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下落合を描いた画家たち・刑部人。(5) [気になる下落合]

刑部人「我が庭」1971.jpg
 以前、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に建っていた刑部人アトリエClick!の北側バッケ(崖地)Click!を描いた、1967年(昭和42)制作の刑部人Click!『花開く』Click!をご紹介していた。今回は、その4年後に同じ崖地を描いた1971年(昭和46)制作の『我が庭』を、下落合風景の1作としてご紹介したい。刑部人が、65歳のときの作品だ。
 『花開く』が30号Fサイズだったのに比べ、『我が庭』は15号Fサイズと刑部人の風景作品にしては小さい部類に属する。描かれた白い花の樹木は、早春に咲くコブシの木だろうか。地面に散らすように描かれた薄紫色の花々は、このあたりに多かったアブラナ科のムラサキダイコンなのかもしれない。いまだ冬枯れが残る周囲の木々の様子から、2~3月ごろの情景だろうか。『花開く』の季節より、少なくとも数か月は早い時期に描かれたアトリエ北側の情景に見える。
 少し前、1931年(昭和6)に制作された『睡蓮』Click!について書いたが、その際、下落合のバッケ(崖地)には豊かな地下水脈が通っている様子をご紹介した。刑部人アトリエClick!の西側にあった池も、『我が庭』の急斜面から湧き出る清水によって形成されたものだ。この豊富な地下水脈が、昔から下落合に見られるケヤキやクヌギ、クス、コナラ、カエデ、モミジ、カシ、ムクノキ、コブシなど数多くの大樹を育み、鬱蒼とした丘の連なりを形成してきた。
 下落合の丘を含み東西へ長くつづく目白崖線は、「武蔵野段丘」あるいは「豊島台」と名づけられた丘陵地帯の一画を形成しているが、新宿や市谷、四谷一帯にまたがる「下末吉段丘」ないしは「淀橋台」に比べ、関東ロームの赤土が落合地域を中心にかなり薄いこともかつてご紹介Click!している。「淀橋台」が約10mの関東ローム(赤土)に覆われているのに対し、「豊島台」の薄いところでは半分の約4~5mほどしか赤土が堆積されていない。ちなみに、わが家の敷地の下はボーリング調査によれば約4m強がローム層で、その下にある粘土層に突きあたる。
 つまり落合地域では、表土層および関東ローム(赤土)層の厚さが、長い時間の侵食などでさらに薄くなり、特に急斜面などで豊富な湧き水がみられる要因となっているのだろう。刑部人アトリエの北側の急斜面も、表土のすぐ下に地下水脈を含む粘土層や砂礫層が走っている様子がうかがえる。新宿区の調査によれば、目白崖線でもっとも関東ローム(赤土)が厚いのは江戸川公園の約10m、御留山Click!の谷戸部が5m、落合第四小学校Click!は地形改造によるものか約1.5m、薬王院が約5m、落合村の本村=聖母坂下界隈が約4mという結果になっている。
 1967年(昭和42)に新宿区図書館資料室から発行された、下落合の地質について解説する『図書館資料室紀要Ⅰ/落合の横穴古墳』から少し引用してみよう。
  
 下落合の台地の地質は、豊島台の地層とややことなっているようである。横穴古墳のあったところは、下部から記すと砂層であり、その上は砂質粘土層(約2m)で、その中に礫と貝化石を含んだ黄褐色の粘土層をはさむ。その上に火山灰質の白色粘土層(約0.3m)、さらにローム層(厚さ4~5m)がかさなる。これは目白、江戸川公園の台地(豊島台)の地層とややことなっている。しかし藤稲荷や落合第四小学校付近では、上部から関東ローム層、粘土層、砂礫層となり、その下部が砂層になっているようである。(略) 低地は沖積層といわれる砂または泥層で、その下部に東京層Click!の砂・泥層または粘土層がある。神田川の川床にその一部が露出しているところがある。
  
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刑部人アトリエ02.jpg
刑部人旅行カバン.JPG
刑部夫妻七面鳥1931-32.jpg
 この記述は、下落合弁財天のある湧水源の北側斜面(下落合横穴古墳群Click!)について書かれたものだが、おそらく刑部人アトリエの北側にみられたバッケ(崖地)も、同じような地層の組成になっているものと思われる。
 さて、『我が庭』はアトリエ北側の庭先を描いたものだが、白いコブシの花らしい樹木(サクラかもしれない)をとらえた写真が、刑部佑三様Click!のカメラに収められている。画室の内部から北側のバッケを見上げた画面だが、急斜面を少し上ったあたりに樹影の似ている白い花が咲いている。同一の樹木かどうかは不明だが、このように豊かな水脈が通う下落合の斜面には、武蔵野を代表する多彩な樹木が生育している様子がわかる。残念ながら、刑部アトリエが建っていた北側のバッケは現在、武骨なコンクリートの擁壁でふさがれてしまったが、四ノ坂Click!をはさみその西並びにある林芙美子記念館Click!の北側では、同様の地形や植生を観察することができる。
 『我が庭』は、2004年(平成6)に栃木県立美術館で開催された「刑部人展-昭和日本紀行-」に展示されているが、その図録を中島香菜様Click!よりお送りいただいた。収録されている作品群を眺めていると、子どものころNHKで放送されていた「新日本紀行」のテーマ曲(冨田勲)が聴こえてきそうだ。詳しく拝読すると、いろいろ面白いことがわかる。1951年(昭和26)ごろから、ともに日本各地を写生旅行していた金山平三Click!が1964年(昭和39)に死去すると、刑部人の作風がペインティングナイフの技法を中心に、やや変化を見せている様子が指摘されている。以下、同図録から引用してみよう。
刑部人「花開く」1967.jpg
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 ペインティング・ナイフによる、きらきらするような筆触は、金山平三の多用した長いストロークに匹敵する。刑部のトレードマークとも言えるマニエラ(技法)となっていった。1967年の《花開く》(略)など、1960年代のとりわけ花を描いた作品にはそうした筆触を特徴的に見ることができる。ここでは画家の一連の動作が、何の無駄も無理もなく、自然に進んでいく。パレットからナイフにすくいあげられた絵具が、カンヴァスに触れる。画家の手の圧力によって、絵具の塊は形を変えながらカンヴァスの上をさっと動いていく。動きながら複数の絵具の色が混じり合い、カンヴァスの上にひろげられていく。/一瞬にして成されるナイフのストロークは、絵具そのものがまるで動いている途中にあるかのようなスピード感を見る者に与える。今まさに落ちようとする朝霧を、翳ろうとする陽光を、あるいは夜の闇の中を切り裂くように閃く車のヘッドライトを、描きとめるのに、これはきわめてふさわしい描法であったろう。
  
