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まぼろしの雑司ヶ谷「異人館」。 [気になるエトセトラ]

雑司ヶ谷異人館跡.JPG
 山手線の目白駅Click!を越えた向こう側に、気になる西洋館がふたつある。目白町と雑司ヶ谷町(現・南池袋含む)は、山手空襲Click!から一部の焼け残った住宅街が戦後までつづいていたので、明治末から昭和初期までに建てられた住宅が、そのままの姿で建っていた。ときどき、それらの街角を舞台にした絵画や小説の作品に出あったり、印象的な建築が記録されたりしている。
 目白町の西洋館(または文化住宅)を舞台にした作品で、すぐに思い浮かぶのが中井英夫Click!『虚無への供物』Click!だ。空襲にも焼け残った住宅街に建つ「氷沼邸」は、周囲の様子や駅までの距離、あるいは平面図さえ同作に登場するので、どのあたりに建っていた住宅なのか、特定することができる。1987年(昭和62)に三一書房から出版された、『中井英夫作品集・第10巻/死』所収の『虚無への供物』から、「氷沼家」の描写を少し長いが引用してみよう。
  
 国電の目白駅を出て、駅前の大通りを千歳橋(ママ)の方角に向うと、右側には学習院の塀堤が長く続いているばかりだが、左は川村女学院から目白署と並び、その裏手一帯は、遠く池袋駅を頂点に、逆三角形の広い斜面を形づくっている。この斜面だけは運よく戦災にも会(ママ)わなかったので、戦前の古い住宅がひしめくように建てこみ、その間を狭い路地が前後気ままに入り組んで、古い東京の面影を忍ばせるが、土地慣れぬ者には、まるで迷路へまぎれこんだような錯覚を抱かせるに違いない。行き止まりかと思う道が、急に狭い降り坂となって、ふいに大通りへぬけたり、三叉に別れた道が、意味もなくすぐにまた一本になったりして、それを丈高い煉瓦塀が隠し、繁り合った樹木が覆うという具合だが、豊島区目白町二丁目千六百**番地の氷沼邸は、丁度その自然の迷路の中心に当る部分に建てられていた。/宝石商だった祖父の光太郎が、昭和四年、初孫の蒼司が生れたのを喜んで、半ば隠居所を兼ねて建てた家だが、これという趣味も奇癖も持たなかったせいか、久生の期待したような尖塔も櫓楼もある筈はなく、間取りなどもごくありふれた平凡な建物だった。
  
 中井英夫は、弦巻川へと下る北向きの斜面を「運よく戦災にも会わなかった」と書いているが、1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、かなりの範囲が焼け野原となっている。彼が1958年(昭和33)に、下落合4丁目2123番地へ転居してくるころには、すでに焼け跡のバラックが消えて住宅街が復旧していたので、そのあたりを散歩すると古い家屋が目について、一帯が空襲でも焼けなかったように見えたのかもしれない。
 「豊島区目白町二丁目千六百**」と書かれているので、500坪もの庭を持つ大邸宅の「氷沼邸」が、山手線沿いの路地が迷路のように入り組む、細長く焼け残った住宅街の中に想定されていることが知れる。下落合からこのあたりまで散歩に出た中井は、川村学園のあたりから目白通りを北側へ左折し、複雑で狭い迷路のような路地を歩いて、「氷沼邸」に設定する西洋館の目星をつけたのだろう。現在でも、路地こそ拡幅され舗装されてはいるが、複雑な三叉路やおかしな道のかたちはそのまま残っている。
 目白町2丁目1600番台の地番は、川村女学院(現・川村学園)や高田第五尋常小学校(現・目白小学校)の裏手を東西に、また山手線沿いを南北に長く連なる太い「L」字型のエリアに限定されるが、同学園や小学校の北側一帯は空襲でほぼ焼け野原だったので、戦前からつづく1600番台の住宅街というと、入り組んだ路地の存在とともに、山手線沿いの南北に細長い一画のほうに想定されたとみられる。
目白町和館.JPG
虚無への供物1964講談社.jpg 目白町2丁目氷沼家1947.jpg
雑司ヶ谷異人館1986.jpg
 『虚無への供物』の「氷沼家」は、モデルとなる西洋館はあったかもしれないが、あくまでも虚構のうえで存在する“幻の邸宅”だけれど、実在したにもかかわらず今日では人々の口の端にのぼることさえなくなり、“幻”と化してしまった巨大な西洋館があった。同じ高田町エリアの雑司ヶ谷に建っていた松平貞一邸だ。明治末にはすでに建設されていた同邸は、周囲の住民から「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれていたが、別に外国人が住んでいたわけではない。(敗戦後の一時期、GHQに接収されていた可能性はあるが……) 「松平」という姓からうかがえるように、おそらく徳川家の姻戚のひとりが建てた明治仕様の西洋館だったのだろう。
 豊島区の郷土資料をたどっても、弦巻川北岸の丘上にそびえてかなり目立つ、巨大で特徴的な西洋館だったにもかかわらず、意外にもほとんど記録が残されていない。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)にも、特に「松平家」は地元の“有名人”としての記載がない。つまり、ほんとうに幻の雑司ヶ谷「異人館」なのだ。
 「異人館」の所在地は、雑司ヶ谷(4丁目)572番地(現・南池袋4丁目)であり、今日の南池袋第二公園の東側あたりの一画だ。木造であったにもかかわらず空襲からも焼け残り、戦後には周辺の住民たちからメルクマールとして記憶された大屋敷だった。都電荒川線の鬼子母神電停を降り、線路沿いのほぼ直線の道を北へたどると、暗渠化された弦巻川の跡をすぎてから登り坂となる。その坂上に、あたりを睥睨するように明治期の大きな西洋館(松平邸)が見えていた。
 一度こちらでも引用しているが、1986年(昭和61)に発行された「広報としま」7月号所収の、永井保Click!「わたしの豊島紀行<22>」から引用してみよう。
  
