So-net無料ブログ作成
気になる下落合 ブログトップ
前の5件 | 次の5件

ちょっと古めな新宿区文化財資料。 [気になる下落合]

下落合横穴古墳跡.JPG
 新宿区の教育委員会が、戦後ほどなく発行していた文化財資料(冊子類)を見ると、それが作成された時点での写真や伝承などが掲載されており、改めて貴重なことに気づく。先年、知人から譲り受けた貴重な資料類とは、1963年(昭和38)に新宿区教育委員会から発行された『新宿区文化財』と、1967年(昭和42)にややボリュームが増えて同教育委員会から発行された『新宿区文化財』の2冊だ。後者は、1963年版に比べて紙質もよく、倍ほどの厚さになっている。
 現在でも、同様の小冊子(『ガイドブック 新宿区の〇〇〇』シリーズ/新宿歴史博物館)が地区別やテーマ別に刊行されているが、新しい写真撮影が行われ昔日の写真が入れ替えられていたり、そもそも史跡や建物自体が開発のために消滅して、項目そのものが全的に削除されていたりする。区民のために、リアルタイムで把握できるようにする区内の「文化財」なのだから、それで編集の方向性は十分だしまちがいないと思うのだが、消えてしまった写真・図版類や省かれてしまった解説には、どうしても惜しいと感じてしまうものが少なからず存在している。
 戦前を含む、古い時代に作成された地域の文化財資料は、なぜか墓所の紹介からスタートするものが多い。地域の有名人の“お墓”の記述とその所在地から入るのだが、ご多聞に漏れず両誌ともに新宿区内に眠る服部半蔵や恋川春町、山県大弐、塙保己一、月岡芳年Click!、松井須磨子、関孝和Click!などなど、墓地の紹介からはじまっている。死者とその墓所を優先する「文化財」の編集方針は、早くも明治期の文化財資料類からチラホラと見かけるので、どうやら「文化財」=「有名人の墓」と一義的に考える概念は、そのころから生まれているのではないだろうか。
 1963年版の『新宿区文化財』には、たとえば現在では消えてしまった旧・玉川上水の名残り流路や大隈重信Click!邸の庭園、富塚古墳Click!(高田富士Click!)の山頂に通う浅間社の鳥居と参道、下落合西端で発見された落合遺跡Click!の、発掘作業が行われている現場のリアルな写真などが掲載されている。1967年版ではさらに記述が詳しくなり、写真や図版などが1963年版に比べてかなり増えている。
 たとえば、同時期にはすでに崩されてしまった早大キャンパス内の富塚古墳Click!跡は、古墳自体の写真および解説と浅間社を奉った高田富士Click!の紹介とで分けて記述されている。また、戸山荘Click!(尾張徳川家下屋敷)の敷地図版や、史跡のある場所の詳細な地図、間取り図つきの永井荷風Click!旧居跡をはじめ、由井正雪や夏目漱石Click!大隈重信Click!尾崎紅葉Click!小泉八雲Click!島崎藤村Click!など旧居の紹介が数多く掲載されており、1963年版からもう一歩内容を拡げ、テーマをより深くドリルダウンした記述が明らかに増えている。
 では、落合地域に限って両誌の内容を見ていこう。まず、どちらの版とも落合遺跡が占めるウェイトが高いのは、同遺跡が発見されてそれほど時間が経過していなかったからだろう。縄文や弥生、古墳など各時代を通じての集落跡が発見されて話題になったが、がぜん注目を集めたのは、群馬県の岩宿遺跡Click!の発見から間もない時期に、東京でも同様に関東ロームから旧石器Click!が次々と発見されたからだ。1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』では、落合遺跡が発掘写真とともに大きく取り上げられ、「新宿区」には数万年前から住民がいた……といわんばかりの記述になっている。w
高田富士1967.jpg
富塚古墳1963.jpg
玉川上水1963.jpg
 1967年版の『新宿区文化財』から、同遺跡の記述を引用してみよう。
  
 目白学園の遺跡園にある。/落合遺跡は昭和29年早稲田大学考古学研究室によって発掘が行われた。縄文式、弥生式、土師式の住居跡群とそれぞれの時代の土器、石器類が発掘された。目白学園構内には住居跡の復元があり、土器や石器類は早稲田大学考古学研究室、目白学園、区資料室に分けて保存されている。(中略)/この遺跡の特色は、縄文時代以前から、縄文、弥生、土師、古墳時代までの長年月の居住跡が、狭い範囲に見つかっていることである。
  
 遺跡の年代は、当時はいまだ縄文期から古墳期までとされており、その後に規定されている奈良から平安、そして近世までつづく遺跡の記述がまだない。換言すれば、「土師時代」という耳馴れない用語がつかわれ、土師器は弥生以降から古墳時代にいたる間に存在した文化の遺物と解釈されている。現代では、出土物の正確な年代測定により、土師器は古墳時代から奈良、平安の各時代までつづく焼き物であり、「土師」時代というような文化区分はとうに消滅してしまった。
 また、目白学園キャンパスに遺跡をそのまま保存した、「遺跡園」と呼ばれる公園のような施設が存在したことがわかる。現在はキャンパスに校舎の数も増え、記載されている落合遺跡のエリアは目白大学短期大学部の建物の下になっている。
 『新宿区文化財』の両誌に掲載されている落合遺跡の写真は共通で、復元された縄文時代の“粗末な”竪穴式住居とともに、高い位置から発掘現場がとらえられている。同遺跡はエリアを少しずつ変え、何度も繰り返し発掘調査が行われているが、掲載写真は初期のころに撮影された現場の様子だろう。掘り返された目白学園Click!のキャンパスは、校舎のある北側から中井御霊社Click!のある目白崖線のバッケClick!(崖地)方向、すなわち南南西に向けて撮影されている。手前に竪穴式住居が再現されているが、現状の縄文期研究からすればあまりに粗末すぎる復元だろう。
 また、落合地域の文化財では、いずれも非公開でわたしは見たことがないが、薬王院に保存されている鎌倉時代の板碑Click!や、月見岡八幡社に保存されている谷文晁の天井絵の1枚、江戸時代の最初期に造られた庚申塔(宝篋印塔形)、天明年間の鰐口などが写真入りで紹介されている。この中では、鰐口にからむ面白い物語が紹介されている。
落合遺跡1963.jpg
落合遺跡空中1963.jpg
薬王院板碑1963.jpg
下落合横穴古墳鉄刀1967.jpg
 以下、1967年版の『新宿区文化財』から引用してみよう。
  
