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怪談フォークロアの先に見えるもの。 [気になるエトセトラ]

無電柱化1.JPG
 以前に、根津山Click!の物語に付随した、戸山ヶ原Click!から学習院Click!を経由し、東京郊外へと抜ける地下隧道(トンネル)の伝承および当時の新聞記事について取りあげた。そのとき、2008年(平成20)に発表された小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』(メディアファクトリー)をご紹介したが、きょうはもうひとつ、電柱を地下に埋設する共同溝の工事現場で採取された、近似するエピソードをご紹介したい。
 現在、東京では幹線道路沿いのあちこちで、地下共同溝の建設が行われている。現在の工事は、2007年(平成19)に国交省と東京都が策定した「東京都無電柱化方針」にもとづくものだ。これは、東京オリンピック・パラリンピック2020大会へ向けた整備事業の一環で、「センター・コア・エリア」と呼ばれるエリアの内側と、おもに海浜地帯を中心に行われている。「センター・コア・エリア」などともってまわった表現をしているけれど、要するに山手通り(環六)の内側に位置する区部のことだ。
 下落合の周囲でも、地下共同溝工事はかなり進んでいて目白通りや十三間通り(新目白通り)、聖母坂などで一部工事が完了している。地下共同溝に電線を埋設すると、道幅が広く設定でき緊急車両や歩行者が通りやすくなったり、街の景観が美しくなるなどメリットも多いのだが、逆に障害時、すぐに復旧工事がスタートできなかったり、共同溝自体が破壊された場合は復元に時間がかかるなどデメリットも多い。阪神・淡路大震災では、地上の電柱にわたされた電線に比べ、共同溝へ埋設された電線の復旧に倍以上のリードタイムを必要としたのは記憶に新しい。
 日本は地震国であり火山国でもあるので、ヨーロッパの街角とはまったく風土や事情が異なる。だから、電柱にわたされた電線(電力線)は地下に埋設できても、技術の進化が速い通信線は、そのまま電柱に残されているケースも目立つ。今世紀に入り、100MbpsのEthernetが1Gbpsになったのは、ついこの間のような気がするけれど、すでに少し前までデータセンター仕様だった10Gbpsが一般家庭までとどく時代は目前だ。それが40Gbpsになるのも、おそらく予想よりもかなり早いだろう。
 明治末より、電力線と通信線が同じような電柱に架けられ、戦後は双方が電柱を共有する統合化された時代から、今後は地下と地上とに再び分離していく時代のはざまにいるのかもしれない。そんな状況の中、各地でつづけられる地下共同溝の工事現場から、思いもよらないものが「出てきた」記録がある。
 少し前に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の曽孫である小泉凡Click!が書いた、『怪談四代記―八雲のいたずら―』(講談社/2014)をご紹介しているが、彼の友人である作家の木原浩勝が採取した実話「怪談」のひとつに、そんな共同溝の工事現場のエピソードが書きとめられている。この「怪談」が記録されたのは2008年(平成20)だが、その時点から10年ほど前ということなので、20世紀の末ごろに起きた出来事なのだろう。
地下街路.jpg
地下共同溝.jpg
 場所は、おそらく公開するにあたって伏せられているのでハッキリしないが、東京2020へ向けた「東京都無電柱化方針」の事業ではなく、別事業の一環として前世紀末から実施されていた共同溝の埋設工事だと思われる。国土交通省の記録を見ると、「無電柱化整備場」の第3期(1995~1998年)に属する工事だったのではないかとみられる。では、同年に角川書店から出版された木原浩勝『九十九怪談/第一夜』に収録の、「第二十三話・地下坑道」から引用してみよう。
  
 十年ほど前(1998年ごろ)、都内で地下共同坑の工事があり、Sさんはその現場で監督をしていた。/その日も、ショベルカーを使って道路を掘り起こす作業をしていた。/そこへ突然Sさんのいる作業室の扉が開いて、作業員が飛び込んできた。/作業中に突然ガリッガリッと、ショベルカーのバケットの先が煉瓦のようなものに当たったのだという。/そんなバカな!/図面を見るまでもなく、この辺りにそんな古い下水道のようなものなどない。/Sさんは確認のため、ショベルカーを使わずに掘るよう指示を出した。/現場に着くと作業員たちがシャベルを持って、ショベルカーの掘った辺りを掘り始めていた。/しばらくするとあちこちから、ここにも何かありますと声があがりだした。/どうやら、想像以上に大きなものが埋まっているようだった。/注意しながら半日ほど掘ると、かなり長い半円柱状のものが出てきた。煉瓦造りの構造からして戦前に造られた、トンネルのようなものなのだろう。(カッコ内引用者註)
  
 地下から出てきた「坑道」とみられるトンネル状の構造物は、公式な記録(国交省ないしは東京都の図面)には残っていなかったのが、現場監督“Sさん”の対応から明らかだ。Sさんは、「戦前に造られた」と判断したようだが、レンガ積みによる工法はもっと古い時代の遺物を想起させる。
 大正期に入ると、セメントClick!の生産に拍車がかかってコストが大幅に下がり、地上の建築はもちろん地下の構造物も、大粒の玉砂利を混ぜたコンクリートClick!で造られるのが一般化した。工事で発見された「坑道」がレンガ造りだったことは、より古い時代の遺構、すなわち明治期の造作を思わせる仕様だ。以前、こちらでご紹介した学習院に保存されている「下水溝」の写真(どう見ても下水溝には見えないトンネルだが)も、頑丈なコンクリートで構築されているので、大正期以降の建造物だろう。
 地下にあるトンネル状の構造物は、その強度の課題によりレンガ造りからコンクリート造りに取って代わられたのは、大正期のかなり早い時期からではないかと思われる。つづけて、同書の「地下坑道」から引用してみよう。
学習院「下水溝」.jpg
日吉海軍地下壕.jpg
西武線コンクリート.JPG
  
 構造物は、共同坑を横断するよう左右に横たわっていた。/このまま放置していては工事が進まない。/いや、そもそもこの構造物は何だろう?/Sさんは、とりあえずショベルカーで壊して中を確かめることにした。/注意深くショベルカーのバケットが、煉瓦を何度か叩くうちに、ガラガラと崩れ落ちて大きな穴が空いた。/作業員たちは、先を争うようにして空いた穴に近寄り中を除き込むと途端に、わぁっと叫び声をあげて、一目散に穴から逃げだした。/Sさんは何があったのかと、穴に駆け寄って中を覗くと暗闇のトンネルの真下に鉄兜を被った白く光った人のようなものが立っている。/人? まさか人がいるわけがない! と目をこらして見ると、白い顔がこちらを見上げた。/うすぼんやりしたその顔には目も鼻も何も見えない。/うわぁ! お化けだ!
  
