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江戸東京方言でも七は「ひち」だ。 [気になる本]

東京日本橋.JPG
 ふだん“ベストセラー”とうたわれる本は、たいがい読むとガッカリして後悔するケースが多いのであまり手にしないが、昨年(2015年)の秋に出版された井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)は、子どものころから数えておそらくゆうに50回以上は訪れている街がテーマなので、ついネットで注文してしまった。
 もっとも、大人になってから訪れた回数は少なく、最近では一昨年に旅行と出張で二度ほど出かけているだけで、しかも仕事では打ち合わせのみのわずか3時間ほど滞在しただけだった。したがって、この街を訪れたのは子どものころから学生時代までが圧倒的に多い。それは、建築土木畑Click!出身の親父が仏教彫刻や建築に興味があったせいだが、同時に奈良を訪れる機会も多かった。いや、むしろ彫刻では奈良のほうが圧倒的だろう。
 京都の仏教彫刻には、著者が差別を受けて「京都ではない」とされる洛中以外の場所に、注目すべきいい作品が多い。著者の故郷である嵯峨(京都ではないそうだが)の、いわゆる清凉寺式の釈迦をはじめ、子ども心にも面白いと感じた宇治と日野の“定朝伝承”が残る阿弥陀如来の比較、鄙びて味わい深い大原の跪く観音・勢至など、「京都」ではない地域の仏像に興味を惹かれた憶えがある。
 さて、著者が「洛中以外は京都ではない」と徹底した差別を受けてきた本書の内容は、わたしにとってはめずらしかった。そんなに根強い差別意識がいまだに残る街だとは正直、外から眺めていただけではわからなかった。「洛中=京都」であり、そのエリアが尊くて特別に貴重であるためには、「尊くなくて貴重じゃない」エリアを相対的な概念としてつくらなければならない。なにやら、尊い人々をつくるためには尊くない、卑しい人々を形成しなければならず、特別に尊い人々をつくるためには、特別に卑しい人々を設定しなければならない……という、シンプルで概念的な(政治制度的でなく)階級形成にもとづく「天皇制」論を思い出してしまった。事実、嵯峨よりも外側の人々を洛中=京都からさらに遠く離れた田舎だと、著者の地域では差別していたフシもうかがえる。
 たとえば、これを江戸東京に置き換えてみると、どうだろうか? わたしは、ここの記事で江戸前期の江戸時代の市街地と、江戸後期の大江戸Click!(おえど)時代の朱引墨引の市街地とを意図的に規定して記述している。また、明治以降の東京15区エリアと、1932年(昭和7)以降の東京35区も意識的に区別して記述している。でも、それは歴史を正確に表現するうえでの境界規定上の区別であって、別に大江戸時代の市街地以外は「江戸」でも「東京」でもないなどと思って書いているわけではない。
 わたしはいま、江戸期の市街地から遠く離れ、かろうじて神田上水(現・神田川)がかよう大江戸Click!期の境界規定でいえば、朱引墨引の境界線内ギリギリのところに住んでいる。1964年(昭和39)の東京オリンピックで、防災インフラの破壊Click!を含め“町殺し”Click!が徹底して行なわれた大江戸の日本橋エリアより、江戸期には「場末」(当時は「郊外」というほどの意味)と呼ばれたエリアのほうが、よほど緑が多くステキな土地柄で住みやすいからだ。ここに住んで37年になるが、日本橋にしろ神田にしろ、尾張町(銀座)にしろ、別に「落合人」を蔑んだり差別したりはしない。
 ただし、親の世代以前ではオリンピックで破壊された街を離れる際、山手線の西側=日枝権現社の氏子町のさらに外側へ転居することを、「郊外へ引(し)っ越す」といっていた。山手線の西側エリアのことを、「東京郊外」だとする意識は、そのエリアを差別しているというよりも、明治期以来の東京15区+外周の郊外(武蔵野Click!)意識の名残りが、60年代まで(城)下町の地元でつづいていたのと、日本橋をこよなく愛する気持ち=郷土愛のほうが強く、その裏返しの自虐的な意識をこめた揶揄だったのだろう。『京都ぎらい』の著者が描く、洛中と洛外のような「いけず」で性悪で、陰湿で執拗な差別意識ではなかったように感じている。
 ちょっと余談だけれど、著者がいう京都=洛中(著者によれば敵地w)を歩いているとき、一度だけ親父が明らかにイラついた表情を見せたことがあった。当時、創業250年を超える漬物屋(現在は300年近いだろう)で、“からし茄子”を購入しているときだった。京都の老舗へやってきた東京人ということで、創業から製品の史的工夫までをクドクドと15分ほどかけて亭主が長話したときのことだ。「たかが漬物(つけもん)で、なに大層なご託を並べてんだい」と、親父の顔には書いてあった。江戸期から営業をつづける店舗や企業が、軒なみ建ち並ぶ日本橋Click!で育った親父にしてみれば、「創業250年で、なにをもったいぶってやがる」という反感をおぼえたのだろう。
 執拗でクドいのはわたしも苦手だが、確かに商売人が、たかが漬物で顧客の(しかも旅行者の)足を止めるものではない。そういう“気づき”や“気づかい”がなく、とても客商売らしくない傲慢な点、わたしもどうしようもなく野暮で洗練されていない店だと思う。著者がいう、「東京」のマスメディアにかつがれ、おだてられて勘ちがい(心得ちがい)をしている、わきまえない漬物屋のひとつだったものだろうか。
井上章一「京都ぎらい」2015.jpg 京都路地裏.jpg
京都知恩院.JPG
京都御池大橋.JPG
 さて、本書を読んでいてゴリッとひっかかり違和感をおぼえた記述がある。もちろん、「七」の発音についてだ。同書から、当該箇所を引用してみよう。
  
 七七禁令では、「しち」もやむをえないと判断した。それ以降、私は歴史の用語もふくめ、東京へあわせるふんぎりをつけている。生涯を京都ですごした七条院も、後鳥羽天皇の母だが、「しちじょういん」でいい。七卿落ちの場合でも、みんな幕末の京都人だが、「しちきょうおち」にしておこう、と。/しかし、地名だけは、ゆずりたくない。私もふくめ、京都およびその周辺ですごす人々は、みな上七軒を「かみひちけん」とよぶ。誰も「かみしちけん」とは言わない。七条院の名を知らない人々も、地元にはおおぜいいる。しかし、上七軒は「かみひちけん」という音で、多くの人になじまれてきた。地名では譲歩をしたくないと思うゆえんである。/鎌倉の七里ヶ浜まで、「ひちりがはま」にしたいと言っているわけではない。あちらは、「しちりがはま」でかまわないと思っている。ただ、「かみしちけん」だけはかんべんしてくれと、そう言っているにすぎない。
  
