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『蘇州夜曲』じゃなくて『春の唄』。 [気になる下落合]

八ノ坂.JPG
 下落合に集った沖縄の画家たちについて、仲嶺保輝Click!の回顧エッセイを引用しながらご紹介してきた。その中に、こんな記述がある。1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号(新生美術協会)収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』より引用してみよう。
  
 私のいた林明善画室の隣には、早大法学部長寺尾元彦がいて、油絵を習いたいからといって、油絵具一揃いを買い、休日などによく絵を描きに来られた。/寺尾部長は、早大法学部内に沖縄の人で優秀な教授がいると話して下さった。この人が後の早大総長大浜信泉である。/林画室の入口近くには、歌手の渡辺はま子が月村という表札と並んで住んでいて、そこを通る時、よくピアノと歌声が聞こえて来た。中井駅に行く途中には小説家の吉屋信子がいてよく犬を連れて散歩しているのを見かけた。
  
 この文章によれば、下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)の林明善アトリエClick!の隣りには、「渡辺はま子」が住んでいたことになっている。だが、昭和初期に生まれた方ならすぐにもピンときて、「そりゃ、渡辺はま子じゃなくて、同じ歌手にはちがいねえけど渡辺光子さ。下落合に山口淑子(李香蘭)Click!だけじゃなくて、渡辺はま子までがそろってたら、もう仕事してる場合じゃないぜ!」となるだろう。w
 仲嶺康輝は、「月村」という表札を見ているにもかかわらず、渡辺光子(月村光子)と渡辺はま子をとりちがえている。しかもピアノの音や歌声が聴こえていたのなら、すぐにも曲や歌声から渡辺はま子ではなく、渡辺光子のほうだと気づいていたはずだ。わたしの親の世代から上の方で、特に当時の芸能界に詳しくない方だったとしても、ちょっとありえない、考えられない人ちがいだろう。
 事実、第二文化村Click!に通う坂道の途中、下落合1725番地には山口淑子(李香蘭)邸Click!(事務所が設定した“公邸”ではなく、おそらく私邸あるいは実家)があったので、同じ下落合の町内に渡辺はま子までが住んでいたら、町内の男子たちは落ち着かずウキウキ気分になりっぱなしになったのではないか。およそ、九条武子Click!宮崎白蓮Click!の人気どころではなかっただろう。ましてや、山口淑子(李香蘭)のようにときどき近所を散歩して文化村の住民に目撃されてたりすると、周囲の学生や青年、ヲジサンたちはいつもソワソワと散歩に出たがったにちがいない。w 親父も、有楽町界隈の話になると思いだしては話してくれたが、のちのコンサートでは入場待ちの観客が日劇のまわりを3周Click!も取り囲むような、超人気の女性たちだった。
 仲嶺康輝が林明善アトリエにいたころ、ふたりの人気は映画あるいは音楽(レコード)、ステージ、ラジオ番組などを通じてウナギ上りだった。いまの若い子たちには、まったくピンとこないかもしれないけれど、「結婚したい女性ランキング2017」(リクルート社調べ)で、1位の綾瀬はるかと2位の新垣結衣が同じ町内に住んで、ときどき近所を散歩している……というようなインパクトを想像してもらえば、少しはおわかりいただけるだろうか。しかし、残念ながら中井御霊社Click!の下、下落合4丁目2162番地の邸に住んでいたのは、渡辺はま子ではなく渡辺光子(月村光子)のほうだった。
 わたしは、親父が口ずさんでいた渡辺はま子の『蘇州夜曲』『支那の夜』や李香蘭のそれらは、ワンフレーズぐらいしか唄えないけれど、渡辺光子(月村光子)のヒット曲のひとつ『春の唄』Click!は、最後までつづけて唄える。いや、戦後に中学校や高校の音楽教科書にも採用されたので、わたしだけでなく多くの方が唄えるのではないだろうか?
新生美術198605.jpg 渡辺光子.jpg
渡辺はま子ブロマイド.jpg 李香蘭.jpg
 ♪ラララ赤い花束 車に積んで
 ♪春が来た来た 丘から町へ
 ♪すみれ買いましょ あの花売りの
 ♪かわい瞳に 春のゆめ
 月村光子は『春の唄』のほか、『旅は青空』『時雨ひととき』『街の流れ鳥』などの歌が次々とヒットし、一気に流行歌手の仲間入りをしている。彼女は、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)で教師をするかたわら、さまざまな歌手名を使い分けながら歌謡曲を連続ヒットさせる、非常にめずらしい存在だった。芸名だけでも、渡辺光子(結婚後は月村光子)をはじめ川島信子、川瀬綾子、川辺綾子、川辺葭子、島津千代子、田辺光子、綾小路満子、フローラ瑠璃子、水浪澄子、水野喜代子、春海綾子、中村春枝……etc.と、本人も混乱したのではないかと思えるほど、たくさんの歌姫名を持っていた。戦後は、生まれ故郷の東京を離れ、関西の宝塚音楽学校で歌謡の教師をつとめている。
 さて、少し余談だけれど、渡辺光子(月村光子)よりもケタちがいに人気があった渡辺はま子は、仲嶺康輝が林明善アトリエに住んでいた1936年(昭和11)、『忘れちやいやヨ』Click!をレコーディングしている。早稲田大学の応援歌発表会に招かれて、同曲を唄ったところ大好評でヒットのきざしが見えはじめた矢先、突然、内務省から「あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱、エロを満喫させる」とされて、上演禁止とレコードの販売禁止を命じられた。当然、それを機会に同省の特高警察Click!からも目をつけられただろう。だが、彼女は曲名を変え歌詞の一部を変更するだけで唄いつづけ、わずか3ヶ月足らずでレコード売上げ15万枚という大ヒットを記録している。
月村光子邸跡.JPG
月村光子「名曲玉手箱」.jpg
月村光子「想ひ出の月影」.jpg
 当時、新宿を中心とした“都の西北”界隈では内務省および特高警察、さらには軍部からの思想・宗教弾圧Click!や、さまざまな生活・メディア・芸術表現への抑圧・統制・干渉Click!を眼前にして、次のような『東京行進曲』の替え歌がひそかに唄われていた。
 ♪昔恋しいワセダの自由
 ♪今の暴圧だれが知る
 ♪モガと踊つてビラ張つて更けて
 ♪明けりや処分の涙雨      (歌詞採集:今和次郎Click!)
 ちなみに、昭和初期の治安維持法ならぬ現在の「共謀罪」が施行されれば、いつなんどき国家や警察の恣意的な規定で、このような状況に陥ってもなんら不思議ではない危機的な状況を迎えていることに、決して鈍感でいてはならないだろう。
 さて、仲嶺康輝が渡辺光子(月村光子)邸の隣りに住んでいた前後、彼は周辺に拡がる風景を仲間とともに写生してまわり、いくつか「下落合風景」のタブローを仕上げている。今年(2017年)の春に開催された「山元恵一 まなざしのシュルレアリスム」展図録(沖縄県立博物館・美術館)に収録の、仲嶺康輝『学生時代の山元恵一君』から引用してみよう。
  
