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この秋の『牛込柳町界隈』と『TOKYOディープ!』。 [気になる下落合]

スコットホール1919.JPG
 今日で、2004年11月24日に拙ブログをスタートしてから、ちょうど14年目に入った。先日、とある神職の方から、多種多様な物語が集まってくるのは「語ってもらいたがっている人々が、生者や死者を問わず、それだけたくさんいるからだ」……といわれた。このサイトへアクセスしているのは、生きている人間だけとは限らないのかもしれない。w あと少しで、のべ1,500万人の訪問者を超えそうだ。多彩なテーマが、各時代を通じて錯綜するようになったけれど、落合地域あるいは江戸東京地方について興味のある方は、引きつづきお付き合いいただければ幸いだ。
  
 さて、こちらでも何度かご紹介している、伊藤徹子様Click!主宰による柳町クラブ『牛込柳町界隈』Click!だが、この秋、伊藤様より本をお送りいただいた。2010年の創刊号から2017年夏のVol.28まで、四季折りおりに発行されてきた『牛込柳町界隈』の集大成版で、今回お送りいただいた本は創刊号からVol.12までの記事を改めて編集したものだ。「神楽坂から早稲田まで①」とタイトルされているとおり、2018年以降も同書籍の「神楽坂から早稲田まで②」と「同③」が続刊の予定らしい。
 序文を、建築家・建築史家で江戸東京博物館の藤森照信Click!館長が執筆し、最後に新宿歴史博物館の橋口敏男館長とともに、畏れ多いながらわたしも跋文を書かせていただいた。本書の内容は、基本的に『牛込柳町界隈』と同様だが、まとめて記事が参照できる点が愛読者にとってはたいへんありがたい。わたしは、同誌が発刊された2010年の創刊号から欠かさず拝読しているし、二度にわたり拙文を掲載していただいている。その編集方針は、わたしのサイトづくりと通い合うものが多い。
 すなわち、本書の跋文でも書かせていただいたとおり、とある地域に眠る、ふだんはあまり気にもとめられない小さな物語をドリルダウンしていくと、その地域のみのテーマに収まり切らず、はたまた江戸東京地方だけに収まるとも限らず、日本全体の歴史=日本史も跳び越えて、世界史の流れに結びつくことさえ頻繁に起きるのは、こちらでも多種多様な記事で書かせていただいたとおりだ。落合地域でいえば、第一次世界大戦やロシア革命、世界大恐慌、第二次世界大戦、そして戦災による混乱と復興への結びつきなど、もはや落合地域という「地域史」の枠組みをとうにはみ出た記述も多い。
 わたしは何度か、小川紳介監督の『ニッポン国古屋敷村』Click!を例に、この視点・視座について繰り返し書いてきた。対象となる地域が、別に山形県の古屋敷村であろうが、沖縄県の久高島Click!であろうが、東京の牛込柳町であろうが落合地域であろうが、そこに眠っている物語や語り継がれたエピソードは、およそ天文学的な数にのぼるだろう。別に、江戸東京だから物語が多いわけではない。小川紳介の手法がそうであるように、どのような地域にも各時代における膨大なエピソードや伝承、物語が眠っているにもかかわらず、「うちの地域には、とりたてて語るべき事柄がない」と錯覚しているか、それをていねいに発掘し記録する表現者が不在なだけだ。
 地下に埋没したそれらの物語を丹念に掘り起こし、その展開や拡がりをたどりながら、登場する人物たちの軌跡を追いつづけると、期せずして地域や地方の垣根をやすやすとまたぎ、古屋敷村の進軍ラッパを吹く農民がそうであったように、日中戦争のさなかの侵略先だった中国大陸へとたどり着くことになる。同様に、ひとつのケーススタディとして、下落合に住んだロシア文学者をたどると、呼びよせた亡命ロシア人の先には当然、ロシア革命という大きな世界史のうねりが存在している。
市谷加賀町住宅(幕末).JPG
市谷甲良町医院1923.JPG
小笠原伯爵邸シガールーム1927.jpg
 新宿区の東南部をカバーする地域誌『牛込柳町界隈』の視点も、まさに同じところにある。そこで語られているのは、牛込柳町とその周辺域の物語なのだが、読み進むうちに日本史や世界史の視野へとスケールアウトしていく。「わたしの町で起きたこと」は、実は決して「わたしの町だけに起きたことではない」ことに気づかされることも多い。俗に「郷土史」と呼ばれる作業は、「わたしの町のみを研究する」ことではなく、その先にあるより大きな時代の流れやうねりへ、歴史の教科書にみられる演繹的な表現とはまったく逆に、ボトムアップ的(帰納的)な視座から触れ語ることだ。
 「わたしの町」や「わたしの地域」は、単なる書き手の軸足にすぎない。ましてや「わたしの町」は多くの場合、近代以降における便宜的な行政区画にすぎず、およそ100年ほどもさかのぼれば、まったく異なる地域性や風土が見えてくることもめずらしくないだろう。ある地域を軸足にして物語をたどることで、まったく別の物語の存在や拡がりに気づくことも少なくない。
 もうひとつ、「わたしの町」や「わたしの地域」のいいところだけ、美しくてきれいで見ばえのよい物語だけ、都合よく粉飾し「地域自慢」したい点だけを取り上げても、町や地域・地方をとらえ、語り、記録したことにはならないだろう。それは、ある意味で人間について描くのとまったく同様だ。町や地域は人間の集合体であり、その歴史の美化や粉飾・歪曲は後世への教訓はおろか、ウソ臭さとともになにものをも残さないし、実のある有機的な感動を呼ばないし、新たな創造も生み出しはしない。
