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非「動」的な本とリンゴ本大作戦。 [気になる本]

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 昨年3月末に買った、当時はクラス最薄・最軽量(2012年7月に発売されたNECのLavieZに、現在はその座を奪われているのだろう)のウルトラブックが、暮れの仕事がいちばん忙しい時期に壊れた。1,000gちょっとのCore i7+4GB+SSD(102GB)を搭載したWindows7マシンで、どこへ出るにも手軽に持ち歩け、処理スピードにもまったく不満はなかったのだが、購入してからわずか8ヶ月でおかしな“ふるまい”を起こす製品は、長いPC生活の中では初めての経験だ。
 やっぱり餅は餅屋で、家電系のメーカーではなく、ちゃんとICT専門のベンダー製品にしておけばよかったかな?・・・という思いが、さっそく頭をよぎった。これまで、自作したPC×3台を除き、会社でも家庭でも導入した製品は、大型コンピュータからネットワーク、携帯端末にいたるまですべての事業分野をカバーしている、技術の蓄積が豊富な専門のICTベンダー製品ばかりだった。ところが、このウルトラブックだけはその軽さや機能性、デザインなどに惹かれて、つい例外的に家電系の製品を選んでしまったのだ。導入後、わずか8ヶ月でおかしくなるとは思いもよらなかった。
 さっそく、サポートセンターに連絡を入れて修理を依頼した。いまだ1年以内の保証期間中なので、当然、どのような不具合でも無償修理だと思っていたのが、そもそもまちがいのもとだった。今回の症状は、PCがECOモードでスリープ状態になった場合、それを元にもどそうとするとログイン画面にもどらず、また強制的に終了(リブート)しようとするとそれもできない・・・という、使う側にとっては手の打ちようがないものだった。PCはそのまま、スリーブ状態が恒常的につづく状態となる。おそらく、電源プログラムのどこかにバグがある・・・と思われるふるまいだ。
 ところが、サポートセンターへ修理を依頼するだけで、ただそれだけで保証期間中に4,200円を請求されるとは思ってもみなかった。しかも、「そのような症状はみられなかった」・・・などというコメントがとどき、ついでに「基板に水をかぶった痕跡があるので、マザーボードを交換したほうがいい」などという“診断”結果がとどいて、じゃあ保証期間中なのだから無償で交換してくれるのかと思ったら、交換には約9万円近くかかるのだそうだ。マザーボード交換は、保証の対象には入っていないという。9万円あれば、DELLあたりで同性能の機種がもう1台買えるじゃんか。(爆!)
 ちなみに、わたしはPCにコーヒーを飲ませたことも、水をかけたことも、風呂に浸かりながら極楽PC操作をしたことも、プールでウルトラブックを背負いながら泳いだことも、ましてや雨の中をPC片手に「雨に歌えば」を踊った憶えもない。仕事のデスク上で、あるいは打ち合わせの会議室のテーブル上で使用してきただけで、まったく腑に落ちないのだ。これはいったい、どういうことだろうか? 別の箇所の重大な不具合を、ひそかにリコールしようとしていると勘ぐられてもしかたないだろう。
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 保証期間中なら、どのような症状でも無償で診てくれる、ごくふつうのICT専門ベンダーの製品を使いなれていたせいか、この家電メーカーの対応にはあっけにとられた・・・というか、つくづく呆れてしまった。いつだったか、このメーカーの製品(なんの家電だったのかは忘れた)について納得ができないので電話を入れた顧客が、いつの間にかクレーマーの常習犯のような扱われ方をされ、そのような印象がマスコミを通じて流布された・・・という出来事があったけれど、これでは別にクレーマー常習犯じゃなくても、文句の電話のひとつやふたつ、かけてやりたくなるのもわかるような気がするのだ。もちろん、保証期間中にもかかわらず部品+作業費+サポート料で約9万円のマザーボード交換などとんでもない、そのまますぐに返送してもらった。
 いまのところ、電源まわりのおかしなふるまいは再発していないけれど、いずれまた近いうちに起きるのかもしれない。次に起きたら、まちがいなく早々に廃棄処分にしてやろう。そして、重要なデータは、すべてクラウド上のストレージへ逃がしておこう。やっぱり、次は国内・海外製の別なく、コンピュータ専門のちゃんとしたシステムベンダー製品にもどることにしよう。
 もうひとつ、昨年のクリスマスに知人から意外なプレゼントをいただいた。MacOS Xを搭載した、なんとMacBook Proだ。最新のマシンを購入したので、従来の製品を惜しげもなくプレゼントしてくれたわけだけれど、2010年に発売された仕様やデザインともに最新の機種に近い製品だ。
 わたしは、Basic→DOS→WindowsないしはLinux(Ubuntu)と使ってきているので、アップル社のMacにはこれまでまったく縁がなかった。アップル社の製品で使っていたのは、学生時代を終えるころからBasicベースのせいぜいAppleⅡcとAppleⅡeぐらいまでで、ちょうど初代Macが発売されるころ、わたしはNECの日本語DOSマシン、8ビット機(PC-8801)あるいは16ビット機(PC-9801)を使用していた。また、1983年(昭和58)には、DOSマシンPC-9800シリーズの上をいくPC-10000(PC-98を凌駕するPC-100と呼ばれていた)が、NECの98開発部隊とはまったく異なる事業部の研究開発で発売され、さっそくそれも会社で購入して使っていた。
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 1983年(昭和58)の早々に発表され、発売されたPC-100(正式型番はPC-10000)は、いまや伝説化しているけれど、ほとんどすべての操作がマウスだけで完結できる16ビットPCであり、のちに発売されるMacやWindowsのコンセプトを先取りした、世界初の革命的なマシンだったと思う。当時としては超高解像度だった720×512picのディスプレイを、タテにしてもヨコにしても使える仕様で、日本語ワープロを利用するときはタテで、表計算ではヨコというように、MacやWindowsが登場する前夜の、次の時代を見すえた最先端マシンだった。JS-WordやMultiplanなどを標準で搭載し、バンドルされたアプリケーションでほぼふつうの仕事が完結できる性能を備えていた。わたしは、その圧倒的な高解像度からPC-100にグラフィックソフトを入れて使っていた憶えがあるが、仕事をせずに標準添付のロードランナーもずいぶん楽しんだ。
 そんなDOS→(PC-100)→WindowsないしはLinuxのわたしに、Macをポンと気前よく贈呈していただけたのは、「Macのほうがすっごくいいよ~」なのか「Mac党になれば楽しいよ」なのか、はたまた「たまには気分を変えてイタズラしてみたら~」なのか、「MacじゃなきゃPCじゃねえ! 人間じゃねえ!」なのかは不明なのだけれどw、マシンを前に「ウ~~ン」・・・と腕組みをしてまった。操作がまったくわからないので、面くらったのだ。コンピュータは、もちろんDOS/WindowsやUNIX/Linuxを問わず汎用機のはずなのだが、こんな言い方ができるとすれば、Macは「パソコン専用機」なのだ。これまでの感覚やカンが、多くの操作で通用しない。クリックボタンがひとつしかないのも、なれてしまえばなんでもないことなのだろうけれど、メニュー表示にいちいち困惑する。
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 ドキュメント作成系のアプリケーションが入っていないので、クラウドのSaaSでこっそりOfficeを動かそうとしたら、さっそく冷えびえとした画面硬直とともに、「おとつい来やがれてんだ」とはじき出されてしまった。おそらく、クラウド側から「あんた、あたしたちの仲間じゃないよね? なりすましてるよね!」と叱られたのだろう。.NET(ドットネット) FrameworkがMac内に存在しないせいなのだが、さて、Javaあたりで動作するOffice互換のドキュメント作成SaaSあたりが、どこかでサポートされていないだろうか? いまのところ、こたつに入ってみかんを食べながらWeb活用しかできていないのだけれど、それだけではせっかくの高性能マシンがあまりにももったいないのだ。それにしても、Mac OSベースのブラウザSafariを通じて開くさまざまなWebサイトは、Mac搭載のわたしに馴染みのない日本語フォント依存も手伝って、これほど印象やレイアウトがちがって見えるのかぁ・・・と、改めてしみじみ実感している。もうひとつ、いただいといてなんですが、日本語IME(古い表現なら日本語FEP)「ことえり」の使いにくさは、なんとかならないものだろうか?

