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負け犬のシネマレビュー(23) 『サンシャイン・クリーニング』 [気になる映像]

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いやはや、この先の20年はどうなるんでしょうねえ

『サンシャイン・クリーニング』(クリスティン・ジェフズ監督/2008年/米国)

 以前ここで取り上げた『リトル・ミス・サンシャイン』と同じ制作チームが手がけたサンシャインシリーズ第二弾。といっても“サンシャイン”は偶然の一致らしいが、こんどの家族もなんだかせつない。
 姉ローズは『魔法にかけられて』のお姫さま、エイミー・アダムス。高校時代はチアリーダーだったと言われたら確かにそんな風貌である。しかし高校のアイドルも三十路のいまはシングルマザー。ティーンエージャーみたいな安っぽい下着(こういうチョイスにスタッフのセンスが光る)で、輝ける時代の彼氏と不倫とは、ちょっとなさけない。
 妹ノラは『プラダを着た悪魔』でいい味出していたアシスタント役のエミリー・ブラント。いまだ実家で父と同居するパンクなフリーター役もお似合いだが、このパパ、アラン・アーキンこそ最高! 『リトル・ミス』でドラッグが止められず老人ホームを追い出されたおじいちゃんだ。ミスコンのアイドルをめざす孫娘にとんでもないショーの振り付けを吹き込んだ末、自分はさっさとあの世にいってしまうおちゃめな頑固者、今作でも調子に乗ってます。
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 やけに気になると思っていたが、孫息子が手に入れたレトロな双眼鏡を目にしたときの、にやけた表情と子どもじみた口調「ちょっと、それ貸してみろ」で謎が解けた。わが父にそっくりなのである。いや、このオジサンと父以上に身につまされるのが、結婚もムリ、何をやってもダメな姉妹なのだけれど。
 妙な作り話で甥を混乱させるマイペースが妹の特権なら、一生懸命は姉の宿命か。前向きだが冷静さに欠け、張り切れば張り切るほど空回りする要領の悪さはいかにも長女。不安を追い払うように鏡に向かって「あなたは強い、パワフル、何でもできる」と鼓舞する姿、いかにもアメリカと思ったら、最近日本もこんな感じの自己啓発が大流行りのようで。
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 ダメ、ムリなんて否定的な“ネガティブワード”が運を下げるらしい。なるほど、そうなのか…と、隣合わせた女子の話に聞き耳立てれば、できると自分に言い聞かせる、成功した姿をイメージする、念ずれば通じる、しまいには、いいことだからみんなに教えてあげている……なんだ、そりゃ。新手の宗教か、あるいはねずみ講か。しかも成功した経験がないから困っているのにどうやってイメージするのだ? 
 “失われた”10年が20年になりそうないま、ポジティブシンキングはスピリチュアルと結びついて新しい貧困ビジネスの誕生…って、あまりにも短絡的というか、手ぇ抜いてない? だってこういうの、1980年前後に日本版が出た『コスモポリタン』が毎号「成功するための○カ条」みたいな小特集を組んでいた。最新の自己啓発が30年前のアメリカの女性誌の焼き直しでは、ちょっと興ざめ。それにネガティブワードというが、目上のひとからのどうしてもできない頼まれごとには、いやーわたしにはとてもムリと断るしかない。もともと日本語は、ひとつの言葉にネガとポジの両面で表裏一体を為すものである。それをひとつの意味に集約してしまうのは情緒がない。
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 歴史は繰り返すというが、その時代を知るひとにとっては“失われた”時代も、十代二十代にはただの過去。20年前に生まれた子どもはそろそろ成人。かれらはこのどん底の現実を生き、この先も生きていかなければならない。本気でかれらを思うなら、机上の空論ではなく、その椅子を明け渡してあげるのがいちばんの近道だ。そう、この映画のパパみたいに。今作のパパ、エンディングはちょっとかっこいいぞ。
                                               負け犬
『サンシャイン・クリーニング』公式サイトClick!
飯田橋ギンレイホールClick! 11月28日(土)~12月11日(金) 同時上映『人生に乾杯!』


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負け犬のシネマレビュー(22) 『ヴィヨンの妻』 [気になる映像]

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 生きていさえすればいいのよ
 『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』(根岸吉太郎監督/2009年/日本)

