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東京35区時代のプライオリティと名所。 [気になるエトセトラ]

牛込氏墓所.jpg
 1932年(昭和7)10月1日に、従来の東京15区が35区に再編成されたとき、新たに編入された区部を紹介する書籍や冊子が、いっせいに出版されている。その中でも代表的なのが、1932年(昭和7)に東京朝日新聞社が発行した『新東京大観』上・下巻Click!と、翌1933年に博文館が出版した『大東京写真案内』だろうか。
 1878年(明治11)にスタートした東京15区は、巨大な城下町だった大江戸Click!の旧・市街地をエリアごとに区制へ置き換えたものだった。この区分けは、のちの東京35区についても同様のことがいえるのだが、ひとつの街としてのエリアを規定する上では、その文化や歴史、言語(江戸東京方言Click!)、風俗、習慣、気質、アイデンティティなどのちがいも含め、よく練られた構成だったと思う。大江戸の街は、江戸後期から世界でも最大クラスの大都市だったので、ひとつの街としての統一感はきわめて希薄だ。
 街ごとに、上掲の“ちがい”が顕著であり、しゃべり言葉を聞いただけで、だいたいどこの地域か当てられるほどの差異が存在していた。いつだったか、「どちらの出身?」と訊かれて「東京です」と答えるのは、「日本です」と答えるのと同じぐらい曖昧で漠然とした回答だ……と書いたことがある。東京15区は、その“ちがい”をうまくすくいとって、歴史的な経緯などをベースに旧・大江戸の市街地を15分割したものだろう。
東京15区.jpg
 上掲の東京15区の中でグリーンに塗った8区が、いわゆる町人たちや幕府の小旗本、御家人たちが多く居住していた城下町(略して下町)であり、その他の7区が町人よりも比較的身分が高い武家たちが主体だった武家屋敷街(俗に旧・山手=乃手)と呼ばれるエリアだ。おもに明治末ごろから、この旧・山手は15区の外周域(郊外)へと徐々に拡大していき、西側の山手線内外に形成された屋敷街を、旧・山手と区別する意味で新・山手と呼ぶことがある。だが、現在では区制も意識も大きく変わり、新旧をいっしょにして概念的に山手(やまのて=乃手)と呼ばれることが多い。
 わたしの本籍地は15区の中の日本橋区になるのだが、現在では歴史や文化が異なる京橋区といっしょにされて「中央区」と呼ばれている。江戸期から栄えているのは日本橋側だが、明治になって発達したのが銀座を抱える京橋区だ。日本橋と京橋では祭神の氏子町も異なり、日本橋側はおもに江戸東京総鎮守の神田明神Click!だが、京橋側はおもに徳川家の産土神である山王権現(日枝権現)社Click!の氏子が多い。つまり、東京15区時代の日本橋区と京橋区のほうが区分けとしては自然なのだ。わたしの故郷が、銀座や築地を含む中央区だという意識は、アイデンティティ面も含めて皆無だ。銀座や築地は、隣接する神田や柳橋、本所と同様に“お隣り”であって地元ではない。
 上記15区の中でブルーに塗った区が、のちの戦後に新宿区を形成するエリアなのだが、四谷区は千代田城外濠の見附Click!に接した四谷や市谷を中心とする江戸期からの繁華な乃手の街で、牛込区はさらに外側の神田上水を抱える江戸期から農村色の濃いエリアだった。さらにいえば、四谷区は甲州街道の宿場町から発展しており、牛込区は中世の牛込氏の街から発達したより歴史の古い地域ということになる。これに淀橋区も加え、一緒くたにして戦後に「新宿区」となるわけだけれど、地域性をひとくくりにするにはだいぶ無理があるのがおわかりいただけるだろうか。
淀橋区1.jpg
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 さて、この東京15区に加えて1932年(昭和7)に加わったのが、次の新しい20区ということになる。この区分けのしかたも、地域性が考慮されていて自然に感じる。
東京35区.jpg
 表に付加している数字は、当時の出版物で紹介されることが多かった追加20区の優先順位だ。ちなみに、東京朝日新聞社の『新東京大観』(1932年)と博文館の『大東京写真案内』(1933年)も、この順番で紹介されている。いずれも、トップで紹介されているのは豊島区で、いちばん最後が杉並区となっている。
 これが、東京35区について記述する際の、当時の人々が抱いていたプライオリティだったのだろう。やはり、なんらかの歴史的な経緯や事蹟、芝居などに登場する機会の多い地域や名所、住宅街の形成や人口などが考慮されているとみられ、今日の“都心”でありギネスブックにも掲載されている世界最大のターミナル新宿駅を抱える淀橋区が、ビリから3番目で18位というのが面白い。市街地の15区を加えれば、33位の下位に位置づけられている。渋谷区も、淀橋区と肩を並べてビリから4番目の17位だ。80年以上もたつと街は大きく変貌し、まったく別の顔を持ちはじめるのがよくわかる。
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 『新東京大観』には、新たに編入された20区の観光ポイントを紹介する、「大東京新名所」と題するエッセイが掲載されている。以下、リストにして引用してみよう。
大東京新名所.jpg
 それぞれの名所で、現在でも通用するもっともな区もあるけれど、中には「なんでだい?」と首をかしげるところも多い。知名度の高い豊島区が強いのは、やはり子育てには霊験あらたかな雑司ヶ谷の鬼子母神Click!を抱えているからだろう。かわいそうなのは荒川区と品川区で、なぜ江戸期の処刑場だった小塚原Click!(こづかっぱら)と鈴ヶ森Click!が、区内を代表するお奨め観光スポットになるのだろうか。江戸川区の星降りの松はいいとして、板橋区の縁切り榎もあんまりだろう。もっと、ポジティブで気持ちのいい場所を紹介すればいいのに……と、わたしでなくても思うのではないだろうか。
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 「明日は、首斬りの土壇場があった小塚原へいくの、とっても楽しみだわ」とか、「鈴ヶ森の磔(はりつけ)跡を見るの、いまからウキウキして今夜は眠れそうもないね」とか、今日の心霊スポットめぐりではあるまいし、通常はありえないだろう。「ねえ、あなた、せっかく35区の大東京時代になったのですもの、今度の日曜日に板橋の縁切り榎までハイキングしませんこと?」と妻にいわれたら、「あれ、オレもいま、そう思ってたところさ。ほんと、気が合うねえ!」などと答える夫は、まずいそうもない。