◆写真上:買って間もないウルトラブック()と、いただいたばかりのMacBook Pro()。
◆写真中上:保障期間中に修理センターへ送っただけで、4,200円を請求されたウルトラブック。保証対象外のメンテナンス作業や部品交換は保証書にちゃんと書いてあると、「読まないほうが悪い」と言わんばかりの対応だった。まるで、契約書をかざして損害を小さく小さく見積もる損害保険屋さんみたいで、技術に誇りと責任を持つITベンダーの姿はなかった。
◆写真中下は、Basicの勉強に使っていたAppleⅡc()と、PC操作にイノベーションを起こしたNECのDOSマシンPC-100()。は、いままで縁がなかったモノめずらしいMacBook Pro。
◆写真下:Web閲覧しか使ってもらえないので、ちょっと怒りっぽくなっているMacBook Pro君。


五月のそよ風はゼリーにできない。 [気になる本]

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 学生時代の友人が今年(2012年3月1日)、日本文学館から本を出した。題して『鬱病は治らない~一鬱病患者の一生態~』。タイトルからすると、最近はやりの鬱病本のようだが、内容はまったく異なる。かといって小説でもない。すべてが実話であり、登場する人物たちもすべて実名だ。後半に鬱病の治療現場がいろいろ登場するけれど、精神医療の最前線を描いたルポルタージュでもない。あえていえば、「自伝」ないしは「半生記」というところだろうか。
 「自伝」と名のつく本で、過去に面白いと感じたのは『マルコムX自伝』(1965年)と『マイルス・デイビス自伝』(1991年)ぐらいのもので、「自伝」=つまらないという先入観があるのだが、本書は誤解を怖れずにいうなら“面白かった”部類に属する。きわめて個人的な体験を綴っているにもかかわらず、「鬱病<が>治らない」ではなく「鬱病<は>治らない」と普遍化したのは、出版社の意向だろうか? 助詞の<が>を<は>にしたのは、「<が>では絶対に売れないぜ」という編集者の読みがあったのかもしれない。タイトルの助詞ひとつで、売れいきが大きくちがう出版界だ。
 著者の大草眞理子(旧姓・喜田眞理子)とわたしが知り合ったのは、大学2年のころだろうか。記憶力の悪いわたしは、彼女との邂逅をハッキリ憶えてはいないのだが、非常にアタマのよい女性だということは、話していてすぐに気がついた。わたしがアタマがいいと感じるのは、別に学歴でも学校のお勉強ができることでもない。人の考えや心の中身を先読みし、他者への気配りや数歩先までの会話がスピーディかつフレキシブルにできる人間のことだ。だから、アタマのいい人というのは聞き上手であると同時に、解釈や表現がたいへん的確で上手でもある。
 本書に登場する、某大学病院の精神科医やインターンたち、患者が教科書どおりの治療成果をあげないと、あるいはお勉強したテーゼどおりの反応を見せないと、ヒステリックに怒鳴りちらしたり、患者を強引に「治療済み」として早く通院をやめさせたがるエリート医師たちは、おこがましく患者を治療する以前に人としての基本的な学習と、教条的でなく回転の速い柔軟なアタマのよさとが絶望的に不足していると感じる。患者である彼女が、逆に医師たちの弱点の“治療”に手を貸してあげていたのでは?・・・と思われるシチュエーションが登場するので、何度か噴き出してしまった。
 大草眞理子はアタマのいい人だが、多面性をもつべき性格にはずいぶん偏りがあると思う。くだいていうなら、ものごとを悪いほうへ悪いほうへと解釈しがちなマイナス志向なのだ。わたしは友人とはいえ学部が異なるので、たまに文学部キャンパスなどで会うだけにすぎなかったのだけれど、その後の手紙やメールのやり取りは30年後の今日にまでおよんでいる。大学以前の彼女の生活を知ったのは、本書を読んでからなのだが、ものごとを多角的にとらえられる「複眼」をもちながら、こと自分自身の課題になると「単眼」的な“視野狭窄症”となり、没主体的で受動的な姿勢になるのは、幼いころから家庭環境で育まれ形成された性格からだろうか? 彼女の父親は、謹厳実直な裁判官だ。
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 本書には、わたしの知り合いも何人か登場してくるのだが、そのうちのひとり森真理子が「誰だって不安や憂鬱になるよ。そんなの当たり前の感情じゃない」といい放つ線の太さが、同じ名前をもつ大草眞理子にはない。他者に対しては、いろいろな角度から先読みができ、すばやい分析ができるはずの彼女は、自身のことになると「誰だって・・・」という鳥瞰視点や一般化をする想像力が萎えてしまうようだ。換言すれば、そのような性格をもつ人間性に多々みられるように、他者の欠点や「イヤな面」はよく透過できるクールな眼差しをもっていると感じる。
 彼女は文学畑なので、本書には作家の好きキライも数多く登場している。少し紹介してみよう。
  
