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落合地域の荒玉水道は1928年より通水。 [気になる下落合]

野方水道塔.JPG
 落合地域に荒玉水道Click!が引かれたのは、同水道の野方配水塔Click!が1929年(昭和4)に完成し、つづいて翌1931年(昭和6)に大谷口配水塔Click!ができて、砧村の浄水場から板橋町まで全線が竣工・通水したあとだと考えていた。だが、落合地域への給水は野方配水塔ができる2年前、1928年(昭和3)11月1日からスタートしていることが判明した。
 だが、落合地域は富士山の火山灰土壌(関東ローム)で濾過された、清廉で美味しい水Click!が湧く目白崖線沿いの立地だったため、本格的に水道が普及するのは戦後のことであり、水道管はなかなか一般家庭にまでは普及していない。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』によれば、給水栓装置(いわゆる水道蛇口)の設置個数は、わずか1,880個(1932年7月現在)にすぎない。しかも、この普及数には消火栓や消防署など公共施設、工場、企業などへの給水件数も含まれており、家庭への設置件数はさらに少なかったろう。落合地域における同年現在の戸数は、7,000戸(1931年現在で6,967戸)をゆうに超えていたはずで、一般家庭への水道の普及は1割にも満たなかった可能性が高い。
 落合地域の水道事業について、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 就中文化生活の普及上、上水道の敷設は、衛生上は勿論防疫防火の上よりも急務とし、大正十三年豊多摩、豊島両郡関係町村上水道敷設調査会に加盟し、爾来着次事業を進め、昭和三年十一月一日を以て本町一般給水を開始するに至つた。現在町内給水栓装置個数は千八百八十個である。(昭和七年五月調)
  
 東京の西部郊外に位置する、豊多摩郡と豊島郡に上水道が必要になったのは、もちろん関東大震災Click!直後からはじまった、市街地から郊外への人口流入だった。震災が起きた1923年(大正12)現在、すでに両郡の人口は49万2千人をゆうに超えており、震災後は爆発的に人口が増えつづけることになった。おそらく、上水設備を造っても造っても足りなかった、1960年代の神奈川県Click!のような状況だったのだろう。
 もうひとつの課題として、人口が増えるほど地下水を汲みあげる量も増え、地下水脈が深く下がってしまい、既存の井戸が枯渇しはじめたことも挙げられる。特に、町村へ誘致した工場の近くでは深刻な問題で、工場や企業へ上水道を引くことにより地下水の深層化を防止するという意味合いも含まれていただろう。当時は「井戸」といっても、モーターで地下水を汲みあげて一度給水タンクClick!にため、家庭の各部屋に設置された蛇口へと給水する、水道と同じような使われ方をしている。
 荒玉水道が敷設される予定の町々は、豊多摩郡と豊島郡(計画当初の郡名は北豊島郡)の合わせて13自治体におよんだ。豊多摩郡は中野町をはじめ、野方町、和田堀町、杉並町、落合町の5町。(北)豊島郡は板橋町をはじめ、巣鴨町、瀧野川町、王子町、岩淵町、長崎町、高田町、西巣鴨町にまたがる8町の計画だった。このうち、落合町とその周辺域へ給水する、本線から枝分かれした幹線は、第5幹線から第8幹線までで、落合町に給水していたのは、中でも第5幹線と第7幹線と呼ばれていた支管だった。
荒玉水道砧村浄水場(空中)1931.jpg
荒玉水道砧村浄水場1931.jpg
荒玉水道砧村浄水場内部1931.jpg
荒玉水道杉並鉄管試験所1931.jpg
 第7幹線は、長崎町字五郎窪Click!の武蔵野鉄道・東長崎駅付近で本線から分岐し、高田町字四谷(四ッ家Click!)、つまり現在の目白台あたりに設置された幹線終点までつづいていた。また、第5幹線は中野町青原寺付近で本線から分岐し、上落合八幡神社付近(現・八幡公園付近Click!)まで通水している。つまり、第7幹線は下落合と西落合のエリアを、第5幹線は上落合エリアをカバーしていたことになる。また、第6幹線は落合地域の西に隣接した野方・上高田一帯をカバーし、第8幹線は長崎町の北部から池袋を含む西巣鴨町一帯に給水していた。
 ちなみに、第5幹線には口径400mmの水道管が使われ、第7幹線には口径500mmの水道管が採用されている。幹線ごとの給水状況を、1931年(昭和6)に東京府荒玉水道町村組合が出版した、『荒玉水道抄誌』から引用してみよう。
  
 第五幹線
 分岐地点:中野電信聯隊西北隅裏通 経過地:吉祥寺街道ヲ東方ニ進ミ戸塚町境界ニ至ル 給水区域:野方町、落合町及中野町ノ一部
 第七幹線
 分岐地点:長崎町籾山牧場前(ママ) 経過地:府道第二一号線ヲ東南ニ進ミ落合町下落合ニ出テ省線ヲ横断シ学習院前ヨリ小石川区境界ニ至ル 給水区域:長崎町、落合町、西巣鴨町ノ一部及高田町ノ一部
  
 配水の本管から支管の一覧では、第7幹線の分岐点が長崎町の籾山牧場Click!となっているが、本文では「東長崎駅付近」が分岐点となっており、両者には200m以上の距離がある。ひょっとすると、本文に書かれているのが実際に工事を終えた分岐点で、支管一覧の表記は計画段階のリストを、そのまま掲載してしまったものだろうか。
荒玉水道野方配水塔1931.jpg
荒玉水道配水塔建設1.jpg
荒玉水道配水塔建設2.jpg
荒玉水道配水塔建設3.jpg
 本線・幹線含めた水道管の敷設の様子を、『荒玉水道抄誌』から再び引用してみよう。
  