 ……と、それから現場は大騒ぎになるのだが、街中で幹線道路沿いの工事現場という騒音だらけの環境から、Sさんをはじめ作業員たち全員が、集団催眠に陥って幻覚を見たとは考えにくい。煉瓦で造られたトンネルの穴から、それがのっぺらぼうの「人のようなもの」だったかは不明だけれど、“何か”を見たのは確かなのだろう。
 地下から、公式図面には記載されていないレンガ造りのトンネルが出現し、あらかじめ少なからず不安と戦慄をおぼえる心理状態だったせいで、あらぬものが見えてしまった可能性は否定できないが、ここで問題なのは「お化け」が出たことではない。(そうはいっても、そちらのテーマにも興味津々なのだがw) わたしが問題にしたいのは、同書の趣旨からまったく外れてしまうが、地下から出現したトンネル状の構造物の存在、つまり道路沿いの共同溝工事を想定すれば、その道路とは交叉していたとみられる地下トンネルとは、いったいなんだったのかということだ。
 明治の早い時期から、巣鴨監獄(現・池袋サンシャインシティ)の地下に造られた弾薬庫の存在は、いまではかなり知られている。そこから、地下トンネルを通じて弾薬が東京湾沿岸へ供給されるルートが存在したらしいことも、いくつかの書籍や資料で指摘されている。これらトンネルの存在は、軍機に属することなので当時も、また現在でも公開されていない。いや、その資料自体が関東大震災Click!東京大空襲Click!で滅失してしまって存在しないのかもしれない。
 ひょっとすると、共同溝工事をしていたSさんのチームは、明治期に煉瓦で構築されたそんなトンネルのひとつを、偶然掘り当ててしまったのではないか。この工事現場の場所がハッキリすれば、トンネルが通っていた方角や地面からの深さなどで、別の地点を調査することも可能なのではないだろうか。また、「お化け」(いたとすればw)が鉄兜をかぶっていたことから、戦時中もなんらかの用途で使われていた可能性もありそうだ。先述した根津山のケースも同様だが、東京の地下にはいまだ不明な点が多すぎる。
国交省「無電柱化の現状」201701.jpg
無電柱化3.JPG
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 Sさんの工事現場では、「お化け」を目撃した翌日に、近くの社(やしろ)から神主を呼んでお祓いをしてもらい、早々に埋めもどしている。ついでに、工事をしていた区の教育委員会に連絡して調査を依頼すれば、工期はやや延びるかもしれないが、これまでウワサでしかなかった明治期の遺構が改めて確認され、世紀末の「大発見」になっていたのではないかと思うと、あっさり埋められてしまった「お化け」とともにちょっと残念だ。

◆写真上:無電柱化の工事を終えた、落合地域を南北に貫通する山手通り(環六)。
◆写真中上は、戦前には「地下街路」と呼ばれた共同溝。は、現代の共同溝。
◆写真中下は、学習院に保存されている「下水溝」と書かれた写真だが、どう見ても下水には見えない。は、敗戦間近な時期に日吉台の地下へ設置された聯合艦隊司令部の地下壕。は、昭和初期に造られた西武鉄道のコンクリート柵。
◆写真下は、2017年1月に作成された国交省のPPTデータ「無電柱化の現状」報告書より。は、無電柱化工事を終えた聖母坂で残っているのは通信線柱。は、無電柱化工事で設置されたトランスなどが収納された地上機器。これが電柱にも増して邪魔に感じるので、ぜひ制御機器のコンパクト化を追求してほしい。

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近衛文麿への盗聴工作を終えたら敗戦に。 [気になるエトセトラ]

兵務局分室1.JPG
 吉田茂Click!を中心とする、大磯Click!「ヨハンセングループ」Click!の辛工作(スパイ潜入)を終えた東輝次は、次に「コーゲン」こと近衛文麿Click!へのスパイ工作の任務についている。すでに東京は焼け野原であり、戸山ヶ原にあった兵務局分室(ヤマ)Click!も1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で焼け、乙工作(電話盗聴)も辛工作も不可能な状況になっていた。
 そこで、近衛文麿Click!には丁工作(盗聴マイク設置)が選ばれている。だが、近衛文麿は杉並の荻外荘Click!に落ち着かず、各地を転々とするような生活をしていた。天皇へ「敗戦必至」の「近衛上奏文」を提出して以来、陸軍の本土決戦を叫ぶ青年将校たちから、生命をねらわれていると考えていたからだ。東輝次が吉田茂邸へ潜入していた時期に、何度か「上奏文」の打ち合わせで大磯にもやってきていた。
 兵務局分室では、近衛文麿はおもに荻外荘Click!と軽井沢の別荘Click!、そして箱根の麓にある桜井兵五郎の別荘「缶南荘」を往来していることをつかんだ。この時期、下落合(1丁目)436番地(現・下落合3丁目)の近衛邸Click!は空襲で焼失している。そこで、もっとも居住する機会が多いとみられる、箱根の「缶南荘」へ盗聴マイクをしかけることに決めた。近衛の電話を通じて、“反戦和平運動”の動向をつかもうとするもので、1945年(昭和20)6月ごろに具体的な計画が立案されている。
 7月に入ると、神奈川県中郡大根村(現・秦野市)の鶴巻温泉にある旅館「大和屋」に、スパイ工作のベースアジトが設けられ、東輝次は「秘密兵器試験隊」の名目で一員として参加していた。さらに、前線の工作アジトとしては、箱根登山鉄道の箱根湯本駅前にある橋をわたった陸軍病院(現・湯本富士屋ホテル)に設置された。戦争も末期になると、箱根の陸軍病院ばかりでなく箱根にあるほとんどの旅館は、戦地から送還された傷病兵で超満員の状況だった。
 湯本の陸軍病院の1室に、「秘密兵器」の材料と称して盗聴に必要な機材や通信線などが運びこまれると、東輝次を含む3名の工作員は活動を開始した。小田原市入生田の山中にある「缶南荘」へ、山麓から延々と盗聴用の通信線を埋設し、近衛文麿が利用しているとみられる居室の縁の下まで引いていく計画だった。すでに缶南荘へは砂糖やバター、食油などを売りに、工作員のA曹長が「便利屋」として台所から接触し、2棟ある別荘内のおおよそ部屋数や見取図を作成していた。
 1945年(昭和20)7月10日の深夜0時すぎに、3人の工作員は箱根湯本駅前の陸軍病院を抜け出すと、吊り橋の三枚橋をわたり、国道1号線を小田急線の入生田駅方面へと下りはじめた。3人がかたまって歩くと目立つので、バラバラになって国道を下り、入生田の集落手前にある牛頭天王社の境内を集合場所と決めていた。以下、2001年(平成13)に光人社から出版された東輝次『私は吉田茂のスパイだった』から引用してみよう。
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 前を行く者も、道をはずれたのであろう。ザラザラ葉ずれの音は、もう闇の中に吸われて聞こえて来ない。ジイジイとなく声の音が気味わるい。落葉の中に燐が星のように光っている。/神社脇に出ると、杉の林もまばらになる。かすかながらも光がさし込んで来る。そこまで最初に来た者が、口笛を吹く。他の者はそれを聞きつけて寄って行く。ここで集合を完了するのである。/三人は携行品を点検して、中腹のこの神社前を国道に沿って進むと、前方に水の音が聞こえてくる。これが工作の起点になる貯水地である。/貯水池は三坪あまりの小さいものである。そこから送水管が二本、国道脇にあるポンプ場に送り込まれている。/その送水管の下から、工事をはじめるのである。(中略)軍用電線の端末を二十メートルばかり残して一ヵ所に埋め、それから缶南荘に向かって埋め進めていく。一人が円匙で方向を決め、土を左右に分ける。次が十字鍬でその中を浚える。次が電線を埋めて土をかむせ、その上に落葉や草を植えて行く。これはまったく手の感覚だけではなく、全神経の集中をしなければできない。
  
