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下落合を描く清水多嘉示の軌跡。 [気になる下落合]

林泉園.JPG
 8回にわたり連載してきた、清水多嘉示Click!が描く「下落合風景」作品とみられる描画場所の特定ないしは想定から、彼が下落合に残した軌跡を改めてたどってみるのが今回のテーマだ。そして、清水が残した足跡からはなにが見えてくるのだろうか? このような試みは、同じく「下落合風景」作品を数多く連作している佐伯祐三Click!松下春雄Click!でも、これまで検討・考察してきたテーマだ。
 まず、清水多嘉示は下落合を散策する過程で、4つのエリアの風景を写しとっている可能性が高いことだ。その4つのエリアのうち3つまでが、下落合に深く切れこんだ谷戸そのものか、あるいは谷戸に近接した場所を描いていることがわかる。また、残りのひとつは目白通りを越えて下落合が北側に張りだしたエリア、すなわち下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!の庭を描いているとみられる。
 雨がそぼ降るなか下落合464番地の中村彝Click!アトリエを、1917年(大正6)6月23日に訪ねたときから(ただし中村彝は不在だった)、清水と下落合とのかかわりがはじまっている。以来、清水は中村彝のもとを頻繁に訪問することになるが、同時に彝アトリエに集っていた周辺に住む画家や美術関係者たちとも親しくなっただろう。つまり、彝アトリエへ出入りするうちに、下落合の画家たちとも顔見知りになり、また中村彝からもアトリエに来訪する画家たちを紹介されていたと思われるのだ。
 清水多嘉示が、彝アトリエを通じて知り合った画家が多かったことは、彝の歿後、親しかった画家たちが集まって中村会Click!(のち中村彝会Click!)を結成し、1926年(大正15)に『芸術の無限感』(岩波書店)を編纂する際、渡仏中の清水にまで日本からフランスにあてた彝の手紙を収録するので提供するよう、わざわざ声をかけていることでも明らかだ。清水は手もとにあった彝からの手紙を、日本の中村会あてに送還しているとみられる。換言すれば、『芸術の無限感』の編纂に参加していた画家たちは、清水多嘉示が中村彝とかなり親しく、頻繁に手紙のやり取りをしていることまで知っていた……ということになる。
 すなわち、清水多嘉示が下落合を訪れた際、立ち寄る先は中村彝アトリエ(彝歿後の1925~1929年までは「中村会」拠点)だけとは限らなかったということだ。ましてや、フランスでいっしょだった画家や美術関係者の何人かは、下落合にアトリエや住居があり(たとえば大久保作次郎Click!森田亀之助Click!など)、さらに昭和初期に下落合へ転居してくる人物(たとえば蕗谷虹児Click!など)も含まれている。
 1928年(昭和3)に清水多嘉示が帰国してから、下落合を訪れる目的は、当初は中村会の拠点となっていた中村彝アトリエが多かったのかもしれないが、1929年(昭和4)に同アトリエへ鈴木誠Click!が転居してくると、下落合に住む中村彝を通じて知り合った友人たち、あるいはフランスで親しくなった知人たちを訪ねている可能性が高い。それが、清水の連作「下落合風景」から透けて見え、なおかつ下落合を散策する清水の軌跡と重なってくるのではないかというのが、これまで記事を書いてきたわたしの感想だ。
林泉園1936.jpg
「下落合風景」OP008.jpg 「風景(仮)」OP595.jpg
御留山藤稲荷.JPG
 そしてもうひとつ、清水多嘉示は目白崖線に深く刻まれた谷戸地形を散策するのが好きだったという印象をおぼえる。以下、清水が好んで描いたとみられる3つの谷戸(の周辺)と、想定される作品を分類してみよう。
 ★林泉園谷戸
 『下落合風景』(OP008)Click!/『風景(仮)』(OP595・OP256)Click!
 ★諏訪谷
 『風景(仮)』(OP285・OP284)Click!/『民家(仮)』(作品番号OP648)Click!
 ★前谷戸(大正中期から「不動谷」)
 『風景(仮)』(OP594)Click!/『風景(仮)』(OP287)Click!/『風景(仮)』(OP581)?Click!
 まず、中村彝アトリエの前に口を開けていた、御留山へとつづく林泉園の谷戸だ。『下落合風景』(O008P)は渡仏前の初期作品だが、『風景(仮)』(OP595・OP256)と併せて中村彝アトリエないしは彝歿後の中村会を訪ねているのは明らかだろう。清水は、林泉園から谷戸の渓流沿いを歩いて御留山まで下り、藤稲荷社のある丘上から深い渓谷を描き、あるいは帰国後にまったく異なるタッチで東邦電力が開発した林泉園の湧水源を2画面描いている。
 また、林泉園から西へ500mほどの諏訪谷では、谷北側の尾根上に通う道沿いに建てられていた下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!、あるいは1933年(昭和8)ごろなら近接する下落合622番地の蕗谷虹児アトリエClick!が建つ界隈を『風景(仮)』(OP285・OP284)の2作に描いている。また、諏訪谷を形成している青柳ヶ原Click!の北側から、目白通り沿いの福の湯Click!とみられる煙突を入れて、『民家(仮)』(作品番号OP648)も制作している。
 これら一連の作品は、彝アトリエで頻繁に顔を合わせていた同じ二科の曾宮一念を訪ねたか、下落合1443番地にある木星社(福田久道)Click!のところへ画集の打ち合わせに出向いた道すがらか、あるいは渡仏中に知り合った下落合630番地の森田亀之助ないしは蕗谷虹児を訪ねたついでに、近所でイーゼルを立てて描いた作品群なのかもしれない。
諏訪谷1936.jpg
「風景(仮)」OP285.jpg 「民家(仮)」OP648.jpg
諏訪谷.JPG
 諏訪谷から、さらに西へ450mほどの前谷戸(不動谷)では、やはり谷の北側に建つ中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)とみられるレンガ造りのビルを、『風景(仮)』(OP287)に描いている。そして同社の不動園Click!伝いにか、または第四文化村の坂道から前谷戸(不動谷)へと下りていき、渓流沿いを100m弱ほど歩いたあと、南側の市郎兵衛坂が通う急斜面を登って『風景(仮)』(OP594)を制作しているように見える。この谷戸のたどり方は、『下落合風景』(OP008)を描いたときの林泉園から御留山へとたどった、清水の足どりとそっくりなことに気づく。
 さらに、第二文化村の松下邸を描いたのかもしれない『風景(仮)』(OP581)があるが(この描画場所は自信がない)、これらの作品群はおしなべて、清水が木星社の福田久道へ風景のモチーフ探しを相談し、彼の示唆を受けて下落合の中部域、前谷戸が刻まれた目白文化村Click!へと導かれた成果なのかもしれない。
 以上のように、清水多嘉示が描いた「下落合風景」とみられる作品の描画場所をまとめて検討すると、清水多嘉示は清廉な泉が湧く谷戸の風情が気に入り、積極的に下落合の谷間あるいは“水場”を好んで逍遥している可能性を強く感じるのだ。滞仏中の作品は細かく検討していないけれど、はたして谷間や水辺にかかわる風景が多いものかどうか、興味深いテーマなのではないだろうか。
 さて、渡仏前に描かれた作品に、1921年(大正10)の『庭の一部』(OP007)Click!と制作時期の不明な『青い鳥の庭園』(OP018)があるが、この2作品は大久保作次郎の庭で制作された可能性の高いことは、前回の記事でも書いたとおりだ。大久保アトリエは、谷戸地形や湧水源とはまったく無関係だが、おそらく中村彝の紹介で訪問しているのだろう。当時の大久保アトリエ周辺は、いまだ畑地が多く農家がポツンポツンと見られるような風情だった。その中の1軒で、大久保アトリエ直近の「百姓家」Click!を借りて住んでいたのが、出身地である大阪時代から大久保作次郎とは親しく、極度の貧血を起こして下落合で行き倒れていた小出楢重Click!だ。
 清水多嘉示と大久保作次郎は、渡仏中もパリでいっしょだったので、帰国後も清水はアトリエを訪問しているのかもしれない。だが、大久保アトリエを想起させる画面は、帰国後の作品には残されていない。
目白文化村1936.jpg
「風景(仮)」OP287.jpg 「風景(仮)」OP594.jpg
前谷戸.JPG
モンパルナス「研究所」1924.jpg
 また、清水はモンパルナスにあったアカデミー・コラロッシのシャルル・ゲラン教室で学んでおり、同アカデミーで佐伯祐三Click!木下勝治郎Click!といっしょに記念写真に撮られているが、特に佐伯や木下と親しくなったというエピソードは残っていない。むしろ、のちに1930年協会Click!を設立する画家たちが意識的に距離をおいていたように見える、藤田嗣治Click!石黒敬七Click!たちグループの近くで制作していたようだ。
 ちなみに、朝日晃の書籍では同写真の撮影場所をアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールとしているが(『佐伯祐三のパリ』新潮社/1998年ほか)、清水多嘉示がこの時期に学んでいた美術研究所から考察すれば、この写真はアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールに隣接するアカデミー・コラロッシの誤りだろう。パリに着いたばかりの佐伯と木下は、さまざまな美術関連の施設を見学して歩いていたのかもしれない。

