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街角や風景を描く佐多稲子の表現力。 [気になるエトセトラ]

中村商店跡.JPG
 佐多稲子Click!の文章を読んでいると、その街の様子の描き方や地形描写、風情や自然の写し方に舌を巻くことが何度もある。同じく、地形や街の描写で印象に残る作家に大岡昇平Click!がいるけれど、大岡が少しマニアックに古い地勢や地質・地層まで掘り下げて描くため(ときに新生代までさかのぼることがある)、現状の日常に拡がる風情と土地の様子、そしてなによりも書かれる物語自体から若干の乖離感が生まれるのに対し、佐多の文章は非常に的確かつ「ちょうどいい」表現なのだ。それでいて、地域の描き方に不足を感じさせない、類まれな描写力をもった作家だと思う。
 旧・神田上水(1966年より神田川)をはさみ、下落合とは対岸にあたる戸塚町(現・高田馬場)側に拡がる、北向きの河岸段丘斜面を描いた文章を、1955年(昭和30)に筑摩書房から出版された『現代日本文学全集』第39巻所収の、佐多稲子『私の東京地図』から引用してみよう。ちなみに、文中で「吉之助」と書かれているのは、治安維持法違反で服役していた豊多摩刑務所Click!から出獄したばかりの、夫の窪川鶴次郎Click!のことだ。
  
 吉之助が刑務所から出て来ると間もなく私たちは、小学校上の崖ぎはの家から、小滝橋よりに移転してゐた。やつぱり大通りの北側で通りからちよつと入つた路地の奥であつた。この辺りは、小滝橋から戸塚二丁目のロータリー近くまで、神田川の流れる落合の窪地へ向つて横に長く丘をなしてゐる地形なので、そのまん中を一本広い道路が通つてしまふと、両側とも奥ゆきのない住宅地であつたが、暫くここに住んでゐるうちに、この土地の古い姿が、その後に建つた小さい借家の間に自づと見えてくるのであつた。その幹の周囲は二人で抱へる程もある大欅が屋敷の二方を取り巻いてゐるのは、この辺りの旧家であつた。同じ苗字の酒屋が大欅の邸からすぐの近さで大通りにあつたのも、他の酒屋とはちがつてどつしりとした家造りであつた。そのとなりの煙草屋もやつぱり同じ苗字で家作も持つてゐるし、その向ひの八百屋も同じ身内だといふふうである。
  
 佐多稲子が、「小学校上の崖ぎはの家」と書いているのが、戸塚第三小学校の坂上にあたる戸塚4丁目593番地(上戸塚593番地)にあった借家Click!のことだ。その次に、住所が不明だが「大通りの北側」、つまり同じ早稲田通りの北側である戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)に引きつづき住んでいることになる。
 この文章を読んだとたん、おそらく現・高田馬場4丁目の同地域に古くからお住まいの方なら、すぐに当時の情景が鮮やかによみがえってくるだろう。写真やイラストでしか知らないわたしでさえ、現在の街並みや地勢と重ね合わせてリアルに想像することができる。大ケヤキのある屋敷は、このあたり一帯の地主である戸塚4丁目589番地の中村兼次郎邸であり、酒屋と煙草屋は戸塚4丁目767番地の「升本酒店(中村商店)」と「中村煙草店」だ。向かいの青物屋は、中村家の親戚とみられる戸塚4丁目591番地の「森田屋青果店」のことだ。
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 ムダな描写や、不要な記述がひとつも存在しない、情景描写のお手本のような文章表現だろう。前後のストーリーに重ね合わせると、ジグソーパズルのピースようにピタリとこの位置にあてはまる。ふと、1930年代の戸塚地域を描いた濱田煕Click!の挿画で、佐多稲子の『私の東京地図』を読んでみたい……という妄想がふくらむ。おそらく、永井荷風Click!木村荘八Click!のコンビネーションのような、出版史に残る本ができあがるのではないだろうか。
 いや、戸塚地域に限らず『私の東京地図』で描かれる街々(彼女が若いころに住んでいた下町Click!方面が多いのだが)も、生きいきとした街並みや人々の様子が記録されている。おそらく、とてつもない努力を重ねて、彼女はこのような作文技術を獲得しているのだろう。わたしも、足もとにも及ばないながら見習いたい表現技術だ。
 このころの佐多稲子は、毎日「転向」という言葉と向き合っていた。思想犯として豊多摩刑務所にいた夫が出獄できたのは、「転向」して思想を棄てたからではないかという疑念を抱えながら、面と向かって夫には訊けずに日々をすごしている。上落合に住む中野重治Click!の妹・中野鈴子Click!と小滝橋を歩きながら、「転向」について考えつづける。再び、『私の東京地図』から引用してみよう。
  
 私はあるとき、吉之助(鶴次郎)と同じに検挙されて前後して出獄してきた友達の妹と二人で小滝橋のきはを歩いてゐた。/彼女は兄のことを人に指摘されたのが辛い、と言つて、悲しい顔にうつむいて、口ごもりがちに言つた。/「兄は転向したのでせうか。だけど、刑務所を出るのにそれがみんな必要といふのなら、牧瀬(窪川)さんも、やつぱり転向をなさつたのですわね。」と、吉之助のことを言つた。/「転向?」/私は視線のおき場に迷ふやうにそれを聞いた。小林に供へた花を分けて差入れた私たちの気持は失はれてゐるわけではない。が、出獄してきた人にそれをただすことを私たちは忘れてゐる、といふよりは、疑ひを持たないでゐたのである。夫婦の間では、それは主観で語られる。また近しい周囲でもその主観を認め合つた。が、しかし、政府の宣伝に使はれたこの言葉は、お互ひ同士の胸に、しみとなつて広がつてゆき、逡巡させた。(カッコ内引用者註)
  