 さて、『牛込柳町界隈』のひとつ残念なところは、コンテンツがネット上にアップされていないことだ。2008年のVol.8まで、ページのjpgファイルはアップされているのだが、画像のままでテキストの全文検索ができない。お送りいただいた書籍により、必要なときに各巻を1冊ずつ参照することなく、まとめて目的の記事を探せるようにはなったけれど、紙メディアだけでなく既存のサイトへバックナンバーをPDF形式でアップロードしておいてさえいただければ、PDF内の全文検索はもちろん、主要な検索エンジンからのボットが内部のテキストを拾うようになるだろう。そうすれば、『牛込柳町界隈』の運用性や可能性、そしてアベイラビリティは飛躍的に向上するように思う。ぜひ、今後のテーマとして検討いただきたい点だ。
 このサイトは、どちらかといえば落合地域を軸として、新宿区の西北部のことを記事にすることが多いが、伊藤徹子様の『牛込柳町界隈』は新宿区の東南部の物語を中心に取り上げられることが多い。最近、訪れて調査・取材するエリアも新宿区の中央部あたりで重なりそうな気がするが、そのクロスオーバーする地域は尾張徳川家下屋敷Click!としても知られ、明治以降は作家や画家たちが頻繁に風景を描き、負の遺産である“軍都・新宿”Click!の象徴としての戸山ヶ原Click!界隈ではないかという予感がどこかでしている。w そんなことを空想しつつ、ちょっとドキドキ期待しながら毎号楽しみに拝読したい。
早稲田小学校1928.JPG
戸山ヶ原.JPG
戸山ヶ原野外音楽堂.JPG
伊藤徹子「牛込柳町界隈」2017.jpg 牛込柳町界隈Vol.28.jpg
 この秋、落合地域に関連するTVコンテンツづくりのお話もあった。NHKのBSプレミアム(BS3)で10月30日に放送された、『TOKYOディープ!』という番組だ。目白にお住まいの柴田敏子様のご紹介で、同番組のディレクターからさっそく連絡をいただいた。目白・落合地域に住んだ、華族たちの屋敷をまとめて紹介したいという案件だった。どこに誰の邸があったのか、地図上にポイントして紹介したいという。
 わたしは、これまで華族屋敷については個々別々に書いてきたし、「なぜ目白・下落合には徳川邸が集まっているのか?」というようなテーマClick!では、徳川邸をまとめてご紹介してきたけれど、同地域に住んだ華族たちを全的に捉えるという作業は従来してこなかったので、ちょっと興味をそそられてお引き受けした。
 さっそく、これまで判明し、また判明しかかっている華族屋敷を16邸ほど書いてお送りした。その過程で、下落合の宮家(皇室)邸は除外し、宮崎龍介Click!と結婚し高田町上屋敷3621番地に住んだ柳原白蓮Click!も含めず、またあちこちで伝承を聞く下落合の伊藤博文別邸は含めることにした。すると、以下のようなリストになった。
 戸田康保邸Click!(高田町雑司ヶ谷旭出41) 徳川義親邸Click!(目白町4-41) 近衛篤麿邸Click!(下落合417) 相馬孟胤邸Click!(下落合378) 近衛文麿邸Click!(下落合436) 近衛秀麿邸Click!(下落合436) 伊藤博文邸Click!(下落合334) 大島久直邸Click!(下落合775) 九条武子邸Click!(下落合753) 徳川好敏邸Click!(下落合490) 徳川義恕邸Click!(下落合705) 川村景敏邸Click!(下落合1110) 谷儀一邸Click!(下落合1210) 津軽義孝邸Click!(下落合1755)  ⑮徳川義忠邸Click!(下落合1981) 武藤信義邸Click!(下落合2073)
 おそらく、当時の華族たちがこの地域へ“隠れ家”的に建設した別荘・別邸を含めると、上掲の16邸どころの数ではないだろうとにらんでいる。
 番組では、これらの屋敷のうち目白駅に近いもののみ、つまり下落合(1965年以降の現・中落合/中井含む)の東部エリアを中心に紹介されていた。だが、明治期の近衛篤麿邸が1929年(昭和4)11月に竣工したモダンな近衛文麿邸の建築写真で紹介されたり、相馬邸が母家ではなく正門(黒門)Click!だったり、戸田康保邸も母家ではなく庭先にある大温室の写真だったり、八ヶ岳高原に現存している徳川義親邸に現在の徳川黎明会の写真が使われていたりと、ちょっと突っこみどころや残念な点は多々あるのだが、この地域の華族邸を一度期に鳥瞰するという意味からは、興味深い作業をさせていただいた。
 もうひとつ、華族の子弟たちが学生寮Click!にまとめて暮らし、ときどき徳川義親や近衛秀麿も訪れては講話会を開いていたらしい、下落合406番地の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が取材できず、番組に登場しなかったのが残念な点だろうか。
東京ディープOP.jpg
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華族屋敷一覧1930.jpg
 書籍『牛込柳町界隈』のあとがきで、わたしが女子寮を取材していて不審者とまちがえられたエピソードを紹介されているが、著者の伊藤徹子様もまた序文の藤森照信館長も同じような経験がおありだそうだ。これからも、地域の施設からは不審者とまちがえられつつ、多種多様な物語をご紹介していかれればと考えている。