 配水鉄管は全給水区域を十一区に介(ママ:分)ち各区の中央部に一條宛の幹線を敷設し、之より各種の支管を分岐しつゝ末流部に至るに随ひ漸次管径を縮小し、末端及各支管は隣接幹線と相互に連絡せしめ鉄管網を作り配水機能を完全ならしむ、尚五百粍(mm)以上の幹線に対しては給水副管を設く、給水区域は制水弇(えん)に依り更に九十一の断水区域に区分し非常の際に備ふるものとす、(カッコ内引用者註)
  
 荒玉水道で敷かれた水道管には、主管用に口径700~900mmのもの、幹線用に口径300~600mmのもの、支管用に口径75~250mmのものなど、11種類の水道管(鉄製)が使用されている。その長さは、実に43万7,286間(約80km)にもおよんだ。
 余談だが、落合地域の南と南西に隣接した戸塚町(現・高田馬場地域)は、荒玉水道を利用していない。1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)によれば、当初は荒玉水道事業に加盟しようと、町議会Click!へ加盟案が提出されたが否決され、結局、郡部の水道事業ではなく東京市の水道網を延長して戸塚町内まだ引き入れ、東京市へ上水分譲契約料を支払って、戸塚町独自の町営水道としてスタートさせている。水道の延長支管は、おそらく東側に隣接する牛込区から引っぱってきているのだろう。
荒玉水道送水管埋設工事.jpg
荒玉水道巣鴨町水道橋.jpg
荒玉水道池袋病院消火栓試験.jpg
 荒玉水道は、1925年(大正14)4月の水源工事(砧村浄水場の建設)にはじまり、翌1926年(大正15)4月からの送水鉄管と配水鉄管の敷設工事、1927年(昭和2)1月からの配水塔設置を含む給水場と鉄管試験所の工事スタート、そして、1931年(昭和6)の大谷口配水塔の竣工まで、建設リードタイムに6年間を要した一大プロジェクトだった。ただし、工事を終えた区域から通水をはじめたため、1928年(昭和3)8月には試験通水と鉄管内掃除を終え、落合地域では同年11月1日から上水道の利用が可能になっている。

◆写真上:現在は災害時の貯水タンクとして使われている、荒玉水道の野方配水塔。
◆写真中上は、1931年(昭和6)撮影の砧村にあった荒玉水道浄水場の空中写真と全景。は、浄水場の地下内部。は、杉並町の荒玉水道鉄管試験所。
◆写真中下は、竣工間もない野方配水塔。は、建設中の大谷口配水塔。
◆写真下は、荒玉水道の送水管埋設工事で、鉄管の口径からみて主管の埋設工事現場と思われる。は、巣鴨町(現・豊島区巣鴨1丁目)で山手線を横断する江戸橋鉄管橋。は、西巣鴨町の池袋病院近くで行われた消火栓の水圧テスト。

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翔んだカップル・変なカップル。 [気になるエトセトラ]

