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落合地域に散在する“ニキビ”を考える。 [気になる神田川]

諏訪塚跡1.JPG
 明治期から大正末までの地形図を時代順に重ねてみていると、すでに現在はなくなってしまった気になる地形表現がある。下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!の西側に描かれた、正円状の“ニキビ”のような突起もそのひとつだ。地番でいうと、下落合622番地と同625番地の敷地にまたがるような位置だろうか。直径が20~25mほどの、ほぼ正円形をした塚状の突起地形だ。
 この塚状の突起は、陸軍参謀本部の陸地測量部が作成した1/10,000地形図の最初期、1909年(明治42)版のものからすでに採取されているのがわかる。1909年(明治42)の当時、北側にある清戸道Click!(目白通り)沿いの「椎名町」Click!には、江戸期から拓けた街道沿いの家並みが見られるが、諏訪谷Click!の丘上にあった塚状突起の周囲には家が見えず、一面の田畑が広がっている。
 そして、同地形図によれば、この凸地の上には広葉樹の記号が挿入されているので、塚全体がこんもりと樹木に覆われていたようだ。つまり、南に谷戸(諏訪谷)が口を開けた、青柳ヶ原Click!と同じ標高である等高線32.5m上の平地へ開墾された田畑の真ん中に、まるで海上に浮かぶ島のような塚状の突起がポツンと存在していたということになる。これは、いったいなんだろうか? 曾宮一念Click!が、1921年(大正10)にアトリエClick!を建設したとき、この塚はいまだ西側に残っていたはずだ。1925年(大正14)の1/10,000地形図にも、同塚は採取されている。昭和に入ると、蕗谷虹児Click!アトリエやその南の谷口邸が建設される一帯だ。
 さらに、もうひとつ思い当たることがある。諏訪谷北側の尾根筋に通う東西道は、まっすぐに東へと向かうのではなく、この塚を避けるように斜めに拓かれていることだ。1925年(大正14)の地図では、いまだ斜めの道路表現になっているが、翌1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、斜めだった道路が途中で直角状の鍵型に折れ曲がり、明らかに宅地の造成が行われている様子が見てとれる。
 この風情は、絵画の画面にも記録されている。1926年(大正15)の夏に描かれた二科賞を受賞Click!する直前の佐伯祐三Click!『セメントの坪(ヘイ)』Click!は、曾宮アトリエの前へ斜めにつづいていた廃止される直前の路上から、換言すればすでに宅地として整地されたらしい道路痕が残る敷地の上から、諏訪谷の大六天Click!の方角を向いてスケッチしている。そして、セメントの塀沿いに新たに拓かれた道路(現在の道筋)が、右手につづいているのが見てとれる。このとき、佐伯がイーゼルを立てた左手背後には、崩されつつある塚の残滓がいまだにあったのだろうか?
諏訪塚1909.jpg
諏訪塚1925.jpg
諏訪塚1926.jpg
 また、1921年(大正10)ごろから諏訪谷の湧水が形成した洗い場Click!(池)上の、「化け物屋敷」に住んでいた鈴木誠Click!も、この塚を毎日眺めて生活していたはずだ。この「化け物屋敷」とは、近くの農家が建てた古い借家か、農家の納屋のような建物だったのだろうか。当時の様子を1968年(昭和43)に発行された「絵」11月号(日動画廊出版部)に所収の、鈴木誠「下落合の佐伯祐三」から引用してみよう。
  
 (佐伯祐三に)翌日学校で会った時、ヴィオリンはぬらさなかった、と例のケロリとした口調で言っていたのが、私には一番古い記憶のようだ。私は卒業して結婚、下落合の昔風にいうと、洗場の上の化け物屋敷を借りて住みついた。隣りに曾宮一念氏の画室があった。/間もなく彼(佐伯祐三)が近くに画室を新築して来た。私は研究科に通うことになり彼と一緒に上野へ通っていた。(カッコ内引用者註)
  
