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目白・落合地域よりもすごい目黒駅東。(上) [気になるエトセトラ]

森ヶ崎古墳01.JPG
 『伽羅仙台萩(めいぼくせんだいはぎ)』にちなむ目黒鬼子母神Click!へ立ち寄りがてら、江戸期には下目黒村と中目黒村の入会地(字大塚とその周辺域)にかつてあった、大塚山古墳について調べながら現地を歩いているとき、目黒駅周辺の空中写真を年代を追って眺めていた。そして、目黒駅の東側にハッキリと刻印されたフォルムに、期せずして思わず目が釘づけになった。
 多くの方はご存じだと思うが、JR山手線の目黒駅は目黒地域(上・中・下目黒村)にはなく、目黒エリアから追いだされ上大崎村の山の中に建設されている。だから、目黒駅とその周辺は中目黒村でも下目黒村でもなく、歴史的には上大崎村の村域ということになる。目黒駅の東側一帯は、上大崎村に囲まれるように播磨の森伊豆守(1万5千石)の上屋敷が建っていたエリアだ。
 このような大江戸Click!の郊外に、下屋敷(隠居屋敷)ではなく、上屋敷の敷地が与えられている大名は非常にめずらしい。千代田城Click!へ登城するには、大手門まで直線距離でさえ8km(道筋を通ったら10kmほど)もあるので、季節にもよるが未明の2~3時起きだったろう。ほとんど幕府によるイヤガラセとしか思えないが、森家は織田信長の家臣だった森蘭丸がいた家系だ。ちなみに、江戸後期には織田家(織田安芸守)の上屋敷も近くにあり、しかも森家の屋敷よりもかなり小さな敷地を与えられている。
 さて、目黒駅の東側に巨大な鍵穴状のフォルム(前方後円墳の形状)を見つけたのは、1936年(昭和11)の空中写真だった。ちょっとケタ外れの大きさなので、最初は目を疑ったのだが、自然にこのようなかたちが形成されるとは考えられず、明らかに人工の構造物の痕跡である可能性が濃厚だ。このような巨大なサークル痕(直径規模)は、かつて上落合地域でとらえられたサークルClick!に匹敵すると思われるのだが、上落合ケースでは一端(東側)の途切れたサークル痕が残るのみで、すでに全体のフォルムは確認できなかった。(田畑の開墾で前方部が完全に消滅したのだろう) だが、上大崎のかたちは、本来のフォルムがくっきりと昭和初期まで刻印されて残っているケースだ。
 実際に現地を歩いてみると、すでに墳丘はほとんど存在せず、逆にえぐられてV字型の谷状地形になった部分(墳丘東側)さえあった。特に前方部は、その痕跡がほとんどわからず、ただ坂下(丘麓)に向かって低い土地がつづいているだけのように見える。現在では、そこがひな壇状に開発され、なだらかな坂道とともに住宅街が拡がっているだけだ。また、墳丘の西側は森伊豆守の上屋敷があったあたりを中心に高くなっており、さらに、昭和初期に開発されたとみられる青木邸や花房邸の屋敷と、戦前から開発されていたとみられる「花房家分譲地」の高台となっており、後円部と前方部の墳丘がほとんど存在しなくなっていた。
御府内場末沿革圖書(享保10).jpg
尾張屋切絵図1854.jpg
森ヶ崎古墳1936.jpg
 現場を歩いてみて、少なからず確信が揺らぎかけたのだけれど、この土地に重ねられた事蹟を江戸期までさかのぼってみると、地形を変えてしまうほどの大規模な土木工事が、連続して行われている斜面だったことが見えてきたのだ。まず、江戸前期の1660年代(寛文年間)に、玉川上水Click!から延々と引いてきた「三田上水」が開発されている。三田上水は、墳丘北側の丘上(現・目黒通りあたり)を東西に横切るように掘削されている。やがて、1720年代(享保年間)に三田上水が廃止されると、耕作地の灌漑用水を目的に「三田用水」として転用されるが、のちに墳丘の東側に通う道筋へ沿うように、南向き斜面へ三田用水の分水が掘削され、丘下に拡がる上大崎村の田畑をうるおしている。
 このとき、三田用水分水の運用管理(土砂崩れや土砂の流出防止など)のために、前方部の南東側が大きく削られ斜面の傾斜角(鋭角斜面から鈍角斜面へ)が大きく変えられている可能性がある。さらに、三田用水の分水では水量が足りなかったのか、江戸中期になると墳丘の東北側にあった、久保(ku-ho)Click!の名がつけられている湧水源「鳥久保」からの流水を引き、前方部の南側に大きな溜池が設置されている。このときもまた、前方部の土砂がさらに崩されてV字型の谷状にされ、水流がスムーズに下るよう溜池の掘削とともに、地形が改造されている可能性がきわめて高い。
 同時に、江戸時代(中期か?)に森家の上屋敷が建設されるにともない、敷地を整地化する必要が生じている。森家の屋敷地は、後円部の西側にかかるような位置に設定されているので、もし大きな墳丘が残っていたとしたら、それらの土砂を取り除く必要があっただろう。また、前方後円墳のフォルム全体は、森家の「抱屋敷」敷地内にほぼ含まれているので、なんらかの土木工事が行われ、邪魔な墳丘が全的に崩された可能性もある。
 大規模な土木工事は、明治期になってもつづく。1885年(明治18)になると、日本鉄道が品川・赤羽線(現・山手線)を敷設し、上大崎村の丘を切り通し状にして目黒停車場が設置される。このとき、前方部西側の土砂が大量に削りとられているようだ。理由は、鉄道の敷設工事で深く掘削が必要だったのと、三田用水の掘削・通水ケースと同様に目黒停車場や軌道(線路)への土砂崩れ、あるいは土砂の流出を防止するために、崖地を大きく削り傾斜角をゆるめる必要があったとみられる。こうして、巨大な古墳の前方部は東西から削られ、まるで矢じりのような逆三角形になってしまった、1887年(明治20)に作成された地形図では、この岬状になってしまった地形に森家の上屋敷にちなんだ、「森ヶ崎」という地名が採取されている。
森ヶ崎古墳1936 撮影ポイント.jpg
森ヶ崎古墳02.JPG 森ヶ崎古墳03.JPG
森ヶ崎古墳04.JPG 森ヶ崎古墳05.JPG
森ヶ崎古墳06.JPG 森ヶ崎古墳07.JPG
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 ところが、大規模な土木工事はこれで終わりではなかった。目黒駅前に拡がる地形の大改造は、これからが“本番”だったのだ。昭和期に入ると、森家上屋敷のあった位置には森ヶ崎下大崎郵便局や東京市電車庫が建設された。そして、そのさらに南側には大きな青木邸と花房邸が建設されている。この大きな両邸を建てるために、森ヶ崎の土砂つまり前方後円墳の土砂を丸ごと、山手線の線路際の斜面まで移動して、線路側へと下る傾斜を埋めてしまったのだ。岬状に大きく南へ突き出していた森ヶ崎が、あたかも西へそっくりそのまま100m以上も移動してしまったように見える。しかも、南斜面に築造されていた古墳の土砂ばかりでなく、その下部の土砂まで深く掘削し、花房邸の南南東側へ新たな台地を人工的に築き、「花房家分譲地」として昭和初期に売り出したのだ。
 この昭和初期に行われた地形の大改造で、上大崎村にあった巨大な前方後円墳の痕跡は、ほぼ完全に消滅した。現在、目黒駅やその南側の線路際ぎりぎりまで、切り立つようにコンクリートの擁壁が迫っているけれど、大屋敷だった青木邸と花房邸、そして線路際まで迫る花房家分譲地が開発できたのは、コンクリートによる強固な擁壁技術が発達したおかげだろう。換言すれば、目黒駅と線路に沿ってその南につづく東側のコンクリート擁壁の中身は、巨大な前方後円墳の墳丘土砂で形成されている……ということになる。
 この鍵穴フォルムをした地形、すなわち前方後円墳とみられる形状は、前方部が真南の斜面から谷間を向いて築造されている。ほぼ目黒通りに接するほどの位置から墳丘がまっすぐ南へ向かい、江戸期に付近の農民によって掘削された溜池のある「字池谷」の北側までの墳長は、約400mほどはありそうだ。周濠が掘られていたとすれば、山手線の目黒駅や線路(の上の敷地)を飲みこんで、さらに壮大な墳形をしていただろう。ちなみに、名前がないとこれからの記述に困るので、この前方後円墳とみられるケタちがいの大きなフォルムを、仮に「森ヶ崎古墳(仮)」と呼ぶことにする。
 400mクラスの前方後円墳は、東日本ではいまだ未発見(未確認)であり、全国でも大阪府にしか存在が規定されていない。墳長の規模からいうと、森ヶ崎古墳(仮)は大阪府の誉田山古墳(俗に応神陵)Click!に近いだろうか。しかも、前方部が多摩川沿いに展開する多摩川台古墳群の宝莱山古墳Click!や、平川(現・神田川)斜面の成子天神山古墳(仮)Click!などと同様に、三味線のバチ型のような形状に近く、古墳時代でもかなり早期のころではないかと想定できるのだ。明らかに、南武蔵勢力を代表する「大王」クラスの墳墓のひとつだろう。もっとも、南関東では稀有のサイズだが、北関東の上毛野・下毛野地域(現・群馬/栃木両県)では、同サイズの古墳が新たに発見されるかもしれないが……。
森ヶ崎古墳1881.jpg
森ヶ崎古墳1887.jpg
森ヶ崎古墳1940.jpg
 さて、森ヶ崎古墳(仮)の東側には、古墳の墳形に沿って拓かれた江戸期からの道路が、現在もほぼそのままのかたちで残っている。実際に現場を歩いてみて、そのあまりにもケタちがいのサイズに改めて驚いてしまったのだが、驚きはそれだけにとどまらなかった。明治の最初期に作成された、より古い1881年(明治14)作成の陸軍参謀本部の地形図(通称・フランス式彩色地図)を参照していたとき、森ヶ崎古墳(仮)の東約500mのところに、もうひとつの人工物とみられる巨大な構造物の痕跡を見つけてしまったからだ。
                                  <つづく>
  
