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襲撃後に下落合へ転居した細川隆元。 [気になる下落合]

矢田坂下.JPG
 1936年(昭和11)の二二六事件Click!の際、上落合1丁目476番地の神近市子Click!の隣家に住む、東京朝日新聞社で政治部長(事件当時は次長か?)だった細川隆元邸が何者かに襲撃された証言をご紹介した。蹶起将校のひとりだった竹嶌継夫中尉Click!の実家が、上落合1丁目512番地と細川隆元邸のごく近くにあったため、同日の午前中に東京朝日新聞社を襲撃している中橋基明中尉に情報を提供したものだろうか。新聞社を襲撃した部隊のうち、一部の支隊が上落合の細川邸を襲っている可能性が高そうだ。
 どのような襲撃だったのかは、細川自身が証言しているのを読んだことがないし、当時の記録も見かけないので詳細は不明だが、おそらく細川隆元は襲撃後ほどなく、上落合から下落合へと転居していると思われる。中井駅の改札を出て踏み切りをわたり、道を北へ進むと中ノ道Click!(中井通り)とのT字路に突き当たる。転居後の邸はその真正面、すなわち現在はみずほ銀行中井支店やセブンイレブンのある斜面に細川隆元が住んでいた……という伝承を、わたしは地元の方からうかがっていた。一ノ坂Click!「矢田坂」Click!にはさまれた、下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)あたりだ。
 改正道路(山手通り=環6)の道路工事Click!の進捗とともに、一ノ坂と振り子坂Click!の間を抜けていた山道のような細い「矢田坂」は全的に消滅し、現状ではちょうど同区画は三角形に切り取られたような敷地になっている。この場所で葬儀が行われているのを、当時は目白文化村Click!の第一文化村に住んでいた東京外国語学校の学生であり、のちに毎日新聞社の記者になる名取義一Click!が目撃している。
 ちなみに、名取義一は1935年(昭和10)4月に18歳で東京外国語学校へ入学し、翌年の同校1年生のときに二二六事件を経験している。そのときの様子を、名取義一『東京・目白文化村』(私家版)から少し長いが引用してみよう。
  
 大雪の昭和十一年二月二十六日、東京外語の一年生で、第三学期の試験・第二日目――父は風邪で休み――なので、学校へと玄関を出た。/すると、ちょうど妹が、通学の千代田高女近くから戻ってきた。/して「大変よ。何かあったらしいの。学校へはゆけないので……」とえらく興奮して話しかけてきた。/「何事だろう」と考えながら、といってラジオ・ニュースは……まだだし、と家を出て平常の如く西武線・中井駅から省線・水道橋駅へ。ここから神田の古本街を通り「如水会館」の所に来ると、黄色い冬外套で、剣付銃の兵士が通行人をいちいち検問しているではないか。/なるほど、大事件が起きたのだナ、と。/「誰だ、どこに行く」と訊かれ「外語生です。今日は試験なので……」と応えると、「よし。行け」とあっさり通してくれた。近くでは外語の外人講師が追い返されていた。/教室に入ると、皆がガヤガヤ、状況がさっぱり判断できなかった。それより、私は窓外で、つまり共立女子学園の方に向け、機関銃坐ができていて、兵士らが伏せているのに、思わず緊張した。一体、敵は……。内線か……。/試験が始まったが、心忙しく、そのうち試験は取止めということになり、以後は連絡を待てとのことになった。
  
細川隆元邸1936.jpg
細川隆元邸1938.jpg
 名取義一は東京外国語学校の神田キャンパスへ、運行していた電車(西武線→山手線→中央線)でたどり着き期末試験を受けている。一方、妹は麹町区四番町の千代田高等女学校へは、途中で東京市電が一部区間を運行停止にしていたものだろうか、登校できなかったのがわかる。
 名取義一を水道橋で誰何(すいか)したのは、蹶起部隊の兵士ではなく当日の午前中から街中に展開していた警備兵のひとりとみられ、同日午後から警備兵が東京の街角へいっせいに展開した……という通説が、わたしの祖母や親父の証言Click!とともに、ここでも覆っているのが判然としている。また、鉄道は大雪にもかかわらず通常どおり運行Click!されており、積雪のせいで遅れが出ていた可能性はあるものの、事件の影響で電車も運行を停止していたという、一部の二二六事件について書かれた本の記述は事実に反する。
 同年4月、東京外国語学校へ二二六事件のリーダー的な存在で元・一等主計(大尉相当)だった磯部浅一夫人の弟が入学し、学内にはいろいろなウワサが流れている。彼が栗田茂(のちの作家・五味川純平)と同級生だったことも、それらのウワサが後世まで記憶されることになった要因なのではないかとみられるが、事実を確認しようがないのでここでは省略する。
 さて、名取義一が細川隆元邸の葬儀を目撃するのは同校3年生のとき、すなわち1938年(昭和13)の暮れだった。つづけて、同書より引用してみよう。
細川隆元邸1941.jpg
細川隆元邸1947.jpg
  
 外語生のとき、毎日が乱読また乱読で、このため些か疲れると、夕方必ず近所に散歩に出かけた。/ある日のこと、西武線・中井駅の北側にある高台にゆくと――その下は、いま富士銀行中井支店になっている――“花輪”がずらりと並んでいる木造平屋建てがあった。/その“花輪”を一々見ると、まず“近衛文麿”それに名を忘れたが大臣からのが……。この主人公は一体何物(ママ)なのか、幸い人もいないので、周辺をウロついてみた。/で表札には「細川隆元」とあった。アッ、朝日の有名な記者で、先日、若くして政治部次長から部長になったばかりではないか、それがここに住んでいたとは。/これは同夫人が病死したためであった。(中略) =昭和十三年十二月十六日=/氏は、二・二六事件の折は、社電で起され、ともかく迎えの車で自宅から上落合-大久保へと急いだという。そこで緒方竹虎主筆が、その百人町から同乗し、ともに朝日本社に入った由。/同社が決起部隊(ママ)に襲われたことは、天下周知のことで省略する。それより同(昭和)六十二年には、同社はまたまた右翼かのテロに襲われている。(カッコ内引用者註)
  
