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津波被害が透けて見える東京大洪水。 [気になる神田川]

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 1910年(明治43)は、東京市民にとっては最悪の年だった。1894年(明治27)の明治東京大地震とともに、のちの1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!や、戦争による“人災”としての東京大空襲Click!などによって、それ以前に起きた大災害の印象は薄められがちだが、明治期の東京は江戸の安政年間Click!と同様に、地震と火災と洪水のトリプルパンチにみまわれている。
 1910年(明治43)の8月、小型の台風が静岡県沼津に上陸したのだが、勢力がそれほどでもない熱帯低気圧だと、東京中央気象台Click!ではタカをくくっていたのかもしれない。ところが、台風の直接的な威力はそれほどではなかったものの、降雨量が並みではなかったのだ。豪雨は8月10日と11日の2日間にわたって降りつづき、関東地方の河川のほとんどが氾濫した。東京では8m以上も水位が上がり、大川(隅田川)Click!をはじめ神田上水Click!江戸川Click!(ともに1960年代より神田川)、荒川、六郷川(多摩川)など、ほぼ主要なすべての河川が氾濫している。
 東京市街の深刻な被害地域は、(城)下町Click!では下谷区と浅草区(現・台東区)、本所区(現・墨田区)、深川区(現・江東区)、山手では牛込区(現・新宿区)、小石川区と本郷区(現・文京区)などにおよび、洪水による低地(乃手では丘陵の谷間)への出水は、牛込区(現・新宿区)がもっともひどく水深3.3mで、下谷区(現・台東区)の3mを上まわっている。また、岩淵村(現・北区)や志村(現・板橋区)の平地では、水深が5m近くにもなり、もはや家屋の屋根上へ逃げても危険な状況だった。もちろん、水深が3mを超えれば2階屋までが浸水することになり、当時の一般的な住宅建築を考えると、被害がいかに深刻だったかがわかるだろう。
 東京市街地の水没戸数は14万3千戸にもおよび、避難所となった学校や寺院、公共施設などには被災者がすし詰め状態となった。竣工したばかりで、まだ使われていなかった新築の両国国技館Click!(現在の国技館ではなく別名・本所国技館のこと)を、罹災者たちの避難所にあてたのは、いまでも下町の語り草になっている。洪水の被害を食い止めるために、8月11日には東京府が政府へ軍隊の出動を要請し、赤羽工兵大隊が隅田川の決壊堤防を修復するために派遣されている。
江戸川(神田川)2.jpg
江戸川(神田川)3.jpg
 でも、工兵隊が出動したのは主要河川が中心であり、神田上水と江戸川(ともに現・神田川)は自然に水が引くのを待つような状況がつづいた。また、六郷川(多摩川)では台風が通過したあとでも洪水がつづき、河川敷の近くに建設された家々が次々に流されるなど、被害を止めることができなかった。多摩川のケースは、まったく同じ災害が戦後にも再び繰り返されることになる。「岸辺のアルバム」として印象深い同洪水は、堤防を過信しすぎて氾濫地域に住宅地を造成した明治期のケースと、まったく同じ轍(てつ)を踏んでいることになる。
 東京大洪水は、1923年(大正12)の関東大震災のときと同様に、「記念絵はがき」が発行されるほどの被害を東京地方にもたらしたのだが、それらの貴重な記録や写真類の多くは関東大震災で焼失し、その後の東京大空襲による戦災でもダメ押しのように失われて、現在ではきわめて貴重な記録となっている。大正期から昭和にかけて、東京は二度の大規模なカタストロフにみまわれているせいで、明治期以前の大洪水や大地震、大火災の記憶が薄れがちになっている・・・ともいえるだろうか。いまでは、見ることもまれな東京大洪水の記録写真なのだが、そのうちの93枚が近くの学習院大学にある史料館Click!(図書館)に残されていた。
 これらの写真が貴重なのは、東京を襲った台風による被害の資料としてばかりではない。江戸の元禄期や安政期に起きた直下型と思われる大地震による、江戸湾から襲来した津波の被害地を、ある程度想定することができるからだ。3mとも5mともいわれる津波は、江戸の河川を遡上しつづけ、市街地の奥まで深刻な被害をもたらした。河川の流れを押しもどすほどの津波が、流れくだる川と衝突してあふれさせるほどの威力をもつのは、今回の東日本大震災でも明らかだ。
 つまり、海から「動く高い堤防」がそれぞれの河川に次々と押し寄せ、流れにフタをし、水流を上流へと押しもどすことで、かなり内陸部にまで洪水を起こさせる現象が発生するということなのだ。よく、東京湾には津波を防ぐ水門があるといわれるが、開閉式の水門は電源が失われず激震でも機構のどこかが壊れない・・・という大前提で、初めて運用できるのだということを想起したい。
隅田川(大川端).jpg
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 江戸湾内に震源がある思われる津波なので、外洋性の津波に比べ高さはそれほどでもないのだが、河川をいっせいにさかのぼることで東京市街の平地や低地、さらに山手の河川沿いにある谷間などへ洪水をもたらす危険性が高いことがわかる。江戸期に起きた大地震の津波による内陸被害は、このようなメカニズムで発生したのだろう。そして、東京大洪水で河川による浸水被害を受けた下町から山手にかけての流域が、地震の規模と同時に津波の高さや威力にもよるのだろうが、再び冠水する危険性の高いことが想定できるのだ。
 東京大洪水では甚大な被害が出た牛込地域だが、当時は江戸川と呼ばれていた神田川の関口から大曲(おおまがり)一帯が大きく浸水している。もともと室町期まで、奥東京湾の名残りとみられる大きな白鳥池Click!があったあたりの谷間だ。また、江戸期に開拓された早稲田田圃Click!と呼ばれる湿地帯も近い。その名のとおり、大曲は川の流れが急激にカーブを描いている地点なので、江戸期から洪水が起きやすい地勢なのだろう。のちの関東大震災でも、大曲一帯は大きな地割れや地面の陥没により、道路や市電の線路が壊滅的な被害を受けている。
隅田川(吾妻橋).jpg
六郷川(多摩川).jpg
 先ごろ、タイのバンコクで起きた都会を飲みこむ大洪水だが、東京の市街地でも決して“他所事”や例外ではないのだ。かろうじて保存された、いまに伝わる当時の貴重な資料類が、これから再び起きるかもしれない惨事の危険性をハッキリと警告してくれている。

