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薔薇の夜を旅する中井英夫。 [気になる下落合]

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 目白学園の斜向かいにあたる下落合4丁目2123番地の池添邸は、1950年代に入ると庭の西側に“離れ家”のような別棟を建設している。もともと1,000坪前後はありそうな敷地には、母家の東南北側に広大な庭が拡がっていたが、東側の400坪ほどの土地を母家の敷地から切り離し、借家を建てて人に貸そうとしたものだろうか。この借家には、1958年(昭和33)に荻窪から転居してきた中井英夫Click!が住むことになり、『虚無への供物』Click!はここで執筆されることになった。
 下落合4丁目のこの界隈は、山手空襲Click!の被害をほとんど受けておらず、戦前からの家々が戦後まで建ち並んでいたエリアだ。この池添邸の離れ家は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)の空中写真には見あたらず、1957年(昭和32)の写真で初めて確認できるので、おそらく建てられたのは1950年(昭和25)すぎごろではないかとみられる。400坪の敷地をもつ離れ家には、南北に大きな樹木を抱えた広い庭園が拡がり、中井英夫は各種のバラなどを栽培する「植物園」を造成することになる。
 「植物園」といっても別に公開していたわけではなく、池添邸の長い大谷石の塀がつづく東寄りの一画に開いた小さめの門に、そのようなプレートを掲げていたのだろう。「中井」の表札があったかどうかは不明だが、当時の東西に長くつづいていたであろう大谷石塀の一部は、いまでも池添邸の前で見ることができる。1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」には、中井英夫の名前ではなく「植物園」というネームが採取されている。当時の様子を、中井英夫『薔薇の獄-もしくは鳥の匂いのする少年』に書かれたイメージから引用してみよう。
  
 高い石塀がどこまでも続き、いっそうあてのない迷路に導かれた気持でいるうち、小さな潜り戸の傍で少年は「ここだよ」というようにふり返った。その少しのたゆたいには、もし表門まで行くのならこの塀添いに廻ってどうぞというような態度が見えたので、惟之はためらわず後について戸を潜った。そこはいきなりの薔薇園で、遠く母屋らしい建物の見えるところまで、みごとな花群れが香い立つばかりに続いていた。(中略) しかも庭は薔薇園ばかりではなかった。栗の大樹のある広場には、その花の匂いが鬱陶しいほどに籠って、朝ごとに白い毛虫めいて土の上に散り敷く。グラジオラスの畑もあって、数十本の緑の剣が風にゆらぎ、周りには春から咲き継いでいるらしいパンジーが、半ば枯れながらまだ花をつけている。ポンポンダリヤは黄に輝き、サルビヤが早々と朱をのぞかせ、咢あじさいはうっすらと紅を滲ませているそのひとつひとつを見廻ることも園丁に課せられた仕事であった。
  
 中井英夫が住んでいた当時、1966年(昭和41)になると離れ家の中井邸をサンドイッチにするように、北側に1棟と南側に2棟の家が建てられている。この3棟の住宅は、同年に行なわれていた池添邸母家の建て替えによる一家の仮住まい家屋とみられ、新邸工事が終わるとともに3棟とも取り壊されている。中井英夫の「植物園」は、母家のリニューアル工事にともなう仮住まい家屋の建設で、かなりの縮小を余儀なくされただろう。
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 中井英夫は、代々植物学者の家に生まれたため、植物には昔から親しんでいた。ただし、バラのような華やかな花は自宅の庭にはほとんど植えられておらず、唯一の例外は深紅色のクリムゾン・ランブラー(庚申バラ)が咲いているのみだったらしい。中井少年は、本郷の動坂近くにある園芸場へ通いながら、バラの美しさに魅了されていった。
 『虚無への供物』を執筆するにあたり、下落合4丁目2123番地の400坪もある庭で、初めて自らの手で各種のバラの栽培に挑戦したと書いている。1981年(昭和56)に書かれた、中井英夫『薔薇の自叙伝』から引用してみよう。
  
 そのころ住んでいたのは新宿区ながら八百坪の庭があり、その半分を自由にしていいという大家の好意で、さまざまな栽培実験が出来たのはありがたかったが、中の一本を心ひそかに“ロフランド・オウ・ネアン”と名づけて大事にしていたのに、肥料のやりすぎか葉ばかり繁ってブラインドとなり、おまけにその長編が講談社から出版された昭和三十九年の秋、私の留守に台風でみごとに折れて枯れてしまった。その運命が暗示するように、長編の方もその後三年ほどは黙殺されたままだった。/だが昭和四十二年、杉並区永福町に引越す直前、ふいにある女性が身近かに現われてから風向きが変わり、薔薇との関わりもまた深くなった。そのころの私は小説の注文もないまま、とある大手の出版社の百科事典の編集を手伝い、傍ら一斉に開校したコンピューター学校の夜学に通ったりしていたのだが、その年の二月二十九日、出版社の受付へ巨きな薔薇の花束が届けられた。
  
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 この女性が、彼の作品のいくつかに顔を見せる「白人女」の「ヴェラ」だった。彼女は、バラの栽培にも詳しく、当時開園したばかりの二子玉川園「五島ローズセンター」へ、中井英夫とともに訪れているようだ。
 小学生だったわたしも、1960年代半ばのほぼ同じころ二子玉川園には何度も出かけているが、五島ローズセンターの記憶はない。もっとも、当時は盛んに開催された「恐竜展」や「怪獣展」などの特別展や遊園地がめあてだったので、クタクタに疲弊した親たちは五島ローズセンターまで足をのばす気にはなれなかったのだろう。1971年(昭和46)に書かれた中井英夫『薔薇の夜を旅するとき』には、五島ローズセンターが解体されて東急自動車学校になる直前、ヴェラとともに同園を訪れる情景が描かれている。
 狂おしいまでにバラ好きだった、中井英夫の妄想は止まらない。ついには、TANTUS AMOR RADICORUM(なべての愛を根に!)というワードとともに、自分の身体を土中に埋めてバラの養分(供物)にするという幻想にまでとり憑かれることになる。上掲の五島ローズセンターが登場する、『薔薇の夜を旅するとき』(1971年)から引用してみよう。
  