 貯水池の脇から外灯のまったくない暗闇の山中を、手探りで泥だらけになりながら円匙(スコップ)を手に通信線を埋設していく、気の遠くなるような作業だった。ポンプ小屋の近くからスタートしたのは、同設備から盗聴機器の電源をとる計画だったのだろう。午前5時になると、周辺が明るくなる夏季のため撤収しなければならず、実質ひと晩に5時間弱の作業しかできなかった。この小さな貯水池から、近衛文麿が滞在する「缶南荘」まで約300mもの距離があった。
 通信線の敷設は、缶南荘の周囲をめぐらす1mほどの石垣にはばまれ、その下を突破するのにひと晩かかっている。南西へと拡がる広い芝庭の石垣沿いに、通信線は缶南荘の北側斜面を大きく迂回して、建物の北東側から屋敷の縁の下へ引き入れることにした。芝庭へ入りこむのを避けたのは、番犬に獰猛なシェパードが飼われていたからだ。シェパードは、夜中に東輝次たちの気配を嗅ぎつけると狂ったように吠えたが、彼らは番犬対策に陸軍科学研究所から特別な薬品をもらっていた。以下、同書からつづけて引用してみよう。
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 われわれは戦場における匍匐(ほふく)前進と変わることなき全身をしなければならなかった。匍ったままにて、同じように線を埋めていった。/この芝生に入る日になると、A曹長はかならず訪問して、犬小屋に薬品をふりかけた。それは理科学研究所にて作った一種の媚薬にて、その薬品の臭いをかぐと、犬の生理に変調を来たして交尾期の状態になるのである。だから、いつもの警戒心もなく、邸の外に飛び回るのである。それでないと、われわれは、その芝生に近寄れないのである。/缶南荘の本家は、二棟からできており、渡り廊下にてつながっていた。「コーゲン」の居室は、その裏の方の一棟にて二間からできていた。そして建物は普通の日本家屋のそれではなく、鎌倉時代の神社仏閣のように縁が高くできていた。しかし、それに入る口を見つけねばならない。/一日、その縁の下を逼い回った。なかなか見つからなかった。(中略) 案の定、渡り廊下の下付近にがんどう返し式の出入り口を発見したのである。
  
 東輝次は「理科学研究所」と書いているが、イヌの媚薬を製造したのは陸軍科学研究所の登戸研究所で、「番犬防御法」を開発していた研究チームだ。ソ連国境に配備されている、国境警備隊の番犬用に開発された「警戒犬突破」用の「発情法」薬だった。
 ようやく、缶南荘にいる近衛文麿の居室の縁の下までたどりついた3人だが、使用した通信線は400mに達していた。縁の下には7月27日に到達しているので、工作開始から実に17日間もかかっている。1946年(昭和21)に撮影された空中写真を見ると、缶南荘の前には大きな谷戸が口を開けており、そこへ通信線をわたして山の中腹に建つ缶南荘までたどり着くのは、容易なことではなかっただろう。真鍮パイプの中に通信線を通し、渓流をふたつも越えなければならなかった。翌7月28日、近衛が滞在する二間を分ける敷居の下に支柱となる木材をかませ、マイクロフォンの設置を終えている。
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 こうして、小さな貯水池のそばにある番小屋へ受信装置を設置し、近衛文麿が現れるのを待ちかまえた。だが、近衛は8月14日まで一度も缶南荘に姿を見せなかった。この日の夜、東輝次たちは早くも敗戦を知り、虚しさを抱きながら翌15日の朝、急いで東京へともどると新宿の伊勢丹前で天皇のラジオ放送を聞いている。そして、ただちに戸山ヶ原にある兵務局の代用分室となった厩舎にもどると、膨大な機密工作の書類を焼却しはじめた。炎暑の中、すべての書類を灰にするまで丸4日もかかっている。

◆写真上:戸山ヶ原の兵務局分室があったあたり(左手)の現状で、右側の浅い穴は敗戦直後に防疫研究室(731部隊本拠地)による人体標本(人骨)埋設証言の発掘調査跡。
◆写真中上は、いまも残る近衛騎兵連隊の馬場と兵務局分室の間に遮蔽目的で築かれた土塁。は、国立国際医療センター(旧・陸軍第一衛戍病院)の上階から撮影した大久保通り沿いの兵務局防衛課跡(矢印の集合住宅あたり)で、向かいのビルは総務省統計局。
◆写真中下は、1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる箱根湯本駅前の旧・陸軍病院全景。下左は、1944年(昭和19)に撮影された軍人に見えない長髪の東輝次。下右は、いまも残る貯水池と箱根登山鉄道まで下る2本の送水パイプ。
◆写真下上左は、荻外荘応接室の近衛文麿。上右は、桜井兵五郎。は、1946年(昭和21)の空中写真に貯水池から缶南荘までの通信線を埋設した想定ルート。


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なんだか変だよ「大東京の味覚」の味覚。 [気になるエトセトラ]

