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情報の共有と交流を促進する「親族メディア」。 [気になる下落合]

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 地域の取材を進めていると、家族や親戚・親族に限定したミニコミメディアに出会うことがある。きょうは、落合地域を取材していて偶然に出会った、そんな地域限定……ならぬ家族や親戚、さらにその友人知人に限定されたメディアをご紹介したい。
 親戚や親族との交流は、通常は法事や祝いごと、パーティなどの席に限られることが多いが、その現場で“積もる話”を交換し合うのがほとんどだろう。そこで何年かぶりに再会した親戚同士が、最新の情報交換やその後の消息、あるいはエピソードの経緯を知ることになる。若い子たちなら、各種SNSによるテキストや画像の情報交換を通じて、家族や親戚間のさまざまな話題や情報を共有し合うかもしれない。だが、SNSをしていない高齢者たちには、それらの情報はとどかない。
 しかし、親戚同士や一族の方たちが一度は訊いてみたい情報、あるいは知っておきたいアイデンティティ的な知識、たとえば先祖はいつごろ東京へやってきたのか、どのような仕事をしてどこで暮らしていたのか、関東大震災のときはなにをしてどこへ避難したのか、戦争中はどのような生活を送っていたのか、どうやって戦災のカタストロフをくぐり抜けてきたのか、戦後はどのようにすごしてきたのか……etc.、そのような情報をふんだんかつ豊富にもっているのは、実は祖父や祖母などの高齢者たちなのだ。
 だから、お祖父さんやお祖母さん、伯父・伯母さん、叔父・叔母さんたちが参加していないSNSには、当然、そのような情報や物語、体験談などが蓄積できない。ご本人が亡くなってしまったら、二度と興味を惹かれたテーマについて訊くことができないし、「自分はなぜここで生まれ、ここにいて生活してるの?」といった、本人にとっての根源的あるいは依って立つ実存的な足もと=基盤の概念を、永久に失うことになってしまう。そのような情報の喪失や偏り、世代間における意識の乖離や認識の齟齬をなくす目的でつくられているのが、家族や親戚限定の紙メディア=親族ミニコミ誌なのだろう。
 落合・長崎地域への空襲や、戦後史などについて取材をさせていただいた、東京写真工芸社(富士見写真場Click!)の佐藤仁様Click!が、昨年(2016年)8月に亡くなった。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲による延焼で、小野田製油所Click!の裏に積んであったドラム缶が爆発して吹っ飛んだ話や、近くにあった銭湯の仲ノ湯(戦後は久の湯)の釜場に、日本の迎撃戦闘機Click!が落ちてきた話、写真館の至近に250キロ爆弾が落ち、破片が防空頭巾を切り裂いてカメラを壊し九死に一生をえた話、戦後の長崎神社改築の話など、多種多様なお話をうかがっていた。わたしの取材は必然的に落合地域側のテーマが多く、今度は長崎地域(椎名町地域)のお話を詳しくうかがおうと思っていただけに、たいへん残念だ。
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 亡くなった佐藤仁様の甥にあたる、佐藤創様からご連絡をいただき、親族ミニコミ誌「キラキラシュガー」の取材オファーをいただいたのは、今年(2017年)の1月だった。わたしはいつも対象者に取材させていただき、お話をうかがう側なので当初は面食らったのだが、親族ミニコミ誌とその役割りに強く惹かれてお話をさせていただくことになった。1時間半ほどの短い時間だったので、佐藤仁様が証言された地域の記憶や、その思い出などあまり詳しくは語れなかったのだが、取材から1週間ほどてして「キラキラシュガー」第4号がとどいた。
 さっそく内容を拝見すると、とても面白い。すべてをフォントの編集にせず、子どもたちの文章は手書きのまま掲載するなど、さまざまな工夫がほどこされている。また、子どもたちの描いたイラストや、親族の古写真などが掲載され、それにまつわる物語やエピソード、思い出話などが記事としてつづられている。家族ばかりでなく、親戚・親族一同でこのような情報をリアルタイムで共有し合えれば、そこから派生してより多種多様な情報や消息が集まって、より内容の濃い「記録集」として蓄積されていくだろう。
 ちょっとその一部を、「キラキラシュガー」第4号から引用してみよう。佐藤仁様の兄にあたる佐藤晋様の、子どものころに見た下落合の情景だ。
  
 (現在 西武新宿線 中井駅から目白大学周辺) いつも弟<佐藤仁様>や近所の子を引き連れて夏の太陽に温められたトマトを食べたり、冷たい井戸水を頭から被ったり、神田川へ入り込む小川<妙正寺川>で小魚をすくったり土手の小穴からダラリとぶら下がって昼寝でもしているのか赤腹の山カガシを引っ張りだしたり…/そんな事をやりながら「何故?」「どうして?」と心配気に不思議がっていたのが弟でした。私の弟や妹達が一番世話になったのも弟の「仁」でした。(<>内引用者註)
  
