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中村彝が見ていたカルピスのある風景。 [気になる下落合]

カルピス1.jpg
 1919年(大正8)7月7日七夕の日、カルピスClick!は全国でいっせいに発売された。カルピスが誕生したのは、酵素の一種とみられる「醍醐素」に、砂糖を混ぜて放置していたのが自然発酵した偶然の産物だった。それを味わった開発者は、美味に驚いて商品化を企画している。偶然に自然発酵した「カルピスの素」は、なんの素材をもとに具体的にどのような手順で、何時間かけて発酵させれば美味しくなるのかがまったく不明だった。それを改めて検証する作業に、R&Dの担当者は膨大な試行錯誤を繰り返したようだ、
 中村彝Click!が初めてカルピスを口にしたのは、翌1920年(大正9)4月ごろに新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!がプレゼントしたのが最初と思われるので、発売から1年もたたずに味わっていることになる。以来、彝はカルピスが病みつきになり、1924年(大正13)12月に死去するまで愛飲しつづけたようだ。カルピスの「カル」はカルシウム、「ピス」は仏教の「熟酥(じゅくそ)」すなわち「サルピス」からとって命名されている。仏教へ帰依していた同社専務の三島海雲は、カルピスの命名について次のように書いている。
 1989年(平成元)出版の、『70年のあゆみ』(カルビス食品工業)から引用してみよう。
  
 「カルピスという名前が、いかにも清涼飲料水らしいとよく人にほめられる。カルピスの『カル』はカルシウムから、『ビス』はサンスクリット語からとった。仏教では、乳・酪・生酥・熟酥・醍醐を五味と言い、醍醐をサルピルマンダ、塾酥をサルピスと言う。五味の最高位は醍醐だから、ほんとうはカルピスではなく、カルピルでなければならないのだが、それではいかにも歯切れが悪いので、私はカルピスにしようと思っていた」(『長寿の日常記』)/すべてのことに関して、常にその道の一流の専門家の意見を聞くことにしている海雲は、この命名のときも、音楽家として著名であった山田耕筰と、サンスクリットの権威であり浄土宗では生きた宝とまでいわれた渡辺海旭に相談した。
  
 発売とほぼ同時に、カルピスは大正期を通じて空前の大ヒット商品となっている。今日のように製造過程まで含めたオートメーションの生産ラインがあるわけではないので、すべてが地道な手作業による生産体制だった。
 発売の年には、すでに日本全国ばかりでなく、中国の大連や上海にまで販売代理店を設置している。つまり製品の売れ行きを探りつつ、国内で実績を積んだあと海外へ進出するのではなく、発売とほとんど同時に製品の海外展開を試みた、大正期の企業としてはカルピスは稀有な存在となった。その好調な売れ行きを記録している様子を、同書収録の1919年(大正8)12月に出された第5回の営業報告書から引用してみよう。
カルピス平和博覧会カルピス店1922.jpg カルピス三島海雲1924.jpg
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 カルピスは醍醐味、醍醐素の身代りとして7月7日より発売致しました。本品は意外の好評を博しまして、前途好望の兆候を示しております。本品の販売に付きましては、斯界のオーソリチーと称せられて居りまする東京日本橋詰國分商店を以て関東販売元となし、大阪祭原商店を以て関西一手発売元と致しました。其他、大連市の矢中商店、上海の松下洋行を以て各其地方の一手発売元と致しました、何れも非常の意気込を以て着手して居る模様であります。其活動の反響は大正9年2、3ヶ月以後にあると予想致して居ります。
  
 同年12月の時点で、卸売り店を招いての販促会が開かれているが、当初は15~16名(社)が参加していた。ところが3ヶ月後、翌1920年(大正9)3月の集会では35名(社)、翌1921年(大正10)2月には40名(社)以上、そして同年4月には50名(社)以上と、順調に業績を伸ばしているのが見てとれる。
 売り上げも好調に推移し、1926年(大正15)の売上高は発売時の18倍に達し、半年ごとの売上高計算では1925年(大正14)上期と1919年(大正8)下期とを比較すると、実に36倍という伸び率を記録した。当然、手作業による生産が追いつかず、市場にカルピスが行きわたらない欠品状態まで生じている。事業責任者である専務の三島海雲は、原液の製造工程を自動化して品質を低下させず、すべて人海戦術で乗り切ろうとしている。当時のカルピスは、次のような手順でつくられていた。
 ①乳酸菌および酵母を種菌として脱脂乳を培養してつくったスターターを、あらかじめ加熱殺菌した脱脂乳に加える。
 ②それを、木製の発酵槽の中で一昼夜乳酸発酵させて、酸乳をつくる。
 ③でんぷん糖化液(水飴)を乳酸発酵させた液に炭酸カルシウムを加えて得られる粗結晶の乳酸カルシウムを、酸乳に加える。
 ④この酸乳に砂糖を十分溶解させ、熟成発酵させる。
 ⑤オレンジとレモンの皮からしぼったオイルを原料とする天然香料を加えて仕上げ。
 カルピスの売り上げが記録的に伸びたのは、先述のように1925年(大正14)のことであり、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!をはさんだ復興期のことだ。このとき、首都圏ではカルピス人気が沸騰する要因をつくったエピソードが語り継がれている。
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 三島海雲は、大震災のとき東京府北豊島郡の向山町(現・練馬区向山)にある本社にいたが、市街地に比べ揺れが弱かったのか幸い本社社屋は無事だった。そこで、残暑がつづく炎天下に氷と希釈用の水を用意し、焼け野原の市街地へトラックで運んでは、被災者にカルピスを配ってまわった。当時の様子を、同書から引用してみよう。
  
 私は工場にあった木樽十数本に入っているカルピスの原液を全部出させ、金庫のあり金2,000円余を全部出して、この費用に充てた。そして、翌2日から私自身もトラックに乗って被災地を回り、原液が無くなるまで配り続けた。震災後の数日は焼けつくような暑さだったから、私のトラック隊は、行く先々の避難所で大歓迎を受け、感謝された。大阪毎日の記者が、震災第一報で私のトラック隊のことを取り上げた。このとき、私には宣伝しようなどという気持はミジンもなかった。しかし、結果として、カルピスは全国に知られることになった。のちに『あのときのカルピスの味が忘れられない。私はカルピスのためになんでも協力しますよ』という人が官界にも民間にも幾人も出てきた。
  