 司馬遼太郎さんの書くものも、実をいうと好きではない。女を性の対象としか描いていないからである。/ついでにいうと芥川龍之介も嫌いだ。彼のものを読んでいて、娼婦と寝ながら「生きることは苦しいね」と言いあったという件(くだり)があって大嫌いになった。娼婦は貞操を金で売って生きている。そんな、人間としての尊厳を踏みにじられて生きなくてはならぬものの苦しみと、芥川の形而上学的な苦しみとはまるで質が違う。(中略)/さらにいうと、柴田翔も嫌いだ。いつも女にばかり決断させたり行動させて、自分は後で「想い」を抱くだけで卑怯な男だ。それでも男か。/太宰治も嫌いだ。「生まれてきて済みません」と言いながら、あちこちで私生児を拵(こしら)える。済まぬと思うなら、そんな、生まれてきても済まないような人間の子孫をたくさん生まれさすな。(中略) それに女と心中なんて、なんて情けない死に方をするのだ。死ぬなら一人で死ね。/三島由紀夫も嫌いだ。・・・(後略)/一九七六年に『限りなく透明に近いブルー』で村上龍が二十四歳の若さで芥川賞を受賞し、文学に重きを置く連中が羨ましがっていたが、私にはこの人の本は理解不能の世界。/翌年には三田誠広が『僕って何』で芥川賞を受賞。これはあまりにも内容がなく「これって何」って感じ。・・・
  
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 わたしも司馬遼太郎Click!がキライだが、それは本書で彼女が別のところに書いている、「絶対自己肯定型の人は自信満々で迷いがないから出世する」、つまり多くの人間を踏み台にし、ためらいもなく犠牲にするような人物を“英雄”に仕立てあげて顕彰するような戦前の古びた史観臭さ、現実の人文科学ないしは社会科学における歴史学とは無縁な「講談」の臭気を、司馬作品のどこかに強く感じるからだ。「ボク」ちゃんこと三田誠広Click!についてもまったく同感なのだが、本書を読んでいたら彼女が批判する、そして、わたしもあまり得意ではない太宰治Click!の小説の風味を、期せずしてうっすらと想い浮かべてしまった。こんなことを書くと、この記事を読んでいるのだろう本人から、猛烈な反発をくらうのかもしれないのだが・・・。
 「恥多き人生」を歩いた太宰治と大草眞理子は、まったく異なる性格であり性質だとは思うのだが(そもそも性さえ異なるのだが)、自意識が過剰でプライドがケタちがいに高い点で、両者の「私小説」と「自伝」という装いの相違はあるものの、どこかで通底する内向きの共通項を感じてしまうのだ。どこか、同じ肌ざわりとユーモア感覚さえおぼえてしまうのだ。
 最後の章で、現在の連れ合いさんや姑、あるいは義姉義妹を痛罵しているけれど、離婚騒動にならないのであれば、連れ合いさんは本質的に彼女の“味方”だ。もっとも、世間体を気にして懐が深いように見せかけ、陰でメメしく文句やグチや悪口を吐くような人物であるのなら、とっとと彼女のほうから願いさげにするはずなのだが、自身のことについては文学評のように清々しく、キッパリと見とおせないところが、大草眞理子たるゆえんなのかもしれない。
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 わたしが、ガールフレンドを連れて彼女の下宿を訪ね、料理がとびきりうまい大草眞理子のランチだかディナーだかを食べながら、横にいるガールフレンドの「焼きそば」を褒めたかどうかまではよく憶えていないけれどw、続編(が出るとすれば)では実名で登場しないことを祈るばかりだ。わたしの学生時代の失敗を、いろいろと暴かれるのではないかとヒヤヒヤしている。でも、すでに30年もの歳月が流れ、本書にも登場している立原道造ではないけれど、新緑の香がまじる遠い「五月のそよ風をゼリーにして持って」くるのは、すでに手おくれで興ざめすること請けあい・・・だからなんだけどね。

◆写真上:2012年3月に日本文学館から出版された、文庫版の大草眞理子『鬱病は治らない』。
◆写真中上:ときどき、大草邸の庭先でなる柑橘系のフルーツを送っていただいているが、これはみずみずしくて見事なハッサク。(ごちそうさまでした、とても美味しかった)
◆写真中下:某大学の文学部キャンパスとその周辺の現状。現在はキャンパス全体がリニューアル工事に入っており、大草眞理子が歩いた当時の面影は希薄だ。立原道造の「五月のそよ風」ではなく、「六月の空は誇りに満ちみちていた」・・・と詠んだ詩人もいたけれど、誰だか忘れた。


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欧米の発明家を称揚する『日本鉄道物語』。 [気になる本]

