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佐伯祐三は守山珈琲牛乳を飲んだか。 [気になる下落合]

守山乳業菊型長壜.JPG
 1927年(昭和2)の夏、佐伯祐三Click!は家族を連れて神奈川県中郡大磯町山王町418番地の借家Click!へ避暑に出かけている。直接の目的は、百日咳が治ったばかりの彌智子を、潮風が吹く気温が低めな海辺でゆっくり静養させるためだった。当時、結核や百日咳など肺の病気には、海岸地帯で療養するのが効果的だと信じられてい時代だ。
 佐伯一家が、なぜ避暑地に大磯Click!を選んだかは、佐伯自身が大阪との往来には東海道線沿いの地域が便利だったのと、おそらく米子夫人Click!が千代田城の御殿医だった松本良順(のち松本順Click!)が拓き、明治初期からの江戸東京市民にはお馴染みの、避暑・避寒地で別荘地Click!だった大磯にこだわったせいだろう。(城)下町Click!の尾張町(銀座)地付きの米子夫人にしてみれば、新興でにわか造りの避暑地・軽井沢よりは、昔ながらの伝統的な避暑・避寒地の大磯に、より魅力を感じたからにちがいない。
 このとき、佐伯一家は東海道線の駅に設置されたミルクスタンドで、「守山珈琲牛乳」Click!を飲んだだろうか? 新しもの好きな佐伯のことだから、どこかの駅で飲んでいるような気がするのだ。この時期、日本で初めてコーヒー牛乳を開発した東京府中野町(のち神奈川県大船)の日本均質牛乳は、関東大震災Click!の痛手から立ち直れず、省線での駅売りをはじめ市場のシェアを次々と守山商会に奪われている最中だった。日本均質牛乳が守山商会に合併・吸収されるのは、わずか3年後の1930年(昭和5)のことだ。以来、首都圏の駅売り牛乳は、守山商会が大きなシェアを占めることになった。
 大正末になり、駅売りを中心とした守山珈琲牛乳の人気が高まるとともに、乳製品が腐敗しやすい夏季の販売が問題化している。いまだ日本均質牛乳と守山商会が、駅売りのコーヒー牛乳でしのぎを削っていたころ、ホウ酸が混入された製品が発見され、警視庁衛生部に摘発されたようだ。ホウ酸混入のコーヒー牛乳は、警視庁の検査で両社ともに確認されている。事件の様子を、1925年(大正14)6月12日(土)の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 危険な牛乳を省線各駅で売る/板橋駅でも発見し発売元厳罰に処せられん
 警視庁衛生部では気候の変り目には兎角腐敗した牛乳を販売する向があるので十九日管内一斉に資量の検査を行つた結果、鉄道省各駅で売つてゐるコーヒー牛乳に多量のほう酸が混入されてゐるのを発見したのでその発売元である東海道平塚駅前守山商会主守山賢(ママ:守山謙の誤り)を警視庁に呼寄せ詰問したところ防腐剤として多量のほう酸を混入してゐた(こ)と申立てた/守山氏はほう酸は無害であるといふてゐるが警視庁衛生部ではほう酸は人体に有害で殊に胃腸を害することは確かであるところから即時鉄道省に通達して東京其他近県各駅で販売してゐた同コーヒー牛乳は全部捨てさせ尚府下板橋駅で販売してゐたコーヒー牛乳の中にも同様ほう酸が混入してあつた、これは東海道線大船駅前日本均質牛乳会社製造にかかるもので同線及び同町内へ売つてあつた四十箱をことごとく捨てさせ両者とも厳重な処罰をされるさうである(カッコ内引用者註)
  
守山牧場ホルスタイン.jpg
平塚海岸1938.jpg
守山商会二十年史1938.jpg 守山謙.jpg
 ただし、この記事は前月19日の調査結果が発表された「ホウ酸混入事件」の第一報であり、記事中では専務の守山謙が「ほう酸は無害である」といったことになっているが、事情はそれほど単純でわかりやすい経緯ではなかったようだ。なぜなら、駅売りで人気のある日本均質牛乳と守山商会のコーヒー牛乳には、壜の意匠までそっくりそのまま模倣したニセモノが、数多く出まわっていたからだ。
 それらニセモノのまがい品の中には、腐敗するまでの時間かせぎにホウ酸が混入されていた可能性が高そうなのだ。守山のコメントは、「ホウ酸は無害なのか?」という記者の一般的な質問に対し、「少量なら無害だろう」と答えたものが、そのまま混入事件にからむ文脈上で報じられているのかもしれない。事実、守山商会も日本均質牛乳も、夏季に製品へホウ酸を添加している製造過程は存在しなかったようで、警視庁衛生部に呼ばれたのは製品管理の徹底化、あるいは安全管理の念押し確認、そして悪質なニセモノ製品を駆逐するための施策の企画・実施要請だったように思われる。
 ホウ酸混入事件の1週間後、守山商会はさっそく製造過程におけるホウ酸添加の否定と、夏季でも腐敗しにくい科学的な製造法を解説した詳細な広告を、同じ東京朝日新聞に出稿している。また、「御注意」としてホウ酸混入事件への関与否定と、自社製品の類似品や模造品に注意するよう消費者へ呼びかけている。1925年(大正14)6月18日(木)に同紙へ掲載された、守山商会の記事広告から引用してみよう。
  
 御注意
 一、最近「硼酸」を混ずる危険飲料との中傷説を宣伝して得々たるものがあります、勿論自己のためにせんとする奸策ではありますが、牛乳に等量の防腐剤を入れても、保存の不可能なることは、御実験なされても直ぐ判ります。
 一、内務省東京衛生試験所の、定量分析表及び何等防腐剤を含まずして、永久的耐久力ある御説明書は、弊社モリヤマタイムス紙上に公表してあります。他品と御比較御愛用願ひたい為特にお求めの際は、ハート印に御注意下さい。
  