 幕末に彰義隊と靖共隊を助(す)け、大江戸びいきだった亀甲萬(キッコーマン)の茂木七郎左衛門Click!ではないけれど、このような義侠を江戸東京人は忘れない。カルピスは同年、営業的には大打撃をこうむるが、首都圏のマーケットは義理がたく震災後もカルピスを選んでは飲みつづけた。そして、ようやく復興のきざしが見えた1925年(大正14)、カルピス人気はおもに東日本で爆発し、空前の売り上げを記録することになる。発売から4~5年で、これほどの大ヒットを記録した商品は、地震に備えた保険商品や焼け跡復興用の住宅建材の需要を除けば、大正期を通じてほとんどない。
 中村彝も目にしたであろう「初恋の味」のキャッチフレーズは発売の翌年、1920年(大正9)にすでに発案されている。だが、カルピスは子どもから老人まで飲む飲料なので、当初、三島専務は「恋」という表現にターゲティングのズレから難色をしめした。社内の宣伝部にも、慎重論が多かったという。だが、1922年(大正11)4月には、このキャッチを採用した新聞広告を東京日日新聞に出稿している。
 ところが、警察から「色恋は社会の公序良俗を乱すことなので、白日のもとで口にすべき言葉ではない」という、今日からみれば信じられないようなオバカな理由でクレームが入った。だが、当時は大正デモクラシーの時代なので、「初恋の味」のキャッチはまたたく間に全国へ拡がり、実質的に警察当局が表現を規制することができなくなってしまった。以来、約100年間にわたり同キャッチフレーズはカルピスのみならず、企業全体のショルダー的な位置づけとして今日までつづいている。
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 同社が「初恋の味」広告を出稿したのと同年、1922年(大正11)10月に「帝展の入選者、九分はカルピス愛用家」というキャッチフレーズの新聞広告を出稿している。中村彝(当時は帝展審査員)は、確かにカルピスの大ファンだったが、ほかの帝展への入選画家たちも愛飲していたのだろうか。「九分」は90%の意味だが、三島海雲のことだから無作為で選んだ帝展の画家たちへ、試供品とともにアンケート調査を実施している可能性が高い。それとも、だいたいの感触でつくってしまった、裏づけのないキャッチだろうか。大正期のカルピス広告を見ていて、ニヤリとさせられたフレーズだ。

◆写真上:1919年(大正8)7月7日に発売された初期のカルピスは、七夕らしく「ミルキーウェイ(天の川)」をデザインした紺地に白の水玉模様の包み紙だった。
◆写真中上上左は、1922年(大正11)に上野で開催された平和記念東京博覧会Click!に出店したカルピス館。上右は、1924年(大正13)に勝山分工場の視察で撮影された記念写真の三島海雲(左端)。は、発売最初期型の箱に入れられたカルピス。は、1922年(大正11)4月に初めて「初恋の味」のキャッチフレーズを採用した新聞広告。
◆写真中下は、カルピスのポスターやブリキ看板などPOP類。は、1923年(大正12)6月に制作された新聞広告で、以後「初恋の味」のキャッチが定着する。
◆写真下は、1922年(大正11)10月制作の帝展画家は「九分はカルピス愛用家」広告。は、1924年(大正13)2月に制作された馴染み深いシンボルマークの広告。

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落合第四小学校の開校記念写真。 [気になる下落合]

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 先日、資料を整理していたら、めずらしい写真を見つけた。1932年(昭和7)4月に設置された落合第四尋常小学校Click!の開校時を含む、戦前に撮影された写真が載った冊子だ。掲載されていたのは、2002年(平成14)に発行された『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』だ。以前、堀尾慶治様Click!がお持ちの1941年(昭和16)卒業アルバムClick!に掲載された写真をご紹介しているが、開校直後に撮影されたとみられる画面は、それより9年前の写真ということになる。
 まず冒頭の写真は、1932年(昭和7)の開校から間もない時期に撮られた写真で、西側の校舎ぎわから校庭で体操する生徒たちを撮影したものだ。南(右手)へと下る相馬坂の向こうには、相馬孟胤邸Click!の敷地内にあたる御留山Click!がきれいに見えている。ちょうど正面やや右手が、現在のおとめ山公園で四阿(あずまや)が設置されているピークにあたる。校庭の右端に見えている、斜めの棒のようなものは低学年用に設置されたすべり台の一部だ。左に見えている校庭掲示板のさらに左側に、相馬坂から校庭へと入る校門がある。
 写真は、陽射しの方角と人物たちの影から朝礼風景だろう、校庭に集合する生徒たちをとらえたものだ。校庭の中央あたりから“「”字型の校舎の角のほうへカメラを向けてシャッターを切っている。おそらく開校後間もないころと思われ、“「”型校舎の角に大型拡声器(スピーカー)がいまだ設置されていない。また、画面左側の校舎前に植えられたヒマラヤスギの丈が小さく、教室1階の窓をいまだ越していない。
 写真は、高学年の授業風景を撮影したものだ。写真が粗すぎて、黒板の白墨文字が読みとれないが、「〇〇〇〇の長所短所」と書いてあるように見えるので社会科の授業だろうか。写っているのは男組で生徒数は多く、確認できるだけでも35人ほどが写っている。画面左の枠外、窓側に座る生徒たちを含めると、1クラス45~50人ほどになるだろうか。まだ1932年(昭和7)ごろの教室なので、教壇の横に「一億一心」とか「これからだ/出せ一億の底力」といった、戦時標語Click!のポスターは貼られていない。
 写真は、落合第四尋常小学校の開校時から少したって撮影された、“「”字型校舎の角にあたる部分だ。ヒマラヤスギの丈が伸び、校舎の角には大型拡声器(スピーカー)が設置されている。花壇も設置されたのか、ヒマラヤスギの下には白い垣根が見えているが、昇降口の右手に生えていた樹木がなくなっている。代わりに土が掘り返され、新たに花壇を造ろうとしているようだ。ちなみに、9年後に撮影された1941年(昭和16)の卒業アルバムには、校舎の角に写る大型スピーカーが見えない。近隣から苦情がでて、少し小型の四角い野外スピーカーに付け替えたものだろうか。
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 少し余談だけれど、落合第四小学校のチャイムの音が、1990年代に入ってからほとんど聞こえなくなった。おそらく、ご近所から「うるさい!」といわれて、だんだんボリュームを下げていった結果だろう。1970年代には、かなり遠くまでチャイムの音が響いていたし、近隣の家々では窓を閉め切っていたとしても落四小のチャイムClick!は聞こえたはずだ。そのチャイムの音と時間で、「そろそろお昼か」とか「ああ、もうそんな時間か」とか、生活のサイクルをまわしていた方も少なからずいたにちがいない。
 きっと、落合第二尋常小学校Click!のスピーカーから流れる童謡に腹を立てていた宮本百合子Click!のような人がいて、学校に申し入れをしたのではないだろうか。確かに文章を考えているとき、「チーチーパッパ」が大音量で流れてきたら、わたしも家から逃げだして喫茶店にでも避難するだろう。また、なにか作曲中の音楽家の方にしてみれば、たまったものではない。運動会が近づくと、落四小では下落合一帯の住宅へ運動会の行事用にスピーカーから音楽を流すから、あらかじめ「ご了承ください」というようなチラシを撒くようになったので、よほど気をつかっているのがわかる。
 次の写真は、1937年(昭和12)に校庭の崖下へプールが完成したときの記念写真だ。男組と女組と思われる2クラスが写っており、右手の崖上に校庭が拡がっている。プールの背景(西側)には、大倉山(権兵衛山)Click!の山麓の緑がとらえられているが、この時期の大倉山はほとんど宅地開発がなされておらず、いまだ権兵衛坂Click!も存在していない。斜面には濃い樹林が繁り、山頂のあたり一帯には草原がひらけ、大倉山の神木だったカシの巨木Click!も、大きな枝を拡げていただろう。かろうじて山頂の北側には、テニスコートと数戸の小さな建物が確認できる程度だ。また、写真にとらえられた背景の林のさらに西側(正面左手)には、落合キリスト伝導館(旧・基督伝導隊活水学院Click!)の大きめな建物があるはずだが、樹林が濃くて建物のかたちを確認できない。
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 『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』では、1941年(昭和16)の日米開戦から学童疎開Click!、空襲の様子なども伝えている。同誌から、少し引用してみよう。
  
