をこしらえたのが功を奏しているのだろう。また、下水処理も薬物を用いず、土壌処理や紫外線殺菌などが導入されて水質が飛躍的に改善されてもいるのだろう。下落合へは、あと一息の距離だ。<br />　江戸初期から、1898年(明治31)に<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-01-05" target="_blank">淀橋浄水場</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が完成し翌1899年(明治32)まで、もともと上水道として使われていた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-10-06-1" target="_blank">神田上水</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は、少し遅れて造成された<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-11-17" target="_blank">玉川上水</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>とともに、江戸東京でもっとも清潔で澄んだ河川だった。上水としての役目を終えたあとも、きれいな川の水は製紙業や製薬業、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-08-10" target="_blank">染め物業</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に適していたので、沿岸には数多くの工場や工房が建ち並んでいた。当時の様子を、1993年(平成5)に朝日新聞へ連載された、ルポ「神田川」から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　神田上水の取水施設があった関口大洗堰より上流の神田川は、上水管理の必要から、お留川として漁獲が固く禁じられていたし、当然のことながら遊泳も禁じられた。／明治九年七月十一日の新聞には、関口台町で釣りをした人が罰金に処せられ、翌十年七月五日にも中野村の子供二人が泳いだため罰金を取られたことが報じられている。／明治二十四年六月に上水としての利用が廃止(ママ)されてからの関口大洗堰あたりは、子供たちの格好の水遊び場となった。この堰下から江戸川橋あたりまでは、かつてかなりの急流の早瀬が所々にあり、竿一本でこの難所を乗り切る舟遊びは、急流に流されたり、川へ投げ出されたり、横転しながらも、子供たちにとっては、スリルに富んだ魅力的な遊びだった。／関口大洗堰から下流は、江戸時代より上水管理から解放され、広重(ママ)もお茶の水の神田川に糸を垂れる釣り人の姿を描いている。当時から大人も子供もアユ釣りに興じ、護岸の石垣をはうカニを追いかけて楽しんでいた。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　ところどころに、「おや？」と思う気になる記述があるけれど、明治以降も<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-09-08" target="_blank">御留川</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>としてつづいた神田上水の風情を活写した文章だ。もちろん、江戸期に神田上水で釣りをしたり泳いだりすれば「罰金」などでは済まず、水番の役人にしょっ引かれて「入牢」はまちがいなしだった。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E9AB98E688B8E6A98B2-1ec7d.JPG" border="0" alt="高戸橋2.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E9AB98E688B8E6A98B3-1f8cd.JPG" border="0" alt="高戸橋3.JPG" width="255" height="191" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E7A59EE794B0E5B79D2.JPG" border="0" alt="神田川2.JPG" width="520" height="390" /><br />　さて、きれいだった神田川が急激に濁りはじめたのは、戦後の1950年代からだった。中小工場からの排水の問題もあるが、もっとも影響が大きかったのは急速に開発された住宅地からでる生活排水(下水)を、そのまま川へ流していたのが原因だった。下水処理をせず汚水をそのまま川へ流すなど、現在から見ればまったく考えられない環境だけれど、下水の処理施設が間に合わない以前に、新興の開発地域では下水管そのものの敷設が間に合わないようなありさまだった。<br />　支流が汚れれば、本流はもっと汚れる。支流本流を問わず、たくさんの生活排水が混じった汚水が注いだ神田川は異臭が漂うほどに汚れ、今度は神田川を支流とする大川(隅田川)は1960年代後半から70年代にかけ、汚濁のピークを迎える。神田川の出口にあった<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-02-09" target="_blank">粋な柳橋</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は、大川と神田川による汚染のダブルパンチを受けて、江戸期からの<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-07-05" target="_blank">長い歴史</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に幕を閉じた。<br />　それから20年ほどして、1990年代の初めごろ、落合下水処理場(現・落合水再生センター)の稼働がようやく効果をあらわしはじめ、神田川の水質は少しずつだが確実に改善のきざしをみせはじめた。それでも、1990年代はとても魚が棲める環境ではなく、川底にたまったヘドロの除去や、窒素が多く含まれた水質が大きな課題だった。当時の様子を、朝日新聞の同ルポから引用しよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　<font color="#333399">[落合処理場]</font>　アンモニア性の窒素(八・〇－一一・六ppm)とリンは高すぎて魚の住める環境ではなく、ヘドロの大量発生を促す水質でもある。<br />　<font color="#333399">[高戸橋]</font>　落合処理場の影響を受けてアンモニア性の窒素が最大八・六ppmと魚の住めない状態。総窒素も高すぎ、藻類の異常発生を促している。その結果、海水の遡上する飯田橋付近ではヘドロとして滞留し、一部はスカム(浮上汚泥)として悪臭を放っている。<br />　　<font color="#008000">▲<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E7A59EE794B0E5B79D1-8f109.JPG" border="0" alt="神田川1.JPG" width="520" height="390" /><br /></font>　この時代からさらに10年、神田川の水質は急速に改善されつづけた。その要因は、落合水再生センターで処理された下水が、「鯉が棲める」から「金魚が棲める」ほどの水質にまで向上しているほかに、川底にたまったヘドロのこまめな除去や、水中の酸素を奪う大量の水藻を適宜清掃するなど、地道でキメ細かな手入れがされるようになったからだろう。<br />　上記の記事で取り上げられ、魚の棲息は絶望とされた高戸橋の流域だが、現在はアユをはじめ、オイカワ、タモロコ、マハゼ、ドジョウなど20種類の魚が確認されている。おそらく、いまごろは下落合にも姿を見せているころなのかもしれない。また、高戸橋の西側から長いトンネル(暗渠)となってつながる妙正寺川にも、魚が遡上する日が近いのかもしれない。<br />　わたしは1970年代からこっち、神田川で釣り糸をたれる人をついぞ見かけたことがないのだが、これからはあちこちの橋上、あるいは川べりにアユ釣りの姿を見かけることになるのだろうか？　それとも、水棲生物の保護のために、東京都は神田川を徳川幕府や明治政府と同様、再び「御留川」として漁獲・遊泳禁止の川にするだろうか。w<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E382A2E383A6-19216.jpg" border="0" alt="アユ.jpg" width="255" height="106" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E382AAE382A4E382ABE383AF.jpg" border="0" alt="オイカワ.jpg" width="255" height="106" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E3839EE3838FE382BC-d292c.jpg" border="0" alt="マハゼ.jpg" width="255" height="105" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E382BFE383A2E383ADE382B3-b3b4a.jpg" border="0" alt="タモロコ.jpg" width="255" height="105" /><br />　ちなみに、神田川への立ち入りは染め物の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-01-31" target="_blank">水洗い</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>やイベントの開催など、それなりの理由があれば都から比較的容易に許可されるようだし、つい先年の夏には、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-05-09" target="_blank">高田馬場駅</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>近くの<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-02-02" target="_blank">神高橋</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>で、子どもたちが川に下りて水遊びをしているのを見かけたばかりだ。この川遊びは、竣工したばかりの戸塚地域センターが主催した、水辺の催し物のひとつだったのだろう。同センターには、ハナから神田川へ降りられる階段が施設の脇に設置されている。わたしも、今夏は神田川の流れに降りて、山手線と西武線の鉄橋を見上げながらアユでも探す、暑気払いの川遊びがしたいものだ。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：高戸橋の西側にある、神田川と妙正寺川(暗渠)との合流地点。現在では、両河川が落ち合うのは落合地域ではなく、1,000mほど下流の高戸橋になっている。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、高戸橋西側の流れ(<font color="#3366ff">左</font>)と東側の魚道あたりの流れ(<font color="#3366ff">右</font>)。いずれも、水はよく澄んでいて透明度が高い。<font color="#3366ff">下</font>は、上流のJR高田馬場駅から下落合方面へと向かう神田川。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：雨がしばらく降らないと、神田川の川底から大きな岩礁が昔ながらの姿を見せる。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：JR高田馬場駅の付近の神田川で、棲息が確認された魚たち。<font color="#3366ff">上</font>が、ようやく50年ぶりにもどってきたアユ(<font color="#3366ff">左</font>)とオイカワ(<font color="#3366ff">右</font>)。<font color="#3366ff">下</font>が、マハゼ(<font color="#3366ff">左</font>)とタモロコ(<font color="#3366ff">右</font>)。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23">
<title>西坂・徳川邸の風情を再現する。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23</link>
<description>　西坂の丘上にある徳川邸Click!は、下落合東部の近衛邸などと同様に明治期から建設されており、落合地域に建てられた西洋館のなかでも古い部類に属している。しかも、当初は本邸ではなく1908年(明治41)に下落合701～7011番地の丘上へ別邸として竣工したものだが、東京が35区Click!に再編されてしばらくのち、市街地の牛込河田町にあった本邸を整理したものか、下落合が本邸として機能していたようだ。　西坂の徳川邸に住んでいた徳川義恕(よしくみ)について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌編纂委員会)の「人物事業編」から引用してみよう。　　▼　徳川義裕　下落合不動谷　当家は侯爵尾州家の分家にて男は故従一位徳川慶勝氏の十一男にして明治十一年十一月を以て出生 同二十一年分家を創立し、特旨を以て華族に列せられ男爵を授けらる、先是同三十五年学習院中等科を卒業し軍務に服し陸軍歩兵少尉に任官、日露役に従軍す、曩(さき)に侍従宮内省内匠寮御用掛を仰付らる。本邸は牛込区市ヶ谷河田町に在り別邸は明治四十一年に設けられ今日に至る。夫人寛子は津軽伯爵家の出である。　　▲　徳川邸には、ボタン園として東京じゅうに知られていた「静観園」Click!や、大規模なバラ園などが存在しており、近所に住む画家たちのモチーフとして人気を集めた。徳川邸から、北へ200mほどのところにアトリエClick!をかまえた吉田博Click!をはじめ、当時は目白文化村Click!の第一文化村北側の下落合1385番地に住んでいた松下春雄Click!、松下とは帝展仲間で薬王院墓地のすぐ西側に住んでいた、鈴木良三Click!のアトリエClick!だった家をそのまま借りていると思われる有岡一郎Click!などが、徳川邸を訪れては作品を描いていたとみられる。　以前、徳川様をお訪ねしてお話をうかがったところ、男爵だった徳川義恕の寛子夫人が、吉田博と親しかったことを知った。しかし、早逝した松下春雄Click!のことはご存じはでなく、大正末の一時的な仕事だったため、寛子夫人の印象が薄かったのかもしれない。わたしが持参した、バラ園を描いた松下春雄作品を、「うん、確かにこれはうちの庭です。あそこいらにね、バラ園があったんだよ」とご教示いただいたが、当代は初めて目にされる松下作品だった。　あるいは、松下春雄は名古屋で勢いのあった画会「サンサシオン」Click!の中核メン..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-23T22:04:57+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE59D821.JPG" border="0" alt="西坂1.JPG" width="450" height="337" /><br />　西坂の丘上にある<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-05-14" target="_blank">徳川邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は、下落合東部の近衛邸などと同様に明治期から建設されており、落合地域に建てられた西洋館のなかでも古い部類に属している。しかも、当初は本邸ではなく1908年(明治41)に下落合701～7011番地の丘上へ別邸として竣工したものだが、東京が<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-03" target="_blank">35区</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に再編されてしばらくのち、市街地の牛込河田町にあった本邸を整理したものか、下落合が本邸として機能していたようだ。<br />　西坂の徳川邸に住んでいた徳川義恕(よしくみ)について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌編纂委員会)の「人物事業編」から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　<font color="#333399">徳川義裕　下落合不動谷<br /></font>　当家は侯爵尾州家の分家にて男は故従一位徳川慶勝氏の十一男にして明治十一年十一月を以て出生 同二十一年分家を創立し、特旨を以て華族に列せられ男爵を授けらる、先是同三十五年学習院中等科を卒業し軍務に服し陸軍歩兵少尉に任官、日露役に従軍す、曩(さき)に侍従宮内省内匠寮御用掛を仰付らる。本邸は牛込区市ヶ谷河田町に在り別邸は明治四十一年に設けられ今日に至る。夫人寛子は津軽伯爵家の出である。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　徳川邸には、ボタン園として東京じゅうに知られていた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-05-06" target="_blank">「静観園」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や、大規模なバラ園などが存在しており、近所に住む画家たちのモチーフとして人気を集めた。徳川邸から、北へ200mほどのところに<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-09-12" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をかまえた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-02-29" target="_blank">吉田博</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をはじめ、当時は<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm" target="_blank">目白文化村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の第一文化村北側の下落合1385番地に住んでいた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30" target="_blank">松下春雄</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>、松下とは帝展仲間で薬王院墓地のすぐ西側に住んでいた、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-01-11" target="_blank">鈴木良三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-06-07" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>だった家をそのまま借りていると思われる<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-12-23" target="_blank">有岡一郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>などが、徳川邸を訪れては作品を描いていたとみられる。<br />　以前、徳川様をお訪ねしてお話をうかがったところ、男爵だった徳川義恕の寛子夫人が、吉田博と親しかったことを知った。しかし、早逝した<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-11-18" target="_blank">松下春雄</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のことはご存じはでなく、大正末の一時的な仕事だったため、寛子夫人の印象が薄かったのかもしれない。わたしが持参した、バラ園を描いた松下春雄作品を、「うん、確かにこれはうちの庭です。あそこいらにね、バラ園があったんだよ」とご教示いただいたが、当代は初めて目にされる松下作品だった。<br />　あるいは、松下春雄は名古屋で勢いのあった画会<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-02-29" target="_blank">「サンサシオン」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の中核メンバーであり、光風会展や帝展にも入選していた関係から、寛子夫人ではなく徳川義恕自身と交流があった可能性もある。徳川義恕は、分家する以前は尾張藩が国許にあたるため、名古屋には係累や知人も多く、同地域の事情や動向には明るかったと思われるからだ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E3808CE4B88BE890BDE59088E5BEB3E5B79DE794B7E788B5E588A5E982B8E3808D192605-256c3.jpg" border="0" alt="松下春雄「下落合徳川男爵別邸」192605.jpg" width="520" height="401" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E3808CE5BEB3E5B79DE588A5E982B8E58685E3808D192605-7f808.jpg" border="0" alt="松下春雄「徳川別邸内」192605.jpg" width="520" height="387" /><br />　松下春雄は、1926年(大正15)4月に名古屋で開催されたサンサシオン第4回展からもどったあと、第1回聖徳太子奉賛美術展に作品を出品している。おそらく、その間に西坂の徳川邸を訪れ、当時は広い庭園の東側から<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-02-23" target="_blank">不動谷(西ノ谷)</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の斜面にかけて存在していたバラ園を写生しているのだろう。松下が徳川邸のバラ園を描いた作品としては、同年の『徳川別邸内』と<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-11-29" target="_blank">『下落合徳川男爵別邸』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の2点が現存している。当時は徳川邸母屋の北側にあったボタン園、「静観園」は開放されていたが、庭園の芝庭からさらに奥まったところにあるバラ園は非公開であり、そこまで入りこんで写生しているということは、徳川家と松下春雄の交流が感じられるのだ。<br />　また、松下春雄は1926年(大正15)の初秋、帝展仲間でありサンサシオン展へも作品を発表していた、下落合800番地の有岡一郎を同行して再び徳川邸を訪れ、今度は邸の南側に拡がっていた芝庭から、赤い屋根の大きな徳川別邸(旧邸)を入れた画面を描いているとみられる。<br />　松下は水彩で『赤い屋根の家』を、有岡は油彩で『初秋郊外』を描いているが、1936年(昭和11)の少しあと、モチーフとなった旧邸は解体され、やや南に下がった庭園の位置へ、さらに巨大な西洋館の母屋(新邸)が建設されることになる。新邸は戦災にも遭わずに戦後まで残り、リニューアルされたのはおそらく1970年代ではないかと思われる。この新邸建設で母屋の北側に位置し、敷地が広く東西に長かったボタンの「静観園」は東寄りの斜面へと移動し、庭の東半分を占めていたバラ園も、母屋に敷地をいくらか削られて、かなり規模を縮小しているのではないだろうか。<br />　そして、2年後の1928年(昭和3)4月末ないしは5月初めに、寛子夫人と親しかった吉田博が徳川邸を訪れ、『東京拾二題』の1作<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-04-25" target="_blank">「落合徳川ぼたん園」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を版画作品として残すことになる。大正期の「静観園」について、当時は小学生だった毎日新聞記者・名取義一の証言が残っている。1992年(平成4)に出版された、名取義一『東京・目白文化村』から引用してみよう。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E3808CE8B5A4E38184E5B18BE6A0B9E381AEE5AEB6E3808D192609.jpg" border="0" alt="松下春雄「赤い屋根の家」192609.jpg" width="260" height="200" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69C89E5B2A1E4B880E9838EE3808CE5889DE7A78BE9838AE5A496E3808D192609-b0744.jpg" border="0" alt="有岡一郎「初秋郊外」192609.jpg" width="250" height="200" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59089E794B0E58D9AE3808CE69DB1E4BAACE68BBEE4BA8CE9A18CE890BDE59088E5BEB3E5B79DE381BCE3819FE38293E59C92E3808D1928-23702.jpg" border="0" alt="吉田博「東京拾二題落合徳川ぼたん園」1928.jpg" width="520" height="347" /><br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　下級生のとき、ある先生が転校になり、その見送りのため全校児童が、この通りの西側に徳川邸まで並ばされた。／して路上で女性の青柳先生が大声で「〇〇先生がこのたびオカミの都合により・・・」と説明した。私には、この“御上”が解からなかった。／ともかくこの辺は、目白文化村と違って和風の邸宅が多かった。／この“徳川さん”と言われたのは、徳川義寛(ママ)男爵である。同家は尾張・徳川家の支藩・大垣の殿様であった。／当時、子供心にうれしかったのは、同屋敷では、毎年五月になると、その庭園を開放し、見事なボタン群を一般に見せたことである。