 「小林に供へられた花」とは、小林多喜二Click!の葬儀で供えられた花を分割して花束にし、豊多摩刑務所に「小林セキ」の名義で差し入れた、1933年(昭和8)2月下旬の出来事をさす。壺井栄Click!が、服役中の壺井繁治Click!へとどけたのも、佐多稲子らと相談して同時に行われていたことがわかる。
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シチズンプラザ.JPG
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 早く出獄して密かに非合法活動を継続したい人間も、合法的な抵抗をつづけるために“ウソも方便”で今後は政治活動をしないという文章に署名した人間も、またほんとうに従来の思想を棄てて釈放された人間も、ひとからげに「思想を棄てた転向者」として特高Click!は巷間へ宣伝しつづけていた。これにより、思想の中身を問わず政府へ反対の意思表示をつづける人々の間に疑心暗鬼を生じさせ、分裂・分断をはかるのがねらいだった。そして、1935年(昭和10)をすぎるころから、まるで「転向者」の本心を探る“踏み絵”のように、文章をなりわいとする人々は「従軍作家」として、前線へ次々と送られていった。
 この時期、佐多稲子は宮本百合子Click!とともに、同じく治安維持法違反で特高に逮捕・起訴されており、小さな子どもがいるので保釈されてはいたが、公判を抱えて裁判所へ通う身だった。同時に、夫の窪川鶴次郎が「仕事部屋」を借りて家を空けがちになり、浮気をしている様子がうかがわれた。佐多稲子が生涯において、もっとも精神的に不安定な時期だったのだろう。裁判所へ出かけると、支援のためにきてくれたのは柳瀬正夢Click!の「にこやかな顔」ひとりのみで、かんじんの夫は連れ添うどころか、公判の間際にあたふたと駆けこんでくるようなありさまだった。
 日米戦争がはじまった1941年(昭和16)12月8日以降、佐多稲子は上落合の友人たちが遊びにくれば深夜まで話しこんだ。
  
 「今に、米を喰はずに、ゴムを喰へ、と言ふだらう。」/「伊勢神宮に戦勝祈願をするやうな軍人だから、この戦争が起せたんだね。」/「今に、やられるから。」/「声が高くない?」/「群長などが、立聞きをするさうだからね。」/隣組はきびしくなつて、それに強制貯金などで私の組の長屋はいつも物議を起した。長屋の人々から投げられる目は、私の神経にこたへた。さういふ前後に、大通りにあつた時計会社は、どんどん増築して、この辺にたつた一つのコンクリートの大工場になつた。五銭コーヒーの店も通りに何軒も出来て、少年労働者や、若い娘たちの休息の場所になつた。戸塚キネマも改修して戸塚東宝に変つた。
  
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 「大通りにあつた時計工場」は、現在でもかたちを変えて営業をつづける高田馬場4丁目のシチズンプラザのことだ。「ゴム」どころか、配給される食糧も日々乏しくなり、「神頼み」ではじめた戦争で、完膚なきまでに叩きのめされる大日本帝国の破滅・滅亡は、すぐそこまで迫っていた。その直前、佐多稲子のいる戸塚一帯は二度にわたる山手空襲Click!で壊滅するのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戸塚4丁目767番地にあった、中村商店(升本酒店)と中村煙草店の現状。
◆写真中上は、濱田煕の記憶画による中村商店(升本酒店)と中村煙草店。以下、イラストは1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。は、戸塚4丁目591番地にあった森田青果店。は、森田青果店跡の現状。
◆写真中下は、戸塚4丁目856番地にあったシチズン時計工場(戦時中は大日本時計株式会社と改称)。は、現在もシチズンプラザとして営業をつづける同所。は、戸塚3丁目154番地にあった戸塚東宝(旧・戸塚キネマClick!)。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚4丁目界隈。は、戦後の1948年(昭和23)の焼け跡写真にみる同書。シチズン時計工場はコンクリートで焼け残り、早稲田通りの南側の一画が空襲被害をまぬがれているのが見てとれる。は、戸塚4丁目589番地にあった中村兼次郎邸跡の現状。


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ソビエト政権への反乱を禁じる特高。 [気になるエトセトラ]

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 『詩戦行』を通じて、劇作家であり小説家でもある飯田豊二とかかわりができた秋山清Click!は、1930年(昭和5)の秋ごろから演劇の世界へと踏みこんでいる。飯田豊二が、アプトン・シンクレア原作の『ボストン』を築地小劇場で上演していたころだ。このころの秋山清は、東京朝日新聞社のエレベーターボーイを突然クビになり、飯田豊二の紹介で出版社に勤め出していた。
 『ボストン』を上演した解放劇場で、秋山は演劇業務の雑事全般を処理する庶務係のような仕事をしていた。演劇にはまったく興味のなかった彼が、それでも解放劇場に加わったのは少しでも仕事を増やして、生活を安定させるためだったのだろう。1930年(昭和5)の暮れには蓄えも尽き、母親とふたり暮らしの彼はほとんど進退がきわまった。そのとき、仕事をくれたのが飯田豊二だったのだ。
 解放劇場の『ボストン』は、1931年(昭和6)2月に上演されたが、秋山は飯田への義理立てからか、劇場の仕事や雑事を積極的に手伝っている。このとき、彼は渡米する直前だった晩年の竹久夢二Click!と知り合って交流し、のちに著すことになる評論「夢二」シリーズの素地を形成している。秋山清と竹久夢二では、どこか住む世界がまったくちがうように感じるのだが、彼は明治末の大逆事件を出発点とし漂泊する抒情画家のどこかに、アナーキズムの匂いを嗅ぎとったものだろうか。
 築地小劇場での『ボストン』の成功をうけ、解放劇場は革命後ソ連のクロンシュタットで起きた水兵たちの“反乱”をテーマに、次の上演企画を立てはじめた。解放劇場は、牛込区の区役所前にあった元・寄席の建物を借りて活動している。新たな演目の「クロンスタット」は、飯田豊二によって脚本の前半部がすでにできており、本読み稽古がスタートしていた。ところが、かんじんの飯田が次作の稽古と上演準備中に、突然、解放劇場を辞めてしまった。この飯田の辞任について、秋山は「身を引いた」としか書いていないが、おそらく表現路線をめぐる劇団の内部対立ではなかっただろうか。庶務係としての秋山には、どうしようもない経緯だったのだろう。
 支柱を失った解放劇場は動揺したが、次の柱になるのは必然的に劇団の経営、会計、庶務などをこなしていた秋山になりそうだった。演劇に興味はなく、脚本など書いたこともない彼が、周囲から頼りにされるようになっていた。いや、おそらく周囲から盛んにヨイショされたので、秋山自身も徐々にやる気になったのだろう。彼は、飯田豊二が途中で放棄した脚本「クロンスタット」の後半を、A.ベルクマン『クロンスタットの叛逆』などを参照しながら四苦八苦して書きあげ、タイトルを『クロンスタットの敗北』とつけた。
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 ロシア革命下におけるクロンシュタットの“反乱”は、政治の独裁や市民への統制、表現規制を強めるボルシェビキに対し、“民主化”などを求めて20,000人近い水兵たちが蜂起した事件だが、劇団内から「敗北」と名づけることに異論が出たようだ。だが、秋山は敗北を認めるリアリズムこそ、現状における重要な課題なのだといって譲らず、劇団員たちは秋山にも辞められては困ると考えたのか、最終的に上演タイトルは『クロンスタットの敗北』と決定した。
 前回上演の『ボストン』でも、特高Click!の検閲係に脚本をさんざん削除され、次々に台詞の変更を要求された経緯を見ているので、秋山清は脚本『クロンスタットの敗北』を早めに牛込神楽坂警察署の特高課へ提出したようだ。彼は、ほとんど削除や変更要求なしに同脚本が検閲を通り、上演許可の通達がすぐに下りると思っていた。ところが、待てど暮らせど上演許可が下りない。予定の舞台は、1931年(昭和6)6月の予定であり、4月になっても特高の検閲係からはなんの連絡もなかった。
 ようやく特高から呼び出しがあり、牛込神楽坂警察署に大急ぎで駆けつけると、秋山にとっては意外なことに「上演禁止」がいいわたされた。彼の前に投げだされた脚本の表紙には、大きな「禁止」の赤いスタンプが押されている。禁止の理由を聞いて、秋山は愕然とした。ソビエト革命政府に反抗し蜂起した、クロンシュタットの兵士たち自体がケシカランといわれたのだ。以下、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された、秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』より引用してみよう。
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 そして係りはいく分にやにやした調子で私に質問してきた。
 「上演できると思ったのか」
 「日本政府の嫌いな革命ロシアの政府に反抗するのだから、文句はあるまいと思ったんだ」というと、彼はゆっくりと首を振りながらいった。
 「そうではないんだ。赤い政府であろうと、そうでない政府であろうと、国家や政府に反抗することは許せるものではない。だからこの脚本は、科白などを消したり、書きかえたくらいで、どうなるというものではないんだ」
 私は脳天を木槌で真向から叩きつけられたような気分がして、居たたまれぬほどに恥ずかしかった。まことに検閲の言う通りだ。国家となればAもBも同じものだ。国民民衆を支配することにおいては、その権力は一つのものだ。ロシアもアメリカも中国も日本も、イギリスも、それぞれに国体は異なって見えても、国家対民衆の関係は変るものではないということを、この時私ははっきりと腑に落ちた。
  