 前作『サイドカーに犬』で、竹内結子がこの原作文庫を読んでいるのを見て、根岸吉太郎の次回作は『ヴィヨンの妻』に違いないと確信し、発表前からあちこちで言いふらした。公開が決まってからは観もしない先から、今年のナンバーワンだと会うひとたちに勧めまくった。
 なにしろあの古田新太から、あれだけの色気を引き出した監督である。浅野忠信の“大谷”がどれくらいダメでいい男か、観るまでもない。ところへもってきて浅野の離婚報道である。うわー、これ絶対、役に入り込んでいるなと思ったら案の定。宣伝用のポスターでは、大きななりして背をまるめ、松たか子に手を引かれるように歩いている。松が毅然と顔をあげているのに対し、はにかみ笑う浅野の目線は宙を泳ぎ、空いているほうの手にはさくらんぼの包み。これと予告編だけで、もう胸が張り裂けそうになる。
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 同級生が『人間失格』ってすごいよと言っているころ、私は、ふん、メロスを書いた作家なんて…と、見向きもしなかった。オッサンとチンピラばかりの映画館の隅っこで小さくなって、雨に降られて入れ墨が落ちる『まむしの兄弟』に、せつないなぁと、涙していた。R15なんて指定がない時代とはいえ、相当変わった女子中学生である。泣くべきときに泣いておかなかったせいか、中年以降は涙腺のフタがぶっとんだみたいに泣ける。困ったものだ。
 青春時代に出会うはずの太宰と対峙したのは、すっかりオバサンになってから。最初に読んだのが、岩波文庫の『ヴィヨンの妻・桜桃』だった。いや、もうまいった。ぜんぶで十編の短編に出てくる男みな最低で、最高。あたりまえである、これすべて太宰治という一緒に死んであげると言ってくれる女に事欠かない色男なのだから。自分の足もとも固められないくせして、言うことだけは理にかなって素晴らしい。やけ酒呷って八つ当たりに吐くヘリクツがまた、あまりにも自分勝手過ぎて怒るのを通り越し、笑ってしまう。
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 なにしろ松たか子演じた大谷の妻さっちゃんは、家に帰って来ない亭主に会うために、なんでもっと早く飲み屋で働くことに気づかなかったのだろうと言う天真爛漫(大谷に言わせれば「体がだるくなるほど素直」な女)さ。好きな男のために襟巻きを万引きするような女である。堤真一演じた元彼氏がほかの著作に出てくるのか、あるいは太宰の嫌いな“文化”とか“愛”なんてことばをシラフで口走る象徴としての役柄なのかはわからない。ただ松たか子のさっちゃんが“やられ”る相手を、行きずりの工員でなく、いまは弁護士となったかつての彼氏としたあたりに、いい意味でも悪い意味でも作り手の男らしさを感じる。とはいえ妻夫木聡が演じた工員はどこかで読んだ憶えのある「奥さんをください」なんてセリフを口走る屈託のなさで、この起用には納得できる。
 納得といえば広末涼子も然り。そのことしか頭にないような崩れ方と話し方がほんとにいやらしい。『ヴィヨンの妻』だと大谷のために身を持ち崩す年増女でしかない役を『桜桃』の数行とくっつけただけで、太宰の絶望しているのだか、ひとを食っているのだかわからない世界をみごとに体現した。松演じるさっちゃんの不自然なまでの清潔さが、裏を返せば、見切りをつけたらすぐ次の男に行けるいまどきのたくましい女に通じるなら、見かけばかり威勢のいい広末の秋ちゃんは、そこにいない男にいつまでも焦がれて死にかねない。
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 こういう対極にある女ふたりを真ん中に立て、女を引退したような顔をしながら大谷といいこともあったおかみさん、それこそコキュなのに自分には真似できない大谷に惚れ込んでいるみたいな飲み屋の亭主……なんて人間模様を描けてしまう根岸吉太郎も、ベテラン脚本家の田中陽造(と書きながら、ふと陽造は葉蔵からきているのかと思ったが、それは余談)も、相当大谷的。無邪気な顔して、ひとの心にずかずか入り込み、あんたが甘やかすから俺がつけあがってしまうんだ、なんてセリフを吐いてきたんじゃないんですかねえ。
                                                  負け犬
『ヴィヨンの妻』公式サイトClick!
全国の主要映画館Click!でロードショー公開中


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負け犬のシネマレビュー(21) 『扉をたたく人』 [気になる映像]

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 見て見ぬふりをできない人たち
 『扉をたたく人』(トム・マッカーシー監督/2007年/米国)

 先日、四谷にある韓国文化院に「ハンとは何か」という講習を聴きに行った。
 なんでも韓国の韓というのは、あてるなら桓という字で、ハンという言葉には一、多、中、大、凡という5つの意味があるとか。神はひとつでなく、やおよろず受け容れるその思想は、ひとつでたくさん、まんなかへんで大きく、およそ、という、いいかげんといえばいいかげんなもの。したがって恨という漢字をあてた韓半島の感情を現す言葉も、単なる怨みではなく、いろんな意味が含まれるらしい。私はこれを、客のテーブルに水をこぼしておいて「ケンチャナヨ(大丈夫)」と笑ってすますウェイトレスに通じる適当思想と判断したが、こういういいかげんさこそ、いまみたいな時代に必要かもしれないとも思う。
 講師の金先生も言っていたが、教育や観光など文化交流のプロが必死でがんばっても破れなかった日韓の壁は、韓流ドラマとそのファンがいともたやすくぶっ壊した。まるで誤報によって崩れたベルリンの壁のように。人間も同じ。表に見せている面の下に別の面が用意されていて、それはほんのちょっとしたきっかけで表出するのだ。
 この映画の主人公である大学教授はほかにすることもないから去年の素材で今年も講義をするつもりだ。融通が利かず、やる気もないのは妻を亡くして落ち込んだ気分を引きずっているからだが、かれより忙しい教授に頼まれニューヨークの会議に出席しなければならなくなる。そこは奥さんと過ごした思い出の場所。ためいき混じりで長いあいだ留守にしていたマンションを開けると、見知らぬ住人が……というところから、物語ははじまる。
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 たいていのひとは初対面の相手に戸惑う。ひらたく言えば怖れる。海のものとも山のものとも知れない人は怖くてあたりまえ。持つ人と持たない人に分ければ、持つ者ほど持たざる者を怖れるだろう。しかし、このオジサン、戸惑いながらも怖がっていない。ここは長年教室で若者たちを見てきたからだろう。興味を持ち、ためらいながらも期待する。常に他人から見下されてきた人は当然猜疑心が強くなり、生まれ育ちに恵まれた人は物事をポジティブにとらえる。万国共通の感覚を、ありふれた風貌のリチャード・ジェンキンスがごくふつうに演じる。さすがアカデミー主演男優賞にノミネートされただけあって演技は上手いが、ジャンベ奏者のハーズ・スレイマンや、その母ヒアム・アッバス、彼女ダナイ・グリラも負けていない。ひとりの人間が一瞬にして持つ複雑に絡み合う感情を、ことばではなく顔が語る。それぞれの登場人物と、その表情には、そのときそのときのひとつではない心模様が満ちている。
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 フェラ・クティの音楽も、ジャンベの演奏も、予告編や前評判ほどインパクトはない。派手なアクションもない。人物の心理描写で魅せる。何度も見たような話なのに惹きつけられる。それは丁寧だからというほかない。一生物の家具を選ぶのに似た感覚とでも言おうか。オーギー・レンのタバコ屋みたいな店が出てくる街角や、路上で売られているモノや、売っている人…物語の背景も自然で落ち着きがあり、作った人のセンスが出ている。まさに引き算の美学。いい意味でアメリカらしくないこんな映画と、こんな目線を、ニュージャージー生まれの移民でもない、まだ若いトム・マッカーシー監督が持ち得たことに驚く。公開時の4館から270館まで拡大したというから、アメリカとアメリカ人、まだまだ捨てたものじゃないです。
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 『愛を読むひと』(2008アメリカ・ドイツ)もまた見て見ぬふりができない人の物語。お金をかけたわりにケイト・ウィンスレットの老けメイクが稚拙なのは差し引いて、ブルーノ・ガンツ扮する法科の教授が「判断は道徳的かどうかではなく合法かどうかで決まる」というセリフも聞き逃せない。
                                                                                          負け犬
『扉をたたく人』公式サイトClick!
飯田橋ギンレイホールClick! ~11月13日(金) 同時上映『愛を読むひと』
早稲田松竹Click! 11月21日(土)~27日(金) 同時上映『キャデラックレコード』
飯田橋ギンレイホールでは、駅ビルで「RAMLA×ギンレイホール シネマフェスティバル」Click!
を開催中。


