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近所のワルガキに悩まされる中野重治。 [気になるエトセトラ]

中野重治邸跡.jpg
 1934年(昭和9)5月に、中野重治Click!は「政治運動はしない」という誓約書を書かされ、「転向」してようやく豊多摩刑務所Click!から出獄した。上落合481番地に住んでいた、前年4月に治安維持法違反の容疑で逮捕されてから、1年余の獄中生活だった。出獄した直後、四谷区永住町1番地の大木戸ハウスへ仮住まいをしていたが、同年暮れには上落合のほど近く、柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)へと転居している。
 柏木の家は、2年前まで淀橋町(大町)1130番地と呼ばれていた、旧・神田上水をはさんで小滝台(華洲園)Click!のすぐ南側にあたるエリアだ。小滝橋Click!から南西へ200mほど入った住宅街にあり、最寄り駅は直線で500mのところにある中央線の東中野駅だった。中野重治が柏木へ転居したころ、ちょうど旧・神田上水の蛇行を修正する直線化工事が進捗しており、沿岸は赤土の空き地が目立つ風情だったろう。
 この家で彼は、軍国主義と戦争へ向かって狂ったように突き進む政府へどのような抵抗を継続するか、「転向」後の活動を模索していたと思われる。近くの上落合2丁目549番地に住む壺井繁治Click!が結成した「サンチョクラブ」Click!へ、出獄して間もなく参加したのもその一環だろう。「サンチョクラブ」Click!の事務局は、上落合2丁目783番地の漫画家・加藤悦郎宅に置かれており、中野重治が2年前に逮捕されたときに住んでいた、上落合(1丁目)481番地のClick!からも500mほどしか離れていない。
 特高の徹底した弾圧がつづく当時の状況を、1968年(昭和43)に理論社から出版された、山田清三郎『プロレタリア文学史』下巻から引用してみよう。
  
 わたしは下獄にさいして、「プロ文壇に遺す言葉」(三四年一〇-一一月『文芸』)をかいていった。これは、一年半前に警視庁の中川・須田・山口らの特高に虐殺された多喜二の霊へ報告の形式で、ナルプ解体後のプロレタリア文学界の点検をおこない、題名通りあとの同志への期待をたくしたものである。(中略) わたしはまたそのなかで、執行猶予で出獄した村山知義の「白夜」(三四年五月『中央公論』)にふれ、「いわゆる“転向”時代のこの情勢の中で、その波を避けることのできなかった鹿野――それは作者の分身である――の、内面的苦悩と、それを救うものとしての精神的支柱」にふれて、この作の意義を解明している。そして、わたしはことのついでに、「窪川鶴次郎も、壺井繁治も、それから中野重治も、みな(伏字の六字は刑の執行猶予)になった。彼等は、夫々に健康もよくなかった」とかいている。かれらはナルプ解体前後に、こうして出獄していた。
  
 「ナルプ」とは「日本プロレタリア作家同盟」の略称だが、いかなるメディアを使いどのような表現をすれば、文学運動がつづけられるか暗中模索の時代だった。今日の文学史的にみれば、1935年(昭和10)という時点はプロレタリア文学が当局の弾圧により、息の根をとめられた年ととらえることができるだろう。
 中野重治はこの時期、当局へ「転向」したことを“証明”するために、政治的な文章ではなく叙事的なエッセイをいくつか残している。家の周辺に展開する光景や風情を描いた作品群は、下獄前の彼の活動を知る人間から見れば、「毒にも薬にもならぬものを書いて…」ということになるのだろうが、いまとなっては1930年代後半の新宿北部の様子を知るうえで、非常に貴重な記録という別の側面を備えている。
地形図1932.jpg
中野重治柏木5-1130.jpg
中野重治邸1930年代末.jpg
 中野重治は柏木の家で、近所に住む小さなワルガキどもに悩まされている。庭先にある樹木の若葉をむしられ、鉢から庭へ移植して大切に育てていたバラの花を、片っぱしから摘まれてしまった。1959年(昭和34)に筑摩書房から出版された、『中野重治全集』所収の「子供と花」から引用してみよう。
  
 私の家の前にどぶがあって、そのどぶばたに背の低いアオキが立っている。春から夏へかけてきれいな芽が出てきて、それがどんどん葉になって行く。大いによろこんでいると、ある朝すっかりむしられてしまった。葉という葉をのこらずむしられて、下手なステッキのようになってしまったのでがっかりしていると、そのうちまた美しい葉が出てきたので安心した。するとまたそれがむしられてしまった。/いたずらをするのは近所の子供たちで、それがまだ幼稚園へも行かぬような小さいのばかりなので叱りつけることもできない。(中略) 夏になって私はバラの鉢を買ってきた。花盛りが過ぎかけたので外の垣根のところへ移しかえた。と、子供たちが今度はそれを摘みはじめた。花ざかりがすぎたといってもまだぽつぽつ咲くし、季節の最後の花でちょっとなかなかいいので、それが片っぱしから摘みとられるので今度は叱りつけた。
  
 でも、子どもたちの悪戯はまったく止まない。今度は、隣家のカシの木の幹を小刀で傷つけているのを見つけた。中野重治が庭に出て「何をしてるんだい?」と訊ねると、子どもたちは「蟻を切ってるんだぜ」と答えた。やめるようにいうと、「だって木にのぼっていけないじゃないか?」「蟻だけ切るんだから木を切らなけや(きゃ)いいだろう?」と、わけのわからない理屈が返ってきた。だが、中野がその後も観察していると、やはりアリを退治しているのではなく、カシの幹を傷つけては喜んでいるようにしか見えない。
 ここで面白いのは、大人に叱られてもまったく懲りずに動じない、逆に妙な屁理屈をひねり出して大人に“抵抗”しようとする小さな子どもたちが、つい数年前まで豊多摩郡と呼ばれて田畑が多く拡がっていた、東京郊外に出現しているということだろうか。こういう“ひねっこびれた”ワルガキどもは町場、特に市街地に多くいたはずなのだが、1930年代の淀橋区(現・新宿区の東側)北部にも現われはじめたということだ。
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中野重治邸1941頃.jpg
 1932年(昭和7)に東京35区の「大東京」Click!時代を迎え、また鉄道や市電、乗合自動車(バス)Click!など交通インフラの急速な整備により、市街地(旧・東京15区エリア)に住んでいたサラリーマン家庭が、1932年(昭和7)以前は郊外と呼ばれていた田園地帯へ転居するケースが急増していた。また、大きな企業では社宅を旧・郡部へ建設する事例も多かっただろう。山手線の西側には、次々とターミナル駅が形成され、都市部の風俗や習慣がいっせいに外周域へと流入した時期とも重なる。
 農村部の単純で素朴な子どもたちは姿を消し、大人に叱られてもちょっとやそっとでは懲りない「都市型ワルガキ」も、この時期に急増していったにちがいない。カシの幹切りからしばらくすると、中野重治の庭に咲くバラがまた被害に遭っている。
  