 今の中井附近は、家が建ちならび、昔の風景は見られないが当時は武蔵野の特色である欅林や麦畑、野菜畑、竹林等があり人家が所々にあったので、我々はよくこの附近の風景を描きに行った。油絵の風景も描くが何といっても絵の基礎はデッサンである事を忘れなかった。/小林萬吾先生の画塾である「同舟舎洋画研究所」に行くのは中央線の東中野駅まで20分位歩いて国電に乗り信濃町駅で下車して、これから又20分歩いて小林萬吾先生の研究所に通った。ここの研究所も川端画学校と同じく各県から来た美術浪人がいて、ここは約20人位いた。
  
 もし、彼らが描いた「下落合風景」が残っていれば、いまでは貴重な作品群となっただろう。広い下落合の東部や中部を描いた作品は比較的多いが、中井御霊社のある西端近くを描いた作品はかなり少ないからだ。下落合を歩きまわっていた佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!でも、下落合の西端を描いた作品は2~3点しか見つからない。
月村光子邸1938.jpg
月村光子邸1947.jpg
新宿東口喫茶店.jpg
 このサイトでは、落合地域に住んだ芸術家(おもに画家や作家など)は数多く取り上げてきているけれど、音楽家にはこれまであまりスポットを当てずにスルーしてきた。多彩な資料をひっくり返していると歌手や演奏家、作曲家などのネームに出あうことがあるので、これからは気づいた時点で少しずつご紹介できればと考えている。

◆写真上:八ノ坂を下から見上げたところで、下落合4丁目20162番地の林明善アトリエや月村光子(渡辺光子)邸は、左手の路地を少し入ったところに建っていた。
◆写真中上上左は、1986年(昭和61)発行の「新生美術」5月号。上右は、渡辺光子(月村光子)のブロマイド。は、渡辺はま子()と李香蘭()のブロマイド。
◆写真中下は、渡辺光子(月村光子)が住んでいたあたりの現状。手前左の早大教授の寺尾元彦邸跡と、奥の林明善アトリエにはさまれるような位置に「月村」の表札が出ていた。月村光子のレコードレーベルで、『名曲玉手箱』()と『想ひ出の月影』()。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる月村光子(渡辺光子)邸あたり。以前にも書いたが、「火保図」は寺尾元彦邸の形状を誤採取している。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる月村光子邸。は、画塾へ通った仲嶺康輝たちがコーヒー1杯で2時間以上ねばった新宿の喫茶店。左手が新宿駅舎なので、東口駅前の東京パンの2階にあった喫茶部から山手線方向を向いて撮影している。

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金山平三のパーティで踊る仲嶺康輝。 [気になる下落合]

林明善アトリエ跡.JPG
 1934年(昭和9)になると、沖縄からの画学生だった仲嶺康輝は、蘭塔坂Click!(二ノ坂)上にある名渡山愛順が借りていた下落合4丁目2080番地の一原五常アトリエClick!から、下落合4丁目2162番地の林明善のアトリエへと転居している。林明善は、片多徳郎Click!に師事した名古屋出身の洋画家で、帝展を中心に活躍していた。
 林明善は、名古屋市中区の古渡町にある犬御堂(現在は道路拡張にともない廃寺)という寺にいて、僧職をつとめながら帝展へ出品する異色の洋画家だった。ほとんどを名古屋の寺ですごすのだが、帝展や第一美術展の時期が近づくと、下落合の2階建てスレート葺きのアトリエへやってきては作品を仕上げていた。仲嶺康輝は林明善が名古屋にいる間、アトリエの“留守番”として住みこみの管理人となったわけだ。林明善アトリエのあった下落合4丁目2162番地は、中井御霊社Click!のちょうど南斜面、目白崖線の最西端にあたる八ノ坂の西に接するエリアだ。吉屋信子Click!が、1928年(昭和3)夏の散歩で歩いた中ノ道(現・中井通り)の途中、「牛」Click!を撮影したポイントの左背後の斜面に、林明善アトリエは位置している。
 このアトリエで留守番をしてすごしている1935年(昭和10)10月、仲嶺康輝はゴタゴタつづきの帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)から、牧野虎雄Click!の奨めで多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)へと転校している。牧野は当時、多摩美校の初代洋画部長をつとめていた。同じころ、仲嶺は山元恵一と西村菊雄の3人で連れ立って、下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の近衛町Click!へ、自邸とアトリエClick!を新築した安井曾太郎Click!を訪ねている。帝展画家たちとの交流が多かった3人にしてみれば、二科の安井曾太郎を訪問したのはめずらしく、特に小林萬吾の同舟舎洋画研究所へと通い、のちにシュルリアリスムへと進む山元恵一は、美校や画塾でのアカデミックな表現にウンザリしていただろうか、安井の画面が新鮮に感じられたかもしれない。
 1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
  
 山元・西村と私の三人は目白駅の近くにいた安井曾太郎のアトリエを訪ねた事がある。なかなかアトリエを人に見せないので有名だが、沖縄から洋画の勉強に来た事を話したらアトリエを見せて下さって茶菓子を頂き激励して下さった。
  