 戦前・戦中の特高警察というと、社会主義や共産主義、サンディカリズム、無政府主義、あるいは北一輝Click!陸軍皇道派Click!の原理主義的社会主義、そして太平洋戦争が近づくころには民主主義や自由主義、国家神道(戦後用語)以外の教義、皇国史観Click!以外の史学などの思想や表現、学問、宗教を取り締まったのだと記述されることが多い。
 確かに、多くの特高はそのような意識(対峙的な思想・信条)を持って職務を遂行していたのだろう。だが、牛込神楽坂警察署の特高検閲係のように、提示された思想自体が問題なのではなく、国家や政府に反抗・叛逆するという行為自体や表現が、すべて問題なのだとする人間もいたということだ。
 「そんなこと、官僚や警察官ならあたりまえじゃないか」と思う方がいるとすれば、その「あたりまえ」意識こそが課題なのだと思う。このような人間は、幕末の明治維新下で江戸幕府内にいても、革命ロシア政権の治安機関にいても、フランス革命の王党派内にいても、またナチス政権下の警察機構に勤務していても、まったく同様の仕事を平然と遂行し、機械的で没主体的(=無思想的)な“弾圧ロボット”と化すだろうからだ。
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 日本では、当の特高警察を抱えた内務省警視庁が、1945年(昭和20)の敗戦直前に大日本帝国を支える警察から、占領軍(G2-CICClick!)へ仕える米軍の「警察」へと脱皮するために、臆面もなく180度の“転進”をしている。以下、同年に発行された『警視庁事務年鑑』から引用してみよう。
  
 急迫せる事態に対処するため、政府においては、警察力の拡充強化を決定、わが警視庁も、首都の特殊性から、本庁に警備本部を設置し、防空課、情報課及び特高各課を廃止し、組織の整備を行なうとともに、連合軍の都内進駐に伴い新たに渉外課を設け、各署に通訳及び通弁巡査を配置する等、戦時態勢から平時態勢への機構改革を断行、万全の態勢を整えた。
  
 これが、つい昨日まで「鬼畜米英」「アメリカ人をぶち殺せ!」Click!と叫んでいた組織(人間)が書く文章だろうか? まるで敗戦など他人事で、ただ時代に合わせて「平時態勢」(!)の組織改革をしただけ……とでもいいたげな表現だ。そこでは、特高警察などまるで「なかったこと」「不要だった部局」であるかのように廃止され、いつの間にか米軍への“営業部”までこしらえ上げている。特高警察によって虐殺された、1,000名を超える人々への責任は、いったいどこへいってしまったのだろうか?
 事実、秋山清が書く「革命ロシアの政府」はその後、スターリニズム下でこのような「思考しない」官僚テクノクラート・治安機関の人間を大量かつ組織的に排出したことで、約70年間にわたり苦しめられることになった。そして、いまも同様の苦しみに喘いでいる国々がある。ある思想を備えた人間同士なら、事実にもとづく議論や検討を通じて合意点を探ったり説得することは可能だが、相手が非人間的な、没主体的な弾圧・管理“マシン”であれば、そのような行為は絶望的でまったく無意味だからだ。

◆写真上:下落合4丁目1379番地の、第一文化村Click!内にあった秋山清邸跡。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に撮影された牛込区箪笥町15~17番地にあった牛込区役所。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込区役所界隈。
◆写真中下上左は、1986年(昭和61)出版の秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』(筑摩書房)。上右は、本記事と同じころ20代の秋山清。は、1921年(大正10)に撮影された反政府集会を開くクロンシュタットの水兵たち。
◆写真下は、牛込橋(牛込見附跡)西詰めの神楽河岸にあった牛込神楽坂警察署。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込神楽坂警察署界隈。