 その後五、六日してまたバラをむしるのを見つけた。「おい止せよ。」というと二、三人ばらばらと逃げ出したが、逃げおくれた小さい子が、ひっこみがつかなくて、「ね、おじちゃん、花とっちゃいけないんだね……」と媚びるような調子で言い出したのには閉口してしまった。へんなことをいうなよというわけにも行かない。乱暴なら乱暴でそれ一方ならいいが、へんに大人的に出られると参ってしまう。子供の方でもやはり気まずいらしい。言いわけにならぬ言いわけだということを何となく自分でも感じるらしい。不愉快とはいえないが、ちょっと辛いようなものである。
  
 こういうときは、奥さんの原泉Click!(原泉子=中野政野)に白装束で鉢巻きをしめ、榊(さかき)の枝をふりまわしながら登場してもらって、「鎧明神の将門様がお怒りじゃ~! おまえたち、呪われてしまうぞよ~!」と出ていけば、子どもたちはヒェ~~ッと逃げていって二度とやってはこなかったかもしれないのだが、彼女はいまだ怖くて妖しげな老婆ではなく、築地小劇場などで活躍する若くて美しい舞台女優だった。
鎧神社.JPG
東中野染め物洗い張り.JPG
 1930年代を迎えると、落合地域とその周辺域では市街地から続々と転入してくる子どもたちで尋常小学校が足りなくなり、次々と新しい学校が開校している。だが、それでも間に合わずに既存校舎の増改築を進めるが、さらに校舎からあふれた生徒たちは、周辺の公共施設や集会場などの「臨時校舎」を利用して授業を受けていた。

◆写真上:戦前に中野重治・原泉の自宅があった、柏木5丁目1130番地あたりの現状。戦後の区画整理で道路が変わってしまい、旧居跡の道筋は消滅している。
◆写真中上は、1932年(昭和7)作成の1/10,000地形図にみる柏木1130番地で旧・神田上水の直線化工事がはじまっている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中野重治邸。は、1930年代に西側の斜めフカンから撮影された同所。
◆写真中下は、1930年(昭和5)に撮影された中野重治と中野政野(原泉)。は、1941年(昭和16)ごろに撮影された柏木5丁目界隈。上部に見えている大邸宅群は小滝台(旧・華洲園)住宅地だが、この一帯は1945年(昭和20)の空襲で全焼している。
◆写真下は、柏木の中野宅から南へ200mほどのところにある鎧明神社。は、柏木から東中野にかけての神田川沿いにも「染め物洗い張り」の工房が展開している。


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下戸塚(西早稲田)地域の関東大震災。 [気になるエトセトラ]

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 これまで、郊外の落合地域とその周辺域から東京市街地にいたるまで、関東大震災Click!によって記録されたさまざまな証言や現象を記事にしてきた。今回は落合地域の南西側、下戸塚から早稲田鶴巻町にかけての震災直後の様子をご紹介したい。自身が避難しながら周囲の様子を記録したのは、1923年(大正12)の9月1日現在、下戸塚(現・西早稲田界隈)の古い2階建ての下宿屋Click!に住んでいた井伏鱒二Click!だ。
 9月1日は、早朝にまるでスコールのような大雨が降ったが、昼が近づくにつれて雲がまったくなくなり、快晴となって気温が急上昇した……という記述をよく見かける。だが、この気象は東京の市街地、特に被害が大きかった(城)下町あたりで多く見られた天気の様子で、東京各地では異なった天候が記録されている。東京は広いので、各エリアで天候が少なからず異なっているのは、以前にも岸田劉生Click!が郊外風景を描いた作品の空模様や劉生日記Click!の天気と、永田町にあった東京中央気象台で記録された天候とのちがいでも書いたとおりだ。ちなみに、新宿区のみに限っても下落合では薄日が射しているのに、同時刻の飯田橋駅附近にいる知り合いの電話の向こうでは土砂降りの雨が降っていたのを、わたしも何度か経験している。
 東京中央気象台のある永田町では、関東大震災が起きた9月1日の天候を、降水量15.3mmをともなう「雨」と記録している。だが、永田町上空も昼前後はよく晴れていたと思われるが、午後からは気象情報の収集どころではなくなり、結局は午前中のみのデータにもとづく記録になってしまったか、あるいは震災後から市街地の上空を覆いはじめた大火災の熱い焼煙によって、午後から夜にかけ市街地上空には雨雲が形成され、実際に雨がパラついていたのかどうかはさだかでない。
 井伏鱒二も、のちの関東大震災について各種書籍に書かれた市街地の天候と、郊外の下戸塚(西早稲田)で自身が経験した天候とが、「それは少し違つてゐる」と書いている。夜明けごろから強い雨が降りだしたのは、下戸塚も市街地と同様だったが、そのあと午前中には抜けるほど青い空が一点の雲もなく四囲に拡がり、快晴となったとされている部分が少しちがっているとしている。彼は午前中、東の空に「今まで私の見たこともないやうな」大きな入道雲(積乱雲)を目撃しており、それは「繊細な襞を持つ珍しい雲であつた」と書いている。つまり、東京の東部域には積乱雲がかかり、雷をともなう雨が降っていた地域もあったらしいことがうかがわれる。
 さて、早大近くの下戸塚に建っていた古い下宿で、大地震に遭遇した瞬間を井伏鱒二は次のように記述している。ちなみに、井伏鱒二はあえて牛込区の早稲田鶴巻町ではなく豊多摩郡戸塚町の下戸塚と書いているので、彼が下宿していたのは早大キャンパスの西南側なのだろう。1986年(昭和61)に新潮社から出版された、『井伏鱒二自選全集』第12巻収録の『荻窪風土記』から引用してみよう。
  