小学校では皆にこのボタンを写生させた。また藤棚もきれいであった。その門前には小店が出て、私などベンケイガニを買ったのを覚えている。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　文中の「青柳先生」とは、<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/saeki.htm" target="_blank">佐伯祐三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の隣家に住んでいて佐伯一家とも親しく、のちに<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-08-17" target="_blank">「テニス」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をプレゼントされた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-08-25" target="_blank">青柳辰代</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のことだ。<br />　これらの作品を眺めると、大正末から昭和初期にかけての西坂・徳川邸の風情を、おおよそつかむことができる。半島のように南へ突き出た、西坂上の敷地北寄りには赤い屋根の母屋(旧邸)があり、その北側から東にかけては毎年ボタンの季節になると一般に開放された「静観園」が設けられていた。また、邸の南側には池のある芝庭が一面に拡がっていたが、敷地の東側に切れこんだ谷寄りの位置(現在の聖母坂寄りの敷地)には、やはり5月ごろにはみごとな花を咲かせた大規模なバラ園が設置されていた。<br />　松下春雄の『下落合徳川男爵別邸』は、西側から東を向いて描いたバラ園の入り口であり、『徳川別邸内』は背後に広めの谷間とコンクリートの擁壁(現在は久七坂が通う丘)が見えていることから、バラ園内部をやはり西から東を向いて描いたとみられる。また、松下の『赤い屋根の家』と有岡一郎の『初秋郊外』は、母屋の南側に拡がった池のある芝庭から、北側を向いてともに描いている。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE59D82E5BEB3E5B79DE982B81936.jpg" border="0" alt="西坂徳川邸1936.jpg" width="520" height="407" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E99D99E8A6B3E59C921932-16d4b.jpg" border="0" alt="静観園1932.jpg" width="520" height="334" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE59D822-dcfb5.JPG" border="0" alt="西坂2.JPG" width="255" height="286" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE59D823-daacb.JPG" border="0" alt="西坂3.JPG" width="255" height="286" /><br />　吉田博『東京拾二題』の「落合徳川ぼたん園」は、「静観園」の中に入って描いているので、厳密な場所の特定はむずかしいが、光線が右手前から射しているように描かれているので、その方角が南側、すなわち徳川邸の母屋や芝庭のある方角の可能性が高い。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：徳川邸の建て替えで、だいぶ風情が変わって明るくなってしまった現在の西坂。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、1926年(大正15)の5月ごろに西坂・徳川邸のバラ園を描いた松下春雄『下落合徳川男爵別邸』。<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-11" target="_blank">山本夫妻</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>よりいただいた「松下春雄展」図録（藝林／1988年）で、初めて目にしたカラー図版だ。<font color="#3366ff">下</font>は、同時期の制作と思われる松下春雄『徳川別邸内』。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、1926年(大正15)の9月頃に描かれた松下春雄『赤い屋根の家』。<font color="#3366ff">上右</font>は、同時期に松下と連れだって徳川邸を描いたと思われる有岡一郎『初秋郊外』。<font color="#3366ff">下</font>は、1928年(昭和3)制作の寛子夫人とは懇意だった吉田博『東京拾二題』のうち「落合徳川ぼたん園」。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、各作品の描画ポイント。<font color="#3366ff">中</font>は、1932年(昭和7)に撮影され『落合町誌』に掲載された徳川邸の「静観園」。<font color="#3366ff">下</font>は、少し以前の西坂の風情。松下春雄が描いた『徳川別邸内』の遠景にみられる大正期のコンクリート擁壁が、西坂側にもそのまま残っていた。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-20">
<title>目白文化村造成前の「不動園」開発。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-20</link>
<description>　堤康次郎が下落合575番地Click!に住んでいたのは、登記簿によれば1919年(大正8)から1932年(昭和7)の14年間ということになっている。でも、これはあくまでも登記簿上のことで、実際の住居は本人の自伝や夫人の証言などから、1925年(大正14)ごろには学園都市を開発していた谷保村青柳894番地(現・国立市)へ転居しているようだ。でも、下落合の邸はそのまま登記簿の名義を変更せず、堤康次郎が経営する駿豆鉄道の取締役で、上から読んでも下から読んでも長坂長に、留守番がてら住まわせていたのだろう。　堤康次郎Click!が、下落合の土地を買収しはじめたのは、明治末ぐらいからではないかと思われる。落合府営住宅Click!の建設用に、目白通り沿いの土地を東京府へ一部寄贈したのは、明治末から大正初期にかけての時期だ。そして、のちの目白文化村Click!を形成するエリアの土地買収がスタートしたのは、明治が終わったばかりの1914年(大正3)からだ。つまり、堤は1913年(大正2)に早大を卒業しているので、卒業とほぼ同時に前谷戸とその周辺の土地に目をつけたことになる。この年だけで、のちに第一文化村の南側となる土地2,667坪を、地付きの宇田川家から購入している。つづいて、1917年(大正6)までに第一文化村エリアのほぼ全域を、1919年(大正8)までには第二文化村の半分ほどを買収し、堤が手にした下落合の土地の総面積は、『No.8706「目白文化村」に関する総合的研究(2)』(1989年)によれば1万4,235坪にもおよんでいる。　この過程で、かなり強引な取り引きや、土地を売らない地主に対するさまざまな嫌がらせもあったようだ。いまだ買収の済んでいない他人の土地へ、勝手に宅地造成の区画番号をつけ販売価格まで決めて公表してしまい、所有者たちが手放さざるをえない状況へと追いこんでいくようなことまでしたようだから、下落合の地元では大きな反発や顰蹙をかっている。上記の宇田川様Click!が、西武系の鉄道やデパートなどの施設をいまだに利用されないのは、堤康次郎のメチャクチャな買収事業の被害に遭われたからにほかならない。　ところで、堤は下落合の土地を買収して、当初から目白文化村を計画していたのではなさそうだ。大学を卒業したころは、単に財産を増やすための投機目的(早大当局を巻きこんでいる)だったように思えるが、買収をはじめたころには遊園地「..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-20T16:36:01+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59C9FE5A181E8B7A1(E5898DE8B0B7E688B8).JPG" border="0" alt="土塁跡(前谷戸).JPG" width="420" height="315" /><br />　堤康次郎が<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-08-30" target="_blank">下落合575番地</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に住んでいたのは、登記簿によれば1919年(大正8)から1932年(昭和7)の14年間ということになっている。でも、これはあくまでも登記簿上のことで、実際の住居は本人の自伝や夫人の証言などから、1925年(大正14)ごろには学園都市を開発していた谷保村青柳894番地(現・国立市)へ転居しているようだ。でも、下落合の邸はそのまま登記簿の名義を変更せず、堤康次郎が経営する駿豆鉄道の取締役で、上から読んでも下から読んでも長坂長に、留守番がてら住まわせていたのだろう。<br />　<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-23" target="_blank">堤康次郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が、下落合の土地を買収しはじめたのは、明治末ぐらいからではないかと思われる。<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-05-16" target="_blank">落合府営住宅</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の建設用に、目白通り沿いの土地を東京府へ一部寄贈したのは、明治末から大正初期にかけての時期だ。そして、のちの<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm" target="_blank">目白文化村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を形成するエリアの土地買収がスタートしたのは、明治が終わったばかりの1914年(大正3)からだ。つまり、堤は1913年(大正2)に早大を卒業しているので、卒業とほぼ同時に前谷戸とその周辺の土地に目をつけたことになる。この年だけで、のちに第一文化村の南側となる土地2,667坪を、地付きの宇田川家から購入している。つづいて、1917年(大正6)までに第一文化村エリアのほぼ全域を、1919年(大正8)までには第二文化村の半分ほどを買収し、堤が手にした下落合の土地の総面積は、『No.8706「目白文化村」に関する総合的研究(2)』(1989年)によれば1万4,235坪にもおよんでいる。<br />　この過程で、かなり強引な取り引きや、土地を売らない地主に対するさまざまな嫌がらせもあったようだ。いまだ買収の済んでいない他人の土地へ、勝手に宅地造成の区画番号をつけ販売価格まで決めて公表してしまい、所有者たちが手放さざるをえない状況へと追いこんでいくようなことまでしたようだから、下落合の地元では大きな反発や顰蹙をかっている。上記の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-11-26" target="_blank">宇田川様</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が、西武系の鉄道やデパートなどの施設をいまだに利用されないのは、堤康次郎のメチャクチャな買収事業の被害に遭われたからにほかならない。<br />　ところで、堤は下落合の土地を買収して、当初から目白文化村を計画していたのではなさそうだ。大学を卒業したころは、単に財産を増やすための投機目的(早大当局を巻きこんでいる)だったように思えるが、買収をはじめたころには遊園地「不動園」の構想があったと思われる。当時は、遊園地ブームのただ中にあり、軽井沢の遊園地＋新興別荘地構想を具体化するために、堤は沓掛遊園地株式会社を設立している。ここでいう「遊園地」とは、戦後のアトラクションや乗り物が中心の娯楽施設ではなく、文化施設を含む庭園や公園をより大規模にしたような(たとえば「新宿御苑」のような)ものだった。のち、1925年(大正14)に箱根土地は劇場や映画館などを備えた、いまでも語り草になっている<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-04-18" target="_blank">「新宿園」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を出雲松平藩の下屋敷跡だった新宿番衆町に開園している。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59C9FE5A1811921-5c299.jpg" border="0" alt="土塁1921.jpg" width="520" height="335" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59C9FE5A181E8B7A11936-03f44.jpg" border="0" alt="土塁跡1936.jpg" width="520" height="443" /><br />　さて、明治末から大正末期までに作成された、陸軍参謀本部の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-03-13" target="_blank">陸地測量部</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>による1/10,000地形図を時系列で眺めていたとき、以前から目白文化村界隈におかしな記号を見つけていた。おそらく1916年(大正5)から間もない時期、つまり堤が下落合の前谷戸一帯の土地を買収しはじめてから数年後に、この地域へほぼ正方形に近い土塁がエンエンと築かれているのだ。その範囲は広く一辺は200mにおよび、のちの箱根土地の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-10-04" target="_blank">本社敷地</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をすべて含み、現在の第一文化村東部の北辺から、谷戸が埋め立てられた西辺沿いに第二文化村までの筋を西辺とし、第二文化村の北東部にまで及ぶ長大な土塁だった。<br />　この土塁が、初めて1/10,000地形図に採取されたのは1921年(大正10)の第2回修正測図、すなわち1916年(大正5)の第1回修正測図から5年後のことだ。でも、堤がこのエリアの土地をほぼ買収し終えた1917年(大正6)ごろから、土塁は築かれはじめていたのではないかと思われる。それは、目白文化村の開発計画が持ち上がる以前、1917年(大正6)現在で堤が買収した土地と土塁のエリアとが、おおよそ一致していることからもうかがえる。<br />　ちょうど、前谷戸(第一文化村の谷戸地形部)を湧水源の手前で土塁によって仕切り、谷底にあった<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-03-30" target="_blank">洗い場</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と思われる池を取り入れて、大きな回遊式庭園のような風情を形成している。また、土塁に囲まれた敷地の南東部には、直径が20mほどの正円形の丘が地図上に改めて採取されているが、これはもともと存在した古墳期の墳丘の痕跡か、それとも「不動園」用に盛り土をした、のちに四阿(あずまや)でも建てる予定になっていた見晴らし台用の人工丘陵だろうか？　ちなみに、上野公園では見晴らし台用の高台として、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-07-16" target="_blank">摺鉢山古墳</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の後円部が残されているようだ。1/10,000地形図に採取されたこれらの様子が、下落合の土地を買収しはじめて間もないころに、堤が構想していた遊園地「不動園」造成中の姿ではないだろうか。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59CB0E5BDA2E59BB31916.jpg" border="0" alt="地形図1916.jpg" width="255" height="243" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59CB0E5BDA2E59BB31929-059e8.jpg" border="0" alt="地形図1929.jpg" width="255" height="243" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59C9FE5A181E8B7A1(E58C97E8BEBA)-1d145.JPG" border="0" alt="土塁跡(北辺).JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59C9FE5A181E8B7A1(E8A5BFE8BEBA)-c5cfc.JPG" border="0" alt="土塁跡(西辺).JPG" width="255" height="191" /><br />　この土塁構築で“問題”なのは、いまだ未買収の土地が残っているにもかかわらず、他人の土地までを土塁内に囲いこんでしまっている点だろう。堤に土地を売らなかった地主は、どれだけの高さがあったのかは不明だが、土塁を越えて自分の土地(畑地)まで行かねばならず、明らかに嫌がらせと受け取ったにちがいない。あるいは、うがった見方をするならば、堤は遊園地「不動園」建設という買収目的を説明しながら(そのほうが土地を安く手に入れやすかったのかもしれない)、実は近郊住宅地の開発を当初からもくろんでおり、谷戸や低地を埋め立てるために大量の土砂を、「不動園」建設の名目で早くから運びこんでいた・・・というようにも思えてくる。土塁の膨大な土砂が、のちに目白文化村の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-04-13" target="_blank">埋め立てや造成</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に使われたのはいうまでもないだろう。<br />　1/10,000地形図では、正方形の南東角がえぐられるように内側へ凹んでいるが、この部分が堤の強引な土地買収による被害を受けた、宇田川家の広大な敷地の一部だ。結局、遊園地「不動園」の建設は、1919年(大正8)ごろにはいつの間にか消滅し、郊外の「文化村」住宅の建設計画に変わっている。そして、「不動園」という名称は、箱根土地本社の南側に設置された庭園名として、かろうじて残ることになるようなのだが・・・。<br />　箱根土地が「不動園」構想を起ち上げるのとほぼ同時に、1/10,000地形図における<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-03-22" target="_blank">「不動谷」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の名称位置が、西へ一気に400mほど<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-03-16" target="_blank">移動</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>しているのも興味深い現象だ。大正期には、すでに広範な字(あざな)として用いられていた「不動谷」だが、江戸期から明治期にかけての位置、あるいは1916年(大正5)に出版された『東京府豊多摩郡誌』に添付の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-03-07" target="_blank">地図</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>でも、「不動谷」は諏訪谷の反対側の谷戸、すなわち現在の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-06-09" target="_blank">国際聖母病院</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>西側の谷戸(西ノ谷)をさしており、また旧・下落合東部(現・下落合地域)の地元伝承でも同様だ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59CB0E5BDA2E59BB31909.jpg" border="0" alt="地形図1909.jpg" width="520" height="208" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59CB0E5BDA2E59BB31921-46699.jpg" border="0" alt="地形図1921.jpg" width="520" height="200" /><br />　なぜ谷戸名が突然、大正中期から400mも西の谷間へ移動するのか、箱根土地による「不動園」というネーミングにもからんで、そこに早大を足がかりに政界への太いパイプを持っていた、堤康次郎によるなんらかの働きかけが行われたのかどうか、気になりつづけているテーマなのだ。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：「不動園」計画と思われる土塁が築かれていた、第一文化村の前谷戸あたり。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、1921年(大正10)の1/10,000地形図の第2回修正測図にみる、1辺が200mほどの土塁記号。すでに池や橋が造成され、土塁の南には円墳状の正円丘が見えている。<font color="#3366ff">下</font>は、1936年(昭和11)の空中写真にまで残る長大な土塁の痕跡。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、1916年(大正5)に作成された第1回修正測図で土塁は採取されていない。<font color="#3366ff">上右</font>は、1929年(昭和4)の第3回修正測図であちこちに土塁の痕跡が見られる。<font color="#3366ff">下左</font>は、土塁が築かれた北辺あたり。<font color="#3366ff">下右</font>は、現在は道路となっている土塁の西辺。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、1909年(明治42)の1/10,000地形図に記載された不動谷。<font color="#3366ff">下</font>は、1921年(大正10)の同地図に記載された不動谷で、谷名の位置が西へ大きく移動している。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-17">
<title>学生時代は落合・長崎地域をよく歩いた。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-17</link>