◆写真上:林泉園のテニスコート跡あたりを、北側に通う道路上から見下ろす。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林泉園周辺の清水多嘉示の軌跡。は、清水多嘉示の『下落合風景』(OP008/)と『風景(仮)』(OP595/)。は、御留山側から撮影した藤稲荷社の境内。拝殿・本殿の位置が戦前とは異なるが、清水は右手に見えている住宅のあたりにイーゼルを立てて『下落合風景』(OP008)を描いている。
◆写真中下は、同年の空中写真にみる諏訪谷周辺の清水の軌跡。は、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP285/)と『民家(仮)』(OP648/)。は、雪が降ったあと南へとつづく諏訪谷の情景で、遠景は新宿駅西口の高層ビル群。
◆写真下は、同年の空中写真にみる前谷戸(不動谷)周辺の清水の軌跡。中上は、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287/)と『風景(仮)』(OP594/)。中下は、前谷戸(不動谷)へ下りる坂沿いに築かれた第四文化村の宅地擁壁。は、1924年(大正13)に撮影されたアカデミー・コラロッシと思われる記念写真。清水多嘉示と、同年1月3日にパリへ到着したばかりの佐伯祐三と木下勝治郎が写っている。
掲載されている清水多嘉示の作品と資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。

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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(8) [気になる下落合]