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 さて、落合地域を取材していてもうひとつ出会った印象深いメディアに、近衛町Click!藤田孝様Click!たちが刊行された「藤田譲氏とその一族の記録」(2014年)がある。やはり、家族をはじめ親族で「家族の歴史」を共有するために作成された冊子だ。下落合へClick!を建設して住むようになった一族の歴史や、関わった事業の起ち上げやその仕事上での役割り、一族のルーツを訪ねる旅行記、一族の現状と消息の詳細など、内容は多岐にわたりとても豊富だ。この1冊を読めば、藤田家の誰もが先祖の来し方を知ることができ、「いま、なぜ自分はここにいるのか」を知ることができる。
 やはり、藤田家に残るアルバムから古写真がふんだんに引用され、イラストや絵画も数多く掲載されている。また、家族の歴史を記述するのと同時に、そのとき世の中の動きはどうなっていたのか?……というように、社会の流れ(近代史)と家族・親族の動向とを重ねて記述している点が秀逸だ。親族間で共有する冊子としての役割りを超えて、貴重な写真資料とともに、このメディア自体がひとつの近代史における証言資料としての意味合いをも備えている。
 たとえば、お祖父さんが生きていた時代、日本はどのような政治・経済状況に置かれていたのか、また文化的にはどのような出来事があり、そこでどのような人々が活躍していたのか……などなど、同時代の社会的な状況がコンカレントで参照できるようになっている。メインテーマは藤田家なのだが、期せずして近代史の流れをおおよそ把握でき、そのようなマクロ的な視界から改めて藤田家の経緯をとらえ直すことができるという力作だ。
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 ブログやSNS、IMなどのツールがあたりまえになった今日、実はいちばん記録しておきたい情報をお持ちの方々が、それらのツールを利用していない世代だ……というのに気づく。そのような“気づき”もあって、13年前にこのようなサイトをはじめた経緯もあるのだけれど、デジタルメディアを利用していない世代に拙記事は読めず、記事を出力(印刷)してお送りする以外、その記述や記録を踏まえての新たなフィードバックは期待できない。親族同士のリアルタイムによる情報共有や、家族の歴史や消息といった世代間を大きくまたがる用途には、まだまだ紙メディアが活躍し、その定期的な発行が有効なのだろう。

◆写真上:戦前に撮影された、若き日の佐藤仁様。(小川薫アルバムClick!より)
◆写真中上は、「キラキラシュガー」第4号の表示上部に描かれたメインビジュアル。は、同誌の中ページで写真やイラストがふんだんに使われている。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された落合地域で、佐藤仁様たちが遊んだころの風情がいまだに残っている。は、GoogleEarthにみる現在の同所。は、子どもたちが描いた佐藤仁様たちの遊び場イラストマップ。
◆写真下は、2014年(平成26)発行の『藤田譲氏とその一族の記録』表紙()とアルバムページ()。は、藤田孝様による旅行記「祖父の郷里を訪ねて」。


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続・岡田虎二郎のずぶ濡れ帰宅ルート。 [気になる下落合]

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 以前、岡田虎二郎Click!が1920年(大正9)9月30日に台風の暴風雨と遭遇し、自宅へともどった「ズブ濡れ帰宅ルート」Click!をご紹介した。そのとき想定したのは、娘の岡田礼子Click!が暮らしていた下落合404番地、すなわち近衛町Click!の住宅番号でいうと近衛町6号を想定していた。だが、この近衛町6号の家は岡田虎二郎の死後、どうやら大正末ごろに虎二郎の妻と娘が下落合内を転居して、住んだ家らしいことが判明した。
 岡田虎二郎は1920年(大正9)9月30の木曜日、東京各地で開かれている静坐会の会場をまわっていた。1972年(昭和47)に春秋社から出版された『ここに人あり~岡田虎二郎の生涯~』によれば、木曜日の順路は早朝の本行寺(日暮里)にはじまり、笹川てい宅(西片町)→徳川慶久Click!(第六天町)→田健次郎(広尾町)→生田定七(加賀町)→宗参寺(弁天町)→青山幸宣(富士見町)→斎藤浩介(四谷伝馬町)→中村雄次郎(四谷仲町)→須藤諒(若葉町)→西教寺(本郷追分)と、市内を精力的にまわっている。そして、最後の西教寺で東京市は台風の直撃を受けて、大暴風雨の圏内に入ってしまったようだ。
 台風一過の翌日、日暮里の本行寺Click!へと向かっていた相馬黒光Click!は、目白駅Click!で偶然いっしょになった岡田虎二郎の様子を記録している。1977年(昭和52)に法政大学出版局から出版された『黙移~明治・大正文学史回想~』から引用してみよう。
  ▼
 先生逝去の直前、大暴風雨がありまして、池袋の辺りから目白にかけて一面の泥海と化したことがありました。夜おそく先生はその水の中を歩いてお帰りになりました。その翌日、私は省線に乗り日暮里に向って走っていますと、目白駅(先生のお宅はそのころ落合村にありました)から先生が乗り込まれ、私のすぐ隣りに腰をおろされました。私がかつてお貸しした「シェンキウィッチ」の「先駆者(谷崎氏訳)」についてこうお尋ねになりました。/『あの「先駆者」を読んでどこが面白かったか』(後略)
  
