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第五高女キャンパスが壊滅するまで。 [気になるエトセトラ]

第五高女本校舎1924.jpg
 先日、淀橋町十人町899番地(のち淀橋区角筈1丁目879番地→新宿区歌舞伎町1~2丁目)に建っていた、東京府立第五高等女学校Click!(のち東京都立富士高等学校)についてご紹介したところ、富士高校を卒業された知人の方から、旧・第五高女の詳しい資料をお送りいただいた。特に戦時中、第五高女が空襲にさらされる様子を記録した貴重な資料があるので、改めて同校キャンパスが全焼するまでの経緯をご紹介したい。現在の歌舞伎町1~2丁目にまたがる、広い敷地の第五高女が壊滅したことが、戦後の同エリアの街づくりを根本的に変えてしまった要因だからだ。
 1920年(大正9)に第五高女が開校すると、初代校長に就任したのは白石正邦だった。白石正邦は、学習院の院長だった乃木希典Click!と親しかったらしく、生徒たちの思い出によれば学習院から第五高女の校長として赴任してきたようだ。開校から3年後の関東大震災Click!では、同校の生徒たちが下町から着の身着のままで避難してくる被災者の救護に当たっている。第五高女の校舎は、震災の被害こそ軽微で済んだようだが、淀橋地域は揺れが大きかったものか、講堂に置かれた重たいグランドピアノが端から端へとすべっていく様子が、生徒たちに目撃されている。
 その後、昭和初期には平穏な時代がつづき、女学校としてはめずらしい質実剛健な「第五魂」と呼ばれた同校の校風や文化、雰囲気はおもにこの時代に形成されたものだろう。交友会などの資料でも、この時代の想い出を語る卒業生たちが多い。同校から、高等師範学校や専門学校(現在の大学)に進む生徒たちも少なくなかった。日米戦争がはじまり、敗戦の色が濃くなった1943年(昭和18)10月21日の「出陣学徒壮行会」Click!では、彼女たちも動員されて神宮球場の観覧席にいた。その様子を、2011年(平成23)の同校校友誌「若竹」所収の中沢たえ子『第五魂と弥生精神』から引用してみよう。
  
 高学年学校生活は厳しい戦時下であり、昭和十九年には戦況は不利となり多くの男子大学生たちが招集され、神宮球場で出陣学徒壮行式にわれわれ五年生が出席した。冷たい小雨がそぼ降る中、彼らが高い貴賓席の中の天皇陛下の下を敬礼して行進した状景は現在でも目に浮かんでくる。彼らのなかから沢山の戦死者が出たことは間違いないし、サテツ(若い教師のあだ名)も戦死したと戦後になって聞いて悲しかった。(カッコ内引用者註)
  
 「学徒出陣」は「昭和十九年」ではなく前年だが、「貴賓席」にいたのは天皇ではなく、東條英機Click!をはじめとする陸海軍の幹部や文部大臣たちだ。このときの様子は、NHKがラジオで2時間30分にわたり実況中継を流し、のちに軍国主義によるプロパガンダ映画『学徒出陣』(文部省)も制作されている。そこには、観覧席を埋めつくす府立の各女学校を中心に動員された、大勢の女生徒たちも映しだされていた。
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 やがて、空襲が予測される時期になると、第五高女では「防衛宿直」という当番が設置され、教師や職員ばかりでなく女学生たちまでが動員されている。当時、第五高女の教室は一部が軍需物資を生産する“工場”にされていたようで、「工場防衛」つまり空襲に備えた防火活動が宿直の役割りだった。以下、1993年(平成5)に発行された校友誌「若竹」に収録の、上田春野・松浦琳子・目黒緑『空襲被災の前後』から引用してみよう。
  
 校舎の防衛宿直は、先生が昭和十九年十一月、生徒は昭和二十年二月末頃からでした。当時教室は学校工場で「銃後の守り」と頑張りながら、冬は暖房も無く、休み時間には木造校舎の板壁にズラッと目白押しの日向ボッコ、時にはその前で幼い本科生が鬼ゴッコのジャンケンポン、又、雨天体操場のピアノで興ずる生徒達、苛烈極まりない戦時のさ中にも、あの木造校舎と若い私達は一つ絆で結ばれていました。/四月十三日は風も無く静かな夜で、宿直の職員、生徒計十二名は十一時過ぎの空襲警報でとび起き、身支度を整え、校庭にとび出す間もなく、新宿駅の方向に火の手があがり、風に煽られて見る間に延焼接近、雨天体操場の下が燃え始めました。水槽の水をバケツに汲み、走り、なんとしても消さねばと、全員使命感にもえていました。しかし猛火は「二幸」の辺りから火の子を吹きあげ、飛び散り、火の玉となり飛んで来る状況で、先生方は生徒の身を案じて決断され、男子職員が残る事となり全員水をかけた布団を被り、生徒七名は北郷、渡辺両先生に前後を守られ一列となり裏門から退避。途中、成子坂附近で振り返ると、学校の辺りに大きな紅蓮の火柱が二本見え、後髪を引かれつつ、夜明け頃、農場に辿り着き、一休み。
  
 4月13日夜半のB29による第1次山手空襲Click!では、鉄道や幹線道路、河川沿いがねらわれ、乃手Click!の物流や交通、中小の工場などにダメージを与えるのが目的だった。したがって、山手線と新宿駅周辺が爆撃されているが、同爆撃から焼け残ったエリアも数多い。第五高女は、山手線と新宿駅周辺の爆撃に巻きこまれたかたちだ。
 約1ヶ月後の、同年5月25日午後11時から翌26日未明にかけて行われた第2次山手空襲Click!では、かろうじて焼け残ったエリアを全面的に破壊する、文字どおりB29による山手住宅街への「絨毯爆撃」が行われているので、もし4月13日の空襲をまぬがれたとしても、第五高女は位置的にみて焼夷弾による炎上をまぬがれなかっただろう。
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第五高女学校農場(中野区富士見町).jpg
 つづけて、空襲下における第五高女の様子を記録した、2011年(平成23)の校友誌「若竹」所収の巨勢典子『戦時下の女学生とその後の私』から引用してみよう。
  
