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戦前からはじまった東邦生命の御留山開発。 [気になる下落合]

御留山01.JPG
 下落合にある御留山Click!(現・おとめ山公園)の相馬邸について、またまた誤りのある資料を見かけたので改めて整理しておきたい。同時に、1936年(昭和11)に相馬孟胤Click!が他界して、相馬家が1939年(昭和14)に中野地域へ転居したあと、その敷地を購入した東邦生命Click!が1940年(昭和15)ごろから推進した、御留山の丘上に展開した宅地開発についてもついでに考察してみたい。
 まず、下落合の御留山について書かれたさまざまな資料の中で、誤りの大もとになっていると思われる“原典”は、当の東邦生命の「八十年史編纂委員会」が編集し、花田衛が執筆した5代目・太田清蔵Click!の伝記だ。1979年(昭和54)に西日本新聞社開発局出版部から刊行された、花田衛『五代太田清蔵伝』の記述を引用してみよう。
  
 新宿区下落合にあった旧相馬邸は奥州中村の中村藩(相馬藩ともいう)江戸藩邸だったもので、四代太田清蔵が昭和十四年に買い取った。/敷地一万五千坪、建坪五百坪、部屋数五十という広大な屋敷で、乙女山と呼ばれる庭は丘と林と谷川を擁して広々としていた。/昭和二十年五月二十五日の東京空襲で灰燼に帰し、土地もほとんど売り払われた。残っているのは三百坪弱の土地と石造りの堅牢な倉庫二棟だけで、太田家の美術品や什器が収納されている。/大半は住宅街に変貌したが、庭の一部が新宿区立おとめ山公園になっていて、わずかに昔の面影をしのぶことができる。まん中に道路が通り、一方は池を中心にした植え込みの庭園、他方は小川を中にした楠や椎の豊かな森となっている。
  
 この文章の中には、3つの誤りが含まれている。まず、下落合の相馬邸Click!は1915年(大正4)に御留山の丘上に竣工しているのであって、江戸期からの藩邸ではない。下落合へ相馬家が転居してくる直前、赤坂氷川明神社の南隣りにあった相馬邸Click!が、江戸期からつづく中屋敷として利用されていた藩邸の建物だ。また、徳川将軍家の鷹狩り場Click!だった立入禁止のエリアは、「御留山」「御留場」であって「乙女山」ではない。
 次に、相馬邸の母家は1945年(昭和20)の空襲によって焼失したのではなく、4代目・太田清蔵が推進したとみられる宅地開発にともない、1941年(昭和16)に相馬家の黒門Click!(正門Click!)の移築とともに解体されている。空襲によって焼けたのは、解体された相馬邸母家の南西側に建っていた、太田清蔵親子が住む新築の大きな太田邸だ。このとき、すでに相馬邸の敷地にはクロス状に東西と南北の道路が拓かれ、宅地用の区画割りまでが行われている。その区画の南西角に、新たな太田邸は建設されていた。これらのことは、陸軍航空隊が1941年(昭和16)以降に撮影した空中写真、ならびに米国公文書館で情報公開されている米軍のB29偵察機が撮影した空中写真などで、明確に規定することができる。
 また、資料としては新宿区に保存されている、御留山開発の全貌を記録した「指定申請建築線図」の存在が挙げられる。1940年(昭和15)に淀橋区あてに申請された同図は、東邦生命による御留山分譲住宅地の詳細がわかる貴重な資料だ。
位置指定図19401001.jpg
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 さて、4代目・太田清蔵が進めたとみられる御留山の宅地開発だが、その手はじめとなったのが1941年(昭和16)にスタートした黒門の移築と母家の解体だったろう。このとき、黒門の福岡・香椎中学校への解体・移築に2年もかかっているのは、日米開戦後の戦時体制における軍事優先の運輸規制が影響したからだ。黒門の解体は早かっただろうが、巨大な相馬邸の母家の解体には、より多くの作業リードタイムを必要としたかもしれない。解体で出た良質な部材を、4代目・太田清蔵は売却したのか、それとも宅地開発にともない自邸の新築に流用したかはさだかでないが、少なくとも1943年(昭和18)末ごろには旧・相馬邸敷地に新たな道路が貫通し、区画割りを終えた造成地には住宅が建設されはじめている。
 1944年(昭和19)12月13日に、米軍のB29偵察機から撮影された空中写真には、旧・相馬邸の敷地へすでに道路が東西と南北に走り、区画ごとに完成した家々が11棟ほど確認できる。東西道と南北道とが交わる敷地には角切りClick!が行なわれ、交差点の中央には緑地帯が設けられている。当初、4代目・太田清蔵は御留山に拓けた丘上の敷地を、いちばん広い息子用の太田新吉邸敷地を除き、17区画(死者が出た火災事件Click!後に移築されたかもしれない太素神社Click!の境内を除く)に地割りして販売しようとしていた。その区画割りの南西角、谷戸に面したもっとも広い敷地に、太田家は邸を新築し空襲により全焼するまで住んでいた。
 翌1945年(昭和20)4月2日、すなわち4月13日に行なわれる第1次山手空襲の11日前に、米軍の偵察機から撮影された空中写真を見ると、住宅の数がすでに 15棟ほどに増えていたのがわかる。また、何ヶ所かの樹木が伐採され、食糧不足を補うためか畑にされていた様子もうかがえる。この空中写真が、4代目・太田清蔵が推進した宅地開発事業をとらえた最後の姿だろう。4代目・太田清蔵は、1946年(昭和21)4月4日に死去しているので、戦後に改めて開発された御留山の住宅街については関与していない。
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相馬邸1915.jpg
 次に1945年(昭和20)5月17日、第1次山手空襲のほぼ1ヶ月後に撮影された米軍写真を参照すると、4月2日に撮影された住宅群のうち、北側の区画を中心に半数ほどが“消滅”している。おそらく直接の爆撃ではなく、北東の近衛町Click!側からの延焼で焼失しているとみられる。だが、南側の区画に建っていた家々は、屋根が見えているので無事だったようだ。しかし、写真が撮影されてからわずか8日後の5月25日夜半、第2次山手空襲による焼夷弾の直撃で、太田邸も含む南側の区画一帯も全焼している。焼け跡に呆然と立ちすくむ、太田新吉の様子を同書から引用してみよう。
  
