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学習院の丘の南斜面を考える。 [気になる神田川]

根岸大山01.JPG
 早稲田大学図書館に保存されている、寛政年間に書かれた金子直德『和佳場の小図絵』Click!の写本には、直德が選び絵師の県麿が再写して描いた鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」が付属している。当時の牛込馬場下町あたり(現・喜久井町界隈)の上空から北を向いた鳥瞰図で、東は関口から目白台、雑司ヶ谷、下高田、下落合、池袋などまでの展望が描かれている。
 そこには、下落合の藤稲荷(東山稲荷)に連なる下高田村の学習院の丘のことが、「根岸大山」と記載されている。それが記憶に残っていたので、現在の目白駅東側から金乗院のある宿坂までの丘陵地帯を、「大山」と呼んでいたのだと思っていた。江戸時代の中期ごろから、相模(現・神奈川県)の大山山頂の阿夫利社参りが大流行しており、富士講Click!に先駆ける大山講が江戸の各地で形成されていたから、その流行で「大山」というようなネーミングがされているのかもしれない……と考えていた。
 だが、同じ早大に保存されている白兎園宗周(実は金子直德の別筆名)による『富士見茶家』を参照すると、それが「大ノ山」ないしは「大山」と呼ばれていたことがわかった。同じく寛政年間に書かれた『富士見茶家』には、『和佳場の小図絵』と同じような鳥瞰図が添えられている。この鳥瞰図は、『和佳場の小図絵』とはまったく正反対に、遺構が現存している学習院内の富士見茶屋(珍々亭)Click!の上空から、南を向いて描かれている。
 目前に展開している地域は、下高田をはじめ下落合、上落合、上戸塚、下戸塚、諏訪、そして戸山方面までが遠望できるのだが、手前の学習院の丘にふられている名称は「根岸大山」ではなく、小山と集落にそれぞれ「大ノ山」と「子ギシノサト(根岸の里)」というキャプションが添えられている。改めて『和佳場の小図絵』を参照すると、「大ノ山」と「根岸の里」についての解説があることに気づいた。「大ノ山」から、金子直德の原文を引用してみよう。
  
 大野山 又おほ山とも云。此なら山は、大阪落城の節、大野道見、同子修理、弟主馬と共に没し、主馬の従弟勘ヶ由は関東をうかゞひ諸国流転して、元和元年(1615年)の十二月下旬に此山に忍び居けるか。郎党七八騎にて廿七日に餅を搗(つ)けるとて、末葉今に餅つきは廿七日也。無程正月の規式あれとて、幕を打廻し家居と定、萱葭を以、年神の棚をかき、松の枝を折て門に立、そなへのみ供して御燈もあげざりしは野陣なれば也。刀鎗をかざり、具足鎧兜など忍びやかに錺(かざ)りて春を迎へけると。其例とて今に其家の者、燈をかかげず、門松を縁者同士盗合て立てるなど吉例とせり。其いさましき事、昔の豫讓にも似んよひけん。其後、彌十郎は十五歳の時、浅草海禅寺にて切腹仰付られけると也。当時名主甚兵衛・同吉兵衛など、その末裔なり、今に栄へぬ。(カッコ内引用者註)
  