 図録に収録されている詳細な年譜を参照すると、刑部人と金山平三Click!が写生旅行へ出かけたのは、旅先での合流を含めると実に20回に及んでいる。
 また、「刑部人展」図録には刑部人が府立一中時代に描いた、1919~1922年(大正8~11)までのめずらしいスケッチが収録されている。おそらく、当時住んでいた北豊島郡西巣鴨町宮仲2486番地(現・東池袋2丁目)の自宅周辺を描いたものだろう。ちょうど、明治からつづく東京15区の市街地が、郊外へと急激に膨張しはじめたころの風景で、1923年(大正12)の関東大震災Click!を契機に人口の大移動が起きる直前の姿だ。
 画面を観察すると、いまだ畑地(麦畑だろうか)と建てられたばかりの住宅が、あちらこちらで混在している様子がうかがえる。住宅の意匠は、当時のサラリーマンが建てるようなごく一般的な2階建ての日本家屋で、大震災前のせいかどの家も屋根に瓦を載せているようだ。住宅の合い間を縫うように、農業の灌漑用水に使われていたとみられる水路がそのまま残されている。散在する住宅と畑地が拡がる一帯の風景には、市街地の街角用にデザインされたらしい、おシャレな街灯がポツンとひとつ灯っているのが、当時のアンバランスで混沌とした東京郊外の風景を象徴しているようで面白い。
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 1922年(大正11)の暮れに、刑部一家は豊島郡池袋966番地(現・池袋3丁目)に引っ越しているが、その転居先も西巣鴨町とほぼ同じような風情が拡がっていただろう。もし、刑部人が池袋の自宅周辺を西巣鴨町と同様にスケッチブックに残していたら、同地域を描いた洋画家たちの中ではかなり早い時期に属するのではないだろうか。池袋から長崎にかけ、いわゆる「アトリエ村」に居住する多くの洋画家たちが、周辺に拡がる風景をスケッチするのは、もう少しあとの昭和に入ってからの時代だからだ。

◆写真上:1971年(昭和46)にアトリエ北側のバッケを描いた刑部人『我が庭』。
◆写真中上は、アトリエの解体後に撮影した北側のバッケ(上)と刑部邸跡の敷地(下)。は、刑部人が旅行などで携帯していた画道具。は、島津源吉邸Click!の庭で1931年(昭和6)ごろに撮影された刑部人・鈴子夫妻とシチメンチョウClick!
◆写真中下は、1967年(昭和42)に制作された刑部人『花開く』。は、刑部人アトリエの風景いろいろ。(以上の写真3点は撮影:刑部佑三様)
◆写真下は、1926年(大正15)に作成された「西巣鴨町東部事情明細図」(上)と1929年(昭和4)作成の「西巣鴨町市街図」(下)にみる西巣鴨町宮仲2486番地。大正末でも、周囲にはいまだ畑地や空き地が拡がっているようで、同地番には茂沢邸と鴻池邸が採取されている。は、府立一中時代の刑部人が1920年(大正9)に自宅周辺を描いたとみられるスケッチ類で上から下へ順番に『風景1920-1』『風景1920-3』『風景1920-4』。

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中村彝の代筆をしたのは誰だ? [気になる下落合]