 地震が揺れたのは、午前十一時五十八分から三分間。後は余震の連続だが、私が外に飛び出して、階段を駆け降りると同時に私の降りた階段の裾が少し宙に浮き、私の後から降りる者には階段の用をなさなくなつた。下戸塚で一番古参の古ぼけた下宿屋だから、二階の屋根が少し前のめりに道路の方に傾いで来たやうに見えた。コの字型に出来てゐる二階屋だから、倒壊することだけは免れた。/私たち止宿人は(夏休みの続きだから、私を加へて、四、五人しかゐなかつたが)誰が言ひだしたともなく一団となつて早稲田大学の下戸塚球場へ避難した。不断(ママ:普段)、野球選手の練習を見たり早慶戦を見たり体操したりしてゐたグラウンドである。(当時、早慶戦はまだ神宮球場で試合をしてゐなかつた) 私は三塁側のスタンドに入つて行つた。そこへ早稲田の文科で同級だつた文芸評論家の小島徳弥がやつて来て、私たちは並んでスタンドの三塁側寄りに腰をかけた。
  
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 文中に登場する「下戸塚球場」は「早大戸塚球場」Click!のことで、戦後は野球部長だった安部磯雄Click!の名前をとり「安部球場」と呼ばれたグラウンドだ。現在は、早大の中央図書館と国際会議場やホールなどになっているが、その前を通う坂道は相変わらず「グラウンド坂」と呼ばれて球場の名残りをとどめている。
 井伏鱒二の記述から、「一番古参の古ぼけた下宿屋」はどうやら早大キャンパスのすぐ近く、大字下戸塚字松原か字三島あたりではないかと思われる。以前、1923年(大正12)6月に戸塚球場で行われた早明戦の試合を、東京朝日新聞社がチャーターした飛行機から撮影した空中写真をご紹介Click!したけれど、この写真の中に井伏鱒二が暮らしていた下宿屋が写っているかもしれない。関東大震災のわずか3ヶ月前に撮影された空中写真なので、球場の観客の中には彼も混じっている可能性が高い。
 3塁側スタンド、つまり早稲田通り寄りのスタンドへ避難したということは、南側の早稲田通り側からグラウンド坂を下って戸塚球場に入り、すぐ左手のスタンドへ入って腰を落ちつけたとすれば、井伏鱒二の下宿屋は幕府の高田馬場跡Click!がある早稲田通り沿いの三島か松原、通りをわたった向こう側、穴八幡社Click!スコットホールClick!のある荒井山のいずれかということになる。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ここの野球グラウンドは、下戸塚の高台に上る坂の途中に所在する。三塁側のスタンドから見ると、女子大学のある目白台が正面に当り、そこからずつと右手寄りが伝通院の高み、その先が丸山福山町か本郷あたりといふ見当である。火事は地震と同時にそこかしこから出てゐたかもしれないが、目白台も伝通院の方にも本郷あたりにも、まだ火の手も煙もあがつてゐなかつた。すぐ目の下に見える早大応用化学の校舎だけは単独に燃えつづけてゐたが、その先の一六様の森から市電の早稲田終点の方では火の手も煙も出てゐなかつた。グラウンドの外の坂路には、火事を逃れた人たちが引きつづき先を急いでゐた。高田馬場の方へ逃げて行く人たちのやうであつた。(後からわかつたが、応用化学の校舎は薬品の入つてゐる瓶が独りで床に落ち、床を焦がして火事になつたものであるさうだ)/私と小島君が坐つてゐるすぐ下の段に、人足風の男が二人やつて来て、「お前、後で学校の事務へ行つて、ありのまま言つた方がいいぜ」と一人が言ひ、「それは言ふ。痛いもの」と一人が言つた。地震で早大の煉瓦建の大講堂が一度に崩れ、人足の一人が足を挫かれてゐるのがわかつた。
  
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 井伏鱒二は、目前を横ぎる目白崖線沿いの土地勘がありそうなので、おそらく周辺を散歩していたのだろう。早大の中で、地震により唯一出火したのが理工科応用化学教室の煉瓦ビルだった。薬品が棚から落下し、化学反応を起こして出火したのは下落合の佐藤化学研究所Click!と同じだが、同研究所がボヤだったのに対し早大の応用化学教室は薬品の量が多かったせいか、煉瓦造りの校舎が全焼している。下戸塚界隈で大きな火事があったのは、早大の応用研究室のみで、ほかは住宅や店舗の倒壊が何軒か記録されている。
 応用化学教室を消火したのは、地元の戸塚町消防組だった。当時の様子を、1976年(昭和51)に出版された『我が街の詩・下戸塚』(下戸塚研究会)から引用してみよう。
  
 早大応用化学科実験室より出火レンガ造りの周囲だけを残して全焼したが、戸塚町消防組の必死の消火活動で類焼は免がた(ママ:免がれた)、とその時の消防組の的確な働きに、感謝していたそうです。又校舎も倒れた所が多かった。又民家でも自転車屋さんが押しつぶされて二階が一階になったり、屋根瓦が落ちたりした家も少なくなく、又、水稲荷神社のお富士さんが崩れたり、三島通りの方でも魚藤さんとおもちゃ屋さんの二軒がつぶされました。/板金屋の本田清さんのお父さん等は、ある下宿屋の屋根に登って仕事中地震に会い、屋根にしがみついて、地震が終って気がついてみると、もうそこは、地面だった等と沢山の逸話がありますが、当町に於いては火事を出さなかったのが不幸中の幸いでした。(中略) 当時の三島通りは下町の方から、家財道具を荷車に乗せ転出地へ向う被災者の群で大変な混雑が二週間続いたそうです。
  
 文中に「校舎も倒れた所が多かった」と書かれているが、壁面などが崩れた校舎や講堂はあったが倒壊した校舎はなく、レストランや会議室などが入る大隈会館の屋根が崩落したのが最大の被害だったようだ。戸塚町は、落合地域と同様に関東大震災による損害が軽微だったせいか、むしろ市街地からの避難民を受け入れる側の立場になった。
早大大隈会館.jpg
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 1931年(昭和6)出版の『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)にも、大震災の記録が載っているかどうか調べたのだが、ほとんど記述されていない。大正中期から昭和初期にかけ、早野町長が公金を持ち逃げして行方をくらまし、収入役が引きつづき税金を町民から二重取りして着服・費消して大騒動となり、町議会では助役選出や町金庫の選定などをめぐる乱闘で流血がつづくなど、町政が前代未聞の「激震」状態だったため、町民たちは激怒して呆れはて、町会議員の大半も「バカらしくてやってらんねえや」と抗議辞職して、およそ関東大震災どころではなかったのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合から眺めた、夏の巨大な入道雲(積乱雲)。
◆写真中上は、関東大震災3ヶ月前の1923年(大正12)6月に撮影された戸塚球場の東京五大学野球決勝・早明戦。東京帝大(現・東京大学)野球部が準備不足のため、まだ六大学リーグにはなっていない。は、早大運動会開会式を3塁側から撮影した写真。式台背後には、東西を横ぎる目白崖線が見えている。は、早大運動会のカエル踊り。東京美術学校(現・東京藝大)のヨカチン踊りより、まだ少しは上品だと思われる。(爆!)
◆写真中下は、全焼した理工科応用化学教室の煉瓦ビル。震災前の早稲田大学大講堂()と、外壁が崩落した震災直後の同大講堂()。この震災被害により、正門前に新たな大隈講堂の建設計画が進捗することになった。
◆写真下は、屋根が崩落した大隈会館。は、1922年(大正11)ごろに撮影された早大キャンパス全景。戸塚球場は、画面右上の端に3塁側が見えている。は、関東大震災から1月余の1923年(大正12)10月10日に講義の再開を宣言する総長・高田早苗。

