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両神山系にオオカミの遠吠えが響く。 [気になるエトセトラ]

中井御霊社.JPG
 ニホンオオカミについては、ここでも江戸郊外の各地に勧請された三峯社Click!とともに何度かご紹介Click!しているが、先日、もっとも目撃情報が多い秩父連山へ出かけてきた。両神山の山麓まで出かけたのだけれど、別にニホンオオカミに出会いたくなって雪が残る秩父連山へ出かけたのではなく、ただ温泉へのんびり浸かりたくなったのと、食いしん坊のわたしはももんじClick!=シカ料理が食べたくなったからだ。
 江戸郊外に勧請された三峯社(大神社)は、農作物を荒らす害獣除けの性格が強かったと思われるのだが、今日の東京も含めた関東地方における同社の役割りは、「家内安全」「火災除け・厄除け」といったところだろうか。下落合地域(中落合・中井含む)にも、中井御霊社の境内には三峯社が勧請され、八雲社とともに属社となって現存している。
 江戸期には、こちらで何度か取り上げてきた富士講Click!大山講Click!とともに、秩父の三峯社へ参拝するオオカミ(大神)信仰の三峯講が存在していた。富士講は、おもに関東から甲信地方(山梨・長野)にかけての独特な地域信仰だが、三峯講もまた富士講と重なるような信仰の拡がりを見せている。富士講には、山岳ガイドのような先達が存在していたが、三峯講には御師(おし)と呼ばれるガイドが道案内をつとめた。
 御師は修験者の一種であり、三峯社のオオカミ護符を里人に配りながら、三峯講を組織していったといわれている。富士講の先達は、どちらかといえば町や村に居住する富士登山の経験者、すなわち山岳のベテランガイド的な性格が強いが、御師は山から下りてきてオオカミ(大神)信仰を布教する宣教師、あるいは伝道者のような存在で、いつも町や村に定住しているわけではない。ちょうどチョモランマ(英名エベレスト)をめざす登山家たちのため、山麓にシェルパ村が存在するのと同様に、秩父には三峯山をめざす信者たちのために御師の集落が形成されている。
 以前、中村彝Click!のアトリエへ結核を治療しにやってきた、御嶽の修験者Click!のエピソードをご紹介しているが、修験者すなわち御師は深山で修行して霊力や神通力、つまり「験」(超能力)を身につけ、里へと下りてきては「験」力によって町や村の人々の“困りごと”を解消していくのが役割りだった。下落合にも三峯講(三峯社)が存在するということは、江戸期に御師が村へとやってきて布教したものだろう。オオカミはキツネよりも強いので、精神状態が不安定となった患者=「狐憑き」の症例でも、御師がよく呼ばれている。また、水源地である山の御師は、渇水時の雨乞いでも活躍したかもしれない。中には、「わたしは3ヶ月間、天にひたすら祈りつづけて、ついに雨を降らせることに成功したのだ」、「3ヶ月も祈ってりゃ、いつか降るだろ!」と山田に突っこまれそうな、いい加減な「超能力」者たちもいたのかもしれないが。w
 オオカミ(大神)信仰は、別にニホンオオカミそのものを信仰しているわけではない。稲荷のキツネが、異界に棲む神(多くは五穀豊穣の農業神ウカノミタマ)のつかいで人々の前に姿を現す動物、つまり眷属(けんぞく)として機能していたのと同様に、オオカミも山の異界に棲む神々の眷属として人々の前に姿を見せると信じられていた。だから、江戸期の人々にとってはキツネ以上にめずらしい、深山に登らなければめったにお目にかかれないニホンオオカミが眷属となる信仰に、よりありがたみを感じていたのかもしれない。
秩父連山の霞.JPG
秩父連山.JPG
尾ノ内渓谷氷柱.JPG
 さて、秩父連山では目撃事例や遠吠え情報が、ほぼ毎年のように聞こえてくるニホンオオカミの気配だが、さまざまな報道や情報、資料、痕跡などを総合すると、とても絶滅したとは思えない状況が浮かび上がってくる。おそらく、秩父には複数の個体が、いまだに棲息している可能性が高いのではないだろうか。また、九州は大分県の祖母山系の山岳地帯でも、目撃情報や遠吠え情報が聞かれる。だが、ここで困ったテーマが持ち上がっている。日本の本州から四国、九州の山々に棲息していたイヌ科の動物は、どうやら2種に分類されるようなのだ。その発端は、江戸末期に日本へとやってきたシーボルトの時代にまでさかのぼる。
 ドイツの医師で植物学者のシーボルトは、日本の動物や植物の標本をヨーロッパ各地へ送り紹介していたことでも知られるが、日本の山岳地帯に住むイヌ科の動物として、オオカミ(狼=ニホンオオカミ)とヤマイヌ(豺・犲=山犬)の2種類の個体を、オランダのライデン自然史博物館へ送り出している。だが、ライデン自然史博物館では2頭を同種のイヌ科動物と規定してしまい、2頭のうちシーボルトがヤマイヌとして送った標本をニホンオオカミとして剝製にし、同館へ展示した。これが、ニホンオオカミの世界標準の個体となってしまったところから、さまざまな混乱が生じているようだ。日本で保存されている、比較的大型のニホンオオカミとされる毛皮のDNAと、ライデン自然史博物館のニホンオオカミとされる標本のDNAが一致しないのだ。
 江戸期の文献には、「狼」と「豺・山犬」などを分けて記述している資料が多いが、同様にオオカミとヤマイヌを混同して書いていそうな文献も多い。「狼」とされる動物と「豺・山犬」とされる動物は、生息域が近似しているイヌ科の動物ではあるけれど、シーボルトが江戸期から規定していたように、実は別種の動物なのではないか?……と疑われはじめた。つまり日本の山岳地帯には、ちょうど北アメリカ大陸のオオカミとコヨーテの関係と同様に、2種類のイヌ科動物がいたのではないかということだ。そして、やや大型のほうがニホンオオカミであり、ライデン自然史博物館に展示されている小型の動物がヤマイヌではないかと想定されはじめた。
 シーボルトが2種に分類したイヌ科動物を、ライデン自然史博物館が同一のものと誤認し、ヤマイヌの標本をニホンオオカミだと規定して「タイプ標本」化してしまったところから、すべての混乱がはじまっているらしい。このあたりの状況を、2017年(平成29)に旬報社から出版された宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』から引用してみよう。
秩父の案山子.JPG
両神山.jpg
  