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 1943年(昭和18)に同盟出版社から出版された、井原豊明・著の『日本鉄道物語』という単行本がある。日本における鉄道敷設の経緯や、陸軍鉄道連隊Click!の資料類として目を通した1冊だ。日本に鉄道が導入されてから、1943年現在にいたるまで、鉄道システムの概要を記録した良書だと思う。蒸気機関の発明にはじまり、当時計画中だった東海道線と並行して走る予定の、「夢の超特急列車」の計画までが紹介されている。
 本書は、中学生以上から大人までが楽しめる内容となっており、客車や貨物車の車両記号や重量記号の詳細から、ダイヤや運行管理の実際、機関車や車両内外の機構、信号機や踏み切り、転轍器などのしくみ、鉄橋やトンネルなどあらゆる鉄道設備に関する解説にいたるまで、鉄道ファンにはおそらくたまらない内容だろう。まるで、鉄道員養成のための初級テキストのような趣きだ。図面や図版類も豊富に掲載され、本書を読むことで単に鉄道を抽象的に理解するのではなく、その機構やシステムまでが具体的に理解できる入門書となっている。
 ところが、この本を読んでいて奇異に感じたことがある。そのひとつめは、鉄道の設計や開発、運用管理で当時世界をリードしていたイギリスや米国、フランスなどの発明家や技術者たちの才能や努力を、ためらわずに称揚している点だ。もちろん、1943年(昭和18)といえば、日本は「鬼畜米英」「撃チテシ止マム」の太平洋戦争の真っ最中であり、英米仏は敵国にあたる。ましてや、敵国の発明家や技術者が開発あるいは改良した鉄道技術を、否定的にとらえるのではなく彼らの名前を出して称揚する内容は、どう考えても「時局に合わない」のだ。
 たとえば、米国の技術者ジャニーが発明した自動連結器については、次のように解説している。
  
 この自動連結器は、西暦一八七〇年に米国人ジャニーが初めて作つたもので、それをだんだん改良して、今日のような立派なものにしたのです。我国では、最初米国製のシャロン式、アライアンス式、日本製の坂田式を採用しましたが、今日ではその後に出来ました柴田式が一番多く使はれてゐます。
  
 本書では、いくら鉄道がイギリス生まれとはいえ、ドイツの技術はほんのわずか(1~2箇所)しか紹介されておらず、ほとんどが英米の技術にシフトした内容で書かれているのも、「時局」を考慮すればとても不思議な感触だ。『日本鉄道物語』が出版されたのは1943年(昭和18)11月、つまり、年明け早々にはガダルカナル島から撤退し、やがてアッツ島の守備隊は全滅してキスカ島からは撤退、本書が店頭に並ぶころにはタラワ島の守備隊が全滅と、戦況は不利になる一方だった。そのような時期に、本書は当局による検閲をパスして出版されていることになる。
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 本書の検閲は、1943年(昭和18)の前半に行われているものと思われ、いまだ前年の「連戦連勝」気分がどこかに残っていたころではないかと思われる。出版における検閲や規制も、切羽詰まった戦争末期に比べれば相対的に緩やかだったのではないか。
 あるいは、当局による検閲の“網の目”が戦争末期ほど厳密ではなく、そんな“網の目”をくぐり抜けて出版されてしまったのが本書なのだろうか。わたしのみならず、欧米人の社会や文化、生活、習慣までをも全的に否定するのがあたりまえだった当時、本書をリアルタイムで手にした読者たちも、「おや?」と首をかしげたのではないだろうか。
 もちろん、「大東亜戦争」遂行に関して肯定的に触れた箇所もあるのだが、本書のボリュームからすればきわめて少ない。しかも、とってつけたオマケ的な表現となっている。わたしが通読した限り、「大東亜戦争」に関する勇ましい記述は「はしがき」と「あとがき」を除くと、わずか数箇所しか見あたらない。たとえば、1942年(昭和17)の関門トンネル開通にからみ、東京駅から長崎駅あるいは鹿児島駅まで特急列車が走るようになった経緯を、次のようなニュアンスで記述している。
  
 遠い昔の人でなくとも、誰がこの海底をくゞる旅行ができると考へたことでせう。しかも大東亜戦争といふ今まで考へも及ばなかつたやうな大戦争中に、赫々たる戦果をあげながら、又このやうな大工事をなしとげました日本人の偉さに、今更ながら驚くではありませんか。
  
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 この謙虚さをなくした自惚れが高じて、のちに壊滅的で「亡国」寸前のひどい目に遭うのだが、うがった見方をすれば、本書は1941年(昭和16)12月8日以前から企画されているのであり、脱稿したときには、すでに英米を相手に無謀な戦争をはじめてしまっていた・・・ということなのかもしれない。でも、鉄道の発明やさまざまな優れた改良技術に関しては、英米仏の記述を削除してしまうわけにはいかない。そこで、「はしがき」と「あとがき」へ時局に合うような文言を並べ、本文中には「大東亜戦争」遂行のお題目と国威発揚の文章をほんの少し付け加え、当局の検閲官を説き伏せて出版してしまったのではないだろうか。
 もうひとつ、本書を読んでいて奇異に感じたのは、鉄道のさまざまな設備や、それが動作するしくみと意味、旅客列車や貨物列車に連結された車両の識別のしかた、列車運行システムに関する実際、すでに自動化が行われていた各種装置の内容など、こと細かに記述されている点だ。本書を参考に、線路へ設置された自動信号装置や転轍装置を破壊すれば、部隊移動や物流の動脈を少なからず混乱させることができる。つまり、「スパイ」にとってはまことに好都合な資料として、また破壊工作用の参考書として、役立ちそうな情報を満載しているということだ。
 本書の「あとがき」には、文字どおり取って付けたような以下の文章が記載されている。
  
 鉄道は、今や決戦下日本の大動脈として、戦争に必要な物資や人の輸送に、すばらしい大活躍をしてゐるのです。この戦時輸送の大任を果すためには、何十万といふ鉄道従業員が、夜も昼も休みなく、あらん限りの力を出して働きつゞけてゐるのです。
  