 安井曾太郎は、「アトリエを人に見せないので有名」と書いてあるけれど、山口蚊象(のち山口文象Click!と改名)設計のアトリエはかなり自慢だったらしく、当時の建築雑誌や美術雑誌などの取材に応じてはアトリエ内を公開している。
林明善アトリエ1936.jpg
七の坂-八ノ坂1938.jpg
中井御霊社稲荷.JPG
 さて、下落合西部のアビラ村には、下落合2080番地の金山平三Click!や下落合741番地の満谷国四郎Click!後藤慶二Click!が設計した大久保百人町のアトリエに住んでいた南薫造Click!などが大正末に呼びかけて以来、帝展を中心とする画家たちが集合しはじめていた。名渡山愛順が一原五常アトリエを借りていたのは、おそらく東京美術学校で島津一郎Click!と同級生だった縁からだろう。当時の様子を、同誌からつづけて引用してみよう。
  
 この近くには、島津製作所の社長島津源吉の数千坪の屋敷に豪邸があった。その社長の息子に島津一郎がいた。一郎は、名渡山愛順と同級生で、そのため我々も懇意の中となり、よく一郎のアトリエに遊びに行った。一郎のアトリエは、島津家の大きな家敷(ママ)の一隅に、大きな住宅のような建物を持ち、よく専属モデル嬢を使って制作していた。刑部人の奥さんは一郎の姉で、島津家の広大な家敷の一角に邸宅を与えられていた。刑部人の息子祐三は、名渡山愛拡と美校時代の同級生と聞く。
  
 ここで、このサイトではおなじみの名前が次々と登場している。島津源吉邸Click!の庭にある、噴水の北側に建設された島津一郎アトリエClick!についてや、下落合4丁目2096番地の刑部人アトリエClick!、また、ここの記事ではよく写真やコメントを紹介させていただいている刑部佑三様Click!が、名渡山愛擴(拡)の同窓生とは存じ上げなかった。
 また、仲嶺康輝が下落合4丁目2080番地の名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)に、山元恵一たちと寄宿していたころの思い出として、次のような文章を書いている。今年(2017年)3~4月に、沖縄県立博物館・美術館で開かれた「山元恵一展 まなざしのシュルレアリスム」展図録の、仲嶺康輝『学生時代の山本恵一君』から引用してみよう。
  
 私達の住んでいるアトリエから金山先生のアトリエまでは約7、80米、そこから中井駅まで約200米あって、この200米位のまがった坂道はスペインのアビラ村に似ているというわけで、金山先生がアビラ坂と名付けられた。私達はよく金山先生のアトリエにも遊びに行ったが、ここからは中井(西武線)の駅は、すぐ下にあって、ここを隔て、南側の向いが上落合で、上落合の欅の木々の間から遠く新宿の建物が見られた。上落合には南風原朝光さんが家族と一緒に住んで居られ、我々はよく遊びに出かけ南風原さんも亦我々のいるアトリエに来られた。
  
二ノ坂上.JPG
金山アトリエパーティ.jpg
制作中の金山平三.jpg
 仲嶺康輝が、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエに住んでいるとき、1936年(昭和11)の二二六事件Click!に遭遇している。その文章の中で、「学校へ行くために中井駅まで行ったら、東京の全交通機関はストップ」と書いているけれど、明らかに勘ちがいだろう。つい先日も二二六事件Click!の朝、西武線の中井駅から山手線、中央線と乗り継いで登校した名取義一の文章Click!をご紹介したばかりだ。
 前夜からの大雪で電車に遅れは出ていたかもしれないが、東京各地の省線や私鉄はいつもどおり運行されており、それに乗って登校あるいは出社した人々の証言は、これまで何度もここでご紹介している。東京市に戒厳令がしかれ、芝浦に海軍の陸戦隊が上陸して一触即発の状況となった後日の出来事と、2月26日当日の朝の出来事とを混同しているのではないだろうか。
 仲嶺康輝は年末が近づくと、金山平三アトリエClick!で催される忘年会(ダンスパーティ)Click!へ出席するため、友人たちと踊りの練習に熱中した。もちろん、沖縄舞踊の出し物だったが、金山平三が沖縄舞踊に惹かれて自身でも踊るClick!ようになったのは、近くにいた名渡山愛順や、沖縄の若い画学生からの影響だったのかもしれない。再び「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
  
 私が留守番をしていた林画室は、友人・知人がよく来訪し、忘年会の時には皆が肉や魚や酒等を持って来てくれて若き日を楽しんだ。金山平三のアトリエでは、忘年会には、有名な画家(おもに帝展系)が集まってダンスパーティーをやった。私は郷里の青年で村芝居の経験のある数人を深川から林画室に来てもらって、リハーサルをし、金山平三の広いアトリエの作品を別室に片付けての忘年会に沖縄の舞踊を特別出演させたら大変な拍手であった。
  
 やがて、林明善アトリエには画学生の小林久や荻太郎が、愛知県からやってきて同居するようになる。だが、学校を卒業したあとも、そのまま林明善アトリエに住みつづけられると思っていた仲嶺康輝は、ほどなく1938年(昭和13)3月に林明善の訃報を受けとり驚愕している。林は、いまだ40歳の若さだった。
 のちに、アトリエは林明善の鈴子夫人が同じ名古屋出身の洋画家・遠山清に売却し、仲嶺は下落合から出ていかざるをえなくなった。彼は中野区鷺宮1丁目に土地を借りて、20坪ほどの小さな赤レンガ造りの平屋アトリエを建設している。
林明善アトリエ1947.jpg
七ノ坂-八ノ坂1960.jpg
御霊坂階段.JPG
 仲嶺康輝が暮らした林明善アトリエの西、バッケClick!下(現・御霊坂のある位置)には、下落合と上高田の境界となる妙正寺川が流れていた。その両岸には、麦畑やトマト畑が拡がっていたのだが、紅く実ったトマトを失敬するトマト泥棒が出没している。川沿いのトマト畑が、点々と被害に遭っているようなのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:中井御霊社の下、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエ跡。(左手奥)
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林明善アトリエで、仲嶺康輝が住んでいた時期と重なる。は、1938年(昭和13)の火保図にみる林明善アトリエ。「火保図」では東隣りの寺尾元彦邸(早大法学部長)とくっついているように採取されているが、実際には別棟で同図の誤採取。は、中井御霊社に合祀されている稲荷社。社殿左側の、急激に落ちこんでいる斜面の真下が林明善アトリエ。
◆写真中下は、二の坂上の名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)側から眺めた、突き当たりの金山平三アトリエ跡。は、金山アトリエで毎年開かれた忘年会の芝居+踊り+仮装パーティーで、左端が変装した金山平三。は、十和田で制作中の金山平三。(中島香菜様Click!から提供いただいた「刑部人資料」より)
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・林明善アトリエ。は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる同界隈の様子。は、当時の画家たちも目にしていたと思われる中井御霊社から西側へと下る大谷石のバッケ階段。