<description>　戦後、1960年(昭和35)に住宅協会が作成した旧・下落合全域の「全住宅案内帳」Click!は、これまで戦前の地図類とともに何度か記事Click!にも引用している。また、同様に1966年(昭和41)現在の地図も引用してきた。目白通りをはさんだ椎名町(現・南長崎)地域では、1955年(昭和30)現在の「戸別案内図」が残されている。きょうは、それらを使って当時の情景をご紹介するとともに、わたしが学生時代にすごした界隈をご紹介したい。もっとも、わたしが親元から独立し、南長崎にアパートを借りて暮らしたのは1970年代末ごろからなので、これらの地図に描かれた街並みとはずいぶん異なっている。そこは、1982年(昭和57)のゼンリン地図で補足したい。　わたしが、親元にいるとなかなか精神的にも経済的にも自立できないと考え、南長崎にアパートを借りて住んでいたのは1982年の春ぐらいまでだったろうか。このあと、下落合の聖母坂沿いに引っ越しているので、それ以降の南長崎の様子や変遷をよく知らない。1982年のゼンリン地図を見ると、わたしが借りていた南長崎4丁目の「柏荘」(すでに解体)とその周辺が収録されている。柏荘の前のアパートが、当時からおかしかったのだが「トキワ荘」ならぬ「トキワギ荘」だったので印象に残っている。このあたりの人たちは親切で、同じアパートの住人やトキワギ荘の方から“おすそ分け”をいただいた記憶がある。引っ越しのとき、下落合なら近いから遊びに寄ってよ・・・と言われたのだが、ついそのまま年月が流れてしまった。　柏荘の並びには、椎名町教会と仲の湯Click!(旧・久の湯)が並んでいて、銭湯までは徒歩30秒だった。現在、椎名町教会は建て替えられてコンクリート建築になり、迎撃戦闘機が落ちてきた仲の湯(旧・久の湯Click!)は廃業してしまった。仲の湯が定休日だと、小野田製油所Click!を右に折れて、下落合(現・中落合)の第一文化村Click!の外れにあった人生浴場(旧・伊乃湯／萩の湯Click!)へ出かけていた。こちらの銭湯は名前をまったく記憶しておらず、昔の地図から「萩の湯」だと思いこんでいたのだが、わたしが通った1980年前後は人生浴場という名称だったことを、つい最近知った。どちらの銭湯にもコインランドリーが併設されていて、休日には洗濯に通ったものだ。 　このころ、富士美写真館Click!は「富士スタジオ」という名称で収..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-17T14:14:03+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BA8CE58F88E5AD90E882B2E59CB0E894B5.JPG" border="0" alt="二又子育地蔵.JPG" width="450" height="337" /><br />　戦後、1960年(昭和35)に住宅協会が作成した旧・下落合全域の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-06-18" target="_blank">「全住宅案内帳」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は、これまで戦前の地図類とともに何度か<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-06-02" target="_blank">記事</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>にも引用している。また、同様に1966年(昭和41)現在の地図も引用してきた。目白通りをはさんだ椎名町(現・南長崎)地域では、1955年(昭和30)現在の「戸別案内図」が残されている。きょうは、それらを使って当時の情景をご紹介するとともに、わたしが学生時代にすごした界隈をご紹介したい。もっとも、わたしが親元から独立し、南長崎にアパートを借りて暮らしたのは1970年代末ごろからなので、これらの地図に描かれた街並みとはずいぶん異なっている。そこは、1982年(昭和57)のゼンリン地図で補足したい。<br />　わたしが、親元にいるとなかなか精神的にも経済的にも自立できないと考え、南長崎にアパートを借りて住んでいたのは1982年の春ぐらいまでだったろうか。このあと、下落合の聖母坂沿いに引っ越しているので、それ以降の南長崎の様子や変遷をよく知らない。1982年のゼンリン地図を見ると、わたしが借りていた南長崎4丁目の「柏荘」(すでに解体)とその周辺が収録されている。柏荘の前のアパートが、当時からおかしかったのだが「トキワ荘」ならぬ「トキワギ荘」だったので印象に残っている。このあたりの人たちは親切で、同じアパートの住人やトキワギ荘の方から“おすそ分け”をいただいた記憶がある。引っ越しのとき、下落合なら近いから遊びに寄ってよ・・・と言われたのだが、ついそのまま年月が流れてしまった。<br />　柏荘の並びには、椎名町教会と<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-06-03" target="_blank">仲の湯</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(旧・久の湯)が並んでいて、銭湯までは徒歩30秒だった。現在、椎名町教会は建て替えられてコンクリート建築になり、迎撃戦闘機が落ちてきた仲の湯(旧・<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-11-09" target="_blank">久の湯</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>)は廃業してしまった。仲の湯が定休日だと、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-05-13" target="_blank">小野田製油所</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を右に折れて、下落合(現・中落合)の<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm" target="_blank">第一文化村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の外れにあった人生浴場(旧・伊乃湯／<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-08-20" target="_blank">萩の湯</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>)へ出かけていた。こちらの銭湯は名前をまったく記憶しておらず、昔の地図から「萩の湯」だと思いこんでいたのだが、わたしが通った1980年前後は人生浴場という名称だったことを、つい最近知った。どちらの銭湯にもコインランドリーが併設されていて、休日には洗濯に通ったものだ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B8ADE890BDE59088E383BBE58D97E995B7E5B48E1982-3543d.jpg" border="0" alt="中落合・南長崎1982.jpg" width="520" height="223" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BC8AE4B983E6B9AFE7958CE99A881960-9b447.jpg" border="0" alt="伊乃湯界隈1960.jpg" width="255" height="370" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BABAE7949FE6B5B4E5A0B4E7958CE99A881966-3ed4c.jpg" border="0" alt="人生浴場界隈1966.jpg" width="255" height="370" /><br />　このころ、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-10-07" target="_blank">富士美写真館</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は「富士スタジオ」という名称で収録されている。富士美写真館(場)→富士スタジオ→東京写真工芸社という変遷だろうか？　わたしはこの写真館の前を、何千回も往復しているはずだ。先のアパート柏荘を起点に、時間があると旧・下落合全域や長崎地域を歩きまわっていた。学校への行き帰りから、落合地域を歩くほうが圧倒的に多かっただろう。南長崎から高田馬場駅まで、またはそのまま歩いて学校まで通っていた。アルバイトのある日を除き、帰りは電車やバスの乗車賃がもったいないので、学校から南長崎まで歩いて帰ったこともしょっちゅうだった。もちろん、毎日歩く道筋を変えて帰宅しているせいで、70年代からの落合地域のいろいろな街並みや情景が、アタマの中に焼きついているのだろう。<br />　1955年(昭和30)の北が下になる「戸別案内図」を見ると、柏荘は西牧邸と本領邸の跡に建っていたことがわかる。その北側には、椎名町教会と思われる建物につづき、仲の湯が掲載されているのだが、当時は「第一仲の湯」となっているので複数の銭湯を経営していたものだろうか。その先を北へと進んで長崎バス通り(目白バス通り)に出ると、右手に<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-06-12" target="_blank">小出幹雄様</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の「スエヒロ堂」時計店がある。その東隣りには、現在の南長崎花咲公園となる東京都交通局の「大和寮」が建っていた。もともと、この敷地は都バスの折り返し終点車庫があったもので、現在のトキワ荘記念碑あたりの地下には、バスの燃料補給のためにガソリンタンクが埋められていたそうだ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E6A48EE5908DE794BAE69599E4BC9AE7958CE99A881955.jpg" border="0" alt="椎名町教会界隈1955.jpg" width="255" height="341" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5A4A7E5928CE5AFAEE7958CE99A881955-c7fa7.jpg" border="0" alt="大和寮界隈1955.jpg" width="255" height="341" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E794B0E5B3B6E7B1B3E5BA972E99A8EE3818BE382891955.jpg" border="0" alt="田島米店2階から1955.jpg" width="520" height="430" /><br />　都バスの終点が練馬車庫へと延長されるにともない、この区画は職員専用の寮として活用されていた。大和寮の向かいには、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-09-22" target="_blank">中沼伸一様</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の「双葉洋服店」(テーラー双葉)も収録されている。また、大和寮の写真も何枚か残されているのが貴重だ。そこから、目白通りへと歩いていくバス通り沿いの左手には、「市場」と書かれた山政マーケットが記録されている。戦前、ここには寄席<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-01-03" target="_blank">「目白亭」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が建っていた場所だ。山政マーケットの角を左(北東側)へ折れると、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-07-02" target="_blank">小川薫様</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の実家である上原邸や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-07-26" target="_blank">ヒカリビリヤード</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>、鶴の湯などがあった。わたしが学生時代、帰宅する途中でときどき寄っていたマーケットは、さらに進んだ目白通り近くのマーケットのほうで、山政マーケットではない。小川様との初期のやり取りで、多少の齟齬が生じていた点だ。<br />　1980年前後の山政マーケットの記憶はほとんどないけれど、目白通りに近い位置にあったマーケットはよく憶えている。たくさんのテント地で簡易的に仕切られた広い空間は、まさに市場と表現するのがふさわしく、わたしは学校の帰りにここで夕食用の肉や魚、野菜などを買った。休日の買い出しには、長崎バス通りのマーケットは利用せず、中落合側の小さなスーパー丸正か、十三間通りを渡った先、西落合の生協スーパーで買い物をしていた。ときどき、西武池袋線沿いの友人を訪ねた帰りなどは、椎名町駅の西側にいまも開店しているサミットストアもよく利用している。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5A4A7E5928CE5AFAEE7A9BAE59CB01-f017b.jpg" border="0" alt="大和寮空地1.jpg" width="255" height="175" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5A4A7E5928CE5AFAEE381A8E58F8CE89189E6B48BE69C8DE5BA97.jpg" border="0" alt="大和寮と双葉洋服店.jpg" width="255" height="175" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5A4A7E5928CE5AFAEE7A9BAE59CB02-da4f7.jpg" border="0" alt="大和寮空地2.jpg" width="245" height="354" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B1B1E694BFE3839EE383BCE382B1E38383E38388E7958CE99A881955-628aa.jpg" border="0" alt="山政マーケット界隈1955.jpg" width="265" height="354" /><br />　わたしは、いまでもヒマができれば落合地域や長崎地域をよく歩くけれど、当時に比べたら歩く距離がずいぶん短くなっている。学生時代は、平気で南長崎の柏荘から江古田にあったJAZZライブハウス「シャイニー・ストッキング」へ毎晩のように通ったり、高田馬場の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-12-11" target="_blank">「マイルストーン」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-03-08-2" target="_blank">「イントロ」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>へ下落合の坂を苦もなく上り下りしながら往復したものだ。いまでも、目白崖線は頻繁に上り下りするけれど、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-06-09" target="_blank">聖母坂</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の傾斜角がいちばんゆるい・・・とか、薬王院の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-24" target="_blank">バッケ階段</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を一気に上がればあとがラクだ・・・とか、よけいなことを考えている自分にときどき腹が立つ。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：1938年(昭和13)まで、南長崎の二又交番の位置にあった子育地蔵尊。下落合(現・中落合)側からの参詣者も多く、現在地に移転する際には世話人に落合住民も参加している。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、1982年(昭和57)のゼンリン地図にみる、目白通り沿いの柏荘界隈。<font color="#3366ff">下左</font>は、1960年(昭和35)の下落合の「住宅案内帳」にみる伊乃湯。<font color="#3366ff">下右</font>は、1966年(昭和41)の同地図にみる人生浴場。銭湯名は、萩の湯(戦前)→伊乃湯(戦後)→人生浴場という変遷だろうか？<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、1955年(昭和30)の「戸別案内図」にみる椎名町教会周辺。すでに教会はあったと思われるが、アパート柏荘はそろそろ建設されるころだろうか？　<font color="#3366ff">上右</font>は、同地図にみる目白バス通り沿いにあった東京都交通局の大和寮(現・<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-09-16" target="_blank">南長崎花咲公園</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>)の界隈。<font color="#3366ff">下</font>は、田島米店の田島様が地図と同年の1955年(昭和30)6月26日12時15分に二眼レフカメラで撮影した、長崎バス通り(目白バス通り)沿いに立つ東京都交通局の大和寮。(小出幹雄様提供)　大和寮は、1階部分がコンクリート建築で上階が木造建築の独特な意匠をしていた。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、やはり1955年(昭和30)ごろ撮影の大和寮を背景にした中沼伸一様(右)で、奥には斜向かいの双葉洋服店の看板が見える。<font color="#3366ff">上右</font>は、もう少しあとの時代で大和寮が解体されてできた広場。(ともに中沼様提供)　<font color="#3366ff">下左</font>は、やはり大和寮跡の広場で遊ぶ小出幹雄様(小出様提供)　<font color="#3366ff">下右</font>は、1955年(昭和30)の「戸別案内図」にみる「目白亭」跡にできた山政マーケット周辺。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-14">
<title>墓参りをめぐるいろいろな話。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-14</link>
<description>　このサイトへのアクセス数が、のべ500万人を超えた。スタート以来、「足跡づけ」(nice!訪問)はしていないので、みなさま実際に訪問してくださり、記事を読んでいただいているのだろう。　改めて、心からお礼を申し上げます。きょうは、超500万アクセスを記念して、相変わらずわたしの周囲で起きつづけている、ちょっと不可解でわけのわからない、不思議なお話を・・・。　　★　先日、目白崖線から関口台・音羽をはさんでつづく小日向崖線へ、うちの墓参りに出かけた。電車もクルマも利用せず、サクラの咲き具合を観賞しながら徒歩でブラブラ歩いたのだが、旧・神田上水や江戸川(1960年代からともに神田川)沿いのバッケClick!(崖地・急斜面)を眺めながら歩いていると、それらが川沿いに形成された河岸段丘、あるいは浸食で削られた急峻な断崖のようには見えず、巨大な断層のように感じられる箇所がいくつかある。　神田川や妙正寺川の北岸に形成された目白崖線は、同河川の南側に形成された斜面よりもバッケ状の険しい地点が多いし、標高も南側に比べてかなり高いのだが、それらは蛇行する河川によって削られた崖、ないしは過去に土砂崩れを繰り返して崖状になってしまった地形・・・だと考えたい。有史以前の巨大な活断層の一方が、巨大地震で大きく浮上し、その上に土砂が堆積して地層を形成している・・・とは考えたくない。実際、東京市街地の崖線を細かく調査した記録がないので、もともと河岸段丘なのか、深層に活断層があるのかが不明なのだ。　うちの新しい墓は、そんな山手の小日向崖線の丘上にあり、年に2回ほどはお参りにいくのだが、(城)下町Click!は深川の古い寺にある先祖代々の墓は、年に一度しか行かなくなってしまった。こちらは、ほとんど0m地帯なので江戸前期から津波や洪水、地震などの被害にあって、そのたびに再建されてきた。関東大震災Click!のあと昭和初期にも再建されているのだが、なぜか1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、周囲を大火流で囲まれながらも墓石はほとんど無キズで残った。深川の墓は大きいので、「大きな墓は次々と人を呼ぶから縁起が悪い」と、親父の代から山手に深川の6分の1ほどの墓をこさえて、ようやく災害の危険度が低い地域への「分墓」を果たした。でも、山手の崖線形成の大もとが活断層だったりすると、さらに危険なことになるのだが・・・。　4～5年ほど前、震災時..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-14T23:48:51+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5A293E58F82E3828A1.jpg" border="0" alt="墓参り1.jpg" width="450" height="313" /><br />　このサイトへのアクセス数が、のべ500万人を超えた。スタート以来、「足跡づけ」(nice!訪問)はしていないので、みなさま実際に訪問してくださり、記事を読んでいただいているのだろう。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E382A2E382AFE382BBE382B9E382ABE382A6E383B3E382BFE383BC201204.JPG" border="0" alt="アクセスカウンター201204.JPG" width="270" height="51" /><br />　改めて、心からお礼を申し上げます。きょうは、超500万アクセスを記念して、相変わらずわたしの周囲で起きつづけている、ちょっと不可解でわけのわからない、不思議なお話を・・・。<br />　　<font color="#008000">★<br /></font>　先日、目白崖線から関口台・音羽をはさんでつづく小日向崖線へ、うちの墓参りに出かけた。電車もクルマも利用せず、サクラの咲き具合を観賞しながら徒歩でブラブラ歩いたのだが、旧・神田上水や江戸川(1960年代からともに神田川)沿いの<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-05-17" target="_blank">バッケ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(崖地・急斜面)を眺めながら歩いていると、それらが川沿いに形成された河岸段丘、あるいは浸食で削られた急峻な断崖のようには見えず、巨大な断層のように感じられる箇所がいくつかある。<br />　神田川や妙正寺川の北岸に形成された目白崖線は、同河川の南側に形成された斜面よりもバッケ状の険しい地点が多いし、標高も南側に比べてかなり高いのだが、それらは蛇行する河川によって削られた崖、ないしは過去に土砂崩れを繰り返して崖状になってしまった地形・・・だと考えたい。有史以前の巨大な活断層の一方が、巨大地震で大きく浮上し、その上に土砂が堆積して地層を形成している・・・とは考えたくない。実際、東京市街地の崖線を細かく調査した記録がないので、もともと河岸段丘なのか、深層に活断層があるのかが不明なのだ。<br />　うちの新しい墓は、そんな山手の小日向崖線の丘上にあり、年に2回ほどはお参りにいくのだが、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-07-06-2" target="_blank">(城)下町</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は深川の古い寺にある先祖代々の墓は、年に一度しか行かなくなってしまった。こちらは、ほとんど0m地帯なので江戸前期から津波や洪水、地震などの被害にあって、そのたびに再建されてきた。<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-09-28" target="_blank">関東大震災</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のあと昭和初期にも再建されているのだが、なぜか1945年(昭和20)3月10日の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-03-10" target="_blank">東京大空襲</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>では、周囲を大火流で囲まれながらも墓石はほとんど無キズで残った。深川の墓は大きいので、「大きな墓は次々と人を呼ぶから縁起が悪い」と、親父の代から山手に深川の6分の1ほどの墓をこさえて、ようやく災害の危険度が低い地域への「分墓」を果たした。でも、山手の崖線形成の大もとが活断層だったりすると、さらに危険なことになるのだが・・・。<br />　4～5年ほど前、震災時の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-09-05" target="_blank">帰宅ルート</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を考えて毎晩、会社から歩いて帰宅していたことがあった。ルートにもよるが、飯田橋から下落合までは5～6kmほど、旧・下落合は目白崖線の西端、現・中井2丁目でもっとも標高が高い目白学園の丘(37.5m)まで歩くと、やはり道筋によるが7～8kmぐらいになるだろう。ちょうど、新宿区を東西に横断するようなルートになる。だから、下落合から小日向までの4～5kmほどを歩いて墓参りに出かけても、それほど疲れはしなかった。しかも、神田川沿いに江戸川橋までサクラを観ながらだから、よけいに疲れを感じなかったのだろう。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5A293E58F82E3828A2.jpg" border="0" alt="墓参り2.jpg" width="255" height="253" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B08FE697A5E59091E5B496E7B79A-5511c.jpg" border="0" alt="小日向崖線.jpg" width="255" height="253" /><br />　余談だけれど、夜の帰宅散歩で脚がかなり鍛えられたのか、先日、京都を歩いていてもほとんど脚に負担を感じなかった。考えてみれば、飯田橋から下落合まで新宿区横断ルートの距離は、京都市街地の東にある平安神宮を起点にすると、山陰本線の花園駅ぐらいまでの距離だ。太秦駅の先、嵐山の手前ぐらいまで足をのばせば、ちょうど旧・下落合の西端、目白学園あたりまで歩いた勘定になる。そう考えれば、京都市街地を散歩する感覚が、なんとなくつかめたような気がした。小学生のときから歩いている京都市街だが、移動にはこれまで乗り物ばかり利用していたので実感が湧かなかった。京都の市街地は、ほぼ新宿区と同じぐらいの「散歩規模」なのだ。<br />　さて、ブラブラ歩きながら出かけた小日向の墓地で、わたしはまたしても不可解な写真を撮影してしまった。今年の2月、わたしはカメラを買い替えたばかりなので、従来のカメラ特有の「クセ」でないことがわかった。カメラは、SONYからNikonへメーカーも変えているので、明らかにカメラの性格によるなんらかの現象ではない。下からフワ～ッと立ちのぼる、この白い発光体はなんだろうか？(冒頭写真)　このような写真は、深川の墓地で撮影したことは一度もない。<br />　当日は、少し霧雨が降る天候だったので、以前に<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-12-19" target="_blank">「ヒトダマやカネダマ」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の話で書いた燐光だろうか？　それとも、プラズマの類の発光体だろうか？　重力に逆らって、下から上へと移動しているのは光跡からも明らかなので、水滴に光が反射しているのでもなさそうだ。わたしは、いろいろな「気配」や「気風」「気脈」などを<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-09-06" target="_blank">感じる</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>ことがまま多いのだが、このような怪(あやかし)現象にはかなり鈍感なのだろうか、当日の撮影中には発光体にまったく「気」がつかなかった。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B08FE697A5E59091E5B496E7B79A2.JPG" border="0" alt="小日向崖線2.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B08FE697A5E59091E5B496E7B79A3-72f5b.JPG" border="0" alt="小日向崖線3.JPG" width="255" height="191" /><br />　これまで、古い家屋の室内などで、発光するさまざまな色のマリモのような<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-04-16" target="_blank">球体</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を撮影することは多々あったのだが、屋外でこれほど強い光を放つ「なにか」を撮影したのは、下落合の<a href="http://www.jsc-com.net/shimoochiai/top.htm" target="_blank">タヌキの森</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>近く以来のことだ。