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怪談フォークロアの先に見えるもの。 [気になるエトセトラ]

無電柱化1.JPG
 以前に、根津山Click!の物語に付随した、戸山ヶ原Click!から学習院Click!を経由し、東京郊外へと抜ける地下隧道(トンネル)の伝承および当時の新聞記事について取りあげた。そのとき、2008年(平成20)に発表された小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』(メディアファクトリー)をご紹介したが、きょうはもうひとつ、電柱を地下に埋設する共同溝の工事現場で採取された、近似するエピソードをご紹介したい。
 現在、東京では幹線道路沿いのあちこちで、地下共同溝の建設が行われている。現在の工事は、2007年(平成19)に国交省と東京都が策定した「東京都無電柱化方針」にもとづくものだ。これは、東京オリンピック・パラリンピック2020大会へ向けた整備事業の一環で、「センター・コア・エリア」と呼ばれるエリアの内側と、おもに海浜地帯を中心に行われている。「センター・コア・エリア」などともってまわった表現をしているけれど、要するに山手通り(環六)の内側に位置する区部のことだ。
 下落合の周囲でも、地下共同溝工事はかなり進んでいて目白通りや十三間通り(新目白通り)、聖母坂などで一部工事が完了している。地下共同溝に電線を埋設すると、道幅が広く設定でき緊急車両や歩行者が通りやすくなったり、街の景観が美しくなるなどメリットも多いのだが、逆に障害時、すぐに復旧工事がスタートできなかったり、共同溝自体が破壊された場合は復元に時間がかかるなどデメリットも多い。阪神・淡路大震災では、地上の電柱にわたされた電線に比べ、共同溝へ埋設された電線の復旧に倍以上のリードタイムを必要としたのは記憶に新しい。
 日本は地震国であり火山国でもあるので、ヨーロッパの街角とはまったく風土や事情が異なる。だから、電柱にわたされた電線(電力線)は地下に埋設できても、技術の進化が速い通信線は、そのまま電柱に残されているケースも目立つ。今世紀に入り、100MbpsのEthernetが1Gbpsになったのは、ついこの間のような気がするけれど、すでに少し前までデータセンター仕様だった10Gbpsが一般家庭までとどく時代は目前だ。それが40Gbpsになるのも、おそらく予想よりもかなり早いだろう。
 明治末より、電力線と通信線が同じような電柱に架けられ、戦後は双方が電柱を共有する統合化された時代から、今後は地下と地上とに再び分離していく時代のはざまにいるのかもしれない。そんな状況の中、各地でつづけられる地下共同溝の工事現場から、思いもよらないものが「出てきた」記録がある。
 少し前に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の曽孫である小泉凡Click!が書いた、『怪談四代記―八雲のいたずら―』(講談社/2014)をご紹介しているが、彼の友人である作家の木原浩勝が採取した実話「怪談」のひとつに、そんな共同溝の工事現場のエピソードが書きとめられている。この「怪談」が記録されたのは2008年(平成20)だが、その時点から10年ほど前ということなので、20世紀の末ごろに起きた出来事なのだろう。
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 場所は、おそらく公開するにあたって伏せられているのでハッキリしないが、東京2020へ向けた「東京都無電柱化方針」の事業ではなく、別事業の一環として前世紀末から実施されていた共同溝の埋設工事だと思われる。国土交通省の記録を見ると、「無電柱化整備場」の第3期(1995~1998年)に属する工事だったのではないかとみられる。では、同年に角川書店から出版された木原浩勝『九十九怪談/第一夜』に収録の、「第二十三話・地下坑道」から引用してみよう。
  
 十年ほど前(1998年ごろ)、都内で地下共同坑の工事があり、Sさんはその現場で監督をしていた。/その日も、ショベルカーを使って道路を掘り起こす作業をしていた。/そこへ突然Sさんのいる作業室の扉が開いて、作業員が飛び込んできた。/作業中に突然ガリッガリッと、ショベルカーのバケットの先が煉瓦のようなものに当たったのだという。/そんなバカな!/図面を見るまでもなく、この辺りにそんな古い下水道のようなものなどない。/Sさんは確認のため、ショベルカーを使わずに掘るよう指示を出した。/現場に着くと作業員たちがシャベルを持って、ショベルカーの掘った辺りを掘り始めていた。/しばらくするとあちこちから、ここにも何かありますと声があがりだした。/どうやら、想像以上に大きなものが埋まっているようだった。/注意しながら半日ほど掘ると、かなり長い半円柱状のものが出てきた。煉瓦造りの構造からして戦前に造られた、トンネルのようなものなのだろう。(カッコ内引用者註)
  