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 換言すれば、「これらの情報がスパイに悪用される怖れがある」というような検閲官による判断、あるいは出版社による自主規制がいまだ強烈に働かない時期に、本書は企画され、書かれ、出版されてしまったのかもしれない。おそらく、日米開戦前後から執筆がスタートし、「連戦連勝」の浮かれ気分が冷めやらないうちに検閲をパスし、1943年(昭和18)に店頭へ並んだのではないだろうか。

◆写真上:1943年(昭和18)に同盟出版社から出版された、井原豊明・著の『日本鉄道物語』。
◆写真中上は、当時の最新式蒸気機関車C59。は、東京から下関へ向かう特急「さくら」。
◆写真中下は、操車場内の三位式場内信号機。は、線路に設置された空冷式転轍器。
◆写真下は、車両重量の記号と列車編成時の記号記載による表現例。は、深い渓谷へ線路を通すバランスド拱構橋による鉄橋工事の様子。


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あまりにもリアルな貝原浩『風しもの村』。 [気になる本]

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 この文章を書こうか書くまいか迷ったが、やはり、いまだからこそここへ書きとめておきたい。わたしが、いま置かれている“現在地”を確認する意味でも、記録に残しておきたいのだ。
 1985年(昭和60)の夏から秋にかけ、わたしはシベリア鉄道に乗って途中下車を繰り返しながら、ロシア(ゴルバチョフ政権下の旧・ソ連)にいた。佐伯祐三Click!の中国ハルピン経由とは異なり、ウラジオストックから乗車したかったのだが、当時は立入禁止の軍港都市としていまだ開放されておらず、空路でハバロフスクまで飛んで乗りこんだ。途中まで、抑留者墓地の慰霊を行なうシベリア墓参団といっしょになり、クラスノヤルスクまで同行することになった。
 当時のロシアは、旧・ソ連の共産党政権下といっても開放感がかなり拡がっており、シベリア鉄道では迷彩を施した戦車を50台ほど乗せた長い長い貨物列車が通りかかり、カメラを向けても特に咎められない時代に入っていた。軍人の一団へ向けてシャッターを切れば、笑顔で手をふるような時代に変貌していたのだ。シベリア墓参団に付き添っていたロシア人通訳によれば、「別に、どこをどのように撮られてもかまいません。ご自由に」と、国内鉄道の時刻表(少し前ならマル秘資料)までくれる変貌ぶりで、こちらがかえってとまどうほどだった。
 シベリア鉄道の旅では、もちろん終点モスクワで下車して、現在のベラルーシ共和国の首都ミンスク(当時はソ連西部の大都市)などに寄り道しながら、フィンランド湾に面したペテルブルグ(当時はレニングラード)へモスクワから「レッドアロー」号でたどり着き、やがて東ヨーロッパへと抜けていった。いまもつづいているらしいが、当時もロシアは日本語学習ブームのただ中にあり、街を散歩していると軍人や市民を問わず、あちこちから「すみません、ライターを貸してください」とか、「こんにちは、いま何時ですか?」などと日本語で声をかけられた。わずか6ヶ月ほどののち、その穏やかだった街角や風景を一変させる、ロシアは未曾有の危機にみまわれることになる。
 1986年(昭和61)4月26日、ウクライナ共和国(当時はウクライナ地方)の、チェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた、史上最悪の爆発事故だ。この事故では、硬直化した共産党政権の組織が円滑に機能せず、情報の遅れや隠蔽により厖大な数の被曝者を出してしまった。
 いまだに、同原発の周囲は高濃度の放射線に汚染されたまま、立入禁止区域があちこちに拡がっている。事故から数年後、放射線測定器を片手に現地入りしたジャーナリスト・広河隆一の報告を、確かスタートしたばかりのTBS「筑紫哲也のニュース23」で見た記憶がある。原発からかなり離れているにもかかわらず、カウンターが強い警告音を立てて反応する中、取材をつづける姿が衝撃的だった。そして、さらに驚いたのは立入禁止区域の村へともどり、農牧業を再開しながら「ふつう」の生活をしている村人たちの姿だった。彼らは故郷の家と、親しい知人たちと、自分たちの土がなければ、生きてはいけなかったのだ。広河隆一はいま、放射線カウンターを手にして福島にいる。
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 昨年、貝原浩Click!下落合風景Click!を探していたとき、展覧会などをまわっている際、知人から1冊の画集をいただいた。2010年に出版された貝原浩画文集『風しもの村―チェルノブイリ・スケッチ―』(パロル舎)だ。貝原浩は、事故から7年後にベラルーシを訪れている。子どもたちへの医療支援などをつづける、日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)のメンバーとともに現地を二度にわたって訪れ、帰国後、わずか2ヶ月ほどの間にチェルノブイリ・スケッチを仕上げている。大判和紙10枚に描かれた作品は、貝原浩の生前、本格的な大判画集になることはなかった。
 チェルノブイリ原発事故の際、風下になってしまったベラルーシでは事故後、医師たちが避難してしまって足りなくなり、また医薬品の不足が深刻化していった。1991年より、日本からの本格的な支援活動が、医師を中心とした市民レベルのJCFによって行なわれている。そのせいだろうか、ベラルーシ共和国はとうにロシアから独立しているが、今回の東日本大震災ではロシアの反応は早く、同国としては最大クラスの救援隊を組織して派遣している。同画集の巻末に昨年寄稿された、JCFの神谷さだ子事務局長による、「チェルノブイリは語り続ける」から引用してみよう。
  
