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死ぬまでに日本橋の姿が見られるか。 [気になるエトセトラ]

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 前回、岸田劉生Click!が書いた東京日日新聞の『新古細句銀通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』を引用しながら、劉生の地元である尾張町(銀座)Click!の昔と現在について記事Click!に書いたけれど、わたしの出身地である日本橋についても少し書かないと、さっそく地元から叱られそうなので追いかけて書いてみたい。
 わたしの祖父母の時代にかかるが、ひとしきり日本橋がまったく活気をなくした時代があった。関東大震災Click!で壊滅したのは、(城)下町Click!の銀座も日本橋も同様なのだが、日本橋はより大きなダメージを受けている。それは、同大震災により日本橋にある江戸期から延々とつづいてきた日本橋市場(魚河岸/青物市場)が、外国人居留地(租界)跡の築地へと移転することが決まったからだ。魚河岸(魚市場)といえば日本橋であり、江戸東京じゅうの台所をまかなっていた一大流通拠点の築地移転は、大江戸日本橋ブランドの一角が崩れたに等しかった。
 築地への全面的な移転は、1935年(昭和10)の築地市場(東京市中央卸売市場)の開設を待ってからだが、大正末から昭和初期にかけ日本橋市場は、櫛の歯が抜けるように次々と魚問屋や魚介類の加工業者が姿を消し、それまでの活気が徐々に失われていった。人が減れば、それだけ地元の商店街もダメージを受ける。魚河岸がなくなった日本橋が、改めて商業の街として盛り返すのは1930年代の後半になってからのことだ。だが、それも1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!とその後の空襲で、日本橋人形町Click!の一画を除き、わたしの実家も含め日本橋区の全域が焦土と化して壊滅した。
 現在、築地市場の豊洲への移転が計画されているけれど、築地に改めて人々が集うようになるには、かなりの年月を必要とするだろう。日本橋の魚市場が築地に移転してから、再び日本橋がなんとか商業的に活気を取りもどすのに、およそ15年もかかっている。現代なら、もう少し再興のリードタイムは短いのかもしれないが、巨大な卸売市場が移転するということは、ひとつの街が丸ごと引っ越すのに等しい。設備と勤務する人々が転居するのではなく、そこに集っていた人々が丸ごといなくなるということだ。
 日本橋魚河岸(市場)が築地への移転を決定し、少しずつ計画を推進していた1927年(昭和2)、日本橋川沿いが徐々にさびれていく様子を記録した文章が残っている。同年の東京日日新聞に連載されていた、こちらでは角筈(新宿)の熊野十二社(じゅうにそう)の記事で登場している田山花袋Click!の『日本橋附近』だ。現代表記で読みやすい、1976年(昭和51)に出版された『大東京繁盛記<下町篇>』(講談社)から引用してみよう。
  
 それにしても魚河岸の移転がどんなにこのあたりを荒涼たるものにしてしまったろう。それは或はその荒涼という二字は、今でも賑かであるそのあたりを形容するのに余り相応しくないというものもあるかも知れないが、しかもそこにはもはやその昔の空気が巴渦を巻いていないことだけは確であった。どこにあの昔の活発さがあるだろう。またどこにあの勇ましさがあるだろう。それは食物店の屋台はある。昔のまゝの橋寄りの大きな店はある。やっぱり同じように海産物が並べられ、走りの野菜が並べられている。(中略) 江戸の真中の人達というよりも、山の手の旦那や細君が主なる得意客になっているではないか。従って盛り沢山な、奇麗な単に人の目を引くだけのものゝ様な折詰の料理がだらしなくそこらに並べられてあったりするではないか。三越が田舎者を相手にするように、こゝ等の昔の空気も全くそうした客の蹂躙するのに任せてしまっているではないか。それが私にはさびしかった。
  
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 もちろん、わたしは日本橋魚河岸など一度も見たことはないが、東京じゅうの料理屋や台所から「日本橋ブランド」がなくなった残念さは、当時の証言を集めなくてもおよそ想像がつく。「今朝、築地に上がった活きのいい魚だぜ」という表現の「築地」が、「日本橋」だった時代が実に330年間もつづいていたのだ。
 なかなか築地に移転せず、日本橋に残っていた魚問屋や加工業者たちは、「今朝、築地に上がった魚なんてえ、得体の知れねえもんは売らない」とがんばっていたのだろう。w 同様のことが、築地から豊洲への移転でも起きることは、物流の利便性や環境問題などを超えて目に見えている。事実、「今朝、築地から仕入れた魚さね」「なんだ、日本橋じゃないのかい?」という時代が、それからしばらくはつづいたのだ。
 さて、話は変わるが、わたしは子どものころ親に連れられて、あるいは学生時代は友だち連れかひとりで、わざわざ日本橋の丸善まで出かけたことがある。新宿や池袋の大型書店で、どうしても見つからない本があると、八重洲ブックセンターや丸善を探しに日本橋で下りていた。だが、学生のとき紀伊国屋でも芳林堂でも見つからない本は、もはや丸善でも見つからないことが多かったように思う。いまのように、ネットの本屋や古書店のショップを横断的に検索できないので、残るは図書館を調べるか出版元からじかに買うしか方法がなかった時代だ。
 だが、昭和初期の丸善は、学生たちにしてみれば特別な存在だった。当時の中学校以上の学生たちは、特に洋書の入手に関して丸善の存在を抜きにしては考えられなかったらしい。学生が「日本橋へいく」といえば、丸善へ寄ることを意味していた。上掲書より、再び田山花袋の文章を引用してみよう。
  