◆写真上:江戸川(現・神田川)の石切橋の惨状で、洪水の流れがかなり速いのがわかる。
◆写真中上は、江戸川(現・神田川)の大曲付近から上流の江戸川橋方面を向いて眺めたところ。は、当時は東京市電の終点のひとつだった大曲停留所あたりの被害。
◆写真中下は、大川(隅田川)の本所・大川端あたりの惨状だが、もはや道路なのか川なのかも判然としない状況になっている。は、日本橋浜町で前方に見えているのは大橋(両国橋)。
◆写真下は、大川(隅田川)の大川橋(吾妻橋)周辺の浸水で右手はサッポロビール工場。は、洪水で護岸や堤防が削られて流出する六郷川(多摩川)沿いの住宅。


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下落合まであと一息のアユの遡上。 [気になる神田川]

高戸橋1.JPG
 神田川をさかのぼるアユが、JR高田馬場駅からほど近い高戸橋(明治通り)の西側まで確認された。コンクリートの段差を崩して、魚たちが遡上できるように魚道Click!をこしらえたのが功を奏しているのだろう。また、下水処理も薬物を用いず、土壌処理や紫外線殺菌などが導入されて水質が飛躍的に改善されてもいるのだろう。下落合へは、あと一息の距離だ。
 江戸初期から、1898年(明治31)に淀橋浄水場Click!が完成し翌1899年(明治32)まで、もともと上水道として使われていた神田上水Click!は、少し遅れて造成された玉川上水Click!とともに、江戸東京でもっとも清潔で澄んだ河川だった。上水としての役目を終えたあとも、きれいな川の水は製紙業や製薬業、染め物業Click!に適していたので、沿岸には数多くの工場や工房が建ち並んでいた。当時の様子を、1993年(平成5)に朝日新聞へ連載された、ルポ「神田川」から引用してみよう。
  
 神田上水の取水施設があった関口大洗堰より上流の神田川は、上水管理の必要から、お留川として漁獲が固く禁じられていたし、当然のことながら遊泳も禁じられた。/明治九年七月十一日の新聞には、関口台町で釣りをした人が罰金に処せられ、翌十年七月五日にも中野村の子供二人が泳いだため罰金を取られたことが報じられている。/明治二十四年六月に上水としての利用が廃止(ママ)されてからの関口大洗堰あたりは、子供たちの格好の水遊び場となった。この堰下から江戸川橋あたりまでは、かつてかなりの急流の早瀬が所々にあり、竿一本でこの難所を乗り切る舟遊びは、急流に流されたり、川へ投げ出されたり、横転しながらも、子供たちにとっては、スリルに富んだ魅力的な遊びだった。/関口大洗堰から下流は、江戸時代より上水管理から解放され、広重(ママ)もお茶の水の神田川に糸を垂れる釣り人の姿を描いている。当時から大人も子供もアユ釣りに興じ、護岸の石垣をはうカニを追いかけて楽しんでいた。
  