 外側から薔薇を眺めるなどという大それた興味を、男はもう抱いてはいなかった。暗黒の腐土の中に生きながら埋められ、薔薇の音の恣な愛撫と刑罰とをこもごもに味わうならばともかく、僭越にも養い親のようなふるまいをみせることが許されようか。地上の薔薇愛好家と称する人びとがするように、庭土に植えたその樹に薬剤を撒いたり油虫をつぶしたり、あるいは日当りと水はけに気を配ったりというたぐいの奉仕をする身分ではとうていない。(中略) 将来、それらのいっさいは、精巧を極めたアンドロイドが、銀いろの鋼鉄の腕を光らせながら無表情に行えばよいことで、人間はみな時を定めて薔薇の飼料となるべく栄養を与えられ、やがて成長ののち全裸に剥かれて土中に降ろされることだけが、男の願望であり成人の儀式でもあった。地下深くに息をつめて、巨大な薔薇の根の尖端がしなやかに巻きついてくるのを待つほどの倖せがあろうか。
  
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 大正時代から、下落合にはバラ園があちこちに存在していた。すぐに思い浮かぶのが、西坂の徳川邸Click!バラ園Click!や翠ヶ丘のギル邸Click!(のち津軽邸Click!)の庭、箱根土地Click!による不動園Click!東側のバラ庭Click!などだ。学生の中井英夫がそれを知っていたら、もう少し早く下落合に住みついていたかもしれない。

◆写真上:フランス産の「ブルームーン」と思われるバラの花。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる池添邸。は、1957年(昭和32)の写真で母家の東側に離れ家が確認できる。中井英夫は翌1958年(昭和33)、この離れ家へ転居してくることになる。は、1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」で、下落合4丁目2123番地に「植物園」のネームが採取されている。
◆写真中下:中井英夫が住んでいた時期に撮影された、1963年(昭和38)の空中写真()と1966年(昭和41)の同写真()。1966年(昭和41)の写真では池添邸の母家がリニューアル工事中で、中井邸の周囲には仮住まいとみられる家屋が3棟増えているのがわかる。は、1975年(昭和50)の空中写真で元・中井邸がいまだ建っているのがわかる。
◆写真下は、中井邸跡の現状。中左は、1981年(昭和56)にバラの短篇ばかりを集めた中井英夫『薔薇への供物』(龍門出版)。中右は、1950年代の撮影とみられる中井英夫。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる二子玉川園「五島ローズセンター」。


目白駅で「7色パンティ」抱え途方に暮れる。 [気になる下落合]

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 わたしはまったく知らなかったのだが、1950年代の後半に若い女の子の間で「7色パンティ」、あるいは「ウィークリーパンティ」というのが大流行したらしい。高校生から20代の女性まで、競い合うように「7色パンティ」を買い求め、1週間を毎日ちがうカラーの下着をはいて楽しんでいたようだ。
 現代では信じられない感覚だけれど、女子高校生などは親たちから叱られたり、周囲から不良に見られるのを怖れたり、また自分で買いにいくのがとても恥ずかしいため、年上の知り合いや気のおけない親戚に頼んで、代わりに買ってもらうことも多かったらしい。わたしにはまったく理解できない“趣味”だけれど、それほどまでして手に入れたくなるほど、毎日ちがうカラーの下着を身につけられる当時の「7色パンティ」は、彼女たちにとって魅力的だったようだ。
 下落合1丁目527番地に住んだ作家の中野武志Click!は、故郷の信州松本にいる高校を卒業したばかりの親戚の娘から、銀座で売っている「7色パンティ」を購入して送ってくれという手紙をもらった。中村武志の妻、すなわち「おばさまにお願いしますと、叱られると思いますので、このことはぜひおじさまにお願いしたいのです」……というような内容だった。当時の価格で1枚が500円、7色そろったセットになると3,500円もしたらしい。手紙には、郵便為替までが入っていた。
 当時の500円というと、ラーメン1杯が40~50円の時代なので、いまの感覚でいうなら1枚が4,000~5,000円もしたことになる。だから、「7色パンティ」のセットは実に3~4万円前後もする、下着にしてはとても高価な買い物だった。中村武志は、せっかく自分のことを信じて頼ってきた18歳の娘のために、「女房には内証で送ってやろう」とさっそく銀座の女性下着専門店へ買いに出かけた。そのときの様子を、1989年(昭和64)に論創社から出版された中村武志『目白三平随筆』から引用してみよう。
  
 国鉄本社を退けると銀座へまわり、体裁は悪かったが、思いきって女性下着専門店の「ギタシ」へ寄って、七色パンティを買い求めた。/帰宅すると、女房の目につかぬように、パンティの箱を机の下に押しこんでおいた。国鉄で荷造りをして送るつもりであったが、迂闊なことに、翌朝は、かんじんの箱を忘れて出勤してしまった。/私は、なんとなく、一日落ちつかなかった。部屋の掃除の際に、パンティの箱が、女房の目にとまらないことを切に希い続けていた。/五時になるのを待ちかねて、私は急いで帰宅した。/「お帰りなさいませ」/と女房がいった。別に変わった様子はなかった。私はほっと安堵の吐息を洩らした。
  