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 高校生のころ、「どうしてあのふたり、付き合ってるの!?」と思うような、妙なカップルがいた。たとえば、たくましく大きな体育会系の女子に対して、ヒョロヒョロッとしたガリ勉の男子がカップルだったりすると、「なんで?」というようなウワサが流れてきた。誰もが認める美貌で評判の女子が、気弱そうで地味な男子と「すげえ仲がいい」と聞くと、「はぁ?」となったのを憶えている。人は、自分にはないものを求めるというが、DNAレベルでそういう本能をどこかに宿しているのかもしれない。
 街を散歩していると、たまにそんなふたり連れに遭遇することがある。このふたりは夫婦でないし、恋人同士にも見えないし、上司と部下や役員と秘書、パトロンと愛人、タレントとマネージャーのようにも思えないし、姿かたちや仕草もしっくりこなくて、装いの趣味だって全然ちがう……というようなカップルだ。つまり、お互い仲がよさそうに歩き親しそうに話していながら、それぞれの周囲にはちがう空気が流れている、あるいは、それぞれ異なる“気”を発散している……そんな雰囲気のふたり連れだ。
 わたし自身も、そんな“空気”がちがう異性を連れて親しげに歩いたことがある。お互いにまったく共通点がなく、育った環境もちがえば共通の話題も少ないし、性格だって似ているとは思えない。ましてや、つき合っているわけでもないのに、なぜかウマが合うというのか、反りが合うClick!というのか、お互い惹かれ合って仲よくなるという妙な関係だ。まあ、親しい友だち関係といえばその通りで、別にめずらしくない間がらなのだけれど、異性同士でこういう関係というのはそう多くなく、新鮮な感触にはちがいない。
 そのひとりは、大学を出てすぐのころに仕事で知り合った、米国ボストンのH大学の某研究所につとめる女性だった。仕事で教授とともに来日したのだが、わたしが地元だということで東京の街を案内する世話役をおおせつかった。……というと聞こえがいいのだけれど、大学を出たてのわたしには、いまだ任せられるまとまった仕事がほとんどなく、教授が日本のあちこちで仕事をしている間、かなり手持ちぶさたとなる秘書の“お守り”兼ボディガード役をしなければならなくなったというわけだ。英会話が得意でないわたしは、半分途方に暮れて気が重かった。
 ところが、この女性は少なからず日本語ができたのだ。さすがに、むずかしい語彙や複雑ないいまわし、当時の流行り言葉などはわからなかったけれど、ふつうの日常会話にはほぼ困らなかった。どうしても通じないときは、わたしが辞書で調べてなんとか“通訳”した。しかも、彼女とはウマが合うというのか、妙に気が合ったのだ。わたしは彼女を連れて、東京のあちこちを歩いた。知らない人が見たら、いまだ学生のように見えるラフな姿の男と、わたしと同じぐらいの背丈がある、米国イーストコーストの典型的なWASP然とした20代のブロンド女性のカップルは、妙ちくりんな組み合わせだったろう。
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 お互い性格もかなり異なり、彼女は米国人らしく大らかで大雑把(はっきりいえばガサツ)な質(たち)なのだけれど、歯の手入れにはなぜか執着し熱中していて、当時はなかなか東京でも手に入らなかったデンタルフロスを求め、ふたりで薬局を訪ね歩いたのを憶えている。また、日本の音楽に興味を持っていて、あらかじめどこかで仕入れたらしい曲のフレーズを口ずさんでわたしに聴かせ、「この曲の入ったアルバムがほしいの」といった。そんなこといわれても、わたしは米国のJAZZ事情なら彼女よりもよほど詳しかったけれど、日本の歌謡曲には不案内なので途方に暮れた。これはレコード屋でメロディを歌わなきゃダメか……と思っていたところ、たまたまTVから流れてきた曲に気づき、彼女と店で岩崎宏美のアルバムを無事に買うことができた。
 かなりの時間をいっしょにすごすうち、彼女とはなんとなく以心伝心でやり取りができる関係になっていった。縫製に優れた、日本製のやわらかいパンプスがほしいというので、わたしは銀座にある第二文化村Click!東條さんClick!の店(ワシントン靴店)へ連れていった。製品をいろいろ見せてもらい、彼女がmaterialを気にしたので店員に訊ねると、彼女に向かって流暢な英語で「素材は柔らかなカーフです」と答えた。「カーフ?」と首をかしげ、何度か男性店員に訊き返していた彼女は、困った顔をしてわたしをふり返ったので、「仔牛の皮だって」と日本語で通訳すると「ああ、了解」と日本語で納得したのに笑ってしまったが、店員は途方に暮れたような眼差しをわたしたちに向けた。きっと、このふたり、いったいどういう連中なのだろうと怪しんだにちがいない。
 当時、TVで流行っていた『チャーリーズ・エンジェル』のシェリル・ラッド(どこか少し面影が似いていた)が履くような、ブロンドの髪に似合う明るいベージュ色に細いストライプの入った、わたしが「やっぱり、これかな?」と奨めたパンプスに決まり、以降、それを履いていると露わな脚をわたしの前に突き出して、「カーフ!」と日本語でいっては笑っていた。こういうところ、米国の女性は無防備というかあけっぴろげで、こちらがドギマギするのもおかまいなしだ。
 もうひとり、わたしとはまったく住む世界がちがう異性と親しくなったことがあった。学生時代のアルバイト先で知り合った先輩の、そのまた知り合いだった女性だ。彼女とも、妙にウマが合うというか気がよく合って、食事をしたりコーヒーを飲んだりしながら、とりとめなく他愛ない会話したのを憶えている。わたしとは、やはり出身地も育った環境も経歴もまったく異なり、共通の話題がほとんど皆無だったにもかかわらず、平気で楽しくおしゃべりしつづけてしまうという、妙に気のおけない関係だった。彼女の職業は芸者、いや正確にいうなら芸者の“卵”だった。
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 高校を卒業してから花柳界に入り、いろいろな稽古ごとに励んでいるまっ最中だった。この世界では、中卒から修業をはじめるのがあたりまえなので、彼女のスタートは3年遅れでたいへんだ……というようなことをいっていた。だが、1980年(昭和55)前後ともなると、昼間の時間がぜんぶつぶれるような、ぎっしりと詰まった稽古事カリキュラムを強制したりすれば、さっさと辞めて転職してしまう子も多いので、午後の早い時間にはけっこう自由時間が与えられていたらしい。まさにバブル経済がはじまろうとしていた時期で、仕事探しにはそれほど困らなかった時代だ。
 彼女は、いつも小ぎれいな普段着(和服)姿に、江戸東京らしい紅い琉球珊瑚玉をひっつめにした長い髪に、1本かっしと挿して現れたので、学生っぽい薄汚れたジーンズ姿のわたしとはまったく非対称で釣り合わず、やはり怪しいカップルに見えただろう。彼女は日本舞踊や、ならではの作法を習っているせいか、当然、芸者(の卵)らしいシナをつくるのが自然で、喫茶店や牛鍋屋でそんな艶っぽい(玄人っぽい)姿を見せられたりすると、彼女が薄化粧にもかかわらず周囲からは好奇の目で見られた。幼馴染みの『たけくらべ』関係と見られるのならまだしも、芸者と悪いヒモとか、犠牲になって苦労している姉と大学へ通う弟……それにしちゃ似てねえなぁとか、ロクな目で見られていなかったような気がする。もちろん、彼女の方がわたしより3つ4つ年下のはずだった。
 なにをそんなに話すことがあったのか、よく待ち合わせてはお茶や食事をしていたけれど、その会話の中身をほとんど憶えていない。わたしは、(城)下町Click!のことをずいぶん話したような気がするが、彼女は高校時代やいまの生活のこと、故郷(確か茨城だった)のことなどを話題にしていたような気がする。いずれにしても、ほとんど忘れるぐらいだからたいした話題ではなかったのだろう。東京には友だちが少なく、気さくな世間話に飢えていたのかもしれないし、わたしはといえばめずらしい職業の気の合う異性相手に、ふだんとはちがう時間をリラックスしながら楽しんでいたのかもしれない。
 もし、これが戦前だったりすれば、たとえ“卵”といえども芸者を呼ぶには、それなりの格のある待合や料理屋に上がらなければならず、少なからず玉代(祝儀)を用意する必要があったろう。ましてや、昼間の「お約束」(芸者を昼間、散歩や食事に連れ歩くこと)ともなれば、その時間によってはとんでもない花代を覚悟しなければならない。お茶か食事を付き合って話をするだけの、今日の「レンタル彼/彼女」ビジネスの時間給に比べたら、その4~5倍はあたりまえの花代になりそうだ。とても貧乏学生が経験できる世界ではないのだが、そこは戦後の労働環境と民主主義の世の中だから、自由意思による行動がある程度許されていたのだろう。いずれにしても、貴重な体験をさせてもらったものだと思う。
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 出身地や生活、性格、考え方、職業、趣味嗜好などがまったくちがう人、ときに国籍や人種までが異なる人と、妙にウマが合って相手の心が読めるほど親しくなることがある。本来なら接点がまったくないはずの、質(たち)が正反対で釣り合いそうもない異性と、少なからず面白い時間をすごすことができる。そこが、人間同士の「ないものねだり」の性(さが)であり、人間関係の妙味なのだろう。ちなみに、芸者の“卵”の彼女は、座敷に出るようになってからほどなく結婚して芸者を辞めたと、風の便りに聞いている。戦前なら、そんな自由で“わがまま”な行為は、決して許されなかっただろう。