 昭和十六年四月、希望に胸をふくらませて新宿の府立第五高女(略)に入学したが、その年の十二月八日大東亜戦争に突入した頃から次第に戦時色が濃くなり、学業のかたわら校内で行われた防空演習や救護訓練、さらに農場作業で、米の脱穀や野菜の栽培をするため、もんぺを着て、新宿から鍋屋横丁まで都電で通ったことを思い出した。/そして、三年生の夏には大日本印刷で勤労奉仕も行なった。/昭和十九年、四年生になった頃から戦局はますます厳しくなり、英語は敵国語として廃止になったばかりか、閣議決定により私達女学生も学徒挺身隊としい軍需工場に出勤することになり、私達の学年は、立川飛行機と北辰電機に直接分れて出勤することになった。私は北辰電機で、『潜水艦の羅針儀の部品の組立て』等の作業を黙々とこなしていった。/我々の学年は戦時特例により一年上の五年生の方々と同時に卒業ということになり、二十年三月下旬、一日だけ母校での卒業式が行なわれた。(略)/その頃から、B29の本土爆撃が激しくなり四月十三日の大空襲で新宿の母校は全焼。つい三週間前に卒業式が行なわれた講堂(平和館)やなつかしい教室も全焼し誠に残念だった。
  
 敗戦に向けての最後の2年間、第五高女では他校と同様に学業どころではなかった状況が伝わってくる。それでも、「敵性言語」だと規定されていた英語の授業が、かろうじて1944年(昭和19)まで行われていた学校はめずらしい。もっと早くから、特に前年の1943年(昭和18)に廃止になっている学校がほとんどだからだが、第五高女では質実剛健な校風から“学の独立”を意識した自由な校風が活きていたものだろうか。ちなみに、市民生活レベルでの英語に対する弾圧Click!は、すでに日米開戦の前後にははじまっていた。
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 第五高女では、開校から4年たった1924年(大正13)に絵はがきセットを制作している。美しいデザインの校舎や、のびのびとした広いキャンパス、そして学業にはピッタリな同校を囲む乃手の閑静な環境が自慢だったのだろう。そこでは、モダンな洋装でテニスやホッケー、ソフトボールなどのスポーツを楽しむ女学生がたくさん写っている。(冒頭写真) 戦争をはさみ、それからわずか20数年後に、新宿地域ばかりでなく東京の一大歓楽街「歌舞伎町」が誕生するとは、誰も想像だにしえなかったにちがいない。

◆写真上:1924年(大正13)に撮影された、第五高女の本校舎とグラウンド。女学生たちが、モダンな服装でさまざまなスポーツに興じている。
◆写真中上は、1924年(大正13)に撮影された第五高女の講堂「平和館」。は、同年撮影の惜別式。は、撮影時期が不明な本校舎(左)と平和館(右)。
◆写真中下は、1935年(昭和10)ごろに撮影された第五高女全景。は、1930年代後半の撮影とみられる本校舎。正面には、「堅忍持久」と「長期建設」の戦時スローガンが書かれた垂れ幕が下がっている。は、農業実習が行われた中野区富士見町の学校農場。戦災で校舎を失った第五高女は、新宿を離れて中野の同地へ移転している。
◆写真下は、1943年(昭和18)10月22日の「出陣学徒壮行会」に動員され観覧席を埋めつくした東京府立女学校の学生たち。は、1945年(昭和20)5月25日夜半に焼夷弾の絨毯爆撃を受ける第五高女キャンパスの周辺。このとき、すでに同校の校舎は4月13日夜半の空襲で焼失していた。は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる第五高女の焼け跡。すでに敷地内には、バラックの集合住宅がいくつも建設されている。

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空中写真の活用と米軍本部「伊勢丹」。 [気になるエトセトラ]

米軍空中写真部隊本部.JPG
 少し前、このサイトで多用する歴代の空中写真に関連して、空からを撮影する際の対空標識と三角点Click!のテーマについて書いた。今回は、そもそも空中写真が撮影されるようになったきっかけと、その歴史について少しまとめて書いてみたい。いつも何気なく引用する空中写真だが、その史的な経緯や活用法を踏まえて観察すると、その観察法や読み解き方に新たな視座が生まれるかもしれないからだ。
 空中写真が撮影されたのは、1858年(安政4)10月にフランスの写真家だったフェリクス・トゥーリナシオン(通称名ナダール)という人物が、熱気球に乗ってプチ・クラマトールという街を撮影したのが嚆矢とされている。気球からの空中写真(いわゆる気球写真)は、日本でも早くから取り入れられ、1904年(明治37)に海軍省の技師だった市岡太次郎が、東京市上空から360度の斜めフカン写真(パノラマ写真)を撮影したエピソードClick!が知られている。写真を撮ったのが、海軍省の技師だったことからも明らかなように、気球を使った空中写真の撮影は、おもに軍事利用を目的として取り組まれたものだ。
 気球は操縦がきかず、もともと風まかせの乗り物のため、当時は係留した気球を浮揚させて目的の高度まで上げ、安定したところで撮影する手法がとられた。海軍では、のちに敵艦をいち早く発見したり着弾測定を行うため、艦尾に気球を備えた大型艦が出現している。また、陸軍では前線での敵陣偵察用に、係留気球による空中撮影が構想された。陸軍の航空隊が、気球を貨車に積んで運搬する演習をしていたのは、こちらでもご紹介Click!している。しばらくすると気球写真は民間へも普及し、このサイトでも大正期に係留気球から撮影された、早稲田大学のキャンパス写真をご紹介Click!していた。
 やがて、飛行機が発明されて普及しだすと、気球写真は一気に廃れてしまった。航空機とともに空中写真が発達したのは、第一次世界大戦を通じてだ。当時、空撮の技術がもっとも進んでいたのはドイツだった。多くの空中写真がそうであるように、地表に向けてカメラをかまえ垂直に連続して撮影する、いわゆる垂直写真用の航空カメラが発明されたのもドイツだ。同国の映画人だったオスカー・メスターという人物が、陸軍から敵情を知るための映画制作の依頼を受け、航空機に搭載する専用カメラを開発している。
 世界初の垂直写真撮影用航空カメラの様子を、1969年(昭和44)に中央公論社から出版された西尾元充『空中写真の世界』から引用してみよう。
  
