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久しぶりに「Stereo Sound」を眺めると。 [気になる音]

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 きょうは、落合地域やその周辺、さらに江戸東京地方とはまったく関係のない記事だ。音楽やオーディオに興味ない方は、どうぞ読み飛ばしていただきたい。
  
 昨年の暮れ、季刊「Stereo Sound」誌が200号を迎えたというので、久しぶりに買ってはみたけれど、そのまま読まずにCDラックの中へ入れっぱなしにしておいた。ベルリンPhレコーディングスが制作している、付録のSACDにも惹かれたのだが、“おまけ”のディスクだけ聴いて本誌は開かないままだった。だが、ほんとうに久しぶりに同誌を読んでみて、わたしがほとんど“浦島太郎”状況なのに気がついた。
 最後に「Stereo Sound」を手にして読んだのは、もう20年近くも前のことで、それ以来、特にオーディオ装置Click!には不満をおぼえず音楽を聴いてきた。だから、かなり高価な同誌を買って情報を手に入れる必要がなくなり、ごく自然に離れてしまったのだ。わたしはオーディオマニアではないので、先のベルリンPhでいえば、せいぜいC.アバドの時代ぐらいまでで、SACDをみずから制作するS.ラトル時代のベルリンPhは、さほど録音など気にすることもなく、そのまま現装置でふつうに聴いてきた。
 そもそもディスク会社(いわゆるレコード会社)が、確実に売れるCD(レコード)しか制作しなくなり、それも売れなくなって青息吐息なのは知っていた。だが、思いどおりのCDを制作してくれないレコード会社を見かぎり、オーケストラ自身がCDを制作し音楽データサイトを起ち上げて販売する「直販」システムが、ここまで広まりつつあるのは知らなかった。BPhレコーディングスもそうだが、ロンドンOのLSOライブやロイヤル・コンセルトヘボウOのRCOライブなども、みなオーケストラ直営のレーベルだとか。確かに、音楽のカテゴリーを問わず、オーケストラやビッグバンドの演奏を録音することは、莫大な経費の発生とリスクを覚悟しなければならない。
 いまの若い子たちは、そもそもCDさえ買おうとはしない。好きな曲があれば、アルバムではなく1曲ごとにダウンロードし、ローカルのスマートデバイスで気が向いたときに聴くだけだ。街中からレコード店が次々と消滅していったのと、スマートデバイスの普及はみごとにシンクロしている。さすがに、録音時間の長いクラシックはCDが主流だったが、それでも通信速度が1Gbps時代を迎えたあたりからPCや専用コンソールへダウンロードし、オーディオ装置に接続して直接データを再生するファンが増えている。つまり、ディスクというメディア自体が不要な時代を迎えたわけだ。
 音楽業界でも、本の世界とまったく同じ現象が起きていたことがわかる。つまり、あらかじめ売れると営業判断されたレコーディングしか行われず、できれば定評のある過去の「名盤」だけをプレスしていれば、なんとか各ジャンルごとの部門ビジネスをつづけられる……というような事業環境だ。だから、よほど売れそうなミュージシャン(の演奏)でないかぎり、新盤を制作するプロジェクトは「冒険」と考えられ、クラシック(JAZZも同様だろう)などのジャンルだと音楽家の想いどおりのアルバム(CD)など、まず制作することが不可能になった。だから、音楽家やオーケストラ自身が直接CDをプレスするか、音楽データサイトを構築してサウンドデータを直販するのは必然的な流れだったのだろう。1980年代から90年代にかけて、世界じゅうの音楽会社が競い合うようにいい録音を繰り返し、多彩なコンテンツを制作していたころが、まるで夢のような状況になっている。
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 ちょうど、ある分野では重要で十分に意味のある内容なのに、本の量販が見こめないため首をタテにふらない出版社を見かぎり、やむなく著者がネット出版に踏みきるのと同様の流れだ。これは、レコード会社や出版社にしてみれば、一時的に「リスクと赤字を回避した」ように見えるけれど、もう少し長めのスパンで考えた場合のより危機的で深刻なリスク、すなわちメディア(ディスクや本など)自体がそもそも消滅しつつある事態に拍車をかけている……ということになる。徐々に、ときには急激に、マーケットが縮小する「自主制作」へのシフトは、書籍よりも音楽の世界のほうが速いのかもしれない。
 いまの若い子たちは、オーディオ装置さえ持っていない。わたしのいうオーディオ装置とは、スマートデバイスに付随するイヤホンやヘッドホン、小型スピーカーではなく、TVモニターの周囲に展開され通常「AV」と呼称される、映像をともなうサラウンドシステムでもない。できるだけライブハウスやコンサートホールに近い空間のサウンドをめざし、純粋に音楽を再生する機器群、すなわちアナログ/デジタル各ターンテーブルやDAコンバータ、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカー、イコライザー、各種レコーダー……などの装置を組み合わせたものだ。