 鰐口とは神社仏閣の前にかけつるして、綱で打ちならす道具で、銅または鉄の合金製があり、平たい円形で中は空、下方に横長の口がある。/表には上部中央に「奉納八幡宮」とあり、右側には「武州豊島郡上落合村氏子中」、左側には「天明五乙巳年六月吉日」ときざまれている。ちなみに天明5年ごろは東北地方には天明の大飢饉があり、関東では大洪水があり、天災の連続した時代であった。/この鰐口はどうしたものか不明だが、北海道にわたり、村まわり芝居興業が打ち鳴らしていたのを、昭和7年に北海道に旅行した地元の人が見つけて、それをもらい受けてもとに納めたものだという。
  
 「どうしたものか不明」とされているけれど、明らかに同社から盗まれたものだろう。それを北海道にたまたま旅行していた上落合の住民が、1932年(昭和7)に偶然発見してとりもどす経緯も面白い。できれば、発見した上落合の住民に取材してお話をうかがいたいものだ。また、現在の資料でも写真入りでよく見かける、中井御霊社の「龍王神」Click!と書かれた雨乞いの筵旗や、葛ヶ谷御霊社の力石なども掲載されている。
 そのほか落合地域に限らず、新宿区内の各史跡や文化財の写真および記述も、現在の資料では割愛されたり削除されているものが多く、図版なども含め非常に貴重なものが多い。同誌の刊行について、1963年版から新宿区教育委員会の序文を引用してみよう。
  
 新宿区は旧四谷、牛込、淀橋の三地区をあわせ、その歴史的遺産はかなりの数にのぼっております。/教育委員会では、かねがね、これらのうち、文化的価値のあるもの、歴史的に重要な史跡、旧跡などを、体系的に整理し、古文書、文献を裏付けとした正確な資料の必要性を痛感いたしておりましたが、このたび2年有余にわたる調査研究の結果、ここに「新宿区文化財」を編さん、発行のはこびとなりました。/おさめられた文化財は、あらたに指定された11点を含めて、文化財64篇、資料篇22点、合計86点、載せられた写真は74葉の多きにのぼりました。
  
 現代から見れば、86点とはなんて少ない点数なんだろうと感じるが、本誌が編纂されはじめたのは1945年(昭和20)の焦土と化した敗戦からわずか15年余のことで、街中からようやく戦争の傷跡が目立たなくなり、翌年には東京オリンピックを控え高度経済成長が端緒についたばかりのころであり、いまだ「文化」を落ち着いて探求するほど人々に余裕がなかった時代だ。また、戦争で日本じゅうの膨大な文化財が破壊・消滅し、取り返しのつかないことに改めて気づきはじめた時期でもある。
月見岡八幡天井絵1967.jpg
月見岡八幡鰐口1967.jpg
新宿区文化財1963.jpg 新宿区文化財1967.jpg
 人々はようやく食べる心配がなくなり、家電の「三種の神器」が家庭に入りはじめて生活に少しは余裕が出はじめたころ、それが1963年(昭和38)という時代だった。新宿区教育委員会の両誌からは、そんな当時の世相の匂いが漂ってくるようだ。

◆写真上:下落合横穴古墳群が発見された斜面跡で、右手の祠は下落合弁天社。
◆写真中上は、富塚古墳と溶岩が積み上げられた「高田富士」。階段下の人物や鳥居と比べると、古墳の規模がわかる。(1967年版) は、富塚古墳の上り口にあった浅間社の鳥居。は、暗渠化されずに残っていた旧・玉川上水。(ともに1963年版)
◆写真中下は、初期の発掘エリアを北側から眺めた落合遺跡の現場。(1963年版) および、1963年(昭和38)の空中写真にみる目白学園の「遺跡園」。は、左から右へ徳治2年(1307年)、建武5年(1338年)、貞治6年(1367年)の年号が彫られた板碑。(1963年版/1967年版) は、下落合横穴古墳群から出土した鉄刀Click!(直刀)のひと振りで長さ(刃長)は2尺に足りず比較的短めだ。(いずれも1967年版) 
◆写真下は、月見岡八幡社に保存されている谷文晁の天井絵。(1963年版) は、同社から江戸期に盗まれたとみられる鰐口。(1967年版) は、1963年(昭和38)に発行された『新宿区文化財』()と、1967年(昭和42)発行の同誌()。

読んだ!(20)  コメント(22) 
共通テーマ:地域

版画の大衆化を進めた戦前の料治熊太。 [気になる下落合]

料治熊太邸跡.JPG
 1928年(昭和3)から、会津八一Click!の弟子のひとりが落合地域に住みついている。落合町葛ヶ谷4番地(のち西落合1丁目3番地/現・西落合1丁目9番地)で、創作版画の雑誌「白と黒」や「版芸術」を白と黒社から発行していた美術家の料治熊太だ。料治熊太の名は、このサイトでも曾宮一念Click!の会津八一に関する証言や、中村忠二・伴敏子アトリエClick!をご紹介したときにも、すでに登場している。
 料治熊太は、自身でも創作版画を手がけたが、むしろ版画雑誌の発行者としてのほうが知られているだろうか。1928年(昭和3)に博文館を退社すると、葛ヶ谷4番地に家を建てて、翌1929年(昭和4)から「白と黒」を創刊し、つづけて「版芸術」を1941年(昭和16)まで西落合で発行しつづけている。彼が発行する版画雑誌を通じて、平塚運一や谷中安規、棟方志功、前川千帆などが作品を発表していった。
 また、料治熊太は古美術に関する評論でも活躍し、浮世絵や焼き物のコレクター・研究家としても知られている。このあたり、古美術に造詣が深いのは師の会津八一ゆずりなのだろう。葛ヶ谷(西落合)に転居してきた、1928年(昭和3)から1935年(昭和10)までは霞坂の秋艸堂Click!に、同年から1945年(昭和20)までは目白文化村Click!の第一文化村にあった秋艸堂Click!(旧・安食邸Click!)へと、足しげく通っていたと思われる。
 さて、友人に料治熊太の著名入りの書籍『明治の版画』(光芸出版/1976年)をいただいたので、同書を通じて落合地域における料治熊太の仕事と、彼がもっとも賞揚する小林清親の明治版画について少し書いてみたい。小林清親の光線画については、以前もこちらでご紹介Click!しているが、今回は彼が日本橋の米沢町、つまり両国橋西詰め近くの両国広小路沿いでのちの日本橋区(西)両国、つまりわたしの故郷である現・東日本橋の同じ町内に住んでいたことについて、そこで起きた惨事とともに少し触れてみたい。
 料治熊太の活動について、端的に表現していると思われる論文に日本女子大学の近藤夏来『創作版画運動と谷中安規』(2009年)がある。その一部を、少し引用してみよう。
  
