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陸軍中野学校の演習旅行1941年。 [気になるエトセトラ]

卒業演習(北京駅頭).jpg
 戸山ヶ原Click!に設置された陸軍兵務局分室Click!(工作員の符牒“ヤマ”Click!)は、1937年(昭和12)の春に防衛課が発足するとともに、同年暮れには「後方勤務要員養成所」(のちの陸軍中野学校)が設立されている。同養成所は、陸軍の3大統括者だった陸軍大臣・参謀総長・教育総監のいずれにも属さず、陸軍の主要組織からは切り離された特異な存在だった。
 後方勤務要員養成所の募集は、陸軍士官学校Click!や陸軍大学など主要な学校の出身者ではなく、陸軍内の強い反対を押しきって予備士官学校や普通大学の卒業者、民間の勤労者などが優先して行なわれたのも、当時としては異例中の異例だったようだ。要するに、軍人の臭いがする人物は、すべて不合格としてハネられたことになる。同養成所は、1939年(昭和14)7月に中野区囲町に校舎が完成し、翌8月には第1期生を送りだしている。1940年(昭和15)8月になると、ようやく「陸軍中野学校令」が制定されて、後方勤務要員養成所という名称は消滅した。
 陸軍中野学校(養成所時代含む)が、戸山ヶ原の兵務局分室で誕生してから敗戦による消滅まで、その教育方針やカリキュラムをたどってみると、およそ3つの時代に区分できるだろうか。まず、1938~40年(昭和13~15)の3年間は、陸軍内部でも存在が厳密に秘匿され、平時に世界各地で暗躍する工作員(スパイ)を養成していた時期だ。集められた学生たちも、特に軍人らしくない人物から選ばれており、「自由主義」的な傾向の強い教育内容だった。模擬の議論では、天皇批判さえ行なわれていたのもこの時期のことで、軍人臭を徹底して排除するカリキュラムが組まれていた。
 つづいて、1940~44年(昭和15~19)の5年間は、陸軍中野学校令の制定でその存在が上層部にも認知され、戦時に戦争を陰で支援する諜報・謀略戦の工作員(スパイ)を養成する方針に変わっている。そして、1945年(昭和20)の敗戦までは、それまでの教育方針とはまったく異なり、日米戦をめぐる敗色が濃い状況下で、遊撃戦(ゲリラ戦)を中心とした教育内容が採用されていた。ルバング島から帰還した小野田寛郎は、陸軍中野学校卒といっても同校本来の教育目的ではなく、戦争末期のゲリラ戦を主体とした中野学校二俣分校(静岡県)の出身だ。したがって、彼のことを陸軍中野学校出身の諜報・謀略戦に通じた「工作員」とする記述は明らかな誤りで、遊撃戦教令にもとづく「ゲリラ戦の専門家」とするほうが正しいだろう。
 わずか7年間しか存在しなかった陸軍中野学校だが、その活動の中核的な拠点となっていたのは、一貫して戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)Click!だった。同校の歴史の中で、もっともスポットが当てられやすいのも、やはり1940年(昭和15)からスタートした戦時に諜報・謀略戦を遂行する工作員(スパイ)の養成課程だ。
 少し余談だけれど、大映映画に市川雷蔵が主演した『陸軍中野学校』シリーズというのがある。同シリーズがスタートしてしばらくたったころ、陸軍中野学校の出身者たちでつくるグループが、撮影現場の見学に招待されたことがあったそうだ。撮影現場へ出かけていくと、同映画を監修していた「中野学校」OBが、同じ中野にあった憲兵学校の卒業生であることが判明して大笑いになったエピソードが残っている。陸軍憲兵学校は、陸軍中野学校の東側に隣接していたが、その元・憲兵学校の出身者は「中野学校」=憲兵学校だと勘ちがいしていたらしい。憲兵学校側では、西隣りの陸軍施設を参謀本部史実調査部と、アンテナ鉄塔を備えた通信基地だと認識していた。
 中野学校の存在は陸軍内でも秘匿され、限られた一部の人々にしか知られていなかったせいか、同映画が撮影された当時でもこのような混乱が多かったらしい。事実、吉田茂邸へ潜入した兵務局分室のスパイClick!(中野学校出身)の存在を、憲兵隊本部でさえまったく把握していなかったことからもうかがえる。したがって、大映の『陸軍中野学校』シリーズは、私服憲兵の諜報活動サスペンス映画として観賞するのが正しいようだ。
兵務局分室跡.JPG
兵務局分室跡1970年代.JPG
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 さて、陸軍中野学校の最後の実習科目に「卒業演習」というのがあった。教室での講義を履修したあと、実地の訓練をするために商人や観光客に化けて、グループごとに海外(アジア地域)へと旅行する、いわば卒業試験旅行のような演習だ。旅行中には、多種多様な「候察」(レポーティング)の課題が出題され、卒業演習にパスしないと任務には就かせてもらえなかった。
 その貴重な卒業演習の模様を撮影した写真が、元・陸軍中野学校乙Ⅱ短期及特別長期学生だった塚本繁という方の手もとに残されている。中野学校や兵務局分室の資料類は、1945年(昭和20)8月15日の敗戦とともに、ほとんどすべてが証拠隠滅のため焼却されているので、これらの写真類は中野学校の実情を知るうえでは非常に稀少な記録写真ということになる。卒業生たちは、いちおう身分は軍人なのだが長髪で私服を着用しており、言葉づかいや挙動も軍人とはほど遠い様子をしていた。(そもそも当初は、軍人教育を満足に受けていない一般人を募集していた) つまり、怪しまれずに本物の商人やビジネスマン、観光客になりきれる“才能”のある人物でなければ、中野学校を卒業できなかった。
 したがって、旅先ではあちこちで憲兵隊や地元警察の不審尋問にあい、繰り返し身体検査や荷物検査を受けることになる。卒業演習は、ほとんど根まわしの行なわれていない、ぶっつけ本番のスパイ旅行だった。その様子を、1979年(昭和54)に毎日新聞社から出版された『日本陸軍史』所収の、塚本繁『中野学校“卒業演習”の旅―開戦直前の大陸をゆく―』から引用してみよう。
中野学校実技自動車(中野学校校庭).jpg
中野学校実技飛行機(所沢飛行場).jpg
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 天津、北京、張家口、大同、包頭と足跡をのばし、帰路は奉天を経て朝鮮経由で帰国した。/移動間には必ず兵要地誌の候察が課せられ、宿舎につくと作業に追われ、与えられた課題を消化したものであった。夜の巷に出掛ける時も民情候察がついて回った。(中略) 北京では紫禁城、天壇、天安門等々の歴史的建造物を見学、民族遺産を見てこの国の人々の民情を深く考えさせられた。/これらの見学行動にもいくつかの課題が与えられ、またその土地の憲兵の監視からいかに疑念を持たれずに行動するかも、演習の題目とされていた。不審尋問を受けたグループもあったが、巧みに偽瞞して身分の秘匿は貫き通した。
  