◆写真上:東京メトロ・早稲田駅から東へ300mほどの、宗参寺にある牛込氏累代の墓。
◆写真中上は、1932年(昭和7)撮影の淀橋区にあった角筈十二社池Click!は、1933年(昭和8)撮影の同じく淀橋区の新宿駅近くにあった新宿カフェー街。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された牛込区の神楽坂Click!は、1932年(昭和7)撮影の四谷区にある神宮球場で東京六大学野球Click!の開会式のようだ。
◆写真下は、1932年(昭和7)に空撮された豊島区の雑司ヶ谷鬼子母神。は、1933年(昭和8)撮影のコンクリート新駅舎が完成した中野区の中央線・中野駅。

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下落合は観世流で高田町は宝生流。 [気になるエトセトラ]

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 以前、下落合515番地(現・下落合3丁目)には二世・観世喜之邸があり、観世流の能楽堂が設置されていたことをご紹介Click!している。1930年(昭和5)に牛込区矢来町60番地に建設される観世九皐会能楽堂(のち矢来能楽堂)の前身、すなわちシテ方観世流と呼ばれる現在の「矢来観世」が主催する能楽堂が、当初は下落合の自邸内に設置されていた。そのせいで、謡(うたい)を習う下落合の住民たちの多くは観世流Click!だったと思われる。
 ところが、隣り街の高田町(現・目白)では、観世流ではなく加賀の宝生流の謡が流行っている。たまたま宝生流に通じていた金沢出身の人物が、高田町にいたことが要因らしい。また、池袋駅Click!近くにあった、成蹊小学校の教師の中にも宝生流の謡をやる人物がいたらしく、10名ほどのメンバーで「東遊会」という宝生流の会を起ち上げている。その会に所属していたのが、のちに高田町の町長となる海老澤了之介Click!だった。当時の様子を、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 私はと言ふと、醸造試験所に編輯の事務を取つて居た頃に、同僚の佐藤事務官、大竹技手と言ふ人達が、金沢出身の石井さんと言ふ所員に、宝生流謡曲を習つて居たので、私も負けずと、鶴亀から習ひ初めて居た。加賀藩はむかしから加賀宝生といつて、誰も彼も宝生流である。ひとり藩士ばかりでなく、金沢人は、大抵宝生をうたつた。/此の昔の一番本には、ゴマ節に細い註が付いて居ない。石井さんは朱筆を取つて、上げ下げからウキ、言葉のダシなどを付けて呉れる。/当時は此の事を何とも思はなかつたが、今考へると、昔の稽古を受けた人は、確かなものだつたのだなと思はれる。/かうして居る内に、雑司ヶ谷にも同好の士が移住して来たので、その人達と一緒に教へを請ふ様になつた。/後に、山形の人で、成蹊小学校の渋谷先生と言ふ人に付いたのであるが、私もこのあたりから謡に本腰を入れ初め、此の先生に習つた弟子達が十人程で「東遊会」の名の下に謡の会を作つたのは大正十年の事であつた。
  
 最初は、(城)下町の「線道をつける」Click!のと同様に、ちょっとした教養を兼ねた趣味のつもりだったようだが、上達するにつれ海老澤了之介は本職の先生について、本格的に宝生流の能楽を学びはじめた。また、ある程度の技量を習得した彼は、高田町の地元で謡の会を主宰して教えている。最初に教えはじめたのは、「高田町青年団」に所属する15名の若い男女だった。
 わたしの親父(観世流)もそうだったが、一度謡(うたい)をはじめるとやめられなくなる魅力があるようだ。おそらく、カラオケボックスや浴室などのライブ空間で歌を唄うと気持ちがよくなり、長時間つづけると一種のトランス状態になるのと同様に、なんらかの快楽的で習慣的な脳内物質が分泌されるのではないだろうか。大正期には、腹の底から声を出して歌うことなどめったになかったと思われるので、あり余る精力やストレスの発散にも効用があったのだろう。ついには海老澤了之介の哲子夫人までが習いたいといい出し、宝生流謡曲はマイブームならぬ高田町のタウンブームとなっていったらしい。
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 謡(うたい)を経験した方ならご存じだろうが、各流派の会に入門して段階的に上達していかないと、謡うことを許されない曲というのがある。技量が上がってくると、所属する会も上級者向けのものとなって師匠も変わり、より高度な曲へ挑戦することになる。最終的には、家元に近い師匠から習うようになり免状をもらうことになる。
 海老澤了之介は、宝生流の謡「十一番」ものの免状を1922年(大正11)に習得しているが、つづけて1927年(昭和2)には小皷幸流の家元から頭取・置皷・脇能の許状も受けている。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 その後、勧進帳のお許しが昭和四年五月で、清経、芦刈、鶴亀、田村、土蜘蛛、熊坂、国栖、岩船等の能の免許は、昭和五年から七八年にかけてであつた。/私が初めて演じた能は、清経で、昭和五年二月である。(中略) 昭和五年の二月二十三日、芝紅葉館に松平頼寿伯、毛利元雄子、戸田康保子、近藤滋彌男外竹内金平氏、桜井小太郎氏、長尾真吉氏、布目鄰太郎氏、それに宝生のシテ方、囃子方一同を招待して盛宴を張つたことがある。清経の初能を演了した祝ひ心の為である。松平伯外一同からは又お祝として銀の大きな三つ組の松竹梅模様の盃をいただいた。思へば楽しかりし時代である。/その後にも上野の音楽学校に、松平、戸田、近藤のお歴々と共に、敷舞台を寄附して、その舞台開きに松平さんの翁に続き私が鶴亀をつとめた(後略)
  