 残念ながら日常的で見馴れた、「そこにある風景の一部」となっていたであろう塚状の突起のことを、鈴木誠は特に記録していない。ちょっと余談だが、上掲の鈴木誠の証言からも、1921年(大正10)4月にアトリエが完成し転居してきた曾宮一念のあとに、佐伯祐三が「画室を新築」して引っ越してきているのは明らかであり、佐伯アトリエの竣工は1921年(大正10)の夏以降のことだろう。
 各種地図などから推定すると、諏訪谷北側の丘上にあった塚状の突起は、1925年(大正14)ぐらいまでは残っていたのかもしれないが、その後、周辺の耕地整理とともに諏訪谷の急速な宅地化Click!が進められ、新たな道路整備や宅地開発とともに、1925年(大正15)ごろには消滅していた……と推定することができる。ちなみに、1925年(大正14)の1/10,000地形図では、塚の西側の一画を崩したものだろうか、明治期とは異なり灌漑用水とみられる小さな池が造られている様子が採取されている。
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大塚浅間古墳1925.jpg
大塚浅間古墳.jpg
不動谷1925.jpg
 さて、まったく同じような“ニキビ”状の突起表現を、同じ落合地域の1/10,000地形図で見つけることができる。上落合607番地の字大塚Click!の浅間社境内にあった「落合富士」Click!、すなわち大塚浅間塚古墳Click!だ。上落合の谷間一帯を見下ろす、やはり丘上の見晴らしのいい場所に築かれている。塚の直径が20~30mほどあった同古墳は、円墳だったか小型の前方後円墳だったかは、いまとなっては不明だ。1980年代後半からつづく関東各地で実施された古墳の再調査で、従来は円墳とされていた古墳が、前方部が崩されて田畑や道路にされてしまった前方後円墳(割り塚)であることが軒並み確認されている。したがって、戦時中だった1943年(昭和18)ごろに山手通りの建設で、満足な調査も行われず崩されてしまった大塚浅間塚古墳も、現代の科学的な調査が実施されれば円墳ではなかった可能性がある。
 下落合625番地あたりの諏訪谷の丘上に採取された塚状の突起も、はたして周囲を開墾によって削られ、結果的に小型化してしまった古墳なのだろうか。谷間を見下ろす丘上のほかの場所に、同じような塚状の突起が見られるかどうか、1/10,000地形図を仔細に観察すると、ほぼ同じサイズの塚をあと2ヶ所、下落合エリアで発見することができる。そこには、近くにある湧水源の谷間(谷戸)を見下ろす丘上という、共通の埋葬儀礼的な、あるいは宗教上の“法則”のようなものが透けて見えてくるようだ。
 そのひとつは、諏訪谷のすぐ西隣りに口を開けている不動谷Click!(西ノ谷Click!)の丘上、下落合1436番地から1437番地あたりで発見することができる。谷戸を東側に見下ろす地点は、のちに小川医院Click!が建設される敷地で、斜向かいには笠原吉太郎Click!アトリエClick!が建てられている。諏訪谷の塚に比べると、やや小ぶりな20m弱ほどの印象だろうか。そしてもうひとつは、箱根土地Click!目白文化村Click!を開発する以前、「不動園」Click!と名づけた前谷戸を北に望む位置、すなわち後年には第一文化村内となる下落合1321番地に、やはり塚状で正円の突起が確認できる。塚の規模20~25mと、諏訪谷のものとほぼ同じぐらいのサイズをしている。
 はたして、これらの塚が室町期からつづく百八塚Click!の伝承に直結する古墳なのかどうか、すべてが大正末ぐらいまでに崩されているので不明だ。また、これらの塚は当初より、これほど規模が小さいものだったのか、それとも玄室部分だけを残して周囲の墳丘をすべて崩してしまったあとの残滓なのかもわからない。視野を関東地方の全域に広げれば、おもに江戸期の開拓で被葬者が眠る玄室のみを残し(羨道や玄室に用いられた房州石Click!など、大きな石材を処分するのが面倒だったせいもあるだろう)、前方部や後円部を崩して田畑にしてしまった事例は決して少なくないからだ。結果的に「小塚」となったそれらの残滓は、明治以降に宅地や道路建設などであっさりと消滅している。
前谷戸1921.jpg
諏訪塚跡2.JPG
諏訪塚1947.jpg
 下落合の伝承によれば、明治期のことだろうか自性院Click!の西側から古墳の羨道や玄室が見つかったといういわれを聞いている。やはり、葛ヶ谷の谷戸で湧いた小川が流れ、江戸期には千川分水(落合分水Click!)が開通する谷間を見下ろすよなロケーションだ。同じような塚状の正円突起は1925年(大正14)現在、安藤対馬守屋敷跡の北側にも採取されている。池袋の丸池へと注ぐ小川を見下ろすような位置に描かれているのは、もちろん本来は小規模な墳丘が連なっていたとみられる「狐塚」Click!の残滓だ。

◆写真上:正円状の塚があった、諏訪谷北側の丘上にあたる下落合622~625番地界隈。
◆写真中上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる諏訪谷の塚。は、1925年(大正14)作成の同図にみる諏訪谷の塚で、一部を崩して池が造られているのがわかる。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる同塚の位置で、宅地開発のために道筋が変更されている最中の様子。
◆写真中下上左は、1968年(昭和43)に日動画廊出発部から発行された「絵」11月号。上右は、旧・中村彝Click!アトリエで制作する鈴木誠。(提供:鈴木照子様) は、1925年(大正14)の1/10,000地形図に描かれた大塚浅間塚古墳(落合富士)と、同じく昭和初期に撮影された大塚浅間塚古墳(落合富士)。は、1925年作成の同図にみられる不動谷(西ノ谷)西側の丘上に採取された正円状の塚。
◆写真下は、1921年(大正10)作成の同図に採取された前谷戸を見下ろす正円状の塚。は、諏訪谷北側の下落合622・625番地に大正末まであったとみられる塚の想定図。は、1947年(昭和22)の焼け跡空中写真に描き入れた塚の想定位置と旧道筋。


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神田川で泳げる日はいつごろか? [気になる神田川]

神田川1.JPG
 明治時代に、神田上水Click!(現・神田川)で釣りをしていて捕まった男の記録が残っている。1876年(明治9)7月11日の新聞記事なので、おそらく前日の出来事だろう。関口台町で釣りをしていた男が、水道番に現行犯で検挙され罰金刑に処せられている。おそらく大洗堰Click!の上流か、あるいは大洗堰手前から分岐した小日向までつづく開渠Click!で釣りをしていて見つかったのだろう。また、1877年(明治10)7月2日には、上流の中野村を流れる神田上水で泳いでいた子どもがふたり捕まり、同じく罰金を払わされている。これらは一例にすぎず、当時は神田上水流域のあちこちで同様の事件が発生していたのだろう。
 1899年(明治32)に淀橋浄水場Click!が竣工し、2年後の1901年(明治34)まで神田上水は東京市街地へ水道管Click!で生活水を供給する上水道として使われており、江戸期の御留川Click!のままだったのだ。だから、神田上水でゴミを棄てたり釣りをすることはもちろん、水泳も全面的に禁止されていたのは江戸期とまったく変わらなかった。流域のあちこちにあった水道番屋(警備所)が、明治期にもそのまま機能していた様子がうかがえる。
 旧・神田上水沿いや、大洗堰(現・大滝橋あたり)から下流の江戸川Click!沿いに住んだ人々の証言を掘り起こしていると、明治末から昭和初期にかけて、水泳を含む川遊びが盛んだったことがわかる。子どもたちは、流れがよどんで少し深くなった淵で泳ぎを楽しみ、大人たちは川に舟を浮かべては花見や夕涼み、月見Click!、雪見、ホタル狩りClick!をしたり、アユやフナ、タナゴ、コイ、ヨシノボリ、ウナギなど釣っては楽しんでいた。
 1993年(平成5)8月から1994年(平成6)5月にかけ、朝日新聞東京版にはルポ「神田川」が120回にわたって連載されている。当時は、1970年代から80年代にかけて汚染のピークだった神田川(旧・神田上水と江戸川を1966年に名称統一)の状況を引きずっており、神田川の水質は現状からは想像できないほど、いまだにひどい状態だった。川に近づくだけで、まるでドブ(下水)のような生臭い悪臭が鼻をついた時代だ。当時の水質について、ルポ「神田川」で証言しているダイワ工業の平根健という方の文章から引用してみよう。
  