 わたしは、子ども時代を湘南の海辺Click!ですごしているので、七里ヶ浜は「しちりがはま」と発音するのに抵抗感は少ないが、唱歌『鎌倉』を唄うときは「ひちりがはま」と発音する。「♪七里ヶ浜の磯伝い~」は、「♪ひちりがはまのいそづたい~」だ。同じように、7番の「♪歴史は長き七百年~」も、「♪れきしはながきひちひゃくねん~」だ。これは、親父が千代田小学校Click!で習った当時のまま唄っているのを聞き、そのまま憶えてしまったから、ついそう歌うクセがついてしまって抜けない。
 千代田小学校の音楽教師は、「ひちりがはま」ではなく、「標準語」Click!を押しつけて「しちりがはま」だと訂正しなかったらしいところをみると、地付きの教師だったのだろう。江戸東京方言(とりあえず日本橋地域の方言で話を進めるが、近隣地域もおしなべて同様だと思う)では、「…5、6、7、8」は、「…ごう、ろく、ひち、はち」で「しち」とは発音しない。
 だから、「東京」Click!(方面から)の影響で、七条は「ひちじょう」が正しいにもかかわらず、「しちじょう」と無理やり呼ばされるようになってしまった……というようなニュアンスで書かれるのは、できればやめていただけないだろうか?
 江戸東京方言でも、本来的にいえば七五三は「ひちごさん」だし、七軒町は「ひちけんちょう」、五七五七七は「ごうひちごうひちひち」、「七三分け」は「ひちさんわけ」、七輪は「ひちりん」が正しい。親の世代からこっち、学校で教える「標準語」の影響からか、七を「ひち」と呼ばなくなってしまった言葉には、七福神や七面鳥、七五調Click!などがあるけれど、質屋は「しちや」ではなく「ひちや」が正しいというように、いまだ明治期の教部省(のち文部省)がこしらえた得体の知れない「標準語」と対立している江戸東京方言は、発音に限らず言葉のイントネーションも含め、著者の故郷「京都」と同様に数が知れないほど多いのだ。
東京大橋(両国橋).JPG
東京大川.jpg
東京千代田城富士見櫓.jpg
 著者は、朝日新聞社の出版局が「七七禁令」の項目を、「ハ行」ではなく「サ行」の項目に加えたことを批判している。再び、同書から引用してみよう。
  
 ただ、当時の私は七七を「ひちひち」としてしか読まなかった。五十音順となる索引づくりにさいしても、最初はこれをハ行のならびにおいている。非常時、七七禁令、ヒトラーという順番で。/私のこしらえたこの索引案に、しかし東京の編集部は、強い拒絶反応をしめした。どうして、七七禁令を、非常時とヒトラーの間に、はさむのか。これは「しちしちきんれい」であり、とうぜんサ行のところに記載されるべきである。けっこうえらそうに、そう要求してきたのである。/七七を「ひちひち」とよびならわしてきた私は、もちろんあらがった。「しちしち」などという日本語は、ありえない。これは、あくまでももとどおりに、ハ行へならべられるべきである。はじめのうちは、東京の編集部にもそう言いかえした。
  
 「しちしち」などという「日本語」が「ありえない」かどうかは、日本語のすべての方言を押さえていないので知らないけれど、少なくともこの地域の(城)下町方言に立脚すれば、著者の地域と同様に江戸東京地方でもありえない。
 でも、「標準語」では「しちしちきんれい」と読むのだから、「標準語」を意識的に社是あるいは表現規範として導入しているマスメディア(企業)なら、いたしかたないのだろう。編集部の担当者が江戸東京の出身者であれば、もう少していねいな対応をしてくれたのかもしれない。いわく、「わたしも、できればハ行に入れたいのですが、社の表現規定で“七”はサ行に入れなければならないんです」……と。
 おそらく、江戸東京方言に疎かったらしい「えらそう」な編集担当者は、1920年前後に東京へやってきた方(この年代の方の子どもが小学校へ上がるころから、授業における「標準語」の徹底化が実施されているようだ)の子孫か、あるいは戦後のより徹底した「標準語」教育を学校で受けてから(または、東京弁=「標準語」だという根本的な錯誤に気づかないまま)、東京地方へこられた方だろう。つまり、わたしとしては「東京」の新聞社ないしは出版社だから、そのせいで“七”がサ行に入れられるのではないことを、著者に了解してほしいのだ。
 朝日新聞社が、古くは薩長政府の教部省(のち文部省)ないしは戦後の文部省(のち文部科学省)が推進する「標準語」にことさら忠実なだけで、同じ社内規定をもつ新聞社や出版社であれば、札幌だろうが大阪だろうが、福岡だろうが「七七禁令」はなんの疑問も抱かれず、サ行の索引に入れられてしまうだろう。当の文部省(文科省)があるのは「東京」なのだから、どこか江戸東京言葉らしきものを押しつけられているという印象(イメージ)が、ひょっとして著者にはあるのかもしれないが、江戸東京方言もまた「標準語」の被害者でありつづけている点に、深く留意していただければと思う。
 著者が洛中とのこだわりで書く、洛外・嵯峨を起源とする「南朝」は56年つづいたが、13年間しかなかった豊臣政権を例外とすれば、薩長の大日本帝国は未曽有の犠牲者を生みながら、わずか77年(ひちじゅうひちねんw)で破産・滅亡した。日本史上では総じて短命な国家(室町期以前の「こっけ」概念含む)であり政治体制だが、その過程で「標準語」を推進してきたのは江戸東京地方でもなければ、地付きの江戸東京人でもない。
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京都鴨川松原橋.JPG
京都木屋町辺町屋.JPG
 なるほど、地域言語の尊重に不熱心で地名(音)の保存にも無頓着な、著者が怒りをこめて書く「霞が関の役人」は、現在でも江戸東京地方にいるのだけれど、できれば苦情やお怒り、批判、非難、罵詈雑言のいくばくかは江戸東京の方角ではなく、その基盤となる怪しげな「標準語」なるものをこしらえた出身者たちが顕彰されている山口県と鹿児島県の方角へ、ほんの少しばかり向けていただければ、ありがたいのだが……。