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負け犬のシネマレビュー(20) 『イントゥ・ザ・ワイルド』 [気になる映像]

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あまりにも純粋な不器用さが痛々しい
『イントゥ・ザ・ワイルド』(ショーン・ペン監督/2007年/米国)

 エルサレム賞を受賞した村上春樹は、ちいさな卵と立ちはだかる壁があれば、どちらが正しくても自分はいつでも卵の側に立つとコメントしていたが、正誤を決定するのは誰なのかという疑問が残る。小説にしろ、映画にしろ、芸術とはマイノリティに身を置き、そこに視点を据えるのは言わずもがな・・・。
 しばらく足が遠のいていた映画館へ久しぶりに向かわせたのは、監督ショーン・ペンという名前。『ステート・オブ・グレース』(90)のすばらしすぎる演技に、こいつ、ただの不良じゃなかったんだと驚いた。そのとき感じた“もやもや”を、翌年自ら監督した『インディアン・ランナー』で解明し、95年にはジャック・ニコルソン、アンジェリカ・ヒューストンを迎え『クロッシング・ガード』を演出。ジョン・カサヴェテス亡き後のアメリカの影を継ぐのはかれをおいてほかにないと確信した。
 そのペンの名とともに「青年はなぜ荒野に消えたのか」という宣伝コピーを見て、また犯罪の話かと思った負け犬、あほですねえ。そうであろうとなかろうとショーン・ペンだもんね、と出かける負け犬、ミーハーですねえ。でも出かけた甲斐はあった。めずらしくクリント・イーストウッドが監督に徹しながら音楽があまりにもひどかった出演作『ミスティック・リバー』(03)の面目躍如、選曲がすばらしかった。
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 基本、リュック担いで自分探しに出かけるようなやつは裕福な家の子どもだ。家庭環境に多少問題があるにせよ、中流に生まれて成績優秀で将来を嘱望される人間がなぜひとりで荒野をめざすのか。望んだわけでもないのに毎日がスリリングでエキサイトな家庭内荒野に身を置いてきた負け犬には感情移入できないが、ここで泣かすぞと盛り上がる音楽には、ついもらい泣き。金持ちの息子に感情移入はできなくても、ないものねだりは人の情。自分を試してみたい気持ちはわかる。
 かつては私もコトバの通じない国で何カ月もひとりで暮らせるひとを超人のように思い、憧れた。しかし実際にリュックひとつで旅するひとと出会ってみれば、かれらも寂しがりで小心で、だからこそ孤独に身を置いてみたい自分と同じ弱虫だとわかる。理屈っぽすぎて日本じゃ使えない極端なインテリもいれば、頭はいいのに体が動かない口ばかり達者なのもいる。長居すればジャンキーにもなるし、お金がなくなれば1円2円高い率での両替に躍起になるしみったれにもなってしまう。
 そういう人間を目の当たりにし、また自分もそうなりかけているのに気づいたとき、帰らなきゃまずいぞと思うのが旅だ。しかし、この映画の主人公クリス・マッカンドレスは生真面目すぎた。潔癖すぎた。裏を返せば融通のきかない頑固者である。ジャック・ロンドンもソローもトルストイもいい。それはわかる。でも90年に大学を卒業したアメリカ人が、なぜトバイアス・ウルフを読んでいないのだ。その自伝を映画化した『ボーイズ・ライフ』でジャック・ロンドンに傾倒する主人公を好演したディカプリオは言う。
 「今日から僕のことをジャックと呼んでくれ」
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 クリスも、アレグザンダー・スーパートランプなんて名乗るくらいのユーモアはある。でも、きっとトバイアス・ウルフを読んでいなかったのだろう。『ボーイズ・ライフ』を読んでいたら、命の次に大切なお金や、車を捨てたりしなかったかもしれない。ひとのこと言えないが中途半端な読書は、中途半端な頭でっかちになるだけだ。
 同じロードムービーでも『テルマ&ルイーズ』とか『天使が見た夢』とか『ベーゼ・モア』なんて女が主人公の映画はどれも衝撃のラストまでにプライドどころか、見栄も意地もかなぐり捨てるのに。とはいえ、いま挙げた映画はクリスのようにストイックな旅ではないが。
 この旅に出たことをクリスは、ほんとうに一度も後悔しなかっただろうか。路上生活をしながら、旅の途中で出会ったひとの遠慮がちな忠告を聞いておけばよかったと、一度も考えなかっただろうか。くたくたになるほど体を酷使して働きながら、こういう経験をしたいがために旅に出たのだと、心の底から自分の選択に胸を張れただろうか。それを想うとせつないが、男のいう純粋は、命をかけて意地を張る“向こう見ずなあまのじゃく”のことらしく、ぜんぜん感情移入できないぞ。
 でも、嫌いになれないんだな、こういう男・・・。
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 DVD発売中。アラスカの大地を大きな画面で見たい方は、私の大好きな三軒茶屋シネマ(4月4日から『その土曜日、7時58分』と同時上映)へ。
 役者ショーン・ペンのアカデミー主演男優受賞作『ミルク』は4月18日から公開。ゲイを公言しながらカリフォルニア州で初めて公職選に公認されたハーヴェイ・ミルクの映画は、ガス・ヴァン・サントの本作以前にドキュメンタリー作『ハーヴェイ・ミルク』(84)もあるので興味がある方はこちらもどうぞ。
                                               負け犬
『イントゥ・ザ・ワイルド』公式サイトClick!
「三軒茶屋シネマ」にて4月4日(土)~17日(金) 同時上映『その土曜日、7時58分』Click!


