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アパート「目白会館」はふたつあった? [気になる下落合]

目白会館跡.JPG
 これまで、第三文化村Click!の下落合1470番地に建っていた「目白会館・文化アパート」Click!については、1931年(昭和6)に同アパートへ引っ越してきた作家・矢田津世子Click!や、下落合623番地にあった自宅Click!の基礎がシロアリにやられて土台の再構築のため一時的に仮住まいをしていた洋画家・曾宮一念Click!とその家族たち、独立美術協会の洋画家・本多京Click!、落合地域を転々としていた作家・武田麟太郎Click!などとともにご紹介してきた。
 そして、もうひとり龍膽寺雄(龍胆寺雄/りゅうたんじゆう)が「目白会館」に住んでいたことを、先日のコメント欄でmoicafeさんClick!よりご教示いただいた。さっそく教えていただいた、1979年(昭和54)に昭和書院から出版されている龍膽寺雄『人生遊戯派』を参照してみた。同書の中で、「目白会館」という名称は随所に登場するが、同アパートの様子が詳しく記されているのは「私をとりまく愛情」と「高円寺時代」の2編だ。龍膽寺雄が下落合に住んだのは、「高円寺時代」によれば1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまでの2年間ということになる。
 すなわち、1928年(昭和3)ごろといえば、第三文化村の「目白会館・文化アパート」は竣工して間もないできたてのころだと思われ、龍膽寺雄は新築のアパートに引っ越していなければおかしなことになる。ところが、龍膽寺が借りた部屋には先住者の遺物があって、彼が入居したのはそのあとなのは文章からも明らかだ。また、彼は「目白会館」のことを民営アパートとしては、東京で「確か最初のもの」と書いている。1928年(昭和3)ごろに建設されたとみられる、第三文化村の「目白会館・文化アパート」が東京初の民営アパートだったとは考えられない。民営(個人経営)のアパートは、大正期から東京府内ですでに建設されていたはずだからだ。換言すれば、そこそこ“歴史”が感じられるアパートに龍膽寺は入居した……と解釈することもできる。
 第三文化村に建っていた目白会館・文化アパートと、龍膽寺雄が書く「目白会館」の様子が一致しないのだ。以下、『人生遊戯派』から引用してみよう。
  
 目白会館は、東京で民営のアパートとしては、確か最初のもので、かれこれ二十室はあるコンクリートの二階建てだった。共通の応接間が二階の中央にあり、その隣りの、六畳と四畳半位の控えの間つきの二間を、私は借りた。/階下に広い食堂があり、別に、共同浴室や玉突き室、麻雀室が付属し、二階の屋上は庭園風になっていた。部屋が満員になったので、二階の中央の共通の応接室を、そのまま洋間として、その頃目白の川村女学院で絵の先生をしていた洋画家の佐藤文雄が、そこに住みついてしまっていた。私の処女出版の、改造社版『アパアトの女たちと僕と』に、美しい装釘をしてくれた。/この目白会館の管理人がも下妻の旧藩主の血筋にあたる井上某だったのは、名乗りあってそのことを知って驚いた。一万石の殿様の裔だから、子爵のワケだったが、窮乏し零落して、下館藩主の石川のように、華族の礼遇を停止されていた。先代のほうの、柳原家から妻を迎えて、一緒に目白会館の粗末な管理人室に所帯を持って住んでいたが、こちらは、柳原二位局の家系だから、天皇家の側近のはずで、有名な柳原白蓮なども、近い血筋のワケだった。いかにもそういう家柄のお姫さまといった、気品のある、弱々しい感じの美しい女性だった。
  
 もし、龍膽寺雄の記憶に誤りや錯誤がないとすれば、これは第三文化村西端の下落合1470番地に建っていた、のちに矢田津世子や武田麟太郎、本多京たちが住み、また曾宮一念が仮住まいすることになる目白会館・文化アパートのことではなさそうだ。どこか、同じ下落合エリアの近くにあった別の「目白会館」のことだろう。
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 まず、第三文化村の目白会館は、1938年(昭和13)作成の「火災保険図」(火保図)によれば、屋根はスレート葺きで外壁が防火仕様(おそらくモルタル塗り)の木造2階建てのアパートで、鉄筋コンクリート建築ではない。また、空中写真にとらえられた目白会館を観察すると、やや鋭角に尖がった三角屋根の造りをしており、その傾斜面には2階の各部屋の窓が突きだした屋根窓(ドーマー)が並び、どう見ても屋上庭園は存在していない。さらに、貸部屋が20室(ワンルームではなく6畳+4畳半の2室構成の部屋もあった)のほか、共有部分の応接室やホール、食堂、キッチン、各種ゲーム室、浴室などを入れて想定すると、第三文化村に建っていた目白会館よりも少し大きめな建物を連想してしまう。下落合1470番地の目白会館と、龍膽寺雄が住んでいた「目白会館」には、少なからぬ齟齬をおぼえてしまうのだ。
 つづけて、『人生遊戯派』の「私をとりまく愛情」から引用してみよう。
  
 目白会館で最初に書いた作品が、『アパアトの女たちと僕と』だった。これらはもちろんフィクションだが、慶応(ママ)の医学部の学生が主人公で、その学生々活は、経験した通りのことを書いた。友人の藤井真琴などがモデルになった。(中略) 目白会館は、下落合にあったので、そこから目白通りを抜けて山手線の上を通り、学習院や目白女子大の前を通って目白台の坂を降りると、そこに佐藤春夫の家があるので、一週間に一遍は、佐藤春夫の家を訪ねた。/佐藤春夫は『放浪時代』のような作品を十篇書いたら、君は文豪だョ、と褒めてくれたが、『アパアトの女たちと僕と』のほうは、谷崎潤一郎ほどは買ってくれなかった。
  