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両神山系にオオカミの遠吠えが響く。 [気になるエトセトラ]

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 ニホンオオカミについては、ここでも江戸郊外の各地に勧請された三峯社Click!とともに何度かご紹介Click!しているが、先日、もっとも目撃情報が多い秩父連山へ出かけてきた。両神山の山麓まで出かけたのだけれど、別にニホンオオカミに出会いたくなって雪が残る秩父連山へ出かけたのではなく、ただ温泉へのんびり浸かりたくなったのと、食いしん坊のわたしはももんじClick!=シカ料理が食べたくなったからだ。
 江戸郊外に勧請された三峯社(大神社)は、農作物を荒らす害獣除けの性格が強かったと思われるのだが、今日の東京も含めた関東地方における同社の役割りは、「家内安全」「火災除け・厄除け」といったところだろうか。下落合地域(中落合・中井含む)にも、中井御霊社の境内には三峯社が勧請され、八雲社とともに属社となって現存している。
 江戸期には、こちらで何度か取り上げてきた富士講Click!大山講Click!とともに、秩父の三峯社へ参拝するオオカミ(大神)信仰の三峯講が存在していた。富士講は、おもに関東から甲信地方(山梨・長野)にかけての独特な地域信仰だが、三峯講もまた富士講と重なるような信仰の拡がりを見せている。富士講には、山岳ガイドのような先達が存在していたが、三峯講には御師(おし)と呼ばれるガイドが道案内をつとめた。
 御師は修験者の一種であり、三峯社のオオカミ護符を里人に配りながら、三峯講を組織していったといわれている。富士講の先達は、どちらかといえば町や村に居住する富士登山の経験者、すなわち山岳のベテランガイド的な性格が強いが、御師は山から下りてきてオオカミ(大神)信仰を布教する宣教師、あるいは伝道者のような存在で、いつも町や村に定住しているわけではない。ちょうどチョモランマ(英名エベレスト)をめざす登山家たちのため、山麓にシェルパ村が存在するのと同様に、秩父には三峯山をめざす信者たちのために御師の集落が形成されている。
 以前、中村彝Click!のアトリエへ結核を治療しにやってきた、御嶽の修験者Click!のエピソードをご紹介しているが、修験者すなわち御師は深山で修行して霊力や神通力、つまり「験」(超能力)を身につけ、里へと下りてきては「験」力によって町や村の人々の“困りごと”を解消していくのが役割りだった。下落合にも三峯講(三峯社)が存在するということは、江戸期に御師が村へとやってきて布教したものだろう。オオカミはキツネよりも強いので、精神状態が不安定となった患者=「狐憑き」の症例でも、御師がよく呼ばれている。また、水源地である山の御師は、渇水時の雨乞いでも活躍したかもしれない。中には、「わたしは3ヶ月間、天にひたすら祈りつづけて、ついに雨を降らせることに成功したのだ」、「3ヶ月も祈ってりゃ、いつか降るだろ!」と山田に突っこまれそうな、いい加減な「超能力」者たちもいたのかもしれないが。w
 オオカミ(大神)信仰は、別にニホンオオカミそのものを信仰しているわけではない。稲荷のキツネが、異界に棲む神(多くは五穀豊穣の農業神ウカノミタマ)のつかいで人々の前に姿を現す動物、つまり眷属(けんぞく)として機能していたのと同様に、オオカミも山の異界に棲む神々の眷属として人々の前に姿を見せると信じられていた。だから、江戸期の人々にとってはキツネ以上にめずらしい、深山に登らなければめったにお目にかかれないニホンオオカミが眷属となる信仰に、よりありがたみを感じていたのかもしれない。
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 さて、秩父連山では目撃事例や遠吠え情報が、ほぼ毎年のように聞こえてくるニホンオオカミの気配だが、さまざまな報道や情報、資料、痕跡などを総合すると、とても絶滅したとは思えない状況が浮かび上がってくる。おそらく、秩父には複数の個体が、いまだに棲息している可能性が高いのではないだろうか。また、九州は大分県の祖母山系の山岳地帯でも、目撃情報や遠吠え情報が聞かれる。だが、ここで困ったテーマが持ち上がっている。日本の本州から四国、九州の山々に棲息していたイヌ科の動物は、どうやら2種に分類されるようなのだ。その発端は、江戸末期に日本へとやってきたシーボルトの時代にまでさかのぼる。
 ドイツの医師で植物学者のシーボルトは、日本の動物や植物の標本をヨーロッパ各地へ送り紹介していたことでも知られるが、日本の山岳地帯に住むイヌ科の動物として、オオカミ(狼=ニホンオオカミ)とヤマイヌ(豺・犲=山犬)の2種類の個体を、オランダのライデン自然史博物館へ送り出している。だが、ライデン自然史博物館では2頭を同種のイヌ科動物と規定してしまい、2頭のうちシーボルトがヤマイヌとして送った標本をニホンオオカミとして剝製にし、同館へ展示した。これが、ニホンオオカミの世界標準の個体となってしまったところから、さまざまな混乱が生じているようだ。日本で保存されている、比較的大型のニホンオオカミとされる毛皮のDNAと、ライデン自然史博物館のニホンオオカミとされる標本のDNAが一致しないのだ。
 江戸期の文献には、「狼」と「豺・山犬」などを分けて記述している資料が多いが、同様にオオカミとヤマイヌを混同して書いていそうな文献も多い。「狼」とされる動物と「豺・山犬」とされる動物は、生息域が近似しているイヌ科の動物ではあるけれど、シーボルトが江戸期から規定していたように、実は別種の動物なのではないか?……と疑われはじめた。つまり日本の山岳地帯には、ちょうど北アメリカ大陸のオオカミとコヨーテの関係と同様に、2種類のイヌ科動物がいたのではないかということだ。そして、やや大型のほうがニホンオオカミであり、ライデン自然史博物館に展示されている小型の動物がヤマイヌではないかと想定されはじめた。
 シーボルトが2種に分類したイヌ科動物を、ライデン自然史博物館が同一のものと誤認し、ヤマイヌの標本をニホンオオカミだと規定して「タイプ標本」化してしまったところから、すべての混乱がはじまっているらしい。このあたりの状況を、2017年(平成29)に旬報社から出版された宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』から引用してみよう。
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 二〇〇二年に七例目の毛皮が秩父の民家で発見されるまで、剥製と毛皮の標本は、ライデン自然史博物館、大英博物館、国立科学博物館、ベルリン博物館、東京大学、和歌山大学にしかなかった。/一番大きい和歌山大学の剥製は、頭胴長一〇〇センチ(組み直し前は胸から尻まで七〇センチ、体高五二.五センチ、尾長二五センチ)だった。しかし、ライデンにあるタイプ標本は体高四三.五センチ、頭胴長八九.三センチ、尾長三二.五センチ(『ファウナ・ヤポニカ』から)と小柄で、対応する頭骨も確認された中で最小だ。これがニホンオオカミ像を実際より小さく印象づける一因だったのだろう。同時にこの小柄な剥製を見ると、一般にイメージするタイリクオオカミとは違う種類の動物であるかのような印象を受ける。/ライデンの剥製はニホンオオカミの大きさの平均値を下げて、ニホンオオカミ像の混乱を増幅させた。さらに、ニホンオオカミとされているものの中にも、本当は複数の動物種が含まれているのではないかという、今日まで続く論争の大きな要因にもなっているのだ。
  