 二〇〇二年に七例目の毛皮が秩父の民家で発見されるまで、剥製と毛皮の標本は、ライデン自然史博物館、大英博物館、国立科学博物館、ベルリン博物館、東京大学、和歌山大学にしかなかった。/一番大きい和歌山大学の剥製は、頭胴長一〇〇センチ(組み直し前は胸から尻まで七〇センチ、体高五二.五センチ、尾長二五センチ)だった。しかし、ライデンにあるタイプ標本は体高四三.五センチ、頭胴長八九.三センチ、尾長三二.五センチ(『ファウナ・ヤポニカ』から)と小柄で、対応する頭骨も確認された中で最小だ。これがニホンオオカミ像を実際より小さく印象づける一因だったのだろう。同時にこの小柄な剥製を見ると、一般にイメージするタイリクオオカミとは違う種類の動物であるかのような印象を受ける。/ライデンの剥製はニホンオオカミの大きさの平均値を下げて、ニホンオオカミ像の混乱を増幅させた。さらに、ニホンオオカミとされているものの中にも、本当は複数の動物種が含まれているのではないかという、今日まで続く論争の大きな要因にもなっているのだ。
  
 ライデン自然史博物館にある剥製には、ニホンオオカミ(Canis hodophilax)とプレートに記載されているが、困ったことに剥製台座の裏側にはJamainu(山犬)と記録されているようだ。同博物館の学芸員が、どこかでシーボルトの標本2体が、実は別種のイヌ科動物であることに気づいたからだろうか。
 同書の著者が実際に目撃しているように、ニホンオオカミ(仮称「秩父野犬」Click!)とみられるイヌ科の動物は、確かに秩父の山中に棲息しているようだ。スチール写真ではなく、より情報量の多い動画としてとらえられる日がくることを願うばかりだ。
 秩父の山里にある村を歩いているとき、わたしは異様な光景を目にした。案山子(かかし)が横へ手をつなぐように、山に向かって立っていたのだ。案山子は鳥獣の侵入を防ぐために、田畑のあちこちへ等距離に立てられているのが普通だ。だが、秩父では山の斜面を遮るように、横へ連続して拡がるように立てられている。地元の方に訊くと、シカやイノシシ、サルなどが頻繁に村へ下りてきて、畑地の中をわがもの顔で歩いているらしい。
西荻窪三峯社.JPG
井草八幡三峯社.JPG
ニホンオオカミは消えたか?.jpg ニホンオオカミは生きている.jpg
 つまり裏返せば、ニホンオオカミの棲息に必要な動物が、秩父にはふんだんに存在するということだ。いや、この言い方はどこかで逆立ちしている。ニホンオオカミを絶滅近くにまで追いやったせいで、本来なら捕食されるべき動物の個体数が増えつづけ、山での食糧が足りなくなって里の畑地を荒らすようになってしまった……ということだろう。

◆写真上:江戸期の下落合村で勧請したとみられる、中井御霊社に建立された三峯社。
◆写真中上は、早春に霞がただよう秩父の山々。は、さまざまな動物が棲息する秩父の山林。は、両神山から北東へ3kmほどのところにある氷柱で有名な尾ノ内渓谷の吊り橋。山奥の夜間にもかかわらず、多くの人たちが訪れる。
◆写真中下は、山に向かって横一線に並べられた案山子。は、ニホンオオカミの目撃例が多い秩父連山の両神山と七滝沢あたり。(GoogleEarthより)
◆写真下は、西荻窪駅前にある三峯社。は、井草八幡境内にある三峯社。下左は、秩父を中心にニホンオオカミをめぐる最新動向がまとめられた2017年(平成29)出版の宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』(旬報社)。下右は、九州における目撃情報がまとめられた2007年(平成9)出版の西田智『ニホンオオカミは生きている』(二見書房)。


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焼け残り沿線住宅に撒かれた米軍ビラ。 [気になるエトセトラ]

神戸空襲B29被弾19450717.jpg
 戦争も末期になって、連日、B29の機影が日本の上空へ頻繁に現れるようになると、膨大な量の「伝単」と呼ばれた米軍宣伝ビラ(Propaganda leaflets)が空から撒かれるようになった。その多くは、国民の戦意を喪失させるような「平和」志向のものであったり、太平洋の各地で行われた日米戦の戦闘詳報であったり、ときには次の爆撃都市を予告する内容であったりした。
 宣伝ビラは、南洋の島嶼部から飛び石伝いに日本本土へと迫る米軍の攻略作戦の状況を、ほとんど事実にもとづいて報道した内容も多かった。したがって、ラジオからの「大本営発表」が信用できなくなった人々は、B29が撒いていったビラを誰にも見つからないようにこっそり拾い、実際の戦況を知ろうとむさぼるように読んでいる。
 日本では徹底した報道管制が敷かれ、勇ましい精神論やほとんど虚偽の報道しか流されなくなっていたため、正確な戦況の情報に飢えていた。ただし、もし「伝単」を拾ったことが当局に知れると、警察や憲兵隊に検束されてひどいめに遭うことになる。だから、誰にも知られずに拾うことは困難だったが、それでも情報に飢えていた人々は米軍が撒いたビラを見つけると、こっそりポケットにねじこんで自宅に持ち帰っている。
 上落合から短期の上高田暮らしをへて、鷺宮2丁目786番地(現・白鷺1丁目)に自邸を建設して転居した壺井繁治Click!壺井栄Click!夫妻は、配給制による食糧不足から近くの土地を借りて、サツマイモClick!を栽培していた。近所の農家から苗木800本を購入し、雑草と石ころだらけの荒れた土地を耕しながら、少しでも飢えをしのごうと開墾を繰り返していた。きつい農作業は、ペンしか持たない詩人にはかなり辛かっただろう。いつ空襲に遭うかわからないので、足にはゲートルを巻き鉄兜(戦闘用のヘルメット)を背負っての農作業だった。その作業中に、壺井繁治は米軍機が撒いた「伝単」をひろっている。
 当時、西武電鉄Click!(現・西武新宿線)沿線にあったほとんどの駅は、駅前や主要道路沿いのみに住宅街が拓けた新興住宅地であり、いまだ一面に田畑が拡がるような風景だった。戦争も末期を迎えるころ、壺井繁治は西武線車内で蔵原惟人Click!と偶然に再会し、蔵原が網走刑務所から小管刑務所へと送られ、病気が重篤になったのでようやく保釈されて、上石神井の自宅で静養しているのを知った。身体が回復してきたのか、蔵原は仕事の翻訳原稿をどこかへとどけにいく途中だったようだ。
 戦争も末期になると、特高Click!の刑事たちが反戦運動や平和運動をしていた人物たちで、刑務所には収監されていない「転向」組も含めた社会主義者や共産主義者、民主主義者、自由主義者、アナーキストなどの家庭を訪ねることが多くなった。それは検挙するためでも弾圧・監視するためでもなく、戦争の敗色が濃くなった現状を踏まえ、今後はどのような政治や社会が到来するのか、「ぜひ意見を聞きたい」という訪問だった。さんざん弾圧し、検挙者の虐殺を繰り返した特高警察が、いまさら彼らの「意見」に耳を傾けるのも滑稽きわまりないが、日本軍の連戦連敗に心細くなり、上層部(内務省)が大日本帝国という国家や組織の存立そのものに、本格的な危機感をおぼえていたのだろう。
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 壺井夫妻のところへも特高刑事がやってきて、高圧的な態度が鳴りをひそめた“低姿勢”で「意見具申」を求めている。また、戦後の「戦犯」追及Click!への恐怖感もあってか、弾圧していた人々へおもねる姿勢もあったのだろう。壺井繁治は、「別に意見などありませんよ。第一、戦争については、これまで大部分のひとがとやかく意見を吐くことを禁じられていたんですからねえ、今更意見を求められても、多くのひととおなじように、いうことなしですよ」と、皮肉っぽく特高の来訪を突っぱねている。
 さて、B29からの宣伝ビラが多くなったのは、そのような状況のさなかだった。宣伝ビラは、東京西部ではどうやら焼け残った住宅地の多い、西武線や中央線、小田急線など郊外電車の沿線にバラ撒かれているようだ。下落合では聞かないが、隣りの上高田では「伝単」をひろったというお話を聞いたことがある。壺井夫妻は、鷺ノ宮駅の南側にある鷺宮八幡社近くに自宅があり、サツマイモを作付けした畑地もその沿線に位置していたので、おそらく西武線沿いの焼けていない住宅街を眼下に見下ろしながら、B29は宣伝ビラを撒いていったのだろう。そのときの様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
  