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負け犬のシネマレビュー(19) 『キャラメル』 [気になる映像]

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愛しきもの、それはけなげにして滑稽な女たち。
『キャラメル』(ナディーン・ラバキー監督/2007年/レバノン=フランス)

 PAPAさんブログご愛読の皆さま、お久しぶりです。新しい読者の方には、はじめまして。負け犬Click!です。
 最近映画観てないの? 久しぶりにお会いしたPAPAさんに訊かれて思い出したのが、数週間前に雨のなか観に行ったこの映画である。東京国際映画祭での上映から気になっていたのだが、なにしろ日本語も怪しい負け犬、英語字幕じゃとても無理とあきらめていたら、ちゃんと公開されていた。
 駆け込みでごらんになる方がいるかもしれないので、その先はあえて伏せるが『キャラメル』というタイトル、味わい深いダブルミーニングになっている。
 舞台はレバノン。ベイルートである。トルコはユルマズ・ギュネイが、イランはキアロスタミやマフマルバフが、街の様相や人びとの暮らしを伝えてくれた。しかしレバノン、その昔ベイルート発のAP通信で伝え聞いたニュースはどれもヘビーで、いったいどんな街なのか想像もつかない。
 旅行に地図を持参しない(おかげで連れは大迷惑だが)私、映画も極力予備知識を入れずに観るようにしている。それでも好評は耳に入り、目につく。期待しすぎて裏切られるのが嫌だからだが、期待した以上によかったものもある。そういう意味では期待どおりだった。
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 ま、ケニアの街なかをキリンが歩かないように、ベイルートもごくふつうの首都である。ドライバーは連日の交通渋滞にいらつき、若い警官は駐車違反の取り締まりに余念がなく、見放されたような空き地もあれば、いかがわしいホテルもある。外が雨降りだったせいか、照りつける陽射しと、砂が匂いたつような画面が気分を盛り上げてくれる。さらに舞台がエステサロンである。髪にしろ、顔にしろ、ボディにしろ、人に手入れをしてもらうひとときは何物にも代え難い至福の時間。高級でなくていいからリラックスしたい。その点このサロンはヘアサロンも兼ねていて、あまりお高くなさそうなのも私好みなら、ビビッドなコスチュームや派手なメイク、大げさなアクセサリーがいかにもアラブっぽくて素敵だ。年齢や家庭環境、宗教、性向…いろいろ違っても恋する彼女たちはみなチャーミングで、さらにうれしいことには、みなそそっかしい。
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 叶わぬ恋があれば、偶然が幸運に繋がってもすんなり運ばず、恋する対象は人とはかぎらず、華やかなスポットライトに恋した女は寄る年波に逆らって、さらに老いを強調する。あーあ。いい大人の女が四人も集まってそんな解決策はないだろ、と、ついツッコミを入れたくなる箇所は数知れない。そうして怒りながら目頭が熱くなるのは私が女で、頭ではまちがいとわかっていながら真剣に(傍から見れば滑稽きわまりなく)さらにまちがった方向に突き進んでしまうからだろうが、もうひとつは、この映画のようないい意味のおおざっぱさや、この物語のようになるようになるさという考えが好きだからである。よほど気が向いたときしか観ないが、ハリウッドの大作などは始まって何分後に展開をはじめ、何分後に逆転して…と秒単位で計算されているようで、観ているときは没頭するが余韻が残らない。しかし、この手の佳作(といってもアカデミー賞レバノン代表作にして世界30カ国で絶賛されている)は、制作中の熱気が伝染するように後を引く。
 そういえばカラメル、ほどよい火加減だと甘いお菓子になるのに、炎が強すぎたり、長いあいだ火にかけすぎると、ただの黒焦げの塊。それでも凶器のように尖った砂糖の固まりも口に入れてみなければ気が済まない。顎の内側をずたずたにしながら噛みくだくにはつらすぎ、飲みくだすには苦すぎて、間を持たせるために鍋底を引っ掻き回しても、一度こびりついた焦げ跡は水で薄めようと、熱を加えようと容易には剥がれない。これがまた、ねちねちしつこい。そう、これこそが豊かな人生に欠かすことのできない痛みと楽しみ、つまりビターでスウィートな恋である。
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 それにしても、ばりばり仕事をこなす女が優柔不断な男にハマるのが世界共通なら、いかにして若さを保つかも世界共通のようだが、もう決して若くなくなって思うのは「歳を取るのも悪くない」ではなく、「歳を取るのはなかなかいい」ってこと。主演女優にして、脚本、監督までひとり三役を手がけたナディーン・ラバキーの素晴らしさは自分と同年代の女性だけでなく、頭もお花畑状態のリリーとの生活を支えるため、日がな一日ミシンを踏むローズという60代の姉妹をキャスティングしたところである。人の服を仕立てるばかりで自分は着た切り雀の妹役を演じた、ジャンヌ・モローにも似たきりっとした美人、絶対かの国のベテラン女優だと思ったら、ごくふつうの主婦だというから驚くが、ラスト姉妹の映像は最高にせつなくて素晴らしい。
                                                                                          負け犬
『キャラメル』公式サイトClick!
「渋谷ユーロスペース1」にて3月20日(金)までロードショー


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しつこいですが東京大空襲64年目。 [気になる映像]