◆写真上:江戸東京のカナメ、日本橋をくぐって真下から橋底をのぞく。2011年(平成23)に補修を完了した箇所や、石材を洗浄した跡が見えている。
◆写真中上上左は、2015年(平成27)に出版された井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)。上右は、京都の町家(町屋)路地裏。は、本書にも登場する徳川幕府が再興に全力で取り組んだ華頂山・知恩院。は、御池大橋から眺めた鴨川の流れ。
◆写真中下は、大川(隅田川)に架かる大橋(両国橋)の橋底を真下から。は、江戸東京の大動脈だった大川(隅田川)。は、千代田城を本丸側から眺めた朝靄の富士見櫓。
◆写真下は、雪が降りしきるひっそりとした東山・八坂ノ塔。は、松原橋から川上を眺めた鴨川右岸。は、木屋町あたりにつづく町家建築。
いわずもがなだが、江戸東京では「まちや」は多くの場合「町家」と書いて、関西地域や「京都」をおだてる『家庭画報』あるいは『婦人画報』wなどで見うけられる「町屋」とは書かない。


『新宿区の100年』の修正箇所3つ。 [気になる本]

新宿御苑.JPG
 今年2015年9月に出版された写真集『新宿区の100年』(郷土出版社)で、わたしはリード18本とキャプション59本を書かせていただいた。10月に入って同書は新聞でも紹介されたので、ご存じの方も多いかもしれない。その中で、3箇所の修正が出てしまったのでご報告したい。制作期間が短く、実質1日だけの校正時間しかいただけなかったので、どうしても仕事の合い間の片手間作業となり、綿密に再検証しての校正できなかったのがとても残念なのだが、もし増刷されるようであればさっそく訂正したい。
 同写真集は、街で暮らす一般市民の視点から地域の歴史を掘り起こし眺めてみる……というコンセプトで編集されており、歴史的に“有名”な写真や人物たちはあまり登場してこない。その企画に共感して、原稿書きをお引き受けすることにした。新宿区に限っていえば、従来の地域資料ではどうしても新宿駅周辺の繁華街(角筈・淀橋地域)が中心となり、また江戸期に旧・内藤新宿のあった四谷地域がクローズアップされることが多い。さらに、外濠沿いの市谷から神楽坂にかけても取り上げられる機会が多く、新宿区の西北部の街並みにはなかなかスポットが当たってこなかった。
 このような傾向は、明治期から市街地化が進んでいた四谷区や牛込区、そして新宿停車場周辺には数多くの物語や事績が蓄積されているので、いた仕方のない事情があるのかもしれない。芝居や新派でも、市谷や四谷が登場することはあっても、新宿区の北側が舞台になることはまれだ。たまに新宿区の西北部が取り上げられるとすれば、ピンポイント的に焦点を当てられた夏目漱石Click!小泉八雲Click!佐伯祐三Click!中村彝Click!林芙美子Click!など行政による記念館や公園が設置された人物たち、また早稲田大学Click!のような教育機関に集約されるような企画が多かったように思う。当然、これらをテーマとする資料は充実しているけれど、それ以外の地域の「100年史」はかなり手薄とならざるをえないのだろう。
 これでは、あまりにアンバランスなので、わたしは新宿区の西北部の街並み、戸塚・落合地域にこだわって手もとの写真類を整理し、さっそく編集部にお送りした。その中で、採用されたのはお送りした写真の半分ほどなのだが、それでも既存の同種の資料よりは圧倒的に新宿区西北部がクローズアップされていると思う。また、すでに新宿区に十分な資料がある有名な夏目漱石や佐伯祐三、中村彝、林芙美子といった人々はほとんど割愛し、落合地域に限っていえば、三ノ輪通り商店街の古い街並みに重ねて、いま熱心なファンが急増中のより現代的な尾崎翠Click!や、アビラ村Click!の紹介に合わせて金山平三Click!刑部人Click!満谷国四郎Click!林唯一Click!吉武東里Click!大熊喜邦Click!などが登場している。
新宿区の100年201509.jpg 新宿区の100年目次.jpg
 さらに、たとえば落合地域に限れば、大正期における日本初の本格的な「郊外文化住宅街」Click!の形成を近衛町Click!目白文化村Click!アビラ村Click!、その他のエリアに分類し、できるだけ多くの近代建築の街並みをご紹介した。近衛町では、酒井邸Click!藤田邸Click!杉邸Click!小林邸Click!、そして近衛文麿邸Click!。目白文化村では、いつも書籍や資料に掲載される「目白文化村」絵はがきClick!ではなく、入手ずみだった「目白文化村の一部」絵はがきClick!神谷邸Click!石橋湛山邸Click!松下邸Click!末高邸Click!鈴木邸Click!中村邸Click!安食邸Click!(のち会津八一邸Click!)を掲載している。
 アビラ村では島津源吉邸Click!刑部人邸Click!林唯一邸Click!金山平三邸Click!吉屋信子邸Click!を掲載し、その他の下落合では御留山Click!の巨大な相馬邸Click!、ヴォーリズ設計の目白福音教会のメーヤー館Click!、七曲坂の大島邸Click!、そして遠藤新建築創作所が手がけた現代住宅の嚆矢的な存在である小林邸Click!をご紹介している。また、新宿区(旧・四谷区/牛込区/淀橋区)の80%以上が焦土と化した、戦時下あるいは空襲関連の写真も数多く編集部へお送りし、25ページ以上が戦争とそれによる惨禍のページで構成されている。ただし、「軍都・新宿」の象徴ともいうべき、戸山ヶ原の陸軍施設をあまり紹介できなかったのが心残りだ。
 改めて、同書に用いる貴重なアルバム写真の使用を、こころよくご承諾いただいた落合地域にお住いのみなさま、またかつてお住まいだった方、あるいは落合地域に興味を持たれている方々に心から感謝申し上げたい。
 さて、修正個所は堀尾慶治様Click!よりご提供いただいた写真のキャプション部分だ。まず、83ページの「落合第四小戦勝祈願」のキャプションで、国民学校のスタートが「昭和10年3月より国民学校」となっている。わたしは原稿の年号をすべて西暦で記述しているので、国民学校令(昭和16年勅令第148号)の公布を「1941年3月より国民学校」と書いたはずなのだが、それを編集部で昭和元号に“翻訳”する際に勘ちがいをされたようだ。つづいて、84ページの「落合第四小学校」Click!のキャプションで、わたしは1940~1941年=「昭和15~16年」と書いたが、堀尾様から1940年(昭和15)に規定できるとのご教示をいただいた。
P83氷川明神.jpg
P84落四小校庭.jpg
P85林間学校.jpg
 また、85ページのキャプションだが、これは完全にわたしのミスだ。「落合第四小林間学校」は「小学校の林間学校」が正しく、淀橋区の小学校が合同で主催した林間学校の写真だ。行き先も「御殿場」ではなく「那須高原」で、落四小からの参加は堀尾様ひとりだった。おそらく、わたしが堀尾様に写真を何枚か見せていただいた際の、記録自体がまちがっていた可能性が高い。つつしんで、訂正とお詫びを申し上げたい。同キャプションを書きなおすとすれば、下記のようになる。
  