東京朝日新聞19250612.jpg
守山商会イメージガール.jpg
守山乳業現行品2.JPG
 同記事には、守山均質牛乳および守山コーヒー牛乳が腐りにくいのは防腐剤をいれているから、あるいは脂肪分を取り除いてしまったからだ……という世間のウワサを取り上げ、科学に無知な「暗中模索」の妄言だと批判している。
 搾りたての新鮮な牛乳を、ビタミン類が破壊されないよう低温度殺菌で消毒し、クーラー装置を通して「獣臭」を除去したあとオゾンを吸収させ、脂質組織を均等に混和するための装置「ホモゲナイザー」にかける。こうして製造するのが守山均質牛乳で、それに「モツカ」などを主成分とする純度の高いコーヒー銘柄のエキスに、しょ糖を添加したものが守山コーヒー牛乳だと解説している。
 また、わたしの世代には奇異に感じるのだが、いわゆる広口の牛乳壜に紙のフタではなく、まるでコーラかビールのように王冠コルクで“菊型長壜”の細口を密閉するという、通常の牛乳ではありえないパッケージ法が用いられていた。このような「理学的操作のみ」により、衛生的で腐敗しにくい壜詰め牛乳ができるのであり、「薬品等の化学的幇助は、絶対に必要を認めません」とまでいいきっている。
 守山商会の対応がすばやかったせいか、ホウ酸混入事件の影響による売り上げの低減はそれほど長くはつづかなかったようで、昭和に入ると駅のミルクスタンドは大流行することになる。その激しいシェア争いの過程で、守山商会は日本均質牛乳を圧倒し、ついに1930年(昭和5)に東京・中野生まれの同社を合併・吸収することに成功している。
 おそらく、ホウ酸混入事件を念頭に置いて書いているのだろう、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(非売品)には、「永い期間にはその盛名を妬んで、壜型レーベル迄模倣したものを造り、宣伝費だけを安くして各駅へ売り歩くものもあつたが、結局旅客の口は賢明であつた。そうした品は日一日と売れ無くなつて、二、三年で雲散霧消する事もあつた」と、自信たっぷりに回顧している。
東京朝日新聞19250618.jpg
守山商会富士ミルクポスター.jpg
守山グリコ牛乳.jpg 守山ビタマウスミルク.jpg
 守山商会はその後、牛乳だけではなく多種多様な乳製品を開発・販売していくのだけれど、平塚には海軍の火薬廠や横須賀海軍工廠分工場、海軍飛行機工場などが集中しており、また日本本土進攻のコロネット作戦の主要上陸地点として想定されたため、1945年(昭和20)7月16日夜の花水川河口への照明弾投下からはじまる平塚大空襲で、守山平塚工場は壊滅した。その様子は、1957年(昭和32)に出版された『守山乳業株式会社四十年史』(非売品)に詳しいのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戦後すぐのころに製造された、王冠コルクをかぶせる“菊型長壜”の細口。
◆写真中上は、富士山や大磯丘陵を背景に馬入川(相模川)河口の守山牧場にいた乳牛ホルスタイン。は、1938年(昭和13)ごろに撮影された平塚海岸からの眺め。右手の高麗山から千畳敷山(湘南平)Click!の向こうには富士山が大きく見え、わたしはこの風景を見ながら子ども時代をすごした。下左は、1938年(昭和13)出版の『守山商会二十年史』。下右は、当時の専務取締役・守山謙。
◆写真中下は、1925年(大正14)6月12日発行の東京朝日新聞より。は、守山商会が昭和初期に採用していた同社製品のイメージガール。は、コンビニで販売されている現行品「アフタヌーンティーチャイ」だが、わたしにはやはり甘すぎる。
◆写真下は、1925年(大正14)6月18日に東京朝日新聞に掲載された守山商会の記事広告。は、昭和初期の「富士ミルク」のポスター。は、均質牛乳にグリコーゲンを加えた「守山グリコ牛乳」()と、輸出用に開発された「ビタマウスミルク」()。

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大賀一郎がつづけたハスの開花音批判。 [気になる下落合]

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 ハスが開花するとき、「ポン」ないしは「ポッ」という音がすると信じていた人たちが数多くいたようだ。下落合の大賀一郎Click!は、植物学者の牧野富太郎Click!らとともに、大マジメでハスの「開花音論争」あるいは「開花音批判」を行なっている。
 いちばん最初に、「ハスの開花は無音である」と主張したのは植物学者の三宅驥一だったが、ほとんど周囲からは信じてはもらえなかった。今日から見ると、呆れてびっくりするような事実だが、戦前まではハスが開花する際には、「ポン」ないしは「ポッ」と音がすると、多くの人々に信じられていたらしい。戦後になり、改めて大賀一郎がハスの無音開花を発表すると、「開花音論争」にまで発展している。
 そもそも、ハスの花が開くとき音がすると記された文献は、大賀一郎によれば室町期以前には資料がなく、もっとも古いもので江戸中期の俳諧書だったらしい。
  暁に 音して匂う はちすかな  潮十子
  管弦にて 開くものかは 蓮の花  河輩
 明治以降では、正岡子規Click!や石川啄木もハスの開花音を詠った作品を残している。
 ハスの開花が無音であることを証明するため、大賀一郎Click!は1935年(昭和10)から上野不忍池で、戦争による中断をはさみながら、毎年欠かさず観蓮会を開催している。早くから開花の無音無声を主張していた三宅驥一も、同会へ参加している。観蓮会は、前夜から不忍池畔の料亭「揚出し」へ参加者が集合し、ハスをテーマとする研究発表や議論が行なわれた。大賀一郎は当初、参加者を50人ほどと見積もっていたが実際には150人が参加したため、料亭側では食事や飲み物の手配がたいへんだったようだ。
 当時の様子を、1999年(平成11)に日本図書センターから刊行された、『大賀一郎―ハスと共に六十年―』(人間の記録第106巻)から引用してみよう。
  
