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感応寺の「裏」側の秘密。(上) [気になる神田川]

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 目白通りの北側、下落合の北端と接するように建てられていた、安藤対馬守下屋敷Click!(寛政年間の呼称で、のち感応寺Click!境内)の北側(裏側)にあった字名にも残る「狐塚」Click!と、その周辺に展開する古墳群とみられるサークルについて書いたことがある。池袋駅西口から徒歩5分ほどの立地にもかかわらず、大正末から昭和初期の郊外開発ブームでも、また戦後もしばらくたった住宅不足の時代でも宅地化が進まず、草原のまま放置されていた南北の細長いエリアだ。その一部は上屋敷公園となって、現在でも住宅が建設されてない。
 ちょうど、狐塚に連なる古墳とみられるいくつかのフォルムは、雑司ヶ谷村と池袋村の境界にあたる位置で、金子直德が寛政年間に書きしるした『和佳場の小図絵』の記述とも重なる事蹟だ。だが、金子の記述にはもうひとつ、長崎村との境界にある「塚」の記述も登場していた。つまり、池袋村と雑司ヶ谷村の間にある記述は「池袋狐塚古墳群(仮)」でいいのかもしれないが、それでは長崎村が除外されてしまう……という課題だ。当該箇所を金子直德の原文から、そのまま引用してみよう。
  
 同屋敷(安藤対馬守下屋敷)後ろ(千代田城から見たうしろ側=北側)中程に鼠塚、又はわり塚共狐塚共云。雑司ヶ谷と池袋長崎の堺と云。(カッコ内引用者註)
  
 「鼠塚」「狐塚」「わり(割)塚」(割塚は全国に展開する、古墳を崩して道路や田畑を拓いた一般名称)が、それぞれ別個のものを指すのか、同一のものの別称なのかは曖昧だが、塚の規模やかたちを想定するなら、それぞれ別々の塚名と考えても不自然ではないことは前回の記事で書いたとおりだ。また、この文章では「雑司ヶ谷村と池袋村と長崎村」の3村境界にある塚ではなく、「雑司ヶ谷村と池袋村」および「雑司ヶ谷村と長崎村」の境界にある塚群……というような意味にも解釈できることに気づく。
 つまり、前回の記事では、戦後まで「狐塚」の残滓がそのまま存在していた、雑司ヶ谷村と池袋村(字狐塚)の境界一帯に注目していたけれど、長崎村側に近い境界は細かく観察してこなかった。そこで、さまざまな時代の空中写真を仔細に調べてみると、先の「池袋狐塚古墳群(仮)」よりも規模が大きなサークル群を、雑司ヶ谷村と長崎村(一部は池袋村にもかかる)の境界に見つけた。
 しかも、その一部は安藤対馬守下屋敷(幕末の感応寺境内)北辺の敷地に一部が喰いこんでおり、狐塚周辺で確認できるサークルよりもかなり規模が大きい。おそらく、安藤対馬守(それ以前に安藤家は但馬守Click!を受領)の下屋敷建設のとき、さらには感応寺の伽藍建立の時期に、大規模な墳丘がならされ(下屋敷地整備あるいは寺境内整備)、整地化されているのではないかとみられる。
 さらに、これらのサークル上にあったとみられる巨大な墳丘が、江戸期に描かれた図絵や絵巻物にも残されていることが判明した。ただし、絵図に記録された“山”や、絵巻に描かれた2つの後円部とみられる巨大なドーム状の墳丘が、空中写真で確認できる崩されたとみられるサークル痕のいずれに相当するのかは、裏づけの資料が乏しいので厳密には規定できない。それぞれの表現が、明治以降の洋画作品に見られる写実的な風景描写ではなく、日本画の“お約束”にもとづく構成的で、慣習的な表現を前提としているからだ。
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 さて、わたしが「なんだこりゃ?」と気づいたのは、1936年(昭和11)に目白文化村Click!上空から撮影された写真を眺めているときだった。江戸前期には全体が「鼠山」Click!と呼ばれた御留山(将軍家が鷹狩りをする立入禁止の山)一帯で、江戸後期からはその東側が安藤但馬守(のち対馬守)の下屋敷となり、幕末には感応寺の境内、その後は明治維新まで小さめな大名や旗本の屋敷、寺社の抱え地が64区画ほど設置されていた敷地の北側に、直径50m余のサークルを見つけたときだった。同年の写真でも、このサークルはちょうど円の内外を木立が取り囲み、内側には住宅が建てられていない。
 別の上空から撮られた写真も含め、さまざまな角度からサークルを観察すると、当初発見したサークル(便宜上サークル①と呼ぶ)の北側にも、同じぐらいの規模のサークルらしいフォルム(サークル②と呼ぶ)のあることがわかった。そして、1947年(昭和22)に米軍によって撮影された戦後の焼け跡写真を観察すると、サークル①の痕跡は地面の色が異なることで確認でき、サークル②はうっすらと円形に拡がる地面の、段差らしい影を確認することができる。
 さらに、翌1948年(昭和23)の空中写真を見ると、サークル②の左下(西側)の円弧部分へ、“く”の字型の道路が敷設され、驚くべきことに戦後のバラック住宅がサークル②の中心点に向かって、放射状に建設されているのがわかる。つまり、この時期まで道路を直線ではなく、なにか(おそらく地面の段差にもとづく以前からの地籍に起因)を避けるように“く”の字に敷設し、バラック住宅を放射状に建てなければならない、なんらかの地形・地籍的な制約があったと想定することができるのだ。
 わたしは見つけた当初、このサークル①と②の形状に夢中になっていた。地理的にみれば、これらのサークルは安藤家下屋敷の敷地にも喰いこんでいるので、南側の雑司ヶ谷村(雑司ヶ谷旭出=現・目白3丁目)と西側の長崎村(現・目白4丁目)とにまたがっており、『和佳場の小図絵』に記載された雑司ヶ谷村と長崎村の「堺」の記述に合致するからだ。また、幕末の『御府内往還其外沿革図書』の表現からすれば、東側から安藤家下屋敷に沿って細長くシッポのように西へ伸びた、池袋村の村境にもかかる規模だったからだ。
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 でも、1947年(昭和22)の焼け跡写真を拡大して観察するうちに、より重大なかたちに気がついた。双子のようなサークル①と②は、文字通りサークルにしか見えないことだ。つまり、後円部らしいフォルムは確認できても、古墳時代の前期に多く見られた前方後円墳の前方部が、サークル①と②には確認できない。たとえば、下落合摺鉢山古墳(仮)Click!新宿角筈古墳(仮)Click!成子天神山古墳(仮)Click!などの痕跡では、土地の起伏や道の敷設のしかた、戦災後の焼けの原の土色などから容易に前方部を想定することができた。しかし、サークル①と②は、どう目をこらしても前方部と認められる正円形からの張り出しが認められない。
 前方後円墳から帆立貝式古墳、やがては前方部を省略することが多くなった、古墳時代後期の双子のくっついた円墳かと思いはじめたとき、焼け跡の空中写真からこのサークル①と②を飲みこむように、もうひとつ別の大きなかたちがふいに見えてきたのだ。それは、東の池袋村から南の安藤家下屋敷、そして西の長崎村へとまたがる、全長180mほどの鍵穴型のフォルム、すなわち巨大な前方後円墳のかたちだった。しかも、この鍵穴型のくびれの両側には、「造り出し」跡とみられる痕跡までが確認できる。
 サークル①と②の構造物とみられるフォルムは、この巨大な前方後円墳の前方部へ重なるように造られていた様子がうかがえる。つまり、前方後円墳の玄室がある後円部はそのまま残し、玄室への入り口がある羨道部から前方部に向かってサークル②が、その南西側に残った前方部にはサークル①が造られた……という経緯に見えるのだ。
 このような古墳の築造法の場合、主墳である前方後円墳の被葬者のごく近親者(親族)がサークル①と②へ、あまり時代を経ず寄り添うように葬られた倍墳のケースと、主墳の被葬者の子孫たち、つまり古墳時代もかなり進み、新たに巨大な墳墓を築く非合理性や宗教観・慣習の変化から、先祖の大きな墓の一部を崩して土砂を流用し、円墳状の墳墓を形成したケースとが考えられるだろうか。
 また、まったく別の見方として、前方後円墳の被葬者とは敵対するどこかの勢力がこの地域を制圧して、既存の墳墓の土砂を削りとって流用し、ふたつの新たな双子状の古墳(円墳)を築造した……とも考えられなくはない。蘇我氏の墳墓といわれる、玄室が“丸裸”にされてしまった飛鳥の石舞台古墳や、出雲の「風土記の丘」Click!=宍道湖の湖東勢力圏に見られる一部の古墳など、墳丘が崩され土砂を別の用途に使われてしまったのが好例だ。
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 でも、もともとあったとみられる前方後円墳の重要な玄室部、被葬者が埋葬されて眠る大きな後円部を崩さず、前方部へ後円部よりも規模がやや小さめな墳墓を築造しているように見えるので、もともとの被葬者を尊重したなんらかのつながりのある親族・係累、あるいは子孫の墳墓ととらえるほうが自然だろうか。では次に、金子直德と同時期あるいはそれ以前の時代に残された、絵巻や図絵の「古墳」風景を検証してみよう。
                                   <つづく>