 いつか、子どもにFOSTEXの自作スピーカーとプリメインアンプ、CDプレーヤーを買ってあげたらほとんど興味を示さず、音楽はおもにヘッドホンで聴いていた。そのうち、お小遣いをためてステレオCDラジオを買っていたが、それもスマホが手に入るとあっさり不要になった。でも、音楽をちゃんと空気を震わせてリアルに聴きたいという欲求はあるらしく、ときおり椎名林檎Click!のCDやDVDを、わたしのオーディオ装置で聴いていた。
 なにが「いい音」なのか、あるいはどのような「音がリアル」なのか、おそらく音楽におけるサウンドの定義からして、わたしとはかなりズレがある世代なのだろう。深夜にヘッドホンで、大きめに鳴らすレスター・ケーニッヒの西海岸Contemporaryサウンドもいいけれど、やはりJAZZClick!やクラシックなどの演奏は実際の音で、空気をビリビリClick!震わせる少しでもリアルな空間で聴きたくなるのだ。
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 「Stereo Sound」200号を眺めていたら、SACDプレーヤーがずいぶん安価になり、手に入りやすくなっているのに気づいた。同時に、さまざまなオーディオ機器が目の玉が飛び出るほどの価格になっていることに唖然としてしまった。20年前と同じレベルの装置が、2倍あるいは3倍もするのに呆れ果ててしまった。ちょっとしたアンプやスピーカーは、100万円以下のものを探すのさえむずかしい。国産の中型スピーカーでさえ、従来は30~50万ほどでそれなりに品位が高く非常に質のいい音を響かせていた製品が、100万円を超えるのだからビックリだ。アンプにいたっては、もはや冗談としか思えないような値段の製品が並んでいる。これもまた、若い子のオーディオ離れとスマートデバイスの普及にシンクロした、先細りをつづけるマーケットにともなう現象なのだろう。
 それなりの品質をしたオーディオ機器は、各メーカーとも小ロット限定生産どころではなくなり、限りなく個別受注生産に近づいてしまったため、この20年間でとんでもない値上がりをしてしまったのだろう。また、大手オーディオメーカーの内部でさえ事業を支えきれなくなり、独立した技術者たちが新たにガレージメーカーを起ち上げ、良心的な製品を提供するとなると、「これぐらいの価格は覚悟してください」ということなのかもしれない。デフレスパイラルがずっとつづいてきた中、これほど高騰をつづけた製品分野もめずらしいのではないだろうか。
 そんな中で、がんばっているメーカーもある。高価なのでなかなか手に入れられず、せめてJAZZ喫茶やライブスポットなどでサウンドを楽しむだけだった、アンプ(とスピーカーXRTシリーズ)のマッキントッシュ(McIntosh)社だ。音楽好き(特にJAZZ好き)が「マッキントッシュ」と聞けば、アップル社のPCClick!ではなく、まずアイズメーターがブルーに光る同社のアンプをイメージするのは、いつかの記事にも書いたとおりだ。たまたま「Stereo Sound」200号には、同社の訪問記や社長・社員へのインタビューが掲載されているが、製品のラインナップと価格は20年前とそれほど大きく変わってはいない。一時期は日本のクラリオンに買収され、どうなってしまうのかと案じていたけれど、なんとか危機を脱して新社屋や開発研究拠点を建設し、米国の精緻な職人技を受け継いで、R&Dも含め経営は安定しているらしい。ちなみに、何十年にもわたって精緻な技術を支えている職人たちに女性が多いのも、同社の大きな特徴だろう。
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 残念な記事も載っている。わたしがサウンドの指針(師匠)として昔から頼りにしていた菅野沖彦が、数年来の病気で同誌の執筆を中止していることだ。このサイトでは、三岸節子Click!の再婚相手である菅野圭介の甥として、三岸アトリエClick!を訪れた菅野沖彦Click!をご紹介している。「Stereo Sound」誌を買うのは、彼が新製品や新たに開発された技術によるサウンドに対し、どのような受けとめ方や感想を述べるのかが知りたかったという側面も大きい。お歳からして無理なのかもしれないが、可能であれば執筆を再開してほしいと切に願うしだいだ。
 こんな記事を書いていたら、無性に音楽が聴きたくなった。夜中なので大きな音は出せないが、いまターンテーブルに載せたのはJAZZでもクラシックでもなく、丸山圭子の『どうぞこのまま』Click!。オーディオ+音楽文化が滅びませんよう、どうぞこのまま……。