 富士銀行中井支店は、現在のみずほ銀行中井支店のことだが、この証言により細川隆元邸が中ノ道(中井通り)沿いの下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)界隈にあったのは、1938年(昭和13)12月現在、つまり1936年(昭和11)の二二六事件から2年後であることがわかる。
 これにより、神近市子が隣家として証言している上落合1丁目476番地の細川隆元邸、すなわち二二六事件のときに襲撃を受けたのは、下落合へ転居する以前の邸だったことが判明した。換言すれば、細川隆元は上落合の自宅が襲撃を受けたあと、身の危険を感じて早々に下落合4丁目1925番地界隈へ引っ越した……という経緯が推定できる。
 また、名取義一は本人から直接聞いたものだろう、細川隆元は2月26日の早朝に異変をキャッチした本社からの電話で起こされ、迎えのクルマで緒方竹虎とともに数寄屋橋の本社へ急行しており、自宅が襲撃を受けた際には不在だった可能性が高そうだ。襲撃者に応対したのは、家に残っていた夫人たち家族だったかもしれず、そのせいで細川隆元自身の二二六事件に関する印象的なエピソードとして、後日、自宅襲撃について語られる機会があまりなかったのかもしれない。
朝日新聞社1934.jpg
名取義一「東京・目白文化村」.jpg 細川隆元.jpg
 「同六十二年には、同社はまたまた右翼かのテロ」とあるのは、1987年(昭和62)5月に朝日新聞阪神支局が襲撃された「赤報隊事件」Click!(広域重要指定116号事件)のことで、このテロにより同紙の記者2名が死傷している。1961年(昭和36)の「風流夢譚」事件を想起するまでもなく、現代の中国やロシアのメディアがそうであるように、さまざまな報道・言論機関へのテロによる言論封殺・抑圧は、その後にやってくる自由な意見表示や思想表明を圧殺する“暗黒時代”の予兆として、改めて銘記しておきたい現象のひとつだ。

◆写真上:細川隆元邸があったとみられる、下落合4丁目1925番地界隈の現状。改正道路(山手通り)の工事で消滅した、「矢田坂」の坂下にあたるエリアだ。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真に見る下落合4丁目1925番地界隈だが、細川邸は上落合にありいまだ転居してきていない。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同地番エリアで、いずれかの住宅が細川邸だろう。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された「矢田坂」の下部。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同所で改正道路工事が進捗している。
◆写真下は、1934年(昭和9)に撮影された数寄屋橋の東京朝日新聞本社。下左は、1992年(平成4)に発行された名取義一『東京・目白文化村』。下右は、戦後の細川隆元。

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ドクトルマンボウの下落合昆虫記?? [気になる下落合]

オバケ坂.JPG
 小学生のころ夏休みの自由研究というと、よく昆虫採集をしたものだ。その様子は、以前にも記事Click!に書いたことがあるが、近くに森や山がある地域の方は、子どものころの虫捕りは誰でも経験しているのではないだろうか。(女子Click!は別かな?) 大人になるとともに、虫とは縁遠くなりめったに捕まえることがなくなるけれど、子どもが生まれたりすると再び補虫網を手にしては、近くの森や山へと出かけることになる。
 わたしにとって、いちばん印象的な虫捕りの場所は大磯Click!の渓流だった。水辺に下りて待ち受けていると、1時間でオニヤンマが数匹は捕まえられた。ギンヤンマは捕まえたくても、かなり高いところを飛行しているので、子どもたちの背丈や技量ではむずかしい。夕暮れどきに、松林の上に拡がる空を琥珀色の羽で染める、ギンヤンマの大群をうらめしげに見上げていた。特に、胸と腹の間に空色が入るギンヤンマの♂を、手に入れたくてしかたがなかったのを憶えている。
 神奈川県の海辺、渚も近い下が砂地の原っぱには、大きなトノサマバッタやショウリョウバッタが群れていたし、近所の林にはあらゆるセミの声が聞こえていた。チョウや甲虫類も多く、そういう意味では虫捕りにはめぐまれた環境だった。逆にいえば、うちの娘のように虫ギライな人間には最悪の環境に見えるだろう。だが、ときおり親が連れ歩いてくれる東京の(城)下町Click!界隈では、虫の影などほとんど見かけなかった。たまに空き地で、渡りをするウスバキトンボの姿を見るぐらいだった。だが、山手にはまだ緑が多く残っていたので、いろいろな虫が棲息していただろう。
 下落合での虫捕り場というと、やはり御留山Click!などの森や林、池などがあるエリアだろう。おそらく、1960年代後半から80年代前半あたりにかけては、空気や河川などの汚濁がピークを迎え、虫の姿もあまり見かけなくなったのではないだろうか。だが今世紀に入ってから、樹木が伐られ緑は相変わらず減少しつづけているものの、虫の姿や声は目立って多くなってきた。
 わたしの家のまわりだけでも、オニヤンマをはじめ多彩なトンボの姿を見かけるし、ベランダにはカブトムシ(♀)が飛びこんできたりする。いったい長い間どこに隠れていたものか、30年前を考えるとまるで夢のようだ。鳴き声からすると、関東に棲息するセミは全種類いるようだし、夕暮れに神田川沿いを散歩するとギンヤンマの姿さえ見かけるようになった。でも、戦前に比べたら、いまだ非常に数が少ないのだろう。
 1963年(昭和38)の「落合新聞」8月11日号に、北杜夫が『雑木林の虫』というエッセイを寄せている。当時の北杜夫は、まだまだ自然が残る世田谷区松原4丁目に住んでいたが、それでも次々と森や林、小川、池などが失われ宅地化されるのを嘆いている。また、当時の世田谷区は田畑が多く、そこで使用されるようになった農薬や除草剤の影響で、戦後は虫の数が激減しているのではなかろうか。ひとたび樹木が伐採され自然が失われてしまうと、その貴重さにあとから気づくのはどこの地域でも同じだった。同号から、北杜夫の文章を引用してみよう。
  