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沖縄の画学生が集った一原五常アトリエ。 [気になる下落合]

一原五常アトリエ跡.JPG
 下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)には、帝展の洋画家・一原五常Click!がアトリエを建設して住んでいた。おそらく下落合西部の、東京土地住宅Click!によるアビラ村構想Click!により、帝展の画家たちに誘われて昭和初期にアトリエを建てているとみられる。だが、1925年(大正14)に東京土地住宅が破綻してアビラ村事業Click!の継続ができなくなり、一原五常自身が絵画制作だけでは生活が苦しかったのか鹿児島に職を見つけて転居してから、一原アトリエは貸し家となった。そこへ1927年(昭和2)ごろ住みついたのが、沖縄出身の洋画家・名渡山愛順だった。
 名渡山アトリエとなった家には、近所に住んだ金山平三Click!島津一郎Click!などが出入りしたが、沖縄からやってきた画家の卵たちが寄宿するようになる。1931年(昭和6)には、東京美術学校をめざす仲嶺康輝や山元恵一、西村菊雄らが名渡山アトリエに住み、小林萬吾Click!の同舟舎洋画研究所に通っている。
 このあたりの経緯は、1986年(昭和61)に新生美術協会が発行した「新生美術」5月号所収の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』に比較的詳しく書かれているのだが、仲嶺におよそ東京の土地勘や地場の記憶がないせいか、この文章には不正確で妙な記述や誤りが目立つ。たとえば、文章の出だしからして、わたしはひっかかってしまった。
  
 昭和二十年三月九日の夜から翌十日朝にかけ米機B29による東京大空襲は、多大の被害をもたらし、帝都は一夜にして焼野ヶ原と化し、そのため東京都の三十五区は戦後今日の二十三区に変った。
  
 戦前から地元に住む方がこれを読んだら、すぐにも「?」だろう。3月10日の東京大空襲Click!は、B29の大編隊により最初の1弾が着弾したのが、3月10日午前0時8分(投下時点の7分説もある)であり、前日の9日夜はいまだ空襲警報の段階だった。前夜の23時すぎから翌日の未明にかけて行なわれた、同年4月13日夜半および5月25日夜半の二度にわたる山手空襲Click!と東京大空襲を混同してないだろうか? また、「そのため」に東京35区Click!が22区(のち23区)になってしまったのではなく、敗戦を機に人口の急減で戦後の行政統合と自治体の業務効率化、財政緊縮の流れにより23区化 (面積は35区とほぼ同じだ)されたのであって、東京大空襲とは直接なんら関係がない。
 下落合における表現も同様で、耳野卯三郎Click!(上高田422番地=最寄りは西武線の新井薬師駅)や大久保作次郎Click!(下落合540番地=最寄りは山手線の目白駅)、鈴木誠Click!(下落合464番地=同)、片多徳郎Click!(下落合596番地=最寄りは西武線の下落合駅)など各画家のアトリエをすべて「中井駅附近」と書くなど、このあたり土地勘のおかしさをあらかじめ含みおきつつ、同文から引用してみよう。
  
 昭和十年神宮外苑の日本青年会館に沖縄から舞踏団が来て三日位沖縄の種々の芸能が披露された。真境名由康。新垣松含ら大ぜいの舞踏団であった。/私は、金山夫妻と、医学博士でアララギ派の歌人斎藤茂吉夫妻のおともをして行った。金山平三夫妻は沖縄がすきになり、それから間もなくして沖縄に旅行された。/名渡山愛順は、美校を卒業して夫妻と愛拡が沖縄に帰り、借りていたアトリエは家主に返さねばならぬので、私達三人は別に附近に家をかりて、自炊生活をする事になった。高田馬場駅の近くには、洋画家の安宅安五郎がいて、私達三人は、笹岡了一に連れられてアトリエを訪問した。中井駅の近くには詩人萩原朔太郎と離縁したマダムが、ワゴンという喫茶店を経営して私達三人は笹岡了一、南風原朝光らとここでコーヒーを飲みながら談笑した。南風原朝光は、すぐ近くの上落合に住んでいた。
  
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名渡山愛順「首里の追憶」1946.jpg
名渡山愛順「青藍絣の女」1959.jpg
 これを読むと、金山平三Click!斎藤茂吉Click!は疎開先の山形県大石田で知り合ったのではなく、もっと以前から知人関係にあったことがわかる。急速に親しくなったのが、大石田での疎開生活だったのだろう。また、金山平三は沖縄舞踊も踊れたClick!らしいことがうかがわれて面白い。また、萩原稲子Click!の喫茶店「ワゴン」Click!には、文学関係者だけでなく画家たちも常連で出入りしていた様子がうかがえる。
 また、仲嶺康輝は帝展つながりのせいか、下落合(2丁目)604番地に住む牧野虎雄アトリエClick!を頻繁に訪問していたようだ。牧野アトリエの並びや向かいにあった、二科の曾宮一念Click!(下落合623番地)や帝展の片多徳郎のアトリエについては記述がないので、特に訪ねはしなかったのだろう。つづけて、同文から引用してみよう。
  
 下落合駅の近くには、洋画家の牧野虎雄が木造瓦葺、平屋に独身で住んでいて制作していた。一日に清酒二升五合を飲み、訪れる人には、お茶がわりに酒を出していた。日本間の畳の上ですわって絵を描き、小道具は熊手で自分の所に引き寄せていた。酒のみの妻はかわいそうだと言って妻帯せずときどき新橋の芸者屋に行っていた。アルコール中毒で絵を描く時も、学校で絵の指導する時もガソリンがきれたと言って洋服のポケットから出して小瓶の洋酒を飲んでいた。/牧野虎雄は、旺玄社(戦後旺玄会)の創立者で、ふだんの身の廻りは、酒屋の番頭が見ていた。
  