 相馬黒光は、1921年(大正10)10月1日の出来事として記録しているが、岡田虎二郎は前年の1920年(大正9)に死去しているので、記憶に1年間のズレがある。
 ちなみに、10月1日の金曜日に岡田虎二郎がまわっていた静坐会会場は、本行寺(日暮里)→遠藤少五郎(本郷)→長谷川保(本郷元町)→久能木商店(日本橋室町)→統一教会(芝花園町)→稲葉順造(飯倉片町)→有馬頼寧(青山北町)→岩手脩三(駿河台袋町)→豊原清作(神田松住町)ということになる。淀橋角筈の相馬愛蔵Click!・黒光がいる新宿中村屋Click!へは、毎週月曜日の本行寺(日暮里)の次にやってきていた。会場先には当時の皇族や華族、財閥系の屋敷も多く含まれており、安田善之介(本所横網町)や安田善四郎(日本橋小網町)、東伏見宮(赤坂葵橋)、前田利満(小石川三軒町)、井伊直安(柏木)、徳川達道(小石川林町)、鍋島直明(青山南町)などの名前も見えている。
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 さて、相馬黒光が「落合村にありました」と書いている岡田虎二郎の家は、彼が死去した自宅の特定から下落合356番地であることが判明した。この住所は、おそらく大正後期に地番変更がなされた区画であり、1925年(大正14)現在の明治期からつづく「落合村市街図」→「落合町市街図」では、下落合350番地のままとなっている場所で、356番地は欠番だった可能性が高い。つまり、岡田虎二郎の死去と相前後するように、下落合350番地が356番地へと変更された可能性がある。
 下落合356番地は、ミツワ石鹸Click!三輪善太郎Click!敷地の北側にあたる一画で、のちに同社重役の衣笠静夫Click!が住む敷地の東隣りだ。同地番の岡田邸は、したがって三輪家からの借地だったと推定でき、ひょっとすると岡田家は三輪家が敷地内に建てた借家に住んでいたのかもしれない。岡田虎二郎は、1920年(大正9)10月14日の夜に倒れ、翌日に青柳病院へと入院し、10月17日の深夜に尿毒症で急死している。
 さて、岡田虎二郎の葬儀を愛知県渥美郡田原町で挙げたあと(東京でも静坐会の会員による葬儀または追悼式が行われただろう)、遺族の妻・き賀と娘の礼子はいつ近衛町へと引っ越しているのだろうか。大正期の明細図から、順番にたどってみよう。まず、1925年(大正14)に発行された「出前地図」Click!では、下落合356番地(「365」と誤記)に「藤田」という名前が採取されている。だが、この種の地図でよく見られるように、「藤田」ではなく「岡田」ではなかったかという、住民名の採取まちがいの可能性が残る。
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 翌1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、下落合356番地に「渡辺」という人物が住んでいる。したがって、同年にはすでに岡田家は356番地にいなかったとみられる。ちなみに、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、すでに「渡辺」から「庄司」という人物に変わっているのがわかる。このように、めまぐるしく住民名が入れ替わる家は、借地・借家だった可能性が高いのだ。
 もし、「出前地図」に採取された「藤田」が「岡田」の採取ミスであれば、岡田家は虎二郎の死後1925年(大正14)までの4年余りを下落合356番地で暮らし、同年に下落合404番地の近衛町6号敷地へと転居していることになる。また、岡田虎二郎の死後ほどなく近衛町へ転居しているとすれば、東京土地住宅Click!が近衛町の販売をスタートした1922年(大正11)ごろ、すなわち虎二郎の死から2年後ということになるだろうか。岡田家は虎二郎の多大な収入から裕福であり、近衛町の土地をすぐに購入して自邸を建設できただろう。ただし、とりあえずは土地を購入しただけで、すぐに自邸は建設せず、女所帯なので周囲に住宅が増えてから家を建てているのかもしれないのだが……。
 藤田孝様Click!のもとに、東京土地住宅の常務取締役・三宅勘一Click!の名前が入った「近衛町地割図」が保存されている。目白駅近くの金久保沢Click!あたりに「豊島区」の名称が入っているので、大東京35区時代に入る1932年(昭和7)以降に作成された地割図だと思われる。同図には、「下落合四〇四番地四号」と「弐百拾弐坪四合」の記載とともに、岡田礼子の名前が採取されている。すでに岡田虎二郎の妻・き賀の名前ではなく娘の名前になっているところをみると、ほどなく母親もつづけて死去したものだろうか。
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 下落合356番地の家は、下落合404番地の近衛町よりもかなり遠いので大暴風雨の中、岡田虎二郎はかなり身体にこたえただろう。目白駅付近から下落合の丘陵に上ったのだろうが、道路はまったく舗装されていない時代だ。強風にあおられながら、泥道のぬかるみで足を取られ、Click!が脱げてしまったかもしれない。大正当時の道筋をたどると、目白駅あたりから旧・近衛邸のある丘上へ出て、林泉園の尾根上を通る最短距離を歩いたとしても、下落合356番地の自宅まではゆうに800m弱ぐらいはありそうだ。

◆写真上:下落合356番地にあった、旧・岡田虎二郎邸跡(右手の白塀)の現状。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「豊多摩郡落合町市街図」にみる下落合356番地。いまだ明治期の350番地のままで356番地は欠番となっており、大正後期に地番変更が行われているとみられる。は、同じく1925年(大正14)に作成された「出前地図」(「下落合及長崎一部案内図」)にみる下落合356番地の「藤田」邸で、「岡田」邸だったにもかかわらず表札の誤採取の可能性が残る。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合404番地の岡田邸と下落合356番地の渡辺邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合356番地の庄司邸と、その周囲に拡がる三輪善太郎邸敷地。
◆写真下は、1920年(大正9)9月30日の大暴風雨の日にずぶ濡れになった岡田虎二郎の新・帰宅ルート。w 中左は、藤田孝様の家に残る「近衛町地割図」の近衛町6号に掲載された娘の岡田礼子邸。中右は、おそらく20代後半か30代前半とみられる岡田虎二郎。は、下落合404番地(近衛町6号)に建っていた岡田邸跡の現状で、岡田礼子から敷地を購入してアトリエを建てているのは安井曾太郎Click!だ。