 いま私は世田谷松原に住んでいるが、この附近にも昔は――といってもほんの数年くらい前まで――ネズ山と呼ばれる楢と欅の林があった。私の子供のころは鬱そうとし、涯が知れないようにも思われた。数年前までは、それでも林の形を残していたが、つい先ごろ行ってみると、完全に住宅地となってしまっている。/むかし、私の家の本家が、このネズ山の近所に住んでいた。そこへ遊びにゆくと、同年配くらいの従兄が沢山いたし、ネズ山に虫とりに行くのがまた愉しみであった。
  
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 彼は昆虫採集をはじめると、多くの子どもたちが夢中になるカブトムシやクワガタムシ、トンボ、セミなどはねらわず、しぶいクロカナブンの採集に熱中したらしい。昭和初期の松原では、樹木の幹に黒砂糖を煮て酒を混ぜたシロップを塗っておくと、ありとあらゆる甲虫類が集まってきたようだ。北杜夫は、カブトムシやクワガタムシは友だちに上げてしまいカナブン、特にクロカナブンの採集に明け暮れた。
 わたしの感覚からすると、このカナブンの“趣味”は理解できない。わたしが子ども時代をすごした海辺や付近の里山では、クロカナブンにしろアオカナブンにしろ、ありとあらゆるカナブン類が棲息していたので、むしろカブトムシやクワガタムシのほうが捕まえにくくて貴重だった。
 少年時代の北杜夫(斎藤宋吉)が住んでいたのは、南青山の「青山脳病院」(火災後の分院)近くの自宅だったろうが、下落合ともなんらかのつながりがあったのだろうか? 「落合新聞」を主宰する竹田助雄Click!とは、旧知の間がらのようだが、北杜夫は1927年(昭和2)の生まれであり、1921年(大正10)生まれの竹田助雄とは6歳も年が離れているので、子どものころからの知り合いだったとは考えにくい。
 ただし、北杜夫の自伝的小説である『楡家の人びと』には「目白」が、下北沢から行方不明になった「桃子」がらみの情景として登場している。1964年(昭和39)に新潮社から出版された、北杜夫『楡家の人びと』より引用してみよう。
  
 そして歴史は繰り返された。下田の婆やはそっと運転手の片桐を抱きこんだ。聖子のときと同様、米や野菜をときたま目白の貧相なアパートにとどけてくれた。箱根の山荘は九月十日ころ徹吉が帰京して家を閉じる。彼は汽車で帰る。そのあとに残った炭や米などを――箱根に置いておくとすっかり湿ってしまうので――片桐が車に積んで持って帰ることになっていた。だが片桐は目白にまわり、余り物のすべてを桃子のところへ置いていった。下田の婆やも幾回かアパートを尋ねてきてくれた。
  
 この「目白」が山手線の駅名であり、「アパート」のイメージが下落合だったとすると、戦前から斎藤家と下落合にはなんらかのつながりがあったのかもしれない。だが、1931年(昭和6)8月に下落合へ転居してくる竹田助雄との関係は、以前から佐藤愛子らも参加していた文学サークル「文芸首都」の関連ではないだろうか。佐藤愛子もまた、同人つながりで1967年(昭和42)2月2日の「落合新聞」にエッセイを寄せている。

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北杜夫「ドクトルマンボウ昆虫記」1961.jpg 北杜夫「楡家の人びと」1964.jpg
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 また、1982年(昭和57)出版の竹田助雄『御禁止山-私の落合町山川記-』(創樹社)には、執筆を依頼するために松原の北杜夫邸を訪ねた、次のような記述がある。
  
 「こんな稚ない新聞でわるいんだけど、頼む」/その新聞(落合新聞)を見ながら彼は、/「何かしら書いているんだね」とにっこりし、「みんな、どうしてる」と訊ねた。/「みんなも何かしら書いている」と答えた。SもAも同人誌を主宰し、Kは近代文学によいものを書いた、などと話した。原稿は四枚書いて欲しいと頼んだ。/「どういうことを書いたら、いいかな」/私は“落合秘境”のことを話した。もう、何人もの人に打明けたと同じことを、北杜夫にも気恥かしそうに話した。(カッコ内引用者註)
  
 1933年(昭和8)に保高徳蔵がはじめた、文芸誌「文芸首都」での北杜夫や佐藤愛子とのつながりが、戦後も途切れずにそのままつづいていたのだろう。
 さて、北杜夫は子どものころに虫を熱心に観察・分類することは、大人になる前の観察眼を養う成長過程であり、大人になってからあらゆるものを観察し分類する思考へと結びつく“原体験”だと書いている。「落合新聞」の同エッセイより、再び引用してみよう。
  
 少年時代のこうしたほしいままの虫への熱中は、多くの場合跡方(ママ)もなくさめていってしまうものだ。それはそれでよいことだろう。ただ、彼らは彼なりに、なんらかのものを――たとえ追憶の一片なりとも――掴んでゆく。/もう少し進んで、たとえば樹液にくる蝶と花にくる蝶を区別するようになる。蛾の中で、どんなものが樹液にくるか知るようになってくる。これは自然観察の第一歩である。なにも虫に限ったことではない。何者かを観察し分類するという業の、それは虫の姿を借りた芽生えなのである。
  