 戦争はますます激しくなり、東京の町にも空襲があり、たくさんの爆弾が落とされるようになりました。昭和19年、4年生以上の子どもたちは、空襲をさけて学童疎開をしました。第1次として266名が、茨城県西茨城郡西山内村の西念寺などに出発しました。その翌年には、第2次として、群馬県佐波郡芝根村の常楽寺(42名)・法連寺(27名)などに疎開しました。茨城県に疎開していた児童は、県下の空襲が激しくなり、後に群馬県の疎開先に合流しました。/疎開中は、お寺で寝起きしたり、勉強したりしました。食べ物や薬さえ不足し、がまんばかりのきびしい生活でした。/下落合もたびたび空襲を受け、多くの家屋が焼けました。/落合第四小学校の校庭にも爆弾が落ち、炎が上がりましたが、当時校舎を使用していた警視庁警備隊や、地域の人々の協力で消し止められ、校舎は焼けずにすみました。
  
 もし校庭に250キロ爆弾でも落ちたら、爆風で下見板張りの脆弱な校舎は相当なダメージを受けたと思われるので、消火が必要だったのは焼夷弾だろう。
 さて、戦時中の記述に添えられた写真のキャプションが、ちょっとおかしい。まず、「戦争当時のまちの様子」として紹介されている写真だが、これは1928年(昭和3)の冬(おそらく雨量換算で50.3mmの大雪が降った2月14日の数日後)、1926年(大正15)に練馬Click!へ移転した目白中学校Click!の広大な空き地から、目白通り方面の商店街を撮影した写真Click!だ。いまだ大正期の姿を残した目白通りの様子で、1928年(昭和3)の時期を「戦争当時」とはいわないだろう。ちなみに、日米開戦当時の1941年(昭和16)には、目白通りの拡幅も済み、目白中学校の跡地にはすでに家々が建ち並んでいる。
 また、空襲による「焼けあと」として紹介されている写真だが、これは1966年(昭和41)7月15日に「落合新聞」Click!竹田助雄Click!が撮影した写真で、下落合2丁目829番地(現・下落合4丁目)で宅地造成中のパワーショベルの土に人骨が混じり、驚いて作業を中止した建設会社のスタッフたちが写っている。つまり、下落合の横穴古墳群Click!が発見された瞬間で、戦争や空襲とはまったく関係のない写真だ。(爆!) 写真へ半円とともに書きこまれた2・3・4の白い数字は、第2号墳から第4号墳までの位置を示しており、写真の出典は新宿区教育委員会の報告書か、調査を担当した早稲田大学の資料だろう。
 落合第四小学校はそろそろ90周年も近いので、また『落四のあゆみ』のような冊子を制作するのであれば、上記2点の写真はぜひ差し替えていただきたい。
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 最後に、もうひとつ気になったのは画家の西原比呂志が描いた挿画だ。『落合翠ヶ丘』というタイトルで、おそらく縄文時代をイメージして描いていると思われるが、土器の表現を除いて、これではプレ縄文期の旧石器時代人のイメージだ。前世紀の三内丸山遺跡の発掘以降、次々と新たな発見により縄文時代のイメージが大きくくつがえり、稲作も含め弥生時代との区別が曖昧になりつつあるので、縄文人=槍を振りまわす「ウッホウホホの原始人」(それにしては、やたら高度で芸術的な土器を焼くアンバランスな人々w)のような、子どもたちに誤解を与える表現は避けるべきではないだろうか。

◆写真上:1932年(昭和7)の開校から間もないころ、校庭で撮影された体育授業。
◆写真中上は、朝礼時に撮影された1葉。は、開校当時の授業風景。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる落合第四尋常小学校と撮影ポイント。すでにプールは竣工していた時期なので、「火保図」の採取ミスと思われる。
◆写真中下は、大きな拡声器が取り付けられた校舎。は、1937年(昭和12)に校庭下へ設置されたプールの記念写真。は、キャプションがおかしい写真2葉と、「焼けあと」の全景写真である1966年(昭和41)7月15日に竹田助雄が撮影した下落合横穴古墳群の発見現場。左手に、人骨を掘りあてたパワーショベルが写っている。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された落四小でプールはまだ設置されていない。は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された落四小。同年4月13日夜半の空襲で、周囲の延焼が確認できる。は、2002年(平成14)の開校70周年のときに撮影された空中写真。同小学校のプールは、落合第四幼稚園の屋上に移設されている。

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交叉する中村彝と清水多嘉示。 [気になる下落合]