 五月二十五日夜の空襲で新吉の家が焼けたと知った岡本は下落合の屋敷へ駈けつけた。焼け跡に新吉が立っていた。岡本の姿を見ると、新吉はステッキで残骸をつつきながら、ぽつりと「何にもない。全部焼けちゃったんだよ」と呟いた。さすがに落胆の色はかくせなかった。岡本は小さな鏡台を持って来ていた。子供の玩具のようなものだが、ひげ剃りに必要だろう、と思って進呈した。/太田弁次郎は田園調布に住んでいて戦火をまぬがれた。翌日は自宅から銀座の本社まで歩いて出社した。こんなに歩いたのは初めてで、以後もない。本社は水びたしだったが、それでも焼け残ったのは幸運だと思った。が、下落合の新吉の家に回ってみると、みごとに何一つないまでに全焼しているのに改めて驚いた。剃刀一つないのである。弁次郎はそこで兄に安全剃刀を一つ進呈した。
  
 「新吉」は、すでに社長に就任していた5代目・太田清蔵のことで、岡本は武蔵境へ疎開していた彼の秘書、太田弁次郎は新吉の実弟だ。
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 戦後の1947年(昭和22)に撮影された米軍の写真を見ると、御留山の敷地には再建されている住宅はあるものの、ほとんどがいまだ畑にされていた様子がわかる。自邸が全焼したあと、5代目・太田清蔵は二度と下落合にはもどらず、旧・相馬邸の谷戸や弁天池を含む広大な庭は、1969年(昭和44)におとめ山公園として整備されるまで、下落合の「秘境」(竹田助雄Click!)として存在しつづけた。

◆写真上:御留山の冬枯れた谷戸を、北側の尾根筋から見下ろしたところ。
◆写真中上:上から順に、新宿区に保存されている1940年(昭和15)10月1日に淀橋区へ申請された御留山の「指定申請建築線図」。() 相馬孟胤が死去した1936年(昭和11)撮影の相馬邸と御留山(中上)と、1944年(昭和19)12月13日にB29偵察機から撮影された御留山。(中下) 1941年(昭和16)にスタートしたとみられる宅地開発が終わり、各区画には家々が建設されている様子が見てとれる。第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍が撮影した御留山。() 住宅の数が、いくらか増えているように見える。
◆写真中下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された御留山。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された御留山。いまだ住宅の数は少なく、空いた敷地は畑に活用されている様子が見える。は、1915年(大正4)の竣工直後に撮影されたとみられる相馬邸南側の「居間」(右手)で、『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。
◆写真下は、丘上から弁天池へと下る広大な芝庭の現状。は、谷戸の谷底にある湧水池あたりを北側の斜面から見下ろす。は、おとめ山公園の造成計画と進捗を伝える1967年(昭和42)10月26日発刊の「落合新聞」Click!


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文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(2) [気になる下落合]

伊藤邸外観イメージ.jpg
 今回は久七坂筋Click!に建っていたかもしれない、とても大正期が終わったばかりの昭和の最初期に造られたとは思えない住宅を、『朝日住宅図案集』Click!(東京朝日新聞社/1929年)の収録作品からご紹介したい。まるで、現代のモデルハウスのような意匠をしており、内部の間取りも今日とほとんど変わらず現代的だ。
 この邸は、下落合810番地に住む、設計者は鈴木周男の近隣に建てられているとみられる。冒頭の外観イラストに描かれたように、玄関が北側に接して設置されており、地番からいって久七坂筋から西へと入る路地の一画に建設されたものだろうか。この路地は、突き当たりがバッケClick!(崖地)で、諏訪谷Click!つづきの谷間(現・聖母坂Click!)へと急激に落ちこんでいる地形だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」で、下落合810番地の敷地を確認すると、この地番の住宅に相当する家に「伊藤」邸がある。1947年(昭和22)の空中写真で確認すると、屋根の形状や住宅のかたちも一致しそうだ。
 久七坂筋の両側は、大正末から宅地造成が進み、昭和に入ると次々にモダンな住宅が建設されている。ちょうど、道の両側で宅地造成が進む様子を、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作として、1926年(大正15)9月20日に『散歩道』Click!へと写しとっている。また、下落合810番地の同邸は、ちょうど遠藤新建築創作所が設計した小林邸Click!の、道路をはさんだ斜向い(路地の西側)にあった邸だ。このあたりは空襲にも焼け残り、戦後までずっと近代建築の住宅が建ち並んでいたエリアだが、わたしは学生時代から何度も久七坂筋を歩いているにもかかわらず、伊藤邸の記憶がまったくない。1933年(昭和8)に設計された小林邸と同様、意匠がモダンすぎて戦後に建てられた住宅だと勘ちがいし、印象に残らなかったものかとも考えたが、年代を追って空中写真を確認すると1960年代にはすでに解体されて存在しなかったようだ。
 敷地面積は52.25坪と、現代の一戸建て住宅とさほど変わらない。外観は今日のモデルハウスといっても通用しそうで、基礎はコンクリート打ち、土台は赤松、柱などの木材は米栂と米松、杉が多用されている。室内はすべてが洋間であり畳の日本間が存在せず、床は松やエゾ松の板材が使われている。平面図を見ると、室名の横に部屋の広さを具体的に表す「〇畳」と小さく添えられているのが、当時の図面らしい。
 外壁は、メタルラス張りと漆喰モルタル塗りで、軒先や軒裏、窓枠などはカラーペンキが塗られているが、外壁ともにカラーリングは不明だ。関東大震災Click!を強く意識した、「防災・防犯住宅」として設計された同邸の屋根は、栗色の石綿スレートで葺かれている。では、伊藤邸とみられる住宅の特長を『朝日住宅図案集』から引用してみよう。
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 【耐震的特長】平面を大体に於て矩形となし土台、梁、桁等の配置を簡単にせしこと、柱を可成均等に配置したること/総て大皷壁となしたる故、壁内に大なる断面の貫、筋違等を使用し得ること、外部に腰長押(三寸、一寸五分)を通したこと、屋根を石綿スレート葺とせること/【防火的特長】外壁を漆喰モルタル仕上としたる事、軒裏をトタン張りペンキ塗とせしこと、隣家との距離を成可く大にせしこと、台所、浴室の天井及壁は漆喰塗とし、扉は木骨にトタン張とせしこと、小児室床下に耐火安全庫を設けたる事(中略) 【小児室】を南東角に配置し、別に学齢児童の勉強室を二階に設けたること/【台所】南側に置き洗濯場を隣接せしめ、物置をも含めたること/【客室】は洋風とし、来客には折畳式寝台を使用すること/その他階段を緩にし、猶上下共一坪以上の広間を取る等、無駄を減じ余裕を増し、各室の連絡をよくし、相当の秘密を保ち、家族本位の住宅とせり
  