 [落合処理場] アンモニア性の窒素(八・〇-一一・六ppm)とリンは高すぎて魚の住める環境ではなく、ヘドロの大量発生を促す水質でもある。/[高戸橋] 落合処理場の影響を受けてアンモニア性の窒素が最大八・六ppmと魚の住めない状態。総窒素も高すぎ、藻類の異常発生を促している。その結果、海水の遡上する飯田橋付近ではヘドロとして滞留し、一部はスカム(浮上汚泥)として悪臭を放っている。(中略) [提言] 落合処理場からの放流水は、中、下流の水量の九割をも占めるため、神田川に清流を取り戻すためには、その処理水の改善が第一とせねばならない。ここの処理水は、窒素やリンを取り除く処理がないために、下流部で大量のヘドロの生成原因となっており、排水出口としての東京湾の水質も、富栄養化によって、ますます悪化することが懸念される。
  
神田川水遊び(昭和初期).jpg
落合水再生センター排水口.JPG
 記事中にもあるとおり、東京都水道局が建設した落合下水処理場(現・落合水再生センター)の処理水が、神田川の水質を大きく左右していたわけだが、下水道を普及させ生活排水の流入を完全に食いとめるのも、大きな課題だっただろう。当時、目標とされていたのは、せめて「鯉が棲める水質」だった。
 浄水の過程で薬物を添加せず、生物が棲息できる水質改善技術はここ数十年で飛躍的に向上し、落合水再処理センターから排出される水は「金魚が棲める水質」にまで改善されたと聞いている。その成果は、アユの遡上やギンヤンマなどトンボのヤゴ復活となって如実に表れている。文中にある高戸橋は、アユの棲息が多く確認されている場所だ。水質が格段に清浄化したことで、染め物の水洗いClick!や子どもたちの川遊びClick!が一部で復活していることは、以前の記事でもご紹介している。
 ルポ「神田川」には、川沿いで子ども時代をすごした人たちが、1990年代初頭の神田川を訪れてガッカリする様子や、子どものころ清廉な神田川で遊んだ思い出を回想する記事が数多く掲載されている。下落合の南側、上戸塚(現・高田馬場3丁目)に住み静岡県伊東市へと転居した、平野吉三郎(74)という方の思い出を少し長いが引用してみよう。
  
 五十年ぶりに懐かしの故郷、高田馬場駅に降り立った。幼い頃、兄や友達と兵隊ごっこをして遊んだ山や川、戸塚ヶ原(ママ:戸山ヶ原)練兵場は昔日の面影なく、住宅やビルの密集で変わり果てていた。/神田川。きれいな川だった。私の母校、戸塚第三小学校の校歌に「神田の流れ、水清らかに、富士は野末に真白くそびゆ」という一節があったが、この歌の通りの川だった。川底もほとんどが石。宮田橋の上流の浅瀬には馬の蹄のような模様があり、あれは昔、太田道灌が水馬をした時のものだ、と古老が教えてくれた。真偽はともかく、そのくらい、川底がはっきり見えた。/昭和初期ころには、鯉がたくさんおり、父がリーダーとなって、町内のおじさんたち十数人と漁もした。みんな越中ふんどし一本となって胸の辺りまでくる水に入り、岸から岸へと大きな網を張る。当時で川幅四メートルから五メートル。(中略) 四、五〇センチの真鯉、緋鯉がざくざく捕まり、網の中で勢いよく跳ね上がる。私たち子供は、水泳の飛び込み台にしていた大きな岩の上から眺めて、ワァーワァー拍手喝さいを送ったものだ。(カッコ内引用者註)
  
江戸川大曲(明治末).jpg
神田川2.JPG
神田川3.JPG
 昔もいまも、40~50cmぐらいのコイが悠然と泳いでいるのは、神田川の変らない風情のようだ。また、子どもたちが「飛び込み台」にしていた大岩が、昭和初期まで下落合と上戸塚の流域に残っていた様子がうかがえる。この岩が、江戸期に「一枚岩」Click!と呼ばれた大岩の残滓なのかもしれない。
 また、下落合氷川明神社Click!の近くで大正末に生れ、記事の当時は練馬区に住んでいた高田源一郎(67)という方の証言を聞いてみよう。もちろん、当時の神田川は現在の流れではなく、氷川社の南東で大きく北へとカーブしていた、整流化工事以前の風情だったのだろう。田島橋Click!も現在地ではなく、10mほど下流に架かっていた時代だ。
  