◆写真上:「Stereo Sound」の名機たちにはとても及ばない、わが家の迷機の一部。
◆写真中上は、読んでいるだけで楽しかった1980~90年代の「Stereo Sound」表紙。掲載されている製品は、当時からほとんど手が出ないほど高価だった。は、長期間にわたり「Stereo Sound」誌のリファレンスモニターだったJBL4344の“顔”。
◆写真中下は、ニューヨーク州ビンガムトンにあるマッキントッシュ・ラボラトリー本社。は、JAZZ用のアンプリファイアーとして憧れのコントロールアンプC52。
◆写真下は、ベルリンPhレコーディングが制作したS.ラトル指揮のベートーヴェン・チクルス。日本で買うと非常に高価なので、ドイツに直接注文したほうが安く手に入りそうだ。下左は、1967年(昭和42)の創刊号から数えて「Stereo Sound」創刊50周年・200号記念号。下右は、執筆活動を再開してほしい菅野沖彦。

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昔とはちがう現代学生気質(かたぎ)。 [気になる音]

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 久しぶりに、都内にある某大学のキャンパスへ出かける機会ができ、キャンパスじゅうを歩いて学生たちと話をしてきた。学食でランチを食べたり、史的資料がぎっしり詰まった研究室で休息したりと、なんだか学生時代にもどったような懐かしい1日だった。学食のメニューは信じられないほど充実しており、400円も出すとボリュームたっぷりの豪華なメニューが食べられる。有名な洋食屋と大学との協同運営で、ステーキランチ650円にはビックリした。わたしが出た1970年代後半から80年代にかけての大学とは、“食糧事情”が雲泥の差なのだ。わたしの時代には、学生会館にあったほとんど具の入っていない、学食の100円カレー(のち150円に)が人気だった。
 ところで、いまの大学キャンパスを歩いてみて、いちばん印象深く感じたことは、女子学生の数がやたら多いということだ。わたしがうかがったのは各学部が揃っている総合大学のはずなのだが、キャンパスはまるで女子大学へ出かけたようだった。この現象は、別にこの大学に限らず、わたしの母校にも常々感じていることだ。男子学生の数が相対的に減ってしまったものか、キャンパスを往来するのは女子学生ばかりが目につく。(もっとも、そもそも講義へ出てこない男子学生は、割り引いて考えなければならないだろう) 今回は、学生たちへの取材で出かけたのだが、教授たちが紹介してくださった学生10人のうち、なんと9人までが女子学生だった。女子の割合がなんと90%。おかげで、話をするのがちょっとタイヘンだったけれど。w
 わたしは知らない世代に属するのだが、1970年代末からスタートした共通1次試験とか、つづく大学入試センター試験の影響で、着実かつ地道にステップ・バイ・ステップで学習を積み重ねている、まじめで勉強をサボらない子たちが有利になり、わたしのようにいつもは遊んでいるのに、大学入試ではなんとか一発花火を打ち上げて、あわよくば合格ラインにひっかかってやろう……などという、ふとどき千万な生徒が激減したものだろうか。必然的に、ふだんから授業をちゃんと聴いてノートを几帳面にとっている生徒が多い、女子が有利になるのかもしれない。おそらく、いまわたしが受験をしたら、「もうちょっとマジメに高校で勉強して、成績がマシだったらよかったのにねえ」……と、内申書レベルですぐにハネられるような気がする。
 驚くことは、まだある。教授と学生との距離が、わたしたちの時代に比べてかなり近接しているのだ。わたしの時代も、3・4年生になると専門別のゼミでは少人数のため、教授とはかなり親しく接することができたけれど、いまは入学したばかりの1年生(100人単位の大教室時代)から、気に入った講義の教授へ気軽に話しかけて勉強や進路のこと、あるいはさまざまな学内の相談事などを持ちこめるシステムのようだ。教授のほうも面倒がらず、ひとつひとつの相談にのってあげている様子には感心してしまった。わたしの時代なら、「自分で考えてなんとかしろ」と突き放していわれてしまいそうなことにも、きちんと対応しアドバイスしてあげているらしい。少子化のせいで、大学の評判や学生の質をたいせつに考えてのことなのだろうが、とてもうらやましく感じた点だ。
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 履修科目の選択や進路の相談では、大学に専門の相談窓口があるのもうらやましい。また、どの科目を履修すればどのような資格が取得できるのかも、すべて目的別やコース別で細かく相談にのってもらえる。わたしの学生時代は、ぜんぶ自己管理の自己責任でカリキュラムを組み立てて、必要な単位を履修しなければならず、細かなことまで相談できる専門窓口などほとんど存在しなかった。学部ごとに学生課はあったが、おもな業務は必要な書類などをやり取りするカウンター窓口であり、なにか気軽に相談を持ちこめるような部局ではなかった。
 大学の評価や実績に直結するからだろう、就職のサポートもたいへん親切で手厚い。わたしの大学にも就職課は存在したが、利用したことがないので詳細はわからない。でも、傍らで友だちが利用しているのを眺めていると、まるでハローワークか不動産屋のような雰囲気だったのを憶えている。就職課の掲示板に張り出されている、各社の求人・募集の貼り紙をメモして相談カードに書きこみ、「ここの入社試験を受けてみたいんですけどぉ」とカードをカウンターに提出すると、係員が学生の学部や学科を見て「うーーん、キミは資格とかちゃんと取ってるの? なにか履歴書の資格欄に書きこめるものがないと、ここの1次書類審査は狭くてキビシーんだよ~ん」とか、「この会社は地方とか海外勤務が多いから、覚悟して入社しないと転職したOBが多いよ~ん」とか、そんなレベルの応談だった。ところが、今日の大学では就きたい仕事や方向性が漠然とでも見えていれば、1年生から相談にのってくれるそうだ。つまり、いまだ曖昧な将来の“夢”や仕事のイメージレベルから、履修しておいた方がいい科目のアドバイスにさえのってくれる。
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 こうまでいたれりつくせりだと、学生の自主性や主体性が育たないじゃないかなどという懸念Click!がアタマをもたげてくるのだけれど、どうやらそんな心配は杞憂のようだ。もちろん、個々の学生の性格にもよるのだろうが、少なくともわたしが取材した学生たちは、自分でしっかり自律して目的意識をもった学生生活を送らないと、面白くて充実した勉強が思うように進まないし、まずは自身が積極的に動きまわり視野を広げて多角的に学問をとらえ、興味のある研究テーマを早く見つけて主体的に取り組んでいくことがとても重要で大切だと思う……と、わたしの学生時代では信じられないような、強い問題意識や主体性をもった答えが返ってきた。別に、近くに担当教授や大学関係者がいて、彼らの言葉に聞き耳を立てているわけではなく、ラフな雰囲気で雑談風に訊ねたことに対する彼らの回答だ。わたしのように、とりあえずはこの大学に入って、それからなにかを探してみようか……などという、いきあたりばったりな姿勢ではないのだ。
 ことさら、教授たちに紹介いただいた優等生に取材をした……という側面は否定できないけれど、学食やラウンジで他の学生の話に耳を傾けても、おしなべて彼女たち(彼ら)は真摯でマジメな雰囲気であり、くわえタバコで競馬新聞を拡げながら長椅子に寝っ転がっている(爆!)、大学のラウンジだか競馬場だかわからないような風情は、もはやどこにも存在していない。あるいは、キャンパスはきわめて清潔で美しく、もちろん立て看やところ狭しと貼られたサークルのポスター、風に吹かれてキャンパスに舞う夜目にも白いビラなど絶無だ。サークルのポスターや告知ビラなどは、ちゃんと「学生自由掲示板」に行儀よく貼られていた。
 この大学環境を、「きちんと勉強しやすい、理想的な学府の姿だ」ととらえるか、「問題意識のレベルが現象面を脱しておらず、管理され飼いならされた羊ちゃんのようだ」ととらえるかは、各時代の世相を背景に大学生活を送った世代によって、おそらく千差万別だろう。少なくとも、勉強や研究というテーマのみに絞れば、わたしには非常にいい環境のように映るのだけれど、それでは得られない多彩な人間関係や、4年間しか許されない知的経験とそれ以外のさまざまな体験を味わうには、どこか高校生活の延長線上のような気がして、ちょっと物足りなく感じるのも確かなのだ。
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 まかりまちがっても、「我々は~理工学部のスト突入を最後とし~圧っ倒的な力を結集して~諸君とともに~全学バリストを克ちとり~今回の~学費値上げ阻止斗争を契機として~わが学園の自治破壊をもくろむ~大学当局の~分断マヌーバを粉砕し~歴史的な転回点をうつために~最後まで~徹底した要求貫徹と~来たるべき総長団交の~圧っ倒的な勝利をめざして~全学的に~断固起ち上がることを~改めてここに~宣言する!」というようなw、尻あがりの聞きづらい学生アジ演説Click!など、もはや風の音ばかりで、どこからも聞こえてきはしない。静寂なキャンパスの高層化した学舎の窓をたたくのは、遠くで救急車のサイレンが混じる、風の音だけだ。