清水多嘉示1.jpg
 このサイトの記事では、清水多嘉示Click!の名前はすでに登場している。それは中村彝Click!がらみテーマではなく、佐伯祐三Click!がテーマの彫刻家・陽咸二Click!をめぐる物語Click!の一部においてだった。二度めの帯仏中、ヴィル・エヴラール精神病院で死去した佐伯祐三のデスマスクClick!をとろうとする際、日名子実三とともに清水多嘉示が制作依頼者の名前として挙がっている。
 デスマスクの制作は、清水多嘉示と同じアパートに住んでいた佐伯米子Click!から依頼されたものだが、ほぼ同時に山田新一Click!も佐伯のデスマスク制作を日名子実三へと依頼している。だが、ついに佐伯のデスマスクは制作されずじまいだった。このエピソードから、清水多嘉示はパリで佐伯祐三の周辺にいた彫刻家のイメージが生じ、後年の仕事も彫刻がメインだった関係から、中村彝との深い関係を見落としていたのだ。清水多嘉示は、1917年(大正6)に岡田三郎助Click!藤島武二Click!が設立した本郷洋画研究所で学ぶかたわら、中村彝に師事して下落合のアトリエを頻繁に訪れている。
 最初に下落合の彝アトリエを訪れたのは、1917年(大正6)6月23日(土)だった。東京気象台によれば3日も降りつづく梅雨の中、ようやく小降りになった泥道を歩きながら訪問するのはたいへんだったろうが、それほど清水多嘉示は彝に会いたかったらしい。下落合464番地の林泉園Click!の丘上に彝アトリエが完成してから、ほぼ1年後のことだ。だが、このとき中村彝は外出中で不在だったため、会えずにそのまま帰っている。当時、毎日あるいは隔日で通っていた、歯医者に出かけて留守だったのかもしれない。この時期の清水多嘉示は、彫刻家ではなく洋画家をめざしていた。彝アトリエを訪ねるきっかけとなったのは、前年1916年(大正5)の秋に開かれた第10回文展で展示されていた、彝の『田中館博士の肖像』Click!を観て感動したからだった。
 つづいて、同年6月28日(木)に再び彝アトリエを訪ね、ようやく彝に出会えている。この日も、午後から雨が降る梅雨らしい不安定な天気だった。それ以降、1923年(大正12)3月に日本郵船の諏訪丸でフランスに渡るまで、清水多嘉示は頻繁に彝アトリエを訪問していた。清水は中村彝を訪ねるたびに、自身が描いた静物画や肖像画、風景画などを見せ講評を仰いでいる。また、ときにはカリンの果実や缶詰をお土産に持参していたようだ。昔から、カリンは身体の免疫力を高める果物として知られており、彝が罹患している結核の病状を気づかってのことだろう。
 清水多嘉示が登場する中村彝の書簡を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された『芸術の無限感』から、いくつか引用してみよう。
  
 (大正九年)八月丗日 下落合四六四/越後柏崎四ツ谷 洲崎義郎様
 来月一日から愈、院展二科が始まります。院展の「ルノアール」は大さ十二号と八号位の商品ださうですが、それは実に素敵なものだ相です。今年は友人連が余り出品しないので物足らないが、それでも院展へ耳野(卯三郎)君、二科へ清水(多嘉示)と瀬澤とが通りました。
 (大正十年)十一月十五日 下落合四六四/長野県諏訪郡平野村新屋敷 黒澤久乃様
 その後いゝ絵が御出来になりましたか。清水(多嘉示)君は勉強して居られますか。
 (大正十一年)九月十日(?) 下落合四六四/越後柏崎四ツ谷 洲崎義郎様
 自分の病にのみかまけて大へん御無沙汰をしました。その後御変りありませんか。鶴田(吾郎)君や、曾宮(一念)君や、(鈴木)金平君の兄さん達が上つて大分賑かだつた相ですね。御上京は何時頃になりますか。上野の二科には曾宮君が一枚と清水(多嘉示)君が一枚出して居ます。(カッコ内引用者註)
  
 清水多嘉示の作品が二科展に初めて通ったのは、1919年(大正8)の第6回二科展に出品した『風景』と『カルタ』の2作品だった。
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 ときに、清水多嘉示は彝アトリエへ長時間とどまり、周辺の風景をスケッチしていた様子をお嬢様である青山様からうかがっている。青山様によれば、「崖地が描かれている画面」もあるということなので、おそらく彝アトリエ前の桜並木の下、林泉園(明治期には近衛家Click!落合遊園地Click!)の谷戸が描かれているのではないかと思われる。
 大正中期における下落合(現・中落合/中井含む)の東部といえば、東京が関東大震災Click!にみまわれる前の風情で、明治期からの別荘地だった雰囲気が色濃く残る光景だったろう。華族やおカネ持ちの大きな屋敷が、森の間に距離をおいて見え隠れするように建ち並んでいただろうが、目白文化村Click!近衛町Click!の開発計画はいまだ手つかずの時期だ。青山様のお話では、彝アトリエを訪れていた時期に描いたとみられる風景画が何点か残っているそうなので、もし機会があればこちらでもご紹介したいと考えている。
 さて、清水多嘉示は本郷洋画研究所の指導がつまらなかったらしく、故郷である長野県諏訪にもどり東京へ勉強に出る以前は、岡谷尋常小学校代用教員の図工教員になっている。1918年(大正7)のことで、清水多嘉示が20歳のときだ。その後、1919年秋には諏訪高女の美術教師になってからも清水は機会があれば彝アトリエを訪問しつづけ、1919年(大正8)の夏には彝が転地療養Click!している茨城県の平磯海岸まで出かけている。このときも、数多くの自作を携えて広瀬家の別荘を訪問し、そのまま彝とともに別荘へ泊まっている。
 ここで留意したいのは、中村彝が文展(帝展)や二科の画家を問わず、同等に接している点だろうか。現代でさえ、そのようなワク組(というかセクト主義的な垣根)はよく聞かれるけれど、国が主催する文展(帝展)は同展に出品する画家同士が親密に交流し、アンチ・アカデミズムの二科は文展(帝展)を睨みながら在野の画家仲間で交流する……というのがあたりまえの時代だった。ところが、中村彝はこの垣根をまったく意識していないように見える。ただし、二科の画家たちに対しては草土社Click!の仕事と同様に、手紙の文面などで辛辣な言葉を浴びせているが……。
 中村彝のもっとも身近にいた画家のひとり、曾宮一念Click!も文部省の展覧会とは無縁な二科の画家だった。1919年(大正8)8月29日、清水多嘉示のもとには二科入選の祝いのハガキが中村彝からとどいている。もう少し時代が下った、たとえば大正末から昭和初期にかけて活躍した画会の代表的な存在である1930年協会Click!を見れば、帝展や二科などの会派を問わずに画家たちが参集して制作しているが、大正前・中期の段階では中村彝の垣根を意識しないフレキシブルな感覚は、めずらしかったのではないだろうか。
 その後も、清水多嘉示は彝アトリエを訪ねつづけ、中村彝の庭で彝のポートレートを写真撮影をしたり、1920年(大正9)9月1日には彝と連れ立って俥(じんりき)で下落合から上野まで出かけ、二科展と院展を鑑賞している。また、彝は清水多嘉示をよほど気に入っていたものか、1921年(大正10)11月には訪問した彼に、1915年(大正4)制作の『自画像』をプレゼントしている。そして翌1922年(大正11)には、清水多嘉示の主宰により中原悌二郎Click!と中村彝の「作品展」を、故郷である長野県の諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高校)講堂(2月5~10日)と、松本女子師範学校(2月11~12日)の2ヶ所で開催した。
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 このあと、清水多嘉示はフランス留学を計画し、そのとき勤務していた諏訪高等女学校の美術教師の後任について、中村彝と曾宮一念に相談している。その結果、両人の推薦したのが彝の弟子のひとりである宮芳平Click!だった。ちなみに、中村彝の没後に宮芳平を菅野女学校の美術教師へ推薦したのも曾宮一念Click!だ。こうして、1923年(大正12)3月に清水多嘉示はフランスへ向けて出発していった。
 さて、前出の『芸術の無限感』にはたった1通だけ、フランスの清水多嘉示にあてた彝の手紙が掲載されている。1923年(大正12)の秋に書かれたものだが、1928年(昭和3)まで帰国しない清水多嘉示あての手紙が、なぜ1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』に収録されているのか不思議だが、ひょっとすると同書の編集委員だった鶴田吾郎Click!か曾宮一念が、フランスに手紙を書いて公開してもいい彝の手紙があれば返送してほしいと、清水に依頼しているのかもしれない。
 清水に「タピ」=タペストリーを送るよう依頼する、中村彝の手紙を引用してみよう。
  