 できあがったカメラは奇妙な形をしていた。それは飛行機の床に垂直に取り付けられ、調節可能な一定の間隔をおいて、機関銃のように連続して撮影できるものであった。従来は、一枚一枚ガラスの乾板に写していたのに、このカメラは、幅二四センチメートル、長さ二五メートルのフィルムが装填できるマガジン付であった。これによって、幅二四センチメートル、長さ三・五センチメートルの長方形の画面が、一定の正しい間隔をおいて、六二五枚も撮影できた。/最初の試験撮影では、約二・五キロの幅で約六十キロメートルにわたる戦場の写真が撮影された。その写真には、砲兵陣地も、塹壕の位置も、あらゆるものが細大洩らさず写しとられていた。
  
自動垂直写真カメラ(メスター).jpg
西尾元充「空中写真の世界」1969.jpg 第一次大戦斜め航空写真.jpg
 こうして撮影された戦場の詳細な空中写真(敵陣情報)を、戦術面での作戦に活用したり、そこから戦場地形図を起こして戦略を立案するのに役立てたりしたが、空撮技術を開発した肝心のドイツ軍部が、それらの成果や情報を軽視したため、戦争も後半になると連合軍による空撮技術と、それによって得られた空中写真の情報活用に追いこされ、ついに敗北するという皮肉な結末となった。
 日本における航空機からの写真撮影は、1910年(明治43)12月19日に代々木練兵場Click!で陸軍の航空機が初飛行Click!を実現してから4ヶ月後、1911年(明治44)4月28日に空中写真の撮影にも成功している。撮影者は、下落合(2丁目)490番地(現・下落合3丁目)に住んでいた徳川好敏Click!だ。もちろん、彼が撮影した空中写真は垂直写真ではなく、航空機の操縦席からそのままシャッターを切った斜め写真だったろう。徳川好敏は代々木練兵場から飛び立ち、練兵場とその周辺の様子を撮影したと思われるが、わたしは残念ながらいまだにそれらの写真を見たことがない。
 日本で空撮の垂直写真が撮影できるようになったのは、1921年(大正10)以降のことだ。それは、第一次世界大戦の敗戦国ドイツから、戦勝国への賠償の一部として空中写真用の機材類が送られてきたことによる。それから間もなく、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!では垂直撮影用の航空カメラを使い、東京や横浜の被災地域の空中写真が数多く撮影されることになった。被災地の上空を旋回して撮影したのは、航空カメラを搭載した陸軍の航空機で飛行第五大隊の所属機だった。こちらでも何度となく、関東大震災による被災地上空からの空中写真(垂直写真)を取り上げているが、これらの画面は下落合のお隣りにある、学習院Click!史料館Click!で長年にわたり保存されてきたものだ。
代々木練兵場記念写真.jpg
赤坂離宮19230905.jpg
横浜港関内19230905.jpg
 このサイトでもっとも多く引用している、陸軍が計画的に広範囲にわたって撮影した1936年(昭和11)の空中写真(垂直写真)は、おそらく地形図の作成用に撮影されたのではないかと思われる。だが、航空カメラの解像性能や、地形図を作成する際に必要な図化機の機能性が低かったため、空中写真をもとにした本格的な地形図の作成は限定的なものだったのではないか。写真をもとにした地形図作成の技術が、もっとも進んでいたのは満州航空(株)の写真処だったというエピソードも残っている。同社の写真処からは戦後、官民を問わず空中写真の分野で活躍する人材を、数多く輩出しているようだ。
 また、陸軍が東京郊外を斜めフカンから撮影した、1941年(昭和16)の空中写真が残っている。この一連の撮影意図が、わたしにはいまもってわからない。撮影の画面には、なんら法則も規則性も見いだせないし、飛行コースも旋回しながらバラバラで直線ですらなく、撮影地域にも共通性がまったく見られない。強いていえば、東京郊外を流れる川沿いを撮影していることだろうか。自治体による河川の清流化(直線化)工事計画、あるいは改正道路や放射道路の計画などの資料づくりが目的だとすれば、わざわざ陸軍の航空機が“出動”する意味がわからない。
 同じく陸軍が全国の都市部を撮影した、1944年(昭和19)の空中写真も残っているが、これは明らかに空襲に備えた防火帯Click!の計画づくり、すなわち建物疎開Click!を実施するための資料として撮影したものだろう。戦争も末期に近づき、物資不足のためにフィルムの質が非常に低下しているせいか、1936年(昭和11)や1941年(昭和16)の空中写真よりも、画面の解像度がかなり低い。
 そして敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は爆撃効果測定用に1946年(昭和21)から1948年(昭和23)にかけ、日本全土をほぼくまなく空中撮影している。これら空襲による焼け跡だらけ写真類も、このサイトではたびたび引用してきた。日本陸軍が撮影した写真よりも、はるかに高品質で解像度も高く鮮明で、ときに地上にいる人やクルマまでもが手にとるように写しとられている。一連の空中写真を撮影したのは、専門家が集まる米軍の「空中写真部隊」だが、その部隊本部が戦後に接収された新宿の伊勢丹デパート本店Click!の3階から屋上にかけて置かれていたのは、あまり知られていない事実だ。新宿伊勢丹の同部隊は、朝鮮戦争のころまで駐留していたらしい。
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 さて、空中写真が撮影される目的は、別に地形図や市街図を作成するためだけではない。自然科学の視座から自然を読み解く地理学や地形学、地質学、鉱物学、岩石学、気候学、地震学、植物学、層位学、古生物学など多岐にわたる。近年では、人文科学の考古学や古代史学での活用がめざましく、特に関東地方では破壊されてしまった、数多くの大小さまざまな古墳や遺跡の発見、既存の遺跡規模の見直しなどに成果を上げている。