 地下から出てきた「坑道」とみられるトンネル状の構造物は、公式な記録(国交省ないしは東京都の図面)には残っていなかったのが、現場監督“Sさん”の対応から明らかだ。Sさんは、「戦前に造られた」と判断したようだが、レンガ積みによる工法はもっと古い時代の遺物を想起させる。
 大正期に入ると、セメントClick!の生産に拍車がかかってコストが大幅に下がり、地上の建築はもちろん地下の構造物も、大粒の玉砂利を混ぜたコンクリートClick!で造られるのが一般化した。工事で発見された「坑道」がレンガ造りだったことは、より古い時代の遺構、すなわち明治期の造作を思わせる仕様だ。以前、こちらでご紹介した学習院に保存されている「下水溝」の写真(どう見ても下水溝には見えないトンネルだが)も、頑丈なコンクリートで構築されているので、大正期以降の建造物だろう。
 地下にあるトンネル状の構造物は、その強度の課題によりレンガ造りからコンクリート造りに取って代わられたのは、大正期のかなり早い時期からではないかと思われる。つづけて、同書の「地下坑道」から引用してみよう。
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 構造物は、共同坑を横断するよう左右に横たわっていた。/このまま放置していては工事が進まない。/いや、そもそもこの構造物は何だろう?/Sさんは、とりあえずショベルカーで壊して中を確かめることにした。/注意深くショベルカーのバケットが、煉瓦を何度か叩くうちに、ガラガラと崩れ落ちて大きな穴が空いた。/作業員たちは、先を争うようにして空いた穴に近寄り中を除き込むと途端に、わぁっと叫び声をあげて、一目散に穴から逃げだした。/Sさんは何があったのかと、穴に駆け寄って中を覗くと暗闇のトンネルの真下に鉄兜を被った白く光った人のようなものが立っている。/人? まさか人がいるわけがない! と目をこらして見ると、白い顔がこちらを見上げた。/うすぼんやりしたその顔には目も鼻も何も見えない。/うわぁ! お化けだ!
  
 ……と、それから現場は大騒ぎになるのだが、街中で幹線道路沿いの工事現場という騒音だらけの環境から、Sさんをはじめ作業員たち全員が、集団催眠に陥って幻覚を見たとは考えにくい。煉瓦で造られたトンネルの穴から、それがのっぺらぼうの「人のようなもの」だったかは不明だけれど、“何か”を見たのは確かなのだろう。
 地下から、公式図面には記載されていないレンガ造りのトンネルが出現し、あらかじめ少なからず不安と戦慄をおぼえる心理状態だったせいで、あらぬものが見えてしまった可能性は否定できないが、ここで問題なのは「お化け」が出たことではない。(そうはいっても、そちらのテーマにも興味津々なのだがw) わたしが問題にしたいのは、同書の趣旨からまったく外れてしまうが、地下から出現したトンネル状の構造物の存在、つまり道路沿いの共同溝工事を想定すれば、その道路とは交叉していたとみられる地下トンネルとは、いったいなんだったのかということだ。
 明治の早い時期から、巣鴨監獄(現・池袋サンシャインシティ)の地下に造られた弾薬庫の存在は、いまではかなり知られている。そこから、地下トンネルを通じて弾薬が東京湾沿岸へ供給されるルートが存在したらしいことも、いくつかの書籍や資料で指摘されている。これらトンネルの存在は、軍機に属することなので当時も、また現在でも公開されていない。いや、その資料自体が関東大震災Click!東京大空襲Click!で滅失してしまって存在しないのかもしれない。
 ひょっとすると、共同溝工事をしていたSさんのチームは、明治期に煉瓦で構築されたそんなトンネルのひとつを、偶然掘り当ててしまったのではないか。この工事現場の場所がハッキリすれば、トンネルが通っていた方角や地面からの深さなどで、別の地点を調査することも可能なのではないだろうか。また、「お化け」(いたとすればw)が鉄兜をかぶっていたことから、戦時中もなんらかの用途で使われていた可能性もありそうだ。先述した根津山のケースも同様だが、東京の地下にはいまだ不明な点が多すぎる。
国交省「無電柱化の現状」201701.jpg
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 Sさんの工事現場では、「お化け」を目撃した翌日に、近くの社(やしろ)から神主を呼んでお祓いをしてもらい、早々に埋めもどしている。ついでに、工事をしていた区の教育委員会に連絡して調査を依頼すれば、工期はやや延びるかもしれないが、これまでウワサでしかなかった明治期の遺構が改めて確認され、世紀末の「大発見」になっていたのではないかと思うと、あっさり埋められてしまった「お化け」とともにちょっと残念だ。

◆写真上:無電柱化の工事を終えた、落合地域を南北に貫通する山手通り(環六)。
◆写真中上は、戦前には「地下街路」と呼ばれた共同溝。は、現代の共同溝。
◆写真中下は、学習院に保存されている「下水溝」と書かれた写真だが、どう見ても下水には見えない。は、敗戦間近な時期に日吉台の地下へ設置された聯合艦隊司令部の地下壕。は、昭和初期に造られた西武鉄道のコンクリート柵。
◆写真下は、2017年1月に作成された国交省のPPTデータ「無電柱化の現状」報告書より。は、無電柱化工事を終えた聖母坂で残っているのは通信線柱。は、無電柱化工事で設置されたトランスなどが収納された地上機器。これが電柱にも増して邪魔に感じるので、ぜひ制御機器のコンパクト化を追求してほしい。

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近衛文麿への盗聴工作を終えたら敗戦に。 [気になるエトセトラ]