 ところどころに、「おや?」と思う気になる記述があるけれど、明治以降も御留川Click!としてつづいた神田上水の風情を活写した文章だ。もちろん、江戸期に神田上水で釣りをしたり泳いだりすれば「罰金」などでは済まず、水番の役人にしょっ引かれて「入牢」はまちがいなしだった。
高戸橋2.JPG 高戸橋3.JPG
神田川2.JPG
 さて、きれいだった神田川が急激に濁りはじめたのは、戦後の1950年代からだった。中小工場からの排水の問題もあるが、もっとも影響が大きかったのは急速に開発された住宅地からでる生活排水(下水)を、そのまま川へ流していたのが原因だった。下水処理をせず汚水をそのまま川へ流すなど、現在から見ればまったく考えられない環境だけれど、下水の処理施設が間に合わない以前に、新興の開発地域では下水管そのものの敷設が間に合わないようなありさまだった。
 支流が汚れれば、本流はもっと汚れる。支流本流を問わず、たくさんの生活排水が混じった汚水が注いだ神田川は異臭が漂うほどに汚れ、今度は神田川を支流とする大川(隅田川)は1960年代後半から70年代にかけ、汚濁のピークを迎える。神田川の出口にあった粋な柳橋Click!は、大川と神田川による汚染のダブルパンチを受けて、江戸期からの長い歴史Click!に幕を閉じた。
 それから20年ほどして、1990年代の初めごろ、落合下水処理場(現・落合水再生センター)の稼働がようやく効果をあらわしはじめ、神田川の水質は少しずつだが確実に改善のきざしをみせはじめた。それでも、1990年代はとても魚が棲める環境ではなく、川底にたまったヘドロの除去や、窒素が多く含まれた水質が大きな課題だった。当時の様子を、朝日新聞の同ルポから引用しよう。
  
 [落合処理場] アンモニア性の窒素(八・〇-一一・六ppm)とリンは高すぎて魚の住める環境ではなく、ヘドロの大量発生を促す水質でもある。
 [高戸橋] 落合処理場の影響を受けてアンモニア性の窒素が最大八・六ppmと魚の住めない状態。総窒素も高すぎ、藻類の異常発生を促している。その結果、海水の遡上する飯田橋付近ではヘドロとして滞留し、一部はスカム(浮上汚泥)として悪臭を放っている。
  
神田川1.JPG
 この時代からさらに10年、神田川の水質は急速に改善されつづけた。その要因は、落合水再生センターで処理された下水が、「鯉が棲める」から「金魚が棲める」ほどの水質にまで向上しているほかに、川底にたまったヘドロのこまめな除去や、水中の酸素を奪う大量の水藻を適宜清掃するなど、地道でキメ細かな手入れがされるようになったからだろう。
 上記の記事で取り上げられ、魚の棲息は絶望とされた高戸橋の流域だが、現在はアユをはじめ、オイカワ、タモロコ、マハゼ、ドジョウなど20種類の魚が確認されている。おそらく、いまごろは下落合にも姿を見せているころなのかもしれない。また、高戸橋の西側から長いトンネル(暗渠)となってつながる妙正寺川にも、魚が遡上する日が近いのかもしれない。
 わたしは1970年代からこっち、神田川で釣り糸をたれる人をついぞ見かけたことがないのだが、これからはあちこちの橋上、あるいは川べりにアユ釣りの姿を見かけることになるのだろうか? それとも、水棲生物の保護のために、東京都は神田川を徳川幕府や明治政府と同様、再び「御留川」として漁獲・遊泳禁止の川にするだろうか。w
アユ.jpg オイカワ.jpg
マハゼ.jpg タモロコ.jpg
 ちなみに、神田川への立ち入りは染め物の水洗いClick!やイベントの開催など、それなりの理由があれば都から比較的容易に許可されるようだし、つい先年の夏には、高田馬場駅Click!近くの神高橋Click!で、子どもたちが川に下りて水遊びをしているのを見かけたばかりだ。この川遊びは、竣工したばかりの戸塚地域センターが主催した、水辺の催し物のひとつだったのだろう。同センターには、ハナから神田川へ降りられる階段が施設の脇に設置されている。わたしも、今夏は神田川の流れに降りて、山手線と西武線の鉄橋を見上げながらアユでも探す、暑気払いの川遊びがしたいものだ。

◆写真上:高戸橋の西側にある、神田川と妙正寺川(暗渠)との合流地点。現在では、両河川が落ち合うのは落合地域ではなく、1,000mほど下流の高戸橋になっている。
◆写真中上は、高戸橋西側の流れ()と東側の魚道あたりの流れ()。いずれも、水はよく澄んでいて透明度が高い。は、上流のJR高田馬場駅から下落合方面へと向かう神田川。
◆写真中下:雨がしばらく降らないと、神田川の川底から大きな岩礁が昔ながらの姿を見せる。
◆写真下:JR高田馬場駅の付近の神田川で、棲息が確認された魚たち。が、ようやく50年ぶりにもどってきたアユ()とオイカワ()。が、マハゼ()とタモロコ()。


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戸山荘庭園絵図にみる「百八塚」の痕跡。 [気になる神田川]