 ライデン自然史博物館にある剥製には、ニホンオオカミ(Canis hodophilax)とプレートに記載されているが、困ったことに剥製台座の裏側にはJamainu(山犬)と記録されているようだ。同博物館の学芸員が、どこかでシーボルトの標本2体が、実は別種のイヌ科動物であることに気づいたからだろうか。
 同書の著者が実際に目撃しているように、ニホンオオカミ(仮称「秩父野犬」Click!)とみられるイヌ科の動物は、確かに秩父の山中に棲息しているようだ。スチール写真ではなく、より情報量の多い動画としてとらえられる日がくることを願うばかりだ。
 秩父の山里にある村を歩いているとき、わたしは異様な光景を目にした。案山子(かかし)が横へ手をつなぐように、山に向かって立っていたのだ。案山子は鳥獣の侵入を防ぐために、田畑のあちこちへ等距離に立てられているのが普通だ。だが、秩父では山の斜面を遮るように、横へ連続して拡がるように立てられている。地元の方に訊くと、シカやイノシシ、サルなどが頻繁に村へ下りてきて、畑地の中をわがもの顔で歩いているらしい。
西荻窪三峯社.JPG
井草八幡三峯社.JPG
ニホンオオカミは消えたか?.jpg ニホンオオカミは生きている.jpg
 つまり裏返せば、ニホンオオカミの棲息に必要な動物が、秩父にはふんだんに存在するということだ。いや、この言い方はどこかで逆立ちしている。ニホンオオカミを絶滅近くにまで追いやったせいで、本来なら捕食されるべき動物の個体数が増えつづけ、山での食糧が足りなくなって里の畑地を荒らすようになってしまった……ということだろう。

◆写真上:江戸期の下落合村で勧請したとみられる、中井御霊社に建立された三峯社。
◆写真中上は、早春に霞がただよう秩父の山々。は、さまざまな動物が棲息する秩父の山林。は、両神山から北東へ3kmほどのところにある氷柱で有名な尾ノ内渓谷の吊り橋。山奥の夜間にもかかわらず、多くの人たちが訪れる。
◆写真中下は、山に向かって横一線に並べられた案山子。は、ニホンオオカミの目撃例が多い秩父連山の両神山と七滝沢あたり。(GoogleEarthより)
◆写真下は、西荻窪駅前にある三峯社。は、井草八幡境内にある三峯社。下左は、秩父を中心にニホンオオカミをめぐる最新動向がまとめられた2017年(平成29)出版の宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』(旬報社)。下右は、九州における目撃情報がまとめられた2007年(平成9)出版の西田智『ニホンオオカミは生きている』(二見書房)。


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焼け残り沿線住宅に撒かれた米軍ビラ。 [気になるエトセトラ]