 この夜の会が終わった後、百人ばかりは、夏枯れで客のない上野駅前の名倉屋旅館に招かれ、わずかなチップで徹夜の清談、翌早朝五時を期し不忍池畔を逍遥して弁天島の東岸に佇んだ。そしてまさに開かんとする蓮花の前に聴き耳二百を立てたあとで、報道陣に対してハスの開花の無音無声の衆議を発表したところが、誠に、実に、天下の大問題となり、国の内外が喧々囂々、投書が東西各新聞の社会欄をにぎわした。この後、年と共に騒ぎは漸次に下火となり、世は無音無声に傾くようになったが、このおかげで私の観蓮会は世間にみとめられ、翌年は弁天堂、その翌年は……と爾来今日に至るまで、よく二十七年間連綿として休むことなくつづき、いつしか東京都の年中行事の一に…(以下略)
  
 不忍池の観賞会が有名になるにつれ、会は弁天堂の池に面した大書院で開かれるのが恒例となった。開花期ばかりでなく、春には根分け会、夏には例会や観賞会、秋には敗荷会とハスをテーマにさまざまな会合や研究会が開かれたようだ。
 戦時中は弁天堂が空襲で焼かれ、不忍池が干上がって食糧増産のための水田化されたのにともない、2年ほど中断されたが、大賀は下落合からの疎開先である府中で、小規模ながら観賞会を継続している。戦後は、不忍池のボート乗り場や水上音楽堂、水上動物園などを会場にして観賞会はつづけられた。
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 昨夏、大賀一郎が庭で育てていた古代ハスを観賞しに、府中の郷土の森公園に出かけてきた。府中本町駅からかなり歩くため、公園に着いたのは昼近くになり、古代ハスの花は閉じてしまったかと心配したが、なんとか開花する花々を観賞することができた。
 ハスは、たいがい4日間ほど咲きつづけて花弁を落とすが、未明(午前2~3時ごろ)から花弁が少しずつ動きはじめ、あたりが明るくなってきた午前4~5時ごろにかけて花弁が開きはじめる。そして、午前6~7時にはすでに満開になるが、開花する間、もちろん音はまったくしない。午前中には満開状態がつづき、昼が近づくにつれて花弁が閉じはじめ、正午ごろには完全に閉じてもとの蕾の状態にもどる。
 この開花の手順が、少しずつ時間を前倒しにして4日間つづき、4日めには真夜中に開花して未明にすでに満開となり、昼すぎからは花弁を落として散花する。したがって、ハスの観賞は早朝がもっとも美しいのだが、わたしは朝寝坊なので昼近くの古代ハスしか眺めることができなかった。つづけて、大賀一郎の同書より引用してみよう。
  
 もちろん花によって個性があるが、大体どの品種でも同じようで、音があるとすれば、第一日と第二日の花の開く四時か五時頃であるが、外側から一枚ずつ、一分間に一センチ位の静かな速さで咲く花びらに音などあるはずがない。/ハスの花は、このような音の有る無よりも、花そのものの清楚を賞すべきである。朝霧のしたたるところに、涼しい夏時最大の紅蓮と白蓮の咲ける姿は、何人のこころをも、うばいとらずにはおるまい。実に古来彩連観蓮が文人墨客の間に盛行したことは、和漢の数多の文献に見られる。
  
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 また、大賀一郎はハス(蓮花)の下に太いレンコン(蓮根)があるとする誤謬も批判している。当時の理科の教科書には、レンコンが太ければ太いほど水面には大きなハスの花が咲く……というような記述(図版?)があったようなのだが、ハスの花とレンコンは時期的にもぜんぜん別物で、まったく連動していないと講演やシンポジウムで否定してまわった。
 確かに、レンコンは初冬から春先にかけての蔬菜であって、ハスの花が開く初夏から初秋にかけては流通しない。ハスが開花している間、その地下茎は白くて細いものが横に伸びているだけだ。ややあきらめ気味の口調だが、同書から再び引用しよう。
  
 わが国のほとんど誰もが、冬型の太くて短かいレンコンの節から、夏型の美しいレンゲと大きな葉が出ていると思っているのである。/そこでいっておくが、決して太いレンコンからは、花や葉は出ない。(中略) 芽は左右に地下茎となって横に横に延びて分岐し、そこに生ずる多くの節々から、葉が立ち、六、七月になるとその立葉の後ろに接して花芽が立ち、それから一ヵ月ばかりすると花が咲くのであるから、花や葉の下には細い白い長い地下茎があって、太いレンコンはない。(中略) 私はすでに二十年前に、世の伝説を排してハスに開花音はないといいきったが、今日になってもまだ、広い世界の中で、日本人という国民だけに、ハスの開花音があると信じられている。実におかしな事であるが、悲しくも日本人は、かかる珍妙な特質を持っているのである。
  
 理学博士(自然科学者)がとらえた植生あるいは分析的なハスは、大賀一郎の主張する説明が全的に正しいのだろうが、情緒的かつ文学的な一部の「日本人」には、どうしても夏の早朝に美しく咲くハスの開花音は、ぜひあってほしいところなのだろう。
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 現在では、不忍池の観蓮会のほか、古代ハスの発見元である千葉市の千葉公園や、鎌倉は鶴岡八幡宮の源平池Click!、岡山市の後楽園、そして大賀一郎の疎開先である府中などでも、毎年、ハスが開花する夏になると観蓮会が開かれている。ただし、鎌倉の観蓮会は鶴岡八幡の境内にあった神奈川県立近代美術館で開催されていたが、同館の閉鎖とともに少し前から古代ハスも咲いている、材木座の光明寺Click!へと移動しているようだ。

