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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(1) [気になる下落合]

清水多嘉示「下落合風景」1922.jpg
 これまで、さまざまな画家たちによる「下落合風景」Click!をご紹介してきたが、大正中期に下落合(現・中落合/中井含む)を描いた風景画は、下落合に実家があった小島善太郎Click!による大正初期からの諸作品Click!や、中村彝Click!によるアトリエ周辺の風景作品Click!大倉山Click!の北側斜面にあった森田亀之助Click!邸をおそらく渡仏直前に訪問したとみられる里見勝蔵Click!作品Click!、そして下落合に下宿していた鬼頭鍋三郎Click!初期作品Click!などを含め、たいへんめずらしい。いずれも大正末から松下春雄Click!佐伯祐三Click!笠原吉太郎Click!林武Click!二瓶等Click!など数多くの画家たちによる「下落合風景」の連作Click!がブームになる、少し前の作品群だ。
 今回ご紹介するのは、おそらく中村彝アトリエClick!へ立ち寄った際に描いたとみられる、1922年(大正11)に制作された清水多嘉示Click!の『下落合風景』だ。中村彝生誕130年記念会でお会いできた清水多嘉示のお嬢様・青山敏子様Click!から、さっそく画像をお送りいただいたので描画場所を特定してみたい。わたしは画面を一見して、この風景が下落合のどこを描いたものかが、すぐにわかった。このような風景が見られた可能性のあるポイントは、1922年(大正11)現在の下落合には2ヶ所しか存在しない。
 画面には、1922年(大正11)という時期にもかかわらず住宅が1軒も描かれていない。だが、まるで切り通しのようなV字型の狭い谷間ないしは坂道が、中央から右下に向かって下っている。崖地に表現された関東ロームの地層が見える右手の丘上近くは、木々が繁ってはおらず拓けた空間が拡がっているのがわかる。また、画面の左手から右手にかけては大きめな丘(山)が描かれ、遠方の木々の描き方を想定すると、かなり規模の大きな丘(山)であることがわかる。なぜこの風景が、下落合で見られた2ヶ所のポイントに絞られるのかといえば、イーゼルをすえている画家の立ち位置(視点)からだ。
 射しこむ陽光は画家の背後右手なので、その方角が南面なのは判然としている。つまり、この谷間ないしは切り通しは、丘上から南に向けて口を開けていることになる。そして、描かれたふたつの丘は、南へ向いた斜面を形成しているのも明らかだが、清水多嘉示はその南斜面を麓からではなく、再び地形が隆起しているかなり高い位置から写生していることになる。すなわち、左手の大きな丘(山)の南側に、谷間をはさんでもうひとつ小高い丘がある地形であり、その丘は少なくとも手前に描かれた木々の頂部よりも高い位置ということになるのだ。さらに画面の左下には、必然的に西側へと切れこんだ谷間ないしは窪みがあるということになる。
 以上のような地形把握を踏まえるならば、このような風景は林泉園Click!から流れ下った渓流沿いにある御留山Click!と、のちに近衛町Click!と呼ばれる丘の間の急峻なV字型渓谷か、西坂の徳川邸Click!が建つ斜面から眺めた、青柳ヶ原Click!諏訪谷Click!からつづく渓谷の2ヶ所しか存在しない。だが、のちに国際聖母病院Click!などが建設される青柳ヶ原の丘は、南へ向けて徐々に傾斜していく舌状のなだらかな丘であり、画面左手から右手にかけて描かれたようなこんもりと隆起した丘ではない。
 また、右手の谷間が諏訪谷つづきの渓谷だとすると、大正中期ともなれば右手の崖地上にはいくつかの住宅が建設されていたはずだ。しかも、西坂・徳川邸のバラ園を諏訪谷の出口を背景に眺めた情景は、松下春雄が1926年(大正15)に制作した『徳川別邸内』Click!で見ることができるが、谷全体の幅がかなり広めに口を開け、このような空間感ではない。したがって、この画面の風景は前者、すなわち林泉園の谷戸から南へと流れ下る、御留山の西側に接したV字型渓谷ということになる。
下落合風景1922.jpg
下落合風景1936.jpg
下落合風景01.JPG
 清水多嘉示は、中村彝アトリエを訪問した際、付近の風景を写生するために画道具を持ちながら、アトリエの南側に口を開けた林泉園の谷戸へと下りていった。東西に細長い池沿いにつづく小道を東へたどっていくと、やがて旧・近衛篤麿邸Click!跡と相馬猛胤邸Click!との間に架かる橋のあたりで、渓谷は南へと直角に曲がり、彼はさらに谷底の渓流沿いを南へと歩いていった。やがて、御留山の南北の谷戸と東西の谷戸とが合流する向こう側(南側)に、藤稲荷社Click!の境内がある小高い丘が見えてくる。
 清水多嘉示は、かなり急な北側の斜面を上って藤稲荷の境内に入ると、本殿裏の木々がまばらな丘上に立ち四囲を見まわした。彼の南側には新宿方面の眺望が開け、北側に目を向けるといましがたまで歩いてきた狭いV字型の渓谷と、相馬邸の敷地である御留山東端の丘が左手(西側)からせり出している光景とが、眼前に展開していたにちがいない。ちなみに、清水多嘉示が画題を探しながら歩いたコースは、明治末に林泉園(当時は近衛家が設置した「落合遊園地」と呼ばれていた)から、藤稲荷のある丘上へとたどった若山牧水Click!の郊外散策コースとまったく同じだ。
 1922年(大正11)という時期は、東京土地住宅Click!による近衛町Click!の開発がスタートしたばかりであり、崖地のある右手の丘上には、すでに三間道路を敷設する工事は始まっていたかもしれないが、いまだ近衛町ならではのオシャレな住宅群Click!は1軒も建設されていない。画面右の丘上に見える、木々が見えない空き地状の空間は、解体された近衛篤麿邸の西端敷地だと思われる。もう少し視点が高ければ、旧・近衛邸の塀の一部が見えたはずだ。のちの近衛町でいえば、木々のない丘上のあたりには酒井邸Click!岡田邸Click!(のち安井曾太郎アトリエClick!)、藤田邸Click!などが建設されるあたりということになる。また、もう少しイーゼルの位置が右手(東側)に寄っていたら、近衛家の敷地と相馬家の敷地との境界、すなわち林泉園からつづく渓谷に架かる小さな橋が見えたかもしれない。
下落合風景02.JPG
下落合風景03.JPG
御留山土止め柵.jpg
下落合風景04.JPG
 近衛町西端の斜面が、まるで切り通しのように赤土がむき出しになった状態なのは、近衛町開発を推進する東京土地住宅が、のちの地形図などに描かれている擁壁を建設するために手を入れたものか、あるいは画面左手(西側)の御留山(相馬邸)のある丘の急斜面と同様に、土砂が崩れないよう土止めの柵を設けようとしていたものか、なんらかの整備工事中である可能性が高いように思える。ちなみに、ちょうどこの谷間に面した御留山側(相馬邸側)に設置された急斜面(というか崖地)の土止めは、酒井正義様が保存されている写真でハッキリと確認することができる。
 さて、現状の風景と重ねてみると、地形にかなりの変化がある。まず、いちばん大きな変化は、画面の左に描かれた丘(山)が大きく削られ、南北の三間道路が拓かれている点だ。現在では「おとめ山通り」と名づけられたこの坂は、1939年(昭和14)に相馬孟胤Click!が死去したあと、御留山の敷地を買収した東邦生命Click!が1943年(昭和18)ごろまでに敷設したものだ。また、残った丘の大部分も、東邦生命による宅地開発のために次々とひな壇状に均され、描かれているようなこんもりとした山状の風情はなくなってしまった。さらに、清水多嘉示がイーゼルを立てた藤稲荷社のある手前の丘も道路沿いをひな壇状に開発されて、現在では藤稲荷の社殿のある境内を除き、かなり削り取られた状態となっている。でも、戦後の竹田助雄Click!らが推進した「落合秘境」保存運動Click!により、画面右手の下に隠れている弁天池Click!の周辺と、画面左手(西側)へと入りこむ谷戸全体は、1969年(昭和44)に「おとめ山公園」として保存されることになった。
 決定的な地形改造は、戦後に行われたV字型渓谷の埋め立てだろう。東邦生命から土地を買収した大蔵省が、地下鉄丸ノ内線の工事で出た大量の土砂で、林泉園からつづくV字型渓谷のほぼ全域を埋め立て、その上に大蔵省の官舎(アパート)を建設している。したがって、画面の切り通しのような鋭い谷間は消滅し、左手の丘(山)の掘削とあいまって少し凹んだなだらかな斜面ぐらいの風情になってしまった。だが、建ち並んだ同省官舎の老朽化とともに、新宿区が財務省(旧・大蔵省)の敷地を全的に買収し、2014年(平成26)に「おとめ山公園」の大幅な拡張(1.7倍化)が実現している。現在、このV字型の渓谷跡は、雨水を浸透させて地下水脈を豊富にするための、広大な芝生斜面となっている。
下落合風景19450402.jpg
下落合風景05.JPG
下落合風景06.JPG
 清水多嘉示が描いた『下落合風景』は、1923年(大正12)の渡仏前に描かれているせいか、どこか草土社Click!岸田劉生Click!が描いた代々木の切り通しの風景画Click!か、我孫子に集った春陽会の画家たちClick!の作品を想起させるが、1928年(昭和3)の帰国後に描いたとみられる風景画の中にも、描画のタッチを大きく変えた下落合の風景とみられる画面が何点か確認できる。それらの作品を、またつれづれご紹介できればと考えている。