 私は昼飯の済んだあとの煙草の時間などによく出かけた。そして私はあの丸善のまだ改築されない以前の薄暗い棚の中を捜した。手や顔がほこりだらけになることをもいとわずにさがした。何ゆえなら教育書の中にフロオベルの「センチメンタル・エジュケイション」がまぐれて入っていたり、地理書の棚の中にドストエフスキーのサイベリア(シベリア)を舞台にした短編集がまじって入っていたりしたからであった。私はめずらしい新刊物の外によくそこで掘出しものをした。そしてその本を抱いてにこにこしながらもどって来た。/少くとも丸善の二階は、一番先きに新しい外国の思潮ののぞかれるところであった。(カッコ内引用者註)
  
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 親父もまた、中学時代から丸善へは頻繁に通っていたらしい。書店といえば、地元の日本橋丸善が親父の口ぐせだった。でも、同店の名物だったハヤシライスは、わたしの子ども時代を通じて一度も食べさせてくれた憶えがない。
 丸善には昔からレストラン&喫茶部が付属していたが、そこのハヤシライスが名物だった。つい先年、ようやく丸善のハヤシライスを食べる機会があったのだが、特別にうまいというほどでもなく、ふつうに美味しい程度の味わいだった。食いしん坊の親父はそれを知っていて、あえて「わざわざ日本橋で、子どもに食わせる味ではない」とパスしたものだろうか。ハヤシライスでいえば、上野精養軒のもの(林料理長による元祖といわれている)のほうがうまいと感じる。
 同じ丸善のレストランで、ハヤシライスといっしょに、ためしにパフェを注文してみた。これが、残念ながら非常にまずくて不出来だ。こんなものをパフェと称して、お客に出してはいけない。同じ通り沿いには、日本橋の千疋屋Click!や銀座の資生堂パーラーがあるのだから、それと同レベルとまでは決していわないけれど(不可能だろう)、少なくとも「まずい」と感じない、もう少しまともでちゃんとしたものを提供すべきだ。天下にとどろく、日本橋丸善の名がすたる。
 明治の末ごろ、ボロボロになった木製の日本橋を見ながら、学生たちの間で流行っていた詩が収録されている。同書より、田山花袋の記録を引用してみよう。
  
 流るゝよ、あゝ瓜の皮 / 核子、塵わら――さかみずき、
 いきふき蒸すか、靄はまた / をりをりあをき香をくゆし
 減えなづみつゝ朽ちゆきぬ。
 水際ほそりつらなみで / 泥ばみたてる橋はしら
 さては、なよべるたはれ女の / ひと目はゞかる足どりに
 きしきし嘆く橋の板。
  
 日本橋が堅牢な石造りとなり、現在の姿(19代目)になったのは日本橋に通う学生たちがこの詩を詠じていた数年後、1911年(明治43)4月のことだった。
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 最近、ようやく日本橋の上に乗っかる、ぶざまな首都高速道路の高架をとっぱらう計画が、少しずつだが国や東京都の検討会として、また日本橋再生推進協議会の手で具現化してきた。首相の「解体宣言」から、すでに丸10年Click!が経過している。親父が生きている間には無理だった、空襲で破壊された東京駅の復元と同様に、わたしが生きている間にはちょっと無理かもしれないけれど、薄っすらとした記憶でしかない日本橋の空と本来の姿を、子どもたちの世代に見せてあげたいものだ。この街の中核である19代目・日本橋と同じく、わたしの子どもたちも、この街ではちょうど19代目にあたる。

◆写真上:日本橋川から眺めた、日本橋とその上を覆うみっともない首都高速道路。
◆写真中上は、安藤広重が描く「東都名所日本橋魚市」。魚桶や野菜籠をかついだ、棒手振(ぼてふり)たちが配達や商売に江戸の街中へ散っていく。は、明治中期に撮影された木橋の粗末な日本橋(上)と人着の日本橋河岸(下)。は、江戸橋から眺めた日本橋河岸があったあたりの現状で前方に見えているのが日本橋。
◆写真中下は、1911年(明治44)4月に竣工した直後に撮影された日本橋。は、1923年(大正12)9月の関東大震災で壊滅した直後の日本橋界隈の様子(上)と日本橋河岸(下)。は、日本橋の橋下アーチから撮影した首都高速道路。
◆写真下は、人もクルマも少ない休日早朝の日本橋。は、丸善のカフェ&レストランで出されるフルーツパフェ。こんなものを日本橋のパフェと称して出していたら、丸善の名がすたるというものだ。は、首都高速道路解体後の日本橋復興構想図。

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劉生の願いから90年後の「銀座の柳」。 [気になるエトセトラ]

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 いつだったか、岸田劉生Click!「雲虎(うんこ)」Click!にからみ、銀座の「カフェ・クモトラ」Click!の風俗画をご紹介したことがある。1927年(昭和2)5月に、東京日日新聞に掲載された随筆と挿画ともに岸田劉生の、『新古細句銀通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』から引用したものだ。そのとき、銀座通りのカフェを「雲虎」化した挿画のほうはご紹介したが、文章のほうは木村荘八Click!が劉生について書いたものを引用したので、今回は東京日日新聞に連載していた劉生自身のエッセイのほうを引いてみたい。
 『新古細句銀座通』の“読み”は、もちろん劉生が好きだった江戸歌舞伎のタイトルをまねたシャレのめしだが、「しんこざいく」は昔からこの地方ではお馴染みの飴細工、「新粉細工」を意識したシャレだ。東京の繁華街に並ぶ屋台には、必ず新粉細工の飴屋が見世を出していて、上新粉から作るやわらかくてカラフルな飴を客の注文や希望に合わせ、いろいろな動物や花、あるいはキャラクターのかたちにしてくれる。もちろん、戦前には銀座通りにも屋台(露店)があちこちに出ていただろう。
 わたしが子どものころ、東京の寺社の縁日に出かけると必ず見かけたものだが、親は飴屋が手でこねる新粉細工は不衛生だといって、なかなか買ってくれなかった。同じく、江戸の昔からつづく金色に輝く細工ものの鼈甲飴は、わりあいすんなり買ってくれたのを憶えている。いまから考えると、新粉細工も鼈甲飴も衛生的にたいしてちがいはないと思うのだが、新粉細工は特に指先で飴を何度もこねくりまわすところが、親の気に入らない点だったのだろう。ただし、親たちは子どものころ、新粉細工を買って喜んで食べていたことが見え見えだったので、わたしとしては不満でならなかった。
 劉生が生まれた銀座(尾張町)でも、もちろん新古細工の屋台は出ていたはずで、数え切れないほど買っては口にしていたのだろう。わたしの子ども時代の銀座は、表通りに屋台が並ぶことはほとんどなくなっていたけれど、地元の出世地蔵あるいは日枝権現社Click!の縁日や祭礼には、いまだ銀座の裏通りや新道(じんみち)Click!の出入り口などに屋台が出ていたのを憶えている。中でも、わたしが気に入ったのがウグイスみくじClick!なのだが、その話はすでにここへ書いた。下落合でも、西坂にある徳川邸Click!「静観園」Click!に植えられたボタンが見ごろになり、園内が開放されると新粉細工(オシンコ屋)Click!の屋台が出ていた証言が残っている。
 さて、岸田劉生の『新古細句銀通』から少し引用してみよう。現代仮名づかいで収録された、1976年(昭和51)出版の『大東京繁盛記<下町篇>』(講談社)より。
  