 最後にちょっと長い余談だけれど、昨年(2016年)12月29日の新聞やニュースで、稲荷山古墳の「金錯銘鉄剣」が同古墳の主墳(粘土槨)ではなく、陪墳(礫槨)から発見されている……という(公然とした)報道がようやくなされた。(X線による粘土槨=主墳での玄室確認のため) 稲荷山古墳そのものの地質からではなく、陪墳の礫槨から鉄剣が発見されたという事実は、当初から、偏見がなく科学的な事実を尊重するマジメで真摯な古代史学者や地質学者、考古学者たち、そして地元にある記念館の学芸員までが指摘していたにも関わらず、「皇国史観」の御用学者たちが寄ってたかって、あたかも稲荷山古墳の主墳から発見されたかのようにスリカエ、日本史の教科書にさえあたかも「稲荷山古墳(の主墳)から発見された」かのような表現で記載されるまでになっていた。こうやって、教育やマスメディアの動員により、戦前からつづく「皇国史観」が刷りこまれていくのだろう。
稲荷山古墳.jpg
 通常の論理的な思考回路の持ち主なら、陪墳から出土した鉄剣の持ち主が仕えた「主人」とは、当然のことながら稲荷山古墳(主墳)の被葬者(大王)だと想定するのが一義的な研究姿勢であり、場ちがいな近畿地方の「大王」と結びつけるのがそもそも不自然なのだ。まるで、なんでもかんでも「将軍様」の事蹟にする北朝鮮の「将軍様史観」のような稚拙さでありお粗末さだと、歴史学者でなくとも素人のわたしでさえ思う。
 鉄剣の文字も、どうしても「ワカタケル?=雄略天皇??」とは読めないと、多くの漢語学者や国文学者が、文字の発見当初から指摘していたはずだ。しかも、本拠地があったとされる王宮名「斯鬼宮(しきのみや)」については、稲荷山古墳の北東20kmに「磯城宮(しきのみや)」そのものの同音地があり、さらに同古墳周辺の北武蔵勢力エリアに散在する「しき」(志木など)の“音”地名をいっさい無視して、稲荷山古墳から400km近くも離れた近畿のワカタケル?(雄略?)の嫁さんの実家(なぜ妻の実家が“宮”なのだ?)などと、まったくわけのわからない設定をして、マジメで学術的な学者たちから失笑をかっていたにもかかわらず、まったく懲りていない。
 南武蔵勢力や上・下毛野勢力と対峙していた、北武蔵勢力の「大王」かもしれない「獲加多支鹵(ヱカタシロ?)」(この漢字の解釈にさえ呉音・漢音など当初から諸説ある)に仕えた陪墳の被葬者の「主人」は、まちがいなく稲荷山古墳に眠る主墳の被葬者だろう。歴史は都合の悪いことを消して「なかったこと」「見なかったこと」にすることではなく、事実や科学的な成果を丹念に掘り起こして積み重ね、真摯に分析・調査・検討・記録しつづけることだ。人文・自然・社会を問わず諸科学的な成果が出るたびに後退し、限りなく崩壊を繰り返す「皇国史観」とは、いったいなんなのだろうか?