 下落合に接する高田町の戸田邸Click!(現・徳川邸Click!)に住んでいた、戸田康保Click!の名前が見えているが、戸田家でも宝生流の謡を習っていたのかもしれない。
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 さて、当時の山手女性は上記のとおり、謡を習う人もいたようだが時代が下がるにつれ、ピアノやヴァイオリンなどの西洋楽器へと流れていく。だが、明治から大正の前半ぐらいまでは、乃手の女性も(城)下町に習って三味に長唄や常磐津の教養稽古に通うことが多かったようだ。高田町でも、四家町Click!雑司ヶ谷Click!は早くから拓けていたので、常磐津のお師匠(しょ)さんが住んでいた。もちろん、ここは乃手などで通い稽古だけでなく出稽古の需要がかなり多かったようだ。
 同書より、哲子夫人の娘時代について引用してみよう。
  
 明治三十年頃でも、尚ほ大衆娯楽はないから、都下近郊一円は、昔ながらの常磐津、長唄、浄瑠璃などのお稽古とか、そのおさらひの会といふものが娯楽と、教養を兼ねたものとして、伝統的に残されてゐたに過ぎない。しかしこれは、今で言ふお茶やお花の様に、特に教育の普及して居なかつた当時の若衆又は娘達の間では、少なからず高尚な意味を持つて取扱はれて居た。其の頃、雑司ヶ谷、高田あたりの土地には、常磐津文字兵衛の高弟で、常磐津栄次と言ふお婆さんの師匠が居た。この師匠は、芸熱心と、お稽古の厳格さで知られて居たから、お弟子の中から相当優れた芸達者な人も出て来て、おさらひの会などは、仲々派手に催された。/時には人通りの多い、四家町の一隅に舞台掛けをして、当時の村人の、唯一の楽しみにふさはしいそして賑やかな人出があつたものである。/この様であるから、亡妻も十才位から稽古にやらされ、夕方学校から帰つてやれやれと、子供同志(ママ)で遊んで居ると、家人から「お稽古に行きなさい」と言はれて、しぶしぶ出かけるのが常であつたと言ふ話を度々物語つて居たが、当時の是等の事情が良く伺はれて面白いと思ふ。
  
 その後、夫人は転居してきた琴の師匠について常磐津をやめてしまうが、三味の音色が恋しくなったのか、のちに今度は長唄を出稽古で習いはじめている。
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 この長唄のお師匠(しょ)さんは、下町から雑司ヶ谷小学校の近くに転居してきた杵屋小梅という女性だったらしい。長唄は、常磐津よりも新しいジャンルなので、哲子夫人も改めてその魅力に惹かれたものだろう。うちの親父の稽古ごとにも長唄は入っていたが、同時に三味を習っていたのも哲子夫人と同じだ。これらは、江戸東京の一般教養であり、三味をつまびきながら唄のひとつも口ずさめなければ“野暮”とされるのが、戦前までの特に旧・市街地の江戸東京人では常識だった。かくいうわたしも、野暮天のひとりだ。

◆写真上:フリー画像からいただいた舞台写真だが、演目は「吉野静」だろうか。
◆写真中上は、本郷にある宝生流能楽堂。は、矢来町にある観世流の矢来能楽堂。は、空襲で焼ける4年前の1941年(昭和16)に撮影された矢来能楽堂。
◆写真中下は、能の浮世絵で高名な月岡耕漁の『鶴亀』。は、1934年(昭和9)に演じられた宝生流の能舞台「鶴亀」の記念写真。シテは海老澤了之介(中)で、亀が宝生秀雄()と鶴が前田忠茂()。は、日本画家の野村文挙による『船弁慶』。
◆写真下は、月岡耕漁による浮世絵『隅田川』。は、早稲田大学演劇博物館に収蔵されている室町期とみられる能面で「小面」()と「小尉」()。

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街角や風景を描く佐多稲子の表現力。 [気になるエトセトラ]

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 佐多稲子Click!の文章を読んでいると、その街の様子の描き方や地形描写、風情や自然の写し方に舌を巻くことが何度もある。同じく、地形や街の描写で印象に残る作家に大岡昇平Click!がいるけれど、大岡が少しマニアックに古い地勢や地質・地層まで掘り下げて描くため(ときに新生代までさかのぼることがある)、現状の日常に拡がる風情と土地の様子、そしてなによりも書かれる物語自体から若干の乖離感が生まれるのに対し、佐多の文章は非常に的確かつ「ちょうどいい」表現なのだ。それでいて、地域の描き方に不足を感じさせない、類まれな描写力をもった作家だと思う。
 旧・神田上水(1966年より神田川)をはさみ、下落合とは対岸にあたる戸塚町(現・高田馬場)側に拡がる、北向きの河岸段丘斜面を描いた文章を、1955年(昭和30)に筑摩書房から出版された『現代日本文学全集』第39巻所収の、佐多稲子『私の東京地図』から引用してみよう。ちなみに、文中で「吉之助」と書かれているのは、治安維持法違反で服役していた豊多摩刑務所Click!から出獄したばかりの、夫の窪川鶴次郎Click!のことだ。
  