 これを読むと、どう見ても「目白会館」は下落合の町内に建っていなければならず、目白通りを東へと歩き「目白台の坂」へ、すなわち広大な旧・山県有朋邸(元・藤田邸→現・椿山荘Click!)前から新たに造成されて乗合自動車(バス)Click!の走る通りとなっていた、幅の広い新・目白坂へと抜ける様子が描かれている。佐藤春夫Click!の家は、下落合側から向かって新・目白坂を左へ折れた突き当たり、小石川区関口町207番地(現・文京区関口3丁目)に建っていたのは、こちらでも何度かご紹介Click!済みだ。
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 龍膽寺雄が、「目白会館」に住んでいたときに執筆した『アパアトの女たちと僕と』は、残念ながら「目白会館」と思われるアパートの描写がなく、新宿三越のビルがすぐ近くに見とおせる、新宿通りの裏手に建っていたアパートが舞台となっている。
 さて、コンクリート造りで屋上庭園のある2階建てのアパートで、2階の中央部分にある応接間には洋画家の佐藤文雄が住みつき、目白通りもほど近い龍膽寺雄が住んでいた「目白会館」は、はたして下落合のどこにあったのだろうか? もう少し同書の、今度は「高円寺時代」から引用してみよう。
  
 目白会館では、共通の応接間は、止宿人が多過ぎてはみ出た絵描きの佐藤文雄が住みついて占領したので、なくなってしまったが、その他、玉突き場や麻雀荘があり、食堂も浴室もいっしょなので、よく気が合って、西瓜が盛んに出廻る頃には、西瓜を喰う会とか、八月の十五夜には、月見の会というようなものを、屋上庭園で催したりして、色々楽しい行事があって、管理人夫妻も、アパートの使用人たちといっしょにそれに加わった。
  
 ただし、龍膽寺雄の記憶が複数のアパートメントの思い出と錯綜しており、またコンクリート造りと見えていた意匠が、実はラス貼りモルタル塗りの外壁だったりすると、屋上庭園の記憶を除けば下落合1470番地に建っていた目白会館・文化アパートへ、限りなく近づくことになる。
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 だが、こちらでも以前にご紹介した、目白駅近くの女性が集う文化アパートの写真Click!にも見られるとおり、当時は「目白」を冠した同様の文化アパートが、各大学も近い下落合界隈にはいくつか存在していたと思われる。だから、コンクリート造り(セメント混じりのラス貼りモルタル造りのこと?)で2階建ての、おそらく大正後半に建てられた東京初の民間アパート「目白会館」が存在していても、なんら不自然ではないのだが……。

◆写真上:下落合1470番地に建っていた、目白会館・文化アパート跡の現状。
◆写真中上は、日米開戦直前の1941年(昭和16)の斜めフカンから取られた空中写真にみる目白会館。三角の屋根に、いくつかの屋根窓(ドーマー)が確認できる。は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された同館。は、第2次山手空襲直前の同年5月17日に撮影された同館。目白会館あたりを境に、いまだ第三文化村の家々が焼け残っているのが確認できる。
◆写真中下は、1935年(昭和10)作成の「淀橋区詳細図」に採取された目白会館。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる目白会館。同図の凡例によれば、「スレート葺き屋根で防火対策済みの木造住宅」ということになる。は、昭和初期に撮影された龍膽寺雄と正子(魔子)夫人。
◆写真下上左は、1930年(昭和5)に下落合で書かれた龍膽寺雄『アパアトの女たちと僕と』(改造社)で、装丁は「目白会館」の応接間で暮らしていた洋画家・佐藤文雄。上右は、1979年(昭和54)出版の龍膽寺雄『人生遊戯派』(昭和書院)。は、昭和初期に神田区へ建設された民間アパート「西神田アパート」。鉄筋コンクリート建築のように見えるが、防火仕様のラス貼りモルタル塗装仕上げによる木造2階建てアパート。は、管理人受付から奥へと廊下がつづく玄関ホール。


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生涯を賭けた大賀ハスの種1粒。 [気になる下落合]