 湖と森が散在するこの地区は、かつては、サナトリウムがあり、保養地だったと言う。しかし、ほかの地域の放射能マークが、いつの間にか無くなっていく中で、この地には、いたるところに危険を報せる看板がある。汚染の無いほかの地域に移住していった医者達も多い。子ども達の甲状腺がんは、一九九五年以降、欧米レベルに戻ったが、四六歳以上の大人の甲状腺がんは右肩上がりで、増え続けている。子どもの時に、甲状腺を摘出した青年達が、ホルモン剤を飲み続けることで、問題が出ないだろうか、と懸念される。女性達は、汚染地に暮らし続けていることで、出産に不安を抱えている。/事故後の緊急支援の時は過ぎたが、放射能の半永久的被害についての解明が、長崎大学・京都大学で続けられている。現地の人々は、私達を“広島・長崎を経験した日本人”として、信頼と共感を寄せてくれる。汚染の大地に住み続ける人々と共に歩むことが、今という時代を共有していることなのかもしれない。/私達は、四半世紀前の事故から、今の暮らしの有り様について、問い返し学ぶことができる。
  
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 「今の暮らしの有り様」をもう一度問い返せないうちに、今回の東日本大震災に起因する取り返しのつかない、「想定外」の大事故は起きてしまった。TVでは盛んに、「チェルノブイリ原発の事故とはちがう」ことが強調されていたけれど、原子炉の構造やしくみ、事故の要因や形態こそまったく異なってはいても、大気中へ決して漏れてはならない大量のセシウムやヨウ素などの放射性同位元素がバラまかれるという、いまこの国で現象化している状況は、まったく同じなのだ。3号炉の建屋が水素爆発を起こしてふっ飛んだ時点で、原子力資料室で会見した元・原発設計者の後藤政志工学博士が言及していたように、「レベル5」などではなく「レベル6.5」の深刻さであり、チェルノブイリ事故の「レベル7」に限りなく近いという規定は正しかったように思う。
 祖父の世代が経験した関東大震災や、1995年に起きた先の阪神・淡路大震災がそうであるように、猛烈な自然災害は時代の経過とともに「過去」の悲惨で哀しい、そして口惜しい記憶として心の中に織りこまれ語り継がれていくが、原発の放射能事故は、どこまでいっても「現在進行形」のままになるのが、なんとしてもやり切れない。それは、「広島」や「長崎」を経験しているわたしたちが、世界の国々のどこよりも、いちばん熟知していたことではなかったか。
 1990年代の半ば、わたしの文章をロシア語に訳してくれた翻訳家が来日した。すでにソ連は存在せず、多様な国々が誕生していた時代だ。阪神・淡路大震災の話題からチェルノブイリ原発事故のことへ話が及ぶと、当時、彼女は事故現場から800km以上離れたモスクワ大学にいたのだそうだ。それでも、「日本語ができますでしょ、だから日本へ一時避難しようかと真剣に考えてましたのよ」と、目白の喫茶店でコーヒーを飲みながら、ちょっと古風な山手言葉で語っていたのを思い出す。
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 モスクワの南に滞在しているとき、毎朝、郊外で採れたての野菜や果物を売りにくるお婆さんがいた。料理するまでもなく、細くてかわいいニンジンは生でかじっても驚くほど柔らかで甘く、三角に折った新聞紙に詰めてくれるベリー(コケモモ=ハックルベリーだろうか?)は、日本に持ち帰ってパイにしたいほどの美味しさだった。それから半年後、あのお婆さんもおそらく政府の放射線情報など気にもとめずに、生まれ育った大地で森のめぐみを採集し、畑を耕しつづけていたにちがいない。
貝原浩作品展/「風しもの村」原画展
  -「チェルノブイリ原発事故から25年、もう一度、考えてみたい大切なこと」(仮題)-

・日程
:2011年4月19(火)~5月1日(日) 月曜定休 
    火曜~土曜11:30~23:00/日曜11:30~18:00(変更の可能性あり)
・場所space & cafe ポレポレ坐Click!
    〒164-0003  東京都中野区東中野4-4-1-1F space & cafe ポレポレ坐
詳細/最新情報:「絵描き・貝原浩」公式サイトClick!

◆写真上:貝原浩画文集『風しもの村-チェルノブイリ・スケッチ-』に描かれた少女。これらの作品画像は、連れ合いさんの世良田律子様からご了解を得て掲載している。(写真類を除く)
◆写真中上上左は、昨年(2010年)夏に出版された、貝原浩画文集『風しもの村』表紙。上右は、ロシアの平原になかなか沈まない初秋の弱々しい太陽。は、貝原浩画文集『風しもの村』より。
◆写真中下:貝原浩画文集『風しもの村』の部分画像。上右は、平原で放牧される牛の群。は、現在では廃炉になった旧・チェルノブイリ原子力発電所だが、コンクリートの「石棺」で覆われた原子炉からの放射線漏えいはいまだ止まらず、逆にコンクリートの劣化とともに増大している。
◆写真下:美味しい野菜や果物を売りにきたお婆さん()と、シベリア鉄道勤務で乗務員のおねえさん()。言葉がなかなか通じにくい旅の途中で、気が合ったふたりの女性。


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「標準語」は東京弁じゃないってば。 [気になる本]