◆写真上:伊藤徹子様の書籍版『牛込柳町界隈』でもグラビア付きで詳細に紹介されている、1919年(大正8)に建設されたスコットホールClick!(早稲田奉仕園)の階段。
◆写真中上は、幕末に建てられ大震災も戦災もくぐり抜けてきた市谷加賀町の武家屋敷Click!(解体)。は、市谷甲良町に残る1923年(大正12)築の医院建築。は、河田町に残る1927年(昭和2)築の小笠原長幹(伯爵)邸Click!のシガールーム(喫煙室)外壁。
◆写真中下は、1928年(昭和3)築の早稲田小学校。は、夏草がしげる戸山ヶ原(上)と陸軍軍楽学校の野外音楽堂跡(下)。下左は、書籍版の『牛込柳町界隈―神楽坂から早稲田まで①―』。下右は、『牛込柳町界隈』の最新号Vol.28。
◆写真下:NHK BSプレミアムの『東京ディープ!』オープニング()と、華族屋敷の地図()。は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図をベースにポイントした判明している華族屋敷。までの番号は、本文中の華族屋敷リストに照応している。

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第一文化村から旧・箱根土地本社を望む。(下) [気になる下落合]

清水多嘉示撮影ポイント.JPG
 さて、前回につづき清水多嘉示Click!のアルバムに残る、青山敏子様Click!からお送りいただいた写真Click!を検討してみよう。今回は、写真の中央にとらえられている旧・箱根土地本社ビル、すなわち1925年(大正14)より中央生命保険俱楽部として使用されていた建物がテーマだ。赤いレンガ造りの同ビルは、1922年(大正11)に竣工しているとみられるが、建設された当初の姿と、青山様からいただいた写真にとらえられた同ビルとは、かなり外観の形状が変化している。
 もちろん、同ビルの“本館”と思われる西側の建築は、原型をしっかりとどめているように見えているが、エントランスのファサードにはあとから付け足すように設けられた、新たな四角く細長い構造物(おそらくコンクリート建築)や、屋根上に増えている煙突の数、そして東側に伸びる途中で“「”字型に屈曲したウィング状の建物が、当初の箱根土地が建設した本社ビルとは、大きく異なっている点だろう。
 ただし、1922年(大正11)の竣工直後に撮影された箱根土地本社ビルと、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」に記載の同ビルのかたちからして、すでに微妙に異なっている。竣工直後の写真にはない建物の東北角のふくらみが、「目白文化村分譲地地割図」に記載された同建物には見られるのだ。したがって、同ビルの増改築(初期改装)は竣工した1922年(大正11)から、中央生命保険に売却する1925年(大正14)の3年余の間に一度、実施されているのかもしれない。
 1925年(大正14)に、箱根土地本社が国立へと移転し、同建物を中央生命保険が買収すると、さっそく改装工事が行われているとみられる。まず、1925年(大正14)制作の松下春雄Click!『下落合文化村入口』Click!と、1926年(大正15)に描かれた林武Click!『文化村風景』Click!との間には、レンガ造りの建物の赤茶色い外壁をベージュ色に塗り替える作業が行われている。そして、それと同期しているのか、あるいは少しズレた施工なのかは不明だが、東側へ向け新たな建物が増築されているようだ。
 つまり、大正期が終わった昭和初期には外壁カラーの変化とともに、本来のかたちから東側へやや長く伸びた細長い形状の建物になっていたと想定できる。箱根土地本社は、もともとオフィスビルとして建てられているので、中央生命保険が同社社員用のクラブハウスやゲストハウスの目的で使用することになると、不足している設備が多々あったとみられる。宿泊できる部屋の増設や、従来はオフィスビルとして使用されていたため、貧弱な暖房設備の不備があったかもしれない。大正期の石炭ストーブによる各室暖房から、本格的なボイラーの導入による統合的な温熱暖房を採用し、新たに煙突を設置して全館を温められる設備へと移行している可能性が高い。
 また、クラブハウスとして使用するためには、宿泊施設や娯楽施設に加え、大浴場の設置は不可欠だったろう。浴場の釜場に必要な煙突もまた、時期は不明だが設置されたにちがいない。これらの増改築のうち、どれが昭和初期までに行われた工事なのかは不明だが、建物の外壁を塗り替え、東側に建物(おそらく本館に対して宿泊用の各室)を伸長したクラブハウスの姿を、仮に第1次改装と呼ぶことにする。清水多嘉示が、帰国後ほどなく描いた『風景(仮)』(OP287)は、第1次改装を終えたあと、あるいは改装中にとらえられた中央生命保険俱楽部の姿だと想定することができる。おそらく、1930年(昭和5)より少し前の姿ではないだろうか。
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中央生命保険クラブ(清水多嘉示).jpg
中央生命保険クラブ跡.JPG
 その後、同クラブハウスはさらに引きつづき改装工事を行っているようだ。それは、青山様からお送りいただいた写真でも判然としている。まず、北側の正門を入りエントランスから見上げる建物のファサードが、箱根土地時代から大きく変化している。まるで学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!/1928年築)のような意匠の、四角いコンクリートとみられる2階建ての増築部が目立つ。おそらく、本館部の部屋数を増やすために追加建設された部分なのだろう。
 また、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287)には見られない煙突が、おもに本館の北面に設置されている。これらの煙突が、先述した大規模な暖房や浴場を追加したための煙突かどうかは不明だが、1922年(大正11)に撮影された箱根土地本社の写真でも、また清水の『風景(仮)』(OP287)の画面でも見られない変化だ。さらに、建物の南西側にも煙突が確認できるが、これが箱根土地本社の時代からあったものか、あるいは中央生命保険俱楽部になってから設置されたものかは、いまいちハッキリしない。
 ただひとつ、第1次改装では不可解な課題も挙げられる。同改装で東へ伸びたウィング状の建物(おそらく宿泊施設)は、先端が“「”字型にクラックしているが、清水多嘉示が描いた『風景(仮)』(OP287)ではそのような形状が見られないことだ。ただし、1928年(昭和3)3月ごろに撮影された落合第一小学校Click!卒業写真(昭和2年度卒業生)Click!の背後には、“「”字型になった建物がとらえられている。清水多嘉示は、1928年(昭和3)5月に帰国しているので、2年前に撮られた写真の建物は、すでに存在していた。清水が『風景(仮)』(OP287)の画面にほどこした、省略の“構成”ないしはデフォルメだろうか。
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 1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた中央生命保険俱楽部は、おそらく地上から撮影された清水多嘉示アルバムの写真にとらえられた建物と同一の姿、すなわち第2次改装を終えたあとの同クラブハウスの最終形なのだろう。同建物は、1938年(昭和13)ごろになるとすでに使われなくなり、廃屋・廃墟となっていたようだ。同年ごろ、クラブハウスの施設がどこかよそへ移転したか、1933年(昭和8)に中央生命保険自体が昭和生命保険に吸収されたため、同クラブハウスを廃止した可能性が高い。改正道路(山手通り)Click!の工事計画が発表され、同倶楽部敷地の東側が大きく道路計画にひっかかるため、別の施設への転用もなかったのだろう。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、すでに同倶楽部が採取されておらず“空き地”表現になっている。だが、1941年(昭和16)の空中写真を見ると、いまだに建物の姿を確認できる。「火保図(火災保険地図)」は、文字通り保険会社と地図制作会社の協同による住宅街地図なので、火災保険の対象とはならない廃屋や納屋、物置きなどは採取されにくいと思われる。1938年(昭和13)の時点で、中央生命保険俱楽部の建物は閉鎖され、立入禁止の囲いや立て看板(改正道路工事計画)が出ていたものか、「火保図」には採取されなかった可能性が高いように思う。
 なお、1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された空中写真の元・中央生命保険俱楽部には、南側の不動園になんらかの施設らしい形状が確認できる。陽当たりのいい広い芝庭か、空き地のように見えるスペースは、中央生命保険俱楽部として使われていたときに設置されていた、不動園の起伏を活用したゴルフ練習場なのかもしれない。つづいて、1944年(昭和19)撮影の空中写真を見ると、すでに同建物はすべて解体され、敷地の東側を改正道路(工事中)が貫いているのが確認できる。おそらく、改正道路(山手通り)工事の進捗からみて、1943年(昭和18)ごろに解体されているのだろう。
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高円寺アトリエ?.jpg
 さて、最後に青山敏子様からお送りいただいた、もう1点の写真をご紹介したい。この情景は、青山様によれば帰国後に結婚し新居をかまえた高円寺でも、その後に転居した西荻窪のアトリエでもないし、子どもたちも清水家の長女・睦世様および長男・萬弘様ではない。友人宅を訪問した際、その家の子どもたちを撮影したものか、あるいは散策途中の住宅街で撮影したスナップ写真ではないかとのことだ。庭先には箱ブランコが置かれ、その前でふたりの子どもたちが遊んでいる。建物は、焦げ茶色をした下見板張りの外壁に、屋根はスレートかトタンで葺かれているように見える。モッコウバラかフジをはわせる園芸棚の上に見える屋根は、おそらく赤い色をしているのではないだろうか。
 尖がり屋根に、採光用の小さな窓がうがたれるなど、外観はオシャレな西洋館だと思われるが、古くから下落合にお住まいの方で、特に目白文化村を中心にして、この西洋館と庭先に見憶えのある方はおられるだろうか? そして庭で遊ぶ子どもたちは、さて誰だろう? ひょっとすると、美術関係者のお宅かもしれないのだが、「写っているのは、わたしです」あるいは「戦災で焼けた、わが家です」と判明すれば、「下落合風景」を描く清水多嘉示の証跡が、より詳しくたどれてうれしいのだが……。