◆写真上:そよ風が吹くとキラキラ美しい、街を歩くブロンド髪の女性。
◆写真中上は、クリスマスの時期に撮影した銀座ワシントン靴店本店。は、わたしとの会話中に撮影した写真で赤いLARKが似合う彼女のしぐさが懐かしい。
◆写真中下は、幕末に来日したベアトが撮影した江戸芸者で、おそらく日本橋か柳橋芸者だと思われる。は、いまでも芸者さんを呼べる山王に残った古い料亭の軒下。
◆写真下は、江戸東京各地のお座敷で唄われた江戸小唄で一世を風靡した立花家美之助Click!は、そろそろ芸者さんたちの出勤時刻となる神楽坂の夕暮れ。

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気になる新聞記事の資料いろいろ。 [気になる下落合]

陸軍技術本部跡.JPG
 このサイトを書くために、昔の多種多様な新聞記事を眺めていると、落合地域とは直接関係がなくても、なんとなく気になる記事にめぐりあうことがある。たとえば、明治時代の新聞には、社会インフラをめぐる事件や事故のニュースが多い。それだけ、いまだ運用技術の精緻さや、それを扱う人間のノウハウやスキルが低く、うっかりミスや勘ちがいが多かったのだろう。中でも、鉄道の事故がことさら目をひく。
 落合地域における鉄道事故というと、1932年(昭和7)3月4日の夜に山手線の高田馬場駅-目白駅間で起きた、軍用の特別列車を見送る群衆に貨物列車が突っ込んだ、大規模な人身事故Click!が想起されるが、これは省線側の技術が拙劣で運転技術が未熟だったわけではなく、立入禁止の線路内に入りこんだ群衆に起因する事故だった。
 また、西武電鉄Click!の山手線をくぐるガード工事が営業開始に間に合わず、やむなく高田馬場仮駅Click!を山手線の土手沿いに設営した1927~1928年(昭和2~3)、仮駅へと向かう軌道(線路)のカーブが鋭角すぎて脱線事故を起こしやすく、ときに下落合駅が実質的な始点(終点)になっていたという話も、無理を承知で開業を宣言するための応急処置的な特殊ケースだろう。脱線(脱輪)事故で、死傷者が出たという話も聞かない。
 ところが、明治期に起きた鉄道事故は、駅に停車中の列車に後続がそのまま突っこんだというような、通常はありえない事故が多い。たとえば、多くの死傷者を出した事故に、1912年(明治45)6月17日に東海道線大垣駅で起きた「軍用列車衝突事故」もそのひとつだ。以下、翌6月18日の読売新聞から引用してみよう。
  
 ●軍用列車衝突/△死者七名△重軽傷五十三名
 十七日午前十一時四十分東海道線大垣駅構内に於て貨物列車が軍用列車に衝突し為に軍用列車は脱線破壊して搭乗兵士五名即死別に重軽傷者五十三名を出せる大椿事あり、今約二時間に中部管理局運転課へ到着せる電報廿数通に及び本社着の名古屋電報を綜合して其詳報を記さん ▲発車間際の大椿事 丁号軍用列車は四輪三等車廿三輌、四輪三等緩急合造車二輌、計廿五輌より成り搭乗兵員は約八百名(中略)にて十六日午前十一時四十七分新宿を発し十七日午前名古屋着同九時五分同駅を発車し同十一時大垣駅に着し下関行客車第十五号の通過を待つ為四十分停車せしより兵士一同下車して構内に於て休息し第十五号列車通過の後隊伍を整へて露台(プラットホーム)を進み新に本線に押下げられし丁号列車へ乗込み将に発車せんとする十一時四十分、後方より名古屋発の第四百五十九号貨物列車が常置信号機の危険を示し居るにも拘はらず勢ひ込むで進行し来り機関車乗込の名古屋機関庫在勤清水吟次郎(二九)火夫川村泰三郎(二二)の両名がそれと気附きし時は既に遅く轟然たる音響と共に機関車は丁号列車の最後車輌に衝突せり(カッコ内引用者註)
  
 記事中には死者5名重軽傷者53名と書かれているが、実際には同日のうちに重傷者2名が死亡しているので、死者7名重軽傷者51名が正しいようだ。
 この軍用列車は、仙台の第二師団の予備役兵たちを乗せ、途中の東京で第一師団の予備役兵士、そして名古屋で第三師団の予備役兵たちを乗せて、3個師団による混成軍用列車だった。予備役兵たちの行先は、下関で下車し大陸に向かう航路に乗船して「満州」をめざすことだった。おそらく、日露戦争で獲得した南満州鉄道の周辺警備に召集された予備役兵たちだったのだろう。貨物列車の運転士の信号機見落としが原因とされているが、事故直後の報道なので可能性のひとつを書いているだけかもしれない。明治期には、ポイントの切り替えミスによる衝突事故も多かった
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読売新聞19120618.jpg
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 また、昭和に入ってからも高田馬場駅でこんな事故が発生している。1929年(昭和4)1月11日に発行された、読売新聞から引用してみよう。
  