若葉の梢「根岸大山」.jpg
富士見茶屋「大ノ山」全体.jpg
富士見茶屋「大ノ山」.jpg
 読まれた方は、すぐにおかしな点に気づかれるだろう。豊臣家の遺臣であり、大阪冬の陣(1614年)あるいは夏の陣(1615年)から落ちのびたはずの大野氏が、いまだ戦後の落ち武者狩りの詮索・詮議が厳しい中、「諸国流転」して戦と同年である1615年(元和元)にわざわざ「敵」の本拠地である江戸へやってきて、しかも天領(幕府の直轄地)だった街道沿いの下高田地域に棲みつくことが可能かどうか?……ということだ。
 既存の村民からすれば、江戸の郊外方言とは言葉づかい(イントネーション)からしてまるっきり異なる、関西弁を話す騎馬姿だったらしい「落ち武者」たちに、なんの疑念も抱かなかったとは考えにくい想定だ。以前、江戸期には「豊臣の遺臣」で明治以降はなぜか「南朝の遺臣」へと“変化”した、雑司ヶ谷村の某家系について触れたけれど、『和佳場の小図絵』の現代語訳である『新編若葉の梢』Click!の編者・海老澤了之介Click!も書いているように、「ありえない」ことだろう。名主だった甚兵衛さんや吉兵衛さんが依頼した、大江戸で大流行した「系図屋」(家系図を創作する商売)のずさんな仕事ではないか。
 寛政年間には、「大山」または「大ノ山」と呼ばれていたということなので、本来は大山講の影響からそう呼ばれていたものが、いつのころからか地元の有力者である名主の大野家と結びついてそう呼ばれるようになったか、あるいは逆に寛政以前の江戸前期に、大野家が当該の丘陵地帯に住んでいて「大ノ山」と呼ばれていたものが、大野家がよそへ移るとともに、やがて「大山」と省略して呼ばれるようになったものか……、いずれかの経緯のような気がする。ちなみに、海老澤了之介は『新編若葉の梢』の中で、赤城下改代町にあった近江屋主人の物語を記録した『増訂一話一言』を流用し、「大山」または「大野山」が、以前は「大原山」と呼ばれていた事蹟を紹介している。それによれば「大原山」が、「大山」または「大ノ山」に転化したと解釈することもできる。
 さて、きょうの記事は「大ノ山」の由来がテーマではなかった。宗周(直德)の『富士見茶家』に添付された鳥瞰図には、今日の地形から見ておかしな表現がいくつか見えている。まず、現在の学習院が建つ丘の南斜面は凸凹もなく、かなりストンと山麓まで鋭角に落ちている。ところが、『富士見茶家』の鳥瞰図には、あちこちに小山(塚)のような突起が南斜面に描かれていることだ。そのうちのひとつ、富士見茶屋(珍々亭)の南東にある斜面の突起には「大ノ山」と書かれている。雑司ヶ谷道Click!に接するこの位置には、1927年(昭和2)の初夏に目白通りの北側から移転してきた学習院馬場Click!がある位置だ。
富士見茶屋跡.JPG
宗周「富士見茶屋」(早大).jpg 安藤広重「雑司ヶや不二見茶や」.jpg
根岸大山02.JPG
 また、同図によれば茶屋の南側にあたる斜面にも、「見晴処」とキャプションがふられ丸い小山(塚)が描かれている。現在では、富士見茶屋跡の南側はすぐに急斜面であり、そのまま大きなマンションの目白ガーデンヒルズ(それ以前は運輸技術研究所船舶試験場の細長い建物)まで鋭角に落ちている地形だ。もっとも、この鳥瞰図に描かれた富士見茶屋の位置をどこにするかで、地形の読み方も変わってくるのかもしれない。鳥瞰図にも描かれ、安藤広重が描く『富士三十六景』の「雑司ヶや不二見茶や」Click!にも取り入れられた、葦簀張りの日除けがつく縁台が、溜坂の坂下と同じ地平にあるようなおかしな表現も見うけられる。もし鳥瞰図に添えられたキャプションの位置が誤りで、「見晴処」とふられた小山の上が富士見茶屋(珍々亭)だとすれば、また地形の見え方も変わってくる。
 だが、それにしても学習院が建つ丘の南斜面の表現が、あまりに今日とはちがいすぎるのだ。同斜面にあったいくつかの塚状のふくらみを、江戸後期から明治期にかけて田畑の拡張開墾の際、あるいは学習院が移転してきた明治末の敷地整備の際にすべて崩して、斜面全体の地形を大きく改造しているのではないだろうか。1880年(明治13)に陸軍が作成したもっとも早い時期の1/20,000地形図Click!には、等高線が粗いせいか南斜面の凸凹は確認できないが、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図では、すでに今日とあまり変わらないバッケに近い急な斜面状になっているのがわかる。
 幕末から明治期にかけ、鎌倉時代に拓かれた雑司ヶ谷道、やがては大きく蛇行を繰り返す神田上水へと下る斜面を形成していた、通称「大山」(あるいは丘陵全体を総称して「根岸大山」と呼ばれていたのかもしれないが)の南斜面には、いくつかの塚状突起が存在していたのではないか。鳥瞰図によれば、「見晴処」や「大ノ山」を含め3~4基の塚状突起を見ることができる。江戸後期の耕地拡張か、あるいは明治期の学習院キャンバスの造成時かは不明だが、大がかりな土木工事が同斜面に実施されている可能性がある。斜面を鋭角に切り崩すことによって確保できたのが、戦前から逓信省船舶試験所の敷地であり、「子ギシノサト(根岸の里)」までつづく学習院馬場の敷地だったのではないだろうか。
根岸大山03.JPG
根岸大山04.JPG
根岸大山05.JPG
 さて、「根岸の里」について詳細に記述する余裕がなくなってしまったが、『和佳場の小図会』によれば「ねがはら(根河原)」の里とも呼ばれ、古くから人が住みついており「冬暖にして夏涼し。水清くして野菜自然に生立ちぬ。めで度所なるべし。蛍大きくして光格別につよしと云」と書かれており、この地域では非常に住みやすいエリアだったことがわかる。目白崖線の南斜面を背負っているので、丘上とは異なり北風が吹く冬場には特に暖かかったのだろう。同書の鳥瞰図を見ると、大名の中屋敷や下屋敷、旗本屋敷などを避けるように、下高田村の家々が建ち並んでいる様子が描かれている。

◆写真上:富士見茶屋(珍々亭)跡の下に建つ、元・船舶試験場跡の巨大なマンション。
◆写真中上は、金子直德『和佳場の小図絵』写本(早稲田大学蔵)に付属する鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」の一部。は、白兎園宗周(=金子直德)『富士見茶家』に付属する鳥瞰図の中央部。は、同図の「大ノ山」周辺の部分拡大。
◆写真中下は、学習院大学内に残る富士見茶屋(珍々亭)跡。中左は、早大に保存されている宗周(=金子直德)『富士見茶家』。中右は、安藤広重の『富士三十六景』のうち「雑司ヶや不二見茶や」。は、雑司ヶ谷道から見た「大山」山麓の現状。
◆写真下は、斜面を削って整地化した敷地に造られた学習院馬場。は、「根岸の里」方面へ下りる学習院内の山道。は、「根岸の里」があったあたりの現状。このあたりの斜面も削られ、垂直に近いコンクリートの擁壁が造られている。


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神田川沿いへ展開する染め物工房。 [気になる神田川]

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 明治期の、いまだ澄んでいた大川(隅田川)沿いに散在していた江戸小紋や江戸友禅、紺屋などの染色業Click!が郊外へいっせいに移転しはじめるのは、明治末から大正期にかけてのことだ。旧・神田上水Click!江戸川Click!(ともに現・神田川)沿いにも、数多くの染色会社や工房が移転してきて、1955年(昭和30)刊行の『新宿区史』によれば、京染めをはるかに凌駕した江戸東京染めは、実に都内染物生産額の75%を新宿区の旧・神田上水(江戸川)沿いに建っていた工場や工房が占めるまでになっている。
 郊外へ移転する前、下谷二長町で染物屋をしていた方の証言が、1991年(平成3)に出版された『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』7巻(台東区芸術・歴史協会)に収録されている。地付きの家は、江戸期から大工だったようだが、著者の親の世代から染物業に転換し、現在でも埼玉県草加市で操業をつづけているようだ。同書の長谷川太郎「江戸っ子職人三代の二長町」から、江戸小紋を生産していた工房の様子を引用してみよう。
  