 目白台から落合にかけての台地斜面には、名だたる坂が多く、景色もいいが、旧鎌倉街道が横切る、だらだら坂の多い雑司ヶ谷風景も好きである。いまは取り壊されてしまったが、鬼子母神電停から北へ、線路ぞいの坂の上にあった異人館(実際の名は知らない)などは好画題になった。
  
雑司ヶ谷異人館1938.jpg
雑司ヶ谷異人館横.JPG
松平貞一邸1947.jpg
松平貞一邸1975.jpg
松平貞一邸1984.jpg
 永井保は、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた明治末の西洋館が、1986年(昭和51)7月の時点で「取り壊され」たと書いている。空中写真で確認すると、1984年(昭和59)にはいまだ建っているのが確認できるので、おそらく1985年(昭和60)前後に解体されているのだろう。
 永井保は「異人館」のイラストを残しており、下見板張りの外壁で屋根には尖った細いドーマーが並ぶ、いかにも明治期の建築らしい西洋館だったようだ。たとえるなら、1912年(明治45・大正元)に建設された、大磯Click!駅前の大きな旧・木下別邸のような意匠をしていたのだろう。イラストの表現を見ると、旧・木下別邸のように外壁が明るい色で塗られているようには見えず、なにか濃い色に塗られていたように見える。おそらく、外壁の腐食を防ぐためコールタールが塗られ、建設から間もない時期はともかく、戦後はこげ茶色をした外壁だったのではないだろうか。
 また、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』にも、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた、雑司ヶ谷の同地番に建っていた大きな西洋館が記録されている。なお、「昨年遂に取りこわ」されたと書かれているが、同文は1985~86年ごろに書かれたものではないか。
  
 宝城寺裏の丘の上に明治末から異人屋敷(異人館)と呼ばれた異様な建物があったが、昨年遂に取りこわし、その姿を消した。弦巻川は宝城寺下四つ辻のところの土橋で、流れは杜深い大久保彦左衛門邸内に注がれて入った。彦左衛門は殊にこの勝景を愛で池の汀に茶室を設け、しばしば清会を催したという。
  
 「異人館」が松平邸だったというのは、地元でも知られていなかったようで、住民の詳細について記した資料は見あたらない。きっと、「異人館」には昔から表札が出ていなかったか、あるいは住民がときどき変わって〇〇邸とは呼びづらかったのかもしれないが、少なくとも1938年(昭和13)の「火保図」には、松平貞一邸と採取されている。
大磯旧・木下別邸1912.jpg
尾張屋雑司ヶ谷音羽絵図1857.jpg
雑司ヶ谷大鳥社.JPG
 さて、この「松平」がどこの松平さんなのか同邸の周囲を見まわすと、ひとつの大きなヒントを見つけることができる。「異人館」から、西へわずか140mにある王子電車(現・都電荒川線)をはさんだ雑司ヶ谷大鳥社だ。同社は、金山稲荷Click!の対岸である目白台Click!にあった出雲藩松平出羽守の下屋敷(のち百人組同心大縄地)に由来する祭神であり、江戸期には嫡子の病平癒を願って祭神を出雲大社から勧請している。詳細は省くが、この出雲藩松平出羽守の末裔のひとりが、明治末に大鳥社の見える丘上の地へ、大屋敷を建設しやしなかっただろうか? 目白台からもほど近い雑司ヶ谷の「異人館」は、かつて“異人”など一度も住んだことのない、出雲の松平家にちなむ邸宅だったのではなかろうか。どなたか、ご存じの方があればご教示いただきたい。

◆写真上:南池袋第二公園の東側にあたる、丘上の雑司ヶ谷「異人館」跡の現状(正面)。
◆写真中上は、目白町2丁目16XX番地界隈に残る和館。中左は、1964年(昭和39)に講談社から「塔晶夫」名で出版された中井英夫『虚無への供物』。中右は、氷沼邸が想定された1947年(昭和22)撮影の空襲をまぬがれた16XX番地界隈。は、1986年(昭和61)に永井保が1951年(昭和26)ごろの風景を前提に描いた雑司ヶ谷「異人館」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取された「異人館」こと松平貞一邸。は、雑司ヶ谷「異人館」の近隣に残る古い和館。は、上から順に1947年(昭和22)・1975年(昭和50)・1984年(昭和59)の空中写真にみる松平邸。
◆写真下は、1912年(明治45・大正元)に建てられた大磯駅前の旧・木下別邸。は、1857年(安政4)に制作された尾張屋清七版切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる出雲藩松平出羽守下屋敷。は、雑司ヶ谷「異人館」の近くにある雑司ヶ谷大鳥社。

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アトリエ新築の直後に死去した藤川勇造。 [気になるエトセトラ]

藤川栄子アトリエ跡.JPG
 1933年(昭和8)に二科の彫刻家・藤川勇造Click!と洋画家・藤川栄子Click!の夫妻は、大正期から住んでいた戸塚3丁目866番地(旧・戸塚町上戸塚866番地)のアトリエおよび自宅をリニューアルしている。設計を担当したのは、のちに下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の安井曾太郎アトリエClick!(1934年)や、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の林芙美子邸Click!(1941年)を設計する山口文象だ。
 だが、この全面リニューアルで美しい自邸やアトリエが竣工したにもかかわらず、わずか2年後の1935年(昭和10)6月に藤川勇造は急死している。主のいなくなったアトリエを引き継いだのは、妻で洋画家の藤川栄子Click!だった。藤川勇造が死去する4年前、つまり自宅兼アトリエのリニューアルを計画中だったとみられる1931年(昭和6)に、戸塚町誌刊行会から出版された『戸塚町誌』の「人物事業史」編でも藤川勇造は紹介されている。短いので、同書から引用してみよう。
  
 彫刻家二科審査員 藤川勇造 戸塚八六六
 香川県人藤川米透氏の長男にして、明治十六年十月十日を以て生る、同四十年東京美術学校彫刻家を卒業して、同年九月仏国に留学し、在仏七年帰朝後二科会員に推さるゝ彫刻界の一権威である。
  