 JR高田馬場駅に近い、氷川神社の前辺りで大正十五年に生まれ、四十年近く住みました。すぐそばを流れていた神田川は、子供のころ、現在のような護岸構造もなく、両側は土手で、どんよりとした流れの川でした。増水による被害が多く、私が四歳の時に死んだ父も、消防の組頭として治水に尽力した、とよく母に聞かされました。/小学生のころ、母と一緒に橋の上を通りかかった時、川の中で働いている染物職人を見て、母が言った言葉が忘れられません。それは「こんな川でも、染め物の水洗いには、大変、よく合う水なんだよ。人間だって何か一つ、取り柄があれば世間様に通用する。学校の成績だって一つでも得意なものがあればいい」/それまで暗い印象で、ややもすると嫌いな川でしたが、この言葉で、子供心に何か愛着がわくような気がしたのを覚えています。
  
 さて、そろそろ神田川で泳ぐことはできないだろうか? それには、いまの晴天時のふくらはぎまでの水深では足りず、また流れの速さ=水圧では子どもが流されかねないので危険だろう。ある程度の水深が必要なのと、流れを緩める、あるいはよどませる仕組みが不可欠なのだが、その方法はすでに戦前に確立されている。隅田川をはじめ、全国各地の河川に設置された水練場Click!の構造だ。川岸に水を引きこむ囲いを造り、流れの影響を直接受けないようにして1~1.5mほどの水深を確保する、おもに夏季だけの臨時施設だ。
水洗い1938.jpg
神田川4.jpg
神田川5.JPG
 戦前の水練場は網や浮き、杭、板などを使い川岸に囲いを造っただけで、生簀状のかなり原始的な構造だったようだが、現在ならもっと効率的に安全な機材で工夫ができる。川の増水時でも、容易に流されない基礎造りを含め、都会の子どもたちが楽しめる親水施設はかなり魅力的だろう。せっかく川のそばで生まれ育っても、一度も泳いだことがない子どもの寂しい記憶を、これから少しは減らせるのではないだろうか。文字どおり「神田川で産湯をつかい」が、単なる夢物語ではない時代になってきたように思うのだ。

◆写真上:わたしの学生時代に比べ、信じられないほど清浄化された神田川。
◆写真中上は、昭和初期に早稲田界隈で撮影された旧・神田上水(神田川)で水遊びを楽しむ子どもたち。は、落合水再生センターの神田川排水口。
◆写真中下は、明治末に撮影された江戸川(現・神田川)の大曲付近で、花見用に臨時の桟敷席が川へ張りだして設置されている。は、神田川両岸に植えられたサクラ並木の開花期には世界じゅうから花見客が訪れる。は、神田川の川底に露出するシルト(東京層)Click!にとまるシラサギで、このところ野鳥の数や種類が飛躍的に増えている。
◆写真下は、1938年(昭和13)撮影の神田川支流の妙正寺川で行われていた染め物の水洗い。は、千代田城の外濠を兼ねた神田川の中央線・御茶ノ水駅下の流れ。は、渇水時でも流れが急な山手線・神田川鉄橋Click!の真下。この付近の流れは危険で、子ども用の“水練場”の設置には向かないだろう。


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昭和初期に急増した上落合の飲食店。 [気になる神田川]

小滝橋交差点.JPG
 落合地域と下戸塚(現・高田馬場3~4丁目)、戸山ヶ原Click!(現・百人町4丁目)、柏木地域(現・北新宿4丁目)、そして中野地域(現・東中野4丁目)と、数多くの地域が落ち合う地点に、神田川の小滝橋交差点がある。現在は大型スーパーやドラッグストア、AVチェーン店など大型店が進出し、周辺の商業拠点になっている交差点だが、大正末から昭和初期にかけても同交差点を中心に、商店街が四方へ伸びていっている。
 同交差点へ行かれた方はご存じだろうが、上落合や東中野側からは早稲田通り、山手線・高田馬場駅方面からも早稲田通り、戸山・大久保方面からは諏訪通り、柏木・百人町(現・新宿)方面からは小滝橋通り、そして少しズレてはいるが下落合方面からはバス通りとなっている聖母坂Click!筋(補助45号線Click!)の通りが合流し、付近を貫通する大通りの期せずして集合場所になっている。ちなみに、いまだ計画が廃止になっていない補助73号線Click!は、高田馬場3丁目の住宅街を斜めにつぶして、小滝橋のすぐ手前の早稲田通りへと貫通・合流する予定になっている。
 小滝橋は、交通の要所のせいか、関東乗合自動車Click!(現・関東バス)の営業所や車庫も1932年(昭和7)に開設され、現在も都バスの車庫・営業所として運営されている。大阪から出てきた作詞家の喜多條忠が、クルマで小滝橋近くを通りかかったとき、学生時代の懐かしい情景を想い出しながら作詞したのが『神田川』Click!だというのを、新聞記事かなにかで読んだ記憶がある。
 大正期の中ごろまで、旧・神田上水に架かる小滝橋は木造だったが、大正末ごろに石造りの橋に架け替えられ、上をクルマやバスが通れるようになった。新たな小滝橋の位置も、江戸期からの橋の位置からはやや西にズレて設置されているようだ。大正末ごろ、わたりの季節になると小滝橋周辺にはカモやシラサギの群れが飛来して、旧・神田上水に近い小滝台Click!周辺に羽を休めていたらしい。その様子を、1983年(昭和58)に発行された冊子『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)所収の、「トリの話」から引用してみよう。
  
 小滝(華洲園の東方にある低地)に永井さんと言う大きなお屋敷があった。この屋敷のなかを神田川が流れていた。秋になるとこの屋敷の川辺に沢山の鴨が下りた。この鴨は大変利口でなかなか庭から外に出て来ませんでした。たまに出て来るとズドンとやられるからである。白鷺は神田川・妙正寺川添(ママ)にあったタンボに沢山下りていた。全く良き田園風景そのものであった。
  
