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大川の近くにいちゃダメだという教訓。 [気になるエトセトラ]

本所回向院ネコ.jpg
 1945年(昭和20)3月10日深夜の東京大空襲Click!では、おもに大川(隅田川)の東側である向島・本所・深川一帯がB29による爆撃の目標とされ、あらかじめ意図的に避難経路を断ち無差別に東京市民の生命をねらう、徹底したジェノサイド(大量虐殺)攻撃が行われた。そのとき、本所側から両国橋をわたり、いち早く日本橋側へと避難した人々の中には「大川の近くにいちゃダメだ」という、1923年(大正12)9月1日の教訓が活かされていたケースが多々見られる。
 幅の広い河川沿いは障害物や遮蔽物が少なく、大火災による空気の急激な膨張で、大火流Click!火事竜巻Click!が起きて巻きこまれやすいという、関東大震災Click!の際に起きた事実を記憶し、教訓化していた人たちだ。ちなみに、大川の川幅は両国橋のところで約143m、大火流や火事竜巻で3万8,000人が亡くなった被服廠跡地Click!(現・震災復興記念館Click!一帯)では約125mほどある。わたしの東日本橋Click!にあった実家でも、もちろんその教訓はしっかり記憶されており、火災の方角と風向きを確認しながら大川(隅田川)とは反対方向へと逃げだした。日本橋人形町から日本橋川、東京駅、さらに山手方面へと逃れて、非常に幸運にも大空襲で命を落とした家族(親戚は除く)はいない。
 東京大空襲は、3月10日午前0時8分に第1弾が投下され、焼夷弾や250キロ爆弾、そして空襲の後半には低空飛行でガソリンが住宅街へじかにまき散らされ、2時間半後の午前2時37分に終わった。この間、本所区や深川区、浅草区、向島区の4区(現・台東区/江東区/墨田区)がほぼ全滅し、死者・行方不明者10万人以上、負傷者5万人以上、家を焼かれた罹災者100万人超という空前の犠牲者が出た。特に行方不明者に関しては、一家・姻戚全滅のケースや東京へ単身でやってきた独身者の場合は、親戚や友人など周囲の証言が残りにくく、実際の犠牲者数は1.2倍とも1.5倍ともいわれている。
 空襲がはじまるとともに、「大川の近くにいちゃダメだ」という生死を分けた逃避行の様子を、菊池正浩という方が書いた『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。この記録は、2015年(平成27)に日本地図センターが発行した、『1945・昭和20 米軍に撮影された日本』に収録されたものだ。著者は本所区千歳町、つまり両国橋の東詰めに住んでいて罹災している。そして、両国橋をわたりそのまままっすぐ西へ、できるだけ大川から離れるように避難しながら上野山をめざしている。
  
 祖父母の家は両国橋畔、隅田川沿いにあり、二階建てであった。ここまで辿り着く間の光景はあまり話したくない。これまでも人には話してこなかった。人口10万余人だったこの地が、翌日に確認できたのは僅か1千人ほどであったと知らされた。いかに凄まじい惨劇であったかがわかる。/防空頭巾と衣服が、周りの炎と火の粉で燃えだす。母は真綿入りの「ねんねこ」、私は半纏を着ていたので、布は焦げてもすぐには燃えないことがわかった。防空頭巾を被っていない女の人は、髪の毛が燃え出す。「熱いー助けてー」と叫びながら走っていく。気の毒だがどうすることもできない。コンクリート製か石なのか判らないが用水桶が家々の前にあった。火災に備えての水桶だが、その水を頭から被り濡らしてはまた走った。頭から被ってびしょびしょに濡らしても、すぐに炎の熱さで乾いてしまう。用水桶の中に身を沈め、難を逃れようとした人もいたらしいが、息継ぎのために顔を水面に出した途端、熱風と煙を吸い込み、気管を焼いて焼死したという。逃げる途中の家々では防空壕に避難したが穴の中に閉じ込められて、蒸し焼き状態になった人が多かった。両国橋まで逃げてきたが、すでに祖父母の家も風前の灯火だったので、そのまま両国橋を渡って難を免れた。
  
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本所回向院.JPG
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 菊池一家は、両国橋を西へわたると、そのまま両国広小路から靖国通り(大正通り)の大通りを進まず、右折して柳橋Click!から神田川をわたり、神田川と総武線にはさまれた道路を、できるだけ大川から離れるように真西へ向かっている。
 そして、万世橋から右折して旅籠町から末広町を駆け抜け、黒門町を通って湯島天神Click!の境内をめざした。ところが、本郷や湯島方面からの火の手が迫っていたので、湯島天神には寄らずに上野広小路の交差点を抜け、不忍池へとたどりつくと池沿いに上野山へとようやくたどり着いている。
 もし、柳橋をわたって浅草橋から蔵前、菊屋橋、松屋町を抜けて上野山方面へ最短コースで逃げようとしていたら、おそらく菊池一家は大火災に巻きこまれて助からなかっただろう。両国橋をわたり、神田川沿いをまず真西に向かって大川からできるだけ遠ざかったのが、大火流に呑みこまれないで済んだ大きな要因だとみられる。
 わたしの実家にいた家族たちは、やはり川向こうの本所側に大きな火災が発生しているのを確認すると、大川からできるだけ離れるために西へと向かった。日本橋両国から橘町、久松町、人形町とたどり江戸橋あたりで日本橋川に出ると、日本橋から呉服橋をへて東京駅北口に近い大手町側へと抜ける丸の内ガードをくぐり、東京駅前へと逃れている。そこから、どこで一夜を明かしたのかは聞きそびれているが、おそらく丸の内側の駅前広場か、近くの日比谷公園にでも退避していたのだろう。
 燃えるものはすべて燃え尽くし、なんとか火災が下火になってから自宅のあったあたりへと帰ったのは、菊池一家もうちの家族も同じだ。わたしの実家のなにもない焼け跡では、焼け落ちた蔵の中の小銭類までが溶けていた。親からもらったそのときの十銭銅貨Click!を、わたしはいまでも大切に保存している。
柳橋.JPG
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 つづけて、『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。
  