 (大正十二年)秋 下落合四六四/仏蘭西 清水多嘉示君
 向ふへ行つてからの君が至極達者であるといふこと、ブルデル氏について傍ら彫刻を学び、着実な勉強をつゞけて此頃は大変いゝ絵をかきつゝあるといふことを、野田(半三)君から聞いて大いに喜んだ。どうか時代の浮薄な風潮に溺れず、芸術の本質的価値に対する慧眼と、深い内観による正しい技巧を獲得して帰つて来て呉れ。(中略) 多分君も今年の二科の画集は見たことだらうと思ふが、あれは全く国辱のやうな気がして仕方がない。(中略) さて別封の為替百円は、これで何か静物や人物画のバック等に用ゆべきタピの類で(中略)ごく安物で、比較的気持ちの悪くないものを古でいゝから仕入れて欲しいのだがどうだらう。馬越(舛太郎)君と相談して散歩のついでにでも目に止つたものをいゝ加減に買つて呉れゝばそれで結構だ。御忙しい処をほんとに御気の毒だが、なるべく早く送つてくれ。それでないと僕の寿命が長くは待ち切れさうもないから……余り吟味せずに、どんなのでもいゝからなるべく早く、ナルベク。(カッコ内引用者註)
  
 とりあえず、二科の清水多嘉示が日本を離れて留学したせいか、二科展の作品群はさっそく「国辱」ものにされてしまったが、彝の死後に第12回二科展(1925年)で『冬日』Click!『荒園』Click!、『晩秋風景』の3作品で樗牛賞を受賞Click!し、中村彝アトリエで記者会見Click!を開いた曾宮一念は、この手紙をどのような想いで見ていただろうか。
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 中村彝の文面からは、フランス製のタペストリーを1日でも早く入手したがっている様子が、悪化する自身の健康状態に対する焦燥感とともにストレートに伝わってくる。彝は、「何か静物や人物画のバック等」と書いているので、タペストリーはまちがいなく壁ないしはドアに架け、モチーフのひとつとして描きたかったのだろう。このとき、中村彝の頭の中にあったタペストリーのデザインは、幾何学模様だったのか絵画調の作品だったのかはさだかではないが、絵柄についての言及がいっさいないところをみると、清水多嘉示とは事前にデザインについて打ち合わせ済みだったような気配がする。それは、この手紙のひとつ前に出された手紙の中で、触れられているテーマなのだろうか。

◆写真上:パリのサロン・ドートンヌで、洋画と彫刻が同時入選した画室の清水多嘉示。
◆写真中上:1923年(大正12)12月22日のスタンプが押された、中村彝からパリの清水多嘉示あてに出された手紙で宛名書き()と差出人名()。は、清水多嘉示が彝アトリエの庭で撮影した中村彝。の籐椅子に座る写真はめずらしいが、の芝庭に立つ彝の写真は『芸術の無限感』に収録されている。
◆写真中下:清水多嘉示が彝アトリエ近くで描いたと想定できる、湧水池のある林泉園の斜面(/提供:堀尾慶治様Click!)と林泉園からつづく渓流沿いの近衛町斜面(/提供:酒井正義様Click!)。は、フランスからの帰国後に帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の教師時代の清水多嘉示(中央)。
◆写真下は、1923年(大正12)12月22日消印の中村彝から清水にあてた手紙。は、鈴木誠アトリエClick!時代のドアの1枚()と、1925年(大正14)2月におそらく下落合1443番地の木星社Click!福田久道Click!によって撮影されたアトリエ西側のドア()。は、ヨーロッパのタペストリーに多い幾何学模様デザイン。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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大倉山の神木と権兵衛坂の「牟礼田邸」。 [気になる下落合]