 屋根瓦の重さから、倒壊する家屋が多かった関東大震災の教訓が活かされ、屋根の重量をできるだけ軽くするスレート葺きが採用されている。また、壁面には今日の建築ではあたりまえになった、「貫」や「筋違」が施されている。
 防火の備えで面白いのは、当時は廉価なアルミニウムが存在しないため、火元となりやすい台所や浴室(当時は薪や石炭で風呂を沸かしていた)の扉を、焼けにくいトタン張りにしていることだ。トタン材は、関東大震災ののち急速に普及し屋根や屋根裏、扉などに多用されはじめている。また、子ども部屋の床下に「耐火安全庫」が設置されているが、このスペースも四囲がトタン材で囲まれていたのだろう。
 今日の住宅事情では難しくなっているが、隣家との距離を十分に保って延焼を防ぐ配慮もなされている。市街地とは異なり、郊外では敷地が広めに確保できたため、周囲の家々からできるだけ離して住宅を建てることが可能だった。だから、火災が起きても周辺を巻きこんで延焼することが少なく、被害を極小化することができたのだ。
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 また、同邸は「防盗」の面にも力を入れているが、つづけて引用してみよう。
  
 【防盗】南側に二間雨戸を設け、便所、浴室、台所の窓にはボルトを鉄板を以て連絡して取付けたること、外開き窓戸締に新工夫を施したること/各扉共上下二箇所にて締をなす/下部締り/在来の外開戸用鉄物を用ひ、周囲の枠組を細密になし、硝子を破つても容易に締りを外し得ざる様になすこと/上部締り/各窓框に取付けたる鈎及窓の両側の柱間に水平に取り付けたる真鍮管によつて各扉を堅く連絡し、三箇所以上にて真鍮管を固定せば決して一箇所のみ外すことを得ざる様になすこと
  
 以前にご紹介した和田邸とは異なり、同邸ではガラスを割っても侵入できない、金網入りの窓ガラスは採用されていない。その代わり鍵の施錠を工夫したり、窓の下部に真鍮管を取りつけるなど、窓枠に細かな工作がされている。
 ちょうど『朝日住宅図案集』が出版されたころ、すなわち昭和の最初期には妻木松吉こと「説教強盗」Click!が、東京各地を荒らしまわっている真っ最中であり、実際に下落合の邸も何棟かが被害に遭っている。それらの事件の犯行手口から、台所や便所などの小窓も含め、侵入口となりやすい窓にはさまざまな工夫が施された。当時の住宅は、関東大震災の教訓による「耐震・耐火」に加え、強盗や泥棒Click!の侵入を撃退する「防犯」が最優先の課題だったのだろう。
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 伊藤邸(現・パラドール下落合のあたり)の北隣りには、同じく下落合810番地の高良武久Click!高良トミClick!夫妻の自宅があった。妙正寺川に沿った下落合(3丁目)680番地の高良興生院Click!内の自宅とは別に、久七坂筋にも夫妻は自邸を建設していた。高良邸は最近まで、ていねいにリフォームを重ねて使われていたようだが、つい先日解体された。

◆写真上:『朝日住宅図案集』に収録された、伊藤邸とみられる住宅外観イメージ図。
◆写真中上は、同邸の平面図(北が下)で畳の和室はすでになく板張りの洋室となっている。は、台所のパースと防犯を強く意識した窓の仕様。
◆写真中下は、まるで現代住宅のようなデザインをした同邸の側面図。は、耐震・耐火・防犯を強く意識した同邸の断面図。
◆写真下は、1938年(昭和13)の火保図にみる同邸だが実際より大きめに描かれているようだ。は、戦後の1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同邸。は、伊藤邸の北側に建っていた元・高良邸だが解体済み。(GoogleEarthより)


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落合地域で20回の狩りをした徳川吉宗。 [気になる下落合]