中村彝アトリエ.JPG
 今年(2017年)7月3日に、中村彝Click!アトリエで開催された生誕130年記念会Click!で、清水多嘉示Click!のお嬢様・青山敏子様Click!より、中村彝がパリにいる清水多嘉示にあてた1923年(大正12)12月22日付(パリ消印)の手紙をお見せいただいた。その手紙の写真を拙サイトに掲載したところ、中村彝研究の第一人者である舟木力英様Click!より、「中村彝本人の筆跡には見えない」という興味深いご指摘をいただいた。そして、当時、彝の周辺にいた誰かが代筆したのではないか?……と想定Click!されている。
 わたしはうかつにも、1923年(大正12)秋に銀座伊東屋の原稿用紙に書かれた中村彝の書簡、すなわち『芸術の無限感』(岩波書店/1926年)所収の清水多嘉示にあてた手紙の現物を、青山様から同時に見せていただいたのだが、その手紙の筆跡と同年12月22日付の乱れて読みにくい手紙の筆跡を、病状の悪化による不安定な筆跡によるものと勝手に印象づけてとらえていた。だが、改めてふたつの手紙の筆跡を比較してみると、確かに筆記の手ぐせがまったく異なっている。
 彝の手紙やハガキの筆跡は、おしなべて判読しやすい。手もとにある資料では、たとえば20歳のころに書かれたものだが、中村彝から野田半三Click!あてに茨城県の川尻から投函されたハガキがある。1907年(明治40)7月30日付のタイムスタンプで、平仮名とカタカナが混在する文面だが、おおよそ考えこまずに読み進めることができる。
 それから約16年後に書かれ、『芸術の無限感』に収録された1923年(大正12)秋の原稿用紙を便箋がわりにした手紙の文面も、それほどひっかからずにスラスラと読み進められる。同手紙の最後には、「色々話したいこと、尋ねたいこと、頼みたいことがあるが書くのが少し疲れたから余々後便にゆづることにしよう 御身お大切に祈ります。彝、愛する清水多嘉示君」とあるので、本人が筆記しているのにまずまちがいはないだろう。ところどころに崩し文字も見られるが、基本的に楷書書きのわかりやすさは、20歳のころの筆跡の読みやすさを継承している。
 ところが、ほぼ同時期にパリの清水多嘉示へ送られた12月22日付の手紙は、一転して非常に読み取りにくい。わたしの崩し文字に対する判読・読解力が拙劣なせいか、なにが書いてあるのかよくわからない箇所がたくさんある。舟木様によれば、ここに登場する名前は米国にわたった画家たちで平賀亀祐と幸徳幸衛、そして松原兆雄のことが書かれているという。これら画家たちの予備知識があらかじめなければ、とうていスムーズに読み進むことができない内容だ。
 さて、パリの郵便局で押された消印が1923年(大正12)12月22日付のこの手紙だが、中村彝の筆跡でないとすれば、いったい誰が口述筆記をしたものだろう。当時の郵便事情を考慮すれば、おそらく同手紙は11月中に彝アトリエで書かれて投函されたものと思われる。中村彝とその周辺の様子や出来事をたどることで、彝のごく身近にいた人々のうち誰が代筆したものなのか、なにか探れやしないだろうか?
 1923年(大正12)の秋は、おそらく中村彝が下落合464番地にアトリエClick!を建ててから最悪の年だったろう。まず9月1日に関東大震災Click!が起きて、アトリエ全体が北西に少し傾き、アトリエ東側の内壁が崩落している。彝は同日、岡崎きいClick!とともに薬王院Click!裏にあたる下落合800番地の鈴木良三の借家へと避難Click!している。鈴木良三は、前日の8月31日に雑司ヶ谷から転居してきたばかりだった。このとき、鈴木良三は彝アトリエの後片づけを寄宿していた河野輝彦Click!と、下落合645番地に住んでいた鶴田吾郎Click!に託しているが、鶴田は自宅が半壊していたので、ゆっくり修復の手伝いなどしてはいられなかったろう。
中村彝手紙.jpg
下落合地図1921.jpg
今村繁三邸1925.jpg
 地震から半月たった9月16日に、中村彝は鈴木良三宅からアトリエへともどっている。アトリエの修理は、おもに大工あがりの河野輝彦と画学生の本郷惇にまかせ、彝は再び絵を描く準備を進めている。ちなみに、この時期にいまだ19歳だった本郷惇は、彝アトリエの近くに住んでいた可能性があるが、どこに住んでいたのかは不明だ。彝アトリエには、すでに河野輝彦が寄宿をしていたので、本郷惇も居候していたとは考えにくい。
 大震災の影響から、無理がたたって疲れが出たのか、彝は9月の下旬からたびたび発熱するようになる。そして、おそらく10月中にパリの清水多嘉示あてに『芸術の無限感』所収の手紙を書いたが、11月初めからひどい発熱で床につくことになる。10月末から取りかかっていた、『頭蓋骨を持てる自画像』(40号)の制作中に倒れたのだ。以来、彝は年末まで起きることができず、病臥したままの状態がつづいている。12月1日に、曾宮一念が会津八一Click!を連れてやってきたときも、彝はいまだ寝たきりの状態だったことが、1925年(大正14)に発行された「木星」2月号(中村彝追悼号Click!)収録の会津八一の追悼文『中村彝君と私』からもうかがえる。
 こうして、当時の様子をたどってみると、同年12月22日付(パリ消印)の読みにくい手紙は、11月初めに彝がひどい発熱をして起きられなくなったタイミング、まさにその時期に重なるように書かれたであろうことが想定できる。誰か近くにいる人物に、口述筆記を頼まざるをえなくなるような重篤な病状だった。関東大震災が起きた年の秋、中村彝のもっとも身近にいた人物で、しじゅう顔を合わせていたとみられる人々には鈴木良三をはじめ曾宮一念、鶴田吾郎、河野輝彦、本郷惇、岡崎きいなどがいる。
 この中で、大震災により借りていた家が半壊し、下落合804番地に改めてアトリエ付き住宅の建設を計画していた鶴田吾郎は、多忙でそれほど頻繁に彝アトリエへは顔を出せなかったかもしれない。また、美術仲間へ向けた手紙の代筆を、「おばさん」こと岡崎きいに頼んだとは考えにくい。さらに、たいせつな友人あての私信代筆を居候の河野輝彦や、画学生の本郷惇に任せたかというといまいち疑問が残る。やはりここは、以前から中村彝と清水多嘉示の親しい関係を熟知していて、それを踏まえながら手紙の口述筆記を信頼して任せられる画家仲間が、もっとも代筆候補としてふさわしい存在だろうか。
 すると、中村彝が信頼していた画家で、近所に住み毎日でもアトリエへ顔を見せそうな人物としては、鈴木良三と曾宮一念が残ることになる。ただし、記録に残っていないだけで、鶴田吾郎や鈴木金平Click!二瓶等Click!なども頻繁に彝アトリエを訪問していたかもしれず、あくまでも当時の状況から類推した想定にすぎないのだが……。
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 さて、青山敏子様のもとにパリの清水多嘉示に向け、鈴木良三が書いた1928年(昭和3)1月25日付の手紙が残っている。昭和に入ると、落合地域の西隣りにあたる野方町江古田931番地に住んでいた鈴木良三は、同年5月にフランスへ向けて出発することになるが、パリで暮らすために必要な月々の生活費などを問い合わせている。清水多嘉示はすぐに返事を書いたとみられるが、同年5月に清水が帰国しているので、ふたりはシベリア鉄道(清水)と船便(白山丸:鈴木)とで入れちがいになっている。
 この手紙を見ると、鈴木良三の筆跡は非常にきれいで、1字1字ていねいな書き方をしていることがわかる。もっとも特徴が出やすい仮名文字の書き方も、くだんの代筆とみられる手紙の文字とはほとんど似ていない。したがって、口述筆記とはいえ、まるで書きなぐりのような判読しづらい文字を、しかも中村彝の手紙として書くことはありえそうもない。では、曾宮一念はどうだろうか。
 手もとにある曾宮の自筆は、1921年(大正10)正月に書かれた年賀状Click!だ。筆文字とペン字が混在しているが、筆文字は字の姿が大きく変わってしまうので、ペン字の字体とはあまり比較の対象にはならないだろう。下落合623番地に建設中のアトリエが竣工間近なので、近々そちらへ転居することをペン字で年賀状の裏に書き添えている。その「ま」の丸め方や「り」のつなげ方、「に」を「Z」のように書くクセなどが、代筆の手紙の書体によく似ているのだ。このわずかな類似点をもって、曾宮一念が代筆したとはまったく断定できないが、可能性はあるかもしれない。
 そんなことを想像しながら、代筆の手紙を眺めてみるととても面白い。
 「…よろしく傳へて下さい。中村生、清水さん…と、以上だな」
 「…清水さん…と」
 「一念くん、書けたかい? どれ、見せてごらん」
 「うん、なんとか書けたよ。ほら」
 「…………読めんな」
 「だっ、だからオレ、字がヘタだっていったじゃん!」
 「……読めんな」
 「だから、あれほどいったじゃん!」
 「……誰かに清書させたくても、わからんな」
 「清水くんなら、きっと読めるぜ」
 「…ま、いっか」
 「うん、きっと大丈夫さ」
 「パリへとどかないといけないから、宛名書きはほかの誰かに書かせよう」…。w
鈴木良三筆跡.jpg 中村彝代筆1.jpg
曾宮一念筆跡.jpg 中村彝代筆2.jpg 中村彝代筆3.jpg
中村彝会墓参196112.jpg
 文中で触れている、1928年(昭和3)1月25日に江古田931番地の鈴木良三から、パリの清水多嘉示あてに出された手紙は、佐伯祐三Click!を含め下落合に住んでいる画家や美術家たちが何人か登場しているので、機会があればまた詳しくご紹介したい。