 まだ燻り続ける中を両国千歳町へ戻った。(中略) 筆舌に尽くせない惨劇であった。母は「見るんじゃないよ」と言うが、そんなわけにはいかない。真っ黒焦げになっている人、半焼のような人、隅田川にぷかぷかしている人、水で膨らんでいる溺死体、小さな子供たちの死体、鎖に繋がれたままの犬、猫も毛が焼けて皮が剥き出し、鳥籠だけが燃え爛れて鳥の姿がなくなっている。人が生活していたということが全く嘘のような光景である。/地震、土砂崩れ、台風などの災害で亡くなった光景とは違う。広島、長崎の原爆とも違う。/想像を絶する光景である。読者は何もなくなった見渡す限りの大地、雀や鳥もいない世界、犬や猫もいない世界、樹木が一本もなく植木や草花もない世界。こういう世界を想像できるでしょうか。/どのくらい経過したのか思い出せないが、大人たちはまず生存者の確認、怪我人の保護、死体処理から始めた。臭気と野犬に食べられるのを防ぐため急ぐのだそうである。隅田川、堅川、横十間川に浮いたり沈んでいる溺死体を鳶口で引っかけては大八車やリヤカーに積んで、隅田川畔や公園、空き地に穴を掘って埋めていた。埋めていたというより、どんどん放り込んでいた。
  
 著者は先にも記しているが、このとき10万余人いた本所区の人口は、数日後にはわずか1,000人ほどしか確認できなくなっていた。おそらく、ほぼ全滅した浅草区や深川区、向島区でも同様の状況だったろう。10万人超とされている、東京大空襲の被害者の中にさえカウントされず、たった一晩でこの世から消滅してしまった人たち、家族全員や独身者、子どもたちがはたして何千人、何万人いたのかは現在にいたるまで、地元の自治体でさえまったく把握できていない。
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東京駅丸の内北口駅前.JPG
東京駅丸の内北口.JPG
 東京市内(東京35区Click!=現・東京23区内)は、1944年(昭和19)11月から翌1945年(昭和20)8月の敗戦時まで、都合130回にのぼる空襲を受けている。これにより、死傷者・行方不明者は25万人以上にのぼり、罹災者は300万~400万人におよんだ。当時、東京市の人口は687万人だったが、敗戦時には253万人に激減している。もちろん、地方への疎開や徴兵・徴用による移動も含まれているが、消えた434万人のうち、戦後に再び東京へ生きてもどれた人々の数を差し引いても、消えてしまった人々の数に呆然とする。

◆写真上:「猫塚」のある、本所回向院の境内で眠るネコ。証言者の菊池一家は、空襲と同時に関東大震災でも焼け残った回向院の境内へ避難するが、同院の本堂が燃えだしたのを機に急いで両国橋を西へわたって逃げる決心をした。
◆写真中上は、1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろに米軍のF13偵察機から撮影された東京市東部の惨状。は、両国橋東詰めに近い本所回向院の山門。は、両国橋西詰めからつづく日本橋側の両国広小路。
◆写真中下は、神田川の柳橋から上流の浅草見附跡(浅草橋)を眺めたところ。は、神田川から万世橋を望む。は、冬枯れの上野不忍池とミヤコドリ(ユリカモメ)。
◆写真下は、菊池家とわたしの実家とがたどった1945年(昭和20)3月10日深夜の大川から離れる逃避経路。菊池家やわが家は逃げのびたので矢印を書けるが、逃げる途中で焼死して途切れた人々の線は10万本をゆうに超える。は、東京駅丸の内北口で正面は新丸ビル。命からがらたどり着いた親父たちが目にして、一息ついた東京駅はこの意匠だったが、同年5月25日夜半の空襲で駅舎は炎上している。は、丸の内北口のホール。

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芸妓まで勤労動員した戦争末期。 [気になるエトセトラ]

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 戦争の敗色が濃くなった1944年(昭和19)、学校の学生・生徒たちを学徒動員や女子挺身隊として組織し生産現場へ送りこんだ軍部は、花柳界の若い女性たち、つまり芸者・芸妓(げいしゃ)たちを「無為徒食」で暮らしているとして、勤労奉仕させようと狩り出している。それが彼女たちの仕事であり、さんざん軍人たちも宴会や会議の席などへ“勤労動員”しておきながら、いまさら「無為徒食」とはよくいったものだ。おそらく、何らかの理由から家庭内に残って勤労奉仕に出ていない、若い女性たちに対する見せしめの効果もねらっていたのではないか。
 確かに彼女たちは、各流派の日本舞踊や三味Click!小唄Click!長唄Click!清元Click!新内Click!、芝居台詞、そしてお酌をすることしか知らなかったかもしれないが、酒席でそれら日本文化の披露あるいは継承すること自体が職業であり仕事なのだから、それをいまさら「三味線とお銚子以外に能のない白粉の女芸妓」とか「労働力のない存在」、「邪魔者・厄介者」などと侮蔑的に表現するのは、いくら負け戦つづきで尻に火が点いてアタマの中が錯乱していたとはいえ、とんでもない軍部の言い草であり日本の文化・伝統への冒涜だ。
 芸妓たちが無理やり工場へ連れてこられ、慣れない製造ラインで働かされた記録は各地に残っているのだろうが、今回は江戸東京の花柳界Click!ではなく、わたしが子ども時代をすごした湘南・平塚の事例をご紹介したい。平塚は江戸時代からの宿場町であり、明治以降は神奈川県下でも有数の商業地として発展したため、旅館や料理屋の宴席へ呼ばれる芸妓の数も多かった。西隣りの大磯Click!は、避暑・避寒の別荘地Click!として江戸末期から発達したため、もう少し前から芸妓の需要があっただろう。ただし、大磯の別荘街へは江戸東京の芸妓が、わざわざ東海道線で“出張”してくるケースが多々みられた。
 戦争の末期、平塚の花柳界には70名ばかりの芸妓が登録されていた。「芸妓挺身隊」の動員が軍部から通達された際、彼女たちに働いてほしいと手を挙げた工場は、ただの1ヶ所も存在しなかった。工場主にしてみれば、軽作業ならこなせるだろうと考えたかもしれないが、美しくて艶っぽく目立つ彼女たちが職場へ現れれば、男子工員たちの風紀を乱し、気が散って生産性が低下しかねないことを懸念したにちがいない。少しでも生産性を上げるために、軍部の指示によって組織された「芸妓挺身隊」だが、逆に現場が浮き足だって生産効率が落ちるのを怖れたのだ。確かに、悩ましい「湘南ガール」たちが突然職場に何十人も現れたら、学徒勤労動員の歌「♪我等学徒の面目ぞ~ ♪ああ紅の血は燃ゆる~」の男子たちは、別の紅の血に燃えてしまうだろう。
 警察署が「芸妓挺身隊」を管轄していたが、どこの工場でも断られて引き受け手が現れないため、無理やり押しつけられたのが平塚市宮の前にあった守山商会Click!だった。同社の工場Click!では、いちおう軽作業をやってもらうことになったが、彼女たちは芸者を完全に廃業したわけではないので、お座敷や宴席など“本来業務”の連絡が入れば、おのおの作業を中断して帰ってしまう。このあたり、守山工場と平塚花柳界との“お約束”で、そのような勤務形態になっていたらしい。以下、1957年(昭和32)に出版された『守山乳業株式会社四十年史』(非売品)から引用してみよう。
  