◆写真上:森ヶ崎古墳(仮)の後円部上部を、東西に横断する道路の現状。
◆写真中上は、幕末の「御府内場末往還其外沿革図書」にみる享保年間の森伊豆守上屋敷とその周辺。は、1854年(嘉永7)に作成された尾張屋清七版の切絵図「目黒白金図」。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる森ヶ崎古墳(仮)のフォルム。
◆写真中下は、上掲の空中写真に現状の撮影ポイントを記載したもの。は、現状の森ヶ崎古墳(仮)跡。が前方部と後円部のくびれの部分で、が三味線のバチ型に反り返る道筋、のトラックが停まっているあたりが前方部の先端あたり。
◆写真下は、1881年(明治14)作成の地形図にみる森ヶ崎一帯。は、1887年(明治20)作成の地形図にみる同所。は、森ヶ崎の土砂が西へ移動してしまったあとの1940年(昭和15)前後とみられる様で、地形の大改造が行われたのが瞭然としている。


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江戸の屋敷や商家跡から出土するもの。 [気になるエトセトラ]

四谷三栄町1.JPG
 近ごろ東京のあちこちで、江戸期に建てられていた屋敷や商家の遺構の発掘調査を耳にする。数年前に新宿歴史博物館Click!の近く、三栄公園で埋蔵文化財の発掘調査が行われているのを目にした。江戸時代は北伊賀町にかかるエリアなので、なにか商家の遺構でも発見されただろうか。
 同博物館が建設される以前、江戸期には伊賀の組屋敷が建っていた敷地あたりから、大量の獣骨が出土している。幕府の御家人である伊賀組屋敷や扶持が多めな屋敷は、その一部が町域となっていて町人たちも隣接して住んでいたようだ。ひょっとすると、組屋敷の敷地の一部をナイショで町人に貸与し(幕府により敷地の賃貸は原則的に禁止)、管理する差配を置いていたものかもしれない。発見された獣骨は、判明しているだけでもイノシシ(最少個体数97頭)、ニホンジカ(同32.71頭)、ニホンカモシカ(同7.11頭)、ツキノワグマ(同3頭)、ニホンオオカミClick!(同3頭)などだった。発見された限りの骨は完全骨格のものは少なく、身体の一部の骨が多かったという。狭い敷地でこれだけの獣骨が発見されるということは、さらに多くの獣肉が集積していた可能性が高い。
 つまり、1頭の動物をいくつかの部位に解体したあと、江戸にめぐらされた専門の物流ルートを通じて肉が町場へ配送されていた……と考えるのが自然だろうか。その個体数の多さから、武家屋敷が多い乃手Click!のエリアだった四谷三栄町にも、(城)下町と同様にももんじ屋Click!(肉料理屋)が開店していたと想定することができる。中でも、牛肉より美味だとされるアオジシ(ニホンカモシカ)や、非常に美味しいニホンジカの肉は人気があったと思われ、シシすき(焼き)や江戸風シシ鍋(いわゆるボタン鍋とは別物で牛鍋に近い)と同様に好まれていたのではないだろうか。この獣類や鳥類(日本橋ではカモなど)の“すき焼き”料理Click!や鍋料理をひな型に、明治以降になると肉の素材にウシが加わり、東京には濃い“したじ”(醤油の江戸東京方言)ベースで甘辛の牛すき焼きや牛鍋Click!が誕生することになる。
 さて、江戸時代の発掘現場からは、思いもよらない遺物が出土することがある。幕府の大旗本(時代により譜代大名)だった柳生家の菩提寺・広徳寺の墓所から、ツゲの木で精巧につくられた入れ歯(全部床義歯)が出土している。柳生宗冬が使用したとされているけれど、厳密に規定できるかどうかは知らない。現在のおカネに換算すると、制作には2,000万円ほどの経費が必要だったようだ。以前、下落合の第二文化村Click!に住んだ歯科医学のパイオニアであり、東京医科歯科大学Click!の創立者・島峰徹Click!のことを書いたとき、江戸期の専門職だった「入歯師」Click!について触れたことがある。
 精巧な木製入れ歯は、現在でも制作するのは困難で、自在に木彫ができる彫刻の巧妙な技術をマスターした専門家でないとできないようだ。浅草の阿部川町(現・元浅草界隈)に住んだ仏師(仏像の彫刻師)が、柳生家の墓所出土の入れ歯を再現した記録が残っている。某大学教授からの依頼で、どうやら大もとは宮内庁を通じて興味をもった昭和天皇からのオーダーだったようだ。
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 1991年(平成3)出版の『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』7巻(台東区芸術・歴史協会)所収の、大川幸太郎「江戸っ子阿部川町九代目」から引用しよう。
  
 私もこないだ、ツゲで作ったんですけど大変ですよ、型をはめてやるんでなく、木で彫って口の中へ入れて、さわるとこを削って、口の中へ入れたり出したり、相当長い間かかるんでしょうからね。仏師の手間が一日いくらで来るんでしょうから。全部仏師がやったもんです。仏師でなければ、そういう細かい仕事はできないんですよ。/普通の彫刻師は、下へ置いて彫るんです。仏師は手で持って彫るんです。入れ歯は立体ですから手で持って彫れる仏師でなければ出来ないわけなんですね。/広徳寺の現物、今うちに来てます。すごい貴重品だから気をつけて下さいって、大学の先生が持って来たんですけどね、この歯のところは象牙です。今世界中で日本の入れ歯を随分外人の歯科医が研究に来るらしいですよ。
  
 腔内の微妙なカーブや、口当たりを細かく絶妙に調整できる高い技術力がないと、とても木製の入歯師はつとまらなかった様子がうかがえる。現代では、その技術を継承しているのは、木彫の仏師しかいないようだ。もっとも、手先が非常に器用な彫刻家(陽咸二Click!レベルかな?)なら、なんとかつくることができるかもしれない。
 大川幸太郎という人は、8歳になった小学生のときから仏像彫刻を修行しはじめ、22~23歳になった兵役後の年季明けで独立している。この文章を書いたときは、すでに50年以上のキャリアがある仏師だった。柳生家の墓から出土した入れ歯は、ツゲ木の歯茎に象牙の歯でつくられたものだったが、そのほかにも歯の部分がコクタンで仕上げられた入れ歯も出土している。日本でもっとも古い入れ歯は、室町時代の遺構から出土した450年前のものだそうだが、女性が使っていたらしい。
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 それほど大昔から、歯周病による歯抜けに悩んだある程度の身上のある人々は、彫りが巧みな専門家(おもに仏師)に依頼して入れ歯を制作していたようだ。もっとも、江戸初期の柳生家とそのつながりが強い伊賀家などでは、“草”(忍び=諜報員)の仕事がら永久歯が生えると抜歯してしまい、総入れ歯にしてしまったという伝承が残っている。もちろん、情報収集を行なうためにどこかへ潜入する際、怪しまれないよう人相風体を変える必要があったからだ。江戸期に“草”を職業にしていた人々の墓所を発掘すると、数多くの入れ歯が見つかるのかもしれない。
 入れ歯が特殊な階級や、一部のおカネ持ちだけでなく、一般の町民にまで浸透してきたのは江戸後期になってからのことだ。ほとんど木製のものが多かったのだろうが、専門の技工を身につけた入歯師が街中に看板をかかげることになる。木製の歯茎にコクタンの歯を嵌めこんだ、女性専用の鉄漿(歯黒)いらずの入れ歯も多くつくられている。
 さて、阿部川町で仏師をしていた大川幸太郎という人は、戦前から川柳(せんりゅう)の句会も催していた。江戸期に町名主だった柄谷川柳(八右衛門)が、龍宝寺の門前町とみられる阿部川町に住んでいたことから、それにちなんで川柳をはじめたらしい。ところが、戦時中に「反戦川柳」を詠んで殺された、鶴彬(つるあきら)という人物(同句会のメンバーだったのかもしれない)の証言を残している。以下、同書から再び引用してみよう。
  