◆写真上:敗戦後GHQに接収され、米軍の空中写真部隊本部だった新宿の伊勢丹本店。
◆写真中上は、ドイツのオスター・メスターが第一次大戦中に発明した垂直写真撮影用航空カメラ。下左は、1969年(昭和44)出版の西尾元充『空中写真の世界』(中央公論社)。下右は、第一次大戦で多用された斜め写真用の航空カメラ。
◆写真中下は、代々木練兵場で初めて空中写真の撮影に成功した徳川好敏。(左から2人目) 1923年(大正12)9月5日に、陸軍飛行第五大隊が関東大震災直後の被災地を撮影した写真で、麹町区の赤坂離宮(現・迎賓館/)と壊滅した横浜関内の中心部()。
◆写真下は、1936年(昭和11)に陸軍が撮影した下落合西部と上落合。は、敗戦間近な1944年(昭和19)に撮影された落合地域とその周辺で、画質がきわめて低いのが判然としている。は、戦後に初めて輸入されたドイツ製の垂直写真用航空カメラ。

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藤川栄子と佐多稲子が通う椿堂文具店。 [気になるエトセトラ]

早稲田通り崖地.JPG
 物書きのせいか、窪川稲子(佐多稲子)Click!は早稲田通り沿いにあった文房具店へ頻繁に出かけている。筆記用具や原稿用紙を購入していたのは、戸塚3丁目347番地に開店していた文房具店「椿堂」だ。藤川栄子Click!は洋画家だが、用紙やスケッチブック、名刺づくりなどで同文具店をよく利用していたらしい。
 ふたりは、昭和初期から椿堂文房具店をよく利用しており、1935年(昭和10)前後には近所の噂話として、よく話題にのぼっていたとみられる。佐多稲子Click!も、頻繁に遊びにきていた藤川栄子を通じて椿堂の情報を仕入れており、かなり詳細な家庭事情をつかんでいたようだ。その様子を、1955年(昭和30)に筑摩書房から出版された『現代日本文学全集』第39巻所収の、佐多稲子『私の東京地図』から引用してみよう。
  
 レコードを聴かせる喫茶店街を曲がつてそこから戸山ヶ原に沿つた邸町へ出ると、この辺りにも桜の花の美しいところがあつたが、私の散歩は町の中のゆきかへりですんでしまふ。喫茶店街へ曲る辺りも、高田馬場駅から登り坂になつた大通りがまだゆるやかに高くなつてゐるが、北側は道そのものが崖になつて、崖際にやうやく店だけ出して危げに商売してゐる屋台のやうなすし屋があつたり、引越し引受けの小さな運送店があつたりした。しかしさういふ薄いやうな建物にも、人が住んでゐた。かういふ崖際の一側建の家で、それは間口も広く二階の窓もしつかりした店だつたが、文房具屋があつた。名刺の印刷などもする小さな機械を片隅においたり、飾窓には季節には扇子をかざつたり、並べてある紙や筆もしつかりしてゐて、店は明るかつた。主人は背は低いけれど肩はがつしりしてゐて、半白の頭をいつも短く刈つて、眼鏡をかけてゐた。無口などつちかといへば愛想のない方だが、それは横柄といふのではなく、むしろ商売人くささがなくて気持のいいものにおもへた。細君は四十を出たくらゐの背のすらりとした、かざりけはないけれど親身な愛想のよさを客にみせ、この夫婦のとり合せは、客に心よい感じを与へてゐた。
  
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 さて、佐多稲子が描く昭和初期の早稲田通りに開店していた、上記のいくつかの商店を特定することができる。でも、その店舗の多くは二度にわたる山手空襲Click!で全焼し、戦後は再開した店もあったかもしれないが、残念ながら現存していない。
 まず、山手線西側の戸山ヶ原Click!へと出られる「喫茶店街」とは、早稲田通りが小滝橋へ向けて途中で鋭角にクラックClick!していた、旧道沿いにあたる裏の道筋のことだ。今川焼きなどの甘味処と、郵便ポストの間の道を入ると喫茶店が軒を並べていて、早稲田の学生たちが出入りしていた。表通りである早稲田通り沿いには、戸塚3丁目346番地(現・高田馬場4丁目)の和菓子屋「青柳」が経営する喫茶店も開店していた。
 旧・早稲田通りがカギの字に曲がっていたのは、北側の神田川へ向けて落ちる崖を避けるためだったのだが、通りの直線化工事で崖地ギリギリのところを通りが走るようになったため、通りの北側に店舗の敷地を確保するのがむずかしくなった。したがって、戦前までは崖地が口を開けた状態のままで、かろうじて小規模な「屋台のやうなすし屋」が開店していた。この寿司屋があったのは戸塚3丁目360番地で、店名があったはずだが記録されていない。寿司屋の西隣りには、小さな稲荷の祠が奉られていた。
 さて、佐多稲子や藤川栄子が通った文房具店は、その崖地がつづく西側の戸塚3丁目347番地に開店していた「椿堂」だ。この文具店を経営していた夫妻は、近所でも評判のよいおしどり夫婦だったのだが、ある日、ウワサを仕入れてきたおしゃべり好きな藤川栄子Click!が、窪川稲子(佐多稲子)のもとにやってきて、「若い男と駆け落ちしたんですって!」と告げた。つづけて、『私の東京地図』から引用してみよう。
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 子どもがなくて、店の奥のすぐ崖になつた一間に小鳥などを飼つてゐた。吉之助(窪川鶴次郎)のところへ来る若い評論家など、この夫婦をほめて、そのうちでも細君の方を、いい細君ぶりだといふ意味で自分の恋人に話したりしたことがある。この店で買物をしつけて、一、二年も経つたであらうか。いつとなく細君の姿が見えなくなつた。夫婦きりの店なので、主人が出かけるときは、自然店の戸が閉まることになり、何かされは気にかかつた。すると、この店へゆきつけの画描きの友達(藤川栄子)が私に話してくれて、あれは、若い男が出来て逃げたのだ、といふことであつた。/「代りの女房を探すんだつて、誰かないかつて、私にまで頼むのよ。そんなやうな人ないかしらね。」/文房具店の主人の、いままでも客の顔を正面から見ないやうな表情が、その後は一層暗くなつたやうで、いつも半分表戸を閉めた店の様子もその前を通るたびに主人の気持までつい押しはかつてしまふものになつた。(カッコ内引用者註)
  