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 1951年(昭和26)の3月31日、そろそろあたりが黄昏の雰囲気を漂わせはじめた午後5時ごろ、千葉市の東京大学検見川厚生農場内にあった「落合遺跡」で、当時、中学3年生の西野真理子という生徒が、手のひらに1粒の種子らしいものを載せて大賀一郎Click!のもとへ見せにきた。これが、3000年前の縄文時代にまでさかのぼる、「古代ハス(大賀ハス)」発見の瞬間だった。
 「落合遺跡」の発掘には、近くの花園中学校の生徒たちや建設会社、千葉新聞社、千葉県社会教育課、そして遺跡を抱える東京大学農学部などが協力し、大がかりな調査がスタートしていた。すでに「落合遺跡」からは、縄文期の丸木舟などの遺物が出土していたが、今回の発掘調査は縄文時代の埋蔵文化財を掘り出すのが目的ではなかった。地中に埋もれた、植物の種子を発見しようという試みだった。
 発掘に許された期間は、同年の3月3日から3月31日までのわずか1ヶ月にすぎなかった。だが、関連機関や地域の全面協力にもかかわらず、発掘調査は非常に難航した。「落合遺跡」は、縄文期の丸木舟が出土するような低地にあり、しかも花見川が近く湧水が豊富な地下水脈の上にある遺跡なのだろう、雨が降るとすぐに水がたまって「池」になってしまうからだ。発掘は、常に地下水をポンプで汲み上げながら行われた。そして、「池」の底から掘り出した濡れた土を、少しずつふるいにかけながら種子を探す、気が遠くなるような作業だった。
 3月も終わりになり、「もうやめようや」という声があちこちから聞こえはじめた発掘の最終日、3月31日の日没ぎりぎりになって、西野真理子が「先生、こんなものが見つかりました」と差し出したのが、大賀一郎が必死に探し求めていた古代ハスの種子だったのだ。1粒のハスの種子を探すのに、2,000人の人々が協力し、総予算が当時のおカネでのべ50万円(現代の価値に換算すると1,500万円ほど)もかかっていた。大賀一郎は、自身の財産をほとんど使い果たして、文字どおり破産寸前だった。
 さっそく、協力してくれた当時の東大総長・南原繁Click!に報告すると、「なんぼかかった?」「知らぬ。相当、何万円だ」「いやあ、これ一つ何万円か」という会話が交わされている。下落合702番地に住んでいた南原繁は、帝大における大賀一郎の後輩であると同時に、柏木(現・北新宿1丁目)に住む内村鑑三Click!が主宰した「聖書研究会」Click!の後輩でもあった。大賀一郎の同級生には、下落合1655番地に住んだ安倍能成Click!がいる。戦前、上落合467番地に住んでいた大賀一郎は、近くの下落合に住む旧友たちと交流があったのだろう。
 「落合遺跡」の発掘調査は、ハスの種子が1粒見つかったことにより2週間延長され、つごう3粒の種子が地下6mの土中から発見されている。当初は、地層の様子や土中の温度から約2000年前の種子とされ、「大賀ハス」と名づけられた。ところが、ハスの種子と同じ場所から出土している丸木舟の破片を、米国シカゴ大学原子力研究所へ送って検査したところ、放射性同位元素C14の半減期から換算して3052年前ないしは3277年前の遺物だということが判明した。つまり、同じ地層位置から出土した種子は、約3000年前のものだということが推定された。
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 1965年(昭和40)に、花園中学校で開催された「千葉市花園中学校における『大賀ハス』発掘記念碑完成記念講演」から、発掘直後の様子を引用してみよう。
  
 この三粒が出たときに、私は、ほんとうにはらはらと泣きました。ほんとうに金も使い、労役を使い、もうこれ以上、人間というのは手が出ないんです。(中略) そのときに、一粒出たんです。ああ、この一つ。もしもこれが世に出たらば、こいつは、世界じゅうを震動させる。ほんとうに私は神様に感謝しました。ああ、いま神様は、私に恵みをさずけてくれた。この一つの実に私の全身、全霊を捧げた。そのとき、私は、七十四でございました。ああ、この実一つ。ほんとうに私はこれに一生を捧げたんだ。しかし、この実が出たために、この千葉県検見川は、全世界にその名を知られるだろう。見てみろ。検見川は、全世界に有名になる。この一つのために、と思いました。/それから、ある人が言いました。「これ、死んでるか、生きてるかね」「生きているさ。花は赤いんだよ」「わかりますか」「わかるさ。それがわからぬで、どうする」と言ったんですが、果たして、芽が出ました。花は赤く咲きました。二年たって。今度は、咲くというと、大へんなんです。写真を写しまして、アメリカにいって『ライフ』という雑誌にのりました。全世界にこれが広がりました。
  
 大賀一郎は、内村鑑三の「聖書研究会」へ参加していたことからもうかがわれるように、歌子夫人ともども生涯を敬虔なクリスチャンとしてすごしている。歌子夫人との結婚もまた、内村鑑三が紹介してくれたことによる。発掘から1年後、翌1952年(昭和28)7月18日には3000年前の種子から赤い花が咲き、そのニュースは世界じゅうに配信された。
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 大賀一郎が、上落合467番地の屋敷から府中へ転居したのは戦災がきっかけだった。上落合の家は大きく、庭には広い池もいくつかあったので多種多様なハスを栽培できた。ところが、3000年前の大賀ハスを発見するのに私財のほとんどをなげうったため、府中の家はかなり手狭になっていた。ハスに関するさまざまな実証実験を試みるには、広い池がいくつも必要になる。そこで、近隣の家々の庭へ池を掘らせてもらい、そこに各地のハスを栽培している。1957年(昭和32)に発行された「朝の思想」9月号収録の、大賀一郎『垣根を越えたハスの新池』から引用してみよう。
  
 戦災前、東京の上落合にいたときには、もう少し屋敷も広くあったので、少しは大きな池もつくっていたし、ハスの鉢も五十個ばかりおき、そこでいろいろな実験研究をしていたが、戦災後、この府中にきてからは、庭が小さくなってしまって、しぜん、あまりわがままもいえない自分になったが、私はせめていまあるくらいの池がもう二、三ほしいと思っていた。/ところが、いよいよせっぱつまったときがきた。それは、石川県金沢の持明院にあって、大正十三年二月以来、天然記念物となっている有名な妙蓮の研究をはじめるために、どうしても、もう二、三の池がほしくなったからであるが、どうすることもできないので、いくたびかためらったすえ、ある日曜日の午後、思いきって垣根をへだてたお隣りの富田さんに、重い足をはこんだのである。
  
 上落合の大賀邸が炎上したのは、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲だったろう。空襲に罹災する直前、大賀一郎・歌子夫妻は上落合を離れて疎開している。
 府中での池の「拡張」は、隣家の「富田さん」ばかりでなく、大賀邸の向かいにあたる「向野さん」でも池を掘ってくれることになり、ハスへの陽当たりを考えて屋敷林の伐採までしてくれることになったらしい。
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 現在、3000年前の大賀ハスは全国各地で栽培されているが、近くでは上野の不忍池や府中の郷土の森公園、立川の昭和記念公園、町田の薬師池公園、少し離れて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮源平池、千葉の千葉公園、埼玉の行田古代蓮の里などが有名だ。上落合は1931年(昭和6)以来、大賀一郎が長く住んだ土地がらなので、どこかの池に大賀ハスが欲しいような気がする。水底がコンクリートで固められていない、ハスの栽培に適した池が、はたして上落合のどこかにあっただろうか?