タヌキの森の発光体は、「なにか書いて欲しそう」に感じたのでw、これまでたくさんの記事をここへアップしてきた。中村彝アトリエのドアを開けて入ってきた、きれいなブルーに光る大きな<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-03-23" target="_blank">マリモくん</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>にも、「ちゃんと書いてよね」と言われているようで別の<a href="http://tsune-atelier.blog.so-net.ne.jp/" target="_blank">サイト</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>まで起ち上げた。このお墓の主も、なにか物語を取材して書いてほしいのだろうか？^^;<br />　またまた、<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/tsune.htm" target="_blank">中村彝</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の親友だった小熊虎之助先生に見解をうかがいたいものだが、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-11-07" target="_blank">井上円了</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-06-05" target="_blank">田中館愛橘</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>なら「幻覚で気のせい」ということになるのだろうか。わたしには、どう見てもなんらかの物理的な発光現象のように見えるのだけれど・・・。<br />　そういえば、おそらく500万分の1ぐらいの偶然がこの墓地で起きている。新しい<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-01-04" target="_blank">娘</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(オスガキ上の連れ合いのこと)は、文京区本郷の出身なのだが、結婚した最初の夏、いっしょにお盆の墓参りに出かけるとき、わたしは自分の耳を疑った。彼女の実家の墓が、小日向のまったく同じ墓地にあり、しかもうちの墓とはわずか20mほどしか離れていなかったのだ。以来、「いっぺんで済んでしまう」(こういう言い方はバチ当たりかな？)効率的な墓参りがつづいている。うちの祖父あたりの古風な言い方を借りれば、「墓の近所同士で先代たちが話し合って、ふたりをめあわせた」のだろう。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E7A59EE794B0E5B79D1-d397e.JPG" border="0" alt="神田川1.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E7A59EE794B0E5B79D2-acaea.JPG" border="0" alt="神田川2.JPG" width="255" height="191" /><br />　最後に、もうひとつ墓参りの話。連れ合いの、実家代々の墓は「麻布」にあるのだが、いまの住所は<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-12-22" target="_blank">「六本木」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>ということになっている。「ちょいと、六本木のヒルズへ墓参りに行ってくら」というのが、なんとなく奇妙に感じられる時代になっているので、中央線沿線の奥へ墓ごとみんな移そうか「ど～しようか？」という話題を、親戚が集まった先日の法事でチラリと小耳にはさんだ。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：墓参りをすると、不可解な写真を撮影してしまうことがある。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、冒頭写真の拡大。<font color="#3366ff">右</font>は、緑が多く残る小日向崖線の現状。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、小日向の麓の神田上水開渠(<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-01-18" target="_blank">白堀</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>)跡の道で目白崖線と同じ風情を感じる。<font color="#3366ff">右</font>は、小日向の斜面から解体間近な旧・<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-12-07" target="_blank">黒田小学校</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(2代目校舎)を眺める。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、神田川のソメイヨシノ並木。<font color="#3366ff">右</font>は、神田川の高戸橋から面影橋へ向かう都電。</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-11">
<title>30歳のラストクリスマス・1933年。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-11</link>
<description> 　人は、突然いなくなる。あとには埋めようのない空白と、むなしさと、虚脱感と、やがて悲哀だけが残る。たいせつな人を亡くすと、それを認めたくないがために葬儀や墓参りさえ拒否したくなる怒りにも似た口惜しさが、いつまでもつづいて抜けない。松下春雄Click!の遺族たちにも、そのような途方もない喪失感が残っただろう。　山本和男様と松下春雄の長女・彩子様ご夫妻Click!をお訪ねしたとき、1冊の古びた黒皮のアルバムを拝見した。そこには、たいせつなかけがえのない人を亡くした家族たちの、セピア色に変わった想い出の数々が詰まっていた。ページをめくるごとに、運命の1933年(昭和8)暮れへと迫っていく。第14回帝展に『女と野菜』を出品し、それが入選するのをみとどけてから、松下春雄は名古屋に帰郷し、その足で伊勢路を旅してまわっている。そのときの想いを、彼は「伊勢路の旅より」として手記に残した。彼の死後、翌1934年(昭和9)に発行された『パレット』No.35の遺稿から引用してみよう。　　▼　二三年来、考へて来もし、又着手して来た、仕事の上のことで、やつと次への進路が開けさうになりました。割切れないところの焦燥が若し転換期の苦労であつたなら、もう少し、それを組敷くだけの勇気を続けねばなりません。私は今百号に女と子供を描いてゐます。その途中なんですから、旅を楽しまないのも無理はありません。作品には外科的手術をほどこしてゐます。かうした断片的な口吻をその作品で、よりはつきりと説明出来るやう、馬力をかけてやりましよう。それが一九三三年の最終の念願であり、又一九三四年の最初の報告でありたいのです。　　▲　書かれている「女と子供」の100号とは、絶筆となった大作『母子』のことで、翌1934年(昭和9)の第15回帝展で特選となっている。はたして、東京へともどった松下は、制作途中の『母子』へ手を入れて「外科的手術」をほどこす時間があっただろうか？　鬼頭鍋三郎Click!によれば、「暮の十二月五日から十九日まで名古屋へ松下が来てゐて、その間僕は三度会つた」(1934年1月12日／名古屋毎日新聞)と証言しているので、そのあと松下は伊勢旅行に出かけていたことがわかる。したがって、松下が東京へともどったのは、おそらく12月23日か24日クリスマスイヴの日あたりではないかと思われる。　ちなみに、鬼頭鍋三郎は松下と同時期の1932年(昭和7)に、西落合1丁目2..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-11T21:48:44+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B8419331225_2.jpg" border="0" alt="松下春雄19331225_2.jpg" width="235" height="501" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B8419331225_1-d22ba.jpg" border="0" alt="松下春雄19331225_1.jpg" width="265" height="501" /><br />　人は、突然いなくなる。あとには埋めようのない空白と、むなしさと、虚脱感と、やがて悲哀だけが残る。たいせつな人を亡くすと、それを認めたくないがために葬儀や墓参りさえ拒否したくなる怒りにも似た口惜しさが、いつまでもつづいて抜けない。<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/gaka.htm" target="_blank">松下春雄</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の遺族たちにも、そのような途方もない喪失感が残っただろう。<br />　山本和男様と松下春雄の長女・彩子様<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30" target="_blank">ご夫妻</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をお訪ねしたとき、1冊の古びた黒皮のアルバムを拝見した。そこには、たいせつなかけがえのない人を亡くした家族たちの、セピア色に変わった想い出の数々が詰まっていた。ページをめくるごとに、運命の1933年(昭和8)暮れへと迫っていく。第14回帝展に『女と野菜』を出品し、それが入選するのをみとどけてから、松下春雄は名古屋に帰郷し、その足で伊勢路を旅してまわっている。そのときの想いを、彼は「伊勢路の旅より」として手記に残した。彼の死後、翌1934年(昭和9)に発行された『パレット』No.35の遺稿から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　二三年来、考へて来もし、又着手して来た、仕事の上のことで、やつと次への進路が開けさうになりました。割切れないところの焦燥が若し転換期の苦労であつたなら、もう少し、それを組敷くだけの勇気を続けねばなりません。私は今百号に女と子供を描いてゐます。その途中なんですから、旅を楽しまないのも無理はありません。作品には外科的手術をほどこしてゐます。かうした断片的な口吻をその作品で、よりはつきりと説明出来るやう、馬力をかけてやりましよう。それが一九三三年の最終の念願であり、又一九三四年の最初の報告でありたいのです。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　書かれている「女と子供」の100号とは、絶筆となった大作『母子』のことで、翌1934年(昭和9)の第15回帝展で特選となっている。はたして、東京へともどった松下は、制作途中の『母子』へ手を入れて「外科的手術」をほどこす時間があっただろうか？<br />　<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-07-23" target="_blank">鬼頭鍋三郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>によれば、「暮の十二月五日から十九日まで名古屋へ松下が来てゐて、その間僕は三度会つた」(1934年1月12日／名古屋毎日新聞)と証言しているので、そのあと松下は伊勢旅行に出かけていたことがわかる。したがって、松下が東京へともどったのは、おそらく12月23日か24日クリスマスイヴの日あたりではないかと思われる。<br />　ちなみに、鬼頭鍋三郎は松下と同時期の1932年(昭和7)に、西落合1丁目293番地へ<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-15" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を建てていたはずだが、1933年(昭和8)現在は名古屋の自宅、すなわち名古屋東区千種町元古井29番地にいたことが、上記の証言記事からもはっきりとわかる。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E382A2E383ABE38390E383A0-b701e.jpg" border="0" alt="松下春雄アルバム.jpg" width="520" height="382" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BC8AE58BA2E69785E8A18C1933-e1093.jpg" border="0" alt="伊勢旅行1933.jpg" width="220" height="339" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E88296E5838F.jpg" border="0" alt="松下春雄肖像.jpg" width="290" height="339" /><br />　古いアルバムには、松下春雄が自身で撮影したらしい伊勢旅行のスナップ写真がたくさん残されている。彼が生前、最後に見た旅先の風景だ。伊勢の海を写した写真の中に、二見浦の夫婦岩の姿が目につく。船に乗ってめぐるのは、志摩半島あたりのフェリー航路だろうか？　船べりで健康そうに微笑む、いつもの彼の表情に病魔の影は見えない。<br />　アルバムが「12.25」と記されたページになると、西落合1丁目306番地の松下邸居間に飾られたクリスマスツリーが登場する。ツリーの前で、プレゼントをもらったばかりと思われる長女・彩子様と次女・苓子様、そして同年3月に生れたばかりの長男・泰様が、楽しそうに笑顔で写っている。おそらく娘ふたりへのプレゼントは、毛糸で編んだベレー帽、まだ1歳にも満たない息子にはクマのぬいぐるみだったのではなかろうか？　娘ふたりは、陽当たりのいい縁側から南の庭へ出てうれしそうにはしゃいでおり、これから起きる悲劇の予感はみじんも感じられない。<br />　そのうちの2枚の写真に、居間のイスに腰をかけてスケッチブックを手にした、松下春雄の生前最後の姿がとらえられている。旅行から帰ったばかりの疲れからか、あるいはすでに体調が悪化していたものか、庭に降りて娘たちといっしょに写真を撮ろうとはしなかったようだ。そのうちの1枚は、まさにスケッチブックへなにかを描いている姿が記録されている。<br />　松下春雄の横に立つ、白い割烹着姿の女性が淑子夫人だとすれば、カメラを手にして写真を撮っているのは誰だろう。近くに住んでいた、「サンサシオン」仲間の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-02-29" target="_blank">大澤海蔵</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>だろうか。あるいは、割烹着の女性が松下家の女中だとすれば、撮影者は幸福なクリスマスをすごす淑子夫人だ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E3808CE6AF8DE5AD90E3808D1933-86db8.jpg" border="0" alt="松下春雄「母子」1933.jpg" width="520" height="396" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE5AEB6E382AFE383AAE382B9E3839EE382B91933_1-ea33c.jpg" border="0" alt="松下家クリスマス1933_1.jpg" width="255" height="380" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE5AEB6E382AFE383AAE382B9E3839EE382B91933_2-ff63d.jpg" border="0" alt="松下家クリスマス1933_2.jpg" width="255" height="380" /><br />　伊勢へ旅立つ直前、名古屋で鬼頭鍋三郎と会ったとき、松下春雄は今後の制作予定や表現法について情熱的に語っていたようだ。先に紹介した、名古屋毎日新聞の記事から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　彼れから今度きかされてたものは芸術に対する炎のやうな希望の言葉以外に何もなかつたやうにすら思ふ。数年来につかれた如く口にしてゐたクラシツクとリアルから昨年の帝展製作を境として、彼の芸術へのテーマが非常に生々しい現実へ伸展して来たことも、今度来名第一に彼から聞いたりした、そして大いに彼の芸道に賛成し期待した。尚最近グロツキー(ママ：クロッキー)が如何に製作に役立つかを痛感し僕は何度すゝめられたかわからない程だ。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　クリスマスの直後、松下春雄は身体に不調をおぼえて帝大病院稲田内科に入院。6日後の1933年(昭和8)12月31日、急性白血病のために死去している。享年30歳だった。<br />　松下が急逝する前日の12月30日、名古屋で「マツシタキトク」の電報を受けとった中野安次郎は驚愕する。ついこの間、名古屋へ訪ねてきた松下を自宅に泊め、昔話を懐かしくしたばかりだったからだ。1989年(昭和65)に名古屋画廊が出版した、「松下春雄展」図録から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　(前略) 名古屋へ来ていた松下君が東京へ帰る前の晩、私の家へふらっと寄ってくれました。後で思えば「生き別れ」に来た、ということだったのでしょうか。親しいとはいえいつもはあまりゆっくりすることもなかった松下君ですが、その日は初めて私の家に泊り、様々なことを懐かしそうに語ったのでした。亡くなる前日、私のもとに「マツシタキトク」の電報が入りました。突然のことなので交通事故か何かと思いました。松下君は平素自分のからだを大事にしていました。「今ぼくが死んだら大変なことだ。家族は、明日からでも生活に困るだろう。ぼくは丈夫なほうだけれど、実際からだを大切にしなければいけないね」と言っていたこともありました。<br />　　<font color="#008000">▲<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE5AEB6E382AFE383AAE382B9E3839EE382B91933_3.jpg" border="0" alt="松下家クリスマス1933_3.jpg" width="255" height="371" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE5AEB6E382AFE383AAE382B9E3839EE382B91933_4-aeb9e.jpg" border="0" alt="松下家クリスマス1933_4.jpg" width="255" height="371" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E891ACE5848019340104-17666.jpg" border="0" alt="松下春雄葬儀19340104.jpg" width="520" height="365" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E981BAE4BD9CE5B195193402-272a4.jpg" border="0" alt="松下春雄遺作展193402.jpg" width="520" height="366" /><br /></font>　翌1934年(昭和9)1月4日に、西落合1丁目306番地の自宅で告別式が行われている。そして、2月11日から27日にかけ東京府美術館で、光風会主催による「松下春雄遺作展」が開催された。そのときの写真もアルバムには残されており、松下春雄が1930年(昭和5)に制作した『子を抱く』(1930年)の前には、淑子夫人と彩子様、そして鬼頭鍋三郎たち画家仲間が並んでいる。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：1933年(昭和8)12月25日のクリスマス、亡くなる6日前に撮られた松下春雄の姿(奥)。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、山本夫妻がたいせつに保存されている松下春雄アルバム。<font color="#3366ff">下左</font>は、最後になった伊勢旅行のスナップ。<font color="#3366ff">下右</font>は、大正末ごろに撮られたとみられる松下春雄ポートレート。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、絶筆となった松下春雄『母子』(1933年)だが現在は行方不明となっている。<font color="#3366ff">下左</font>は、クリスマスツリーを前に長女・彩子様(左)と次女・苓子様(右)。<font color="#3366ff">下右</font>は、同じく泰様。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、テラスでの彩子様と苓子様で背後には松下春雄の生前最後の姿がとらえられている。<font color="#3366ff">中</font>は、西落合1丁目306番地の松下邸で行われた葬儀の様子。<font color="#3366ff">下</font>は、「遺作展」における淑子夫人と彩子様で、男性3人の中央が「サンサシオン」の盟友だった鬼頭鍋三郎。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-08">
<title>林芙美子のバター海苔トースト。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-08</link>
<description>　林芙美子Click!は、実に多面的な“顔”をもっていた。特に仕事面ではその傾向が顕著で、人間関係において多様な軋轢や好悪感が生じている。また、当時は「女流作家」という言葉が生きており、特に芙美子のような経歴の小説書きには差別的で、周囲からなにかと低くみられる傾向も強かっただろう。今日、女性作家のほうが多いような感触をおぼえるのだが、当時は「文壇」といえば男の世界だった。これは美術の「画壇」も同じで、「女流画家」という言葉がなかなか死語にならない現象にも似ている。そのような抑圧に対する抵抗や反発を、割り引いて考慮しなければならない、芙美子の言動のテーマも多々あるのだが・・・。　さて、プライベートの林芙美子は、仕事をする作家としての彼女の表情とはかなり異なっている。特に泰(やすし)を養子に迎えた1943年(昭和18)からの彼女は、家庭生活においてはまるで別人のような印象を周囲へ残している。2010年(平成22)に出版された桐野夏生『ナニカアル』では、泰は養子ではなく夫・手塚緑敏Click!ではない別の父親の「実子」であると想定されているが、ここでは従来のとおり「養子」として話を進めることにする。　自分の作品が世に出て認められるためには、他者を蹴落とすことでも目立つことでもなんでもする、手段を選ばない自己顕示欲のかたまりのような性格・・・という林芙美子のイメージを否定するのは、四ノ坂の林芙美子邸Click!とは炭谷家をはさんで東隣りに住んだ、洋画家・刑部人Click!の二女・中島若子様だ。「プライベートでは、とても穏やかでやさしい方でした。芙美子さんのイメージは、仕事面での容赦のなさが強調されすぎていると思います」と語る。　確かに、「文壇」の久米正雄などとの対立では陰口・悪口・ウワサ好きな、彼女を正面から批判できないヒキョーで情けない男たちによって、あることないことが言いふらされ（久米正雄＋取り巻き連中だろう）、それが戦後まで尾を引いていた側面を否定できない。男の嫉妬ほど、ぶざまで薄らみっともないものはないと思うのだが、林芙美子に接した文学関係者の多くの男たちが、彼女のことを「ルンペン作家」と蔑む裏側に、そのような嫉妬心が見え隠れするようにも思われる。わたしは、かなり世話になった長谷川時雨Click!にうしろ足で砂をしっかけるようなマネをし、今日的で優れた尾崎翠Click!に対しては無神経きわまりない言葉を投げつける..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-08T10:28:23+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69E97E88A99E7BE8EE5AD90E69BB8E6968E.jpg" border="0" alt="林芙美子書斎.jpg" width="450" height="345" /><br />　<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-12-11" target="_blank">林芙美子</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は、実に多面的な“顔”をもっていた。特に仕事面ではその傾向が顕著で、人間関係において多様な軋轢や好悪感が生じている。また、当時は「女流作家」という言葉が生きており、特に芙美子のような経歴の小説書きには差別的で、周囲からなにかと低くみられる傾向も強かっただろう。今日、女性作家のほうが多いような感触をおぼえるのだが、当時は「文壇」といえば男の世界だった。これは美術の「画壇」も同じで、「女流画家」という言葉がなかなか死語にならない現象にも似ている。そのような抑圧に対する抵抗や反発を、割り引いて考慮しなければならない、芙美子の言動のテーマも多々あるのだが・・・。<br />　さて、プライベートの林芙美子は、仕事をする作家としての彼女の表情とはかなり異なっている。特に泰(やすし)を養子に迎えた1943年(昭和18)からの彼女は、家庭生活においてはまるで別人のような印象を周囲へ残している。2010年(平成22)に出版された桐野夏生『ナニカアル』では、泰は養子ではなく夫・<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-05-25" target="_blank">手塚緑敏</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>ではない別の父親の「実子」であると想定されているが、ここでは従来のとおり「養子」として話を進めることにする。