 戦争中に反戦川柳を作りましてね、それで殺されちゃった人がいるんですよね。最初は戦争反対ということでもって警視庁へひっぱっていかれて、散散ひっぱたかれて、幾日か留められて釈放されるんですね。帰されるとまた発表して捕まる。それを繰り返してるうちに、特高が怒っちゃって赤痢にしちゃって病死にしちゃうんですね。/拷問したりすると問題になるから、たまたまそういう病気に運悪くなったというふうにするために菌食わしちゃったんですね。その人の川柳は本当にすごいです。/落語家などが変な川柳をやるので川柳はふざけたもんだと思ってる人が多いんでね、機会ある毎にその話をするんですけどね。/手と足を もいだ丸太にして返し(中略)/帰されたって、ただものを食って、脱糞してるだけで、ただ生きている丸太ん棒ですからね、戦争ってのはこういうもんだって事ですよね。
  
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 ここで書かれている「赤痢菌」が事実だとすれば、特高Click!はどこから入手したものだろうか。以前こちらの記事にも登場しているけれど、戸山ヶ原に設置された陸軍兵務局分室Click!(のち陸軍中野学校Click!)の福本少佐が、もともとは憲兵隊特高課の課長であり、警視庁の特高課とは非常に近しい関係にあったらしいことを書いた。警視庁特高課の幹部が、陸軍兵務局分室への就業(特務要員として)を推薦しているらしい形跡さえうかがわれるのだ。陸軍兵務局分室は、もちろん諜報員(スパイ)養成のために、同じ戸山ヶ原に建設されていた陸軍科学研究所Click!防疫・細菌研究室(731部隊拠点)Click!とはツーカーの仲だったことが、さまざまな証言からうかがえる。

◆写真上:江戸期の遺構がふんだんに眠る、四谷界隈でかいま見られた関東ローム。
◆写真中上は、三栄公園の埋蔵文化財発掘調査。は、1850年(嘉永3)の尾張屋清七版江戸切絵図「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」にみる三栄公園の北伊賀町あたり。は、大量の獣骨が発見された三栄町遺跡の上に建つ新宿歴史博物館。
◆写真中下は、四谷三栄町遺跡から出土したイノシシやアオジシ(ニホンカモシカ)、ニホンジカなどの多種多様な獣骨。は、四谷荒木町の「策(むち)の池」へと下る旧・松平摂津守Click!の上屋敷内だった敷地へ明治以降に設置された坂道。
◆写真下は、広徳寺の柳生家墓所から出土した寛永年間(1624~1645年)につくられたとみられるツゲ+象牙の入れ歯。は、1864年(元治元)に制作された国芳『きたいな名医難病治療』の部分。歯科医の膝元には、いくつかの入れ歯が置かれている。は、1861年(文久元年)の尾張屋清七版江戸切絵図「浅草絵図」にみる龍宝寺と阿部川町。
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ほとんど人が歩いていない鎌倉。 [気になるエトセトラ]