◆写真上:渡仏する前年、1922年(大正11)に制作された清水多嘉示『下落合風景』。
◆写真中上は、ちょうど『下落合風景』と同年に作成された1/3,000地形図にみる御留山の谷戸と描画ポイント。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同所。は、清水多嘉示がイーゼルをすえた藤稲荷社のある画面手前の小丘。
◆写真中下の2枚は、丸ノ内線の土砂で埋め立てられたV字型渓谷とその現状。おとめ山公園拡張時に、芝庭の造成工事の様子をとらえたもの。清水多嘉示の画面でいうと、左手に描かれた丘(山)の中腹から深い渓谷を覗きこんでいることになるが、本来の谷底は埋め立て土砂のはるか下だ。は、画面左手に描かれた丘(山)の急斜面に相馬邸が設置した土止め柵。(提供:酒井正義様) は、清水の画面左手の丘(山)を崩して東邦生命が敷設した現・おとめ山通り。通り左手には、弁天池へと落ちこむ急斜面が残る。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された御留山の谷戸。東邦生命による宅地開発が進み、清水の画面左手に描かれた丘には道路が貫通し、道路の両側はひな壇状に宅地が造成されているのが見える。は、清水の画面手前に描かれた西側へと切れこむ谷戸の入口。左手の小丘の上には、藤稲荷社の本殿屋根の千木や堅魚木が見えている。は、清水の画面では右下の木々に隠れて見えない弁天池。池の左手(西側)には、丘の麓にあたる急斜面がかろうじて残っている。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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旧・吉屋信子邸が「撃墜王」の実家に。 [気になる下落合]

飛燕(調布飛行場).jpg
 今年(2017年)の5月11日、京都の洛中Click!西陣局から投函された5月5日付けの1枚のハガキを受けとった。京都から新宿まで、配達に6日もかかっているのは、宛て名書きの住所が曖昧だったからだ。「東京都新宿区下落合/下落合公園近く/落合道人〇〇〇〇様」、地番が書かれていないまるで大正時代に出された下落合住民あてのハガキのようだけれど、なんとか迷子にならず手もとにとどいた。w 差出人名が記されておらず、郵便局では下落合の配達先を一所懸命に探したものだろう。ちなみに、わたしの家は「下落合公園」Click!よりも、「おとめ山公園」Click!のほうがかなり近い。
 ハガキに記された内容は、戦時中に陸軍航空隊の調布基地に勤務していた、B29の迎撃パイロットに関する情報だった。それによれば、下落合4丁目2108番地(現・中井2丁目)にあった吉屋信子邸Click!(1926~1935年住)が、敗戦直後より元・陸軍航空隊飛行244戦隊の隊長・小林照彦少佐の実家(大川家)になっていたというものだった。同時に、その詳細を記した書籍として、1970年(昭和45)に養神書院から出版された小林千恵子『ひこうぐも』が紹介され、該当ページまでが記載されていた。
 さっそく、同書を入手して参照してみると、大川家は小林照彦の妻である著者の実家であることがわかり、しかも1945年(昭和20)4月13日夜半から翌朝にかけての第1次山手空襲Click!の際は、上落合の南側である東中野にあった実家で罹災していることも判明した。そして、B29を迎撃(小林照彦日記では「邀撃(ようげき)」)していた飛行第244戦隊の空戦の様子も詳しく知ることができた。10,000m近くの高々度で飛来するB29を迎え撃つため、小林照彦が操縦していたのは三式戦闘機、愛称で「飛燕」と呼ばれた陸軍の新鋭機だった。
 戦闘の様子を、小林千恵子『ひこうぐも』(光人社版)に収録された小林照彦日記より、1944年(昭和19)12月3日の記述から引用してみよう。
  