<br />　自分の作品が世に出て認められるためには、他者を蹴落とすことでも目立つことでもなんでもする、手段を選ばない自己顕示欲のかたまりのような性格・・・という林芙美子のイメージを否定するのは、四ノ坂の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-05-29" target="_blank">林芙美子邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>とは炭谷家をはさんで東隣りに住んだ、洋画家・<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-12-17" target="_blank">刑部人</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の二女・中島若子様だ。「プライベートでは、とても穏やかでやさしい方でした。芙美子さんのイメージは、仕事面での容赦のなさが強調されすぎていると思います」と語る。<br />　確かに、「文壇」の久米正雄などとの対立では陰口・悪口・ウワサ好きな、彼女を正面から批判できないヒキョーで情けない男たちによって、あることないことが言いふらされ（久米正雄＋取り巻き連中だろう）、それが戦後まで尾を引いていた側面を否定できない。男の嫉妬ほど、ぶざまで薄らみっともないものはないと思うのだが、林芙美子に接した文学関係者の多くの男たちが、彼女のことを「ルンペン作家」と蔑む裏側に、そのような嫉妬心が見え隠れするようにも思われる。わたしは、かなり世話になった<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-08-27" target="_blank">長谷川時雨</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>にうしろ足で砂をしっかけるようなマネをし、今日的で優れた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-04-01" target="_blank">尾崎翠</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に対しては無神経きわまりない言葉を投げつける林芙美子がキライなのだが、彼女のことを「ルンペン作家」と嘲笑した男たちは、それ以下の貧困な精神しかもちあわせていない連中のように見える。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59B9BE3838EE59D82E69E97E982B8E7958CE99A881947.jpg" border="0" alt="四ノ坂林邸界隈1947.jpg" width="520" height="278" /><br />　中島(刑部)若子様は、1944年（昭和19）3月に下落合4丁目2074番地（現・中井2丁目）の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-03-05" target="_blank">刑部人邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>で生まれた。林芙美子の養子・泰とは学年が同じだったので、林家とは食事に呼ばれるほど親しく交流しており、芙美子とはともに濃密な時間をすごしている。若子様はお昼になると、ほぼ毎日のように食事に呼ばれ、芙美子が作った昼食をご馳走になっている。よく出されたのは、バタートーストに紅茶のメニューだった。トーストは変わっていて、パンを焼いてバターを厚めに塗り(敗戦からすぐのころ、バターは高額でとても貴重だったろう)、その上に浅草海苔を載せるというものだった。食事は芙美子、手塚緑敏、泰、中島若子様の4人で食べるのが通例で、母親の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-12-29" target="_blank">林キク</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は離れでおそらく別メニューの食事をしていたようだ。<br />　書斎で仕事をするときも子どもたちを離さず、泰と若子様は机に向かって執筆する林芙美子の背中を見ながら、“おままごと”をして遊んでいた。仕事中は気を集中させるため人を寄せつけない作家が多い中で、芙美子のスタイルはかなり異例だ。いや、彼女も本来はそのような執筆スタイルだったのかもしれないのだが、子どもができてからの彼女はライフスタイルが豹変していると思われる。背後で子どもたちがいくら騒いでも、芙美子は上機嫌で執筆をつづけていたらしい。林家で夜間、作家たちのパーティがあるときなども、若子様は芙美子に呼びだされた。泰がひとりで退屈しないよう、いっしょに遊んでもらうためだった。<br />　また、芙美子は子どもたちのために、自邸の敷地内へ本格的なプールを造成している。林泰と若子様は、夏になるとよくプールで泳いだそうだ。どうやら泰は若子様を独占したかったらしく、彼女が友だちを連れていくと若子様だけ中に入れ、他の子どもたちはシャットアウトされたらしい。これは、「泰(たい)ちゃんには冷たくされた」という記憶をもつ、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-27" target="_blank">炭谷太郎様</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の証言とも一致している。若子様は、林家に遊びにくる白系ロシア人の血をひく、作家・大泉黒石の娘・大泉淵(えん)のこともよく憶えていた。俳優・大泉滉の姉にあたる人物で、林邸のすぐ上の四ノ坂沿いに一家で住んでいた。戦時中は、なにかと白い目で見られていた淵を、芙美子はあれこれ面倒をみてかわいがっていたようだ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69E97E88A99E7BE8EE5AD90E982B8E6AF8DE5B18B-e1e66.jpg" border="0" alt="林芙美子邸母屋.jpg" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69E97E88A99E7BE8EE5AD90E982B8E5B18BE6A0B9-64035.JPG" border="0" alt="林芙美子邸屋根.JPG" width="255" height="191" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69E97E88A99E7BE8EE5AD90E982B8E58FB0E68980.jpg" border="0" alt="林芙美子邸台所.jpg" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69E97E88A99E7BE8EE5AD90E982B8E7B1B3E6AB83-1818f.JPG" border="0" alt="林芙美子邸米櫃.JPG" width="255" height="191" /><br />　心臓がよくなかった芙美子だが、呼んだハイヤーをなぜか<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-07-08" target="_blank">中ノ道(下ノ道＝中井通り)</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>に付けさせず、四ノ坂上に駐車させてわざわざバッケ(崖)階段を上っていったという。心臓に負担がかかるので中ノ道側へ呼べばいいのだが、高い丘上へハイヤーを呼んで乗りこみたいという彼女の屈折した感情だろうか。林邸からほんの100mほどのところに住んでいた、下落合2108番地の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-06-21" target="_blank">吉屋信子</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が丘上でハイヤーに乗りこむ姿を、芙美子は羨望の想いで眺めていたのかもしれない。心臓に負担をかけるつまらない行為のようだが、彼女にとってはたいせつな見栄だったものか。<br />　「おそらく、芙美子さんにとっては、子どもといる家庭生活が幸福のときだったんでしょうね」と、若子様は回想する。家庭を離れ、外を向いて仕事で勝負をするとき、彼女は修羅の表情を浮かべていたのかもしれない。しかし、子どもを前にした家での芙美子は、まるで別人格のように穏やかでやさしく、また繊細な配慮を見せる女性だった。むしろ、子どもたちに対しては盲目的で言いなりになっていた・・・と表現したほうが適切かもしれない。<br />　こんなこともあった。芙美子が刑部家の子どもたちと、京都の島津家訪問のため列車に乗っているとき、若子様の7つ年上の兄・伸二様がボックス席のアームの上に立ち、それを伝って車内をあちこち動きまわっていた。同じ車両の男性が彼を叱って注意をしたところ、林芙美子は激昂した。「幼い子どもに、大のオトナが本気で怒るとはなにごとか！」と、男性に噛みついたらしい。車内で行儀の悪い子を叱るのはあたりまえであり、叱った男性が正しいと思うのだが(おそらく芙美子も頭ではわかっていただろう)、感情的にはガマンができなかったようだ。泰を育てることで一気に母性がめざめたものか、芙美子は子どもたちに対して底の知れない極端な寛容さを見せている。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69E97E88A99E7BE8EE5AD90E381A8E6B3B0-038a0.jpg" border="0" alt="林芙美子と泰.jpg" width="255" height="325" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69E97E88A99E7BE8EE5AD90(E69C80E699A9E5B9B4)-f1e21.jpg" border="0" alt="林芙美子(最晩年).jpg" width="255" height="325" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59B9BE3838EE59D82E38390E38383E382B1E99A8EE6AEB51.JPG" border="0" alt="四ノ坂バッケ階段1.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59B9BE3838EE59D82E38390E38383E382B1E99A8EE6AEB52-10963.JPG" border="0" alt="四ノ坂バッケ階段2.JPG" width="255" height="191" /><br />　中島若子様に限らず、生前、林芙美子に接した子どもたちは、「やさしくて愛情深い女性」という印象を強く抱いている。彼女の家庭生活が、“近所の子どもたち”の目を通じて語られることは少なかったと思われるのだが、晩年の芙美子の一側面を垣間見ることができる、貴重な証言だと思われる。夜間にもかかわらず快く取材に応じてくださり、ありがとうございました。＞中島若子様</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：書斎で執筆中の林芙美子の背後で、中島若子様はよく泰(たい)ちゃんと遊んだ。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：1947年(昭和22)の空中写真にみる、林芙美子邸と<a href="http://www.geocities.jp/jin_1906/" target="_blank">刑部人邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の位置関係。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、林芙美子・手塚緑敏邸の母屋と屋根。<font color="#3366ff">下</font>は、同邸台所の流しと米櫃。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、林芙美子と泰。<font color="#3366ff">上右</font>は、めずらしい林芙美子晩年のカラー写真。<font color="#3366ff">下</font>は、林芙美子が四ノ坂上に呼んだハイヤーへ乗るために何度も往復した<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-03-16" target="_blank">島津家</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>寄進のバッケ階段。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-05">
<title>八面六臂の活躍をする笠原美寿。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-05</link>
<description>　笠原吉太郎の死去後、下落合における美寿(みす)夫人の活躍はめざましい。美寿夫人Click!が、夫と同じ群馬県の出身であることはすでに記したが、16歳のときに母親の星野はまを亡くしており、長女だった彼女は家事全般や家業である養蚕業を手伝う、てんてこ舞いの青春時代を送っている。22歳になった星野美寿は見合いをすることになるが、その相手がフランスのリヨン国立美術大学の図案科を卒業し、帰国したばかりの笠原吉太郎Click!だった。　当初は麹町に新居をかまえたが、1920年(大正9)には下落合679番地へアトリエ付きの2階建て自邸Click!を建設して引っ越してきている。当時の下落合679番地界隈といえば、目白通り沿いに落合府営住宅Click!は建ち並んでいたものの、箱根土地による目白文化村Click!の開発はスタートしておらず、森や草原、田畑の拡がる武蔵野の風情を色濃く残した一帯だった。笠原邸の北200mほどのところには養鶏場Click!があり、その西隣りには落合小学校の教員をしていた青柳辰代Click!のいる青柳邸がポツンと建っていた。青柳邸の北側はいまだ家が少なく、佐伯祐三Click!はこの時期、近くで仮住まいClick!をしていたものか、いまだアトリエClick!を建設していない。　笠原邸の東側に口を開けた、西ノ谷(不動谷Click!)と呼ばれた谷戸には、諏訪谷Click!と同様に近くの農家が野菜を洗う“洗い場”Click!の池が残っており、対岸の丘上は一面の草原で、丘に面した青柳邸にちなんで青柳ヶ原と呼ばれていた。谷戸や丘には家屋がほとんどなく、1923年(大正12)に起きた関東大震災の際、近くの住民たちは青柳ヶ原へと避難することになる。丘上に聖母病院のフィンデル本館Click!が建設されるのは、1931年(昭和6)になってからのことだ。　また、笠原邸の南側は道沿いにポツポツと住宅が建ちはじめていたが、西坂の下り口には徳川別邸Click!である大きな西洋館Click!の赤い屋根が、木立ちを透かして見えたかもしれない。笠原夫妻は、転居してきてから毎年のように、徳川邸で公開されていたボタン園「静観園」Click!へ出かけていたにちがいない。笠原邸の西側には、道をはさんで星野邸や小川邸Click!は建設されていただろうか？　少なくとも、1925年(大正14)現在の「出前地図」Click!には両邸が見えている。また、落..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-05T15:37:54+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E7ACA0E58E9FE982B8E8B7A1.JPG" border="0" alt="笠原邸跡.JPG" width="450" height="337" /><br />　笠原吉太郎の死去後、下落合における美寿(みす)夫人の活躍はめざましい。<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-02-20" target="_blank">美寿夫人</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が、夫と同じ群馬県の出身であることはすでに記したが、16歳のときに母親の星野はまを亡くしており、長女だった彼女は家事全般や家業である養蚕業を手伝う、てんてこ舞いの青春時代を送っている。22歳になった星野美寿は見合いをすることになるが、その相手がフランスのリヨン国立美術大学の図案科を卒業し、帰国したばかりの<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-12" target="_blank">笠原吉太郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>だった。<br />　当初は麹町に新居をかまえたが、1920年(大正9)には下落合679番地へアトリエ付きの2階建て<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-12-31" target="_blank">自邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を建設して引っ越してきている。当時の下落合679番地界隈といえば、目白通り沿いに<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-05-16" target="_blank">落合府営住宅</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は建ち並んでいたものの、箱根土地による<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm" target="_blank">目白文化村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の開発はスタートしておらず、森や草原、田畑の拡がる武蔵野の風情を色濃く残した一帯だった。笠原邸の北200mほどのところには<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-03-01" target="_blank">養鶏場</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>があり、その西隣りには落合小学校の教員をしていた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-08-25" target="_blank">青柳辰代</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のいる青柳邸がポツンと建っていた。青柳邸の北側はいまだ家が少なく、<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/saeki.htm" target="_blank">佐伯祐三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>はこの時期、近くで<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-05-10" target="_blank">仮住まい</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をしていたものか、いまだ<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-06" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を建設していない。<br />　笠原邸の東側に口を開けた、西ノ谷(<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-03-07" target="_blank">不動谷</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>)と呼ばれた谷戸には、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-10-02" target="_blank">諏訪谷</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と同様に近くの農家が野菜を洗う<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-03-30" target="_blank">“洗い場”</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の池が残っており、対岸の丘上は一面の草原で、丘に面した青柳邸にちなんで青柳ヶ原と呼ばれていた。谷戸や丘には家屋がほとんどなく、1923年(大正12)に起きた関東大震災の際、近くの住民たちは青柳ヶ原へと避難することになる。丘上に聖母病院の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-07-04" target="_blank">フィンデル本館</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が建設されるのは、1931年(昭和6)になってからのことだ。<br />　また、笠原邸の南側は道沿いにポツポツと住宅が建ちはじめていたが、西坂の下り口には<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-11-29" target="_blank">徳川別邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>である大きな<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-12-23" target="_blank">西洋館</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の赤い屋根が、木立ちを透かして見えたかもしれない。笠原夫妻は、転居してきてから毎年のように、徳川邸で公開されていたボタン園<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-04-25" target="_blank">「静観園」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>へ出かけていたにちがいない。笠原邸の西側には、道をはさんで星野邸や<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-12-31" target="_blank">小川邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は建設されていただろうか？　少なくとも、1925年(大正14)現在の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-09-22" target="_blank">「出前地図」</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>には両邸が見えている。また、落合小学校へと向かう尾根沿いの斜面に、ポツンと和館をかまえていたのは<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-09-26" target="_blank">会津八一</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>だった。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE586ACE697A5E3808DE983A8E588861925.jpg" border="0" alt="曾宮一念「冬日」部分1925.jpg" width="521" height="354" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B88BE890BDE59088679E795AAE59CB01925-aa58c.jpg" border="0" alt="下落合679番地1925.jpg" width="310" height="340" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E7ACA0E58E9FE7BE8EE5AFBF-86242.jpg" border="0" alt="笠原美寿.jpg" width="200" height="340" /><br />　1923年(大正12)を境に、笠原吉太郎は政府(おもに宮内省)の仕事をいっさい断り、洋画家としてデビューすることになる。当然、知名度がほとんどないので生活は一気に苦しくなった。笠原の二男・笠原豊が書いた、「笠原美寿の生涯」という資料が残っている。1994年(平成6)に出版された星野達雄『からし種一粒から』(ドメス出版)より、孫引きになるが引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　この頃から美寿の苦労が始まったのである。自由気侭に生きる芸術家と八人の子供を抱え、美寿は教育と生活の為、骨身を削る毎日となった。子供達にみじめな思いをさせたくないという親心と、プライドから生活を洋式に切替え、子供達には、自分でミシンを踏んで洋服を着せた。食べる為に、昔、覚えた裁縫の腕を活かして、着物の仕立てで夜なべをすることも多かった。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　この間、8人の子どものうち、娘ふたりを病気で失うという悲劇にもみまわれている。<br />　1954年(昭和29)に笠原吉太郎が78歳で死去すると、美寿夫人は老後の仕事に新しい手織機の開発をはじめることになる。夫が野外写生用に持ち歩いていた、折りたたみ式の小型イーゼルのかたちがヒントになったという。再び、同書に引用された「笠原の手織機と基礎織」という、同機を普及させるために制作されたとみられる、パンフレットの文章から孫引きしてみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　私はこれからの老後を何をしておくろうかと日夜迷った末、やっぱり手織が老人に最もよい仕事であると確信しました。しかしその時は以前に使った織機は駄目になりましたので、よし現代の家屋に向くような小型であって何でも織こなせるような織機を作ってみようと考えました。それは画室に架けられた夫の野外写生に使った三脚が目に止まり、その三脚のヒントを得てそれをA字型にして織るに必要な整経のクイを後方の斜面にうえ、また横糸を巻く糸車を取付けてきわめて重宝な立体手織機の試作が私の手で作り上げられました。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　それまでの手織機は大きく、手軽に住まいの室内へ持ちこめるサイズではなかった。それを試行錯誤のすえ、コンパクト化することによって「笠原手織機」を完成させている。そして「笠原手織会」が誕生し、同手織機は会の拡がりとともに関東一円に普及することになった。