 ある日、炎天の下で、畝の上にはびこっている雑草を抜いたり、長く伸びた芋の蔓を引っくりかえしたりしていた。そこへB29が一機侵入してきて芋畑の真上あたりで物凄い爆発音をあげた。わたしはてっきり爆弾が投下されたのだと思い、畑の隣りの竹藪の中へ逃げこみ、地面に身を伏せた。けれども地上になにも炸裂する様子がないので、少々不思議に思い、やがて飛行機が上空を通りすぎ、北東の方角へだんだん遠ざかってゆくのを見計らって、藪の中から出てくると、何万枚とも知れぬほどの紙片が、はじめはまるで白い粉みたいに空からゆっくりと落下してきて、わたしの芋畑にもあちらこちらと散った。
  
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 誰も見ていないのを確認して壺井繁治が「伝単」拾うと、それは米国のトルーマン大統領の写真が掲載された、降伏勧告の宣伝ビラだった。彼は急いでポケットにねじこんでから、改めて周囲を見まわすと、近くの農家から出てきていた農夫たちが、やはりビラを拾ってこっそり隠すのが見えた。
 B29の機体が見えなくなったころ、近くの高射砲陣地から砲弾が数発、思い出したかのように発射されている。しばらくすると、自転車(もはや自動車ですらない)に乗った兵隊たちが2~3人畑へやってきて、散らばっていたビラをあたふたと大急ぎで回収しはじめた。帰りの西武線で、壺井繁治は小さな子どもを背負った老婆に出会っているが、老婆もどこかでビラを拾ったのか、「まるでチンドン屋から貰った広告ビラみたいに、背中の子供にそれを持たせて歩いている」のを目撃している。もはや大本営発表のウソ報道を見かぎり、ほとんどの国民が信用していないのを象徴するような光景だった。
 このとき、壺井繁治が拾った「伝単」は、No.2088と記載されている「日本国民諸氏 アメリカ合衆國大統領ハリー・エスツルーマンより一書を呈す」だった。それは、戦争継続は犠牲者を増やすばかりで無意味であるという内容の、以下のような文面だった。
  
 ナチス独逸は壊滅せり 日本国民諸氏も我米国陸海空軍の絶大なる攻撃力を認識せしならむ 貴国為政者並に軍部が戦争を継続する限り我が攻撃は愈々その破壊及び行動を拡大強化し日本の作戦を支持する軍需生産輸送その他人的資源に至る迄徹底的に壊滅せずんば熄まず 戦争の持久は日本国民の艱苦を徒らに増大するのみ 而も国民の得る処は絶無なり 我が攻撃は日本軍部が無条件降伏に屈し武器を棄てる迄は断じて中止せず 軍部の無条件降伏の一般国民に及ぼす影響如何 一言にて尽くせばそは戦争の終焉を意味す 日本を現在の如き破滅の淵に誘引せる軍部の権力を消滅せしめ前線に悪戦苦闘中なる陸海将兵の愛する家族農村或は職場への迅速なる復帰を可能ならしめ且又儚なき戦勝を夢見て現在の艱難苦痛を永続するを止むるを意味す 蓋し無条件降伏は日本国民の抹殺乃至奴隷化を意味するものに非る事は断言して憚らず
  
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 このとき、米国へ実質亡命していた八島太郎(岩松惇)Click!は、「伝単」へのイラスト制作や文面の考案に協力している。それは、1943年(昭和18)に『あたらしい太陽』Click!の創作とともに、軍国主義・日本の戦争を早く終わらせようという、国内で反戦活動していたころからの強い意思もあったのだろうが、もうひとつ米国政府に叛意がなく、日本のスパイだと疑われるのを回避する目的も同時にあったのだろう。米国内における日本人あるいは日系人への敵視は、戦争が終結するまで変わらなかった。

◆写真上:1945年(昭和20)7月17日に、神戸上空で被弾し第4エンジンが停止したB29。
◆写真中上は、1949年(昭和24)の空中写真にみる鷺宮2丁目786番地にあった壺井繁治・壺井栄夫妻の自宅界隈。は、自宅の北側にある鷺宮八幡社。は、米軍の「伝単」(宣伝ビラ)を撒く準備をするB29の搭乗員。
◆写真中下は、広島への原爆投下を予告した「空襲予告ビラ」。も、各都市に撒かれた爆撃を予告する宣伝ビラ類。東京大空襲Click!の直前にも「予告ビラ」は撒かれたが、軍当局がほとんど回収して秘匿したため避難した市民はほとんどいなかった。は、大阪を空襲するB29。画面の上部には、大阪城の内濠と天守が見えている。
◆写真下は、各都市への空襲予告ビラ。は、拾われやすいよう10円札を模した「伝単」で裏面に宣伝文が書かれている。は、壺井繁治が畑で拾った「降伏ビラ」。


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上落合の妻たちを「支援」する店員。 [気になるエトセトラ]