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 下落合にある氷川明神社Click!の少し東側から上る、権兵衛坂(大倉坂)と呼ばれる急坂には、十返千鶴子Click!が「御禁止山の神木」と名づけたカシの老木が生えていた。だが、戦前の一時期まで大倉財閥が所有していたこの山は、地元では名前がないので「権兵衛山」あるいは「大倉山」と呼ばれていたので、正確には「大倉山(権兵衛山)の神木」と表現するのが正しいのだろう。御留山Click!(御禁止山)は160mほど東へ寄ったピークを中核とする一帯であり、1939年(昭和14)までは相馬孟胤邸Click!の敷地内にあった。
 当然ながら十返千鶴子も、「大倉山」という呼称を知っていたが、竹田助雄Click!の「落合新聞」へエッセイを寄稿するにあたり、彼の記事で「御禁止山」という文字を頻繁に目にしていたせいか、あえて「御禁止山の神木」としているのかもしれない。1966年(昭和41)11月30日に発行された「落合新聞」の、十返千鶴子『御禁止山の神木』から引用してみよう。ちなみに、同エッセイの挿画は佐伯米子Click!が担当している。
  
 わたしの家の入口にそって大きな樫の老樹がある。ここに家を建てて住んだ十年ほど前には、この樫も、樹齢二〇〇年くらいと推定される大木の貫録をみせて、亭々と聳えたつ梢のさきに、神々しいまでの威厳をただよわせていた。/このあたりは、落合秘境と地つづきの南斜面で、地もとの人には大倉山という名で呼ばれている、木々の多い場所である。ほんらいは、御禁止(おとめ)山の一部らしいのだが、もと大倉家の所有地であったために、その名で呼ばれているようだ。/それはさておき、ここに家を建てた当時は、今よりももっと木立が深く、樹齢一〇〇年は降らないと思われる樅の木や、枝ぶりのよい松林などで、昼なお暗い、うっそうたる坂道だったものである。その中でも、わたくしの家のまん前にそそりたつ樫の大木だけは、ひときわ高く、誇らしげにその梢を大空に拡げきって、堂々たる威容をみせていたのである。/「あの樫だけは、この大倉山の御神木ですからね、ぜったいに切り倒したりしてはいけませんよ、祟りがあるからね」
  
 1970年末から80年代にかけ、学生のわたしは権兵衛坂を何度か上下しているが、このカシの老木については特に記憶がない。坂の両側には、いまだ樹木がたくさん繁っていたので、特に印象に残らなかったものだろうか。「十返」という表札は、めずらしい苗字なのでなんとなく憶えている気はするのだが、そこが戦後の十返千鶴子(あるいは十返肇Click!)の自邸なのを知ったのは、もう少しあとの時代だ。
 当時の権兵衛山(大倉山)には、ところどころにケヤキやマツなどの緑がまだまだ多く繁り、息切れがする傾斜の急なバッケ坂Click!だったにもかかわらず、すがすがしくて気持ちのいい坂道だったのを憶えている。ようやく坂を上り終え、七曲坂Click!と合流するあたりからは、北側のやや下った細い路地沿いにヒマラヤスギの大木が見えていた。このヒマラヤスギは、戦前から路地沿いに植えられていたもので、昭和初期にはことに一帯を薄暗く不気味に見せていたと、七曲坂の庚申塚Click!について取材しているとき、堀尾慶治様Click!からもうかがったことがある。
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 その後、カシの「神木」は勢いがなくなり、十返邸の屋根を覆うほどだった枝葉が年々少なくなっていったらしい。このエッセイが書かれた1966年(昭和41)の時点で、幹から分岐した枝が「わずか一、二本残るだけ」になってしまったので、ほどなく枯死してしまったのかもしれない。ただし、この「神木」が存在しなかったとしても、学生時代に歩いた権兵衛坂は住宅の庭に繁る樹木も含め、まだまだ緑が濃かった印象がある。
 ここで少し余談だけれど、佐伯祐三Click!「制作メモ」Click!によれば、1926年(大正15)9月24日に描いた「下落合風景」作品Click!に、「かしの木のある家」Click!というタイトルがある。それに該当しそうな画面は、モノクロ写真で残されてはいるが、いまだどこの丘の風景を描いたのか不明な作品だ。丘の中腹にカシと思われる樹木がポツンと描かれ、丘上に当時は一般的だったふつうの住宅が3軒描かれている。
 十返千鶴子の「神木」エッセイを読んだとき、佐伯の「かしの木のある家」の画面を真っ先に思い浮かべたのだが、残念ながら大正末から昭和初期にかけて、このような風情は大倉山(権兵衛山)には見られない。そもそも、この丘が宅地開発されるのは戦後になってからのことで、戦前には急な斜面に林や原っぱが拡がる“山林”状態のまま、住宅はほとんど1軒も建っていなかった。
 さて、戦後に拓かれた権兵衛坂が通う住宅地を、小説に取り入れて書いたのが中井英夫Click!『虚無への供物』Click!だ。以前にも、権兵衛坂の中腹からの眺めを描写した同作の文章を引用したことがあるが、十返千鶴子のエッセイ『御禁止山の神木』に書かれている風景と『虚無への供物』の執筆は、時代的にほぼ同時期で重なっている。中井英夫は、最終的に「ザ・ヒヌマ・マーダー」を解決する「牟礼田の家」を、権兵衛坂の急峻な斜面に設定している。
 部厚い長編小説『虚無への供物』の中で、「下落合の牟礼田の家」の様子が描かれるのは、全編を通して4ヶ所。白壁の邸で、南を向いてアトリエ風の大きな窓がある家、そして麓の下落合氷川明神社から見上げることができる家という描写はあるが、1950年代末に見られた権兵衛山(大倉山)全体の風情、大樹が多かった木々については特に触れられていない。これは、ある意味では当然といえば当然なのかもしれない。
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 1987年(昭和62)に三一書房から出版された『中井英夫作品集Ⅹ/死』所収の『虚無への供物』より、第二章に登場する「牟礼田の家」の描写から引用してみよう。
  
 高田馬場の駅前から、交番の横の狭い商店街に車を乗り入れ、橋を渡っていくらも行かぬ小さな神社の前で降り立つと、久生は手をあげて、崖の中腹に見えている白塗りの家を指さした。南に向いて、アトリエ風な大きいガラス窓の部屋がせり出し、辛子色のカーテンの傍に、黒い人影が動いている。/「ここからまた、ぐるっと狭い坂道を廻って上ってゆくの。ねえ、ここでならあの“犯人自身が遠方から殺人行為を目撃する”っていうトリックが出来そうでしょう。読まなかった? いつかの『続・幻影城』に出てるの。ホラ、あのカーテンの傍にいるのは藍ちゃんらしいけど、ちょうど顔までは判らなくて、背恰好だけ判るぐらいの距離だから、先に藍ちゃんを殺した犯人が、何かの仕掛をして、ここから他の目撃者と一緒に犯行を見守ればいいってわけ。それにちょっと歩くと、ね、もう隠れて見えないんですもの」
  