◆写真上:千葉市の千葉公園に咲く、3000年前の大賀ハス(古代ハス)。
◆写真中上は、大賀ハスが栽培されている鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の源平池。下左は、1999年(平成11)に日本図書センターから出版された大賀一郎『ハスと共に六十年』。下右は、千葉市の大賀ハスにちなんだゆるキャラ「ちはなちゃん」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる大賀一郎邸。は、B29偵察機による空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された大賀邸。
◆写真下は善福寺公園のハスとコイで、は上野不忍池の蓮池。大賀ハスが栽培されているのは不忍池のほうで、毎年夏になると「観蓮会」が開かれている。


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文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(3) [気になる下落合]

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 昭和初期、落合地域に建設された住宅の3軒めは、建築家・輪湖文一郎が設計した上落合470番地の邸だ。上落合470番地という住所で、すぐに思い出すのが1923年(大正12)の関東大震災Click!大蔵省の庁舎Click!が焼けたとき、自宅の居間や食堂を“開放”して新たな帝国議会議事堂Click!設計チームの業務を継承した、建築家・吉武東里Click!の大きな自邸Click!だ。
 また、同じ上落合470番地には東京朝日新聞社の鈴木文四郎(鈴木文史郎)Click!が住んでおり、その東側には近所から“アカの家”と呼ばれた神近市子Click!の自宅(上落合469番地)があった。1929年(昭和4)に東京朝日新聞社から出版された『朝日住宅図案集』収録の朝日住宅67号型と名づけられた家の平面図と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」収録の家々とを比較してみるが、同邸と思われる住宅を発見できない。設計図を見ると、北西寄りに門と玄関が設置されいるが、それに該当する家が3階建ての鈴木文四郎邸のみしか見あたらないのだ。ひょっとすると、同邸は東京朝日新聞社の設計コンペ用図面だけで、建設されていないのかもしれない。
 67号型と名づけられた住宅は2階建てだが、1938年(昭和13)現在で確認できる上落合470番地に該当する住宅は6棟。そのうち、北西側の道路に面して門と玄関が接しているのは鈴木邸のみで、ほかの5軒は南か北に門と玄関があり、最後の1軒は北西側に門があるものの、旗竿敷地で母家が10m以上も路地の奥にひっこんでる住宅なので、同書に掲載された図面やイラストと一致しない。北西側に門と玄関を設置するためには、北側から斜めにカーブして南へと下る道沿いに敷地がなければならず、同邸は「火保図」が作成される1938年(昭和13)までに解体されてしまった……ととらえることもできる。
 『朝日住宅図案集』Click!が出版された当時、経済は世界大恐慌のまっ最中であり、たとえば近衛町の小林盈一邸Click!を例にとれば、同邸の竣工から解体までわずか5年間しか存続していない。同様の経緯が、上落合の67号型住宅でもあったかもしれず、昭和に入ってすぐに竣工した同邸が、10年前後で解体されている可能性を否定できない。当時は、戸建て住宅を購入して住むという概念よりも、既存の住宅が建っていれば新旧の別なく解体して、自分好みの家を建てるという考え方のほうが主流だった。「火保図」の中で、同邸の敷地に見あう下落合470番地の位置は鈴木文四郎邸の南隣りであり、吉武東里Click!の自宅接道をはさんだ北隣り、つまり斜めにカーブして南へ下る道路に面して北西側に門や玄関を設置できる角地ということになるだろう。
 この邸の、道路を挟んだ北西隣りが上落合670番地の古川ロッパ邸Click!、その北側(上落合444番地界隈)には麹町へ帰るまで一時期住んでいたとみられる、大蔵省営繕課職員で建築家の大熊喜邦邸Click!、上落合470番地東側の同区画内である649番地には神近市子邸、その隣りの上落合467番地には「古代ハス」あるいは「大賀ハス」の栽培で有名な植物学者・大賀一郎邸、そして南には大熊喜邦とともに現在の国会議事堂を設計した吉武東里邸……というような住環境だ。
 『朝日住宅図案集』の邸は、ちょうど南へカーブする道路と東へ折れる路地の角地にあったとみられ、南側が吉武邸の北庭で開けていて住みやすそうな敷地だ。52.5坪の敷地に、建物面積23.916坪の2階建て住宅が設計された。この家の仕様にも、大震災の教訓があちこちに取り入れられている。土台はコンクリート打ちで、基礎や柱材には檜葉をはじめ、米松やラワン(洋室)、米栂(和室)などが用いられた和洋折衷の造りだ。ただし、和室は2階の居間兼寝室(約6畳)と女中室(3畳)の2部屋だけで、ほかの部屋はすべて洋室だった。柱や筋違の接合部には、耐震性を高める金具が多用されている。
 また、タイルが導入され玄関や台所、浴室、便所が腰まわりまで各色のタイルが貼られて、テラスとポーチにはレンガが敷かれている。窓枠とシャッターには米杉が用いられ、上から各色のペンキが塗られたが、鎧戸の外には亜鉛引き鉄板張りが施されている。外壁は、鉄網コンクリートの上にクリーム色のモルタル仕上げで耐震・耐火性を高め、室内は洋室・和室ともに白の漆喰仕上げだった。
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 同邸の特長を、『朝日住宅図案集』から引用してみよう。
  