 小学校の林間学校 (昭和10年代)
 太平洋戦争が始まる前、栃木県の那須高原で行われた新宿周辺の小学校による夏休み林間学校。学童疎開の光景とは異なり、生徒たちの表情はみな明るく食事も豊富で多彩だ。当時の小学校で催される遠足や小旅行の行き先には、羽田海岸の穴守稲荷や鎌倉、石神井公園の三宝池、高尾山などが選ばれている。
  
 さて、同写真集の執筆をお引き受けする際に、隣接する豊島区をテーマにした『豊島区の100年』を見本としていただいた。その中で、直近で判明した事実に照らし合わせ、訂正が必要と思われるキャプションを見つけたので、とてもおせっかいなのだがついでに指摘させていただきたい。68ページの「目白駅舎」に関するキャプションだが、1941年(昭和16)現在で写っている橋上駅化された目白駅Click!は2代目ではなく、1928年(昭和3)竣工の4代目・目白駅だ。地上駅が日本鉄道時代と鉄道院(省)時代とで2代あり、1922年(大正11)に初代橋上駅(目白橋西詰めの駅前広場がある3代目・目白駅)の次にできた駅になる。また、1962年(昭和37)に実施の目白駅大改修後の同駅を5代目と勘定するなら、2000年(平成12)に竣工した現在の駅舎は3代目ではなく、6代目・目白駅(1962年の大改修を勘定しなければ5代目)ということになる。
豊島区の100年201408.jpg 豊島区の100年目次.jpg
 『新宿区の100年』は、出版に先駆けて予約を募っていたのだが、高価な写真集なのでそれほど売れはしないのではないかと予想していた。ところが、当初の予約が出版部数を上まわり、急遽初版の発行部数を増やしたのだそうだ。それでも出版社の在庫は払底し、各書店でも売り切れがつづいて、現在では新宿紀伊国屋書店に多少の在庫がある程度になっているという。もし、再版される機会があれば上記の箇所を修正して、より完成度の高い内容にしたい。

◆写真上:朝霞が立ちこめる、ほとんど人のいない早朝の新宿御苑。
◆写真中上:この秋に出版された写真集『新宿区の100年』(郷土出版社)。
◆写真中下:同書P83~85にかけての修正箇所。
◆写真下:2014年8月に出版された『豊島区の100年』(郷土出版社)。


幻の最高峰だったアムネマチン。 [気になる本]

アムネマチン山.jpg
 きょうは、落合地域にも江戸東京にもまったく関係のない、わたしが子どものころ、特に印象に残った“山”がテーマの記事だ。わたしは基本的に山よりも海のほうが好きなのだが、Click!にもテントや食料、飯盒などを背負ってけっこうキャンプに出かけていた。この記事は、幼い時代の覚え書きということで……。
  