 父の染めの仕事は着物の染めでした。小紋ですね。そのほかお人形さんと、羽子板の押絵に使う友禅などもやったんです。小紋というのはなかなか技術のいる仕事で大変なんです。/布地一反といえば三丈(一丈は十尺で約三メートル余り)ありますから、これを板に張って染めるのに一丈五尺のもみ板を使うんです。反物の幅は九寸から一尺位あってそれに耳をつけますから一尺四~五寸はあるんです。/それで一丈五尺の板の裏表で丁度三丈の布が張れるんですね。この板を三十枚も五十枚も揃えておいて使っていたんです。だから染屋は仕事場が広くないと出来ないんですね。/昔はね、手拭屋さんとか紺屋さんとか染屋さんがこんな小さな町にも何軒もあって、そこで働く職人さんがうんといたんです。染屋産ではいわゆる小紋をやっているのが多かったですね。それが震災後に新宿の落合方面とか、江戸川の方とかへ散って行ってしまいましてね。
  
 ここでいう「江戸川」とは、大滝橋Click!から千代田城外濠への出口にある舩河原橋Click!までの神田川のことで、葛飾区を流れる新しい江戸川のことではない。
 現在では、これらの工房は法人化され染め職人は会社員となっているが、戦前までは仕事をおぼえるまでの年季奉公ないしは徒弟制度がふつうだった。尋常小学校あるいは高等尋常小学校を終えた子どもたちは、「小僧」として工房に入り、仕事(技術)をおぼえて一人前になるまで毎月20~30銭の小遣いで働くことになる。戦前、小僧の「年季明け」は19歳の兵役検査がめやすで、たとえば20歳から2年間の兵役につき、除隊すると1年間の「お礼奉公」があった。
 お礼奉公の期間は、いちおう給料が支払われ1日あたり1円30銭~1円50銭が相場だったらしい。1年間をすぎると、一人前あつかいで1日あたり1円80銭~2円と給料が上がり、月の合計給与は当時の一般サラリーマンよりも多めになる。休日はほとんどなかったが、昭和に入ってからは会社員をならって、日曜日を休日にするところが多くなった。
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 つづけて、同書の「江戸っ子職人三代の二長町」から引用してみよう。
  
 昔は月給というのはありません。今の様に休みが多くないからまあ一年中働いていた様なもので、天長節であろうが何であろうが関係ないんです。昔の休日といえば月の一日と十五日、少し後になって第一、第三の日曜日が休みという事になったんですが、もっと昔は年に二回、一月と七月のやぶ入りだけだったんですからね。(中略)/お小遣いを二十銭とか三十銭もらってね、大体行く所は浅草ですよ。かすりの着物に鳥打帽スタイルです。映画を見て食べて帰るんですが、まあ一銭でも安い所を探すわけですよ。支那そば十銭とかね、探すと八銭の所もありましたよ。十戦のカレーライスとかね、カツレツとかフライなんかもあるんです。
  
 ここで「藪入り」の話が出てくるが、東京は新暦なので1月1日に正月(2月の旧正月は存在しない)、7月7日の七夕のあとに盆をやる習慣は当時もいまも変わらない。正月と盆に雇用人へ休暇を出すことを、藪入りといっていたのだが、現在では8月の旧盆のことを親たちの世代から藪入りと呼んでいる。従来は、東京地方の7月15~16日の盆に合わせて休暇を出していたものが、8月の旧盆のままの地方も少なくはないので、戦後は8月に休暇(夏休み)を出す会社が多くなった。したがって、本来はシンクロしていた7月の盆と藪入りが分離してしまったわけだが、それでも8月の旧盆休みを、わたしの子どものころまで東京では「藪入り」と呼ぶのが習わしだった。10月は「神無月」だが、出雲(島根)のみは「神有月」と呼ぶのと同じような感覚だ。
 でも、高度経済成長がスタートしてしばらくすると、地方から働きにくる人々が増えたため、藪入り(旧盆)のことを「盆」と呼ぶ人たちも増え、東京では7月の盆と8月の旧盆が二度あるような感覚になってしまった。それではおかしいので、7月の盆はそのままで8月の旧盆は「藪入り」ではなく、最近では「夏休み」と表現する企業も増えている。
 本来なら、8月の半ばが盆なら、正月は2月1日でなければおかしいし、七夕も8月7日でなければまったく暦(こよみ)に合わないのだけれど、1月1日が正月、3月3日が雛祭り、5月5日が端午の節句、7月7日が七夕、7月半ばが盆……という習慣を頑固に守っているのは、いまや江戸東京地方を含む関東地方だけになってしまったものだろうか。
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 さて、江戸小紋の染めつけは浮世絵の版画を何色も重ねて刷るのと同じで、非常に高度なテクニックが必要だった。浮世絵は、失敗すればその刷り紙を廃棄すればいいが、小紋は布が一尺五寸もあるので、やり直しがまったくきかない。型紙は、和紙を何重にも重ねた渋紙でこしらえるが、それに小刀で模様を切っていく。これも高度な技術が必要で、寸分の狂いもない神業のような腕が求められた。
 戦前の染めには化学染料が使われたが、ドイツからの輸入品が多かったらしい。だから、第1次世界大戦でドイツが負けると、染料の価格が高騰してたいへんだったようだ。朝方は1匁(もんめ)10円で買えた染料が、夕方には20円になっていた……などという話もめずらしくなかった。大正の中期ごろ、染め物業者は食うや食わずで染料の入手に奔走していたという。だが、戦後は和服の需要が急減し、職人の数も激減している。落合地域の江戸小紋や手描き友禅の工房も、いまや40軒あるかないかの件数にまで減ってしまった。
  
 しかしあたしはもう和服はやめました。残念ながらこれでは食っていけませんからね。それで今は無地のものの機械染めをしているんです。スポーツ用品のバッグとか、かばん類、登山用のテントとか、合成せんいの消耗品が主です。最近はこういう需要が多いんです。まあこの機械染めならば後継者もやれて永続性がありますから。
  