 吉之助が刑務所から出て来ると間もなく私たちは、小学校上の崖ぎはの家から、小滝橋よりに移転してゐた。やつぱり大通りの北側で通りからちよつと入つた路地の奥であつた。この辺りは、小滝橋から戸塚二丁目のロータリー近くまで、神田川の流れる落合の窪地へ向つて横に長く丘をなしてゐる地形なので、そのまん中を一本広い道路が通つてしまふと、両側とも奥ゆきのない住宅地であつたが、暫くここに住んでゐるうちに、この土地の古い姿が、その後に建つた小さい借家の間に自づと見えてくるのであつた。その幹の周囲は二人で抱へる程もある大欅が屋敷の二方を取り巻いてゐるのは、この辺りの旧家であつた。同じ苗字の酒屋が大欅の邸からすぐの近さで大通りにあつたのも、他の酒屋とはちがつてどつしりとした家造りであつた。そのとなりの煙草屋もやつぱり同じ苗字で家作も持つてゐるし、その向ひの八百屋も同じ身内だといふふうである。
  
 佐多稲子が、「小学校上の崖ぎはの家」と書いているのが、戸塚第三小学校の坂上にあたる戸塚4丁目593番地(上戸塚593番地)にあった借家Click!のことだ。その次に、住所が不明だが「大通りの北側」、つまり同じ早稲田通りの北側である戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)に引きつづき住んでいることになる。
 この文章を読んだとたん、おそらく現・高田馬場4丁目の同地域に古くからお住まいの方なら、すぐに当時の情景が鮮やかによみがえってくるだろう。写真やイラストでしか知らないわたしでさえ、現在の街並みや地勢と重ね合わせてリアルに想像することができる。大ケヤキのある屋敷は、このあたり一帯の地主である戸塚4丁目589番地の中村兼次郎邸であり、酒屋と煙草屋は戸塚4丁目767番地の「升本酒店(中村商店)」と「中村煙草店」だ。向かいの青物屋は、中村家の親戚とみられる戸塚4丁目591番地の「森田屋青果店」のことだ。
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 ムダな描写や、不要な記述がひとつも存在しない、情景描写のお手本のような文章表現だろう。前後のストーリーに重ね合わせると、ジグソーパズルのピースようにピタリとこの位置にあてはまる。ふと、1930年代の戸塚地域を描いた濱田煕Click!の挿画で、佐多稲子の『私の東京地図』を読んでみたい……という妄想がふくらむ。おそらく、永井荷風Click!木村荘八Click!のコンビネーションのような、出版史に残る本ができあがるのではないだろうか。
 いや、戸塚地域に限らず『私の東京地図』で描かれる街々(彼女が若いころに住んでいた下町Click!方面が多いのだが)も、生きいきとした街並みや人々の様子が記録されている。おそらく、とてつもない努力を重ねて、彼女はこのような作文技術を獲得しているのだろう。わたしも、足もとにも及ばないながら見習いたい表現技術だ。
 このころの佐多稲子は、毎日「転向」という言葉と向き合っていた。思想犯として豊多摩刑務所にいた夫が出獄できたのは、「転向」して思想を棄てたからではないかという疑念を抱えながら、面と向かって夫には訊けずに日々をすごしている。上落合に住む中野重治Click!の妹・中野鈴子Click!と小滝橋を歩きながら、「転向」について考えつづける。再び、『私の東京地図』から引用してみよう。
  
 私はあるとき、吉之助(鶴次郎)と同じに検挙されて前後して出獄してきた友達の妹と二人で小滝橋のきはを歩いてゐた。/彼女は兄のことを人に指摘されたのが辛い、と言つて、悲しい顔にうつむいて、口ごもりがちに言つた。/「兄は転向したのでせうか。だけど、刑務所を出るのにそれがみんな必要といふのなら、牧瀬(窪川)さんも、やつぱり転向をなさつたのですわね。」と、吉之助のことを言つた。/「転向?」/私は視線のおき場に迷ふやうにそれを聞いた。小林に供へた花を分けて差入れた私たちの気持は失はれてゐるわけではない。が、出獄してきた人にそれをただすことを私たちは忘れてゐる、といふよりは、疑ひを持たないでゐたのである。夫婦の間では、それは主観で語られる。また近しい周囲でもその主観を認め合つた。が、しかし、政府の宣伝に使はれたこの言葉は、お互ひ同士の胸に、しみとなつて広がつてゆき、逡巡させた。(カッコ内引用者註)
  
 「小林に供へられた花」とは、小林多喜二Click!の葬儀で供えられた花を分割して花束にし、豊多摩刑務所に「小林セキ」の名義で差し入れた、1933年(昭和8)2月下旬の出来事をさす。壺井栄Click!が、服役中の壺井繁治Click!へとどけたのも、佐多稲子らと相談して同時に行われていたことがわかる。
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 早く出獄して密かに非合法活動を継続したい人間も、合法的な抵抗をつづけるために“ウソも方便”で今後は政治活動をしないという文章に署名した人間も、またほんとうに従来の思想を棄てて釈放された人間も、ひとからげに「思想を棄てた転向者」として特高Click!は巷間へ宣伝しつづけていた。これにより、思想の中身を問わず政府へ反対の意思表示をつづける人々の間に疑心暗鬼を生じさせ、分裂・分断をはかるのがねらいだった。そして、1935年(昭和10)をすぎるころから、まるで「転向者」の本心を探る“踏み絵”のように、文章をなりわいとする人々は「従軍作家」として、前線へ次々と送られていった。
 この時期、佐多稲子は宮本百合子Click!とともに、同じく治安維持法違反で特高に逮捕・起訴されており、小さな子どもがいるので保釈されてはいたが、公判を抱えて裁判所へ通う身だった。同時に、夫の窪川鶴次郎が「仕事部屋」を借りて家を空けがちになり、浮気をしている様子がうかがわれた。佐多稲子が生涯において、もっとも精神的に不安定な時期だったのだろう。裁判所へ出かけると、支援のためにきてくれたのは柳瀬正夢Click!の「にこやかな顔」ひとりのみで、かんじんの夫は連れ添うどころか、公判の間際にあたふたと駆けこんでくるようなありさまだった。
 日米戦争がはじまった1941年(昭和16)12月8日以降、佐多稲子は上落合の友人たちが遊びにくれば深夜まで話しこんだ。
  