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 吉田茂Click!を中心とする、大磯Click!「ヨハンセングループ」Click!の辛工作(スパイ潜入)を終えた東輝次は、次に「コーゲン」こと近衛文麿Click!へのスパイ工作の任務についている。すでに東京は焼け野原であり、戸山ヶ原にあった兵務局分室(ヤマ)Click!も1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で焼け、乙工作(電話盗聴)も辛工作も不可能な状況になっていた。
 そこで、近衛文麿Click!には丁工作(盗聴マイク設置)が選ばれている。だが、近衛文麿は杉並の荻外荘Click!に落ち着かず、各地を転々とするような生活をしていた。天皇へ「敗戦必至」の「近衛上奏文」を提出して以来、陸軍の本土決戦を叫ぶ青年将校たちから、生命をねらわれていると考えていたからだ。東輝次が吉田茂邸へ潜入していた時期に、何度か「上奏文」の打ち合わせで大磯にもやってきていた。
 兵務局分室では、近衛文麿はおもに荻外荘Click!と軽井沢の別荘Click!、そして箱根の麓にある桜井兵五郎の別荘「缶南荘」を往来していることをつかんだ。この時期、下落合(1丁目)436番地(現・下落合3丁目)の近衛邸Click!は空襲で焼失している。そこで、もっとも居住する機会が多いとみられる、箱根の「缶南荘」へ盗聴マイクをしかけることに決めた。近衛の電話を通じて、“反戦和平運動”の動向をつかもうとするもので、1945年(昭和20)6月ごろに具体的な計画が立案されている。
 7月に入ると、神奈川県中郡大根村(現・秦野市)の鶴巻温泉にある旅館「大和屋」に、スパイ工作のベースアジトが設けられ、東輝次は「秘密兵器試験隊」の名目で一員として参加していた。さらに、前線の工作アジトとしては、箱根登山鉄道の箱根湯本駅前にある橋をわたった陸軍病院(現・湯本富士屋ホテル)に設置された。戦争も末期になると、箱根の陸軍病院ばかりでなく箱根にあるほとんどの旅館は、戦地から送還された傷病兵で超満員の状況だった。
 湯本の陸軍病院の1室に、「秘密兵器」の材料と称して盗聴に必要な機材や通信線などが運びこまれると、東輝次を含む3名の工作員は活動を開始した。小田原市入生田の山中にある「缶南荘」へ、山麓から延々と盗聴用の通信線を埋設し、近衛文麿が利用しているとみられる居室の縁の下まで引いていく計画だった。すでに缶南荘へは砂糖やバター、食油などを売りに、工作員のA曹長が「便利屋」として台所から接触し、2棟ある別荘内のおおよそ部屋数や見取図を作成していた。
 1945年(昭和20)7月10日の深夜0時すぎに、3人の工作員は箱根湯本駅前の陸軍病院を抜け出すと、吊り橋の三枚橋をわたり、国道1号線を小田急線の入生田駅方面へと下りはじめた。3人がかたまって歩くと目立つので、バラバラになって国道を下り、入生田の集落手前にある牛頭天王社の境内を集合場所と決めていた。以下、2001年(平成13)に光人社から出版された東輝次『私は吉田茂のスパイだった』から引用してみよう。
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 前を行く者も、道をはずれたのであろう。ザラザラ葉ずれの音は、もう闇の中に吸われて聞こえて来ない。ジイジイとなく声の音が気味わるい。落葉の中に燐が星のように光っている。/神社脇に出ると、杉の林もまばらになる。かすかながらも光がさし込んで来る。そこまで最初に来た者が、口笛を吹く。他の者はそれを聞きつけて寄って行く。ここで集合を完了するのである。/三人は携行品を点検して、中腹のこの神社前を国道に沿って進むと、前方に水の音が聞こえてくる。これが工作の起点になる貯水地である。/貯水池は三坪あまりの小さいものである。そこから送水管が二本、国道脇にあるポンプ場に送り込まれている。/その送水管の下から、工事をはじめるのである。(中略)軍用電線の端末を二十メートルばかり残して一ヵ所に埋め、それから缶南荘に向かって埋め進めていく。一人が円匙で方向を決め、土を左右に分ける。次が十字鍬でその中を浚える。次が電線を埋めて土をかむせ、その上に落葉や草を植えて行く。これはまったく手の感覚だけではなく、全神経の集中をしなければできない。
  
 貯水池の脇から外灯のまったくない暗闇の山中を、手探りで泥だらけになりながら円匙(スコップ)を手に通信線を埋設していく、気の遠くなるような作業だった。ポンプ小屋の近くからスタートしたのは、同設備から盗聴機器の電源をとる計画だったのだろう。午前5時になると、周辺が明るくなる夏季のため撤収しなければならず、実質ひと晩に5時間弱の作業しかできなかった。この小さな貯水池から、近衛文麿が滞在する「缶南荘」まで約300mもの距離があった。
 通信線の敷設は、缶南荘の周囲をめぐらす1mほどの石垣にはばまれ、その下を突破するのにひと晩かかっている。南西へと拡がる広い芝庭の石垣沿いに、通信線は缶南荘の北側斜面を大きく迂回して、建物の北東側から屋敷の縁の下へ引き入れることにした。芝庭へ入りこむのを避けたのは、番犬に獰猛なシェパードが飼われていたからだ。シェパードは、夜中に東輝次たちの気配を嗅ぎつけると狂ったように吠えたが、彼らは番犬対策に陸軍科学研究所から特別な薬品をもらっていた。以下、同書からつづけて引用してみよう。
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 われわれは戦場における匍匐(ほふく)前進と変わることなき全身をしなければならなかった。匍ったままにて、同じように線を埋めていった。/この芝生に入る日になると、A曹長はかならず訪問して、犬小屋に薬品をふりかけた。それは理科学研究所にて作った一種の媚薬にて、その薬品の臭いをかぐと、犬の生理に変調を来たして交尾期の状態になるのである。だから、いつもの警戒心もなく、邸の外に飛び回るのである。それでないと、われわれは、その芝生に近寄れないのである。/缶南荘の本家は、二棟からできており、渡り廊下にてつながっていた。「コーゲン」の居室は、その裏の方の一棟にて二間からできていた。そして建物は普通の日本家屋のそれではなく、鎌倉時代の神社仏閣のように縁が高くできていた。しかし、それに入る口を見つけねばならない。/一日、その縁の下を逼い回った。なかなか見つからなかった。(中略) 案の定、渡り廊下の下付近にがんどう返し式の出入り口を発見したのである。
  
 東輝次は「理科学研究所」と書いているが、イヌの媚薬を製造したのは陸軍科学研究所の登戸研究所で、「番犬防御法」を開発していた研究チームだ。ソ連国境に配備されている、国境警備隊の番犬用に開発された「警戒犬突破」用の「発情法」薬だった。
 ようやく、缶南荘にいる近衛文麿の居室の縁の下までたどりついた3人だが、使用した通信線は400mに達していた。縁の下には7月27日に到達しているので、工作開始から実に17日間もかかっている。1946年(昭和21)に撮影された空中写真を見ると、缶南荘の前には大きな谷戸が口を開けており、そこへ通信線をわたして山の中腹に建つ缶南荘までたどり着くのは、容易なことではなかっただろう。真鍮パイプの中に通信線を通し、渓流をふたつも越えなければならなかった。翌7月28日、近衛が滞在する二間を分ける敷居の下に支柱となる木材をかませ、マイクロフォンの設置を終えている。
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 こうして、小さな貯水池のそばにある番小屋へ受信装置を設置し、近衛文麿が現れるのを待ちかまえた。だが、近衛は8月14日まで一度も缶南荘に姿を見せなかった。この日の夜、東輝次たちは早くも敗戦を知り、虚しさを抱きながら翌15日の朝、急いで東京へともどると新宿の伊勢丹前で天皇のラジオ放送を聞いている。そして、ただちに戸山ヶ原にある兵務局の代用分室となった厩舎にもどると、膨大な機密工作の書類を焼却しはじめた。炎暑の中、すべての書類を灰にするまで丸4日もかかっている。