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ぜんぜん面白くないクイズや娯楽コラム。 [気になる下落合]

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 記事の資料にするため、とあるテーマを抱えながら昔の雑誌や新聞をひっくり返していると、必ず読者向けの娯楽コラムや懸賞クイズが掲載されている。いまでも、新聞や雑誌などに囲碁や将棋、クロスワードパズルのコーナーがあるのと同じように、戦前のメディアにもおそらく記者たちが頭をひねって考案したのだろう、読者が喜びそうなクイズやお笑いコラムなどが載っている。
 だが、どこが面白いのかサッパリわからなくてぜんぜん笑えず、逆に首をひねってしまう“迷作”も少なくない。たとえば、冒頭の写真は雑誌に掲載された読者クイズなのだけれど、ふたりの有名人の顔をタテに切って左右を継ぎ合わせた、ちょっとグロテスクな出題となっている。いま、こんなことをしたら「あたしの顔を半分に切ったりして、なにすんのよ! どーゆーこと?」と、即座に本人たちからクレームがきそうだが、当時はたいして問題にならなかったようだ。
 また、新聞社が発行する写真雑誌のため、新聞によく目を通している読者、つまり人物の顔を紙上で記憶している読者に有利な出題となっている。いまのようにTVが存在しないので、たとえ有名人といっても顔は広く知られてはいなかった時代だ。誰と誰の顔をくっつけたのか、読者のみなさん当ててみよう!……というのが懸賞クイズなのだ。当たった人には、抽選で2名の読者に現金5円がプレゼントされる。大正末の5円というと、だいたい今日の4,000~5,000円ぐらいだろうか。ちょっとしたお小遣い程度の金額だが、家計の足しにと応募者は多かったとみられる。
 さて、このブログをお読みの方なら、下落合のテーマとともに何度か登場している人物の顔(半分)なので、冒頭の写真を見てピンとくる方も多いのではないだろうか。1924年(大正13)に東京朝日新聞社から発行された、「アサヒグラフ」10月29日号の「読者のおなぐさみ」懸賞クイズから引用してみよう。
  
 読者のおなぐさみ/懸賞『誰と誰?』
 二人の顔を真中から継ぎ合わせた写真です。二人共有名な歌人で、その一人は男爵夫人で、本願寺に関係あり、一人は子福者で夫君と共に明星派の重鎮歌道、古典、其他新しい婦人運動にも関係してゐられます 右は誰左は誰でせう。(半分宛顔を隠して御覧なさい)/官製はがきに左誰れ、右誰れと姓名を記し本社グラフ部懸賞係宛でお送下さい。/締切十一月七日/正解者二名に金五円宛贈呈(正解者多数の場合は抽選による)
  
 正解はもちろん、右が下落合の九条武子Click!で左が与謝野晶子なのだが、「アサヒグラフ」の愛読者か、新聞の文化欄を注意深く読んでいる読者には、比較的やさしい問題だったのではないだろうか。もう少し賞金の額や、当選者の数を増やしてもよさそうなものだが、東京朝日新聞のクイズはおしなべてケチなのだ。
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 当時の主婦向けの雑誌にも、同じような懸賞クイズが掲載されている。こちらは、ウォーリーを探せならぬ「道夫さん」を探せクイズだ。いまから見ると、なんだか読者をバカにしてるんじゃないかと思うような出題だが、主婦の中には懸賞クイズを毎号楽しみにしていた読者もいたのだろう。こちらの賞品は現金ではなく、女性向けのファッションアイテムや化粧品などのグッズ、絵はがきなどとなっている。1928年(昭和3)に主婦之友社から発行された、「主婦之友」2月号より引用してみよう。
  
 懸賞考へ物新題
 お母さんは、道夫さんと、龍夫さんに、お揃ひの着物を着せて、お稲荷さんへお詣りに来たかへりがけに、兄さんの道夫さんを見失つてしまひました。お母さんは血まなこでさがしてをりますが見当りません。皆さん、道夫さんは、どこに何をしてゐるのでせうか、よーく探してやつてください。あてた方には公平な抽籤のうへ、五名に大流行の革製ハンドバッグ一箇づゝ、二十名にルビー入白銀洋髪飾ピン一本づゝ、三十名に化粧直しコンパクト一箇づゝ(略) 千名に川原久仁於画伯筆の美しい三色版絵はがき一組(四枚)づゝを差上げます。用紙は必ずハガキを用ひ、答と並べて裏面に住所姓名をハッキリと書き、二月廿八日までに、東京都神田駿河台主婦之友社編集局、懸賞係り宛にお送りくたさいませ。
  