◆写真上:安藤対馬守下屋敷(のち感応寺境内)の西端で、現在でも道筋はそのままだ。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に下落合の目白文化村上空あたりから撮られた空中写真。は、同年に撮影された別角度の空中写真。は、幕末の『御府内場末往還其外沿革図書』に描かれた感応寺が廃寺になったあと1854年(嘉永7)現在の同所。
◆写真中下:1947年(昭和22)の空中写真にみる同所()と、同じ写真に見つけたフォルムを描き入れたもの()。は、当時の道筋が残る安藤家下屋敷の北側接道。左手の敷地がかなり高くなっており、当初は切通し状の道だったことがうかがえる。
◆写真下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同所。サークル②に沿って拓かれた“く”の字の道沿いへ、バラック住宅が②の中心に向かって放射状に建てられているのがわかる。は、サークル②西側にある“く”の字道の現状。は、サークル②の東端あたりで巨大な前方後円墳フォルムの玄室部に近い位置。サークル①②の双子山古墳が「鼠塚」で、巨大な墳丘を貫通する道を拓いた後円部が「割塚」と呼ばれたのかもしれない。


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神田川沿いの薬剤製造工場。 [気になる神田川]

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 落合地域の川沿いには、昔から染色業や印刷業に加え、化学薬品を製造する企業や工場が多い。それは、神田川(旧・神田上水)の清廉な水質が、化学工業に適していたからだろう。たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)を参照すると、明らかに化学工業会社とみられる社名の企業や研究施設は、すでに5社を数えることができる。すなわち、坂上免疫剤(株)、亀井薬品研究所、三菱薬品研究所、池田化学工業(株)Click!、そして戸塚化学工業(株)の5社だ。
 『落合町誌』の「産業」章から、その一部を引用してみよう。
  
 旧神田川沿岸一帯は水質良好なる関係上晒染、製氷、衛生材料等、概して利水の工場多く設立せられて、工業地帯を形成す、商業は未だ賑はず、日用食料の小売業者多きを占む、昭和六年末町内に於ける会社の数は三十三社にして、其種別は株式会社十七、合資会社十四、合名会社二である。
  