 わたしは昆虫採集をするとき、それほど虫たちを細かく観察し分類していた憶えはない。夏休みの宿題で、標本にする虫の名前を調べるときは、確かに図鑑や資料類には当たるけれど、ことさら意識して頭の中に“分類系統”図を描いた記憶がないのだ。どこにいけば、どのような虫が棲息していて捕まえられるかは研究したけれど、それは虫を捕まえるという行為自体が楽しいからであり、スリリングな感覚を味わえるからにほかならない。
北杜夫「雑木林の虫」.jpg
チャドクガ.JPG
 それが大人のいまになって、「何者かを観察し分類するという業」のベースになっているかといわれると、ほとんど役に立っていないのではないだろうか。むしろ、虫たちがたくさんいる濃密な環境の中ですごした子ども時代は、観察や分類といった理性的なプロセスの形成などではなく、情緒的かつ感性的な精神面を養い成長させるのに不可欠な、かけがえのない時間だったように感じるのだ。

◆写真上:下落合の坂道で、このような環境と水辺がないと虫は棲息しにくい。
◆写真中上:ともにヤンマを代表するトンボで、オニヤンマ()とギンヤンマ()。オニヤンマは、子どもが通った落合第四小学校Click!の教室へ飛びこんできたこともある。ともに、「新・理科教材データベース」Click!より。は、ベランダへよく飛びこんでくるミンミンゼミ。網戸へたかるようになると、そろそろ寿命が尽きるころだ。
◆写真中下は、人をあまり警戒しないシオカラトンボ♀(ムギワラトンボ)。下落合には、人懐っこいミヤマアカネも多い。中左は、1961年(昭和36)出版の北杜夫『ドクトルマンボウ昆虫記』(中央公論社)。中右は、1964年(昭和39)出版の北杜夫『楡家の人びと』(新潮社)。は、1924年(大正13)に焼失した南青山の「青山脳病院」全景。
◆写真下は、1963年(昭和38)8月11日の「落合新聞」より。は、周辺に虫が多いとマイナス面もある。緑が濃い森の中で遊び、まんまとチャドクガの毒針毛にやられた左腕。2週間ほど消えなかったが、聖母病院Click!の皮膚科に診せたら“悪い病気”だと思われたのか、女医さんが気味悪がってあまり近づかなかった。ww

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松下春雄の「下落合風景」だろうか? [気になる下落合]

松下春雄「風景」1927.jpg
 松下春雄Click!の作品には、どこの風景を描いたのかわからない画面が何点か存在している。それらの作品タイトルは、単に『風景』とつけられて場所の特定がなされていない。なにか特徴的な建物や地形が描かれていれば、比較的に場所の特定は容易だし、当時の松下春雄Click!はこんなところまで写生しに歩いていたのか……と、その活動エリアも透けて見えてくるのだけれど、いくら眺めても思い当たる場所が見つからない作品がある。1927年(昭和2)に制作され、『風景』と名づけられた冒頭の画面もそのひとつだ。
 1926年(大正15)から1927年(昭和2)にかけての当時、松下春雄Click!が住んでいたのは下落合1445番地に建っていた鎌田方Click!の下宿だ。いまだ独身の時代で、淑子夫人Click!とは結婚していない。この時期、盛んに描いていたのは佐伯祐三Click!と同様に「下落合風景」Click!であり、中でも目白文化村Click!と西坂の徳川義恕邸Click!は何度かモチーフに選んで繰り返し制作している。また、ときに椎名町駅から武蔵野鉄道Click!に乗って出かけたのだろう、豊島園Click!の風景作品も何点か見ることができる。
 豊島園の作品として確認できるのは、まず1926年(大正15)制作の『愉しき初夏の一隅』が挙げられる。同園にある洋式庭園の中心に設けられた音楽堂を背景に、子どもたちが遊具で遊ぶ情景を描いたものだ。また、翌1927年(昭和2)になると、ストレートに『豊島園』とタイトルされた2点の風景作品が残されている。さまざまな花々が咲き乱れる中を、ふたりの女の子が歩いている光景だ。ふたりの少女は、特にモデルがいるわけではなくイメージなのだろう、徳川邸のバラ園を描いた作品(『徳川別邸内』Click!)や、目白文化村の第一文化村水道タンクを描いた作品(『五月野茨を摘む』Click!)にも、同じようなコスチュームで登場している。いずれの作品も、水彩で描かれたものだ。
 このころの松下作品は、いまだ水彩がメインであり油彩作品はまれに見られる画面だった。そして、冒頭の1927年(昭和2)に制作された『風景』は、当時ではめずらしい油彩の画面だ。この時期に見られる表現の流れからとらえると、この画面は下落合か豊島園のどちらかにありそうな風景を描いたもの……と考えたくなる。だが、そのどちらにも思い当たる描画ポイントがないのだ。