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E7ACA0E58E9FE7BE8EE5AFBF1969(E7B58CE5A082).jpg" border="0" alt="笠原美寿1969(経堂).jpg" width="520" height="353" /><br />　美寿夫人は、なにか道具や調度を手に入れても、それをそのまま使うことが少なかったらしい。一度、それを分解して仕組みや構造を知り、改良を加えてより使いやすくするのが常だったという。洋食好きな夫のために、彼女が発明した家庭でもフランスパンが焼けるオーブンは、新案特許を取得している。このオーブンは群馬県の実家へも導入され、彼女の故郷では初めてフランスパンが焼かれたようだ。また、マフラーやネクタイ、羽織のひも、ハンドバッグなどが自在にすばやく編めてしまう、編み機「あやとり」も発明して特許を取っている。<br />　雑誌の取材なども受けるようになり、1955年(昭和30)3月13日の朝日新聞には、美寿夫人の投書が掲載された。それは、まさに現代を先取りするかのような「老人会館」の設置を求める、企画書のような内容だった。この投書の波紋は全国におよび、各地で老人会館構想を具現化するための「草の実会」が結成され、美寿夫人はさらに多忙となっていった。地元の下落合では、美寿夫人を中心に「落合木の実婦人会」が結成された。老人会館構想を、同書から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　この会は隣人愛を信条とし、家庭の仕事を卒えた婦人が、余生を社会的な良い仕事に捧げようという目的をもっていて、将来は老人会館を建設したいという大きな夢がかくされていた。この老人会館の構想は、まず会館内の一階にホールを作り、若い人たちの会にも使って貰う。老人のための保険相談、研究部、娯楽室、地方から出てきた老人を泊める気持ちよい宿舎、仕事斡旋部、ここでは留守番や、子どもを預けたい家庭から依頼されれば電話一本で派遣できるようにする。手芸その他いろいろな技術を教え、仕事の世話をする技術指導部、楽しみながら働ける室、その他老人が生活するのに快適な設備を十分に加味したものにするというものである。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　その後、全国各地の自治体が設置することになる、老人福祉会館のベースとなるアイデアが、すでに1955年(昭和30)に笠原美寿の頭の中にはできあがっていた。彼女は新宿区役所へ区長を訪ね、区内への「老人会館」建設を訴えつづけた。<br />　「笠原手織会」や「落合木の実婦人会」、「草の実会」などの活動に忙殺されていたある日、笠原美寿は立川市にある「笠原手織会」の会合へ向かう途中、新宿駅南口の交差点で転倒し、腰と足の骨を複雑骨折してしまう。それからは、足腰が不自由となって活動ができなくなり、1972年(昭和47)10月27日に死去している。享年90歳だった。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B88BE890BDE59088E59CB0E59F9FE4BAA4E6B581E9A4A8-fe8e0.JPG" border="0" alt="下落合地域交流館.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B88BE890BDE59088E88081E4BABAE4BC9AE9A4A81994E9A083-f1e57.jpg" border="0" alt="下落合老人会館1994頃.jpg" width="255" height="191" /><br />　現在、落合地域には「老人会館」あるいは同様の施設が4ヶ所あるが、はたして笠原美寿はこれらの施設で、手織りや編み物を教えることができたのだろうか？　新宿区では、「老人会館」や「ことぶき館」という呼称を最近あまりつかわず、「地域交流館」という名称に改めているようだ。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：1920年(大正9)に建てられた、下落合679番地の笠原邸跡の現状。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、1925年(大正14)に制作された二科樗牛賞受賞の曾宮一念<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-07-12" target="_blank">『冬日』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(部分)。諏訪谷から青柳ヶ原ごしに、笠原邸の2階家と南隣りの福田邸が画面右隅にとらえられている。<font color="#3366ff">下左</font>は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」にみる笠原邸。すでに姻戚の星野邸が、あちこちに見えている。<font color="#3366ff">下右</font>は、群馬県沼田の実家で撮影された笠原美寿。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：1969年(昭和44)に、世田谷区経堂の「すずらん会館」で撮影された笠原美寿。左手にあるのが、「笠原手織会」を通じて広く普及したコンパクトな笠原手織機。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、「下落合地域交流館」(通称：ことぶき館／旧・下落合老人会館)。<font color="#3366ff">右</font>は、1994年(平成6)ごろに撮影された下落合老人会館における社交ダンス講習会の様子。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-02">
<title>怒る秦早穂子の「勝手にしやがれ」。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-04-02</link>
<description>　秦早穂子は怒っていた。1945年（昭和20）4月13日の第1次山手空襲Click!で、目白の街並みが焼けるのを見ながら・・・、大人たちが同年8月15日を境に、みながみな「民主主義者」に豹変する姿を横目でにらみながら、秦早穂子は怒っていた。どいつもこいつも「勝手にしやがれ」、このフレーズが彼女の心に響きはじめたのは、このころからではないだろうか？　2012年(平成24)1月、日本経済新聞に連載された「人間発見・秦早穂子」から引用してみよう。　　▼　45年4月13日の空襲で目白の家が焼けました。焼夷（しょうい）弾による類焼はパシャパシャと不思議な音をたてます。私は下の妹をおぶって逃げました。明け方背中の妹がおしっこをした感覚が伝わったとき「ああ、生きてる。良かった」と思った。そして翌朝見たのは一面の焼け野原。／数万冊の蔵書が焼けて父の絶望は深かった。私は疎開先での「何もしないで働かない人たち」という地元の人たちの言葉が心に突き刺さりました。(中略)　人間、飢えてはいけない。飢えては、思想も理想もない。／自分の力で食べていこう。働きながら、勉強しよう。ちょうど新制高校への切り替えのころで、学校に1年残って大学に進む道もあったでしょう。でも、もう大人の言うことは聞くまい。「国のために死ね」と教え、今度は「生きよ」という。変わり身の早い大人たちはもう信じない。　　▲　1945年(昭和20)4月13日の鉄道線路や駅、河川沿いの中小工場地帯をねらった第1次山手空襲で被災していることから、秦早穂子の自宅は目白駅のごく近く、あるいは山手線沿いに建っていたと思われるが、山手線や目白通りをはさんで下落合側なのか目白町側なのかはよくわからない。彼女の「早穂子」という名前は、関口台町（現・文京区関口で椿山荘の北東側）に住んでいた佐藤春夫に付けてもらっており、佐藤の自宅へは父親とともによく訪問していたようだ。　また、下落合623番地の曾宮一念Click!や同604番地の牧野虎雄Click!、第一文化村Click!の秋艸堂Click!へ転居したころの会津八一Click!などの家も訪ねているので、「目白」といっても下落合側に住んでいた可能性もある。父親は学究肌の人で、近所の芸術家たちと親密に交流していたらしい。　　▼　関口台町（略）の佐藤春夫先生のお宅には、父によく連れていかれました。佐藤先生は私の名付け親。門弟3千人というだけあって、スペイ..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-04-02T22:43:16+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BD90E897A4E698A5E5A4ABE697A7E5B185E8B7A1.JPG" border="0" alt="佐藤春夫旧居跡.JPG" width="450" height="337" /><br />　秦早穂子は怒っていた。1945年（昭和20）4月13日の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-03-09" target="_blank">第1次山手空襲</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>で、目白の街並みが焼けるのを見ながら・・・、大人たちが同年8月15日を境に、みながみな「民主主義者」に豹変する姿を横目でにらみながら、秦早穂子は怒っていた。どいつもこいつも「勝手にしやがれ」、このフレーズが彼女の心に響きはじめたのは、このころからではないだろうか？<br />　2012年(平成24)1月、日本経済新聞に連載された「人間発見・秦早穂子」から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　45年4月13日の空襲で目白の家が焼けました。焼夷（しょうい）弾による類焼はパシャパシャと不思議な音をたてます。私は下の妹をおぶって逃げました。明け方背中の妹がおしっこをした感覚が伝わったとき「ああ、生きてる。良かった」と思った。そして翌朝見たのは一面の焼け野原。／数万冊の蔵書が焼けて父の絶望は深かった。私は疎開先での「何もしないで働かない人たち」という地元の人たちの言葉が心に突き刺さりました。(中略)　人間、飢えてはいけない。飢えては、思想も理想もない。／自分の力で食べていこう。働きながら、勉強しよう。ちょうど新制高校への切り替えのころで、学校に1年残って大学に進む道もあったでしょう。でも、もう大人の言うことは聞くまい。「国のために死ね」と教え、今度は「生きよ」という。変わり身の早い大人たちはもう信じない。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　1945年(昭和20)4月13日の鉄道線路や駅、河川沿いの中小工場地帯をねらった第1次山手空襲で被災していることから、秦早穂子の自宅は目白駅のごく近く、あるいは山手線沿いに建っていたと思われるが、山手線や目白通りをはさんで下落合側なのか目白町側なのかはよくわからない。彼女の「早穂子」という名前は、関口台町（現・文京区関口で椿山荘の北東側）に住んでいた佐藤春夫に付けてもらっており、佐藤の自宅へは父親とともによく訪問していたようだ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E79BAEE799BDE9A7851947-84a5d.jpg" border="0" alt="目白駅1947.jpg" width="520" height="292" /><br />　また、下落合623番地の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-10-05" target="_blank">曾宮一念</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や同604番地の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-01-11" target="_blank">牧野虎雄</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>、<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm" target="_blank">第一文化村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-10-10" target="_blank">秋艸堂</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>へ転居したころの<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-08-25" target="_blank">会津八一</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>などの家も訪ねているので、「目白」といっても下落合側に住んでいた可能性もある。父親は学究肌の人で、近所の芸術家たちと親密に交流していたらしい。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　関口台町（略）の佐藤春夫先生のお宅には、父によく連れていかれました。佐藤先生は私の名付け親。門弟3千人というだけあって、スペイン風の家にはたくさんの大人が出入りし、文学サロンとなっていました。／年賀客であふれる正月は千代夫人の手料理でもてなされ、子供の私にも1人前のお盆が出ました。奥の畳場の中央に佐藤先生が座り、左隣は堀口大学。畳には井上靖、舟橋聖一、檀一雄。なぜか父もそこにいた。戦後は板敷きの下座にデビューしたばかりの吉行淳之介や安岡章太郎がいました。／目白駅から落合(現・新宿区)方面には歌人で書家の会津八一、洋画家の牧野虎雄、曾宮一念といった先生方が住んでいました。怖い存在の大人たちで、お目にかかるときは緊張の連続でしたが、芸術家がもつ強い個性は、記憶に残ったものです。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　秦早穂子の“怒り”の堆積は、空襲で家が焼けた敗戦時からはじまり、戦後、映画の仕事でパリに住むようになってからもつづいていたようだ。フランス映画の新作から、日本でヒットしそうな作品を選んで買いつける仕事をまかされた彼女は、常に「映画」というジャンルに対する無理解な人々の差別にさらされ、フランスにおける外国人に対する排外的な生活上の差別も重なり、それらの重圧感からパリの自室で毎日嘔吐を繰り返す生活だった。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E697A5E69CACE7B58CE6B888E696B0E8819E201201.jpg" border="0" alt="日本経済新聞201201.jpg" width="520" height="393" /><br />　1959年(昭和34)7月のそんなある日、映画プロデューサーから誘われて20分間の未編集のラッシュを観に出かけた。当時、フランスの映画界ではヌーベルバーグ（新しい波）の流れが顕著になりつつあり、彼女が観たラッシュもそのような映画の1作だった。<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-10-11" target="_blank">ジャン＝リュック・ゴダール</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>監督が制作し、いまだ未編集だった『A bout de souffle(息切れ)』という作品だった。<br />　彼女はプロデューサーに「（購入を）検討する」と答えたが、その映画をすぐにも購入して日本へ送ることに決めていた。日本の配給会社へ送るにあたり、邦題を決めなければならなくなった彼女は、相変らずつづいていた“怒り”を映画のタイトルにかぶせた。『勝手にしやがれ』----。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　「勝手にしやがれ」というタイトルは私自身の気持ちの吐露です。あのころの若者は怒っていたと思う。私も怒っていた。／若いくせにパリで映画の選択なんて、とやっかまれながらも、現状は屈辱にまみれていた。映画人の地位も低かった。若い私はかたくなに怒っていた。同時にそういう自分を冷静に見てもいた。いつ首を切られても、失う物は何もない。「勝手にしやがれ」と。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　ゴダールの『勝手にしやがれ』を完成前に買いつけたのは、日本の秦早穂子が最初だった。東京で『勝手にしやがれ』が封切られたのは、同作が完成した直後の1960年（昭和35）3月26日であり、パリでの封切りからわずか10日後、ほとんどパリと東京での同時上映だった。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E58B9DE6898BE381ABE38197E38284E3818CE3828C1959.jpg" border="0" alt="勝手にしやがれ1959.jpg" width="255" height="226" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5A4AAE999BDE3818CE38184E381A3E381B1E381841960-ca9a2.jpg" border="0" alt="太陽がいっぱい1960.jpg" width="255" height="226" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E3808CE58B9DE6898BE381ABE38197E38284E3818CE3828CE3808DE382ADE383A3E382B9E38388E381A8-e3421.jpg" border="0" alt="「勝手にしやがれ」キャストと.jpg" width="245" height="187" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E382A2E383A9E383B3E383BBE38389E383ADE383B3E381A8-b8bdf.jpg" border="0" alt="アラン・ドロンと.jpg" width="265" height="187" /><br />　ほぼ同時期に、秦早穂子はルネ・クレマン監督のラッシュを観て気に入り、さっそく買いつけようとするのだが、提示額が高すぎるという理由で会社がなかなかクビを縦にふらない。貧しい男がカネ持ちの男にあこがれ、贅沢な生活や恋人に嫉妬し、ついには殺して本人になりすますというストーリーが、当時の日本人の心情へ響くと彼女はどこかで確信していたようだ。ルネ・クレマンの『Plein soleil(照りつける太陽)』。邦題も彼女がつけたが、今度は“怒り”のタイトルではなかった。いまでも、邦題を聞くだけで南欧の光と潮風の匂いが漂う、『太陽がいっぱい』(1960年)----。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：関口台町の佐藤春夫旧邸跡で、現在でも周辺には大正・昭和初期の家々が建つ。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：1947年(昭和22)の空中写真にみる、焼け野原が拡がる目白駅周辺。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：今年の1月に連載された、日本経済新聞の「人間発見・秦早穂子」。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、『勝手にしやがれ』（<font color="#3366ff">左</font>）と『太陽がいっぱい』（<font color="#3366ff">右</font>）のそれぞれワンシーン。<font color="#3366ff">下左</font>は、『A bout de souffle』の出演者たちと秦早穂子で、背後の右端にはサングラスをかけたゴダール監督の姿が見える。<font color="#3366ff">下右</font>は、『Plein soleil』に主演したアラン・ドロンと。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30">
<title>西落合の旧・松下春雄アトリエを訪ねる。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30</link>
<description>　松下春雄Click!は1932年(昭和7)4月末、落合町葛ヶ谷306番地に自宅兼アトリエを建て、阿佐ヶ谷520番地のアトリエから引っ越してきている。これは、名古屋の画会「サンサシオン」の仲間だった鬼頭鍋三郎Click!のアトリエClick!建設と同年であり、両者のアトリエはわずか50mほどしか離れていない。およそ2年ぶりの、落合地域への帰還だった。そして、松下は翌1933年(昭和8)12月31日に急性白血病で急逝Click!するまで、西落合のアトリエで精力的な仕事をこなしている。　松下春雄が急死した翌年から、柳瀬正夢Click!が松下アトリエを借りて仕事をスタートしている。松下春雄が建てたアトリエは、落合町葛ヶ谷306番地すなわち淀橋区の成立Click!とともに西落合1丁目306番地(現・西落合4丁目)であり、柳瀬正夢の借家は西落合1丁目303番地と記録されていたため、わたしは自宅を303番地に借りた柳瀬は、306番地の松下アトリエのみを借りて使用していたのではないか？・・・と想定していた。　ところが、西落合の地番変更は複雑で、落合町葛ヶ谷から西落合へと変化するとき旧地番に丁目がふられ、さらに1935年(昭和10)の大規模な地番変更のとき、もう一度大きな見直しが加えられるという、短期間で二重の地番変更が行われていることが判明した。すなわち、西落合1丁目306番地にあった松下春雄の自宅兼アトリエと、同1丁目303番の柳瀬正夢アトリエは、実は同一の建物でありアトリエだったのだ。松下春雄アトリエの地番を時系列で記すと、以下のようになる。　1932年(昭和7)4月29日・・・落合町葛ヶ谷306番地(松下春雄アトリエの建設当初)　1932年(昭和7)10月～1933年(昭和8)12月・・・西落合1丁目306番地(松下春雄急逝)　1934年(昭和9)初春～12月・・・西落合1丁目306番地(柳瀬正夢が借りはじめた時期)　1935年(昭和10)～1965年(昭和40)・・・西落合1丁目303番地　1965年(昭和40)～現在・・・西落合4丁目(以下略)　1929年(昭和4)に作成された「落合町市街地図」を見ると、東西道路の南側が葛ヶ谷306番地であり、北側が同303番地なのだが、306番地の一部が北側へ少しはみ出ているのがわかる。ちょうど、松下春雄邸の門から玄関、母屋東側の一部に相当する区画だ。つまり、このはみ出した306番..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-03-30T11:14:17+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E982B8E8B7A1.JPG" border="0" alt="松下春雄邸跡.JPG" width="450" height="337" /><br />　<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-11-18" target="_blank">松下春雄</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は1932年(昭和7)4月末、落合町葛ヶ谷306番地に自宅兼アトリエを建て、阿佐ヶ谷520番地のアトリエから引っ越してきている。これは、名古屋の画会「サンサシオン」の仲間だった<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-07-23" target="_blank">鬼頭鍋三郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-09" target="_blank">アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>建設と同年であり、両者のアトリエはわずか50mほどしか離れていない。およそ2年ぶりの、落合地域への帰還だった。そして、松下は翌1933年(昭和8)12月31日に急性白血病で<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-12-28" target="_blank">急逝</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>するまで、西落合のアトリエで精力的な仕事をこなしている。<br />　松下春雄が急死した翌年から、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-07-10" target="_blank">柳瀬正夢</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が松下アトリエを借りて仕事をスタートしている。松下春雄が建てたアトリエは、落合町葛ヶ谷306番地すなわち<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-03" target="_blank">淀橋区の成立</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>とともに西落合1丁目306番地(現・西落合4丁目)であり、柳瀬正夢の借家は西落合1丁目303番地と記録されていたため、わたしは自宅を303番地に借りた柳瀬は、306番地の松下アトリエのみを借りて使用していたのではないか？・・・と想定していた。<br />　ところが、西落合の地番変更は複雑で、落合町葛ヶ谷から西落合へと変化するとき旧地番に丁目がふられ、さらに1935年(昭和10)の大規模な地番変更のとき、もう一度大きな見直しが加えられるという、短期間で二重の地番変更が行われていることが判明した。すなわち、西落合1丁目306番地にあった松下春雄の自宅兼アトリエと、同1丁目303番の柳瀬正夢アトリエは、実は同一の建物でありアトリエだったのだ。松下春雄アトリエの地番を時系列で記すと、以下のようになる。<br /><font color="#333399">　1932年(昭和7)4月29日・・・落合町葛ヶ谷306番地(松下春雄アトリエの建設当初)<br />　1932年(昭和7)10月～1933年(昭和8)12月・・・西落合1丁目306番地(松下春雄急逝)<br />　1934年(昭和9)初春～12月・・・西落合1丁目306番地(柳瀬正夢が借りはじめた時期)<br />　1935年(昭和10)～1965年(昭和40)・・・西落合1丁目303番地<br />　1965年(昭和40)～現在・・・西落合4丁目(以下略)<br /></font>　1929年(昭和4)に作成された「落合町市街地図」を見ると、東西道路の南側が葛ヶ谷306番地であり、北側が同303番地なのだが、306番地の一部が北側へ少しはみ出ているのがわかる。ちょうど、松下春雄邸の門から玄関、母屋東側の一部に相当する区画だ。つまり、このはみ出した306番地の部分を、改めて303番地に修正したのが、淀橋区成立後の1935年(昭和10)に行なわれた、再度の地番変更だった。したがって、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、東西道路の北側は303番地のみとなり、道路の南側では306番地が南へ下がり、かわりに305番地が旧・306番地のエリアまで食いこむ大きな変化が見てとれる。