◆写真上:復元された中村彝アトリエ(現・中村彝アトリエ記念館)のテラス。
◆写真中上は、1923年(大正12)12月22日パリ消印の代筆とみられる中村彝から清水多嘉示にあてた手紙。は、1923年(大正12)の秋に彝アトリエに住んでいた親しい友人たちの家。は、1925年(大正14)に今村繁三邸(假楽園)で撮影された画家たちの記念写真で彝の親しい画家たちが多く写っている。
◆写真中下は、1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』(岩波書店)所収の彝から清水多嘉示にあてた手紙。は、20歳の彝が写生旅行中の川尻から野田半三あてに出したハガキ。は、1928年(昭和3)1月25日に鈴木良三から清水多嘉示にあてた手紙。
◆写真下は、鈴木良三の筆跡と彝の代筆とみられる筆跡の比較。は、曾宮一念の筆跡との比較。は、1961年(昭和36)12月撮影の中村彝会の墓参記念写真。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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木下孝則が見た「日本間」の佐伯アトリエ。 [気になる下落合]

木下孝則「風景」(大正期).jpg
 1930年協会に参加していた、洋画家・木下孝則Click!という人物がちょっと風変わりで面白い。東京の四谷にあった明治大学総長・木下友三郎の家に生まれ、学習院を高等科まで卒業すると京都帝大に入学している。だが、京都帝大に在学中、東京帝大に合格して入学している。つまり、京都と東京で一時期、二重学籍だった期間があるのだが、東京帝大へ通いはじめてから6ヶ月後に、ようやく京都帝大を中退している。そして、講義がつまらなかったのか、ほどなく東京帝大も中退して画業に専念しはじめた。
 生活に困らない“お坊ちゃん”育ちのせいか、性格も鷹揚だったようだ。1921年(大正10)に『富永君の肖像』で二科展に初入選すると、1923年(大正12)に樗牛賞を、翌1924年(大正13)には二科賞を受賞している。油絵をはじめたのは、大正中期につき合っていた小島善太郎Click!林倭衛Click!らとの交遊からだというが、その時期の詳しい証言はあまり残されていない。
 木下孝則でイメージされるのが、戦後はほとんどそれしか描かなくなった『婦人像』であり「週刊朝日」の表紙だが、大正期の彼はいろいろな画面に挑戦していたようだ。冒頭の画面は、大正期に描かれた木下孝則『風景』だが、東京郊外の風景をモチーフにしたものか、“お約束”のように小さめな西洋館や電柱が描かれている。ひょっとすると、彼の実家近くの四谷風景なのかもしれない。大正期の四谷は、東京15区Click!の四谷区として市街地に編入されていたが、あちこちに森や草原が残る風情だった。
 では、木下孝則の人物像を林倭衛の証言から聞いてみよう。1927年(昭和2)に中央美術社Click!から発行された「中央美術」8月号より、林倭衛『自然に育つた人』から。
  
 一寸ぶつきらぼうで非常な呑気屋らしいが、人に何か頼まれるとか、さういふ場合容易に厭とは言はない人らしい。それにどういふ話をするにも少しも気が置けなくて、すつかり安心して話されるといふ所がある。こつちがどんな馬鹿な話しをしやうと、何だ此奴下らない話をする――とか何とかさういふ事を殆ど思はぬらしい。新聞など読まなくとも全く平気らしい。そしてさういふ事が実際自然な所を見ると全くあれはのんびり育つた人ですね。そんな風で一寸融通も利きさうには見えないが、又それは中々しつかりした所がある。絵なんか見る眼は実際確です。
  
 ちょっと余談だが、この「中央美術」8月号は1930年協会第2回展Click!(同年6月17日~30日/上野公園日本美術協会)の直後に発行されており、誌面にはその展評が掲載されている。その中に、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の写真1点が掲載されているが、これは1926年(大正15)の真夏Click!曾宮一念アトリエClick!前を写生した『セメントの坪(ヘイ)』Click!(おそらく3画面)の1作で、佐伯アトリエの隣家である納三治邸Click!が竣工しそうな、1927年(昭和2)5月ごろに「八島さんの前通り」を描いた『下落合風景』Click!との、同時出品だったのがわかる。
 そして、同誌の写真について朝日晃が『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画/1994年)で、同作は「現存はしない」(二尺の物差し)と書いているので、朝日晃自身もこの画面を一度も観たことがないのがわかる。つまり、戦災で失われたか、行方不明のままの可能性が高いのだろう。また、佐伯祐三は同作をよほど気に入っていたのか、1930年協会第2回展の記念絵はがきになっていたことも判明している。
木下孝則1927.jpg 木下孝則「少女像」1927.jpg
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 さて、木下孝則が佐伯のことを書いた文章が残っている。1968年(昭和43)に日動画廊から発行された「繪」10月号所収の、木下孝則『佐伯と前田』から引用しよう。
  
 佐伯祐三と知合ったのは前田寛治を介してで、前田がヨーロッパから帰って意気ごんで滞欧作品を発表したかったのに、場所がなくどこも全く相手にしてくれなかった。どこかやってくれるところはないかということで、その頃例の柳原白蓮と伊藤伝右衛門の養子になった僕の友人が当時の報知新聞の重役を紹介してくれ、その世話で、今の八重洲口、東京駅裏の日米ビルへ行った。(中略)何しろ広過ぎてとてももったいない。前田がパリで一緒だった佐伯という男を誘ってみようと、二人で落合の彼のところへ出かけた。/佐伯は奥さんと一緒で、まだ汚い日本間のアトリエで、これも滞欧作の二十号位ばかりがずいぶん沢山重ねてあって、一枚きりの額縁が置いてあって、次から次とパッパッと入れ替えては全部見せてくれ、迫力のある絵に感心した。
  