 敵機大規模に関東地区に侵入す。邀撃のため離陸せるも一撃の下に撃墜さる。発動機に受弾せるなり。/予備機に依り、離陸せるも、完全武装のため、高々度に上れず(七五〇〇メートル以上不能)、銚子沖合に待機せるも、敵を補足するに至らず。/本日四宮中尉以下、特別攻撃隊はがくれ隊員勇戦せり。B29に体当りののち、片翼よく帰還せる四宮中尉。正面衝突ののち、落下傘降下せる板垣伍長。B29の尾部を噛り不時着生還せる中野伍長。全員生還せり。愉快この上もなし。/部隊の戦果。撃墜六機、撃破二機なり。
  
 大きな図体のB29に、小鳥のような戦闘機が機銃弾を浴びせてもなかなか墜ちない。機銃弾を撃ち尽くすと、自身の機体をB29に体当たりさせて撃墜していた様子がわかる。パイロットは、機体をB29めがけて巧みに操縦すると、衝突の直前にコックピットからパラシュートで脱出していた。脱出するタイミングを誤ると、衝突に巻きこまれて生還できなくなる、きわどい賭けのような体当たり攻撃だった。
 以前、山手空襲の際に長崎町にある仲の湯Click!(のち久の湯)の釜場に落ちてきた、日本の迎撃戦闘機Click!について書いたことがあるが、機体にパイロットの姿はなかった。おそらく、上記の「はがくれ隊」のような“特攻”を試みて脱出したものだろう。ただし、この体当たり攻撃は効果が大きい反面、貴重な戦闘機を失う消耗戦でもあった。大本営が「本土決戦」を意識しはじめるとともに、戦闘機を温存するためB29への迎撃は抑えられるようになる。
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小林照彦と飛燕.jpg
小林千恵子「ひこうぐも」1970.jpg 小林照彦.jpg
 戦闘機をまとめて戦隊で出撃させるのではなく、少数機の飛行隊ごとに出撃させる散発的な迎撃作戦をとるようになると、逆にB29に加え護衛の戦闘機隊(F6F・P51など)が増えるにつれ、多勢に無勢で戦果を上げにくくなっていった。小林照彦は戦闘の現場を知らない司令部の命令に、強い怒りをぶつけている。
  
 昨日の戦斗に於て損害大、戦果僅少なりし所以のものは、部隊戦斗に徹せざりしに依る。少くとも戦隊は、纏りて上り、纏りて戦斗すべきなり。各飛行隊ごとに出動せしめたるは、対戦戦斗の真骨頂を知らざる愚劣極まる指揮たり。師団の戦斗指導の拙劣なりしこと、論外なり。B29に対する邀撃と特色全く異なるを以て、南方に於ける戦訓を活かし、戦隊は常に纏りて、戦斗し得る如く戦斗指導すべきなり。
  
 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲のとき、著者の小林千恵子は東中野にある実家に身を寄せていた。夫の小林照彦は、前日の4月12日に敵機と交戦して撃墜され、右足に盲貫創を受けて13日夜半の空襲では出撃できなかった。同日の空襲の様子を、同書の小林千恵子の文章から引用してみよう。
  
 妹は、ときどき(防空壕の)入口の戸を開けて父を呼んだ。そのうち、高射砲の音がし始めた。敵機がいよいよ来襲してきたらしい。やがて下腹に響く爆音で、大編隊の来襲と壕の中でも知られた。/「お父さん、危ないから早く中に入って、……早く」/妹と私は、夢中で叫んだ。もうすでに、爆音だけとは見えない投下弾のすさまじい響きが、地面を震わせていた。父がやっと、壕に飛び込んで、入口の戸を締めた瞬間だった。頭上で、/「ばばーん」/と、耳をつんざく大音響がした。同時に、あちこちから、/「焼夷弾落下! 焼夷弾落下!」/狂ったような叫び声が揚がった。人々が壕から飛び出したらしい。/「落ちた! 焼夷弾が落ちた!」/父が、いち早く壕から飛び出した。続いて妹と私が。(カッコ内引用者註)
  
 小林千恵子は、空襲を「四月十五日」と書いているが、4月13日夜から4月14日未明の記憶ちがいだろう。この日、東中野Click!は焦土となり彼女の実家も焼け落ちた。
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 翌朝、東中野から中央線で新宿に向かうと、大久保から先は爆撃の被害で不通になっており、一家は父親の会社がある新宿まで歩くことになった。その途中で、調布の244戦隊マークをつけた軍服を着る士官たちと出会う。兵士を率いていたのは、同隊の家族が多く住む東中野の様子を視察しにきた、整備隊に勤務する芥川比呂志Click!少尉だった。
 1ヶ月あまりののち、5月25日夜半の第2次山手空襲Click!のとき、小林照彦は調布基地から鹿児島の知覧基地へと移り、すでに東京の空には不在だった。同日に「義号作戦」が発動され、知覧から飛び立つ特攻隊を護衛するのが彼の任務となっていた。搭乗機も、三式戦(飛燕)から五式戦(愛称なし)へと変わっている。このあと、小林夫妻は運よく8月15日まで生きのび、やがて東京へともどってくることになる。
 下落合が登場するのは、小林千恵子の実家である市川と東中野の家が焼けてから、新しい住まいを探して移るあたりからだ。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 (1946年)八月に入ると、夫は真剣に就職口を探し始めた。家の経済もいよいよ底が見えてきたからでもある。私は、/「お父さまにお願いしてみたら」/と、何度か夫をうながした。父は下落合の高台に家具付きの家をみつけて移っていた。作家の吉屋信子女史の建てた家だそうで、市川の家とはおよそ対照的な洋風の家だった。(カッコ内引用者註)
  