鎌倉長寿寺(現代).JPG
 わたしが子どものころ、親に連れられてバスに乗りユーホー道路(遊歩道路)Click!=国道134号線をそのまま東へたどって鎌倉で降りると、ほとんど人に出会わなかったのを憶えている。もちろん、鶴ヶ岡八幡宮や高徳院の大仏、円覚寺などの観光スポットには、それなりに修学旅行の学生や生徒たちが50~100人とかたまっていたのだが、ちょっと脇道にそれると人の姿を見ることはめったになかった。ほぼ隔週おきに鎌倉へ遊びに出かけたのは、北鎌倉に母親の親戚が住んでいたせいもあっただろう。北鎌倉は、鎌倉に輪をかけたように“無人”のような風情だった。
 たまに家の庭先で焚き火などをしている人に出会うと、今日でいう“街歩き”のようなわたしたちの姿を見て、「あなたがた、こんなところでなにしてるの?」というように、怪訝な表情で見られたものだ。ユーホー道路Click!や若宮大路、鎌倉駅前、大仏へと向かう長谷の通りなどはかろうじてアスファルトが敷かれていたけれど、ほとんどの道路は舗装もされておらず、小町通りは風が吹くと土埃が舞うような風情で、駅前なのに人の姿はあまりなかった。クルマもいたって少なく、たまに走り抜ける修学旅行の観光バスが目立っていた時代だ。
 それでも夏になると、多くの海水浴客がわたしの子どものころから横須賀線や小田急線で押しかけて、由比ヶ浜や材木座海岸、片瀬・江ノ島海岸(ちなみに江ノ島は藤沢市)、鎌倉水族館(のち閉館)などは芋の子を洗うような混雑ぶりだった。七里ヶ浜は、関東大震災Click!とそれにともなう津波Click!で海底の地形が大きく変わってしまい、一般客の遊泳が禁止されていたのを憶えている。この浜で見かけたのは、流行りはじめた波乗り(サーフィン)のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちか、釣り人Click!だけだった。
 だから夏の鎌倉というと、できるだけ海岸近くは避け、わたしたちは山側のハイキングコースをよく歩いていた。山々へ入りこむ谷(やつ)にはかなり奥まで田畑が拓かれていて、いまのような新興住宅地が谷奥まで開発される前の姿だった。そういうところでは、よくマムシやヤマカガシなど毒ヘビClick!に遭遇し、草が微妙に横ゆれするマムシはそっと避けて通るか、ヤマカガシは予想外のスピードで“追いかけて”くるので走って逃げた。わたしの高校時代ぐらいまで、鎌倉のマムシによる被害はあとを絶たず、市内のとある病院ではカーテンを閉めようとした看護婦が、中にくるまっていたマムシに気づかずに噛まれて亡くなったというニュースが流れたのを憶えている。
 鎌倉(海側)の混雑も夏の間だけで、秋冬春はもとの静かなたたずまい……というか、当時の資料に書かれた表現を借りるなら「さびれてうら寂しい」、誰もいない海や街並みにもどっていた。「有名な寺々もさびれて、朽ちそうなほどボロボロだったんだよ」とか、「春先の風が強い日の午後は、土埃がひどい小町通りには人っ子ひとりいなかったよ」とか、「国道134号線はクルマがあまり走らず、稲村ヶ崎から腰越までの散歩にはもってこいだったんだ」とか友人知人に話しても、「信じられない」という顔をされるのだが、やたら鎌倉に人が押し寄せるようになったのは1970年代の半ばあたりだろうか。確か極楽寺を舞台にした鎌田敏夫のドラマがヒットし、その少し前から「an・an」や「non-no」といった女性誌が、競うように“鎌倉特集”を組みはじめたころだ。
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鎌倉若宮大路(現代).JPG
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鎌倉杉本寺(現代).JPG
 東京でいうと、ちょうど原宿が繁華街化した時期と、鎌倉の混雑とが妙にシンクロしているような印象がある。原宿も、駅前からすぐに住宅街が拡がり、ときおり犬を散歩させる地元住民に出会うだけで、声高に話すのもはばかられるような静かな乃手Click!の街並みだった。外国人が多く住んでいたせいだろうか、帰国する彼ら相手のアナクロで妙ちくりんな日本土産の店や刀剣店が、ところどころに開店していたのを憶えている。この街が“ファッション化”したのも、1970年(昭和45)すぎであり、若い子たちの姿を多く見かけるようになったのも70年代の半ばなので、やはり「an・an」や「non-no」の“原宿特集”からだろうか。
 さて、わたしが子どものころの鎌倉の街並みについて、あちこちで懐かしそうに語るものだから、「きっと、こんな感じだったんでしょ?」と1冊の写真集をいただいた。1955年(昭和30)に朋文堂から出版されたツーリストガイドブックス1『鎌倉』だ。ご両親の書棚を整理していたら見つかったそうで、ページをめくると子どものころに眺めていた鎌倉の風景写真が大量に掲載されている。わたしが生まれる前に出版された本だが、「そうそう、まさにこの光景だったんだ!」と反応すると、「確かに人が、ほとんどまったくいないねえ」と納得してくれたようだ。
 若宮大路やユーホー道路はクルマの姿もめずらしく、人がポツンポツンと歩いている程度だった。フェンダーミラーのセドリックで、ほんとうに「ぶっ飛ばせた」時代だ。どこの寺々も、修繕費にこと欠くのかボロボロで、建長寺にいたってはいまにも茅葺きの屋根から倒壊しそうな風情だったのだ。鶴ヶ岡八幡宮はハトClick!ばかりが多く、人の姿があまり見えない。浄明寺ヶ谷(やつ)の杉本寺では、子どもたちが現在では立入禁止の風化して朽ちかけた石の階段(きざはし)で遊び、瑞泉寺では庭の樹木が小さく、建立された当初の庭園の姿をよく踏襲し、極楽寺Click!では子どもの木登りに最適なサルスベリClick!が、「ちょっと登ってみれば?」と囁いて誘惑している。w 江ノ島の展望台は古い姿をしていて、東京オリンピックでヨットハーバーが造成された東側の島影も、もとのままなのが懐かしい。ちょっと、同書の「プロローグ」の一部を引用してみよう。
  
 鎌倉は、単に旧蹟の地というだけではありません。静かな雰囲気、夏は涼しく冬は暖い温和な気候、海岸と松林に恵まれた新鮮な空気、東京・横浜に近接した便利の良さから保養地、別荘地として人々に愛され、とくに著名な文化人の移り住むものが多く、作家や音楽家、演劇・映画人など、「鎌倉文士」という言葉さえ一般化しているほどです。この点、鎌倉は古い歴史とともに、近代的な文化の雰囲気を常に呼吸している土地といえるでしょう。最後にまた、海水浴場であるということが、鎌倉の大きな魅力です。夏の訪れとともに、江ノ島をひかえたこの海岸は、俗に「海の銀座」と呼ばれるほどの賑わいを見せ、年中行事のカーニバルを中心に、鎌倉の人出は最高潮に達するのです。/これほど観光地としてのさまざまな要素を、一つの土地に併せもっているところも少いでしょう。
  
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 現代的な視点からいえば、この文章の中で「鎌倉」の地名を「大磯」に入れ替えれば、多くの点で記述が一致するだろう。「静かな雰囲気」が消えてしまった鎌倉ではなく、夏になると大磯へ出かけるのは、子どものころに体験した鎌倉の雰囲気を、どこかで味わいたいからなのかもしれない。
 観光客の誘致が目的のツーリストガイドブックス1『鎌倉』なので、盛んに歴史的な名所や散歩に適した場所を紹介しているのだが、同書が出版されてから10年以上たった1965年(昭和40)の時点でも、前年の東京オリンピックにより江ノ島のかたちは大きく変わったが、鎌倉はたいして変化のない風情を見せていた。同書の記述では、あちこちで「鎌倉時代当時の風情を味わい、その<よすが>を偲ぶことができる」というような表現が頻出するけれど、確かに中世で時間が止まってしまった感覚を味わうことができる街並みや山里が多かった。
 わが家には、1950~60年代の鎌倉と箱根、大山・丹沢Click!をとらえたアルバムがいちばん多いが、それだけ親がわたしを連れ歩いて遊びに出かけた“証拠”なのだろう。わたしの世代になってから、クローゼットの奥にしまいこまれたアルバム類は整理してないけれど、きっと懐かしい風景写真が横溢しているにちがいない。時間に余裕ができたら、探し出してきてエピソードとともにご紹介してみたい。
 わたしの記憶にあるなしにかかわらず(わたしが物心つく以前の、幼稚園時代から鎌倉へは通いつづけていた)、鎌倉のありとあらゆる地域を巡ったと思うのだが、唯一、連れて行ってくれなかった場所が飯島崎の先(沖)にある、鎌倉幕府Click!が築造した貿易湊(みなと)「和歌江島」だ。全国をめぐる幕府の交易船はもちろん、宋からの貿易船も来航していた可能性の高い湊だが、満潮時にはすぐに水没してしまうし、飯島崎で舟を雇わなければ渡れないので親たちは面倒を避けたのだろう。GoogleEarthで確認すると、干潮時に撮影されたのか、湊の築造跡をいまでもクッキリと確認することができる。
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 幼児のころから学生時代ぐらいまで、わたしは鎌倉をよく散歩していたが、以前は800年前の鎌倉時代を想像しながら、その面影や片鱗を求めてあちこちを歩いていたように思う。ところが、最近では鎌倉を歩くと、わたしが子どものころに歩いていた鎌倉の風景、つまり、1960年代の風情を思い出しながら歩いていることに気づく。幼いころに見た光景や風情にことさら哀惜を感じるのは、やはり年をとった証拠だろうか。