 【構造上の特長】震災-プランに不必要なる凸凹を少くしてプラン全体を耐震的設計となしたり、基礎及建物腰廻りは鉄筋コンクリートとなし、土台及び柱との繋結を充分になし、柱及梁には筋違ひを厳重に使用せり、屋根は耐震上最も軽き材用としてスレートを使用せり/火災-外部壁は鉄網コンクリート色モルタル塗仕上げ準耐火構造とし、軒廻り木部は金属板にて包み、窓は金属板張りのシヤツターを付したり/盗難-窓廻りは堅固なるシヤツターを付し然らざるところは(台所等)鉄格子付又は(玄関等)厚板グラスを使用せり/【間取上の特長】二重生活の煩を可成少くする為めに椅子式を採用し、寝室及女中室のみを畳敷となしたり、浴室、便所は衛生上タイル張とし、便所汲取りは大正式を採用せり、台所は保健上よりしても重大なる使命あるを以つて充分意を用ひ、方位、面積、設備の上に最大の犠牲を払ひたり、子供室は学校通学程度の子供一人と仮定して設計せり/【材料上の特長】構造に必要なる程度に於て堅牢を旨とし、体裁は次となしたり、しかし外観は住宅として単純且つ軽快を旨とし、色彩上の配合を注意せり、木材は予算上米松材を主とし、日本間は米栂となしたり
  
 この中でわからないのは、「便所汲取りは大正式を採用」というところだ。当時、東京で水洗トイレが導入されていたのは、下水道が敷設された市街地だけで、郊外の郡部ではいまだ屋根上に臭突Click!が飛び出た、汲み取り式便所が一般的だった。「大正式」とは、室内のトイレは水洗式だが、流された排泄物が敷地内の別槽へとたまる汲み取り槽が設置された方式だろうか。この方式だと、水洗トイレの便利さを実現できると同時に、屋内に悪臭が漂う心配がなくなる。
 同邸は、当時の典型的な和洋折衷住宅だが、すでに明治期から大正期にかけての“和洋折衷”とは趣が大きく異なっている。目白文化村Click!近衛町Click!などに見られる住宅では、建物の門や玄関近くに位置する応接室や客間、あるいは居間や書斎(訪問客の目に触れそうな部屋)が外観を含めて洋風で、他の部屋(家族のプライベート空間)を日本間とし、プライベート部分の建物外観も和館の意匠をしている例が多い。つまり、明治期からつづく洋館部と和館部の関係が、より密接に接合した和洋折衷の意匠をしていたが、『朝日住宅図案集』に登場する昭和期の和洋折衷住宅は、すでに和洋が混然一体となっていて、住宅の外観さえも和館だか洋館だか明確に区別ができないような姿に変貌している。
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 それだけ人々の生活が、無理なく和洋のスタイルを織りまぜて、毎日を自然にすごせるようになったのだろう。現代の住宅も、基本的にこのような考え方の延長線上にあると思われるが、もはや住宅メーカーがデザインするいま風のモデルハウスを、日本家屋と対比して「西洋館」Click!などと呼ぶ方はほとんどいないだろう。それらは80年後の今日、すでになんら不自然さを感じない「日本住宅」となってしまい、昔ながらの白壁に黒瓦を載せている和館のほうが、むしろ街中では希少で目立つ存在となっている。
 当時の「和洋折衷」の考え方について、上落合470番地に住んでいた東京朝日新聞社の鈴木文四郎は、同書の「和洋折衷に就いて」で次のように書いている。
  
 ところで和洋折衷でありますが、現在の日本人―殊に都会に住む人々の―生活そのものが和洋折衷であるのですから、住宅もさうなるのは当然であります。学校や官庁、会社等では皆椅子を用ゐ、普通又誰でも勤務先きへは洋服で出かける。そして家へ帰へれば和服を着ずには居られない。これは皆日本人の生活なつて了つてゐます。この可否を論じたところで初(ママ)まらないのみならず、私はこれで結構だと思つてゐます。(中略)そこで私は四五年前に四十余坪ほどの小住宅を建てた時に、書斎と応接間と食堂とを西洋式にし、後の大小五つの室は日本式にしましたが、今でもこれで満足してゐます。人によつて趣味や習慣が違ひますから一概には無論いへませんが、一般の日本人のサラリーメン(ママ)階級には、和式六七分に洋式三四分位ひの折衷が適してゐるのではないでせうか。この書の図案にもそれが甚だ多いやうですが、これは現代日本人の実際的の要求であり、これを巧みに調和して行くとろ(ママ)に日本の新住宅の様式が発見されるのだらうと思ひます。
  
 現在では、帰宅後に和服に着替えることはまずないし、「和式六七分」どころか和室は「一二分」ほどではないだろうか。うちも、母親の寝室として設計した6畳間がひとつあるだけで、ほかの部屋はすべてフローリング張りの洋室にしている。
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 さて、鈴木文四郎邸の東側に住んでいた植物学者の大賀一郎だが、1951年(昭和26)に東京大学の検見川厚生農場(千葉市)で縄文時代の「落合遺跡」が発掘された際、発掘チームのメンバーが地中6mよりハスの実を発見して、のち開花させることに成功している。そして、このピンク色をした花は「古代ハス」あるいは「大賀ハス」と呼ばれるようになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:西側に接した道路から眺めた、朝日住宅67号型の耐震・防火住宅。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合470番地界隈。は、同邸1階・2階の平面図で上方向が北北東にあたる。
◆写真中下は、67号型邸が建っていたかもしれないあたりの現状。同邸は向かって右手(北側)にあり、左手(南側)は吉武東里邸の門があった位置。は、同邸の側面図。は、同邸の縦横断面図で南側には東南東向きのテラスが設置されていた。
◆写真下は、台所(左)と玄関(右)の詳細図。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。「火保図」の邸とは異なる南北に伸びた屋根の形状をしているので、67号型邸が解体されたのは1936~38年(昭和11~13)の2年間のどこかだったと想定できそうだ。ただし以前にも書いたが、そもそも朝日住宅コンペ用の図面だけが存在し、実際には建設されなかった可能性もある。は、上落合470番地に残る大谷石の縁石と板塀。