御留山01.JPG
 千代田城の8代将軍・徳川吉宗が、落合地域で鷹狩りをしたのは1717年(享保2)に鷹狩り場(御留山/御留場)の「六筋」を設置して以来、中野村への道すがらも含めると合計20回にもおよんでいる。「六筋」とは、千代田城Click!を起点に五里四方へ狩り場のコースを規定したもので、6つの筋ごとに鷹場役所や、筋沿いの村々では鷹場組合が結成されている。
 その「六筋」とは、1717年(享保2)現在で葛西筋・岩淵筋・戸田筋・中野筋・品川筋(のち目黒筋)・六郷筋(のち品川筋)という構成だった。この筋ごとに設置された鷹場役所や、村々が合同で組織した鷹場組合により、吉宗の時代以降は「将軍家の鷹狩り」Click!という行事が遂行されることになる。落合地域は、村民の立ち入りや狩猟、樹木の伐採などがいっさい禁止された、鷹狩り場の中心となる下落合村の御留山Click!を抱えていたが、上記の筋でいうと「中野筋」にあたる狩り場コースだ。
 落合地域の周辺には、将軍家の狩り場だった長崎村の鼠山Click!や下高田村の鶉山Click!、池袋村の丸池Click!周辺、雑司ヶ谷村の一帯が存在している。これまで、長崎村の鼠山でイノシシやシカの巻狩りをしたあと、清戸道Click!を1本はさんだ南側に隣接し、将軍の御立ち台(展望台)もある下落合村の御留山Click!で鷹狩りをする……というようなイメージで「将軍家の鷹狩り」をとらえていたのだが、『徳川実記』に詳細が記録された狩りの様子から、それが大きな誤りであることがわかった。長崎村の鼠山で狩りをしたあと、わずか500~600mの近さとはいえ下落合の御留山で鷹狩りをすること、あるいはその逆のコースをたどって狩りをすることなど、基本的にありえないのだ。
 なぜなら、長崎村の鼠山と下落合村の御留山は鷹狩り場の「筋」ちがいだからだ。下落合の御留山は「中野筋」だが、長崎村の鼠山や池袋村の周辺、雑司ヶ谷村の一帯は「戸田筋」であって、狩り場のコースがまったく別だ。したがって、「将軍家の鷹狩り」を仕切る鷹場役所や村々の鷹場組合も別であり、少なくとも徳川吉宗の時代には、たとえば「戸田筋」で狩りをしたあと、その「戸田筋」をあずかる役人やスタッフが、別の役所や組合が仕切る「中野筋」のエリアへ、そのまま勝手に入りこんで狩りをすることなど原則としてありえない。ただし、徳川吉宗は柔軟な思考ができる人物だったらしく、この「筋」ちがいな突然の“ドッキリ”狩りを二度ほど実施している。
 さて、徳川吉宗が落合地域で鷹狩りをした、あるいは落合地域を含む「中野筋」の道すがらで狩りをしたのは、生涯に20回におよぶ。1728年(享保13)の狩りから1745年(延享2)の狩りまで、およそ17年間のことだ。この中で落合地域のみに絞って、おもに下落合村と上落合村、葛ヶ谷村(現・西落合)に限定して狩りを実施したのは、9回にのぼるとみられる。すなわち、順に挙げてみると1739年(元文4)3月13日(旧暦:以下同)、同年4月23日、1740年(元文5)2月3日、1742年(寛保2)4月3日、1743年(寛保3)3月15日、1744年(延享元)2月18日、同年3月15日、同年10月5日、1745年(延享2)3月27日の9回だ。
 1739年(元文4)から、ほぼ毎年のように落合地域のみの狩りを行っているが、これは御留山の鷹狩りがよほど気に入ったか、周辺に拡がる風情がことさら好きだったものか、名主の娘がどこかの村のお藤ちゃんClick!なみに特別にきれいだったものだろうか。w 特に1744年(延享元)には、⑥⑦⑧と年に3回も落合地域へ鷹狩りに出かけてきている。吉宗の落合通いは、死去する6年前までつづいた。
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五里四方鷹場惣小絵図1763拡大.jpg
 上記の狩りの中で、吉宗が「筋」ちがいな狩りをしたのは、1739年(元文4)4月23日のもので、おそらく鷹場役所の役人や鷹場組合の村民たちはあわてたのではないだろうか。この日、千代田城を出発した徳川吉宗の一行がめざしたのは雑司ヶ谷村、すなわち「戸田筋」で狩りをする予定だった。ところが、雑司ヶ谷に着いたあと、実際に狩りをしたかどうかは不明だが、急に吉宗は落合で狩りをしたいといい出したようだ。「戸田筋」の鷹場役人や組合の雑司ヶ谷村民は、吉宗がつつがなく雑司ヶ谷で狩りを楽しめるようさまざまな準備をしていたはずだ。だから、なんの準備も行われていない「中野筋」にある落合へいきたいといい出したとき、おそらく呆気にとられただろう。
 この突然の狩り場変更には、いろいろな理由が考えられる。ひとつは、雑司ヶ谷の天候がよくなくていい狩りができなかったという事情だ。当時、天候による狩り場の変更はほかにも例があり、それほどめずらしいことではなかった。ただし、「筋」のちがうエリアへの狩り場変更は、めったにないことだった。しかも、雑司ヶ谷が雨で狩りがしにくいなら、おそらく1,500~2,000mほどしか離れていない落合もたいていは雨だろう。あるいは、雑司ヶ谷には獲物が少なかった可能性もある。せっかく楽しみにしていたのに獲物が少ないので、「ちがうとこ行こうぜ」と吉宗がいいだしたのかもしれない。または、なにか縁起の悪いこと、不吉なことが突然起きてしまい、「気分転換しようや、場筋変更は苦しゅうない」となったものだろうか。これなら、わざわざ「筋」ちがいの落合へ変更したのも、うなずけるような気がする。それとも、「やっぱりお藤ちゃんの顔が見たい!」というような“特殊事情”があったものだろうか。w
 徳川吉宗が、「戸田筋」から「中野筋」へと“越境”して狩りを行った、1739年(元文4)4月23日のこの日、獲物はそろそろ北へと帰る渡り鳥のガンがメインだった。おそらく、神田上水や妙正寺川か、両河川沿いの湧水池に飛来していたものだろう。「中野筋」の鷹場役人や落合地域の村の名主たちは、知らせを聞いて大急ぎで駆けつけただろうか。「戸田筋」の役人や村民の責任だから、「そんなの関係ねえ」と知らん顔はできなかっただろう。それに、少しでも顔を見せて世話を焼けば、あとで報酬が期待できた。
 さて、9回におよぶ落合地域での狩りの主要な獲物は、『徳川実記』によればがキジ、がカモとキジ、ミミズク、ウサギ、がキジ、がキジとイノシシ、がキジとカモ、がキジとイノシシ、がガンとカモ、キジ、がキジと記録されている。吉宗が落合地域での狩りを気に入った理由として、ほかの狩り場に比べ獲物の種類が豊富なことも要因として挙げられるかもしれない。したがって、鷹狩りや巻狩りを催したあとの、村々への報酬も多かったのではないかと思われる。
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 もうひとつ、吉宗が「筋」ちがいの“越境”をしたものに、1731年(享保16)3月18日の狩りがある。この日は、午前中に「戸田筋」の鼠山で狩りをしていて、安藤対馬守下屋敷Click!で昼食をとっているが(上屋敷Click!の字名ができたのはこのころか)、午後からいきなり「中野筋」の中野村方面へと狩り場を変更している。この日も、おそらく落合地域を通過しているのだろうが、変更の理由は不明だ。なんの前触れもなく、いきなり将軍一行が鷹狩り姿で村々に現れたら、村民たちは「そんなスケジュール、聞いてねえし!」と驚愕しただろう。ざっくばらんな性格だったといわれる吉宗には、それが面白くて「苦しゅうない、無礼講じゃ」と、たまにサプライズ狩りをやるという悪戯心があったのかもしれない。ちなみに、この日の獲物はイノシシとウサギだった。
 将軍が狩りを行なう際、「鷹場筋」沿いの村々にはさまざまな労役義務が課せられることになる。当初は、それらの労役に対して幕府から報酬米が支給されていたが、江戸期も下るにしたがって村々から「米じゃ不便なので金銭を」という声が強まったのだろう、鷹場役所から現金で支払われることが多くなった。以前に記事でご紹介した将軍の狩りには、30両余の報酬が支払われているが、それらのいくばくかは環境整備の労役のために動員された人足たちや、村民は田畑の仕事を放棄するわけにはいかないので、代わりに田畑の管理を依頼する付近の農民への支払いなどにまわされた。
 また、将軍家の狩りは獲物を得るための純粋な“鷹狩り”目的のためだけでなく、別の目的で形式的に催されることもあったようだ。なにか幕府側の事情により、とある村の財政がことさらひっ迫したときや、将軍の狩りの都合で村へ少なからず損害を与え、その村へ“狩り”ならぬ“借り”ができたときなどが考えられるだろう。その村だけに、予算を超えた特別の法外なカネを支出すれば、たちまち周辺の村々へ情報が伝播し、えこひいきの不公平感や不満が醸成されてしまう。そこで、当該の村へ鷹狩りに出かけることで、地元へカネを落としてくるという方法だ。
 「戸田筋」にあたる池袋の丸池Click!方面へと向かう、将軍家が狩りをするときに通過した「狩り道(御成道)」の様子が江戸期の絵図に記録されている。道を真っすぐに進めば、よほど効率がいいにもかかわらず、わざと階段状にジクザグで行列が通るよう、おかしな道筋の形状が採取されている。これでは、狩りの行列が周辺の畔道や田畑の中に入って、農作物を荒らすことになってしまう。天領(幕府直轄地)の生産性を低下させるような狩りは、たとえ徳川将軍といえども決して許されなかった行為だ。
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 だが、田畑に入って農作物を荒らし「損害」を与えたとすれば、狩りの報酬金以外に損害賠償金を村へ支払わなければならない。わざと田畑の畔を踏み荒らすような、ジグザグのおかしな道筋の規定は、将軍家のその村に対する特別な“配慮”を想起させるのだ。しかも、作物を収穫し終えたあと、あるいは作物の種まきをする以前の農閑期に、将軍の鷹狩り一行はわざと田畑の畔へ踏み入って、「荒らした」ことにしているのかもしれない。