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 下落合の南に拡がる地域、早稲田通りも近い戸塚4丁目593番地(旧・戸塚町上戸塚593番地)に住んだ窪川稲子(佐多稲子)Click!は、1949年(昭和24)に出版した『私の東京地図』の中で、自宅の界隈を細かく描写している。以前、近くの戸塚町3丁目866番地(上戸塚866番地)に住んでいた藤川栄子Click!や、上落合から目白町3丁目3570番地に転居した宮本百合子Click!との交流や暮らしぶりについて書いたが、『私の東京地図』ではより詳しい生活の様子や、上落合に住んでいた友人たちとの交流の詳細が語られている。
 そこでは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる以前、早稲田通り(戸塚大通り)が小滝橋Click!まで拡幅される前の様子が記録されていてめずらしい。高田馬場駅で下車して西へ歩き、上落合の友人たちを訪ねる道すがら、早稲田通りの様子を観察していたものだろう。小滝橋までの通りが拡幅されたのは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる数年前、1930年(昭和5)ごろのことだった。
 早稲田通りは、小字が「宮田」とふられている戸塚町(大字)上戸塚(字)宮田345~346番地あたりで、ほぼ直角に近いかたちで折れ曲がっていたのは、ずいぶんあとの時代までつづいている。現在もその名残りがハッキリと残っているが、高田馬場駅に近づくにつれ狭い道の両側には店舗が軒を接するように並んでいた。佐多稲子は、早稲田通りの拡幅工事が完了し、道路沿いに新しい商店が増えはじめたころに上戸塚へ引っ越してきている。当時の様子を、『私の東京地図』(新日本文学会版)から引用してみよう。
  
 早稲田の方からきて高田馬場の駅前で省線のガードをくぐり、小滝橋で新宿からきた道と合して中野へと通じてゐる戸塚の大通りは、私のそこへ越していつた昭和八年頃、まだアスフアルトに汚れさへないほど新しく、新しいだけにがつちりしてゐた。両側にはもう商店が建ちならんで丁度歳末の、売り出しの看板が店から店へつづいて歩道の上に張り出され、ざわざわとしたあわただしい商店街の空気をつくつてゐた。チンドン屋の鳴らす鉦もどこからか聞えてをり、両側の歩道の端しに立てた松飾りの笹が寒風に葉音を立ててゐる間を、円タクの自動車が右からも左からも走つてゐた。/まだこの道が、四五人も連れ立てばいつぱいになるほどの狭い一本道だつたのは、その三四年前のことだつた。上落合に集会があつてその帰りに高田馬場へよる時、小滝橋のあたりは、神田川すれすれに小さな木の橋があつて、川岸はくづれて橋と水がいつしよになつてゐた。そのあたりは古鉄やぼろや古新聞などを地べたに並べた屑市が暗い灯りで狭い道をてらしてゐた。早稲田の学生街の続きで、高田馬場近くになると、ちよつと折れた小路に紅雀といふ名の知られた喫茶店などもあるというふうだつたが、早稲田までこの狭い一本道は、本屋や洋品店などの店でつづいて、雨あがりなどは、道が低いのでぬかるんだが、夜などはこのへんまで学生でいつぱいになつてゐた。
  
 上戸塚の借家で、窪川稲子(佐多稲子)は隣人の妻と親しくなっている。時期は1933年(昭和8)だと思われ、夫の窪川鶴次郎Click!は治安維持法違反で豊多摩刑務所Click!に収監されていた。それを聞いても、隣りの主婦は特に驚かなかったようだ。夫が戸塚町信用組合(戸塚町戸塚74番地)に勤めている主婦は、「思想運動なさる方は、そりやァねえ、苦労なさいますよ。いえ、私んとこだつて、主人も学生時分にはね、まんざら赤くなかつたわけでもないんですよ。私も主人と結婚しますときはね、親が反対だつたもんですから、家を飛び出すやうなこともしましてね」と、妙な連帯感をしめされている。
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 佐多稲子は、特高Click!による弾圧で誰も引き受け手がいなくなってしまった、日本プロレタリア文化連盟(コップ)の婦人雑誌「働く女性」と、もう1冊の大衆雑誌を友人とともに自宅で密かに編集していた。編集に参加していた特高に検挙されていない男たちは、「理論的な対立」を理由にこれらの雑誌の編集から次々と手を引いて逃げていった。友人は「ね、一番困難なときになつて、それを支えてゆかうといふのがわれわれ女二人だなんて、どうお」といいながら、ふたりで「はつははは」と高笑いしている。
 高田馬場駅の方向へ歩いていく友人のうしろ姿を、佐多稲子は早稲田通りの酒屋の角まで見送っている。この「下宿屋の看板が幾つも立ててある酒屋」とは、佐多稲子の家から早稲田通りを駅方向へ300mほど歩いたところにある、戸塚町3丁目362番地の小島屋酒店のことだろう。小島屋酒店のすぐ東側には、戸塚消防団詰め所とともに火の見櫓が建っていた。現在のシチズンプラザの斜向かい、(株)和真ビルのある角地だ。彼女が見送る、「明るく深い紫色の羽織をきたその肩は、丸くよく肥えている」と書く友人とは、目白町の自宅へ帰る宮本百合子Click!だろう。
 1933年(昭和8)の暮れも押し詰まったある日、上落合の友人ふたりが「お正月の買物にゆかない?」と、佐多稲子の家を訪ねてきた。いずれも、夫が治安維持法違反で豊多摩刑務所に服役しているふたりだった。だが、佐多稲子の手もとには現金がほとんどない。それを告げると、ひとりが「大丈夫よ」と薄笑いし、もうひとりが背をまげてケタケタと笑ったらしい。正月の準備もまったくできず、夫への正月の差し入れもなくて途方に暮れていた佐多稲子は、子どもをねんねこでおぶって、ふたりについていくことにした。以下、同書から引用してみよう。
  
 新宿の雑閙は押しせまつた年の暮の、夕方かけた時刻で、歩道は歩きもならない。ガラスと果物の色彩と電燈の光りできらきらしてゐる高野フルツパーラーの前をやうやく抜けると、中村屋の広い間口にも人があふれてゐる。ルパシュカの店員の姿を人の頭越しに探すと、見知つた顔がちよつとの暇もなく客に接してゐる。そのとなりの食料品店は普段でも通行人の足もとまでじめじめさせるやうに、干物や貝の箱を店さきに張り出してゐる店なのに、歳末だから一層店先には商品が積み立てられてゐる。鮭、かまぼこ、伊達巻、数の子、それにきんとんから黒豆から、何でも無いものはない。/「いらつしやいまし。」/もう青年に達したひとりの店員は、東京っ子の下町育ちらしい気の利いた表情でわざと素知らぬ顔で私たちの前に立つ。
  