 自宅とアトリエをリニューアルする以前、早稲田通り沿いに大正期から住んでいた藤川夫妻の自宅やアトリエには、彫刻家ばかりでなく、近くに住む洋画家たちが大勢通ってきている。下落合に住んでいた1930年協会Click!の画家たち、すなわち佐伯祐三Click!里見勝蔵Click!前田寛治Click!木下孝則Click!外山卯三郎Click!らも常連だった。ときに、藤川栄子の“追っかけ”だった長谷川利行Click!も、下落合の里見勝蔵たちを訪ねる道すがら、まちがいなく藤川アトリエの周辺をうろついていただろう。ときに藤川夫妻の主催で、画家たちによるハイキングClick!なども催されていた。
 佐伯祐三は、頻繁に藤川アトリエを訪れて親しかったらしく、1927年(昭和2)8月の二度めの渡仏時には、東京駅のプラットホームまで藤川夫妻がわざわざ見送りにきている。また、藤川栄子も佐伯アトリエを頻繁に訪れ、佐伯米子Click!とイーゼルを並べている姿を目撃されている。藤川栄子が佐伯の死後に書いた 1928年(昭和3)発行の「アトリエ」10月号から引用してみよう。
  
 主人は佐伯さんの美術学校の二年の時に面識があつたやうでした。主人の甥の学友であつた関係からデツサンを持つて批評を頼みに来たことがあるそうです。その時甥は佐伯さんを「ズボ」と言ふニツクネームで読んでゐたそうです。/カラーなども付けないし、少しも風采をかまわないたちなので(ずつと最近までもやはりそうでしたが)実際その親称は打つて付けの名前だと思はれました。あのちつともかまわない、風風飄飄とした氏ではありましたが、実に感傷的で、生一本な芸術家的真実に引込まれて、私達は皆佐伯さんと非常に親むでゆきました。里見氏や、前田氏などは兄弟のやうに可愛がつてゐられたやうです。/二度目の渡欧の時には送別会が幾度も催されました。私の家でも夫妻のために楽しい一夜を過したことを思ひ出します。その時、とても無邪気な、子供子供した騒ぎ方をしてゐられたのが、今、目の前に、はつきりと見るやうな気がします。/渡欧の日、東京駅で、今はなき愛児、彌智子嬢や、佐伯氏との最後の握手を一種悲壮な気持で思ひ出さずにゐられません。主人は佐伯氏に「健康だけを注意し給へ」と言つた時、氏はただ黙つてうなずいてゐられたやうでした。
  
藤川勇造アトリエ2.jpg
藤川勇造アトリエ3.jpg
藤川アトリエ1934.jpg
 佐伯が見ることのできなかった、新しい藤川夫妻の自邸およびアトリエだが、竣工した写真を見ると戸山ヶ原Click!の方角、つまり南側に立木や芝庭を配した母家とアトリエともに洋風建築だったことがわかる。敷地の北側に建てられた母家つづきに、おそらく藤川勇造のアトリエは建てられている。庭に面した南側に大きな採光窓が設けられ、屋根に穿たれた天窓には日光を遮るロール幕が設置されている。彫刻家は、別に北向きの採光窓でなくても仕事に不都合を感じなかったのだろう。
 敷地の東側、タネトリClick!=映画撮影所跡の空き地があった方角には、独立した建物が配置されているが、これが藤川栄子のアトリエだと思われる。当時の町工場などの建物によく見られる、屋根上に空気抜きのような小さな屋根がもうひとつ設置され、おそらく北面の屋根から壁にかけて、大きな採光窓が穿たれているのだろう。背後に見えている、昭和初期まで早稲田通り沿いのところどころに残っていた、松林の風情がめずらしい。
 藤川勇造の死後、藤川栄子は1983年(昭和58)11月に死去するまで、戦後に改めて建て直したこの敷地の自宅兼アトリエに住んで制作をつづけた。もともと文学をめざしていた藤川栄子は、散歩とおしゃべりが大好きだったらしく、近くの戸塚4丁目593番地に住む窪川稲子(佐多稲子)Click!の家へ出かけてはおしゃべりを楽しみ、上落合2丁目549番地に住んでいた壺井栄Click!や上落合の女性たちと誘い合っては、戸塚界隈や落合地域を歩きまわっていた。
 その散歩の様子を記録した、めずらしい写真が残っている。1941年(昭和16)に発行された「スタイル」6月号は、おそらく早稲田通りとみられる商店街を散歩する藤川栄子と壺井栄の姿がとらえられている。ずいぶん前にもご紹介Click!している写真だが、同誌のグラビア「歩きませう」に添えられたキャプションから引用してみよう。
藤川勇造アトリエ1.jpg
藤川栄子アトリエ1936.jpg
藤川栄子アトリエ1963.jpg
  
 アトリエから出てらした藤川さんがお友達の壷井さんとごいつしよに戸塚から小滝橋へ、落合から中野までの強行軍です。何も今日にかぎつたことじやありません。藤川さんと壷井さんとは、もう一人ご近所の窪川稲子さんも混つて、戸塚から中野へ中野から戸塚へ、往つたり来たり、下落合界隈を強行なさるのだといふことです。
  