◆写真上:落合地域での代表的な鷹狩り場だった、御留山のピークに建つ四阿。
◆写真中上は、1763年(宝暦13)に6エリアの狩り場筋を描いた「五里四方鷹場惣小絵図」。は、「戸田筋」南辺と「中野筋」北辺部分の拡大。図版はいずれも、2010年に練馬区石神井公園ふるさと文化館が発行した『御鷹場』図録より。
◆写真中下は、御留山/御留場付近の村民による鉄砲猟が止まなかったのだろう、1721年(享保6)に出された「御留場内鉄砲取締」の高札。以前の記事で、江戸期に刀や鑓を所持していたのは武士のみという錯覚Click!について書いたことがあるが、農民は鉄砲まで所有していた点に留意したい。は、将軍の鷹狩り時に使用された葵紋の纏印などを記録した1722年(享保7)の「戸田志村追鳥狩御条目並絵図」。は、下落合の御留山にある湧水の弁天池で眠るカルガモ。
◆写真下は、東京湾で羽を休めるカモの群れ。江戸湾に面した将軍の浜御殿では、カモ猟が盛んだった。は、葵紋の入った鷹狩り時に使用されたとみられる陣笠。は、明治に入ってから制作された東洲勝月『徳川十三代将軍御鷹野之図』(部分)。


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文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(1) [気になる下落合]

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 以前、大正期の目白文化村Click!近衛町Click!に建てられた大正期の文化住宅Click!とは明らかにコンセプトが異なる、遠藤新設計創作所Click!が1933年(昭和8)に設計し翌年竣工した、久七坂筋Click!に現存する小林邸Click!をご紹介していた。文化住宅のブームから10年もたつと、最新の日本住宅はムダなスペースを削減したり、装飾的かつレガシー的な意匠や非効率的な造りを省き、快適な生活を送れる家族中心の考え方が浸透して、少しずつ変化を見せている。
 1929年(昭和4)に東京朝日新聞社から出版された『朝日住宅図案集』には、最新の住生活コンセプトにもとづく当時の住宅が、85事例も紹介されている。同社が懸賞募集し、「昭和新時代」の住宅図案を収録したものだ。その中には、落合地域へ実際に建てられたとみられる住宅が3棟(下落合×2棟、上落合×1棟)が紹介されている。東京郊外の田園生活を前提とした文化住宅から、急速に市街地化が進む東京の外周域に開発された住宅街の1棟、すなわちそれほど広い敷地を必要とせず(せいぜい50~70坪ぐらい)、大きなコストをかけなくても建設できる、サラリーマン向けの一般的な住宅建築を模索するような内容となっている。
 ただし、同図案集は条件を与えられて設計するコンペティションなので、実際に図面通りに建設されているかどうかは確定できない。中には、設計図のままで実際には建設されなかった邸も含まれている可能性があるが、ここでは実際に建てられたという前提で当該の住所に邸を探し、稿を進めてみたい。
 新たな住宅の姿を模索する、同書の「序」より引用してみよう。
  