◆写真上:戸山ヶ原の兵務局分室があったあたり(左手)の現状で、右側の浅い穴は敗戦直後に防疫研究室(731部隊本拠地)による人体標本(人骨)埋設証言の発掘調査跡。
◆写真中上は、いまも残る近衛騎兵連隊の馬場と兵務局分室の間に遮蔽目的で築かれた土塁。は、国立国際医療センター(旧・陸軍第一衛戍病院)の上階から撮影した大久保通り沿いの兵務局防衛課跡(矢印の集合住宅あたり)で、向かいのビルは総務省統計局。
◆写真中下は、1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる箱根湯本駅前の旧・陸軍病院全景。下左は、1944年(昭和19)に撮影された軍人に見えない長髪の東輝次。下右は、いまも残る貯水池と箱根登山鉄道まで下る2本の送水パイプ。
◆写真下上左は、荻外荘応接室の近衛文麿。上右は、桜井兵五郎。は、1946年(昭和21)の空中写真に貯水池から缶南荘までの通信線を埋設した想定ルート。


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なんだか変だよ「大東京の味覚」の味覚。 [気になるエトセトラ]

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 1933年(昭和8)に博文館から出版された『大東京写真案内』Click!には、東京35区の写真とともに東京の“うまいもん”Click!を出す食物屋(くいもんや=下町方言)が紹介されている。昭和初期に有名だった、代表的な店が紹介されているのだけれど、「牛すき焼き」Click!と「牛鍋」の区別がまったくついてないし、江戸後期の深川発祥である魚介類の練り物鍋=「おでん」の紹介が丸ごと欠落しているし、「柳光亭」Click!を「浅草」と書くなど、著者の感覚に江戸東京の匂いClick!がしないのだ。
 ちなみに、「柳光亭」は神田川に架かる浅草橋の近くにあるけれど、浅草橋はもともと千代田城外濠の浅草見附(御門)Click!跡の名称であって、地元では誰もその地域を「浅草」とは呼ばない。浅草から2kmも南へ下り、駒形や蔵前のさらに南に位置する同料亭を呼ぶとすれば、「柳橋の柳光亭」が正しいだろう。江戸期も昭和期も、また現代も「浅草」はもっとずっと北側の概念なのだ。ご近所でたとえれば、行政区画が高田町エリアにあった雑司ヶ谷鬼子母神Click!のことを、誰も「高田鬼子母神」と呼ばないのと同じだ。高田地域は、雑司ヶ谷の南西ととらえるのが昔からの地元の感覚であり“お約束”だろう。
 さて、筆名がないので誰が書いているのかは不明だが、東京の飲食店を紹介する「大東京の味覚」の一文を『大東京写真案内』から引用してみよう。
  
 夥しい「東京食物案内記」の記すところによると、先ず和食では山王台の星ヶ丘茶寮、浅草の柳光亭、築地の八百善。洋食では東洋軒に精養軒、帝国ホテルのグリルに中央亭にボントンか二葉、支那料理では日比谷の山水楼に虎の門の晩翠軒、建物の凄い目黒の雅叙園、朝鮮料理では赤坂山王下の名月、大阪料理の浜作に京都料理の栖鳳等々、挙って推奨されてゐる有名店ではあるが、洋食や支那、朝鮮、上方料理に江戸の風味を味ひ得る筈は勿論ないし、星ヶ丘茶寮や八百善や柳光亭のお料理では、余りに非大衆的で、物々しくて、億劫で、手軽には味ひ兼ねると云つた有様。
  
 紹介されている店は、いまは潰れてなくなってしまったものや、現在でもがんばって営業をつづけている店もある。わたしが子どものころまで残っていて、親に連れていってもらった店もあれば、わたしの生まれる前に閉店したところもある。著者が「余りに非大衆的」と書く、江戸期からの八百善や星ヶ丘茶寮は知らないが、柳橋の柳光亭へは親父と出かけたことがある。千代田小学校Click!の同級生で、のちに柳橋芸者になった女性の引退の宴席Click!へ招かれたとき、なぜか親父はわたしを連れていった。
 子どものうろ憶えなので、それほど正確ではないかもしれないが、著者が「余りに非大衆的」と書くほど、目黒雅叙園Click!のように浮世離れした悪趣味で野暮な雰囲気(もともと郊外温泉風呂の目黒雅叙園の場合は、あえて非日常的なそれを狙っている)でも、特別な風情でもなかった。当時もいまも(城)下町Click!にあるような、ふつうの料亭であり、刺身料理は驚くほど新鮮で美味だったような憶えがあるが、出される膳もくどく凝ったものではなかったように思う。著者は、一度も柳光亭を利用したことがないのではないか? もっとも、わたしが同料亭で飲食したのは戦後1960年代ことであり、戦前は店の風情(営業方針)が大きく異なっていた可能性もあるのだが……。
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 つづけて、寿司の一文を同書から引用してみよう。
  
 寿しは屋台に限るとよく云はれる。その朝仕入れた材料をその日の中に使つてしまつて、しかもお客のすぐ眼の前で握る、お客は直ぐそれをつまんで口に投込む。このリレーがうまく行けば行く程通(つう)と呼ばれたもので、そのつまみ方に又コツがある。(中略) もっともこれは一瞬の事で、すし屋の親爺が握る、手にとる、口へ投込む、握る、手にとる、投込むと、調子よくゆかねばほんたうのすし通(つう)とは云はれない。馬鹿に面倒な話であるが、かく程迄になれなくとも、たとへ真中に包丁を入れて貰つて、割箸でつまんで醤油に浸して召上るとしても、ほんたうに生きのいゝ中とろを、程よく握つた庄内米の御飯にのつけて、所謂煮きりのつけ醤油に味をつけて食つた味は、凡そ東京の味覚の中でも随一であらう。
  