 当時、新宿中村屋Click!の東隣りにある「食料品店」とは、乾物屋の「近江屋」(淀橋町角筈1丁目12番地)だった。ふだんは乾物を中心に扱っていたが、正月にはお節料理の素材を店先に積んで売っていたらしく、この店で正月料理の材料はほとんどそろったらしい。
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 女性たちが店前に立つと、ひとりの青年店員が3人の顔を見ながら出てきて「ひとり芝居」をはじめている。彼は3人の女性と、さも注文の会話をしているような演技をし(彼女たちはなにも話さず商品を見つめているだけ)、次々と正月に必要な食料品を3人ぶん大きな袋へ詰めはじめた。青年店員は、彼女たちの前でひとりごとの「会話」をすると、商品が山積みになっている間を何度も往復しながら、袋はどんどんふくらんでいった。そして、重たい買い物袋を渡すと、さもおカネを受けとったかのような顔と仕草で、「ありがとう存じます」と大声でいって3人の前を離れ、すばやく次の客の前へ立って応対をはじめた。そのときの様子を、同書から少し長いが引用してみよう。
  
 (青年店員は)さも注文を聞いたふうにうなづいて、素早くそこに積んであつた大きな伊達巻を三本自分の手に取上げると今度は、まつ白な小田原かまぼこをやつぱり三本、雑煮用のすぢも、煮しめ用の竹輪も加へて、抱へきれなくなると、一応小走りに店の奥へそれをおきにゆき、今度は、折づめの金とんや煮豆を、そのあとでは、数の子やわかさぎや、そして頭つきの鮭さへ奥へ持つて行かれる。この間にも店の前に集つてゐる客の重なりは入れ代り立ち代りしても、その数は減りはしない。数人の店員は店の奥と先を往来してちよつと足を止めてゐるすきもない。だから私たちは、店の前の客の後ろに立つて、幾分そはそはしたおもひと、何かをかしさとのごつちやになつた気持でゐる。缶詰類の棚に囲まれた店の奥のレヂスターで金の出し入れをしながら、店さきを監視してゐる表情の番頭の視線も、外から見える。私はその目と自分のまなざしとがもしゆき合へば、対手の疑惑をきつと誘ひ出すにちがひない、と、それをおそれて、店の灯の外になるやうにしてゐる。/やがてひとつの包みになつて抱へ出されてきた荷物をみて、私ははつとなる。ひと梱ほどの大きさになつてゐるのだ。/「どうも、ありがたう存じます。」/よく透る高調子で言つて空手になると、次の客にもう顔をむけてゐる。
  
 その鮮やかでスキがなくすばしっこい店員の動きに、窪川稲子(佐多稲子)は呆気にとられていたが、店の前をそそくさと離れると新宿駅前までもどってきたところで、たまりかねて3人は笑いだした。3人は「だめよ」と笑いをこらえつつ、歩調を乱れさせながら山手線に乗っている。上落合の友人ふたりは、帰りがけに佐多稲子の自宅に寄って袋を開けてみると、豊多摩刑務所への差し入れ用としてバターや折り詰め、缶詰までがちゃんと入っているのに驚いている。
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 さて、このときの上落合の友人ふたりとは、誰だろうか? ちょうど1933年(昭和8)12月現在、夫が刑務所へ収監されている人物は、上落合1丁目503番地の壺井栄Click!と、上落合1丁目186番地の村山籌子Click!がいる。ただし、ちょうど同じころ村山知義Click!と窪川鶴次郎は、12月中に「転向」してようやく保釈され出獄するのだが、村山籌子も窪川稲子(佐多稲子)も正月を前に、いまだそれを知らなかったのかもしれない。

◆写真上:淀橋町角筈1丁目12番地にあった、乾物屋「近江屋」跡の現状。リニューアルした新宿中村屋の東隣りの敷地だが、現在はビル建設工事のまっ最中だ。
◆写真中上は、1929年(昭和4)作成の「戸塚町市街図」にみる拡幅前の早稲田通り。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる早稲田通り。は、戦後に喫茶店で撮影された佐多稲子(左)と宮本百合子(右)で、奥にポツンと中野重治の姿が見える。
◆写真中下は、1938年(昭和13)ごろの記憶をもとに描かれた濱田煕の「昔の町並み」で、1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。下左は、1929年(昭和4)に下落合2108番地の吉屋信子邸Click!で撮影された窪川稲子(手前)と吉屋信子(奥)。下右は、戦後の1960年代の撮影と思われる佐多稲子(右)と壷井栄(左)。
◆写真下は、1932年(昭和7)に撮影された新宿通り。ビルは新宿三越(右)とほてい屋(のち伊勢丹/左)で、乾物屋「近江屋」は新宿三越の手前にあった。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる新宿通り。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる新宿通りで、2005年(平成17)に新宿歴史博物館が発行した『新宿盛り場地図』より。


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戸山ヶ原と大磯に展開するスパイ網。 [気になるエトセトラ]

善福寺横穴古墳群.JPG
 しばらく前に、大磯の吉田茂邸に入りこんだ陸軍中野学校Click!出身の諜報員(スパイ)、東輝次Click!について書いた。マークした吉田茂の電話盗聴を行う「乙工作」から、実際に邸の中へ入りこんでさまざまな情報を収集する「辛工作」を行なっていた人物だ。その東輝次の手記がようやく読めたので、戸山ヶ原Click!周辺での動きや大磯Click!での具体的な工作の様子を詳しく理解することができた。
 東輝次は、戸山ヶ原Click!に設置された極秘のアジトである陸軍兵務局防衛課第四課分室(通称ヤマ)へ通勤しているので、ひょっとすると落合地域にも住んでいたのではないかと疑ったが、彼はより戸山ヶ原Click!に近いエリアを転々として暮らしていた様子が判明した。中野学校を卒業してから、東輝次は北方満州特務機関に配属されたが、そのうち内地勤務の3名に任命されている。そして、淀橋区柏木5丁目(現・北新宿4丁目)の図南寮へ軍属として下宿し、戸山ヶ原の兵務局分室へ通っている。下宿から兵務局分室まで、歩いても20~25分ほどで着いただろう。
 まず、東輝次は思謀班に属して、反戦平和主義者や民主主義者、左右翼思想を持つとみられる人物たちの盗聴任務についている。その中心となったのが「ヨハンセン」と呼ばれた吉田茂を中心とする、ヨハンセングループに対するスパイ活動だった。その様子を、2001年(平成13)に光人社から出版された、東輝次『私は吉田茂のスパイだった』から引用してみよう。
  