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戦前からはじまった東邦生命の御留山開発。 [気になる下落合]

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 下落合にある御留山Click!(現・おとめ山公園)の相馬邸について、またまた誤りのある資料を見かけたので改めて整理しておきたい。同時に、1936年(昭和11)に相馬孟胤Click!が他界して、相馬家が1939年(昭和14)に中野地域へ転居したあと、その敷地を購入した東邦生命Click!が1940年(昭和15)ごろから推進した、御留山の丘上に展開した宅地開発についてもついでに考察してみたい。
 まず、下落合の御留山について書かれたさまざまな資料の中で、誤りの大もとになっていると思われる“原典”は、当の東邦生命の「八十年史編纂委員会」が編集し、花田衛が執筆した5代目・太田清蔵Click!の伝記だ。1979年(昭和54)に西日本新聞社開発局出版部から刊行された、花田衛『五代太田清蔵伝』の記述を引用してみよう。
  
 新宿区下落合にあった旧相馬邸は奥州中村の中村藩(相馬藩ともいう)江戸藩邸だったもので、四代太田清蔵が昭和十四年に買い取った。/敷地一万五千坪、建坪五百坪、部屋数五十という広大な屋敷で、乙女山と呼ばれる庭は丘と林と谷川を擁して広々としていた。/昭和二十年五月二十五日の東京空襲で灰燼に帰し、土地もほとんど売り払われた。残っているのは三百坪弱の土地と石造りの堅牢な倉庫二棟だけで、太田家の美術品や什器が収納されている。/大半は住宅街に変貌したが、庭の一部が新宿区立おとめ山公園になっていて、わずかに昔の面影をしのぶことができる。まん中に道路が通り、一方は池を中心にした植え込みの庭園、他方は小川を中にした楠や椎の豊かな森となっている。
  
 この文章の中には、3つの誤りが含まれている。まず、下落合の相馬邸Click!は1915年(大正4)に御留山の丘上に竣工しているのであって、江戸期からの藩邸ではない。下落合へ相馬家が転居してくる直前、赤坂氷川明神社の南隣りにあった相馬邸Click!が、江戸期からつづく中屋敷として利用されていた藩邸の建物だ。また、徳川将軍家の鷹狩り場Click!だった立入禁止のエリアは、「御留山」「御留場」であって「乙女山」ではない。
 次に、相馬邸の母家は1945年(昭和20)の空襲によって焼失したのではなく、4代目・太田清蔵が推進したとみられる宅地開発にともない、1941年(昭和16)に相馬家の黒門Click!(正門Click!)の移築とともに解体されている。空襲によって焼けたのは、解体された相馬邸母家の南西側に建っていた、太田清蔵親子が住む新築の大きな太田邸だ。このとき、すでに相馬邸の敷地にはクロス状に東西と南北の道路が拓かれ、宅地用の区画割りまでが行われている。その区画の南西角に、新たな太田邸は建設されていた。これらのことは、陸軍航空隊が1941年(昭和16)以降に撮影した空中写真、ならびに米国公文書館で情報公開されている米軍のB29偵察機が撮影した空中写真などで、明確に規定することができる。
 また、資料としては新宿区に保存されている、御留山開発の全貌を記録した「指定申請建築線図」の存在が挙げられる。1940年(昭和15)に淀橋区あてに申請された同図は、東邦生命による御留山分譲住宅地の詳細がわかる貴重な資料だ。
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 さて、4代目・太田清蔵が進めたとみられる御留山の宅地開発だが、その手はじめとなったのが1941年(昭和16)にスタートした黒門の移築と母家の解体だったろう。このとき、黒門の福岡・香椎中学校への解体・移築に2年もかかっているのは、日米開戦後の戦時体制における軍事優先の運輸規制が影響したからだ。黒門の解体は早かっただろうが、巨大な相馬邸の母家の解体には、より多くの作業リードタイムを必要としたかもしれない。解体で出た良質な部材を、4代目・太田清蔵は売却したのか、それとも宅地開発にともない自邸の新築に流用したかはさだかでないが、少なくとも1943年(昭和18)末ごろには旧・相馬邸敷地に新たな道路が貫通し、区画割りを終えた造成地には住宅が建設されはじめている。
 1944年(昭和19)12月13日に、米軍のB29偵察機から撮影された空中写真には、旧・相馬邸の敷地へすでに道路が東西と南北に走り、区画ごとに完成した家々が11棟ほど確認できる。東西道と南北道とが交わる敷地には角切りClick!が行なわれ、交差点の中央には緑地帯が設けられている。当初、4代目・太田清蔵は御留山に拓けた丘上の敷地を、いちばん広い息子用の太田新吉邸敷地を除き、17区画(死者が出た火災事件Click!後に移築されたかもしれない太素神社Click!の境内を除く)に地割りして販売しようとしていた。その区画割りの南西角、谷戸に面したもっとも広い敷地に、太田家は邸を新築し空襲により全焼するまで住んでいた。
 翌1945年(昭和20)4月2日、すなわち4月13日に行なわれる第1次山手空襲の11日前に、米軍の偵察機から撮影された空中写真を見ると、住宅の数がすでに 15棟ほどに増えていたのがわかる。また、何ヶ所かの樹木が伐採され、食糧不足を補うためか畑にされていた様子もうかがえる。この空中写真が、4代目・太田清蔵が推進した宅地開発事業をとらえた最後の姿だろう。4代目・太田清蔵は、1946年(昭和21)4月4日に死去しているので、戦後に改めて開発された御留山の住宅街については関与していない。
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 次に1945年(昭和20)5月17日、第1次山手空襲のほぼ1ヶ月後に撮影された米軍写真を参照すると、4月2日に撮影された住宅群のうち、北側の区画を中心に半数ほどが“消滅”している。おそらく直接の爆撃ではなく、北東の近衛町Click!側からの延焼で焼失しているとみられる。だが、南側の区画に建っていた家々は、屋根が見えているので無事だったようだ。しかし、写真が撮影されてからわずか8日後の5月25日夜半、第2次山手空襲による焼夷弾の直撃で、太田邸も含む南側の区画一帯も全焼している。焼け跡に呆然と立ちすくむ、太田新吉の様子を同書から引用してみよう。
  