 画面を観察すると、まず左手前の妙な建物が目につく。コンクリートらしい質感で建てられた、2階建てらしいモダンな建築なのだが、大小の煙突が2本、平坦な屋根を突き破って空へ伸びている。どことなく病院か工場を思わせる風情だが、きわめて特徴的でめずらしい建築だ。松下春雄は、かなり高い位置から見下ろすように家々を描いており、画面に描かれた家は西洋館が多いように見える。遠景にとらえられた、おそらく下見板張りとみられる緑色の壁面をした洋館や、赤い屋根にベージュの外壁をした西洋館は、まるで目白福音教会Click!の敷地内に建てられた、2棟の宣教師館Click!のようなデザインだ。また、中央に描かれたモダンなデザインの住宅は、第二文化村から下る振り子坂の途中に建っていた「モダンハウス」Click!のようなデザインをしている。
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 画面の地形は、手前の崖線から急激に落ちこんでいるが、右手前方に向かって再び盛り上がっているように見える。つまり、見下ろしている家々は、南に向かって浅い谷間のように窪んだ地勢に建っているようだ。光線は左寄りの背後から射しており、家々の屋根の向きを考慮すると左手が南東、または南の方角になりそうだ。陽射しは比較的強く、太陽が傾いた夕方のようには見えない。どこか下落合にありそうな風景に見えるけれど、1927年(昭和2)現在でこのような家々や地形は、山手線が走る線路際の東端から中井御霊社Click!のあるバッケClick!の西端まで、思い当たる場所が見あたらない。
 そもそも下落合の西部には、いまだ住宅の数がきわめて少ない昭和最初期の作品だ。だから、比較的家々が数多く建ち並ぶ下落合の東部から中部にかけてを疑ったのだが、この画面が描かれてから9年後、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を仔細に観察しても、似たような地形の箇所は発見できるが、このような配置で家々が建ち並ぶエリアは存在していない。また、コンクリート建築と思われる屋根から、煙突が2本突き出ていた家の伝承も、わたしは聞いたことがない。これほど特徴的な建物なら、どこかのエピソードに登場してもよさそうなのだ。
 さらに、わたしは豊島園周辺の風景を疑った。この時期、松下春雄は豊島園を頻繁に訪れているようであり、同園の南側には旧・米沢藩(上杉家)の人々が集まって結成した「城南住宅組合」が、1924年(大正13)2月から豊島城跡(のち豊島園)の南側へ「城南田園住宅」Click!の造成をはじめていたからだ。だが、その住宅街をいくら見まわしても、屋根から煙突が2本突き出た家や、描かれたような西洋館群の家並みを確認することができないし地形も一致しない。しかも、大正末の郊外住宅地だった城南田園住宅だが、西洋館よりもどっしりとした日本家屋が目につく街並みだった。
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 もうひとつ、松下春雄には不思議な作品が残されている。周囲を木々に囲まれた中に、突如として辰野金吾Click!が設計したような、おそらくレンガ造りの巨大な西洋館がポツンと描かれている作品だ。1926年(大正15)制作の『風景』と題された水彩作品だが、このような情景も下落合には存在しない。最初は、第一文化村の東側に建っていたレンガ造りの大きな箱根土地本社のビルを疑ったが、同社に尖塔は存在していないし周囲の情景が明らかに異なっている。手前に1本の煙突のみが描かれているが、煙突を必要とする建物自体が存在しないのも妙な光景だ。このような建築は、当時の豊島園の園内とその周辺にも存在していない。
 念のため、松下春雄が旅先でスケッチした風景ではないかと考え、長女にあたる山本和男様・彩子様Click!夫妻の手もとに保存された昭和初期の4冊のアルバム類を参照しても、これらの画面に見あう風景は発見できなかった。アルバムには、やはり独身時代よりも淑子夫人Click!と結婚してから撮影したもののほうが多く、旅先の写真も出身地の名古屋をはじめ、安孫子や伊勢・志摩と限られたものしか残されていない。
 松下春雄は、モチーフに選んだ情景をほぼそのまま画面に写す画家だと思われ(イメージとして添加されるふたりの少女は別にして)、たとえば松本竣介Click!のように街角を切り取って自在にコラージュし、またはデフォルメしつつ“構成”しなおして表現する画家ではないはずだ。でも、ときにそのような試みをしていなかった……とはいいきれない。特に大正末から昭和初期にかけ、水彩から油彩へと向かう表現の過渡期であったことを前提に、また冒頭の『風景』(1927年)がめずらしく油彩表現であることを考えあわせると、可能性がゼロとはいえないのではないだろうか。あるいは、わたしの知らない松下春雄の出身地、つまり名古屋の風景を写したものだろうか?
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 もし1927年(昭和2)制作の『風景』が当時の下落合の実景だとすれば、きわめて短期間しか存在しなかった街並みではないか?……という可能性も、わずかながら残っている。同年にはじまった金融恐慌は、翌年から世界的なレベルでの大恐慌へと向かい、下落合に建っていたオシャレな家々もその影響を受けたのか、街並みが少なからず変化していく時代でもあるからだ。