 この文章で、窪川稲子(佐多稲子)の名前が出ているにもかかわらず、彼女は写っていない。おそらく、3人で散歩をする姿を写したかったのだろうが、ふたりが窪川稲子(佐多稲子)を誘いに寄ったら不在だったか、雑誌に顔を出したくなかったか、ちょうど新聞社の招きで「満州」への旅行中だったのだろう。彼女たちの家ばかりでなく、一般の家庭には電話など引かれていないので、事前に連絡して待ち合わせをすることなどできなかった。家を訪ねて留守であれば、そのままあきらめるしかなかった時代だ。
 キャプションの冒頭に書かれている通り、この写真が「戸塚から小滝橋へ」の散歩であるとするなら、壺井栄は「スタイル」のカメラマンを連れて、まず藤川栄子アトリエを訪ねて散歩に誘い、つづいて窪川稲子(佐多稲子)を誘いに寄ったが留守だったか、治安維持法違反で検挙・起訴され懲役2年執行猶予4年の判決を受けていたため、グラビアに載って特高Click!を刺激したくなかったためにフレームアウトしたかで、小滝橋へと下る早稲田通りを歩くふたりの姿を撮影したものだ。壺井栄と藤川栄子は同じ香川県出身で仲がよく、本名が坪井栄の藤川栄子と、小説の著者名が誤植でまちがえられた壺井栄の「坪井栄」事件Click!がきっかけとなり、急速に親しくなったものだろう。
 写真に撮られたふたりが歩く道路が早稲田通りであり、小滝橋へと向かっているところだとすれば、この撮影ポイントは1ヶ所しか存在しない。冬服を着た子どものマネキンとともに、背後に写っているタイル張りの洋品店は、戸塚4丁目592番地の洋服店(店名不明)だ。位置的には、戸塚4丁目593番地の窪川稲子(佐多稲子)宅から早稲田通りへと出て、小滝橋へ向かい50mほど歩いたところの右手(北側)に開店していた。右側(東隣り)に写るオーニングが張り出した店舗は、中山という人物が経営していた日本食堂だ。実は、窪川宅とこの洋服店との間には、もう1軒のタイル張り洋服店があるのだけれど、その東隣りは「清掃組合」と「田村事務所」が入るオフィスになっており、表が店舗のかまえをしていないので、必然的に撮影場所を1ヶ所に絞ることができた。
壺井栄藤川栄子.jpg
洋服店1938.jpg
 ふたり(佐多稲子がいれば3人)は、小滝橋へと出ると橋をわたった先から、キャプションにも書かれているとおり道を右折して、上落合から下落合をめざしたかもしれない。途中、移転前の月見岡八幡社Click!の道筋へと入り、上落合1丁目186番地の村山知義アトリエClick!に立ち寄って、村山籌子Click!にも散歩に出ようと声をかけていただろうか。

◆写真上:戸塚3丁目866番地(旧・戸塚町上戸塚866番地)の藤川栄子アトリエ跡。
◆写真中上は、1933年(昭和8)の竣工直後に撮られた藤川勇造アトリエと母家。採光窓のある母家つづきの左手が、藤川勇造アトリエだとみられる。は新アトリエが竣工した1年後の1934年(昭和9)に藤川勇造アトリエ内で撮影された藤川夫妻。
◆写真中下は、庭に別棟として建てられた藤川栄子アトリエとみられる建物。は、1936年(昭和11)に撮影された藤川栄子の自宅とアトリエ。は、空襲で焼かれたあと1963年(昭和38)の空中写真にみる戦後の藤川栄子アトリエ。
◆写真下は、1941年(昭和16)発行の「スタイル」6月号に掲載された散歩をする壺井栄(左)と藤川栄子(右)。は、写真が撮影されたとみられる洋品店の一画で、1995年(平成7)に発行された『戸塚第三小学校周辺の歴史』所収の濱田煕Click!の記憶画より。


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東京西部に残る和田氏の伝承。 [気になるエトセトラ]

野方村東和田.JPG
 落合地域の周辺には、平安末ごろから伝承されたとみられる和田氏の伝承Click!や地名が散在するのを、これまで折りにふれて書いてきた。和田氏とは、もちろん鎌倉幕府Click!の重要な御家人の系統であり、侍所別当の重責をつとめるあの“和田氏”だ。当然のことながら、鎌倉幕府ができたので和田氏が突然形成されたのではなく、もともと南関東に根差していた勢力が幕府の成立過程で重要な役割りをにない、幕府成立後は鎌倉へ移住して館をかまえたとみられている。
 落合地域には鎌倉街道が通い、鎌倉の切り通し工法で作られた七曲坂Click!には、奥州藤原氏との戦ののちに形成されたとみられる頼朝伝説が残り、七曲坂の下からは鎌倉期に造られた板碑Click!が出土している。つまり、下落合の本村Click!(もとむら)と呼ばれたエリアは、少なくとも鎌倉時代にはすでに形成されていたとみられ、周辺になんらかの勢力が根を張っていたとしても不思議ではない発掘状況だ。
 通称「和田山」Click!と呼ばれ、和田氏の館跡の伝承が残る井上哲学堂Click!の丘や、その南側の松が丘に展開する鎌倉時代の住居跡、鎌倉中期だろうか下落合の西部から西落合にかけて語られる地頭・細田氏の伝承、そして和田山の北側に継承された(東)和田から本村(中野区)や、現在も地名がつづく広大な和田町(中野区)、東の長崎側に残った大和田Click!(豊島区)、戸山ヶ原に展開する和田戸Click!(新宿区)の地名など、後世に形成された付会や俗説とは思えない、リアルな存在感をおぼえるのだ。そしてもうひとつ、和田義盛の伝説が残る東中野の事績を見つけたのでご紹介したい。1933年(昭和8)に出版された、『中野町誌』(中野町教育会)から引用してみよう。
  
 和田義盛手植の松
 東中野駅の北方にて野立場の南寄に、和田義盛手植の松と云ひ伝へたる老木ありしが、大正六年の頃枯死したり、此の地は旧幕徳川時代の代官中山主水の抱屋敷以前より武家屋敷跡なるよし。或は和田義盛の館址にや。されど和田館址と称する地は前既に記したる、和田堀町字堀之内なる妙法寺池の外、野方町に字和田山(哲学堂)及び和田部落ありたり。又渋谷町にも大和田ありて和田一族の住めるよし伝へあり。(後略)
  