 五月二十五日夜の空襲で新吉の家が焼けたと知った岡本は下落合の屋敷へ駈けつけた。焼け跡に新吉が立っていた。岡本の姿を見ると、新吉はステッキで残骸をつつきながら、ぽつりと「何にもない。全部焼けちゃったんだよ」と呟いた。さすがに落胆の色はかくせなかった。岡本は小さな鏡台を持って来ていた。子供の玩具のようなものだが、ひげ剃りに必要だろう、と思って進呈した。/太田弁次郎は田園調布に住んでいて戦火をまぬがれた。翌日は自宅から銀座の本社まで歩いて出社した。こんなに歩いたのは初めてで、以後もない。本社は水びたしだったが、それでも焼け残ったのは幸運だと思った。が、下落合の新吉の家に回ってみると、みごとに何一つないまでに全焼しているのに改めて驚いた。剃刀一つないのである。弁次郎はそこで兄に安全剃刀を一つ進呈した。
  
 「新吉」は、すでに社長に就任していた5代目・太田清蔵のことで、岡本は武蔵境へ疎開していた彼の秘書、太田弁次郎は新吉の実弟だ。
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 戦後の1947年(昭和22)に撮影された米軍の写真を見ると、御留山の敷地には再建されている住宅はあるものの、ほとんどがいまだ畑にされていた様子がわかる。自邸が全焼したあと、5代目・太田清蔵は二度と下落合にはもどらず、旧・相馬邸の谷戸や弁天池を含む広大な庭は、1969年(昭和44)におとめ山公園として整備されるまで、下落合の「秘境」(竹田助雄Click!)として存在しつづけた。

◆写真上:御留山の冬枯れた谷戸を、北側の尾根筋から見下ろしたところ。
◆写真中上:上から順に、新宿区に保存されている1940年(昭和15)10月1日に淀橋区へ申請された御留山の「指定申請建築線図」。() 相馬孟胤が死去した1936年(昭和11)撮影の相馬邸と御留山(中上)と、1944年(昭和19)12月13日にB29偵察機から撮影された御留山。(中下) 1941年(昭和16)にスタートしたとみられる宅地開発が終わり、各区画には家々が建設されている様子が見てとれる。第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍が撮影した御留山。() 住宅の数が、いくらか増えているように見える。
◆写真中下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された御留山。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された御留山。いまだ住宅の数は少なく、空いた敷地は畑に活用されている様子が見える。は、1915年(大正4)の竣工直後に撮影されたとみられる相馬邸南側の「居間」(右手)で、『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。
◆写真下は、丘上から弁天池へと下る広大な芝庭の現状。は、谷戸の谷底にある湧水池あたりを北側の斜面から見下ろす。は、おとめ山公園の造成計画と進捗を伝える1967年(昭和42)10月26日発刊の「落合新聞」Click!


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文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(2) [気になる下落合]

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 今回は久七坂筋Click!に建っていたかもしれない、とても大正期が終わったばかりの昭和の最初期に造られたとは思えない住宅を、『朝日住宅図案集』Click!(東京朝日新聞社/1929年)の収録作品からご紹介したい。まるで、現代のモデルハウスのような意匠をしており、内部の間取りも今日とほとんど変わらず現代的だ。
 この邸は、下落合810番地に住む、設計者は鈴木周男の近隣に建てられているとみられる。冒頭の外観イラストに描かれたように、玄関が北側に接して設置されており、地番からいって久七坂筋から西へと入る路地の一画に建設されたものだろうか。この路地は、突き当たりがバッケClick!(崖地)で、諏訪谷Click!つづきの谷間(現・聖母坂Click!)へと急激に落ちこんでいる地形だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」で、下落合810番地の敷地を確認すると、この地番の住宅に相当する家に「伊藤」邸がある。1947年(昭和22)の空中写真で確認すると、屋根の形状や住宅のかたちも一致しそうだ。
 久七坂筋の両側は、大正末から宅地造成が進み、昭和に入ると次々にモダンな住宅が建設されている。ちょうど、道の両側で宅地造成が進む様子を、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作として、1926年(大正15)9月20日に『散歩道』Click!へと写しとっている。また、下落合810番地の同邸は、ちょうど遠藤新建築創作所が設計した小林邸Click!の、道路をはさんだ斜向い(路地の西側)にあった邸だ。このあたりは空襲にも焼け残り、戦後までずっと近代建築の住宅が建ち並んでいたエリアだが、わたしは学生時代から何度も久七坂筋を歩いているにもかかわらず、伊藤邸の記憶がまったくない。1933年(昭和8)に設計された小林邸と同様、意匠がモダンすぎて戦後に建てられた住宅だと勘ちがいし、印象に残らなかったものかとも考えたが、年代を追って空中写真を確認すると1960年代にはすでに解体されて存在しなかったようだ。
 敷地面積は52.25坪と、現代の一戸建て住宅とさほど変わらない。外観は今日のモデルハウスといっても通用しそうで、基礎はコンクリート打ち、土台は赤松、柱などの木材は米栂と米松、杉が多用されている。室内はすべてが洋間であり畳の日本間が存在せず、床は松やエゾ松の板材が使われている。平面図を見ると、室名の横に部屋の広さを具体的に表す「〇畳」と小さく添えられているのが、当時の図面らしい。
 外壁は、メタルラス張りと漆喰モルタル塗りで、軒先や軒裏、窓枠などはカラーペンキが塗られているが、外壁ともにカラーリングは不明だ。関東大震災Click!を強く意識した、「防災・防犯住宅」として設計された同邸の屋根は、栗色の石綿スレートで葺かれている。では、伊藤邸とみられる住宅の特長を『朝日住宅図案集』から引用してみよう。
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 【耐震的特長】平面を大体に於て矩形となし土台、梁、桁等の配置を簡単にせしこと、柱を可成均等に配置したること/総て大皷壁となしたる故、壁内に大なる断面の貫、筋違等を使用し得ること、外部に腰長押(三寸、一寸五分)を通したこと、屋根を石綿スレート葺とせること/【防火的特長】外壁を漆喰モルタル仕上としたる事、軒裏をトタン張りペンキ塗とせしこと、隣家との距離を成可く大にせしこと、台所、浴室の天井及壁は漆喰塗とし、扉は木骨にトタン張とせしこと、小児室床下に耐火安全庫を設けたる事(中略) 【小児室】を南東角に配置し、別に学齢児童の勉強室を二階に設けたること/【台所】南側に置き洗濯場を隣接せしめ、物置をも含めたること/【客室】は洋風とし、来客には折畳式寝台を使用すること/その他階段を緩にし、猶上下共一坪以上の広間を取る等、無駄を減じ余裕を増し、各室の連絡をよくし、相当の秘密を保ち、家族本位の住宅とせり
  