清水多嘉示「庭の一部」OP007.jpg
 冒頭の画面は、清水多嘉示Click!が渡仏する2年前、1921年(大正10)に制作した『庭の一部』(OP007)という作品だ。同作は、同年9月9日から開催された二科展の第8回展に入選している。この画面をひと目観て、これとよく似た構図の別の作品を、わたしはすぐに想い浮かべた。翌1922年(大正11)に描かれ、同年開催の第4回帝展(旧・文展)に出品された、牧野虎雄『百日紅の下』Click!だ。
 長崎村(町)荒井1721番地(現・目白4丁目)にアトリエをかまえ、のちに下落合へ転居してくる牧野虎雄Click!は、長崎のアトリエから東へ200mほどの近くに住む、帝展仲間で下落合540番地の大久保作次郎邸Click!を訪れては、その邸内や庭園へイーゼルを持ちこんで帝展出品用の作品を仕上げている。1890年(明治23)生まれで同じ歳のふたりは、東京美術学校Click!の西洋画科でも同窓であり、気のおけない親友関係だったのだろう。
 大久保作次郎は1919年(大正8)に下落合へアトリエを建設しており、当然、3年前にアトリエを建てていた文展/帝展の画家仲間である中村彝Click!とも、近所同士なので緊密に交流していた。大久保は彝の歿後、『美術新論』(1927年7月号)の中村彝追悼号へ文章を寄せているぐらいだから、それなりに親しかったにちがいない。当時、郊外の田園風景が拡がる下落合界隈に住んだ文展(帝展)系の画家たちを称して、「目白バルビゾン」Click!というワードが流行っていた時代だ。
 大久保作次郎Click!は、自邸のアトリエで画塾を開いており、プロの絵描きをめざす画学生から近所の油絵が趣味の人たちまで、多くの弟子や生徒を抱え、毎日5~10人が通ってきていた。岡田三郎助の画塾Click!と同様に、女性の画学生や生徒たちが数多く集まり、結婚した満喜子夫人Click!も絵を習いにきていた生徒のうちのひとりだ。彼女たちは、大久保邸の周囲に拡がる庭園やアトリエでキャンバスに向かっては、仕上げた作品を大久保作次郎に講評してもらっている。牧野虎雄の『百日紅の下』は、大久保邸の庭にあった鶏舎の前で、日傘をかざして写生に励む塾生のひとりを描いたものだ。そして、その様子は『主婦之友』の記者によって、秋の帝展記事用にリアルタイムで撮影されている。
 さて、冒頭の『庭の一部』(OP007)もまったく同じシチュエーションで、日傘をかざしながら写生にいそしむ女性の姿がとらえられている。落ち葉と土を積み上げ、庭園や花壇づくりの腐葉土をこしらえているのだろうか、女性とイーゼルの向こう側にはこんもりとした茶色い小山が築かれている。このような小山は、長崎にあった牧野アトリエでも築かれていたのが、1919年(大正8)の第1回帝展に出品された牧野虎雄『庭』でも確認できる。画面右上には、細長い窓がうがたれた洋風の住宅が確認できるが、この建物こそが下落合540番地に建っていた大久保作次郎邸の一部ではないか?……というのが、わたしの課題意識だ。しかも、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)は1921年(大正10)に描かれており、牧野虎雄の『百日紅の下』よりも制作が1年ほど早い。
 清水多嘉示は、中村彝の紹介で下落合464番地の彝アトリエから北へ240mほど、目白通りをわたったところにある大久保作次郎アトリエを訪ねてやしないだろうか。そして、広い庭のあちこちで写生する女生徒たちを見て、自身もキャンバスに向かいたくなったのではないか。しかも、ただ単に大久保邸の庭を写生するだけではつまらないと感じたのか、制作に励む女生徒を中央にすえて描いている。この女生徒は、牧野の『百日紅の下』の洋装女性とは異なり、絣の着物に袴姿の女学生のようなコスチュームをしている。モダンでハイカラな下落合でさえ、当時は洋装の女性がめずらしかった。1922年(大正11)に目白文化村Click!から洋装の女性が外出すると、周辺の住民たちが立ち止まって注目するような時代だった。
大久保作次郎アトリエ1926.jpg
牧野虎雄「百日紅の下」1922.jpg
牧野虎雄「百日紅の下」制作現場.jpg
大久保作次郎アトリエ1936.jpg
 清水多嘉示の『庭の一部』が、何日間かけた仕事なのかは不明だが、牧野虎雄もその間に大久保アトリエを訪ね、清水の仕事ぶりを観察していたのではないか。あるいは、1921年(大正10)秋の二科展第8回展の会場に出かけ、あらかじめ大久保作次郎から聞かされていた清水の画面を観て、強いインスピレーションを受けたのではないだろうか。それが、翌1922年(大正11)に帝展第4回展の牧野虎雄『百日紅の下』へと還流しているような気が強くするのだ。しかも、面白いことに両作は展覧会の記念絵はがきとして、美術工藝会の手でカラー印刷され、清水の『庭の一部』は1921年(大正10)の二科展会場で、牧野の『百日紅の下』は1922年(大正11)の帝展会場で販売されている。
 さて、以上のような単に画面が似ているという理由のみから、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)を、大久保作次郎アトリエの庭ではないか?……と想定しているわけではない。さらに、もうひとつ大久保アトリエを想起させる重要なファクターが、清水の作品群には含まれているのだ。それは、やはり渡仏前の作品で同じ庭先を描いたとみられる、『青い鳥の庭園』(OP018)の存在だ。画面がモノクロームでしか残されていないので、行方不明か戦災で焼けた作品だろうか。
 画面の右上に、『庭の一部』(OP007)と同一デザインの窓がうがたれた洋風の邸が見えているので、おそらく同一の場所だと思われる。そして、モノクロなのでわかりにくいが、庭の繁みの前へこしらえた止まり木に、大きめな鳥らしいフォルムを確認できる。「青い鳥」と書かれているので、「青」を江戸東京方言Click!“緑色”Click!ではなく、そのままブルーとして解釈すれば、足を止まり木につながれたオウムかインコのような大型鳥なのかもしれない。
大久保作次郎アトリエ1947.jpg
大久保作次郎「揺籃」1921.jpg
大久保作次郎「庭」1922.jpg
庭の一部絵はがき.jpg 百日紅の下絵はがき.jpg
 大久保作次郎は、多種多様な鳥を飼育するマニアとしても知られていた。牧野虎雄の『百日紅の下』には、キャンバスに向かう女性の向こう側に、鶏舎で飼われている数多くのニワトリを確認することができる。同様に、牧野虎雄は大久保邸で飼われていた大きなシラキジを1931年(昭和6)、ビール片手に大画面のキャンバスClick!へ描き、同年の第12回帝展へ出品している。キジのほか、大久保邸ではクジャクやシチメンチョウなどが庭で飼われていたらしい。大正後期から昭和初期にかけ、乃手Click!ではイヌやネコ、鳥などペットを飼育するのがブームになるが、大久保作次郎は大型のめずらしい鳥を飼うのが好きだったようだ。
 余談だけれど、中村彝も小鳥を飼育していたようだが、実際に描かれた画面の鳥かごの中にいるオウムかインコのような大型の鳥は、彝自身がこしらえた鳥の“フィギュア”Click!だった。また、刑部人アトリエClick!の北側に位置する姻戚の島津源吉邸Click!では、10羽以上のシチメンチョウが庭で放し飼いにされていたのを、刑部人のご子息である刑部祐三様Click!と孫にあたる中島香菜様Click!からうかがったことがある。佐伯祐三Click!は庭で7羽の黒いニワトリClick!を飼い、霞坂の秋艸堂Click!にいた会津八一Click!はハトとキュウカンチョウを飼っていたことでも知られている。
 『青い鳥の庭園』(OP018)の中央左寄りに描かれた、おそらくブルーで塗られている鳥らしいフォルムは、オウムのような南国の大型鳥だったものだろうか。ぜひカラーの画面で確認してみたいものだが、清水多嘉示の作品を網羅し2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室から刊行された『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』には、モノクロ画面でしか収録されていないので、作品が失われてしまった可能性が高い。
 以上のような経緯や前提をもとに検討を重ねると、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)と『青い鳥の庭園』(OP018)は同一場所(庭園)で描かれたのであり、それは多くの女弟子が通って庭で日々写生をする光景が見られ、しかも邸内や庭園には当時としてはめずらしい鳥たちが数多く飼育されていた、中村彝ともごく親しい下落合540番地の大久保作次郎アトリエではないかと思えるのだ。ひょっとすると、牧野虎雄や大久保作次郎ら目白通り北側に住む画家たちが参加して行われていた長崎町のタコ揚げ大会Click!へ、清水多嘉示も参加したことがあるのかもしれない。
清水多嘉示「青い鳥の庭園」OP018.jpg
牧野虎雄「白鸚」193109.jpg
大久保作次郎アトリエ跡.JPG
 さて、8回にわたって連載してきた、「下落合風景」を描いたとみられる清水多嘉示の作品群だが、わたしが気になった画面は、とりあえずすべて網羅させていただいた。だが、建物や地形が描きこまれてない森や林の中の小道など、まったくメルクマールが存在しない画面も少なくない。それらは、未開発の落合地域の外れならどこでも見られた光景であり、それは高円寺界隈を含む東京郊外でも同様だったろう。また、清水の故郷である諏訪でも、同じような風景が見られたにちがいない。次の記事では、下落合において想定できる清水多嘉示の“足どり”について、その作品の描画場所とともにまとめてみたい。