◆写真上:府中市郷土の森公園の池に咲く、大賀一郎が栽培していた古代ハスの群生。
◆写真中:郷土の森公園の古代ハスと、池の端に設置された大賀一郎像。
◆写真下は、府中市の多摩川沿いに展開する古墳群から発掘された副葬品の鉄刀。下の2振りの鉄刀は芯まで錆が達していないようで、刀の研ぎ師に依頼すれば腐食していない折り返し鍛錬Click!の目白(鋼)地肌が観察できそうだ。は、初頭から春先まで出まわるレンコン。は、鎌倉鶴岡八幡宮の源平池。

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自在に浮遊する松本竣介の視点。 [気になる下落合]

松本竣介1937頃.jpg
 松本竣介Click!の画面を観ていると、その視点が空中を自由自在に浮遊して、風景作品ではあちらこちらへ飛びまわっているのがわかる。盛岡から生まれ故郷の東京へもどったころ、1927~1932年(昭和2~7/15~20歳)ごろまでの作品は、イーゼルをすえた位置からの、あるいはスケッチブックを手にして立っていた(座っていた)位置からの視点で、モチーフの風景が静的に写しとられている。モディリアーニやルオーの影響が濃いといわれる、1935年(昭和10)前後に描かれた風景作品も同様だ。
 ところが、1936年(昭和11)ごろからその画面が、表現方法や色彩とともにガラリと変化を見せる。この年は、2月に松本禎子Click!と結婚して下落合4丁目2091番地(現・中井2丁目)に自宅&アトリエをかまえ、10月からは「綜合工房」Click!と名づけたアトリエから、翌年の12月までつづく月刊誌「雑記帳」Click!を創刊している。この時期の作品は、いわゆる「蒼い」風景が多く描かれた東京の「郊外」シリーズが中心だ。下落合の目白崖線に連なる樹木や草原、地面などを独特なブルーグリーンの色彩で全面的に染め上げ、ほんの数年前の画面とはまったく趣きを異にしている。
 そして、キャンパスに向かう画家の視点は、実際にイーゼルをすえた位置(あるいはスケッチブックを手にした位置)よりは、やや高めに感じる画面が多くなっている。すなわち、視点のみが松本竣介の身体を離れて空中にフワリと浮きあがり、モチーフとなる風景の前を浮遊しながら、斜めフカンから見下ろした視点、ときには完全に鳥瞰視点のような表現が増えていくのだ。「郊外」シリーズや「街(都会)」シリーズなどに見られる、これらの表現法を「シャガールみたいだ」といってしまえばそれまでだけれど、丘が連なり谷間があちこちに口を開ける、緑が濃くて起伏が多い落合地域で暮らしはじめたからこそ、獲得できた視点のようにも思える。
 たとえば、1937年(昭和12)8月に描かれた『郊外』Click!は、上落合側の北向き斜面の坂を上がって、中井駅近くにある妙正寺川沿いの落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の校舎(デフォルメされている)を見下ろしながら描いたと思われる作品だ。校舎の背景には下落合の丘陵と、その緑が濃い南斜面に散在するモダンな家々(実際のリアルな住宅ではない)が描かれている。
 だが、宮本百合子Click!の旧居跡(上落合2丁目740番地)がある上落合の北向き斜面の坂上から、落合第二小学校(現・落五小)を見下ろしたとしても、ここまで高度があるようには見えない。実際の高さよりも、画家の目はさらに上昇しているように感じるのだ。ただし、現在ではこの高さの視点に近い位置(東側)から、現・落合第五小学校を見下ろすことができる。戦後、妙正寺川が流れる谷間に山手通り(環六)の高架が竣工し、その上から眺めた風景が『郊外』の視点と同じぐらいの高さになっている。
 わたしは、起伏に富んだ落合地域ならではの地形や風景の影響から、斜めフカンや鳥瞰に近い松本竣介の眼差しやインスピレーションが生まれ、空中を自在に浮遊する新たな表現法を獲得したのではないかと想像していたが、それは幼少時代からの原風景によって形成されたと分析する面白い資料を見つけた。松本竣介は、幼少時代を岩手県の花巻と盛岡ですごしている。1986年(昭和61)に用美社から出版された、村上善男『盛岡風景誌』から引用してみよう。
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落合第五小学校.JPG
  
 竣介にとってもう一つ大事な風景は、実は「山王山」という存在です。盛岡の東の方向にある小さな丘です。市営球場があります。小杉山ですね。そして、はるかに中津川、雫石川、北上川の合流点が見えます。/山王山のてっぺんにあった「測候所」(現・「盛岡地方気象台」)のすぐ下に竣介は移ります。なぜかというと、それは父親の銀行の社宅でした。竣介のお父さんは、花巻時代リンゴからお酒を造る商売だった。その仕事をやめて、盛岡では銀行をつくることになった。(中略) 竣介は盛岡中学まで歩いて通ったわけです。そこで、山王山のてっぺんから盛岡の町を見たときの<俯瞰の風景>というのが、竣介に決定的な視角上の影響を与えたのではないかと、私は想像するのです。/後年の代表作の「街」をはじめ、大作を一点ずつ、あたってみる。<山王山の俯瞰の景>の応用。もしかしたらそうじゃないかと、仮説を立てて作品に向きあったのです。
  