◆写真:わたしが訪問した大学と、掲載している大学の写真とは関係がありません。


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深夜に聴く小学生のあこがれサウンド。 [気になる音]

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 このところ、お隣りで好物のギョウザや鶏肉をもらって食べているタヌキたちが、ときどき縄張りのネコを牽制して脅かしているのか、なんともいえないすさまじい声をあげて鳴くことがある。暗くなると、3~4匹のタヌキが家のまわりをウロウロして、晩秋の“食いだめ”をしているようだ。
  
 わたしはませた子どもだったので、小学生のころからラジオの深夜放送をよく聴いていた。当時はめずらしかった、秒針がなめらかに動く目ざまし電気時計に付属していた粗末なラジオで、音質はひどく、最悪だった。イヤホンを耳に、それを親に隠れて寝床の中で聴いていたのだ。「パック・イン・ミュージック」(TBSラジオ)とか、「オール・ナイト・ニッポン」(ニッポン放送)をよく聴いただろうか。「セイ・ヤング」(文化放送)は、少し遅れてスタートしたように記憶している。真っ暗な中、布団の中で聴くわけだから、ときに眠ってしまうこともめずらしくなかった。もう少し音質のいい、ナショナルの「ワールドボーイ」を買ってもらったのは、中学に入学してからのことだ。
 時計ラジオが置かれた横には、小学館版『少年少女世界の名作文学』(全50巻)が並んでいたけれど、親が買ってくれたこの全集は半分も読まなかったのではないか。むしろ、親父の書棚からこっそり『戦艦大和ノ最期』Click!とか、『風立ちぬ』、『古寺巡礼』、『硝子戸の中』、『芝居台詞集』、『浮世絵全集』などを抜き出しては、勉強をしているフリをして読んでいた。親に気づかれるとまずいので、たいがい夕食前には元へもどしておいたのだが、翌日になると再び抜き出してはつづきを読んでいた。親にあてがわれた本を、わたしは熱心に読んだ記憶がない。
 中でも、漱石の『硝子戸の中』はどこがどう面白かったものか、小遣いを片手に生まれて初めて書店で買った本は、つい最近まで手もとにあった旺文社文庫版の『吾輩は猫である』だ。わたしはさっそく親父をマネて、この薄緑色でしゃれた装丁の内扉に、蔵書印ならぬ郵便小包の受けとり用“みとめ印”を押している。こういう、どうでもいいこと、あるいはどうしようもないことにこだわるわたしの妙な性癖は、今日にいたるまでそのまま治らずにつづいている。
 さて、その当時聴いていた深夜放送からは、さまざまな歌声が流れてきた。1964年(昭和39)の東京オリンピックが終わって、数年たってからのことで、印象的だったのは浅川マキや長谷川きよし、加藤登紀子、新谷のり子、カルメン・マキなどの歌だろうか。どこか、大人の世界がプンプン匂うような、そんな歌声に強く惹かれたのを憶えている。これらの曲を楽しんだ翌朝、学校の教室で意識朦朧としていたわたしは、教師に指されたのも気づかないことがあった。
 1960年代後半の深夜は、外からいろいろな物音が聞こえてきた。通奏低音のように響く相模湾の潮騒や、ときおりユーホー道路Click!(湘南道路=国道134号線)を走るクルマの音にまじって、フクロウだかミミズクが鳴くのを聞いたのもこのころのことだ。でも、この鳴き声は西湘バイパスが完成してユーホー道路の交通量が急増し、防風・防砂用のクロマツ林にヘリコプターによるDDTの空中散布Click!がはじまったころから、まったく聞こえなくなった。
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小学館版「少年少女世界の名作文学」.jpg 陸軍喇叭.jpg
 遠くで、ラッパが鳴っていたのも憶えている。トランペットのようなキラキラした音ではなく、豆腐屋が吹くラッパのような物寂しく枯れた音色でもない。最初は、誰かが海岸に出て、深夜の浜辺でトランペットの練習をしているのかと思った。でも、たった一度だけ鳴ってすぐに消えてしまうラッパの音は、明らかに練習音ではなかった。この音色がなんだったのか、気がついたのはもう少し成長してからのことだ。「新兵さんはか~わいそ~だね~、また寝て泣くのかね~」と、陸軍の消灯ラッパだったのだ。おそらく、旧・陸軍の元ラッパ手が近くに住んでいて、ときどき深夜に懐かしんで鳴らしていたものか、それとも死んだ戦友たちを悼んで吹いていたのか、いまならすぐにもこのラッパ手を探し出して、お話を聞いてみたいところだ。