 余は「吉田茂」ほか二名の盗聴を担当した。陸軍軍医学校Click!西方のその建物は、二棟の小さな二階建てである。春夏秋冬、四季を通じて四囲の窓ガラスには暖簾が下ろされ、八月の炎暑には室内が蒸れ返っていた。しかし、その中で終日「レシーバー」は耳から離せなかった。いつ電話がかかって来るか分からないからである。官庁の勤務時限後も、当座は一人ずつかならずこれに従事したのである。/一家族の電話の盗聴を実施してから、その家の家族の状況、その声、話しぶり、そしてその連絡先、友人などが分かり得るまでには、優に三ヵ月はかかるのである。田舎と異なり、「ダイヤル」で相手を呼び出すので、その姓は分かっても、いかなる人物か分からないのである。それを全部の電話番号簿を引っ張り出して探すのである。/中野学校において、通信もやった関係にて「ダイヤル」の回転音にて大体の見当がつく。そうして紳士録、興信録を参考に、日々それが接触者として記録されてゆく。重要と思われるべき会話には、かならず録音がなされ、即時再生記録がなされるのである。現在のような「テープ」式のものではない亜鉛張りの円盤を使用する旧式なものであった。外諜関係はほとんど外国語であるため、すべて録音され、通訳室に回された。
  
 東は、中野学校で盗聴を習得したと書いているが、「有・無線」の科目に属するのだろう。ほかに諜報、宣伝、謀略、暗号、隠語、秘密インキ、開錠法、開咸法(手紙盗読)、獲得法(窃盗)、連絡、ロシア語、写真、偽騙、変装、候察、破壊、空拳、剣道、国体学、航空などの教科があったらしい。
東輝次(中野学校).jpg 東輝次(吉田邸).jpg
兵務局分室(ヤマ).jpg
 1944年(昭和19)10月、長期間の盗聴活動が終わり、実際に吉田茂邸へ書生として入りこむ工作をするにあたり、東輝次は本籍地を牛込区若松町66番地へ移している。ちょうど戸山ヶ原にあった尾張徳川家Click!の下屋敷跡に建つ、陸軍第一衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の斜向かいにあたる地番だ。そして、下宿を淀橋区東大久保3丁目(現・新宿区歌舞伎町2丁目)にあった、大久保病院Click!前に変わっている。そこで、ニセの卒業証明や学業証明書、乙種傷痍軍人の紀章や証明書などを偽造した。
 準備は整ったものの、東が「一番苦労しなければならないのは方言である」と書いているように、最大の難関は江戸東京方言Click!が流暢にしゃべれなかったことだ。自身が生まれ育った地域や家庭の母語を消すことは、至難のワザだ。練習は重ねたものの、地付きの人間が一聴したら言葉の発音やイントネーションが微妙に異なるので、すぐにバレてしまうだろうと恐怖心を抱いている。だが、スパイ活動の舞台が神奈川県の大磯町、つまり今日的にいうなら神奈川県南部のいわゆる「湘南弁」エリアになったのでさほど怪しまれず、生活言語の心配はほとんどなくなった。
 以前にも書いたが、中野学校の陸軍兵務局と憲兵学校の陸軍憲兵隊は、まったく組織的に関係がない。兵務局側では、吉田茂を監視する憲兵隊の工作は常時つかんでいたが、憲兵隊側では兵務局のスパイ活動をまったく知らなかった。だから、同じ陸軍であるにもかかわらず、ある局面では兵務局の東輝次が憲兵隊の弾圧から吉田茂をかばったり、大磯に住む反戦平和活動のメンバーたちへの連絡に協力したりと、妙な経緯が生じることになった。東輝次が、徐々に吉田茂たちへ同情的になっていった理由がここにある。
 陸軍中野学校では軍服や軍人の所作はいっさい禁止され、できるだけ軍人からは遠い姿勢を身につけさせ、柔軟に思考することができる「民間人」になりすますスパイの養成機関でもあった。換言すれば、その教育には自由主義的な側面が濃厚だったため、ものごとを観察するのに多角的な視点を備えられる、軍人とは対極的な教育がほどこされた。そのせいか、日本の敗色が日々濃くなっていく中、東輝次が反戦平和の活動家たちと接触するうちに、「この人たちの言葉が正しいのではないか?」と“動揺”していく素地が、最初から存在していたのだ。千畳敷山(湘南平)Click!の山頂へ高射砲陣地を設営する際、吉田邸からは若い東が動員されたが、威張り散らす軍人たちへ反感をおぼえている。
吉田茂邸.JPG
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 このころ、東京の戸山ヶ原は1945年(昭和20)4月13日夜半の山手空襲Click!で壊滅状態となり、兵務局分室(ヤマ)は表向きの兵務局本部の裏手にあった厩舎に移るというありさまだった。その直後、4月15日の早朝に憲兵隊が吉田茂を検挙しに、大磯の邸を包囲した。東輝次は、憲兵たちの横柄な口のきき方に反発しながら、隣りの二宮町にあった牧場へ牛乳を取りにいくという名目で急いで外出し、ヨハンセングループの大磯町大磯にある原田熊雄男爵邸と、大磯町東小磯にある樺山愛輔伯爵邸に電話で異変を知らせた。証拠となる機密書類(近衛文麿Click!の天皇上奏文写し)が憲兵隊に押収されないよう、焼却の時間を与えるのが目的だった。
 吉田茂を検挙したあと、憲兵隊は大磯の街中に「吉田茂は敵国のスパイだった」というデマを流した。吉田邸には、新聞も配達されなくなった。吉田家にいる人々も外出しづらくなり、用事はすべて東輝次がこなすことになった。そんな中、東は吉田邸に新聞を配達しなくなった新聞屋に街中で出会っている。同書より、再び引用してみよう。
  
 途中で新聞配達夫に遭ってなじると、/『吉田さんはスパイだって言うから、新聞なん(て:ママ)入れられない』と言う。/『そんな馬鹿なことがあるもんか。誰がそんなことを言ったんだ』と言うと、/『憲兵隊の人が言っていた。何でも裏の山に秘密の穴倉があって、書生と一緒に無電で外国に送っていたって』/人の好い四十年配の彼は、そう答えた。/余は開いた口が塞がらなかった。その穴倉は、幾百千年の昔、この付近にいたと思われる人間の蟄居生活の遺物である。これが三つばかりあった。入口は三尺平方くらいであるが、中は六尺近くもあり、畳三枚の広さはあるのである。これは今、物置に使用されている。/余はその書生が自分であること、そしてそんな嫌疑じゃないと説明し、新聞を頼んだ。
  