 「今に、米を喰はずに、ゴムを喰へ、と言ふだらう。」/「伊勢神宮に戦勝祈願をするやうな軍人だから、この戦争が起せたんだね。」/「今に、やられるから。」/「声が高くない?」/「群長などが、立聞きをするさうだからね。」/隣組はきびしくなつて、それに強制貯金などで私の組の長屋はいつも物議を起した。長屋の人々から投げられる目は、私の神経にこたへた。さういふ前後に、大通りにあつた時計会社は、どんどん増築して、この辺にたつた一つのコンクリートの大工場になつた。五銭コーヒーの店も通りに何軒も出来て、少年労働者や、若い娘たちの休息の場所になつた。戸塚キネマも改修して戸塚東宝に変つた。
  
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 「大通りにあつた時計工場」は、現在でもかたちを変えて営業をつづける高田馬場4丁目のシチズンプラザのことだ。「ゴム」どころか、配給される食糧も日々乏しくなり、「神頼み」ではじめた戦争で、完膚なきまでに叩きのめされる大日本帝国の破滅・滅亡は、すぐそこまで迫っていた。その直前、佐多稲子のいる戸塚一帯は二度にわたる山手空襲Click!で壊滅するのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戸塚4丁目767番地にあった、中村商店(升本酒店)と中村煙草店の現状。
◆写真中上は、濱田煕の記憶画による中村商店(升本酒店)と中村煙草店。以下、イラストは1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。は、戸塚4丁目591番地にあった森田青果店。は、森田青果店跡の現状。
◆写真中下は、戸塚4丁目856番地にあったシチズン時計工場(戦時中は大日本時計株式会社と改称)。は、現在もシチズンプラザとして営業をつづける同所。は、戸塚3丁目154番地にあった戸塚東宝(旧・戸塚キネマClick!)。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚4丁目界隈。は、戦後の1948年(昭和23)の焼け跡写真にみる同書。シチズン時計工場はコンクリートで焼け残り、早稲田通りの南側の一画が空襲被害をまぬがれているのが見てとれる。は、戸塚4丁目589番地にあった中村兼次郎邸跡の現状。


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ソビエト政権への反乱を禁じる特高。 [気になるエトセトラ]

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 『詩戦行』を通じて、劇作家であり小説家でもある飯田豊二とかかわりができた秋山清Click!は、1930年(昭和5)の秋ごろから演劇の世界へと踏みこんでいる。飯田豊二が、アプトン・シンクレア原作の『ボストン』を築地小劇場で上演していたころだ。このころの秋山清は、東京朝日新聞社のエレベーターボーイを突然クビになり、飯田豊二の紹介で出版社に勤め出していた。
 『ボストン』を上演した解放劇場で、秋山は演劇業務の雑事全般を処理する庶務係のような仕事をしていた。演劇にはまったく興味のなかった彼が、それでも解放劇場に加わったのは少しでも仕事を増やして、生活を安定させるためだったのだろう。1930年(昭和5)の暮れには蓄えも尽き、母親とふたり暮らしの彼はほとんど進退がきわまった。そのとき、仕事をくれたのが飯田豊二だったのだ。
 解放劇場の『ボストン』は、1931年(昭和6)2月に上演されたが、秋山は飯田への義理立てからか、劇場の仕事や雑事を積極的に手伝っている。このとき、彼は渡米する直前だった晩年の竹久夢二Click!と知り合って交流し、のちに著すことになる評論「夢二」シリーズの素地を形成している。秋山清と竹久夢二では、どこか住む世界がまったくちがうように感じるのだが、彼は明治末の大逆事件を出発点とし漂泊する抒情画家のどこかに、アナーキズムの匂いを嗅ぎとったものだろうか。
 築地小劇場での『ボストン』の成功をうけ、解放劇場は革命後ソ連のクロンシュタットで起きた水兵たちの“反乱”をテーマに、次の上演企画を立てはじめた。解放劇場は、牛込区の区役所前にあった元・寄席の建物を借りて活動している。新たな演目の「クロンスタット」は、飯田豊二によって脚本の前半部がすでにできており、本読み稽古がスタートしていた。ところが、かんじんの飯田が次作の稽古と上演準備中に、突然、解放劇場を辞めてしまった。この飯田の辞任について、秋山は「身を引いた」としか書いていないが、おそらく表現路線をめぐる劇団の内部対立ではなかっただろうか。庶務係としての秋山には、どうしようもない経緯だったのだろう。
 支柱を失った解放劇場は動揺したが、次の柱になるのは必然的に劇団の経営、会計、庶務などをこなしていた秋山になりそうだった。演劇に興味はなく、脚本など書いたこともない彼が、周囲から頼りにされるようになっていた。いや、おそらく周囲から盛んにヨイショされたので、秋山自身も徐々にやる気になったのだろう。彼は、飯田豊二が途中で放棄した脚本「クロンスタット」の後半を、A.ベルクマン『クロンスタットの叛逆』などを参照しながら四苦八苦して書きあげ、タイトルを『クロンスタットの敗北』とつけた。
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 ロシア革命下におけるクロンシュタットの“反乱”は、政治の独裁や市民への統制、表現規制を強めるボルシェビキに対し、“民主化”などを求めて20,000人近い水兵たちが蜂起した事件だが、劇団内から「敗北」と名づけることに異論が出たようだ。だが、秋山は敗北を認めるリアリズムこそ、現状における重要な課題なのだといって譲らず、劇団員たちは秋山にも辞められては困ると考えたのか、最終的に上演タイトルは『クロンスタットの敗北』と決定した。
 前回上演の『ボストン』でも、特高Click!の検閲係に脚本をさんざん削除され、次々に台詞の変更を要求された経緯を見ているので、秋山清は脚本『クロンスタットの敗北』を早めに牛込神楽坂警察署の特高課へ提出したようだ。彼は、ほとんど削除や変更要求なしに同脚本が検閲を通り、上演許可の通達がすぐに下りると思っていた。ところが、待てど暮らせど上演許可が下りない。予定の舞台は、1931年(昭和6)6月の予定であり、4月になっても特高の検閲係からはなんの連絡もなかった。
 ようやく特高から呼び出しがあり、牛込神楽坂警察署に大急ぎで駆けつけると、秋山にとっては意外なことに「上演禁止」がいいわたされた。彼の前に投げだされた脚本の表紙には、大きな「禁止」の赤いスタンプが押されている。禁止の理由を聞いて、秋山は愕然とした。ソビエト革命政府に反抗し蜂起した、クロンシュタットの兵士たち自体がケシカランといわれたのだ。以下、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された、秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』より引用してみよう。
秋山清「昼夜なく」1986.jpg 秋山清(20代).jpg
クロンシュタットの反乱.jpg
  