 当時、松本竣介の通学路には、煉瓦工場や消防署、知事公舎、白百合女学校などモダンで特徴的な建築や塔が建っていたらしく、それらの建物が少年に強い印象を残したのは想像に難くない。1931年(昭和6)に盛岡で制作された『丘の風景』には、頂上に測候所の白い建物が描かれている。もし、松本竣介の内部に丘上から盛岡の街中へと下る、原体験としてのフカン気味な風景が深く刻まれていたとすれば、アトリエを出て下落合の坂道を下るごとに、それを重ねて想い浮かべていたのだろうか。
 でも、下落合の坂から見下ろす眺望は大久保から新宿方面にかけての街並みであり、盛岡のそれとはかなり異なる印象だったろう。さらに、上掲の“村上仮説”を前提とすれば、松本は結婚してアトリエを建てる際、なぜ下落合の丘を選んでいるのか?……というテーマにもつながりそうだ。下落合のアビラ村Click!(芸術村)には、多くの画家たちが暮らしアトリエも多かったからという理由とは別に、丘上から眺める原体験としての<俯瞰の風景>に惹かれたから……とも解釈することができる。
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松本竣介「郊外」193801.jpg
 さて、松本竣介は1938年(昭和13)9月の第25回二科展へ、『街』と『落合風景』の2作を出品している。だが、この『落合風景』がどの画面に相当するのかが、現在では不明となっているそうだ。ブルーグリーンの色彩が特徴的な、現存する「郊外」シリーズのいずれかの1作とみられるが、どの作品かが特定できないらしい。いったいどれが『落合風景』とタイトルされた作品なのか、ブルーグリーンで彩られた「郊外」シリーズを観ていると、場所が特定されていない画面はみんな怪しく見えてくる。
 先述した1937年(昭和12)8月の『郊外』は、同年の第24回二科展へ出品されているので、翌1938年(昭和13)1月の『枯木のある風景』と『郊外』のいずれかが相当するのかもしれない。そのほかにも、下落合の丘や斜面を描いたとみられる画面は、1940年(昭和15)ごろの作品まで目にすることができる。
 松本竣介の風景画は、地形から建物、樹木にいたるまでデフォルメやコラージュが奔放にほどこされているので、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!のように、「この風景はあそこだ」と明確に規定することができない。先述の『郊外』(1937年8月)は、かろうじて落合第二尋常小学校を上落合側の斜面から描いたものだと類推できるが、もうひとつ、1940年(昭和15)制作の『青の風景』も、「あそこかな?」と推定することができるめずらしい作品だ。丘上にコンクリート造りらしいビル状の建物が見えるのは、19歳のときに盛岡で描いた『丘の風景』(1931年ごろ)の盛岡測候所と同様だ。
 9年後の『青の風景』に描かれた建物は、ビルの屋上に突起と煙突らしいフォルムが描かれている。当時、下落合の丘上に建てられたビル状の建物で、この形状に合致するのは青柳ヶ原Click!の斜面に建設された国際聖母病院Click!フィンデル本館Click!だろうか。屋上に突き出ているのは、避雷針がついたチャペルの鐘楼と焼却炉の煙突のように見える。手前に下ってくる坂道は、頼りなげな補助45号線(聖母坂)であり、ほどなく妙正寺川に架かる落合橋をわたることになる。もっとも、実際の地形や道筋、建物の姿はまったくこのようではないし、山王山にあった盛岡測候所のほうが似ているといわれれば「はい、さようですね」なのだが、構成を重ねたイメージとして風景をとらえるとするならば、上落合側から聖母坂を眺めた当時の情景のようにも見えてくる。
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松本竣介「青の風景」1940.jpg
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 だが、『青の風景』の画面もまた、画家の視点は2階家の屋根ほどもありそうだ。画家がスケッチしている位置は、聖母坂下だとすれば妙正寺川と旧・神田上水(現・神田川)が落ち合う低地Click!であり、このような高い位置からの画角は得られなかったはずだ。空中を自在に浮遊し、風景をイメージで写しとる松本竣介の視点は、1942年(昭和17)の『立てる像』Click!のように、ときに地面スレスレにまで降下することさえある。

◆写真上:1937年(昭和12)ごろ、下落合2091番地の自邸前庭で撮られた松本竣介。
◆写真中上は、1937年(昭和12)の第24回二科展へ出品された松本竣介『郊外』。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『郊外』の描画ポイント。は、上落合側の北向き斜面から眺めた現在の落合第五小学校。
◆写真中下は、戦前に撮影された盛岡市の山王山にあった岩手県営盛岡測候所絵はがき。は、1938年(昭和13)1月制作の松本竣介『枯木のある風景』。は、同時期に制作された松本竣介『郊外』。いずれかが『落合風景』とタイトルされ第25回二科展に出品された作品だと思われるが、わたしは後者の『郊外』のような気がする。
◆写真下は、1931年(昭和6)ごろに盛岡市の山王山を描いたとみられる松本竣介『丘の風景』で山頂に見えるのは県営盛岡測候所。は、1940年(昭和15)制作の松本竣介『青の風景』。は、戦後すぐのころの国際聖母病院。

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鶴田吾郎から清水多嘉示へ1922年。 [気になる下落合]

中村彝アトリエ(大雪).JPG
 中村彝Click!の伝記といわれる書籍は、過去に何冊か出版されているが、その中で彝アトリエに集う画家たちが集まり、1922年(大正11)に結成された画会「金塔社」Click!について、詳しく書かれたものはない。どのような経緯や趣旨で金塔社が発足したのか、「中村彝が中心になって」と説明されることが多いが、彝は病床で動けないため名目上の代表であり、実質は鶴田吾郎Click!が会の運営・事務を仕切っていたようだ。
 彝の最晩年の時期でもあり、あまり多くは語られない金塔社について、その経緯を比較的詳しく書いているのは、やはり鈴木良三Click!の資料だろうか。金塔社は、1922年(大正11)6月23日~28日の6日間、第1回展を日本橋白木屋Click!(戦後の東急百貨店)で開催している。この第1回展に、中村彝は体調がすぐれなかったものか作品を出していない。翌1923年(大正12)の同時期に、今度は日本橋三越Click!で第2回展を開いているが、同展に中村彝はモデルの“お島”を描いた8号Sの『女』Click!(1921年)を出品している。
 金塔社について、鈴木良三が概説した文章が残っている。1999年(平成11)出版の、梶山公平・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社)から引用してみよう。
  