 私は明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、丁度今の服部時計店のところで生れて、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこで育って来た。だから銀座のうつりかわりは割合にずっと見て来ている訳であるが、しかし正確なことはもとよりわからない。が、「煉瓦」と呼ばれた、東京唯一の歩道時代からのいろいろのうつりかわりにはまた語るべきことも多い様である。(中略) 銀座の街路樹を何故もとの柳にしないのかと私はよく思う。今の街路樹は何ともみすぼらしくていけない。柳は落葉が汚いというかもしれないがしかし、同じ冬がれにしても、柳は誠に風情がよろしい。洋風のまちにふさわしくないと思うのかもしれないが決してふさわしくないものではない。ことに春の新芽は美しく町を一層陽気にする、夏は又緑の房が誠によく何にしても大様で柳は誠にいゝと思う。
  
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 最近、銀座を歩くと昔に比べて樹木が足りないのは相変わらずだが、シダレヤナギの数が劉生の時代以上に減ってしまっていることに気づく。『東京行進曲』Click!に唄われた大正期の「銀座の柳」Click!は、関東大震災Click!のあとと1964年(昭和39)の東京オリンピックや高度経済成長の時代に惜しげもなく伐られつづけ、より耐環境性や耐久性の強い、ありふれた街路樹に植えかえられてしまった。
 また、戦後の銀座の商店街が、次々と埋め立てられる堀割を見ながら、近くに水辺があってこそ映えるシダレヤナギの樹影を、新しい時代を迎え別の街路樹に変えようとしたのは、街の大気汚染による環境悪化とともに枯れる木も出はじめて、自然のなりいきだったのかもしれない。銀座とその周辺を流れていた堀割には、数寄屋橋Click!が架かる外濠をはじめ、京橋の架かる京橋川、三十間堀、八丁堀、楓堀、築地川などがあったが、そのすべてが埋め立てられてしまった。
 大震災など大きな災害時のことを考えると、乗り捨てられたクルマからの延焼や地割れ、建物の崩壊などで壊滅する道路の代わりに、避難路や水運の物流ルートを堀割に頼らざるをえなくなることが、阪神・淡路大震災や東日本大震災で見えはじめ、ようやく地元では堀割の復活を街づくりのテーマとして前面に押し出してきた。それとシンクロするように、「銀座の柳」の復活も課題のひとつとして挙げられている。実は、「銀座の柳」復活事業は前世紀末、1990年代から取り組まれてきた銀座の一大テーマだった。
 銀座を歩いてみると、銀座通りにはシダレヤナギではなくシャリンバイ(車輪梅)、銀座桜通りはサクラとアオギリ、マロニエ通りにはマロニエとアオギリ、松屋通りにはハナミズキ、晴海通りにはケヤキ、みゆき通りにはコブシとエンジュ、交詢社通りにはカエデ(?)とアオギリ、花椿通りにはツバキならぬハナミズキ、昭和通りと海岸通りにはイチョウ……などなど、てんでバラバラな街路樹が植えられている。それぞれ、通りの特色を出したかったため選ばれた街路樹なのだろうが、この雑然とした統一感のない、どこの街でも見かける(別に銀座でなくてもいい)ありふれた街路樹が、逆に銀座という街の特色を薄めているように感じるのは、わたしだけではなく地元でも同様のようだ。
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 銀座にある各通りの商店会が集まり、1919年(大正8)に結成された銀座通連合会が、銀座を訪れる顧客に対してプレゼンテーション用に作成した企画書、「銀座まちづくりヴィジョン/銀座通りに柳は必要か」から少し引用してみよう。
  
 水と緑のあるところへ行くとなぜかすっきりとし、気持ちが活き活きしますね。銀座はもともと水のまちでした。かつては海につながり、江戸時代は堀割と川に囲まれ、水路で物を運んだり、舟遊びも盛んだったのです。数寄屋橋、京橋、新橋という名前が残っていますが、橋を渡らなければ銀座に入れませんでした。多くの文学作品や歌謡曲に登場する「銀座の柳」。水辺に生える柳が銀座の名物だったことも、水のまちをしのばせます。ところが、モータリゼーションの波が押し寄せ、便利さだけが追求されるようになり、堀割は埋め立てられ、水景は消えてしまいました。私たちは、川が流れ緑で潤う銀座を取り戻して、お客さまに活き活きとまちを歩いていただきたいとの思いから堀割の復活を考えたいと思います。
  