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 いまでこそ、神田川や妙正寺川沿いではカモやシラサギ、セキレイなどはめずらしくなくなったけれど、わたしが学生時代には水鳥などめったに見かけず、夕方になると橋下に営巣するアブラコウモリたちが飛びまわるぐらいだった。
 小滝橋周辺に限らず、農家では鶏卵を採るためにニワトリをたくさん飼育しており、夜中にコケコッコーと鳴くと、住民は就寝中でも急いで起きだして、ニワトリが鳴きやむまで箕(み)を団扇がわりにパタパタ扇ぎつづけたという。夜中にニワトリが鳴くと「火を呼ぶ」という、東京郊外の古い迷信からきているものだ。上落合では、中小の工場が建ちはじめ、特に火事が多かった川沿いの前田地区Click!を抱えていたので、付近の農家はよけいに敏感になっていたのだろう。ちなみに、下落合では1980年代までニワトリの鳴き声が聞こえていたが、夜中に鳴くのはクルマのヘッドライトに反応していたからだ。
 古くから交通の要所だった小滝橋には、早くから企業や施設、商店などが開店していた。関東バスの車庫・営業所のほか、当時は切通しの道だった小滝橋通りを新宿方面に歩くと、柏木985番地のゲルンジーミルクプラントClick!や同1279番地の豊多摩病院Click!があり、高田馬場駅へ向かう下戸塚の早稲田通り沿いには、野菜を市街地の市場へ運ぶ近郊農民を相手の、あるいは付近の商店や工場の従業員相手の、茶店や飯屋「橋本や」などが店開きしている。
 また、上落合側の早稲田通り沿いは、大正末ごろまで両側は田畑のままが多く、南西を見ると日本閣(鈴木屋)Click!の建物が、北東を見ると下落合の駅舎までが見通せたらしい。このころの店舗というと、豆腐屋や酒屋、日用雑貨屋などがポツンポツンとできはじめたが、いまだ商店街を形成するほどではなかった。
東京府中野授産場1933.jpg
柏木駅.jpg
都バス車庫整備場.JPG
 再び、『昔ばなし』所収の「小滝橋附近」から引用してみよう。
  
 関東大震災後に次第に発展し、昭和の初め頃には、早稲田通りの両側は立派な商店街になりました。勿論小滝橋も石の橋になり、名物の「橋本や」さんは姿を消してしまいました。商店街の中には「ミルクホール」と呼ばれるお店があり「コーヒー」や「ミルク」や「ライスカレー」などを売って居りましたし、「落合亭」という「カフエー」もあり、夕方になるとお店の前に水をまいて、若い女の人がきれいになって、(着物姿に白いリボンのついたエプロンを着ていた)店先に立って、お客を呼んでいました。/八幡さまの前の道は「八幡通り」と言って商店が軒を並べて居り、「郵便局」や「マーケット」がありました。早稲田通りは昭和の初め頃、今の関東バス側が拡がりました。丁度、家一軒分位が道路となったわけです。道が拡がっても商店が並んで居りましたが、都バスの車庫が出来るようになってから、次第に商店の姿が消えてしまいました。
  
 東京郊外への人口流入に比例し、早稲田通り沿いには市街地から喫茶店やバーなど流行りの店舗が進出している。このころになると、川沿いの工場からの排水や住宅からの生活排水で旧・神田上水の水質は濁り、魚や沢ガニが採れにくくなっている。小滝台の周辺に飛来していた、シラサギやカモの姿もめっきり減ったのだろう。
 上落合の子どもたちは、いまだ自然が多く残っていた小滝台に拡がる華洲園Click!の雑木林に出かけ、小枝に鳥もちを塗ってメジロやウグイスなどをよく捕まえたそうだ。もちろん、鳥商人に売ったり鳥籠に入れて自家で飼うためだが、樹木のてっぺん近くで鳴くモズは、そこまで鳥もちを塗りに登れないので採れなかった。小島善太郎Click!が飼っていたホオジロClick!も、そのようにして捕まえたものなのかもしれない。そういえば、「ホオジロを捕まえると火事になる」というジンクスも、東京郊外には語り継がれていた。
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 大正末から昭和初期にかけ、小滝橋とその周辺域は“激変”と呼んでも差しつかえないほどの、急激な変化にみまわれている。濱田煕Click!が描いた、1938年(昭和13)ごろの小滝橋交差点のイラストは、商店がギッシリと通り沿いに建ち並び、もはや田畑などどこにも存在しない。わたしが学生時代に見た、高層建築があまりなく銭湯の煙突ばかりが目立っていた小滝橋の情景も、このイラストに近いものだった。『神田川』の喜多條忠が学生時代をすごしたころは、もっとイラストに近い風情ではなかったろうか。

◆写真上:上落合側から見た、早稲田通りに架かる小滝橋の橋柱。
◆写真中上は、大正中期までの木造小滝橋でたもとに茶店が描かれている。(『昔ばなし』の挿画より) は、1933年(昭和8)に撮影された石造りの小滝橋。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された旧・神田上水沿いの小滝にあった東京府中野授産場。は、大正初期に撮影された小滝橋からほど近い中央線・柏木駅(のち東中野駅)。小島善太郎が踏切番のバイトClick!をしていたとみられる当時の駅舎で、現在の東中野駅の位置とは異なり柏木地域(現・北新宿)寄りに建っていた。は、営業所や整備場、乗員宿舎も備えた都バスの小滝橋車庫。
◆写真下は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる小滝橋()と、1930年(昭和5)の同地図にみる小滝橋()で、急速に市街地化していく様子がわかる。は、濱田煕が1938年(昭和13)ごろを想定して描いた小滝橋交差点で戸山ヶ原の西端が見える小滝橋通り。は、下落合の丘陵が見える小滝橋から上落合方面の早稲田通り。目白崖線が実際より高めの印象で描かれているのは、当時の下落合は樹林が密だったため実際の標高よりも高く見えたものだろう。