 下落合(4丁目)2108番地に建っていた旧・吉屋信子邸Click!は、かわいいテラスのあるバンガロー風で平屋造りの洋館だったが、二度にわたる山手空襲からも焼け残っていた。彼女が1935年(昭和10)に転居したあと、何度か手が加えられているのかもしれないが、空中写真を年代順に参照する限りは、もと屋根のかたちをしているように見える。
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 さて、戦時中に調布基地にいた飛行第244戦隊の小林照彦を取材し、東京朝日新聞に記事を書いていたのは、同紙の矢田喜美雄Click!記者だった。矢田記者もまた、戦後になると下山定則国鉄総裁の謀殺説を追って、南原繁Click!を中心とした「下山事件研究会」のメンバーが住む下落合へと通ってくることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:調布基地への爆撃で吹き飛ばされたとみられる、調布飛行場の三式戦闘機(飛燕)。敗戦直後の撮影と思われ、付近の子どもが翼に乗って遊んでいる。
◆写真中上は、B29迎撃の「飛燕」を主軸とした飛行戦隊。は、機体に撃墜マークが描かれた小林照彦機。B29と飛燕が重なるマークは、体当たり攻撃による撃墜を意味する。下左は、1970年(昭和45)出版の小林千恵子『ひこうぐも』(光人社版)。下右は、1945年(昭和20)1月27日の体当たり攻撃で鼻を負傷した小林照彦。
◆写真中下は、調布飛行場で撮影された飛行244戦隊の記念写真で印が小林照彦。は、高々度で飛来するB29の迎撃戦闘機として多用された三式戦闘機(飛燕)。は、1944年(昭和19)の空中写真にみる陸軍の調布飛行場。
◆写真下は、1929年(昭和4)に撮影された吉屋信子邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・吉屋信子邸。は、1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」にみる小林千恵子の実家である大川邸。作家・船山馨邸Click!の3軒南隣り、髙島秀之様Click!の2軒南隣りにあたる。

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の落合散歩。 [気になる下落合]

小泉八雲旧居跡.JPG
 わたしが、初めてラフカディオ・ハーン(小泉八雲Click!)の原文に接したのは、中学2年生のときだった。当時、英語の授業に使われていた教科書『New prince readers』(開隆堂)に、ハーンの『YUKI-ONNA』Click!が収録されていたからだ。
 考えてみれば、わたしと“出雲”とのつながりは、江戸東京総鎮守のオオクニヌシは別格にしても、おもに松江や出雲のフォークロアの語りべである妻の小泉セツから採集した、ハーンの『KWAIDAN(怪談)』が最初だったかもしれない。その後も、地域の総鎮守が出雲神のクシナダヒメを奉る氷川明神社Click!の下落合に住んだり、その目白崖線から出土した出雲の碧玉勾玉Click!を偶然にも譲り受けてお守りペンダントにするなど、なぜか代々が江戸東京地方のわたしと出雲地方Click!との因縁は限りなく濃い。
 中学校の英語授業で『YUKI-ONNA』を習ったとき、最後にユキが正体を現して、般若のような顔をした雪女へと変貌する際、「It was I-I-I……」といって天井までとどくような高さで浮遊するシーンは、その挿画とともにいまでも強烈な印象に残っている。(誰の挿画だったのだろうか?) このころから、おそらく文楽のガブClick!好きに加え、わたしはハーンの雪女好きになったのだろう。当時、大好きでとても気の合う女子が、わたしの真うしろの席にいて、なにかあると「It was I-I-I……」といっては、ふたりでじゃれ合い笑い転げていた。彼女はわたしとちがって、学校のお勉強がメチャクチャできたので屈指の進学高校に合格し、おそらく東大にでも進んでいるのだろう。
 さて、『YUKI-ONNA』の著者であるラフカディオ・ハーン(小泉八雲Click!)は晩年、いまわたしのいる下落合からわずか2.5kmほど南に下がった、大久保村西大久保265番地に住んでいた。同地番の家に転居してきたのは、1902年(明治35)3月のことで、それから死去する1904年(明治37)9月26日までそこで暮らしている。それ以前は、同じ新宿区内の市谷富久町21番地に、1896年(明治29)9月から1902年(明治35)3月まで住んでいた。現在、大久保小学校の西側に「小泉八雲記念公園」が開園しているが、同公園は西大久保265番地の小泉邸跡ではなく、小泉邸から北へ70mほど離れた西大久保245~246番地あたりに設置されているとみられる。西大久保265番地は、明治期から大久保尋常小学校の南側に接する敷地の地番だ。
 小泉八雲が落合地域を歩いたのは、西大久保265番地の自宅から新井薬師Click!へ詣でるのが、晩年の散歩コースのひとつになっていたからだ。セツ夫人を同伴したと思われる散歩は、直線距離でさえ片道4kmほどもあるが、明治人にとってはさほどの距離には感じなかったのだろう。落合地域から上野の東京美術学校Click!や谷中の太平洋画会研究所Click!まで、平気で歩いていくような時代だった。夏目漱石Click!でさえ、牛込の喜久井町から中央線沿いの寺田寅彦Click!が住んでいた百人町まで、頻繁に散歩をしている。
 そのときの様子を、2014年(平成26)に講談社から出版された小泉凡『怪談四代記―八雲のいたずら―』(講談社文庫版)から引用してみよう。
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 ハーンはセツと一緒に散歩をして新井薬師あたりまで出かけた時、落合の火葬場の煙突が見えると、自分も間もなくあそこから煙になって出るのだと語っていた。そして垣の破れ草が生い茂った小さな破れ寺への埋葬を心から願う人だった。/幸いこの発作は、大事には至らなかった。行水をしたいといって、風呂場で水行水をし、さらにウィスキーが飲みたいと言うので、心配しつつもセツは水割りをつくり、グラスを手渡した。アイリッシュのハーンにとってウィスキーはとても大切な飲み物だった。じっさい、アイルランド語ではウィスキーは「命の水」という意味である。
  