 この事情は、神田川の南側に位置する戸塚町(現・高田馬場/早稲田地域)でもまったく同様で、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)によれば、テーエス東京製剤(合資)や(合名)河中工業所などの工場名が挙げられている。
 また、神田川の北側に位置する高田町(1920年までは高田村)でも薬品製造の工場は早くから進出し、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)には、規模の大きな工場が紹介されている。以下、『高田村誌』の「工業地としての高田」から、水野製薬所についての紹介文を引用してみよう。
  
 大正六年五月中の創立に係り、場主は水野善一氏たり、現在生産品は炭酸マグネシウムにして即ち軍艦汽船の塗料剤及はみがき、ごむ製品材料としての用途に充つ。販路は日本内地及輸出向とし、刻下孜々として諸製薬研究の続行中に属せり。場所は高田五三四と成す。
  
 戦時中に、これら川沿いの工場は軍需品の製造現場となっていたので、B29による空襲の目標となり、ほとんどの工場が爆撃で破壊されるか、それ以前に空襲に備えた建物疎開Click!で郊外へと移設されている。戦後、いち早く復興したのも、これら神田川の水を利用できる沿岸の工場群だった。1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』(新宿区)によれば、1949年(昭和24)の時点ですでに24社の化学薬品企業が操業をスタートしている。また、3年後の1952年(昭和27)には30社へと増えている。
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 現在でも、これら地域の神田川沿いには、製薬会社あるいは化学研究所は多いが、戦前はこれらの企業や研究所と軍部(おもに陸軍)が結びついている例も少なくなかっただろう。陸軍では、特に軍事機密(化学兵器)ではない薬剤に関しては、製薬会社に委託して研究開発を進めているケースが見られる。特に落合町をはじめ、中野町、戸塚町、高田町など神田川沿いの製薬会社や研究所は戸山ヶ原Click!も近く、陸軍の化学兵器開発の本拠地である陸軍科学研究所Click!や軍医学校などに近接していたからだ。
 さて、台東区が発行した資料『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正。昭和』第7巻に、薬剤店の息子が神田川沿いにあった神田和泉町の東京衛生試験場へ入所し、陸軍向けの毒ガス解毒剤を開発していた証言が残されている。当時、薬剤の専門家をめざすには、明治薬学専門学校か東京薬学専門学校のいずれかを卒業する必要があり、著者は1939年(昭和14)に明治薬専を卒業している。
 当初、陸軍は毒ガスの解毒剤を製薬会社に作らせようとしたが、採算が合わないと断られ、著者が入所していた東京衛生試験場で製造することになった。以下、同書所収の藤田知一郎「千束町二代、薬店から工業薬品へ」から引用してみよう。
  
 そのころ試験所では戦時医薬品を作れという事で、新しく製薬部っていう所が出来た時なんです。/この製薬部は三つに分かれていました。一つは窒息性毒ガスの解毒剤を作る所、一つは睡眠剤で今でいう精神安定剤を作る所です。これは戦場で狂う人ができるんでその安定剤なんです。もう一つは殺菌剤で、アメーバ赤痢の特効薬でキノホルムって有機性の薬品を作るところです。これはヨードチンキの代わりに傷にもきくんですが現在は発売禁止になっている薬です。/私は毒ガスの解毒剤を作る製薬部にまわされました。この解毒剤はロベリンというんですが、それまではドイツから買っていたんです。ところが当時で一グラム百二十円もするものですから、とても買い切れないので日本で作ろうという事になったんですね。製薬会社で作らせようとしたんですが、とても採算が合わないというので引き受けてがなくて、それでは国で作ろうという事になったんです。
  
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 もうひとつ、著者の文章には貴重な証言が含まれている。陸軍の召集令状である「赤紙」Click!については広く知られているが、「青紙」の役割りについてはあまり知られていない。陸軍の公式的な資料から「青紙」=“防衛招集”などと解説する資料もあるけれど、戦時中に「青紙」が果たしていた役割りはまったくちがう。以下、同書からつづけて引用してみよう。
  
 それから間もなく、五月になって軍から青紙が届いたんです。青紙というのは赤紙の召集令状が来る前の待機命令で足止めなんです。赤紙が来たら宇都宮の軍隊に入る事になっていました。それではというので覚悟して準備をしていましたら八月十五日の終戦になったんです。
  
 戦争も情勢が不利になってくると、「青紙」が居住地からの移動や地方疎開の禁止、つまり召集者へ「赤紙」がとどく前の“禁足”措置として機能していた様子がうかがえる。わたしの親父も話していたが、「青紙」がとどくと当人は現在居住している地点から移動できなくなり、転居や疎開Click!ができなかった……という証言とも一致する。召集予定の当人を除き、家族だけで転居や移動(疎開)ができない家庭では、そのまま親や妻、子どもたちも「青紙」にしばられて現在地へ残ることになる。
 この「青紙」により現居住地に“禁足”され、東京大空襲Click!山手空襲Click!などに巻きこまれて、その家族たちも含め生命を落とした人々がどれだけいたものだろうか。いまでは記録も残されてはおらず、「青紙」犠牲者のすべてが闇の中だ。
 また、製薬研究所や製剤会社へ陸軍が発注した劇薬がもとで、死亡した職員や社員がどれほどの数にのぼるのか、こちらも統計がないのでまったく不明だ。彼らは、単なる職場の「労災」として片づけられただろうが、まちがいなく戦争の犠牲者たちだ。
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 大正中期あたりから、さまざまな新聞や雑誌、書籍などの広告欄に製薬会社だけでなく、薬品を小売りする薬局の広告が急増してくる。このころから、いわゆる市販薬・民間薬の製造工場が川沿いを中心に急増し、高い診察料をとる医院にはかかれない庶民たちが購入するようになった。現代のように、「国民皆健康保険制度」が完備するのは、戦後の東京オリンピックが開催される3年前、1961年(昭和36)になってからのことだ。