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 だが、ふすまを開けて書斎に入ると部屋の中にヒモがわたされ、「7色パンティ」が洗濯バサミで吊るされてヒラヒラしていたのだ。7色のそれには、それぞれ花と曜日が刺繍で縫いこまれていたというから、かなり華やかな眺めだったろう。曜日とカラーと刺繍は、およそ次のようだったらしい。
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 さっそく、連れ合いから「これはいったいどなたに差しあげるんですの」と詰問されるが、故郷の松本にいる親戚の女の子の名前を白状できない筆者は、「ある人に頼まれて買って来た」としか答えることができない。もちろん、そのまますんなり信用されるはずもなく、「品物が品物ですからね。そう簡単にあなたのいうことは信用できませんわ」といわれてケンカになった。
 しまいには、家にいることが不愉快になった中村武志は、家を出て「最近できた恋人」のところで外泊するぞと、なかば脅しのつもりで宣言するが、あわてて止められるかと思ったのに「どうぞお出かけになって下さい。ご遠慮なく……」といわれ、あとへは引けなくなってしまった。しかも、連れ合いから「お出かけなら、これをお持ちになるんでしょう」と、「7色パンティ」まで持って出るハメになる。彼は花がらの刺繍が表にでるよう、1枚1枚ゆっくりていねいにたたんで箱にもどすが、いくところがないので途方に暮れていた。結局、中村夫人は止めてはくれず、彼は目白通りへと押しだされた。
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 同書の「思い出のパンティ事件」から、再び引用してみよう。
  
 大通りへ出てから私は、まだ夕食を食べていないことに気がついた。国電目白駅へ出る途中の、小さな中華料理店に寄って、ゆっくりとラーメンを食べた。それから、目白駅のホームへ出て、ベンチに腰をおろし、一服しながら、さて今夜どこへ泊まるべきか、と思案した。/二本目の煙草を吸っているうちに私は、目白駅と新宿駅の間で、電車の窓から、『一泊百円・白いシーツときれいなお風呂』というネオンサイン(ママ)の看板を始終目にしていることを思いだした。今夜はそこで一泊しようと決心して、折からはいって来た電車に乗ると、窓に顔を押しあてて、ネオン・サインに注意しだした。/電車が新大久保駅に到着すると、ホームの向こう側に、そのネオン・サインが赤々と輝いていた。
  
 下落合1丁目527番地の中村邸近くにある、目白通りに面した「小さな中華料理店」は、彼がいつもいきつけの「丸長」だったのだろう。新大久保の「ハザマ旅館」は、とうにつぶれてしまったのか現在では見あたらない。
 おそらく、昔の“連れこみ旅館”(死語)だったらしい「ハザマ旅館」では、紹介者がないとお泊めできないと一度は断られるが、国鉄職員の乗車証を見せると信用されて部屋へ案内された。わずか2畳の、いかにも“アベック”(死語)用の狭い部屋で、中村武志は「7色パンティ」を抱きながら一夜を明かした。
 『目白三平随筆集』は、読者の笑いを誘うためか排泄物やトイレ、セックスなどあまりにも下ネタが多すぎて、わたしの感覚ではちょっとついていけない。「美人」を多用するのも、この世代の特徴的な文章なのだが、この随筆が「面白い」と感じられる時代だったものだろうか。残念ながら、わたしには古くさい感覚であまり笑えなかった。ちなみに、いまでは「パンティ」といういい方もあまり聞かないが、「パンツ」「ショーツ」のほうが通りがいいだろうか。そういえば、この時代には「スキャンティー」(死語)などという下着名もあったっけ。
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 同書には、下落合や目白界隈に住んでいた作家や学者を中心に結成された、「目白会」の様子についても書かれている。中村武志をはじめ、十返肇Click!舟橋聖一Click!、高橋義孝、中曽根康弘、池島信平、原文兵衛、田中角栄Click!……などなどがメンバーで、定期的に下落合1丁目435番地の舟橋邸Click!などで会合を開いていたらしい。おそらく、わたしはここでは取りあげないと思うので、興味のある方は同書を参照されたい。

◆写真上:中村武志の「7色パンティ」とはちがう、現代のカラフルショーツ。
◆写真中上は、タバコ好きだったらしい中村武志のプロフィール。は、1989年(昭和64)に論創社から出版された中村武志『目白三平随筆』。
◆写真中下は、目白駅ホームから眺めた目白橋の橋脚。左手にある階段は、近日中に解体されエレベーターになるらしい。は、1964年(昭和39)の目白駅ホーム。
◆写真下は、1970年代に撮影された夜の目白駅前の様子。は、新大久保駅ホームから西を向いて眺めた大久保通りの現状。


目白中学校の篠崎雄斎と龍膽寺雄。 [気になる下落合]