 そのうち安藤家に集まる連中が展覧会をやろうということになり、美校系の曽宮、寺内、耳野の他に鈴木保徳、遠山教円、中村研一、洋行帰りの遠山五郎、研究所系の鶴田吾郎、鈴木金平、鈴木信太郎、馬越枡太郎、ぼく等が加わり、中村彝さんを押し立てて金塔社を結成、白木屋で第一回展を開いた。彝さんは第一回展には出品出来なかったが、中村研一さんは百号の婦人像を出品して洋行してしまった。みんな二点ぐらいずつ出品したがぼくは彝さんに薦められて五、六点、三十号、二十五号といった大きさのものを並べて貰った。(中略) 第二回展は次の年に三越で開かれたが、この時彝さんは「エロシェンコ」と同じ大きさの少女像を出品された。/画壇では金塔社への期待感は大きかったようだが、この二回で解散してしまった。ぼくなどにそのいきさつは知らされなかったが、美校系と、研究所系との気持ちの相違から別れ話が出たものかと思う。残念なことだった。
  
 文中の「安藤」家は当時、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の上屋敷(あがりやしき)駅Click!近くに住んでいた安藤復蔵、「曽宮」はもちろん曾宮一念Click!、寺内は寺内万次郎、耳野は少し前まで高田町(大字)雑司ヶ谷(字)上屋敷(現・西池袋)にあった農家の離れを借りて住んでいた耳野卯三郎Click!のことだ。
 耳野が転居したあと、鈴木良三は同じ農家の離れを借り受けて住み、1923年(大正12)8月31日すなわち関東大震災Click!の前日に、下落合800番地Click!へ転居してくることになる。また、第1回展に出品した画家たちの名前に鈴木金平Click!があるが、彼の年譜によれば1923年(大正12)の第2回展に出品している。画壇からは「期待が大きかった」と鈴木良三は書いているが、金塔社の結成趣旨とはどのようなものだったのだろうか?
 清水多嘉示Click!のお嬢様・青山敏子様Click!より、金塔社展に関する非常に貴重な資料をお送りいただいた。金塔社の実質的な代表である鶴田吾郎から清水多嘉示へあてた、金塔社第1回展への出品をうながす1922年(大正11)5月29日の手紙だ。鶴田吾郎の筆跡は読みやすく、小石川にあった礫川堂(れきせんどう)文具店の原稿用紙に書かれている。ちなみに、中村彝の代筆Click!をした読みにくい筆跡とは一致しないようだ。
日本橋白木屋(震災前).jpg
日本橋三越(震災前).jpg
中村彝「女」1921.jpg
  
 清水多嘉示様
 未だお目にかゝりませんが お名前は承って居りました、/昨日中村君から兄が金塔社に御希望ある由且仝人として仲間に入られるに就いて招介をされて参りました、/早速曽宮君にも話しましたところ 無論異議のある筈はありません、尚且他の友人にも話しましたところ多数賛成なつて兄を仝人として加はって戴くに就いて一致した次第です、で 左の様なことをご承知置き願い度いと思います、/一体金塔社なるものは或る運動とか、革命とかいふ抱負のもとに成りたつたものではありません、/又藝術上に於て現画壇に対し偉大な宣言をなして突き進むやうな手段を用ひるものではないのです、/ただ 吾々自分たちの有つてゐるもの、自分等の才能を自由に生かし発表する為に集つたものと言ひ度いのです、/而し何れかと言へば吾々は緊実といふことが基準になり、藝術観の偏盲に陥らず、凡ゆる良き藝術を求め、そして自己を失はずして真面目に自然に対して考へて行き度いと思つてゐます、/お互に友情と厚誼とを以つて 仕事を深め拡げて行き度い希望です、
  
 上記の引用が手紙の前半だが、「中村君」は中村彝、「曽宮君」は曾宮一念のことで、この3者が相談して金塔社のメンバーを誘っていた形跡が見える。先の鈴木良三の文章によれば、「美校系」の幹事が曾宮一念、「研究所系」の幹事が手紙を書いている鶴田吾郎、そして名目としてかつがれている代表が病床の中村彝……という、金塔社の人的な構図がうかがえる文面だ。
 鶴田吾郎によれば、金塔社は芸術の「運動」や「芸術観の偏盲」にとらわれない、自由かつ穏健でゆるやかなつながりであり、思いのままの作品を展覧会へ出品できる画会なので、ぜひ気軽に参加してほしい……という趣旨だったようだ。
上屋敷駅跡.JPG
鶴田吾郎の手紙1.jpg
鶴田吾郎の手紙2.jpg
 だが、このようなサークルや同好会のような仲間意識の“ゆるい”集まりは、メンバー同士のつながりが希薄で絆(人間関係の組織基盤)が形成されにくく、ひとたび中核(中村彝)を失うとほどなく瓦解してしまうのは、多くのメンバーたちにもわかっていたのではないだろうか。鶴田吾郎の手紙を、つづけて引用してみよう。
  
 それから吾々は毎月一回づゝ仝人の一人の宅に集つてお互に話し合ふことになつて来ました、/六月には七日の日に安藤君の家に一仝集つて展覧会の件に就いて具体的に相談することになつてゐます、/展覧会は六月廿三日より五日間、白木屋にて致します、/会場は御承知の狭いところですから一人が一間半位づゝ取れることになつてゐます。/従来展覧会をすることに就いて仝人は毎月一円づゝ会費として出すことになつてゐました、/而し確実に無理してまで出すといふまで義務的でもありません、/第一回の展覧会より是非御出品を願います、そして御上京下さらば尚好都合です、/以上簡単乍ら御報知まで
                   五月廿九日      鶴田吾郎
  