 1932年(昭和7)の前後、牧野虎雄はすでに重度のアルコール依存症だったことがわかる。向かいにアトリエをかまえていた、より重症なアル中の片多徳郎が訪ねてきたりすると、牧野アトリエは目もあてられない状態になったのではないか。
 なお、曾宮一念のスケッチや回顧録Click!などから、牧野アトリエは洋間ばかりの家だと想定していたが、和洋折衷住宅だったのかどうやら和室をアトリエとして使っていた様子がうかがえる。したがって、以前の記事でご紹介した牧野虎雄の写真Click!は、年齢的な容貌からいっても長崎アトリエClick!ではなく、下落合604番地のアトリエの可能性が高い。
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 名渡山愛順は、1932年(昭和7)に沖縄にアトリエを建て、同時に沖縄県立第二高等女学校で教職につくために帰郷するので、しばらく共同生活をつづけていた3人の画学生は、やがて一原五常アトリエを出なければならなくなった。代わりに借りたのが、下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)の林明善アトリエだった。中井御霊社のちょうど南側にあたる、八ノ坂の西側一帯の地番だが、名古屋で僧職に就いている林明善の留守番というかたちでアトリエを借り受けている。
 さて、少し余談になるけれど、仲嶺康輝はこの文章の中で佐伯祐三Click!による『下落合風景』Click!の場所特定を試みている。八島邸の赤い屋根を入れた八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)を、金山平三アトリエClick!前の南北通りを北から南に向いて描いたものだと規定している。つまり、突き当たりに見える大きな屋根の家が金山アトリエだとした。おそらく、1931~34年(昭和6~9)ごろ実際に目撃した風景の断片を思い返しながら、描画ポイントの特定を試みたものだろう。だが、佐伯の画面に描かれた道が左ではなく右へクラックしている様子、犬を連れて散歩する人物が右手の坂を下っていく様子、描かれた三間道路には下水道の整備など早くから手が加えられている様子、同風景を描いた他のバリエーション作品(たとえば晴れ間のあるバージョン)の光線が射しこむ方角のちがいなどから、仲嶺の特定位置とはことごとく一致しない。
 そしてなによりも、蘭塔坂(二ノ坂)Click!三ノ坂Click!にはさまれた金山平三アトリエ前の南北道が拓かれ、上ノ道から南下する路地とつながったのは昭和に入って少ししてからであり、佐伯がいた1926年(大正15)ごろには道路自体が存在せず、家もほとんど見あたらない一面の野原だったはずだ。ついでに、仲嶺康輝は1986年(昭和61)に下落合4丁目(現・中井2丁目)を歩きながら、「新生美術」用の写真撮影をしているようなのだが、島津源吉邸Click!母家の建設位置を四ノ坂の西側と書いたり、刑部人アトリエClick!を三ノ坂に面したアトリエ東隣りの2階家に規定するなど、50年以上も前の曖昧な記憶に頼らず、もう少し事前に東京あるいは下落合の下調べをしてから原稿を書くべきだったろう。
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 仲嶺康輝は、林明善アトリエから帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)さらには多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)へ通いつつ、金山平三Click!アトリエのダンスパーティClick!(忘年会)などへ頻繁に顔を出している。しばらくすると、愛知県からやってきた洋画家をめざす荻太郎や小林久と同居するようになるのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)の一原五常アトリエ跡で、昭和初期には一原が不在となり名渡山愛順が借り受け沖縄の画学生たちが集合していた。
◆写真中上は、戦後すぐのころの名渡山愛順。は、1946年(昭和21)に制作された名渡山愛順『首里の追憶』。は、1959年(昭和34)制作の同『青藍絣の女』。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる一原五常アトリエ。は、1934年(昭和9)に撮られた「沖縄美術協会」展の記念写真。前列右端が山元恵一、後列右からふたりめが仲嶺康輝で右端が西村菊雄。は、1974年(昭和49)制作の山元恵一『ペルーの皿』。シュルレアリズムの作風は、どこか三岸好太郎Click!を想起させる。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる一原五常アトリエ。は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる一原アトリエ。は、2012年(平成24)11月撮影の一原アトリエ側の道筋から眺めた解体寸前の金山アトリエ。

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米騒動に起因する東京各地の「市場」。 [気になる下落合]

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 大正末から昭和初期にかけ、東京各地に出現した食料品や日用雑貨を扱う「東京市営市場」あるいは「東京府営市場」が、もともとは1918年(大正7)に起きた「米騒動」に起因していることは、あまり知られていない。当時の行政(寺内正毅内閣)は、日に日に高騰する米価に対しなんら有効な政策を打ち出せず、政府が高い米を買い上げて各地で臨時に大安売りするという、付け焼刃Click!のような散発的な施策に明け暮れていた。
 寺内内閣が行っていた刹那的な米の安売り販売は、東京市内ばかりでなく東京府の郡部でも行われ、数多くの住民たちが米を求めて殺到している。廉売所を警備するため、警官隊ばかりでなく消防士までが動員された。だが、詰めかけた住民全員に米がいきわたるはずもなく、また一般の住民たちより先に政府関係者や警察官が、「試食用」と称して大量に米を買い占めているのが発覚し、現場は不穏な空気に包まれたようだ。
 落合村の東隣りにある高田村でも、1918年(大正7)3月3日に政府による米の廉価販売が行われている。臨時の販売所が設置されたのは、高田村砂利場にある「怪談乳房榎」Click!で有名な南蔵院Click!の境内だった。当日の状況を、ほとんどリアルタイムで記録し1919年(大正8)に出版された、『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)所収の「都新聞」記事から引用してみよう。
  
 高田倉庫会社の第二回白米安売は三日高田村砂利場の南蔵院で行はれた、前回の雑踏に鑑みて買手は朝八時頃から続々詰めかけて待つて居るので開始時間を繰上げ正午から売出した、山門には厳重な矢来を設け六名の巡査と消防夫が扉を固め時期を見計つて百人位づゝ場内に入れたが其時場外の競争は非常なもので初めは前回に来て買へなかつた優先券を持つた人々だけを入場させて売つた、柳下村長吉野助役は三名の書記を連れて出張し万事の世話をしたが前回は一人に二斗と限つたが今回は広く一般に霑ふ様に四升以上八升一斗の量り売りもした、首相官邸の使者秋元仙之助といふ人は試食用として四俵又小石川署の巡査や巡査部長八十名は一斗づゝ買つた、斯して午後四時迄に五百俵の在庫米を悉く売り尽してそれでも猶不足を告げたので夕刻更に高田四家町足達商店の商品数十俵を追加した、次は三月十日高田村在住者に限り第三回を行ひ千人乃至千五百人に限り販売するさうである。
  