 料治は、全6タイトル150冊もの版画雑誌を世に送った人物なのだが、彼が、『白と黒』と同時に手がけた『版芸術』は、機械刷りを採用して、部数を500部に広げ、50銭という安さをもって大衆化の意図をより鮮明にしたものであった。/版画人達が、いかに大衆を惹きつけるかを考え、その答えとしての表現方法に違いはあれど、大衆文化の急成長とは裏腹に、閉塞してゆく創作版画に焦燥感を抱え、多くはかつての錦絵のあり方に範を求めて模索した点は共通している。/そして、彼らの多くに、やがて転機が訪れる。30年代の後半、日本は軍国化への大きな一歩を踏み出す。そうした状況において、料治熊太は1934,5年頃から郷土玩具の採集と記録に傾倒するようになり、1938年には、版画界から身を退いている。
  
 戦後も、料治熊太は創作版画界へ復帰することなく、もっぱら古美術研究に没頭しているように見える。西落合の仕事場は、浮世絵や骨董などの蒐集品であふれ返ることになった。特に浮世絵は、江戸期に定着した浮世絵の手法や“お約束”には縛られないで、自由な表現で描けるようになった「横浜絵」や、新しい感覚の明治東京版画に注目している。
白と黒193705.jpg 版藝術193304.jpg
料治熊太「明治の版画」1976.jpg 料治熊太「明治の版画」署名.jpg
料治熊太.jpg
 中でも、もっとも高い評価と賛辞を惜しまないのが光線画の小林清親だった。清親は、洋画風の写実を江戸期からつづく浮世絵の伝統に取り入れ、従来の作品には見られなかった風景や場の“空気感”をみごとにとらえて表現し、奥行きのある明治浮世絵を確立している。以降、浮世絵風の版画で風景を描写する作家たち、たとえば人気が高かった井上安次や小倉柳村たちは、すべて清親を規範とするようになった。
 料治熊太の清親に対する評価は、他の版画家たちに比べて群を抜いている。上掲の『明治の版画』から、当該箇所を引用してみよう。ちなみに、1980年代に清親ブームが起きたのは、料治熊太の清親研究や評価がその底流にあったからだろう。
  
 明治時代に小林清親が出たことは、明治の誇りといえるのである。なぜなら、いくら下村観山や狩野芳崖が当時偉い画家であったとしても、彼らの作品が明治の時代を謳歌していたわけでもなければ、その息吹があふれていたわけでもない。しかるに小林清親の作品になると、作品の中に明治十年の息吹が生きている。時が生きているばかりでなく、それを描いたその日の時刻が生きている。その日の気象が生きている。それはとりもなおさず、その時代に確かに生きていたということを物語っているのである。(中略) 明治の版画家として、小林清親の残した仕事は絶対のものであった。それから後、どんな偉大な版画家が出たとしても、清親ほど心の奥底から東京を愛した人は出ないであろう。それほど、彼はふるさと東京を、全霊を捧げて描いた人だった。
  
 清親の光線画と呼ばれた、およそ95作品の「東京名所図」シリーズは、1876~1881年(明治9~14)のわずか6年間、彼が日本橋米沢町で旗本出身の妻と暮らしているときに描かれている。年齢的には、清親が28歳から33歳までのことだ。米沢町のどこに自宅があったのかは不明だが、本所生まれの彼は大川(隅田川)Click!大橋(両国橋)Click!の近くを離れがたかったのだろう。
前川千帆「品川八ツ山」1929.jpg
平塚運一「新東京百景日本橋」1929.jpg
谷中安規「大川端」1940.jpg
 清親が光線画をやめたのは、1881年(明治14)に起きた両国大火で自宅が全焼してからだ。同年1月26日に、神田松枝町から出火した火事は強い北西風にあおられて、神田岩本町から大和町へ延焼し、やがて日本橋区から大川をわたり本所区、やがては深川区までを焼き尽くし、ようやく16時間後に消し止められた。焼失面積は実に42万m2を超え、焼失家屋1万数千戸という被害は、明治を通じて最大の火事被害となった。
 日本橋米沢町にあった小林清親の自宅は全焼しているが、彼は自宅にいた妻子を放り出したまま、火事場の写生に走りまわっていた。同じく、日本橋米沢町(現・東日本橋)にあった明治期のわたしの実家も全焼しているはずだが、両国大火について親父から話を聞いた憶えがない。おそらく、祖父母の世代は話を聞かされていただろうが、その後に起きた関東大震災Click!東京大空襲Click!の被害があまりにケタ外れだったので、両国大火は相対的に伝承の比重が下がったのだろう。神田区・日本橋区・本所区・深川区の52町を呑みこんだ大火で、4万人近い罹災者が出ている。
 以来、清親が「東京名所図」シリーズの制作をやめてしまったのは、大川をはさみ江戸情緒をたたえた街並みが両国大火で丸ごと失われ、モチーフの喪失と失望感から気力が萎えてしまったのかもしれない。それでも、両国大火のあとに再建された街並みは、いまだ江戸の雰囲気を強く継承していたはずだが、清親が再び「東京名所図」(いわゆる光線画)の筆をとることはなかった。同様のことが、関東大震災で再び旧・江戸市街地の情緒が失われた際にも、画家や作家を問わず表現者の間で少なからず起きている。
清親「両国大火」浅草橋1881.jpg
清親「両国大火」1881.jpg
清親「両国焼跡」1881.jpg
 さて、料治熊太は描画から彫りや刷りまで作者が手がける、創作版画(新版画)の雑誌「白と黒」や「版美術」を発行していたが、それは1907~1911年(明治40~44)に発行されていた版画雑誌「方寸」(方寸社)を規範とし、その流れの継承を意識したものだろう。「方寸」は、石井伯亭Click!山本鼎Click!森田恒友Click!、戸張孤雁、岡本帰一、津田清楓、南薫造Click!斎藤与里Click!、坂本繁二郎、平福百穂Click!倉田白羊Click!、太田三郎、織田一麿Click!らが集まって、本格的な創作版画運動を推進する舞台となった。