◆写真上:室町幕府を開いた、北関東は足利出自の鎌倉幕府御家人・足利尊氏の墓所である北鎌倉の長寿寺。足利尊氏の墓所から白旗社の源頼朝の墓、そして報国寺の足利一族代々の墓を結ぶと直線になる。また、尊氏と頼朝と寿福寺にある政子さんClick!の墓を結ぶと、鶴ヶ岡八幡宮を底辺の一画とした面白い直角三角形ができあがる。もうひとつの安養院にある政子さんの墓を起点にすると、なにが見えてくるだろうか?
◆写真中上は、ほとんどクルマも人もまばらな1955年(昭和30)ごろの若宮大路で、1960年(昭和35)すぎも相変わらず同じだった。右上に見えている岬は稲村ヶ崎。十王岩から鎌倉市街地を見下ろすと、若宮大路にはクルマが渋滞しているのが見え(下)、沖の島影は伊豆大島。は、子どもたちがよく遊んでいた杉本寺の風化した階段(きざはし)で、わたしも上下してよく遊んだ(上)が、現在は立入禁止になっている(下)。
◆写真中下は、茅葺きのままの覚園寺を百八やぐらClick!が密集した斜面から眺めたところ。奥の小谷(こやつ)・亀ヶ淵には、いまだ水田が拡がっているのが見える。は、茅葺きの屋根がボロボロでいまにも倒壊しそうな建長寺の山門(上)。さすがに茅葺き屋根はなくなった現代の建長寺で、沖の遠景は伊豆半島(下)。は、人っ子ひとりいない名越切通し近くの曼陀羅堂やぐらClick!で、奥に写っているのは10歳ぐらいのわたし。鎌倉時代の無数の死者が眠る五輪塔に囲まれて、とても楽しそうだ。w
◆写真下は、山門の龍眼が光るといわれる飯島崎の手前の光明寺。は、飯島崎の沖にある和歌江島(上)といまも残る鎌倉湊跡(GoogleEarthより)。は、東側に東京オリンピックのヨットハーバーができ島影が変わるほどの大改造が施される前の江ノ島。


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思想弾圧の象徴としての豊多摩刑務所。 [気になるエトセトラ]

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 後藤慶二Click!が設計し1915年(大正4)に竣工した豊多摩刑務所(中野刑務所)だが、唯一残されている表門の保存が揺れているらしい。野方小学校と沼袋小学校の統合をめぐり、新たな小学校の新校舎建設予定地として、表門を含む法務省矯正研修所の跡地を利用しようとする動きのようだ。また、道路整備の一環だというお話もうかがった。いずれにしても、戦前のあらゆる思想弾圧の代表的なモニュメントとして、豊多摩刑務所の表門と関連展示室はぜひ残してほしい。
 1932年(昭和7)に、壺井繁治Click!は特高に治安維持法違反の容疑で再び検挙され、6月になると豊多摩刑務所に送られている。豊多摩刑務所は、同年4月に釈放されたばかりだが、出所するのを待っての警察による嫌がらせ的な検挙だった。同時期に逮捕されたのはロシア帰りの蔵原惟人Click!をはじめ、寺島一夫、平田色衛、劇場同盟の村山知義Click!と生江健次、作家同盟の中条百合子Click!中野重治Click!たちだった。
 壺井繁治は再び収監されると、豊多摩刑務所の内部における拘禁の様子を細かく観察して、のちに記録を残している。1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚・壺井繁治自伝』から引用してみよう。
  
 刑務所へ収容されると、誰でも何か隠してはいないかと、昔の徴兵検査の時みたいにまず素っ裸にされる。さして未決の被告は青い着物を、既決囚は赤襦袢といわれる柿色の着物を着せられる。わたしも一旦素っ裸にされた上で、青い着物を着せられ、看守に連れられて指定の独房に入れられた。それは「西上」の二三号室であった。扉がガチャンと閉められ、鍵がかけられた時、これで自分は娑婆から完全に遮断されたという実感がきた。/二度目の入獄なので、自分としては割り合い落ち着いている積りだったが、それでもわたしはコンクリートの壁に取り囲まれた二畳余りの部屋を見廻し、落ち着きを取り戻すために暫くの間、檻の中の動物のように狭い部屋を歩き廻った。ふとある友達の顔を思い出したが、彼の顔はイメージとしてはっきりしているのに、その名前を度忘れしてしまった。別に今すぐ思い出す必要はないのだが、それを思い出せぬことがわたしを不安に陥とし入れた。「俺は神経衰弱になっているのかなあ?」と考えたが、そう考えれば考えるほど、どうしてもその友達の名前を思い出そうとする焦燥に駆られた。
  
 拘禁症にかかりそうな精神状態を励ましながら、できるだけ前向きな獄中生活を送ろうと努力している様子がわかる。壺井繁治は、あり余る時間ができたのでドイツ語講座のテキストと独語辞書、ハイネ全集の原書を差し入れてもらい、本格的なドイツ語の勉強をはじめている。
 壺井繁治が捕まってからも、日本プロレタリア文化連盟(コップ)に加盟する団体への弾圧はすさまじかった。同年5月には、築地小劇場で開催された日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の大会は、乱入した警察によって解散させられ、徳永直をはじめ池田寿夫、川口浩、橋本英吉、松井圭子らが検挙された。また、同年7月には労働運動家の岩田義道が、特高Click!の拷問によって虐殺されている。
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 翌1933年(昭和8)の2月下旬、刑務所の壺井繁治のもとへカーネーションとフリージアの鮮やかな花束が差し入れられた。差し入れ人は、小林多喜二Click!の母・小林セキの名義になっている。当初は素直に喜んだ壺井だが、すぐにおかしいことに気がついた。小林セキとは面識があるけれど、それほど親しい間がらではない、この花束にはなにかメッセージがこめられているのではないか?……と疑いだしたのだ。妻の壺井栄Click!は、ナルプで逮捕された拘留者たちの支援活動を盛んに行っており、この花束は妻が自分に差し入れたのではないかと、改めて不吉な思いにとらわれた。(佐多稲子の証言によれば、これらの花々は小林多喜二の葬儀で遺骸の前に供えられたものだった)
 ほどなく、面会人の呼び出しがあり壺井繁治が面会所で待っていると、ドアの向こうで妻の高い声が聞こえてきた。その様子を、同書より引用してみよう。
  