 落合地域の神田川や妙正寺川沿いでは、いまだ着物を染めつづけている工房Click!が少なくない。いまや、江戸小紋や江戸友禅の“本拠地”になってしまった同地域だが、少しでも地場や地域の産業を盛り上げようと、さまざまな企画や催しClick!が行われている。
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 余談だが、江戸小紋の染めに使われた長さ1丈5尺で幅1尺5寸の染め板は、戦時中に「風船爆弾」Click!の製造用に軍へ徴集されている。和紙や羽二重の布へこんにゃく糊を塗る、下敷きの作業台にされていたのだ。陸軍登戸研究所Click!による風性爆弾は、本所国技館Click!浅草国際劇場Click!などで製造されていたけれど、軍の最高機密であるにもかかわらず、親父でさえ戦時中からその存在を知っていた。ヒロポン(覚せい剤)を注射された女学生たちが徹夜で作業し、到底「作戦」とも呼べない風まかせの偶然性に依拠した風船爆弾を語るとき、「どう考えても勝てるわけがない」と苦笑していた親父を思い出す。

◆写真上:しぶい浅縹色(あさはなだいろ)の、精緻な柄が美しい波頭文様の小紋。
◆写真中上:江戸小紋の作業工程で地染め()と型紙止め()、そして型染め()。
◆写真中下は、丸刷毛と染め布。は、現在でも染めの工房が多い妙正寺川(神田川支流)沿い。は、何度かお邪魔した上落合にある染の里「二葉苑」Click!
◆写真下:戦後に撮影された、浅草国際劇場()と本所国技館()。は、江戸小紋の染め板を使いこれらの施設で製造されていた「風船爆弾」のバルーン。


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感応寺の「裏」側の秘密。(下) [気になる神田川]

鼠塚古墳跡1.JPG
 金子直德(1750~1824年)が書いた『和佳場の小図絵』Click!は、上巻が1792年(寛政4)に、下巻が1798年(寛政10)に脱稿している。原本は、残念ながら失われてしまったようだが、いくつかの写本が現存している。よく知られているのが、早稲田大学図書館と上野図書館に収蔵されているものだが、上野図書館の写本には金子直德が監修し絵師に描かせた、絵図『曹曹谷 白眼 高田 落合 鼠山全圖(雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図)』が現存している。
 つまり、実際に安藤対馬守下屋敷が存在していた寛政期ごろに、同地域とその周辺をリアルタイムで写生した風景図ということになる。その絵図の左端に、安藤対馬守下屋敷が採取されているが、その北側に「鼠塚」と称する大きな双子の山が描かれている。江戸期の絵図は、縮尺も方角もアバウトであり、厳密な位置規定はしにくいが、池袋村の丸池Click!が描かれた池谷戸と安藤家下屋敷の間に、ちょうどふたつの形状がよく似た山が重なるように描かれている。この「鼠塚」と付された相似の双子山が、前方部へ新たに築かれていた円墳状の墳丘であり、1936年(昭和11)の空中写真でも薄っすらと面影が確認できるサークルのように思えるのだ。
 そうだった場合、双子山のベースを形成していた大規模な前方後円墳(180m超)の後円部は、すでに寛政年間には崩されて存在せず、農地あるいは屋敷地として開墾されてしまっていた……ということになりそうだ。この時期まで残っていたのは、双子山に見えるふたつの墳丘(円墳状)だけだった。また、字名に「狐塚」が残る一帯には、特にニキビClick!状の塚は描かれていないように見える。直径20~30mほどの墳丘では、絵図に採取するほどの規模ではなかったということだろう。換言すれば、「鼠塚」と呼ばれた双子の山が非常に目立つ、付近では伝承を生むまでの大きな存在だった……ということになる。
 また、安藤家の下屋敷南側に、「鼠山」とふられている点も興味深い。安藤家下屋敷が存在しない江戸前期には、同家敷地も含めた一帯が「鼠山」と呼称された御留山Click!(立入禁止の将軍家鷹狩り場)だった。厳密にいえば、寛政期の「鼠山」と呼ばれたエリアは安藤家下屋敷の西側へ移行しつつあり、安藤家下屋敷の南側(手前)、絵図では下落合の七曲坂が通う突き当たりは、すでに下落合村と雑司ヶ谷村旭出(あさひで:高田村誌)のエリアになっていたはずだ。それでも、「鼠山」と付記されているところをみると、いまだ寛政年間まで一帯を通称「鼠山」と呼称する一般的な慣習、ないしは地域的な概念が残っていた様子をうかがい知ることができる。その後、鼠山の概念は西側の椎名町Click!寄りへとずれていく。
 さて、もうひとつの風景画を見てみよう。江戸中期だから、おそらく『和佳場の小図会』の絵図よりもかなり前に制作されたのではないかとみられるのが、武家で俳人と思われる喜友台全角という人物が描いた『武蔵国雑司谷八境絵巻』(早稲田大学所蔵)だ。同絵巻の紙質や筆跡、画風、描かれている人物の風俗などから享保年間(1716~1735年)、あるいはその少し前と推定されている。寛政年間(1789~1801年)よりも、約70年ほど前に描かれたと想定されている作品だ。
 雑司ヶ谷とその周辺の8つの風景を収録した、いわば名所絵巻といったコンセプトの作品だが、その中に「鼠山小玉 長崎之内」という画面がある。画面には、「麺棒のこだまからむやつたかつら(麺棒の木霊絡むや蔦葛)」という秋の句が添えられている。蕎麦を打つ音が、蔦かづらが絡む木立に吸いとられ、響きが遠くまで聞こえないほど草深い土地……というような意味になるのだろう。絵の解説を、1958年(昭和33)に新編若葉の梢刊行会から出版された、『江戸西北郊郷土誌資料』から引用してみよう。
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 鼠山は一名椚山(くぬぎやま)ともよばれていた。今の椎名町の東南方、目白・池袋寄りの一帯の高台の称である。元禄・享保の昔は、この辺は蔦かつらの生い茂った椚の原始林で、兎や狐狸の棲処であった。ここで猪狩を行ったという伝説もある。絵には小高い丘の麓にある田舎家で、麺棒を振って蕎麦を打っている所を見せ、家の傍は蔦のからみ付いている木立を描き添えてある。蕎麦はこの辺の名物であった。
  