◆写真上:葛ヶ谷4番地(現・西落合1丁目9番地)にあった、料治熊太邸(白と黒社)跡。
◆写真中上は、料治熊太が発行していた版画雑誌「白と黒」()と「版芸術」()。は、1976年(昭和51)に光芸出版から刊行された料治熊太『明治の版画』()と著者の署名()。は、西落合の自邸で蒐集品に囲まれる料治熊太。
◆写真中下は、1929年(昭和4)制作の前川千帆『品川八ツ山』。は、同年制作の平塚運一『新東京百景/日本橋』。は、1940年(昭和15)制作の谷中安規『大川端』。本所国技館と大川の角度から、浜町公園から眺めた風景だと思われる。
◆写真下は、1881年(明治14)1月26日のスケッチを木版画にした小林清親『両国大火浅草橋』。は、同日に浜町からスケッチした小林清親『両国大火』で、大橋(両国橋)の左手で炎上するのが清親の自宅やわたしの実家があった日本橋米沢町界隈。右手の水面が大川で、左手の水面が現在は日本橋中学校が建っている埋め立て前の薬研堀Click!の堀口だろう。は、火災の鎮火後しばらくたってから描かれたとみられる小林清親『両国焼跡』。左手に大橋(両国橋)の仮設橋らしい情景が描かれているので、日本橋側の両国広小路を焼けた吉川町から描いているとみられ、向かいの半焼けの家々が米沢町界隈。

読んだ!(20)  コメント(22) 
共通テーマ:地域

下落合で「気の狂った」画家の柏原敬弘。 [気になる下落合]

下落合800番地1.JPG
 以前、脳に結核菌が入り、おそらく結核性髄膜炎を起こして精神的に錯乱状態となり、下落合のアトリエで死去した近藤芳男Click!について書いたことがある。同じく、下落合にアトリエをかまえていた洋画家に、大阪の八尾中学を卒業して東京美術学校に入学した、柏原敬弘(けいこう)がいる。この画家もまた、鈴木誠Click!によれば「気の狂った」ことにされているのだが詳細は不明だ。
 1918年(大正7)の当時、東京美術学校3年生で22歳だったというから1896年(明治19)生まれであり、同年代の画家には林武Click!村山槐多Click!が、また東京美術学校では田口省吾Click!前田寛治Click!と同級生だったことになる。藤島武二Click!に師事し、20歳の美校生時代から文展には連続して入選しているようで、アカデミックな分野では才能のある画家だったのだろう。文展が帝展に変わってからも、引きつづき出品をつづけていたようで、1922年(大正11)の第4回展までの帝展入選が確認できる。
 そんな柏原敬弘について、1967年(昭和42)発行の「みづゑ」1月号に掲載された、鈴木誠『手製のカンバス―佐伯祐三のこと―』から引用してみよう。
  
 私は学校の卒業と同時に、駒込から目白落合に、二階ふた間もあるなにかわけのある家を法外に安く貸(ママ:借)りきることが出来たので、引越して住むようになったが、これより前にすでに彼(佐伯祐三)は、近所にアトリエを新築して住んでいた。その年の冬、通称洗い場という近所のお百姓さんがよく「ごぼう」を洗いに来る谷間、その南側に建てたこの家の日当りのよい縁側で、シャベルを借りに来た彼と、寝ころがって雑談をしていたようだった。(中略) 戦乱中だったか、戦後だったか目白通りの古道具屋で、片多徳郎氏や同じく落合に画室のあった気の狂った柏原敬弘の外数点の作品に混って額縁にも入ってない彼(佐伯)の画を見つけた。サインもないので道具屋から誰の作品か知らないまま、ただのように譲ってもらって今も大切に保存している。(カッコ内引用者註)
  
 諏訪谷Click!洗い場Click!近く、斜面に南向きで建てられた、どうやら「事故物件」と思われる2階家を借りてい住んだ鈴木誠だが、ときどき佐伯が顔を見せていたようだ。この文章を書いた当時は、もちろん鈴木は旧・中村彝アトリエClick!に住んでいる。
 佛雲堂Click!浅尾丁策Click!が見つけた、佐伯祐三の『下落合風景(便所風景)』Click!も池袋の古道具屋で発見されているので、戦後すぐのころは佐伯の作品が下落合周辺の骨董店に無造作に置かれていたのだろう。文中に登場している、下落合732番地の片多徳郎Click!もまた、アルコール中毒症が昂じて最後には自裁している。
 さて、柏原敬弘がアトリエをかまえていたのは、またしても下落合803番地、薬王院墓地Click!の西側にあたる一画だ。ここは、夏目政利Click!によるアトリエ建築が集中していた一画とみられ、洋画家たちが集中して住んでいた。ちょっと挙げただけでも、鶴田吾郎Click!(804番地)、鈴木良三Click!(800番地)、鈴木金平(800番地)、有岡一郎Click!(800番地)、服部不二彦Click!(804番地)、そして下落合803番地には柏原敬弘が住んでいたことになる。まるで、大正期の「アトリエ村」とでもいうべき家並みだったようだ。
下落合800番台アトリエ村1926.jpg
下落合800番台アトリエ村1936.jpg
下落合800番台アトリエ村1947.jpg
 柏原敬弘が、いつごろから精神的におかしくなったのか、正確なところはわからない。ただし、1924年(大正13)以降の活動がみられず、同年からは美術年鑑などに住所と名前も見えなくなっているようなので、どうやら関東大震災Click!の前後から「気の狂った」(鈴木誠)状態になったのではないかと想像できる。また、東京美術学校にも卒業制作の作品が残っていないので、在学中から発症していたのではないかとも想定できる。では、なにが原因で精神的な錯乱状態を招来してしまったのだろうか?
 それを推測できそうな手がかりが、1918年(大正7)に泰山房から出版された芳川赳『作品が語る作家の悶(もだえ)』という、すごいタイトルの本がある。画家たちの作品を挙げながら、その裏に隠された物語やエピソード、ゴシップ、ウワサ話などを記した、ほとんど現代のセンセーショナリズム週刊誌のような内容なのだが、中には本人に取材して書いていると思われる章もある。その中に、柏原敬弘が1918年(大正7)の第12回文展に出品した『森の古池』をめぐり、「恋の落伍者となつた青年画家/思ひ出多い『森の古池』」と、これまたすごい題名の記事が載っている。同書から、少し引用してみよう。
  