高田馬場「愛川」3.JPG
 1933年(昭和8)に博文館から出版された『大東京写真案内』Click!には、東京35区の写真とともに東京の“うまいもん”Click!を出す食物屋(くいもんや=下町方言)が紹介されている。昭和初期に有名だった、代表的な店が紹介されているのだけれど、「牛すき焼き」Click!と「牛鍋」の区別がまったくついてないし、江戸後期の深川発祥である魚介類の練り物鍋=「おでん」の紹介が丸ごと欠落しているし、「柳光亭」Click!を「浅草」と書くなど、著者の感覚に江戸東京の匂いClick!がしないのだ。
 ちなみに、「柳光亭」は神田川に架かる浅草橋の近くにあるけれど、浅草橋はもともと千代田城外濠の浅草見附(御門)Click!跡の名称であって、地元では誰もその地域を「浅草」とは呼ばない。浅草から2kmも南へ下り、駒形や蔵前のさらに南に位置する同料亭を呼ぶとすれば、「柳橋の柳光亭」が正しいだろう。江戸期も昭和期も、また現代も「浅草」はもっとずっと北側の概念なのだ。ご近所でたとえれば、行政区画が高田町エリアにあった雑司ヶ谷鬼子母神Click!のことを、誰も「高田鬼子母神」と呼ばないのと同じだ。高田地域は、雑司ヶ谷の南西ととらえるのが昔からの地元の感覚であり“お約束”だろう。
 さて、筆名がないので誰が書いているのかは不明だが、東京の飲食店を紹介する「大東京の味覚」の一文を『大東京写真案内』から引用してみよう。
  
 夥しい「東京食物案内記」の記すところによると、先ず和食では山王台の星ヶ丘茶寮、浅草の柳光亭、築地の八百善。洋食では東洋軒に精養軒、帝国ホテルのグリルに中央亭にボントンか二葉、支那料理では日比谷の山水楼に虎の門の晩翠軒、建物の凄い目黒の雅叙園、朝鮮料理では赤坂山王下の名月、大阪料理の浜作に京都料理の栖鳳等々、挙って推奨されてゐる有名店ではあるが、洋食や支那、朝鮮、上方料理に江戸の風味を味ひ得る筈は勿論ないし、星ヶ丘茶寮や八百善や柳光亭のお料理では、余りに非大衆的で、物々しくて、億劫で、手軽には味ひ兼ねると云つた有様。
  
 紹介されている店は、いまは潰れてなくなってしまったものや、現在でもがんばって営業をつづけている店もある。わたしが子どものころまで残っていて、親に連れていってもらった店もあれば、わたしの生まれる前に閉店したところもある。著者が「余りに非大衆的」と書く、江戸期からの八百善や星ヶ丘茶寮は知らないが、柳橋の柳光亭へは親父と出かけたことがある。千代田小学校Click!の同級生で、のちに柳橋芸者になった女性の引退の宴席Click!へ招かれたとき、なぜか親父はわたしを連れていった。
 子どものうろ憶えなので、それほど正確ではないかもしれないが、著者が「余りに非大衆的」と書くほど、目黒雅叙園Click!のように浮世離れした悪趣味で野暮な雰囲気(もともと郊外温泉風呂の目黒雅叙園の場合は、あえて非日常的なそれを狙っている)でも、特別な風情でもなかった。当時もいまも(城)下町Click!にあるような、ふつうの料亭であり、刺身料理は驚くほど新鮮で美味だったような憶えがあるが、出される膳もくどく凝ったものではなかったように思う。著者は、一度も柳光亭を利用したことがないのではないか? もっとも、わたしが同料亭で飲食したのは戦後1960年代ことであり、戦前は店の風情(営業方針)が大きく異なっていた可能性もあるのだが……。
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 つづけて、寿司の一文を同書から引用してみよう。
  
 寿しは屋台に限るとよく云はれる。その朝仕入れた材料をその日の中に使つてしまつて、しかもお客のすぐ眼の前で握る、お客は直ぐそれをつまんで口に投込む。このリレーがうまく行けば行く程通(つう)と呼ばれたもので、そのつまみ方に又コツがある。(中略) もっともこれは一瞬の事で、すし屋の親爺が握る、手にとる、口へ投込む、握る、手にとる、投込むと、調子よくゆかねばほんたうのすし通(つう)とは云はれない。馬鹿に面倒な話であるが、かく程迄になれなくとも、たとへ真中に包丁を入れて貰つて、割箸でつまんで醤油に浸して召上るとしても、ほんたうに生きのいゝ中とろを、程よく握つた庄内米の御飯にのつけて、所謂煮きりのつけ醤油に味をつけて食つた味は、凡そ東京の味覚の中でも随一であらう。
  
 なにを勘ちがいしているのか、別に寿司屋に入って「親爺」との間でせわしない「リレー」などしやしない。w 自分のペースで食べて、味わえばいいだけの話だ。講談や時代劇に登場する、昼間はなにかと忙しい日雇取(ひようとり)か、博徒や地廻りの輩じゃあるまいし、出入りの合い間にでも寿司を食っているのだろうか?
 1日じゅう外働きの職人に多い、冷えきった身体を温めるための「熱い風呂が好き!」Click!な習慣(木場を抱える深川あたりの冬場の習慣?)を、商人や武家を問わず「江戸っ子」(町名+“っ子”はいうが、こんな茫洋としたくくり方はしない)全体のイメージに敷衍化したのと同様、あるいは江戸期から下町の名物だった、すき焼き料理(鴨肉+豆腐や春菊・長ネギなど江戸近郊野菜の具が多かった)について、明治以降の牛鍋をほんのチラ見しただけで、「東京のすき焼きは汁を先に張る」などというトンチンカンな言質と同じように、架空の「江戸東京人」のイメージをつくってやしないだろうか?
 自身の出身地の文化や習俗、趣味、嗜好、生活と比べ、どうしても合わないし理解できない江戸東京地方の事象は、ほんの一部の街の慣習や一部の人々の嗜好などを、ことさら戯画化して揶揄しながら「笑いもん」にし、江戸東京の全域へとスリカエて敷衍化する、明治以降にさんざんやられてきた、いつもの“手”ではなかろうか。「江戸っ子」は「宵越しの銭は持たない」などと、バカをいっちゃいけない。確かに気風(きっぷ)や気前はいいかもしれないが、そんなことをしていれば江戸後期にはロンドンと並ぶ世界最大の都市など、とても構築できやしないのは自明のことだろう。
 文中で盛んに「通(つう)」という言葉を多用しているけれど、著者の記述に反して(城)下町の地元ではマグロの赤身は食べるが、もちろん「中とろ」の脂身など口にしない。これは、わたしが子どものころまで残っていた頑固な習慣なので、1933年(昭和8)の当時ならなおさら厳格に、江戸東京の食文化や美意識として守られていたはずだ。現代では信じられないかもしれないが、マグロの脂身(いわゆるトロ)は棄てるかネコ用のエサだった。ネコのエサを食う「通」など、かつて見たことも聞いたこともないが、親父は頑なに口に入れなかったものの、わたしは近ごろ口にするので、おそらく「通」ではないのだろう。
 つづいて、蕎麦について書いている箇所を同書より引用してみよう。
  