 そして係りはいく分にやにやした調子で私に質問してきた。
 「上演できると思ったのか」
 「日本政府の嫌いな革命ロシアの政府に反抗するのだから、文句はあるまいと思ったんだ」というと、彼はゆっくりと首を振りながらいった。
 「そうではないんだ。赤い政府であろうと、そうでない政府であろうと、国家や政府に反抗することは許せるものではない。だからこの脚本は、科白などを消したり、書きかえたくらいで、どうなるというものではないんだ」
 私は脳天を木槌で真向から叩きつけられたような気分がして、居たたまれぬほどに恥ずかしかった。まことに検閲の言う通りだ。国家となればAもBも同じものだ。国民民衆を支配することにおいては、その権力は一つのものだ。ロシアもアメリカも中国も日本も、イギリスも、それぞれに国体は異なって見えても、国家対民衆の関係は変るものではないということを、この時私ははっきりと腑に落ちた。
  
 戦前・戦中の特高警察というと、社会主義や共産主義、サンディカリズム、無政府主義、あるいは北一輝Click!陸軍皇道派Click!の原理主義的社会主義、そして太平洋戦争が近づくころには民主主義や自由主義、国家神道(戦後用語)以外の教義、皇国史観Click!以外の史学などの思想や表現、学問、宗教を取り締まったのだと記述されることが多い。
 確かに、多くの特高はそのような意識(対峙的な思想・信条)を持って職務を遂行していたのだろう。だが、牛込神楽坂警察署の特高検閲係のように、提示された思想自体が問題なのではなく、国家や政府に反抗・叛逆するという行為自体や表現が、すべて問題なのだとする人間もいたということだ。
 「そんなこと、官僚や警察官ならあたりまえじゃないか」と思う方がいるとすれば、その「あたりまえ」意識こそが課題なのだと思う。このような人間は、幕末の明治維新下で江戸幕府内にいても、革命ロシア政権の治安機関にいても、フランス革命の王党派内にいても、またナチス政権下の警察機構に勤務していても、まったく同様の仕事を平然と遂行し、機械的で没主体的(=無思想的)な“弾圧ロボット”と化すだろうからだ。
牛込神楽坂警察署1930.jpg
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 日本では、当の特高警察を抱えた内務省警視庁が、1945年(昭和20)の敗戦直前に大日本帝国を支える警察から、占領軍(G2-CICClick!)へ仕える米軍の「警察」へと脱皮するために、臆面もなく180度の“転進”をしている。以下、同年に発行された『警視庁事務年鑑』から引用してみよう。
  
 急迫せる事態に対処するため、政府においては、警察力の拡充強化を決定、わが警視庁も、首都の特殊性から、本庁に警備本部を設置し、防空課、情報課及び特高各課を廃止し、組織の整備を行なうとともに、連合軍の都内進駐に伴い新たに渉外課を設け、各署に通訳及び通弁巡査を配置する等、戦時態勢から平時態勢への機構改革を断行、万全の態勢を整えた。
  
 これが、つい昨日まで「鬼畜米英」「アメリカ人をぶち殺せ!」Click!と叫んでいた組織(人間)が書く文章だろうか? まるで敗戦など他人事で、ただ時代に合わせて「平時態勢」(!)の組織改革をしただけ……とでもいいたげな表現だ。そこでは、特高警察などまるで「なかったこと」「不要だった部局」であるかのように廃止され、いつの間にか米軍への“営業部”までこしらえ上げている。特高警察によって虐殺された、1,000名を超える人々への責任は、いったいどこへいってしまったのだろうか?
 事実、秋山清が書く「革命ロシアの政府」はその後、スターリニズム下でこのような「思考しない」官僚テクノクラート・治安機関の人間を大量かつ組織的に排出したことで、約70年間にわたり苦しめられることになった。そして、いまも同様の苦しみに喘いでいる国々がある。ある思想を備えた人間同士なら、事実にもとづく議論や検討を通じて合意点を探ったり説得することは可能だが、相手が非人間的な、没主体的な弾圧・管理“マシン”であれば、そのような行為は絶望的でまったく無意味だからだ。