 この「道夫さんを探せ」クイズの絵を描いたのは、サインに「クニオ」とあるので挿画家・児童文学作家の川原久仁於その人なのだろう。一見しておわかりのわうに、「道夫さん」は風船をふくらませて売る露天商の前で、両手を開いて夢中になっているのが数秒で見つかり、いま風のツッコミでいうと「ヘタクソか?」となるのだけれど、漫画が流行しはじめた当時としては新鮮で面白い、画期的なクイズだったのかもしれない。
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 雑誌に限らず、新聞にも娯楽コラムあるいは面白記事のコーナーがあって、そのときのタイムリーな話題に合わせて読者を笑わせようと試みている。時事マンガと呼ばれるジャンルのほか、「笑い話」的な記事を載せるのが流行った時期があった。特に、日中戦争が泥沼へとはまりこんでいく日本の、重苦しく暗い世相を背景に、新聞にさえわずかな笑いを求めた読者がいたのだろう。新聞にネタを寄せる側も、笑いを誘う読者ウケをねらったような投稿がめずらしくなかったようだ。でも、今日から見ると、その多くはユーモアにさえとどかない、ピクリとも笑えない内容が多い。時代とともに、笑いの質が大きく変化してしまったせいもあるのだろう。
 たとえば、帰国途中の近衛秀麿Click!が太平洋上の日本郵船・氷川丸Click!から、東京朝日新聞社へ打電した悲鳴短歌が掲載されている。当時の読者は大笑いしたのかもしれないけれど、いまとなっては「だから、どうしたってんだ?」とクールに返されてしまいそうな作品だ。1937年(昭和12)3月に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 まぐろでも泳ぎにくかろこのウネリかな/帰朝船中から近衛子の悲鳴
 欧米各国の指揮棒行脚にすばらしい成功を収めた近衛秀麿子は、十九日横浜入港の氷川丸で帰朝する予定のところ、先般東京近海を荒した低気圧に途中で遭遇、連日のシケ続きに船足が進まず、予定より二日も遅れて二十一日早朝横浜入港となつた。さるにてもこの時化は、よほどカラダに応へたものと見えて、十九日船中から本社に無電を寄せて曰く、/海シケ通しで元気なし/〇/海の中いま喰ひ頃のマグロかな/〇/沈むなら刺身包丁にワサビとり、マグロの群を切つて果てなむ/〇/マグロでも泳ぎにくかろこのウネリかな/(呵々)
  
 これも現在では、「ヘタクソか?」といわれてしまいそうだけれど、もともと生マジメな近衛秀麿が詠んだ、おかしな俳句や短歌ということで、ウケる人にはウケたのだろう。当時の東京朝日新聞の紙面らしい、また近衛秀麿もそれを意識したユーモアセンスだ。
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 さて、最後に余談だが、日本にコカコーラが輸入されたのは大正時代の初めとされているけれど、高村光太郎Click!の詩などに見られるだけで、輸入元が出したであろう広告がなかなか見つからなかった。高村が『道程』に書いている「コカコオラ」は、明治屋が日本代理店となって発売される前、芥川龍之介Click!が「コカコラ」と書く以前のものであり、日本に輸入された直後の製品だったとみられる。ようやく、大正初期から「日本一手輸入販売元」としてコカコーラを販売していた、斎藤満平薬局(現在も千代田区で営業)の媒体広告を見つけたのでご紹介したい。そう、当初コカコーラは疲労回復の健康薬剤として売られており、下落合の中村彝Click!カルピスClick!とともに飲んでいたかもしれない。

◆写真上:1924年(大正13)発行の「アサヒグラフ」10月29日号に掲載のクイズ写真。
◆写真中上は、「アサヒグラフ」(東京朝日新聞社)の同号に掲載された懸賞クイズ。は、下落合753番地の九条武子邸跡で現在は新築住宅が建っている。
◆写真中下は、1928年(昭和3)発行の「主婦之友」2月号に掲載された懸賞クイズ。は、1937年(昭和12)3月の東京朝日新聞に掲載された近衛秀麿の“迷作”。
◆写真下は、下落合436番地の近衛文麿・近衛秀麿邸跡。は、1919年(大正8)8月18日の東京朝日新聞に掲載された斎藤満平薬局の「コカ、コラ」媒体広告。


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「岩井栄」の壺井栄と「坪井栄」の藤川栄子。 [気になる下落合]