 愈々作業にとりかかると、珈琲牛乳のレッテル貼り、牛乳箱の釘打ち、コンデンスミルクの箱の積み下ろし等々仕事は山程ある。馴れぬ仕事の不手際に社長も困ったが、俄仕立の女工さんもへとへとだ、最初は作業中も平気で煙草を喫い出して係長に注意されると、/「そうでしたの、作業中は煙草を喫っちゃいけないんですの まあ御免なさいね」、なまめかしい声での話のやりとりである。レッテルを逆さに貼って注意される、「釘がきいていない」などと……、係長が一番恐かったそうである。/工場長さん、電話がかかって来ましたからお暇を下さいね、/「なんだ、彼氏からお座敷がかかって来たのか」、/「そうなんですよ」、/こうした早退も屡々であった。月平均十五日工場で働けば精一杯であった。
  
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守山工場真空蒸発煉乳機.jpg
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 もう、絵に描いたような「非国民」Click!ぶりだが、当時は「ホタル殺し」Click!を叫んでいた自治体や町会の役員たちではなく、「非国民」や「アカ」Click!(資本主義的民主主義者・自由主義者含む)と呼ばれた人々にこそ、あたりまえの意識や感覚、事実を直視し筋道を立てて認識できる、まともな思考回路が残っていたのだ。近々書く予定でいるが、戦時中の内務省特高資料は吉野作造Click!の民本主義の流れでさえ、「アカ」=共産主義系運動に分類している。
 「芸妓挺身隊」にはつらい工場勤めだったが、たまには楽しいこともあったようだ。それは守山商会の得意先や取引先を招いて接待をする宴席が、戦争末期にもかかわらずつづいていたからだ。特に大切な得意先のときは、馬入川(相模川)に舟を浮かべ舟遊びに興じていたらしい。ひょっとすると、当時の経営陣は「芸妓挺身隊」が馴れない仕事で疲弊してくると、彼女たちの慰労や息抜き、気分転換のために大口顧客を招待して、一席設けていたのかもしれない。芸妓たちは、とたんに水をえた魚のように活きいきと接待の仕事を引き受け、馬入川(相模川)の川面には唄や三味の音色が響きわたった。
 なぜ料亭ではなく、宴会を馬入川の舟の上で催していたのかといえば、さすがに市街地の料亭から「非常時」にもかかわらず、賑やかな三味の音(ね)や唄が流れてきたら、戦争末期の時局がら非難が守山商会に殺到しかねなかったからだろう。つづけて、『守山乳業株式会社四十年史』から引用してみよう。
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 「今日はお得意さま御招待だから、これから馬入川え(ママ)いっしょに行ってくれ」、この時ばかりは天下一の女工さんだ。お化粧も素早やく済ませ、舟の中には忽ち三味も、酒も料理も運ばれる、彼女達は、/「毎日お客様が来てくれるとよいな……」/とかすかに洩れる声に社長も微苦笑。こうした宴席になると社長も工場長もあったものではない、宴酣となるにつれ酔がまわるにつれて、下手な箱の釘打ちにお小言を頂戴している鬱憤晴らしと言う訳けでもなかろうが、/「さァあ社長さん、モウさん」/「何か唄いなさいよ」/「工場で叱るだけが人生じゃないでしょう 水の流れと葦切(鳥の名)が聞いているだけよ」 彼女達は全く有頂天である。/「呑平工場長さん、飲んでばかりいないで、お客様に下手な唄でもお聞かせしたらどう」/「このお客様は、話せるわ」/「私にもついで頂戴ね」、/三味の音と唄声は広い河原に吸い込まれて行くのである。
  
 こうして、たまにストレスが発散できた「芸妓挺身隊」の面々は、翌日からまた黙々と牛乳や乳製品の製造現場で働きつづけた。彼女たちは敗戦の1ヶ月前、1945年(昭和20)7月16日夜の2時間にわたる平塚大空襲まで勤務をつづけている。
 同社史には、空襲による「芸妓挺身隊」の犠牲者についての記述がないが、おそらく深夜の空襲だったために芸妓の犠牲者は出なかったのだろう。記録では、最後まで守山平塚工場に残っていた工員のひとりが、焼夷弾の直撃を受けて即死しているほか、守山牧場で飼育していた数多くの乳牛が焼死している。守山商会は、国道1号線に面した宮の前の本社機能をはじめ、製造工場や研究所、乳牛牧場のすべてを一夜にして失ったことになる。
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 空襲の翌日、守山謙社長は焼け残った煉乳(コンデンスミルク)や粉乳などを集めると、平塚の罹災者へ分配したあと工場を解散した。工場が消滅しても、県内各地から送られてくる牛乳を処理するため、同じ平塚に工場があった森永乳業へ処理を依託している。