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 戦争も末期になって、連日、B29の機影が日本の上空へ頻繁に現れるようになると、膨大な量の「伝単」と呼ばれた米軍宣伝ビラ(Propaganda leaflets)が空から撒かれるようになった。その多くは、国民の戦意を喪失させるような「平和」志向のものであったり、太平洋の各地で行われた日米戦の戦闘詳報であったり、ときには次の爆撃都市を予告する内容であったりした。
 宣伝ビラは、南洋の島嶼部から飛び石伝いに日本本土へと迫る米軍の攻略作戦の状況を、ほとんど事実にもとづいて報道した内容も多かった。したがって、ラジオからの「大本営発表」が信用できなくなった人々は、B29が撒いていったビラを誰にも見つからないようにこっそり拾い、実際の戦況を知ろうとむさぼるように読んでいる。
 日本では徹底した報道管制が敷かれ、勇ましい精神論やほとんど虚偽の報道しか流されなくなっていたため、正確な戦況の情報に飢えていた。ただし、もし「伝単」を拾ったことが当局に知れると、警察や憲兵隊に検束されてひどいめに遭うことになる。だから、誰にも知られずに拾うことは困難だったが、それでも情報に飢えていた人々は米軍が撒いたビラを見つけると、こっそりポケットにねじこんで自宅に持ち帰っている。
 上落合から短期の上高田暮らしをへて、鷺宮2丁目786番地(現・白鷺1丁目)に自邸を建設して転居した壺井繁治Click!壺井栄Click!夫妻は、配給制による食糧不足から近くの土地を借りて、サツマイモClick!を栽培していた。近所の農家から苗木800本を購入し、雑草と石ころだらけの荒れた土地を耕しながら、少しでも飢えをしのごうと開墾を繰り返していた。きつい農作業は、ペンしか持たない詩人にはかなり辛かっただろう。いつ空襲に遭うかわからないので、足にはゲートルを巻き鉄兜(戦闘用のヘルメット)を背負っての農作業だった。その作業中に、壺井繁治は米軍機が撒いた「伝単」をひろっている。
 当時、西武電鉄Click!(現・西武新宿線)沿線にあったほとんどの駅は、駅前や主要道路沿いのみに住宅街が拓けた新興住宅地であり、いまだ一面に田畑が拡がるような風景だった。戦争も末期を迎えるころ、壺井繁治は西武線車内で蔵原惟人Click!と偶然に再会し、蔵原が網走刑務所から小管刑務所へと送られ、病気が重篤になったのでようやく保釈されて、上石神井の自宅で静養しているのを知った。身体が回復してきたのか、蔵原は仕事の翻訳原稿をどこかへとどけにいく途中だったようだ。
 戦争も末期になると、特高Click!の刑事たちが反戦運動や平和運動をしていた人物たちで、刑務所には収監されていない「転向」組も含めた社会主義者や共産主義者、民主主義者、自由主義者、アナーキストなどの家庭を訪ねることが多くなった。それは検挙するためでも弾圧・監視するためでもなく、戦争の敗色が濃くなった現状を踏まえ、今後はどのような政治や社会が到来するのか、「ぜひ意見を聞きたい」という訪問だった。さんざん弾圧し、検挙者の虐殺を繰り返した特高警察が、いまさら彼らの「意見」に耳を傾けるのも滑稽きわまりないが、日本軍の連戦連敗に心細くなり、上層部(内務省)が大日本帝国という国家や組織の存立そのものに、本格的な危機感をおぼえていたのだろう。
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 壺井夫妻のところへも特高刑事がやってきて、高圧的な態度が鳴りをひそめた“低姿勢”で「意見具申」を求めている。また、戦後の「戦犯」追及Click!への恐怖感もあってか、弾圧していた人々へおもねる姿勢もあったのだろう。壺井繁治は、「別に意見などありませんよ。第一、戦争については、これまで大部分のひとがとやかく意見を吐くことを禁じられていたんですからねえ、今更意見を求められても、多くのひととおなじように、いうことなしですよ」と、皮肉っぽく特高の来訪を突っぱねている。
 さて、B29からの宣伝ビラが多くなったのは、そのような状況のさなかだった。宣伝ビラは、東京西部ではどうやら焼け残った住宅地の多い、西武線や中央線、小田急線など郊外電車の沿線にバラ撒かれているようだ。下落合では聞かないが、隣りの上高田では「伝単」をひろったというお話を聞いたことがある。壺井夫妻は、鷺ノ宮駅の南側にある鷺宮八幡社近くに自宅があり、サツマイモを作付けした畑地もその沿線に位置していたので、おそらく西武線沿いの焼けていない住宅街を眼下に見下ろしながら、B29は宣伝ビラを撒いていったのだろう。そのときの様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
  
 ある日、炎天の下で、畝の上にはびこっている雑草を抜いたり、長く伸びた芋の蔓を引っくりかえしたりしていた。そこへB29が一機侵入してきて芋畑の真上あたりで物凄い爆発音をあげた。わたしはてっきり爆弾が投下されたのだと思い、畑の隣りの竹藪の中へ逃げこみ、地面に身を伏せた。けれども地上になにも炸裂する様子がないので、少々不思議に思い、やがて飛行機が上空を通りすぎ、北東の方角へだんだん遠ざかってゆくのを見計らって、藪の中から出てくると、何万枚とも知れぬほどの紙片が、はじめはまるで白い粉みたいに空からゆっくりと落下してきて、わたしの芋畑にもあちらこちらと散った。
  
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 誰も見ていないのを確認して壺井繁治が「伝単」拾うと、それは米国のトルーマン大統領の写真が掲載された、降伏勧告の宣伝ビラだった。彼は急いでポケットにねじこんでから、改めて周囲を見まわすと、近くの農家から出てきていた農夫たちが、やはりビラを拾ってこっそり隠すのが見えた。
 B29の機体が見えなくなったころ、近くの高射砲陣地から砲弾が数発、思い出したかのように発射されている。しばらくすると、自転車(もはや自動車ですらない)に乗った兵隊たちが2~3人畑へやってきて、散らばっていたビラをあたふたと大急ぎで回収しはじめた。帰りの西武線で、壺井繁治は小さな子どもを背負った老婆に出会っているが、老婆もどこかでビラを拾ったのか、「まるでチンドン屋から貰った広告ビラみたいに、背中の子供にそれを持たせて歩いている」のを目撃している。もはや大本営発表のウソ報道を見かぎり、ほとんどの国民が信用していないのを象徴するような光景だった。
 このとき、壺井繁治が拾った「伝単」は、No.2088と記載されている「日本国民諸氏 アメリカ合衆國大統領ハリー・エスツルーマンより一書を呈す」だった。それは、戦争継続は犠牲者を増やすばかりで無意味であるという内容の、以下のような文面だった。
  
 ナチス独逸は壊滅せり 日本国民諸氏も我米国陸海空軍の絶大なる攻撃力を認識せしならむ 貴国為政者並に軍部が戦争を継続する限り我が攻撃は愈々その破壊及び行動を拡大強化し日本の作戦を支持する軍需生産輸送その他人的資源に至る迄徹底的に壊滅せずんば熄まず 戦争の持久は日本国民の艱苦を徒らに増大するのみ 而も国民の得る処は絶無なり 我が攻撃は日本軍部が無条件降伏に屈し武器を棄てる迄は断じて中止せず 軍部の無条件降伏の一般国民に及ぼす影響如何 一言にて尽くせばそは戦争の終焉を意味す 日本を現在の如き破滅の淵に誘引せる軍部の権力を消滅せしめ前線に悪戦苦闘中なる陸海将兵の愛する家族農村或は職場への迅速なる復帰を可能ならしめ且又儚なき戦勝を夢見て現在の艱難苦痛を永続するを止むるを意味す 蓋し無条件降伏は日本国民の抹殺乃至奴隷化を意味するものに非る事は断言して憚らず
  
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 このとき、米国へ実質亡命していた八島太郎(岩松惇)Click!は、「伝単」へのイラスト制作や文面の考案に協力している。それは、1943年(昭和18)に『あたらしい太陽』Click!の創作とともに、軍国主義・日本の戦争を早く終わらせようという、国内で反戦活動していたころからの強い意思もあったのだろうが、もうひとつ米国政府に叛意がなく、日本のスパイだと疑われるのを回避する目的も同時にあったのだろう。米国内における日本人あるいは日系人への敵視は、戦争が終結するまで変わらなかった。