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 先日、亀戸天神社で恒例の「梅まつり」をやっていたので、久しぶりに観にいってきた。菅公の亀戸天神は、江戸期の1663年(寛文3)建立なので、江戸東京では相対的に新しい「名所」だ。でも、幕末にはかなり人気があった地域とみえ、安東広重の『名所江戸百景』には、第30景「亀戸梅屋敷」と第65景「亀戸天神境内」の2景が取り上げられている。
 この2景は、画家であるモネとゴッホが模倣したことであまりにも有名だけれど、ゴッホの描いた「梅屋敷」は明治期の水害で消滅し、モネが描いた亀井戸天神の風景は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で跡形もなくなってしまった。ただし、関東大震災Click!にも東京大空襲Click!にも焼け残った建物がある。天神社境内の北西部、神輿蔵の並びに建っている大きな蔵だ。
 亀戸は、当初はB29の爆撃目標にされていなかった・・・という話を、いつか親父から聞いたことがある。米軍は、隅田川の東側沿岸である本所・深川・向島界隈、そして西側沿岸の日本橋・神田・浅草界隈を爆撃の主目標にしていたというのだ。隅田川の東側は、横十間堀(川)つまり錦糸町あたりまでが爆撃エリアであり、さらに東を爆撃する予定ではなかったらしい。
 大川の両岸は繁華街も多く住宅が密集し、また工場も多かったので爆撃の最優先エリアだったようだが、実際にB29による爆撃が開始されると、ナパーム焼夷弾の威力が想定以上だったため、その周辺域にも余剰の焼夷弾で爆撃を加えていった・・・という経緯なのだろう。事実、亀戸への爆撃は本所・深川地区に比べ、かなりの時間的なズレがある。だからこそ、本所・深川地区で被爆した人たちは、いまだ火災が見えない亀戸方面をめざし、横十間堀(川)を渡っていったのだ。ところが、避難した先にも焼夷弾Click!が霰のように降りそそぐことになった。空襲の猛火をくぐり抜けた亀戸天神社の蔵は、あちこちに焼け焦げを残しながら現在でも往時のままの姿で建っている。
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 話は変わり、千葉県南房総で青木繁が1904年(明治37)に描いた、『海の幸』の仕事場である古民家保存の活動をされている、「NPO法人安房文化遺産フォーラム」Click!の池田様より、映画『赤い鯨と白い蛇』(せんぼんよしこ監督)上映会へのお誘いを受けた。青木繁が滞在した古民家の近くには、中村彝Click!が滞在して1910年(明治43)に制作した『海辺の村(白壁の家)』Click!の描画ポイントもある。映画は、高円寺で上映されるということなので、さっそく出かけてみた。
 せんぼんよしこの作品は、わたしも過去にTVドラマを何本か観ているけれど、特に印象に残っているのは1988年(昭和63)にNTVで放映された、井上光晴Click!原作の『明日-1945年8月8日・長崎-』だろうか。彼女のドラマはよく観ているが、映画作品は初めてだった。(初監督作品ということだ) 会場となった「セシオン杉並」のロビーには、東京大空襲の被爆直後の写真が10数点展示されていた。大空襲の資料類で、わたしにも見憶えのある写真ばかりだ。
 『赤い鯨と白い蛇』は、このサイトでも先年記事にしたことがある、米軍による首都攻略の「オリンピック作戦」Click!に備えていた敗戦まぎわ、千葉の館山で防衛任務(特殊潜航艇「海龍」基地の特攻任務)についていた海軍士官と、士官を宿泊させていた民家の女学生との淡い恋物語・・・なのだけれど、映画のほとんど全編が当時ではなく現代の館山を舞台に描かれている。わたしの義父が、ちょうど九十九里浜で塹壕堀りをしていたころを起点とする物語だ。
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 館山は、戦前から海軍の聨合艦隊が集結する海であり、横須賀で建造された軍艦が公試運転を行なう海域でもあった。1940年(昭和15)に「紀元2600年」の観艦式に集まった、館山沖の聨合艦隊の姿をとらえた空中写真が現存している。また、敗戦が濃厚になり突貫工事で造られたため、非常に象徴的で皮肉な運命をたどった、横須賀海軍工廠の大和型戦艦の3番艦「信濃」(途中で航空母艦に改装)が、工事をつづける造船所の技術者や作業員たちを大勢乗せたまま、最後の公試運転を行なった海でもある。(その姿もB29の偵察機によって撮影されている) 湘南海岸や鎌倉ではほとんど壊され消えてしまったけれど、館山には湘南と同じように海岸のあちこちに、「オリンピック作戦」に備えて造られたコンクリートのトーチカや地下施設が、そのままの姿で現存している。
 ネタばれになるので詳しくは書かないけれど、戦時中のシーンをほとんど挿入せず、現代に生きる女性たちの姿を描くだけで、これほど「あの戦争」を強く感じさせる作品もめずらしいだろう。直接、「戦争は悲惨だ」という描写はほとんどなく、70代から20代までの4世代(小学生まで入れれば5世代)にわたる女性の生き方を通して、「教科書」に載る歴史としての出来事ではなく、消すことのできない痕跡をいまに残すもの・・・として、連綿と今日まで継続して繋いでみせた。むしろ、そこここで笑ってしまうシーンが多いのは、向田邦子Click!ドラマ(『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』など)のコンビで懐かしい、樹木希林と浅田美代子の絶妙な“かけあい”や“間”があるからだが、香川京子のリアリティあふれる演技がひときわ光っていた。
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 映画は感動的で、また「楽しく」鑑賞できたのだけれど、気になったのは「セシオン杉並」の会場のほうだ。主催したのが「杉並女性団体連絡会」だったせいか、男性があまり・・・というかほとんどいなかった。気がつけば、570席ある座席のほとんどが女性で占められていた。それにしても、「戦争」へ敏感に反応するのは、現在でも“産む性”たる女性のほうが多いのだろうか? それを象徴するかのように、映画のラストシーンには出産したばかりの母子が登場している。
 『赤い鯨と白い蛇』Click!では、妊娠から出産を決意する20代前半の女性がひとり描かれているけれど、同じせんぼんよしこの『明日』では、難産でようやく出産したにもかかわらず、明日へ生きられなかった母子が描かれている。B29の爆音が響くなか、投下されたパラシュート付きの原爆を見上げ、本能的な戦慄からスイカを取り落としてしまう助産婦(妊婦の母?)も、樹木希林が演じていた。

■写真上:亀戸天神の境内に残る、関東大震災と東京大空襲とをくぐり抜けてきた蔵。
■写真中上は、亀戸天神の「梅まつり」の様子。は、1947年(昭和22)の亀戸天神上空。
■写真中下・下:せんぼんよしこ監督の映画『赤い鯨と白い蛇』より。
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ドラマ『襤褸と宝石』にみる佐伯像。 [気になる映像]

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 数日前から大風邪を引いてしまい、熱に浮かされ文中であらぬことを口走っていましたら、すかさずご指摘ください。一昨日も、彫刻家・夏目貞良の作品を『聖徳太子』などと書いてしまいましたが、まったくの妄想で正しくは『女の胸像』です。(なにが「聖徳太子」なんだか?/熱爆!)
  