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 以前の記事で、壺井栄Click!の本名が「坪井栄」で、藤川栄子Click!の本名「坪井栄」と同姓同名だったため急速に親しくなり、窪川稲子(佐多稲子)Click!ら親しい友人を誘い合って、落合地域を散歩していたのだろう……と書いた。ところが、壺井栄の本名は正確には「岩井栄」であり、そもそも彼女の文壇デビュー作の活字から「岩」を「坪」、ないしは「壺」を「坪」と“誤植”していることが判明した。
 この「坪井栄」を、彼女の本名だとする資料もいくつかあるので(わたしは当該の資料を参照したようだ)、この勘ちがいは1938年(昭和13)に発行された「文藝」9月号に、坪井栄(壺井栄)『大根の葉』が発表されてから、かなり長期間つづいていた可能性がありそうだ。『大根の葉』以前にも、彼女は「婦女界」や「進歩」へ習作とされる作品をいくつか書いているが、本格的な小説は「文藝」に掲載された150枚の『大根の葉』が最初だった。そして、デビュー作の作品の作者名から“誤植”が生じた。
 壺井栄(岩井栄)は小豆島の実家で、少女時代から文学青年だった兄・岩井弥三郎の購読する「新小説」や「文芸俱楽部」、「女子文壇」などを読んで育った。東京へやってきて結婚したあと、夫のプロレタリア詩人の壺井繁治が治安維持法違反で豊多摩刑務所に服役中、『プロ文士の妻の手記』という作品を残している。30枚あまりの短い作品だが、婦人雑誌「婦女界」が公募していた生活記録文の懸賞に応募したもので、入選して30円の賞金をもらっている。『プロ文士の妻の手記』は小説(フィクション)ではなく、壺井繁治との生活をほぼそのまま記録した、自伝的ルポルタージュとでもいうべき作品だった。
 彼女が初めて書いた小説は、1934年(昭和9)に坂井徳三らが主催する現代文化社の文芸誌「進歩」第3号に掲載された、ペンネーム小島豊子の短編『長屋スケッチ』だ。この作品はフィクションの体裁をとっているけれど、やはり夫婦の生活上に起きた事実を記録した記録文学のような雰囲気をもつ。結婚後まもなく、世田谷町の太子堂近くに借りた長屋での生活を、周囲の人々の様子とともに記録したものとみられる。壺井繁治が二度めの服役から保釈後、彼の奨めで同作は「進歩」に寄稿されている。だが、「進歩」はマイナーな文芸誌であり、彼女がことさら大きく注目されることはなかった。
 つづいて1935年(昭和10)に、神近市子Click!編集の「婦人文藝」4月号へ、同じく短編『月給日』を発表した。この小説も彼女の実体験をベースにしており、かつて彼女が浅草橋の時計問屋に勤めていたとき、月給日に新宿で買い物をした帰り、新宿駅の切符窓口で月給入りの財布をひったくられた事件がテーマとなっている。『月給日』は、神近市子が編集する文芸誌に掲載されたことで、少なからず文学界から注目された。このころから、壺井栄は毛糸の編み物で家計を助けながら、小説家になる決心を固めていたようだ。
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 元来ユーモアたっぷりな彼女の性格は、落合地域を中心に宮本百合子Click!窪川稲子Click!(佐多稲子)たちと面白おかしく世間話を重ねているうちに、「それ、いっそ小説に書いてみれば?」と奨められることが多くなったらしい。特に宮本百合子は、彼女の小説家デビューを強力に支援したようだ。こうして書かれたのが、1938年(昭和13)に発表された『大根の葉』だった。当初は「文藝春秋」に掲載される予定だったが、彼女の担当編集者が急に北支へ転勤になって話が立ち消えになり、つづいて「人民文庫」への発表予定が、ちょうど掲載月に経営が破たんして廃刊となってしまった。
 最後に、宮本百合子が「文藝」の編集者・小川五郎(高杉一郎)に推薦して、ようやく1938年(昭和13)の「文藝」9月号に、壺井栄『大根の葉』は掲載されることになる。なかなか発表できなかった“難産”の状況から、宮本百合子は「大根の葉が、いまに乾菜(ほしな)になってしまう」と冗談めかしていっていたという。ところが、いざ「文藝」に掲載されてみると、とんでもない“誤植”が判明したのだ。かんじんの作者名「壺井栄」が、「坪井栄」になってしまっていた。ここから、ちょっとしたおかしな騒動が起きている。「文藝」9月号が書店に並んだとたん、画家・藤川栄子Click!のもとに祝いの手紙が舞いこみはじめたのだ。
 二科の藤川勇造Click!と結婚する以前、独身時代の坪井栄(藤川栄子)は、早稲田大学の文学部へ聴講生として通うほどの文学好きだった。1930年協会Click!へ出品して画家になる前、彼女はひとりで小説家をめざしていた時期がある。だから、藤川栄子の友人知人たちの何人かは、彼女の作品が「文藝」に採用されたと勘ちがいして、祝いに駆けつける者まで出てきた。そのときの騒動の様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
藤川栄子邸跡.JPG
藤川勇造アトリエ1.jpg
藤川栄子.jpg 佐多稲子.jpg
  
 いよいよ掲載誌が届いて栄が封を切ったところ、重大な誤植があった。作者の「壺井栄」が「坪井栄」になっているのだ。この作品が発表された時、画家の藤川栄子の許へお祝いの手紙が誰かから届いたという話があるが、それは彼女が彫刻家の藤川勇造と結婚するまでは「坪井栄」だったので、てっきり彼女の作品であると思って、お祝いの手紙をくれたらしい。ところで藤川栄子は、栄の少女時代に影響を与えた兄弥三郎の、高松の教師時代の教え子の一人だったということも、一つの因縁話として面白い。
  