 北緯五十度前後の北に位する欧米大都市の住宅をそのまゝ、南洋的の夏を持つ日本に直訳して失敗するのは当然である。和服と畳と下駄等々が俄かに全滅しない限り、純洋館の生活は絶望であり、都市の凡ての近代化した今日、純日本住宅の生活も不便が多い。結局現代の生活様式が混沌としてゐるから、建築様式もまた定まらないのである。蓋し建築様式なるものは、その国の伝統とその時代の生活様式から生れ出るものだからである。(中略) 入選図案の大部分は外観が洋式であり、内部に和洋の趣味と便利とを蔵してゐる。これを大正大震災前後に流行した所謂文化住宅に比すると、全く面目を一新し、現代生活の表現として渾然たる調和を示し、昭和の一形式を創造したものといへることは主催者の満足するところである。
  
 用いられる素材が変わり、時代ごとに流行するデザインは変わっても、基本的に今日の住宅へと直結する設計コンセプトが同書の図案には多く含まれている。いわば現代住宅を形成する、88年前のプラットフォーム図案集とでもいうべきものだ。では、下落合585番地に建設されたかもしれない和田邸から見ていこう。
 和田邸は、実はこちらでも一度すでに登場している。傷痍兵士を対象とした、1941年(昭和16)に国防婦人会下落合東部分会Click!の主催による「いちご狩り」が行われたのが、特設テントの張られた和田邸の庭先だった。今回の図案集に掲載された和田邸の外観を見ると、当該の「いちご狩り」の背景に写る洋風住宅の一部は、和田邸ではなく隣家の建物の可能性のあることが判明した。和田邸は、外壁にハーフティンバー様式を採用しており、外壁が一面色つきスタッコ仕上げらしい写真の住宅とは異なるのが明らかだ。
和田邸側面図.jpg
和田邸平面図.jpg
 和田邸というともうひとつ、下落合の物語に欠かせない人物の実家でもある。当時の世帯主である同志会Click!副会長をつとめた和田義睦の長女・和田トミは、高良武久Click!と結婚して同じく下落合に住みつづけた高良トミClick!のことだ。そして、二男の和田新一は早稲田大学建築科を出た建築士で、『朝日住宅図案集』に掲載された新たな和田邸の設計者でもある。和田義睦について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 同志会副会長理学士 和田義睦  下落合五八五
 洗練された人格、深い知識経験を以て、老齢ではあるが、矍鑠として壮者に伍し、郷党自治の為に貢献す、世の毀誉褒貶を超越した一種の尊厳さを持つて居る、氏は高知県士族和田義雄氏の二男にして、文久元年十二月二十三日を以て同県土佐郡久萬村に出生、明治十八年東京帝国大学理工学科を卒業し、次いで大学院に研究す、(中略) 先是明治十五年大学在学中学生の風紀漸く紊れんとするや、氏は率先正帽の制定を唱し、其の自尊心に訴へて素行を匡正した、今日の所謂角帽は氏の発案にして業界に於て和田帽と通称せらるゝ所以である、(中略) 家庭邦子夫人は横浜英和女学校の出身にて、此の間二男新一氏は早大建築家卒、二女節子は東京女医専在学中、長女富子は医学博士高良武久氏に嫁す、先是日本女子大を経て米国に留学、大正十一年コロンビア大学を卒業し哲学博士の学位を獲得す、帰朝後九州帝大医科大学精神科に心理学を究むること三ケ年、方今精神病科の大家として知られてゐる。
  
 設計された和田邸とみられる住宅は、外観は完全に西洋館だが内部は和洋折衷の造りで、木造2階建ての瀟洒なたたずまいをしている。基礎はコンクリートで、1階の外壁はラス張りしたあと色付きのスタッコ仕上げ(カラーは不明)、2階はクリーム色のスタッコ仕上げを採用している。屋根の色も不明だが、全体を日本瓦で葺き一部を亜鉛引き鉄板を用いて上からペンキを塗っている。柱はおもに米松を使っているが、化粧柱は檜、造作は米栂で、階段は檜と加工しやすいラワン材を採用している。また、和室は畳敷きで、洋室は化粧板ワックス拭仕上げと呼ばれるものだった。
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 同邸の特長を、同図案集に紹介された文章から引用してみよう。
  
 応接室兼書斎/約六畳敷の大さ(ママ)に約半坪のアルコープを設けサンルームに通ふ様にしたれば半坪の活用さるゝ所極めて大にして室そのものより言ふも余猶を持つ様に見ゆる也 食堂兼居間/一家の団欒は夕食の時に最も多く味はるゝもの也、而して一般家庭に於て今の最も有効に用ひらるゝ時間も夕食後なるべし、故に食堂を居間に兼ねしめたり、又この部屋は外気に接する壁を有せざる故に冬は暖く夏涼し サンルーム/日中主人の留守をなす主婦と子供との遊場仕事場として主婦室ともなり幼児室ともなるを以て極めて有効にして且衛生的也 弐階客室/一般の家には時に泊りの客の有る事多し、この為に八畳を取り又親しき客人の為にベランダあるは極めてよき事也 中等学校に行く児の為にベツドアルコープを持つ子供室を作りたれば将来の生長にも差支なかるべし 盗難よけの為に表廻りの室にはシヤツターを付したれば裏廻りの窓を鉄網入硝子とすれば盗難には絶対に安全也
  