 1980年(昭和55)9月8日のNHK特集で放送された、ドラマ『襤褸と宝石』(中島丈博・脚本)のシナリオをようやく手に入れて読んだ。わたしは、当時いまだ学生でアルバイトに忙しく、午後7時30分から放映されたこの作品を見逃している。シナリオを読んで感じたのは、現在の佐伯祐三および佐伯米子の一般的なイメージは、このドラマによる影響が大きいのではないか?・・・という点だ。
 以前から、このサイトでも何度か触れているけれど、事実とフィクションとの境界線がとても曖昧になる、あるいは事実関係が正反対になってしまうという事例を、特に芝居や講談の世界において書いてきた。目白(旧・雑司ヶ谷)の四ッ谷が舞台となった『東海道四谷怪談』Click!と、四ッ谷見附近くの四谷左門町の文政町方書上に記録されている、江戸期に実際に起きたエピソードとがごっちゃになり、被害者と加害者とが入れ替わってしまう(何度も子孫の方が訂正されても認知されない)、あるいは江戸の現地でただの一度も取材や調査をしたこともない戯作者(竹田出雲)が、事件から46年後に大坂(阪)で書いた『仮名手本忠臣蔵』Click!などの例をみても、現実に起きたことと虚構(フィクション)とが混同され、事実とは大きく乖離した内容が“史実”と認知されてしまう危うさについて、ずいぶん前に書いた憶えがある。振袖火事(明暦大火)の本妙寺Click!(戦後、何度も記者会見を開いているが虚偽が訂正されない)にしても、高橋伝Click!の「伝説」にしても同様だ。
 そこまでは極端でないにしても、『襤褸と宝石』にもそのような手ざわりを感じてしまうのは、わたしだけだろうか? 作者である中島自身さえ、次のように書いている。1980年(昭和55)に発行された、『ドラマ』10月号(映人社)から引用してみよう。なお、カッコの註釈はわたしが入れている。
  
 書き手の側からすると、こうした人物(佐伯祐三)をドラマの主人公として設定しなければならない場合、実話を元にしているだけに、余り面白い仕事とは言えない。彼自身は一直線に絵を描くことに殉じていくのであるから、ドラマ上での振巾を別に求めざるを得ない。果たして、そのような人物が発見できるか・・・・・・と素材を見廻したところ、佐伯の妻米子がいたのである。
                                    (同誌「作品によせて」中島丈博より)
  
襤褸と宝石2.jpg 襤褸と宝石3.jpg

 作者のこの言葉は、フィクションを構成するうえで非常に重要なテーマを含んでいると思う。それは、物語を“違和感”なく(気持ちよく)必然的に成立させるためには、吉良義央はとてつもなく性悪かつ意地悪な年寄りでなければならず、浅野長矩が野放図な自尊心の持ち主で、単にキレやすく自制心のない若者では困るのだ。あるいは、民谷(田宮)伊右衛門が底なしの悪党でなければ成立しえない、虚構としての「わかりやすい」(少なくとも観衆や読者に不条理かつ理解不能ではない)人間ドラマを、どこかで強く意識せざるをえないからだ。
 つまり、“狂言まわし”役が存在しなければ、舞台(物語)は回転しない・・・という、古くて新しいフィクション創造におけるテーマだ。ドラマに劇的な変化や「振巾」を与え、動的な展開を絶えずもたらすためには、「問題を起こす」役まわりの人間が周囲に不可欠だという法則。作者は、それを「佐伯米子」に設定したと率直に書き著している。さらに、このドラマが放映されたのが、「公共放送」としてのNHKだったという点も、通常の民放ドラマよりもはるかに大きな影響を視聴者に与えたかもしれない。
 ドラマに登場する“解説者”としての美術評論家「島袋」は、おおよそ誰かは想定できるし、また彼にアドバイスを受けた作品であることも想像Click!がつく。だから、登場する佐伯祐三と佐伯米子の姿は、彼のフィルターを通したふたりの“像”に近い描かれ方もしているのだろう。また、実際の佐伯アトリエと解体前の母屋でロケーションが行われたこともドラマの虚構性を薄め、より“現実味”を帯びさせるファクターとなっただろう。
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 下落合における佐伯祐三の描かれ方は、きわめてオーソドックスだ。いや、この言い方は逆かもしれない。『襤褸と宝石』により、下落合をめぐる佐伯像が従来にも増して、ますます「定着」し「一般化」したともいえるのではないだろうか。特に1926年(大正15)から翌年にかけ、第2次渡仏前の佐伯の仕事はほとんど省略され、わずか数行にすぎない。
  
 61 『下落合風景』
 当時の佐伯の連作に現実の武蔵野風景がかさね合わされて----
 島袋の声「二科会展出品作の好評にもかかわらず帰朝後の佐伯は苦悶していた。パリの硬質空間に馴染んできた佐伯にとって、日本の風景はモチーフになりにくかった・・・」
                      (同誌『襤褸と宝石-佐伯祐三の生涯-』のシーン61より)
  
 そこにあるのは、「絵にならない日本の風景」に対する佐伯の“焦り”であり、連作『下落合風景』Click!はそんな焦燥感の中で描かれたことになっている。『下落合風景』には渡仏の資金稼ぎ以外にあまり意味を求めない、ある美術評論家のパリに偏重した著作へと重なり合うシーン。換言すれば、強いテーマ性を持ち意識的にモチーフとなる風景を選んでいたのではなく、パリ風景の“代用”として下落合をはじめ各地の風景を漠然と描いていた・・・という捉え方だ。
アルルのはね橋佐伯祐三.jpg ビーナスはん.jpg
 パリ市街と東京の街とがモチーフとしておよそ異なることぐらい、別にわざわざ描いてみなくても観察すればわかることだろう。また、「硬質」で「石造り」のパリと質感が似た街角は、震災復興後の東京市内には各地で見られたはずなのだが、佐伯はそれらをほとんどモチーフには選ばなかった。だから、下落合を中心に「絵にならない」風景を描いていたから、パリとは勝手が違うと感じて焦っていた・・・という解説には、どこか短絡した不自然な“理由づけ”Click!の組成とともに、ゴリッとした違和感をおぼえてしまう。「絵にならない日本の風景」への“焦り”だけでは、どうしてもモチーフとして好んで描いていた(あえて下落合でも古い鄙びた場所、ありふれた「絵にならない」風景、工事中や造成中の場所などを多く意識的に選んでいたと思われる)、『下落合風景』の連作について整合性のとれる説明がつかないのだ。
 余談だけれど、『襤褸と宝石』の作者・中島丈博は以前にここでもご紹介した、わたしの大好きな黒木和雄監督の『祭りの準備』Click!(ATG/1974年)のシナリオライターでもある。