 まるで、東輝次はヨハンセングループのメンバーになったかのような姿勢で、大磯町に流れた吉田茂のデマを打ち消しにまわっている。
 文中に「秘密の穴倉」の話が出てくるけれど、これは東輝次が書く大昔に住んでいた“原始人”の「蟄居生活の遺物」(関東の「原野」には未開の野蛮人=坂東夷しか住んでいなかったという、いかにも戦前の皇国史観Click!の虚構らしい視点だ)ではなく、大磯丘陵の各地に散在する古墳時代末期の横穴式古墳群の一部だ。国道1号線をはさみ吉田邸のすぐ北側にある、広大な城山公園(旧・三井別邸)の庭園内に残された城山横穴古墳群と同時期に築造された一部が、吉田邸の山の中にも点在していたものだろう。
原田熊雄男爵邸1946.jpg 樺山愛輔伯爵邸1946.jpg
池田成彬邸1946.jpg 久原房之助邸1946.jpg
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 東輝次は、吉田茂の憲兵隊による検挙によって工作の任をとかれ、つづいて天皇に近いヨハンセングループのひとり、「コーゲン」こと近衛文麿Click!のスパイ工作を手がけることになる。近衛の下落合にあるClick!は山手空襲で焼けてすでに存在せず、荻外荘Click!から箱根の麓にある知人の別荘へ、そして軽井沢の別荘へと居所を転々と変える近衛文麿と接触するのは容易ではないのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:東輝次が「蟄居生活の遺物」と書いた大磯の横穴古墳群のひとつで、高麗山麓の原田伯爵邸にもほど近い善福寺の境内にある善福寺横穴古墳群。
◆写真中上上左は、陸軍中野学校時代の東輝次。上右は、大磯の吉田茂邸で撮影された東輝次。は、1944年(昭和19)12月23日の空襲4か月前に撮影された戸山ヶ原の兵務局分室(ヤマ)と、表向きの兵務局防衛課の本部建物。
◆写真中下は、国府本郷にある旧・吉田茂邸の門のひとつ。は、東輝次が諜報の連絡に使用した北浜の「明治天皇観漁記念」碑。道路側(北側)の角に通信文を入れた金属缶を埋めて、スパイ同士の連絡をつけていた。は、千畳敷山(湘南平)の山頂に設置された12.7mm高角砲による高射砲陣地だが、ほどなく艦載機による空襲で破壊された。
◆写真下:1946年(昭和21)に撮影された大磯のヨハンセングループの邸宅で、は原田熊雄男爵邸()と樺山愛輔伯爵邸()。は、池田成彬邸()と久原房之助邸()。久原邸の目の前には、陸軍兵務局が設置したスパイアジトがあった。は、スパイの「通信施設」にデッチ上げられた城山横穴古墳群のひとつ。


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目白・落合地域よりもすごい目黒駅東。(下) [気になるエトセトラ]