◆写真上:下落合4丁目1379番地の、第一文化村Click!内にあった秋山清邸跡。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に撮影された牛込区箪笥町15~17番地にあった牛込区役所。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込区役所界隈。
◆写真中下上左は、1986年(昭和61)出版の秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』(筑摩書房)。上右は、本記事と同じころ20代の秋山清。は、1921年(大正10)に撮影された反政府集会を開くクロンシュタットの水兵たち。
◆写真下は、牛込橋(牛込見附跡)西詰めの神楽河岸にあった牛込神楽坂警察署。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込神楽坂警察署界隈。


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両神山系にオオカミの遠吠えが響く。 [気になるエトセトラ]

中井御霊社.JPG
 ニホンオオカミについては、ここでも江戸郊外の各地に勧請された三峯社Click!とともに何度かご紹介Click!しているが、先日、もっとも目撃情報が多い秩父連山へ出かけてきた。両神山の山麓まで出かけたのだけれど、別にニホンオオカミに出会いたくなって雪が残る秩父連山へ出かけたのではなく、ただ温泉へのんびり浸かりたくなったのと、食いしん坊のわたしはももんじClick!=シカ料理が食べたくなったからだ。
 江戸郊外に勧請された三峯社(大神社)は、農作物を荒らす害獣除けの性格が強かったと思われるのだが、今日の東京も含めた関東地方における同社の役割りは、「家内安全」「火災除け・厄除け」といったところだろうか。下落合地域(中落合・中井含む)にも、中井御霊社の境内には三峯社が勧請され、八雲社とともに属社となって現存している。
 江戸期には、こちらで何度か取り上げてきた富士講Click!大山講Click!とともに、秩父の三峯社へ参拝するオオカミ(大神)信仰の三峯講が存在していた。富士講は、おもに関東から甲信地方(山梨・長野)にかけての独特な地域信仰だが、三峯講もまた富士講と重なるような信仰の拡がりを見せている。富士講には、山岳ガイドのような先達が存在していたが、三峯講には御師(おし)と呼ばれるガイドが道案内をつとめた。
 御師は修験者の一種であり、三峯社のオオカミ護符を里人に配りながら、三峯講を組織していったといわれている。富士講の先達は、どちらかといえば町や村に居住する富士登山の経験者、すなわち山岳のベテランガイド的な性格が強いが、御師は山から下りてきてオオカミ(大神)信仰を布教する宣教師、あるいは伝道者のような存在で、いつも町や村に定住しているわけではない。ちょうどチョモランマ(英名エベレスト)をめざす登山家たちのため、山麓にシェルパ村が存在するのと同様に、秩父には三峯山をめざす信者たちのために御師の集落が形成されている。
 以前、中村彝Click!のアトリエへ結核を治療しにやってきた、御嶽の修験者Click!のエピソードをご紹介しているが、修験者すなわち御師は深山で修行して霊力や神通力、つまり「験」(超能力)を身につけ、里へと下りてきては「験」力によって町や村の人々の“困りごと”を解消していくのが役割りだった。下落合にも三峯講(三峯社)が存在するということは、江戸期に御師が村へとやってきて布教したものだろう。オオカミはキツネよりも強いので、精神状態が不安定となった患者=「狐憑き」の症例でも、御師がよく呼ばれている。また、水源地である山の御師は、渇水時の雨乞いでも活躍したかもしれない。中には、「わたしは3ヶ月間、天にひたすら祈りつづけて、ついに雨を降らせることに成功したのだ」、「3ヶ月も祈ってりゃ、いつか降るだろ!」と山田に突っこまれそうな、いい加減な「超能力」者たちもいたのかもしれないが。w
 オオカミ(大神)信仰は、別にニホンオオカミそのものを信仰しているわけではない。稲荷のキツネが、異界に棲む神(多くは五穀豊穣の農業神ウカノミタマ)のつかいで人々の前に姿を現す動物、つまり眷属(けんぞく)として機能していたのと同様に、オオカミも山の異界に棲む神々の眷属として人々の前に姿を見せると信じられていた。だから、江戸期の人々にとってはキツネ以上にめずらしい、深山に登らなければめったにお目にかかれないニホンオオカミが眷属となる信仰に、よりありがたみを感じていたのかもしれない。
秩父連山の霞.JPG
秩父連山.JPG
尾ノ内渓谷氷柱.JPG
 さて、秩父連山では目撃事例や遠吠え情報が、ほぼ毎年のように聞こえてくるニホンオオカミの気配だが、さまざまな報道や情報、資料、痕跡などを総合すると、とても絶滅したとは思えない状況が浮かび上がってくる。おそらく、秩父には複数の個体が、いまだに棲息している可能性が高いのではないだろうか。また、九州は大分県の祖母山系の山岳地帯でも、目撃情報や遠吠え情報が聞かれる。だが、ここで困ったテーマが持ち上がっている。日本の本州から四国、九州の山々に棲息していたイヌ科の動物は、どうやら2種に分類されるようなのだ。その発端は、江戸末期に日本へとやってきたシーボルトの時代にまでさかのぼる。
 ドイツの医師で植物学者のシーボルトは、日本の動物や植物の標本をヨーロッパ各地へ送り紹介していたことでも知られるが、日本の山岳地帯に住むイヌ科の動物として、オオカミ(狼=ニホンオオカミ)とヤマイヌ(豺・犲=山犬)の2種類の個体を、オランダのライデン自然史博物館へ送り出している。だが、ライデン自然史博物館では2頭を同種のイヌ科動物と規定してしまい、2頭のうちシーボルトがヤマイヌとして送った標本をニホンオオカミとして剝製にし、同館へ展示した。これが、ニホンオオカミの世界標準の個体となってしまったところから、さまざまな混乱が生じているようだ。日本で保存されている、比較的大型のニホンオオカミとされる毛皮のDNAと、ライデン自然史博物館のニホンオオカミとされる標本のDNAが一致しないのだ。
 江戸期の文献には、「狼」と「豺・山犬」などを分けて記述している資料が多いが、同様にオオカミとヤマイヌを混同して書いていそうな文献も多い。「狼」とされる動物と「豺・山犬」とされる動物は、生息域が近似しているイヌ科の動物ではあるけれど、シーボルトが江戸期から規定していたように、実は別種の動物なのではないか?……と疑われはじめた。つまり日本の山岳地帯には、ちょうど北アメリカ大陸のオオカミとコヨーテの関係と同様に、2種類のイヌ科動物がいたのではないかということだ。そして、やや大型のほうがニホンオオカミであり、ライデン自然史博物館に展示されている小型の動物がヤマイヌではないかと想定されはじめた。
 シーボルトが2種に分類したイヌ科動物を、ライデン自然史博物館が同一のものと誤認し、ヤマイヌの標本をニホンオオカミだと規定して「タイプ標本」化してしまったところから、すべての混乱がはじまっているらしい。このあたりの状況を、2017年(平成29)に旬報社から出版された宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』から引用してみよう。
秩父の案山子.JPG
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 二〇〇二年に七例目の毛皮が秩父の民家で発見されるまで、剥製と毛皮の標本は、ライデン自然史博物館、大英博物館、国立科学博物館、ベルリン博物館、東京大学、和歌山大学にしかなかった。/一番大きい和歌山大学の剥製は、頭胴長一〇〇センチ(組み直し前は胸から尻まで七〇センチ、体高五二.五センチ、尾長二五センチ)だった。しかし、ライデンにあるタイプ標本は体高四三.五センチ、頭胴長八九.三センチ、尾長三二.五センチ(『ファウナ・ヤポニカ』から)と小柄で、対応する頭骨も確認された中で最小だ。これがニホンオオカミ像を実際より小さく印象づける一因だったのだろう。同時にこの小柄な剥製を見ると、一般にイメージするタイリクオオカミとは違う種類の動物であるかのような印象を受ける。/ライデンの剥製はニホンオオカミの大きさの平均値を下げて、ニホンオオカミ像の混乱を増幅させた。さらに、ニホンオオカミとされているものの中にも、本当は複数の動物種が含まれているのではないかという、今日まで続く論争の大きな要因にもなっているのだ。
  