 「友達が死んだのですから、知らせるぐらいよいでしょう。」/「いや、いかん、絶対にいかん。それをいうのなら、面会は許さんぞ。」と看守と激しくいさかっている声が聞こえてきた。やがて話し合いがついたのか、いさかいの後の、まだ昂奮のさめきらぬ顔つきのままで、女房は、わたしの前にあらわれた。わたしの予感は当たったが、まだ誰が死んだのか分からず、不安で堪まらなかった。そのころ面会の際には、立ち会い看守がわたしたちの話の内容を筆記することになっていた。わたしたちが立ったまま向かい合って話す片言隻語を書き落とすまいと、看守はわたしたちを隔てる大きなテーブルの上にうつむいて、筆記に懸命だった。わたしたちはその看守を完全に見下ろせる姿勢にあったので、筆記に気を取られている看守は、わたしたちの動作に細かく眼を配る余裕などなかった。そのスキに乗じて女房から手帳の端に「コバヤシコロサレタ」という鉛筆の走り書きをチラッと見せられ、はじめて小林多喜二の死を知ったわけである。
  
 同じく、豊多摩刑務所に収監された村山知義Click!も、妻の村山籌子Click!からハンドバッグの裏に書かれた白墨の文字で「タキジ コロサレタ」を見せられ、小林多喜二の虐殺を知らされている。看守が机に向かい、うつむいて面会記録を筆記している間に、知らせたいことがらを書いた走り書きをチラッと見せるというやり方は、おそらく村山籌子や壺井栄を含む拘留者・収監者への支援グループの中であらかじめ相談された、共通の情報伝達法だったのだろう。
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 壺井繁治が保釈になり、上落合503番地の自宅に帰ったのは1934年(昭和9)5月のことだった。その直後、黒色青年連盟によるテロClick!以来、交渉を絶っていたアナーキスト岡本潤と実に10年ぶりに再会し、連れ立って牛込余丁町の金子光晴Click!を訪ねている。金子光晴は、サンボリックな言語を駆使して当局への抵抗をしめしつづけていた詩人だ。
 余丁町からの帰り道、壺井と岡本は戸山ヶ原Click!で一服しながら、空白の10年間を埋めるように話し合っている。そのときの様子は、翌1935年(昭和10)に岡本潤が発表した「途上」という詩にまとめている。詩の中で、「出て来てみたら」と語っているのが、保釈されたばかりの壺井繁治だろう。「途上」の一部を引用してみよう。
  
 冬がハガネの牙をかくし/一月にしてはめずらしく、陽炎でもうらうら燃えていそうな天気で、/戸山ヶ原の空はやわらかな風が流れ、/子供達に交って大人達も天下泰平に凧をうならしていた。/――四、五年ぶりかな。/――いや、もっとなるだろう。/――出て来てみたら何しろ世の中がひどく変ってるんでね。/湿り気のある枯草の傾斜に腰をおろし、/変らない十年前のボクトツそのものの口調をおれは熱い胸で聞いていた。/きわだって目につくのは、突き出た頬骨とぐりぐりの坊主頭。/――おれ、ずいぶん齢とったろう。/――おれはまだまだ青年のつもりだが……
  
 長い時の流れと、以前にも増して激しくなった当局の弾圧が、戸山ヶ原の草が生い茂るうららかな日なたの斜面で、かつてふたりが経験した思想的な対立を徐々に溶解していったようだ。岡本潤は、出獄したばかりでやつれ果てた昔日の同志の面貌に、少なからぬショックを受けていたのがわかる。
 そして、思想弾圧を強化しながら、ひたすら戦争への道を突き進む大日本帝国を相手に、再び起ち上がって前に進む決意をし「冬が牙をむくジグザグの時を思いながら……」と、詩は唐突に終わっている。
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 1935年(昭和10)以前は共産主義者や社会主義者、アナーキストたちが豊多摩刑務所に収監されたが、太平洋戦争が近づくにつれ民主主義者や自由主義者、リベラリスト、そして左右を問わず“大政翼賛”と“軍国主義”に逆らう、ありとあらゆる思想・宗教弾圧の象徴的な拘禁装置として、豊多摩刑務所は機能していくことになる。二度とこのような時代を日本に招来しないためにも、同刑務所の表門は「暗黒時代」の象徴として、そして破産・滅亡した大日本帝国の「亡国思想」の権化として、永久に記念されるべきだろう。

◆写真上:豊多摩刑務所(中野刑務所)の、表門の内側に装備された鉄門扉。
◆写真中上は、豊多摩刑務所の表門。は、同門の頑丈な表扉。は、1948年(昭和23)に米軍によって撮影された空中写真にみる豊多摩刑務所。
◆写真中下は、1965年(昭和40)の解体直前に撮影された豊多摩刑務所の全景および表門(手前)と庁舎(奥)。は、独房が並ぶ所内南西側の十字舎房()と独房の内部()。は、独房の高窓()と塀に沿って設置された監視所()。
◆写真下は、1968年(昭和43)に新潮社から出版された『日本詩人全集』25巻の挿画。壺井繁治や中野重治を含む詩集で、岡本潤の「冬が牙をむくジグザグの時」を想起させる。は、豊多摩刑務所表門の意匠。は、1953年(昭和28)に鷺宮2丁目786番地の壺井邸で撮影された壺井繁治(中央)と壺井栄(左)。
相変わらずRSSがエラーのままで、更新を「取得できません」状態がつづいている。どのサイトが更新されているのか不明というのは不便なので、早く復旧してほしい。


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最後に小泉清と会った画家。 [気になるエトセトラ]