 高田倉庫株式会社Click!は、目白駅(地上駅)Click!前にあった鉄道倉庫で、当時は1916年(大正5)に設立されたばかりの会社だった。同社の相談役には、元・高田村村長で高田農商銀行頭取だった新倉徳三郎Click!が就任している。このあと、1918年(大正7)7月に富山県に端を発した、米穀店や米を積んだ船舶・列車などを襲撃する「米騒動」は、またたく間に全国各地へと飛び火していくことになる。
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 同年8月には、東京各地でも米価の高騰に抗議する群衆やデモ隊と警官隊との衝突が相次ぎ、街中は一気に騒然とした空気に包まれていった。上掲の『高田村誌』でも指摘されているとおり、政府が買い上げ一般市民向けに用意した安売り米を、廉売所の周辺に住む当の政府関係者や公務員、警察官たちが優先的に入手・着服するという不正が発覚するにおよび、ついに無能な政府に対する東京市民と郡部の府民たちの怒りが爆発した……と書くほうが正確だろう。寺内内閣は翌9月、「米騒動」の責任をとって総辞職することになる。わずか2年ともたない、短命な内閣だった。
 政府の無策ぶりを見かねた東京商業会議所では、華族や財閥、富豪などから急きょ寄付を募って、約300万円ほど集まった資金をベースに、東京市内および東京府の郡部で組織だった米の流通ネットワークを新たに構築し、東京市や東京府と連携して常設の廉価販売所(市場)を開設している。やがて、米価が下がり「米騒動」が一段落すると、同会議所の手もとには60万円ほどの資金が残った。この資金をもとに、東京市と東京府は米穀をはじめとする食料品、あるいは日用雑貨品を安く販売する「市場」を、東京各地に設ける構想を立案している。
 60万円のうち、40万円を東京市が20万円を東京府が活用し、東京各地で「市場」の建設に着手していった。「米騒動」の翌年1919年(大正8)には、早くも市と府を合わせて67ヶ所の市場が開設されている。そして、大正期が終わった1928年(昭和3)現在では、東京市内に12ヶ所の大規模な市場が、郡部には34ヶ所の市場が常設されていた。郡部(東京府)における市場開設の様子を、1929年(昭和4)に中央公論社から出版された今和次郎Click!『大東京案内』より引用してみよう。
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 一方府の方では、二十万円の指定寄附を基礎に、東京府日用品市場組合を組織して、市場を経営した。大正七年十一月には既に仕事を始め、翌年八月には市郡を通じて六十七ヶ所となつたが、内務省からなほその増設を条件として百万円の低利資金を借り、財団法人組織にあらためた。/現在府の市場のある場所は、(中略) 等三十四ヶ所である。/店舗約五百。昭和三年度(昭和三年七月から四年六月まで)の三十四市場の総売上高は、九百三十七万六千余円となつてゐる。
  
 1928年(昭和3)の時点で、落合地域の周辺には高田町1709番地(のち目白町2丁目1709番地)の目白駅前にあたる「目白市場」Click!、戸塚町上戸塚18番地(のち戸塚3丁目18番地)の高田馬場駅前にあたる「戸塚市場」などが開設されている。
 同じころ、銭湯「草津温泉」Click!近くの下落合1886番地には「下落合市場」Click!が、村山知義アトリエClick!西側の旧・月見岡八幡社Click!近く上落合196番地には「上落合市場」がオープンしている。また、目白通りをはさんだ北側、長崎南町2丁目4105番地(のち椎名町6丁目4105番地)には「長崎市場」Click!が開設された。落合地域の市場が、どのような意匠をしていたのか記録がないので不明だが、公営の「目白市場」および「長崎市場」は中世のヨーロッパ建築のような、まるで往年の「名曲喫茶」のような古城を思わせるデザインをしていた。
 落合地域では、「下落合市場」が1926年(大正15)に、「上落合市場」が1928年(昭和3)に開設されているが、町域が広いせいか1929年(昭和4)には尾崎翠Click!宅のすぐ北側にあたる妙正寺川沿いの上落合721番地に「上落合中井市場」(おそらく妙正寺川の直線化工事を控える空き地に設立された臨時市場だろう)が、1930年(昭和5)には光徳寺の北東側にあたる上落合428番地に「親和市場」が設置されている。
 また、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)には記録されていないが、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」には、目白文化村Click!箱根土地本社ビルClick!向かいにあった交番Click!の裏、下落合1389番地にも「市場」が採取されている。これらの市場が、すべて公営だったとは到底思えないが、少なくとも「上落合市場」と「下落合市場」は東京府日用品市場組合の経営だったと思われる。
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 上落合には3市場、下落合には中西部に1市場(+1市場)と、山手線寄りの下落合東部には市場が存在していないが、これは1923年(大正12)設立の目白駅前にある「目白市場」を利用できたのと、昭和に入って高田町金久保沢1113番地の谷間、すなわち目白駅西側の八兵衛稲荷Click!(豊坂稲荷)のある豊坂下に、新たな市場が開設されていたからだろう。この“金久保沢市場”は公営の「目白市場」に近いため、おそらく公設ではなく高田倉庫あたりが経営する私設市場だった可能性が高そうだ。

◆写真上小川薫様Click!が保存されている上原としアルバムClick!に収録の、1935年(昭和10)前後に目白駅近くで撮影された記念写真の1葉。東環乗合自動車Click!に勤めるドライバーの背後に写っている小ジャレた建物が、目白市場の西側側面だと思われる。よく観察すると、屋根の意匠などが長崎市場とそっくりなのがわかる。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白市場と冒頭写真の撮影ポイント。は、同年に撮影された別角度の写真。は、目白市場跡の現状。
◆写真中下は、1948年(昭和23)撮影の目白市場焼け跡。は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる戸塚市場。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚市場。
◆写真下は、上原アルバムに収録された長崎市場。人物は、長崎の町内運動場Click!で開かれた壮行会の出征兵士。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる洛西館Click!の隣りの長崎市場。は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる下落合市場。