 そばも亦東京に限る。「そばは信州」と云はれ、現に軽井沢駅プラツトホームの一名物でもあるが、あの熱気舌を焼く美味さは夏なほ寒き彼地の気候の然らしめる所の美味さであつて、ほんたうのうまさとは云へまい。「そばは信州」とは、信州がそばの産地である謂であり、その食料としてのうまさは東京に勝るところはまづないと云つてよからう。そのそばももりに限る。厳冬猶冷たいもりに限る。(中略) もつともこれは手打ちのそばのことで機械うちだとうまくゆかない。
  
 著者は、蕎麦Click!は「東京に限る」「東京に勝るところはまづない」などと書いているけれど、そんなことはない。w 江戸東京蕎麦の故郷である信州の蕎麦はもちろん、野趣あふれる香ばしい太めの南部(岩手)蕎麦、こちらでは味わえない独特な風味の山陰(特に出雲)蕎麦など、それぞれに独自の味わいや趣きがあって美味しい。著者の感覚は、妙なところで無理やり「東京人」を気どっていて、キザ(気障り)で嫌味で不愉快だ。
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 ちょっと余談だが、最近「手打ち蕎麦」と銘打つ蕎麦屋があちこちにでき、期待して入るのだけれどガッカリするケースが多い。「腰がある」蕎麦を「硬い」蕎麦と勘ちがいしているのだろうか、もぐもぐグチャグチャClick!と汚らしく何度も噛まなければ、のどを通らないような蕎麦を「手打ち蕎麦」だと思っているフシさえ見える。そのようなおかしな店は、(城)下町よりも乃手のほうが多いのが現状だろうか。
 そのほか、「う」Click!や天ぷら、鍋料理、鳥料理などなど、江戸東京の食べ物をずいぶん羅列していろいろ書いているのだけれど、前述のように「鍋」料理と「すき焼き」料理の区別さえつかない点や、深川の生簀料理で出た余り魚から派生した、江戸期由来の“おでん”がリストにさえないなど、どこかで地元の感覚との大きなズレを感じるのだ。
 キリがないので、最後に天ぷらについて同書から引用してみよう。
  
 天ぷらは何と云つてもエビに止めを差す。前の独逸大使ゾルフさんが推賞したのも、チヤツプリンが感嘆の余り大切なステツキを折つたのもこのエビの天ぷらであつたと云ふ。エビの最上は東京湾一帯の車エビ、それも三寸五分から四寸の大さのもので、目方は六匁乃至八匁のもの、(中略) 衣のとき工合、つけ方、火加減、油の煮え工合、それから揚げ方に至つては、これも亦曰く言ひ難しで、中々の修練が必要であることは勿論である。
  
 エビの天ぷらをものすごく称揚しているけれど、太平洋へ口を開けて新鮮な、ありとあらゆる魚がふんだんに手に入る江戸前の天ぷらといえば、エビなどよりもまずキスやサヨリ、マハゼなどの活きのいい白身魚か、アナゴが挙げられるのではなかろうか。欧米人が好きだからといって、地元でも食の優先順位が高いとは限らない。
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 天ぷら=エビがことさら“高級”で“重視”されるようになったのは、わたしの認識によれば戦後のことであって、著者が書く時代の江戸東京の地元では、“魚”ではないエビのプライオリティはもっと低かったはずだ。芝沖で採れた、細かな芝エビを混ぜたかき揚げ天なら、もう少し人気があって順位が上かもしれないが……。
 そのほか洋食屋やベーカリー、水菓子屋Click!(フルーツ店)、菓子屋(喫茶店)などの紹介や捉え方もなんとなくチグハグで違和感をおぼえる。少なくともわたしの感覚からすると、「大東京の味覚」の味覚は少なからず、おかしいとこだらけのように映るのだ。

◆写真上:いまのところ近所の「う」では、気に入っている高田馬場「愛川」Click!。店主の体調がすぐれないのか、ずいぶん前から予約を入れないとなかなか食べられない。
◆写真中上:以下、ざっかけない東京の“うまいもん”。からへ寿司、明治以降は牛肉も加わる日本橋の鴨すき焼き、牛すき焼きと混同される先に汁を張った牛鍋、江戸期からアオジシ(ニホンカモシカ)とともに大江戸ではおなじみのシシ鍋=“ももんじ”Click!
◆写真中下からへ小腹満たしに最適な蕎麦、深川生まれのおでん、同じく柳川、明治期に早稲田の学生街で生まれた和洋のカツ丼Click!。ちなみに、おでんの具に魚介類の微妙な風味のちがいを台なしにする、獣肉を入れるのは絶対に許せない。
◆写真下からサツマイモClick!以外ならたいがい好きな天ぷら、江戸期からの吉原通いに人気があった蹴とばし屋の桜鍋、同じく江戸下谷(上野)のケコロ(岡場所)通いから生まれたやき鳥Click!。おまけのデザートは、滝沢馬琴の超ヲタクぶりで知られる向島は長命寺仕様の、大江戸はオオシマザクラの葉をつかった元祖桜餅Click!