写真上:1927年(昭和2)に制作された、キャンバスに油彩の松下春雄『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)に豊島園で描かれた松下春雄『愉しき初夏の一隅』。は、昭和初期に作られた豊島園の音楽堂から洋風庭園あたりの人着絵はがき。は、昭和初期に斜めフカンから撮影された豊島園と城南田園住宅。
◆写真中下は、1927年(昭和2)に描かれた松下春雄『豊島園』。は、1926年(大正15)ごろに制作された描画場所が不明な『風景』。
◆写真下は、1922年(大正11)7月に撮影された本郷洋画研究所時代の松下春雄。は、1928年(昭和3)4月15~19日に愛知県商品陳列所で開催された第5回サンサシオン展の記念写真。前列左から遠山清・松下春雄・不詳で、後列左から鬼頭鍋三郎Click!・不詳・加藤松三郎。は、1929年(昭和4)ごろに制作された鬼頭鍋三郎『風景』。まだ葛ヶ谷(西落合)Click!へアトリエを建てていない時期だが、下落合1385番地に住んでいた松下夫妻の新居には顔を見せていたと思われ、「下落合風景」Click!の可能性がある1作。


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「大和魂」で「聖戦」の佐藤化学研究所。 [気になる下落合]

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 下落合に化学研究所を開設し、科学とキリスト教の教義を強引に融合させようとした人物がいる。1924年(大正13)に大学の教授を辞職し、下落合482番地へ佐藤化学研究所を設立した工学博士・佐藤定吉だ。徳島県出身の佐藤定吉は、東京帝国大学工科へ入学したあと本郷の弓町本郷教会で洗礼を受け、1912年(明治45)に同大学を卒業すると、翌々年に東北帝国大学に勤務しはじめている。
 佐藤定吉が佐藤化学研究所を創立したのは、1923年(大正12)ごろとみられ、1924年(大正13)3月に東北帝国大学の教授を辞める以前から、下落合で起業していたらしい。なぜなら、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!のとき、同研究所の薬品類の容器が破壊され化学反応を起こして発火し、落合地域ではほとんど見られなかった火事騒ぎを起こしているからだ。この火災は拡がらずに、ボヤで消し止められている経緯は、以前に書いた同志会Click!の物語でご紹介Click!している。
 また、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!には、同研究所が「佐藤化学工業研究所」のネームで採取されている。そして、同年制作の「大日本職業別明細図」の裏面には、同研究所の小さなマス目広告が掲載されているが、そこでは「佐藤化学研究所」となっているので、後者が正しい名称だったのだろう。翌1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にも、下落合482番地に同研究所が採取されている。以降、佐藤定吉は1945年(昭和20)4月の空襲まで下落合に住んでいたとみられるが、『落合町誌』(1932年)の「人物事業編」には、残念ながら収録されていない。また、ほかの地元資料でも、佐藤定吉について触れた記述をほとんど見かけない。
 佐藤定吉が科学者としての生き方から、急速に宗教者への道を歩みはじめたのは、1924年(大正13)8月の五女の死去がきっかけとなったようだ。1926年(大正15)に、佐藤化学研究所内へ「産業宗教協会」を設立して、月刊雑誌「科学と宗教(Science Religion)」を発行しはじめている。つづいて、1927年には「イエスの僕(しもべ)会」運動を組織して、娘の死から“召命”を受けた「全東洋を基督へ」の布教活動を実践している。彼の布教活動は、日本全国をはじめアジア各地や米国にまで及び、精力的な布教活動をつづけていく。さらに、1928年(昭和3)からは「科学と宗教」に加え、月刊誌「晩鐘」を刊行している。
 室町時代末期に来日した宣教師が聞いたら、泣いて喜びそうな「全東洋を基督へ」のスローガンだが、佐藤定吉の言葉を1929年(昭和4)に発行された「科学と宗教」4月号から引用してみよう。ちなみに、同誌は定価20銭で全国の会員へ通信販売されている。
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 是迄我々が考へ来つた光は、通常二種類に分けられる。即ち我々の視覚に映ずる普通の可見的光と、又紫外線、赤外線、X光線の如き不可見の光とである。然しながら光は単に視覚や触覚で知り得られるもののみではない。其処には第三の種類のものがある。即ち我々の心のみに感ずる霊の光である。我々が此の光を暗い心に感ずる時、心の中に或る明るさと温さとが与へられてくる。そして其の生活全体が何となく明るい光の中に包まれてゐる様に感ずる。此の光は物理学的には未だ説明されてゐないけれども、我々の体験は明かに是を立証する。(中略) 目には見えず、手には触れ得ないけれども、心に明るさと温さとを感ぜしめる此の光―霊光―は、我等の日常生活に於いて常に経験する事である。我々が親しい者と会つた時は、例へ暗黒の中でも心の中には明るさを感じ、温さを覚えてくる。これは明かに我々の霊に感じて其の生活全体を明るくする霊光の存在する事を意味してゐる。(中略) 宇宙一切の森羅万象は、神の霊波の一元より出づる特殊顕現相なる事を発見するであらう。即ち我々の心に感ずる霊的波動が、一切の根源になつてゐる事が察せられる。
  
 「暗闇で友人に出会ったら、誰だって安心してホッとするだろ!」と、誰かさんのような突っこみを入れてはならない。そういう人は、「イエスの僕会」には入れないどころか、「霊光」や「霊波」の存在がわからない迷える人にされてしまう。
 引用箇所に限らず、佐藤定吉の文章は“論理の飛躍”が多くてついていけない。だが、彼の周囲には若者たちを中心に、数多くのシンパが集まってきていたようだ。これらの若者たちとともに、佐藤定吉は汽車に揺られながら全国を布教行脚することになる。行く先々では、「科学と宗教」の購読者=会員が鉄道駅まで出迎え、彼は学校や各種施設などで講演会をこなしていく……という布教スタイルができあがった。
 「科学と宗教」には、その布教行脚の様子が日記形式で記録されている。上掲の同誌4月号には、外国への布教活動は「聖戦記」、国内のそれは「伝導随行記」といったタイトルで、信者たちのレポートが掲載されている。その中から、目加田光という人物が書いた文章を引用してみよう。
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 別れは惜しい、併し聖戦に出陣する若武者の胸はたゞ歓喜に慄く。出陣の快味若武者にこそ特別に恵まれる。緋縅しの鎧に戦場を駆け巡つたのは戦国時代の夢ではない。人々よ視よ、我が全国に居る同志の若武者を。/彼等の弦を放れ飛ぶ石打の征矢を!/彼等の美事な太刀筋を!/身命を屠して祖国の救ひの為に! 名か、我れ之をとらじ。地位か、我が欲するところならず。只管に祖国の救を祈りての力戦を人々よ知らざるや。自分の魂は長崎へ飛ぶ。八月以来孤闘無援猶死守して斃れざる同志の上に『今暫く待て、先生と俺とが行くぞ!偕(とも)に偕にやらうぞ』『斃れるなら俺達も偕にだ、勝利を祝ふ時まで、常に主偕に在り、必勝だ、暫く支へよ』(中略) 凡てを御意のまゝ為し得給ふ神よ。此の更生を我が祖国に与え給へ。三千年の歴史は老ひぬ、けれども三千年貫いて流れる大和魂を、物質文化より祓いて燃え立たせ給へ、東洋の島帝国、特殊の使命はその上にあり。愛と義と堅く執りて一点の汚れない光栄ある歴史の我が祖国よ、我々の時代に祖国危しとの声を聞かば何の面目あつてか地下の故老に見えん。/神よ我らの祈りに聞き給へ。
  