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 下落合437番地にあった目白中学校Click!には、篠崎雄斎という経理担当がいた。彼は下落合から1926年(大正15)に上練馬村2305番地へと移転Click!した目白中学校Click!へ勤めるかたわら、シャボテンとダリアの研究でその分野では高名な人物だった。1923年(大正12)には、東京で「仙人掌(シャボテン)同好会」を設立し、自宅近くの代々木倶楽部で毎月陳列会を開催しており、おそらく世話役をつとめていたと思われる。
 篠崎雄斎は、関東大震災Click!前の1922年(大正11)に目白中学校が発行した校友誌「桂蔭」第8号の職員名簿(生徒監)にも、また1924年(大正13)の「桂蔭」第10号の職員名簿にも、美術教師の清水七太郎Click!や英語教師の金田一京助Click!などと並んで名前が掲載されている。関東大震災をはさみ、おそらく篠崎雄斎は目白中学校の開校時から経理を担当し、下落合の校舎へ通ってきていたのだろう。彼の住所は、仙人掌(シャボテン)の陳列会が開かれた代々木会館の近く、代々幡町幡ヶ谷10番地だった。
 また、篠崎雄斎は世田谷町の代田橋で「紅雨園」というシャボテン園を経営し、そこで栽培した多種多様なシャボテンを新宿の園芸店へと卸している。つまり、平日は目白中学校に勤務して経理業務を処理するかたわら、休日には副業に精をだす二足のワラジをはいていたわけだ。彼は1934年(昭和9)ごろに目白中学校を退職し、以降はシャボテンとダリアの栽培および研究に没頭していくことになる。年齢から考えると、目白中学校を辞めたのは定年退職だったかもしれない。
 「桂蔭」に掲載されている、目白中学校に勤務した複数の教職員記念写真を観察すると、いつも左端にいる背広姿で髪を七三に分け、鼻の下に髭をたくわえ端をピンと跳ね上げた、やや古風な風貌の男が篠崎雄斎ではないかと思うのだが、さだかでない。龍膽寺雄Click!が篠崎雄斎を知るのは、下落合の「目白会館」(目白館?)から高円寺へと転居して間もなくのことだった。彼が、篠崎雄斎と出会ったときの様子を、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された『人生遊戯派』Click!から引用してみよう。
  
 はじめのうちは、こういう街の中のシャボテン商で、眼についたものから買い集めて、温室の中に収容していたが、そのうち新宿の園芸商の売店にシャボテンを並べているのが、世田谷代田橋の、紅雨園というシャボテン栽培場で、その園主の篠崎雄斎という、この世界で有名な人であることがわかり、そこを訪ねて、さしあたり今後一年間、毎月百円ずつ予算をとってシャボテンを買うから、栽培上の指導や、その他色々便宜をはかってくれるように、と申し入れて、それから、そこへ正子と車を乗りつけては、積めるだけシャボテンを買って来るようになった。/(中略) 篠崎雄斎はその頃、目白中学の経理係りをして、毎夜アルバイトのようにして通って、そこに勤めていたのだが、私がシャボテンを買いはじめると経理係りをやめて、シャボテン栽培専門にかかることになった。篠原雄斎はシャボテンのほかに、ダリアのほうでも、当時日本では有数の人で、三百坪ぐらいの畑に一面にダリアを植え、その隅のほうの数棟の大きな温室に、ギッシリとシャボテンを栽培していた。薩摩の方の人で、その頃六十歳ぐらいだったが、一種風格のある人物で、古色蒼然というような感じがして、どこか浮き世離れしていた。
  
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 龍膽寺雄は、丸善で手に入れたシャボテンの本を読んでからそのとりこになり、高円寺の家の庭先へ温室を建ててシャボテンを集め栽培しはじめた。当時、シャボテンを販売していたのは銀座の専門店である丸ハ商店をはじめ、新宿中村屋Click!の近くにも園芸商がシャボテンを扱っており、また日本橋三越Click!の5~6階にあった屋上庭園のようなところでも、シャボテンの鉢を販売していたらしい。
 龍膽寺雄は、1934年(昭和9)に『M・子への遺言』を書いたあと文藝春秋=菊池寛Click!が牛耳る文壇に背を向け、喧騒の東京を離れてシャボテンとゆっくり暮らせる郊外の住居を物色しはじめている。最初は、小田急線の成城学園Click!を希望していたようだが良い物件がないため、もう少し範囲を拡げて横浜から三浦半島にかけてまで探したようだ。鎌倉Click!が気に入ったらしいが、森や谷(やつ)が多くて陽当たりのいい温室に適した広い庭つきの住宅が少なく、購入を思いとどまったらしい。もし、このときモダニズム文学の龍膽寺が鎌倉へ移り住んでいたら、ひょっとすると川端康成は鎌倉には転居してこなかったかもしれず、鎌倉の文学史は大きくさま変わりをしていたかもしれない。
 彼は再び小田急線沿線に注目すると、中央林間駅の近くに希望どおりの家を見つけている。『人生遊戯派』の「『M・子への遺書』前後」から、つづけて引用してみよう。
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 『M・子への遺書』の発表後、私は文壇に背を向けるつもりになり、騒然とした東京を離れて、ひとり静かな世界を求めて、シャボテンと暮らすことを考えて、現住他の神奈川県大和村中央林間に土地を買い、新居を建てて、移り住むことにした。/新居をどこに構えるか、については、その前に各地を歩き廻って、気に入った土地を物色した。最初成城学園に眼をつけて、さきに述べた斎藤延翁の邸の近くに恰好な土地を見付けたが、あいにく高圧線の鉄塔が近くに建っているので、やめて、横浜から横須賀へ向かう三浦半島沿いの東京湾沿岸をつがし廻り、谷津海岸にひじょうにいい場所を見付けたが、丘陵と丘陵との間にある畑地の所有者がはっきりしない。
  
 こうして、彼は1929年(昭和4)から小田急電鉄が「林間都市計画」の一環として分譲販売していた、「スポーツ都市」の中央林間へ家を建てて引っ越した。小田急の計画では、東京のさまざまな施設を次々と中央林間へ移設し、最終的には首都を東京から林間都市へ遷都させる構想だったという。松竹蒲田撮影所Click!も、当初は大船ではなく中央林間への移設が予定されていた。
 龍膽寺雄も、そのような小田急電鉄の壮大な計画を、どこかで知って移り住んだのかもしれない。あちこちにカラマツの密生した林があり、夏になると南風が相模湾の潮の香りをうっすらと運んでくる、シャボテンの栽培にはもってこいの土地がらだったが、冬は北の大山や丹沢Click!から相模平野へ吹きおろす“丹沢おろし”に震えあがった。彼は1992年(平成4)に死去するまで、この地で作品を書きつづけることになる。
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 篠崎雄斎と龍膽寺雄が、いつごろまで懇意にしていたのかは不明だが、その後、龍膽寺は次々とシャボテンに関する著作を発表しているので、“師”である篠崎から教わった栽培技術や知見、ノウハウは少なくなかったにちがいない。文学の“師弟”関係や派閥、その馴れ合いや腐敗にウンザリしていた龍膽寺は、まったく関係のない分野の“師弟”関係が新鮮に感じたものだろうか。このあたり、帝展の腐敗に激怒してソッポClick!を向き、踊りや芝居にのめりこんだ金山平三Click!の経緯に、どこか似ているような気がする。