子母澤寛.jpg 味覚極楽1927.jpg
 江戸東京方言(およそ町ごとに異なる多彩な東京弁)と、「標準語」とが同じものだと思っている人が多いのに、改めて愕然としてしまう。少し前、「OPALな日々」のOPALさんClick!も書かれていたので、さっそくコメントを書かせていただいたのだけれど、東京方言と「標準語」とは、用語やアクセント、イントネーションなどもろもろの特徴を含めて、まったく異なる別モノだ。「標準語」を“母語”とする地域などこの世に存在しないし、江戸東京地方には当然のことながら江戸東京方言が代々、生活言語として存在している。数多くの先達や、山手と下町とを問わず現在でも多くの地付きの人々が証言しているように、わたしも“母語”感覚Click!や育ちからいえば、「標準語」は正体不明のおかしなしゃべり言葉で、随所で「訛って」いるように聞こえてしまうのだ。
 「標準語」は当初、薩長の明治政府肝煎りで、江戸東京方言でも旧山手の言葉(士族言葉)をベースに人工的に作られたものだから、それと同一だと思われている方もいたりする。わたしが山手言葉について書くのも妙だけれど、両者はまったくちがう。代々生っ粋の乃手人に訊けば、すぐに激しくクビを横にふられるだろう。その“ちがい”さ加減は、時代劇に登場する下町Click!の町人たちが、そろいもそろって職人言葉(しかもたいがい品のない)を話しているのにも似て、事実とフィクションとでは大ちがい・・・なほどの“ちがい”なのだ。どこか無骨な感覚が宿る乃手弁に比べ、商業ベースで発達し洗練された下町弁のほうが、音韻もやさしく美しいとさえ感じることがある。
 「標準語」に比べれば、山手言葉も下町言葉もおよそ美しくてやさしい。もっとも、これは東京地方のみの感覚なので、外側から見たらここの方言はキツイと感じる地方の方もいらっしゃるかもしれない。ブツブツと、まるで打ちの足りない蕎麦を食っているような「標準語」は、たとえばTVやラジオのアナウンサーがしゃべるのを長く聞いていると、耳がグッタリと疲れてくる。江戸東京の各地で代々話されている生活言語と「標準語」とは、もう一度繰り返すがまったく異質だ。明治以来、今日まで近代国家の統一をめざして学校で教えられ(戦前に学校で東京弁をしゃべり、教師に怒られて訂正された経験をお持ちの方がたくさんいらっしゃる)、戦後はおもに放送局のアナウンサーがしゃべる人工語が「標準語」であって、江戸東京方言とは似て非なるものだ。
 もっとも、乃手にしろ下町にしろ、家庭内で東京弁をしゃべる人の数が徐々に少なくなり、あるいは近所づきあいで地付きの人々との交流が徐々に減り、代わってマスメディアから「標準語」がたれ流されているがゆえに、戦前からの東京地方以外で生まれ育った人々の大量流入と相まって、この地方の方言が衰退していることは間違いなさそうだ。ここでも何度か取り上げているけれど、東京ではアイヌ語講座Click!が盛んだが、ほどなくその隣りに江戸東京方言講座(旧山手コース/新山手コース/神田コース/下谷コース/深川コース/日本橋コース/本所・向島コース・・・)などというのが、どこかの市民大学講座か文化センターで開講するやもしれない。w
 だから、東京地方以外のみなさん、よく「東京弁が地方の方言文化を侵食し、破壊している」・・・なんて人聞きの悪いおかしげな話を聞くけれど、それは根本的な錯誤であり認識不足なのだ。地域の特色ある生活言語を侵食しているのは、東京方言ではなく明治政府に根のある「標準語」なのであって、まちがいなく東京方言の山手言葉および下町言葉もその侵食の“被害者”だ。文句があるのなら、薩長の明治政府とその施策を止めようとしない文科省、あるいは放送局に言っとくれ。
小笠原長幹家族.jpg 小笠原長幹邸.jpg
 OPAL管理人さんと、どうしたら江戸東京方言の妙味をわかりやすく伝えられるのだろうか?・・・とお話してたら、ちょっと面白い本を見つけたのでご紹介したい。子母澤寛という作家がいたが、昭和初期に新聞記者をしていた時代、東京各地や近郊に住むさまざまな階層の人たちへインタビューした、聞き書き集『味覚極楽』(1927年/解題1957年)という作品を残している。華族から役者、料理人、駅長、医者、僧侶など登場する人たちも多彩で、彼らが当時しゃべっていた言葉を、できるだけすくい取って記しているのが面白い。華族といっても、みな乃手言葉を話しているかというと、中には下町言葉で話したのだろうと思われる聞き書きもある。そういえば明治以降、勝安芳もさかんに下町言葉をしゃべっていたのが記録されている。もちろん、録音データ起こしなどない時代だから、当人がしゃべった正確な記録ではないのだが、子母澤はできるだけニュアンスをつかみ取って文章化していると思われる。たとえば、役者の尾上松助のインタビューはこんな具合いだ。
  
 ちっとばかり辛いかナと思う位に醤油を入れて、こわ目に茶飯を炊いてよく食べる、一日おき位にはやるんでげすよ。これへ大鯛の生きのいいのを、ぶつ切りの刺身にして、薬味を入れないおしたじ、亀甲萬Click!がいい。別にいい茶の熱いのを汲んで、これをつまりお椀代わりにしていただくんです。それあうまい。この刺身が鮪となると、ちょっとまた調子が変わって来て、べとりと舌へ残るあぶらあじと、茶めし(ママ)の味とが、どうもぴたりッと来ない。矢張り、茶めしには鯛、これがなかったらまず平目でげしょうかな。 (「大鯛のぶつ切り」尾上松助氏の話より)
  
 役者はちゃんと下町言葉ベースの「芸人言葉」(江戸後期に花柳界で流行した幇間言葉に近い)をしゃべり、牛込区河田町の伯爵・小笠原長幹はいかにも旧山手の無骨な言葉にちょっと崩した下町弁の混じった様子で、“うまいもん”をあーでもないこーでもないと楽しそうにしゃべっている。下落合と東日本橋のミツワ石鹸Click!三輪善兵衛Click!は、日本橋言葉とも山手言葉ともつかない微妙な言いまわし(実際、子母澤にはそう聞こえたのかもしれないが)で天ぷらを語り、根っからの地付きである高村光雲は美しい下町言葉(光雲は下谷弁だろう)を話し、同じく根っからの東京舌の大倉久美子は、美しい山手弁で東京の食べ物を絶賛する。これらのインタビューが、音声として残されていないのがいかにも残念だ。音声で聞きさえすれば、東京方言と「標準語」とが発音、アクセント、イントネーション等々、すべての面においていかに異なるかが一聴瞭然だったろう。
 ちなみに、いまわたしが興味をおぼえているのは、外出から帰った家族を出迎える言葉として、「おかいんなさい」あるいは「おかいり」という地域と、「おかえりなさい」「おかえり」という地域が、旧市街のどのあたりの境界で変化していくのかな?・・・というテーマだ。もちろん、前者がおもに(城)下町言葉で後者がおもに山手言葉なのだが、案外クッキリと残っているのではないかと想像している。そして、「標準語」では山手言葉である後者が採用されているようだ。
大倉久美子(華桂).jpg 権兵衛山(大倉山).JPG
 おしなべて、子母澤寛は山手弁の表現があまり得意ではなかったらしく、下町言葉になると俄然、文章が活きいきとしてくる。北海道生れの子母澤だが、先祖代々が江戸生まれで、戊辰戦争の際には薩長軍と戦うために江戸から北海道へ向かった家柄なのだから、家庭内で話されていたのはまちがいなく江戸方言、それも祖父の言葉づかいから判断するといずれかの下町弁だったと思われる。ついでに、宮内省厨司長の秋山徳蔵が面白い話をしているので、ご紹介しておきたい。
  