 心臓の悪い患者が、水を浴びてウィスキーをひっかけるなど、今日の医者が聞いたら目をむきそうな行為だが、それが八雲にとっては心が安らいでリラックスでき、落ち着きをとりもどせる最善の療法だったのだろう。
 散歩の途中、新井薬師までの道程で落合火葬場Click!(現・落合斎場Click!)の煙突を見ていることから、小泉八雲の散歩コースがおよそ透けて見える。まず、西大久保の自邸を出た八雲夫妻は、邸前にあった大久保小学校の西側接道を北上すると、大久保通りを左折した。そして、そのまま通りを西へと歩き、およそ10年後に設置される百人町駅Click!(現・新大久保駅)あたりから山手線を越え、百人町へと出た。当時は、いまだ江戸期の御家人たち(鉄砲組百人隊)が栽培していた名残りである、大久保のツツジ園Click!があちこちに見られる風情だったろう。
 百人町の整然とした南北道の1本を真北へ抜けると、山手線西側の戸山ヶ原Click!(当時は山手線東側の射撃場に対して着弾地Click!と呼ばれていた)に突き当たるが、陸軍科学研究所Click!や陸軍技術本部がいまだ移転してきていない当時、戸山ヶ原へ入り斜めに横断するのは、たやすいことだったにちがいない。
 山手線の西側で陸軍が射撃演習Click!をする日は、周辺の住民や子どもたちが散歩や遊びで入りこまないよう、そのつど高い旗竿に赤旗が掲げられていた時代だ。その赤旗Click!の有無を確かめながら、八雲夫妻は戸山ヶ原を百人町から小滝橋Click!の近くまで、斜めに突っ切るように歩いていった。のちの第1次世界大戦がはじまる10年以上前の時代なので、陸軍の塹壕戦演習Click!もいまだ大規模には行われておらず、戸山ヶ原の丘陵面は掘り返された跡もなく、八雲夫妻は歩きやすかったにちがいない。
西大久保地形図1910.jpg
上落合地形図1910.jpg
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 やがて、戸山ヶ原の高圧鉄塔がつづく北西端から小滝橋通りへと出ると、できたばかりの豊多摩病院Click!の建物を目前に、牛がのんびり草をはむゲルンジー牧場Click!を左手に見ながら、ほどなく小滝橋を渡って上高田へと向かう街道(現・早稲田通り)へと入った。街道の左手には、華洲園Click!(お花畑)の切り立った崖地(小滝台Click!)があり、右手にはいまだ拡幅で崩されていない上落合の土手がつづく、切り通しClick!のような風情だったろう。それを北へカーブした道なりに西へたどると、途中で街道の右手に落合富士Click!が築かれた大塚浅間社Click!の境内をすぎるころから、上落合897番地にある落合火葬場の煙突が見えはじめたと思われる。
 しばらく歩いて、上落合643番地界隈の角を右折すると、落合火葬場が目の前に迫ってくる。火葬場を右手に見て、そのまま街道を西北西へとたどると、すぐに宝仙寺(通称・宝仙禅寺のことで、のち1922年以降は萬昌院功運寺Click!となる境内一帯)の門前へと出た。八雲夫妻は休憩がてら、宝仙禅寺の境内へ入り方丈に立ち寄っただろうか。
 宝仙禅寺をすぎると、すぐに街道は二股に分かれている。その左手の道を進むと、商店や人家が並ぶ上高田でもいちばんにぎやかな通りを経て、およそ800mほどで新井薬師の参道へ到着する。おそらく、八雲夫妻は新井薬師の門前に並ぶ茶屋で、ゆっくり休息をとっただろう。夏目漱石(三四郎Click!)は、“冒険心”を起こして帰り道を変え、新井薬師から上落合を抜けて道に迷い、下落合の雑司ヶ谷道Click!を歩きながらようやく山手線の線路土手までたどり着いているが、八雲夫妻は往路とまったく同じ道筋を帰途につき、迷わず確実に西大久保の自邸へ帰りついたと思われる。
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 もし、八雲夫妻が上高田の街道沿いにあった茶店で一服していれば、あるいは宝仙禅寺で休憩がてら住職と話をする機会があったとすれば、上高田は狐狸Click!幽霊Click!の怪談・奇譚が豊富に語り継がれている地域なので、さっそく採取したのかもしれない。そして、もう少し八雲が長生きしていたら、『KWAIDAN2』が編纂されていただろうか。上高田地域に眠るフォークロア、怪談・奇譚が中野区教育委員会の手で本格的に採取されはじめたのは、八雲の死後から80年ほどたった1980年代後半になってからのことだ。

◆写真上:西大久保265番地(現・大久保1丁目)にある、小泉八雲旧居跡の記念碑。
◆写真中上は、1904年(明治37)に米国で出版された『KEAIDAN』(Houghton, Mifflin & Co./)とラフスディオ・ハーン(小泉八雲/)。中左は、1776年(安永4)に描かれた鳥山石燕『図画百鬼夜行』の「雪女」。中右は、2014年(平成26)に講談社から出版された小泉凡『怪談四代記―八雲のいたずら―』(文庫版)。は、いまでも「雪女」を演じて歴代最恐だと思う『怪談雪女郎』(大映/1968年)の藤村志保。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる小泉八雲・セツ夫妻の落合地域における想定散歩コース。は、梅照院(新井薬師)の山門。
◆写真下:小泉八雲が愛してやまなかった、1970年代半ばに撮影の松江の街並み。は、小泉八雲の旧居に連なる松江城北側の北堀町武家屋敷街。は、7代目藩主・松平不昧が通った茶室・明々庵から眺めた松江城の天守。は、旧盆に行われる大橋川の灯籠流し。松江大橋南詰めあたりからの撮影で、前方の橋が新しい宍道湖大橋。

おまけ:竹田助雄の「落合新聞」Click!『御禁止山』Click!を読んでいると、「下落合のヒグラシ」が頻繁に登場する。その鳴き声は、静寂な風情が感じられて好きのだけれど、夜明けから家の近くで鳴かれるととってもうるさい。w

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中村彝が見ていたカルピスのある風景。 [気になる下落合]