 伝導レポートには、まるで今日のアルカイダやISのプロパガンダのような熱狂的な文章が踊っている。そこからは、多くのキリスト教を信じる人々から感じる敬虔な謙虚さや柔軟さが、みじんも伝わってこない。彼らは、自身が信じるキリスト教のためには、斃れるのも辞さず情熱的かつ挺身的な布教活動を展開し、「全東洋」のキリスト教圏化へ向けてエキセントリックな「聖戦」を闘っていたのだろう。
 すでにお気づきの方も多いと思うが、「全東洋」や「聖戦」、「大和魂」、「帝国」などという言葉が臆面もなく踊る宗教(思想)は、のちに破滅した大日本帝国の「大東亜共栄圏」を叫ぶ、軍国主義の「亡国」思想ときわめて近似している。案のじょう、日中戦争が激化するにつれ、佐藤定吉と彼の信者たちはキリスト教徒にもかかわらず、容易に大日本帝国の「皇国主義」やファシズムに迎合・一体化し、「イエスの僕会」を解散して「皇国基督会」とまで名乗るようになった。
 戦時中は、ほとんどのキリスト教団体が大なり小なりファシズム政府や軍部からの迫害、拡大する戦争に抗して、憲兵隊Click!特高警察Click!から目の敵にされ弾圧を受けつづけたのに対し、「皇国基督会」はそれとは対照的な活動をつづけ、「大東亜“教”栄圏」でもめざしていたものだろうか。
 科学はもとよりキリスト教の「神」の存在と、「キリスト」の教えやその事蹟と、「現人神」である天皇と、国家御用達の宗教である「伊勢神道」と、わけのわからない規定不能な「大和魂」や「神風」などと、どのような折り合いをつけて科学的かつ宗教的な整合性や統一性を保とうとしていたものか、前述の「科学と宗教」から類推するならば、心の「霊光」と宇宙の「霊波」のなせるワザだったのかもしれない。
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 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、下落合482番地の佐藤化学研究所(皇国基督会本部)は全焼・壊滅した。この時点で、佐藤定吉の熱狂的な伝道活動はついに終焉をみたのだろう。戦後、他のキリスト教の団体や信者たちからの総批判をあびる以前に、同研究所も皇国基督会も期せずして雲消霧散しているようだ。

◆写真上:下落合482番地にあった、佐藤化学研究所(佐藤定吉邸)跡の現状。
◆写真中上上左は、1925年(大正14)の「出前地図」(北が下)に収録された同研究所。上右は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同研究所。向かいの長坂長邸Click!は駿豆鉄道取締役で、少し前まで箱根土地の堤康次郎邸Click!だった。は、1925年(大正14)作成の「大日本職業明細図」裏面に掲載された同研究所の広告。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる佐藤定吉邸(佐藤化学研究所)。
◆写真中下上左は、1929年(昭和4)に産業宗教協会から発行された「科学と宗教」4月号。上右は、同号の裏面に掲載された佐藤定吉の著作広告。下左は、1924年(大正13)に厚生閣書店から出版された佐藤定吉『人生と宗教』。下右は、1926年(大正15)に産業科学協会から刊行された同『生命の本流』。
◆写真下は、1925年(大正14)の同志会名簿(第1区)に掲載された佐藤定吉。中左は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された空襲直前の佐藤化学研究所。中右は、同年4月13日夜半の空襲後に撮影された同研究所跡。コンクリート建築だったらしく、全焼しているようだが外壁が残っているのが確認できる。は、佐藤化学研究所とほぼ同時期に下落合へ設立された池田化学工業Click!の広告写真。豊菱製氷工場Click!側の建屋から北東を向いて撮影しているとみられ、奥に写っているのは線路土手を走る4両編成の山手線。西武鉄道による土地買収が進んだのか、池田化学工業の北側は空き地がつづいているのがわかる。


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薔薇の夜を旅する中井英夫。 [気になる下落合]

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 目白学園の斜向かいにあたる下落合4丁目2123番地の池添邸は、1950年代に入ると庭の西側に“離れ家”のような別棟を建設している。もともと1,000坪前後はありそうな敷地には、母家の東南北側に広大な庭が拡がっていたが、東側の400坪ほどの土地を母家の敷地から切り離し、借家を建てて人に貸そうとしたものだろうか。この借家には、1958年(昭和33)に荻窪から転居してきた中井英夫Click!が住むことになり、『虚無への供物』Click!はここで執筆されることになった。
 下落合4丁目のこの界隈は、山手空襲Click!の被害をほとんど受けておらず、戦前からの家々が戦後まで建ち並んでいたエリアだ。この池添邸の離れ家は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)の空中写真には見あたらず、1957年(昭和32)の写真で初めて確認できるので、おそらく建てられたのは1950年(昭和25)すぎごろではないかとみられる。400坪の敷地をもつ離れ家には、南北に大きな樹木を抱えた広い庭園が拡がり、中井英夫は各種のバラなどを栽培する「植物園」を造成することになる。
 「植物園」といっても別に公開していたわけではなく、池添邸の長い大谷石の塀がつづく東寄りの一画に開いた小さめの門に、そのようなプレートを掲げていたのだろう。「中井」の表札があったかどうかは不明だが、当時の東西に長くつづいていたであろう大谷石塀の一部は、いまでも池添邸の前で見ることができる。1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」には、中井英夫の名前ではなく「植物園」というネームが採取されている。当時の様子を、中井英夫『薔薇の獄-もしくは鳥の匂いのする少年』に書かれたイメージから引用してみよう。
  
 高い石塀がどこまでも続き、いっそうあてのない迷路に導かれた気持でいるうち、小さな潜り戸の傍で少年は「ここだよ」というようにふり返った。その少しのたゆたいには、もし表門まで行くのならこの塀添いに廻ってどうぞというような態度が見えたので、惟之はためらわず後について戸を潜った。そこはいきなりの薔薇園で、遠く母屋らしい建物の見えるところまで、みごとな花群れが香い立つばかりに続いていた。(中略) しかも庭は薔薇園ばかりではなかった。栗の大樹のある広場には、その花の匂いが鬱陶しいほどに籠って、朝ごとに白い毛虫めいて土の上に散り敷く。グラジオラスの畑もあって、数十本の緑の剣が風にゆらぎ、周りには春から咲き継いでいるらしいパンジーが、半ば枯れながらまだ花をつけている。ポンポンダリヤは黄に輝き、サルビヤが早々と朱をのぞかせ、咢あじさいはうっすらと紅を滲ませているそのひとつひとつを見廻ることも園丁に課せられた仕事であった。
  