◆写真上:現在でも神田川沿いには、大手製薬会社やケミカル会社が営業つづけている。
◆写真中上は、1919年(大正8)出版の『高田村誌』に掲載された水野製薬の媒体広告。は、1955年(昭和30)に撮影された田島橋下流の工業地域。は、上掲の写真とほぼ同じ位置からの撮影で戦後の下落合に設立された代表的なケミカル会社。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に作成された「各区便益明細図」にみる高田馬場駅周辺で、化学や製薬の会社・工場が各所に見えている。下左は、池袋の津村敬天堂が1928年(昭和3)に制作した媒体広告。下右は、大日本麦酒の製薬部門が1943年(昭和18)に週刊誌の裏表紙へ掲載しためずらしいカラー広告。
◆写真下は、1919年(大正8)の『高田村誌』掲載の薬局と医院の広告。は、中野区の写真資料館に掲載された昭和初期の薬局。なんだか副作用がたくさん出そうな薬局で、「わいは危険ちゅうわけやな」…とあまりこの店では買いたくない。w


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落合地域に散在する“ニキビ”を考える。 [気になる神田川]

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 明治期から大正末までの地形図を時代順に重ねてみていると、すでに現在はなくなってしまった気になる地形表現がある。下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!の西側に描かれた、正円状の“ニキビ”のような突起もそのひとつだ。地番でいうと、下落合622番地と同625番地の敷地にまたがるような位置だろうか。直径が20~25mほどの、ほぼ正円形をした塚状の突起地形だ。
 この塚状の突起は、陸軍参謀本部の陸地測量部が作成した1/10,000地形図の最初期、1909年(明治42)版のものからすでに採取されているのがわかる。1909年(明治42)の当時、北側にある清戸道Click!(目白通り)沿いの「椎名町」Click!には、江戸期から拓けた街道沿いの家並みが見られるが、諏訪谷Click!の丘上にあった塚状突起の周囲には家が見えず、一面の田畑が広がっている。
 そして、同地形図によれば、この凸地の上には広葉樹の記号が挿入されているので、塚全体がこんもりと樹木に覆われていたようだ。つまり、南に谷戸(諏訪谷)が口を開けた、青柳ヶ原Click!と同じ標高である等高線32.5m上の平地へ開墾された田畑の真ん中に、まるで海上に浮かぶ島のような塚状の突起がポツンと存在していたということになる。これは、いったいなんだろうか? 曾宮一念Click!が、1921年(大正10)にアトリエClick!を建設したとき、この塚はいまだ西側に残っていたはずだ。1925年(大正14)の1/10,000地形図にも、同塚は採取されている。昭和に入ると、蕗谷虹児Click!アトリエやその南の谷口邸が建設される一帯だ。
 さらに、もうひとつ思い当たることがある。諏訪谷北側の尾根筋に通う東西道は、まっすぐに東へと向かうのではなく、この塚を避けるように斜めに拓かれていることだ。1925年(大正14)の地図では、いまだ斜めの道路表現になっているが、翌1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、斜めだった道路が途中で直角状の鍵型に折れ曲がり、明らかに宅地の造成が行われている様子が見てとれる。
 この風情は、絵画の画面にも記録されている。1926年(大正15)の夏に描かれた二科賞を受賞Click!する直前の佐伯祐三Click!『セメントの坪(ヘイ)』Click!は、曾宮アトリエの前へ斜めにつづいていた廃止される直前の路上から、換言すればすでに宅地として整地されたらしい道路痕が残る敷地の上から、諏訪谷の大六天Click!の方角を向いてスケッチしている。そして、セメントの塀沿いに新たに拓かれた道路(現在の道筋)が、右手につづいているのが見てとれる。このとき、佐伯がイーゼルを立てた左手背後には、崩されつつある塚の残滓がいまだにあったのだろうか?
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 また、1921年(大正10)ごろから諏訪谷の湧水が形成した洗い場Click!(池)上の、「化け物屋敷」に住んでいた鈴木誠Click!も、この塚を毎日眺めて生活していたはずだ。この「化け物屋敷」とは、近くの農家が建てた古い借家か、農家の納屋のような建物だったのだろうか。当時の様子を1968年(昭和43)に発行された「絵」11月号(日動画廊出版部)に所収の、鈴木誠「下落合の佐伯祐三」から引用してみよう。
  
 (佐伯祐三に)翌日学校で会った時、ヴィオリンはぬらさなかった、と例のケロリとした口調で言っていたのが、私には一番古い記憶のようだ。私は卒業して結婚、下落合の昔風にいうと、洗場の上の化け物屋敷を借りて住みついた。隣りに曾宮一念氏の画室があった。/間もなく彼(佐伯祐三)が近くに画室を新築して来た。私は研究科に通うことになり彼と一緒に上野へ通っていた。(カッコ内引用者註)
  