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE590881929-18cc3.jpg" border="0" alt="西落合1929.jpg" width="255" height="298" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE890BDE590881938-a92bd.jpg" border="0" alt="西落合1938.jpg" width="255" height="298" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B1B1E69CACE6A798E38194E5A4ABE5A6BB-53678.jpg" border="0" alt="山本様ご夫妻.jpg" width="220" height="166" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E982B81932.jpg" border="0" alt="松下春雄邸1932.jpg" width="290" height="166" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E6ADBBE58EBB(1934E5B9B4E5889DE9A0AD)-83b5f.jpg" border="0" alt="松下春雄死去(1934年初頭).jpg" width="520" height="375" /><br />　この裏づけが取れたのは、柳瀬正夢研究会の甲斐繁人様が柳瀬の遺品の中に、「西落合1丁目306番地」と「西落合1丁目303番地」の双方に宛てた郵便物を確認してくださったからだ。そしてもうひとつ、松下春雄の長女・松下彩子様(現在は山本和男様と結婚して山本姓)ご夫妻が、地番の変更についてそのように記憶していたからだ。山本(松下)彩子様へ取材することができたのは、<a href="http://k1naka-essey.blog.so-net.ne.jp/" target="_blank">ナカムラさん</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の調査によるものだ。わざわざ名古屋画廊まで、遺族のお住まいを問い合わせていただき、なんと西落合4丁目におられることが判明したのだ。<br />　そして、ナカムラさんよりご教示していただいた地番をみて、わたしはパソコンの前で愕然としてしまった。まさに、西落合4丁目の住所が旧・西落合1丁目306番地(のち303番地)の敷地にピタリと一致したからだ。松下春雄のご遺族は、西落合のアトリエを動いていない！・・・、偶然に鬼頭鍋三郎の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-15" target="_blank">アトリエを発見</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>したときと同様に、全身鳥肌が立ってしまった。<br />　さっそく、旧・松下春雄アトリエへ取材にうかがって、山本和男・彩子夫妻にお話をうかがう。今回の取材には、ナカムラさんと甲斐様がいっしょだった。玄関を入ると、壁には松下春雄の作品が架けられている。いや、玄関ばかりでなく居間や寝室などにも、油彩や水彩の作品類が数多く見られる。わたしにはお馴染みの、<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm" target="_blank">第一文化村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の水道タンクを描いた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-11-17" target="_blank">『五月野茨を摘む』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の習作や、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-12-09" target="_blank">『木の間より』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のバリエーション作品など。西坂・徳川邸のバラ園を描いた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-11-29" target="_blank">『下落合徳川男爵別邸』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を、資料から初めてカラー画像で拝見することもできた。<br />　今年83歳になる山本彩子様の証言によれば、1933年(昭和8)12月31日に父・松下春雄がわずか30歳で死去すると、自宅とアトリエを知り合いから紹介された柳瀬正夢(内田厳→大河内信敬→小林勇→柳瀬と伝わったらしい)に貸して、1934年(昭和9)の早春、遺された淑子夫人は子どもたちを連れ、池袋の渡辺家(夫人の実家)へと移った。そして、1944年(昭和19)に池袋界隈が<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-14" target="_blank">空襲の脅威</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>にさらされはじめると、夫人と子どもたちは再び西落合の松下邸へともどっている。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84EFBC8BE5BDA9E5AD90E6A7981-21d90.jpg" border="0" alt="松下春雄＋彩子様1.jpg" width="255" height="340" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E6B791E5AD90E5A4ABE4BABA-ed5ca.jpg" border="0" alt="淑子夫人.jpg" width="255" height="340" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84EFBC8BE5BDA9E5AD90E6A7982.jpg" border="0" alt="松下春雄＋彩子様2.jpg" width="255" height="330" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E982B8E99680E382A2E383BCE383811932-9870a.jpg" border="0" alt="松下春雄邸門アーチ1932.jpg" width="255" height="330" /><br />　そのころには、柳瀬正夢はとうに転居しており、邸は空き家になっていたのだろう。そして、1945年(昭和20)4月13日の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-03-09" target="_blank">第1次山手空襲</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>で池袋の家は全焼したが、西落合は次の5月25日の空襲でも被害を受けず、松下邸は敗戦後まで健在だった。この間、3人の子どもを抱えた淑子夫人の苦労は、並たいていのものではなかったと思われる。<br />　空襲の被害を受けなかったので、アルバムには松下春雄の写真類が豊富に保存されており、わたしは狂喜して撮影させていただいた。竣工直後の松下邸の姿や、「下落合風景」の1作と思われる画面を制作する松下春雄のスナップ、亡くなる直前に出かけた伊勢旅行のスナップ、松下アトリエで仕事をする鬼頭鍋三郎の姿、「サンサシオン」展や帝展での記念撮影など、いずれも美術界にとってはかけがえのない貴重なものばかりだ。夫妻のお話しでは鬼頭鍋三郎も一時期、松下アトリエを借りて制作していたらしい。また、「サンサシオン」のメンバーのひとり<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-02-29" target="_blank">大澤海蔵</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>も、近くにアトリエをかまえて制作していたようだ。大澤の「落合風景」作品も、これから新たに判明するかもしれない。しかも、彩子様はお母様の淑子夫人から、アルバムの写真について多くのことを聞かされているのだろう、写真1枚1枚について鮮明な記憶をお持ちだった。<br />　同じ帝展仲間で「サンサシオン」展にも出品している、下落合800番地(現・下落合4丁目)に住んでいた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-12-23" target="_blank">有岡一郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>について、夫妻はご存じではなかった。わたしは、松下と有岡は大正末に連れだって、西坂の赤い屋根をした徳川邸の大きな母屋を、南側の芝庭(バラ園のある西側)から描いていると思うのだが、有岡一郎が西落合のアトリエを訪ねてきたご記憶はないそうだ。ところが、山本邸の壁には<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-07-26" target="_blank">鈴木良三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の作品が架けられているのを見て、わたしはビックリした。<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-29" target="_blank">関東大震災</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のとき、<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/tsune.htm" target="_blank">中村彝</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と岡崎キイを避難させたのが、下落合800番地の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-10-22" target="_blank">鈴木良三アトリエ</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>であり、彝の死後に鈴木が水戸へ帰ったあと、アトリエを借り受けているのが有岡一郎だと思われるからだ。鈴木良三は、山本和男様の水戸における知人ということだった。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE982B8E38386E383A9E382B9-847f7.jpg" border="0" alt="松下邸テラス.jpg" width="520" height="308" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE4B880E5AEB6EFBC8BE9ACBCE9A0ADE98D8BE4B889E9838E.jpg" border="0" alt="松下一家＋鬼頭鍋三郎.jpg" width="290" height="214" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E6B791E5AD90E5A4ABE4BABAE381A8E38193E381A9E38282E3819FE381A1-88ddf.jpg" border="0" alt="淑子夫人とこどもたち.jpg" width="220" height="214" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E3808CE5BDA9E5AD90E5838FE3808D-6604c.jpg" border="0" alt="松下春雄「彩子像」.jpg" width="255" height="262" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E3808CE69CA8E381AEE99693E38288E3828AE3808DE38390E383AAE382A8E383BCE382B7E383A7E383B3-caba0.jpg" border="0" alt="松下春雄「木の間より」バリエーション.jpg" width="255" height="262" /><br />　松下春雄アトリエや邸内の様子も、貴重なアルバムに残っていたので、ぜひ次の記事でご紹介したいと思っている。また、新宿歴史博物館には目白文化村の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-06-08" target="_blank">箱根土地本社</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>と不動園を描いた、松下春雄の<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-10-04" target="_blank">『下落合文化村入口』</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>が収蔵され、ときどき展示されている。松下作品の所在は、山本様ご夫妻や名古屋画廊の資料などでほとんど明らかであり、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-03-15" target="_blank">「佐伯祐三－下落合の風景－」展</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>につづき、ぜひ<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/gaka.htm" target="_blank">「松下春雄－落合の風景－」展</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の企画はいかがだろうか？　特に、<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/saeki.htm" target="_blank">佐伯祐三</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>がほとんど描かなかったテーマの作品が多いだけに、大正末のもうひとつ別の落合地域の“顔”を、松下春雄のやさしい水彩画の色彩とともに甦らせることができると思うのだ。お休みにもかかわらず、たくさんのご教示をいただきありがとうございました。＞山本和男様・彩子様</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：落合町葛ヶ谷306番地→西落合1丁目306番地→同1丁目303番地の松下春雄邸＋アトリエの現状。1934年(昭和9)から1939年(昭和14)ごろまでは、柳瀬正夢アトリエだった。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、1929年(昭和4)の「落合町市街図」にみる葛ヶ谷306番地。<font color="#3366ff">上右</font>は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる松下邸(当時は柳瀬正夢邸)。<font color="#3366ff">中左</font>は、居間でお話をうかがった山本彩子様(左)と山本和男様(右)。<font color="#3366ff">中右</font>は、竣工直後とみられる松下邸の母屋。南側の庭から東を向いて撮影しており、右手が三間道路。<font color="#3366ff">下</font>は、1934年(昭和9)春に撮影されたとみられる、30歳で急逝した松下春雄の遺影を前に呆然とする淑子夫人と子どもたち。(左端の少女が彩子様)<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、松下春雄に抱っこされる彩子様。<font color="#3366ff">上右</font>は、松下春雄とは池袋の医院(淑子夫人の実家は医者)で出会い恋愛結婚だった淑子夫人。<font color="#3366ff">下左</font>は、松下春雄と彩子様。<font color="#3366ff">下右</font>は、1932年(昭和7)に撮影したとみられる竣工直後の松下邸門(アーチ)と母屋の東側。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、母屋のテラスから淑子夫人や子供たちが遊ぶ南の庭を撮影したもの。庭の背後に見える道路から撮影したのが、記事冒頭のカラー写真。<font color="#3366ff">中左</font>は、庭で遊ぶ松下春雄一家だが右端でこちらを向いているのは鬼頭鍋三郎。<font color="#3366ff">中右</font>は、淑子夫人と子どもたちで右端が彩子様。<font color="#3366ff">下左</font>は、松下春雄の素描『彩子像』。<font color="#3366ff">下右</font>は、松下春雄『木の間より』のバリエーションと思われる作品。</p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-27">
<title>林芙美子の手縫い「ちゃんちゃんこ」。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-27</link>
<description>　1947年(昭和22)5月、林芙美子Click!は7年前に完成した下落合4丁目2096番地（現・中井2丁目）の四ノ坂に面した自邸Click!で、『放浪記・第三部』の執筆をはじめている。同年8月には、毎日新聞が初めて朝刊連載小説を企画し、芙美子を起用して『うず潮』の連載がスタートした。　久米正雄が毎日新聞の文芸担当だった戦前戦中、同紙と林芙美子は一時的に疎遠になっていたので、彼女は素直にうれしかっただろう。そのような環境で芙美子は、四ノ坂筋をはさんで東隣りの同じく下落合4丁目2096番地に建っていた炭谷家の2歳になる幼児に、手縫いの「ちゃんちゃんこ」をつくってプレゼントしている。　その2歳児とは、このサイトへたびたび貴重な情報をお寄せいただいている炭谷太郎様Click!のことだ。そして、林芙美子の手縫いちゃんちゃんこを、いまでもたいせつに保存しているとうかがい、さっそく拝見することになった。炭谷様は、刑部人邸Click!の西に隣接するハーフティンバーが特徴の大きな西洋館で生まれ、3歳のときまで手塚緑敏Click!・林芙美子邸の隣りで暮らしている。炭谷家は、金山平三Click!がタライを浮かべて遊んだ池Click!を埋め立て、刑部邸の敷地内に建てられた西洋館だ。つい最近まで、刑部邸とともに四ノ坂の入り口に、林邸と向き合うように建っていたおしゃれな西洋館なので、ご記憶の方も多いだろう。　その後、炭谷家は一時的に転居をしてしまい、1955年（昭和30）の炭谷様が10歳のとき再び下落合へともどってくるのだが、そのときにはすでに、林芙美子は死去していた。　ちゃんちゃんこは、「林芙美子の縫ったチャンチャンコ」と紙札の貼られた桐箱に、たいせつに保存されていた。箱を開けると、ふた裏に夫・林(手塚）緑敏による1982年（昭和57）の箱書きがある。　　▼　此のチャンチャンコは昭和二十二年頃 隣り炭谷家の長男太郎君可愛いゝ盛也 芙美子其の可愛さにひかれて著作の合間に是を縫い進呈したるもの也　　　　　　　　　　　　　　　　　　                    　昭和五十七年一月十二日　　林 緑敏 識　　▲ 　ちゃんちゃんこは、炭谷様がずいぶん「愛用」されたらしく、かなり使いこまれた感触がある。襟元に虫食いの跡があるのは、長い間、箪笥の奥へ仕舞いこまれていたせいだろう。65年前に縫われたものだが、どこかで林芙美子の体温を感じることが..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-03-27T18:47:31+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E381A1E38283E38293E381A1E38283E38293E381931.jpg" border="0" alt="ちゃんちゃんこ1.jpg" width="450" height="341" /><br />　1947年(昭和22)5月、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-05-25" target="_blank">林芙美子</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>は7年前に完成した下落合4丁目2096番地（現・中井2丁目）の四ノ坂に面した<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-09-27" target="_blank">自邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>で、『放浪記・第三部』の執筆をはじめている。同年8月には、毎日新聞が初めて朝刊連載小説を企画し、芙美子を起用して『うず潮』の連載がスタートした。<br />　久米正雄が毎日新聞の文芸担当だった戦前戦中、同紙と林芙美子は一時的に疎遠になっていたので、彼女は素直にうれしかっただろう。そのような環境で芙美子は、四ノ坂筋をはさんで東隣りの同じく下落合4丁目2096番地に建っていた炭谷家の2歳になる幼児に、手縫いの「ちゃんちゃんこ」をつくってプレゼントしている。<br />　その2歳児とは、このサイトへたびたび貴重な情報をお寄せいただいている<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-04-10" target="_blank">炭谷太郎様</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>のことだ。そして、林芙美子の手縫いちゃんちゃんこを、いまでもたいせつに保存しているとうかがい、さっそく拝見することになった。炭谷様は、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-03-05" target="_blank">刑部人邸</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の西に隣接するハーフティンバーが特徴の大きな西洋館で生まれ、3歳のときまで<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-05-29" target="_blank">手塚緑敏</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>・林芙美子邸の隣りで暮らしている。炭谷家は、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-01-29" target="_blank">金山平三</a><font size="1" color="#ff0000">Click</font><font size="1" color="#ff0000">!</font>がタライを浮かべて<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-02-22" target="_blank">遊んだ池</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を埋め立て、刑部邸の敷地内に建てられた西洋館だ。つい最近まで、刑部邸とともに四ノ坂の入り口に、林邸と向き合うように建っていたおしゃれな西洋館なので、ご記憶の方も多いだろう。<br />　その後、炭谷家は一時的に転居をしてしまい、1955年（昭和30）の炭谷様が10歳のとき再び下落合へともどってくるのだが、そのときにはすでに、林芙美子は死去していた。<br />　ちゃんちゃんこは、「林芙美子の縫ったチャンチャンコ」と紙札の貼られた桐箱に、たいせつに保存されていた。箱を開けると、ふた裏に夫・林(手塚）緑敏による1982年（昭和57）の箱書きがある。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　此のチャンチャンコは昭和二十二年頃 隣り炭谷家の長男太郎君可愛いゝ盛也 芙美子其の可愛さにひかれて著作の合間に是を縫い進呈したるもの也<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　                    　昭和五十七年一月十二日　　林 緑敏 識<br />　　<font color="#008000">▲<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E59B9BE3838EE59D82E7958CE99A881947.jpg" border="0" alt="四ノ坂界隈1947.jpg" width="520" height="293" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69E97E982B8E59FBAE7A48EE5B7A5E4BA8B1940-f9909.jpg" border="0" alt="林邸基礎工事1940.jpg" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69E97E88A99E7BE8EE5AD90E982B8-acdeb.JPG" border="0" alt="林芙美子邸.JPG" width="255" height="191" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E697A7E383BBE782ADE8B0B7E982B8.JPG" border="0" alt="旧・炭谷邸.JPG" width="520" height="326" /><br /></font>　ちゃんちゃんこは、炭谷様がずいぶん「愛用」されたらしく、かなり使いこまれた感触がある。襟元に虫食いの跡があるのは、長い間、箪笥の奥へ仕舞いこまれていたせいだろう。65年前に縫われたものだが、どこかで林芙美子の体温を感じることができる“遺品”だ。<br />　芙美子は手芸が好きだったようで、執筆の合い間を縫ってはセーターを編んだり、洋裁・和裁を楽しんでいたようだ。記念館として新宿区が管理をしている四ノ坂の自邸には、養子の林泰のために編んだセーターや、自分で手づくりしたと思われる洋服などが保存されている。裁縫を見ると、縫い目があまり表に目立たないようにする「くけ縫い」というのだろうか、「耳ぐけ」あるいは「三つ折りぐけ」と思われるていねいな糸の通し方がされている。<br />　林芙美子が、ちゃんちゃんこを縫って隣家の炭谷様へプレゼントしようと思い立ったのは、1943年(昭和18)に養子に迎えた泰(やすし)のための裁縫が面白く、手芸の楽しさにすっかりはまっていたのかもしれない。そして、泰とは2歳ちがいの炭谷様に、同様の母性愛のようなものを感じたせいもあるのだろう。モスグリーンの木綿生地には、変わり菱花紋や変わり丸菱紋の散らしが入り、薄黄色のガーゼのような裏地が当てられている。