◆写真上:1921年(大正10)に制作された、清水多嘉示『庭の一部』(OP007)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる大久保作次郎邸。は、1922年(大正11)に描かれた牧野虎雄『百日紅の下』()と、「主婦之友」に掲載された大久保邸の庭で『百日紅の下』を制作する牧野虎雄()をとらえた写真。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大久保作次郎アトリエ。
◆写真中下は、戦災から焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる大久保邸。は、1921年(大正10)に自邸の庭で描いたとみられる大久保作次郎『揺籃』()と、1922年(大正11)に制作された大久保作次郎『庭』()。は、美術工藝会が印刷した清水の『庭の一部』二科展絵はがき()と、牧野の『百日紅の下』帝展絵はがき()。
◆写真下は、1923年(大正12)の渡仏前に制作された清水多嘉示『青い鳥の庭園』(OP018)。は、1931年(昭和6)に大久保作次郎邸で飼われていたシラキジをモチーフに帝展出品作の『白鸚』を制作する牧野虎雄。は、大久保作次郎アトリエ跡の現状
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(7) [気になる下落合]

清水多嘉示「風景(仮)」OP594.jpg
 清水多嘉示Click!が描いた作品の中で、下落合の風景とみられる画面について1点ずつ検討を重ねてきた。今回は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、やはり『風景(仮)』(OP594)とタイトルされた、「不明(帰国後[1928年以降])」とされている作品だ。(冒頭画面)
 手前には空き地(住宅造成地ないしは畑)があり、その向こう側には急激に落ちこんだ谷間があるようで、谷底あるいは斜面には住宅の赤い屋根がのぞいている。右手には、少し盛り上がった地面の上に並木が植えられ、細い道路が通っているのがわかる。並木は、大正期から下落合の街路樹に多いニセアカシアではなく、異なる樹木のように見える。正面には、比較的大きな2階建ての日本家屋が建っていて、その左手の敷地にも物置か納屋だろうか、なにか建築物のようなフォルムが表現されているように見える。
 もし、これが昭和初期に見られた下落合の風景を描いたものだとすれば、わりと起伏のある地形や周囲の家々の様子も含め、このような地勢や風情の描画場所を、わたしは戦前の下落合(現・中落合/中井含む)で1ヶ所しか思い当たらない。手前に立てられている白い杭は、宅地造成の際に打ちこまれた敷地境界標だろう。昭和初期の当時でも、石やコンクリートによる背の低い境界標は存在していたが、このような木製の境界標が立てられているのは、住宅の建設工事が間近に迫っていることを暗示している。
 そのような目で手前の空き地を見ると、庭木用に低木を1~2本残し、敷地の境界を盛り土したような様子がうかがえる。ほどなく、大谷石かコンクリートによる“縁石”が設置されるのだろう。白い境界標の向こう側の空き地は、下落合1318番地の山田邸建設予定地であり、境界標の手前が北に入る細い路地をはさんで下落合1320番地の宅地だ。清水多嘉示は、盛り土を終えた後者(1320番地)の宅地へ入り、南東を向いて『風景(仮)』(OP594)を描いていることになる。
 すなわち、崖下の赤い屋根は下落合1284番地の山崎邸、そして正面の大きな屋敷は同番地の渡辺邸ということになる。そして、右手に通う道は十三間通りClick!(新目白通り)であらかた消滅してしまった市郎兵衛坂Click!の一部であり、この道路は右手の並木の向こうへ湾曲しながらつづいていく。画面の左手には、前谷戸Click!(大正後期から不動谷Click!)つづきの谷間が口を開け、谷底には中央生命保険俱楽部Click!(旧・箱根土地本社Click!)の不動園にある池からつづく小川が流れている。その谷間の対岸には、1928年(昭和3)にリニューアルされた落合第一小学校Click!の校舎がそびえ、あるいは霞坂沿いには会津八一Click!秋艸堂Click!が林間に見え隠れしていたかもしれない。
 画面右手の並木の向こう側は、緩斜面でなだらかに上がる地形をしており、昭和初期にはあまり住宅が建っておらず一面の草原が拡がっていた。このとき、すでに改正道路(山手通り)Click!計画の情報が、落合地域やディベロッパー間へ浸透していたのかもしれない。また、わずか100mほど離れた南の丘上には、津軽邸Click!(旧・ギル邸Click!)の巨大な西洋館の屋根が見えていただろう。
 清水多嘉示がイーゼルを立てている背後左手は、急斜面となって前谷戸(不動谷)へと落ちこむ地形をしている。その丘上には、昭和初期まで第一文化村の水道タンクClick!が設置されていた。急斜面は、雪が降ると目白文化村Click!の住民たちがスキーやソリ遊びを楽しんだ簡易“スキー場”であり、佐伯祐三Click!はその光景を谷底の対岸から「下落合風景」シリーズClick!の1作、『雪景色』Click!(1927年ごろ)として描いている。もし、『風景(仮)』(OP594)の描画場所が市郎兵衛坂であれば、佐伯の描画位置と清水多嘉示のそれは、渓流の対岸にあたる谷底近くの斜面(佐伯)と、市郎兵衛坂が通う谷上(清水)とのちがいこそあれ、わずか60mほどしか離れていない。
市郎兵衛坂1926.jpg
市郎兵衛坂1936.jpg
市郎兵衛坂1938.jpg
 少し前に、中央生命保険俱楽部を描いたのではないかと考察した『風景(仮)』(OP287)Click!がその通りであれば、清水多嘉示は同倶楽部の南側にある庭園「不動園」Click!から、谷間を南へたどって渓流沿いを歩き、やがて市郎兵衛坂が通う高台をよじ上ったところで、キャンバスに向かっているのかもしれない。この散策コースは、林泉園Click!の池からそのまま谷間の渓流をたどり、藤稲荷のある小丘へとよじ上って『下落合風景』(OP008)Click!を仕上げている経緯とそっくりだ。深い谷間に流れる渓流沿いの散策を、当時の清水はことさら好んでいたのかもしれない。また、同じようなコースを歩いて作品を仕上げていた画家に、大正末の松下春雄Click!がいる。