◆写真上:「春雷」か「師子王丸」とみられるシャボテンの花。
◆写真中上:1922年(大正11)3月現在の目白中学校職員名簿()と1924年(大正13)3月現在の同名簿()で、教師に混じり「篠崎雄斎」の名前が見える。
◆写真中下は、1922年(大正11)の教職員記念写真で経理業務担当の篠崎雄斎が写っているはずだ。は、高円寺時代と思われる龍膽寺雄・正子夫妻。
◆写真下上左は、1960年(昭和35)に出版された『シャボテン』(至誠堂新光社)。上右は、1972年(昭和47)出版の『流行の多肉植物』(主婦の友社)。は、1941年(昭和16)に陸軍が撮影した空中写真で龍膽寺邸のあった中央林間2丁目あたり。


南畝の『高田雲雀』にみる通称「中井村」。 [気になる下落合]

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 江戸期までさかのぼる時代、現在の住所「中井」とされるエリアは「中井村と呼ばれていた」という大正期以降の資料を見かけるが、それはなにを根拠にしているのだろうか? 「中井村」と呼ばれていたから、中井駅になったのだとされるのだが、地元の方に訊いても、「さあ……」「わからない」という答えばかりが返ってくる。
 そこで、江戸時代に作成された落合地域とその周辺を記録した資料を、片っぱしから当たっていたのだが、ようやくひとつ見つけだすことができた。正確な執筆年は不明だが、1788年(天明8)に増補版が執筆・編集されている大田南畝Click!の『高田雲雀』だ。ちょうど老中・田沼意次が失脚し、松平定信が登場して幕政の改革に着手しはじめるころ、第11代将軍・徳川家斉の時代にくだんの『高田雲雀』は執筆されている。幕府の御家人だった大田南畝は、いまだ30代の若さだった。
 『高田雲雀』は、南畝自身が写したとみられている国立国会図書館に収蔵されているものと、木又牛尾が1849年(嘉永2)に写し早稲田大学図書館に収蔵されている写本とが有名だが、この記事では国立国会図書館の原本に近い記述を引用していくことにする。このサイトでもご紹介している落合地域を中心に、順番にひろって見ていこう。
  
 一、砂利場町 根川原通と云小道有、上古の海道之由、いまは甚の小道也、末は七曲りより落合へ出る(中略) 一、金乗院 砂利場村、此寺の脇より、藤の森さくや姫へ出る道あり、末は七曲り落合へ出る(覃按、水戸黄門光圀卿ノ額アリ、金乗院ニアリ)/一、咲屋姫の社 祭神この花さく屋姫、俗にさくら姫の宮と云、前の坂をせいげん坂と云、浅間坂の誤りなるべし(中略) 一、藤森いなり 此辺下落合也、鼠山の末也/一、宿坂 金乗院の前の坂を云、昔此所に宿坂の関有よし、往古の鎌倉海道のよし、八兵衛といふ百姓は此時の関守の子孫なり、かの家に其時の刀其外古物多し、帳面も有となり
  
 この記述でも明らかなように、大田南畝は下高田村の一帯が地元ではないため、自身で歩いて調べたり地元の人間に取材して伝聞を記録していることがわかる。当時、南畝は牛込中御徒町(現・牛込神楽坂駅近く)に住んでいたはずであり、その周辺域を散策・取材しながら紀行文をまとめていったのだろう。
 面白いのは、目白崖線の下を通る雑司ヶ谷道Click!(鎌倉街道)が、現在の学習院下あたりから下落合にかけて「七曲り」と表現されていることだ。確かに、南へ張りだす目白崖線の凹凸斜面に沿って街道が敷設されているため、雑司ヶ谷道(新井薬師道)はクネクネとカーブしており、「七曲り」と呼んでもおかしくない形状をしている。
 また、現在は学習院キャンパス内から目白駅西側の豊坂沿いに移転し「豊坂稲荷(八兵衛稲荷)」Click!と呼ばれる社が、『高田雲雀』の時代は稲荷ではなく木花咲耶姫(咲屋姫)社、つまり富士浅間社だったことがわかる。だからこそ、『高田雲雀』が書かれる100年ほど前、徳川光圀(水戸光圀Click!)が「木花咲耶姫」の扁額を同社へ揮毫しているのだろう。そして、鎌倉街道の関守の子孫である八兵衛さんが、のちに稲荷を勧請してどうやら富士浅間社へ合祀したことから、いつの間にか江戸期の農村で重視されていた豊穣の神(稲荷)を尊重し、八兵衛稲荷と呼ばれるようになった経緯が透けて見える。
 木花咲耶姫社(のち八兵衛稲荷社)は、いまだ大山Click!(大ノ山/大原山)の山麓、つまり現在の学習院キャンパス内にあり、八兵衛が住んでいたのは宿坂を下ったあたり、「根岸の里」Click!と呼ばれた武家屋敷や農家が集中していた一画だろう。
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高田雲雀本文.jpg
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 つづけて、落合地域に関連するところを、かなり省略しながら引用してみよう。
  