◆写真上:宮の前にある守山乳業の本社から、西南西へ直線距離で500m余の紅谷町公園内に残る、江戸期からつづく「番町皿屋敷」Click!のお菊さんの塚。
◆写真中上は、守山工場の「富士クリーム」製造ライン。芸妓たちは、これらのラベル貼りや牛乳箱づくりにまわされている。は、当時は東洋一といわれたコンデンスミルク製造用の守山式真空蒸発煉乳機。は、容器用の金属罐を製造するライン。
◆写真中下は、フランス製のホモゲナイザー(均質牛乳製造機)。は、工場で行われた就業前の体操。は、国府村寺坂(現・大磯町寺坂)にあった守山商会集乳場。中央左寄りにある電柱のうしろ、トタン屋根の白っぽい建築が集乳場建屋。
◆写真下は、1945年(昭和20)7月16日深夜の平塚大空襲で壊滅した平塚市街地。小さな家々は、戦後の焼け跡に建ったバラック。は、同空襲で全焼した守山商会本社。は、同空襲で壊滅した平塚市街地。

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織田一麿が夢みた「創作版画の大衆化」。 [気になるエトセトラ]

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 大正期から昭和初期にかけ、目白文化村Click!洗足田園都市Click!に象徴されるような、郊外のモダンな住宅街が形成されるにつれ、西洋館の壁面を飾る洋画が大流行した。でも、自宅の壁面に油絵を飾れるのは「中流」以上の家庭であり、多くの庶民にとっては油彩画は手のとどかない高嶺の花であり、また庶民の借家には大きめな油絵を飾れる書斎や応接室などの壁もなかった。
 そこで、新しい美術運動として登場したのが、「創作版画の大衆化」運動だ。そのきっかけをつくったのは、こちらでも『落合風景』(1917年)をご紹介している、「洋風版画会」を起ち上げた織田一麿Click!だ。洋風版画会は1929年(昭和4)に旗揚げしたが、1931年(昭和6)には同会と日本創作版画協会が合同し、さらにフリーの版画家たちを集めた「日本版画協会」が発足している。織田一麿は、1点ものの油絵は高価で一般庶民には買えないので、木版画やエッチング(銅版画)、リトグラフ(石版画)を主体とした相対的に安価な版画美術を、庶民の間へ浸透させようとしている。
 織田一麿は、江戸期に庶民のすみずみまで普及していた浮世絵を規範とし、創作版画の普及には次の6つの要素が重要だとして挙げている。1931年(昭和6)に発行された『みづゑ』1月号と2月号から引用してみよう。
 (1)大衆美術の版画は、自画自刻で、綺麗でなければならない
 (2)画題は日常各人の眼にふれる題材
 (3)描法は写実を旨とする事
 (4)価格は出来る限り安価
 (5)多量生産
 (6)異国趣味(エキゾチシズム)とエロチシズム

 織田一麿が「創作版画の大衆化」を呼びかけた背景として、当時の時代状況を考えないわけにはいかないだろう。世界大恐慌を境に、未曽有の不況を経験する中で貧富の差がますます拡大し、美術作品の売れいきは大きく減退していた。また、それまで美術家を支援していた多くのパトロンたちも、恐慌の波をまともにかぶって事業が危うくなり、美術界に目を向ける余裕がなくなりつつあった。
 換言すれば、織田一麿はそれまで美術家たちが消費先として主なターゲットにしていた、「中流」から上のクラスの購買力へ依存するのをやめ、より幅広く広大なマーケットと販路が見こめる「中流」以下の層も消費者として取りこもう……と提案していることになる。また、そうしなければ美術だけではとても生活できない、深刻な制作環境を迎えていたということもいえるだろうか。
 上掲の『みづゑ』に、織田一麿は「創作版画を大衆へ贈る」と題して、日本版画協会の結成にいたる趣旨を書いている。2012年(平成24)に世田谷文学館から出版された、「都市から郊外へ-1930年代の東京」展図録から現代仮名づかいの同文を引用してみよう。
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 これは(創作版画の大衆化は)甚だ突然かもしれませんが、別に今急に必要が起ったというのではないのです。ただ見渡すところ、現代には適当と思うような、大衆美術がないという有様ですから、必要を感じるというのです。いま大衆のもっているものはあまりに貧弱で、美術と称するに足りないものだからです。例えば、原色版の絵端書も活動俳優の絵端書、雑誌の口絵、新聞の付録、ペンキの懸額、というような、至って低級な、独立して美術と称呼なし得る体を備えていないもの、片々たる紙切の類しか、我大衆はもっていないものです。(中略)/如何に大衆でも、これでは余りに気の毒すぎます。衆人の中には、日常の生活に心身を過労して、美術鑑賞の余裕をもっていない人もありましょう。しかし、どんなに切迫した生活にでも、其家庭、其居室に一枚の額を懸けて、夕食後に眺める位の時間は、必ずあるにちがいないのです。これに対して、この寸隙を慰める為に、世間は何を彼等に与えているのでしょうか、現在では何も無いと答えなければなりません。/我々としては此際先ず創作版画の一枚を彼等に贈り、彼等の生活に僅かながら色彩を加えたいと希望するのも無理ではないのです。(カッコ内引用者註)
  
 現代であれば、美術家がこんな傲慢で「大衆」をバカにしたような文章を書いたら、いったい手前(てめえ)はどこの何様だと思ってんだい、どんだけ高いとっからモノをいってんだよう!…と、すぐさま反発を食らうにちがいない。
 「我々としては此際先ず創作版画の一枚を彼等に贈り」は、その「彼等」にしてみれば「阪妻Click!のブロマイドのどこがいけないってのさ。おとついおいでな!」の大きなお世話だしw、自らの販路が狭隘化して食うに困ってるのに、あたかも創作版画を安価にめぐんでやる新しい方法論や事業団体を考案中だから恩にきなさい……とでもいいたげな、さもしい根性を見透かされるような傲岸不遜の文章は、当時の「大衆」が目にしてさえも怒りをおぼえたのではなかろうか。
 ただし、織田一麿の弁護を少ししてあげるとすれば、当時、多くの美術家は「画壇」や「美術の殿堂」の中へ内的にかたく閉じこもり、一部のおカネ持ちだった美術愛好家だけしか相手にしない、高踏的で芸術至上主義的な状況が前提として存在していた。そのようなよどんだ美術界を版画という手法で打破し、より広範な人々へ美術作品をとどけようとした彼の姿勢は、その「思想」表現のしかたはともあれ、少なくとも評価されてしかるべきだろう。当時の生活に追われる一般庶民が、油絵を手に入れることなど夢のまた夢だったが、彼らの中にも美術ファンは数多く存在していたからだ。
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 つづけて、織田一麿の「創作版画を大衆へ贈る」から引用してみよう。
  