 当時は、お祭りへ出かけると、手足を爆弾や砲弾で吹き飛ばされた傷痍軍人たちが、陸軍病院を模した白い寝間着姿でアコーディオンやハーモニカを演奏しながら、通行人たちに土下座をして施しを受けている光景によく出くわした。「御国(みくに)」を守るために身体を張った傷痍軍人が、なぜ平和に暮らし祭りで遊ぶ人たちに土下座をしなければならないのか、小学生だったわたしにも理不尽に感じた姿だ。わたしの義父は、退役軍人なので軍人恩給を毎月もらっていたが、補充兵や動員兵として戦争末期に臨時徴兵された人の中には、きわめて短期間のために恩給対象から外れたり、戦後の混乱から記録が不十分で見つからず、恩給の認定から漏れた方々もいたものだろうか。ただ、これには後日譚があって、「戦争中はどう見たって小中学生じゃねえか、オレより若いだろ」と、親父が疑念をもちながら五体満足な「傷痍軍人」たちを眺めはじめたころ、組織的に集金するこの種の「詐欺団」が摘発されている。
 深夜放送でひときわ耳をそば立てたのは、新宿のライブハウスに忽然と姿を現わした浅川マキだった。この人が、寺山修司とのコラボ時代のことだろうか、ちょっとくずしたアンニュイかつ蓮っ葉な声で「♪夜が明けたら~、いちばん早い汽車に乗るから~・・・」と唄うのを聴いて、小学生のわたしはひとりで歩いたことさえない新宿駅から、いまだ経験のないひとり旅に出るワクワクと楽しい想像をしていた。汽車を乗り継いで出かける先は、毎日眺め暮らしながら育った、穏やかでやや食傷気味の太平洋ではなく、波が荒々しく紺色が濃いといわれるわたしにはあこがれの日本海だった。なぜか旅というと、そのころは日本海側の海岸線が多くイメージされていたように思う。
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 当時の浅川マキに匹敵するインパクトや、オリジナリティ、圧倒的な存在感のある歌手は、いまの音楽界を眺めまわしても椎名林檎Click!ぐらいしか見あたらないな・・・などと、何年か前、高校生だった下のオスガキと話していたら、クラスには林檎ファンがたくさんいるという。いまや、音楽をめざす子や音楽好きな子にとって、椎名林檎はカリスマであり“神様”であり、もはや“伝説”なのだそうだ。うちには、ほとんどのアルバムやDVDがそろっているからと教えたら、さっそく家でDVDコンサートをやることになってしまった。下の子がいそいそと連れてきたのは、なんと全員が女子だったのだ。どうやら、椎名林檎は男子よりも圧倒的に女子のファンが多いらしい。
 アルバムやDVDを片手に、キャーキャー「これ聞きた~い!」などといっている彼女たちは、わたしが浅川マキの曲を聴いては、深夜あれこれ“大人の世界”をわくわく想像していたのと同様に、どんな夢を見ていたのだろう? 「〇〇パパ(〇〇は子供の愛称)、インプロヴィゼーションってなんですかぁ?」、「メロディラインのコード進行ないしはモードにのせて奏でる、アドリビトュムの演奏やヴォーカルのことだよ」・・・などと、女子高生たちにまじってウキウキはしゃぎながら、調子にのって“解説”していたわたしは、すぐに深く、深く反省している。男子ばかりで、やたら男くさい家の中にさんざん飽きていた、小学生のころから“お調子者”のわたしは、久しぶりに大勢の女子の匂いに囲まれて舞いあがってしまったのだ。
 深夜放送では、浅川マキばかりでなく長谷川きよしや加藤登紀子の曲も流れていた。少しあとの時代になるけれど、このふたりが歌った『灰色の瞳』は、いまでも諳んじている。その長谷川きよしと、椎名林檎がデュオで歌う『灰色の瞳』や『りんごのうた』、『化粧直し』、『別れのサンバ』などを聴いて、めずらしく全身がゾワゾワと総毛立ってしまった。歌や曲を聴いただけでそんな気分になるのは、実に何年ぶりのことだろうか。どこかで、40年以上も前の感性や感情が目をさまし、すり減った精神にちょいとイタズラをしたのかもしれない。そういえば、小学生のわたしは寝床の中でわけもわからないまま、ラジオから流れる大人たちの歌に涙を流したこともあったっけ。
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 ラジオではなく、加藤登紀子が長谷川きよしをエスコートしてステージに登場するシーン(長谷川きよしは目が見えない)を、いつかTVで見たことがある。そのときは、なんら違和感をおぼえなかったのだが、ほとんど当時と変わらないサングラスでギターを抱えた長谷川きよしを、椎名林檎がエスコートするのを見て、思わず「あれ?」と思ってしまった。長谷川きよしが、やたら小さいのだ。「なぜ、1969年のボクの曲を林檎さんが知っているのか、非常に不思議ですが・・・」とMCで楽しそうに話す、ギターの腕も歌唱も衰えない長谷川きよしなのだが、“21世紀女子”の椎名林檎と並ぶと、いやでも40年以上の歳月を思い知らされる。
 久しぶりに、ラジオをこっそり寝床へ持ちこみ、イヤホンで深夜放送でも聴きながらゆっくり寝てみようか。でも、深夜の暗闇にいくら耳をすましても、「新兵さんはか~わいそ~だね~、また寝て泣くのかね~」の消灯ラッパは、もはやどこからも聞こえてきはしないだろう。