 現在、『風景(仮)』(OP594)の描画位置には住宅が建設されて立つことができないが、十三間通り(新目白通り)に大きく削られたとはいえ、画面右に通う市郎兵衛坂の一部はかろうじて残り、わずか130mほどだがたどることができる。画面右下の境界標の手前を、左手(北)へと入る細い路地は、いまは山手通り(環六)へと連結している。また、山田邸敷地の向こう側、谷間へ落ちこむ斜面に立てられていたとみられる山崎邸(屋根)の手前には、現在、谷間へと下りるバッケ(崖地)Click!坂が造られている。
 地図や空中写真を年代順に確認すると、画面手前の空き地(宅地)には1936年(昭和11)までに山田邸(1318番地)ともう1邸(1320番地)が建設され、また正面の渡辺邸はそのままだが、谷間に屋根だけ見えている川崎邸は、1936~1938年(昭和11~13)の間に解体されたものか、1938年(昭和13)の「火保図」には採取されずに消滅している。また、現状の川崎邸の跡地は、市郎兵衛坂とほぼ同じ高さに盛り土されているので、その後も手前の山田邸などの宅地と同様に、大規模な盛り土による新たな宅地開発が、引きつづき行われているのだろう。
 さらに、目白文化村の“スキー場”は、1930年代後半に入るとひな壇状に開発され、山手通り(環六)から谷間へと下る住宅街が形成されるが、いまでもバッケ(崖地)状の急斜面を観察することができる。以上のような状況を踏まえて考察すると、清水多嘉示は川崎邸が解体される以前、あるいは山田邸と1320番地邸が建設される直前、すなわち1930年(昭和5)前後に同作を描いたと推定することができる。
市郎兵衛坂1.JPG
市郎兵衛坂2.JPG
市郎兵衛坂1947.jpg
 さて、もうひとつ気になった画面に『雪の路地(仮)』(OP637)がある。同作も、「不明(帰国後[1928年以降])か」と疑問形で分類されている。いかにも、昭和初期に見られた東京郊外の風景だが、下落合でこの風景に該当する場所を、わたしは見つけることができない。画面には、2棟の西洋館と数棟の日本家屋らしい建物が見えているが、そのうち奥に描かれた赤い屋根の西洋館がかなり大きい。どこか、第一文化村Click!渡辺邸Click!アビラ村Click!島津邸Click!を思わせる意匠だけれど、光線の角度(右手背後が南側)が合わないし、当時の空中写真にこのような家並みは確認できない。清水の作品にしてはめずらしく、電柱(電燈線)がハッキリと描きこまれている。
 遠景には緑が繁り、手前の地面に比べて少し高台になっているようにも感じるが、大きな西洋館と高い樹木の森や屋敷林があるため、そう錯覚して見えているだけかもしれない。降雪があった翌日、清水多嘉示は晴れ間が見えたので、さっそく画道具を手に散策に出たのだろう。昭和初期は現代とは異なり、冬になると東京でも雪が頻繁に降っていた。道はぬかるんで悪路だったと思われるが、清水はことさら雪景色が描きたくなったものだろうか。ただし、わざわざ降雪のあとの歩きにくい中を、高円寺から落合地域までやってきているかどうかは、はなはだ疑問だ。わたしには思い当たらないが、落合地域でこの風景の場所をご存じの方がいれば、ぜひご教示いただければと思う。
 こうして、帰国後に描かれたとみられる清水多嘉示の作品群を観察してくると、どうやら下落合の東部だけでなく、中部(現・中落合)界隈にかけてまで歩いている可能性を感じる。それは、下落合1443番地の福田久道Click!を訪ねた際、「もう少し西を歩けば、キミが好きそうな谷戸沿いの風景があちこちにあるよ」といわれ、画道具を手に目白文化村(第一/第二文化村)のあたりまで散策に出ているのかもしれない。
清水多嘉示「雪の路地(仮)」OP637.jpg
「雪の路地(仮)」想定描画ポイント.jpg
渡辺邸.jpg 島津邸.jpg
 清水の「下落合風景」とみられる画面から感じとれる、描画場所の連続性をたどることは、そのまま下落合において風景モチーフを探し歩いた清水の“点と線”、すなわち散策ルートを浮かび上がらせることになるのだろう。でも、それはまた、次の物語……。

◆写真上:市郎兵衛坂の外れを描いたとみられる、清水多嘉示『風景(仮)』(OP594)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる市郎兵衛坂。いまだ川崎邸が谷底にかけて建っているのが採取されており、同坂の南側には並木の記号が付加されている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる市郎兵衛坂。山田邸ともう1邸が建設され、すでに清水多嘉示の描画位置はふさがれていて立てないが、斜面の川崎邸はまだ建っている。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる市郎兵衛坂界隈。川崎邸は解体されたのか消滅し、大きめな渡辺邸はそのまま残っている。
◆写真中下は、市郎兵衛坂の現状。左手に住宅が建ち並び、昭和初期と同じく清水の描画場所には立てない。また、右手につづく大谷石の擁壁は画面右手の土手跡。は、前谷戸(不動谷)の谷底へ下りるバッケ(崖地)坂で渓流は暗渠化されており、正面に見える修繕中の建物は落合第一小学校の校舎。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同坂界隈。空襲で多くの住宅が焼失しているが、渡辺邸はそのまま健在だ。
◆写真下は、下落合では思い浮かばない清水多嘉示『雪の路地(仮)』(OP637)。は、同作から想定される住宅配置。は、大屋根の切妻が特徴的な下落合1321番地の第一文化村・渡辺明邸()と、下落合2096番地のアビラ村・島津源吉邸()。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。

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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(6) [気になる下落合]