 和田義盛の「手植の松」というのは、かなり後世の付会臭がするけれど、ここで重要なのは和田氏のネームがあちこちで具体的に伝承されているという事実だ。
 東中野駅の「野立場」というのは、徳川幕府の時代に将軍が鷹狩りClick!にやってきて、周囲の様子を展望した「御立場」Click!と同義のポイントで、下落合の七曲坂の上にも同様の場所があった。東中野駅の北東側、すなわち早稲田通りを越えた上落合エリアに接した南側は、大塚と呼ばれる古い小字が伝承されてきたエリアで、百八塚Click!のひとつで墳丘とみられる見晴らしのいい小高い丘が存在したのかもしれない。現在の場所でいうと、「野立場」は2009年(平成21)に廃校になった東中野小学校のあたり、すなわち華洲園跡Click!(小滝台住宅地)の北東の位置にあたる。
井上哲学堂.JPG
東中野尋常小学校1933.jpg
小滝台バッケ階段.JPG
 また、杉並区の和田堀町界隈や渋谷町の中渋谷界隈にも、昭和初期まで和田氏の伝承が色濃く語り継がれていたのがわかる。渋谷の大和田は、現在でいうと渋谷駅の南西側にある南平台町や鉢山町、鶯谷町、桜丘町あたりの丘陵地帯だ。これらの地域を地図にポイントし、面で考察すると広大な地域が浮かび上がる。
 すなわち、東側は新宿区の戸山ヶ原Click!(尾張徳川家下屋敷Click!)に残る和田戸(山)から、北は豊島区の椎名町駅と東長崎駅の中間に位置する大和田、あるいは中野区にある哲学堂公園(和田山)の北側にふられた(東)和田、西は杉並区の現代につづく広い和田(町)から和田堀Click!にかけ、そして南は渋谷駅の南西側にある大和田の丘陵地帯まで、実に5つの区域にまたがる南北に長い広大な面積だ。
 これだけ広範にわたり和田氏の事蹟や伝承が数多く語り継がれ、また地名にもその痕跡が色濃く残っている状況から、すべてが後世の付会ぱかりとはいい切れないリアリティを感じるのはわたしだけではないだろう。これら物語の発祥は、鎌倉幕府が成立し和田氏が相模の海辺へと一族で移住(出仕)する以前、藤原時代の末あたりから形成されていた可能性も否定できない。
 下落合の自性院に残る縁起を記録した、1932年(昭和7)出版の大澤永潤Click!『自性院縁起と葵陰夜話』から引用してみよう。
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 今より八百年前藤原時代の末葉義家卿の部下の士によつて開かれたといふ床しい伝説を持つ当地はそれより三百有余年を経て室町時代となりました、勿論この間、鎌倉時代の伝説として近くに和田義盛の據城跡と伝ふる和田山の伝説が村の鎮守の森に続いて西方一帯の丘陵に渡つてあります。(中略) 和田山の故事は一寸前述致しましたが当初鎮守御霊社境内に続いて西方一帯の丘陵地で明治年間彼の妖怪学の泰斗で社会事業家井上円了博士の哲学堂が建説(ママ:設)せられ都人学徒の参観者数多あり、又この度び大東京都市編入に際し此の辺一帯天然風致区域に指定せられました。
  
 この伝承によると、「村の鎮守の森」すなわち葛ヶ谷村(現・西落合)の鎮守である葛ヶ谷御霊社Click!にも、和田氏に関わるなんらかの伝承が当時まで残されており、落合地域から和田山の(東)和田の本村地域にかけて、かなり古くから「和田伝説」が語り継がれてきたことをうかがわせる。和田氏の館が、ほんとうに和田山にあったのかどうかはとりあえず別にして、近接する下落合の鎌倉街道や頼朝伝説を踏まえれば、そうとう根深い伝説だったことがうかがわれる。
 鎌倉時代は、いまだ室町後期のような“山城”や“平城”などの城郭を築く、戦略あるいは戦術上の発想は存在していない。あくまでも拠点となる館が中心であり、その建設地に選ばれたのは、周囲からできるだけ攻められにくい地形を考慮した適地を選ぶのが通例だった。そのような視点から、改めて「和田」の地名が残る一帯を眺めていると、丘あり谷ありの起伏に富んだ地形であることに気がつく。つまり、和田義盛がほんとうに住んでいたか否かは別にして、和田氏に関連する館ないしはなんらかの拠点が、鎌倉時代のこれらの地域に広く展開していた……と考えても、なんら不自然さを感じないのだ。
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 東京西部に残る「和田」地名のエリアから、鎌倉時代の集落遺跡、あるいはその存在を示唆する板碑などが共通して発見されているのであれば、この仮説はがぜんリアリティを増すことになるだろう。和田山(哲学堂)の南には鎌倉期の遺跡が、下落合の鎌倉街道沿いからは鎌倉時代の板碑が見つかっている。他のエリアも、古くからの遺跡が多そうな地勢なので、なんらかの痕跡が残っているかもしれないのだが……。

◆写真上:落合地域の西隣り、野方村(現・中野区)の東和田あたりの街並み。
◆写真中上は、昭和初期に撮影された井上哲学堂(通称:和田山=現・哲学堂公園)。は、1933年(昭和8)に撮影された小滝台(旧・華洲園)上の東中野尋常小学校。は、同小学校のある小滝台の丘上へと通う急なバッケ階段。
◆写真中下:1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる、野方村東和田界隈()と長崎村大和田界隈()。は、東京西部に残る和田氏の伝承地と「和田」地名。
◆写真下は、「和田戸(山)」と呼ばれた戸山ヶ原に残る箱根山で旧・尾張徳川家下屋敷の庭園跡。は、谷と丘の連続で起伏が多い渋谷駅南西側の南平台界隈。は、鎌倉の由比ヶ浜に残る和田氏一族の終焉地である和田塚。

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『大東京写真案内』にみる新宿区エリア。 [気になるエトセトラ]