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街の情報収集としての“こころづけ”。 [気になるエトセトラ]

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 今和次郎Click!は、よく「チツプ」あるいは「テイツプ」という言葉をつかう。昭和初期の当時は、チップという言葉が目新しく、流行語になっていたものだろうか。カフェやミルクホールの女給さんへ、サービスをよくしてもらうためにわたすのはチップでいいのかもしれないが、畳敷きの座敷がある和風の料理屋や料亭の仲居さんへは、やはりチップとはいわずに「こころづけ」と呼ぶほうがしっくりくるだろう。
 今和次郎は、考現学Click!研究のためにあちこちのカフェや料理屋に出入りしていたらしく、東京各地の盛り場で「チップ」の詳しい額を記録している。きっと、「研究費」だけで膨大な出費を余儀なくされただろう。1929年(昭和4)に中央公論社から出版された、今和次郎『新版大東京案内』から引用してみよう。
  
 銀座のカフエーで、一番名士のやつて来るのは、先づこゝの店だらう。それだけに、チツプを一円やつても、(銀座の表通りのカフエーに於ては、チツプの一円は常識である)軽く一礼する位のもので、梯子段のところ迄送つて貰ふやうなことは、一年通つても一円級では先づ絶望である。(中略) ……女給達も一様に藍色の袷衣を慎しやかに身に着けて、皆んなおとなしい上に親切である。そして彼女達が卑しく物欲しさうな顔を見せぬので、遠慮や気兼ねをしないで本当に気持よくビールを飲んで来られるのである。こゝのライスカレーは銀座では比較的評判である。チツプを五十銭置いて心からお礼をいはれるのは、このカフエー位であらう。
  
 女給(ホステス)さん相手ではないが、子どものころ親に連れられて芝居や散歩の帰りなどに、(城)下町Click!の料理屋や料亭へ出かけると、世話をしてくれる仲居さんへ親父は「チップ」ならぬ「こころづけ」を必ず手わたしていた。子どもなので額は知らなかったが、1960~70年代にかけてのころは、息抜きに喫茶店でコーヒーが2~3杯飲めるぐらいの額、すなわち60年代は岩倉具視(500円札)が、70年代は伊藤博文(1,000円札)が活躍したのではないかと思う。すると、料理屋や料亭の座敷を担当する仲居さんは、ほとんど部屋に付きっきりとなり、はりきって世話を焼いてくれることになる。
 でも、この「こころづけ」は、よりよいサービスを受けるための戦前からつづく料理屋や料亭での伝統的な慣習、あるいは客がよりていねいに面倒をみてもらうための仲居さんへの賄賂という意味合いを超えて、親父の理由にはもうひとつ別の側面があった。料理屋や料亭の仲居さんほど、ご近所はもちろん周辺の街の最新情報に詳しい人物はいなかったからだ。商売がら、さまざまな街の情報やウワサ話が仲居さんの耳へと入ってくる。もちろん、顧客の私的な事情や街に住む人々の極端なプライバシーなどは、口がかたい商売なので話してはくれないが、差しさわりのない範囲での街の情報や変化、推移についてはなんでも詳しく教えてくれる。
 どこそこの店は先代が糖尿で入院して、昨年から実質6代目が継いでいるだとか、どこそこの旅館が倒産して跡地が雑居ビルになってしまったとか、大川(隅田川)と神田川の悪臭で船宿がまたひとつ潰れたとか、あそこの洋食屋が流行って銀行から借金をし、今度は自宅を5階建てのビルにするらしいとか、どこそこの店でボヤ騒ぎがあったばかりで、消火のときに水が入り先祖伝来の看板が台なしになったとか、とうとう柳橋の芸者が30人を切り辰巳芸者よりも数が少なくなってしまった……とか、日本橋とその周辺域で流れているずいぶん細かな情報までが、仲居さんの口を通じてもたらされた。
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木村荘八「牛肉店帳場」1932.jpg
 戦前・戦中の話になると、仲居さんではわからないので店主が前かけを外して懐かしそうに出てきては、しばらく界隈の変貌を感慨無量に話しこんでいった。また、共通の友人知人も判明したりして、親父にとっては面白い時間だったのだろう。そして、たいがい東京オリンピック(1964年)前後からこっち、ずっと「郊外」(東京西部や東部)へ引(し)っ越す人が止まらなくて、店もいつまでつづけられるかわからない……というような話で、最後は落ち着くことになる。ちょうど、わたしの子ども時代は中央区の人口が、住環境の悪化により30万人から半減してしまうような時期で、河川や空気の汚濁に加え、「開発」という名の昔からつづく住宅街の破壊や、むやみやたらな(高速)道路建設など、街の急激な変貌(小林信彦Click!のいう「町殺し」Click!)が止まらなかった時代だ。
 料理屋でわたす親父の「こころづけ」は、つまり近隣の動向や最新情報を手に入れるための、いわば「取材調査費」のような役割りをはたしていたのだろう。このような「こころづけ」の役割りは、昔ながらの店が健在で、近隣にずっと住んでいる勤務歴の長い仲居さんがいてこそ可能であり、乃手の料理屋ではハナから無理な注文だったらしく、まずはほとんど経験のない情景だった。
 親父は紙幣を折りたたんで、畳の上をすべらすようにわたしていたが、仲居さんも心得たもので畳に手をつき深くお辞儀をすると、ややシナをつくるような滑らかな動作でスッとそれを受けとるや、襟合わせへすばやくスマートに挿んでいた。すると、席が鍋料理やすき焼き料理などの場合は、すべて仲居さんが座敷へ付きっきりで世話を焼いてくれ、わたしたち家族は箸と飯茶碗を動かして食べるだけでよかった。
 ちなみに、親父Click!は酒が1滴も飲めなかったので、仲居さんとのおしゃべりが座敷での楽しみだったのだろう。その世話焼きの合い間に、彼女は親父の質問に次々と答え、周辺のさまざまな話題を聞かせてくれるのだ。店主が出てくると、もう3月10日の大空襲Click!の話か先代の関東大震災Click!の話になって、厨房の調理は大丈夫なのかな?……と心配になるぐらい話しこんでいった。このような情景が、なんら不自然さもなく可能だったのは、いまだ江戸期からつづく地域の“コミュニティ”が健在だったからだろう。
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 さて、わたしも(城)下町の古い江戸期や明治期からの料理屋へ上がるときは、親父のマネをしてやや恥ずかし気に「こころづけ」をわたすようにしている。わたしの世代では、現金をむき出しでわたすのは品がないと感じるので、小さな祝儀袋のようなものをあらかじめ用意するのだが、貧乏なのでやはり包むのはコーヒーを2~3杯飲める程度の額だ。すると、昔とまったく同じように襟もとへスッとそれを挿み、かいがいしく世話を焼いてくれるのはベテランの仲居さんだ。
 店の歴史や界隈の情報にもよく通じていて、いろいろな話をしてくれる。店の周辺が描かれた、江戸の切絵図(レプリカ)をどこからか持ってきては、「うちはここ」「オレの実家はここ」「あたしはこっち」などとやっていると、アッという間に時間がすぎる。ときに、わたしも仲居さんも生まれていないのに、空襲のときは(親たちが)「どっち」へ逃げたかなどと話し、見てもいない情景を語り合うのだからちょっとおかしい。でも、それが古くから歴史を積み上げてきた街ではあたりまえの、広島や長崎や沖縄では当然の、地元で「語り継ぐ」という行為そのものなのだと理解している。
 でも、1990年代からこっち、そのような「こころづけ」が通用しない店が出てきた。店自体は江戸期あるいは明治期からあるのに、そのような地元の慣習を理解できない仲居さんが登場してきたのだ。裏返せば、街の情報ネットワークをまったく持っておらず、なにを訊かれてもわからず、そもそも地元ではないので答えられない。「こころづけ」は店へと報告し、先代からの客らしいとわかると、当代の店主がやってきて話相手になってくれるのだが、それでなくても人手不足の忙しい厨房を抱えているのだから、そうそう長話や細かな話もできない。仲居さんからも店主からも、近隣の最新情報がほとんど入手できなくなってしまったのだ。
 仲居さん(もはや就活で入社した女性社員だろう)の中には、「こころづけ」を渡してもどうふるまっていいのかわからず、どぎまぎしてしまう人もいる。特に、若い仲居さんは「契約」あるいは「腰かけ」の感覚なのか、ハナから料理屋が建っている街について詳しく知ろうとは思わないのだろう。近くの店々とも、商店会以外での交流がなくなり、また流行りを追うようなチェーン店が増えて、地元の小学校から同窓だったというようなつながりも消え、店主(もはや経営役員)同士がかろうじて顔を見知っているぐらいになってしまったのかもしれない。つまり、街のコミュニティが実質的に「壊れて」しまったのだ。
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 仲居さんが近隣の情報に不案内となるにつれ、「こころづけ」の効果はほとんどなくなり、先代からの客だと知ると店主やその息子さん、娘さんが座敷へ挨拶に現れるようになった。でも、店を切り盛りしながらの世間話だから落ち着かず、親父の時代の仲居さんとすごした濃密な時間に比べると、グッと会話の中身が薄くなる。だから、わたしはいまの日本橋界隈の様子を、昔ほどよくは知らない。