 残念ながら日常的で見馴れた、「そこにある風景の一部」となっていたであろう塚状の突起のことを、鈴木誠は特に記録していない。ちょっと余談だが、上掲の鈴木誠の証言からも、1921年(大正10)4月にアトリエが完成し転居してきた曾宮一念のあとに、佐伯祐三が「画室を新築」して引っ越してきているのは明らかであり、佐伯アトリエの竣工は1921年(大正10)の夏以降のことだろう。
 各種地図などから推定すると、諏訪谷北側の丘上にあった塚状の突起は、1925年(大正14)ぐらいまでは残っていたのかもしれないが、その後、周辺の耕地整理とともに諏訪谷の急速な宅地化Click!が進められ、新たな道路整備や宅地開発とともに、1925年(大正15)ごろには消滅していた……と推定することができる。ちなみに、1925年(大正14)の1/10,000地形図では、塚の西側の一画を崩したものだろうか、明治期とは異なり灌漑用水とみられる小さな池が造られている様子が採取されている。
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 さて、まったく同じような“ニキビ”状の突起表現を、同じ落合地域の1/10,000地形図で見つけることができる。上落合607番地の字大塚Click!の浅間社境内にあった「落合富士」Click!、すなわち大塚浅間塚古墳Click!だ。上落合の谷間一帯を見下ろす、やはり丘上の見晴らしのいい場所に築かれている。塚の直径が20~30mほどあった同古墳は、円墳だったか小型の前方後円墳だったかは、いまとなっては不明だ。1980年代後半からつづく関東各地で実施された古墳の再調査で、従来は円墳とされていた古墳が、前方部が崩されて田畑や道路にされてしまった前方後円墳(割り塚)であることが軒並み確認されている。したがって、戦時中だった1943年(昭和18)ごろに山手通りの建設で、満足な調査も行われず崩されてしまった大塚浅間塚古墳も、現代の科学的な調査が実施されれば円墳ではなかった可能性がある。
 下落合625番地あたりの諏訪谷の丘上に採取された塚状の突起も、はたして周囲を開墾によって削られ、結果的に小型化してしまった古墳なのだろうか。谷間を見下ろす丘上のほかの場所に、同じような塚状の突起が見られるかどうか、1/10,000地形図を仔細に観察すると、ほぼ同じサイズの塚をあと2ヶ所、下落合エリアで発見することができる。そこには、近くにある湧水源の谷間(谷戸)を見下ろす丘上という、共通の埋葬儀礼的な、あるいは宗教上の“法則”のようなものが透けて見えてくるようだ。
 そのひとつは、諏訪谷のすぐ西隣りに口を開けている不動谷Click!(西ノ谷Click!)の丘上、下落合1436番地から1437番地あたりで発見することができる。谷戸を東側に見下ろす地点は、のちに小川医院Click!が建設される敷地で、斜向かいには笠原吉太郎Click!アトリエClick!が建てられている。諏訪谷の塚に比べると、やや小ぶりな20m弱ほどの印象だろうか。そしてもうひとつは、箱根土地Click!目白文化村Click!を開発する以前、「不動園」Click!と名づけた前谷戸を北に望む位置、すなわち後年には第一文化村内となる下落合1321番地に、やはり塚状で正円の突起が確認できる。塚の規模20~25mと、諏訪谷のものとほぼ同じぐらいのサイズをしている。
 はたして、これらの塚が室町期からつづく百八塚Click!の伝承に直結する古墳なのかどうか、すべてが大正末ぐらいまでに崩されているので不明だ。また、これらの塚は当初より、これほど規模が小さいものだったのか、それとも玄室部分だけを残して周囲の墳丘をすべて崩してしまったあとの残滓なのかもわからない。視野を関東地方の全域に広げれば、おもに江戸期の開拓で被葬者が眠る玄室のみを残し(羨道や玄室に用いられた房州石Click!など、大きな石材を処分するのが面倒だったせいもあるだろう)、前方部や後円部を崩して田畑にしてしまった事例は決して少なくないからだ。結果的に「小塚」となったそれらの残滓は、明治以降に宅地や道路建設などであっさりと消滅している。
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 下落合の伝承によれば、明治期のことだろうか自性院Click!の西側から古墳の羨道や玄室が見つかったといういわれを聞いている。やはり、葛ヶ谷の谷戸で湧いた小川が流れ、江戸期には千川分水(落合分水Click!)が開通する谷間を見下ろすよなロケーションだ。同じような塚状の正円突起は1925年(大正14)現在、安藤対馬守屋敷跡の北側にも採取されている。池袋の丸池へと注ぐ小川を見下ろすような位置に描かれているのは、もちろん本来は小規模な墳丘が連なっていたとみられる「狐塚」Click!の残滓だ。

◆写真上:正円状の塚があった、諏訪谷北側の丘上にあたる下落合622~625番地界隈。
◆写真中上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる諏訪谷の塚。は、1925年(大正14)作成の同図にみる諏訪谷の塚で、一部を崩して池が造られているのがわかる。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる同塚の位置で、宅地開発のために道筋が変更されている最中の様子。
◆写真中下上左は、1968年(昭和43)に日動画廊出発部から発行された「絵」11月号。上右は、旧・中村彝Click!アトリエで制作する鈴木誠。(提供:鈴木照子様) は、1925年(大正14)の1/10,000地形図に描かれた大塚浅間塚古墳(落合富士)と、同じく昭和初期に撮影された大塚浅間塚古墳(落合富士)。は、1925年作成の同図にみられる不動谷(西ノ谷)西側の丘上に採取された正円状の塚。
◆写真下は、1921年(大正10)作成の同図に採取された前谷戸を見下ろす正円状の塚。は、諏訪谷北側の下落合622・625番地に大正末まであったとみられる塚の想定図。は、1947年(昭和22)の焼け跡空中写真に描き入れた塚の想定位置と旧道筋。


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神田川で泳げる日はいつごろか? [気になる神田川]