 この卒業演習は学生18名と教職員数名からなり、1941年(昭和16)8月に広島港を出発している。乗船と同時に乗組員から怪しまれ、すでに奇異の眼で見られはじめた。
 旅行の途中では、すでに任務に就いている中野学校OBとひそかに落ちあい、現地での体験談を聞いて取材したり、各地の特務機関のアジトに立ち寄っては研修を受けたりしている。卒業演習は、教官から頻繁に出題されるレポートの消化と、憲兵隊の追尾からいかに逃れるかが大きな課題だったようだ。おそらく、彼ら一行には制服憲兵ばかりでなく、私服憲兵も尾行に張りついていたのではないかとみられる。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 包頭は戦線の第一線で、駐屯する部隊もその住民も緊張していた。奥地より送られてくる麻薬の摘発は、各地とも厳重を極めたが、この包頭では特に厳しく、駅に降りたとたん一行は憲兵の臨検を受けてしまった。団長と憲兵とのやりとりを見ているわれわれの眼前で、嬰児を抱いた姑娘が憲兵に尋問されていた。(中略) 全行程を終わり関釜連絡船で下関に上陸した時点で、各人が携行していた旅行カバンの点検があり、莫大な資料と重要書類の内容を開陳されそうになった危機もあったが、何とかうまく切りぬけてこの集団が何者であったか露見することなく、中野の校舎に帰ったのである。
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 この一行は、おもに英語やマレー語を習得した「南方班」と、ロシア語を習得した「北方班」の学生が主体だったので、中国語を話せる人物がほとんどいなかったようだ。中野学校には、対中国作戦用に「中国班」と名づけられた専門クラスが存在したが、1941年(昭和16)8月の卒業演習では「中国班」から学生が選抜され、各チームに通訳として同行していたようだ。中野学校出身の諜報・謀略要員は、兵務局分室(工作室=ヤマ)を通じて陸軍科学研究所Click!の多種多様な「兵器」を装備し、戦地や占領地へと散っていくのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:卒業演習で北京駅ホームに立つ、陸軍中野学校の学生たち一行。
◆写真中上は、中野学校の実質“司令部”があった戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)跡の現状。は、1970年代の空中写真にみる兵務局分室跡。は、戦争末期に遊撃戦(ゲリラ戦)を専門に教授した静岡県の陸軍中野学校二俣分校。
◆写真中下は、中野学校校庭で自動車の運転実技演習。そのほか、電車・機関車・飛行機などの実技演習があった。は、所沢飛行場Click!の飛行学校で行われた飛行機の操縦実技演習。は、松竹の大船撮影所で実施された宣伝工作実技演習の記念写真。
◆写真下からへ、バスで目的地に到着した中野学校の卒業演習一行。北京の喫茶店にて。特務機関のアジト訪問。大同の石仏前での記念写真。先に潜入している中野学校OBとの接触取材。常に憲兵や軍人からうさん臭げに見られる卒業演習一行。

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妖怪譚から探る江古田周辺の古墳。 [気になるエトセトラ]

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 下落合の北西側、妙正寺川の上流域で中野区の北部にあたる江古田(えごた)地域には、天狗や般若(鬼女)の伝説が語り継がれている。このエリアは、ちょうど中野区と練馬区、板橋区、豊島区の区境に近く、江古田(村)あるいは中新井(村)という地名は中野区側にあり、西武池袋線の江古田(えこだ)駅は練馬区旭町にあり、古墳をベースに築造された駅前にある浅間社の江古田富士Click!も同じく練馬区にあるが、古墳時代の住居跡など直近の遺跡は、現在まで確認できている限り中野区側と豊島区側、そして板橋区側にまたがって発掘されているという入り組んだエリアだ。
 古墳時代の遺跡としては、練馬区に属する江古田駅前の浅間社境内にされていた江古田富士塚古墳(前方後円墳?)を除けば、駅南側の中野区にあたる「中野No.36」遺跡と「南於林遺跡」、江古田駅の東側にあたる豊島区の「千早遺跡」、同じく東側の板橋区に属する「板橋区No.126遺跡」の4ヶ所を数えるが、区が異なる「千早遺跡」と「板橋区No.126遺跡」は区境の道1本はさんで同じエリアの遺跡なので、もともとは同一の集落だったのだろう。
 これだけ、古墳時代の遺跡が散在する江古田駅周辺だが、古墳に比定されているものは江古田富士塚のみで、ほかには現存しないことになっている。そのような環境を前提に、おそらく江戸期より伝承された天狗や般若(鬼女)などの昔話をみると、興味深いことがわかる。たとえば、天狗の伝説を引用してみよう。参照するのは、こちらでも何度か怪談や奇譚などで引用している、1997年(平成9)に中野区教育委員会から出版された『続中野の昔話・伝説・世間話』で、中野区側の江古田に住む明治生まれの古老の証言だ。
  
 真ん中の茶室と八畳と六畳なんです。その大きいほうの部屋じゃないかと思うんですけどね。夜中になると、ミシッと音がするんだそうです。そうすると、それはね、天狗様がね、見回りに来るんだということでね。それは、主人のいとこに聞きましたんですよ。それだからね、「ここへ寝なさい」って言うと、みんなこわがって寝なかったそうです。
  
 天狗たちが住んでいるのは、「神様の森」あるいは「天狗の森」と呼ばれていたエリアだが、大人は子どもたちを怖がらせ、それらの禁忌的な森(山)へは近づいてはならないと教育するところは、全国各地に残る「禁忌域」伝説Click!とまったく同じだ。
  
 神隠しってぇのはね、それは、天狗様に連れてかれちゃうっていうようなね、そういうような伝説があるんです。(中略) 天狗様はどこにでも、当時は、神様の森には、必ずいたと、いうことを、人々は、江戸時代の人々は、信じていたと、それをね。ですからね、こわいところは、何かっていうとね、墓場はこわくないんだとこう言うんです。墓場はこわくないんだが、本当にこわいのは、神様の森がいちばんこわいんだと、いうことを、年寄りは言ってましたね。
  