 現在、シダレヤナギが復活あるいは新たに植えられている通りは、銀座柳通りをはじめ松屋通りの一部、外堀(外濠)通りの一部、銀座御門通りなどだが、予算が限られているのだろうから一度期にというわけにはいかないのだろう。もっとも、外濠や数寄屋橋が復活すれば、シダレヤナギは街路樹ではなく堀割を両側からはさむ「堀割樹」になるだろう。震災時の安全・安心を担保する堀割の復活ともども、これからも積極的に取り組んでほしい事業テーマだ。
 さて、根っからの(城)下町っ子である岸田劉生が『新古細句銀座通』の中で、めずらしく乃手Click!の夫婦を褒めている箇所があるので引用してみよう。
  
 今も昔も変らないのが骨董の夜店であるが、銀座の夜店の骨董に真物(ほんもの)なしといわれるまでに、イミテーション物が多いのは事実である。が、時にはいゝ掘り出しもあったとか、あるとか、私には経験はない。が、今は山の手なり郊外なりの御夫婦づれなどが、この骨董の露店の前に立ったり、しゃがんだりしているのを見ると私は何となくいゝ感じを持つ。そういう人たちの心持ちの中には美しいものがあるように感じられる。花屋の前に立ってチューリップの一鉢を買うのも可愛いが、これが安物の骨董となると一層二人の可愛らしい趣味なり心得なりが感じられるようである。
  
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 いや、乃手人はマユツバClick!とホンモノを見きわめる眼を持たないと、どこかう~んと遠まわしに揶揄している、生っ粋の(城)下町人・岸田劉生ならではの皮肉な表現だろうか? いやいや、ここはめずらしく「ざぁます」奥様大(でえ)キライの劉生が、乃手人のやさしくて「可愛い」とか「何となくいゝ感じ」、「美しいもの」とかを発見した素直な心情として解釈しておきたい。

◆写真上:数寄屋橋近くの旧・日劇前にある、ひときわ大きなシダレヤナギ。
◆写真中上は、岸田劉生の実家で父親の岸田吟香が開店した「楽善堂」(精錡水目薬)。挿画は、いずれも岸田劉生が描いたもの。は、1932年(昭和7)に竣工した奥野ビルのエレベーター。扉は木製で階数表示は指針の手動式だが、現役で稼働している。は、震災前と思われる新橋演舞場のゲート。
◆写真中下は、銀座の資生堂喫茶部。は、1911年(明治44)に開店したカフェ「ライオン」の天井。は、銀座の勧工場跡にできた常設油絵展示場。
◆写真下は、震災前は真っ赤な建物で人目をひいた天狗煙草。は、1934年(昭和9)に竣工した菅原ビルの天井。は、1930年(昭和5)竣工の米井ビル。冬枯れではないシダレヤナギの米井ビルを探したが、残念ながら撮影しそこなっているらしい。

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第五高女キャンパスが壊滅するまで。 [気になるエトセトラ]

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 先日、淀橋町十人町899番地(のち淀橋区角筈1丁目879番地→新宿区歌舞伎町1~2丁目)に建っていた、東京府立第五高等女学校Click!(のち東京都立富士高等学校)についてご紹介したところ、富士高校を卒業された知人の方から、旧・第五高女の詳しい資料をお送りいただいた。特に戦時中、第五高女が空襲にさらされる様子を記録した貴重な資料があるので、改めて同校キャンパスが全焼するまでの経緯をご紹介したい。現在の歌舞伎町1~2丁目にまたがる、広い敷地の第五高女が壊滅したことが、戦後の同エリアの街づくりを根本的に変えてしまった要因だからだ。
 1920年(大正9)に第五高女が開校すると、初代校長に就任したのは白石正邦だった。白石正邦は、学習院の院長だった乃木希典Click!と親しかったらしく、生徒たちの思い出によれば学習院から第五高女の校長として赴任してきたようだ。開校から3年後の関東大震災Click!では、同校の生徒たちが下町から着の身着のままで避難してくる被災者の救護に当たっている。第五高女の校舎は、震災の被害こそ軽微で済んだようだが、淀橋地域は揺れが大きかったものか、講堂に置かれた重たいグランドピアノが端から端へとすべっていく様子が、生徒たちに目撃されている。
 その後、昭和初期には平穏な時代がつづき、女学校としてはめずらしい質実剛健な「第五魂」と呼ばれた同校の校風や文化、雰囲気はおもにこの時代に形成されたものだろう。交友会などの資料でも、この時代の想い出を語る卒業生たちが多い。同校から、高等師範学校や専門学校(現在の大学)に進む生徒たちも少なくなかった。日米戦争がはじまり、敗戦の色が濃くなった1943年(昭和18)10月21日の「出陣学徒壮行会」Click!では、彼女たちも動員されて神宮球場の観覧席にいた。その様子を、2011年(平成23)の同校校友誌「若竹」所収の中沢たえ子『第五魂と弥生精神』から引用してみよう。
  
 高学年学校生活は厳しい戦時下であり、昭和十九年には戦況は不利となり多くの男子大学生たちが招集され、神宮球場で出陣学徒壮行式にわれわれ五年生が出席した。冷たい小雨がそぼ降る中、彼らが高い貴賓席の中の天皇陛下の下を敬礼して行進した状景は現在でも目に浮かんでくる。彼らのなかから沢山の戦死者が出たことは間違いないし、サテツ(若い教師のあだ名)も戦死したと戦後になって聞いて悲しかった。(カッコ内引用者註)
  
 「学徒出陣」は「昭和十九年」ではなく前年だが、「貴賓席」にいたのは天皇ではなく、東條英機Click!をはじめとする陸海軍の幹部や文部大臣たちだ。このときの様子は、NHKがラジオで2時間30分にわたり実況中継を流し、のちに軍国主義によるプロパガンダ映画『学徒出陣』(文部省)も制作されている。そこには、観覧席を埋めつくす府立の各女学校を中心に動員された、大勢の女生徒たちも映しだされていた。
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 やがて、空襲が予測される時期になると、第五高女では「防衛宿直」という当番が設置され、教師や職員ばかりでなく女学生たちまでが動員されている。当時、第五高女の教室は一部が軍需物資を生産する“工場”にされていたようで、「工場防衛」つまり空襲に備えた防火活動が宿直の役割りだった。以下、1993年(平成5)に発行された校友誌「若竹」に収録の、上田春野・松浦琳子・目黒緑『空襲被災の前後』から引用してみよう。
  