 高田馬場駅でレール浮く/工事中に土砂崩れ
 省線高田馬場駅では目下構内に西武鉄道高田馬場駅との貨物連絡用エレベータ取付工事中であるが十日午後二時十五分坂井組の人夫十五六名が右箇所に横穴を掘つて土取作業中突然天井の土砂が崩壊し其上にあつた架線の電柱が傾斜した上レールが浮いたので直ちに内廻り線だけ運転を停止し同駅及目白駅から折り返し運転を行つた 新宿保線事務所から応援工夫多数駆けつけ午後四時四十五分復旧したがラツシュアワーの(ママ:こ)ととて一時は大混雑を呈した。尚此際逃げおくれた人夫渡辺亀次郎(五三)は右手に軽傷を負ふた
  
 おそらく、高田馬場駅構内から山手線の線路土手に横穴を掘っていたら、上を通過する電車の振動で天井が崩落し、地上の電柱も傾いて、下から見上げると山手線内回りの線路がむき出しになって浮いていた……というような事故だったらしい。
 深刻な人的被害もないので、現場では「あ~あ、やっちゃった。知らないよ~知らないよ~」と、坂井組のスタッフたちは青ざめながら現場を取り囲んでいたのだろう。作業員が軽傷で済んでなによりだが、山手線を2時間半ストップさせた西武鉄道は、鉄道省に賠償金を取られたのはまちがいなさそうだ。
 戸山ヶ原Click!の陸軍施設にからみ、陸軍科学研究所Click!と陸軍技術本部の動向も気になっていた。陸軍技術本部と同科学研究所は、1919年(大正8)4月8日の閣議決定で新設されている。前者は陸軍技術審査部が拡張された組織で、後者は陸軍火薬研究所の規模を大きくしたもので、当時は戸山ヶ原ではなく板橋に本拠地が置かれていた。1919年(大正8)4月19日発行の、東京朝日新聞から引用してみよう。
西武線ガード.JPG
東京朝日新聞19190419.jpg
陸軍科学研究所跡.JPG
  
 陸軍技術本部新設/技術審査部拡張
 八日の閣議に於て陸軍技術本部令(勅令)を附議決定せるが右は現在の陸軍技術審査部を拡張するものにして本部長は陸軍大臣に対するも技術審査部長又は砲兵工廠提理兵器本部長等より権限を重くし陸軍技術官並に技術に関する総ての事項を統括することゝし従つて本部長は陸軍大将又は中将を以て補され同本部を総務部第一第二第三部に区分(部長は少将又は大佐)し総務部は人事其他一切の事務を整理し第一部は砲兵科第二部は工兵科第三部は兵器検査を夫々担任する事とし従来技術本部の担任せる設計に関する事項は之を砲兵工廠に移管し又陸軍兵器本廠に於挙行したる兵器検査は一切之を技術本部にて担任することゝなす由
 陸軍科学研究所設置/火薬研究所拡張
 陸軍にては今般陸軍科学研究所を新設することゝなり八日閣議に於て決定したるが右は現在板橋にある火薬研究所を拡張し火薬に限らず総ての科学を研究することゝし同所を二部に区分し第一部は理学に関する事項第二部は爆発物又は毒瓦斯等即ち化学に関する事項を研究するにありと云ふ
  
 陸軍科学研究所は、第一次世界大戦で多用された毒ガスとなどの化学兵器を、すでに板橋時代から研究していたことがわかる。濱田煕Click!が描いた戸山ヶ原の陸軍科学研究所の記憶画では、煙突の頂部に排煙を濾過する巨大なフィルターがかぶせられている様子が描かれているが、もちろん毒ガス研究は戸山ヶ原でもつづけられていただろう。さらに、アセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)Click!に代表される、兵務局Click!特務Click!を派遣して要人暗殺などに使われる毒薬研究も、戸山ヶ原の陸軍科学研究所や、のちに設置される登戸出張所Click!の重要なマターだった。
 さて、戦前の新聞には華族や政財界の誰それが、いまどこにいて、なにをしているかなどという消息記事もあちこちで目につく。下落合に関連する記事を、1936年(昭和11)3月6日発行の読売新聞から引用してみよう。
  
 近衛公目白の別邸へ
 近衛文麿公は五日午前十一時半永田町の自邸を出で同五十五分目白の別邸に赴き母堂貞子刀自と午餐を共にし歓談に時を過ごし午後二時再び自邸に帰つた
  
 このとき、東京は二二六事件Click!の直後であり、責任をとって辞職した岡田啓介首相Click!の後任を誰にするか、西園寺公望Click!と会談し首相就任を辞退した翌日のことなので、ことに新聞は近衛文麿Click!の動きに注目して1面に消息を伝えたのだろう。
読売新聞19360306.jpg
近衛邸下落合1929.jpg
招き猫のぞく.jpg
 ここでは、下落合の近衛邸Click!が「別邸」と書かれているけれど、来客が頻繁で家族ともどもほとんど居つかなかった麹町邸と同様、永田町時代でも近衛の本邸意識は「荻外荘」Click!を購入するまで、近衛町の近衛篤麿邸Click!跡も近い下落合だったろう。

◆写真上:戸山ヶ原の西端に位置する、陸軍技術本部があった跡地。
◆写真中上は、下戸塚側にある高田馬場仮駅が設置されていたあたりから見上げた山手線の線路土手()と、下落合側のガード脇の線路土手()。は、1912年(明治45)6月18日発行の読売新聞に掲載された「軍用列車衝突事故」記事。は、1929年(昭和4)1月11日発行の読売新聞にみる高田馬場駅の土砂崩落事故。
◆写真中下は、山手線の西武線ガードClick!をくぐる西武新宿線。は、1919年(大正8)4月19日発行の東京朝日新聞で報じられた陸軍技術本部と同科学研究所の新設記事。は、戸山ヶ原の西端にあたる陸軍科学研究所跡。
◆写真下は、近衛文麿の消息記事。は、1929年(昭和4)に下落合436番へ竣工した近衛文麿邸。は、最近ときどきうかがう下落合の某喫茶店。