 なにを勘ちがいしているのか、別に寿司屋に入って「親爺」との間でせわしない「リレー」などしやしない。w 自分のペースで食べて、味わえばいいだけの話だ。講談や時代劇に登場する、昼間はなにかと忙しい日雇取(ひようとり)か、博徒や地廻りの輩じゃあるまいし、出入りの合い間にでも寿司を食っているのだろうか?
 1日じゅう外働きの職人に多い、冷えきった身体を温めるための「熱い風呂が好き!」Click!な習慣(木場を抱える深川あたりの冬場の習慣?)を、商人や武家を問わず「江戸っ子」(町名+“っ子”はいうが、こんな茫洋としたくくり方はしない)全体のイメージに敷衍化したのと同様、あるいは江戸期から下町の名物だった、すき焼き料理(鴨肉+豆腐や春菊・長ネギなど江戸近郊野菜の具が多かった)について、明治以降の牛鍋をほんのチラ見しただけで、「東京のすき焼きは汁を先に張る」などというトンチンカンな言質と同じように、架空の「江戸東京人」のイメージをつくってやしないだろうか?
 自身の出身地の文化や習俗、趣味、嗜好、生活と比べ、どうしても合わないし理解できない江戸東京地方の事象は、ほんの一部の街の慣習や一部の人々の嗜好などを、ことさら戯画化して揶揄しながら「笑いもん」にし、江戸東京の全域へとスリカエて敷衍化する、明治以降にさんざんやられてきた、いつもの“手”ではなかろうか。「江戸っ子」は「宵越しの銭は持たない」などと、バカをいっちゃいけない。確かに気風(きっぷ)や気前はいいかもしれないが、そんなことをしていれば江戸後期にはロンドンと並ぶ世界最大の都市など、とても構築できやしないのは自明のことだろう。
 文中で盛んに「通(つう)」という言葉を多用しているけれど、著者の記述に反して(城)下町の地元ではマグロの赤身は食べるが、もちろん「中とろ」の脂身など口にしない。これは、わたしが子どものころまで残っていた頑固な習慣なので、1933年(昭和8)の当時ならなおさら厳格に、江戸東京の食文化や美意識として守られていたはずだ。現代では信じられないかもしれないが、マグロの脂身(いわゆるトロ)は棄てるかネコ用のエサだった。ネコのエサを食う「通」など、かつて見たことも聞いたこともないが、親父は頑なに口に入れなかったものの、わたしは近ごろ口にするので、おそらく「通」ではないのだろう。
 つづいて、蕎麦について書いている箇所を同書より引用してみよう。
  
 そばも亦東京に限る。「そばは信州」と云はれ、現に軽井沢駅プラツトホームの一名物でもあるが、あの熱気舌を焼く美味さは夏なほ寒き彼地の気候の然らしめる所の美味さであつて、ほんたうのうまさとは云へまい。「そばは信州」とは、信州がそばの産地である謂であり、その食料としてのうまさは東京に勝るところはまづないと云つてよからう。そのそばももりに限る。厳冬猶冷たいもりに限る。(中略) もつともこれは手打ちのそばのことで機械うちだとうまくゆかない。
  
 著者は、蕎麦Click!は「東京に限る」「東京に勝るところはまづない」などと書いているけれど、そんなことはない。w 江戸東京蕎麦の故郷である信州の蕎麦はもちろん、野趣あふれる香ばしい太めの南部(岩手)蕎麦、こちらでは味わえない独特な風味の山陰(特に出雲)蕎麦など、それぞれに独自の味わいや趣きがあって美味しい。著者の感覚は、妙なところで無理やり「東京人」を気どっていて、キザ(気障り)で嫌味で不愉快だ。
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 ちょっと余談だが、最近「手打ち蕎麦」と銘打つ蕎麦屋があちこちにでき、期待して入るのだけれどガッカリするケースが多い。「腰がある」蕎麦を「硬い」蕎麦と勘ちがいしているのだろうか、もぐもぐグチャグチャClick!と汚らしく何度も噛まなければ、のどを通らないような蕎麦を「手打ち蕎麦」だと思っているフシさえ見える。そのようなおかしな店は、(城)下町よりも乃手のほうが多いのが現状だろうか。
 そのほか、「う」Click!や天ぷら、鍋料理、鳥料理などなど、江戸東京の食べ物をずいぶん羅列していろいろ書いているのだけれど、前述のように「鍋」料理と「すき焼き」料理の区別さえつかない点や、深川の生簀料理で出た余り魚から派生した、江戸期由来の“おでん”がリストにさえないなど、どこかで地元の感覚との大きなズレを感じるのだ。
 キリがないので、最後に天ぷらについて同書から引用してみよう。
  
 天ぷらは何と云つてもエビに止めを差す。前の独逸大使ゾルフさんが推賞したのも、チヤツプリンが感嘆の余り大切なステツキを折つたのもこのエビの天ぷらであつたと云ふ。エビの最上は東京湾一帯の車エビ、それも三寸五分から四寸の大さのもので、目方は六匁乃至八匁のもの、(中略) 衣のとき工合、つけ方、火加減、油の煮え工合、それから揚げ方に至つては、これも亦曰く言ひ難しで、中々の修練が必要であることは勿論である。
  
 エビの天ぷらをものすごく称揚しているけれど、太平洋へ口を開けて新鮮な、ありとあらゆる魚がふんだんに手に入る江戸前の天ぷらといえば、エビなどよりもまずキスやサヨリ、マハゼなどの活きのいい白身魚か、アナゴが挙げられるのではなかろうか。欧米人が好きだからといって、地元でも食の優先順位が高いとは限らない。
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 天ぷら=エビがことさら“高級”で“重視”されるようになったのは、わたしの認識によれば戦後のことであって、著者が書く時代の江戸東京の地元では、“魚”ではないエビのプライオリティはもっと低かったはずだ。芝沖で採れた、細かな芝エビを混ぜたかき揚げ天なら、もう少し人気があって順位が上かもしれないが……。
 そのほか洋食屋やベーカリー、水菓子屋Click!(フルーツ店)、菓子屋(喫茶店)などの紹介や捉え方もなんとなくチグハグで違和感をおぼえる。少なくともわたしの感覚からすると、「大東京の味覚」の味覚は少なからず、おかしいとこだらけのように映るのだ。

◆写真上:いまのところ近所の「う」では、気に入っている高田馬場「愛川」Click!。店主の体調がすぐれないのか、ずいぶん前から予約を入れないとなかなか食べられない。
◆写真中上:以下、ざっかけない東京の“うまいもん”。からへ寿司、明治以降は牛肉も加わる日本橋の鴨すき焼き、牛すき焼きと混同される先に汁を張った牛鍋、江戸期からアオジシ(ニホンカモシカ)とともに大江戸ではおなじみのシシ鍋=“ももんじ”Click!
◆写真中下からへ小腹満たしに最適な蕎麦、深川生まれのおでん、同じく柳川、明治期に早稲田の学生街で生まれた和洋のカツ丼Click!。ちなみに、おでんの具に魚介類の微妙な風味のちがいを台なしにする、獣肉を入れるのは絶対に許せない。
◆写真下からサツマイモClick!以外ならたいがい好きな天ぷら、江戸期からの吉原通いに人気があった蹴とばし屋の桜鍋、同じく江戸下谷(上野)のケコロ(岡場所)通いから生まれたやき鳥Click!。おまけのデザートは、滝沢馬琴の超ヲタクぶりで知られる向島は長命寺仕様の、大江戸はオオシマザクラの葉をつかった元祖桜餅Click!

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