◆写真上:代官山UNITで開催された、椎名林檎と長谷川きよしのライブコンサート。椎名林檎『第一回林檎班大会の模様』のアルバムジャケットより。
◆写真中上は、2010年に亡くなった浅川マキ。下左は、その大半を読まなかった小学館版『少年少女世界の名作文学』(全50巻)の第1巻。下右は、真夜中に聞こえた旧・陸軍のラッパ。
◆写真中下は、1970年(昭和45)にリリースされたアルバム『浅川マキの世界』。は、1978年(昭和53)にリリースされたLPで加藤登紀子・長谷川きよし『LIVE』。
◆写真下は、2007年にリリースされ長谷川きよしとのデュオを収録した椎名林檎『第一回林檎班大会の模様』。は、ステージで長谷川きよしをエスコートする椎名林檎。


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♪空をこえて~ラララ星のかなた~。 [気になる音]

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 先日、新井薬師の近くを歩いていたら、昭和の初期、東京郊外の人口が急増したときに創立された上高田小学校にぶつかった。野方町で4番目にできた小学校なので、「野方第四尋常小学校」と呼ばれた時代もあったようなのだが、設立された時期は落合第四小学校Click!より7年も早い。上高田小学校の校庭では、子どもたちがサッカー遊びをしていたのだが、そこに小学校があることにまったく気づかなかった。近くに学校があれば、道を歩いていると必ずチャイムの音色が聞こえたはずなのだが、最近は近隣騒音になるということで、かなり音を絞っているようだ。小学校のチャイムは、いつからこんなに小さくなってしまったのだろうか?
 校庭に流す音楽のサウンドが、やたら大きくても困るClick!のだけれど、まったく聞こえないのも寂しい。以前は、落合第四小学校のチャイムがよく聞こえていたはずなのに、最近はほとんど聞こえなくなった。その音が、どれほど下落合の住宅街に響いていたか、1970年代のドラマである『さよなら・今日は』Click!の録音を聴くと、改めて確認することができる。家の中にいても、かなり大きく聞こえたチャイムは時計がわりで、生活のひとつのリズムのようになっていただろう。
 そういえば、落合第四小学校が運動会を開催する数日前になると、子どもたちが演技をする際に校庭で流す音楽を気にしてか、「何卒ご理解をいただければ・・・」というようなチラシがポストに入るようになった。きっと、学校のチャイムの音や放送、音楽などに苦情をいう住民の方がいたのだろう。家の中にいたのでは、いまやチャイムはほとんど聞こえない。
 上高田小学校にバッタリと行きあたったとき、「かみたかだしょうがっこう」と口に出してつぶやいたのだが、そのとたんになにかがひっかかった。なんだか、懐かしい気がして記憶をたどってみたのだが、とんと思いだせなかった。このところ、落合地域の西隣りである上高田地域の資料Click!をいろいろ漁って調べる機会が多いのだが、なにがひっかかったものか、昔の上高田資料を調べていてもまったく思いあたらない。こういう気持ちの悪い感触は、これが初めてではなく何度となくあるのだが、たいがい心当たりの資料を読み直してみると、ひっかかった原因がやがて明らかになる。でも、上高田小学校にはまったく心あたりがなく、漠然としたひっかかりだった。
 上高田小学校ができた当時の様子を、1982年(昭和57)に出版された細井稔・加藤忠雄・中村倭武共著による『ふる里上高田の昔語り』から引用してみよう。
  
 更に続く関東大震災後の人口の急増、住宅の増加で、(野方尋常小学校の)折角の新校舎も収容能力の限界に達した。そこで大正十四年、町会で次のように決議された。/第四小学校は、予算とし七萬四千四百二十八円、用地は東光寺の所有地、上高田の現在地に。(中略) 第四小学校は、当時の上高田三七二番で、敷地、運動場共二三二八坪〇三勺、総建坪五七九坪、この工事金七万五千円弱であった。当時、校庭植樹用に、我々土着の家がら(ママ)、多くの木々が寄贈された。校門の門かぶりの松をはじめ、桜や外の木々も、当家で寄付させてもらったのが、相当大きくなった。(カッコ内は引用者註)
  
上高田小学校(戦後).jpg
 ある日、突然、上高田小学校のなにに引っかかったのかがわかった。わたしは駅を利用するとき、地下鉄へ連絡している高田馬場駅まで歩くことが多いのだが、JR高田馬場駅Click!の発車チャイムは、もちろん『鉄腕アトム』だ。駅が近づくと、チャイムの音が徐々に大きくなる。目白駅の横断歩道を、「♪と~りゃんせと~りゃんせ」と唄いながらわたる某俳優ではないけれど、わたしもつい「♪心やさし~ラララ 科学の子~」と口ずさんでしまう。そして、「あっ!」と気がついた。『鉄腕アトム』の主題歌は、上高田少年合唱団が唄っていたのだ。いや、『鉄腕アトム』ばかりではない、『スーパージェッタ―』も『宇宙少年ソラン』も、戦後のラジオやTVから流れていた子ども向け番組の主題歌は、その多くが上高田少年合唱団だった。
 外出先では、打ち合わせそっちのけで上高田小学校のWebサイトを確認すると、1953年(昭和28)から1958年(昭和33)まで、さまざまな音楽コンクールの受賞歴が掲載されている。これらのコンクールは、すべて「合唱」部門での受賞なのだろう。同校のサイトから引用してみよう。
  
 昭和28年11月03日 全国唱歌ラジオコンクール全国大会優勝
 昭和29年11月03日 全国唱歌ラジオコンクール全国大会優勝
 昭和29年11月15日 第8回全日本学生音楽コンクール全国大会優勝
 昭和33年03月22日 日本放送主催学校音楽コンクール優勝
  
手塚治虫.jpg
ビッグX.jpg わんぱく探偵団.jpg
 上高田小学校を母体にして、上高田少年合唱団は結成されていたのだ。この学校へ1948年(昭和23)に赴任した、奥田政夫という教諭が同校の生徒を集めて合唱部をつくり、1950年(昭和25)の「全日本学生音楽コンクール」でいきなり東日本1位になっている。つづいて、1953年(昭和28)に「NHK全国唱歌ラジオコンクール」で全国1位になった。
 このころから、合唱団に目をつけた放送局が、ドラマの主題歌を上高田少年合唱団へ依頼する機会が増えていったようだ。吉永小百合も出演していた、「♪剣をとったら日本一の~」のラジオドラマ『赤胴鈴之助』をはじめ、「♪ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団~」の『怪人20面相』、『笛吹童子』、『流星王子』、TVドラマ『まぼろし探偵』、『鉄腕アトム(実写版)』・・・などなど、当時の少年向きラジオ・TVドラマの代表作は、ほとんど上高田小学校ないしは上高田少年合唱団の仕事だ。これらの番組は、わたしの一世代前のものだけれど、わたしの世代では先に挙げたアニメのほか、『ビッグX』、『レインボー戦隊ロビン』(後期)、『わんぱく探偵団』、『キャプテンスカーレット』・・・と、当時の人気番組をほとんど片っぱしから総ナメなのだ。
 上高田小学校の合唱団は、その歌声がビジネスとして成立するとともに上高田小学校児童という名前を用いるわけにはいかず、「上高田少年合唱団」として仕事をしていった。数年ののち、奥田教諭が異動で練馬区の小学校へ移ったあとも、合唱団は解散せずに転勤先の小学校生徒たちも含めて、上高田少年合唱団はその後もずっと存続し活躍をつづけていった。
手塚プロダクション.JPG 鉄腕アトム.jpg
 JR高田馬場駅では『鉄腕アトム』の発車チャイムが鳴り響き、早稲田通りのガード下には、手塚プロダクションによる手塚治虫が産んだキャラクターたちの、大きな壁画が描かれている。いまもアトムの銅像がある手塚プロダクションは、早稲田通りに面したビルから少しだけ移転し、戸山ヶ原の西側、第一次世界大戦の塹壕戦を意識したものか、筋状の塹壕Click!がいくつも掘られていた陸軍の演習場跡(1917年現在)で健在だ。当時の上高田小を卒業した生徒たちは、新井薬師駅から西武線に乗り高田馬場駅で降りるとき、いまでもどこか誇らしい気分になるのだろう。