 ライデン自然史博物館にある剥製には、ニホンオオカミ(Canis hodophilax)とプレートに記載されているが、困ったことに剥製台座の裏側にはJamainu(山犬)と記録されているようだ。同博物館の学芸員が、どこかでシーボルトの標本2体が、実は別種のイヌ科動物であることに気づいたからだろうか。
 同書の著者が実際に目撃しているように、ニホンオオカミ(仮称「秩父野犬」Click!)とみられるイヌ科の動物は、確かに秩父の山中に棲息しているようだ。スチール写真ではなく、より情報量の多い動画としてとらえられる日がくることを願うばかりだ。
 秩父の山里にある村を歩いているとき、わたしは異様な光景を目にした。案山子(かかし)が横へ手をつなぐように、山に向かって立っていたのだ。案山子は鳥獣の侵入を防ぐために、田畑のあちこちへ等距離に立てられているのが普通だ。だが、秩父では山の斜面を遮るように、横へ連続して拡がるように立てられている。地元の方に訊くと、シカやイノシシ、サルなどが頻繁に村へ下りてきて、畑地の中をわがもの顔で歩いているらしい。
西荻窪三峯社.JPG
井草八幡三峯社.JPG
ニホンオオカミは消えたか?.jpg ニホンオオカミは生きている.jpg
 つまり裏返せば、ニホンオオカミの棲息に必要な動物が、秩父にはふんだんに存在するということだ。いや、この言い方はどこかで逆立ちしている。ニホンオオカミを絶滅近くにまで追いやったせいで、本来なら捕食されるべき動物の個体数が増えつづけ、山での食糧が足りなくなって里の畑地を荒らすようになってしまった……ということだろう。

◆写真上:江戸期の下落合村で勧請したとみられる、中井御霊社に建立された三峯社。
◆写真中上は、早春に霞がただよう秩父の山々。は、さまざまな動物が棲息する秩父の山林。は、両神山から北東へ3kmほどのところにある氷柱で有名な尾ノ内渓谷の吊り橋。山奥の夜間にもかかわらず、多くの人たちが訪れる。
◆写真中下は、山に向かって横一線に並べられた案山子。は、ニホンオオカミの目撃例が多い秩父連山の両神山と七滝沢あたり。(GoogleEarthより)
◆写真下は、西荻窪駅前にある三峯社。は、井草八幡境内にある三峯社。下左は、秩父を中心にニホンオオカミをめぐる最新動向がまとめられた2017年(平成29)出版の宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』(旬報社)。下右は、九州における目撃情報がまとめられた2007年(平成9)出版の西田智『ニホンオオカミは生きている』(二見書房)。


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