◆写真上:1945年(昭和20)7月17日に、神戸上空で被弾し第4エンジンが停止したB29。
◆写真中上は、1949年(昭和24)の空中写真にみる鷺宮2丁目786番地にあった壺井繁治・壺井栄夫妻の自宅界隈。は、自宅の北側にある鷺宮八幡社。は、米軍の「伝単」(宣伝ビラ)を撒く準備をするB29の搭乗員。
◆写真中下は、広島への原爆投下を予告した「空襲予告ビラ」。も、各都市に撒かれた爆撃を予告する宣伝ビラ類。東京大空襲Click!の直前にも「予告ビラ」は撒かれたが、軍当局がほとんど回収して秘匿したため避難した市民はほとんどいなかった。は、大阪を空襲するB29。画面の上部には、大阪城の内濠と天守が見えている。
◆写真下は、各都市への空襲予告ビラ。は、拾われやすいよう10円札を模した「伝単」で裏面に宣伝文が書かれている。は、壺井繁治が畑で拾った「降伏ビラ」。


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上落合の妻たちを「支援」する店員。 [気になるエトセトラ]

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 下落合の南に拡がる地域、早稲田通りも近い戸塚4丁目593番地(旧・戸塚町上戸塚593番地)に住んだ窪川稲子(佐多稲子)Click!は、1949年(昭和24)に出版した『私の東京地図』の中で、自宅の界隈を細かく描写している。以前、近くの戸塚町3丁目866番地(上戸塚866番地)に住んでいた藤川栄子Click!や、上落合から目白町3丁目3570番地に転居した宮本百合子Click!との交流や暮らしぶりについて書いたが、『私の東京地図』ではより詳しい生活の様子や、上落合に住んでいた友人たちとの交流の詳細が語られている。
 そこでは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる以前、早稲田通り(戸塚大通り)が小滝橋Click!まで拡幅される前の様子が記録されていてめずらしい。高田馬場駅で下車して西へ歩き、上落合の友人たちを訪ねる道すがら、早稲田通りの様子を観察していたものだろう。小滝橋までの通りが拡幅されたのは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる数年前、1930年(昭和5)ごろのことだった。
 早稲田通りは、小字が「宮田」とふられている戸塚町(大字)上戸塚(字)宮田345~346番地あたりで、ほぼ直角に近いかたちで折れ曲がっていたのは、ずいぶんあとの時代までつづいている。現在もその名残りがハッキリと残っているが、高田馬場駅に近づくにつれ狭い道の両側には店舗が軒を接するように並んでいた。佐多稲子は、早稲田通りの拡幅工事が完了し、道路沿いに新しい商店が増えはじめたころに上戸塚へ引っ越してきている。当時の様子を、『私の東京地図』(新日本文学会版)から引用してみよう。
  
 早稲田の方からきて高田馬場の駅前で省線のガードをくぐり、小滝橋で新宿からきた道と合して中野へと通じてゐる戸塚の大通りは、私のそこへ越していつた昭和八年頃、まだアスフアルトに汚れさへないほど新しく、新しいだけにがつちりしてゐた。両側にはもう商店が建ちならんで丁度歳末の、売り出しの看板が店から店へつづいて歩道の上に張り出され、ざわざわとしたあわただしい商店街の空気をつくつてゐた。チンドン屋の鳴らす鉦もどこからか聞えてをり、両側の歩道の端しに立てた松飾りの笹が寒風に葉音を立ててゐる間を、円タクの自動車が右からも左からも走つてゐた。/まだこの道が、四五人も連れ立てばいつぱいになるほどの狭い一本道だつたのは、その三四年前のことだつた。上落合に集会があつてその帰りに高田馬場へよる時、小滝橋のあたりは、神田川すれすれに小さな木の橋があつて、川岸はくづれて橋と水がいつしよになつてゐた。そのあたりは古鉄やぼろや古新聞などを地べたに並べた屑市が暗い灯りで狭い道をてらしてゐた。早稲田の学生街の続きで、高田馬場近くになると、ちよつと折れた小路に紅雀といふ名の知られた喫茶店などもあるというふうだつたが、早稲田までこの狭い一本道は、本屋や洋品店などの店でつづいて、雨あがりなどは、道が低いのでぬかるんだが、夜などはこのへんまで学生でいつぱいになつてゐた。
  
 上戸塚の借家で、窪川稲子(佐多稲子)は隣人の妻と親しくなっている。時期は1933年(昭和8)だと思われ、夫の窪川鶴次郎Click!は治安維持法違反で豊多摩刑務所Click!に収監されていた。それを聞いても、隣りの主婦は特に驚かなかったようだ。夫が戸塚町信用組合(戸塚町戸塚74番地)に勤めている主婦は、「思想運動なさる方は、そりやァねえ、苦労なさいますよ。いえ、私んとこだつて、主人も学生時分にはね、まんざら赤くなかつたわけでもないんですよ。私も主人と結婚しますときはね、親が反対だつたもんですから、家を飛び出すやうなこともしましてね」と、妙な連帯感をしめされている。
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 佐多稲子は、特高Click!による弾圧で誰も引き受け手がいなくなってしまった、日本プロレタリア文化連盟(コップ)の婦人雑誌「働く女性」と、もう1冊の大衆雑誌を友人とともに自宅で密かに編集していた。編集に参加していた特高に検挙されていない男たちは、「理論的な対立」を理由にこれらの雑誌の編集から次々と手を引いて逃げていった。友人は「ね、一番困難なときになつて、それを支えてゆかうといふのがわれわれ女二人だなんて、どうお」といいながら、ふたりで「はつははは」と高笑いしている。
 高田馬場駅の方向へ歩いていく友人のうしろ姿を、佐多稲子は早稲田通りの酒屋の角まで見送っている。この「下宿屋の看板が幾つも立ててある酒屋」とは、佐多稲子の家から早稲田通りを駅方向へ300mほど歩いたところにある、戸塚町3丁目362番地の小島屋酒店のことだろう。小島屋酒店のすぐ東側には、戸塚消防団詰め所とともに火の見櫓が建っていた。現在のシチズンプラザの斜向かい、(株)和真ビルのある角地だ。彼女が見送る、「明るく深い紫色の羽織をきたその肩は、丸くよく肥えている」と書く友人とは、目白町の自宅へ帰る宮本百合子Click!だろう。
 1933年(昭和8)の暮れも押し詰まったある日、上落合の友人ふたりが「お正月の買物にゆかない?」と、佐多稲子の家を訪ねてきた。いずれも、夫が治安維持法違反で豊多摩刑務所に服役しているふたりだった。だが、佐多稲子の手もとには現金がほとんどない。それを告げると、ひとりが「大丈夫よ」と薄笑いし、もうひとりが背をまげてケタケタと笑ったらしい。正月の準備もまったくできず、夫への正月の差し入れもなくて途方に暮れていた佐多稲子は、子どもをねんねこでおぶって、ふたりについていくことにした。以下、同書から引用してみよう。
  