 校舎の防衛宿直は、先生が昭和十九年十一月、生徒は昭和二十年二月末頃からでした。当時教室は学校工場で「銃後の守り」と頑張りながら、冬は暖房も無く、休み時間には木造校舎の板壁にズラッと目白押しの日向ボッコ、時にはその前で幼い本科生が鬼ゴッコのジャンケンポン、又、雨天体操場のピアノで興ずる生徒達、苛烈極まりない戦時のさ中にも、あの木造校舎と若い私達は一つ絆で結ばれていました。/四月十三日は風も無く静かな夜で、宿直の職員、生徒計十二名は十一時過ぎの空襲警報でとび起き、身支度を整え、校庭にとび出す間もなく、新宿駅の方向に火の手があがり、風に煽られて見る間に延焼接近、雨天体操場の下が燃え始めました。水槽の水をバケツに汲み、走り、なんとしても消さねばと、全員使命感にもえていました。しかし猛火は「二幸」の辺りから火の子を吹きあげ、飛び散り、火の玉となり飛んで来る状況で、先生方は生徒の身を案じて決断され、男子職員が残る事となり全員水をかけた布団を被り、生徒七名は北郷、渡辺両先生に前後を守られ一列となり裏門から退避。途中、成子坂附近で振り返ると、学校の辺りに大きな紅蓮の火柱が二本見え、後髪を引かれつつ、夜明け頃、農場に辿り着き、一休み。
  
 4月13日夜半のB29による第1次山手空襲Click!では、鉄道や幹線道路、河川沿いがねらわれ、乃手Click!の物流や交通、中小の工場などにダメージを与えるのが目的だった。したがって、山手線と新宿駅周辺が爆撃されているが、同爆撃から焼け残ったエリアも数多い。第五高女は、山手線と新宿駅周辺の爆撃に巻きこまれたかたちだ。
 約1ヶ月後の、同年5月25日午後11時から翌26日未明にかけて行われた第2次山手空襲Click!では、かろうじて焼け残ったエリアを全面的に破壊する、文字どおりB29による山手住宅街への「絨毯爆撃」が行われているので、もし4月13日の空襲をまぬがれたとしても、第五高女は位置的にみて焼夷弾による炎上をまぬがれなかっただろう。
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 つづけて、空襲下における第五高女の様子を記録した、2011年(平成23)の校友誌「若竹」所収の巨勢典子『戦時下の女学生とその後の私』から引用してみよう。
  
 昭和十六年四月、希望に胸をふくらませて新宿の府立第五高女(略)に入学したが、その年の十二月八日大東亜戦争に突入した頃から次第に戦時色が濃くなり、学業のかたわら校内で行われた防空演習や救護訓練、さらに農場作業で、米の脱穀や野菜の栽培をするため、もんぺを着て、新宿から鍋屋横丁まで都電で通ったことを思い出した。/そして、三年生の夏には大日本印刷で勤労奉仕も行なった。/昭和十九年、四年生になった頃から戦局はますます厳しくなり、英語は敵国語として廃止になったばかりか、閣議決定により私達女学生も学徒挺身隊としい軍需工場に出勤することになり、私達の学年は、立川飛行機と北辰電機に直接分れて出勤することになった。私は北辰電機で、『潜水艦の羅針儀の部品の組立て』等の作業を黙々とこなしていった。/我々の学年は戦時特例により一年上の五年生の方々と同時に卒業ということになり、二十年三月下旬、一日だけ母校での卒業式が行なわれた。(略)/その頃から、B29の本土爆撃が激しくなり四月十三日の大空襲で新宿の母校は全焼。つい三週間前に卒業式が行なわれた講堂(平和館)やなつかしい教室も全焼し誠に残念だった。
  
 敗戦に向けての最後の2年間、第五高女では他校と同様に学業どころではなかった状況が伝わってくる。それでも、「敵性言語」だと規定されていた英語の授業が、かろうじて1944年(昭和19)まで行われていた学校はめずらしい。もっと早くから、特に前年の1943年(昭和18)に廃止になっている学校がほとんどだからだが、第五高女では質実剛健な校風から“学の独立”を意識した自由な校風が活きていたものだろうか。ちなみに、市民生活レベルでの英語に対する弾圧Click!は、すでに日米開戦の前後にははじまっていた。
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 第五高女では、開校から4年たった1924年(大正13)に絵はがきセットを制作している。美しいデザインの校舎や、のびのびとした広いキャンパス、そして学業にはピッタリな同校を囲む乃手の閑静な環境が自慢だったのだろう。そこでは、モダンな洋装でテニスやホッケー、ソフトボールなどのスポーツを楽しむ女学生がたくさん写っている。(冒頭写真) 戦争をはさみ、それからわずか20数年後に、新宿地域ばかりでなく東京の一大歓楽街「歌舞伎町」が誕生するとは、誰も想像だにしえなかったにちがいない。

◆写真上:1924年(大正13)に撮影された、第五高女の本校舎とグラウンド。女学生たちが、モダンな服装でさまざまなスポーツに興じている。
◆写真中上は、1924年(大正13)に撮影された第五高女の講堂「平和館」。は、同年撮影の惜別式。は、撮影時期が不明な本校舎(左)と平和館(右)。
◆写真中下は、1935年(昭和10)ごろに撮影された第五高女全景。は、1930年代後半の撮影とみられる本校舎。正面には、「堅忍持久」と「長期建設」の戦時スローガンが書かれた垂れ幕が下がっている。は、農業実習が行われた中野区富士見町の学校農場。戦災で校舎を失った第五高女は、新宿を離れて中野の同地へ移転している。
◆写真下は、1943年(昭和18)10月22日の「出陣学徒壮行会」に動員され観覧席を埋めつくした東京府立女学校の学生たち。は、1945年(昭和20)5月25日夜半に焼夷弾の絨毯爆撃を受ける第五高女キャンパスの周辺。このとき、すでに同校の校舎は4月13日夜半の空襲で焼失していた。は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる第五高女の焼け跡。すでに敷地内には、バラックの集合住宅がいくつも建設されている。