 何しろ、我々創作版画に聯るもので、大衆美術運動に共鳴する者は、速かに芸術の殿堂を飛び出して、市民の間へ混じて、大衆美術運動に躍進してもいゝ時季なのです。プロレタリア美術を叫ぶ者も、やはり版画大衆美術運動に参加していゝ性質だと思っています。創作版画改造の急務なのはいうまでもありません。大衆は待っています。我々はこの機をのがさず一気に前進して、徹底しなければなりません。研究に、実行に、甚だ多忙である筈だと思っています。日本創作版画協会創立満十年を過ぎました。版画が芸術というロマンチシズムから、一歩を踏み出す時は正に来たのです。
  
 プロレタリア美術の分野からは、すぐにも「大衆をなめんじゃないよ」という声が聞こえてきそうだけれど、織田一麿はそれほど創作版画の将来に危機感をおぼえていたらしい。おカネ持ちからは、1点ものではない版画の蒐集は敬遠され、一般庶民からはかなり高価で買ってもらえず、展覧会でも油絵の展示に押されて隅へ隅へと追いやられていた当時の状況が垣間見える。日本版画協会が発足した1931年(昭和6)、大恐慌から満州事変が起きる流れの中で、織田には創作版画消滅の危機と映っていたのだろう。
 だが、庶民が創作版画を身近に親しむ余地もなく、世の中の流れは戦争へと急速に傾斜していく。もはや、版画を楽しむ心のゆとりも経済的な余裕もなく、軍国主義のカーキ色一色に染められる時代が、すぐそこまで迫っていた。
  
 油絵のお情けで、(展覧会の)壁面を僅に占めているのも、あんまりほめたものでもありません。それよりも、版画は版画としての身分に合ったように、職人仕事の昔にかえった方が、生半可な芸術扱いよりも版画の生命が延びます。/一九三一年、今年あたりが好転期(ママ:転機)だと思っています。(カッコ内引用者註)
  
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 織田一麿が想像していたような、一般の庶民が手軽に創作版画を楽しめるようになったのは、戦後もずいぶんたってからのことだ。特に住環境の急激な変化の中で、現代的な住宅やマンションの壁面には、表現が重たすぎて存在感や主張が強すぎる油彩画は似合わず、リトグラフやエッチングなどライトな感覚の版画が好んで取り入れられた。1970年代末から80年代にかけ、バブル景気を背景に全国各地で建設ラッシュがつづき、空前の版画ブームを迎えることになる。

◆写真上:1930年(昭和5)制作の「新宿」シリーズで、織田一麿『新宿すていしよん』。
◆写真中上は、1922年(大正11)に制作された織田一麿『東京生活・歌劇』。は、1928年(昭和3)に制作された同『浅草の夜』。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に制作された織田一麿『銀座の夜』。は、昭和初期に制作された同『ニコライ堂』。
◆写真下は、1930年(昭和5)に制作された織田一麿『明治神宮参道』。は、1930年(昭和5)の「新宿」シリーズの1枚で同『新宿(第一図)』。


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駅売りコーヒー牛乳が流行った守山商会。 [気になるエトセトラ]

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 先日、知人から守山乳業(株)が販売していた「守山牛乳」の空き壜を2本と、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(守山商会/非売品)をいただいた。知人は、わたしが神奈川県央の海辺育ちClick!なのを知っているので、「これ、懐かしいでしょ」とプレゼントしてくれたのだ。
 2本の壜は、戦後すぐのころの仕様で、双方とも「守山文化牛乳」と書かれていて、気泡がたくさん入ったガラスの質が劣悪なところをみると、おそらく1940年代後半から50年代前半ぐらいの容器ではないかとみられる。色のついていない壜が、通常の牛乳を入れて販売され、まるでコーラの壜のように遮光の色がついているほうは、同社自慢のコーヒー牛乳を封入して売られていたものではなかろうか。守山牛乳は、鉄道駅のミルクスタンドでの販売が主流であり、一般の牛乳でよく見かける紙のキャップにビニールをかぶせた仕様ではなく、金属の王冠をかぶせ封入して売られていた。
 しかし、わたしは物心つくころから15歳まで、明治牛乳あるいは名糖牛乳しか飲んでこなかったので、地元でありながら守山牛乳の存在を知らなかった。湘南地方の平塚には、あちこちに牧場があることは知っていたし、それらの牧場が協同で主催する品評会が、海岸べりに多かった砂地の広い空き地で開かれていたのも記憶に残っている。でも、守山牛乳を飲んだ記憶はかつて一度もない。
 守山商会(のち守山乳業)の本社は、平塚駅北側の国道1号線に面した宮の前にあり、なんとなく街の風情や環境がちがう駅の南側エリアとは、東海道線に隔てられていて馴染みのないせいもあるのだろう。駅の南北では、小中学校の学区も異なっていた。
 また、駅売りの駅弁はあちこちで買って食べた記憶があるけれど、いっしょに買うのはたいがいお茶で、牛乳を飲んだことはなかったように思う。もし、親が東海道線のいずれかの駅で、牛乳かコーヒー牛乳を買って飲ませてくれていたら、おそらくそれが戦前から大流行していた守山乳業の製品だったのだろう。
 守山商会は、1918年(大正7)に神奈川の大山Click!(おおやま=阿夫利山)山麓、平安期の鉈彫りによる薬師三尊や十二神将で有名な日向薬師の近く、中郡高部屋村日向で創業している。のちに日向川の下流、七沢温泉の近くに事業所を移しているが、足が早い乳製品の物流には不便だったため、平塚駅北側へと移転してきた。1928年(昭和3)1月に、資本金40万円で株式組織に変更し、正式に(株)守山商会を名のるようになった。
 守山乳業というと、現在では日本初の「珈琲牛乳」を、東海道線の国府津駅で販売したことになっており、同社のWebサイトやWikipediaにもそのように記載されている。だが、日本で最初にコーヒー牛乳を販売したのは、東京府豊多摩郡の中野町に本社があった日本均質牛乳であり、1916年(大正5)出版の『豊多摩郡誌』によれば、「町内搾乳場十ヶ所、畜牛二百九十二頭(牝二三四、牡五八)あり、大正四年度の仔牛十四頭価額金二百六十円を挙ぐ」とあるように、中野は首都圏における酪農の先進地帯のひとつだった。日本均質牛乳は、鉄道省の指定品として認可を受け、すでに「クラブ印コーヒー牛乳」や「均質牛乳」を、東京内の省線や東海道線の主要駅で販売していた。
 『守山商会二十年史』(1938年)から、すでに最大のライバルとなっていた日本均質牛乳との、し烈な販売競争の様子を引用してみよう。
  