 柳原白蓮Click!と伊藤伝右衛門の「養子」が登場しているが、学習院つながりの伊藤八郎のことだろう。また、佐伯アトリエを「汚い日本間のアトリエ」と書いているが、同アトリエに畳が敷かれていたことはないと思われるので、木下孝則が通されたのは母家側の1階か2階にある日本間だったのではないか。佐伯夫妻は関東大震災Click!直後に渡仏しているので、本来のアトリエは内部の修復が済んでおらず修理中であり、帰国直後はいずれかの日本間をアトリエ代わりに使っていた可能性がある。
 1926年(大正15)5月15日から24日まで、日米ビルの室内社での1930年協会第1回展が終わると、メンバーの5人は八重洲近くの中華料理店で打ち上げをしている。そのとき、料理屋の衝立に「佐伯が竜、里見がスペイン娘、僕が裸を描いた」寄せ書きをしているが、戦前までそのまま使われていたらしい。もし料理屋が敗戦間近で店を閉め、どこかに転居しているとすれば、衝立は閉店時に処分してしまっただろうか、それとも記念に保存されどこかに眠っているのだろうか。
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 つづけて、翌年の第2回展の様子を木下孝則『佐伯と前田』から引用してみよう。
  
 公募で入選した中には井上長三郎とか長谷川利行とか現在名の出ている人達が沢山いたように記憶する。また前田の弟子には先頃亡くなった凸版印刷社長山田三郎氏やその夫人や今泉篤男氏もいたし、僕たちが揃って出入りした彫刻家藤川勇造氏の夫人栄子さんがはじめて絵を描き出した頃だ。/一九三〇年協会の仲間は非常に親密な友情を保って、児島善三郎が羨しがって是非入れてくれといってきたら、絵が面白いから入れようというのもいたが、あんな嫌な奴は駄目だと断わったりした。そして佐伯が再びフランスへ行くことになり、キサマも早く来い、というから僕も三ヵ月おくれて二回目のパリへ着いた。そうしたら佐伯は、「おれはもう百枚描いたぞ」と威張っていた。アトリエを見せてもらったが、その猛烈な馬力に驚いた。
  
 1930年協会に入りたかった児島善三郎Click!は、どうやら木下孝則とまったく反りが合わなかったのか、あっさり断わられている。第2回展時点での新会員は、木下孝則の弟・木下義謙のみで、その直後に林武Click!野口彌太郎Click!が加入している。
 また、1968年(昭和43)の「繪」10月号には、南仏のカンヌ近くの農村で制作する佐伯米子Click!が紹介されている。佐伯米子『自作を語る』から引用してみよう。
  
 ある夏の初めのことであった。パリから遠くない、オーベルの近くの田舎で、草原に坐って、スケッチしていると、いつのまにか、ねむくなって、そのまま寝てしまった。/どの位の間かわからない。/何か気配がして、ふと眼を覚ますと、かぎりしれない多数の羊の群にとりまかれ、私はその真ただ中にいた。(中略)かぎり知れない広い野原に一人ぼっち。/その時遥か遠い叢の道から、佐伯祐三は出来上ったカンヴァスと絵の具箱をもって、歩いてくるのが見えた。シルエットだけが、だんだんと、近づくと、作品の出来上った満足の顔が、にこにことしていた。
  
 南仏の草原で写生をしながら、第1次渡仏時の光景を想い出しているセンチメンタルな文章だが、おそらく佐伯の死から40年後のこのとき、佐伯米子の中では当時の出来事や心情の忘却とともに、夫・佐伯祐三に対するかなりの「美化」が進んでいただろう。
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 同じ見開きに、佐伯米子が描いた日本の風景画が掲載されている。昭和初期の佐伯祐三がそれを見たら、ニコニコ顔はしたかもしれないが、「あのな~、オンちゃんな~、遠くの山と近くの地面や樹木のな、バルールが狂うてんねん」、「あら、秀丸さん、わたくし天然ではなくてよ!」……などというような会話を想像してしまった。w

◆写真上:大正期の東京郊外(四谷近くか)を、描いたとみられる木下孝則『風景』。
◆写真中上上左は、1927年(昭和2)に撮影された木下孝則。上右は、同年の作品で木下孝則『少女像』。は、1927年(昭和2)6月の第2回展のときに撮影された1930年協会のメンバー。右から左へ里見勝蔵Click!、木下孝則、林武、小島善太郎(前)、野口彌太郎(後)、佐伯祐三(前)、木下義謙(後)、そして前田寛治Click!は、第2回展会場の様子で奥に佐伯『下落合風景』や長谷川利行『陸橋みち』が見える。手前から里見勝蔵、佐伯祐三、木下孝則で立っているのは前田寛治。
◆写真中下は、玄関を入った佐伯邸母家の正面。左手が台所ちかくの日本間で、右手がアトリエのドア、階段を上った先にも2階の日本間があった。は、日本間のある佐伯邸の母家(右手)で左の屋根はアトリエ。は、南側から見た母家の2階。
◆写真下上左は、1927年(昭和2)に発行された「中央美術」8月号(中央美術社)の表紙。上右は、1968年(昭和43)に発行された「繪」10月号(日動画廊)の表紙。は、同「繪」10月号に掲載の南仏で写生する佐伯米子をとらえた写真。

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わたしの実家が燃えている。 [気になる下落合]