 「長崎之内」と書かれているので、長崎村から「鼠山」の方角を向いて描かれていると想定することができるが、がぜん注目したいのは丘上に描かれた巨大なドーム状の、ふたつ(ないし重なりを考慮すると3つ)のふくらみだ。自然にできた丘上の形状とはとても思えず、なんらかの人工的な手が加えられた構造物のように見える。
 現在の地形から考えてみると、丘の麓にあたる鼠山の西側=長崎村の平地から安藤家下屋敷のある丘陵一帯、つまり谷端川に向かって傾斜する北斜面(南東)を眺めてみても、描かれた丘陵の中段ぐらいまでの高さ感覚であり、これほどの高度や盛り上がりは感じられない。ましてや、丘上からさらに立ち上がる巨大なドーム状のふくらみなど、今日では存在していないのだ。このふたつのドーム地形は、いったいなんなのだろうか?
 前回ご紹介した空中写真、あるいは『和佳場の小図会』の記述や絵図から想定すれば、いずれかのドームが「鼠塚」であり、もうひとつの大きなドームが未知の塚ということになりそうだ。わたしは、左側の大きなドームがふたつ重なって見えるほうが、寛政期の『雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図』に描写された「鼠塚」であり、右側のドームがいまだ見つけられていない「鼠山」西部の墳丘(円墳ないしは前方後円墳の後円部?)ではないかと考えている。寛政期を迎える以前、享保年間ぐらいまで西側から「鼠山」一帯を眺めると、このような異様なドーム状の“なにか”が丘上に起立し、いまだ崩されずに存在していたのだと思う。
 また、これらの大規模な古墳を形成する経済的な基盤、すなわち古墳時代の集落跡や遺構が周辺に存在しているかという課題だが、豊島区側にも下落合側にも部分的だが古墳時代の遺構が発掘・確認されている。大規模な集落跡などは、すべてが住宅街の下になってしまっているので、これからも発見・発掘するのは困難かもしれないが、古墳期になにもない“原野”に、突然巨大な古墳群が出現しているわけではないことを、いちおう確認しておきたい。「鼠塚」とみられる画面左手に描かれたドーム、すなわち空中写真では安藤家下屋敷の北辺に確認できる3つの大きな古墳群を、これからの便宜上「安藤家鼠塚古墳群(仮)」と呼ぶことにしたい。
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 古墳とみられる巨大な塚を築造した勢力が、落合側にいたのか長崎側、あるいは雑司ヶ谷・池袋側にいたのかは不明だが、これらの墳丘が見下ろしている谷間を前提とすれば、そしてそのような古墳築造をめぐる古代人の「宗教観」や死生観的な慣習、すなわち「先祖が見守ってくれる高台の位置」を意識するのであれば、古墳群の集落基盤は谷端川(もちろん古代の流域は大きく異なっていたかもしれない)が通う長崎一帯(現・長崎、南長崎、目白5丁目、西池袋4丁目など)にあったのではないかと考えている。
 さて、「鼠山小玉 長崎之内」画面で手前の蕎麦を打つ農家は、長崎村のどこにあったか?……というような詮索は、おそらくムダだろう。画面は、日本画の手法で描かれているのであり、構成的な要素が強いとみられるからだ。この蕎麦打ち農家は、「鼠山」の丘がこのように見通せる田畑の中ではなく、比較的にぎやかな清戸道Click!(せいどどう=現・目白通り)沿いの長崎村に建っていたのかもしれず、また雑司ヶ谷村でスケッチしておいた農家を、「鼠山」画題の下に配置しているのかもしれないからだ。ただし、「鼠山」の情景は他の名所と同様、実際に現場を歩いてスケッチしているのだろう。
 寛政年間には見られた「鼠塚」をはじめ、これらの墳丘とみられるドーム状の巨大な構造物は、おそらく幕末までは残らなかったのではないだろうか。それは、幕府が安藤家の下屋敷地に指定したときに、最初の大規模な土木工事が行われ、また幕府が感応寺の境内として大々的に整備した際には、念押しの整地化によって徹底的に崩され、さらに大名屋敷や旗本屋敷に区画割りされたときにも整地化が行われているのかもしれない。また、周辺の村々のニーズとして、田畑の拡張や増産をめざす開墾も、幕末に向けては常時つづけられていただろう。明治期の早い地形図を参照しても、すでにこれら巨大なドーム状の「塚」ないし「山」は、特異な地形として記録されてはいない。
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 『武蔵国雑司谷八境絵巻』の「鼠山小玉 長崎之内」に描かれた左手の大きなドーム=「鼠塚」の、さらに西寄りとわたしが考えている右手のドームは、まったく未知の存在だ。戦後の1947年(昭和22)に、焼け跡を撮影した空中写真を参照すると、小規模なサークルらしい痕跡はいくつか発見できるが、描かれたほどの巨大な塚状サークルは、いまだ発見できていない。非常に興味深い事蹟なので、引きつづき調べていきたいテーマだ。
 
◆写真上:「安藤家鼠塚古墳群(仮)」のうち、ベースとなる巨大な前方後円墳の後円部とサークル②のちょうど境界あたりに建つオシャレな邸宅。
◆写真中上は、上野図書館収蔵の『和佳場の小図会』に付属する『雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図』(部分)。は、その「鼠塚」部分の拡大。は、「安藤家鼠塚古墳群(仮)」にあるサークル②の西北辺にあたる空き地。
◆写真中下は、早稲田大学収蔵の『武蔵国雑司谷八境絵巻』のうち「鼠山小玉 長崎之内」。中左は、『和佳場の小図会』の下巻(早稲田大学蔵)。中右は、『武蔵国雑司谷八境絵巻』の巻頭(同)。は、鼠山エリアにある「目白の森公園」内の池。
◆写真下:いずれも、鼠山エリアにあたる現在の街並み。


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感応寺の「裏」側の秘密。(上) [気になる神田川]