 その当時東京市外中野に日本均質牛乳株式会社なる先輩あり、クラブ印コーヒー牛乳、均質牛乳を造り東海道の主要大駅のみで販売し一大敵国の感をなしなかなかその堅塁は抜くことが出来なかつた。処が色々の事情があつて国府津駅の東華軒主飯沼相三郎氏、赤羽駅の都家故宮森六之助翁、組合長清水籐左衛門氏等の推奨、熱烈なる御後援があつて販路は俄然好転して来た。月末になると国府津駅迄飛んで行つて、その月中の品代金を貰つて帰り職工達の給料に充当したものであつた。
  
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 日本で初めてコーヒー牛乳を開発・製造したのは、中野町の日本均質牛乳であり守山商会でないのは明白だろう。また、東海道線の主要駅でコーヒー牛乳を販売していたのも、日本均質牛乳のほうが先であり、堤康次郎Click!が開発していた別荘地のある東海道線の国府津駅へ、初めてコーヒー牛乳を納入・販売したことのみが、守山商会の「初めて物語」だったことも明らかだ。
 では、どうして現在では「日本初」が守山乳業になってしまったのかというと、日本均質牛乳は関東大震災Click!で大きなダメージを受け、その直後から事業継続がうまくいかなくなってしまったのだ。そして、1930年(昭和5)になると大恐慌の影響もあって、守山商会へ合併・吸収されることになる。
 守山商会が日本均質牛乳を買収できるほど、なぜ急速に台頭しえたのかというと、関東大震災の際に製品を被災地の横浜や東京へ集中的に運び入れ、水や飲み物が不足している被災者に売って、莫大な利益を上げたからだ。このあたり、守山商会が理想として私淑していた三島海雲Click!カルピスClick!が、大震災が起きると同時にストックしていた全工場のカルピスと氷をかき集め、トラックで被災地へ配って歩いたのとは対照的な企業姿勢であり、「うーーん……」となってしまうところなのだが、あくまでも資本主義社会なので正当な商売なのだろう。
 守山商会が急成長をする経緯なので、その記述も詳細をきわめているが、関東大震災が発生した直後の様子を同社史から、少し長いが引用してみよう。
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 よし来たあの返品されたコーヒー牛乳を売りだせと兄弟は、一挙に何十箱も売つて了つた。幸に庭には壜が残つてゐた。よし造つて売れ、壜は拾つて来い、と許りに、四日目には工場から景気のよい煙が濛々として昇り始めた。仁徳天皇なら御嘉賞になる所であるが、近処の人は気が小さい。曰く『時節柄遠慮せい!』。毎日現金が捨てる程沢山集るが、焼け爛れた札や金の置き所に困つた。勿論銀行等明(ママ)きつこが無い。地下室へ金銀財宝を納れて、その上にどつかと坐り込んで、夢寐の裡にも伝家の宝刀を抱いてゐた。金持ち程辛いものは無いと思つた。(中略) その内、壜も、王冠も、珈琲も欠乏して来た。(守山)謙氏は東京へ行つて焼け出されの製造所の一家族を引率して来て、工場の一隅に製壜工場を急設した。(中略) 森氏の斡旋で砂糖や、珈琲豆を買ひ付けたが、陸路は絶対に送品が出来ない。海路を国府津に陸揚げして物資を関西に仰いだ。一ヶ年間虐められた日本均質会社は中野の工場が大破して、製造は当分見込みが付かないので、東海道線でも東北線方面でも、守山珈琲牛乳の配給を――この物資欠乏の秋にも奮闘してゐる――感謝の許に受入れて下すつた。(カッコ内引用者註)
  
 これって、人の弱み(罹災した日本均質牛乳)につけこんだ販路拡大であり、被災者の不幸や欠乏を見越したひどい商売じゃないか……などと憤ってはいけない。ムキ出しの資本主義社会は弱肉強食、たとえ天災とはいえ弱ったり、口に入るものが欠乏したり、不幸にみまわれたほうが「敗者」であり、どのような手段を用いても儲けたほうが「勝者」ということになるのだろう。わたしは、このような企業姿勢は好きじゃないので、被災者に無償で商品を配ってしまい周囲からバカにされた、カルピスの三島海雲のほうにより共感をおぼえるのだが……。
 さて、大震災肥り……いや失礼、千載一遇の天佑で事業拡大をなしとげた守山商会は、駅の売店を仕切る鉄道弘済会へ深く食いこみ、守山牛乳と守山コーヒー牛乳の販路を全国の省線各駅へと拡げていった。工場も大幅に拡張し、平塚町宮の前に本社機能を残したまま、馬入川(相模川)河口の左岸(茅ヶ崎町中島)へ、巨大な守山商会平塚工場&研究所を開設するまでになっている。
 そして、守山コーヒー牛乳や守山牛乳のほかに、新製品として国産無糖煉乳「富士ミルククリーム」、育児用煉乳「富士ミルク」、「アテナミルク」(輸出用)、「守山グリコ牛乳」、「守山アイスクリームの素」、「ビタマウスミルク」(輸出用)などを次々と開発していった。わたしが子ども時代をすごした、親しみのある懐かしい湘南の地場産業とはいえ、美辞麗句やウソは書けないので事実を記事にしてみたしだい。次回は、全国的に大ヒットした守山コーヒー牛乳にニセモノが現われ、警視庁衛生部を巻きこみ事件にまでなったエピソードをご紹介したい。
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 現在は、牛乳の市販をやめてしまったらしい守山乳業だが、スーパーなどではプラスチックカップに入った、「喫茶店の味ココア」や「はちみつレモネードティー」などを買うことができる。ためしに飲んでみたが、1960~70年代の砂糖をたっぷり入れた「非常に甘い=美味しい」時代の飲み物のような仕上がりで、わたしの口には合わなかった。