 南西ニ移り、/一、七曲り 西坂、椎名町、(覃按、水戸黄門常山文集、詩云落合遥指坂七曲、宝仙◇◇◇塔九輪)/落合 上下あり、下落合ニたじま橋同びくに橋此辺すべて下落合也/一、落合のはし 上宿也、少々町有(中略) 一、長久山妙泉寺 玉沢末、落合の焼場は此寺の持也 (◇は判読不明字)
  
 ここに登場している「七曲り」は、崖下を通る雑司ヶ谷道のことではなく、鎌倉時代に拓かれた切り通しである七曲坂Click!のことだ。そして、西坂Click!とともに「椎名町」の名称が登場していることに留意したい。椎名町Click!は、下落合村と長崎村にまたがる清戸道Click!沿いに形成された町名であり、現在の北に離れた西武池袋線・椎名町駅エリアのことではない。また、神田上水に架かる田島橋Click!と、北川Click!(妙正寺川)に架かる泰雲寺Click!の比丘尼橋が採取されている。
 徳川幕府の行政区画である下落合村と上落合村の様子が紹介されるが、ここにも「中井村」の記述はない。「上宿」あるいは「少々町有」とされているのは、現在の七曲坂の下あたりから西坂あたりにかけ、下落合ではもっとも古くから集落が形成(出土した板碑から鎌倉期にはすでに形成)されていた、「本村(もとむら)」一帯と規定することができる。同書の後半では、「落合宿」という呼称で登場する集落も、本村を指しているのだろう。また、上落合村の火葬場が、早稲田通りから夏目坂に入って200mちょっとのところにある、妙泉寺が経営していた事蹟も興味深い。
 少し余談だが、明治期になって山県有朋邸が建設される、本来の目白不動Click!が建立されていた椿山Click!(現・椿山荘Click!)のほかに、観音寺や神田上水の先として記述されている第六天社Click!、下落合村の六天坂Click!の同社が建立されている山もまた「椿山」と呼ばれていたのが面白い。この第六天社も、先の法泉寺の管理下に置かれていたようだ。つづけて、『高田雲雀』から引用してみよう。
  
 落合宿はずれ/一、落合御殿山 往古中山勘解由殿やしき跡也、上落合の部也、今は公儀より御留山となる、此山より鳴子淀橋柏木等一円にみへ絶景也/一、中井村 落合上下の間を云/一、瑠璃山薬王院 下落合村/一、落合村に尼寺と云有、此故に前なる橋をびくに橋と云(中略) 一、落合ばしの辺の螢名物也、野千螢と云、狐火程ありといふ心歟、四月の始より数多出る
  
 大田南畝が記録した時代、下落合の御留山Click!(旧・御殿山)は上落合村が管理していたのがわかる。「あまるべ」Click!の里と呼ばれた、農産物の収穫量の多い裕福な上落合村が、山の管理維持費などを捻出していたものだろう。
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 さて、ここで「中井村」がようやく登場している。上落合村と下落合村の間にある一帯を「云」うと書かれている。もちろん、大田南畝が当初から知っていたわけではなく、地元の人間に取材して書きとめたのだろう。だが、「中井村」は徳川幕府の行政区画として存在しているわけでなく、上落合村と下落合村にはさまれたエリアの、当時の村人による通称(俗称)であることは明らかだ。
 すなわち、下落合村と上戸塚村(現・高田馬場)との間を流れる、神田上水北岸に展開した古い集落を、村内の通称で「本村(もとむら)」と呼んだのと同じ感覚だろうか。「中井村」は、下落合村西部の北川(現・妙正寺川)が流れる北岸、上・下落合村にはさまれた低地を指していたとみられる。村境のある間(中)の、湧水(井)が豊富な土地(田地)の集落という意味でつけられた可能性が高い。つまり、現在の中井駅は少なくとも江戸中期に村内で「中井村」と呼ばれた集落の近くに位置しているものだろうか?
 「中井村」は、のちに町村の字名(あざな)として継承される例の多い、特定の地区を表現する地元の呼称のひとつだったのだろう。しかし、明治期に入り参謀本部が作成した地図や、郵便の発達とともに村内の小字が「住所」化される際、下落合東部の「本村」は採用されたが、西部の「中井村」は採用されなかった。なぜなら、幕末までにそのような呼称がとうに廃れていたか、「中井村」より普及して小字化された「南耕地」または「北川向」という呼称が一般的になっていたのだろう。
 だが、いったんは消滅した崖線下にふられたとみられる通称「中井村」だが、大正の中期になっておかしなことが起きる。下落合でもっとも標高(37.5m)が高い、字名では「大上」と呼ばれすでに住所化もされていた地区が、いつの間にか「中井」という字名にすり替わっているのだ。江戸期からの経緯にしたがえば、「中井村」は上・下落合村の村境となる北川(妙正寺川)の沿岸でなければならず、また「井」を含む表記からも、江戸東京地方では相対的な地形から低地に付与される地名だ。だが、それがいきなり場ちがいな尾根上のピークに字名として復活している。この不自然さは、大正前期の「不動谷」Click!が西へ300m以上も移動していることも含め、なにやら地域行政(村役場)の恣意的な東京府や、国(陸軍参謀本部など)への働きかけを想起させるのだ。
 大正中期における、この不可解な字名「中井」(本来は「大上」)の登場が、江戸中期の通称「中井村」の川沿いにあったとみられるエリア名(江戸後期から「南耕地」または「北川向」と呼称)と、1965年(昭和40)以来の現住所としての「中井」との間で、スッキリしないギクシャクした“混乱”を生じているようにも思える。目白崖線に住む方々にしてみれば、「なんでここが中井なんだい?」「ここは下落合で中井なんて地名じゃないよ」……と、いつまでたっても馴染めないゆえんだろう。
 あえて西武線の駅名を借りるなら、現在の下落合駅があるところは本村(もとむら)エリアの直近なので「下落合本村駅」、いまの中井駅のある位置は江戸中期以前に通称「中井村」と呼ばれたらしい区画に近いとみられるので「下落合中井村駅」とすれば、少しは地名の時代的な経緯を含めスッキリするだろうか?
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 だが、幕府の行政区画でもなく、江戸中期以降は消滅してしまった通称(?)を、1960年代になって範囲を思いっきり拡げ、復活させる必然性や意味あいが、わたしにはまったく理解できない。そしてもうひとつ、「中井村」の由来が目につきやすい大田南畝『高田雲雀』の記述のみを根拠としているのであれば、代々地元の人々に受け継がれてきたゲニウスロキ的な側面を踏まえるとすると、あまりにも薄弱といわざるをえないだろう。