 此の画題となつた『森の古池』は、氏が生涯忘れる事の出来ぬ思ひ出多い森ださうで、此画が出来上る迄には其処に云ひ知れぬ血と涙が注がれて居る。丁度此若い美術家が大阪の八尾中学を卒業した頃であつた。彼れには美しい一人の恋人があり、而も其の恋は精神的のものであつた。青春の血に湧く若い男女は村端れの森の下蔭に人目を避けて蜜のやうな甘い恋に憧憬れて互の理想と楽しい未来を夢みたが夫も束の間二人の恋は一場の淡い夢と消え去つて了つた。女は遂に柏原氏の燃ゆるが如き期待を裏切つて他の男に心を移し柏原氏を捨てたのである。捨てられた柏原氏の若い心は甚だしく傷つけられた。そして女の薄情に声を揚げて泣き暮らした悲観の極度が次第に女に対する憎悪となつて、感傷的な反感は遂に芸術を以て此反逆者に復讐すべく固く心の裡に誓つたのである。
  
 今日からみれば、プラトニックな淡い恋に破れたからといって、相手を裏切り者の「反逆者」呼ばわりし、こともあろうに「復讐」を誓うなど、いったいこの男の内面はどうなっているのか?……と心配になるのだけれど、同時にささいなことを根に持つ、どこか執念深いストーカーじみた粘着気質が想定できて、とても気持ちが悪い。女が「裏切つて」と書かれているが、裏切るほど関係が深くもなさそうなので、単に柏原に魅力がなく他の魅力ある男へ惹かれていっただけの話ではないだろうか。
柏原敬弘「春の枯草」1919.jpg
柏原敬弘「夏の輝き」1922.jpg
 これだけのことを、著者である芳川赳がまったくの空想で書けるわけがなく、本人に対面して画題にまつわるエピソードを聞き出したか、親しい友人にでも取材しているのだろう。このあと、柏原は文展に入選して喜んだのも束の間、自分を振った女(特につき合いらしいつき合いもまったくしていないので、「振った」という表現も適切でないような気がするが)への「復讐」や「呪ひ」へと突き進むことになる。すなわち、彼にとっての「復讐」や「呪ひ」とはしごくまことに単純で、有名な画家になって彼女を見返してやろうというものだったようだ。
  
 けれども氏の此喜びの声は忽ちにして呪ひの叫びと化した 呪ひとは若い時忘るべからざる虐げを受けた女に対する憤激の迸りである。彼の女を呪へ……彼の女を征服せよ、此心が氏をして益々研究を続けさせたのである。そして氏は其一方此心の悩みから遠ざかるため、谷中の両忘庵の宗活禅師の許の(ママ)参禅して大悟の道を辿つた。果然女は氏の前に膝を屈したのである。氏の出品が入選となつた後は幾回となく氏の許に束なす謝罪の文が、其女から舞込んだが痛快な勝利者となつた氏は手にさへ触れずに小気味よい笑ひの裡に件の文殻を焼棄て了つたのである。
  
 自身が「虐げ」られ「捨て」られたなどと臆面もなく口にし、あらゆることがらは自分に責任があるのではなく、すべて相手のせいであり一方的な被害者こそ自分である……というような認識や感覚は、自己中心的な人間にはよくある稚拙な“被害者意識”なのだが、ここまでくるとすでに病的だ。彼の中で、巨大な女性コンプレックスないしは女性恐怖症のようなものが育ち、それが強い憎悪や嫌悪をともないつつ、“ひとり歩き”をはじめていそうな気さえする。
 文中では、相手の女性から「謝罪の文」が何通もとどいたことになっているが、これも柏原敬弘が取材にきた芳川赳に語った“妄想”のたぐいなのかもしれない。東京へとうに出ていった、過去に一時的で精神的なつき合いのみだった男の住所を、あえて彼女が知っているのも不自然だし、さっさと男を見かぎって取っかえるような女性が、過去のことにいつまでもこだわって憶えているとも思えないからだ。むしろ、文展入選後に「どうだ、これがキミの振った男、つまり前途有望な芸術家たるボクの姿だ」などという、どこか江戸川乱歩Click!を想起させるような、気色の悪い「復讐」の手紙を何通も書いていたのは、むしろ柏原敬弘のような気さえしてくる。
芳川赳「作品が語る作家の悶」1918.jpg 芳川赳「作品が語る作家の悶」1918柏原敬弘.jpg
下落合800番地2.JPG
 わたしは、少なくとも芳川赳が書きとめた「柏原敬弘」のような、いつまでもイジイジとじめついた男が大キライなのだが、下落合803番地で暮らした実際の柏原敬弘の姿とは少なからず異なっているのかもしれない。だが、少なくとも『森の古池』のエピソードから推測する限り、自身が不利な立場に立たされると、すべてが他人のせいに思えてくる強い「被害者意識」をもった人物像が、そこはかとなく浮かび上がってくる。自ら谷中の寺へ参禅しているのは、自身の内面にもやや異常さの自覚があったからなのかもしれない。

◆写真上:薬王院の塀に面した、下落合800番地区画の現状(右手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合800番地区画。は、1936年(昭和11)の空中写真と1947年(昭和22)の同写真にみる同区画。空襲の被害は受けておらず、戦後まで大正期の面影が残っていた。
◆写真中下は、第1回帝展に入選した1919年(大正8)制作の柏原敬弘『春の枯草』。は、第4回帝展に入選した1922年(大正11)制作の同『夏の輝き』。『春の枯草』の中央右手には水門があるが、いずれも大正中期の下落合風景を描いたのかもしれない。
◆写真下は、1918年(大正7)に出版された芳川赳『作品が語る作家の悶』(泰山房)で、同書の内扉()と柏原敬弘の記事「恋の落伍者となつた青年画家/思ひ出多い『森の古池』」()。は、画家たちが集った下落合800番地区画の現状。