 ここで語られている「神様の森」とは、社(やしろ)の境内になっている鎮守の杜(山)もそうだろうが、なんらかの禁忌的な場所であることが、延々と江戸期まで語り伝えられてきた様子を示唆している。
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 つまり、古墳時代に築造された古墳の周囲で語られつづけてきた、屍家・死家(しいや)伝説Click!との結びつきだ。誰が葬られているのかは、とうに江戸期以前からわからなくなっているが、伝えられている死者の領域を侵してはならないというタブーが、「天狗」や「般若(鬼女)」などの妖怪変化と結びつけられて伝承されているケースだ。また、古墳をあばく盗掘の防止的な効果をねらい、後世に怖い話が創作されているのかもしれない。そのような地域には、寺社の境内にされてしまった事例を含め、いくつかの古墳がそれと気づかれずに存在している可能性が高い。
 このような観点を踏まえ、1/10,000地形図や空中写真を参照すると、江古田富士塚古墳とは別に、いくつかのそれらしいフォルムを地表に見つけることができる。特に江古田駅の東側に展開していたとみられる古墳時代の集落、すなわち板橋区のNo.126遺跡と豊島区の千早遺跡(行政区画を無視すれば接続した同一遺跡)の北、わずか100mほどのところには石神井川へと注ぐ支流の河岸段丘上に、サークルや鍵穴型のフォルムを確認することができる。写真では、特にいちばん西寄りに刻まれた前方後円墳らしいかたちが顕著であり、1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、後円部にあたる墳丘(すでに開墾されて高度はそれほどなかったとみられる)の中心に、祠のようなものが祀られていたものか、小さな森が確認できる。全長はおよそ130mほどの鍵穴形状だが、とりあえず便宜的に向原古墳(仮)と呼ぶことにする。
 年代順に空中写真を参照すると、おそらく戦時中の食糧増産で後円部の残された木々も伐られ、祠はそのままだったのかもしれないが、向原古墳(仮)の全体が畑地にされているのがわかる。1947年(昭和22)や翌1948年(昭和23)の空中写真では、もはや鍵穴型のフォルムがかなり薄れて、間延びしたマッシュルームのようなかたちになっている。この地域は田畑が拡がる農村だったため、空襲の被害をほとんど受けておらず、1957年(昭和32)の空中写真でも畑地のままであり、ほぼそのままのかたちを残している。
 だが、要町通りの敷設につづき、向原小学校や周囲の住宅街の造成、そして地下鉄・有楽町線の小竹向原駅の設置などで、向原古墳(仮)は全的に消滅してしまった。要町通りや向原小学校の建設時、工事現場からなにか出土したかは記録が残っていないので不明だが、南側にあったとみられる集落跡は、板橋区と豊島区の教育委員会が調査をして、それぞれ古墳時代の遺構を発掘している。現地を歩いてみると、板橋区No.126遺跡と千早遺跡の双方ともに記念プレートは残されていないが、豊島区側の豊島高等学校や旧・第十中学校の敷地を含め、また板橋区側の向原公園を中心とした住宅街を合わせると、古墳時代の遺構はかなりの広さになる。
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 また、石神井川の支流に沿った向原古墳(仮)の北北東の斜面にも、“怪しい”突起が半島状に2つ連なっていたことが、明治末の地形図を見ると確認できる。各時代の空中写真では、畑地や森、農家などが散在していて、向原古墳(仮)ほどには形状をハッキリと視認することができないが、早くから農地化や宅地化が進んでいたとみられ、より大規模な土地の改造が実施されたのだろう。
 さて、江古田駅界隈の遺跡めぐりや古墳探しはこれぐらいにして、わたしが江古田へ出かけたのには、もうひとつ理由があった。武蔵大学Click!の向かいにあるギャラリー古藤で、2005年に急逝した貝原浩Click!の「万人受けはあやしい」展が開催されていたからだ。このサイトでも、貝原浩が描いた下落合風景である『東京目白(小野田製油所)』Click!や、チェルノブイリの原発事故に関連した画文集『風しもの村』Click!(2010年)などをご紹介してきたが、彼の仕事は実に多種多様にわたっている。今回は、おもに「ダカーポ」や「出版ニュース」、「朝日ジャーナル」、「批評精神」、「アサヒ芸能」、「インパクション」、「ペンギン?(クエスチョン)」、「問題小説」、「現代農業」、「自然食通信」など雑誌類に描いた、彼ならではの戯画を中心に集めた展覧会だ。
 以前にもご紹介しているが、貝原浩の戯画は「風刺」や「揶揄」のレベルを超えて、強烈な「否定」をともなうインパクトをもっている。作品を観てまわるうちに、眉間にシワを寄せてニラミたくなるものや、つい噴きだしてニヤニヤしてしまうものなど、その果てしなく拡がり千変万化する表現力には脱帽だ。わたしが学生時代から、よく読んでいた雑誌類に掲載されていたものなので、分厚い図録も買ってしまった。同展は、2月13日(火)~18日(日)のスケジュールで、京都のギャラリー「ヒルゲート」でも開かれる予定だ。
 会場には、連れ合いの世良田律子様がいらしたので、ちょっとお話をする。今度は、日々忘れ去られ「そんなことはなかった」かのように扱われつつある原発事故の地元で、『風しもの村』作品を中心とした展覧会を企画されているそうだ。3基の原発がメルトダウンを起こした福島第一原発では、すでに汚染された水を貯蔵するタンクの敷地が足りず、廃炉処理以前に汚染水の処理自体が破綻しかかっている。
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貝原浩「万人受けはあやしい」展チラシ.jpg 貝原浩「万人受けはおやしい」展図録.jpg
 世界各地の原発事故がそうであったように、一度事故を起こしてしまった原発は、これから何度でも“破綻”を繰り返していく。そのたびに、地元では危機と隣り合わせの緊張と、不安を抱えた生活を強いられなければならない。東北での展覧会に多くの人たちが集まり、成功裡に終わることを期待してやまない。

◆写真上:キャンパスの西半分が、古墳期の千早遺跡が眠る都立豊島高等学校。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる向原一帯。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる鍵穴フォルムと古墳期遺跡。は、同写真の拡大。
◆写真中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる向原古墳(仮)の痕跡。は、1948年(昭和23)の空中写真にみる痕跡(拡大)。前後左右に土砂を拡げたような、マッシュルーム型になっているのがわかる。は、板橋区No.126号遺跡にある向原公園。
◆写真下は、豊島高等学校から江古田駅方面を眺めたところ。右側の道路のように、谷底の小流れに向かって緩傾斜がつづく。は、校庭の敷地がすべて千早遺跡に含まれる旧・第十中学校。は、貝原浩「万人受けはあやしい」展のチラシ()と図録()。
掲載した「万人向けは怪しい」展の図録(1,500円)は、「貝原浩の仕事の会」サイトClick!の書籍等の入手方法のページまで。

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このごろの鉛筆をめぐる話。 [気になるエトセトラ]