 世話好きだった藤川栄子は、新しい細君まで探してあげようとしていたらしい。
 ある日、佐多稲子が椿堂文具店の前を通りかかると、黄色いカーテンが引かれた表戸のガラスに、「吉事休業」という貼り紙を見つけた。主人が再婚して、新しい妻を迎えるために休業したものだった。「吉事」と書くところに、孤独だった文具店主人の喜びと、新たな出発への思いがこめられているような感覚を抱いて、佐多稲子はそれを眺めている。
 今度の新しい細君は大柄で、少し年配の顔が呑気そうに見える肥った女性だったが、主人の顔からは陰気そうな陰が消えなかった。街中では、「姿を消した前の細君が赤ん坊を負つてゐるのを見た」というようなウワサが流れ、相変わらず周囲が“女房に逃げられた”ことを忘れてくれなかったからかもしれない。だが、新しい細君も戦争が激しくなるころに、脳溢血であっけなく死んだ。
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 佐多稲子の文章が非常に印象的なのは、大きな時代背景や逼迫した社会状況を、近所で起きる市井の何気ない出来事や事件へ、温かい目を向けながら無理なく自然に透過させて、実にうまく表現するところだろうか。ようやく再婚したばかりの妻の死と、空襲で店を焼かれて打ちのめされた文房具店「椿堂」の主人が、戦後に改めて顔を上げ、前を見つめて再出発していることを祈る。

◆写真上:昭和初期には道路からすぐに北へ落ちる崖だった、早稲田通りの崖地跡。
◆写真中上は、崖地に開店していた1938年(昭和13)ごろの小さな寿司屋。は、崖地の西寄りに開店して佐多稲子や藤川栄子が通っていた文房具店「椿堂」。いずれも、1995年(平成7)に発行された『戸塚第三小学校周辺の歴史』所収の濱田煕の記憶画より。
◆写真中下は、寿司屋跡の現状。は、文房具店「椿堂」跡の現状。下左は、1950年(昭和25)ごろに撮影された佐多稲子。下右は、佐多稲子『私の東京地図』が収録された1955年(昭和30)出版の筑摩書房版『現代日本文学全集』第39巻。
◆写真下は、濱田煕が描く1938年(昭和13)ごろの早稲田通りにあった崖地界隈。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる崖地界隈。


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「歌舞伎町」が女学生の街だったら。 [気になるエトセトラ]

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 落合地域から南の戸塚、大久保にかけて昔の地図を眺めていると、いつも気になるところがある。幕末には、石川左近将監(旗本)の下屋敷と一部が幕府の大筒角場(大久保百人組支配)であり、明治期になると淀橋町字十人町で華族だった大村家の屋敷地が大部分を占めている。大正期に入ってしばらくすると、金川(カニ川)Click!の湧水源のひとつだった同邸の庭池が埋め立てられ、今日の道筋とほぼ同様の三間道路が敷設されて、閑静な郊外住宅地としての開発が行われた。
 昭和期に入ると、淀橋町角筈1丁目から淀橋区角筈1丁目へと変遷し、戦後の1948年(昭和23)には街づくりのコンセプトが根底からひっくり返り、周囲に接した西大久保の一部や三光町など町域を合併して、乃手Click!の住宅街とはまったく風情が異なる繁華街として再開発され、新宿の「歌舞伎町」と名づけられたエリアだ。
 この「歌舞伎町」の真ん中あたり、旧・新宿コマ劇場(現・新宿東宝ビル)の建っていた敷地とその周囲にかけ、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!により校舎が全焼するまで、広いキャンパスには東京府立第五高等女学校が建っていた。第五高等女学校は、大村邸が解体されて庭池が埋め立てられ宅地開発が行われた直後、1920年(大正9)4月(校舎完成後の移転は5月)に開校している。以降、戦前までの地図を参照すると、今日の歌舞伎町の真んまん中に第五高等女学校が位置し、華やかな女学生たちが大勢集っていたかと思うと面白い。同校のすぐ西に位置している華園稲荷社(現・花園神社)も、どこかしっくりくる名称のように感じる。
 大村邸がなくなってから、乃手の住宅街が少しずつ建設されていく様子を、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台』から引用してみよう。
  