 子どものころ、少年少女世界のノンフィクションというようなシリーズ本で、標高9,040mもある“謎”につつまれた世界最高峰の山が中国に存在する……という記述があったのを、なぜか急に思い出した。それが、どのような本だったのか探しまわってみたら、金の星社が1967年(昭和42)に出版した「少年少女・世界のノン・フィクション」シリーズの第2巻、『世界を驚かした10の不思議』(日本児童文芸家協会)に所収の白木茂「世界一高いまぼろしの山」であることがわかった。おそらく小学生のときに、図書室か児童図書館で読んだものだろう。
 ヒマラヤのチョモランマ(英名エベレスト)の 8,848m(ネパール政府認定値)をはるかに凌ぐ、未踏の崑崙(コンロン)山脈にそびえ立つ幻の最高峰「アムネマチン」の記憶は、当時、ほとんど鎖国状態で神秘のベールに包まれていた革命後の中国国内の様子とともに、地球上に残された“世紀の謎”として、子ども心にことさら強い印象をとどめたものだろう。本書が出版された1960年代半ばには、すでに中国の登山隊が登頂に成功しており、正確な標高は判明していたと思われるのだが、中国政府はそれをいまだ公式に発表してなかったものだろうか……。
 世界最高峰の山を“発見”した経緯は、米軍のパイロットの証言にもとづいている。1944年(昭和19)3月の第2次世界大戦が末期に近いころ、インドの米空軍基地から中国国民党政府の拠点である重慶へ向け、支援物資を輸送中の米空軍4発輸送機が飛行コースをまちがえたことに端を発している。タクラマカン砂漠をかすめ、輸送機は東南東の重慶へ向けて飛行していたはずが、航路がやや北側にずれていることにパイロットが気づいた。当日は曇天で、いつも目標にしている天山(テンシャン)山脈もタリム川もまったく見えなかった。やがて、右手に崑崙(コンロン)山脈の峰々が近づいてくるのが見えたので、パイロットは安全のために飛行高度を8,500mまで上昇している。崑崙(コンロン)山脈には、ヒマラヤ山脈にある8,000m級の山は存在しないはずなので、8,500mの高度を保てばたいがいの峰は超えられると判断したのだ。
 ところが、危機は目前に迫っていた。雲間から突然、目の前に雪をいただいた巨大な三角の峰が迫ってきたのに気づいたからだ。輸送機は衝突を避けるために、高度10,000mにまで急上昇した。それでも、その峰を超えるときにはすぐ足下に頂上が見えた。パイロットは、衝突の危機をなんとか回避できたことに安堵すると同時に、まず搭載されている高度計の故障を疑った。しかし、何度テストを繰り返しても高度計は故障していなかった。こうして、重慶の飛行場に着陸したパイロットから、さっそく標高10,000mに迫る山の存在が報告書に記載された。でも、パイロットの報告はほとんど誰からも信用されず、そのまま黙殺された。唯一、中国に詳しい米国人から、「それは、たぶん、アムネマチン山にちがいない」という話を聞いた。
世界を驚かした10の不思議1967.jpg 世界一高い幻の山1967.jpg
 当時、幻の山といわれていたアムネマチン山は、かつて誰も正確な標高を測ったことがない山だった。地元の民族からは、神が宿る神聖な山としてあがめられ、容易に登山家や探検家を近づけなかった。欧米人が初めてアムネマチン山を目にしたのは、1932年(昭和7)にイギリス陸軍のペレイラ将軍が実施した青海省の探検だった。彼は、「7,000m級の他の山々が、まるで巨人につかえる家来に見えた」と、突出したアムネマチン山の様子を報告書に書いた。翌1933年(昭和8)、ペレイラは探検隊を編成して再びアムネマチン山をめざすが、途中で彼は病死してしまう。
 つづいて、アムネマチン山をめざしたのはフランス人のランが編成した探検隊だが、同山へ登ろうとするフランス隊と“聖なる山”を蹂躙されると考えた現地のゴロク族との間で戦闘となり、同隊は全滅した。また、同じ時期にドイツからやってきたフィシュネル率いる探検隊と、イギリス人のミゴットが編成した探検隊とがアムネマチンをめざしたが、やはりゴロク族との対立で犠牲になっている。1948年(昭和23)3月、ボールペンの販売で財をなした米国レイノルズ社のレイノルズは、航空機からアムネマチン山を観察・測量しようと、米国と中国の学者たちを連れて上海空港を離陸しようとした。ところが、自家用機C87が滑走中にスリップしてそのまま土手に突っこむ事故を起こし、飛行機は大破して使いものにならなくなってしまった。このころから、ゴロク族との対立による犠牲者の続出とともに、聖山を犯す「アムネマチンの呪い」のウワサが囁かれはじめた。
 1949年(昭和24)4月、米国の探検家レオナード・クラークが率いる探検隊が、改めてアムネマチン山をめざして青海省の西寧(シーニン)市を出発した。青海省は護衛のために、同探検隊へ20名を超える兵士を同行させている。途中、旧・日本軍の三八式歩兵銃で武装したゴロク族と銃撃戦を交えながら、ようやく万年雪が残るアムネマチンが見える尾根に取りついた。同年5月6日、天候がようやく回復すると午前8時35分、クラーク探検隊は山脈の上にひときわ突出した巨大な三角形のアムネマチンを目にした。一行は、よりアムネマチンに近づこうと尾根伝いを歩きつづけ、もっとも見晴らしのいい場所に設営して、天候が変わらないうちにさっそく測量をはじめた。
レオナード・クラーク.jpg クラーク探検隊.jpg
 クラークは測量器を組み立てると、山頂から300mほど下に照準を合わせてみた。彼は測量のベテランで、雪山では太陽光の屈折のせいで実際の高度よりも山が高く見えることを知悉していた。つづいて、アムネマチンの山頂に照準を合わせて測量してみた。測量値をもとに計算してみると、アムネマチンの標高は9,040mとの結果が出た。チョモランマ(エベレスト)よりも、192mも高い最高峰ということになる。山の測量は、同時に3回繰り返し行わなければ公式の記録とはならない。3回測量して、その平均値が公式記録として認定される。しかし、1回めの測量直後から山頂に雲がかかりはじめ、アムネマチンの姿をアッという間に隠してしまった。
 クラークはあきらめきれず、悪天候の中3日間もキャンプにとどまっていたが、嵐が近づいていたのでついに測量を断念して下山してしまった。彼は、たった一度しか測量できなかったので、米国へもどってからもその結果を公表せず、あえて沈黙を守りつづけた。でも、おそらく同行した隊員たちの間から、「9,040m」という測量結果が漏れたのだろう、世界でもっとも高い山は崑崙山脈にある……というウワサが広まっていった。さて、今日の水準測量技術でアムネマチンを計測すると、クラークが測定した値に近い「9,041m」ということになる。つまり、クラークの測定は“正確”でまちがってはいなかったのだ。「じゃあ、最高峰はチョモランマじゃなくてアムネマチンでしょ!」ということになるのだが、中国政府が発表している同山の数値は標高6,282mだ。
 この数値の齟齬には、地球の重力に関わるトリックがある。重力は、常に地球の中心に向けて働いている……とは限らない。地域によっては地面の真下を指向せず、微妙にズレている地点があるらしい。つまり、水平面から直角に真下へ伸びた線が、地球の中心へと向いていない地域があるそうだ。そのような場所で、水準測量を行うと誤差が大きく、実際の高さよりも高い(あるいは低い)数値が記録されてしまうことになる。重力基準の水準測量で山の高さを測れば、いまでもアムネマチンは世界最高峰であり、2位がK2(チョゴリ)で、チョモランマ(エベレスト)は第3位へと転落してしまうらしい。
 重力を測量基準には用いず、レーザーやGPSなどを用いた最新の測量技術で測れば、アムネマチンは中国の測量隊が規定したように6,282m前後になる……というわけだ。もちろん、もっとも高い山はチョモランマ(エベレスト)であることに変わりはないようだ。そのチョモランマ(エベレスト)だが、ネパール政府が公式に認定している標高8,848mもまた、重力基準の水準測量数値に依存している。だから、ヒマラヤ地域の重力誤差が考慮されておらず、最新技術で測量すると同山はもう少し高くなるらしい。
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 さて、子どものころからずっと記憶にひっかかり、気になっていた幻の世界最高峰アムネマチンなのだが、この文章を書くことでようやくスッキリした。いまでは、Googleマップの空中写真を崑崙山脈に合わせ、マウスでクローズアップさせるだけで、いつでもアムネマチンの姿を目にすることができる。どこかの国の登山隊が撮影した写真も、いくつか登録されているのでアムネマチンが“身近”になったぶん、子ども心をワクワクさせた「世紀の謎」や「まぼろしの山」が消えてしまったのは、ちょっとさびしい。

◆写真上:水準測量では、いまでも「最高峰」のアムネマチン山。(Googleマップより)
◆写真中上は、1967年(昭和42)に出版された『世界を驚かした10の不思議』(日本児童文芸家協会)。は、同書に収録された白木茂「世界一高いまぼろしの山」の扉。
◆写真中下は、米国の探検家レオナード・クラーク。は、晴れた日に近くの尾根からアムネマチン山を眺めながら測量を行なうクラーク隊一行。
◆写真下:Googleマップにみる、上空からとらえられた巨大なアムネマチン山。現在でも、山頂近くを飛行する航空機の古い高度計は、9,000m超を記録するという。


標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年。 [気になる本]