読んだ!(21)  コメント(24) 
共通テーマ:地域

陸地測量部の班長たちが住む下落合。 [気になる下落合]

陸地測量部若林班長邸跡.JPG
 第三府営住宅の11号、すなわち下落合1542番地にアトリエを建てて住んでいた、帝展の洋画家・長野新一Click!のことを改めて調べているとき、ついでに周辺に住む住民についてもチェックしてみた。すると、同じ第三府営住宅の24号つまり下落合1599番地に、同じ帝展画家の江藤純平Click!のアトリエがあったことが判明してご紹介している。
 東京府が実施していた府営住宅制度Click!とは、その名称から今日イメージされるような、自治体が住宅を建てて家賃貸しするのではなく、おもにサラリーマンを対象に土地を確実に手に入れ、その上に自分好みの住宅を建てるのをサポートする、持ち家一戸建て建設・取得のための積立金制度のようなものだった。
 長野新一や江藤純平も、作品が確実に帝展などの展覧会へ入選するようになり、また美術教師などの収入も堅調だったので、府営住宅制度を利用して下落合にアトリエを建設しているのだろう。長野新一は、1933年(昭和8)に39歳で死去しているが、アトリエ周辺に拡がる大正期の「下落合風景」を制作し、江藤純平はおもにアトリエの中で人物や静物の作品を多く残している。
 さて、第三府営住宅を観察しているとき、長野新一アトリエの南側に隣接する住宅(16号=下落合1588番地)についても調べてみた。「若林」という戸名が採取されているので、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)で調べてみると、なんと陸軍参謀本部が所管する陸地測量部の班長で、陸地測量師だった若林鶴三郎の家であることが判明した。
 そのことが、頭に隅にずっとひっかかっていたので、改めて府営住宅内を調査すると、目白文化村Click!の第一文化村西側に接している第四府営住宅の20号、すなわち下落合1636番地には、同様に陸地測量部班長で陸地測量師の佐藤武道が住んでいた。第三府営住宅の若林邸と、第四府営住宅の佐藤邸は、直線距離でわずか100m余しか離れていない。このふたりについての記述を、『落合町誌』から引用してみよう。
  
 陸地測量師/陸地測量部班長 若林鶴三郎  下落合一,五八八
 陸地測量師/陸地測量部班長/正六位勲三等 佐藤武道  下落合一,六三六
  
 ふたりの班長のうち、佐藤武道は叙位叙勲を受けているので、すでに公務員を退職したか、あるいは退職間近だったのかもしれない。
 以前、陸地測量部が1929年(昭和4)10月16日に作成した、1/10,000地形図の校正用紙(第1校紙版)の詳細についてご紹介Click!している。製図科の第1班(水澤班長)および第3班(水谷班長)の班員たちが校正作業に当たり、製図科長を兼務していた第1班の水澤班長が最終決裁を行っている。つまり、製図科内はいくつかの班に分かれており、その中の有力な班の班長が製図科長を兼務するというのが、陸地測量部の部局内における組織的な慣例だったようだ。一般企業の役職に当てはめてみると、班長が「課長」に相当し、科長が「部長」職に相当するだろうか。
 つまり班長とは、陸地測量部の業務における実務レベルの最前線に立つ技師たちの責任者であり、現場の仕事をすべて掌握しているエキスパートということになる。今日の官公庁における課長と同様に、現場の仕事を取りまとめて稟議を上げ、決済印をもらって業務を具体的に実行する“実働部隊”のキャップということだ。陸地測量部の班長が、下落合に近接してふたりも住んでいるということは、その周辺には『落合町誌』には収録されていない、陸地測量師(科員や班員)たちが集まって住んではいなかっただろうか。
地形図校正第1稿19291026.jpg
地形図校正第1稿19291026拡大.jpg
長野新一「落合村」1926.jpg
 当時の陸地測量部の組織には、地図制作に関する主要部局として三角科、地形科、製図科の3つの科が存在した。三角科は、全国にある三角点Click!の管理・運用をする部門であり、地形科は地形測量・調査を行う部門、そして製図科はそれらのデータをもとに各種地図を制作する部門だ。以前ご紹介した1/10,000地形図の校正用紙は、地図制作に携わる製図科の仕事ということになる。上記ふたりの人物が、どこの科に属していたのかは不明だが、わたしは地形科ないしは製図科ではないかと疑っている。
 このサイトでは、10年以上前から陸地測量部が作成した1/10,000地形図における、地名(字名)の不可解な移動について、繰り返し何度も触れてきた。そのひとつは、大正初期までの地形図では青柳ヶ原Click!(現・国際聖母病院Click!の丘)の西側に口を開けた谷戸に、「不動谷」とふられていたものが、大正中期になると300mも西へ移動Click!して、第一文化村からつづく前谷戸の位置にふられるようになる。1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡史』付属の地図でも、青柳ヶ原の西側に刻まれた谷戸が「不動谷」とされているし、また1967年(昭和42)に新宿区教育委員会が発行した資料Click!でも、聖母坂の西側に食いこんだ谷戸が「不動谷」と規定されてもいる。
 だが、陸地測量部の1/10,000地形図では、なぜか1918年(大正7)から「不動谷」が前谷戸の位置へと大きく移動している。以降、地元でつくられる地域地図、たとえば「下落合事情明細図」や「落合町全図」などでは、陸地測量部の地図に合わせて「不動谷」は西へ移動したままとなっている。ちなみに、「前谷戸」は谷戸そのものを指すネームであり、谷戸自体ではなく「谷戸の前にある土地」を字名として呼称する場合は、江戸東京の地名に関する“お約束”にならえば、「谷戸前」にならなければおかしい。したがって、落合第一小学校Click!の前に口を開けた谷間は、本来「前谷戸」と呼ばれていたのだろう。
陸地測量部班長1926.jpg
不動谷1910.jpg
不動谷1918.jpg
 同じような不可解な地名(字名)に、「中井」Click!がある。江戸期には目白崖線の麓にある、低地の集落(現・中井駅北東100~150mほどの麓域)につけられていた通称「中井村」Click!が、なぜか下落合(旧・中落合/中井含む)でもっとも標高が高い、城北学園(現・目白学園)の東側一帯(標高37.5m)の字名「大上」に取って代わり、大正末から昭和初期のわずかな期間だけ「中井」にされていたからだ。具体的には、1923年(大正12)以前の1/10,000地形図では字「大上」となっていたものが、同年以降に字「中井」に変更され、1930年(昭和5)には再び「大上」へともどされている。すなわち西武電鉄Click!が開通し、下落合駅の次の駅名が「中井」駅に決定してからもどされている。
 「不動谷」あるいは「中井」の地名移動は、製図科の校正で記載ミスを発見した際のアカ入れ修正などではなく、明らかに地図制作側の作為的な意思を強く感じるのだ。両地名の移動には、製図科の班員または班長、さらには科長の意向が強く反映していたとすれば、いったい誰の意向を忖度して地名の改竄を行なったものだろうか。w
 たとえば、「不動谷」が西へと移動した大正中期は、箱根土地の堤幸次郎Click!が目白文化村の開発を準備し、目白通り沿いの土地を府営住宅地として東京府に寄付するとともに、「不動園」Click!(のち目白文化村の第一文化村エリア)と名づけた郊外遊園地を建設していた。そして、堤は1924年(大正13)には、衆議院議員に初当選している。また、「中井」が丘上の字名「大上」に取って代わったころ、西武鉄道Click!が最終的な軌道コースClick!を企画している最中であり、鉄道駅を誘致したい落合町長は、上落合側から付けられた地名ではなく、ことさら下落合側に記録が残る地名(字名)の実績をつくりたかったのではないか。当時の落合町長は、1903年(明治36)から1928年(昭和2)まで実に25年間も就任していた、ワンマンで有名な川村辰三郎Click!だった。
 もし、これらワンマンな地元の有力者たちが個々に、あるいは双方が連携して、下落合に住んでいた陸地測量部の実務責任者へ、地名変更に関する請願を朝な夕なに行ったとしたら、はたして聞く耳をもたずに断りきれるだろうか。あるいは、贈り物・接待攻勢にあっているのかもしれないが、政治的なモメゴトを起こさないために、あるいは「村八分」に遭わないためにも、地図制作上でなんらかの忖度(意向)が働かなかったとは、いいきれないのではないだろうか。
大上1916.jpg
大上1923.jpg
大上1930.jpg
長野新一「養魚場」1924.jpg
陸地測量部小林班長邸跡.JPG
 若林鶴三郎と佐藤武道のふたりが、どれほど1/10,000地形図の制作にかかわっていたかは不明だし、また、いまとなっては地形科ないしは製図科に属していたかもわからない。さらに、あとどれだけ陸地測量部に関わる有力者たちが、大正期の落合地域に住んでいたのかも、『落合町誌』のみの資料では不足している。でも、彼らが現場の実務をこなす“班長”というトップの立場にいる以上、同じ町内から自治体事業をより有利に導くための、なんらかの働きかけや仄めかしがあっても、決して不思議ではないだろう。