 ここには高田馬場駅から栄通り、田島橋、下落合氷川明神社、そして「狭い坂道」の権兵衛坂までの情景が描かれているが、当時は十三間通りClick!(新目白通り)が存在していないので、田島橋をわたり西武線の踏み切りを越えて氷川社の前でクルマから降りるまで、両側には小規模な工場や商店街が並ぶ、やたらカーブの多い細い道筋に感じただろう。氷川社の周囲にも、かろうじて1931年(昭和6)まで下落合駅Click!前だった商店街の風情が残っていた時代だ。また、他の章に書かれた「牟礼田の家」でも同様だが、特に大倉山の斜面に生えた特徴的な「神木」や大木についての描写はない。
 下落合の西部、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んで『虚無への供物』を執筆していた中井英夫は、おそらく散歩の途中で権兵衛坂を上り、「牟礼田の家」のイメージを膨らませているのだろう。ときに、権兵衛坂が大きくクラックする斜面に建つ、緑に覆われた十返邸の前で足を止めて新宿方面を眺めているのかもしれない。でも、当時の下落合はケヤキやクヌギ、カシ、クスなどの大木があちこちに繁り、権兵衛坂に生えていたカシの老樹や多彩な大木をことさら描写する意味、すなわち当時の下落合ではごく一般的でありふれた目白崖線沿いの風景を、特に描く“必要性”を感じなかったのだ。
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 また、より緑が濃かった下落合の西部に住む中井英夫にしてみれば、権兵衛坂が通う急斜面は下落合ではよく目にする、ありふれた住宅街の一画……ぐらいにしか感じなかったものだろう。もし彼が、大倉山の「神木」についてあらかじめいくばくかの知識を持っていれば、世界じゅうの神話や宗教的な事蹟には敏感な彼のことだから、なんらかの謂れとともに「牟礼田の家」の描写へと取り入れていたかもしれない。

◆写真上:2007年(平成19)に権兵衛坂で撮影した、解体前の十返千鶴子邸。
◆写真中上は、リニューアル工事中の同邸。右手に見える大きな樹木は、戦前から繁っていたホオの木だろうか。は、大倉山(権兵衛山)の山頂界隈。は、「落合新聞」1966年(昭和41)11月30日号に掲載された十返千鶴子『御禁止山の神木』。
◆写真中下は1947年(昭和22)の空中写真にみる大倉山(権兵衛山)、は1963年(昭和38)の十返邸、は1975年(昭和50)の同邸。1963年の写真で、邸の南側に見えていた大樹が1975年の写真では消えているように見える。
◆写真下は、下落合でも有数の傾斜角のある権兵衛坂。中左は、1964年(昭和39)に「塔晶夫」名で講談社から出版された『虚無への供物』の中扉。中井英夫の背後に写る大谷石の塀は、当時住んでいた池添邸の塀の一部だと思われる。中右は、現在も残る長大な池添邸の塀。は、下落合氷川社から「牟礼田の家」の「立ちつくす黒い影」を見上げた『虚無への供物』エピローグの視野と大倉山麓から丘上を見上げたところ。

おまけ:余談だが、1960年代には大倉山(権兵衛山)の山頂付近には、大倉さんが住んでいたようだ。1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」より。
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落合に残る東の「丸山」と西の「丸塚」。 [気になる下落合]

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 全国に、「丸山(円山)」や「摺鉢山」「大塚」などの名称がふられた古墳名Click!が数多いことは、以前からもこちらでご紹介している。地形の形状を見て、まるで球の半分が地面から盛り上がっているような丘や、あたかも摺鉢を伏せたような形状の地形、あるいは明らかのなんらか大規模な塚山を見て、付近の住民から感覚的に付けられた古い地名(丘名)なのだろう。
 同様に、そのような丘の上部を利用し、鎌倉期から江戸期にかけて社(やしろ)の境内が設置されたりすると、「天神山」「稲荷山」「八幡山」…などという名称に転化し、「丸山」や「摺鉢山」「大塚」と同様に古墳名にされるケースが多い。戦後は逆に、このような由緒ありげな地名が発見されると、一帯が田畑や住宅街へと開発されていない場合は、新たな古墳発見の可能性が高いと見なされ、積極的に考古学的な調査が行なわれるようにもなっている。
 河川を見下ろす丘や傾斜地の多い落合地域にも、「丸山」Click!「摺鉢山」Click!「大塚」Click!などの地名が残っていたこと、そして地名が残る周囲には江戸期の農地開発や明治以降の宅地開発、あるいは鉄道工事や道路敷設などで破壊された、大型の古墳が存在したのではないか?……というテーマも、繰り返しここの記事で取り上げてきた。今回は、古い時代からの伝承や逸話を参照しながら、下落合の西部から葛ヶ谷Click!(現・西落合)にかけての独特な地名の由来を探ってみたい。
 下落合(現・中落合/中井2丁目含む)の西部や、葛ヶ谷にかけての名所や旧蹟、故事伝承の記録あるいは紹介は、こちらでもたびたび引用している金子直德Click!『和佳場の小図絵』Click!や、大田南畝Click!『高田雲雀』Click!などでもきわめて少ない。江戸期には、市街地からさらに遠く離れているため、あまり注目されず散策されなかった領域なのか、あるいは野方や江古田のエリアに近いため、江戸期にはそちらで書かれた地誌本のたぐいが知られていたものだろうか。現代に伝わる落合地域の資料では、下落合西部から葛ヶ谷にかけての記録が希薄となっている。
 だが、それを補うように残されているのが、1932年(昭和7)に自性院Click!が発行した大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)だ。その記述から、おそらく1000年以上前の平安期から明治以降にかけてまで、地域で語られてきた伝承を掘り起こし、織りまぜながら編集しているとみられ、江戸期に編まれた記録のいわば“空白地帯”を埋める貴重な資料となっている。
 記述を、先の地名テーマにもどそう。下落合の東部には、「丸山」という地名(字名)が昭和初期までかろうじて残っていた。もっとも早い「丸山」地名の採取は、1909年(明治42)に陸軍参謀本部が作成した2色の1/10,000地形図にみられる。もっとも、テキストとして採取されたのは明治期だが、それ以前から下落合村ではエリアの字名として受け継がれてきたのだろう。「丸山」が採取されているのは御留山Click!南側の麓、下落合氷川明神Click!のすぐ東側あたりだ。
 このあと、大正期には「丸山」の字名は郵便の住所化されて、目白崖線の丘上(御留山~近衛町Click!)まで拡がっていくことになる。わたしは、きれいな釣鐘型をした氷川明神の境内Click!が、本来は古墳ではなかったかと疑っているので、その西側に大正初期まで残った「摺鉢山」Click!の伝承とともに、「丸山」はその墳丘が崩される以前に地勢を見てつけられた、江戸期以前からの地名ではないかと想像している。
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 東の「丸山」に対し、西側にもまた古墳をイメージさせる字名、ないしはポイント的な史跡名が多く残されている。いや、むしろ西側のほうが東の「丸山」のように漠然とはしておらず、規定された位置も含め確度が高いだろうか。下落合の西側や葛ヶ谷の一帯にかけ、「丸塚」や「塚田」「天神山」「馬塚」など、いかにも古墳に付随していそうな字名を確認することができる。まず、「丸塚」の伝承から探ってみよう。前掲の大澤永潤が著した、『自性院縁起と葵陰夜話』から引用してみる。
  