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 戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。のちにナラと名づけられた地域へ侵入してきたヤマト朝廷が、自身の出自とは異なる原日本の民族やまつろわぬ者たち、すなわち日本列島の先住者(記紀ではおもに近畿地域における先住「日本人」)たちを、「国巣(クズ)」(あるいは「土蜘蛛(つちぐも)」)と蔑称した、弥生末ないしは古墳時代をほうふつとさせる表現だ。
 当時の“洗脳”されていない、少しはまともな眼差しをもった人々が激怒したのも無理はないだろう。(その多くの人々は、別に「主義者」でなくても特高警察Click!憲兵隊Click!に引っぱられ恫喝や暴力を受けている) むしろ、腹を立てなかった人々の意識こそが大日本帝国を破滅させ、この国を「亡国」寸前の淵へと導いた元凶となる政治観であり社会観だったといえるだろう。この認識(全的な止揚)から出発しなければ、いまだ戦後を引きずる日本に明るい未来は存在しない。
 戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。これらの「作品」に共通しているのは、国家と個々の国民(人民)とを安易に一体化し、同一主体として(怠惰なことに)やすやすと語られるところが、今日の北朝鮮のスローガンと酷似しているということだ。
  
 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
  
 つまり、それにくくられない人間は「非国民」であり、刑務所や留置場、ゲットーへ送られて当然というスターリニズム下のソ連やナチス・ドイツなどとほぼ同一の、独裁的政治形態上ないしは国家主義的思想の軌跡上に存立している視座だ。これは、別に戦前のみの視座とは限らず、戦後も多くの人々が意識的ないしは無意識にかかわらず、持ちつづけている無神経かつ危うい眼差しだろう。
陸軍参謀本部前.jpg 黙つて働き笑つて納税.jpg
 「1億3千万のニッポン人の熱い願い」(世界選手権でのスポーツ解説者某)、「全都民の願い」(オリンピック招致における元知事某)、「国民の知らぬ間に電力の原発依存が3割」(スペイン講演での小説家某)・・・と枚挙にいとまがない。わたしは、某解説者が中継していた世界選手権大会にほとんど興味はなかったので、1億2千999万9千999人の「ニッポン人」が応援していたかもしれないのが少なくとも事実だし、1964年(昭和39)の東京オリンピックで破壊された、関東大震災Click!の教訓で造られた(城)下町Click!の防災インフラを、ちゃんと人口ぶんにみあう防災施設の復元とともに担保するのが先だと考えているわたしは、なんの疑問もなく5,000万円の札束を受けとる某知事にいわせれば、どうやら東京「都民」ではないらしい。
 ましてや、スリーマイル島原発事故のあと、1982年(昭和57)に泊原発の新設と、電力の原発依存3割をめざす政府へ異議を唱えるため、著名人たちが新聞の全15D広告を出す際に某小説家にも声をかけており、少なくとも彼は「3割依存」を大江健三郎や筑紫哲也などの呼びかけを通じて、30年以上も前から知っていたはずだし、わたしでさえ知っていた。つづけて、チェルノブイリ原発事故直後の1987年(昭和62)にも、某小説家に対しては同様の呼びかけを行なっていたはずだ。「国民が知らない間に」とは、内部でどのような主体設定がなされているのだろう?
 それを知りつつ、警告の意見広告を出した作家や文化人、ジャーナリストたちは、そしてなによりも80年代の二度にわたる活動を通じて集まった数百万の署名者たちは、丸ごと「国民」ではないのか? ちなみに、某小説家は当時の反核・反原発の呼びかけに対し、一貫してシカトしつづけていた。少なくとも個を尊重する文学者であれば、知っていたはずなのに知らないと称するウソや欺瞞には目をつぶるにしても、「国民が知らぬ間に」ではなく、「“私”が知らぬ間に」の誤りだろう。
 個々の主体がもつ価値意識や思想性、社会観、生活観、愛情、感覚、趣味嗜好、欲求などを、きわめて大雑把かつ無神経にすりつぶし、多様性や多角的なモノの見方を不用意かつ安易に踏みつぶしていくところに、やすやすと国家主義的な、ひいては全体主義的な思想を萌芽させる大きな“スキ”があることにこそ、改めて大きな注意を向けたい。
  
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
  
迷信は一等国の恥曝し.jpg 儲けることより奉仕の心.jpg
 かたや「科学戦」や「物量戦」を標榜し、増産増産をスローガンでわめき散らしつつ、縁起かつぎや迷信を「恥曝(さら)し」とバカにしておきながら、その舌の根も乾かぬうちに「神」への依存に傾斜していく愚劣さ、「理屈は抜き」でどうやって「科学戦」を勝ち抜くのか意味不明の不可解さ、英語は敵性言語だから日本語をつかえと規定しておきながら、「ハイキング」は日本語であり英語だとはつゆほども思わないおかしさに、当時の政府当局の愚昧ぶりがあらわになっている。
 もはや、政府の一貫したスローガンなど存在せず、その場限りの刹那的かつご都合主義的で無意味なコトバの羅列にすぎなくなっていくのが明らかだ。「デマはつきもの、みな聞きながせ」などは、真っ先に大本営発表へ適用されるべき標語だし、「米英を消して明るい世界地図」にいたっては、消えてしまったのは大日本帝国のほうだ。戦争末期になると国民の不満が鬱積し、「分ける配給、不平をいふな」と、よほどの「忠君愛国」主義者でない限り、特に都市部における政府への反感が噴き出しはじめたのがわかる。「初湯から御楯と願う国の母」にいたっては、わたしの祖母や川田順造の母親Click!から、すぐにも「うちじゃ、そんなこと教えてないよ!」と叱責が飛んできそうだ。
  
 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
  
 わたしは子どもをふたりしか育てていないので、当時の「非常時」には「御国(みくに)」へ兵士供給の「御奉仕」が足りない、半人前になるのだろう。あげくのはてに、子どものわずかな貯金さえ戦費に巻き上げようとする政府など、もはや末期症状で先が見えている。ロンドンやニューヨークではなく、日本の大都市が連合軍の旗で埋められるまで、あと2年と少ししかない。このころになると、大日本帝国の「亡国」思想は、ひねりも装いも飾りもなく、膨大な数の犠牲者を生みながら、ヒステリックかつムキだしの様相を呈するようになる。
 「理屈ぬき」で「科学戦」に勝ち抜こうなどという標語は、戦後も生きのびていた東條英機Click!か、畳の上で死んだインパール作戦の責任者・牟田口廉也がつくったのではないかとさえ思えてくる。1944~45年(昭和19~20)につくられた「作品」は、もはや標語の匂いや体裁さえなしてはいない。ただただ「殺せ!」を絶叫し繰り返すだけの、殺人狂のような標語になり果てていった。
強く育てよ召される子ども.jpg 無職はお国の寄生虫.jpg
 余談だが、同書の挿画を担当しているのは清重伸之と依田秀稔のふたりで、皮肉や揶揄に満ちた出来のいいイラストが多いのだけれど、わたしとしては現代書館の書籍類では学生時代からなじみ深い、故・貝原浩Click!に描いてほしかった。あと10年ほど長生きしてくれたら、『黙つて働き笑つて納税』のような本の挿画は、彼の独壇場だっただろう。