◆写真上:清水多嘉示が撮影したあたりから、中央生命保険俱楽部跡の方角を向いた現状。空襲で焦土化し再開発されているエリアなので、昔日の面影はまったくない。
◆写真中上は、1922年(大正11)の箱根土地本社と増改築の想定。は、清水多嘉示アルバムの写真にとらえられた同俱楽部の拡大。は、山手通りから眺めた同俱楽部跡の現状。手前の山手通りを加え中央の消防署に左隣りのマンションとスーパー「Olympic」まで、すべてが中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)の敷地だった。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中央生命保険俱楽部で、清水多嘉示が撮影した写真と同様に建物の最終形と思われる。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取されていない同俱楽部。すでに倶楽部は廃止か移転し、取り壊し工事が前提の空きビル(廃墟)になっていたとみられる。中下は、1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された同ビルで解体寸前の姿だと思われる。は、1944年(昭和19)撮影の空中写真で建物は解体され、東側の改正道路(山手通り)工事がかなり進捗している。
◆写真下は、箱根土地本社から中央生命保険俱楽部へと推移する過程で発生した増改築の想定図。は、住宅の建て替えで更地になっていた下落合1340番地の穂積邸跡の一部敷地。は、どこかの知人宅の庭で撮影されたと想定できる子どもたちの写真。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。

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第一文化村から旧・箱根土地本社を望む。(上) [気になる下落合]