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 これまで、戸塚(十塚/冨塚)の早稲田界隈から、平川(江戸期には神田上水流域)に沿い、落合地域をへて百人町(大久保)あるいは柏木(東中野)地域にかけて、おおよそ江戸末期まで「百八塚」Click!(無数の塚)伝承が色濃く残っていたことを書いてきた。その後、農地化や寺社の境内化をまぬがれた前方後円墳や円墳が、早稲田や上落合、百人町に残存していたことも記事にしている。すなわち、早稲田大学キャンパスの冨塚古墳Click!(戸塚富士=前方後円墳)、上落合の大塚古墳Click!(落合富士=おそらく円墳)、そして百人町界隈の金塚古墳Click!、真王稲荷塚古墳、仮称・「百人町」古墳などでいずれも前方後円墳ないしは円墳の古代墳墓だったと思われる。
 これらは、江戸期の開発からはまぬがれたが、明治以降の農地開発や宅地造成、道路工事などによって破壊され、いずれも現存していない。(ただし富塚古墳の玄室の一部は水稲荷社の本殿裏に保存) また、江戸期に農地開発によって破壊された古墳は、玄室などから発見された副葬品が近くの寺社へ奉納されている記録がみえている。これら「百八塚」が展開したと思われるエリアで、ほとんどなんの調査もされず陸軍によって明治初期に整地されてしまったのが、戸山ヶ原Click!にいくつも存在した「丘陵」群だ。広大な戸山ヶ原の大半は、江戸期には尾張徳川家の下屋敷であり、その敷地は通称「戸山荘」と呼ばれていた。
 寛文年間に造営された戸山荘Click!の回遊式庭園は、千代田城の庭園をしのぐ当時は日本最大の大名庭園だといわれており、今日の北の丸公園の3倍強、小石川後楽園の6倍ほどの広さで、本来は内藤家の庭園だった新宿御苑よりも、まだひとまわり大きい。その地名が示すとおり、戸山には多くの「山」や「丘」が存在していたのだが、今日ではそのほとんどが残っていない。1873年(明治6)に陸軍に接収され、翌年には早くも陸軍戸山学校が設置されて整地工事がスタートしている。つづけて、近衛騎兵連隊Click!をはじめ次々と陸軍施設が市内から移転し、練兵場や運動場、兵舎建設などにより戸山の起伏は徐々に平たん化されていく。
 もちろん、そこからなにが出土したのかの記録も残されておらず、たとえ大規模な古墳であると認識されてはいても、関東に「規模の大きな大王クラスの古墳Click!があってはマズイ」という、明治政府(教部省のち文部省)の意向が早々に反映されただろうから、無視され「なかったこと」にされた可能性が高い。江戸期における、この地域の古墳発掘=農地開発によって出土した副葬品の記録が多いのに比べ、明治以降から戦前にかけてはより大きな開発が行われているにもかかわらず、そのような記録は意図的に取られなくなったのか、ピタリと聞かれなくなった。
 都内に現存する「幸運」な古墳は、大名庭園の築山Click!として転用されたり、寺社が伽藍や社殿を建設するのに適した台地状境内Click!にされたり、さらには明治以降になると公園の見晴台Click!にされたりしたケースも多い。中でも、大名庭園の築山に流用され、明治以降も庭園が残っていたり公園化された古墳は、ほぼ原形をとどめているので貴重だ。(後楽園事例など) だから、戸山荘の庭園に展開していた築山も、古墳の墳丘をそのまま活用したか、池を掘った土砂をかぶせてより高く盛り上げた可能性がある。平川(現・神田川)の両岸は、戸塚(早稲田)の宝泉寺にゆかりのある昌蓮という人物が、室町期にこれらの墳丘=「百八塚」に祠を奉って歩いたという伝説が残っている。宝泉寺は、目の前に前方後円墳・冨塚古墳(高田富士)を仰ぎ見る麓に建っていた寺だ。
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戸山荘古駅楼1.jpg
戸山荘古駅楼2.jpg
 いまに伝わる、尾張徳川家の下屋敷が描かれた絵図を参照すると、庭園内に存在していた丘、ないしは古墳の墳丘を思わせる築山や高台が、園内に10か所前後も存在していたことがわかる。もっとも、これらの丘や高台は寛文年間に行われた庭園造成のために、多くの起伏がならされたあとの、かろうじて残されたものなのかもしれないのだが・・・。これらの丘の中で、ほぼそのままの形状で残されているのは玉円峰(通称・箱根山)Click!のみとなっている。玉円峰は、「表御殿御広敷」と呼ばれた巨大な下屋敷の北北西にあり、庭園全体からみると中央やや南寄りに位置している。下屋敷の位置は、のちに陸軍戸山学校や軍楽学校が建設される、大久保通りに近いエリアだ。下屋敷の表門は椎木阪(坂)と呼ばれた、現在の大久保通りに面していた。
 一方、庭園の範囲は牛込馬場下町の夏目坂のすぐ西側あたりから、東は現在の明治通りあたりまで、北は早大文学部や学習院女子大のあるエリアから、南は大久保通りまでを包括しており、その面積は旧・牛込区のおよそ6分の1を占めるほどの広さだ。庭園部だけでも、江戸期には16万7,000坪もある広大なものだった。現在にまでこの庭園が保存されていたら、代々木公園と並ぶ東京でも最大クラスの公園となっていただろう。そのあたりの様子を、1933年(昭和8)に発行された『庭園と風景』4月号(日本庭園協会)の「戸山荘の面影」から引用してみよう。
  