◆写真上:新井薬師駅の近くにある、今年で創立87周年を迎えた中野区立上高田小学校。
◆写真中上:上高田小学校は戦災で全焼したが、戦後に新装なった藤田校長時代の校舎。
◆写真中下は、高田馬場駅のガード下に描かれた手塚治虫のさまざまなアニメキャラクターたち。下左は、懐かしい『ビッグX』(1964年)のクレジットにみる「上高田小学校」。同小学校と並んで、作詞が谷川俊太郎で作曲が富田勲のクレジットがにわかに信じられない。下右は、『わんぱく探偵団』(1968年)のクレジットにみる「上高田少年合唱団」。
◆写真下は、旧・上戸塚の藤川栄子アトリエClick!横井礼似アトリエClick!の裏にある現在の手塚プロダクション。は、以前は早稲田通りの歩道脇にあった鉄腕アトムの像。


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音楽好きな“タッタ叔父ちゃん”の最期。 [気になる音]

ネコと真空管アンプ.jpg
 わたしは音楽が好きなのだが、それを聞くためのオーディオ装置にも興味をもってきた。大きなエンクロージャに、ジーメンスのコアキシャルユニット(同軸2ウェイ)をぶちこんで自作したこともあるのだけれど、30代後半からは、クラシックはタンノイにJAZZはJBLへと収斂してきた。アンプは、上杉研究所のプリとATMのパワーとで、やわらかい管球式のものを愛用してきた。もっとも、アンプもスピーカーも家族に邪魔扱いされて、現在は音の嗜好もかなり変化してきている。サウンドに関する影響は、やはりJAZZとクラシックの双方を聴く『音の素描』の著書でも有名な、オーディオ評論家の菅野沖彦から影響を受けたものだ。もっとも、わたしは音楽のコンテンツが好きなのであって、決して機械好きではないのだが・・・。
 菅野沖彦は、マッキントッシュ(McIntosh)党として有名なのだが、わたしはとびきり高価な同社の製品には手がとどかない。だから、影響を受けたのは機器としてのオーディオではなく、音のとらえ方あるいはサウンドの味わい方・・・とでもいうべきだろうか。ちなみに、オーディオ好きな人が「マッキントッシュ」と聞けば、PCClick!ではなくアンプやスピーカーを一義的にイメージするだろう。わたしもアップル社から同機が発売されたとき、「なんで米国の老舗オーディオブランド?」と不可解に感じたのを憶えている。菅野沖彦は、どちらかといえばレンジの広大な伸びのある明るいサウンド(JBLやMcIntosh)でJAZZやクラシックを聴き、たまにまとまりのある同軸かワンホーンのスピーカーで、ヴォーカルや小編成ないしはソロのクラシックを楽しむのがお好きなようだ。
 そのパイプをくゆらすお馴染みの菅野沖彦が、三岸節子Click!と独立美術協会へともに参加し、戦後に「別居結婚」をしていた洋画家・菅野圭介の甥であることを、三岸好太郎Click!・節子夫妻の孫にあたる山本愛子様からうかがって、わたしはわが耳を疑った。しかも、鷺宮にある三岸アトリエClick!の螺旋階段で、三岸節子と菅野圭介の親族たちとともに、いまだ白髪ではなく若々しい菅野沖彦が写っている写真にも、改めて気がついた。この写真は、これまで何度も繰り返し別々の書籍や資料で見ていたのだが、おもに三岸節子と菅野圭介を注視していたため、まったく気づかなかったのだ。人と人は、いったいどこでどうつながってくるかわからない。
 菅野沖彦は、叔父の菅野圭介から大きな影響を受けたとみられる。音楽の趣味はもちろん、絵画を通じての芸術観や、ブライヤーパイプの趣味までそっくりだ。その様子を、わたしの本棚から1980年代末の愛読書だった、菅野沖彦『音の素描』(音楽之友社)から引用してみよう。
  
 私は小さい時から音楽が大好きだった。また大好きだった人の一人に“タッタ叔父ちゃん”と呼んでいた叔父がいたが、この人は絵画きであった。京都大学の仏文をあと数ヵ月というところで退学して、フランスへ行き、ブラックやフランドランに指導を受けて画家になった。独立美術協会の会員であった。/大変な音楽好きの叔父で、自分が絵を画く時には必ずといってよいほどレコードをかけていたようだ。ゆりかごに入っていた頃の私は、母が姑の仕事を手伝っていたため、いつも、この叔父にミルクと一緒に預けられていたらしく、家で仕事をする叔父が子守役を引き受けてくれたのだという。この叔父がレコードをかけると、きまって私は“タッター、タッター”と音楽に合わせて口ずさみ、ゆりかごをゆらせながら、遊んでいたところから、いつとはなしに“タッタ叔父ちゃん”と呼ぶようになったのである。/どう考えても、私の音楽への興味はこの頃の叔父の影響によるものらしく、音楽の想い出と、この叔父とは私の頭の中で結びついて離れない。「フランダースの古城」、「ノルマンディの秋」、「パイプと大きなコンポチェ」、「蔵王」、「安良里の海」などと題された叔父の作品も、この想い出とは切っても切れない。この叔父には、私の幼年期、少年期、青年期を通じていつも大きな影響を与えられ続けたのである。 (同書「道は遥かなり」より)
  