◆写真上:戦後間もないころの、守山乳業が製造していた「牛乳文化牛乳」壜。コーヒー牛乳(右)と通常の牛乳(左)で、封入には金属の王冠が用いられていた。
◆写真中上は、日向時代の守山商会で中央の人家あたりに工場があった。正面中央の山向こうには日向薬師があり、左手の高い山は江戸期の大山詣りで有名な大山(阿夫利山)。中上は、日向薬師へ向かう同所の現状。中下は、七沢時代の守山事業所兼工場で中央下の建物。は、冒頭の空き瓶の一部拡大。
◆写真中下は、帆船がもやう昭和初期の馬入川(相模川)河口。中上は、1938年(昭和13)撮影の茅ヶ崎町中島に建つ守山商会平塚工場&研究所。中下は、同年に撮影された守山酪農研究所。は、1946年(昭和21)に撮影された守山平塚工場。建物が残っているように見えるが、1945年(昭和20)7月16日夜の平塚大空襲で全焼している。
◆写真下は、農業と酪農を兼業する昭和初期にみられた大磯の典型農家。中上は、1923年(大正12)に撮影された関東大震災直後の馬入川(相模川)Click!の様子。国道1号線の馬入橋が崩落し、臨時に渡し舟が運行されていた。中下は、守山商会の空き壜に刻印された同社のトレードマーク。は、守山乳業の現行製品で「喫茶店の味ココア」(左)と「はちみつレモネードティー」(右)。

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陸軍中野学校の演習旅行1941年。 [気になるエトセトラ]

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 戸山ヶ原Click!に設置された陸軍兵務局分室Click!(工作員の符牒“ヤマ”Click!)は、1937年(昭和12)の春に防衛課が発足するとともに、同年暮れには「後方勤務要員養成所」(のちの陸軍中野学校)が設立されている。同養成所は、陸軍の3大統括者だった陸軍大臣・参謀総長・教育総監のいずれにも属さず、陸軍の主要組織からは切り離された特異な存在だった。
 後方勤務要員養成所の募集は、陸軍士官学校Click!や陸軍大学など主要な学校の出身者ではなく、陸軍内の強い反対を押しきって予備士官学校や普通大学の卒業者、民間の勤労者などが優先して行なわれたのも、当時としては異例中の異例だったようだ。要するに、軍人の臭いがする人物は、すべて不合格としてハネられたことになる。同養成所は、1939年(昭和14)7月に中野区囲町に校舎が完成し、翌8月には第1期生を送りだしている。1940年(昭和15)8月になると、ようやく「陸軍中野学校令」が制定されて、後方勤務要員養成所という名称は消滅した。
 陸軍中野学校(養成所時代含む)が、戸山ヶ原の兵務局分室で誕生してから敗戦による消滅まで、その教育方針やカリキュラムをたどってみると、およそ3つの時代に区分できるだろうか。まず、1938~40年(昭和13~15)の3年間は、陸軍内部でも存在が厳密に秘匿され、平時に世界各地で暗躍する工作員(スパイ)を養成していた時期だ。集められた学生たちも、特に軍人らしくない人物から選ばれており、「自由主義」的な傾向の強い教育内容だった。模擬の議論では、天皇批判さえ行なわれていたのもこの時期のことで、軍人臭を徹底して排除するカリキュラムが組まれていた。
 つづいて、1940~44年(昭和15~19)の5年間は、陸軍中野学校令の制定でその存在が上層部にも認知され、戦時に戦争を陰で支援する諜報・謀略戦の工作員(スパイ)を養成する方針に変わっている。そして、1945年(昭和20)の敗戦までは、それまでの教育方針とはまったく異なり、日米戦をめぐる敗色が濃い状況下で、遊撃戦(ゲリラ戦)を中心とした教育内容が採用されていた。ルバング島から帰還した小野田寛郎は、陸軍中野学校卒といっても同校本来の教育目的ではなく、戦争末期のゲリラ戦を主体とした中野学校二俣分校(静岡県)の出身だ。したがって、彼のことを陸軍中野学校出身の諜報・謀略戦に通じた「工作員」とする記述は明らかな誤りで、遊撃戦教令にもとづく「ゲリラ戦の専門家」とするほうが正しいだろう。
 わずか7年間しか存在しなかった陸軍中野学校だが、その活動の中核的な拠点となっていたのは、一貫して戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)Click!だった。同校の歴史の中で、もっともスポットが当てられやすいのも、やはり1940年(昭和15)からスタートした戦時に諜報・謀略戦を遂行する工作員(スパイ)の養成課程だ。
 少し余談だけれど、大映映画に市川雷蔵が主演した『陸軍中野学校』シリーズというのがある。同シリーズがスタートしてしばらくたったころ、陸軍中野学校の出身者たちでつくるグループが、撮影現場の見学に招待されたことがあったそうだ。撮影現場へ出かけていくと、同映画を監修していた「中野学校」OBが、同じ中野にあった憲兵学校の卒業生であることが判明して大笑いになったエピソードが残っている。陸軍憲兵学校は、陸軍中野学校の東側に隣接していたが、その元・憲兵学校の出身者は「中野学校」=憲兵学校だと勘ちがいしていたらしい。憲兵学校側では、西隣りの陸軍施設を参謀本部史実調査部と、アンテナ鉄塔を備えた通信基地だと認識していた。
 中野学校の存在は陸軍内でも秘匿され、限られた一部の人々にしか知られていなかったせいか、同映画が撮影された当時でもこのような混乱が多かったらしい。事実、吉田茂邸へ潜入した兵務局分室のスパイClick!(中野学校出身)の存在を、憲兵隊本部でさえまったく把握していなかったことからもうかがえる。したがって、大映の『陸軍中野学校』シリーズは、私服憲兵の諜報活動サスペンス映画として観賞するのが正しいようだ。
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 さて、陸軍中野学校の最後の実習科目に「卒業演習」というのがあった。教室での講義を履修したあと、実地の訓練をするために商人や観光客に化けて、グループごとに海外(アジア地域)へと旅行する、いわば卒業試験旅行のような演習だ。旅行中には、多種多様な「候察」(レポーティング)の課題が出題され、卒業演習にパスしないと任務には就かせてもらえなかった。
 その貴重な卒業演習の模様を撮影した写真が、元・陸軍中野学校乙Ⅱ短期及特別長期学生だった塚本繁という方の手もとに残されている。中野学校や兵務局分室の資料類は、1945年(昭和20)8月15日の敗戦とともに、ほとんどすべてが証拠隠滅のため焼却されているので、これらの写真類は中野学校の実情を知るうえでは非常に稀少な記録写真ということになる。卒業生たちは、いちおう身分は軍人なのだが長髪で私服を着用しており、言葉づかいや挙動も軍人とはほど遠い様子をしていた。(そもそも当初は、軍人教育を満足に受けていない一般人を募集していた) つまり、怪しまれずに本物の商人やビジネスマン、観光客になりきれる“才能”のある人物でなければ、中野学校を卒業できなかった。
 したがって、旅先ではあちこちで憲兵隊や地元警察の不審尋問にあい、繰り返し身体検査や荷物検査を受けることになる。卒業演習は、ほとんど根まわしの行なわれていない、ぶっつけ本番のスパイ旅行だった。その様子を、1979年(昭和54)に毎日新聞社から出版された『日本陸軍史』所収の、塚本繁『中野学校“卒業演習”の旅―開戦直前の大陸をゆく―』から引用してみよう。
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 天津、北京、張家口、大同、包頭と足跡をのばし、帰路は奉天を経て朝鮮経由で帰国した。/移動間には必ず兵要地誌の候察が課せられ、宿舎につくと作業に追われ、与えられた課題を消化したものであった。夜の巷に出掛ける時も民情候察がついて回った。(中略) 北京では紫禁城、天壇、天安門等々の歴史的建造物を見学、民族遺産を見てこの国の人々の民情を深く考えさせられた。/これらの見学行動にもいくつかの課題が与えられ、またその土地の憲兵の監視からいかに疑念を持たれずに行動するかも、演習の題目とされていた。不審尋問を受けたグループもあったが、巧みに偽瞞して身分の秘匿は貫き通した。
  