◆写真上:下落合1588番地の、第三府営住宅16号にあった若林鶴三郎邸跡。
◆写真中上は、1929年(昭和4)10月26日に行われた1/10.000地形図の校正第1稿。右側には校正を担当した各班員と班長の捺印に、科長「水澤」の決裁印が押されている。は、同じく校正中の1/10,000地形図の部分拡大で、偶然にも第三府営住宅にある陸地測量部班長・若林邸のヨゴレを「トル」指定が書きこまれている。は、下落合西部の大上斜面あたりから写生したとみられる長野新一『落合村』(1926年)。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる陸地測量部班長の2邸。は、大正中期に起きた「不動谷」の西への移動。
◆写真下は、大正末から昭和初期にかけて短期間に起きた「大上」→「中井」→「大上」の不可解な変更。は、大上の麓・御霊下(のち下落合5丁目)にあった稲葉の水車小屋Click!と養魚場を描いた長野新一『養魚場』(1924年)。は、目白文化村に接する下落合1636番地の第四府営住宅20号にあった佐藤武道邸跡。

読んだ!(18)  コメント(20) 
共通テーマ:地域

下落合を描いた画家たち・江藤純平。 [気になる下落合]

江藤純平「風景」1929.jpg
 下落合1599番地すなわち落合府営住宅内の、第三府営住宅24号に帝展画家・江藤純平Click!がアトリエを建てて住んでいた。第三府営住宅Click!は、1924年(大正13)前後から住宅の建設がはじまっているので、おそらく江藤純平はかなり早い時期からアトリエ兼自邸を建設しているのだろう。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にも、すでに名前が採取されている。
 江藤純平の名前は、これまで東京美術学校時代の佐伯祐三Click!深沢省三Click!の証言者として、このサイトでは何度か繰り返し登場Click!している。学生時代の佐伯祐三は、おかしなエピソードをたくさん残しているが、同時期に美校で身近にいた江藤純平もまた、佐伯の姿を強烈な印象とともに記憶しているひとりだ。彼は、大阪人の佐伯祐三が、めずらしく蕎麦屋へ出かけた様子を記録していた。
 1929年(昭和4)に出版された『一九三〇年叢書(一)「画集佐伯祐三」』所収の、江藤純平と田代謙助の共著による「学校時代の佐伯君」から引用してみよう。
  