中央生命保険・昭和初期.jpg
 清水多嘉示Click!のお嬢様である青山敏子様Click!より、2枚の写真をお送りいただいた。そのうちの1枚を拝見して、わたしは松下春雄Click!のお嬢様である山本彩子・山本和男ご夫妻Click!からお送りいただいた、第一文化村Click!の前谷戸の弁天池Click!近くに立つ、松下春雄と彩子様が写る記念写真Click!や、竣工なった落合第一小学校Click!を旧・箱根土地本社の「不動園」Click!側からとらえた風景写真Click!のとき以来、思わずイスから立ち上がってしまった。そこには、第一文化村の北側に接する二間道路から、増改築がほどこされた「中央生命保険俱楽部」Click!(旧・箱根土地本社ビル)を撮影した、いまでは願っても見ることができない風景がとらえられていたからだ。
 撮影された時期は、周囲の樹木の成長のしかたや、右手に長谷川邸のあとに建てられたとみられる穂積邸の屋根が見えている点、そしてなによりも旧・箱根土地本社ビルから中央生命保険俱楽部に用途が変わって増改築が進み、同ビルが改正道路(山手通り)Click!工事で1943年(昭和18)ごろに解体された最終形の姿をしていることから、1935年(昭和10)近くではないかと思われる。この中央生命保険俱楽部の、おそらく二度以上にわたる増改築については、改めて後述したいと思う。
 手前に写るふたりの子どもたちのうち、左側の女の子は青山敏子様によれば、姉にあたる清水多嘉示の長女・睦世様のように見えるという。また、右側の子は長男の萬弘様のようでもあるし、そうでなければ訪問した下落合の知人宅の子どもではないかとのことだ。1929年(昭和4)生まれの長女・睦世様が、おそらく4~5歳ぐらいになったころの姿とみられるので、1933~1934年(昭和8~9)ごろに撮影されたのではないかとみられる。このことから、1928年(昭和3)に清水多嘉示とりん夫人が結婚したあと、4~5年がすぎたころに親子で自宅から、下落合へ散歩(ハイキング?)か知人宅へ遊びにきて撮影されたものではないだろうか。
 では、画面にとらえられた被写体について、ひとつずつ詳しく見ていこう。まず、中央に写る大きな西洋館(というかビル)が、1925年(大正14)まで箱根土地本社だったレンガ造りの建物で、そのあと中央生命保険(のち昭和生命保険に吸収)が買収し、クラブハウスとして活用していた中央生命保険俱楽部だ。親睦クラブないしはゲストハウスとして使われたせいか、宿泊部屋の増築や大きめな浴場(風呂場)の設置、暖房器具の追加など設備面でも大きな増改築が行われているとみられ、初期の箱根土地本社ビルとはかなり外観も変わっている。
 中央生命保険倶楽部から、不動園沿いに第一文化村の中枢部へと南へやや下り気味の三間道路をはさみ、右手に見えている西洋館の屋根は、第一文化村の穂積邸だ。もともと同敷地は、前谷戸の湧水源つづきの谷間だったが、1924年(大正13)に埋め立てClick!られ、第一文化村の追加分譲地として販売されている。
 同敷地の販売時、当初は長谷川邸が建てられていたとみられるが、昭和初期の金融恐慌やがて大恐慌が起きると、長谷川邸は解体されたのか(そもそも土地だけ取得して建てる余裕がなくなってしまったのか)居住期間は短く、改めて穂積邸か建設されたとみられる。昭和初期の大恐慌をはさみ、下落合に建っていた大きめな邸宅の住民に、少なからず入れ替わりがあるのは、これまで何度も記事に書いてきたとおりだ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、すでに長谷川邸ではなく穂積邸へと変わっている。
 この穂積邸敷地の北東角地には、松下春雄Click!が1925年(大正14)に描いた『下落合文化村入口』Click!に記録されているように、箱根土地が設置したとみられる第一文化村の町内掲示板、ないしは目白文化村案内板がポツンと建っていた。
中央生命保険(拡大).jpg
松下春雄「下落合文化村入口」1925拡大.JPG
箱根土地本社ビル.jpg
 そして、穂積邸の手前に接する二間道路に面した縁石脇、すなわち道路の右側には、電燈線・電力線Click!や上下水道を収容し、大谷石で覆われた共同溝らしい側溝を確認することができる。つまり、同写真の風景には電燈線・電力線をわたした電柱が、1本も存在していないことに留意していただきたい。画面の中央左寄りにとらえられた、背の低い白木のままの柱は通信線柱(電話線)だ。
 電燈線・電力線の柱が、腐食止めのクレオソートClick!を塗られた黒っぽく背の高い電柱なのに対し、通信線をわたした柱は白木のまま建てられ、電力の電柱と見分けが容易なように差別化されている。また、電話の加入者が急増する状況で、おそらく工事の手間を考えたのだろう、電燈・電力柱に比べて柱の高さを低くしている。このあたりの描写は、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!でも明確に描き分けられている。
 穂積邸の左手には、箱根土地本社の時代に敷地内へ植えられていたアカマツが、かなり大きく成長している様子がとらえられている。松下春雄の『下落合文化村入口』では、庭師の手によってまるで盆栽のように、ていねいに刈りこまれた様子をしていたけれど、中央生命保険俱楽部になってからは、そのような手入れをやめて伸び放題になってしまった様子がうかがえる。中央生命保険は、1933年(昭和8)に昭和生命保険へ吸収・解散しているので、このころには庭の手入れどころではなかっただろう。ひょっとすると、すでに同倶楽部は廃止になり、建物は無人の廃墟と化していたかもしれない。
 箱根土地本社の、正面エントランスの脇に植えられた針葉樹らしい木々も、同じ樹形を保ちながら幹がしなうほど大きくなっているのが見え、継続的な手入れがなされているようには見えない。また、画面左手に見えている木々も、松下春雄が同作の画面に描いた生垣風の風情から、並木か屋敷林のように大きく成長しているのがわかる。
 そして、左手に写る冬枯れの並木を透かして、目白文化村と落合府営住宅Click!(第二府営住宅)の境界に設置されていた、文化村派出所(交番)の小さな屋根を確認できる。松下春雄の同作によれば、文化村交番は赤い屋根をしており巡査がひとり常駐していた。同交番は空襲で焼失したあと、戦後しばらくして廃止されている。少し前にご紹介した、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287)は、この交番の手前(西側)に隣接してイーゼルをすえ、第1次増改築後?(後述)の中央生命保険俱楽部を描いているものとみられる。ひょっとすると、制作の合い間には常駐する巡査が、キャンバスをのぞきにきたかもしれない。
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 さて、ふたりの子どもたちが立っている地点を厳密に規定すると、第一文化村北辺の二間道路上ではなく、第二府営住宅側へ少し入りこんだ、下落合1388番地の「竹俣内科医院」の入口にあたる。同位置から、清水多嘉示は南東を向いてカメラのシャッターを切っている。現在の風景でいうと、マンション「セザール中落合」の敷地内へ少し入った位置ということになる。
 画面右手が南であり、冬季ないしは早春にみられる陽光の角度を考えると、清水親子が持参したお弁当を食べたか、どこか近くで昼食をとったあと、目白文化村を散策しながら午後1時から2時ぐらいまでの間に撮影されたものではなかろうか。清水多嘉示も、カメラを手にした松下春雄とまったく同様に、かつてイーゼルを立てて制作した描画場所を、数年後に撮影しながら散策しているのかもしれない。
 ちなみに、この付近で家から持参したお弁当を食べるには、写っている二間道路をもう少し北西(カメラをかまえた清水多嘉示の背後)へと歩き、前谷戸の湧水源にある弁天池の畔か、あるいは中央生命保険俱楽部の前庭、すなわち箱根土地本社時代からほぼそのままのかたちで残っていたとみられる、不動園の池の端が最適だろう。
 清水多嘉示は、同位置から背後をちょっと振り向いて、二間道路がつづく北西側も撮影してやしないだろうか? 竹俣内科医院(下落合1388番地)の撮影位置から、同じ二間道路をわずか40m余ほど歩いた路上(下落合1385番地あたり)は、佐伯祐三が1926年(大正15)に描いた『下落合風景』Click!の描画ポイントのひとつだからだ。
 また、その先の前谷戸へと下りる階段(ただの斜面だったかもしれない)の下、弁天池の近くでは1928年(昭和3)の当時、下落合1385番地にアトリエをかまえていた松下春雄が、長女・彩子様を抱っこしている姿が撮影されている。おそらく淑子夫人Click!がシャッターを押したのだろう、前谷戸湧水源の貴重な撮影ポイントでもあるからだ。
第一文化村火保図1938.jpg
清水多嘉示「風景(仮)」OP287.jpg
佐伯祐三「下落合風景」1926.jpg
 清水多嘉示が、下落合を頻繁に訪れていたとすれば、その作品ばかりでなくアルバムに収められた写真類にも、「下落合風景」がとらえられている可能性がきわめて高い。今回は、1935年(昭和10)より少し前の第一文化村の光景だと思われるが、ほかにどのような風景がとらえられているのか、わたしとしては興味がつきない。松下春雄と同様、かつて作品を描いた場所をめぐり、シャッターを切っているのかもしれない。では、つづいて1922年(大正11)の箱根土地本社の時代から、1925年(大正14)にはじまる中央生命保険俱楽部の時代まで、この建物がどのような増改築の経緯をたどったのかを考察してみよう。
                                  <つづく>

◆写真上:清水多嘉示アルバムに収められた、第一文化村の中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)とみられる写真で、1933~1934年(昭和8~9)ごろの撮影と思われる。
◆写真中上は、同写真の拡大と被写体の特定。は、1925年(大正14)制作の松下春雄『下落合文化村入口』(部分)。は、1922年(大正11)撮影の箱根土地本社。
◆写真中下は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」(部分)。南北逆の地割図で、いまだ「長谷川」名になっている。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる同所。「長谷川」名が採取されておらず、いまだ邸は建設前と思われる。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所。は、帰国後に制作された可能性の高い清水多嘉示『風景(仮)』(OP287)。は、清水多嘉示の撮影ポイントからわずか40mほど離れた二間道路上で、1926年(大正15)の秋以降に制作されたとみられる佐伯祐三『下落合風景』の1作。
掲載されている清水多嘉示の作品・資料は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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下落合を描いた画家たち・満谷国四郎。(2) [気になる下落合]