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 米国の公文書館で保管・公開されている、日本に対する空襲の記録写真あるいは空襲前の偵察写真を調査し、それらの貴重な画像類を日本の研究者へ提供している組織がある。わたしも、拙サイトでは各時代にまたがる空中写真Click!のデータやプリントで、いつもお世話になっている国土地理院所管の(財)日本地図センターだ。同センターが、2015年(平成27)にまとめて発行した戦争資料に、『1945・昭和20年米軍に撮影された日本―空中写真に遺された戦争と空襲の証言―』(日本地図センター)がある。
 同資料は、マリアナ諸島のサイパン島やテニアン島が陥落すると同時に、米軍がB29による日本本土爆撃に備えて組織した空中写真部隊の任務内容や、その成果物の一部をまとめて紹介したものだ。空中写真部隊とは、戦後のGHQ占領下に新宿伊勢丹Click!の3階以上を接収して本部が置かれ、焦土と化した日本全土をくまなく撮影してまわった部隊と同一のものだ。同部隊の初任務は、1944年(昭和19)11月1日に陸軍航空隊の立川基地を撮影したものだが、このとき陸軍は19機の迎撃戦闘機を出撃させた。だが、高高度を飛行する偵察機にまったく接近できず、そのままなすすべもなく立川基地へ帰投している。
 この撮影飛行で使用された偵察機は、空中写真撮影のためだけにB29を改造し、多彩なカメラ類や膨大なフィルムを搭載した写真偵察機F13と呼ばれる機体だった。F13は、垂直写真Click!を撮影するK18カメラ(約600ミリ)とK22カメラ(約1,000ミリ)、角度30度で斜めフカン写真を撮影するトライメトロゴンカメラ(約150ミリ)など、3種類の撮影機を計6台も搭載していた。また、夜間撮影時には照明弾と同期させてシャッターが切れる、K19カメラ(約300ミリ)も装備することができた。これらの撮影用機材を積載するため、F13は爆弾をまったく搭載せず、後部の爆弾倉には航続距離を伸ばすため燃料タンクが積まれていた。
 日本本土を撮影した空中写真部隊は、「第3写真偵察戦隊(3PRS)」と呼ばれ、B29の爆撃部隊からは組織的に独立して行動している。高度9,000~10,000mで日本本土に飛来し、高射砲による対空砲火や迎撃戦闘機がまったくとどかない高度なので、上空から縦横無尽に地表を撮影してまわった。日本本土へ向け、偵察写真撮影に出動したF13偵察機はのべ450機にものぼり、撮影の成功(有効)率は71.6%、無効率は17.5%、不成功(失敗)率は10.9%と記録されている。
 撮影無効とは、撮影目標の位置がつかめずに帰投したか、撮影はしたが目標が異なっていたか、あるいは理想的な解像度を得られず目標が不鮮明だったケースだろう。また、撮影失敗は目標上空の天候に問題があって撮影できなかったか、撮影機材ないしはF13機体のトラブルだと思われる。空中写真部隊は当初、サイパン島から出撃していたが、グアム島が陥落するとただちに本部をグアムへと移転している。
 F13が写真偵察に1回出撃すると、幅9インチ(22.86cm)で長さ6,000フィート(約1.8km)のフィルムが撮影で消費され、それを現像するためには大量の水を必要とした。グアム島の米軍基地では、2基の大型給水タンクに井戸水をくみ上げて、兵士たちの生活用とラボの現像用に使用していたが、F13の機数が増え日本本土への偵察が頻繁になるにつれ、現像・プリント用の水が不足するようになった。そこで、兵士たちの真水によるシャワーは禁止され、タンクの水は優先的に現像用水へとまわされている。
 戦争末期の1945年(昭和20)7月には、ついにグアム島の水不足は危機的な状況となり、現像やプリントの作業がストップするまでに悪化している。空中写真部隊による同時期までの成果は、偵察写真のプリントが合計231,324枚、撮影したネガの現像は179,774枚に達している。これだけ膨大な量の現像・プリント作業を行えば、専用の設備を備えた写真工場でも建設しない限り、水がいくらあっても足りなかっただろう。
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 さて、空中写真部隊による偵察任務は、攻撃目標を事前に撮影して爆撃部隊に詳細な情報を提供するだけが任務ではない。戦後になって、同部隊が焦土化した日本全土をくまなく撮影しているように、爆撃後の効果測定用に攻撃した地域の空中写真を撮影するのも重要な任務だった。1945年(昭和20)3月9日の夕方17時35分(Zulu time=GMT)に、F13の偵察戦隊がグアム島を離陸して北北西に進路をとっている。そして、21時35分(同)には真北へと進路を変え、翌3月10日の午前1時17分(同)に伊豆半島上空へとさしかかった。そして、相模湾を北東方向に横断しながら、トライメトロゴンカメラで斜めフカンの写真を撮影しはじめている。
 湘南上空から撮影しはじめたのは、その位置からでも目標がハッキリと視認できたからだ。千代田城をはさみ東京の東半分が、3月の強い北西風にあおられて燃えている。八王子方面から侵入したF13偵察機は、1時30分(同)ごろに東京上空に到達した。日本時間に直すと、1945年(昭和20)3月10日の午前10時30分ごろで、東京大空襲Click!の翌朝だ。東京上空に雲はほとんどなく晴れ上がっており、F13偵察機は北西側から南南東へとカーブを描きながら飛行して、大火災が発生し焼け野原が拡がる東京の中心部を撮影している。そして、1時50分(日本時間10時50分)には房総半島沖へと抜け、そのままグアム島へと帰投している。
 東京上空から撮影した写真を見ると、いまだに東京各地で空襲による火災が燃えさかっている様子がとらえられている。大川(隅田川)西岸の日本橋では、岩本町や小伝馬町、馬喰町、東日本橋(日本橋両国)、浜町あたりに大火災が見える。また、日本橋川の向こう(南側)に見える新川一帯も延焼中で、火災は銀座や八丁堀をなめつくしたあとだ。大川の東岸、本所や深川界隈にも延焼はあちこちで見られるが、すでにほとんどのエリアが全滅の状態だ。たった一夜の東京市街地への絨毯爆撃で、死者・行方不明者10万人以上にのぼった東京大空襲Click!の惨禍が、まさに当日朝の風景として眼下に拡がっている。
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 両国橋の西詰め一帯、わたしの実家があった東日本橋(日本橋両国)あたりは、濃い煙に覆われているのが見てとれる。燃えているのは、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)や明治座Click!浜町公園Click!の周辺一帯だ。おそらく、この空中写真が撮影される何時間か前に、わたしの実家はとうに延焼Click!しているのだろう。親父をはじめ家族たちが、まさにこの惨禍の暗闇の中をリアルタイムで人形町から日本橋川方面へと逃げまわっていたことを考えと、よく助かったものだと不思議な気分になる。わたしが、よくここに存在しているものだと……。
 この時期、千代田城をはさみ落合地域を含む東京の西北部は、一部で散発的な空襲Click!は行われていたものの、いまだ深刻な被害Click!をほとんど受けていない。だが、F13偵察機による精密な空中写真はすでに撮影されており、同年4月13日夜半の鉄道や幹線道路、軍事施設、河川沿いの大小工場をねらった第1次山手空襲Click!、そして5月25日夜半を中心とした住宅街への絨毯爆撃による第2次山手空襲Click!で、ほぼ壊滅的な被害を受けることになる。その際も、F13偵察機は空襲直前の空中写真と、爆撃効果測定用に空襲直後の写真撮影を行っている。
 わたしがここの記事でよく引用しているのは、F13偵察機が落合地域とその周辺域を撮影した1945年(昭和20)4月2日、つまり第1次山手空襲の11日前の空中写真と、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲の8日前の偵察写真だ。これらの空中写真は、日本地図センターが作成・公開しているF13偵察機の飛行コースを整理した標定図をもとに、撮影ポイント記号を特定して入手したものだが、米国の公文書館にはまだまだ未見の貴重な写真類が保存されている可能性が高い。
 同資料内でもテーマとして指摘されているように、米軍の空襲による日本全土におよぶ被害を正確に把握するためには(たとえば被害地域の特定や戦災地図の制作ひとつとってみても)、米国の国立公文書館に眠っているこれらの空中写真を検索し、その分析・解析を通じて活用していくのは不可欠な課題だろう。
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 日本地図センターでは、これまで少しずつF13偵察機による戦時中の空中写真を公開してきているが、同偵察機の詳細な標定図をもとに撮影場所をピンポイントで特定して、空中写真のプリントやデータを申し込むのは、多少のスキルを必要とする面倒な作業だ。ぜひ、Webサイト上で空襲下に撮影されたこれらの空中写真が、すばやく効率的に参照・ダウンロード(有料でも)できる仕組みづくりを考慮していただければと願う。