内藤清成白馬.JPG
 1932年(昭和7)に東京35区制がスタートすると、当時のメディアでは新たに東京市へ加えられた20区の紹介が盛んだった。前回の記事Click!では、新たに誕生した20区紹介のプライオリティや観光・散策に出かける際の「名所」などをご紹介したけれど、きょうは1933年(昭和8)に博文館から出版された『大東京写真案内』を中心に、35区のどのような街並みや「名所」が紹介されているのかを見ていこう。
 もっとも、35区すべてについてご紹介するわけにはいかないので、ここは落合地域のある現在の新宿区エリア、すなわち「淀橋区」「牛込区」「四谷区」の3区について、どこが取り上げられ、なにがアピールされているのかを見ていきたい。同3区は、戦後の1947年(昭和22)5月に合併して、東京22区(8月には23区)がスタートするのだけれど、本来はかなり風土や気質、文化などが異なる地域同士だった。
 3区の合併にあたり、「早稲田区」(明治期からのネームの知名度からか)、「戸山区」(1000年以上前の平安期からの和田氏Click!による事蹟からか)、「武蔵野区」(一般に広くつかわれた郊外名称Click!からか)などいくつかの区名プランが出ているが、牛込区とともに当初から東京15区のひとつであり、もっとも繁華で市街地化が進んでいた四谷区の江戸期宿場町の事蹟にちなんだ、内藤家下屋敷に由来する「内藤新宿(ないとうしんしゅく)」Click!が注目されたのは自然なのだろう。
 この宿場町名から、松平系大名の「内藤」を取り去って「新宿(しんじゅく)」と濁った発音にしたのも、新しい地域名としてのオリジナル感があって秀逸なネーミングだと思う。もともと性質や歴史的な経緯が異なる3区を統合したのだから、どこの地域をもイメージさせない架空の名称が必要だったのだろう。それほど、この3区は歴史的な経緯や風土・文化も異なっていたように思える。
 では、江戸期の宿場町から拓け千代田城の外濠に隣接する、旧・乃手Click!の四谷区から見ていこう。四谷区は、千代田城の四谷見附Click!と甲州街道の内藤新宿を中心に栄えた街で、区内には神宮外苑や新宿御苑Click!(内藤家下屋敷)を抱える江戸市中のころから有名なエリアだった。したがって、『大東京写真案内』で紹介される「名所」も、江戸期の事蹟にちなんだ場所が多い。同書では「四谷見附附近」「お岩稲荷」「新宿御苑」、そして江戸期に移植された神宮外苑に生える「なんじゃもんじゃの木」「神宮プール」「神宮競技場」「神宮球場」など10ヶ所が取り上げられている。
 400年ほど前、尾張徳川家Click!が同地に移植した“なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)”が、なぜことさら取り上げられているのかは不明だが、「四谷見附附近」の写真に添えられたキャプションから引用してみよう。
  
 四谷見附附近
 往年四谷門のあつたのがこの辺り、今はその桝形の跡をとり除いて、石畳だけが僅かに遺つてゐる。麹町をよぎる甲州街道は、この見付(ママ)を過ぎて四谷区を東西に横断、内藤新宿の追分で青梅街道と分れる。見付から新宿に至る一帯は震災後飛躍的発展をとげた商業区域、交通の頻繁な点から云へば、正に都下随一であらう。
  
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 この文章は、東京都庁が淀橋に移転してきて以降、そのまま「新宿区」にも当てはまる表現だろう。このほか、四谷区では慶應大学の大規模な「慶應病院」と、映画館街の代表として「帝都座」が紹介されている。慶應病院については、「流石金に絲めをつけず建設された私立病院の雄、外観設備共に完璧」と皮肉まじりのキャプションが添えられ、同病院の空中写真が掲載されている。
 次に牛込区の「名所」も、江戸期以前からの歴史をベースにした場所が並んでいる。四谷区と同様に、千代田城の外濠に面した街だからだろう。「市ケ谷見付と牛込見付」(ママ)をはじめ、「築土八幡」「関孝和の墓」「市ケ谷八幡」などの5ヶ所。明治期由来のものは市ヶ谷の「陸軍士官学校」で、大正末から拓けた場所として「神楽坂」が紹介されている。同様に、キャプションから引用してみよう。
  
 市ケ谷見付と牛込見付(ママ)
 市ケ谷見付――外濠一つ挟んで、向側が麹町区こちらが電車線路に沿つたいさゝか古風な市ケ谷の片側商店街、近くに市ケ谷八幡や士官学校がある。この見付から飯田橋寄りにあるのが牛込見付、山の手第二の盛り場神楽坂を控へて、ラツシユアワーの混雑はめまぐるしいが、こゝの外濠の貸ボートは、都心に珍らしい快適な娯楽機関である。
  
 1933年(昭和8)現在、「山の手第二の盛り場」が神楽坂であり、「第一の盛り場」が新宿駅東口(駅前通りClick!=新宿通り)だった時代だ。いまだ渋谷も池袋も、駅前から住宅街が拡がり「盛り場」としてまったく認識されていない。また、数ある江戸期に由来する墓所の中から、なぜ算学者の関孝和だけが選ばれて掲載されているのかが不明だ。
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 つづいて淀橋区、つまり現在の新宿区の中枢部にあたるエリア紹介では、今度は江戸期以前に由来する「名所」がただのひとつも紹介されていない。ピックアップしようと思えば、東西の大久保地域や百人町、尾張徳川家の戸山ヶ原Click!、神田上水の淀橋Click!に玉川上水、高田八幡(穴八幡Click!)に成子天神Click!皆中稲荷Click!角筈十二社Click!西向天神Click!鎧社Click!……と史跡や物語にはこと欠かないはずなのだが、なぜか明治以降の街並みや施設しか掲載されていないのだ。
 ちなみに、紹介されている写真は「淀橋浄水場」Click!をはじめ、「早稲田大学」Click!(大隈講堂Click!)と同大学の「演劇博物館」Click!「新宿駅」Click!「新宿駅前通り」Click!、そして「カフェー街」となっている。つまり、昭和初期の段階から淀橋区=新宿駅とその周辺は繁華街や歓楽街、公共施設(各種インフラ)などのイメージであり、多種多様な歴史や文化の面がすっかり置き去りにされる……という現象が起きていたのがわかる。同書の、新宿駅周辺に関するキャプションから引用してみよう。
  