 屋根瓦の重さから、倒壊する家屋が多かった関東大震災の教訓が活かされ、屋根の重量をできるだけ軽くするスレート葺きが採用されている。また、壁面には今日の建築ではあたりまえになった、「貫」や「筋違」が施されている。
 防火の備えで面白いのは、当時は廉価なアルミニウムが存在しないため、火元となりやすい台所や浴室(当時は薪や石炭で風呂を沸かしていた)の扉を、焼けにくいトタン張りにしていることだ。トタン材は、関東大震災ののち急速に普及し屋根や屋根裏、扉などに多用されはじめている。また、子ども部屋の床下に「耐火安全庫」が設置されているが、このスペースも四囲がトタン材で囲まれていたのだろう。
 今日の住宅事情では難しくなっているが、隣家との距離を十分に保って延焼を防ぐ配慮もなされている。市街地とは異なり、郊外では敷地が広めに確保できたため、周囲の家々からできるだけ離して住宅を建てることが可能だった。だから、火災が起きても周辺を巻きこんで延焼することが少なく、被害を極小化することができたのだ。
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 また、同邸は「防盗」の面にも力を入れているが、つづけて引用してみよう。
  
 【防盗】南側に二間雨戸を設け、便所、浴室、台所の窓にはボルトを鉄板を以て連絡して取付けたること、外開き窓戸締に新工夫を施したること/各扉共上下二箇所にて締をなす/下部締り/在来の外開戸用鉄物を用ひ、周囲の枠組を細密になし、硝子を破つても容易に締りを外し得ざる様になすこと/上部締り/各窓框に取付けたる鈎及窓の両側の柱間に水平に取り付けたる真鍮管によつて各扉を堅く連絡し、三箇所以上にて真鍮管を固定せば決して一箇所のみ外すことを得ざる様になすこと
  
 以前にご紹介した和田邸とは異なり、同邸ではガラスを割っても侵入できない、金網入りの窓ガラスは採用されていない。その代わり鍵の施錠を工夫したり、窓の下部に真鍮管を取りつけるなど、窓枠に細かな工作がされている。
 ちょうど『朝日住宅図案集』が出版されたころ、すなわち昭和の最初期には妻木松吉こと「説教強盗」Click!が、東京各地を荒らしまわっている真っ最中であり、実際に下落合の邸も何棟かが被害に遭っている。それらの事件の犯行手口から、台所や便所などの小窓も含め、侵入口となりやすい窓にはさまざまな工夫が施された。当時の住宅は、関東大震災の教訓による「耐震・耐火」に加え、強盗や泥棒Click!の侵入を撃退する「防犯」が最優先の課題だったのだろう。
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 伊藤邸(現・パラドール下落合のあたり)の北隣りには、同じく下落合810番地の高良武久Click!高良トミClick!夫妻の自宅があった。妙正寺川に沿った下落合(3丁目)680番地の高良興生院Click!内の自宅とは別に、久七坂筋にも夫妻は自邸を建設していた。高良邸は最近まで、ていねいにリフォームを重ねて使われていたようだが、つい先日解体された。

◆写真上:『朝日住宅図案集』に収録された、伊藤邸とみられる住宅外観イメージ図。
◆写真中上は、同邸の平面図(北が下)で畳の和室はすでになく板張りの洋室となっている。は、台所のパースと防犯を強く意識した窓の仕様。
◆写真中下は、まるで現代住宅のようなデザインをした同邸の側面図。は、耐震・耐火・防犯を強く意識した同邸の断面図。
◆写真下は、1938年(昭和13)の火保図にみる同邸だが実際より大きめに描かれているようだ。は、戦後の1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同邸。は、伊藤邸の北側に建っていた元・高良邸だが解体済み。(GoogleEarthより)


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