 本園は寛文年間に築造され、十一代将軍家斉時代が其の最盛期であつたらしい。当時細井平洲は「戸山二十五景詩」を賦して園内の勝地を世人に紹介し、園癖将軍家斉自身も「凡て天下の園池は当に此の荘を以て第一とすべし」と折紙をつけたほどであつた。斯様な最盛期を過ぎると此の庭園も漸く衰微に向ひ、安政年間には震災、風害、火災と重なる災害によつて樹木や建物を数多損傷し、大いに其の偉観を失つた。(針ヶ谷鐘吉「戸山荘の面影」より)
  
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玉円峰(箱根山)1933.jpg 濯桜川の沼1933.jpg
 さて、戸山荘の庭園内で築山とみられる、比較的規模の大きな丘陵がみられるのは、下屋敷が建つ位置から北側、あるいは北西側に多い。「大原」と呼ばれた一帯には、北西方向に「乾山」(けんざん)と呼ばれた“山並み”が連なり、反対の南東側には名前のない双子の大きな丘が見えている。「乾山」の山並みは、現在の学習院女子大から戸山高校あたりまで連続しており、もともとは陸軍の練兵場や近衛騎兵連隊の兵舎が連なっていた区画なので、早い時期から整地されてしまってなにも残っていない。また双子山のほうは、東京都の福祉施設となっているが、こちらも近衛騎兵連隊が設置されたとき、丘陵はすべて崩されてしまったのだろう。
 下屋敷の北西100mほどのところにある、玉円峰(箱根山)は現存しているけれど、下屋敷の真西にあり五重塔の近くにあった大きめの丘は、やはり陸軍によって崩されており、現在は都営戸山ハイツが建ち並んでいる。また、玉円峰の南東には太田道灌が物見に使った高台があったようなのだが、この丘も陸軍軍医学校Click!の建設で壊されている。
 さらに、庭園の中央にあった大きな池「御泉水」の北側にも、堂や社が建ち並ぶ区画があった。このあたりは、池を掘った土砂を積み上げて高台を造成したようにも思えるのだが、その中に「阿弥陀ヶ洞」(洞阿弥陀)という名称があり、かなり気になることについては少し前の記事Click!で触れている。戸山荘に隣接した高田八幡Click!から、江戸期に古墳の羨道とみられる横穴が発見され、以来「穴八幡」Click!と呼ばれるようになったエピソードが残るエリアなのだ。また、「御泉水」際の高台に並ぶ堂や祠は、室町期の昌蓮とどこかでつながっているのかもしれない。
 このほかにも、絵図には残されていない丘や地面のふくらみが随所にあったのかもしれないが、いまとなってはそれを知る手がかりはまったく残されていない。かろうじて、戦後の焼け跡写真で露出した地面を眺め、空中考古学的な観察を試みる以外に方法がないのだ。
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玉円峰円墳活用.jpg 玉円峰前方後円墳活用.jpg
 玉円峰(箱根山)は、その名の通り正円に近い丘陵から江戸期にそう名づけられたと思われるのだが、戦後の1947年(昭和22)に米軍が撮影した焼け跡写真を子細に観察すると、箱根山は正円というよりも、大原の南東部にあった双子山と同様に、ふたつの円墳状のふくらみを庭園造成の際にひとつに統合してしまったか、あるいは前方後円墳の前方部の土砂を後円部にかぶせてしまい、ひとつの「峰」に見立てているようにも見える。発掘調査の記録は一度も見たことがないので、いまだ古墳期の遺構が眠っている「百八塚」の名残りのひとつなのかもしれない。

◆写真上:かつて玉円峰(通称箱根山)と呼ばれた築山を、北側から眺める。
◆写真中上は、1887年(明治20)に陸軍によって制作された1/10,000地形図にみる戸山荘跡。すでに大半が陸軍によって整地され、このあと「御泉水」も埋め立てられている。は、「戸山荘古駅楼絵巻」(作者不詳)に描かれた戸山荘内の風景。
◆写真中下は、1920年(大正9)に複写された「戸山荘庭園図」。赤線で囲んだ部分が、丘陵地あるいは高台が存在したエリア。1933年(昭和8)に撮影された玉円峰(下左)と濯桜川跡にできた沼(下右)で、いずれも1933年(昭和8)発行の『庭園と風景』4月号より。
◆写真下:1947年(昭和22)に撮影された、焼け跡の玉円峰(箱根山)と古墳活用の仮定ケース。


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大江戸の水道インフラと「名水」井戸。 [気になる神田川]