生産ライン塗装待ち鉛筆.jpg
 岩崎家Click!の三菱財閥よりも10年も前に、“スリーダイヤ”の商標登録を行い、日本で最初の鉛筆工場を新宿御苑Click!の東隣り、内藤新宿1番地(現・新宿区内藤町1番地)に起ち上げた眞崎鉛筆(三菱鉛筆)についてご紹介Click!した。当初は工場に接した玉川上水(渋谷川源流)の水車で、あるいは周辺地域の水車小屋で黒鉛の粉砕を行なっていたが、その後同社の事業はどうなったろうか。
 大正期に入ると、次々と鉛筆製造企業が台頭してくる。戦前までに数えられる大手企業としては、三菱鉛筆とトンボ鉛筆、コーリン鉛筆、ヨット鉛筆、地球鉛筆、森彌鉛筆などが挙げられる。国産鉛筆の品質のよさが、定着しはじめたのもこのころだ。だが、これらの鉛筆企業は日米戦争が迫るにつれ、鉛筆の原料となる米国産の木材インセンスシダー(オニヒバ)の輸入が困難となり、また黒鉛の輸入も減少して品質が急低下している。同時に、鉛筆は国から配給される統制品となり、自由に生産することが困難になった。そして、これらの鉛筆工場は戦争により、その多くが壊滅している。
 戦後の復興は、空襲による都市部の被害がより大きかった東日本のほうが早い。1949年(昭和24)現在、西日本の鉛筆企業が15社に対し、東日本は95社におよんでいる。また、東京には80社(67工場)と集中化がみられた。だが、その多くは中小企業が多く、全体の55%が個人経営の小規模なものであり、全体の71%が従業員20人以下の生産現場だった。鉛筆製造の復興が本格化するのは、1950年代になってからのことだ。
 日本の鉛筆が、世界市場でも目立つようになってきたのは、1955年(昭和30)ごろからだ。年間の生産量が90万グロス(1グロス=12ダース=144本)、つまり約1億3,000万本に達し、そのうちの30%が海外へ輸出されている。さらに、1966年(昭和41)にはついに962万グロス(約14億本)となり、生産量と品質ともにドイツや米国と肩を並べる、「鉛筆大国」にまで上りつめている。ちょうど同時期には、“高級鉛筆”と呼ばれる「減らない・折れない・書きやすい」高価な鉛筆も大手2社から発売され、これも世界的なヒット商品となった。三菱鉛筆(眞崎鉛筆)でいえば、uni/High-Uniシリーズのことだ。 
 また、鉛筆に付加価値をつけた香水鉛筆や誕生石鉛筆、細軸鉛筆、祝事用の金箔・銀箔鉛筆なども登場している。わたしが小学生のころ、女子たちはみんなパールカラーで塗装された細軸の香水鉛筆を筆箱の中に入れており、新製品が出ると匂いをかがせてもらったものだ。香水鉛筆には、芯を包む木材に香料を染みこませたものと、芯に香料を混ぜたものとがあったようだ。芯に香りがついていると、書いた紙面にいい匂いが移るので、女子たちには人気だったのだろう。
 だが、筆記用具としての鉛筆の役割りは、1960年代後半から1970年代前半にかけてがピークで、その後は徐々に衰退をはじめている。1970年代の半ばには、生産量が500万グロスとピーク時の約半分にまで落ちこんだ。これは、シャープペンシルやボールペンが急速に台頭し、いちいち芯を削らなければならない鉛筆が敬遠されはじめたことによる。シャーペンは、なだらかな曲線を描いて普及していったのに対し、ボールペンの生産量は1970年代半ばから急激なカーブを描いて上昇している。鉛筆市場を侵食していったのは、シャーペンではなくボールペンだった。イベントなどの記念品で配られるのも、鉛筆ではなくボールペンが主流になっていった。
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 鉛筆の生産量は、1990年代に入ると300万グロスにまで落ちこみ、それに拍車をかけたのが少子化だった。それでも三菱鉛筆をはじめ大手メーカーは、あの手この手で市場の縮小をくい止めようとしている。そのひとつが、鉛筆の塗装にアニメやゲームの人気キャラクターをプリントしたり、鉛筆自体をゲームのグッズにしてしまうことで、生産量の落ちこみをカバーしようとしている。1990年代の半ば、生産量がやや上向いているのは、キャラクター付きのゲーム鉛筆(勝負鉛筆)が売れに売れたからだ。わが家もそうだが、このブームで各家庭には使わない鉛筆があふれ返ることになった。
 でも、鉛筆の衰退は止めることができず、現在は100万グロスにまで生産量が減少してしまった。日本鉛筆工業協同組合Click!が、鉛筆の誕生から衰退までをまとめた、「鉛筆と日本の鉛筆工業の歴史」(2012年)から引用してみよう。
  
 この少子化、消費低迷の時代にあって平成8年(1996年)、9年は鉛筆の生産が若干伸びている。これは学童文具メーカーによるアニメーション、テレビゲームなどの「漫画やキャラクターがついている鉛筆」、「ゲーム鉛筆」などメディアとタイアップした企画が小学生に受け入れられたことによるが、ブームは一時的であった。/以降、平成13年(2001年)~19年(2007年)の国内生産は、200万グロス台に減少、大手企業が海外に生産拠点を移したこともあって平成18年(2006年)には国内生産と輸入数量が逆転し、平成20年(2008年)からは、100万グロス台となっている。
  
 さて、1985年(昭和60)に福音館書店から出版された、谷川俊太郎・文/堀内誠一・絵/坂井信彦ほか・写真による『いっぽんの鉛筆のむこうに』という絵本がある。小学校の国語教科書にも取り上げられたので、記憶されている方も多いのではないだろうか。鉛筆が、さまざまな国で産出される原料を使い、日本に輸入されて1本の鉛筆に仕上がるまでの経緯を描いたものだ。
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 1985年(昭和60)という年は、筆記用具の市場で鉛筆の衰退が誰の目にも明らかになっていたころで、海外を含む多彩な分業や協働によって日本製品は造られている……という教育的な視点によるものだが、特に鉛筆でなくても身近な製品で物語は成立したはずだ。ことさら鉛筆をテーマにしたのは、衰退をつづける鉛筆に対する“鉛筆世代”の愛着からだろうか。この絵本で取り上げられているのが、眞崎仁六がはじめた三菱鉛筆だ。『いっぽんの鉛筆のむこうに』は、いまから32年前の作品であり、すでに現状とは合わない記述も多くなっている。『いっぽんの鉛筆のむこうに』から、少し転用してみよう。
  