 中井英夫が住んでいた当時、1966年(昭和41)になると離れ家の中井邸をサンドイッチにするように、北側に1棟と南側に2棟の家が建てられている。この3棟の住宅は、同年に行なわれていた池添邸母家の建て替えによる一家の仮住まい家屋とみられ、新邸工事が終わるとともに3棟とも取り壊されている。中井英夫の「植物園」は、母家のリニューアル工事にともなう仮住まい家屋の建設で、かなりの縮小を余儀なくされただろう。
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 中井英夫は、代々植物学者の家に生まれたため、植物には昔から親しんでいた。ただし、バラのような華やかな花は自宅の庭にはほとんど植えられておらず、唯一の例外は深紅色のクリムゾン・ランブラー(庚申バラ)が咲いているのみだったらしい。中井少年は、本郷の動坂近くにある園芸場へ通いながら、バラの美しさに魅了されていった。
 『虚無への供物』を執筆するにあたり、下落合4丁目2123番地の400坪もある庭で、初めて自らの手で各種のバラの栽培に挑戦したと書いている。1981年(昭和56)に書かれた、中井英夫『薔薇の自叙伝』から引用してみよう。
  
 そのころ住んでいたのは新宿区ながら八百坪の庭があり、その半分を自由にしていいという大家の好意で、さまざまな栽培実験が出来たのはありがたかったが、中の一本を心ひそかに“ロフランド・オウ・ネアン”と名づけて大事にしていたのに、肥料のやりすぎか葉ばかり繁ってブラインドとなり、おまけにその長編が講談社から出版された昭和三十九年の秋、私の留守に台風でみごとに折れて枯れてしまった。その運命が暗示するように、長編の方もその後三年ほどは黙殺されたままだった。/だが昭和四十二年、杉並区永福町に引越す直前、ふいにある女性が身近かに現われてから風向きが変わり、薔薇との関わりもまた深くなった。そのころの私は小説の注文もないまま、とある大手の出版社の百科事典の編集を手伝い、傍ら一斉に開校したコンピューター学校の夜学に通ったりしていたのだが、その年の二月二十九日、出版社の受付へ巨きな薔薇の花束が届けられた。
  
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 この女性が、彼の作品のいくつかに顔を見せる「白人女」の「ヴェラ」だった。彼女は、バラの栽培にも詳しく、当時開園したばかりの二子玉川園「五島ローズセンター」へ、中井英夫とともに訪れているようだ。
 小学生だったわたしも、1960年代半ばのほぼ同じころ二子玉川園には何度も出かけているが、五島ローズセンターの記憶はない。もっとも、当時は盛んに開催された「恐竜展」や「怪獣展」などの特別展や遊園地がめあてだったので、クタクタに疲弊した親たちは五島ローズセンターまで足をのばす気にはなれなかったのだろう。1971年(昭和46)に書かれた中井英夫『薔薇の夜を旅するとき』には、五島ローズセンターが解体されて東急自動車学校になる直前、ヴェラとともに同園を訪れる情景が描かれている。
 狂おしいまでにバラ好きだった、中井英夫の妄想は止まらない。ついには、TANTUS AMOR RADICORUM(なべての愛を根に!)というワードとともに、自分の身体を土中に埋めてバラの養分(供物)にするという幻想にまでとり憑かれることになる。上掲の五島ローズセンターが登場する、『薔薇の夜を旅するとき』(1971年)から引用してみよう。
  
 外側から薔薇を眺めるなどという大それた興味を、男はもう抱いてはいなかった。暗黒の腐土の中に生きながら埋められ、薔薇の音の恣な愛撫と刑罰とをこもごもに味わうならばともかく、僭越にも養い親のようなふるまいをみせることが許されようか。地上の薔薇愛好家と称する人びとがするように、庭土に植えたその樹に薬剤を撒いたり油虫をつぶしたり、あるいは日当りと水はけに気を配ったりというたぐいの奉仕をする身分ではとうていない。(中略) 将来、それらのいっさいは、精巧を極めたアンドロイドが、銀いろの鋼鉄の腕を光らせながら無表情に行えばよいことで、人間はみな時を定めて薔薇の飼料となるべく栄養を与えられ、やがて成長ののち全裸に剥かれて土中に降ろされることだけが、男の願望であり成人の儀式でもあった。地下深くに息をつめて、巨大な薔薇の根の尖端がしなやかに巻きついてくるのを待つほどの倖せがあろうか。
  
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 大正時代から、下落合にはバラ園があちこちに存在していた。すぐに思い浮かぶのが、西坂の徳川邸Click!バラ園Click!や翠ヶ丘のギル邸Click!(のち津軽邸Click!)の庭、箱根土地Click!による不動園Click!東側のバラ庭Click!などだ。学生の中井英夫がそれを知っていたら、もう少し早く下落合に住みついていたかもしれない。

◆写真上:フランス産の「ブルームーン」と思われるバラの花。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる池添邸。は、1957年(昭和32)の写真で母家の東側に離れ家が確認できる。中井英夫は翌1958年(昭和33)、この離れ家へ転居してくることになる。は、1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」で、下落合4丁目2123番地に「植物園」のネームが採取されている。
◆写真中下:中井英夫が住んでいた時期に撮影された、1963年(昭和38)の空中写真()と1966年(昭和41)の同写真()。1966年(昭和41)の写真では池添邸の母家がリニューアル工事中で、中井邸の周囲には仮住まいとみられる家屋が3棟増えているのがわかる。は、1975年(昭和50)の空中写真で元・中井邸がいまだ建っているのがわかる。
◆写真下は、中井邸跡の現状。中左は、1981年(昭和56)にバラの短篇ばかりを集めた中井英夫『薔薇への供物』(龍門出版)。中右は、1950年代の撮影とみられる中井英夫。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる二子玉川園「五島ローズセンター」。


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