 新宿駅前通り
 都心から放出する中産階級の人々の関門であり、享楽地であるのがこの一帯。震災後山の手銀座の名称を神楽坂から奪ひ、一日の歩行者三十萬、自動車が四萬台。三越、二幸をはじめ大小の商店が軒を並べ、その裏街はカフエとキネマと小料理やが、雑然と立並ぶ帝都有数の享楽街。
 カフエー街
 近年新宿カフエー街の発展はすばらしいもので、新宿の裏手及び東海横丁等断然圧倒的に他の地区の追随を許さない。
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 この傾向は1980年代までつづき、新宿区=ビジネス街+歓楽街のイメージから、容易に抜け出すことができなかった。また、新宿区の行政自体もそれで満足し、ことさら歴史や文化について丹念に掘り起こしたり、記念物や文化的リソースをていねいに保存する積極的な努力をしてこなかったように見える。
 その流れのターニングポイントとなったのが、1989年(昭和64)に設立された新宿歴史博物館Click!あたりだろうか。これは、翌1990年(平成2)に東京都庁が新宿駅西口へ移転することが見えていたため、「都庁のある地域が歓楽街のイメージのままじゃ、ちょっとマズイじゃん」という行政の意識が、少なからず働いたせいなのかもしれない。以降、相変わらずビジネス街や繁華街の印象は残しつつも、21世紀に入るとかなり異なる地域の側面がクローズアップされてきた。
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 1933年(昭和8)の当時と、今日の文化面におけるさまざまな掘り起こしなどの成果を含め、おそらく四谷地域や牛込地域、そして淀橋地域ともども新宿区として取り上げられる「名所」は、その思想的な背景や行政の視点とともに激変していることだろう。もはや、「山の手銀座」などとは誰も呼ばなくなり、銀座とはまったく異なる新しい時代のアイデンティティが形成できるほど、23区内でも独自の風土や街並みを形成している。

◆写真上:内藤清成が家康から、白馬で駆けまわった範囲を下屋敷地として与えるといわれた伝説が残る内藤町。多武峯内藤社には、いまも白馬像が安置されている。
◆写真中上:四谷区の風景で、からへ四ッ谷駅前の四谷見附橋、信濃町駅前の慶應病院、内藤家下屋敷の新宿御苑、キネマの帝都座、神宮球場、国立競技場(工事中)になった神宮競技場、そして神宮外苑の聖徳記念絵画館。
◆写真中下:牛込区の風景で、からへ現在でもボートが浮かぶ牛込見附、左手が釣り堀になる市ヶ谷見附、市ヶ谷台にあった陸軍士官学校。下左は、1933年(昭和8)出版の『大東京写真案内』(博文館)で、表紙が日本橋なのがうれしい。下右が、東京都の時代遅れな都市計画について書かせていただいた『建築ジャーナル』2017年4月号。
◆写真下:淀橋区の風景で、からへ淀橋浄水場の濾過池と沈殿池、3代目・新宿駅、新宿通りとなった新宿駅前通り、早稲田大学の大隈講堂と演劇博物館。

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飛行機もカメラマンも不明な学習院空撮写真。 [気になるエトセトラ]

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 こちらでは低空飛行で撮影された学習院の写真として、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)に掲載されたグラウンド写真Click!と、同年撮影で学習院に保存されている下落合406番地の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)の写真をご紹介している。昭和寮の写真には1933年(昭和8)撮影のタイムスタンプがあり、学習院グラウンドの写真は同年に出版された『高田町史』のグラビア所収なので、わたしは2枚とも1933年(昭和8)に同一の飛行機から撮影された写真類だと判断していた。
 ところがグラウンドを撮影した写真、つまり『高田町史』掲載のほうは、前年の1932年(昭和7)であることが判明した。しかも、同年4月29日と撮影日までがはっきり特定できる。そして、おかしなことに写真を撮影した人物が何者なのか、学習院のグラウンド上空を旋回した飛行機がどこの所属のものなのか、現在にいたるまでまったく不明なのだ。物語は、当時の高田町長だった海老澤了之介Click!のもとに、差出人不明の郵便が突然とどけられたところからはじまる。封筒の中には、学習院のグラウンドを借りて記念行事を行なう、高田町の各小学校の生徒たちが整列している空撮写真が入っていた。
 当時の高田町は、市街地からの急速な人口流入で町内の小学校がまったく足りず、「二部教授」制を採用して授業を行っていた。二部教授とは、子どもたちを収容する教室が足りないため朝から昼までの授業と、午後から夕方までの授業に分けた時間割りを実施することだ。下落合の場合、いまだ空き地が多く残っていたため臨時の分校舎を建設し、できるだけ二部教授を回避することができたが、市街地化が早かった目白駅東側の高田町では、分校舎の土地を確保することがむずかしかったのだ。
 ちなみに、高田町の明治末に記録された戸数は1,000戸弱で人口が約3,500人だったものが、1921年(大正10)には戸数7,200戸で人口が約27,000人、昭和初期には戸数約10,000戸で人口が約43,000人と激増している。小学校は、高田第四小学校(現・南池袋小学校)を建設したところで学校敷地がなくなり、高田町は第五小学校建設のために目白通りの北側にあった学習院馬場Click!の買収へと乗りだしている。同馬場の敷地へ、高田町は高田第五小学校(現・目白小学校)と高田町役場、消防ポンプ所、火の見櫓、そして高田警察署を設置する計画だった。
 土手に囲まれた学習院馬場Click!は、面積が約4,000~5,000坪ほどあり、当時は三矢宮松が長官をつとめていた宮内省林野局の所有だった。刀剣好きの方なら、三矢宮松という名前に見おぼえがあるだろう。若いころから耳が遠く、大きな補聴器を首から下げ大声で会話をしなければならなかった、戦前の有名な刀剣鑑定家だ。高田町助役だった海老澤了之介は、三矢宮松との交渉から1928年(昭和3)11月9日、学習院馬場を坪40円で買収することに成功した。ところが、川村女学院Click!の敷地払い下げ交渉は難航している。
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 そのときの様子を、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版)の一節から引用してみよう。
  