■写真上・中:1980年(昭和55)9月に放映された、ドラマ『襤褸と宝石』のスチール各種。
■写真下は、アルルのゴッホの描画ポイントに立つ佐伯。は、ビーナスはん(『婦人像』)。
 


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ゴッホ描画ポイントの作品プレート。 [気になる映像]

 

 今年の正月に、ゴッホの描画ポイントに作品プレートが建てられている、フランスのオーヴェル・シュル・オワーズの様子をご紹介Click!した。また、ゴッホの描画ポイントを細かくたどった佐伯祐三が、「オーヴェルの教会」や「村役場」、「跳ね橋」(アルル)など、ゴッホとまったく同じ場所にイーゼルを据えて作品を仕上げていることも書いた。
 佐伯の「下落合風景」シリーズClick!を活用して、オーヴェル・シュル・オワーズと同じようなことができたら、おそらく下落合は日本初の“近代美術ファンの街”となるだろう。同様に、ほぼ同時代に「下落合風景」を描いた数多くの画家たちも含めて回遊/散策コースを設定したら、都心という立地条件から考えても、鄙びたオーヴェル・シュル・オワーズの比ではないかもしれない。いや、この切り口を「文学」でも「近代建築作品」でも、はたまた「江戸友禅染め」でも当てはめてみれば、落合地区は日本じゅうの芸術/美術愛好者たちから注目を浴び、人々が「訪れたい/歩きたい/集まりたい/暮らしたい」街に変貌する可能性を秘めている。
 ゴッホの足跡とオーヴェル・シュル・オワーズを調べていたら、格好の映像資料を見つけた。ゴッホの描画ポイントを次々と歩き、そこに設置された「作品プレート」をはじめ、ゴッホの描画ポイントに埋められた「イーゼルタイル」や、歩いたコースを示す「モチーフ散策タイル」などの様子を詳しく紹介している。この番組、今年(2007年)の1月1日にBS日テレで再放映されたらしいのだけれど、うちはBSデジタルチューナーがないので観られなかった。DVD『山口智子 ゴッホへの旅~私は、日本人の眼を持ちたい~』(BS日テレ・テレビマンユニオン制作/2006年)が、それだ。
  
  
 アルル、サンレミ、オーヴェルなどゴッホゆかりの地が次々と紹介されるのだけれど、やはり描画ポイントに立ったときの、作品と現状との対比が面白い。ゴッホが歩いた、当時の面影そのままの場所が多いのに驚く。特に、作品プレートを建てて景観を大切にしている、アルルやオーヴェル・シュル・オワーズの変わらない様子には驚いた。佐伯祐三が描いたパリやフランス各地もそうなのだが、ちゃんと街の風情を壊さずに残しているところが、やはりすごい。景観を根こそぎ台無しClick!にする、どこかの国の街角とは大違いなのだ。
 さて、わが下落合(中落合/中井2丁目含む)はというと、佐伯の描画ポイントに立っても、はっきりそれらしい風情を感じられるのは、もはや数点にしかすぎなくなってしまった。二度にわたる空襲を受けているとはいえ、下町に比べたら当時の景観が色濃く残っていたはずなのだが・・・。それでも、都内のほかの町に比べれば、まだこの街独特の風情や匂いが強く感じられることは間違いない。

 いまからでも、決して遅くはないと思う。関東大震災Click!東京大空襲Click!、そしてトドメの東京オリンピックClick!で人々が離散し、なにもない「名所」だらけになってしまった(御城)下町Click!を、わたしとしては口惜しいのだけれど、この際“反面教師”にしよう。下落合が、なにもない「名所」化しないうちに、はっきりとした街全体のコンセプトを打ち出せば、まだなんとか間に合うはずだ。

■写真上は、右に傾くゴッホ『七月十四日の村役場』(1890年)。は、左に傾く1925年(大正14)に描かれた佐伯祐三のオーヴェル・シュル・オワーズ『村役場』。
■写真中:ゴッホの描画ポイントに設置された、作品プレートやゴッホの散策コースタイル。
■写真下:DVD『山口智子 ゴッホへの旅~私は、日本人の眼を持ちたい~』(BS日テレ・テレビマンユニオン制作/2006年)。ゴッホと、安藤広重の「名所江戸百景」との関わりも面白い。
 


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負け犬のシネマレビュー(18)『こころの湯』 [気になる映像]

タイトルどおり心まで温まる
『こころの湯』(チャン・ヤン監督/1999年/中国)

 忙しい大家さんに代わって、今しばらくヒマな負け犬のシネマレビューでご辛抱を。というわけで公開からずいぶん経っているが、先日鎌倉駅前にある市の生涯学習センター(きらら鎌倉)Click!で観た佳品を紹介する。
 幕開け、うっそー、何これ? 改革開放政策の中国の風呂ってこんなことになってるの? と笑わせてくれるが、実際は二男とふたりで切り盛りする劉さんの銭湯は近所の人が集う憩いの場である。風呂の中では、背中を流してもらいながら夢のようなビジネスを語る人、オーソレミオを歌う人(なかなかうまい)、それを邪魔する人……。ひと風呂浴びた後は、中国将棋に興じたり、吸い玉やマッサージを受けたり、はたまた器のなかで2匹のコオロギを闘わせたり……。湯槽と脱衣場を中心に進む映画、出てくる人はほぼおっさんとじいさんだけと、華はないが、可笑しさはたっぷりである。
 物語は、この銭湯に経済特区から長男が帰ってくるところからはじまる。都会に出た息子と、昔ながらの生活を続ける父親とのぎくしゃくした関係や、それを取りなすきょうだいが障害者というのは何かパターン化された感じもするが、シリアスになるかと思えば、観ているこっちの予想を少しだけ裏切ってくれる。そのさじかげんがほどよく心地いい。何がいいって、父親が二男阿明(アミン)のめんどうを見ているふうでないところ。風呂の掃除をしながら、ジョギングと称して近所をひとまわりする場面など、長男が疎外感を持つほど素敵なのだ。