満谷国四郎「七面鳥」1935.jpg
 下落合753番地に住んだ満谷国四郎Click!は、同じ太平洋画会研究所の吉田博Click!と同様に、ほとんど下落合の風景を描いていない。大正の早い時期からアトリエClick!をかまえているにもかかわらず、周囲に拡がる東京郊外の風景はあまり画因にはならないと感じていたようだ。そのかわり、アトリエの前に拡がる庭の光景や自邸で飼っていた動物を、ときどきモチーフに取り上げている。
 今回ご紹介する満谷国四郎『七面鳥』は、彼が死去Click!する前年、1935年(昭和10)に描かれたものだ。同作の画面をあちこち探しても、カラーでは残っていないのでおそらく戦災で失われたか、行方不明の作品なのかもしれない。その貴重な画面を、刑部人Click!の孫にあたる中島香菜様Click!よりお送りいただいたのでご紹介したい。満谷の『七面鳥』が、下落合の“風景”だと思われるのには大きな理由があるのだ。
 1922年(大正11)の近衛町開発Click!とほぼ同時期に、東京土地住宅Click!は下落合の西部に画家や文学者など芸術家たちの家々を集合させた、アビラ村(芸術村)Click!構想を起ち上げている。そして、その村長に就任する予定になっていたのが満谷国四郎だった。満谷は、金山平三アトリエClick!の東隣りに新たなアトリエを建設するため、金山とほぼ同時期の1922年(大正11)後半に、坪35円で100坪を超える土地を購入したとみられ、下落合西部における満谷邸は着工するばかりになっていた。
 現存する金山平三の手紙によれば、関東大震災Click!が起きた翌年の1923年(大正12)5月には、すでに南側の崖地を補強する築垣の課題や、未整備だった下水道の設置などについて金山と満谷国四郎、そして南薫造Click!の3者間で相談していた気配がうかがわれる。当時の様子を、1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』所収の日本画家・中野風眞子Click!の証言から引用してみよう。
  
 さて、このアヴィラ村だが、高い丘は南面して日当りがよく、下は全く樹海を見るようで環境が至極よろしかった。左様なわけで、おのずから芸術家憧憬の地となり、分譲の話が伝えられると先を争って買い求めた。ここにアトリエを建てたものに、先生(金山平三)や永地秀太、彫刻の新海竹太郎らがあり、土地を求めたのみの人に満谷(国四郎)、南(薫造)、三宅克己らがあった。/アヴィラ村に通う今日の二の坂は、その頃乱塔坂(ママ:蘭塔坂)と呼ばれ、蛇行する坂の両側に高低参差たる無数の墓石が乱立していて、夜は梟がほっほほっほと哀調の声を奏でていた。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、東京土地住宅とともにアビラ村計画を協同事業として推進していたのが、下落合2096番地の島津源吉Click!だったと思われる。同家に残る「阿比良村」計画図Click!が、東京土地住宅との事業連携で描かれたものであることは想像に難くない。
島津一郎・源吉・とみ・源蔵.jpg
島津一郎・源吉・とみ・源蔵(拡大).jpg
満谷国四郎「罌粟の花畠」1928_1.jpg 満谷国四郎「罌粟の花畠」1928_2.jpg
 アビラ村建設計画の中心的な役割りを、満谷国四郎とともに担っていたのが、下落合2080番地の金山平三Click!であり百人町の南薫造だった。金山平三は島津邸の直近ということもあり、しじゅう同家には出入りしていたらしい。満谷国四郎もまた、下落合を西へ散歩がてら島津源吉邸Click!を頻繁に訪れるようになっていたようだ。島津家でも、それに応えるように満谷作品を少なからず購入している。また、画家をめざす同家の島津一郎Click!が満谷国四郎に師事し、彼が東京美術学校へ入学すると島津家と満谷国四郎との関係はより密になっていったにちがいない。
 以前、刑部佑三様と中島香菜様から「刑部人資料」のひとつ、刑部家のアルバムを拝見したときに、島津源吉邸の庭で放し飼いにされていた、数多くの白いシチメンチョウの写真を見せていただいたことがある。いちばん繁殖していた時期には、10数羽の大きなシチメンチョウが庭のあちこちを歩きまわっていたらしい。お話によれば、昭和初期から戦時中まで飼われていたようで、刑部人・鈴子夫妻とともに白いシチメンチョウが収まった写真も、アルバムに貼られていたのを憶えている。(また別の機会にご紹介したい)
 すなわち満谷国四郎は、1935年(昭和10)に島津源吉邸を訪ねた際、庭をわがもの顔で歩く大きな白いシチメンチョウを見て、にわかに画因をおぼえスケッチしているのではないかということだ。もちろん、シチメンチョウを飼っていたのは島津邸だけでなく、たとえば満谷の友人である大久保作次郎Click!アトリエClick!でも飼われていただろう。だが、満谷が散歩がてら下落合でもっとも頻繁に出かけていた訪問先を考慮すると、アビラ村の金山平三アトリエClick!と島津源吉邸の2軒に絞られてくると思われるのだ。
金山アトリエテーブル.jpg
吉田博「ひよこ」1929帝展.jpg
三上知治「孔雀」1931.jpg
 満谷国四郎は、過去にもシチメンチョウをモチーフにした作品を描いている。1928年(昭和3)に制作した、まるで折りたためる三枚屏風絵のような3部作『罌粟の花畠』だ。同作では、3部作の右側と中央の2画面に、つごう2羽の黒い七面鳥が描かれているようだ。また、左側の画面には繁みの中で眠っているネコが1匹描かれている。以前にご紹介した、満谷邸の庭で飼われていたイヌがモチーフの『早春の庭』(1931年)もそうだが、満谷国四郎は動物を描くのが好きだったらしい。
 昭和初期の帝展作品には、動物を描いた作品が少なくない。吉田博Click!は、1929年(昭和6)に『ひよこ』と題する画面を帝展に出品しているが、中にはシチメンチョウの“ひよこ”も混じっているかもしれない。また以前、牧野虎雄Click!が大久保作次郎アトリエで飼われているシラキジを描いた、1931年(昭和6)の『白閑鳥』Click!をご紹介しているが、同年には満谷アトリエの西隣り(下落合572番地)に住んでいた三上知治Click!もまた、番(つが)いを描いた『孔雀』を出品している。まるで、帝展の常連画家たちの間で“鳥”ブームが起きていたような気さえする。
 満谷国四郎は、鳥に限らず動物をモチーフにするのが好きだったらしく、大正期からの帝展作品には画面のどこかに動物が描かれている。たとえば、1922年(大正11)の『島の女』(のちにタイトルが『島』に変更)には、1頭の牛が描かれている。さらに、1929年(昭和4)に帝展へ出品された満谷国四郎『籐椅子』にも、裸婦の隣りに外国産らしいネコが描かれている。この足もとに描かれたネコが、どこかアニメ風の表現でめずらしい。
満谷国四郎「島の女」制作中1922婦人画報.jpg
満谷国四郎「島の女」1922.jpg
満谷国四郎「籐椅子」1929帝展.jpg 牧野虎雄「白閑鳥」1931.jpg
 ちなみに、『島の女』を制作中の満谷国四郎は1922年(大正11)、下落合のアトリエで「婦人画報」の取材を受けているが、その際に撮影された同作の画面と、実際に完成した画面を比較すると面白い。制作途上の画面は、かなり写実的でリアルに描かれているように見えるが、最終的に仕上げられた画面は、その上から重ね塗りが施され表現をかなり単純化し、あえてプリミティブ化を試みているように見える。同様に、1931年(昭和6)に「アトリエ」誌が制作中の牧野虎雄『白閑鳥』を撮影しているが、実際の完成画面を比べてみるのも興味深い。