 そもそもこの土地は元九州大村藩主大村家の別邸で、「大村の山」と呼ばれるうっそうとした森林であった。中央に池があり、明治時代は鴨場として知られていた。池の中央に島があり、弁財天が祭ってあった。新宿区役所から西部新宿駅へ向かう途中、「王城」の隣りに再建された堂宇がそれで、位置も当時と変わらぬようだ。/大正の初め、尾張銀行頭取の峰島家が大村家から土地を買収し、森林を伐採して平地とした。そのため「尾張屋の原」と呼ばれ、バッタ取りや野球など子どもたちのよき遊び場であった。/大正九年、現都立富士高校(中野区)の前身である府立第五高等女学校がコマ劇場辺に創設されたが、住宅がポツポツ建ち始めたのは関東大震災以後である。
  
 以前は名曲喫茶だった「王城」ビルの西隣りに、大村邸の池に建立されていた弁天堂が再建され、現在では歌舞伎町弁財天と呼ばれている。
 大正期には、広い草原の中に第五高女の校舎がポツンとそびえているような眺めであり、住宅もまだほとんど建ってはいなかった。第五高女から東へ300mと少し、華園稲荷社から北裏通り(現・靖国通り=大正通り)をはさんだ向かい(南側)には、芥川龍之介Click!の父親が経営していた耕牧舎や太平舎牧場など、東京牧場Click!の跡地である草原が拡がり、サクラ並木があちこちにつづいているような風情だった。
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 昭和初期、第五高女へ通った女性の手記が残っている。1984年(昭和59)に人文社より出版された、『地図で見る新宿区の移り変わり―淀橋・大久保編―』(新宿区教育委員会)所収の、村田静子『角筈女子工芸学校と府立第五高等女学校』から引用しよう。
  
 その社(弁財天の堂)から少し西へいったところに第五高女の正門が南向にあったのだった。門衛さんの小屋のそばには桜の木があって、染井吉野の盛りには、下手な歌を短冊にかいてこれも朝早くつるしてすまし顔をしていた思い出がある。門から右手に、こげ茶色の二階建の、屋根の傾斜のつよい特徴的な建物の講堂----平和館があったのだ。左手の桜の木から西側に雨天体操場をまわって、北側に南向に、二階建で、中心部が三階建の、校舎がそびえる。戦時中(日中戦争中)のこととて、二本の大きなたれ幕が、「堅忍持久」「長期建設」と玄関の両側に上から下げられていた。東側に弓道場をまわって平和館へいく途中は、屋根つきの吹き通しの渡り廊下であった。平和館と、校舎の一部分は、省線電車(山手線)が新大久保駅から新宿駅に近づくころ、左側に大久保病院を見おわると、展開してくる景色なのであった。校舎も平和館も横のはめ板で、校舎は緑白色、窓の外には高いポプラが、何本も植っていた。こげ茶色の平和館と、校舎とポプラと、その調和の美しさを、私も写生したことがあった。昭和十一年四月から十六年三月まで、いわばこの学校の隆盛期をすごした私であったが、その少女時代の思い出は独特の楽しい雰囲気に包まれている。(カッコ内引用者註)
  
 ちなみに、弁財天は社(やしろ)ではなく、不忍池から勧請した仏教系の弁天堂だ。
 さて、1970年代半ば、歌舞伎町商店街振興組合が歌舞伎町を訪れる20代の若者たちに実施した、アンケート調査の結果が残されている。アンケートに答えたのは69%が男であり、月に平均5回ほど同町を訪れては、1回に平均2,000円ほどのカネをつかっている。訪れる目的でいちばん多いのは、飲食店を利用することだった。アンケートが行われたのは、午後1時から午後2時までの間と、下校・退社時間帯の午後5時から午後6時までの間のそれぞれ1時間ずつであり、当時の歌舞伎町の状況を考慮するとかなり早い時間帯だ。
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 また、アンケートで歌舞伎町の印象を質問したところ、いちばん多かった回答は「緑が欲しい」で、ビルが建ち並ぶ無機質な雰囲気にうるおいが欲しかったのだろう。次に多かったのが、「街並みが雑然としている」「なんとなく楽しい」で、ゆっくりすごす街ではなく一時的に訪れては、用が済んだらさっさと引き上げる街……というような位置づけの回答が多かったようだ。当時、新宿駅を降りた若者のうち、約50%が歌舞伎町をめざすといわれていた時代だった。
 かくいうわたしも、1970年代後半から80年代にかけ、学生時代には歌舞伎町を頻繁に訪れている。水谷良重(2代目・水谷八重子)が経営していた「木馬」Click!をはじめ、「PONY」や「びざーる(Ⅰ)」Click!などJAZZを聴かせる喫茶店やバーがあちこちにあったからだが、カネのないわたしがいちばん通ったのは、古時計コレクションがたくさん並べられた広い「木馬」だろうか。暗くなると米国人がたくさん訪れる狭い「PONY」はうるさくて敬遠し、「びざ~る(Ⅰ)」は基本的に飲み屋なので“常連”というほどではなかった。ほかにも、新宿のJAZZ喫茶やライブハウスには通ったけれど、歌舞伎町のみに限定すると上記の3店が印象に残っている。
 夜遅くなると、帰り道で「お兄さん、XXXX円ポッキリ」(XXXXは不明瞭で聞きとれない)というような声で袖を引かれたが、のちの時代のように強引で乱暴な客引きはなかったように思う。あまりひどいことをすれば、二度と歌舞伎町へ寄りつかなくなってしまうというような、暗黙のルールがまだどこかで生きていた時代だったのかもしれない。もっとも、こちらが貧乏そうな学生の風体だったので、ハナから執拗に絡まれなかっただけなのかもしれないが……。
 この街が、より貪欲でいかがわしい犯罪臭をまき散らしながら、さもしい雰囲気に拍車がかかったのは、バブル期以降から前世紀末ぐらいまでだったろう。新宿区役所のある膝元が、犯罪の温床的ないかがわしさを漂わせているのはマズイということで、今世紀に入ってからは新宿区と警視庁による徹底的な取り締まりが行われた。街の中心となっていたコマ劇場も、屋上からゴジラがのぞく最新のビルにリニューアルされ、その結果、夜になっても女性のひとり歩きができる街に変貌している。
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 もし、空襲で第五高女が焼けなければ、おそらく戦後の再開発と「歌舞伎町」化はありえなかっただろう。ひょっとすると、横浜山手にあるフェリスの丘Click!のように、女学生たちが集うオシャレな街角になっていたかもしれない。現在の歌舞伎町の姿に、そんな空想の街づくりを重ね合わせると、ちょっと面白い。もっとも、週末になるとフェリスと同様に男たちが集まってくるのは、歌舞伎町とあまり変わらないのかもしれないが。w