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大正期からの神高橋はなぜ斜め? [気になる神田川]

神高橋1.JPG
 学生時代から下落合方面への帰路Click!、あるいは仕事の帰り道Click!で帰宅するために、神田川Click!に架かるあちこちの橋をわたってきた。その中で、おそらくわたった回数が多くとても印象的だが、現在では当時の橋桁が丸ごと存在せず、南詰めの位置が下流へ10mほどズレてしまった橋がある。高田馬場駅のすぐ北東側、山手線や西武新宿線の神田川鉄橋Click!と並んで架かる神高橋Click!だ。
 早稲田通りを明治通り方面から、山手線・高田馬場駅前の広場に差しかかり神田川をわたろうとすると、1990年代まで東映の映画館が入っていた稲門ビルの角を右折して北上しなければならない。ほどなく、100mほどで神高橋をわたることになるのだが、昔はこの橋を利用すると距離的にちょっと損した気分になった。西側の下落合へと抜けるには、橋をわたるとほんの少し東側へ逆もどりすることになるからだ。つまり、神高橋は西から東へ向けて、神田川の上へ斜(はす)に架かっていた。
 高田馬場駅から北上したクルマも人も、そのまま直進すると神田川の護岸コンクリート壁に衝突してしまうことになる。神高橋をわたるためには橋の手前、南詰めにあった小さな児童遊園(現・戸塚地域センター)の前で西へ左折し、すぐにハンドルを右に大きく切って神高橋へ侵入しなければならなかった。歩行者は、橋上に歩道がなかったため、急に背後から橋上へ侵入してくるクルマに注意しなければならず、夜間は街灯もなかったのでクルマと橋桁の間に挟まれないよう注意しなければならなかった。
 また、橋桁自体も人がわたるような風情に造られておらず、まるで電車の鉄橋のような、太い鉄骨とそれをとめる大きな鋲がむき出しのままの仕様だった。しかも、橋全体が濃い緑色に塗られており、ますます鉄道の鉄橋を思わせる趣きだった。橋をわたり終えると、角に自転車屋さんのある道路へと出て、そのまま十三間通りClick!(新目白通り)へと抜けられるのだが、ふり返ると神高橋が斜めに架かっているため、東へ10mほどあともどりしたようで、なんとなく損をした感じを受けるのだ。
 神高橋が、なぜ斜めに架けられていたのか、昔の地図や地籍図をたどれるだけたどって調べてみた。1885年(明治18)に日本鉄道によって品川・赤羽線Click!(現・山手線の一部)が敷設されると、神田上水を渡河する鉄橋が架橋されている。もちろん、当時の神田上水(1966年より神田川)は直線状に整流化されておらず、あちこちで大きく蛇行を繰り返す、江戸期からの川筋のままだった。1935年(昭和10)ごろからスタートした、旧・神田上水の蛇行を修正する整流化工事を実施する際、この山手線が通過する明治期のレンガ造りの鉄橋がひとつの“基準”となっている。つまり、旧・神田上水を直線化するために鉄橋を別の場所へ移動するわけにはいかないので、この鉄橋下を流れる川筋が、計画当初から工事後も変わらぬ川筋として想定されていたわけだ。
地籍図1915.jpg 神高橋1918.jpg
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 もうひとつ、1927年(昭和2)に開業した西武電鉄Click!も、翌1928年(昭和3)の省線・高田馬場駅への乗り入れ工事Click!の際は、山手線の鉄橋に近接してすぐ東側の旧・神田上水上へ鉄橋を架けている。このふたつの鉄橋位置を“基準”として、川筋の直線化・整流化工事の図面が引かれていることになる。だから、必然的に当時は西武線鉄橋の10mほど東側に、斜めに架けられていた神高橋もまた、架橋当時からその位置を変えていなかったことになる。昭和初期に整流化工事を終えた、現在の神田川をわたる橋で、橋名は同一でも当初から同じ位置に架かり、場所を移動していない橋の数はそう多くはない。
 なぜ、長々と山手線や西武線の鉄橋について触れたかというと、わたしが学生時代に目にしていた神高橋は、架橋当初から変わらず同じ位置へ斜めに架けられていたのであり、ある時期になんらかの事情で斜めになったのではない……ということなのだ。その要因は、大正期の道路事情によるものだが、もっと古い時代までたどるなら、すなわち山手線が走りはじめた明治期ぐらいまで時代をさかのぼると、戸塚村側(現・高田馬場2丁目)と高田村側(現・高田3丁目)に拡がっていた田畑の間をぬう畦道あるいは用水路の跡が、川を挟み南北で食いちがっていた……という点にまで帰着する。
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 1915年(大正4)に作成された戸塚村地籍図を見ると、すでに田畑はつぶされて空き地(草原)となっており、一帯は「鉄道用地」あるいは「軌道用地」となっている。おそらく、鉄道省の敷地だが、旧・畦道だったと思われる戸塚村25番地の道路の先に、いまだ神高橋は架かっていない。また、同時期の高田村側、つまり川の北側は水田のままであり、耕地整理はなされていなかった。つづいて、3年後の1918年(大正7)の1/10,000地形図を見ると、神高橋あたりに臨時で設営されたとみられる仮橋のような記号が見えている。これは、実際にプレ神高橋の仮橋があったのか、あるいは神高橋の架橋工事がスタートしており、なんらかの構造物があるのを示す記号かは不明だが、高田町側を見ると水田が拡がるだけで、いまだ道路は敷設されていない。
 さらに4年後、1922年(大正11)の1/3,000地形図には、すでに後世の神高橋と同じ位置へ斜めに架橋されているのがわかる。つまり、神高橋が建設されたのは、1918年(大正6)から数年の間にかけてということになる。この時期になると、北側の高田村の水田も耕地整理が終わって埋め立てられ、もともと畦道だったと思われる道筋が拡幅され、市街用の道路へと敷設し直されているのがわかる。しかし、この北側から川へ向けて南下する道路と、南の早稲田通りから川へ向けて北上する道路とは、10m余にわたりズレていたのが歴然としている。そのズレを修正するために、早稲田通りから北上する道路の先を、東側へ向けてやや折り曲げ、さらに神高橋を斜めに架けざるをえなかった……という経緯だ。
 大正の架橋時から戦後まで、早稲田通りから北上する神高橋と道路はそのままだったが、1960年代後半にはじまる高田馬場駅前の再開発で、旧来の北上する道路は途中でふさがれ、道幅の広い新たな道路が東側へ敷設されたため、その道路筋から眺めた神高橋がおかしな位置になってしまった。つまり、新しい道路をまっすぐに北上すると、神田川の護岸壁に衝突してしまうので、道路の先を旧道とは逆に、今度は西側へ向けて屈曲させざるをえなくなったのだ。こうして、わたしが学生時代から経験した、なんとなく東へ逆もどりして損をした気分になる神高橋の時代がはじまった。
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 現在の神高橋は、2000年前後に行われた架け替え工事で直線化され、80年間もつづいた斜めの神高橋は取り払われた。十三間通りへと抜ける高田側の道路も拡幅され、旧・神高橋の南詰めにあった児童遊園は廃止されて戸塚地域センターとなった。神高橋はわたりやすくなったのだが、「ヘンテコリンな橋だな」と思いながらわたっていた学生時代の神高橋が、妙に懐かしい。