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 目白通りの北側、下落合の北端と接するように建てられていた、安藤対馬守下屋敷Click!(寛政年間の呼称で、のち感応寺Click!境内)の北側(裏側)にあった字名にも残る「狐塚」Click!と、その周辺に展開する古墳群とみられるサークルについて書いたことがある。池袋駅西口から徒歩5分ほどの立地にもかかわらず、大正末から昭和初期の郊外開発ブームでも、また戦後もしばらくたった住宅不足の時代でも宅地化が進まず、草原のまま放置されていた南北の細長いエリアだ。その一部は上屋敷公園となって、現在でも住宅が建設されてない。
 ちょうど、狐塚に連なる古墳とみられるいくつかのフォルムは、雑司ヶ谷村と池袋村の境界にあたる位置で、金子直德が寛政年間に書きしるした『和佳場の小図絵』の記述とも重なる事蹟だ。だが、金子の記述にはもうひとつ、長崎村との境界にある「塚」の記述も登場していた。つまり、池袋村と雑司ヶ谷村の間にある記述は「池袋狐塚古墳群(仮)」でいいのかもしれないが、それでは長崎村が除外されてしまう……という課題だ。当該箇所を金子直德の原文から、そのまま引用してみよう。
  
 同屋敷(安藤対馬守下屋敷)後ろ(千代田城から見たうしろ側=北側)中程に鼠塚、又はわり塚共狐塚共云。雑司ヶ谷と池袋長崎の堺と云。(カッコ内引用者註)
  
 「鼠塚」「狐塚」「わり(割)塚」(割塚は全国に展開する、古墳を崩して道路や田畑を拓いた一般名称)が、それぞれ別個のものを指すのか、同一のものの別称なのかは曖昧だが、塚の規模やかたちを想定するなら、それぞれ別々の塚名と考えても不自然ではないことは前回の記事で書いたとおりだ。また、この文章では「雑司ヶ谷村と池袋村と長崎村」の3村境界にある塚ではなく、「雑司ヶ谷村と池袋村」および「雑司ヶ谷村と長崎村」の境界にある塚群……というような意味にも解釈できることに気づく。
 つまり、前回の記事では、戦後まで「狐塚」の残滓がそのまま存在していた、雑司ヶ谷村と池袋村(字狐塚)の境界一帯に注目していたけれど、長崎村側に近い境界は細かく観察してこなかった。そこで、さまざまな時代の空中写真を仔細に調べてみると、先の「池袋狐塚古墳群(仮)」よりも規模が大きなサークル群を、雑司ヶ谷村と長崎村(一部は池袋村にもかかる)の境界に見つけた。
 しかも、その一部は安藤対馬守下屋敷(幕末の感応寺境内)北辺の敷地に一部が喰いこんでおり、狐塚周辺で確認できるサークルよりもかなり規模が大きい。おそらく、安藤対馬守(それ以前に安藤家は但馬守Click!を受領)の下屋敷建設のとき、さらには感応寺の伽藍建立の時期に、大規模な墳丘がならされ(下屋敷地整備あるいは寺境内整備)、整地化されているのではないかとみられる。
 さらに、これらのサークル上にあったとみられる巨大な墳丘が、江戸期に描かれた図絵や絵巻物にも残されていることが判明した。ただし、絵図に記録された“山”や、絵巻に描かれた2つの後円部とみられる巨大なドーム状の墳丘が、空中写真で確認できる崩されたとみられるサークル痕のいずれに相当するのかは、裏づけの資料が乏しいので厳密には規定できない。それぞれの表現が、明治以降の洋画作品に見られる写実的な風景描写ではなく、日本画の“お約束”にもとづく構成的で、慣習的な表現を前提としているからだ。
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 さて、わたしが「なんだこりゃ?」と気づいたのは、1936年(昭和11)に目白文化村Click!上空から撮影された写真を眺めているときだった。江戸前期には全体が「鼠山」Click!と呼ばれた御留山(将軍家が鷹狩りをする立入禁止の山)一帯で、江戸後期からはその東側が安藤但馬守(のち対馬守)の下屋敷となり、幕末には感応寺の境内、その後は明治維新まで小さめな大名や旗本の屋敷、寺社の抱え地が64区画ほど設置されていた敷地の北側に、直径50m余のサークルを見つけたときだった。同年の写真でも、このサークルはちょうど円の内外を木立が取り囲み、内側には住宅が建てられていない。
 別の上空から撮られた写真も含め、さまざまな角度からサークルを観察すると、当初発見したサークル(便宜上サークル①と呼ぶ)の北側にも、同じぐらいの規模のサークルらしいフォルム(サークル②と呼ぶ)のあることがわかった。そして、1947年(昭和22)に米軍によって撮影された戦後の焼け跡写真を観察すると、サークル①の痕跡は地面の色が異なることで確認でき、サークル②はうっすらと円形に拡がる地面の、段差らしい影を確認することができる。
 さらに、翌1948年(昭和23)の空中写真を見ると、サークル②の左下(西側)の円弧部分へ、“く”の字型の道路が敷設され、驚くべきことに戦後のバラック住宅がサークル②の中心点に向かって、放射状に建設されているのがわかる。つまり、この時期まで道路を直線ではなく、なにか(おそらく地面の段差にもとづく以前からの地籍に起因)を避けるように“く”の字に敷設し、バラック住宅を放射状に建てなければならない、なんらかの地形・地籍的な制約があったと想定することができるのだ。
 わたしは見つけた当初、このサークル①と②の形状に夢中になっていた。地理的にみれば、これらのサークルは安藤家下屋敷の敷地にも喰いこんでいるので、南側の雑司ヶ谷村(雑司ヶ谷旭出=現・目白3丁目)と西側の長崎村(現・目白4丁目)とにまたがっており、『和佳場の小図絵』に記載された雑司ヶ谷村と長崎村の「堺」の記述に合致するからだ。また、幕末の『御府内往還其外沿革図書』の表現からすれば、東側から安藤家下屋敷に沿って細長くシッポのように西へ伸びた、池袋村の村境にもかかる規模だったからだ。
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 でも、1947年(昭和22)の焼け跡写真を拡大して観察するうちに、より重大なかたちに気がついた。双子のようなサークル①と②は、文字通りサークルにしか見えないことだ。つまり、後円部らしいフォルムは確認できても、古墳時代の前期に多く見られた前方後円墳の前方部が、サークル①と②には確認できない。たとえば、下落合摺鉢山古墳(仮)Click!新宿角筈古墳(仮)Click!成子天神山古墳(仮)Click!などの痕跡では、土地の起伏や道の敷設のしかた、戦災後の焼けの原の土色などから容易に前方部を想定することができた。しかし、サークル①と②は、どう目をこらしても前方部と認められる正円形からの張り出しが認められない。
 前方後円墳から帆立貝式古墳、やがては前方部を省略することが多くなった、古墳時代後期の双子のくっついた円墳かと思いはじめたとき、焼け跡の空中写真からこのサークル①と②を飲みこむように、もうひとつ別の大きなかたちがふいに見えてきたのだ。それは、東の池袋村から南の安藤家下屋敷、そして西の長崎村へとまたがる、全長180mほどの鍵穴型のフォルム、すなわち巨大な前方後円墳のかたちだった。しかも、この鍵穴型のくびれの両側には、「造り出し」跡とみられる痕跡までが確認できる。
 サークル①と②の構造物とみられるフォルムは、この巨大な前方後円墳の前方部へ重なるように造られていた様子がうかがえる。つまり、前方後円墳の玄室がある後円部はそのまま残し、玄室への入り口がある羨道部から前方部に向かってサークル②が、その南西側に残った前方部にはサークル①が造られた……という経緯に見えるのだ。
 このような古墳の築造法の場合、主墳である前方後円墳の被葬者のごく近親者(親族)がサークル①と②へ、あまり時代を経ず寄り添うように葬られた倍墳のケースと、主墳の被葬者の子孫たち、つまり古墳時代もかなり進み、新たに巨大な墳墓を築く非合理性や宗教観・慣習の変化から、先祖の大きな墓の一部を崩して土砂を流用し、円墳状の墳墓を形成したケースとが考えられるだろうか。
 また、まったく別の見方として、前方後円墳の被葬者とは敵対するどこかの勢力がこの地域を制圧して、既存の墳墓の土砂を削りとって流用し、ふたつの新たな双子状の古墳(円墳)を築造した……とも考えられなくはない。蘇我氏の墳墓といわれる、玄室が“丸裸”にされてしまった飛鳥の石舞台古墳や、出雲の「風土記の丘」Click!=宍道湖の湖東勢力圏に見られる一部の古墳など、墳丘が崩され土砂を別の用途に使われてしまったのが好例だ。
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 でも、もともとあったとみられる前方後円墳の重要な玄室部、被葬者が埋葬されて眠る大きな後円部を崩さず、前方部へ後円部よりも規模がやや小さめな墳墓を築造しているように見えるので、もともとの被葬者を尊重したなんらかのつながりのある親族・係累、あるいは子孫の墳墓ととらえるほうが自然だろうか。では次に、金子直德と同時期あるいはそれ以前の時代に残された、絵巻や図絵の「古墳」風景を検証してみよう。
                                   <つづく>