◆写真上:江戸中期まで通称「中井村」と呼ばれていたという伝承が、大田南畝によって記録された中井駅周辺。だが、江戸後期から明治期にかけては「南耕地」(下落合村側呼称)または「北川向」(上落合側呼称)が、両村では一般的な通称だったろう。
◆写真中上上左は、早稲田大学に保存されている1849年(嘉永2)の『高田雲雀』写本。上右は、石崎融思・筆の軸画「大田南畝肖像」。は、早大収蔵の『高田雲雀』写本の本文。は、目白崖線の斜面に沿って蛇行を繰り返す鎌倉街道(雑司ヶ谷道)。
◆写真中下は、学習院の建設で金久保沢に遷移された豊坂稲荷(八兵衛稲荷)だが、元神は木花咲耶姫(咲屋姫)で富士浅間社だったことがわかる。は、鎌倉期の切り通し工法の跡をよく残す七曲坂。は、大雪の瑠璃山薬王院。
◆写真下は、1880年(明治13)に作成された参謀本部のフランス式1/20,000地形図にみる落合地域。中左は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる目白崖線でもっとも標高が高い字名「大上」。中右は、1923年(大正12)の同地形図にみる「大上」から忽然と書き換えられた場ちがいな字名「中井」。は、大田家に伝わる南畝が用いたかもしれない指料で体配から寸延び短刀あるいは脇指と思われる。江戸期の御家人としてはごく一般的な拵(こしらえ)で、持ち主はできるだけ軽量化しようと試みているのか、平造り刀身の平地(ひらじ)に護摩箸(不動明王)ではなく棒樋が入るのがめずらしい。手入れがされておらず水錆が目立つが、刃文は中直(なかすぐ)でのたれ気味とかなり平凡だ。


大賀一郎が開催した不忍池「観蓮会」。 [気になる下落合]

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 「古代ハス(大賀ハス)」の種子を発見した大賀一郎Click!が、柏木の蜀光山 (現・北新宿1丁目)に住む内村鑑三Click!主宰の「聖書研究会」Click!へ参加したのは、一高生になったばかりの1902年(明治35)ごろからだった。南原繁Click!が、内村の聖書研究会で「白雨会」を結成する、およそ7年ほど前のことだ。大賀は岡山ですごした幼年時代、すでに岡山教会で洗礼を受けている。
 一高へ入るために東京へくると、さっそく同級生の安倍能成Click!たちと柏木の内村鑑三を訪ねているが、「教会を脱退しろ」といわれ本郷教会を去っている。当時は本郷に下宿していた大賀一郎は、下駄ばきで柏木の聖書研究会まで歩いて通うことになった。当時の聖書研究会には、小山内薫Click!有島武郎Click!志賀直哉Click!、天野貞祐などが頻繁に顔を見せている。
 そのときの様子を、1961年(昭和36)に発行された「月刊キリスト」4月号(日本基督教協議会)所収の、インタビュー「わが信仰の生涯」から引用してみよう。
  
 (内村鑑三は)岡山で知ったんです。『聖書研究』の出ない前、『東京独立雑誌』というのがありまして。(略) 店頭に出ておりましたからね。五銭でした、雑誌が。月三回で。当時本郷から新宿までげたをはいて歩いていくんですから、三時間かかりますね。内村先生もあとになってはだいぶひらけて、丸の内に出ていらっしたが、その時分は貧乏でしたからね。幸徳秋水や境枯川(利彦)なんか『万朝報』でやった時分ですからね。(略) 南原くんは七十二、三です。わたしは八十ですからね。あの人は七年ぐらいあとですね。(略) (内村鑑三の)家が狭いですから。このくらいのへや<六畳>ですから、二十人定員でしたよ。あのころいったのは志賀直哉、高木八尺、それから黒木――黒木大将の息子、そんなのがいましたね。(略) 野武士時代です。塚本くんや、藤井<武>、田島、三谷<隆正>、鶴見<佑輔>、ああいう連中は新渡戸先生の弟子だったんです。新渡戸先生は自分は教養を教える、宗教は内村がやるというので、自分の弟子を内村先生にゆずったんです。そのときにそういった連中がごっそりいったんですね。そして、柏会ができて変わったんです。野武士のあとはずっと一高、東大の連中がごっそり二、三十人きて、上品になったんです。(カッコ内引用者註)
  