清水多嘉示「民家(仮)」OP648.jpg
 前回につづき、清水多嘉示Click!が描いた帰国後の風景作品を検討していこう。まず、冒頭の画面は武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、『民家(仮)』(作品番号OP648)とタイトルされており、これも制作時期が「不明(帰国後[1928年以降])」と分類されている作品だ。この風景も、昭和最初期の下落合ならあちこちで見られた風情だろう。光線の射し方や、家々の屋根が向く切妻の方角から見て画家の背後が南側であり、平屋と2階建ての住宅がかなり密集している。
 手前は畑か、冬場の草原のような様子をしており、広めな空き地の向こう側に低木の生垣を隔てて住宅群が並んでいる。そして、清水の画面にはめずらしく電柱や、家々に建てられた長い竿状の細い柱、そして銭湯の煙突らしいものまで描きこまれている。これだけ、住宅の上空に賑やかな描きこみのある清水の作品はめずらしい。
 まず、家々に建てられた細い竿状の柱はなんだろうか? 大正期から住宅のトイレに、2階屋根よりもかなり高めな「臭突(臭い抜き)」Click!が設置される事例が急増している。トイレが水洗ではない、おもに東京郊外の住宅街で目立つ流行りの設備だった。だが、「臭突」だと先端に風を受けてまわり、筒内部の空気を逃がす風車のふくらみがないとおかしい。あるいは、画面左手と中央右寄りの住宅に描かれている2本の竿は、鯉のぼりを泳がせるために男の子がいる家が建てた掲揚竿だろうか? だが、右側の1本は、どこか電柱の横木を思わせるような表現にも見える。明らかに電柱とみられるフォルムは、中央に描かれた灰色屋根の2階家から、ちょこんと突き出ているのが確認できる。
 さて、関東大震災Click!を経験した東京らしい、トタンかスレートとみられる2階家の赤い軽量屋根の左端から突き出ている、太い棒状のものはなんだろうか? 先端から灰白色の煙のようなものが流れ出ており、空に描かれた右手へとたなびく異なる色彩の表現を考慮すれば、手前の密集した住宅街の存在とあいまって、風の強い日にとらえられた近くにある銭湯の煙突と想定しても、あながち不自然ではないだろう。昭和初期に落合地域で開業していた銭湯は、すべて把握している。
 それらの銭湯とその周辺に拡がる住宅街を、ひとつひとつ地図や空中写真で検証していくと、当時の下落合にはこの風景に合致しそうな場所が3ヶ所ある。画面には丘状の地形も、また坂道などの傾斜地も見られないことから、目白崖線の丘上と解釈してまちがいないだろう。そうすると、このように建てこんだ一般的な住宅街の北側に銭湯の煙突が見える場所は、下落合574番地の「富士の湯」か、下落合635番地の「福の湯」Click!、下落合1498番地の「菊の湯」の3ヶ所しかない。
 ただし、光線の射しこむ様子から画家の背後が南だとすれば、「菊の湯」Click!の南側には敷地も広く大きめな第一府営住宅Click!の屋敷街が展開しているので、このような風情には見えなかっただろう。同様に、「富士の湯」の南側は大正末から住宅が密集しており、手前に描かれたような広い空き地あるいは原っぱの存在が想定しにくい。すると、残るは「福の湯」の煙突ということになる。
 また、煙突が「福の湯」だとすれば、1931年(昭和6)以降のこの位置には、補助45号線Click!(聖母坂Click!)が通っていなければならない。そう考えると、『民家(仮)』(OP648)が制作された時期は帰国した1928年(昭和3)5月から、聖母坂の道路工事がはじまる1930年(昭和5)ごろまでの間……と想定することができる。以上のような状況を踏まえながら、改めて画面を眺めてみると、手前の空き地は畑でも宅地造成でできた原っぱでもなく、東京府が計画する補助45号線の買収を終え、家々が解体された道路用地にも見えてくる。
 清水多嘉示がイーゼルを立てている(とみられる)位置は、右手のキャンバス枠外に下落合630番地の森田亀之助邸Click!、画家の位置から右うしろへ70mほどのところに下落合622番地の蕗谷虹児アトリエClick!(1930年代前半だとすると未建設)、同じく右うしろ100mほどのところには下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!、また画家の左うしろ100mほどのところには下落合1443番地の木星社(福田久道邸)Click!……というような関係になる。以前にご紹介した、曾宮アトリエを描いたとみられる『風景(仮)』(OP284/285)Click!の、わずか西北西へ100mほど歩いた地点だ。
 1930年(昭和5)1月に、清水多嘉示は『清水多嘉示滞欧作品集』を木星社から刊行しているので、その打ち合わせに下落合の福田久道Click!を訪ねた際、1929年(昭和4)ごろにちょっと“寄り道”して制作された作品なのかもしれない。
清水多嘉示「民家(仮)」OP648拡大.jpg
福の湯1926.jpg
福の湯1936.jpg
福の湯煙突.JPG
 1930年(昭和5)に入ってしまうと、聖母病院Click!フィンデル本館Click!の建設がはじまり、同時に補助45号線(聖母坂)の造成・掘削工事もスタートしていただろう。この道路工事によって、手前の空き地に建っていた家々と同様に、画面左手に見える家々は立ち退きを迫られ、ほどなく解体されることになったかもしれない。清水多嘉示がイーゼルをすえているのは、用地買収を終えた下落合655番地の山上邸の東側敷地か、同656番地の高田邸の跡地あたりということになる。
 だが、山上邸や高田邸の東側には、何ヶ所かが「く」の字にクラックする細い路地が通っていたはずなのだが、画面にはハッキリと表現されていない。手前の空き地に繁る枯草の間を、斜めに横切るような土面の表現がそれに相当するのだろうか? いずれにしても、道路建設の直前の情景だとすれば、周囲は空き地だらけになっていたはずであり、細い道路自体がまったく用をなさず、東京府が買収を終えた草原の中にまぎれてしまっていた可能性も否定できない。
 ちなみに、佐伯祐三Click!も近くの情景を「下落合風景」シリーズClick!で描いている。1927年(昭和2)の5~6月ごろ、八島邸Click!や竣工したばかりの納邸Click!を入れ、「八島さんの前通り」Click!を北側から描いた第2次渡仏直前の1930年協会第2回展Click!へ出展された作品だ。佐伯がイーゼルを立てているのは、清水多嘉示の描画位置から西へわずか140mほどのところということになる。清水の画面に描かれた当時は一般的な住宅群を、2~3年前に描いた佐伯の画面でも見ることができる。清水は南を背に、北へキャンバスを向けて制作しているが、佐伯は逆に北側から南を向いて仕事をしている。
 清水は、描く風景のメルクマールとでもいうべき、特徴的な道路や住宅、電柱、工場、煙突、坂道などを入れて描くことが少ない。『民家(仮)』(OP648)は、煙突らしいフォルムが描かれていたので描画位置を推定することができるが、もしこれが銭湯の煙突ではなくたとえば電柱だとすれば、落合地域の随所で、あるいは清水が帰国後に新居をかまえた高円寺でも、あちこちで見られた風景のように思える。
福の湯1938.jpg
佐伯祐三「曾宮さんの前」1926.jpg
森田亀之助邸跡.JPG
 さて、次に『風景(仮)』(OP589)を見てみよう。この作品も、「不明(帰国後[1928年以降])」と分類されている。手前には丘へ上る坂道が描かれ、右手には丘上か斜面に建つ洋風の2階家がポツンと描かれている。画家の視点は、道路をはさんで反対側のやや小高い位置から坂道を見下ろしている点にも留意したい。いかにも、坂や斜面が多い下落合らしい風情だが、これに合致する場所は昭和初期の現在、地図や空中写真あるいは多様な資料を前提に考えても、なかなか思い当たらない。
 下落合は、南斜面と丘上を中心に明治期から拓けた別荘地であり、大正期から昭和初期にかけては新宿方面(南面)への眺望に優れ、冬は陽当たりがよく北風が防げて暖かな南へと下る坂道や斜面では、積極的な宅地開発が行われている。したがって画面のような坂道があれば、すでに昭和初期にはその両側に家々が建ち並んでいる場所が多い。ただし、わたしの知る限り例外が2ヶ所ほどある。
 ひとつは、大倉財閥が丘全体を買収し、明治期には伊藤博文Click!の別荘があったという伝承が残る下落合(現・中落合/中井含む)東部の大倉山(権兵衛山)Click!界隈と、ふたつめは改正道路(山手通り)工事が予定されていて宅地開発が進まず、のちに樹木が伐採されて「赤土山」Click!とも呼ばれ、同工事により坂道(たとえば矢田坂Click!振り子坂Click!など)の多くが全的に、または部分的に消滅してしまう下落合の中部一帯だ。
 まず、この情景が大倉山(権兵衛山)だとすれば、描かれている坂道は七曲坂Click!の最上部であり、見えている家は大正期中に下落合630番地へ自宅を建てて転居する、下落合323番地の旧・森田亀之助邸Click!の並びに建てられた家の1棟……ということになるだろうか。大倉山(権瓶山)のピークは画面右手の枠外にあり、清水多嘉示がイーゼルを立てるかスケッチしているのは、下落合775番地の大島久直邸Click!の敷地土手ということになる。なお、森田亀之助が転居した理由は明確でないが、大倉家がテニスコートなどのスポーツ施設を建設するために、周辺の借家を解体している可能性がある。
 この七曲坂を、そのまま目白通りのある北へと歩けば、途中で中村彝Click!アトリエのある林泉園Click!が右手に見えてくる。また、画面右上に描かれた住宅の北側には細い路地が東西に通い、七曲坂へと抜ける道沿いにはヒマラヤスギの並木Click!が植えられていた。画面の中央上から左にかけて、少し尖がり気味の樹木が描かれているのがそれだろうか?
清水多嘉示「風景(仮)」OP589.jpg
七曲坂1936.jpg
赤土山1936.jpg
赤土山1938年以降.jpg
 また、『風景(仮)』(OP589)の画面が下落合中部の丘陵地帯の場合、わたしには描画場所が不明としかいいようがない。なぜなら、改正道路(山手通り)Click!の敷設によって地形が大きく改造されてしまった同エリアでは、消滅してしまった場所へ実際に立つことも不可能だし、1936年(昭和11)に撮影された空中写真と昭和初期の地形図からしか、消えた丘陵地「赤土山」を想像する以外に手だてがない。しかも、当該のエリアには住宅が少なかったせいか撮影された写真も少なく、現存する資料類もほとんど見当たらないからだ。