 結局、長野県で美術教師をしていた清水多嘉示は、金塔社第1回展へ作品を送ることはなかった。清水は当時、長野県の諏訪蚕糸学校に勤めていたが、1922年(大正11)は諏訪高等女学校で「中原悌二郎・中村彝作品展」を企画・開催したり、平和記念東京博覧会Click!へ出品する作品を制作したりと、参加している余裕がなかったのだろう。ちなみに同年には、林泉園Click!つづきの谷戸を描いた『下落合風景』Click!も制作している。翌1923年(大正12)6月の金塔社第2回展のとき、清水多嘉示はすでにパリへ留学していた。
 1924年(大正13)には第3回展が開かれるはずだったが、その前に金塔社は空中分解してしまう。原因は、中村彝が病状の悪化で出展作品を制作することができず、金塔社の代表でいることにも嫌気がさしたからだといわれる。また、鶴田吾郎がリーダーシップを発揮できず、結束力を高めメンバーたちの気持ちを牽引していく力がなかったからだともいわれているが、おそらくその両方だったのだろう。
清水多嘉示「風景」(渡仏前).jpg
諏訪高等女学校記念写真192203.jpg
曾宮一念.jpg
 金塔社が結成された1922年(大正11)、曾宮一念は静岡県の富士宮市大宮町へ鈴木良三をともない写生旅行に出かけている。このとき、曾宮は東京から牧野虎雄Click!大久保作次郎Click!熊岡美彦Click!、高間惣七、吉村芳松、油谷達ら6人を呼んで合流している。1924年(大正13)に結成された、帝展若手による槐樹社(かいじゅしゃ)の顔ぶれが多いのも興味深いが、二科会の曾宮を除き、残りのメンバーはすべて文展・帝展の画家たちだ。大宮町での詳細な記録は残されていないが、会派Click!にまったくこだわらず人物そのものとつき合うところ、曾宮一念らしいフレキシビリティが感じられていい。

◆写真上:大雪の中村彝アトリエの採光窓と、大正期のモダンな天井照明(レプリカ)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に金塔社第1回展が開かれた震災前の日本橋白木屋百貨店。は、1923年(大正12)に第2回展が開かれた震災前の日本橋三越百貨店。ともに、大正期の人着絵はがきより。は、お島をモデルに第2回展へ出品された中村彝『女』。
◆写真中下は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)で池袋からひとつめの駅だった上屋敷駅跡の現状。は、1922年(大正11)5月29日に鶴田吾郎から清水多嘉示あてに出された金塔社第1回展への出品を依頼する手紙。
◆写真下は、1923年(大正12)の渡仏前に長野で描かれたとみられる清水多嘉示『風景』。は、1922年(大正11)3月に撮影された諏訪高等女学校の記念写真。後列には清水多嘉示や土屋文明が写り、女学生の中に平林たい子Click!の姿がある。は、下落合623番地のアトリエ前庭で撮影された曾宮一念。(提供:江崎晴城様Click!) 背後に見えているのは、佐伯祐三Click!の制作メモ「浅川ヘイ」Click!で知られる浅川秀次邸の塀。
掲載している清水多嘉示の作品・資料は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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元気なカモの絵が欲しかったのに。 [気になる下落合]

佐伯祐三「鴨」1926頃.jpg
 1973年(昭和48)に、早稲田大学校友会の学報編集委員会から発行された「早稲田学報」に、佐伯祐三Click!に関する面白い文章が掲載されている。『佐伯祐三の手紙と鴨の画』と題する、同大学のOB池田泰治郎のエッセイだ。池田の母親である池田ヨシは、佐伯の妻である米子夫人Click!(池田ヨネ)の姉であり、佐伯米子Click!から見れば池田泰治郎は甥ということになる。
 佐伯米子は、1972年(昭和47)11月に死去しているので、同エッセイはその翌年、間をおかずに書かれたことになる。このとき、下落合のアトリエで佐伯祐三や米子夫人の遺品を整理したのも池田泰治郎であり、少なくとも1957年(昭和32)(『みづゑ』2月号に掲載)までは存在が確認できる、佐伯の「下落合風景」Click!に関する「制作メモ」Click!が失われたとすれば、おそらくこのタイミングだったように思われるのだ。ひょっとすると、遺品整理のために佐伯アトリエの庭で行われた焚き火Click!へ、他の資料ともどもくべられてしまったのかもしれない。
 さて、同エッセイでは遺品整理の際に出てきた、佐伯祐三から米子夫人の姉・池田ヨシへあてた詫び状について書かれている。おそらく、池田家の知人の誰かから頼まれたのだろう、池田ヨシは佐伯に「鴨の絵を描いてほしい」とオーダーしたようだ。その知人は当然、生きて水面を元気に泳いでいる美しい鴨の画面を想定していたのだろう。ところが、佐伯が描いてとどけたのは、正月の雑煮用に狩猟でしとめられたあとの、死んだ鴨の“静物画”だった。w それについて、佐伯があわてて詫びを入れている手紙らしい。
 以下、「早稲田学報」の池田泰治郎『佐伯祐三の手紙と鴨の画』から引用してみよう。
  
 私はこれらの資料に加えて、私がかねて大切に保持していた祐三から私の母に宛てた手紙を、美術評論家であり、祐三の研究で知られる朝日晃氏(昭和二十七年文学部卒)にお見せしたのであった。朝日氏の愕きと悦びは大変なものであった。/なかんずく、母宛ての文中『鴨の画のこと実に失礼な事を致しました』との件りに大変興味を持たれた。このことは、私も、つとに関心を抱いていたことであって、母によれば、母の友人が生きた鴨の画が欲しいと思っていたのに、祐三はたまたま正月の雑煮用にと歳暮に贈られた“死んだ鴨”を描いてしまったのだという。しかしこれは世に知られざる逸話であり、絵の存在すらほとんどの人に知られずにいたのであった。
  