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 少し前にご紹介した、1936年(昭和11)落成の黒田小学校Click!(のち文京区立第五中学校)の新校舎が現存し、ちょうどいま解体されるところだというので見に出かけた。同校舎は戦後、黒田小学校から第五中学校へと変わっているのだが、窓枠をアルミサッシに入れ替えただけでほとんどそのまま使われつづけてきた。でも、わたしが多大な興味を抱いたのは元・黒田小の校舎ではなく、大江戸(おえど)の千代田城や市街地(おもに東部地域)へ配水されていた、神田上水Click!の開渠遺構がそのまま発見されたので、ぜひ見学してみたくなったのだ。
 椿山Click!の下、関口の大堰Click!手前から分岐した神田上水は、小日向Click!の崖線下を開渠のまま流れつづけ、やがて水戸徳川家の上屋敷内(現・後楽園Click!とその周辺域)へと注いでいた。邸内で暗渠(水道管)となり、外濠の水道橋Click!をへて千代田城内へと給水され、さらには神田、日本橋、京橋、銀座界隈、また上野や秋葉原、少し遅れて本所、深川、浅草方面まで水道網は拡がりつづけた。関口大堰から下流は江戸川Click!と呼ばれ、舩河原橋Click!から外濠へと注いでいる。
 小日向崖線の下を流れていた神田上水(通称「白堀」)が、元・黒田小学校の解体工事現場から、ほぼそのままのかたちで出土したのだ。1899年(明治32)に淀橋浄水場Click!が完成すると、神田上水は廃止されてしまうのだが(水道網は明治末まで使われた)、その際に「白堀」は壊されて撤去されたと想定されていた。特に黒田小学校は、関東大震災Click!後の耐火コンクリート建築のため、基礎工事が行われたのと同時に「白堀」もとうに破壊されたと思われていた。ところが、堀を覆うように土砂がかぶせられただけで、黒田小学校のモダンな鉄筋コンクリート校舎はその上に建てられていたことになる。先日の記事で掲載した写真の中で、ちょうど同校のプールが写る真下あたりで神田上水の遺構が発見されている。
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 大江戸の市街地は、水道(すいど)が網の目のように張りめぐらされた、当時のロンドンと並ぶ上水道インフラClick!が完備された都市だった。(城)下町Click!には、水道の「井戸」はあったが地下水を汲みあげる生活用水としての井戸は存在していない。江戸湾が近い各町内では、井戸を掘っても潮気を含んでいるので、しょっぱくて役に立たなかった。通常よりも深く掘って、例外的に真水を掘り当てた白木屋呉服店Click!(のち東急百貨店)の「白木井戸」、神田の銀川岸「主水の井戸」、日本橋の「三日月の井戸」(馬喰町)と「山伏の井戸」(久松町)、浅草観音堂の「御供の井戸」、そして亀戸の「亀井戸」(梅屋敷内Click!)などが必然的に評判を呼んでいる。
 一方、武家が多く居住した山手では、あちこちで井戸が掘られ、豊富な湧き水が生活用水として利用された。山手といっても、(城)下町としての旧・山手市街のことで、初期の東京15区でいうと千代田城のすぐ西側や北側がほとんどだ。それら旧・山手の井戸の中でも、とりわけ水質がよく美味しい水は「名水」と呼ばれ、大江戸じゅうの人気を集めていた。
白堀2.JPG
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 江戸期には、水道網の普及が遅れた大川(隅田川)東岸の本所や深川エリアでは、「水売り」のエピソードが数多く残っているけれど、旧・山手の「名水」を江戸の街で売り歩く「水売り」あるいは「水屋」も存在していたように思う。当時の高級料亭が、水道の水を使わず「名水」を取り寄せているのでもわかるように、水道はあくまで市中どこででも手に入る御留川(神田上水)の水であり、「名水」はその土地ならではの清廉な泉や湧き水ということで、おのずと価値づけが異なっていたのだろう。有名な料亭・八百膳では、店の水道水を使わず客を待たせたまま、わざわざ神田上水や玉川上水の上流域で水を汲ませて運び料理を出した・・・なんて逸話Click!も残っている。
 江戸期の「名水」と呼ばれた旧・山手の井戸には、以下のようなものがある。
江戸山手名水井戸一覧.jpg
 大江戸の市街地に限定せず、朱引き墨引きの江戸府内全域を対象とした「名水」選びが行なわれていたら、おそらく落合地域や高田、戸塚各地に掘られた井戸のいくつかも、「名水」の仲間入りをしていたかもしれない。いまでこそ、地表がアスファルトやコンクリートで覆われClick!、地下水脈の位置が戦前よりもかなり下がっていると思われるのだが、1960年代でさえバッケClick!(崖線の急斜面)に鉄パイプを突き刺しただけで、清廉な水が噴き出した土地柄だ。東京の井戸水は、おしなべてやわらかで美味しい。富士山の火山灰である関東ローム層に濾過された、この土地ならではの独特なうま味をもっている。下落合の井戸や、泉の湧き水も同質の味わいだ。
舟橋邸井戸.JPG 向島百花園井戸.jpg
和田山哲学堂井戸.JPG 青山氏梅窓院井戸.JPG
 夏は冷たく、冬は温かい水を供給してくれる井戸は、いま、防災用の飲料水確保の目的であちこちに残されている。中村彝Click!アトリエの復元Click!でも、もともと彝が掘らせたのとほぼ同じ位置(台所の北側)に、改めて防災用も兼ねた井戸が設置される予定だ。冷蔵庫がなかった時代、夏場は生モノを井戸深くに吊るして保管していたようだが、高田馬場に掘られた特別冷たい井戸の「冷蔵庫」で、とんでもない騒ぎが持ち上がるのだけれど、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:小日向の崖線斜面に建つ、1936年(昭和11)築の旧・黒田小学校の耐火校舎。
◆写真中上は、1852年(嘉永5)に制作された尾張屋清七版「礫川牛込小日向」切絵図。下左は、窓枠がアルミサッシになっただけで元の姿を残す旧・黒田小学校の校舎。下右は、同小学校のプール跡の地下から初めて発見された神田上水の開渠(白堀)の発掘現場。
◆写真中下:同発掘の現場で、文京区文化財保護審議会は「白堀」遺構の保存を発表している。
◆写真下上左は、下落合の舟橋邸Click!庭先に残る井戸。上右は、向島百花園に残る庭井戸。下左は、和田山の哲学堂Click!に残る井戸。下右は、青山の梅窓院(青山氏菩提寺)に残る井戸。