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 目黒駅の正面口改札を通り、目黒通りを右手(東側)へしばらく歩くとファミリーマートが見えてくる。ここが、巨大な森ヶ崎古墳(仮)Click!への入り口だ。南へわずか50mも歩かないうち、すでに後円部の北東部へと突き当たっていることになる。ここから、南斜面へと下る坂道がつづくわけだが、墳丘の後円部を避けるように丸く半円を描く坂道を200mほど歩くと、今度はやや弓なりになった直線状の坂道が、ゆるやかに下りながら200mほどつづいている。この突き当たりに、幕末までは大きな溜池が存在していた。
 その灌漑用の溜池へ、三田上水から三田用水へと用途が転化した水流や、湧水源だった鳥久保の流れを効率的に貯えるためだろう、本来は前方部の墳丘があったと思われる部分が大きく掘削され、小さな谷間状になっている。だから江戸期の終わりには、その谷底から森ヶ崎の丘上をはるかに見上げるような風情だったと思われる。しかし昭和期に入ると、その風景は激変する。灌漑用に掘られたとみられるV字型の谷間が拡張され、言い方を変えれば前方部の墳丘残滓である森ヶ崎を全体的に崩し、墳丘西側の斜面を山手線の線路際まで埋め立てる地形改造が行われている。
 この西側へ新たな台地を形成し、青木邸と花房邸、そして花房邸住宅地を開発するために、墳丘に盛られていた土砂では足りなかったのか、墳丘の下まで深く掘り起こす土木工事が行われている。これにより、前方部の森ヶ崎は凸地だったものが凹地になり、江戸期からつづいていたV型の谷間はやや広めな低地斜面となり、後円部も南側から深く掘削されて、現在では後円部の北側から南へいきなり落ちこむ崖地状の地形となってしまった。そして、戦前にこの斜面全体がひな壇状に開発され、目黒駅前の閑静な住宅街が形成されていく。後円部の中央付近を歩くと、昭和初期の大規模な土木工事の跡を、改めて確認することができる。森ヶ崎古墳(仮)の東側全域が、まるで丘に切れこむ谷戸のような地形に変貌してしまった。
 昭和初期に地形的な痕跡さえ残さず、このように徹底した破壊がなされた古墳もめずらしいだろう。通常の破壊だと、江戸期に開墾のため平らにならされるか、明治以降はおもに道路敷設や宅地化のために崩されるかしている。だから、戦後1947年(昭和22)の米軍による爆撃効果測定用の空中写真などを参照すると、住宅街の下に隠れていた痕跡が露わとなり、そのフォルムを比較的容易に確認することができる。ところが、森ヶ崎古墳(仮)の場合は山手線の駅前という立地が“災い”したのか、地形をすべて変えるほど徹底的に開発され尽くしてしまっている。だから、焼け跡の写真をいくら参照しても、その痕跡に気づかないのだ。
 ところが、森ヶ崎古墳(仮)のすぐ近くにそれほど人の手が加えられず、ほぼ江戸期のままの姿をとどめた巨大な人工の構造物があることに気づいた。それは、森ヶ崎古墳(仮)の様子を確認するため、1881年(明治14)に陸軍参謀本部が作成した地形図(フランス式彩色地図)を眺めていたときだ。森ヶ崎古墳(仮)のすぐ西側500mほどのところに、大きな正方形の台地があることに気がついた。江戸期から、芝増上寺の別院(下屋敷)などが建立され、一帯が寺町にされていた台地だ。四角の一辺が、正確に180mもある巨大な正方形は、明らかに人工的な構造物だ。
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 最初は、寺町を形成するために江戸期に行なわれた土木工事による地形かとも考えたが、そんな事例は大江戸広しといえども見当たらない。たいがいの寺社は、すでにある地形を利用し、その形状を部分的に改造して効率的に建てられているのであり、わざわざ巨大な正方形の台地をゼロから築造して、寺々を勧請する必然性などないのだ。もうひとつ、目黒地域は東京23区でもめずらしい、方墳(古墳時代の全期を通じて築造された正方形墳墓)が現存するエリアとしても有名だ。羨道や玄室があるので、江戸期にまたしても「狐塚」Click!とされていた、目黒区碑文谷にある碑文谷狐塚古墳だ。
 関東地方の方墳は、北関東や房総半島に多く現存しているが、江戸東京地方ではあまり発見(規定)されていない。もちろん前方後円墳や円墳とは異なり、方墳のかたちは便利なので、それとは気づかれないまま寺社の基礎にされたり、大名屋敷や住宅地のちょうどいい敷地にされてしまったケースも数多くあるのだろう。碑文谷狐塚古墳も、たまたま田畑の中にポツンと取り残されるように存続し、宅地開発でも古墳を避けるように家々が建てられたせいで、今日まで存在しつづけた稀有な事例だ。もっとも、「狐塚」とされていたせいで、江戸期から明治期にかけてなんらかの禁忌的な物語の伝承があったかもしれないのは、西池袋の「狐塚」Click!のケースと同じなのだろう。
 実は、江戸期まで増上寺下屋敷があった寺町の台地を、わたしはまったくそれとは気づかずに歩いていた。森ヶ崎古墳(仮)の痕跡を確認して歩いたあと、ついでにその下へとつづく谷間、すなわち上大崎村の農耕地だった広い田畑跡の斜面と湧水源を歩きつつ、谷底にあたる池田山公園へと足を運んでみたのだ。つまり、南へ向いている森ヶ崎古墳(仮)が見下ろしていた、古代からの耕作地および集落があちこちにあったとみられる一帯を歩いてみた。その帰り道に、現在では宅地開発による斜面のひな壇造成で丘が随所で崩され、あまり正方形には見えなくなってしまった寺町を抜けて目黒駅までもどった。古代人たちの独特な宗教観あるいは死生観にもとづく、古墳の築造にはもってこいの地形に見える、上大崎村と今里村にまたがった寺町台地の斜面または丘上に、あわよくば小規模な古墳の痕跡でも残ってやしないかと思ったからだ。
 ところが、のちに明治初期の地形図を参照して愕然とした。この台地全体そのものが、正確な幾何学にもとづいて築造したような方墳形をしていたからだ。いや、正確にいえば、台地上と同じ高度の地形が北東部へと流れ、連続しているように見えるので、方墳ではなく前方後方墳なのかもしれない。地形図からは、北東に面した正方形の1辺の、ほぼ中心から北東にかけて“尻尾”がついているようにも見える。だから、もともとは正方形の台地ではなく、羨道が口を開けた前方部をともなう前方後方墳の可能性もある。この想定で測定すると、墳長は300mほどになるだろうか。また、前方部をともなわない方墳だとすれば、1辺が180m、対角線の墳長は実に250mという巨大な規模だ。
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 前方後方墳は、おもに東日本に多い古墳形だけれど、もうひとつ出雲地方にも多く見られる形式だ。築造時期は、東日本の場合は弥生時代末から古墳時代前期にかけてが多く、出雲地方の場合は古墳時代の全期間を通じて築造されつづけている。東日本のクニグニと、出雲地方(この場合の「出雲地方」とは、記紀により推定される中国地方のほぼ全土のことだ)との人的・文化的な交流や関係性=連携を裏づける遺跡だが、他の関東地域に比べて東京地方では、方墳や前方後方墳の存在が少なすぎると感じていた。
 森ヶ崎古墳(仮)が、古墳時代の比較的早い時期の墳形をしており、また増上寺下屋敷を中心に寺町となっていた方墳、ないしは前方後方墳とみられる人工の構造物もまた、古墳時代前期の姿をしているとすれば、目黒から上大崎地域にかけての丘陵地帯は、かなり早くから拓けて数多くの集落が形成されていたと思われるのだ。そして、ことさら出雲地方とのつながり、すなわち「国譲り」に承服しない出雲の亡命者Click!(王朝の亡命一族)の影を強く感じさせる。
 しかも、両者の墳丘は東京地方では類例を見ない、きわめて規模の大きなもので、目黒・上大崎地域ばかりでなく、江戸東京の海辺に近い一帯を治めていたクニの「大王」クラスが存在していたエリアだと想定することができる。また、たとえば芝増上寺の境内に残る芝丸山古墳Click!の被葬者は、その配下の「王」または重臣クラスに“格下げ”されそうな気配だ。さて便宜上、この方墳または前方後方墳と思われるフォルムを、とりあえず上大崎今里古墳(仮)と呼ぶことにする。
 古代の平川の流れ(現・神田川)沿いに展開していた、百八塚Click!の事蹟や痕跡をたどるうち、現在の新宿区から豊島区、文京区あたりにかけてが、古墳とみられる痕跡の多さや規模の大きさから、古墳期の南武蔵勢力の中核地域ではないかと考えていたが、目黒川や渋谷川の流域にかけては、さらに強大な勢力のクニが存在し森ヶ崎古墳(仮)や上大崎今里古墳(仮)のフォルムに想定できる、規模の大きな古墳群を形成していた可能性がある。しかも目黒という地名は、江戸期に「馬畔(めぐろ)」の地名へ同音の別字が当てはめられたものであり、馬畔とは古墳期から関東各地に建設されていた「馬牧場」のことだ。
 のちに、鎌倉の政子さんClick!の時代までつづく「坂東の騎馬軍団」(関東では古くから反りのある太刀=日本刀Click!を用いた騎馬戦が主体だが、近畿圏ではでは直刀Click!=朝鮮刀を用いた徒士戦が主体だった)の母体となった、戦闘では重要な乗り物=馬(兵器)の供給地でもあった。同じく馬畔=馬牧場が数多く設置されていた、古墳期の関東地方におけるもうひとつの巨大な勢力、そして南武蔵勢力とは連携してヤマトにおもねる北武蔵勢力(現・埼玉県西部地方)と対峙し牽制していた上毛野勢力、すなわち「群馬」地域との強い連携の形跡も、馬畔=目黒地域を通じ改めて想定することができるのだ。
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 ひょっとすると、南武蔵勢力のクニグニではそれぞれ分業化が進んでおり、馬畔=目黒地域は戦闘や農耕に重要な「馬」の一大生産・供給地であり、タタラ遺跡が散在する落合・目白地域はその名が示すとおり、兵器づくりの基盤を支える「目白」=鋼Click!の一大供給地だった時期が、古墳時代を通じてあったのかもしれない。森ヶ崎古墳(仮)と上大崎今里古墳(仮)のかたちは、そんなことまで連想させるほどの圧倒的な存在感をおぼえる。

◆写真上:空襲の焼け跡が残る、上大崎今里古墳(仮)上に建立された最上寺の塀。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に撮影された焼け跡の森ヶ崎古墳(仮)と上大崎今里古墳(仮)。は、1854年(嘉永7)の尾張屋清七版切絵図「目黒白金図」にみる増上寺下屋敷とその周辺。は、1881年(明治14)に作成された地形図にみる上大崎今里古墳(仮)のフォルム。このころまで、いまだ正方形の台地形がハッキリ残っていたのがわかる。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同地域。正方形の墳丘に合わせ、周囲の道路も碁盤の目のように形成されているのが面白い。は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる同所。は、同写真に撮影ポイントを加えたもの。
◆写真下:上大崎今里古墳(仮)の、墳丘下と墳丘上の現状。寺町の北西側には海軍の火薬工廠があったため、激しい空襲にさらされ随所に焼け跡の塀が残る。


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