 面白いのは、食堂兼居間がどこの外壁にも接しておらず、住宅の中央に配置されている点だ。建物の中心に食堂兼居間があるのは、家族が各部屋から集まりやすくした結果のように思われるが、冬は外壁に接していないので暖かかっただろう。
 暖房費の節約にもなったかもしれないが、外気の抜ける窓がないため夏は暑さがこもりそうだ。夏場は、隣接するサンポーチを開け放って南風を入れるか、夕食後は空け放しのサンポーチへと出て涼をとっていたのかもしれない。サンポーチの前庭には、夏場のことを考えたのか小さな噴水とみられる設備が、平面図に記載されている。
 設計図を見ると、応接室兼書斎、食堂兼居間、夫婦室兼寝室、サンルーム兼主婦室兼幼児室、客室兼寝室というように、1部屋を効率的かつフレキシブルに利用する工夫が顕著なのは、今日の住宅につながるものだ。設計当初から、専用の子ども部屋が設けられたり、1階の表側の窓には防犯用シャッターが、裏側の窓には割って侵入されないよう金網入りのガラスが装備されるなど、今日のセキュリティ重視の住宅と変わらないコンセプトが取り入れられている。
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和田邸跡.JPG
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 今日の住宅と異なる点は、台所の隣りに大正期からの女中部屋が相変わらずそのままなのと、太陽光を直接浴びられるサンルームやサンベランダなどのスペースが、1階と2階の双方に用意されている点だろう。大正末から昭和初期にかけ、結核の罹患者数Click!はピークを迎えており、陽当たりのいいところで新鮮な外気を吸うことが、なによりも結核予防になると、いまだに信じられていた時代だった。

◆写真上:昭和初期に設計された、和田邸とみられる外観イメージイラスト。
◆写真中上は、同邸の側面図。は、同邸の1・2階平面図。
◆写真中下は、子ども部屋とみられる室内イラスト。は、同邸の透過側面図。
◆写真下上左は、『落合町誌』に掲載された和田義睦。上右は、1929年(昭和4)出版の『朝日住宅図集』(東京朝日新聞社)。は、和田邸が建っていた下落合585番地(左手)の現状。は、和田邸とほぼ同じころに建てられたとみられる現存する下落合の邸宅。


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二度にわたる山手空襲の証言。 [気になる下落合]

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 これまで一度も見たことのない、めずらしい空中写真を見つけた。敗戦から6ヶ月後に、B29から撮影された画面だ。写真のタイムスタンプは、1946年(昭和21)2月23日となっている。板橋の上空あたりから、ほぼ真南を向き斜めフカンで撮影されてたもので、東京西部が広くとらえられており、主要な街々はほぼ全域が焼け野原だ。
 写真のちょうど中央が新宿駅Click!で、白く光っているのは淀橋浄水場Click!の濾過池と沈殿池だ。その向こう側(南側)に見えている森は、明治神宮と代々木練兵場Click!で、浄水場の左手(東側)に見えているのが新宿御苑Click!だ。新宿御苑の向こう側(南側)には、神宮外苑と絵画館Click!がポツンと確認できる。また、左手には千代田城Click!の外濠と内濠が見え、その向こう(南)には東京湾が拡がっている。上部の右側に見えているのは、東京都と神奈川県の境を流れる多摩川だ。
 手前(北側)の左手に見えている、道路が集まる街は池袋駅周辺だが、ほとんど爆撃しつくされてなにもない。駅の左手(東側)に見えている施設は巣鴨刑務所で、この時期は戦犯を収容する巣鴨プリズンと呼ばれていた。池袋駅から、巣鴨プリズンを囲むように、山手線がカーブしているのが見える。池袋駅から南へ、目白駅、高田馬場駅、新大久保駅とつづき、その周囲はほとんど焦土と化している。
 高田馬場駅の向こう側(南側)に拡がる戸山ヶ原Click!には、山手線東側のコンクリートドームに覆われた大久保射撃場Click!や、西側の陸軍科学研究所/陸軍技術本部Click!が確認できる。夕陽を反射して、右側(西側)で光っているのは、目白商業学校Click!の下で大きくカーブし、井上哲学堂Click!へと通う妙正寺川Click!の水面だ。戦争末期、B29の搭乗員や、P51やF6Fなど戦闘機のパイロットたちは、このような光景を目にしていたのだろう。東京の市街地と同様に、西郊部も徹底的に破壊されていたのがひと目でわかる写真だ。
 1945年(昭和20)3月10日Click!東京大空襲Click!から、そろそろ72年がたとうとしているが、きょうは同年4月と5月の二度にわたって行われた、山手空襲Click!について書いてみたい。まず、目白文化村Click!の第二文化村にいた安倍能成Click!の証言だ。安倍能成は、下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)の敷地を、1924年(大正13)の初めに入手し夏までに自邸を建設している。1964年(昭和39)4月11日発行の「落合新聞」Click!より、安倍能成『私と下落合』から引用してみよう。
  
 目白といふけれども本当は下落合で、その頃は淀橋区に属し、四丁目の一六五五番地で、昭和二十年の爆撃で焼けてしまった頃は、昭和十五年の秋に、一高の校長として又東京に帰って居たので、その家に住みついて居た。その頃は死んだ長男がまだ生きて居り、妻と長男とを信州にやって、一人で二階に居たのと一緒に、燃える家に水をかけて防いだが、二階が落ちて来て危険が迫ったので、思ひ切って御霊神社の下に設けてあった長い防空壕に避難した。ドイツから大分書物を買って来たから、書庫を別に鉄筋コンクリートで建てたけれども、上空からの火は始(ママ)めてのことで考へなかった。翌朝だったか家に帰って、書庫の焼跡を見ると、燃えた本の灰が雪のやうに白く美しく、上の方にある書物の灰は崩れないで、活字がはっきり読めた。朝鮮から李朝や高麗や新羅の陶磁器をいくらか持って帰ったが、それは跡かたもなくなって、ただ水滴だとか小瓶などを、壺に入れて土にいけておいたのだけが残った。(中略) 私は一高校内にある柳田教授の官舎に御厄介になり、その家が焼けてから一高の同窓会館に移り、更に経堂の知人の家においてもらひ、終戦の年の十月末に長男が病死したので、妻、嫁、孫と一緒に代田一丁目の、寺島といふもとの岩波の店員の持家の一部においてもらひ…(後略)
  