◆写真上:神田川のアユとモツゴで、今年は小ぶりですばしっこいのが多い。はたしてアユ料理の店が、神田川に復活する日はくるのだろうか。
◆写真中上は、今和次郎が1929年(昭和4)ごろに記録した『新版大東京案内』所収の銀座1丁目から尾張町(現・銀座4丁目)にかけての飲食店。は、1932年(昭和7)に制作された木村荘八『牛肉店帳場』(部分)。描かれているのは、明治期の両国広小路(現・東日本橋)にあった第八いろは牛肉店の仲居さんたち。
◆写真中下は、1933年(昭和8)ごろ撮影の日本橋。は、同じころ撮影の江戸期は「駿河町」あるいは「金座」と呼ばれた後藤家屋敷のあったあたり。左手は手前が日本銀行で奥が三井銀行、右手は手前が横浜正金銀行で奥が日本橋三越。は、同じころの撮影で右手に明治座が見える金座通り(現・清州橋通り)。
◆写真下は、おそらく1928年(昭和3)撮影の両国花火大会Click!で、下に見える丸いドームのイルミネーションは大橋(両国橋)向こうの本所国技館。は、神田川の出口にあたる柳橋・船宿の夕暮れ。は、日本橋のあちこちに残るビル状になった料理屋。

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すぐに「斬ってやる!」の高田町議会。 [気になるエトセトラ]

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 1932年(昭和7)に豊島区が成立する直前、高田町最後の町長となった海老澤了之介Click!は、1902年(明治35)に水戸中学を卒業すると、早稲田大学を受験するために東京へやってきている。下宿先は、北豊島郡雑司ヶ谷村707番地だった。山手線の池袋停車場Click!ができるのは翌1903年(明治36)で、雑司ヶ谷一帯はいまだ田畑が拡がる中に森が点在するような風情だった。
 雑司ヶ谷は、江戸期から別名「富士見の里」と呼ばれるほど富士山Click!の眺望がよく、鬼子母神Click!から地図に直線を引いて確認すると、おそらく目白崖線がつづく下落合の御留山Click!の上あたりから突きでて見えていたのだろう。いまだ清戸道Click!(せいどどう=高田村誌Click!)と呼ばれていた目白通りには、練馬方面からやってくる野菜を満載した大八車Click!や肥車が通行し、ときおり目白停車場Click!や学習院へと向かうClick!(じんりき)が走り抜けていた。春になると、学習院の通りに植えられたサクラ並木がみごとに花開き、周辺の住民たちは花見に誘われたようだ。
 海老澤了之介は、雑司ヶ谷から早稲田大学まで通学しているが徒歩15分ほどの距離だったろう。当時の早大は、いわゆる見わたすかぎりの早稲田田圃Click!の中に、場ちがいな校舎の甍がそびえるような閑散とした風景で、隣接する大隈邸は水田の中にある孤島のように見えたという。商店街は正門前にしか形成されておらず、幕府の高田馬場Click!跡がいまだクッキリと残っていた時代だ。当時の通学の様子を、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 雑司ヶ谷から早稲田への通学は、面影橋から高田の馬場を経て行つたが、帰路は音羽通りに出て、葱、蒟蒻などを荒縄でぶら下げては帰つたものである。それでも人気のない田舎道の事であつたから、少しもはづかしい思ひをせずに済んだ。今思へば全く隔世の感がある。小石川伝通院前の西川と言ふ牛肉屋から、毎日御用聞きが来た。十銭の牛肉を先輩と私とお婆さんの三人で煮込みのおじやに作つて食べたりした。当時の下宿料は五円であつた。電燈は未だなく、竹ほやの石油ランプとマツチとを枕元に揃へて寝た。学生の常で、昼は遊んで夜勉強するのであるが、一月、二月ともなると寒さが身に沁みて来る。そんな寒い或る晩の事であつた。丑満の時ともなると、いよいよあたりは静まりかへつて、静寂そのものである。すると丁度目白駅の方向に当つて甲高い、そして澄み切つた声で、コーンと一と声聞えた。(中略) 始めて(ママ)之は狐にちがひないと気付いた時、啼声はすぐそこに近付いて聞えた。
  