戦後にも、「目白市場」の焼け跡には同様に「目白市場」という名のマーケットができるが、戦前の東京府による「目白市場」とは同じ名称ながら別ものだ。
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淡谷のり子の機先の制し方。 [気になる下落合]

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 作曲家の服部良一は戦時中、まったく軍歌をつくろうとせず軍部を煙に巻いてはジャズを平然と演奏していた。一時期は上落合と下落合に家族とともに住み、田口省吾Click!前田寛治Click!のもとへモデルに通っていた淡谷のり子Click!は、戦時中に真正面から軍部、特に陸軍憲兵隊との命がけの衝突を繰り返していた。このふたり、気が合うのか非常に仲がよかったことでも知られている。
 1943年(昭和18)3月に、東京宝塚劇場で「国民劇」として上演された、服部良一が監督をつとめるオペラ『桃太郎』には、森の魔女役として淡谷のり子も出演している。淡谷の魔女役はピッタリだったろうが、桃太郎を高峰秀子Click!、サルを榎本健一、キジを灰田勝彦、イヌを岸田明が演じた同劇では、軍歌あるいは軍楽調の曲はあまり用いられず、当時はヨーロッパの前世紀あるいは前々世紀の古臭い音楽に対して、「軽音楽」と差別的に扱われていた音楽がBGMに多用されている。
 特に、陸軍報道部長の揮毫である「撃ちてし止まん」の幟を背負った桃太郎(高峰秀子)が、鬼ヶ島で鬼退治をするシーンでは、ディキシーランドJAZZのにぎやかな『タイガー・ラグ』が用いられ、内務省監督官に指摘されると「これはマライの虎狩りの音楽だ」といって煙に巻いた話は有名だ。服部良一は、米国のJAZZをラジオなどで演奏するときは、ドイツやイタリアの作曲家の名を冠した「シューベルト・アラモード」とか「ある日のモーツァルト」、「影絵のベートーヴェン」などと適当なタイトルをデッチ上げ、平然とスタンダードJAZZを流している。
 JAZZをはじめとする米国音楽や、おもにドイツとイタリアを除いたヨーロッパ音楽が「敵性音楽」だと規定され、国内での演奏が禁止されたのは、日米開戦間もない1941年(昭和16)12月30日の政府談話が最初だ。つづいて、翌1942年(昭和17)1月13日には、内閣情報局「週報」328号の中で、具体的な「米英音楽の追放」の実施要項を発表している。以下、同「週報」328号(現代仮名づかい修正版)から引用してみよう。
  
 米英音楽の追放
 大東亜戦争もいよいよ第二年目を迎え、今や国を挙げてその総力を米英撃滅の一点に集中し、是が非でもこの一戦を勝ち抜かねばならぬ決戦の時となりました。大東亜戦争は、単に武力戦であるばかりでなく、文化、思想その他の全面に亙るものであって、特に米英思想の撃滅が一切の根本であることを思いますと、文化の主要な一部門である音楽部門での米英色を断固として一掃する必要のあることは申すまでもありません。/情報局と内務省では、大東亜戦争の勃発直後に、米英音楽とその蓄音機レコードを指導し、取締るため、当面の措置として、音楽家に敵国作品の演奏をしないように方針を定め、また、これらのレコードの発売にも厳重な指示を与えたのでありますが、それにも拘わらず、未だに軽佻浮薄、物質至上、末梢感覚万能の国民性を露出した米英音楽レコードを演奏するものが跡を絶たない有様でありますので、今回さらにこの趣旨の徹底を期すため、演奏を不適当と認める米英音楽作品蓄音機レコード一覧表を作って、全国の関係者に配布し、国民の士気の昂揚と健全娯楽の発展を促進することになりました。
  