◆写真上:1928年(昭和3)の帰国後に制作された、清水多嘉示『民家(仮)』(OP648)。
◆写真中上は、同作品の空を拡大したもの。中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる推定描画ポイントで聖母坂は存在しない。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。は、補強された解体直前の福の湯煙突。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる福の湯とその周辺。は、1926年(大正15)9月20日制作の佐伯祐三『下落合風景(曾宮さんの前)』(部分)に描かれた福の湯の煙突。は、福の湯の南にあった下落合630番地の森田亀之助邸跡(右手)。
◆写真下は、同じく帰国後に描かれた清水多嘉示『風景(仮)』(OP589)。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる七曲坂上。中下は、同年の空中写真にみる山手通りの工事が計画されている赤土山周辺。は、1937年(昭和12)以降に赤土山から撮影されたと思われる風景。左側に見える電柱が並んだ坂道は、第二文化村の南端に通う振り子坂で、赤土山から北西の方角を見て撮影したと思われる。同写真は、「落合新聞」1967年(昭和42)3月1日号に掲載されたもので熊倉家所蔵の1枚。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。

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原稿料はまたあとでの松井直樹スタイル。 [気になる下落合]

松井直樹邸跡.JPG
 戦前から戦後にかけ、オシャレな本の装丁や挿画、ファッションデザインを手がけた人物に、下落合に住んだ松井直樹がいる。彼が下落合に引っ越してきたのは、1933年(昭和8)ごろのことだが、大正末から落合地域には頻繁に足を向けており、マヴォやダダイズムの関係者が集っていたバー「アザミ」Click!のこともよく知っているようだ。
 吉行エイスケの妻・吉行あぐりClick!が経営していたバー「アザミ」は、平仮名で「あざみ」と表記していたと思っていたが、松井直樹をはじめ他の資料では「アザミ」とカタカナ表記のものも少なくない。どちらが正確な表記かは不明だが、仮名表記が一定しないところをみると看板が「AZAMI」と、ローマ字表記だった可能性もありそうだ。
 当時の松井を含む、先端の美術やデザインに惹かれていた若者たちは、銀座で飲んだあと六本木のバーに流れ、そこから東中野駅へとやってくるのがひとつの“お決まりコース”だったらしい。西武電鉄Click!が存在しない当時、上落合へと出るには東中野駅から北へ600mほど歩かなければならなかった。
 当時の様子を、1962年(昭和37)6月10日発行の「落合新聞」Click!に掲載された、松井直樹のエッセイ『落合あのころ』から引用してみよう。
  