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空中写真の活用と米軍本部「伊勢丹」。 [気になるエトセトラ]

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 少し前、このサイトで多用する歴代の空中写真に関連して、空からを撮影する際の対空標識と三角点Click!のテーマについて書いた。今回は、そもそも空中写真が撮影されるようになったきっかけと、その歴史について少しまとめて書いてみたい。いつも何気なく引用する空中写真だが、その史的な経緯や活用法を踏まえて観察すると、その観察法や読み解き方に新たな視座が生まれるかもしれないからだ。
 空中写真が撮影されたのは、1858年(安政4)10月にフランスの写真家だったフェリクス・トゥーリナシオン(通称名ナダール)という人物が、熱気球に乗ってプチ・クラマトールという街を撮影したのが嚆矢とされている。気球からの空中写真(いわゆる気球写真)は、日本でも早くから取り入れられ、1904年(明治37)に海軍省の技師だった市岡太次郎が、東京市上空から360度の斜めフカン写真(パノラマ写真)を撮影したエピソードClick!が知られている。写真を撮ったのが、海軍省の技師だったことからも明らかなように、気球を使った空中写真の撮影は、おもに軍事利用を目的として取り組まれたものだ。
 気球は操縦がきかず、もともと風まかせの乗り物のため、当時は係留した気球を浮揚させて目的の高度まで上げ、安定したところで撮影する手法がとられた。海軍では、のちに敵艦をいち早く発見したり着弾測定を行うため、艦尾に気球を備えた大型艦が出現している。また、陸軍では前線での敵陣偵察用に、係留気球による空中撮影が構想された。陸軍の航空隊が、気球を貨車に積んで運搬する演習をしていたのは、こちらでもご紹介Click!している。しばらくすると気球写真は民間へも普及し、このサイトでも大正期に係留気球から撮影された、早稲田大学のキャンパス写真をご紹介Click!していた。
 やがて、飛行機が発明されて普及しだすと、気球写真は一気に廃れてしまった。航空機とともに空中写真が発達したのは、第一次世界大戦を通じてだ。当時、空撮の技術がもっとも進んでいたのはドイツだった。多くの空中写真がそうであるように、地表に向けてカメラをかまえ垂直に連続して撮影する、いわゆる垂直写真用の航空カメラが発明されたのもドイツだ。同国の映画人だったオスカー・メスターという人物が、陸軍から敵情を知るための映画制作の依頼を受け、航空機に搭載する専用カメラを開発している。
 世界初の垂直写真撮影用航空カメラの様子を、1969年(昭和44)に中央公論社から出版された西尾元充『空中写真の世界』から引用してみよう。
  
 できあがったカメラは奇妙な形をしていた。それは飛行機の床に垂直に取り付けられ、調節可能な一定の間隔をおいて、機関銃のように連続して撮影できるものであった。従来は、一枚一枚ガラスの乾板に写していたのに、このカメラは、幅二四センチメートル、長さ二五メートルのフィルムが装填できるマガジン付であった。これによって、幅二四センチメートル、長さ三・五センチメートルの長方形の画面が、一定の正しい間隔をおいて、六二五枚も撮影できた。/最初の試験撮影では、約二・五キロの幅で約六十キロメートルにわたる戦場の写真が撮影された。その写真には、砲兵陣地も、塹壕の位置も、あらゆるものが細大洩らさず写しとられていた。
  