 父親役のチャウ・シュイ(『變面 この櫂に手をそえて』のおじさん)、コメディセンスが確かで、大まじめに語る風呂の大切さや、ケンカばかりしている銭湯の客の夫婦仲が悪くなった原因とやらを聞く件りなど、会場の人たちが画面に見入っているので笑っちゃいけないのかと思いながらも、あまりのばかばかしさくすくす笑ってしまった。この寓話、何度も生き返る母の葬儀に振り回される『祝祭』と同じで、必要なんだろうかと首を傾げるが、映画全体のおかしさは『大統領の理髪師』にちょっと似ている。もちろん現実を踏まえた大げさではないクライマックスが用意されている。期待どおりではないかもしれないが。
 だいたい2カ月に1度行われているこの映画会、その収益の一部が川喜多長政・かしこ夫妻の住まいだった旧・川喜多邸Click!を、上映設備のある記念館にするための基金に入る。川喜多さんといえば私にとってはフランス映画社の和子さんだ。「傑作を世界からはこぶ」バウシリーズはどんなレビューよりも信じられた。あのマークにまんまとハマって映画好きになってしまった私。寄付する余裕はなくても、映画を観る余裕はいつでもある。好きな映画を観るだけで、些少でもいくらかが自動的に寄付されるならこんなありがたいことはない。しかも主催・協力する人たちが選ぶ作品のセンスがいい。
 
 というのも、この春は鎌倉駅を最寄りとする最後の銭湯「瀧乃湯」がなくなってちょうど1年。これは「瀧乃湯」を偲ぶ作品でもあるのだ。この最後の銭湯、市民の声に応えて何年か閉店を延ばしたそうだが、失われたものへの郷愁は失ったからこそ存在するのもまた事実。毎日通えるならともかく、この時世、ノスタルジーだけで古いものを残すのは現実問題として難しい。だからといって人口が減る一方の高齢社会に、どこもかしこもマンションというのも芸がないし、あまりに将来を考えてなさすぎるけどね。
 次回は5月24日(木)にタイ映画『風の前奏曲』を上映予定。近くの方、お時間に余裕のある方は鎌倉観光のついでにぜひ観にいらしてください。チケットは当日1,000円(前売800円)……あーあ、頼まれてもいないのに宣伝しちゃったよ。
                                          負け犬

■写真下は、鎌倉駅の間近にあった最後の銭湯「瀧乃湯」。は、雪ノ下の旧・川喜多邸。


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負け犬のシネマレビュー(17)『松ケ根乱射事件』 [気になる映像]

町ごとぶっ壊れた等身大の日本
『松ケ根乱射事件』(山下敦弘監督/2006年/日本)

 やってくれました、山下監督待望の新作である。 時代は、またしても『どんてん生活』や『ばかのハコ船』と同じバブル崩壊後。だが、今回舞台は一面雪に覆われたイナカ町。その絶景を引いたり、寄ったりするカメラが時おり眠気も誘う(もちろんほめているのだ)実に映画的な映画である。
 『リンダ、リンダ、リンダ』Click!でかれの作品を知った人は、えっ? と思うかもしれないが、デビュー作から追いかけてきた人はまずこのタイトルに、そしてオープニングの「これは実話にもとづいた話。作り手のクセで誇張云々……」に、そして物語のはじまりにほくそ笑むに違いない。
 ぬるま湯のような町でだらだら生きているうちに歳をとってしまった人たちと、そこを出る機会を逸し鬱屈を抱えながら過ごしているうちに町の空気になじんでしまった若い人たち。隣近所はみな、顔見知りばかりのイナカ町に、外から入ってくるのはわけありに決まっている。消え入りそうな弱々しい声と、ていねいな口調で激しく自己主張する川越美和は『ばかハコ』の小寺智子がひらきなおった感じ。見た目どおり乱暴な木村祐一はその理屈も乱暴だが、ことば使いだけはこれまた妙にていねいなのがおかしい。こちらも山本浩司の、出てきただけで笑えるおかしな風貌が迫力ある風体に変わっただけと思えば、あの愛すべきふたりが成長(?)して帰ってきたと見ることもできる。
 
 認知症のじいさんはともかく、例によって出てくる男はどいつもこいつも理屈にならないヘリクツで自分を正当化する身勝手なやつばかり。対する女は一見肝が据わっていそうにみえるが、よく見れば惚れた弱みにつけこまれているだけと、やっぱりどこかおかしい。その最たる男が三浦友和である。自分のことは棚にあげ、きらきら瞳を輝かせ、くだらない説教をたれる。これまた『台風クラブ』のぐーたら教師があのまま能天気に歳とって、あきれるほど無邪気なまま父親になったというところか。畳に寝そべって女に甘える姿がこれほど似合う中年はいない。これが素だとは思わないが、こういう役を喜々として演っているところが全然いやらしくなくて、魅力的である。
 そう。気持ちと行動は必ずしも一致しないように、世の中には理屈で割り切れないことがたくさんある。血のつながりもそうだし、男女の仲も。というわけで本作も見ているうちにオチはわかるが、これ、どうやってまとめるんだ? と思っていたら、山下らしく、ダメ男の口説きにも似た強引さと寛大さで、そーだよねえ人間なんてどうしようもない生き物だもんね、それでも生きていかなきゃしょうがないもんねえと、みごとにまるめこんでしまう。
 どうしようもない人たちを憎めないキャラクターにしてしまうのは毎度のことだが、そのたびに驚かされるのはその若さだ。たった30歳やそこらで、老いも若きもなさけない連中に、ここまで愛情のこもった視線を注げるやさしさはどこに端を発するのか。プレスシートで三浦友和もコメントしていたが、いったい監督の山下や、かれと組んでこんな脚本を書く向井康介はどんな子ども時代を過ごしたのだろうと思うが、その感性がバブルのはじまりと終わりを見たことによって形成されたとしたら、バブルが日本にではなく、日本映画に与えた功績は大きいと思う。
 
 昨年度は邦画の興行収入が外国映画を大きく上回ったという。大ヒットした『フラガール』も、もはや格差社会を受け入れるしかないという諦観思想をもたらす作品だったが、21世紀に入って特徴的なのは、中年期にある監督がテンションの高い若々しい映画を作るのに対し、20代、30代の若い監督が妙に老成した映画を作ること。きっと、あらかじめあきらめ、脱力した若者たちのこのせつなさ、『バブルへGO!!』なんて言ってる人たちにはわかってもらえないだろうと思うけど……。
                                          負け犬

『松ケ根乱射事件』公式サイトClick!
2月24日~「テアトル新宿」「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」にてロードショー予定


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