 人間は鉛筆いっぽんすら自分ひとりではつくりだせない。いまでは、どこのうちのひきだしのなかにもころがっている鉛筆だが、そのいっぽんの鉛筆をつくるためには、かぞえきれぬほどおおぜいの人がちからをあわせている。
  
 まず、黒鉛の主要輸入先としてスリランカのポディマハッタヤ一家が紹介されているが、現在は中国からの輸入がトップを占めている。次にブラジルがつづき、スリランカは3位に後退している。また、黒鉛に混ぜる粘土の産地は、ドイツとイギリスからの輸入がメインだ。米国のシエラネバダ山脈で産出する、インセンスシダー(Incense Ceder)の輸入はいまも変わらないが、太平洋を乗りこえて木材を日本に運ぶ、絵本に写真や設計図入りで紹介されたメキシコのコンテナ船「ハリスコ(Jalisco)」号(22,000t/広島で建造)は、とうに退役するか売却されたらしく、現在はより大規模な異なるコンテナ船に「ハリスコ」号(40,000t超)の名前が使われている。おそらく旧・「ハリスコ」号は、異なる船名をつけられて、現在でもどこかに就航しているのだろう。
 山形県東置賜郡の川西町にある、三菱鉛筆山形工場はいまも健在だ。絵本では、大河原一家が紹介されているが、当時は塗装ラインを担当していた奥さんは、いまでは熟練工となって同工場でそのまま働いているようだ。ただし、同工場の生産品は鉛筆が減少し、ボールペンとシャーペン芯の製造が主流となっている。
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 わたしも、鉛筆を使う機会がほとんどない。いや、ふだんから仕事でも生活でも筆記用具を手にするシーンが非常に少なくなってしまった。たまに使うとすれば、付箋を挿む際のシャーペンかボールペンによるメモ書きで、ほとんどがメモ類やスケジュールまで含めて、PCなどのデバイス入力に移行している。ただし、ときどきイタズラ描きする色鉛筆は手もとに置いているが、いまメーカーを確かめてみたら残念ながらファーバーカステル(ドイツ製)だった。今度買うときは、ぜひ国産の色鉛筆にしてみたいと思う。

◆写真上:製造ラインを流れる塗装待ちの鉛筆で、『いっぽんの鉛筆のむこうに』より。
◆写真中上は、眞崎仁六が日本で最初に内藤新宿で量産した鉛筆。柄はそのままに芯を交換できるので、今日のシャープペンシルのような仕様だった。は、三菱鉛筆の現行品でUniシリーズの高級品「LIRICO」アライアンスバージョン。
◆写真中下上左は、インセンスシダー(オニヒバ)を伐りだす米国の林業者。(同絵本より) 上右は、空に向けて真っすぐに伸びるインセンスシダーの樹影。は、いまだ鉛筆が数多く置かれていた1980年代の文具店ペンスタンド。(同絵本より)
◆写真下上左は、メキシコで1985年(昭和60)現在の旧「ハリスコ」号の船影。(同絵本より) 上右は、1985年(昭和60)に出版された『いっぽんの鉛筆のむこうに』(福音館書店)。は、1988年(昭和63)に就役した現在の「ハリスコ」号(TMM)で、旧船に比べ40,000t超と約2倍の排水量になっている。は、鉛筆・シャープペンシル・ボールペンの生産量推移。(日本鉛筆工業協同組合の統計より)

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巽聖歌が歩く屋敷林の落ち葉焚き。 [気になるエトセトラ]

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 いまでも晩秋から冬にかけて、近所にある旧家の庭先や畑地Click!の中で、落ち葉を燃やす香ばしい煙が立ちのぼることがある。厳密にいえば、落ち葉を低温で燃焼させる焚き火は、ダイオキシンやCOxなどの有害な物質をまき散らすことになり、東京都の条例違反あるいは消防法に抵触するのかもしれないが、季節を象徴させる風物詩的な情景や匂いが、わたしを含め近隣のみなさんも好きなのか、誰も文句をいうことはない。
 おそらく、戦前の落合地域では、ケヤキやクヌギなど武蔵野を代表するさまざまな落葉樹の落ち葉を燃やす焚き火の白い煙が、住宅街のあちこちから空へと立ちのぼっていただろう。近所に漂う落ち葉焚きの匂いや、風にのって運ばれてくる薄っすらとした煙から、暮れや正月が近いことを肌で感じとれたのではないだろうか。こちらでも、近衛町Click!にあった下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の安井曾太郎アトリエClick!で行われていた、イモをくべた焚き火Click!の様子をご紹介したことがある。
 わが家でも毎年暮れになると、ケヤキの落ち葉掃きClick!は欠かせない年中行事……というか、腰を痛める大仕事だが、45リットルのゴミ袋に入れ「燃えるゴミ」として処分している。東日本大震災時の福島第一原発事故Click!以来、線量計で放射線を測定Click!してレポートClick!をアップするのも恒例の行事Click!となってしまった。できれば、子どものころのように焚き火をして楽しみたいところだが、近隣の住宅事情がそれを許さない。
 小中学生のころ、よく焚き火をしてはキャンプの練習にと、飯盒炊爨(はんごうすいさん)をしたものだ。燃料にしていたのは、広葉樹の落ち葉ではなく海岸沿いに防風・防砂林として植えられた、クロマツ林の落ち葉や枯れ枝だった。マツ脂を含んだクロマツの枯れ葉は、火を点けるとアッという間に燃え上がり、焚きつけの新聞紙などいらず、焚き火にはとても面白くて重宝な燃料だ。松林と自宅Click!の庭との間に、草刈りをして焚き火ができる2畳ほどのスペースをつくった。周囲の草とりをして、砂地の地面を少し掘り下げた場所で、小学生のわたしはよく親に焚き火をせがんだ。
 なぜか、そこでイモやクリを焼いた憶えはないけれど(親たちがサツマイモClick!嫌いだったからだろう)、キャンプを想定した食事づくりはさんざん楽しんだ。クロマツの枯れ葉は、別に冬にならなくても1年じゅう樹下に落ちるから、季節を問わず燃料には困らなかった。焚き火は、ヒヨドリの鋭い鳴き声が響きわたる晩秋、あるいは息が目に見えるようになる初冬の趣きだが、山でのキャンプ好きClick!だったわたしはセミたちの声とともに、夏の想い出としてもオレンジ色をした炎がよみがえる。
 晩秋の焚き火は、どこか物悲しく悲劇的な物語をその情景に含んでいるようで、小坪港も近い逗子海岸で子どもたちが起こした焚き火へ、かがみこむようにして身体を温めている、ゆきずりの哀れな老人を描いたのは国木田独歩Click!だ。1978年(昭和53)に学習研究社から出版された、『国木田独歩全集』第2巻所収の『たき火』から引用してみよう。
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 げに寒き夜かな。独ごちし時、総身を心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌もて心地よげに顔を摩りたり。いたく古びてところどころ古綿の現われし衣の、火に近き裾のあたりより湯気を放つは、朝の雨に霑いて、なお乾すことだに得ざりしなるべし。/あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆も足袋も、紺の色あせ、のみならず血色なき小指現われぬ。一声高く竹の裂る音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁は足を引かざりき。/げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足を替えつ。十とせの昔、楽しき炉見捨てぬるよりこのかた、いまだこのようなるうれしき火に遇わざりき。いいつつ火の奥を見つむる目なざしは遠きものを眺むるごとし。火の奥には過ぎし昔の炉の火、昔のままに描かれやしつらん。鮮やかに現わるるものは児にや孫にや。
  