 高田町と云へば、学習院の所在地であり、その直接の行政官庁の要求でしかも役場庁舎敷地学校校舎敷地と言ふ様な目的に使用するのであつたから、馬場は学習院の南方の下の方に仮に移してでも、我々の希望にそつて下さる事になつた。たしか払下価格は一坪四拾円だと記憶して居る。(中略) この頃矢張り川村女学院も女学校敷地として払下げ出願書を出したが、いかに当時台湾総督の余勢をもつてしても、如何んともするなく、出願は空しく却下されたので、我々はこの時少しは愉快感を感じた事であつた。
  
 このあと、川村竹次は高田町に泣きついて協力を要請し、個人名義の私立学校には払い下げられないという宮内省を説得して、財団法人化することで解決を図っている。結局、払下げは成功するのだが、坪単価は60円と高田町ほど値引きはしてくれなかった。
 こうして、1929年(昭和4)9月に高田第五小学校は落成した。これにより、少しずつ生徒たちを第五小学校へ移籍させ、不足する教師たちの工夫や努力などで、二部教授制が解消できたのは3年後の1932年(昭和7)になってからのことだ。高田町では、二部教授の解消が教育の領域での大きな課題だったせいか、それが解決できたことで大がかりな祝賀会までが開催されている。
 1932年(昭和7)4月29日に学習院のグラウンドを借りて、高田町内の小学校に通う生徒や教職員たち全員を集めて、「二部教授撤廃大祝賀会」が催された。そして、このときグラウンドの上空にたまたま飛来した飛行機には、カメラマンあるいはカメラを持った“誰か”が同乗していたのだ。同書から、つづけて引用してみよう。
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 この時は町内第一から第五に至る全校の生徒教職員、並に学校後援団体が全員を挙げて参加し、トラック内には、生徒全員、トラックの外には父兄関係者数千集合、時しも団体体操を行つて居たが、丁度その時、空を飛行機が飛んで低空旋回を行ひ、機上から旗さへ打振つて呉れたので、一同歓声をあげて之に呼応し、互に祝福したことであつた。翌々日ともなると、ここにかゝげた様な大きな空中から撮影した写真を町長の僕宛に送つてくれた。しかも発送人は書いてなかつた。当時は新聞飛行機も無し、広告飛行機も無し、飛行隊一本の時代であつたから、軍部飛行機であつた事は疑ひないが、低空旋回までして撮影してくれたのに、その送り人の名を示さないところ、日本武人のおくゆかしさが伺はれて嬉しかつた。今だ(未だ:ママ)にその人の名が知られない事が残念に思はれる。
  
 海老澤了之介は、「新聞飛行機も無し、広告飛行機も無し、飛行隊一本の時代」と書いているけれど、もちろんそんなことはありえない。
 1925年(大正14)3月6日に下落合の目白商業(現・目白学園)に墜落した、ビラを撒いていた「広告飛行機」のエピソードClick!はこちらでもご紹介しているが、新聞社もまた航空機をチャーターして紙面用の空中写真を早くから撮影している。たとえば、1923年(大正12)6月14日に東京朝日新聞社のチャーター機が、カメラマンを載せて早稲田大学の戸塚球場に飛来Click!し、東京六大学野球の様子を撮影しているのをご紹介済みだ。だから、1932年(昭和7)ともなれば、さまざまな目的の小型機が上空を飛行していたはずであり、祝賀会のときたまたま飛来した飛行機が所沢から飛んできた陸軍航空隊のものとは、まったく限定できないだろう。
 新聞社が取材用に、専用の社機を保有するのはもう少しあとの時代になるが、取材案件ごとに航空機をチャーターすることは、大正の早い時期からすでに行われていた。したがって、機上から“社旗”をふって撮影してくれたのは、どこかの新聞社の記者ないしはカメラマンだったのかもしれないし、カメラが好きな広告宣伝マンかもしれないし、あるいは海老澤が書くように軍人だったのかもしれない。
 ただし、学習院OBが多い陸軍の飛行機だとすると、「発送人」名を書かずに秘匿したのが確かにうなずける。なぜなら、任務以外のプライベート写真を撮ってフィルムを浪費したことがバレれば、非常にまずいからだ。でも、これは大判フィルムが非常に高価だった時代に、仕事以外の被写体を撮影してしまった記者やカメラマンについても、まったく同じことがいえるとは思うが……。
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高田町役場記念写真1933.jpg
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 海老澤了之介が高田町の助役から町長にかけての時代、武蔵野鉄道Click!を池袋から護国寺まで延長させる計画が進行している。高田町には、「武蔵野鉄道護国寺線作成委員会」が結成され、同鉄道や沿線の街に対して積極的な働きかけが行われた。なぜ根津山Click!が長期間、宅地開発も行われずそのままの状態に置かれていたのか、武蔵野鉄道の延長と終点駅に近い操車場の設置を考慮すると、なにか別の物語が見えてくるかもしれない。
 だが、隣りの西巣鴨町が武蔵野鉄道にはまったく消極的で、高田馬場駅から早稲田までの地下鉄「西武線」Click!と同様、延長計画は画餅に帰してしまった。高田町では、やる気のない西巣鴨町に対して立腹していた様子なのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:先年に新装なった、現在の目白小学校(旧・高田第五尋常小学校)。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる学習院馬場。は、1932年(昭和7)4月29日に不明の航空機から撮影された学習院グラウンドの「二部教授撤廃大祝賀会」。は、現在の学習院グラウンドと高田町役場跡界隈。
◆写真中下は、火の見櫓の残滓が残る高田町役場跡裏の現状。下左は、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』。下右は、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)で撮影者不明な学習院グラウンドの空中写真も収録されている。
◆写真下は、1933年(昭和8)撮影の左から高田町役場、消防ポンプ所と火の見櫓、高田警察署。は、前年の豊島区の成立とともに撮影された高田町役場解散記念写真で印が町長だった海老澤了之介。は、左から右へ高田町町役場(現・警視庁目白合同庁舎)や消防ポンプ所(現・豊島消防署目白出張所)、高田警察署(現・目白警察署)の跡。

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