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 明治時代に、神田上水Click!(現・神田川)で釣りをしていて捕まった男の記録が残っている。1876年(明治9)7月11日の新聞記事なので、おそらく前日の出来事だろう。関口台町で釣りをしていた男が、水道番に現行犯で検挙され罰金刑に処せられている。おそらく大洗堰Click!の上流か、あるいは大洗堰手前から分岐した小日向までつづく開渠Click!で釣りをしていて見つかったのだろう。また、1877年(明治10)7月2日には、上流の中野村を流れる神田上水で泳いでいた子どもがふたり捕まり、同じく罰金を払わされている。これらは一例にすぎず、当時は神田上水流域のあちこちで同様の事件が発生していたのだろう。
 1899年(明治32)に淀橋浄水場Click!が竣工し、2年後の1901年(明治34)まで神田上水は東京市街地へ水道管Click!で生活水を供給する上水道として使われており、江戸期の御留川Click!のままだったのだ。だから、神田上水でゴミを棄てたり釣りをすることはもちろん、水泳も全面的に禁止されていたのは江戸期とまったく変わらなかった。流域のあちこちにあった水道番屋(警備所)が、明治期にもそのまま機能していた様子がうかがえる。
 旧・神田上水沿いや、大洗堰(現・大滝橋あたり)から下流の江戸川Click!沿いに住んだ人々の証言を掘り起こしていると、明治末から昭和初期にかけて、水泳を含む川遊びが盛んだったことがわかる。子どもたちは、流れがよどんで少し深くなった淵で泳ぎを楽しみ、大人たちは川に舟を浮かべては花見や夕涼み、月見Click!、雪見、ホタル狩りClick!をしたり、アユやフナ、タナゴ、コイ、ヨシノボリ、ウナギなど釣っては楽しんでいた。
 1993年(平成5)8月から1994年(平成6)5月にかけ、朝日新聞東京版にはルポ「神田川」が120回にわたって連載されている。当時は、1970年代から80年代にかけて汚染のピークだった神田川(旧・神田上水と江戸川を1966年に名称統一)の状況を引きずっており、神田川の水質は現状からは想像できないほど、いまだにひどい状態だった。川に近づくだけで、まるでドブ(下水)のような生臭い悪臭が鼻をついた時代だ。当時の水質について、ルポ「神田川」で証言しているダイワ工業の平根健という方の文章から引用してみよう。
  
 [落合処理場] アンモニア性の窒素(八・〇-一一・六ppm)とリンは高すぎて魚の住める環境ではなく、ヘドロの大量発生を促す水質でもある。/[高戸橋] 落合処理場の影響を受けてアンモニア性の窒素が最大八・六ppmと魚の住めない状態。総窒素も高すぎ、藻類の異常発生を促している。その結果、海水の遡上する飯田橋付近ではヘドロとして滞留し、一部はスカム(浮上汚泥)として悪臭を放っている。(中略) [提言] 落合処理場からの放流水は、中、下流の水量の九割をも占めるため、神田川に清流を取り戻すためには、その処理水の改善が第一とせねばならない。ここの処理水は、窒素やリンを取り除く処理がないために、下流部で大量のヘドロの生成原因となっており、排水出口としての東京湾の水質も、富栄養化によって、ますます悪化することが懸念される。
  
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 記事中にもあるとおり、東京都水道局が建設した落合下水処理場(現・落合水再生センター)の処理水が、神田川の水質を大きく左右していたわけだが、下水道を普及させ生活排水の流入を完全に食いとめるのも、大きな課題だっただろう。当時、目標とされていたのは、せめて「鯉が棲める水質」だった。
 浄水の過程で薬物を添加せず、生物が棲息できる水質改善技術はここ数十年で飛躍的に向上し、落合水再処理センターから排出される水は「金魚が棲める水質」にまで改善されたと聞いている。その成果は、アユの遡上やギンヤンマなどトンボのヤゴ復活となって如実に表れている。文中にある高戸橋は、アユの棲息が多く確認されている場所だ。水質が格段に清浄化したことで、染め物の水洗いClick!や子どもたちの川遊びClick!が一部で復活していることは、以前の記事でもご紹介している。
 ルポ「神田川」には、川沿いで子ども時代をすごした人たちが、1990年代初頭の神田川を訪れてガッカリする様子や、子どものころ清廉な神田川で遊んだ思い出を回想する記事が数多く掲載されている。下落合の南側、上戸塚(現・高田馬場3丁目)に住み静岡県伊東市へと転居した、平野吉三郎(74)という方の思い出を少し長いが引用してみよう。
  
 五十年ぶりに懐かしの故郷、高田馬場駅に降り立った。幼い頃、兄や友達と兵隊ごっこをして遊んだ山や川、戸塚ヶ原(ママ:戸山ヶ原)練兵場は昔日の面影なく、住宅やビルの密集で変わり果てていた。/神田川。きれいな川だった。私の母校、戸塚第三小学校の校歌に「神田の流れ、水清らかに、富士は野末に真白くそびゆ」という一節があったが、この歌の通りの川だった。川底もほとんどが石。宮田橋の上流の浅瀬には馬の蹄のような模様があり、あれは昔、太田道灌が水馬をした時のものだ、と古老が教えてくれた。真偽はともかく、そのくらい、川底がはっきり見えた。/昭和初期ころには、鯉がたくさんおり、父がリーダーとなって、町内のおじさんたち十数人と漁もした。みんな越中ふんどし一本となって胸の辺りまでくる水に入り、岸から岸へと大きな網を張る。当時で川幅四メートルから五メートル。(中略) 四、五〇センチの真鯉、緋鯉がざくざく捕まり、網の中で勢いよく跳ね上がる。私たち子供は、水泳の飛び込み台にしていた大きな岩の上から眺めて、ワァーワァー拍手喝さいを送ったものだ。(カッコ内引用者註)
  
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 昔もいまも、40~50cmぐらいのコイが悠然と泳いでいるのは、神田川の変らない風情のようだ。また、子どもたちが「飛び込み台」にしていた大岩が、昭和初期まで下落合と上戸塚の流域に残っていた様子がうかがえる。この岩が、江戸期に「一枚岩」Click!と呼ばれた大岩の残滓なのかもしれない。
 また、下落合氷川明神社Click!の近くで大正末に生れ、記事の当時は練馬区に住んでいた高田源一郎(67)という方の証言を聞いてみよう。もちろん、当時の神田川は現在の流れではなく、氷川社の南東で大きく北へとカーブしていた、整流化工事以前の風情だったのだろう。田島橋Click!も現在地ではなく、10mほど下流に架かっていた時代だ。
  