 新宿の雑閙は押しせまつた年の暮の、夕方かけた時刻で、歩道は歩きもならない。ガラスと果物の色彩と電燈の光りできらきらしてゐる高野フルツパーラーの前をやうやく抜けると、中村屋の広い間口にも人があふれてゐる。ルパシュカの店員の姿を人の頭越しに探すと、見知つた顔がちよつとの暇もなく客に接してゐる。そのとなりの食料品店は普段でも通行人の足もとまでじめじめさせるやうに、干物や貝の箱を店さきに張り出してゐる店なのに、歳末だから一層店先には商品が積み立てられてゐる。鮭、かまぼこ、伊達巻、数の子、それにきんとんから黒豆から、何でも無いものはない。/「いらつしやいまし。」/もう青年に達したひとりの店員は、東京っ子の下町育ちらしい気の利いた表情でわざと素知らぬ顔で私たちの前に立つ。
  
 当時、新宿中村屋Click!の東隣りにある「食料品店」とは、乾物屋の「近江屋」(淀橋町角筈1丁目12番地)だった。ふだんは乾物を中心に扱っていたが、正月にはお節料理の素材を店先に積んで売っていたらしく、この店で正月料理の材料はほとんどそろったらしい。
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 女性たちが店前に立つと、ひとりの青年店員が3人の顔を見ながら出てきて「ひとり芝居」をはじめている。彼は3人の女性と、さも注文の会話をしているような演技をし(彼女たちはなにも話さず商品を見つめているだけ)、次々と正月に必要な食料品を3人ぶん大きな袋へ詰めはじめた。青年店員は、彼女たちの前でひとりごとの「会話」をすると、商品が山積みになっている間を何度も往復しながら、袋はどんどんふくらんでいった。そして、重たい買い物袋を渡すと、さもおカネを受けとったかのような顔と仕草で、「ありがとう存じます」と大声でいって3人の前を離れ、すばやく次の客の前へ立って応対をはじめた。そのときの様子を、同書から少し長いが引用してみよう。
  
 (青年店員は)さも注文を聞いたふうにうなづいて、素早くそこに積んであつた大きな伊達巻を三本自分の手に取上げると今度は、まつ白な小田原かまぼこをやつぱり三本、雑煮用のすぢも、煮しめ用の竹輪も加へて、抱へきれなくなると、一応小走りに店の奥へそれをおきにゆき、今度は、折づめの金とんや煮豆を、そのあとでは、数の子やわかさぎや、そして頭つきの鮭さへ奥へ持つて行かれる。この間にも店の前に集つてゐる客の重なりは入れ代り立ち代りしても、その数は減りはしない。数人の店員は店の奥と先を往来してちよつと足を止めてゐるすきもない。だから私たちは、店の前の客の後ろに立つて、幾分そはそはしたおもひと、何かをかしさとのごつちやになつた気持でゐる。缶詰類の棚に囲まれた店の奥のレヂスターで金の出し入れをしながら、店さきを監視してゐる表情の番頭の視線も、外から見える。私はその目と自分のまなざしとがもしゆき合へば、対手の疑惑をきつと誘ひ出すにちがひない、と、それをおそれて、店の灯の外になるやうにしてゐる。/やがてひとつの包みになつて抱へ出されてきた荷物をみて、私ははつとなる。ひと梱ほどの大きさになつてゐるのだ。/「どうも、ありがたう存じます。」/よく透る高調子で言つて空手になると、次の客にもう顔をむけてゐる。
  
 その鮮やかでスキがなくすばしっこい店員の動きに、窪川稲子(佐多稲子)は呆気にとられていたが、店の前をそそくさと離れると新宿駅前までもどってきたところで、たまりかねて3人は笑いだした。3人は「だめよ」と笑いをこらえつつ、歩調を乱れさせながら山手線に乗っている。上落合の友人ふたりは、帰りがけに佐多稲子の自宅に寄って袋を開けてみると、豊多摩刑務所への差し入れ用としてバターや折り詰め、缶詰までがちゃんと入っているのに驚いている。
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 さて、このときの上落合の友人ふたりとは、誰だろうか? ちょうど1933年(昭和8)12月現在、夫が刑務所へ収監されている人物は、上落合1丁目503番地の壺井栄Click!と、上落合1丁目186番地の村山籌子Click!がいる。ただし、ちょうど同じころ村山知義Click!と窪川鶴次郎は、12月中に「転向」してようやく保釈され出獄するのだが、村山籌子も窪川稲子(佐多稲子)も正月を前に、いまだそれを知らなかったのかもしれない。

◆写真上:淀橋町角筈1丁目12番地にあった、乾物屋「近江屋」跡の現状。リニューアルした新宿中村屋の東隣りの敷地だが、現在はビル建設工事のまっ最中だ。
◆写真中上は、1929年(昭和4)作成の「戸塚町市街図」にみる拡幅前の早稲田通り。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる早稲田通り。は、戦後に喫茶店で撮影された佐多稲子(左)と宮本百合子(右)で、奥にポツンと中野重治の姿が見える。
◆写真中下は、1938年(昭和13)ごろの記憶をもとに描かれた濱田煕の「昔の町並み」で、1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。下左は、1929年(昭和4)に下落合2108番地の吉屋信子邸Click!で撮影された窪川稲子(手前)と吉屋信子(奥)。下右は、戦後の1960年代の撮影と思われる佐多稲子(右)と壷井栄(左)。
◆写真下は、1932年(昭和7)に撮影された新宿通り。ビルは新宿三越(右)とほてい屋(のち伊勢丹/左)で、乾物屋「近江屋」は新宿三越の手前にあった。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる新宿通り。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる新宿通りで、2005年(平成17)に新宿歴史博物館が発行した『新宿盛り場地図』より。


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