 さて、東京で落ち葉焚きが禁止されたのは、なにも現代ばかりではない。戦時中の東京では、落ち葉は重要な“資源”として位置づけられ、炊事や風呂焚きなどに使える“資源”を焚き火をして燃やすとはケシカランと、軍部からクレームが出て禁止されていた。また、焚き火の煙は「敵機による空襲の攻撃目標になる」ので全面禁止という、わけのわからない命令も軍部から出ている。
 米軍の空襲を経験し、その爆撃法を科学的ないしは論理的に分析・検証していれば、B29は精密な空中写真Click!や地図をベースにレーダーを用いて攻撃目標を補足し、正確に爆撃を行っていたことは明らかだったはずだ。これも、夜間に光るホタルは爆撃の目標になるから、川辺のホタルClick!をすべて殺せという錯乱したヒステリックな命令と同系統のものだろう。それとも、軍部に近い行政組織がその意向を先まわりをして「忖度」し、軍部からと偽って「命令」を伝えていたものだろうか。
 そんな不可解な命令を受けた人物が、落合地域の西隣りにある上高田地域に住んでいた。1941年(昭和16)に、JOAK(NHKラジオ)の依頼で童謡「たきび」を作詞した、詩人の巽聖歌(とまりせいか)だ。巽聖歌は、童謡の作詞依頼を受けると、いつも歩いている近所の通い道の情景をモチーフに、さっそく詩を創作した。初冬になると、空に手を拡げたような樹影から無数の落ち葉が降りそそぐ、ケヤキの大樹が繁った道沿いで、落ち葉焚きをする風景を詩にたくしたものだ。焚き火の中では、ときにクリやイモを焼く香ばしい匂いが漂ってもいただろう。
巽聖歌.jpg 巽聖歌宅(上高田).jpg
北原白秋門下.jpg
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 ♪かきねの かきねの まがりかど
 ♪たきびだ たきびだ おちばたき
 ♪あたろうか あたろうよ
 ♪きたかぜぴいぷう ふいている
 作詞・巽聖歌で作曲・渡辺茂による『たきび』は、戦時中は軍部の圧力で禁止されていたが、戦後になると唱歌として小学校の音楽授業でも唄われるようになった。
 巽聖歌は、1930年(昭和5)ごろから上高田にある萬昌院功運寺Click!に隣接するあたりに住んでいる。当時の住所でいうと、上高田306番地界隈になるだろうか、ほとんど上落合と隣接するエリアだ。ちょうど同じころ、上高田82番地には歌人の宮柊二Click!が転居してきて住んでおり、また、すぐ近くの功運寺北東側にあたる上高田300番地には、詩人の秋山清Click!が住みついてヤギ牧場Click!を経営していた。
 巽聖歌は、故郷の岩手にいた時代から、鈴木三重吉Click!が主宰する児童雑誌「赤い鳥」Click!に強く興味をもち、童謡や童話を創作するようになった。20歳のときに近くの教会で洗礼を受け、キリスト教徒(プロテスタント)として讃美歌318番『主よ、主のみまえに』なども作詞している。北原白秋Click!に師事し、東京へやってくると童謡作品を次々と「赤い鳥」へ投稿していった。
 JOAK(NHK)からの依頼で作詞した『たきび』は、巽聖歌の散歩道にあった上高田の旧家・鈴木邸(鈴木新作邸?)の屋敷林に繁る、樹齢300年を超えるケヤキの落ち葉焚きを見て作詞したものだ。新井薬師駅の南東、当時の地番でいうと上高田256番地あたりの敷地だ。下落合からでも散歩で歩ける距離圏だが、いまでもケヤキの大樹を含む濃い緑の屋敷林がそのまま残り、巽聖歌が散歩した当時の風情をしのばせてくれる。
 ♪さざんか さざんか さいたみち
 ♪たきびだ たきびだ おちばたき
 ♪あたろうか あたろうよ
 ♪しもやけ おててが もうかゆい
鈴木家2.JPG
鈴木家3.JPG
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 現在でも、「♪かきねの かきねの~」と唄われる明治期に造作された竹垣を、そのまま目にすることができる。おそらく、鈴木家が庭で焚き火をしても、近隣の住民は火にあたろうと集まりこそすれ、誰もクレームなどつけやしないだろう。

◆写真上:明治期につくられ、そのまま継承されている鈴木邸の高い竹垣。
◆写真中上は、冬になるとオレンジ色の炎が恋しくなる焚き火。は、正月の“どんど焼き”Click!用に用意されている下落合氷川明神社の焚き火鉢。は、巽聖歌も目にしたかもしれない上高田氷川明神のどんど焼きが行われる結界を張った焚き火場。
◆写真中下上左は、上高田に住み『たきび』を作詩した巽聖歌。上右は、功運寺の近くにあった上高田の巽聖歌邸。は、師事した北原白秋の一門とともに。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる屋敷林が濃い鈴木邸とその周辺。
◆写真下は、現在の鈴木邸とその周辺の風情。は、『たきび』が発表された1941年(昭和16)の斜めフカン空中写真にみる巽聖歌の通い道(想定)。
昨年12月31日に測定した、南側のベランダ排水溝の放射線量。四谷地域つまり新宿区南東部にある原子力資料室が、2015年まで測定していた数値(0.06~0.10μSV/h)に比べ、北西部の緑が多い目白崖線沿いは、いまだに0.20μSV/hを超える倍以上の放射線量が、ケヤキなど樹林の葉へ濃縮されて含まれ、地上に降り注いでいるのがわかる。
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下高田村の「富士見茶屋(珍々亭)」騒動。 [気になるエトセトラ]

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 今年も、拙サイトをご覧のみなさまには、いろいろとたいへんお世話になりました。昨年(2016年)の暮れは、笑い納め小噺「下高田村『富士見茶屋(珍々亭)』異聞。」Click!を書きましたけれど、今年は同じ富士見茶屋(珍々亭)Click!の周辺を舞台に、ちょっと笑うに笑えない小噺をお送りします。来年もまた、拙サイトをよろしくお願いいたします。
  