◆写真上:死去する前年、1935年(昭和10)の帝展に出品された満谷国四郎『七面鳥』。
◆写真中上は、島津一郎アトリエ前のシチメンチョウと島津家の人々。は、上掲写真の拡大で左から右へ島津一郎、島津源吉、とみ夫人、2代目・島津源蔵とシチメンチョウ。は、1928年(昭和3)に制作された満谷国四郎の3部作『罌粟の花畠』で、中央画面(左)と右画面(右)に黒い七面鳥の番いが描かれている。
◆写真中下は、北鎌倉から笠間へ移築された北大路魯山人の「春風萬里荘」(日動美術館)に保存されている金山平三邸のテーブル。(撮影:岡崎紀子様Click!) このテーブルの周囲には、アビラ村建設計画を推進する画家たちが集まって、楽しい構想が幾度となく話し合われたのだろう。は、1929年(昭和4)の帝展に出品された吉田博『ひよこ』。は、1931年(昭和6)の帝展出品作である三上知治『孔雀』。
◆写真下は、1922年(大正11)に「婦人画報」のカメラマンが撮影した『島の女』を制作中の満谷国四郎。は、のちに『島』と改題され帝展絵はがきとして販売された同作。下左は、1929年(昭和4)の帝展に出品された満谷国四郎『籐椅子』。下右は、1931年(昭和6)の帝展出品作である牧野虎雄『白閑鳥』。

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下落合の水車と日本初の鉛筆工場。 [気になる下落合]

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 いまの新宿御苑Click!(旧・内藤駿河守下屋敷)の東隣り、玉川上水の流れで渋谷川の源流となる谷堀に面したあたり、内藤家に建立されていた多武峰内藤稲荷社Click!の西側一帯には、昭和初期からの静かな林間住宅街が渓流沿いに形成されている。この住宅街が開発される以前、ここには眞崎仁六が建設した日本初の鉛筆工場が建っていた。当時の地番でいうと、四谷区内藤新宿1番地(現・新宿区内藤町1番地)のエリアだ。
 日本に初めて鉛筆が輸入されたのは、1877年(明治10)だといわれている。だが、正式に製品として海外から輸入されたのは同年かもしれないが、江戸期の築地や長崎など外国人居留地では、ふだんから使われていただろうから、見よう見まねで鉛筆もどきを製作していた人たちは江戸の街中にもいただろう。いや、一般の市民レベルが鉛筆の存在を意識する以前、徳川家康や伊達政宗が鉛筆を使用していたのが判明しているので、ヨーロッパの宣教師によってもたらされた鉛筆の歴史は、さらにさかのぼることになる。
 眞崎仁六は、1878年(明治11)にパリ万国博覧会に出かけ、そこで工業製品として生産された鉛筆と初めて出あっている。帰国すると、眞崎はさっそく鉛筆製造の研究にとりかかった。そして、鉛筆を量産する技術やノウハウを確立すると、9年後の1887年(明治20)に先の内藤町1番地へ眞崎鉛筆製造所を開設した。同工場が、なぜ玉川上水(渋谷川の源流)沿いに建設されたのかというと、鉛筆の芯にするグラファイト(黒鉛)を粉砕するために、水車小屋の動力が不可欠だったからだ。
 このサイトの記事をお読みの方なら、すぐに下落合の水車小屋で小麦粉や米粉を製造する合い間に、鉛筆の芯にする黒鉛粉を製造していた時代があったことを想起されるだろう。大江戸(おえど)Click!郊外を流れる水車小屋は、ことに農作業の閑散期には、さまざまなものを粉砕する動力として活用されてきている。幕末には、強力な黒色火薬Click!を製造する過程で利用され、大江戸の各地で爆発事故を起こしているのは、淀橋水車小屋Click!のケースとしてこちらでもご紹介ずみだ。
 明治に入ると、今度はいろいろな工場の下請け動力として、東京郊外の水車小屋は活用されはじめている。その様子を、中井御霊社Click!バッケ(崖地)Click!下にあった「稲葉の水車」Click!の事例から見てみることにする。1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された、『ふる里上高田の昔語り』から引用してみよう。
  
 現在の中野区営の野球場の裏手の御霊橋は、前述した懐かしい泳ぎ場所新堰で、このやや上手から目白の山下を道沿いに導水して、落合い(ママ)田んぼと、一部は稲葉の水車に流れていた。/稲葉の水車は今の落合公園の南側、妙正寺川に近い北側にあり、まわりは、杉や樫に囲まれ、相当広い場所を占めていた。落合公園のあたりは、鈴木屋(日本閣の前身)の釣堀用の養魚場であった。/稲葉氏は鈴木屋と姻戚関係であるが、何か失敗し、後に鈴木屋鈴木磯五郎氏に所有が移った。/水車は相当大きく幅約三尺、直径は三間以上あった様に思う。(中略) 後にこの水車は上高田、落合の利用が少くなると、米の白いのや糠の黄色と全く変わり、鉛筆の芯にする炭素の真黒い色に変った。
  