菱形には、古くから女性を象徴する「やさしさ」「抱擁」などの意味合いがある。ひな祭りの道具に、菱形をしたものが多いのはそのせいだ。林芙美子はそれを知ってか知らずか、物資が極端に欠乏していた敗戦直後、おそらく誰かの着物をつぶしてちゃんちゃんこをこしらえているのではないだろうか。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E381A1E38283E38293E381A1E38283E38293E381932-0b275.JPG" border="0" alt="ちゃんちゃんこ2.JPG" width="255" height="292" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E381A1E38283E38293E381A1E38283E38293E381933-96fc6.JPG" border="0" alt="ちゃんちゃんこ3.JPG" width="255" height="292" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E381A1E38283E38293E381A1E38283E38293E381934-d7c16.JPG" border="0" alt="ちゃんちゃんこ4.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E381A1E38283E38293E381A1E38283E38293E381935.JPG" border="0" alt="ちゃんちゃんこ5.JPG" width="255" height="191" /><br />　敗戦からわずか2年、戦時中に書きためておいた作品を含め、堰を切ったように次々と作品を発表しはじめた彼女の心境を、「林芙美子記念館」図録(新宿歴史博物館／1993年)に収録された1947年(昭和22)の「『倫落』あとがき」から孫引きしてみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　私はこのごろ、誰の意見もおそれなくなった。自分のやりたい事を一生懸命やってみたいと云ふ欲だけである。当分、私は人間の弱点のなかへくすぶり込みたいと願ってゐる。私のかうした目的が、私の中のいまゝでの仕事すべてをふいにしてしまっても、それほど強く私を引っぱってはなさない。どんな醜の醜なるものゝなかに、私は作家として無関心であり得ない執着を持つ。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　炭谷太郎様は、林芙美子に抱っこされたような感覚がかすかにあるそうだが、生きている芙美子の感触をほとんど記憶されていない。わたしは、林芙美子の皮膚感覚や体臭、声といったようなものを知りたかったのだが、残念ながら炭谷様は3歳でいったん下落合を離れているので、彼女が放っていた雰囲気や気配を憶えてはいらっしゃらなかった。そのあたりの様子は、林芙美子からほとんど毎日、食事に呼ばれていた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-01-10" target="_blank">刑部人</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の二女・中島若子様の貴重な証言を聞いてみよう。でも、もはや文字数がつきてしまったので、それはまた次の、もうひとつ別の物語・・・。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E381A1E38283E38293E381A1E38283E38293E381936-8f42e.JPG" border="0" alt="ちゃんちゃんこ6.JPG" width="520" height="402" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E381A1E38283E38293E381A1E38283E38293E381937-0b816.JPG" border="0" alt="ちゃんちゃんこ7.JPG" width="255" height="191" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E381A1E38283E38293E381A1E38283E38293E381938-9a684.JPG" border="0" alt="ちゃんちゃんこ8.JPG" width="255" height="191" /><br />　炭谷様は近々、林芙美子手縫いのちゃんちゃんこを、林芙美子記念館(新宿歴史博物館)へ寄贈しようと考えている。貴重な遺品をお見せいただき、ありがとうございました。＞炭谷太郎様</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：65年前につくられ、炭谷家で保存されてきた林芙美子作のちゃんちゃんこ。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上</font>は、ちゃんちゃんこが縫われた1947年(昭和22)の空中写真にみる四ノ坂界隈。<font color="#3366ff">中左</font>は、1940年(昭和15)に基礎工事が終わった林邸で、遠景には竣工して間もない炭谷様が住んでいた屋敷が見える。<font color="#3366ff">中右</font>は、四ノ坂のバッケ中腹から撮影した林芙美子邸の母屋。(現・林芙美子記念館)　<font color="#3366ff">下</font>は、四ノ坂をはさみ林邸に隣接して建っていた旧・炭谷家の洋館。(撮影：刑部佑三様)<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font><font color="#3366ff">・下</font>：林芙美子の手縫いのちゃんちゃんこ。<br /><font color="#333399"><font color="#ff0000">★</font>サクラ満開<br />目白崖線の斜面で、暖かいのかサクラが満開になって散りはじめている。おそらく、気の早いヒガンザクラだろう。ウメではなくサクラが咲く中、あちこちでウグイスが鳴き交わす声を聴くのはめずらしい。一気に春めいたので、柄にもなく、いまが旬のストロベリーパフェを食べに千疋屋へ・・・。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E382B5E382AFE383A9.jpg" border="0" alt="サクラ.jpg" width="255" height="310" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E38391E38395E382A7-6d4a4.jpg" border="0" alt="パフェ.jpg" width="255" height="310" /></font></p><a name="more"></a>
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<item rdf:about="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-24">
<title>武蔵野鉄道もセメントを運びたい。</title>
<link>http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-03-24</link>
<description>　1928年(昭和3)に、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の経営がかなり悪化している。1922年(大正11)に池袋－所沢間が電化された同線は、とうに客車運行をスタートしていたのだが、利用客が思ったほど増えなかった。西武電鉄(現・西武新宿線)よりもはるかに歴史の古い武蔵野鉄道だが、この時期、同線は西武鉄道の経営を模倣しようとしていた。　西武電鉄は、1927年(昭和2)に下落合駅Click!あるいは高田馬場仮駅Click!までの営業をスタートすると、さっそく郊外を散策にやってくる観光客Click!や、沿線に開発がつづく新興住宅地Click!への住民誘致、ひいては西武電車の利用客増加へ向け、さまざまなメディアを使いながら積極的な宣伝活動を展開していた。また、大正初期から建築資材の運搬を手がけてきた西武鉄道は、関東大震災Click!後の復興耐火建築用に東京市街でセメントや砂利の需要が高まると、その採掘をはじめ備蓄・物流拠点づくり、貨物輸送事業などを軌道に乗せている。武蔵野鉄道としては、西武鉄道が発表する経常利益の右肩あがりを横目で見ながら、どうすれば利用客の増加と収益増が見こめるものか、経営会議における最大課題となっていただろう。　そこで、武蔵野鉄道としては西武鉄道が行なっているプロモーションを、ほとんどそのまま模倣しようとした時期があったようだ。まず、東京郊外の散策や観光ブームにのって、名所・旧跡の紹介や遊園地(当時は私設公園・庭園のような意味合い)の開発、「文化村」ライクなしゃれた新興住宅地の造成Click!などを行い、広報宣伝活動を大々的に展開している。西武鉄道とまったく同様に、楽しげな鉄道沿線パンフレットをこしらえて、観光客や沿線住民を少しでも集めようとしていたようだ。ことに、目白文化村Click!を開発していた堤康次郎Click!を巻きこみ、下落合の有力者だった小野田家の姻戚筋が住む大泉村(現・大泉学園)へ、学校誘致を前提とした学園都市の建設計画を起ち上げるなど、武蔵野鉄道は各方面へ積極的に働きかけたにちがいない。　しまいには、「明日の日曜は、新緑の村山貯水池畔へ」などと、まるで西武電車Click!の広告版下をそのまま借用し、鉄道名だけ「武蔵野鉄道」に入れ替えたような新聞広告さえ登場した。これは1929年(昭和4)5月、武蔵野鉄道に狭山線の村山公園駅(現・西武球場前駅)ができたためだが、西武鉄道としては..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>ChinchikoPapa</dc:creator>
<dc:date>2012-03-24T19:23:05+09:00</dc:date>
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<p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE6ADA6E6B1A0E8A28BE7B79A(E6A48EE5908DE794BAE9A785).JPG" border="0" alt="西武池袋線(椎名町駅).JPG" width="450" height="337" /><br />　1928年(昭和3)に、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-10-17" target="_blank">武蔵野鉄道</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>(現・西武池袋線)の経営がかなり悪化している。1922年(大正11)に池袋－所沢間が電化された同線は、とうに客車運行をスタートしていたのだが、利用客が思ったほど増えなかった。西武電鉄(現・西武新宿線)よりもはるかに歴史の古い武蔵野鉄道だが、この時期、同線は西武鉄道の経営を模倣しようとしていた。<br />　西武電鉄は、1927年(昭和2)に<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-01-14" target="_blank">下落合駅</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>あるいは<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-01-08" target="_blank">高田馬場仮駅</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>までの営業をスタートすると、さっそく郊外を散策にやってくる<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-03-30" target="_blank">観光客</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>や、沿線に開発がつづく<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-20" target="_blank">新興住宅地</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>への住民誘致、ひいては西武電車の利用客増加へ向け、さまざまなメディアを使いながら積極的な宣伝活動を展開していた。また、大正初期から建築資材の運搬を手がけてきた西武鉄道は、<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-29" target="_blank">関東大震災</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>後の復興耐火建築用に東京市街でセメントや砂利の需要が高まると、その採掘をはじめ備蓄・物流拠点づくり、貨物輸送事業などを軌道に乗せている。武蔵野鉄道としては、西武鉄道が発表する経常利益の右肩あがりを横目で見ながら、どうすれば利用客の増加と収益増が見こめるものか、経営会議における最大課題となっていただろう。<br />　そこで、武蔵野鉄道としては西武鉄道が行なっているプロモーションを、ほとんどそのまま模倣しようとした時期があったようだ。まず、東京郊外の散策や観光ブームにのって、名所・旧跡の紹介や遊園地(当時は私設公園・庭園のような意味合い)の開発、「文化村」ライクなしゃれた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-06-30" target="_blank">新興住宅地の造成</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>などを行い、広報宣伝活動を大々的に展開している。西武鉄道とまったく同様に、楽しげな鉄道沿線パンフレットをこしらえて、観光客や沿線住民を少しでも集めようとしていたようだ。ことに、<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm" target="_blank">目白文化村</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を開発していた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-23" target="_blank">堤康次郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>を巻きこみ、下落合の有力者だった小野田家の姻戚筋が住む大泉村(現・大泉学園)へ、学校誘致を前提とした学園都市の建設計画を起ち上げるなど、武蔵野鉄道は各方面へ積極的に働きかけたにちがいない。<br />　しまいには、「明日の日曜は、新緑の村山貯水池畔へ」などと、まるで<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-11-22" target="_blank">西武電車</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の広告版下をそのまま借用し、鉄道名だけ「武蔵野鉄道」に入れ替えたような新聞広告さえ登場した。これは1929年(昭和4)5月、武蔵野鉄道に狭山線の村山公園駅(現・西武球場前駅)ができたためだが、西武鉄道としては面白くなかっただろう。村山貯水池の建設では、1916年(大正5)から西武鉄道は協力してきており、貯水池(多摩湖)とその周辺施設や公園もまた、同鉄道による開発事業が多かったからだ。利用客の増加をめざして、せっかく力を注いで投資し宣伝してきた観光事業へ、武蔵野鉄道が“無賃乗車(タダ乗り)”していると西武鉄道側では感じていたかもしれない。<br />　さらに、武蔵野鉄道がもうひとつ模倣したのは、東京市内で需要の多い<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-04-11" target="_blank">セメント輸送</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>だった。同鉄道が大株主となった東京セメントと結び、一種の賭けに近い建築資材の輸送事業だ。東京セメントの視座から見れば、いまにも経営破綻を起こしそうな大株主である武蔵野鉄道を救うための窮余策ということになる。1928年(昭和3)7月25日発行の、読売新聞から引用してみよう。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8A5BFE6ADA6E6B1A0E8A28BE7B79A(E4B88AE5B18BE695B7)-05ff1.JPG" border="0" alt="西武池袋線(上屋敷).JPG" width="255" height="250" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8AAADE5A3B2E696B0E8819E19290525-95f9a.jpg" border="0" alt="読売新聞19290525.jpg" width="255" height="250" /><br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DB1E4BAACE69C9DE697A5E696B0E8819E19280316.jpg" border="0" alt="東京朝日新聞19280316.jpg" width="255" height="312" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E69DB1E4BAACE69C9DE697A5E696B0E8819E19280410-fdca7.jpg" border="0" alt="東京朝日新聞19280410.jpg" width="255" height="312" /><br />　　<font color="#008000">▼<br /></font><font color="#333399">　東京セメントの出現！　果然関東の市場に一大衝動を起す<br />　一杯喰はれた浅野　激憤して愈よ宣戦<br /></font>　昨報東京セメントの創立は到底真面目な計画とは見られず好転せるセメント界を刺激して結局浅野辺りに売込を策して居るものと見られてゐたが同社の創立事情に就き確聞するに、同社の主体たる武蔵野鉄道が最近の不況を挽回する為めに貨物運搬数量増加を目的として創立した武蔵野鉄道救済会社である。然るにこれが実現すれば従来の競争激甚を漸く緩和された関東市場は些少乍ら混乱気味となり、殊に地盤関係で秩父及其姉妹会社たる秩父鉄道と東京セメント及其主体なる武蔵野鉄道の競争となり、勢ひ磐城、浅野も圧迫されることゝなるので、浅野ではこの計画を阻止することに努めその代償として東京セメントの原石山となるべき阿我野から武蔵野鉄道を通じて一日五百トン以上千トン迄の石灰石を明年一月以降十五ヶ年間浅野に供給する契約を結んだのでこの契約に依つて当然同社の創立計画は放棄される筈なるに拘らず、更に第二段の策として会社売込を目的として創立を終つたのである。<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　ちなみに、戦前のセメントは樽に詰められていたと考えられがちだが、すでに袋状のパッケージによる輸送も開始されており、鉄道やトラックによるセメント輸送は、より容易かつ効率的に行なわれていただろう。セメント樽は重く容器もかさばるため、貨車やトラックの荷台へ一度に大量のセメントを積載することができないが、袋状のパッケージであれば積載がフレキシブルで、輸送効率も格段に高まっただろう。ただし、今日のように強固な防水厚紙による梱包ではなく、防水紙の袋にセメントを詰め、さらに麻袋でくるむという二重の袋詰めだったようだ。当時の浅野セメントの工場に取材したルポ記事が、1926年(大正15)8月17日の読売新聞にみえるので引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　又セメントと云へば樽詰とばかり思つて居たら近頃は麻袋入が流行しこれは重量も十一貫見当で運搬に便利なために調法がられてゐるそうだ　湿気止めの為には防水紙を入れてある。出来上つたセメントが此等の樽や麻袋に巧妙に盛り入れられて搬車に積まれる順序も流石に慣れたものでその早いことは誠にめまぐるしい (句読点ママ)<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　さて、西武鉄道の事業路線を模倣しようとした武蔵野鉄道だが、結果はかんばしくなかったようだ。1934年(昭和9)には、ついに債権者側の強制執行が入り、日々の売上金がすべて執行官に差し押さえられるという異常事態にまでなってしまった。翌年には、東京電燈の電気料金滞納で、同鉄道への送電の一部がストップされるという最悪の状況を迎えている。鉄道会社の電車が送電を一部でもストップされたら、もはや経営は成り立たない。これらの危機からようやく脱していくのは、同鉄道の大株主となっていた<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-08-30" target="_blank">堤康次郎</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>の再建策が軌道に乗ってからだ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8AAADE5A3B2E696B0E8819E19270623.jpg" border="0" alt="読売新聞19270623.jpg" width="255" height="352" /> <img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8AAADE5A3B2E696B0E8819E19280725-cc24b.jpg" border="0" alt="読売新聞19280725.jpg" width="255" height="352" /><br />　強制執行官が入り一部の送電も止められて、経営が事実上破綻してしまった武蔵野鉄道だが、それ以前から同鉄道と西武鉄道の合併話が、新聞紙上に掲載されるようになる。合併話が急に浮上したのは、同じく池袋駅を起点とする東武東上線が、1929年(昭和4)の秋に電化を完了することが大きな影響を与えたからだ。東武電車と西武電車に挟まれた武蔵野鉄道は、ますます経営が困難になるとみられていた。1929年(昭和4)7月9日に発行された読売新聞から引用してみよう。<br />　　<font color="#008000">▼<br /></font>　<font color="#333399">東武東上線の電化で武蔵野と西武の村山線が合併か<br />　競争激甚の余波･･･<br /></font>　東武鉄道の東上線(池袋寄居間四十六哩半)は今秋電化計画が完成するがこれを機として武蔵野鉄道(池袋飯能間)(二十七哩二分)及び西武電鉄の村山線(高田馬場東村山間十四哩九分)が合同して一会社を組織せんとする議が台頭し、各社の重役の意見は殆ど一致してゐるから何れ近いうちに実現される模様である。右三線は高田馬場池袋付近より出発するもので所沢及び川越に於て夫々交叉し競争線の形となつてゐるが東武東上線の電化が完成すれば競争益々激甚となることを憂慮して早くも合同議が持上つてゐるわけで斡旋によつて成立を見るであらうが具体案に於ては種々困難を伴ふものと視られてゐる<br />　　<font color="#008000">▲<br /></font>　この記事で、大手一般紙も西武鉄道のことを「西武電鉄」と表現している点に留意したい。「西武鉄道」は企業名であり、「西武電車」は同社が新聞紙上に媒体広告を反復掲載して一般に浸透させたかった同線の“愛称”であり(新宿発の荻窪方面行きの同線と混同するためか、あまり浸透しなかった)、「西武電鉄」ないしは「西武線」が地元を中心に東京へ実際に広く普及していった呼称だ。だからこそ、各町ごとの地図や東京区分図などにも同名が採用されている。この読売新聞の表現は、当時から一般的につかわれていた呼称を踏襲しているにすぎない。この関係は今日、誰も山手線のことを「東日本旅客鉄道・山手線」などと呼ばないのと同様だ。同社が浸透させたかった愛称が“E電”であり、一般に普及しているのが「ジェイアール山手線」という結末とまったく同じなのだ。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E8AAADE5A3B2E696B0E8819E19290709-394a4.jpg" border="0" alt="読売新聞19290709.jpg" width="450" height="432" /><br />　武蔵野鉄道はその後、日中戦争にともなう軍事施設や軍需工場の積極的な沿線誘致にともない、貨物輸送や利用客が少しずつ増加し、経営危機を徐々に脱していった。1944年(昭和19)には、戦時下におけるスムーズな食糧調達・増産の必要性から、西武鉄道と武蔵野鉄道は合併している。</p><p><font color="#3366ff">◆写真上</font>：椎名町の古い駅舎から、東長崎駅方面を眺めた西武池袋線(旧・武蔵野鉄道)。<br /><font color="#3366ff">◆写真中上</font>：<font color="#3366ff">上左</font>は、戦後に廃止となった<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-08-18-1" target="_blank">上屋敷駅</a><font size="1" color="#ff0000">Click!</font>をすぎたあたりの同線。<font color="#3366ff">上右</font>は、1929年(昭和4)5月25日の読売新聞に掲載された、まるで西武鉄道を思わせる武蔵野鉄道の「村山貯水池」媒体広告。<font color="#3366ff">下左</font>は、西武鉄道による「多摩湖ホテル」の完成を伝える1928年(昭和3)3月16日の東京朝日新聞。<font color="#3366ff">下右</font>は、東京市公園課によって東村山公園の完成を貯水池の空中写真とともに伝える1928年(昭和3)4月10日の東京朝日新聞。<br /><font color="#3366ff">◆写真中下</font>：<font color="#3366ff">左</font>は、西武鉄道によって上井草で企画された1927年(昭和2)6月23日の読売新聞に掲載された軟式テニス大会広告。西武鉄道では、さまざまなイベントを企画して同線への乗客誘致を試みていた。<font color="#3366ff">右</font>は、武蔵野鉄道を救済するために企画された東京セメントの事業内容と、同線による貨物輸送計画を伝える1928年(昭和3)7月25日の読売新聞。<br /><font color="#3366ff">◆写真下</font>：東武東上線の電化と武蔵野鉄道の経営行き詰まりを背景に、早くも西武鉄道と武蔵野鉄道の合併を予測する1929年(昭和4)7月9日の読売新聞。</p><a name="more"></a>
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