◆写真上:日本上空を飛ぶF13偵察機の下を、たまたま通過して撮影されたB29爆撃機。
◆写真中上は、B29を専用の写真撮影偵察機として改造したF13偵察機。は、1945年(昭和20)3月10日午前10時10分ごろの湘南上空(上)と、10時20分すぎに撮影された八王子上空(下)。は、10時35分ごろに撮影された炎上する東京市街地。
◆写真中下は、昭和初期の震災復興記念絵葉書(人着写真)にみる両国橋近くの日本橋地域。は、炎上中または延焼直後の実家を含む東日本橋一帯。
◆写真下は、3月10日午前の偵察写真にとらえられた落合地域と周辺域。下左は、2015年(平成27)に日本地図センターから刊行された『1945・昭和20年 米軍に撮影された日本』。下右は、米国のワシントンにある国立公文書館本館。

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この秋の『牛込柳町界隈』と『TOKYOディープ!』。 [気になる下落合]

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 今日で、2004年11月24日に拙ブログをスタートしてから、ちょうど14年目に入った。先日、とある神職の方から、多種多様な物語が集まってくるのは「語ってもらいたがっている人々が、生者や死者を問わず、それだけたくさんいるからだ」……といわれた。このサイトへアクセスしているのは、生きている人間だけとは限らないのかもしれない。w あと少しで、のべ1,500万人の訪問者を超えそうだ。多彩なテーマが、各時代を通じて錯綜するようになったけれど、落合地域あるいは江戸東京地方について興味のある方は、引きつづきお付き合いいただければ幸いだ。
  