 海老澤了之介が通った文学部哲学科の同窓には、戦後まで交友をつづけた下落合1712番地の第二文化村Click!に住む石橋湛山Click!がいた。石橋湛山は、1958年(昭和33)に出版された海老澤了之介『新編若葉の梢』Click!(新編若葉の梢刊行会)へは序文、『追憶』(私家版)には色紙を書いて寄せている。
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 海老澤了之介が地域行政の世界へ足を踏みいれたのは、父親が隠居してあとを継ぐことになったからだ。当時の高田町(現・目白/雑司ヶ谷/南池袋地域)は、大正期から昭和初期にかけ市街地からの人口流入が爆発的に増えつづけた激動の時代だった。特に1923年(大正12)の関東大震災Click!以降は、地域のインフラをいくら整備しても不足する、1950~60年代の神奈川県Click!のような混乱状況だった。だから、新しい時代状況に適応できない人々(おもに旧住民)と、新たなインフラの仕組みや制度づくりをめざす人々との間では、深刻な軋轢が生じることになった。
 当時の高田町に設置された常設・臨時委員会だけ見ても、学務委員会や警備委員会、社会事業調査委員会、条例規制改正委員会、下水道委員会、武蔵野鉄道護国寺線促進委員会、神田川改修促進委員会、荒玉水道促進委員会、瓦斯料金値下実行委員会、歳末慰問委員会、市郡併合特別調査委員会…etc.と、その名称をなぞるだけで当時の高田町がおかれていためまぐるしい様子が透けて見える。みるみる膨れあがる町勢に対し、ひとことでいえば「なにもかもが足りない」混乱した事態を迎えていた。
 海老澤了之介は、もともと高田地域に住む“有力者”たちを説得して、新しい街づくりに協力させるのが助役時代、そして町長時代のおもな仕事になっていた感さえある。中には、「男の約束を反故にした」とかいいつつ、日本刀を持ちだして「海老澤を斬ってやる」と公言する人物までが現れた。高田警察署では、町長に24時間の護衛をつけるまで緊迫した事態がつづいていた。同書より、当該箇所を引用してみよう。
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 (前略)当時町会議員で、上り屋敷に坂本辰之助君といふ新聞記者であつて、史学家を自負してゐる人がゐた。而しよくも勉強をしてゐた人であつたから、町会では純情の人だけにうるさい。物の理解方が、僕等とは少し違つてゐたから、納得することが出来ないとカンカンにおこる。調子が激越して、口角泡を吹くやうになると大変、僕も亦余りの度々のことであるから、大声を発して反撃してやると、決然席を蹴つて帰つて仕舞ふ。帰つてからが大変で、日本刀を出して海老澤を斬るといつて意気巻いたと言ふ一トくさりがあつたが、一度も斬りに来る事がなかつた。それからもう一人、誰であつたか、その人の名を忘れたが、この人も亦町の有力者で、私には好意ある人であつた。この人も日本刀を磨いて、海老澤を斬るといふ騒ぎになつた、町長のことであるから、目白警察署でも捨ててはおけず、毎日三人昼夜交替に護衛に来て、泊まつて行つた。
  
 海老澤了之介は「忘れたが」と書いているが、町の有力者の名を忘れるはずがない。ここで留意したいのは、もともと裕福な農家であり明治以降は一帯の地主になる街の“有力者”たちが、みな先祖から受け継いだ刀剣を所持していることだ。刀剣を所持していたのは武家だけでなく(そのような錯覚Click!を植えつけたのは時代劇だろう)、町人や農民(近郊農民は鉄砲Click!まで)も所有していたことを改めて確認しておきたい。
 1932年(昭和7)に東京35区制Click!が敷かれるとき、区名をなににするかで豊島区も3つの区名で争っている。高田町は、西巣鴨町と長崎町を併せて「目白区」にすることを主張し、巣鴨町はなぜか瀧野川町を仲間はずれにして、高田・西巣鴨・長崎を併せて「巣鴨区」にしたいといいだした。
 この時点で、山手線の目白駅Click!ができたことにより、「目白」Click!の概念が小石川町(現・文京区)の目白(目白不動のあった関口や目白台の地域)から、大きく西へズレはじめていたのが判然としている。また、巣鴨町が高田町といっしょになることに抵抗感がないのは、高田町内に巣鴨町の代地がいくつか点在していたからだろう。さらに、西巣鴨町は池袋町といっしょになって「池袋区」を主張している。
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 「目白区」と「巣鴨区」「池袋区」が三つ巴になって争ったが、いずれの名称にも決まらずに旧・郡名でもあり、豊島氏の故事にちなむ無難な「豊島区」に決定したのは、区名に関する町同士の争いや遺恨を、後世に残さないようにするためだったのだろう。誰かが再び、「斬ってやる!」などと刀を急いで研磨Click!にかけることのないように…。

◆写真上:目白通りに面し、1932年(昭和7)まで存在した高田町役場跡の現状。
◆写真中上は、1932年(昭和7)5月10日の高田町議会で中央奥に立っているのが高田町最後の町長・海老澤了之介。は、晩年の海老澤了之介()と早大哲学科時代に同窓だった石橋湛山(右)。は、昭和初期に撮影された改修工事前の弦巻川(鶴巻川)。
◆写真中下は、昭和初期の大恐慌で増えつづける失業者対策も兼ねた弦巻川の暗渠化工事。は、人が立って歩けるほど巨大な弦巻川の暗渠トンネル。は、戦後の1954年(昭和29)に撮影された弦巻川湧水源の丸池(成蹊池)。
◆写真下は、根津山道(現・グリーン大通り)の開設記念写真。左から2人めが、高田町に3,000坪以上の土地を寄附した根津山の所有者・根津嘉一郎で、4人目が町長の海老澤了之介。は、1931年(昭和6)からスタートした根津山の下水道工事。は、同年から行われ1933年(昭和8)までに竣工した旧・神田上水の改修工事。左側に写る火の見のような櫓状の構造物は、江戸友禅・小紋や藍染めなど染め物の干し場。

記事中にも「男の約束」が登場していますが、別に「男」に限らず女性でも約束をたがえられたら怒るでしょう。『さよなら・今日は』のDVD化を願って、今回の“予告編”は1974年(昭和49)1月12日(土)に放映された第15回「男の約束」です。いつもは新聞記者か刑事役が多い鈴木瑞穂が、めずらしく下落合の地主役で登場しています。加東大介の演技も懐かしいですが、すでに前年から出演していた山田五十鈴が、第15回から準レギュラーとして毎回登場するようになります。
 「父親の作品を処分」とか跡地にマンション建設とか、やたら下落合ではリアルな台詞が多いのも印象的です。w この回、一作(原田芳雄)は仙台へ子供の母親探しで旅行中、冬子(大原麗子)は正月に信州へ帰省しているためアトリエには不在で、「鉄の馬」を切り盛りしているのは緑(中野良子)ということになっています。「下落合の高台に君臨する仁王様」の日記が、緑によって書かれるのもこの回でした。いつも下痢気味で、あわててトイレへ駆けこもうとする高橋清(緒形拳)の情けない表情からスタートします。
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Part08
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