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「柴崎古墳」=将門首塚の面影。 [気になる神田川]

柴崎古墳写真①.jpg
 かなり前の記事で、鳥居龍蔵が関東大震災Click!の焼け跡を眺め、東京市街地の随所に築造された多数の古墳を観察・調査してまわったエピソードをご紹介Click!した。それら古墳の多くは、オフィス街や住宅街、道路などの建設によって破壊され、もはや現存していない。山手線の駅名になった大塚(大塚稲荷古墳)も、昭和初期に宅地開発で破壊されてしまった。もともと寺社の基盤として利用されていた古墳は、大震災後に再びそれら境内の下に隠れてしまった。
 東京には、旧字(きゅうあざ)として大塚Click!丸山(円山)Click!、稲荷山、摺鉢山Click!など、いわゆる古墳地名が数多く存在しているが、江戸時代の市街地造成や農地開拓で崩されたり、大名屋敷の庭園に築山として活用されてきたが、明治以降に破壊された古墳は膨大な数にのぼるとみられている。たとえば、芝増上寺の境内には巨大な芝丸山古墳Click!のほか、13~14基の古墳が存在していたが大正期以降に破壊されつづけ、いまや芝丸山古墳のみしか残存していない。
 江戸(エト゜=岬、鼻)の先端に当たる現・大手町(旧・柴崎村)に築造された、のちに「将門首塚」Click!と呼ばれるようになる古墳も、大震災以降にオフィス街建設のためすべてが破壊されて現存していない。鳥居龍蔵が、1923年(大正12)の大震災直後に撮影した写真から、非常に小型でかわいい前方後円墳だったことがうかがわれるのだが、鳥居がほぼ同時期に撮影した、同古墳の写真をもう1枚発見したのでご紹介したい。(冒頭写真)
 前回ご紹介した、大震災から間もないころの写真と比べると、後円部の墳丘上に震災で倒壊した石碑が再建されているので、時期的にはもう少しあとのようだ。古墳の規模としては20~30mほど(周濠を除く)の、関東地方では非常に小型の前方後円墳Click!だったと想定できる。もちろん、平将門Click!が出現するはるか以前からこの地(柴崎村)に存在していたもので、築年は5世紀ぐらいまでさかのぼるのかもしれない。「将門首塚古墳」では、時代が500年ほど前後しておかしな呼称となるので、ここでは仮りに「柴崎古墳」と表現して記述を進めたい。
 現・大手町のこの場所へ、なんらかの聖域を記念する社(やしろ)、のちに「神田明神」Click!と呼ばれるようになる社殿が建設されたのは、古墳期末かナラ時代の初期のころだろうか。730年(天平2)には、すでに社が存在していて江戸地方の信仰を集めていた様子が記録されている。もともと江戸(エト゜=岬)の先端に位置する柴崎村に祭祀された神田明神だが、将門が出現したあとの後世に、そのエピソードに由来する「首塚」の伝説とが習合したものだろう。将門自身も、この社を訪れている記録(社伝)があるので、生前からなんらかの関係があったのかもしれない。
将門首塚1.JPG 将門首塚2.JPG
江戸(岬).jpg
 徳川家(世良田家)と、神田明神とのつながりも非常に古い。足利氏(のち室町幕府の主体)とともに、いまだ北関東(旧・上毛野地域)で世良田氏を名乗っていた鎌倉末期、世良田親氏(ちかうじ)は幕府執権の北条氏に謀反を起こして敗れ、信州へ落ちのびて剃髪し僧侶になっている。僧名を「徳阿弥」と称して、のちに各地を巡礼することになるのだが、柴崎村の神田明神に立ち寄った際、還俗(げんぞく)して武家にもどれという神託を受けている。その神託には、徳阿弥の1字をとって世良田とともに「徳川」姓を名乗れという託宣までが付随していた。
 そして、信州から三河の松平郷へと移り、在原保重に見いだされて・・・というのが、徳川(世良田)親氏をめぐる徳川家誕生の伝承だ。のちに、関東へともどり江戸へ幕府を開いた徳川家は、鎌倉期以前からつづく北関東ゆかりの世良田姓を復活させて、ふたつの姓を名乗るようになる。神田明神を江戸総鎮守社として奉ったのは、もともと徳川姓の発祥地だからだ。
 神田明神は一時期、柴崎村から神田山の山頂近くへと移されていたようだが、徳川幕府が本格的な江戸市街地の整備・造成工事をスタートさせると、湯島台の現在地へと再び社殿が移されている。神田山の膨大な土砂を、湿地帯や茅島の埋め立てに使いたい幕府としては、徳川家ゆかりの神田明神の遷座はもっとも重要な課題のひとつだったろう。また、柴崎古墳そのものは移築できないので、土井利勝に周辺域を屋敷地として与えて、古墳の保存・管理を命じている。こうして、千代田城大手門前の大名小路(旧・柴崎村)に残った柴崎古墳(俗に将門首塚)は、麹町区大手町となった大正後期までその姿を残すことになった。
後円墳丘部.jpg 前方灯籠部.jpg
柴崎古墳写真②.jpg
 明治期に入ると、柴崎古墳のある敷地には大蔵省と内務省の庁舎が設置されるが、柴崎古墳自体はそのまま手をつけられていない。旧・酒井雅楽頭の上屋敷にあった庭園とともに、ほぼ元の状態のまま残されていたようだが、関東大震災で両省が焼失すると、柴崎古墳の墳丘は崩され、同時に池も埋め立てられてしまった。1869年(明治2)に大蔵省が設置された直後の様子を、1907年(明治40)に出版された織田完之の『平将門故蹟考』(碑文協会)から引用してみよう。
  