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 小泉清Click!は、1962年(昭和37)2月21日の夜、中野区鷺宮3丁目1197番地のアトリエClick!でガス自殺をとげた。同じく、鷺宮にアトリエをかまえていた峰村リツ子Click!は翌2月22日、前日に小泉清からもらったチケットを手にして、上野の美術館へ出かけている。展覧会場へ着くと、知り合いから小泉清が死んだことを聞かされた。
 にわかには信じられず、「昨日会ったばかりよ」というと自殺したことを知らされた。峰村リツ子は、そのまま美術館を飛びだすと鷺宮へ駆けもどっている。そして、ベッドの上に横たわる小泉清の額に手を当てて、その冷たさにようやく彼の死を実感として受けとめた。
 峰村リツ子のアトリエは、周辺に住む画家たちが4~5人ほど定期的に集まり、モデルを雇ってクロッキーを行う“研究室”になっていた。峰村が誘うと、モデルを呼ぶカネのない小泉清は必ず顔を出したようだ。絵を売らない小泉清は、シズ夫人が経営するビリヤード場の収入だけで食べていた。峰村アトリエでは、小泉はクロッキーを行うのではなく油絵や水彩、ガラス絵などの画道具を運んできては、ウィスキーをチビチビ飲みながら描いていた。「絵を描くときはこれが一番です。とくに、はだかを描く時はこれに限ります」と、小泉清は手にしたポケットウィスキーを彼女に見せた。
 小泉清アトリエのモノクロ写真が何枚か残されているが、それを見ていると妙な感じがする。画家のアトリエには不可欠な、フロア据え置き用の大きなイーゼルが見あたらないのだ。壁や窓辺には、大小さまざまなキャンバスが立てかけられているけれど、通常画家のアトリエを撮影すると必ず画角に入る大型のイーゼルが見えない。峰村リツ子は、シズ夫人が死去した直後、小泉清が峰村アトリエで絵を描く様子を記録している。1971年(昭和46)に時の美術社より発行された、『美術グラフ』2月号から引用してみよう。
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 それはすさまじい絵の描きようだった。キャンバスを床の上において、絵の具をつけた筆を「こん畜生!」とつぶやきながら恐ろしい勢いでぶっつける。やがて大きな目玉をむきだしにした、少し不気味な裸婦の絵ができあがる。小泉さんの絵は、たいてい浮き彫りのように、絵の具を凸凹に盛り上げ、長い時間をかけるのだが、時には墨象のように描きあげるのだ。/いつでも私のところで描くときには、絵の具が乾くまで置いて、四、五日後にとりに来る。ある時、絵をとりにこられて、そして自分の絵をみながら、「この絵は、里見には似ていないでしょ?」と言われた。突然だったので、私は返事ができなかった。それよりも、びっくりしたのだ。小泉さんが、そのことをそんなに気にしていたことに。
  
 小泉清の画面は、里見勝蔵のそれとはまったく似ていない。わたしは、小泉清の画面には惹かれるが、里見勝蔵の作品で惹かれるものには、いまだ出合っていない。ゴテゴテと絵の具を塗り重ね、これでもかというくらい厚く塗りたくっているにもかかわらず、小泉清の絵からはサッパリとした、澄んだ透明感さえ感じるのはどうしてだろうと、いつも不思議に思うのだ。
 1962年(昭和37)2月21日の午後、峰村リツ子は石膏デッサンをやりたいといい出した娘を連れて、鷺ノ宮駅前の小泉アトリエに向かっていた。すると、中杉通り沿いの鷺ノ宮駅前郵便局から出てくる小泉清を見かけ、急いで娘といっしょにあとを追いかけた。途中で捕まえることができず、小泉アトリエの玄関までいくと、「外出するからるすにします」と書いた紙がドアに貼ってあった。おそらく、いま郵便局からもどったばかりだろうと峰村リツ子がノックをすると、小泉清はビックリした顔でドアを開け、「どうぞ」とふたりを中へ入れた。上掲の『美術グラフ』から、再び引用してみよう。
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 私はすぐ帰るつもりだったが、しばらくおじゃまして用件を言った。小泉さんは棚の上にのっていた石こうを取り出してきて、「お茶もさしあげませんで」と言われた。そのそぶりが何となく落ち着きなく、そわそわしていられる感じだった。そして「あしたから息子夫婦がここにきます。峰村さん、よろしくたのみます」と言われる。私は「それはよろしいですね。これからは食事なんかも……」と言いかけたが、小泉さんはまるで聞いていられない様子だった。かたわらの煙草を一本口にくわえたまま、ぼんやりと火をつけるのも忘れていられる。私はマッチをすって、煙草に火をつけてあげた。/私は、多分お忙しいのだろうと、いとまをつげた。するとまた、「お茶もさしあげませんで」と言われるのである。玄関を出ると、小泉さんは石こうにはたきをかけながら、「この石こうはいい物なのですよ、たかいのです」と言われた。私が「ひと月ほどお借りしたいのです」と言うと、小泉さんは「お返しにならなくていいのです。僕はもうかきませんから、どうぞお持ちになっていいのです」とくり返された。そして、くもった冬の空を見上げながら「春ももうすぐですなあ」と、静かな口調で独言のように言われた。それが小泉さんの死の直前の出来ごとなのだった。その夜、小泉さんは亡くなられた。
  
 鷺ノ宮駅前郵便局から発送したのは、おそらく友人知人あてに別れを告げる遺書なのだろう。あすから「息子夫婦がここに」くるというのは、もちろん自分の通夜や葬式の席を意識してのことだ。郵便局を出て自宅もどり、玄関のドアに途中で邪魔が入らないよう「外出するからるすにします」の貼り紙をしたところで、小泉清は死へ向けたすべての準備が済んだことを意識しただろう。だから、その直後にドアをノックして峰岸リツ子と娘が現れたとき、ふいを襲われたように狼狽したのだ。
 峰岸リツ子へは、すでに2~3日前に最後の別れの挨拶を終えていたはずだった。小泉清はイチゴの箱を抱えて、ふいに峰岸アトリエを訪問している。なにか用事でもないかぎり、峰岸アトリエを訪ねることなどなかった小泉が急に現れたので、彼女は不思議な感覚をおぼえている。そして、季節にはまだ早い高価なイチゴを、ふたりはアトリエでゆっくり味わった。それが、小泉清にとっては彼女とすごす、最後の時間になるはずだった。
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 小泉清は、峰岸リツ子と娘の話を、つとめて耳に入れないようにしていたらしい様子がうかがえる。死への決心をかため、すべての準備が整ったとき、「明日」の話をしに訪れた母娘を、彼はわずらわしく感じただろう。小泉清は、3ヶ月前に死去したシズ夫人を思い、来し方をぼんやりふり返りながら、「これから」の話をしないよう思考を停止しているようにも見える。おそらく、このとき交わした会話と1本のタバコが、人とかかわった小泉清の最後の時間だったのだろう。

◆写真上:鷺ノ宮駅の踏み切りから眺めた、駅前郵便局のある中杉通り。
◆写真中上上左は、鷺宮にあるアトリエの峰村リツ子。上右は、1950年(昭和25)に制作された峰村リツ子『X氏像』。下左は、オーケストラでヴァイオリンを弾いていた京都時代の小泉清。下右は、晩年ごろアトリエで撮影された小泉清。
◆写真中下は、外房の海岸だろうか写生旅行で海辺の崖上に寝ころぶ小泉清。は、1956年(昭和31)に制作された小泉清『裸婦』。
◆写真下は、鷺ノ宮駅前(鷺宮3丁目1197番地)にあった小泉シズ夫人の経営によるビリヤード場。は、ビリヤード跡の現状。


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