 さて、こちらでも何度かご紹介している、伊藤徹子様Click!主宰による柳町クラブ『牛込柳町界隈』Click!だが、この秋、伊藤様より本をお送りいただいた。2010年の創刊号から2017年夏のVol.28まで、四季折りおりに発行されてきた『牛込柳町界隈』の集大成版で、今回お送りいただいた本は創刊号からVol.12までの記事を改めて編集したものだ。「神楽坂から早稲田まで①」とタイトルされているとおり、2018年以降も同書籍の「神楽坂から早稲田まで②」と「同③」が続刊の予定らしい。
 序文を、建築家・建築史家で江戸東京博物館の藤森照信Click!館長が執筆し、最後に新宿歴史博物館の橋口敏男館長とともに、畏れ多いながらわたしも跋文を書かせていただいた。本書の内容は、基本的に『牛込柳町界隈』と同様だが、まとめて記事が参照できる点が愛読者にとってはたいへんありがたい。わたしは、同誌が発刊された2010年の創刊号から欠かさず拝読しているし、二度にわたり拙文を掲載していただいている。その編集方針は、わたしのサイトづくりと通い合うものが多い。
 すなわち、本書の跋文でも書かせていただいたとおり、とある地域に眠る、ふだんはあまり気にもとめられない小さな物語をドリルダウンしていくと、その地域のみのテーマに収まり切らず、はたまた江戸東京地方だけに収まるとも限らず、日本全体の歴史=日本史も跳び越えて、世界史の流れに結びつくことさえ頻繁に起きるのは、こちらでも多種多様な記事で書かせていただいたとおりだ。落合地域でいえば、第一次世界大戦やロシア革命、世界大恐慌、第二次世界大戦、そして戦災による混乱と復興への結びつきなど、もはや落合地域という「地域史」の枠組みをとうにはみ出た記述も多い。
 わたしは何度か、小川紳介監督の『ニッポン国古屋敷村』Click!を例に、この視点・視座について繰り返し書いてきた。対象となる地域が、別に山形県の古屋敷村であろうが、沖縄県の久高島Click!であろうが、東京の牛込柳町であろうが落合地域であろうが、そこに眠っている物語や語り継がれたエピソードは、およそ天文学的な数にのぼるだろう。別に、江戸東京だから物語が多いわけではない。小川紳介の手法がそうであるように、どのような地域にも各時代における膨大なエピソードや伝承、物語が眠っているにもかかわらず、「うちの地域には、とりたてて語るべき事柄がない」と錯覚しているか、それをていねいに発掘し記録する表現者が不在なだけだ。
 地下に埋没したそれらの物語を丹念に掘り起こし、その展開や拡がりをたどりながら、登場する人物たちの軌跡を追いつづけると、期せずして地域や地方の垣根をやすやすとまたぎ、古屋敷村の進軍ラッパを吹く農民がそうであったように、日中戦争のさなかの侵略先だった中国大陸へとたどり着くことになる。同様に、ひとつのケーススタディとして、下落合に住んだロシア文学者をたどると、呼びよせた亡命ロシア人の先には当然、ロシア革命という大きな世界史のうねりが存在している。
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 新宿区の東南部をカバーする地域誌『牛込柳町界隈』の視点も、まさに同じところにある。そこで語られているのは、牛込柳町とその周辺域の物語なのだが、読み進むうちに日本史や世界史の視野へとスケールアウトしていく。「わたしの町で起きたこと」は、実は決して「わたしの町だけに起きたことではない」ことに気づかされることも多い。俗に「郷土史」と呼ばれる作業は、「わたしの町のみを研究する」ことではなく、その先にあるより大きな時代の流れやうねりへ、歴史の教科書にみられる演繹的な表現とはまったく逆に、ボトムアップ的(帰納的)な視座から触れ語ることだ。
 「わたしの町」や「わたしの地域」は、単なる書き手の軸足にすぎない。ましてや「わたしの町」は多くの場合、近代以降における便宜的な行政区画にすぎず、およそ100年ほどもさかのぼれば、まったく異なる地域性や風土が見えてくることもめずらしくないだろう。ある地域を軸足にして物語をたどることで、まったく別の物語の存在や拡がりに気づくことも少なくない。
 もうひとつ、「わたしの町」や「わたしの地域」のいいところだけ、美しくてきれいで見ばえのよい物語だけ、都合よく粉飾し「地域自慢」したい点だけを取り上げても、町や地域・地方をとらえ、語り、記録したことにはならないだろう。それは、ある意味で人間について描くのとまったく同様だ。町や地域は人間の集合体であり、その歴史の美化や粉飾・歪曲は後世への教訓はおろか、ウソ臭さとともになにものをも残さないし、実のある有機的な感動を呼ばないし、新たな創造も生み出しはしない。
 さて、『牛込柳町界隈』のひとつ残念なところは、コンテンツがネット上にアップされていないことだ。2008年のVol.8まで、ページのjpgファイルはアップされているのだが、画像のままでテキストの全文検索ができない。お送りいただいた書籍により、必要なときに各巻を1冊ずつ参照することなく、まとめて目的の記事を探せるようにはなったけれど、紙メディアだけでなく既存のサイトへバックナンバーをPDF形式でアップロードしておいてさえいただければ、PDF内の全文検索はもちろん、主要な検索エンジンからのボットが内部のテキストを拾うようになるだろう。そうすれば、『牛込柳町界隈』の運用性や可能性、そしてアベイラビリティは飛躍的に向上するように思う。ぜひ、今後のテーマとして検討いただきたい点だ。
 このサイトは、どちらかといえば落合地域を軸として、新宿区の西北部のことを記事にすることが多いが、伊藤徹子様の『牛込柳町界隈』は新宿区の東南部の物語を中心に取り上げられることが多い。最近、訪れて調査・取材するエリアも新宿区の中央部あたりで重なりそうな気がするが、そのクロスオーバーする地域は尾張徳川家下屋敷Click!としても知られ、明治以降は作家や画家たちが頻繁に風景を描き、負の遺産である“軍都・新宿”Click!の象徴としての戸山ヶ原Click!界隈ではないかという予感がどこかでしている。w そんなことを空想しつつ、ちょっとドキドキ期待しながら毎号楽しみに拝読したい。
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 この秋、落合地域に関連するTVコンテンツづくりのお話もあった。NHKのBSプレミアム(BS3)で10月30日に放送された、『TOKYOディープ!』という番組だ。目白にお住まいの柴田敏子様のご紹介で、同番組のディレクターからさっそく連絡をいただいた。目白・落合地域に住んだ、華族たちの屋敷をまとめて紹介したいという案件だった。どこに誰の邸があったのか、地図上にポイントして紹介したいという。
 わたしは、これまで華族屋敷については個々別々に書いてきたし、「なぜ目白・下落合には徳川邸が集まっているのか?」というようなテーマClick!では、徳川邸をまとめてご紹介してきたけれど、同地域に住んだ華族たちを全的に捉えるという作業は従来してこなかったので、ちょっと興味をそそられてお引き受けした。
 さっそく、これまで判明し、また判明しかかっている華族屋敷を16邸ほど書いてお送りした。その過程で、下落合の宮家(皇室)邸は除外し、宮崎龍介Click!と結婚し高田町上屋敷3621番地に住んだ柳原白蓮Click!も含めず、またあちこちで伝承を聞く下落合の伊藤博文別邸は含めることにした。すると、以下のようなリストになった。
 戸田康保邸Click!(高田町雑司ヶ谷旭出41) 徳川義親邸Click!(目白町4-41) 近衛篤麿邸Click!(下落合417) 相馬孟胤邸Click!(下落合378) 近衛文麿邸Click!(下落合436) 近衛秀麿邸Click!(下落合436) 伊藤博文邸Click!(下落合334) 大島久直邸Click!(下落合775) 九条武子邸Click!(下落合753) 徳川好敏邸Click!(下落合490) 徳川義恕邸Click!(下落合705) 川村景敏邸Click!(下落合1110) 谷儀一邸Click!(下落合1210) 津軽義孝邸Click!(下落合1755)  ⑮徳川義忠邸Click!(下落合1981) 武藤信義邸Click!(下落合2073)
 おそらく、当時の華族たちがこの地域へ“隠れ家”的に建設した別荘・別邸を含めると、上掲の16邸どころの数ではないだろうとにらんでいる。
 番組では、これらの屋敷のうち目白駅に近いもののみ、つまり下落合(1965年以降の現・中落合/中井含む)の東部エリアを中心に紹介されていた。だが、明治期の近衛篤麿邸が1929年(昭和4)11月に竣工したモダンな近衛文麿邸の建築写真で紹介されたり、相馬邸が母家ではなく正門(黒門)Click!だったり、戸田康保邸も母家ではなく庭先にある大温室の写真だったり、八ヶ岳高原に現存している徳川義親邸に現在の徳川黎明会の写真が使われていたりと、ちょっと突っこみどころや残念な点は多々あるのだが、この地域の華族邸を一度期に鳥瞰するという意味からは、興味深い作業をさせていただいた。
 もうひとつ、華族の子弟たちが学生寮Click!にまとめて暮らし、ときどき徳川義親や近衛秀麿も訪れては講話会を開いていたらしい、下落合406番地の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が取材できず、番組に登場しなかったのが残念な点だろうか。
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 書籍『牛込柳町界隈』のあとがきで、わたしが女子寮を取材していて不審者とまちがえられたエピソードを紹介されているが、著者の伊藤徹子様もまた序文の藤森照信館長も同じような経験がおありだそうだ。これからも、地域の施設からは不審者とまちがえられつつ、多種多様な物語をご紹介していかれればと考えている。

◆写真上:伊藤徹子様の書籍版『牛込柳町界隈』でもグラビア付きで詳細に紹介されている、1919年(大正8)に建設されたスコットホールClick!(早稲田奉仕園)の階段。
◆写真中上は、幕末に建てられ大震災も戦災もくぐり抜けてきた市谷加賀町の武家屋敷Click!(解体)。は、市谷甲良町に残る1923年(大正12)築の医院建築。は、河田町に残る1927年(昭和2)築の小笠原長幹(伯爵)邸Click!のシガールーム(喫煙室)外壁。
◆写真中下は、1928年(昭和3)築の早稲田小学校。は、夏草がしげる戸山ヶ原(上)と陸軍軍楽学校の野外音楽堂跡(下)。下左は、書籍版の『牛込柳町界隈―神楽坂から早稲田まで①―』。下右は、『牛込柳町界隈』の最新号Vol.28。
◆写真下:NHK BSプレミアムの『東京ディープ!』オープニング()と、華族屋敷の地図()。は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図をベースにポイントした判明している華族屋敷。までの番号は、本文中の華族屋敷リストに照応している。

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