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 1919年(大正8)7月7日七夕の日、カルピスClick!は全国でいっせいに発売された。カルピスが誕生したのは、酵素の一種とみられる「醍醐素」に、砂糖を混ぜて放置していたのが自然発酵した偶然の産物だった。それを味わった開発者は、美味に驚いて商品化を企画している。偶然に自然発酵した「カルピスの素」は、なんの素材をもとに具体的にどのような手順で、何時間かけて発酵させれば美味しくなるのかがまったく不明だった。それを改めて検証する作業に、R&Dの担当者は膨大な試行錯誤を繰り返したようだ、
 中村彝Click!が初めてカルピスを口にしたのは、翌1920年(大正9)4月ごろに新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!がプレゼントしたのが最初と思われるので、発売から1年もたたずに味わっていることになる。以来、彝はカルピスが病みつきになり、1924年(大正13)12月に死去するまで愛飲しつづけたようだ。カルピスの「カル」はカルシウム、「ピス」は仏教の「熟酥(じゅくそ)」すなわち「サルピス」からとって命名されている。仏教へ帰依していた同社専務の三島海雲は、カルピスの命名について次のように書いている。
 1989年(平成元)出版の、『70年のあゆみ』(カルビス食品工業)から引用してみよう。
  
 「カルピスという名前が、いかにも清涼飲料水らしいとよく人にほめられる。カルピスの『カル』はカルシウムから、『ビス』はサンスクリット語からとった。仏教では、乳・酪・生酥・熟酥・醍醐を五味と言い、醍醐をサルピルマンダ、塾酥をサルピスと言う。五味の最高位は醍醐だから、ほんとうはカルピスではなく、カルピルでなければならないのだが、それではいかにも歯切れが悪いので、私はカルピスにしようと思っていた」(『長寿の日常記』)/すべてのことに関して、常にその道の一流の専門家の意見を聞くことにしている海雲は、この命名のときも、音楽家として著名であった山田耕筰と、サンスクリットの権威であり浄土宗では生きた宝とまでいわれた渡辺海旭に相談した。
  
 発売とほぼ同時に、カルピスは大正期を通じて空前の大ヒット商品となっている。今日のように製造過程まで含めたオートメーションの生産ラインがあるわけではないので、すべてが地道な手作業による生産体制だった。
 発売の年には、すでに日本全国ばかりでなく、中国の大連や上海にまで販売代理店を設置している。つまり製品の売れ行きを探りつつ、国内で実績を積んだあと海外へ進出するのではなく、発売とほとんど同時に製品の海外展開を試みた、大正期の企業としてはカルピスは稀有な存在となった。その好調な売れ行きを記録している様子を、同書収録の1919年(大正8)12月に出された第5回の営業報告書から引用してみよう。
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 カルピスは醍醐味、醍醐素の身代りとして7月7日より発売致しました。本品は意外の好評を博しまして、前途好望の兆候を示しております。本品の販売に付きましては、斯界のオーソリチーと称せられて居りまする東京日本橋詰國分商店を以て関東販売元となし、大阪祭原商店を以て関西一手発売元と致しました。其他、大連市の矢中商店、上海の松下洋行を以て各其地方の一手発売元と致しました、何れも非常の意気込を以て着手して居る模様であります。其活動の反響は大正9年2、3ヶ月以後にあると予想致して居ります。
  
 同年12月の時点で、卸売り店を招いての販促会が開かれているが、当初は15~16名(社)が参加していた。ところが3ヶ月後、翌1920年(大正9)3月の集会では35名(社)、翌1921年(大正10)2月には40名(社)以上、そして同年4月には50名(社)以上と、順調に業績を伸ばしているのが見てとれる。
 売り上げも好調に推移し、1926年(大正15)の売上高は発売時の18倍に達し、半年ごとの売上高計算では1925年(大正14)上期と1919年(大正8)下期とを比較すると、実に36倍という伸び率を記録した。当然、手作業による生産が追いつかず、市場にカルピスが行きわたらない欠品状態まで生じている。事業責任者である専務の三島海雲は、原液の製造工程を自動化して品質を低下させず、すべて人海戦術で乗り切ろうとしている。当時のカルピスは、次のような手順でつくられていた。
 ①乳酸菌および酵母を種菌として脱脂乳を培養してつくったスターターを、あらかじめ加熱殺菌した脱脂乳に加える。
 ②それを、木製の発酵槽の中で一昼夜乳酸発酵させて、酸乳をつくる。
 ③でんぷん糖化液(水飴)を乳酸発酵させた液に炭酸カルシウムを加えて得られる粗結晶の乳酸カルシウムを、酸乳に加える。
 ④この酸乳に砂糖を十分溶解させ、熟成発酵させる。
 ⑤オレンジとレモンの皮からしぼったオイルを原料とする天然香料を加えて仕上げ。
 カルピスの売り上げが記録的に伸びたのは、先述のように1925年(大正14)のことであり、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!をはさんだ復興期のことだ。このとき、首都圏ではカルピス人気が沸騰する要因をつくったエピソードが語り継がれている。
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 三島海雲は、大震災のとき東京府北豊島郡の向山町(現・練馬区向山)にある本社にいたが、市街地に比べ揺れが弱かったのか幸い本社社屋は無事だった。そこで、残暑がつづく炎天下に氷と希釈用の水を用意し、焼け野原の市街地へトラックで運んでは、被災者にカルピスを配ってまわった。当時の様子を、同書から引用してみよう。
  
 私は工場にあった木樽十数本に入っているカルピスの原液を全部出させ、金庫のあり金2,000円余を全部出して、この費用に充てた。そして、翌2日から私自身もトラックに乗って被災地を回り、原液が無くなるまで配り続けた。震災後の数日は焼けつくような暑さだったから、私のトラック隊は、行く先々の避難所で大歓迎を受け、感謝された。大阪毎日の記者が、震災第一報で私のトラック隊のことを取り上げた。このとき、私には宣伝しようなどという気持はミジンもなかった。しかし、結果として、カルピスは全国に知られることになった。のちに『あのときのカルピスの味が忘れられない。私はカルピスのためになんでも協力しますよ』という人が官界にも民間にも幾人も出てきた。
  