◆写真上:橋の南詰めが10mほど東寄りになり、直線化された神高橋の現状。
◆写真中上上左は、1915年(大正4)の戸塚村地籍図にみる戸塚村向原25番地界隈。上右は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる同位置。神高橋の位置に、仮橋あるいは工事中のような記号が描かれている。は、1922年(大正11)の1/3,000地形図に描かれた神高橋。高田村側から南下する道路と繋げるため、戸塚側の道路を東に折り曲げ神高橋を斜めに架けた様子がよくわかる。は、昭和初期に作成された同1/3,000地形図の修正図。すでに西武線が敷設され、2本の鉄橋と神高橋の位置関係がよくわかる。
◆写真中下は、敗戦直後の1947年(昭和22)に撮影された神高橋。下左は、わたしが初めて下落合を散策したときにわたった1974年(昭和49)撮影の空中写真にみる神高橋。下右は、2001年(平成13)に制作された「江戸東京重ね地図」(エーピーピーカンパニー)の神高橋。すでに橋の架け替え工事がスタートしており、神高橋の下流側(東側)に直線状の細い仮橋が架けられているのがわかる。
◆写真下は、1976年(昭和51)に撮影された神高橋。は、高田側から戸塚側の高田馬場駅方面を眺めたもので、早稲田通りから北上する道路は神田川護岸壁にぶつかり直進できなかった。は、神高橋の真下から眺めた高塚橋。


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上戸塚にも「バッケが原」があった。 [気になる神田川]

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 濱田煕Click!が、戸塚町上戸塚(現・高田馬場)や戸山ヶ原Click!の周辺を描いたのは、おもに早稲田中学へ通っていたころのようだ。スケッチブックを片手に、自宅近くに拡がる風景を描いていたのは、東京美術学校Click!への進学をめざしていたからだろう。同中学を終えると、濱田は希望どおり東京美術学校へと入学している。
 以下、1988年(昭和63)に出版された濱田煕『記録画・戸山ヶ原』(光芸出版)の「まえがき」から、近所の記録画を残す経緯について引用してみよう。
  
 故郷がどんどん破壊されつつある今日此の頃である。東京で生まれ東京で育った私には“兎追いし彼の川”(ママ)で表現されるような故郷はない。しかし幼児期から少年期を過した所を故郷とするならば、まさしく戸山ヶ原が故郷の風物ということになるだろう。イナゴ追いし彼の原なのだ。/新宿区高田馬場、当時の淀橋区戸塚町に住んでいたのは、大正11年(1922)豊多摩郡上戸塚町で生まれてから昭和43年(1968)まで約48年間である。昭和5年秋から7年夏までの2年間、現在の銀座二丁目で育った以外は戸山ヶ原の傍を離れることなく過して来た。昭和7年再び戸塚町に戻って来た時、父は当時の戸塚町四-791に仮寓した。戸山ヶ原の目の前である。その後戦争をはさんで何度か住いは変ったが、200mと原から離れることは無かった。/これら一連の水彩は、主に中学時代にスケッチして記憶に残っている戸山ヶ原を、思い出しながら再現したものである。原画は昭和20年5月25日の空襲で焼失してしまったので15年位前から思い出す毎に描いてみたものである。
  