 江戸郊外の下高田村にある金子直德Click!の自宅周辺が、なにやら不穏な様子。
「おいおい、直さん聞いたかい? 知らねえうちに、てえへんなことになってんの」
「また、とりこし八兵衛さん得意の、てえへんだがはじまってやがる」
「そいがさ、直さん、てえへんなんだって!」
「ここぁ下高田で、神田明神下の目明かしじゃねえてんだ」
「冗談いってる場合じゃねえんだってば、直さんよう」
「で、今度ぁなにがてえへんだ~なんだい?」
「そいがよ、句会の九園斎が、お奉行所に引っぱられちまったんだよう」
「…どうせ、あらかた鬼子母神にお詣りんきた、そこいらの娘に抱きついたんだろうよ。あの助平根性は死んでも治らねえ。…まさか、お藤ちゃんがらみじゃねえだろうな?」
「その、まさかなんだよう」
「とっ、とんでもねえ野郎だ! そいで、北かい、それとも南なのかい?」
「そいがさ、お取り調べが厳しい、北の月番なんだと」
「…あの早桶に両足つっこんだみてえな、歯抜けの助平ジジイをひっ捕まえて、いってえ北のお奉行所じゃどうしようてんだい?」
「その助平が問題さね。去年の句会で爺さん、お藤ちゃんに抱きついてたろ?」
「そう、そうだったな、七十(ひちじゅうClick!)にもなる歯抜けジジイがいい歳してさ」
「そいつを誰かが、お奉行所にタレこみゃがったのさ」
「タレこみ? そりゃ八丈にでも流しときゃいいたぁいったが、あたしじゃないよ」
「いや、身内じゃなくてさ、富士見の句会を目の敵にしてる、別の句会連中らしい」
「…つまらん! 実につまらん!」
「おや、直さん、また不機嫌な大滝秀治Click!さん、入ってるよ」
「…誰? ねえ、こないだからさ、誰だいそりゃ?」
「手鎖六十日ぐらいで済みゃいいが、百叩きなら爺さん、死んじまうぜ」
「まあ、九園斎にはかあいそうだが、そりゃ自業自得てえもんさね」
「そいによ、八丈より遠い無人島(ぶにんじま)てえ話もあるんだ」
「でもさ、お藤ちゃんがこれこれしかじかと、訴え出たわけじゃないんだろ?」
「そうなんだ。本人は別にどうってことなくてさ、ウッフンとかいっちゃってるだけ」
「おかしいじゃねえか、被害を受けた当人がウッフンで、どうして捕まるんだい」
「それそれ、お届けなしでも風俗紊乱のおそれとかで、ひっくくられたらしいや」
「そんなバカなことがあるかい、八兵衛さん」
「いや、もともとお奉行所ではさ、富士見茶屋での句会をよ、なにかよからん謀りごとをめぐらしてる集まりみてえに、前々から目ぇつけてたらしいんだな」
「じゃあだんじゃねえや、なんの謀りごとしてるてんだい?」
「直さんも機会さえありゃ、お藤ちゃんの胸、触ろうと謀りごとしてたろ?」
「ありゃわざとじゃない! つい手が出ちまったんだ」
「そんな言いわけは通らねえやな。しかもさ、それを見てて番所に届け出なかったおいらたちも、風俗紊乱の共謀でひっくくられるかもなんてぬかしゃがる」
「…おきゃがれてんだ!Click! 誰がそんなこといってやんだい? ええ?」
「目白山人がさ、半ベソで清風んちにやってきて、くっちゃべってったんだと」
「目白山人のやつ、どっかやましいとこでもあんじゃねえのか? お藤ちゃんの情けにすがった、月三日の逢い引きを断られて、句会を恨んでんじゃねえだろうな」
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「そいからよ、富士見茶屋の句作もお奉行所では詮議してるてえ話だぜ、直さん」
「…俳句を詮議して、いってえどうするてんだい?」
「お上にタテつく句作がないか、目を光らしてるらしいやね」
「ふん、タテつく句はねえがな、揶揄する句ぐらいはありそうさね」
「そうそう、それがまずいってこった。茶屋の句会は表向きで、裏では畏れ多くもお上へ刃向かう、一揆の謀りごとをめぐらしてるんじゃねえかてえ話につながってんだ」
「…じゃっ、じゃあだんぬかすな! そんなベラボーな話があるかい、ええ?」
「直さんにも、そういう句作に心当たり、あるだろ?」
「あたしゃ、そんな野暮な句はつくりゃしません。お藤ちゃん一筋さね」
「でもさ、【あべ殿と背中合わせの悪寒かな】は、まずかったんじゃないのかい?」
「…あ、そいえば、そんな句も詠んだかな。けど、句会でじゃねえぜ」
「な? あるだろ。いまのご老中と結びつけちゃ、まずいんじゃないの?」
「いやいや、ありゃ京へ旅したおり、安倍晴明と妖怪変化の怖さを詠んだ句さな」
「お奉行所じゃ、そうは取らねえよ。ご老中の阿部安芸守様のことだと決めつけられちまえば、嫌も応もねえやな、そいでしょっぴかれて仕舞いさ。よくて手鎖六十日か百叩き、悪けりゃ江戸十里四方所払い、運が悪けりゃ八丈か無人島さね」
「…そ、そんなベラボーな話があるかい! バカらしいったらありゃしねえや」
「それにさ、【些乱れを集めてはやし無人島】てえ句も、直さん、たいがいまずいんじゃないかい? 芭蕉翁のパクリだてんで、翁の子孫に句作権の侵害で訴えられちまったら、おいらたちみんな共謀の罪でひっくくられちまうぜ」
「なんだい、その句作権てなぁさ? それに、そんなつまらん句詠んだかなぁ? …いちいち昔の駄作は、とんと憶えちゃいねえのさ」
「憶えてても憶えてなくても、お上が珍々亭の句会が気に入らなきゃよ、その句を詠んだときに関わった連中(れんじゅ)は、同人だろうが版元だろうが、その句を知らずに写した趣味人だろうが、みんなお白洲へ引きずり出されるてえ話だぜ」
「じゃあだんじゃねえや、八兵衛さん! そいじゃなにかい、お藤稲荷の講中の誰かがお藤ちゃんのお尻さわったら、祭りを仕切る講中から村を練り歩く御輿連中、囃子方まで丸ごと一蓮托生になっちまうじゃねえか」
「そうさ、だからてえへんなんだ。富士見茶屋も同人はむろん、句集の版元に本屋、それを買ったりもらったりした連中みんなが連座して危ねえてえこった」
「そんな、おきゃがれもんのご法度、いつできたんだい?」
「さあ、そりゃおいらたちが、お藤ちゃんにのぼせて夢中んなってたときらしいや」