 幕末に彰義隊と靖共隊を助(す)け、大江戸びいきだった亀甲萬(キッコーマン)の茂木七郎左衛門Click!ではないけれど、このような義侠を江戸東京人は忘れない。カルピスは同年、営業的には大打撃をこうむるが、首都圏のマーケットは義理がたく震災後もカルピスを選んでは飲みつづけた。そして、ようやく復興のきざしが見えた1925年(大正14)、カルピス人気はおもに東日本で爆発し、空前の売り上げを記録することになる。発売から4~5年で、これほどの大ヒットを記録した商品は、地震に備えた保険商品や焼け跡復興用の住宅建材の需要を除けば、大正期を通じてほとんどない。
 中村彝も目にしたであろう「初恋の味」のキャッチフレーズは発売の翌年、1920年(大正9)にすでに発案されている。だが、カルピスは子どもから老人まで飲む飲料なので、当初、三島専務は「恋」という表現にターゲティングのズレから難色をしめした。社内の宣伝部にも、慎重論が多かったという。だが、1922年(大正11)4月には、このキャッチを採用した新聞広告を東京日日新聞に出稿している。
 ところが、警察から「色恋は社会の公序良俗を乱すことなので、白日のもとで口にすべき言葉ではない」という、今日からみれば信じられないようなオバカな理由でクレームが入った。だが、当時は大正デモクラシーの時代なので、「初恋の味」のキャッチはまたたく間に全国へ拡がり、実質的に警察当局が表現を規制することができなくなってしまった。以来、約100年間にわたり同キャッチフレーズはカルピスのみならず、企業全体のショルダー的な位置づけとして今日までつづいている。
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 同社が「初恋の味」広告を出稿したのと同年、1922年(大正11)10月に「帝展の入選者、九分はカルピス愛用家」というキャッチフレーズの新聞広告を出稿している。中村彝(当時は帝展審査員)は、確かにカルピスの大ファンだったが、ほかの帝展への入選画家たちも愛飲していたのだろうか。「九分」は90%の意味だが、三島海雲のことだから無作為で選んだ帝展の画家たちへ、試供品とともにアンケート調査を実施している可能性が高い。それとも、だいたいの感触でつくってしまった、裏づけのないキャッチだろうか。大正期のカルピス広告を見ていて、ニヤリとさせられたフレーズだ。

◆写真上:1919年(大正8)7月7日に発売された初期のカルピスは、七夕らしく「ミルキーウェイ(天の川)」をデザインした紺地に白の水玉模様の包み紙だった。
◆写真中上上左は、1922年(大正11)に上野で開催された平和記念東京博覧会Click!に出店したカルピス館。上右は、1924年(大正13)に勝山分工場の視察で撮影された記念写真の三島海雲(左端)。は、発売最初期型の箱に入れられたカルピス。は、1922年(大正11)4月に初めて「初恋の味」のキャッチフレーズを採用した新聞広告。
◆写真中下は、カルピスのポスターやブリキ看板などPOP類。は、1923年(大正12)6月に制作された新聞広告で、以後「初恋の味」のキャッチが定着する。
◆写真下は、1922年(大正11)10月制作の帝展画家は「九分はカルピス愛用家」広告。は、1924年(大正13)2月に制作された馴染み深いシンボルマークの広告。

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落合第四小学校の開校記念写真。 [気になる下落合]

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 先日、資料を整理していたら、めずらしい写真を見つけた。1932年(昭和7)4月に設置された落合第四尋常小学校Click!の開校時を含む、戦前に撮影された写真が載った冊子だ。掲載されていたのは、2002年(平成14)に発行された『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』だ。以前、堀尾慶治様Click!がお持ちの1941年(昭和16)卒業アルバムClick!に掲載された写真をご紹介しているが、開校直後に撮影されたとみられる画面は、それより9年前の写真ということになる。
 まず冒頭の写真は、1932年(昭和7)の開校から間もない時期に撮られた写真で、西側の校舎ぎわから校庭で体操する生徒たちを撮影したものだ。南(右手)へと下る相馬坂の向こうには、相馬孟胤邸Click!の敷地内にあたる御留山Click!がきれいに見えている。ちょうど正面やや右手が、現在のおとめ山公園で四阿(あずまや)が設置されているピークにあたる。校庭の右端に見えている、斜めの棒のようなものは低学年用に設置されたすべり台の一部だ。左に見えている校庭掲示板のさらに左側に、相馬坂から校庭へと入る校門がある。
 写真は、陽射しの方角と人物たちの影から朝礼風景だろう、校庭に集合する生徒たちをとらえたものだ。校庭の中央あたりから“「”字型の校舎の角のほうへカメラを向けてシャッターを切っている。おそらく開校後間もないころと思われ、“「”型校舎の角に大型拡声器(スピーカー)がいまだ設置されていない。また、画面左側の校舎前に植えられたヒマラヤスギの丈が小さく、教室1階の窓をいまだ越していない。
 写真は、高学年の授業風景を撮影したものだ。写真が粗すぎて、黒板の白墨文字が読みとれないが、「〇〇〇〇の長所短所」と書いてあるように見えるので社会科の授業だろうか。写っているのは男組で生徒数は多く、確認できるだけでも35人ほどが写っている。画面左の枠外、窓側に座る生徒たちを含めると、1クラス45~50人ほどになるだろうか。まだ1932年(昭和7)ごろの教室なので、教壇の横に「一億一心」とか「これからだ/出せ一億の底力」といった、戦時標語Click!のポスターは貼られていない。
 写真は、落合第四尋常小学校の開校時から少したって撮影された、“「”字型校舎の角にあたる部分だ。ヒマラヤスギの丈が伸び、校舎の角には大型拡声器(スピーカー)が設置されている。花壇も設置されたのか、ヒマラヤスギの下には白い垣根が見えているが、昇降口の右手に生えていた樹木がなくなっている。代わりに土が掘り返され、新たに花壇を造ろうとしているようだ。ちなみに、9年後に撮影された1941年(昭和16)の卒業アルバムには、校舎の角に写る大型スピーカーが見えない。近隣から苦情がでて、少し小型の四角い野外スピーカーに付け替えたものだろうか。
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 少し余談だけれど、落合第四小学校のチャイムの音が、1990年代に入ってからほとんど聞こえなくなった。おそらく、ご近所から「うるさい!」といわれて、だんだんボリュームを下げていった結果だろう。1970年代には、かなり遠くまでチャイムの音が響いていたし、近隣の家々では窓を閉め切っていたとしても落四小のチャイムClick!は聞こえたはずだ。そのチャイムの音と時間で、「そろそろお昼か」とか「ああ、もうそんな時間か」とか、生活のサイクルをまわしていた方も少なからずいたにちがいない。
 きっと、落合第二尋常小学校Click!のスピーカーから流れる童謡に腹を立てていた宮本百合子Click!のような人がいて、学校に申し入れをしたのではないだろうか。確かに文章を考えているとき、「チーチーパッパ」が大音量で流れてきたら、わたしも家から逃げだして喫茶店にでも避難するだろう。また、なにか作曲中の音楽家の方にしてみれば、たまったものではない。運動会が近づくと、落四小では下落合一帯の住宅へ運動会の行事用にスピーカーから音楽を流すから、あらかじめ「ご了承ください」というようなチラシを撒くようになったので、よほど気をつかっているのがわかる。
 次の写真は、1937年(昭和12)に校庭の崖下へプールが完成したときの記念写真だ。男組と女組と思われる2クラスが写っており、右手の崖上に校庭が拡がっている。プールの背景(西側)には、大倉山(権兵衛山)Click!の山麓の緑がとらえられているが、この時期の大倉山はほとんど宅地開発がなされておらず、いまだ権兵衛坂Click!も存在していない。斜面には濃い樹林が繁り、山頂のあたり一帯には草原がひらけ、大倉山の神木だったカシの巨木Click!も、大きな枝を拡げていただろう。かろうじて山頂の北側には、テニスコートと数戸の小さな建物が確認できる程度だ。また、写真にとらえられた背景の林のさらに西側(正面左手)には、落合キリスト伝導館(旧・基督伝導隊活水学院Click!)の大きめな建物があるはずだが、樹林が濃くて建物のかたちを確認できない。
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 『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』では、1941年(昭和16)の日米開戦から学童疎開Click!、空襲の様子なども伝えている。同誌から、少し引用してみよう。
  