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西尾元充「空中写真の世界」1969.jpg 第一次大戦斜め航空写真.jpg
 こうして撮影された戦場の詳細な空中写真(敵陣情報)を、戦術面での作戦に活用したり、そこから戦場地形図を起こして戦略を立案するのに役立てたりしたが、空撮技術を開発した肝心のドイツ軍部が、それらの成果や情報を軽視したため、戦争も後半になると連合軍による空撮技術と、それによって得られた空中写真の情報活用に追いこされ、ついに敗北するという皮肉な結末となった。
 日本における航空機からの写真撮影は、1910年(明治43)12月19日に代々木練兵場Click!で陸軍の航空機が初飛行Click!を実現してから4ヶ月後、1911年(明治44)4月28日に空中写真の撮影にも成功している。撮影者は、下落合(2丁目)490番地(現・下落合3丁目)に住んでいた徳川好敏Click!だ。もちろん、彼が撮影した空中写真は垂直写真ではなく、航空機の操縦席からそのままシャッターを切った斜め写真だったろう。徳川好敏は代々木練兵場から飛び立ち、練兵場とその周辺の様子を撮影したと思われるが、わたしは残念ながらいまだにそれらの写真を見たことがない。
 日本で空撮の垂直写真が撮影できるようになったのは、1921年(大正10)以降のことだ。それは、第一次世界大戦の敗戦国ドイツから、戦勝国への賠償の一部として空中写真用の機材類が送られてきたことによる。それから間もなく、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!では垂直撮影用の航空カメラを使い、東京や横浜の被災地域の空中写真が数多く撮影されることになった。被災地の上空を旋回して撮影したのは、航空カメラを搭載した陸軍の航空機で飛行第五大隊の所属機だった。こちらでも何度となく、関東大震災による被災地上空からの空中写真(垂直写真)を取り上げているが、これらの画面は下落合のお隣りにある、学習院Click!史料館Click!で長年にわたり保存されてきたものだ。
代々木練兵場記念写真.jpg
赤坂離宮19230905.jpg
横浜港関内19230905.jpg
 このサイトでもっとも多く引用している、陸軍が計画的に広範囲にわたって撮影した1936年(昭和11)の空中写真(垂直写真)は、おそらく地形図の作成用に撮影されたのではないかと思われる。だが、航空カメラの解像性能や、地形図を作成する際に必要な図化機の機能性が低かったため、空中写真をもとにした本格的な地形図の作成は限定的なものだったのではないか。写真をもとにした地形図作成の技術が、もっとも進んでいたのは満州航空(株)の写真処だったというエピソードも残っている。同社の写真処からは戦後、官民を問わず空中写真の分野で活躍する人材を、数多く輩出しているようだ。
 また、陸軍が東京郊外を斜めフカンから撮影した、1941年(昭和16)の空中写真が残っている。この一連の撮影意図が、わたしにはいまもってわからない。撮影の画面には、なんら法則も規則性も見いだせないし、飛行コースも旋回しながらバラバラで直線ですらなく、撮影地域にも共通性がまったく見られない。強いていえば、東京郊外を流れる川沿いを撮影していることだろうか。自治体による河川の清流化(直線化)工事計画、あるいは改正道路や放射道路の計画などの資料づくりが目的だとすれば、わざわざ陸軍の航空機が“出動”する意味がわからない。
 同じく陸軍が全国の都市部を撮影した、1944年(昭和19)の空中写真も残っているが、これは明らかに空襲に備えた防火帯Click!の計画づくり、すなわち建物疎開Click!を実施するための資料として撮影したものだろう。戦争も末期に近づき、物資不足のためにフィルムの質が非常に低下しているせいか、1936年(昭和11)や1941年(昭和16)の空中写真よりも、画面の解像度がかなり低い。
 そして敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は爆撃効果測定用に1946年(昭和21)から1948年(昭和23)にかけ、日本全土をほぼくまなく空中撮影している。これら空襲による焼け跡だらけ写真類も、このサイトではたびたび引用してきた。日本陸軍が撮影した写真よりも、はるかに高品質で解像度も高く鮮明で、ときに地上にいる人やクルマまでもが手にとるように写しとられている。一連の空中写真を撮影したのは、専門家が集まる米軍の「空中写真部隊」だが、その部隊本部が戦後に接収された新宿の伊勢丹デパート本店Click!の3階から屋上にかけて置かれていたのは、あまり知られていない事実だ。新宿伊勢丹の同部隊は、朝鮮戦争のころまで駐留していたらしい。
上落合1936.jpg
目白文化村1944.jpg
航空カメラ戦後輸入1号(ドイツ).jpg
 さて、空中写真が撮影される目的は、別に地形図や市街図を作成するためだけではない。自然科学の視座から自然を読み解く地理学や地形学、地質学、鉱物学、岩石学、気候学、地震学、植物学、層位学、古生物学など多岐にわたる。近年では、人文科学の考古学や古代史学での活用がめざましく、特に関東地方では破壊されてしまった、数多くの大小さまざまな古墳や遺跡の発見、既存の遺跡規模の見直しなどに成果を上げている。

◆写真上:敗戦後GHQに接収され、米軍の空中写真部隊本部だった新宿の伊勢丹本店。
◆写真中上は、ドイツのオスター・メスターが第一次大戦中に発明した垂直写真撮影用航空カメラ。下左は、1969年(昭和44)出版の西尾元充『空中写真の世界』(中央公論社)。下右は、第一次大戦で多用された斜め写真用の航空カメラ。
◆写真中下は、代々木練兵場で初めて空中写真の撮影に成功した徳川好敏。(左から2人目) 1923年(大正12)9月5日に、陸軍飛行第五大隊が関東大震災直後の被災地を撮影した写真で、麹町区の赤坂離宮(現・迎賓館/)と壊滅した横浜関内の中心部()。
◆写真下は、1936年(昭和11)に陸軍が撮影した下落合西部と上落合。は、敗戦間近な1944年(昭和19)に撮影された落合地域とその周辺で、画質がきわめて低いのが判然としている。は、戦後に初めて輸入されたドイツ製の垂直写真用航空カメラ。

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藤川栄子と佐多稲子が通う椿堂文具店。 [気になるエトセトラ]

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 物書きのせいか、窪川稲子(佐多稲子)Click!は早稲田通り沿いにあった文房具店へ頻繁に出かけている。筆記用具や原稿用紙を購入していたのは、戸塚3丁目347番地に開店していた文房具店「椿堂」だ。藤川栄子Click!は洋画家だが、用紙やスケッチブック、名刺づくりなどで同文具店をよく利用していたらしい。
 ふたりは、昭和初期から椿堂文房具店をよく利用しており、1935年(昭和10)前後には近所の噂話として、よく話題にのぼっていたとみられる。佐多稲子Click!も、頻繁に遊びにきていた藤川栄子を通じて椿堂の情報を仕入れており、かなり詳細な家庭事情をつかんでいたようだ。その様子を、1955年(昭和30)に筑摩書房から出版された『現代日本文学全集』第39巻所収の、佐多稲子『私の東京地図』から引用してみよう。
  
 レコードを聴かせる喫茶店街を曲がつてそこから戸山ヶ原に沿つた邸町へ出ると、この辺りにも桜の花の美しいところがあつたが、私の散歩は町の中のゆきかへりですんでしまふ。喫茶店街へ曲る辺りも、高田馬場駅から登り坂になつた大通りがまだゆるやかに高くなつてゐるが、北側は道そのものが崖になつて、崖際にやうやく店だけ出して危げに商売してゐる屋台のやうなすし屋があつたり、引越し引受けの小さな運送店があつたりした。しかしさういふ薄いやうな建物にも、人が住んでゐた。かういふ崖際の一側建の家で、それは間口も広く二階の窓もしつかりした店だつたが、文房具屋があつた。名刺の印刷などもする小さな機械を片隅においたり、飾窓には季節には扇子をかざつたり、並べてある紙や筆もしつかりしてゐて、店は明るかつた。主人は背は低いけれど肩はがつしりしてゐて、半白の頭をいつも短く刈つて、眼鏡をかけてゐた。無口などつちかといへば愛想のない方だが、それは横柄といふのではなく、むしろ商売人くささがなくて気持のいいものにおもへた。細君は四十を出たくらゐの背のすらりとした、かざりけはないけれど親身な愛想のよさを客にみせ、この夫婦のとり合せは、客に心よい感じを与へてゐた。
  