◆写真上:1944年(昭和19)1月31日、淀橋区内の小学校における授業風景。(新宿歴史博物館蔵) 右手に、「一億一心」と「これからだ/出せ一億の底力」の標語が見える。
◆写真中上は、市ヶ谷の陸軍参謀本部前の焼け野原。参謀本部に勤務していた中井英夫Click!は、当時の日記で陸軍の存在を「いつさい無価値」であると規定していた。は、里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』(現代書館)。
◆写真中下:「迷信は一等国の恥曝し」()と「儲けることより奉仕の心」()。
◆写真下:「強く育てよ召される子ども」()と「無職はお国の寄生虫」()の挿画。


江戸東京の匂いがせえへんのや。 [気になる本]

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 たとえば、わたしが大阪で40年暮らし、ひたすら大阪の歴史や文化、言語、風俗習慣を学習して、地域のテーマ本を書いたとする。かなり微にいり細にいり、突きつめて取材し研究し、小さなところまでこだわって調べ表現したとする。でも、「よう勉強してはりまんな。そやけど、どっかちゃうねん。どこがどうゆうわけやないけどな、なんや知らん、ちゃうねんな。大阪の匂いがせえへんのや。大阪やないねん、どっかよその街みたいやで。・・・さよか、あんた日本橋(にっぽんばし)やのうて東京のほうでっかいな」と突き放していわれてしまうだろう。いや、これは別に大阪に限らず、全国のどのような街や地域でも同じことだろう。わたしにとって、江戸東京をテーマにした多くの書籍は、実はこんな感じのものが多い。江戸東京の匂いがしないのだ。
 そんな本が、ちまたやネットの書店にあふれている中で、久しぶりに「あっ、ちゃんと地場の感覚で書いてるな」・・・という本に出会った。といっても、江戸東京ブームにのった流行りの地域本ではなく、人文科学ないしは社会科学的な側面から、江戸とヨーロッパとの「市民社会」について比較・考察しようと試みている、文化人類学者による学術書ということになるのだろうか。2011年に岩波書店から出版された、川田順造『江戸=東京の下町から-生きられた記憶への旅-』がそれだ。久しぶりに、江戸東京の「地に足がついた」本を手にしたような感触だ。
 明治維新により、街の環境や風情が激変したのは山手の武家社会であり、実はいわゆる旧市街地、東京の(城)下町Click!には、400年以上にわたる人や街の歴史が、連綿と現在にいたるまでつづいている。また、幕末の混乱や明治維新で激変した乃手でさえも、明治から大正期へとしばらく時代がすぎると、もともと住んでいた旧幕臣たちが続々ともどりはじめ、成功した人物は先祖の屋敷があった乃手の敷地を、わざわざ買いもどして住んでいたりする。こちらでも、上落合の吉武東里Click!らとともに国会議事堂Click!を設計した、やはり上落合在住で祖父が旗本だった大熊喜邦Click!が、ふるさとの番町の屋敷跡へもどっている事例をご紹介した。
 著者の川田順造は、わたしのふるさととは反対の大川(隅田川)をはさんで辰巳の方角、深川の小名木川(女木川)に架かる高橋(たかばし)のたもとで、代々暮らしてきた家に育っている。わたしの祖父母以前の人々が眠る深川の墓とは、わずか500mほどしか離れておらず、古い町名でいうなら深川海辺大工町という街だ。ちなみに、うちの墓は深川閻魔Click!も近い旧・深川万年町にある。深川の浅瀬が埋め立てられ、寺社がいっせいに引(し)っ越してきて寺町を形成した江戸初期に、おそらく先祖は墓を移転させるか建てるかしているのだろう。著者は、小名木川(女木川)を行き交う川舟(おもに房州の物資を運ぶ小型船)を見ながら、幼少時代をすごしている。
 本書の冒頭は、徹底した地域の人たちへの長年にわたる取材(インタビュー)で構成されている。その対象者は、やはり若い子から年寄りまで女性が圧倒的に多い。別に、長生きしてるのは女性が多いからではない。わたしは、ときどき城下町の生活を中国や朝鮮半島から輸入され、新モンゴロイド系北方民族によって形成された儒教思想に象徴的な生活観の影響をほとんど受けていない、街には政治(まつりごと)の巫女と生活(たつき)の巫女とがつい戦前まで生きていた、古モンゴロイド系ポリネシア民族の生活文化が色濃い原日本の匂い、すなわち、あたかも琉球弧のような「女性に巻きついて」暮らす感覚・・・という表現をしてきたが、著者の身体にはまさしく、その地霊(ゲニウス・ロキ)が染みわたっている。
 これは、別に江戸東京地域の南関東のみならず、北関東や東北地方の各地域についても当てはまることだろう。ちょうど、少し前にご紹介した「九州男児」である薩摩の八島太郎Click!とは、正反対の社会規範であり生活観Click!だと思われる。ちなみに、邪馬壱国の卑弥呼(日巫女)やナグサトベClick!ヌナカワClick!など古代日本の各地に展開した女王国(原日本)の時代以来、聖域や社(やしろ)の主は巫女=女性が大勢であり、それが制度的に神主=男のみへと強制的に限定され、巫女の地位が“助手”へと転落させられたのは、中国や朝鮮半島の思想・信条規範に忠実な明治政府による、たかだかこの100年ほどのことだ。横道にそれるが、江戸東京の代表的な社のひとつである愛宕権現社Click!に女性神主が誕生したのは素直によろこばしい。以下、同書から引用しよう。
深川萬年橋.jpg 江戸=東京の下町から2011.jpg
  
 「下町」という言葉から何を連想するか。私など真っ先に「女」という言葉を思い浮かべてしまう。意気地、侠(きゃん)、伝法(でんぽう)、なさけ、いさみ・・・これらの言葉は、ウーマンリブなどということを人が口にするようになるより遥か前から、私たちの江戸=東京にはあった。いや、下町女によって生きられていた。めっぽう気が強いくせに涙もろい。人に頼まれるといやといえない。意気=心のおしゃれを大切にする。そして何よりも行動派だ。「下町女」という言葉は、何と坐りがいいのだろう。そして初夏の川風のようにさわやかだ。
  