 戦争はますます激しくなり、東京の町にも空襲があり、たくさんの爆弾が落とされるようになりました。昭和19年、4年生以上の子どもたちは、空襲をさけて学童疎開をしました。第1次として266名が、茨城県西茨城郡西山内村の西念寺などに出発しました。その翌年には、第2次として、群馬県佐波郡芝根村の常楽寺(42名)・法連寺(27名)などに疎開しました。茨城県に疎開していた児童は、県下の空襲が激しくなり、後に群馬県の疎開先に合流しました。/疎開中は、お寺で寝起きしたり、勉強したりしました。食べ物や薬さえ不足し、がまんばかりのきびしい生活でした。/下落合もたびたび空襲を受け、多くの家屋が焼けました。/落合第四小学校の校庭にも爆弾が落ち、炎が上がりましたが、当時校舎を使用していた警視庁警備隊や、地域の人々の協力で消し止められ、校舎は焼けずにすみました。
  
 もし校庭に250キロ爆弾でも落ちたら、爆風で下見板張りの脆弱な校舎は相当なダメージを受けたと思われるので、消火が必要だったのは焼夷弾だろう。
 さて、戦時中の記述に添えられた写真のキャプションが、ちょっとおかしい。まず、「戦争当時のまちの様子」として紹介されている写真だが、これは1928年(昭和3)の冬(おそらく雨量換算で50.3mmの大雪が降った2月14日の数日後)、1926年(大正15)に練馬Click!へ移転した目白中学校Click!の広大な空き地から、目白通り方面の商店街を撮影した写真Click!だ。いまだ大正期の姿を残した目白通りの様子で、1928年(昭和3)の時期を「戦争当時」とはいわないだろう。ちなみに、日米開戦当時の1941年(昭和16)には、目白通りの拡幅も済み、目白中学校の跡地にはすでに家々が建ち並んでいる。
 また、空襲による「焼けあと」として紹介されている写真だが、これは1966年(昭和41)7月15日に「落合新聞」Click!竹田助雄Click!が撮影した写真で、下落合2丁目829番地(現・下落合4丁目)で宅地造成中のパワーショベルの土に人骨が混じり、驚いて作業を中止した建設会社のスタッフたちが写っている。つまり、下落合の横穴古墳群Click!が発見された瞬間で、戦争や空襲とはまったく関係のない写真だ。(爆!) 写真へ半円とともに書きこまれた2・3・4の白い数字は、第2号墳から第4号墳までの位置を示しており、写真の出典は新宿区教育委員会の報告書か、調査を担当した早稲田大学の資料だろう。
 落合第四小学校はそろそろ90周年も近いので、また『落四のあゆみ』のような冊子を制作するのであれば、上記2点の写真はぜひ差し替えていただきたい。
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 最後に、もうひとつ気になったのは画家の西原比呂志が描いた挿画だ。『落合翠ヶ丘』というタイトルで、おそらく縄文時代をイメージして描いていると思われるが、土器の表現を除いて、これではプレ縄文期の旧石器時代人のイメージだ。前世紀の三内丸山遺跡の発掘以降、次々と新たな発見により縄文時代のイメージが大きくくつがえり、稲作も含め弥生時代との区別が曖昧になりつつあるので、縄文人=槍を振りまわす「ウッホウホホの原始人」(それにしては、やたら高度で芸術的な土器を焼くアンバランスな人々w)のような、子どもたちに誤解を与える表現は避けるべきではないだろうか。

◆写真上:1932年(昭和7)の開校から間もないころ、校庭で撮影された体育授業。
◆写真中上は、朝礼時に撮影された1葉。は、開校当時の授業風景。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる落合第四尋常小学校と撮影ポイント。すでにプールは竣工していた時期なので、「火保図」の採取ミスと思われる。
◆写真中下は、大きな拡声器が取り付けられた校舎。は、1937年(昭和12)に校庭下へ設置されたプールの記念写真。は、キャプションがおかしい写真2葉と、「焼けあと」の全景写真である1966年(昭和41)7月15日に竹田助雄が撮影した下落合横穴古墳群の発見現場。左手に、人骨を掘りあてたパワーショベルが写っている。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された落四小でプールはまだ設置されていない。は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された落四小。同年4月13日夜半の空襲で、周囲の延焼が確認できる。は、2002年(平成14)の開校70周年のときに撮影された空中写真。同小学校のプールは、落合第四幼稚園の屋上に移設されている。

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