 これは、明治後期ないしは大正の最初期にみられた稲葉の水車についての証言だが、鉛筆工場から黒鉛の粉砕作業を委託されていた様子が伝えられている。ちなみに、同水車小屋に付属して造成されていた「養魚場」の風景は、1924年(大正13)に長野新一Click!がスケッチして『養魚場』Click!のタイトルで帝展に出品している。
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 このように、郊外の河川沿いに設置されていた江戸期からの水車小屋は、明治期に次々と建設された各地の工場の下請け動力として活用されていた。下落合には、妙正寺川の稲葉の水車Click!を含めバッケ水車Click!(妙正寺川)、田島橋の水車Click!(旧・神田上水)の計3つの水車小屋が稼働していたが、東京パンClick!をはじめ製パン工場や製菓工場が周辺にできると、原料となる大量の小麦粉を生産するために水車小屋が動員されている。また、水車小屋を下請け動力として利用する事業家と、農業用水として活用する付近の農民との間で、明治期の深刻な“水争い”Click!が起きていることもすでにご紹介していた。
 眞崎鉛筆工場を設立した眞崎仁六は、1899年(明治32)になると眞崎鉛筆の売れ行きが急増したのか、すでに分工場を東京各地に展開しているので、それらの生産拠点から発注された原料製造のひとつが、稲葉の水車で行われていたのだろう。内藤町1番地の眞崎鉛筆工場について、1967年(昭和42)に新宿区教育委員会より発行された、『新宿区文化財』から引用してみよう。
  
 内藤町1番地、多武峰神社西方一帯のところで、現在は住宅地になつ(ママ)ている。佐賀県人、眞崎仁六が、日本で最初に鉛筆製造工場をつくり、鉛筆をつくつたところである。外国の技術を借りないで、製法から製作まで独力で考案したことは、現在日本がドイツ、アメリカとともに、世界三大鉛筆生産国の一つであることからみても、その発祥地としての価値は高いものと考えられる。/明治10年(1877)、当時貿易会社の技師長であつた眞崎甚六は、パリの万国博覧会で、はじめて鉛筆をみて、その便利さに驚いて帰国し、日本でも製造したいと考え、京橋山下町の自宅で毎晩実験を続けた。明治20年(1887)会社が倒産したので、内藤町の水車小屋を月8円で借り、ここを住宅兼工場として、眞崎鉛筆製造所を設立した。当時付近は一面の竹やぶで、水車小屋の軒は傾むき、壁は落ち、雨もりするひどい状態であつたといわれている。実験、失敗をいく度もくりかえし、ついに第一号を完成した。当時の鉛筆は現在のとちがつて、軸の先を三つに割り、それにしんを差しこんだものであつた。
  
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 同誌では、眞崎鉛筆製作所はのちに「三菱鉛筆に迎えられ」たと記述しているが、これは明らかな誤りだ。そもそも三菱鉛筆が、そのマークから三菱グループと関係があると事実誤認したことから生じた誤記だろう。眞崎鉛筆はイコール三菱鉛筆であり、トレードマークの3つの鱗をデザインした“スリーダイヤ”は1903年(明治36)、すでに眞崎鉛筆が商標登録(No.18865)を完了している。
 三菱鉛筆とはまったく関係のない、政商だった三菱財閥が“スリーダイヤ”の商標を登録するのは、それから10年も経過した1913年(大正2)になってからのことだ。今日の厳密な商標審査であれば、既存の商標と紛らわしい同一のトレードマークは登録できないので、三菱財閥があきらめて別のトレードマークを考案するか、三菱鉛筆(眞崎鉛筆)からトレードマークを買いとるしか方策がなかっただろう。
 1907年(明治40)になると、眞崎鉛筆は東京博覧会で2等銀牌賞を受賞、また1910年(明治43)にロンドンで開催された日英大博覧会では金牌大賞を受賞するまでに品質が向上している。そして、1912年(明治45)には鉛筆の急速な普及とともに、ナイフの代わりに削る専用の鉛筆削りが初めて米国から輸入された。
 1910年(明治43)に発行された、2色刷りの1/10,000地形図を参照すると、眞崎仁六邸らしい小さな建物と庭園の南には、製造工場らしい細長い建屋が描かれている。水車のマークは採取されていないが、工場敷地の西端、渋谷川沿いのどこかに設置されていたものだろう。1916年(大正5)に、眞崎鉛筆工場が内藤町から大井町へ移転すると、工場跡には住宅が建ち並びはじめている。冒頭の大谷石の築垣が残る写真は、新宿御苑に隣接し渋谷川の源流域に建っていた、眞崎邸の庭園あたりに開発された住宅街だと思われる。
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 わたしは小学生時代から、眞崎鉛筆=三菱鉛筆の愛用者だった。鉛筆1本10円の時代に、芯が折れにくくなかなか減らない三菱鉛筆Hi-uniは1本100円もしたのだが、親に無理をいって買ってもらったのを憶えている。現在は、鉛筆などまったく使わなくなってしまったが、シャープペンシルで使用している2Bの芯ケースをよく見たら、やはり三菱鉛筆のHi-uniと書かれていた。わたしの指先と眞崎鉛筆は、どうやら相性がいいらしい。

◆写真上:新宿御苑側から見た眞崎仁六邸の庭園跡に開発されたとみられる住宅街で、手前の谷堀を流れるのは江戸期からの玉川上水(渋谷川の源流)。
◆写真中上は、1862年(文久2)の尾張屋清七版切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」にみる眞崎鉛筆製作所の位置。は、1910年(明治43)の地形図にみる同製作所。は、1933年(昭和8)の「職業別事情明細図」にみる同製作所跡で宅地化が進んでいる時代。
◆写真中下は、多武峰内藤稲荷社の舞殿。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる眞崎鉛筆製作所跡。新宿御苑が「畏れ多い」のか、墨ベタで塗りつぶされている。は、1947年(昭和22)の空中写真にみるまだらに焼け残った同製作所跡の住宅街。
◆写真下は、多武峰内藤稲荷社の拝殿。下左は、晩年の眞崎仁六。下右は、眞崎鉛筆から直結する三菱鉛筆Hi-uniシリーズの鉛筆とシャーペンの芯。

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