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中村彝はドアに女の顔を描いている。 [気になる下落合]

鈴木誠アトリエドア1.JPG
 下落合464番地の中村彝Click!は、体調の悪化からキャンバスづくりが思うようにできなくなったり、制作用のキャンバスが足りなくなったり、あるいは急に習作を描きたくなったりすると、そこいらにある板片などを画布がわりにして絵を描いていた。それは、ときに菓子箱の裏やストーブにくべる薪がわりの廃材など、油絵の具がのる平面でさえあれば、なんでも活用していたようだ。
 そのような環境の中で、以前にも少し触れたが、アトリエのドアに絵を描いていた様子が伝えられている。そう証言しているのは、定期的に支援金をもって中村彝アトリエClick!を訪れていた、中村春二Click!の息子である中村秋一Click!だ。多くの画家たちは、今村繁三Click!などパトロンからの支援金を受け取りに、中村春二の自宅を毎月訪れていたが、中村彝は病状の悪化から中村秋一がそのつど、封筒を懐に入れては下落合のアトリエを訪ねていた。1942年(昭和17)に春鳥会から発行された「新美術」12月号収録の、中村秋一『中村彝のこと』から引用してみよう。
  
 父は彝のアトリエからスケッチ板ぐらゐの小品を持ち帰ることがあつた。面白いから貰つてきた、彝さんはそんなものをかけられては困るといつてゐたよ、と話し乍ら、板の表と裏に描かれた画を、どつちにしようか、と迷つてゐた。みんな描きかけの板片で、置いてをくとあの人はストーブに燻べちやふからね、と父は笑つてゐた。かういふ小品には商品としての価値はないかも知れないが、筆致の面白さがあるので、今でも私は好きであるが、惜しいことに悪い石油を使つてゐるので、ホワイトなどは鉛色に変色し、ボロボロ落ちてしまつて跡片もなくなつたものもかなりある。/彝さんは気が向くとどこへでも絵を描くひとで、菓子折の蓋へスケツチしたり、画室の扉へ女の顔が描いてあつたりする。画板が不足してゐたと見えて、裏表へ風景や静物を描いたものがかなりある。さうしたもので気に入つたものを父が取つて置いたらしいが、みんな破れたり、折れたりしてゐて、現存してゐるものは極めて尠い。
  
 この一文を読んで、すぐに思い浮かぶのが、中村彝の死去からおそらく1ヶ月前後に撮影された、アトリエ西側の壁面をとらえた写真だ。1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された写真には、画室から岡崎キイClick!の部屋、そして便所や勝手口まで通じる南西側のドアが写っている。そして、そのドアの表面には、なにやらペインティングされている“模様”が見てとれる。
 中村秋一が、アトリエのドアで見たのは「女の顔」だが、写真にとらえられたペインティングは「女の顔」には見えない。なにやら織物の模様のような絵柄で、1923年(大正12)の秋に渡仏中の清水多嘉示Click!あて、タペストリーClick!を購入して送るよう依頼する手紙を書いているので、実際に雑誌などで目にした織物などの模様を、ドアに模写したものなのかもしれない。
 このドアの向こう側について、鈴木良三Click!はこう書いている。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から発刊された、鈴木良三『中村彝の周辺』より引用してみよう。
  
 アトリエの南西にドアがあり、一穴の便所と勝手口へ通ずるようになっていて、あらゆる来訪者はみなここから出入させられた。勝手口に三畳の小部屋があり、おばさんが起居していたが、この部屋で彝さんに聞かせられないような話向きはヒソヤカに取りかわされるのだ。この部屋の傍らに流しがあり、直ぐ裏木戸に出られるようになっていたので、彝さんの外出の時の人力車もここで待っているし、お医者も、画商も、友人もみんなここを通るのだった。木戸を入って左側に井戸があり、少しばかりの空地があって、おばさんはここでゴミを燃やしていた。
  
中村彝アトリエ1925.jpg
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 この南西側のドアだが、写真で見るとおり、もうひとつの大きな特徴がある。それは、彝アトリエに設置されていた他のドアに比べ、このドアの幅がかなり狭いことだ。他のドアの幅が、700mm余の通常サイズなのに対し、この南西側のドアは600mm前後の幅にしか見えない。また、他のドアには中央にタテの枠が入るのに対し、なんらかのペインティングがほどこされた狭い幅のドアには、中央のタテ枠が存在しない。つまり、1923年(大正12)の関東大震災Click!以降に増築され彝アトリエに設置されていたドアの中では、かなり特殊な意匠のドアだったのではないかということだ。
 彝アトリエが、1929年(昭和4)より鈴木誠アトリエClick!になってからも、南西側のドアの幅は変更されていない。鈴木様に、アトリエ内を何度か拝見させていただいたとき、このドアの周辺は何枚かの写真に収めているが、画室と新たに設けられた“廊下”とを隔てるパーティションこそ設置されているものの、南西側のドアの幅は周囲のドア枠の意匠とともに、中村彝の時代とほとんど変わっていなかった。すなわち、アトリエ内ではこのドアだけが、特殊な仕様をしていたことになる。
 わたしが鈴木誠アトリエを拝見したとき、玄関から西へとつづく細い廊下の突き当りにあたるドアは、すでに撤去されて存在しなかった。ということは、鈴木誠Click!がアトリエの南西側に母家を増築したあと、アトリエの南東側へ玄関を設置した際、アトリエの南辺を幅60cmほどのパーティションで区切って、玄関から母屋へと抜ける“廊下”を新たに設置した時点で、このドアは取り外されている可能性が高い。あるいは、取り外されたドアは、新たに建設された母家のどこかに、流用されていたのかもしれない。たとえば、食堂や台所のドアとして……。
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 中村秋一は毎月、支援金の配達をつづけていて、たまたま彝アトリエのドアに描かれた「女の顔」を発見しているが、彝アトリエに出入りしていた画家たちは、ドアに描かれた“なにか”を必ず目撃しているはずだ。すべての中村彝関連の資料に目を通しているわけではないので、いまだそれを発見できないでいるだけなのかもしれない。それは、たまたま彝アトリエを取材しに訪れた美術誌の記者や新聞記者が、どこかに何気なく書きとめている印象にすぎないのかもしれない。
 中村春二の息子・中村秋一は、パトロンからの支援金を彝アトリエへ定期的にとどけながら、画家という職業をうらやましく思っていたようだ。彼は、のちに大沼抱林の画塾に通いつつ、父親を通じて作品を中村彝に見せたところ、「筋がよい」といわれている。また、彝が1922年(大正11)に帝展審査員になって以降、無料パスを借りては帝展を観に出かけている。1942年(昭和17)発行の「新美術」12月号から、もう少し引用してみよう。
  