 大蔵省玄関の前に古蓮池あり、由来是を神田明神の御手洗池なりと云ふ。池の南少し西に当りて将門の古塚あり、高さ凡そ二十尺週廻り十五間許、其の塚の傍ら古蓮池に沿って樅樹の巨大なる枯幹あり、古への神木なりと云ふ。東より西に向って苔石数段を登れば老桜樹あり、枝を交へて右に聳へ、また老桜樹の大なるもの古塚の背を擁して立ち、其の他柯(えだ)樹の老大なるものあり、森々鬱々として日光を遮ぎり、白昼も尚晦く陰凄として鬼気人に迫るを覚ゆ・・・
  
 著者には塚=円墳の先入観があるので、後円部の墳丘を計測しているのだが高さは約6mとちょっと、円周が約27.3mほどだから直径が9m弱ほどで、前方部を含めると20~30mほどの小さな前方後円墳を想定することができる。周濠を想定しても、全体で30~40m規模となるだろう。江戸湾が広く見渡せたであろう、岬の先端に埋葬された被葬者はいったい誰だろうか?
 さて、鳥居龍蔵が撮影した2枚の写真から、あるいは先に引用した『平将門故蹟考』掲載の図版などから、柴崎古墳のおおよその位置と向きがわかる。この古墳の前方部は、おおよそ東を向いている。つまり、明治期に設置された大蔵省と内務省の境界に沿って、ほぼ東西に築造されていた前方後円墳だ。したがって、後円部は千代田城側を向いていることになり、冒頭写真に写る背後の木々は、大手堀をはさんだ城内の樹林だ。写真では手前が前方部で、うしろに石碑とともに人が立っている墳丘が後円部ということになる。鳥居龍蔵は、大手町通りの側からシャッターを切っており、のちに大蔵省敷地と内務省敷地の境界に道路ができ、その道端となってしまう「将門首塚」の灯籠が手前左手に見えている。
 一方、以前にご紹介した同古墳を横方向から撮影した写真()は、大蔵省の焼け跡から南側(内務省の焼け跡方面)を向いて撮影されているのがわかる。そして既述のように、墳丘上には倒壊した石碑が再建されていないので、こちらの写真のほうが冒頭の写真よりも前である可能性が高い。いずれの写真にも、焼け跡を整理するための設備や工事人夫の姿が見られるので、後円部上に立つ人物の服装なども考慮に入れれば、撮影は1923年(大正12)の暮れも近い時期ではないだろうか。
明治末市街図.jpg 旧・大蔵省焼け跡.jpg
 柴崎古墳に限らず、鳥居龍蔵は旧・大名屋敷の庭園や、寺社の境内にされてしまったあまたの古墳を訪ね歩き写真に収めている。それらを見ると、江戸の旧市街地は古墳の密集地帯だったことがよくわかるのだが、いまではそのほとんどが破壊されて痕跡すらとどめてはいない。

◆写真上:鳥居龍蔵が大手町通りから西を向いて撮影した、震災から間もない「柴崎古墳」。
◆写真中上は、「将門首塚」の現状。は、江戸期以前の太田氏時代の柴崎村とその周辺。
◆写真中下は、写真の部分アップで石碑が再建された後円部墳丘()と、前方部の手前(南東側)に見えている灯籠()。は、写真より少し前に撮影されたと思われる「柴崎古墳」。
◆写真下は、各写真の撮影ポイント。は、震災直後に撮られた旧・大蔵省の焼け跡。


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