McIntosh_MC2102.jpg McIntosh_XRT22s.jpg
 菅野沖彦から、サウンドの味わい方について大きな影響を受けていると思われるわたしは、間接的に菅野圭介の趣味の影響を受けていることになるのだけれど、わたしは残念ながらこの画家が好きではない。作品は別にして、三岸節子と戦前の独立美術協会時代、あるいは戦後の「別居結婚」時代に彼女や子どもたちを殴ったり、長女・陽子様がこしらえた料理を気に食わずにちゃぶ台ごとひっくり返したりと、自立できていないメメしい男の代表選手のような行為を繰り返しているからだ。自身ではなにもしないで他者に寄りかかるが、人が作ったものや他者の行為・行動には不満や文句をいい、他人事ないしは傍観者的なヒョ~ロンをたれたりカンシャクを起こしたりするというのは、没主体的でヒキョーかつ情けない男に象徴的な行状だからだ。メシが食いたけりゃ、自分で好きなものを作ればいいだけの話だろう。
 ただし、わたしは菅野圭介の作品はキライではない。愛知の一宮市三岸節子記念美術館Click!の堤直子様より、同美術館で開催された貴重な『菅野圭介展』図録をお送りいただいた。さっそく拝見すると、彼の風景画には強く惹きつけられる。美術界では「マンネリ化した」といわれて冷遇され、画商たちにも見放された後半生の手馴れた表現のものがいいと思う。特に、茨城の鹿島灘の砂丘へ住みついていたとき、あるいは晩年に神奈川の葉山海岸にアトリエを建てて暮らし海を眺めながら描いた作品は、妙な技巧や衒気、“色気”などなくて素直でストレートに美しく、見とれてしまう。菅野沖彦は、好きな叔父のもとへ遊びにいくと、何度か繰り返し聞かされている。
  
 「芸術の勉強はアカデミックなものではない。音楽学校へ行くとか行かないとかいうことと、音楽家になるということは無関係だ。この叔父ちゃんを見ろ、絵の勉強に学校などへ行ったことはない。なる奴はなる。なれる奴はなれる」
 「同じことだ、絵も音楽も。しっかりした技術の裏づけがない芸術は人を感動させることはできないぞ。俺の絵だって、いきなり、あんなデフォルメされたものを描いているのではない。俺にもデッサンを猛勉強した時代もある。似顔だって画けるぞ。学校へ行くよりも一人で勉強することは厳しい。強制されずに自分を自分で訓練することはな。しかし、学校へ行ったって先生まかせで勉強できるものではないぞ。結局は同じことだ。音楽学校卒業、美術学校卒業なんていうのは、あんまの免状じゃないんで、音楽家や画家になることとは無関係のものなんだ」 (同上)
  
菅野圭介.jpg 菅野沖彦1988.jpg
 1968年(昭和43)3月に、菅野圭介は末期の食道癌のため何度めかの入院をする。病床で彼は、好きな音楽を聴きたいといいだした。つきっきりで看病していた、叔母(独立美術協会の洋画家・須藤美玲子で、のちに圭介のあとを追って2ヶ月たらずのうちに自裁)から、「タッタが音楽を聴きたがっているから、なんとか病室でレコードをかけられないだろうか」・・・という相談を受け、菅野沖彦はさっそく手持ちのレコードと小型のプレーヤーをもって、3月2日に駆けつけている。
  
 早速、私は小型の再生装置とタッタの好きなレコード、ショパンのバラードやマズルカ、そしてノクターンの数々、モーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲のいくつか、そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタのアルバムを車に積んでかけつけたのであった。病室でのタッタは、まさに骨と皮という表現しかできないほど小さくなり、痛々しい有様だった。食べものは、すべて喉の途中からつながれた管で外へ出され胃にはなにも入らないという。 (同上)
  
 菅野圭介は、天井に白い紙を貼りつけて、病院のベッドに仰臥しながら空想のイメージで絵を描いていた。病院の天井も白くて四角だったのだが、改めて四角い有限の画面を設定しないと絵がイメージできない画家に、菅野沖彦は少なからずショックを受けている。
 菅野沖彦が持ちこんだレコードの中から、ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』と、ピアノソナタ第32番(作品111 ハ短調)の第2楽章を繰り返し聴いては、白紙のキャンバスにイメージで絵を描きつづけていた。きっと、菅野沖彦のことだから気をきかせて、叔父の時代にはもっともポピュラーだったワルター・ギーゼキング盤(ベートーヴェン)やクララ・ハスキル盤(ショパン)など、叔父の耳馴れたレコードを持参したものだろう。菅野圭介は、菅野沖彦が音楽とともに見舞った2日後の3月4日に、天井のキャンバスへ心で絵を描きつづけながら死去している。まだ53歳だった。
「菅野圭介展」図録2010-2011.jpg 菅野沖彦「音の素描」1988.jpg
 わたしは学生時代、ヘタクソなJAZZピアノをいたずらしていたことがあった。メロディラインまではなんとか弾けるものの、いざインプロヴィゼーションになるととたんに支離滅裂で破たんし、メチャクチャになるという、とんでもない「フリーJAZZピアノ」だったのだが、その練習に使っていたのが菅野沖彦の弟である、JAZZピアニストの菅野邦彦が監修した教本だった。おそらく、菅野邦彦もまた、叔父・菅野圭介から多大な影響を受けていたと思うのだが、それはまた、別の物語。

◆写真上:冬になると、管球式のプリアンプやパワーアンプとネコの相性は抜群にいいようだ。
◆写真中上:マッキントッシュ社の代表的な製品で、パワーアンプのMC2102()とスピーカーシステムXRT22s()。ともに萱野沖彦好みのノビノビとした明るいサウンドで、ことにアンプのインジケータのカラーは「マッキンブルー」と呼ばれオーディオ好きの憧れだった。
◆写真中下は、戦後間もないころの撮影とみられる鷺宮・三岸アトリエの螺旋階段にすわる菅野圭介。は、1988年(昭和53)に自宅オーディオルームで撮影された萱野沖彦。
◆写真下は、2010~2011年(平成22~23)に横須賀美術館や一宮市三岸節子記念美術館などで開催された「菅野圭介展 色彩は夢を見よ」図録。は、1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された菅野沖彦『音の素描』で、発売と同時に手に入れた憶えがある。


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