「…そいや、こないだ、『富士見茶家』の句集の余分はあるかって、そこの番屋の奴が訊きにきたな。ほれ、番屋のなんつったかな、あばた面(づら)の男がさ」
「目明かしの萬七だろ? そりゃまずいやね、直さん」
「そうそう、萬七だ。そろそろ稼業をやめんから、俳句でもはじめるかとかなんとか」
「そりゃダメだ、直さん。…で、渡しちまったのかい?」
「いや、いま手もとに余分がないから、来年再版するてえいっといた」
「ダメだよ、直さん、そんなこといっちゃ。さぐり入れてきてんだよう」
「あいつはガキの時分から知っちゃいるが、下落合村の悪ガキどもに肥溜めん頭(おつむ)から放りこまれて、ピーピー泣いてたヤワなやつだ」
「だがよ、いまぁお奉行所につながる目明かしにゃちげえねえ」
「ふーむ、弱ったねえ。疑心暗鬼のいやなご時世さね。…お話んならねえやな」
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「そいに、まだあんのよ、直さん」
「…今度はなんだい? 脅かしっかぁなしだぜ、八兵衛さん」
「ほれ、ふたりでこの前、板橋宿まで出かけて図絵入りの地誌本こさえたろ?」
「ああ、こさえた、『板橋徒然噺』。ありゃ、よくできた本だてえ評判だったな」
「いや、それがお上には不評をかってるらしいんだな」
「…なんでだい? 別にお上の気に触るこたぁ、一行も書いてねえやな」
「そだろ? だけどさ、今度、ほら京のナントカいうやんごとなき筋から、畏れ多くも将軍様が奥方様を娶られるてえ話があっただろ?」
「…ああ、なんだかそういう話ゃ、聞いたことあるな」
「そのやんごとなき行列はさ、京から中山道を通って大江戸に入る前、手前の板橋宿でご休憩とか、お仕度を整えられるてえことらしいやね」
「…だから、そいがどうしたんだい?」
「そいでさ、おいらたち、板橋宿の詳しい図絵を世間に出しちまったからさ、やんごとなき行列へ、なんか謀りごとがあんじゃねえかてえ嫌疑が…」
「バカぁいっちゃいけねえや! 冗談は馬のケツみてえな面だけにしてくれろ。お城の上様の嬶(かかあ)とあたしらの本と、ぜんたいどこでどうつながるてんだい!?」
「シーーッ、声が高いよ、直さん」
「じゃあだんいうない、地誌を書いてお咎めなら、そこいらの本は全滅じゃねえか」
「そいで、行列を襲って騒乱を起こし、あわよくば徳川様の世をひっくり返す、天一坊以来の一揆騒動になんとかかんとか、しゃあがねえ尾ひれまでひっついてんだな」
「いってえ、誰がそんなことをいいふらしてんだい? ええ?」
「おいら、目白山人と其鏡から聞いたんだ」
「野郎が雁首そろえて、お藤ちゃんを思いどおりにできねえからって、腹いせにあることねえこと触れまわってんじゃねえのか、ええ? いい加減な丁稚を上げゃがって」
「お奉行所ばかりじゃなくてよ、若年寄のご支配までが動いてるてえ話さね」
「火盗(かとう)までが出張ってるってか? じゃあだんがすぎら」
「そこいらの水車で、火薬こさえてないか調べてるてえウワサだわ」
「火盗だか北町奉行だか知らねえが、おとついきやがれてんだ、ったく」
「あ、そいや思い出した。直さんが毎朝、下落合村のお藤稲荷Click!へ油揚げ供えんのが、なんかの合図じゃねえかてえウワサも立ってるらしいや」
「バカぁいっちゃいけませんよ。お稲荷に油揚げ供えないで、なに供えるてんだい?」
「そこは、ほれ、直さん、あんころ餅とか、人形焼きとか、カステーロとか…」
「タヌキに食われんのがオチさね。…それに、あんた、そういう話じゃねえだろ」
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世界201705.jpg 戦争する国のつくり方(彩流社).jpg
「だけどさ、お奉行所のほうで一度そう決められちまった日にゃ、丁稚を上げるも下げるもねえやな。そのまま百叩きだろうが無人島(ぶにんじま)だろうが、お裁きが下るてえ寸法さね。…直さん、悪(わり)いな、またそこの煙草盆、ちょいと取っつくれ」
「そんな、バカみてえで勝手な話があるかい、ええ、八兵衛さんよ」
「おいらも、そうは思うけどさ、連中(れんじゅ)の真剣な口ぶりを聞いてるとなぁ」
「あの連中が真顔になるなぁ、お藤ちゃんの裾が乱れたときぐれえのもんさね」
「そいじゃ直さん、験直しに初詣はいっちょ、深川八幡Click!にでもいくかい?」
「やなこというない、ええ? 縁起でもねえ。…あ~、やだやだ、おっかねえ」
「…おや? 直さん、誰かきたみてえだぜ。…ほれ、戸を叩いてら」
「そろそろ戌ノ刻すぎだてえのに、いま時分どこの誰だい?」
「…さて、一服したらそろそろ、おいらは帰るとすら。邪魔したな、直さん」
「まだいいじゃねえか、宵の口さね。一杯ひっかけてきなさいよ」
「いやいやこれ以上、書き物の邪魔しちゃ悪(わり)いやね。つづきは、また明日…」
「…え? 誰だって? ……八兵衛さん、いま番屋の萬七が表にきてるんだとよ」
「………」

◆写真上:学習院キャンパス内のバッケ(崖地)Click!上にある、晩秋の富士見茶屋跡。
◆写真中上:同じく、目白崖線沿いの雑木林が色づく晩秋。
◆写真中下は、目白崖線沿いの分かれ道。は、同大キャンパス内にある「是ヨリ左ぞうしがや/右ほり之内」の道しるべ。「ほり之内」は、江戸期の堀之内村(杉並区)をさしているといわれているが方角が合わない。
◆写真下は、晩秋の学習院馬場Click!は、ともに今年(2017年)発行された雑誌と書籍で、岩波書店の「世界」5月号()と彩流社の海渡雄一『戦争する国のつくり方―「戦前」をくりかえさないために―』()。
文中の「共謀罪」による適用事例は、「世界」2017年5月号(岩波書店)および『戦争する国のつくり方』(彩流社)掲載の、同法における拡大解釈ケースを参考にしています。

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