 こんなこともあった。ある友達がホンのたわむれに、/「ざるがいゝの、天ぷらがうまいのと云つたところで、そばでは先づおあいに止めをさすね」/とかなんとか彼をからかつたところ、而も小さんの「うどんや」は知らなく共このおあいの愚にもつかない話はその時代の悪いシヤれ(ママ)で、誰も鼻につき過ぎて嫌味な位であつたに拘らず率直で気早い彼は早その友達を手近のそば屋につれ込んでしまつた。/「オイ、おあいを二人前あつくしてくれえ」/と大真面目で正々堂々と註文したのである。これは餘りに馬鹿馬鹿しく嘘くさい話であるが我が佐伯君の場合にのみ真実性があり、最も愛すべき笑ひ話として残つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 佐伯がめずらしく蕎麦屋に出かけ、まるで芝居の直侍Click!次郎吉Click!のような江戸東京弁のイキな台詞まわしで、蕎麦と思いこんだ「おあい」を注文している様子がおかしい。文中に登場している「小さん」は、大正期の3代目・柳家小さん(初代・柳家小三治)のことで、昭和の「目白の師匠」こと5代目・小さんClick!もよく演じた「うどん屋」は、十八番(おはこ)にしていた噺のひとつだった。
 わたしは当然、大正期の小さんの噺などまったく知らないので、マクラあたりで話されたらしいシャレの「おあい」がなんだったのかはわからないが、おあい(東京弁:おわい=糞尿)にひっかけた、なにか笑いを誘う臭いダジャレだったのではないか。
 粥(かゆ)Click!とまったく同様に、病気で寝こんでよほど重篤なときならともかく、ふだんからうどんの食習慣がない江戸東京地方では、小さんの演じる「うどん屋」Click!(5代目)に、江戸東京人らしい“うどんの定義”や食文化・美意識がよく表現されている。
江藤純平アトリエ1926.jpg
江藤純平アトリエ1936.jpg
江藤純平「自画像」1923.jpg 江藤純平「アトリエにて」1924.jpg
 さて、1923年(大正13)に東京美術学校を卒業した江藤純平は、翌1924年(大正13)に開催された第5回帝展に早くも入選している。かなり順調な滑りだしだが、もともと大分県の実家が裕福だったものか、あるいは長野新一と同様に教師などの安定した収入の職業に就けたものか、卒業とほぼ同時に下落合1599番地の第三府営住宅内にアトリエ兼自邸をかまえている。
 帝展へ初入選したのは、その新築のアトリエで裸婦を描いたとみられる『アトリエにて』という作品だった。美校を卒業して、すぐに自分のアトリエがもてたことが、とてもうれしかったのだろうか。裸婦の周囲に置かれた家具調度や吊るされたカーテン、板張りの床などが明るく鮮やかな色彩で表現され輝いて見える。この作品以降、帝展では毎年入選する常連となり、1928年(昭和3)には『S氏の像』で、翌1929年(昭和4)には『F君の像』で2年連続の特選に選ばれている。
 残されている作品を観ると、もともと人物の肖像画を得意とする画家のようにも思えるが、『F君の像』を描いて帝展特選になった同年、めずらしく野外へ出て30号Fサイズをタテにした風景画を制作している。セザンヌばりの色彩やタッチで描かれた作品は、単に『風景』とだけ名づけられているが、自邸から離れずアトリエにこもって制作することが多かったこの時期、周辺に拡がる近所の下落合風景を描いた可能性が高いように思われる。木立ちの間から、手前の草原ないしは造成と区画割りが済んだばかりの住宅敷地の向こうに、西洋館とみられる建物が2棟とらえられている。
江藤純平邸跡.JPG
江藤純平「風景」拡大.jpg
江藤純平アトリエ1936広域.jpg
 2棟の住宅は、濃いブルーかグレーのスレート屋根のように見え、手前の住宅にはフィニアルらしい小さな突起が、切妻の上に見てとれる。壁はベージュに塗られ、オシャレな白い鎧戸が設置された窓は、いかにも郊外に建てられた文化住宅の趣きがある。手前に拡がる草原の色合いや、変色しかかっている樹木の風情、空に浮かぶ雲の様子などから、空気が澄んでいる晩秋の風景だろうか。住宅の周囲には電柱が1本も描かれていないので省略しているか、あるいは目白文化村Click!の家並みなのかもしれない。
 このような情景は、画面が描かれた1929年(昭和4)の当時、下落合(現・中落合/中井含む)の中西部に位置する江藤純平のアトリエ周辺では、あちこちで見られただろう。制作から6年後の、1936年(昭和11)に撮影された空中写真でさえ、アトリエの南西部にはいまだ随所に草原や宅地造成地を見ることができる。
 画面の光線は、左手やや後方から射しこんでおり、それが南面に近い方角だとすると、描かれている住宅の切妻は東西を向いていることになる。光がやや黄色味を帯びているのは、午後のせいだろう。アトリエの南に拡がる目白文化村の一部を描いたものか、あるいは第三府営住宅または第四府営住宅の一部なのか、これらの住宅地の周辺には描かれたような草原や、残された木立ちがあちこちに散在していた。
 最初は、少し離れた場所から自身のアトリエを眺めた風景なのかと疑ったが、下落合1599番地の江藤純平邸は、このような屋根の形状をしていない。第三府営住宅は、ほとんど空襲による延焼の被害を受けておらず、1947年(昭和22)の米軍が撮影した精細な空中写真で、江藤純平邸をハッキリと確認することができる。それを観察すると、屋根は明らかに日本家屋のような形状をしており、北面の一部にアトリエの洋間が付属したような、和洋折衷住宅の意匠だったのだろう。
江藤純平アトリエ1941.jpg
江藤純平アトリエ1947.jpg
江藤純平「牛」1938.jpg
 江藤純平は、佐伯祐三が下宿していた上戸塚(高田馬場)時代も、また下落合661番地にアトリエを建てて転居してきたあとも、同窓のよしみで彼のごく身近にいたようだ。高田馬場の下宿Click!では、佐伯が毎日ていねいに削っておいた鉛筆を、イタズラ好きな下宿の女の子が全部折ってしまう話や、新築したアトリエの柱を片っ端からカンナで削ってしまうエピソードClick!なども、山田新一と同様に細かく記録している。

◆写真上:アトリエ周辺を描いたとみられる、1929年(昭和4)制作の江藤純平『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合1599番地の江藤純平アトリエ兼自邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同アトリエ。下左は、東京美術学校の卒制で1923年(大正12)に描かれた江藤純平『自画像』。下右は、第5回帝展に初入選した江藤純平『アトリエにて』。
◆写真中下は、江藤純平アトリエ跡の現状。は、『風景』の奥に描かれた西洋館の拡大。は、1936年(昭和11)現在の江藤アトリエ周辺に展開する草原(宅地造成地)。
◆写真下は、1941年(昭和16)の斜めフカンから見た江藤純平邸。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸。は、1938年(昭和13)制作の江藤純平『牛』。

読んだ!(24)  コメント(30) 
共通テーマ:地域
前の5件 | 次の5件 気になる下落合 ブログトップ