 JR高田馬場駅に近い、氷川神社の前辺りで大正十五年に生まれ、四十年近く住みました。すぐそばを流れていた神田川は、子供のころ、現在のような護岸構造もなく、両側は土手で、どんよりとした流れの川でした。増水による被害が多く、私が四歳の時に死んだ父も、消防の組頭として治水に尽力した、とよく母に聞かされました。/小学生のころ、母と一緒に橋の上を通りかかった時、川の中で働いている染物職人を見て、母が言った言葉が忘れられません。それは「こんな川でも、染め物の水洗いには、大変、よく合う水なんだよ。人間だって何か一つ、取り柄があれば世間様に通用する。学校の成績だって一つでも得意なものがあればいい」/それまで暗い印象で、ややもすると嫌いな川でしたが、この言葉で、子供心に何か愛着がわくような気がしたのを覚えています。
  
 さて、そろそろ神田川で泳ぐことはできないだろうか? それには、いまの晴天時のふくらはぎまでの水深では足りず、また流れの速さ=水圧では子どもが流されかねないので危険だろう。ある程度の水深が必要なのと、流れを緩める、あるいはよどませる仕組みが不可欠なのだが、その方法はすでに戦前に確立されている。隅田川をはじめ、全国各地の河川に設置された水練場Click!の構造だ。川岸に水を引きこむ囲いを造り、流れの影響を直接受けないようにして1~1.5mほどの水深を確保する、おもに夏季だけの臨時施設だ。
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 戦前の水練場は網や浮き、杭、板などを使い川岸に囲いを造っただけで、生簀状のかなり原始的な構造だったようだが、現在ならもっと効率的に安全な機材で工夫ができる。川の増水時でも、容易に流されない基礎造りを含め、都会の子どもたちが楽しめる親水施設はかなり魅力的だろう。せっかく川のそばで生まれ育っても、一度も泳いだことがない子どもの寂しい記憶を、これから少しは減らせるのではないだろうか。文字どおり「神田川で産湯をつかい」が、単なる夢物語ではない時代になってきたように思うのだ。

◆写真上:わたしの学生時代に比べ、信じられないほど清浄化された神田川。
◆写真中上は、昭和初期に早稲田界隈で撮影された旧・神田上水(神田川)で水遊びを楽しむ子どもたち。は、落合水再生センターの神田川排水口。
◆写真中下は、明治末に撮影された江戸川(現・神田川)の大曲付近で、花見用に臨時の桟敷席が川へ張りだして設置されている。は、神田川両岸に植えられたサクラ並木の開花期には世界じゅうから花見客が訪れる。は、神田川の川底に露出するシルト(東京層)Click!にとまるシラサギで、このところ野鳥の数や種類が飛躍的に増えている。
◆写真下は、1938年(昭和13)撮影の神田川支流の妙正寺川で行われていた染め物の水洗い。は、千代田城の外濠を兼ねた神田川の中央線・御茶ノ水駅下の流れ。は、渇水時でも流れが急な山手線・神田川鉄橋Click!の真下。この付近の流れは危険で、子ども用の“水練場”の設置には向かないだろう。


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昭和初期に急増した上落合の飲食店。 [気になる神田川]

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 落合地域と下戸塚(現・高田馬場3~4丁目)、戸山ヶ原Click!(現・百人町4丁目)、柏木地域(現・北新宿4丁目)、そして中野地域(現・東中野4丁目)と、数多くの地域が落ち合う地点に、神田川の小滝橋交差点がある。現在は大型スーパーやドラッグストア、AVチェーン店など大型店が進出し、周辺の商業拠点になっている交差点だが、大正末から昭和初期にかけても同交差点を中心に、商店街が四方へ伸びていっている。
 同交差点へ行かれた方はご存じだろうが、上落合や東中野側からは早稲田通り、山手線・高田馬場駅方面からも早稲田通り、戸山・大久保方面からは諏訪通り、柏木・百人町(現・新宿)方面からは小滝橋通り、そして少しズレてはいるが下落合方面からはバス通りとなっている聖母坂Click!筋(補助45号線Click!)の通りが合流し、付近を貫通する大通りの期せずして集合場所になっている。ちなみに、いまだ計画が廃止になっていない補助73号線Click!は、高田馬場3丁目の住宅街を斜めにつぶして、小滝橋のすぐ手前の早稲田通りへと貫通・合流する予定になっている。
 小滝橋は、交通の要所のせいか、関東乗合自動車Click!(現・関東バス)の営業所や車庫も1932年(昭和7)に開設され、現在も都バスの車庫・営業所として運営されている。大阪から出てきた作詞家の喜多條忠が、クルマで小滝橋近くを通りかかったとき、学生時代の懐かしい情景を想い出しながら作詞したのが『神田川』Click!だというのを、新聞記事かなにかで読んだ記憶がある。
 大正期の中ごろまで、旧・神田上水に架かる小滝橋は木造だったが、大正末ごろに石造りの橋に架け替えられ、上をクルマやバスが通れるようになった。新たな小滝橋の位置も、江戸期からの橋の位置からはやや西にズレて設置されているようだ。大正末ごろ、わたりの季節になると小滝橋周辺にはカモやシラサギの群れが飛来して、旧・神田上水に近い小滝台Click!周辺に羽を休めていたらしい。その様子を、1983年(昭和58)に発行された冊子『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)所収の、「トリの話」から引用してみよう。
  
 小滝(華洲園の東方にある低地)に永井さんと言う大きなお屋敷があった。この屋敷のなかを神田川が流れていた。秋になるとこの屋敷の川辺に沢山の鴨が下りた。この鴨は大変利口でなかなか庭から外に出て来ませんでした。たまに出て来るとズドンとやられるからである。白鷺は神田川・妙正寺川添(ママ)にあったタンボに沢山下りていた。全く良き田園風景そのものであった。
  