◆写真上:コマ劇場の跡地にでき、2015年にオープンした新宿東宝ビル(正面)。
◆写真中上は、1925年(大正14)の「淀橋町全図」にみる府立第五高等女学校。大村邸の敷地に規則的な三間道路が敷かれ、庭池は埋め立てられて郊外住宅地として開発されている。は、1928年(昭和3)ごろに撮影された新宿駅(手前)と第五高女(左端)、および第五高女の拡大。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる第五高女。
◆写真中下は、芥川龍之介の父親が経営していた東京牧場のひとつ耕牧舎跡(現・新宿2丁目あたり)の現状。は、大村邸の庭池に勧請されていた弁天堂の現状。(Google Earthより) は、空襲による焼失前にとらえられた1940年代前半の第五高女。
◆写真下は、1935年(昭和10)ごろの第五高女と同校の体育祭。は、高いビルに囲まれたが昔と変わらない風情を残す新宿ゴールデン街。(Google Earthより)

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すぐに「叩っ殺してやる!」の戸塚町議会。 [気になるエトセトラ]

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 少し前、すぐに「斬ってやる!」と刃傷(にんじょう)沙汰になりそうだった高田町議会Click!の様子をご紹介したが、町長に高田警察署から3名の護衛はついたものの、特に何ごともなく時代はすぎた。ところが、その南に位置する戸塚町では、町議会が脅迫や殴り合いのケンカ場と化し、何度となく流血騒ぎを起こしている。
 そもそも3代目の戸塚町長だった早野教暢が、大量の公金を持ったままどこかへドロンし「行方不明」になったころから、戸塚町議会はもう統制がきかないほどメチャクチャになった。公金横領・着服はやまず、次には収入役がひそかに公金を「費消」し、税金の二重取りをして埋め合わせていたことも発覚するにおよび、「たたっ殺してやる!」の町議会はもはや収拾がつかなくなってしまったのだ。まるで喜劇かマンガのような状況だけれど、大正末に戸塚町議会で実際に起きていた事実だ。
 1931年(昭和6)に出版された大野木喜太郎・編『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)には、そのときの様子が議員の「声明書」(告発書)として、11ページにわたり克明に記録されている。編者の大野木喜太郎も、よほど腹にすえかねた事件だったのだろう。まず、『戸塚町誌』から、歴代町長の一部を引用してみよう。もうこれだけで、当時の町議会がいかに異常事態だったかが透けて見えるのだ。
 町 長  大正六年十月二十四日 同十二年二月二十四日 早野教暢
 臨時代理 大正十二年三月七日 同十二年三月二十日 太田資行
 臨時代理 大正十二年三月二十八日 同七月二十五日 久保田義朗
 町 長  大正十二年七月二十五日 同十四年二月六日 鮫島雄介
 事務管掌 大正十四年二月十六日 同三月十六日 村木経勁
 町 長  大正十四年四月十一日 同九月八日 大塚義太郎
 事務管掌 大正十四年九月八日 同九月十九日 江成濱次
 臨時代理 大正十四年九月十九日 同十月十二日 有田章次郎
 町 長  大正十四年十月十二日 昭和四年十一月十一日 横山襄
 歴代町長の紹介のはずなのに、やたら「臨時代理」や「事務管掌」が多いのに気づかれるだろう。このふたつの役職が記されている間、町長はといえば公金をドロボーして行方をくらますか、殴られて「入院」しているか、もう脅されるのがイヤになって町議会に出席せず、自宅で引きこもりになってしまったかのいずれかだと思われる。しかも、「臨時代理」や「事務管掌」の就任期間も、非常に短期間の人物がいるのにお気づきだろう。おそらく、脅されて無理やり辞任させられたか、殴られてイヤになった人たちだ。
 まず、1923年(大正12)2月に町長だった早野教暢が公金10,750円を持ったまま、どこかへ逃亡し行方不明になったところから、戸塚町の悲劇(喜劇?)の幕が切って落とされる。とても公式な町誌とは思えない内容だが、『戸塚町誌』から引用してみよう。
  
 偶々町長早野教暢氏が其の在職中公金一万七百五十円を横領費消し突如行衛を晦(くら)ましたる、綱紀の混乱に責を負ふて、同氏を除き連結総辞職となりたるら因り、大正十二年五月之が補欠選挙を行ひ、左の如く当選した、早野氏は残留である。
  
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早野教暢町長.jpg 横山襄町長.jpg
 早野町長は、議会へ辞任とどけを提出しないままどこかへ土地を売った(トンヅラした)ので、辞めさせることができずに戸塚町議会へ議員として残留扱いとなっている。ここからしてすでにおかしいが、刑事事件にすれば町長不適格で議会がクビにできたはずだ。戸塚町では、町長のカネの持ち逃げが公になれば格好の新聞ダネとなり、世間のいい笑いもんになるのを怖れて、被害届けとともに刑事告発をしなかった可能性がある。
 ところが、この処分の甘さが尾を引いて、公金の横領・着服はやまなかった。今度は税金の収入役が、戸塚町の公金を大量に横領・着服してしまい、税金の二重取りが行われていたことが発覚した。この「税金二重徴取」事件で、戸塚町議会は前代未聞の事態に陥った。同町誌に収録された、まともな議員たちによる「声明文」から引用してみよう。
  