 当時は世話する方もまた世話される方も、それが当然であるやうに思はれてゐた時代だから、今日のやうな画家とパトロンとの関係はなく、ひどく恬淡としてゐた。父が負担したのはごく僅かで、多くは富豪からの出費を取次いでゐたに過ぎないが、直接手渡しする私の母は、催促されたりすると、美術家つてずゐ分変つた人たちだねと困りもし呆れてもゐたやうだつた。今ではみんな大家だから、こんな話は省いた方が礼にかなふと思ふが、当時ののんびりとした芸術三昧の生活は、ちよつと羨しいと思ふし、また、さうした生活がこれら優れた作品を生んだのであらう。
  
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 中村秋一は同年の「新美術」に、中村彝の思い出を数回にわたって連載しているので、機会があればまた彝やアトリエのことを書いてみたい。また、彼は画家たちを支援するパトロンたちの様子も書きとめているので、こちらもいつかご紹介したいと思っている。

◆写真上:鈴木誠アトリエ時代の玄関から母家へと向かう、幅の狭い廊下の突き当りの南西ドアがあった跡で、600mm幅ほどのドアはすでに撤去されている。
◆写真中上は、1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された画室西側の壁面。は、南西ドアの拡大。は、玄関側から眺めた廊下の突き当り。
◆写真中下は、母屋の建設につづいて行われた玄関部の増築工事の写真。(提供:鈴木照子様) は、南西ドアにつづく廊下の腰高壁の様子。
◆写真下は、彝アトリエの時代から使われていた通常仕様のドア。幅は700mm余あり、中央にはタテ枠が入っている。は、中村彝が描きとめた戯画の一部。右上に描かれた印象的な人物は、明らかに野田半三Click!だろう。

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劉生が「お父さん」と慕う大和屋7代目。 [気になるエトセトラ]

岸田劉生「新富座幕合之写生」1923.jpg
 フグ毒にあたって死ぬまで、8代目・坂東三津五郎Click!の年賀状が親父のもとにとどいていた。どこで知り合ったものか、親父とは20歳ほど年が上のはずだが、いまとなっては確かめるすべはない。どこかの料亭で、“うまいもん”Click!好きの寄合仲間だったものか、それとも親父のそのまた親父の代からつづく7代目・坂東三津五郎つながりの贔屓筋あるいは芝居連(中)だったものか、なにも話してはくれなかったのでわからないのが残念だ。7代目(ひちだいめClick!)は京橋の生まれだし、8代目は下谷(現・上野地域)の生まれなので、日本橋の親父とは地域での接点はないはずだ。
 わたしは、7代目は時代がちがうのでまったく知らないが、8代目・坂東三津五郎の芝居は小学生のころ、国立劇場や歌舞伎座の舞台で何度か見ている。どちらの劇場だったか、いまとなってはおぼろげな記憶なのだが、親父に連れられて舞台裏の楽屋を訪れたことがあり、それが8代目・三津五郎の楽屋だったのかもしれない。当時、竣工したばかりの国立劇場の楽屋にしては、なんとなく古びた風情で暖簾が下がる楽屋口の記憶があるので、きっと歌舞伎座のほうだったのだろう。大和屋が京都でフグ中毒死したとき、親父は心底残念な顔をしていた。
 さて、7代目・坂東三津五郎を「お父さん」と呼んで慕っていた画家がいる。同じ京橋区生まれ(7代目は新富町)で、片や銀座で育った岸田劉生Click!だ。劉生が、7代目になついている様子を記録した文章が残っている。下程勇吉が1975年(昭和50)に書いた『岸田劉生と坂東三津五郎』で、証言しているのは8代目・坂東三津五郎だ。ちなみに、同年10月に発行された「絵」No.140掲載の8代目が語った証言は、フグ毒で死ぬ10時間前に下程勇吉が、宿泊先である京都のホテルでインタビューをして録音したものだった。では、8代目・三津五郎の言葉を聞いてみよう。
  
 「かげでは“三津五郎は細い声を出して云々”などと、あれこれいってるくせに、父の前に出ると、きちんと坐って、“お父さん、お父さん”と呼ぶから、そのわけをきくと、“お前とおれは友達で、お互いのお父さんじゃないか”というほどであった。そんなにまでおやじを尊敬してくれるので、びっくりして岸田さんをたずねた。(中略) つまりおやじをほめてくれたので、よろこんで行ったら、いつとなく、“遊びに行こう、遊びに行こう”でまんぺいに行き、夜あかしとなり、それからはただら遊びになってしまって、“岸田さんを放蕩者にしたのは、八十助だ”などといわれたが、もともと教育などというものは、まともな言葉で語るよりも、遊びの間にバカなことをいいながら、ときどきピリッピリッと来るものが本当に人間を生かすのではあるまいか」云々。<正味の人間>の本音をぬきにしたいわゆる教育などナンセンスなのである。
  