◆写真上:安藤対馬守下屋敷(のち感応寺境内)の西端で、現在でも道筋はそのままだ。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に下落合の目白文化村上空あたりから撮られた空中写真。は、同年に撮影された別角度の空中写真。は、幕末の『御府内場末往還其外沿革図書』に描かれた感応寺が廃寺になったあと1854年(嘉永7)現在の同所。
◆写真中下:1947年(昭和22)の空中写真にみる同所()と、同じ写真に見つけたフォルムを描き入れたもの()。は、当時の道筋が残る安藤家下屋敷の北側接道。左手の敷地がかなり高くなっており、当初は切通し状の道だったことがうかがえる。
◆写真下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同所。サークル②に沿って拓かれた“く”の字の道沿いへ、バラック住宅が②の中心に向かって放射状に建てられているのがわかる。は、サークル②西側にある“く”の字道の現状。は、サークル②の東端あたりで巨大な前方後円墳フォルムの玄室部に近い位置。サークル①②の双子山古墳が「鼠塚」で、巨大な墳丘を貫通する道を拓いた後円部が「割塚」と呼ばれたのかもしれない。


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神田川沿いの薬剤製造工場。 [気になる神田川]

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 落合地域の川沿いには、昔から染色業や印刷業に加え、化学薬品を製造する企業や工場が多い。それは、神田川(旧・神田上水)の清廉な水質が、化学工業に適していたからだろう。たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)を参照すると、明らかに化学工業会社とみられる社名の企業や研究施設は、すでに5社を数えることができる。すなわち、坂上免疫剤(株)、亀井薬品研究所、三菱薬品研究所、池田化学工業(株)Click!、そして戸塚化学工業(株)の5社だ。
 『落合町誌』の「産業」章から、その一部を引用してみよう。
  
 旧神田川沿岸一帯は水質良好なる関係上晒染、製氷、衛生材料等、概して利水の工場多く設立せられて、工業地帯を形成す、商業は未だ賑はず、日用食料の小売業者多きを占む、昭和六年末町内に於ける会社の数は三十三社にして、其種別は株式会社十七、合資会社十四、合名会社二である。
  
 この事情は、神田川の南側に位置する戸塚町(現・高田馬場/早稲田地域)でもまったく同様で、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)によれば、テーエス東京製剤(合資)や(合名)河中工業所などの工場名が挙げられている。
 また、神田川の北側に位置する高田町(1920年までは高田村)でも薬品製造の工場は早くから進出し、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)には、規模の大きな工場が紹介されている。以下、『高田村誌』の「工業地としての高田」から、水野製薬所についての紹介文を引用してみよう。
  
 大正六年五月中の創立に係り、場主は水野善一氏たり、現在生産品は炭酸マグネシウムにして即ち軍艦汽船の塗料剤及はみがき、ごむ製品材料としての用途に充つ。販路は日本内地及輸出向とし、刻下孜々として諸製薬研究の続行中に属せり。場所は高田五三四と成す。
  