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 さて、佐多稲子が描く昭和初期の早稲田通りに開店していた、上記のいくつかの商店を特定することができる。でも、その店舗の多くは二度にわたる山手空襲Click!で全焼し、戦後は再開した店もあったかもしれないが、残念ながら現存していない。
 まず、山手線西側の戸山ヶ原Click!へと出られる「喫茶店街」とは、早稲田通りが小滝橋へ向けて途中で鋭角にクラックClick!していた、旧道沿いにあたる裏の道筋のことだ。今川焼きなどの甘味処と、郵便ポストの間の道を入ると喫茶店が軒を並べていて、早稲田の学生たちが出入りしていた。表通りである早稲田通り沿いには、戸塚3丁目346番地(現・高田馬場4丁目)の和菓子屋「青柳」が経営する喫茶店も開店していた。
 旧・早稲田通りがカギの字に曲がっていたのは、北側の神田川へ向けて落ちる崖を避けるためだったのだが、通りの直線化工事で崖地ギリギリのところを通りが走るようになったため、通りの北側に店舗の敷地を確保するのがむずかしくなった。したがって、戦前までは崖地が口を開けた状態のままで、かろうじて小規模な「屋台のやうなすし屋」が開店していた。この寿司屋があったのは戸塚3丁目360番地で、店名があったはずだが記録されていない。寿司屋の西隣りには、小さな稲荷の祠が奉られていた。
 さて、佐多稲子や藤川栄子が通った文房具店は、その崖地がつづく西側の戸塚3丁目347番地に開店していた「椿堂」だ。この文具店を経営していた夫妻は、近所でも評判のよいおしどり夫婦だったのだが、ある日、ウワサを仕入れてきたおしゃべり好きな藤川栄子Click!が、窪川稲子(佐多稲子)のもとにやってきて、「若い男と駆け落ちしたんですって!」と告げた。つづけて、『私の東京地図』から引用してみよう。
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 子どもがなくて、店の奥のすぐ崖になつた一間に小鳥などを飼つてゐた。吉之助(窪川鶴次郎)のところへ来る若い評論家など、この夫婦をほめて、そのうちでも細君の方を、いい細君ぶりだといふ意味で自分の恋人に話したりしたことがある。この店で買物をしつけて、一、二年も経つたであらうか。いつとなく細君の姿が見えなくなつた。夫婦きりの店なので、主人が出かけるときは、自然店の戸が閉まることになり、何かされは気にかかつた。すると、この店へゆきつけの画描きの友達(藤川栄子)が私に話してくれて、あれは、若い男が出来て逃げたのだ、といふことであつた。/「代りの女房を探すんだつて、誰かないかつて、私にまで頼むのよ。そんなやうな人ないかしらね。」/文房具店の主人の、いままでも客の顔を正面から見ないやうな表情が、その後は一層暗くなつたやうで、いつも半分表戸を閉めた店の様子もその前を通るたびに主人の気持までつい押しはかつてしまふものになつた。(カッコ内引用者註)
  
 世話好きだった藤川栄子は、新しい細君まで探してあげようとしていたらしい。
 ある日、佐多稲子が椿堂文具店の前を通りかかると、黄色いカーテンが引かれた表戸のガラスに、「吉事休業」という貼り紙を見つけた。主人が再婚して、新しい妻を迎えるために休業したものだった。「吉事」と書くところに、孤独だった文具店主人の喜びと、新たな出発への思いがこめられているような感覚を抱いて、佐多稲子はそれを眺めている。
 今度の新しい細君は大柄で、少し年配の顔が呑気そうに見える肥った女性だったが、主人の顔からは陰気そうな陰が消えなかった。街中では、「姿を消した前の細君が赤ん坊を負つてゐるのを見た」というようなウワサが流れ、相変わらず周囲が“女房に逃げられた”ことを忘れてくれなかったからかもしれない。だが、新しい細君も戦争が激しくなるころに、脳溢血であっけなく死んだ。
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 佐多稲子の文章が非常に印象的なのは、大きな時代背景や逼迫した社会状況を、近所で起きる市井の何気ない出来事や事件へ、温かい目を向けながら無理なく自然に透過させて、実にうまく表現するところだろうか。ようやく再婚したばかりの妻の死と、空襲で店を焼かれて打ちのめされた文房具店「椿堂」の主人が、戦後に改めて顔を上げ、前を見つめて再出発していることを祈る。

◆写真上:昭和初期には道路からすぐに北へ落ちる崖だった、早稲田通りの崖地跡。
◆写真中上は、崖地に開店していた1938年(昭和13)ごろの小さな寿司屋。は、崖地の西寄りに開店して佐多稲子や藤川栄子が通っていた文房具店「椿堂」。いずれも、1995年(平成7)に発行された『戸塚第三小学校周辺の歴史』所収の濱田煕の記憶画より。
◆写真中下は、寿司屋跡の現状。は、文房具店「椿堂」跡の現状。下左は、1950年(昭和25)ごろに撮影された佐多稲子。下右は、佐多稲子『私の東京地図』が収録された1955年(昭和30)出版の筑摩書房版『現代日本文学全集』第39巻。
◆写真下は、濱田煕が描く1938年(昭和13)ごろの早稲田通りにあった崖地界隈。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる崖地界隈。


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