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 この空襲は、同年4月13日の夜半に行われた第1次山手空襲で、せっかく書庫をコンクリートで建設したのに、空からの焼夷弾攻撃にはひとたまりもなかったことがうかがえる。目白文化村は、つづいて5月25日の空襲でも爆撃を受けている。また、安倍能成Click!は文化村の自宅で罹災したあと、空襲に追いかけられるように都内各地を転々としている様子がわかる。
 つづいて、目白文化村の南西側、中井駅から下落合の西端にかけての空襲被害を見てみよう。同じく、4月13日夜半の空襲による惨状だ。ただし、このあたりの被害状況は、わたしも取材で何度か経験しているけれど、戦時の極限状況と極度の混乱から4月13日夜半と5月25日夜半の空襲被害を混同しているケースが多いので、それをお含みおきのうえお読みいただきたい。1967年(昭和42)8月10日発行の「落合新聞」より、「座談会」から引用してみよう。下落合の丘上に自邸があったとみられる、高山福良という方の証言だ。
  
 私のところから五六軒東の方は焼けて、文化村が全部焼けて、それから、坂下がかなり焼けた。この辺は御霊神社の丘のあたりは一帯に焼け残った。ほんとに、焼け残った方が珍しいんだ。それで、四月十三日のあの晩にはね、これは後になって分ったことなんだけど、中井駅近くの妙正寺川に焼夷弾が九十何発、百発近くのものがずらっと川の中に落ちている。だから、あれがね、ちょっとのボタンの押し違いで、われわれの住宅街の上に落そうとしたもんだろうと後になって分った。だから、あれが落ちていたらわれわれのところは全部灰になっていたことだろう。(中略) 私の隣組はほんの僅かだけれど奥に引っ込んでいるんで、守っていると、表の様子が分らない。表が人通りがはげしいというんで、出て見るとね、文化村のほうがまっ赤に燃えている。それで目白学園とか、御霊神社の方にね、どんどん避難していくわけなんですよ。これは大変だというんで、家族を御霊さんの方に逃がして、男の子と私だけがうちに残っていたんだが、周辺がどう燃えているのか分ないんだな。で、水をかぶってね、表に出て見て、二の坂の方に行ったんだが、坂の半ばまでは降りられないですよ。下は燃えているし、火がパッパして。向うを見ると東中野の方まで焼野原になっているんだ。その中に、森があったり、残ってる家がちょっと見える。(カッコ内引用者註)
  
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 同じ座談会で、上落合に住んでいた村上淳子という方の証言も掲載されている。上落合の被害は、4月13日よりも5月25日の空襲のほうが圧倒的に大きかった。つづけて、「落合新聞」の同号から引用してみよう。
  
 上落合は四月の時より五月二十五日ですか、その時の方がひどかったんです。四月のときは、わたくしうちにおりまして、みんな東中野の方へ逃げたんです。あちらが高台だというんで。どんどんどんどん逃げて行きましたからね。そしたら、あちらの方から燃えてきて、またこっちへ返(ママ)って来て見たら家があったという状態なんです。わたくしのうちは線路の端で強制疎開でしたが、わたくしはそのときうちにいたんです。/空襲の状態は、いまの花火どころじゃないですね。焼夷弾の落ちるのがきれいなんですよ。落ちてくるときから火がついていて、それが無数に、パッと火が散っていて、音がして。(中略) 通風筒のような、くるくるまわる、あれがはまっているんですよね。まるで打上花火みたいにきれいなんですよ。で、それが落ちて来ますと、アスファルトが全部燃えちゃうんですよ。ですから、歩けも何もできないんですよね。一面火の海です。(中略) それから、五月にうちのほうが焼けましたときは、わたくしは勤務で新宿駅に勤めていたんです。その頃は男の人は戦争に行ってらして、内地は女のほうが重要だったもんですから勤めに行ってましたら空襲で、わたくし達は駅の地下道にもぐっちゃったんです。/それで、夕べ焼けた、というんで外へ出て見ましたら、もう新宿の駅はありませんでした。うちへ帰るのに新宿駅から歩いて来ましたけれど、途中、家は一軒もありませんでした。(中略) 新宿から大久保のところを通って、小滝橋を通ってくるのに、焼野原なんです。落合のほうから来る方にね、上落合のほうは残ってますでしょうか、と尋ね尋ね来たんです。(カッコ内引用者註)
  
 アスファルトが燃えていたのは、上落合と東中野の間を横断する早稲田通りの情景だろう。東中野から落合方面を見た、松本竣介Click!スケッチClick!が想い浮かぶ。
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渋谷東・広尾.jpg
 米国の国防省から国立公文書館へわたっていた、空襲の記録写真が次々と公開されるにつれて、東京大空襲Click!のみならず二度にわたる山手空襲の様子も、各街ごとにリアルタイムで写真撮影がなされていたことが判明した。以前、1945年(昭和20)5月25日夜半に撮影された、被弾直前の新宿駅周辺の写真をご紹介Click!したことがある。それらの写真には、街や駅名などはほとんど記載されていないが、タイムスタンプで被爆している東京の街並みを推定することができる。夜間撮影の画面で非常にわかりにくいのだが、東京のどの街の空襲なのかが判明したら、改めてこちらでご紹介したいと思っている。

◆写真上:1946年(昭和21)2月23日に撮影された焼け野原の東京西部の状況で、東京湾には幕府の台場が点々と見えているが72年前の海岸線であり現状とはまったく異なる。
◆写真中上は、同写真を目白・落合地域(手前)を中心に拡大したもの。は、落合地域から南をGoogleEarthの斜めフカンで見た現代の様子。
◆写真中下は、1945年(昭和20)7月16日(日本時間17日)に撮影された海軍火薬工廠のあった平塚市街地を絨毯爆撃するB29の編隊。は、東京の上空から市街地へバラまかれたM69集束焼夷弾の構造。は、保存された250キロ爆弾の尾翼部。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月25日夜半に空襲を受ける代々木や原宿の市街地と明治神宮。画面やや右寄りに山手線がタテに走り、ちょうど原宿駅上空で焼夷弾が炸裂して落ちていく。は、同じく5月25日夜半の空襲で燃えはじめた渋谷駅東口と広尾の市街地一帯。山手線が左下に見え、その線路を横ぎるカーブした鉄道は東急東横線。


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