 税金の二重取事件 更に税金の事にしても、収入役の助手が公金を費消して居つた。従つて誠に遺憾ながら、町民からは税金の二重取りが行はれたのであります。之れは前々理事者(鮫島雄介町長)時代からの継続的な犯罪であつたと云ふので、現理事者(横山襄町長)は熾(さか)んに前理事者(大塚義太郎町長)の失態を口汚く罵り、之れを発見した自己の功績を吹聴するけれども、焉(いずくん)ぞ知らん、現理事者(横山襄町長)が着任後尚依然として、税金の二重取りが行はれて居たのであります。そして此の事実に対しては一向責任を感じて居らないのであります。(カッコ内引用者註)
  
 横山町長は、自身の就任中に部下の横領・着服が発覚しているにもかかわらず、管理不行き届きを反省するどころか、まるでよその地域の他人事のような態度だったらしい。
 このほか、一部の議員が気に入らない助役が就任しそうになったとき、推薦した議員をボコボコに殴り倒した「助役問題で当局の暴行」事件、戸塚町が活用しようとしている金融機関をめぐり、議員が傍聴席へ踊りこんで傍聴人を殴って流血騒ぎとなった「町金庫問題」事件など、戸塚町議会はまるでK-1のマット上のようなありさまだった。さすが、「血闘高田馬場」の地元だなどと、冗談をいっている場合ではない。
 しかも、関東大震災Click!で町議会場が使えなくなったものか、臨時の町議会場にされていたのが戸塚第一小学校の教室だったので、町議会のぶざまな狂態は児童たちに常に目撃されていたのではないかとみられる。そのことも、まともな議員たちが結集して「声明文」(告発書)を書かせる一因となったのだろう。
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明治通り荒井山附近1931.jpg
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 「町誌」としては前代未聞の記述なので、少し長いがその一部を引用してみよう。
  
 而して町長は自己の有する機能に拠つて、正式に発案推薦した人(助役)であるから、此の人に承認を与へやうとした時に、協議会に出席しなかつた人や、出席しても自ら助役の希望を持つて居た人々から、俄然反対が起り、単に言論で反対を為すならば兎も角、一部の人々は腕力に訴へ、議場を喧騒に陥らしめて議事の進行を妨害し、甚だしきは参与席にあつた某町吏員が洋服の上衣を脱ぎ棄てゝ腕を振るつて町会議員に暴言を吐きつゝ議員席に迫つても議長席にあつた町長は、何等何れを制止せざるのみか、却つて斯かる乱暴を煽動するが如き言動を為して……(以下略)
 何時でも町会に多少問題があると、町民以外の傍聴者の顔を見るのであるが、殊に十四日(1927年2月14日)には是等の人々が数名控えて居り、議場内と策応して、旺んに暴言を吐いて居た。其の時某町公民が傍聴席に現はれると、議席にあつた一議員は突如議席を離れて、傍聴席に闖入し、其の公民を殴打して議席に帰り、着席するや「今某々をブンなぐつて来た、アンナ奴は叩き殺して仕舞へ 我々に反対する奴は誰れでも叩き付けてやる」と揚言する始末であります。議長席にある町長は斯かる議員の暴行、暴言を制止せんとせず、何等の注意さへ与へないのは、実に奇怪千万と云はねばなりません。(カッコ内引用者註)
  
 もう戸塚町議会は、ほとんどヤクザか暴力団のシマ争いと変わらないようなありさまだった。1927年(昭和2)当時の町長は横山襄であり、昭和に入ってさえ大正時代から尾を引く暴力沙汰が、町議会場として使っていた児童たちの目がある戸塚第一小学校の教室でそのままつづいていた。『戸塚町誌』は、これら町内の「面汚し」たちや「恥っつぁらし」な出来事について、1931年(昭和6)に公然と記述しているので、そのころにはようやく批判が高まり異常事態が終焉して、まともな町議会へともどりつつあったのだろう。
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 戸塚町の近隣である落合町や長崎町では、このような大乱闘騒ぎや暴力沙汰を聞かないのは、決して品がよく常識人たちが多かったからではなく、高田町や戸塚町よりも市街化が遅れており、昔ながらの農村に多く見られる大地主など地域ボスの“しばり”がいまだ強く働いていて、農村共同体の中では鋭く対立する強い異論や反対意見が出にくかったのではないか?……と想像している。

◆写真上:早稲田通りの往来を見つめるネコの、右手が高田馬場駅前にある戸塚第二小学校で、戸塚町役場はネコの左手に見える街並みのすぐつづきにあった。
◆写真中上は、1931年(昭和6)ごろに撮影された戸塚町役場。下左は、同誌の歴代町長として紹介されている公金を費消して行方をくらました早野教暢町長で、ほとんど手配写真と化している。下右は、部下の収入役が町民に二重課税していたのに、まるで他人事のように前町長を「口汚く罵り」つづけた横山襄町長。
◆写真中下は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる町議会が開かれていた戸塚第一小学校と戸塚町役場の位置関係。は、1931年(昭和6)の明治通り沿い荒井山(現・西早稲田2丁目)あたり。は、1931年(昭和6)撮影の戸塚第一小学校。
◆写真下は、濱田煕Click!が描いた1935年(昭和10)ごろの戸塚第一小学校界隈。同小は、早稲田通り沿いから甘泉園寄りに移設されている。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる戸塚一小。は、谷間から戸塚一小の丘上へと抜ける古いバッケClick!階段。

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