 この卒業演習は学生18名と教職員数名からなり、1941年(昭和16)8月に広島港を出発している。乗船と同時に乗組員から怪しまれ、すでに奇異の眼で見られはじめた。
 旅行の途中では、すでに任務に就いている中野学校OBとひそかに落ちあい、現地での体験談を聞いて取材したり、各地の特務機関のアジトに立ち寄っては研修を受けたりしている。卒業演習は、教官から頻繁に出題されるレポートの消化と、憲兵隊の追尾からいかに逃れるかが大きな課題だったようだ。おそらく、彼ら一行には制服憲兵ばかりでなく、私服憲兵も尾行に張りついていたのではないかとみられる。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 包頭は戦線の第一線で、駐屯する部隊もその住民も緊張していた。奥地より送られてくる麻薬の摘発は、各地とも厳重を極めたが、この包頭では特に厳しく、駅に降りたとたん一行は憲兵の臨検を受けてしまった。団長と憲兵とのやりとりを見ているわれわれの眼前で、嬰児を抱いた姑娘が憲兵に尋問されていた。(中略) 全行程を終わり関釜連絡船で下関に上陸した時点で、各人が携行していた旅行カバンの点検があり、莫大な資料と重要書類の内容を開陳されそうになった危機もあったが、何とかうまく切りぬけてこの集団が何者であったか露見することなく、中野の校舎に帰ったのである。
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 この一行は、おもに英語やマレー語を習得した「南方班」と、ロシア語を習得した「北方班」の学生が主体だったので、中国語を話せる人物がほとんどいなかったようだ。中野学校には、対中国作戦用に「中国班」と名づけられた専門クラスが存在したが、1941年(昭和16)8月の卒業演習では「中国班」から学生が選抜され、各チームに通訳として同行していたようだ。中野学校出身の諜報・謀略要員は、兵務局分室(工作室=ヤマ)を通じて陸軍科学研究所Click!の多種多様な「兵器」を装備し、戦地や占領地へと散っていくのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:卒業演習で北京駅ホームに立つ、陸軍中野学校の学生たち一行。
◆写真中上は、中野学校の実質“司令部”があった戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)跡の現状。は、1970年代の空中写真にみる兵務局分室跡。は、戦争末期に遊撃戦(ゲリラ戦)を専門に教授した静岡県の陸軍中野学校二俣分校。
◆写真中下は、中野学校校庭で自動車の運転実技演習。そのほか、電車・機関車・飛行機などの実技演習があった。は、所沢飛行場Click!の飛行学校で行われた飛行機の操縦実技演習。は、松竹の大船撮影所で実施された宣伝工作実技演習の記念写真。
◆写真下からへ、バスで目的地に到着した中野学校の卒業演習一行。北京の喫茶店にて。特務機関のアジト訪問。大同の石仏前での記念写真。先に潜入している中野学校OBとの接触取材。常に憲兵や軍人からうさん臭げに見られる卒業演習一行。

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