 第3章の冒頭を読んで、「この本はホンモノだぜ。信用して読むことができる」と、わたしはすぐさま感じとることができた。膨大な江戸東京ブーム本には、細かな生活の感覚や暮らしの機微、きちんとした地場の歴史や記憶の地層、実生活の気配や心情に裏打ちされた「思想」(というとオーバーだが)、男女関係や近所づきあい、人間関係の妙味などのリアルな記述が、ほとんど存在していないことに、江戸東京ファンの方々はとっくに気づかれているだろう。「よう勉強してはるけどな、大阪の匂いがせえへんのや」の感覚、地域の“キモ”の部分だ。
 また、日本橋と深川とで家庭内における「教育」や環境も、非常に似通っていることに気づく。著者の母親とうちの祖母Click!とは、同一人物なのではないかと思うくらいだ。「小雨にけぶる神宮外苑・・・」の学徒出陣Click!が行なわれた、親父が学生時代の1943年(昭和18)ごろ、開戦の直前まで米国映画を日本橋で楽しんでいた(おそらく祖母もだが)親父が、「(日本が)アメリカに勝てるわけがねえや」と口にしたのを誰かに密告され、交番に引っぱられておそらく巡査に殴られている。このエピソードは記事Click!にも書いたけれど、このような言葉は当時の政治や社会的風潮からは距離を置いて「斜」に眺め、冷静かつクールな観察眼を育むような家庭環境でないと、なかなか出てきはしないだろう。太平洋戦争中に語られた、著者の母親の言葉を引用してみよう。
深川1.JPG
本所深川絵図.JPG 日本橋北内神田両国浜町明細絵図.JPG
  
 (前略) 太平洋戦争末期にラジオで毎日のように聞かされ、私も「国民学校」で歌わされていた「勝ち抜く僕ら少国民/天皇陛下の御為に/死ねと教えた父母の/赤い血潮を受け継いで/心に決死の白襷/掛けて勇んで突撃だ」という歌を、うっかり家で歌って、気性の激しい母親から「うちじゃ、そんなこと教えていないよ」と厳しく叱られたことがある。
 すでに繰り返し書いたように、現世享楽型の下町娘として育った母は、戦争には初めから反対。昭和十五年(一九四〇)に内務省布告によって制度化された隣組が騒々しく動員され、実際の役に立たないバケツ・リレーなどをやらされる「防空演習」も、心から軽蔑していた。高等女学校を出ただけで特に教育もなかったし、「反戦の思想」があったわけではない。ただ芝居にも行かれなくなり、食べる物も不自由になる国家の戦争が嫌いという、当時のお上の言葉でいえば“非国民”だったに過ぎない。その厭戦振りは徹底したもので、ハワイ奇襲攻撃やイギリス東洋艦隊殲滅の戦果がはなばなしく報じられたり、香港やマニラやシンガポール陥落の祝賀ムードで、提灯行列が催されたりした状況でも、母の厭戦は変わらず、「はじめの勝ちは、嘘っ勝ちだ」、「本当にアメリカやイギリスに勝てるわけがない」と言っていた。
  
 まさに、親父の言葉とは二重写しであり、二二六事件で警備兵に向かって「邪魔するんじゃないよ、どきな!」と怒鳴った祖母の面影Click!とのダブルイメージだ。ひょっとすると、「アメリカに勝てるわけがないじゃないのさ」と家の中でいっていたのは、祖母自身だったのかもしれない。そして事実、そのとおりになってしまい、「亡国」思想の権化であった大日本帝国は破滅した。下町では、家庭内における「教育」や、家族単位としての暮らしの「思想」、“家”としての姿勢や構えは、女性がヘゲモニーを掌握してリードするのが自然であたりまえの環境であり、それが連綿とつづいてきたこの城下町・江戸東京を形成する伝統や生活習慣の基盤でもある。
 数百年も前から、世界で最大クラスの都市だったこの街、わたしの江戸東京の「市民社会」が、グローバルな史的視野からみてどのような意味や位置づけ、学術的な普遍性をもつものかどうか、著者はこれからも継続して深く追究していくとして本書の文章を結んでいる。
  
 だがいうまでもなく、江戸=東京下町文化の、歴史研究の視野におけるモデルとしての意味を問うためには、この説の初めに述べた、「ソシアビリテ論」が原初に、現代の歴史研究のあり方に対して提起した問題意識を参照すべきだ。その時まず問われるのは、江戸=東京下町文化が、日本の歴史変動において果たした役割であろう。本書のこれまでの叙述では、明治維新という国民国家の形成とそれに伴う国家レベルでの変動と断絶に対して、江戸=東京下町の地域文化の連続性を私は強調してきた。そのような視点からは、変動に注目する歴史研究において、変動に対してはむしろ否定的に働いた力、否定的であったことによって「変動」においてそれなりの意味をもったモデルとして、捉えられるべきであるかも知れない。
  
深川2.jpg 深川3.JPG
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 隅田川や深川の掘割りを、レヴィ=ストロース夫妻と小舟を浮かべてたどりながら、著者は深川に住んでもいいという、東京下町がお気に入りだった夫妻の言葉に耳を傾ける。薩長の明治維新でも、「亡国」思想による破滅的な戦災でも断絶していない(城)下町の、今度はどんな風景や姿を見せてくれるのか、あるいはマクロ的な視野から江戸東京の城下町(市民社会)とは世界的にどのような位置にあり、どのような意味づけが展開しえるものなのか、川田順造の今後の仕事が楽しみだ。そういえば、川田家で大切に保存されていた大量の浮世絵が、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!ですべて灰になったのも、うちの経緯Click!とそっくりなことに気づくのだ。

◆写真上:深川の代表的な堀割りのひとつ、海辺橋から眺めた仙台堀。
◆写真中上は、高橋のひとつ下で隅田川も間近な万年橋を描いた安藤広重『名所江戸百景』のうち第56景「深川萬年橋」。は、2011年に岩波書店から出版された川田順造『江戸=東京の下町から-生きられた記憶への旅-』の表紙。
◆写真中下は、深川のとある商店街。下左は、尾張屋清七版の切絵図「本所深川絵図」にみる高橋と海辺大工町界隈。下右は、同切絵図「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」にみる両国橋西詰めのわたしの実家界隈で、日本橋米沢町や薬研堀の記載が見える。
◆写真下は、深川の街並みと雪吊りが行われている清澄庭園。下左は、安藤広重『名所江戸百景』のうち第5景「両ごく回向院元柳橋」。本所回向院側から隅田川をはさみ、現在の東日本橋界隈を眺めた風景で、中央やや右手に描かれている元柳橋が現在の日本橋中学校Click!のあたり。下右は、同じく第98景「両国花火」で遠方には深川が見え両国橋西詰めは画面右手。


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