 牢屋敷は現今の朝日湯より約一丁程南方にて昔牢獄在りしと伝へられ古碑、古瓦多数地下より出でしと申されます。又『丸塚』が在りましたと。
  
 ここでいう「牢屋敷」は、江戸期の幕府に由来するものか、あるいはそれ以前から設置されていたものかは不明だが、掘れば屋敷の瓦が出たということなので、その昔なんらかの施設が存在し、それが語り継がれていたのはまちがいないだろう。古代の古墳域は、往々にして近寄りがたい禁忌的な伝承や、「屍家(しいや)」Click!または「死屋」など怖ろしい物語が継承されていることが多く、マイナーな施設の建設や墓地、動物などの死骸捨て場にされていた例も多い。だからこそ、古墳のエリアを寺社の境内として“浄化”し、聖域化する必要も生じているのだろう。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 村の西方字境に丸塚在り、昔死馬を捨てしより里人呼んで馬捨場といふ此死馬をソマといひしと、恐らく「ソマ」は粗馬の故でありませう、死馬ある時は遠近の野犬此処に集り、死馬の肉を食ひ争ふといふ其死馬の憐れな有様が又恐ろしい悪魔のやうに見ゆる所から起つたものでせう。後世これら死馬の供養の為め馬頭観世音の供養塔が建立せられてあります。
  
 「ソ・マ」(so-ma)は原日本語(アイヌ語に継承)で、「焼き場」あるいは「焼き棚」と葬儀場そのものの意味につながる。明らかに「丸塚」が、江戸期以前からだろうか動物の死骸を葬る(捨てる)、禁忌的なエリアに指定されていたのがわかる。また「丸塚」とは別に、江戸期に馬の死骸を捨てる専用の「馬塚」も、葛ヶ谷御霊社Click!の北の街道沿い、井上哲学堂Click!のすぐ東側に確認することができる。
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 さらに、妙正寺川沿いの田畑の中にポツンと塚状の突起が残されていたのだろう、「塚田」という地名も残っていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 此地は現今オリエンタル写真学校南方妙正寺川沿ひの地で昔細田地頭の旧積地(ママ)であると申され、この川下の地境を塚田と申されました、昔某氏の古墳が在つたとか伝へられゐます。(ママ)
  
 すでに被葬者の素性も不明になっているが、鎌倉期の地頭・細田氏の名前が伝わっている。だが、少なくとも平安末から鎌倉初期の和田氏、あるいは鎌倉期の細田氏に関する古墳ではないだろう。なぜなら、和田山Click!(井上哲学堂)を中心に和田氏Click!あるいは細田氏の伝承は地元でハッキリと受け継がれているにもかかわらず、「塚田」の被葬者が不明なのはそれ以前の時代、より古い時期からの史蹟だったことを想起させるのだ。
 「塚田」にもまた、多くの古墳がそうであるように、なんらかの禁忌的な物語が伝わっていたものだろうか。江戸期に盛んに行われた、農地を拡大する開墾事業でも崩されずに、田畑の中に塚を覆う樹木とともにポツンと残され、のちにメルクマールとしての地名化した可能性が高いように思う。
 さて、以前にご紹介した妙見山Click!の西150mほどのところ、青梅街道の敷設で崩されてしまった位置には、天神が祀られていた「天神山」と呼ばれる地名があったことも記録されている。おそらく、江戸期まで塚状の地形上に天神社が築かれていたのだろう、疣(いぼ)に関する疫病に効果がある神として、天神社は付近一帯から広く崇敬を集めたようだ。そして、江古田村の「コブ長」さんや長崎村の「コブ源」さんなど「コブとり爺さん」の逸話までが残されている。同書より、再び引用してみよう。
  
 天満宮の祀られてありし所で現今は道路と化して居ますが村の内田留造氏方の北方であつたと申されます、此の社は俗に疣天神といふて、何か疣に似た病疫ならば願ひの儘霊験在り、忽ち快癒致しますと申されて居ます、(以下略)
  
 ちなみに、天神山Click!は大きめな古墳にふられた代表的な地名で、全国各地に地名を冠する「天神山古墳」と名づけられた古墳期の遺跡が散在している。新宿エリアでは、成子天神Click!が建立された成子地域の天神山と、大久保の西向天神Click!が建立され富士塚Click!が築かれた天神山が有名だろうか。
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 下落合の西端や葛ヶ谷には、まだまだ怪しい古地名や史蹟が多いのだが、キリがないのでこのあたりにする。旧・平川Click!(現・神田川)沿いを歩き、人工的な塚状の突起を見つけると祠を建立してまわったとみられる、室町期の僧・昌蓮Click!に由来する「百八塚」は、はたして妙正寺川沿いの下落合西部や葛ヶ谷方面にまで及んでいたのだろうか。

◆写真上:道路の左手が、「丸塚」の築かれていた目白学園の北側斜面。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる各塚の位置。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「丸塚」と「塚田」の位置。
◆写真中下は、「丸塚」の近くに残るアトリエ建築。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「天神山」と「馬塚」の位置。
◆写真下は、新青梅街道(正面)と目白通り(右手)の分岐。青梅街道をそのまま進むと、「天神山」と疣天神にぶつかる時代があった。は、「塚田」があった妙正寺川沿い(左岸)の現状。は、さまざまな伝承が縁起物語として伝わる自性院本堂。

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