 濱田煕は、美校を卒業すると大手の自動車メーカーやデザイン会社へ勤め、その後フリーの工業デザイナーかイラストレーター、あるいは油彩・水彩画家となっている。
 濱田の『記録画・戸山ヶ原』には、ところどころに昭和初期を回想した気になる記述がみられる。上戸塚の「バッケが原」も、そんな気になるテーマのひとつだ。これまで、目白崖線沿いの下落合4丁目(現・中井2丁目)の前に拡がる大正期のバッケが原Click!、妙正寺川に築かれたバッケが原のバッケ堰Click!、上落合地域へ宅地化の波が押し寄せると田畑をつぶして耕地整理が行われた、目白崖線西側の上高田に拡がるバッケが原Click!についてご紹介してきた。また、戸塚町側では下戸塚(字)源兵衛Click!の急斜面下にふられ、昭和初期まで残っていた小字、バッケ下Click!もご紹介している。
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 落合地域や戸塚地域(現・高田馬場・早稲田地域)、あるいは高田地域(現・目白地域)の界隈で、川沿いの崖地や急斜面のある地形およびその近くの風情、そして地表近くに水脈があり湧水が噴出するような場所を、「バッケ」Click!と呼称していた昔日の様子がうかがえる。そのような斜面に通う坂道のことを通称バッケ坂Click!と呼び、バッケの意味が通じにくくなった明治以降、バッケ坂は「オバケ坂」や「幽霊坂」に転化し、坂名に見あうもっともらしい逸話が付会されていそうなことにも触れてきた。
 そのバッケの名称が、現在の下落合の南、早稲田通りのさらに南側の上戸塚にも、戦前まで存在していたことが判明した。バッケが原と呼ばれていた原っぱは、戸塚町3丁目892~896番地(現・高田馬場4丁目)あたりの戸山ヶ原にほど近い敷地だ。昭和初期の地番表記でいうと、戸塚町(大字)上戸塚(字)稲荷前892~896番地界隈ということになる。高田馬場駅から南西へ200mほど歩いたところ、現在のコーシャハイム高田馬場の集合住宅が3棟並ぶ、もともとは戸山ヶ原へと抜ける丘の崖地ないしは急斜面だった一帯だ。
 上戸塚に展開していたバッケが原の様子を、同書から引用してみよう。
  
 緑色の部分が戸山ヶ原で、軍の用地であったが一般の人が自由に出入りしていた。科学研究所や射撃場は軍の管理下であった。戸塚三丁目内の緑地は当時バッケが原といわれ、樹木の茂った崖下の小さな原ッパであった。
  
 著者は「崖下の小さな原ッパ」と書いているが、これは著者がそう呼んでいた少年時代の姿であり、より古い時代にはもっと範囲が拡がっていたかもしれない。
 関東大震災Click!以降、東京市近郊へ宅地化の波が押し寄せてくると、戸塚町に残っていた農地や草原、森林は急速に消滅していった。上落合も宅地化が進んだのは同様だが、大正期の妙正寺川沿いに拡がるバッケが原は範囲を縮小せず、昭和に入り田畑をつぶして耕地整理が進められ、一面に草原が拡がっていた上高田のある西側へと“移動”していったと思われる。だが、上戸塚のバッケが原は周囲を住宅に囲まれつづけ、徐々にその範囲が狭められていったのではないだろうか。
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 濱田煕は、残念ながら上戸塚のバッケが原風景を作品に残していないようなのだが、この北側へと下る斜面のはるか下に流れているのは、旧・神田上水(1966年より神田川)だった。上戸塚のバッケが原は、戸山ヶ原へと抜ける南の丘の崖地北側に拡がっていたことになるが、この斜面を北へ下るともう1段、早稲田通りの北側へ急激に落ちこむ険しい崖地Click!がある。つまり、旧・神田上水側から南を眺めると、遠くひな壇状に見えたであろう1段目と2段目の崖地の間に、上戸塚のバッケが原が拡がっていたことになる。この地名(地形)呼称は、ちょっと重要だ。
 従来、「バッケが原」「バッケ下」「バッケ坂」などの名称は、河川によって削られた崖地そのもの、あるいは河川沿いの崖地付近にふられた地名(地形名)として呼称されていた……と解釈してきた。実際にバッケの地名が残る一帯は、そのような地形や風情をしているのだが、戸塚町上戸塚のケースを見ると川からかなり離れた場所、すなわち“内陸部”でもバッケと呼称されたであろう地名があったことがうかがわれる。実際に、上戸塚のバッケが原は旧・神田上水から南へ300m以上も離れており、川沿いの地名として解釈するには明らかに遠すぎて無理があるのだ。
 すなわち、「バッケ〇〇」とはいちがいに川沿いの地名(地形呼称)とは限らず、かなり河川から離れた“内陸部”でも存在する可能性がある地名ということになる。その意味する共通項は、「水脈が地表近くまで迫り湧水源のある崖地または急斜面」ということになるだろうか。いままでは、おもに河川沿いでバッケの地名Click!を探してきたのだが、河川から遠い崖地や急斜面でも上記の条件を満たしている風情であれば、江戸東京地方ではバッケと呼称していた可能性が高いことがわかる。バッケ=河川沿いの地名(地形)……という先入観は、どうやら棄てたほうがよさそうなのだ。
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濱田煕「戸山ヶ原」表紙.jpg 濱田煕「戸山ヶ原」扉.jpg
 濱田煕が描いた作品の多くは、新宿歴史博物館に収蔵されているようだが、その画面には上戸塚側から下落合を眺めた作品も少なくない。ぜひ現物の画面を見てみたいものだが、また機会があれば、下落合を望んだ何点かの作品をご紹介したいと考えている。

◆写真上:戸塚町3丁目(現・高田馬場4丁目)の、バッケが原と呼ばれた斜面の現状。崖地をひな壇状に整地したようで、集合住宅の高さが3棟とも異なっている。
◆写真中上は、濱田煕『記録画・戸山ヶ原』(光芸出版)掲載のマップに描かれたバッケが原。は、1936年(昭和11)の空中写真に見る同原。このとき、バッケが原は住宅に囲まれて縮小し、大正期とは比べものにならないほど狭くなっていただろう。
◆写真中下は、早稲田通りへの急坂が通う崖地だったあたり。は、1944年(昭和19)の空襲直前に撮影された空中写真にみるバッケが原。
◆写真下は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる住宅街が押し寄せる以前のバッケが原界隈。は、濱田煕『記録画・戸山ヶ原』の表紙()と扉()。


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