 戦時中に、これら川沿いの工場は軍需品の製造現場となっていたので、B29による空襲の目標となり、ほとんどの工場が爆撃で破壊されるか、それ以前に空襲に備えた建物疎開Click!で郊外へと移設されている。戦後、いち早く復興したのも、これら神田川の水を利用できる沿岸の工場群だった。1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』(新宿区)によれば、1949年(昭和24)の時点ですでに24社の化学薬品企業が操業をスタートしている。また、3年後の1952年(昭和27)には30社へと増えている。
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 現在でも、これら地域の神田川沿いには、製薬会社あるいは化学研究所は多いが、戦前はこれらの企業や研究所と軍部(おもに陸軍)が結びついている例も少なくなかっただろう。陸軍では、特に軍事機密(化学兵器)ではない薬剤に関しては、製薬会社に委託して研究開発を進めているケースが見られる。特に落合町をはじめ、中野町、戸塚町、高田町など神田川沿いの製薬会社や研究所は戸山ヶ原Click!も近く、陸軍の化学兵器開発の本拠地である陸軍科学研究所Click!や軍医学校などに近接していたからだ。
 さて、台東区が発行した資料『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正。昭和』第7巻に、薬剤店の息子が神田川沿いにあった神田和泉町の東京衛生試験場へ入所し、陸軍向けの毒ガス解毒剤を開発していた証言が残されている。当時、薬剤の専門家をめざすには、明治薬学専門学校か東京薬学専門学校のいずれかを卒業する必要があり、著者は1939年(昭和14)に明治薬専を卒業している。
 当初、陸軍は毒ガスの解毒剤を製薬会社に作らせようとしたが、採算が合わないと断られ、著者が入所していた東京衛生試験場で製造することになった。以下、同書所収の藤田知一郎「千束町二代、薬店から工業薬品へ」から引用してみよう。
  
 そのころ試験所では戦時医薬品を作れという事で、新しく製薬部っていう所が出来た時なんです。/この製薬部は三つに分かれていました。一つは窒息性毒ガスの解毒剤を作る所、一つは睡眠剤で今でいう精神安定剤を作る所です。これは戦場で狂う人ができるんでその安定剤なんです。もう一つは殺菌剤で、アメーバ赤痢の特効薬でキノホルムって有機性の薬品を作るところです。これはヨードチンキの代わりに傷にもきくんですが現在は発売禁止になっている薬です。/私は毒ガスの解毒剤を作る製薬部にまわされました。この解毒剤はロベリンというんですが、それまではドイツから買っていたんです。ところが当時で一グラム百二十円もするものですから、とても買い切れないので日本で作ろうという事になったんですね。製薬会社で作らせようとしたんですが、とても採算が合わないというので引き受けてがなくて、それでは国で作ろうという事になったんです。
  
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 もうひとつ、著者の文章には貴重な証言が含まれている。陸軍の召集令状である「赤紙」Click!については広く知られているが、「青紙」の役割りについてはあまり知られていない。陸軍の公式的な資料から「青紙」=“防衛招集”などと解説する資料もあるけれど、戦時中に「青紙」が果たしていた役割りはまったくちがう。以下、同書からつづけて引用してみよう。
  
 それから間もなく、五月になって軍から青紙が届いたんです。青紙というのは赤紙の召集令状が来る前の待機命令で足止めなんです。赤紙が来たら宇都宮の軍隊に入る事になっていました。それではというので覚悟して準備をしていましたら八月十五日の終戦になったんです。
  
 戦争も情勢が不利になってくると、「青紙」が居住地からの移動や地方疎開の禁止、つまり召集者へ「赤紙」がとどく前の“禁足”措置として機能していた様子がうかがえる。わたしの親父も話していたが、「青紙」がとどくと当人は現在居住している地点から移動できなくなり、転居や疎開Click!ができなかった……という証言とも一致する。召集予定の当人を除き、家族だけで転居や移動(疎開)ができない家庭では、そのまま親や妻、子どもたちも「青紙」にしばられて現在地へ残ることになる。
 この「青紙」により現居住地に“禁足”され、東京大空襲Click!山手空襲Click!などに巻きこまれて、その家族たちも含め生命を落とした人々がどれだけいたものだろうか。いまでは記録も残されてはおらず、「青紙」犠牲者のすべてが闇の中だ。
 また、製薬研究所や製剤会社へ陸軍が発注した劇薬がもとで、死亡した職員や社員がどれほどの数にのぼるのか、こちらも統計がないのでまったく不明だ。彼らは、単なる職場の「労災」として片づけられただろうが、まちがいなく戦争の犠牲者たちだ。
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 大正中期あたりから、さまざまな新聞や雑誌、書籍などの広告欄に製薬会社だけでなく、薬品を小売りする薬局の広告が急増してくる。このころから、いわゆる市販薬・民間薬の製造工場が川沿いを中心に急増し、高い診察料をとる医院にはかかれない庶民たちが購入するようになった。現代のように、「国民皆健康保険制度」が完備するのは、戦後の東京オリンピックが開催される3年前、1961年(昭和36)になってからのことだ。

◆写真上:現在でも神田川沿いには、大手製薬会社やケミカル会社が営業つづけている。
◆写真中上は、1919年(大正8)出版の『高田村誌』に掲載された水野製薬の媒体広告。は、1955年(昭和30)に撮影された田島橋下流の工業地域。は、上掲の写真とほぼ同じ位置からの撮影で戦後の下落合に設立された代表的なケミカル会社。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に作成された「各区便益明細図」にみる高田馬場駅周辺で、化学や製薬の会社・工場が各所に見えている。下左は、池袋の津村敬天堂が1928年(昭和3)に制作した媒体広告。下右は、大日本麦酒の製薬部門が1943年(昭和18)に週刊誌の裏表紙へ掲載しためずらしいカラー広告。
◆写真下は、1919年(大正8)の『高田村誌』掲載の薬局と医院の広告。は、中野区の写真資料館に掲載された昭和初期の薬局。なんだか副作用がたくさん出そうな薬局で、「わいは危険ちゅうわけやな」…とあまりこの店では買いたくない。w


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