 銀座のバーで酒をのむと、六本木からはるばる東中野まで流れていったものだ。東京にバーというものの少なかった頃で、銀座のほかにはこの二つの地区にしゃれたバーがあったからだ。/東中野駅におりたつと、あのころなにか、急に空気が明るくなって、光と風が澄み切ってさわやかだった。一九二〇年代の先鋭的な新風が吹いていた。ユーカリだのアザミだのという店があって、そこいらを中心に当時のヌーベルバーグはとぐろを巻いていた。村山知義氏が、意識的構成主義を独逸からもちかえり、マヴォの運動をはじめたのもあの頃で、彼のアトリエは上落合にあった。あのころは六本木族だの落合族だのといわなかったが、あのころの落合界隈は、たしかに当時のもっとも前衛的な画家や文人の巣窟だった。
  
 バー「アザミ」は、東中野駅の北側=上落合側にあり、バー「ユーカリ」は駅の南側に開店していたようだ。この“アヴァンギャルド”な2店は、大正末の「大日本職業明細図」あるいは昭和初期の「便益明細地図」を参照しても採取されていないので、ほんの短い期間しか存在していないのだろう。
 松井直樹が下落合へと転居してくるのは、上落合に住むプロレタリア美術家や作家たちの運動が、特高Click!の弾圧で壊滅状態となった1933年(昭和8)ごろだった。彼はそのころ、宇野千代Click!が編集していた雑誌「スタイル」の装丁や、彼女が書く小説の挿画を担当していた。だが、「スタイル」は赤字つづきで資金繰りがきびしく、共同編集者である彼の給与も滞りがちだった。松井は社長の宇野千代を引っぱりだすと、ふたりで落合地域を頻繁に訪れるようになった。
東中野駅(柏木駅).jpg
東中野駅踏切.jpg
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 当時、下落合2108番地に住んでいた吉屋信子Click!や落合2133番地の林芙美子Click!、上落合503番地の壺井栄Click!などに原稿を書いてもらうためだ。もちろん、原稿料はいつ払えるかわからないのだが、それでもかまわないと「スタイル」を支援してくれる作家たちが、落合地域には多く住んでいたのだ。だから松井直樹自身も、下落合へ越してくるのにそれほどためらわなかったのだろう。
 最初は、西武線の中井駅から西へ300mほど歩いたところ、ちょうど林芙美子の「お化け屋敷」Click!が真向かいに見える、五ノ坂下の下落合850番地あたりだった。この借家は、ほんの短い間だけだったようだが、「若林」という大家の紹介で同じ下落合に家を建てて住んでいる。同エッセイから、再び引用してみよう。
  
 原稿料がいつもおくれるので原稿のたのみようがなくなると、社長の宇野さんをかりだして、吉屋さん、壺井さん、美川さんなどと、あちこち女流作家のところへも出かけたが、林さんのお宅へもそうして行ったのだった。宇野さんの人徳で原稿を手に入れようというわけだった。/私の住んでいた林さんの向いの家の家主さんは、若林さんという奥さんだったが(百代さんというお名前だったと思う)いまどうしていらっしゃるだろうか。その頃の私たち、妻との二人をユカイな似あいのカップルだといって、土地があるから二人に似あいの家を建ててやろうということになった。/その新しい家というのがまた、林さんの新居の方の向いだった。やがて戦局がしだいに緊迫して、隣組の防空演習がはじまり、米や砂糖や酒もタバコも窮屈になってきた。その頃私たちはその懐しい家と別れて、鎌倉の長谷の大仏裏へ引越してしまった。
  
五ノ坂下1938.jpg
四ノ坂下1938.jpg
吉屋信子邸にて1936.jpg
 この中で「美川」とは、三岸好太郎Click!と親しい画家・鳥海青児Click!の妻で作家の美川きよのことだ。大家が世話してくれた土地は、のちの1941年(昭和16)から林芙美子Click!手塚緑敏Click!夫妻が住むようになる新居Click!(下落合4丁目2096番地)の向かい、つまり四ノ坂下の下落合4丁目2041~2051番地あたりの一画だろう。中井駅から西へ200mほど歩いたところで、尾崎一雄Click!“もぐら横丁”Click!の近くだ。
 松井直樹は、空襲が近づくと鎌倉へ疎開してしまうが、二度にわたる山手空襲Click!でも四ノ坂下の家々はあまり焼けず、戦後までなんとか残っている。松井は下落合の暮らしがよほど気に入っていたのだろう、戦後になると再び落合地域へ家を建ててもどってくる。
  
 (前略)また落合に土地を見つけ、十二坪制限の家を建てて住むようになった。東京はまだ壕舎生活をしているようなときだったので、この小さな家が、ヤミぶとりで建てたようにみえるのではないかと気がひけたものだった。落合は変ったといっても、このあたりに二十年も三十年も前の昔から流れている親愛派の空気、幸福そのもののような生活的雰囲気はいまも変りなく、まだまだあちこちのすみずみに残っている。落合はアンチミストの町である。
  
 松井直樹がもどってきたのは下落合3丁目1384番地、すなわち目白文化村Click!の第一文化村の北に接する二間道路から少し入ったところの家だった。1963年(昭和38)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にも、確かに「松井」のネームが採取されている。
落合新聞19620610.jpg
松井直樹邸1963.jpg
 実は、「落合新聞」を発行している落合新聞社、すなわち竹田助雄Click!の自宅は下落合3丁目1385番地だ。1384番地の松居邸とは、南西側の敷地の角を接する隣り同士の間がらだ。つまり竹田助雄は、お隣りの松井直樹へ垣根ごしに原稿を依頼したことになる。

◆写真上:突き当たり右手に松井直樹邸があった、下落合3丁目1384番地の現状。
◆写真中上は、大正期に撮影された柏木駅(のち東中野駅)。は、1933年(昭和8)に撮影された東中野駅近くの踏み切り。下左は、松井直樹がデザインを担当した戦前のファッション誌「スタイル」。下右は、戦後に松井が活躍した「カラーデザイン」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる松井直樹邸があった五ノ坂下と四ノ坂下。は、1936年(昭和11)に撮影された作家たちで右から左へ宇野千代、吉屋信子、窪川稲子(佐多稲子)、林芙美子
◆写真下は、「落合新聞」1962年(昭和37)6月10日号に掲載された松井直樹『落合あのころ』。は、1963年(昭和38)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる松井直樹邸と竹田助雄邸(落合新聞社/竹田写真製版所)。


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