 東京は器物をそこへおいたまま箸で食物をつまみ上げてたべる。関西は器物を手にもって、すぐ口のそばまで運んできて食べる。従って関西はおつゆがたっぷりついて舌の上へ来るし、東京はつゆは置き去りにして物だけが来る。/関西はこんなことから古来おつゆにしっかり味がついていて、ふくみ併せたべて、本当の味が出るようになっており、東京はつゆはいわばおまけで、「物」へしっかりと味がついている。東京の人が関西のをたべて、よく「少し塩味が足りない」というが、これは食べ方を知らないのである。関西の人もまた東京のをたべて、つゆをたっぷり含ませてやるから、「少し塩が強い」という、これも間違っている。東京人は関西のものの、味の半分だけしか舌へのせず、関西人は江戸っ子料理の、添え物まで舌へ持って来ているのである。
                                 (「料理人不平話」秋山徳蔵氏の話より)
  
 上記の文章の「東京」を、「関東」と言い直してもほぼ間違いないだろう。なるほど・・・と、思い当たることがままある。わが家の食習慣だが、食事中いちいちおかずの小皿や小鉢を手にとって、口もとへなど運ばない。むしろ、そんなことをすれば親から「お行儀が悪い! 品のないことするんじゃありません。ちゃんと器を置いて、お箸でつまんでお食べなさい。お箸はなんのためにあるんです?」と、すぐさま叱られてしまうだろう。秋山が書く「食べ方を知らない」からではなく、行儀が悪くて食事の作法としてはマズイからだ。手に持つのは、飯茶碗と汁椀ぐらいのもので、おかずの皿や鉢の上を箸がタテヨコへと滑っていく・・・というような動作。食文化による味覚の本質的なちがいももちろんあるのだろうが、食習慣や作法が異なるために味わい方のちがいも、またかなり大きそうだ。
長谷川時雨192709.jpg 日本橋街並完成予想図.jpg
 地方分権の流れとともに、地域色をより強めるためにか各地の自治体が方言の復活へ取り組んだり、授業へ方言教育を積極的に取り入れるところが増えている。地域専用の日本語IMEが開発され、方言変換が容易になったというニュースも聞く。東京弁がちゃんと変換されないIMEに、しょっちゅうイライラさせられているので、もちろん大賛成だ。わたしも東京弁ばかりでなく、島根弁や大阪弁、熊本弁が大好きで、ここでもずいぶん記事の中へいい加減だが書いてきた。気味(きび)の悪い「標準語」ではなく、きれいな江戸東京方言の復活のために、東京でも小学校で方言教育をしたらどうだろう。(英語よりよほど重要だと思うのだが) そうすれば、「マジ」Click!というような若者の新造語は聞き苦しい・・・などといっている、地域文化に鈍感で疎いヒョーロン家も少しは減るやもしれない。地方の言葉や文化を尊重したいと考えてる日本各地のみなさん、得体の知れない「標準語」から方言文化を守る運動があれば、東京地方からも協力しますよ。わたしも、地域の方言を大切にして話していきたいし、残していきたいから。だからこそ、「標準語」=東京弁だと思っているらしい大まちがいの意識から、まず徹底的に変革してほしい。この錯誤自体が、江戸東京方言をないがしろにする明治政府以来の「標準語」の存在と、まったく同質の意識だからだ。
 もっとも、江戸東京は地域的にも広大で、幕末には2,000町をゆうに超えていたわけだから、乃手と下町のちがいばかりでなく、おそらく旧35区いずれの地域でも生活言語が少しずつ異なっていたはずだ。広いモシリ(大地)のアイヌ語に、道南からカラプト(樺太)にいたるまで、さまざまな方言が存在するのと同様だ。それには、まずはちゃんとした地域ごとに特色のある東京方言を、きれいにしゃべれる先生の確保からスタートしなければならない・・・のかな?^^;

◆写真上は、エテ公が大好きな子母澤寛。は、1927年(昭和2)に東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者をしていた際、著名人から聞き書きをしてまとめた『味覚極楽』(中央公論社)。
◆写真中上は、本書にも登場している牛込・河田町(現・新宿区)に住んだ小笠原長幹伯爵の子どもたち。後列左が小笠原松子、右が忠幸、前列右から左へ順番に、忠統、忠如、福子、元彦。は、同写真が撮られた若松河田に現存する小笠原伯爵邸の庭先。
◆写真中下は、本書に登場する男爵・大倉喜七郎の夫人・大倉久美子(華桂)で、伯爵・溝口家で育った生っ粋の旧乃手人。結婚式の招待客にお酌をしてまわった彼女は、明治期の「お嬢様」としては考えられない“革命的”な行為でマスコミにも取り上げられた。は、下落合の別名・大倉山の名前が残る権兵衛山の坂道(権兵衛坂)。大倉財閥の所有地だったことから「大倉山」とも呼ばれ、明治の早い時期には伊藤博文の下落合別荘が建っていたという伝承が残る。
◆写真下は、1927年(昭和2)の夏に撮影された長谷川時雨一家で、左手に座るのが押しかけ亭主の三上於菟吉。時雨の口から、すぐにもキレのいい日本橋弁Click!が聞こえそうだ。は、頭上の高速道路を取っぱらったあとの日本橋川Click!に架かる橋々の景観予想計画図。


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