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 いまでこそ、神田川や妙正寺川沿いではカモやシラサギ、セキレイなどはめずらしくなくなったけれど、わたしが学生時代には水鳥などめったに見かけず、夕方になると橋下に営巣するアブラコウモリたちが飛びまわるぐらいだった。
 小滝橋周辺に限らず、農家では鶏卵を採るためにニワトリをたくさん飼育しており、夜中にコケコッコーと鳴くと、住民は就寝中でも急いで起きだして、ニワトリが鳴きやむまで箕(み)を団扇がわりにパタパタ扇ぎつづけたという。夜中にニワトリが鳴くと「火を呼ぶ」という、東京郊外の古い迷信からきているものだ。上落合では、中小の工場が建ちはじめ、特に火事が多かった川沿いの前田地区Click!を抱えていたので、付近の農家はよけいに敏感になっていたのだろう。ちなみに、下落合では1980年代までニワトリの鳴き声が聞こえていたが、夜中に鳴くのはクルマのヘッドライトに反応していたからだ。
 古くから交通の要所だった小滝橋には、早くから企業や施設、商店などが開店していた。関東バスの車庫・営業所のほか、当時は切通しの道だった小滝橋通りを新宿方面に歩くと、柏木985番地のゲルンジーミルクプラントClick!や同1279番地の豊多摩病院Click!があり、高田馬場駅へ向かう下戸塚の早稲田通り沿いには、野菜を市街地の市場へ運ぶ近郊農民を相手の、あるいは付近の商店や工場の従業員相手の、茶店や飯屋「橋本や」などが店開きしている。
 また、上落合側の早稲田通り沿いは、大正末ごろまで両側は田畑のままが多く、南西を見ると日本閣(鈴木屋)Click!の建物が、北東を見ると下落合の駅舎までが見通せたらしい。このころの店舗というと、豆腐屋や酒屋、日用雑貨屋などがポツンポツンとできはじめたが、いまだ商店街を形成するほどではなかった。
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 再び、『昔ばなし』所収の「小滝橋附近」から引用してみよう。
  
 関東大震災後に次第に発展し、昭和の初め頃には、早稲田通りの両側は立派な商店街になりました。勿論小滝橋も石の橋になり、名物の「橋本や」さんは姿を消してしまいました。商店街の中には「ミルクホール」と呼ばれるお店があり「コーヒー」や「ミルク」や「ライスカレー」などを売って居りましたし、「落合亭」という「カフエー」もあり、夕方になるとお店の前に水をまいて、若い女の人がきれいになって、(着物姿に白いリボンのついたエプロンを着ていた)店先に立って、お客を呼んでいました。/八幡さまの前の道は「八幡通り」と言って商店が軒を並べて居り、「郵便局」や「マーケット」がありました。早稲田通りは昭和の初め頃、今の関東バス側が拡がりました。丁度、家一軒分位が道路となったわけです。道が拡がっても商店が並んで居りましたが、都バスの車庫が出来るようになってから、次第に商店の姿が消えてしまいました。
  
 東京郊外への人口流入に比例し、早稲田通り沿いには市街地から喫茶店やバーなど流行りの店舗が進出している。このころになると、川沿いの工場からの排水や住宅からの生活排水で旧・神田上水の水質は濁り、魚や沢ガニが採れにくくなっている。小滝台の周辺に飛来していた、シラサギやカモの姿もめっきり減ったのだろう。
 上落合の子どもたちは、いまだ自然が多く残っていた小滝台に拡がる華洲園Click!の雑木林に出かけ、小枝に鳥もちを塗ってメジロやウグイスなどをよく捕まえたそうだ。もちろん、鳥商人に売ったり鳥籠に入れて自家で飼うためだが、樹木のてっぺん近くで鳴くモズは、そこまで鳥もちを塗りに登れないので採れなかった。小島善太郎Click!が飼っていたホオジロClick!も、そのようにして捕まえたものなのかもしれない。そういえば、「ホオジロを捕まえると火事になる」というジンクスも、東京郊外には語り継がれていた。
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 大正末から昭和初期にかけ、小滝橋とその周辺域は“激変”と呼んでも差しつかえないほどの、急激な変化にみまわれている。濱田煕Click!が描いた、1938年(昭和13)ごろの小滝橋交差点のイラストは、商店がギッシリと通り沿いに建ち並び、もはや田畑などどこにも存在しない。わたしが学生時代に見た、高層建築があまりなく銭湯の煙突ばかりが目立っていた小滝橋の情景も、このイラストに近いものだった。『神田川』の喜多條忠が学生時代をすごしたころは、もっとイラストに近い風情ではなかったろうか。

◆写真上:上落合側から見た、早稲田通りに架かる小滝橋の橋柱。
◆写真中上は、大正中期までの木造小滝橋でたもとに茶店が描かれている。(『昔ばなし』の挿画より) は、1933年(昭和8)に撮影された石造りの小滝橋。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された旧・神田上水沿いの小滝にあった東京府中野授産場。は、大正初期に撮影された小滝橋からほど近い中央線・柏木駅(のち東中野駅)。小島善太郎が踏切番のバイトClick!をしていたとみられる当時の駅舎で、現在の東中野駅の位置とは異なり柏木地域(現・北新宿)寄りに建っていた。は、営業所や整備場、乗員宿舎も備えた都バスの小滝橋車庫。
◆写真下は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる小滝橋()と、1930年(昭和5)の同地図にみる小滝橋()で、急速に市街地化していく様子がわかる。は、濱田煕が1938年(昭和13)ごろを想定して描いた小滝橋交差点で戸山ヶ原の西端が見える小滝橋通り。は、下落合の丘陵が見える小滝橋から上落合方面の早稲田通り。目白崖線が実際より高めの印象で描かれているのは、当時の下落合は樹林が密だったため実際の標高よりも高く見えたものだろう。


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