 この時点で、初めて壺井栄と藤川栄子が知り合い、親しくなったわけではないだろう。それ以前から、早稲田通りをはさんで斜向かいの戸塚町上戸塚593番地に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)Click!と、親しく交流していた同町上戸塚866番地の藤川栄子Click!は、彼女を通じて壺井栄とも知り合っていたと思われる。ふたりとも香川県出身の同郷で、親しくなるのにそれほど時間はかからなかったろう。しかも、藤川栄子が壺井栄の兄の教え子だったことも、ふたりを急速に接近させた要因だったのではないか。
 このあたりの「坪井栄」をめぐるエピソード、すなわち藤川栄子の旧姓だった本名「坪井栄」と、本名で掲載されるはずだった壺井栄の誤植「坪井栄」のユーモラスな混乱がきっかけとなり、壺井栄の旧姓=坪井栄とする勘ちがいが、のちの資料類にまで生じた可能性を否定できない。
 ふたりの親しい交際は、壺井夫妻が上落合549番地から短期間の上高田暮らしをへて、鷺宮2丁目786番地(現・白鷺1丁目)へ転居したあとまでつづいた。藤川栄子は、親友の三岸節子Click!アトリエClick!を訪ねたときなど、同じく鷺宮に転居していた窪川稲子や壺井夫妻を訪問していたとみられる。
窪川稲子邸跡.JPG
窪川稲子邸1938.jpg
 実質の処女作となった壺井栄『大根の葉』は、軍国調の作品があふれていた小説界へ、久しぶりに本格的な味わいの小説が登場したと喜ばれ、多くの読者や批評家から好評で迎えられている。自身の作品が、初めてメジャーな文芸誌に掲載されたとき、おかしな誤植騒ぎはあったものの、壺井栄は夫に「わたし、もうこれで死んでもいいわ」といって喜んだが、彼女が次々と本格的な作品の執筆をスタートさせるのは、1945年(昭和20)の敗戦以降のことだった。

◆写真上:上落合(2丁目)549番地にあった、壺井繁治・壺井栄邸跡あたりの現状。
◆写真中上は、1937年(昭和12)ごろを想定した上落合・上戸塚地域に住む親しい女性作家・画家たちの様子。は、戦後の1955年(昭和30)に撮影された壺井繁治・栄夫妻。下左は、同じく戦後の1946年(昭和21)に出版された壺井栄『大根の葉』(新興出版社版)。下右は、三岸陽子様Click!の夫・向坂隆一郎様Click!が保存していた資料類に残る壺井栄『妻の座』(冬芽書房/1949年)の献呈サイン(提供:山本愛子様Click!)。
◆写真中下は、藤川栄子アトリエが建っていたあたりの現状。は、1933年(昭和8)に建設直後の藤川勇造アトリエ(2年後の勇造没後から藤川栄子アトリエ)。は、頻繁に訪問しあって仲良しだった藤川栄子()と窪川稲子(佐多稲子/)。
◆写真下は、早稲田通りの騒音がうるさかった窪川稲子邸跡。は、濱田煕Click!が描く1938年(昭和13)ごろを想定した上戸塚の街並み記憶画。窪川鶴次郎・稲子夫妻の借家が、中村兼次郎邸の敷地内に建つ借家だったのがわかる。


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第二文化村の「社宅建設敷地」の処分。 [気になる下落合]