 この禁止令で、米英音楽の演奏や録音・レコード販売がいっさいできなくなるのだが、戦争が進み敗色が濃くなるにつれて、当局は病的かつヒステリックな取り締まりを強化し、特高Click!の監視は家庭における音楽鑑賞にまで及んでいく。
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 音楽に無知な特高が、家宅捜査でモーツァルトやベートーヴェンなどドイツ・グラモフォンのレコードを押収したり、蓄音機でベートーヴェンを聴いていた人物を連行して暴行を加えたりと、もはや錯乱状態に近い狂奔ぶりだった。ましてや、米国のJAZZレコードを保有していた家庭では、まったく聴けない状況がつづき、戦前に周囲へ漏れていた音の記憶から近隣に密告され、特高に踏みこまれて押収された例さえあった。
 1980年代の終わりから90年代にかけ、「スイングジャーナル」へ『生きているジャズ史』を連載していた油井正一Click!は、特高による「JAZZレコードの押収などなかった」と書いて、さっそく同年代のJAZZ愛好家の読者から反論を受けている。JAZZレコードを隠していた油井正一自身に、そのような個人的体験が運よくなかったからといって安易に敷衍化し、史的事実を丸ごと「なかった」ことにしてはマズいだろう。
 淡谷のり子は、内閣情報局「週報」328号によって、およそ自分の持ち歌のほとんどを否定されたに等しかった。したがって、「オオ・ソレミヨ」や「帰れソレントへ」などのイタリア民謡、アルゼンチンタンゴ、日本の歌曲などをレパートリーにするしかなかった。陸軍からの軍歌吹きこみの依頼を断りつづけ、「ドイツやイタリアで戦う兵士たちのことを思えば、礼装で歌わなければ失礼になる」と、コスチュームの豪華なドレスも脱ごうとはしなかった。
 憲兵隊や特高からは終始目をつけられ、特に憲兵隊からの呼び出しによる嫌がらせは繰り返された。淡谷が書いた「始末書」の高さが、数十センチといわれるゆえんだ。特にステージドレスに関する憲兵隊からの嫌がらせは執拗で、淡谷もついにキレて憲兵隊で激高しようだ。吉武輝子が収録した彼女の言葉を、『ブルースの女王淡谷のり子』(文藝春秋/1989年)から正確に引用すれば、「こんなつまらないことを、兵隊さんがいつまでもグダグダ言ってたんじゃ、戦争に負けてしまいますよ」といってしまった。日米が開戦してから、どれほど日本の戦局が不利になろうが、「戦争に負ける」という言葉は禁句になっていた。うちの親父も学生時代、「どう考えても、(アメリカに)勝てるわけがね~や」と不用意に発言Click!したのを誰かに密告され、現に警察へ引っぱられている。
 淡谷のり子は、即座に憲兵から「非国民!」と恫喝され、憲兵隊の留置所へそのまま入れられそうになった。それに対して、彼女も大声で怒鳴り返している。同書から、そのまま引用してみよう。「なにが非国民ですか。わたしはお上からビタ一文いただかずに、兵隊さんを慰問してまわっていますよ。わたしのように無料奉仕をしている歌手が他にいますか。お調べになってください。なんでそのわたしが、非国民呼ばわりされなくてはいけないんですか」。このとき、担当憲兵もあっけにとられたのか、始末書をとるのも忘れて帰された……と書かれている。
 だが、憲兵隊の取り調べや対応がそれほど甘いとは思えず、おそらく取り調べに当たった憲兵は、慰問では決して軍歌を歌わず内地のステージ姿のまま歌う、「淡谷のり子を派遣してくれ」という前線からの要望が多いことを知っていて、拘束したくても実質できなかったか、あるいは淡谷のり子の戦前からの“隠れファン”だったのではないだろうか。
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 また、憲兵隊からアイシャドウやつけまつげが時局がら不謹慎だと、再三にわたって呼び出されている。これに対して淡谷は、「わたしの顔を見てください。こんなブスが素顔でステージに立って、どうなるというのですか」と応酬し、そのたびに始末書をとられている。舞台上のメイクがもとで、彼女は50枚近くの始末書を憲兵隊に残した。
 淡谷のり子によれば、前線の慰問は陸軍よりも海軍のほうがスマートだったという。兵士たちのリクエストも多く、禁止されていたJAZZやブルース、シャンソンも海軍では暗黙のうちにフリーだった。上海に駐留していた海軍が催したコンサートでは、禁止されていた「巴里祭」や「暗い日曜日」、「別れのブルース」などが次々とリクエストされ、彼女もうっぷんを晴らすかのように1ステージで約50曲も歌いつづけている。当局による禁止曲がリクエストされるたびに、監視官だった海軍将校は席を外し、部屋の外で淡谷のり子の歌にジッと聴き入っていたという。
 陸軍の前線で歌ったとき、見るからに強面(こわもて)の軍刀を下げた陸軍将校が監視官として貼りついていたので、淡谷は当たり障りのない歌曲の「宵待草」や「浜辺の歌」などを歌ってみたが、兵士たちはただ黙って聴き入るだけで拍手はこなかった。おそらく、彼女のヒット曲が次々と聞けると思った兵士たちは、ニラみをきかす監視官のもとで緊張して萎縮し、半ばガッカリしていたのだろう。ところが、「オオ・ソレミヨ」を歌い終わったとたんに、舞台の背後からいっせいに拍手がきた。そこには、英米軍の捕虜たちが30人ほど並んでいた。
 その拍手を機会に、淡谷のり子は陸軍兵士に背を向けると、捕虜たちに向かって歌いだした。アルゼンチン・タンゴや「帰れソレントへ」など数曲歌ったあと、捕虜たちから大きな拍手や喝采をあびた。そのとたん、軍刀の鯉口を切り柄に手をかけた監視官が、舞台上の彼女に「皇軍の兵士に尻を向けて歌うとは何事だ」と迫ってきた。そのときの、淡谷のり子の平然とした言葉が記録されている。「わたしは芸人です。拍手をしてくれた方の方を向くのがあたりまえですよ。だいたい兵隊さんが歌を聴きたいというから、無料で歌っているのに、なんですか、拍手ひとつしないなんて。失礼にもほどがあります」。
 戦地慰問に動員されながら、謝礼をもらわない代わりに決して軍歌や時局歌を歌わない淡谷のり子は、おそらく陸軍の前線じゅうに知れわたっていたのだろう。いまさら軍歌など聴きたくない前線では、彼女が慰問に近くまできていることを知ると、わざわざクルマをまわして、ほんの少しでも兵士たちの前で好きな曲を歌ってくれないかと、大学出らしい将校たちが迎えにくることもあったようだ。
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 叔父の淡谷悠蔵が、平和運動に関わったとして治安維持法違反で特高に逮捕されると、淡谷のり子はさっそく花束とバナナの差し入れに警察署を訪れている。特高が規則で花束はダメだというと、刑事の胸に花束を押しつけ「理由が言えないような規則は、すぐお止めなさい」と怒って帰ってしまった。「昨夜遅く、淡谷のり子が来て、君に花束とバナナを差し入れてくれと言うんだ。監房には規則で花は入れられないと断わったら、そんなくだらない規則はなくしなさいと、叱られてしまってね。気の強い人だね。それでバナナは差し入れて、花は見せるだけにすることにして、やっと帰ってもらったよ」と、律儀な東北人だったらしい特高刑事は、花束を淡谷悠蔵へ見せている。
 さて、このエピソードから72年後の2017年(平成29)6月、膨大な犠牲を払って結果的に獲得できた日本の「戦後民主主義」が、いともたやすく窒息・死滅させられようとしている。このまま状況が進めば、1925年(大正14)5月の「大正デモクラシー」が死滅した時点へと逆もどりだ。警察の恣意的な解釈で、いくらでも国民を(予防)逮捕・拘禁できる監視・恫喝体制、そして国民の主張や異論をいともたやすく威圧し封じこめる手段を手に入れた国家権力は、まさに北朝鮮や中国と同質のものだ。

写真上:モデルになるため、淡谷のり子が下落合から通った長崎の路地。カーブの向こうに、長崎町1832番地(現・目白5丁目)の田口省吾アトリエが建っていた。
◆写真中上は、戦前に撮影された淡谷のり子。下左は、1937年(昭和12)に大ヒットした淡谷のり子『別れのブース』。下右は、翌1938年(昭和13)出版の同楽譜。
◆写真中下は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機が撮影した下落合と目白・長崎界隈。4月13日夜半の第1次山手空襲Click!が、鉄道駅と幹線道路沿いをねらった様子がよくわかる。は、上記の偵察写真にも写る御留山の谷戸の現状。
◆写真下:下落合や上落合の時代、淡谷のり子は周辺を家族と散策しただろうか。


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