 ここで少し余談だが、おそらく下落合の佐伯家に正月の雑煮用としてとどけられた死んだカモは、東京の(城)下町Click!方面からとどけられている可能性がきわめて高い。ひょっとすると、池田家とも交流のある親しい知人か、姻戚からの歳暮ではなかっただろうか?
 いつかも書いたけれど、江戸時代からの日本橋雑煮Click!には鶏肉ではなく、正式には鴨肉を用いる。わたしの家では、鴨肉の脂の多さが苦手な家族がいるため(ちなみに鴨肉の脂身は、鶏肉よりもコレステロールが少ない)、代わりに鶏肉を使うことが多いが、本来は香ばしく焼いた鴨肉が、雑煮のメインとなる具材だ。ひょっとすると日本橋Click!の隣りにあたる、もともと池田家があった尾張町Click!(銀座)でも、江戸期から同様の習慣がつづいていたのかもしれない。
カモ1.jpg
橋口五葉「鴨」1920.jpg
 1926年(大正15・昭和元)の暮れごろに、おそらく佐伯アトリエで描かれたとみられる『鴨』(8号F)だが、マガモの♂のようで足にタグが付いており、確かに白い器に載せられたそれは元気な様子には見えない。w 包装を解いて画面を目にした池田ヨシは、思わず「あら~ッ」と嘆息しただろうか。「……カモさん、寝てるカモ」、「あのな~、カモさん、死んでまんね。……そやねん」、「……まあ」。
 めずらしく、左下にバーミリオンで記載された佐伯のサインが見られるので、佐伯としてはうまく描けたという自信の一作だったのだろう。この作品は、現在でも個人蔵のままのようだが、1973年(昭和48)の当時も個人蔵で、おそらく池田家を通して絵を送った知人が、そのまま戦災をくぐり抜けて保存してきたのだろう。池田泰治郎は、朝日晃や「芸術新潮」の関係者を連れて、わざわざその知人宅まで『鴨』を観に出かけている。つづけて、同エッセイから引用してみよう。
  
 この四月六日、朝日晃氏と芸術新潮の方たち、そして私の計四人は、その所有者であるS様のマンションを訪れた。/まるで幻の恋人にでも逢うような、ふしぎな心のときめきである。確かに鴨の画であった。描かれて五十年ちかい歳月を経た画面は異様に燻り、小さな穴があき、傷ついていたが朝日氏が布でしずかに表面を拭うと、次第に祐三の息吹きが露れて来た。何ともいうぬ感動がはしり、皆が沈黙する中で、シャッターの音が響いていくのだった。
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佐伯祐三「ぶどう」1926-27.jpg
佐伯公園1970年代前半.jpg
 このほか、米子夫人が死去したあとの佐伯アトリエで行われた遺品整理では、ジャパン・ツーリスト・ビューロー大丸案内書(大阪)の、シベリア鉄道経由でパリまで出かける、1927年(昭和2)7月27日付けの運賃計算書や、パリでいっしょだった前田寛治Click!ら友人たちからの通信などが発見・保存されている。
 めずらしいのは、1923年(大正12)の夏、長野県の渋温泉で静養する佐伯夫妻のもとへとどけられた、関東大震災Click!の発生を知らせる池田象牙店の支店からのハガキだ。同エッセイによれば、ハガキのあて先は「サイキユーゾウ様」と妙なカタカナ表記で書かれていたらしく、鉛筆書きで文字も乱れがちな文面だったらしい。1923年(大正12)9月7日付けの急を知らせるハガキは、池田家の誰かではなく支店員か小僧に書かせたらしく、池田によればたどたどしい文章で「土橋の人命に変り無く御安心下さい。家は全焼しました。帰らずに下さい」というような内容だった。
 佐伯祐三は同ハガキを受けとると、米子夫人を宿に残したまま貨物列車に飛び乗り、単身で東京にもどった。すぐに池袋の山田新一Click!を訪ねると、ふたり連れ立って土橋Click!池田家Click!の様子を見に出かけている。そしてスケッチブックを手にすると、市街の様子を写生してまわったエピソードは、すでに河野通勢Click!震災記録画Click!とともにご紹介している。
カモ2.JPG
カルガモ注意標識.JPG
佐伯祐三制作メモ.jpg
 「早稲田学報」にエッセイを寄せた池田泰治郎だが、昨年9月に逝去したとうかがった。どこか資料類の紙束にまぎれて、あるいはクローゼットの片隅の段ボール箱に、「制作メモ」は残ってはいないだろうか? それが、いまだにとても気がかりなのだ。

◆写真上:1926年(大正15・昭和元)の暮れに描かれたとみられる、佐伯祐三『鴨』。
◆写真中上は、冬になると見られるマガモの番(つがい)。は、1920年(大正9)に制作された橋口五葉『鴨』。佐伯へ「鴨の絵」をオーダーしたクライアントは、このような画面を想定していたのではないだろうか。
◆写真中下は、1926~27年(大正15~昭和2)に描かれた佐伯祐三『人参』。は、おそらく1926年(大正15)の秋に描かれた佐伯祐三『ぶどう』。は、1970年代に撮影されたオープンして間もない母家が残る佐伯公園。(現・佐伯祐三アトリエ記念館)
◆写真下は、晩秋になると近所の池にたくさん飛来するカモ。は、下落合にあるカルガモClick!横断注意の道路標識。は、1957年(昭和32)の写真を最後に行方不明がつづいている佐伯祐三が記録した「制作メモ」。

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