第四文化村擁壁.JPG
 1925年(大正14)9月になると、箱根土地Click!は新聞紙上へ第四文化村の販売広告を出稿するとともに、目白文化村Click!の開発・分譲をほぼ終えている。また、箱根土地が翌1926年(大正15)7月17日付けで作成した第四文化村の「分譲地地割図」も残っており、全敷地が予約も含め販売を終了したように見える。でも、同年9月になると再び第四文化村分譲の小さな媒体広告を新聞紙上に展開しているので、7月の全敷地完売とされる「地割図」には疑問があることは、以前の記事Click!にも書いたとおりだ。
 また、もうひとつの課題として第四文化村の販売は、第二文化村の「売れ残り」の敷地を販売したものだ……というような記述の資料を見るが、1926年(大正15)の第四文化村の地割図は、箱根土地本社ビル(不動園Click!)の南西側にある谷間=前谷戸Click!(大正中期ごろから不動谷Click!と呼称)を、新たにひな壇状に開発・整地したもので、第二文化村の「売れ残り」ではない。では、なぜそのような証言が(あったとすればだが)、地元に残っていたのだろうか?……というのがきょうのテーマだ。
 第四文化村の開発は、ちょうど第二文化村が分譲・販売されているころ、そして第一文化村に大きく口を開けていた前谷戸の東側一帯の埋め立てClick!が実施された、1923年(大正12)の夏以前から開発がスタートしていたのではないかとみている。この時期、大量の土砂や大谷石ブロックが目白文化村に搬入され、谷間の埋め立てや急な傾斜地の緩急化、そしてひな壇敷地の造成が同時に行われていたのではないだろうか。特に第四文化村は、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!の1作『雪景色』(スキー)Click!に描かれているように、V字型に落ちこむ急傾斜の谷間敷地が多く含まれており、近衛町Click!バッケ(崖地)Click!でなかなか売れずに再開発が必要となった44号地Click!のケースと同様、大量の土砂や大谷石のブロックを用いてひな壇状に宅地を造成するには、相当な工数と開発リードタイムを必要としただろう。
 さて、箱根土地は第四文化村の分譲販売とほぼ同時期に、第一文化村の東側にあった本社Click!の国立駅前への移転を発表している。中央線の国分寺駅と立川駅の中間へ、箱根土地は新たに「国立駅」Click!を建設・設置して鉄道省に寄贈し、「大泉学園都市」Click!の開発と並行しつつ「国立学園都市」の建設へ本腰を入れるための本社移転計画だった。この本社移転の決定を受けて、目白文化村に確保されていた一部の土地が不要になっている。1925年(大正14)に箱根土地が作成した、第一文化村と第二文化村を併せた「分譲地地割図」を仔細に観察された方なら、すぐにピンとくるのではないだろうか?
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 不要になった土地とは、第二文化村の北西部に接した区画、ちょうど第二文化村水道タンクClick!の向かい側に拡がる、当初は南角地に下落合1650番地とふられた広い空き地だ。前述の「分譲地地割図」(1925年現在)には、「箱根土地会社/社宅建設敷地」と記載されている土地だった。箱根土地本社が国立駅前へ移転する以上、もはや国立から遠く離れた目白文化村に、同社社員の「社宅」を建設する意味はない。同社では、第四文化村の販売と同時か、あるいはやや遅れてこの「社宅建設敷地」へ新たな地割りを施し、改めて一般に分譲販売しているとみられる。
 この一連の分譲販売が、1925年(大正14)の第四文化村の販売時期と重なり、第二文化村の「売れ残り」の敷地を販売したもの……というような錯覚を生んで、地元の伝承(そのような証言があったとすればだが)へとつながっているのではないか。「社宅敷地」は売れ残りではなく、また第四文化村とは場ちがいの敷地であり、改めて区画割りや生活インフラを整備して分譲された、あと追いの第二文化村エリアの宅地ということになる。
 「社宅建設敷地」は、新たに5つないしは6つの区画に分割されて販売されているようだ。ただし、そのうちの1区画は地元の地主(農家)が箱根土地から土地を買いもどしたものか、昭和期に入ると再び畑地にもどっているので、実質は4区画ないしは5区画が分譲住宅地とされたようだ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、住宅地として整備されているのは4区画、畑地が1区画、また整備済みの住宅地か畑地かハッキリしない、広い空き地が1区画という構成になっている。そして、「火保図」(1938年現在)では3棟の住宅が建っており、地番が新たに下落合1647番地あるいは下落合1658番地などと細かく変更されている。
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 3棟の住宅の中で、もっとも大きなものは下落合1647番地(旧・1650番地)の安本邸だ。「火保図」では耐火建築の表現で記載されており、コンクリート造りあるいはそれに類似した造りの大きな西洋館だったとみられる。敷地の北寄りに巨大な母家が位置し、南側には広い庭園が拡がっていた。1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、同邸は火保図に描かれた家屋の半分ほどにしか見えないので、ひょっとすると同年から「火保図」が制作される2年の間に、母家西側に大規模な増改築を行なっているのかもしれない。安本邸は戦災に遭い母家が全焼しているが、戦後、この広い敷地へ建設されたのが下落合教会Click!下落合みどり幼稚園Click!だった。
 安本邸の北隣りには、水野邸(下落合1647番地)が建設され、南側には未建設の分譲地を残して、西隣りには居住者の記載がない小さめの邸(下落合1658番地)が建設されていた。この3邸は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機が撮影した空中写真でも捉えられており、空き地だった安本邸の南側分譲地には新たに邸が建てられているように見える。他の敷地はおそらく畑地のままだったか、あるいは投機を目的とした不在地主の所有地のままだったのだろう。同年の空襲では、4邸ともが延焼している。ちなみに、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、かなり大きめな邸にもかかわらず、安本と水野の両家とも人物紹介に採録されていない。
 また、「第五文化村」の分譲・販売が行われたとされる資料も散見するが、箱根土地が販売した目白文化村は第四文化村までであり、その後、1940年(昭和15)1月から5月にかけて、第二文化村の西側に接した南北に長い敷地一帯が、なぜか「目白文化村」として分譲販売されている。だが、この分譲地は勝巳商店地所部Click!による開発・販売であり、箱根土地はまったく関与していない。分譲地を分割した区画も、縁石や擁壁は大谷石ではなくコンクリート仕様が主体であり、また地下共同溝などの設備も敷設されず、目白文化村の開発コンセプトとはすでに大きく異なっている。
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勝巳商店目白文化村縁石.JPG
 もし、「第五文化村」が販売されたという伝承が存在したとすれば、箱根土地による第四文化村の販売から16年後に行なわれた、勝巳商店地所部による「目白文化村」の分譲販売を、「第五文化村」と勘ちがいした方がいたということではないか?……とは、以前の記事Click!でも書いた。ましてや、勝巳商店は箱根土地とまったく同ブランドの「目白文化村」と名づけて販売しており、また敷地も第二文化村の西に隣接するエリアだったため、そのような伝承が生まれたとしても不自然には感じられないように思われるのだ。

◆写真上:第四文化村に残る、大谷石による大規模な擁壁。前谷戸つづきの谷間へひな壇状の宅地を開発するには、膨大な土砂と大谷石ブロックが必要だったろう。
◆写真中上は、1926年(大正15)9月29日に各紙へ出稿された第四文化村の分譲広告。は、1926年(大正15)7月に作成された第四文化村の「分譲地地割図」。は、1925年(大正14)作成の「分譲地地割図」にみる「箱根土地会社/社宅建設敷地」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる「社宅建設敷地」跡の分譲の様子。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地所。すでに安本邸と水野邸、さらにもう1邸が建設されているのがわかる。は、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮影された同地所で新たに1邸が建設されているように見える。
◆写真下は、戦後に安本邸跡へ建設された下落合教会(下落合みどり幼稚園)。は、目白文化村の大谷石による縁石と共同溝の跡。は、勝巳商店地所部による「目白文化村」開発で施されたコンクリート縁石の様子。


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