 聖書研究会は、会費(献金)がわずか月1銭しかとらず、柏木919番地の内村鑑三は極貧にあえいでいた。しかも、学生たちの学費を援助するため、著作の校正作業には1回50銭でアルバイトとして雇ったため、貧乏生活に拍車がかかったらしい。
 現代の学生と教授の関係とは異なり、明治後期の学生たちは講義を終えると、自身の尊敬する“先生”の自宅を訪ねるのがふつうだった。ちょうど大賀一郎が一高・帝大時代をすごしていたころ、訪問先でブームになっていたのが内村鑑三と夏目漱石Click!だった。安倍能成Click!は、内村家と夏目家の双方に顔を出していたようだ。
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 大賀一郎がハスの研究に取り憑かれたのは、25歳ぐらいのときだったといわれている。もともと水草には興味があったらしいが、特にハスに注目して研究をつづけ古代ハス(大賀ハス)を咲かせることに成功している。さらに、當麻寺(当麻寺:たいまでら)に伝わる「當麻寺蓮糸曼陀羅」からハス糸に興味をおぼえ、曼陀羅から糸へ、糸から繊維へと研究の対象は拡大していった。府中に住んでいた晩年には、大賀ハスを育てて研究をつづけるかたわら、布目文の研究にも取り組んでいる。布目文とは、もちろん府中国分寺の屋根に用いられた、朝鮮様式の「布目瓦」のことだ。
 ちょっと余談だが、大賀一郎は府中の国分寺跡を散策しながら、数多くの布目瓦の破片を採取しているが、わたしもまったく同じことをしたことがある。小学生のわたしが、布目瓦の破片を求めて散策したのは、府中ではなくナラ・斑鳩の里にある法隆寺の若草伽藍跡だ。現在の法隆寺が再建される以前、創建法隆寺(本来の法隆寺)が建っていたとされる若草伽藍跡では、親父が同寺の事務所で交渉したものだろう、僧が若草伽藍跡の門鍵を開けてくれて中を自由に散策することができた。
 巨大な礎石がポツンと残る若草伽藍跡は、広く芝に覆われていたが、ところどころに黒い土面が露出していて、そこには布目瓦の破片が数多く露出していた。それをいくつか拾い集めて僧に見せると、「掘れば無数に出てくるから、記念に持ち帰っていいよ」といってくれた。その破片は、いまでもわが家のどこかにあるのかもしれないが、ここしばらく見ていない。布目瓦の布目を観察・研究することで、その繊維がどのようなものなのか、あるいはなんの糸が使われているのかを想定することができる。大賀一郎は、最晩年を国分寺に葺かれた布目瓦と、朝鮮様式の繊維の研究に費やしている。
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 さて、大賀一郎は1935年(昭和10)から戦争中を除き死去するまで、上野の不忍池Click!でハスの花を愛でる「観蓮会」を開催している。きっかけは、ハスの花が開花するとき「ポンと音がする」という迷信を否定するために、マイク片手に開花の瞬間をねらって録音するプロジェクトを起ち上げたときらしい。この試みには、同じ植物学者である牧野富太郎の実証主義的な姿勢から、少なからぬ影響を受けているようだ。牧野は、大賀よりも20歳年上だった。以下、1957年(昭和32)に発行された「採集と飼育」6月号(日本科学協会)所収の、大賀一郎『牧野富太郎先生の思い出』から引用してみよう。
  
 今から二十三年前の昭和十年に、初めてハスの会を上野不忍で催した時などには、(牧野富太郎は)第一に馳せ参じて、明け行く空に、ハスの無音無声の開花に注視、聞き耳を立てて下さった。あの時には三宅驥一、鳥居竜蔵、入沢達吉、岡不崩、石川欣一、河野通勢などの諸先生と豪華な勢揃いをした事であったが、その翌年(牧野富太郎)先生と私と二人不忍池畔で早朝マイクの前に立って再検討の耳を傾けたのは、今になってよい思い出である。ハスの事については先生がよく『理学界』誌にお書きになったのが我が国の最初の文献で、植物の事では何にでも先鞭をおつけになった先生は、ハスの事でもまた先覚者であられた。
  
 第1回「観蓮会」には、このサイトにもときどき登場する鳥居龍蔵Click!をはじめ、河野通勢Click!岡不崩Click!の名前が見えている。医師の入沢達吉は一度、歯科医の医療行為を妨害する島峰徹Click!エピソードClick!で取り上げただろうか。
 目白通り北の長崎の洋画家・河野通勢と下落合の日本画家・岡不崩だが、このふたりの作品にハスを描いた画面があるとすれば、上野不忍池で行われた大賀一郎の「観蓮会」で写生された「大賀ハス」の可能性が高い。河野通勢の作品にハスの記憶はないが、岡不崩の軸画あたりにはありそうな気がする。ご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。
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 ところで、「大賀ハス」の根は食べられるのだろうか? 食い意地の張ったわたしとしては、気になるところだ。食用のハスと同様に、大きな穴が空いた根をしているのだろうか。縄文人が食用に栽培していたかどうかは不明だが、3000年前の丸木舟といっしょに出土しているところをみると、食べていた可能性がありそうだ。蓮根は「穴がおいしいのです」といったのは内田百閒Click!だが、どのような味がするのかとても気になる。


◆写真上:上野精養軒の屋上から眺めた、ハスが繁る夏の不忍池。
◆写真中上上左は、帝大時代の23歳ごろの大賀一郎。上右は、柏木で聖書研究会を主宰した内村鑑三。は、ハス糸を使った織物でこしらえたマフラー。
◆写真中下は、上落合467番地の大賀一郎邸跡の現状。は、法隆寺の若草伽藍跡(創建法隆寺跡)から出土した布目瓦の密タイプ(左)と粗タイプ(右)。は、大賀一郎が晩年に布目瓦を探してよく散策した府中の国分寺跡。
◆写真下は、晩年の大賀一郎。は、東大泉にある牧野富太郎の庭(牧野記念庭園)。は、現存する牧野富太郎の書斎(研究室)。


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