 当時は7代目が健在で、8代目は坂東八十助を名のっていた時代だ。八十助が8代目を襲名するのは、戦後の1962年(昭和37)になってからのことだ。
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 岸田劉生は、役者に対してはかなりきびしい眼で眺め、手を抜いたヘタな芝居などすれば、ときに罵倒するような文章も残しているが、こと7代目・坂東三津五郎に対しては讃美者に近い無条件の信頼を寄せ、終始その芸を愛していたようだ。それは、7代目の芸に対する思想が、岸田劉生の芸術に対する意思に深く重なったからだろう。「お客さまを相手にしてやると、自分が下落する」、「生きているお客さまを相手にやっちゃいけません」という、7代目の有名な言葉が残っている。この「現世超越的自覚」主義という点で、7代目と岸田劉生は共通の視座の上に起立していたように見える。
 西洋画の手法で「東洋の美」を追求した劉生だが、長与善郎から奨められたショーペンハウアー(ショーペンハウエル)哲学に傾倒し、彼の東洋哲学的な側面に共鳴したものか、8代目・坂東三津五郎(当時は八十助)は読むよう勧められている。
  
 私もその影響で若い頃、十八、九歳の頃ショーペンハウエルの処世哲学を読みました、分りもしないのに。まあ私にとっては大変な影響力をもった人です。……岸田さんが今生きていてくれたら、本当の友達としてつき合えるし、よろこんでもくれるでしょうが、それと同時に、年中“ばか野郎何をしていやがるんだ、ばか野郎”とやられることでしょう。岸田さんの“ばか”はただの“ばか”ではなくて、“bakka!”なのです。その“バッカッ!”は何ともいえぬ愛情のこもった魅力がありました。
  
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岸田劉生「新古細工銀座通・歌舞伎座附近」1927.jpg
 この劉生の眼差しに似た、ややアイロニカルな視座は、そのままうちの親父ももっていて、特に歌舞伎役者と落語家に対しては、わたしが物心つくころから死ぬまできびしく向けられつづけていた。親父の場合は、「ばか野郎!」ではなく「へたクソ!」だった。この“へた”は、ただの“へた”ではなく、“hetta!”だったので「へったクソ!」と発音されていた。向けられる役者や落語家は、老若・一門にかかわりなく、「歳ばっか食いやがって、へったクソ!」とか、「なにをもたもたモグモグしゃべってんだい、へったクソ!」と、まったく容赦がなかった。
 確かに、親父の世代には役者にしろ落語家にしろ、"名人"と呼ばれる粒ぞろいで優れた才能が目白押しだったので、へたな演技や噺をされたら即座にガマンができなかったのだろう。おそらく、いま生きていたら特に落語界に対しては、「お話んならねえやな、満足に東京弁もしゃべれてねえじゃないか、へったクソ! チヤホヤおだてるばっかで、誰もなんにもいわねえから、こんなへったクソな噺家が平気でまかり通るんだ!」と、罵声に近い言葉を投げつけていたにちがいない。確かに上方落語を「標準語」Click!で演じたら「このドアホッ!」となるのはまちがいないが、江戸落語もまったく同様に東京方言ではなく「標準語」で演じたりしたら、「バッカ野郎!」となるに決まっている。
 さて、坂東八十助(のち8代目・坂東三津五郎)も、劉生には徹底的にコキおろされているひとりだ。つづけて、大和屋の証言から引用してみよう。
  
 劉生が私に、“お前は何になるつもりか”ときいたので、“役者になるつもりだ”と答えると、“ばかをいえ、お前などが役者になれてたまるか、お前みたいな奴が役者になれるはずがねえじゃないか、何より証拠は、お前のおやじが最後の役者なので、外に役者はいねえじゃないか。” “今の歌舞伎は、パイン・アップルや蜜柑が入って、豆は少なくなっている今頃のみつ豆みたいなもので、まぜもののない歌舞伎はお前のおやじでおしまいだ。”
  
 豆が少なくなっている「今頃のみつ豆」という表現は、こういうところ、劉生ならではの洒落たメタファーなのだが、落語をよく聞きこんでいた親父もまた、こういう気のきいた喩えがうまかった。
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 坂東八十助(8代目・三津五郎)は、岸田劉生の周囲にいた友人たちが少しずつ距離を置きはじめている中、1929年(昭和4)の暮れに劉生が死去するまで、変わらずに親しくしていたようだ。「処生(ママ)に長けている人は、岸田さんとつき合わなかったでしょう、危険だから。どこへかみつくか分らない岸田さんとつき合うことはためらわれていた、木村荘八などもそうです」。晩年の劉生は孤独というか、やや偏屈にもなっていた。

◆写真上:1923年(大正12)に制作された、岸田劉生『新富座幕合之写生』。
◆写真中上は、7代目・坂東三津五郎()と8代目・坂東三津五郎()。岸田劉生との交流は、8代目が坂東八十助時代のこと。は、忠信(7代目・三津五郎)と静御前(3代目・中村時蔵)の『義経千本桜』(狐忠信鳥居前)。は、1975年(昭和50)発行の「絵」No.140に掲載された下程勇吉『岸田劉生と坂東三津五郎』。
◆写真中下は、岸田劉生が書いた芝居の本で1930年(昭和5)出版の『演劇美論』(刀江書院/)と、1948年(昭和22)に出版された『歌舞伎美論』(早川書房/)。は、1927年(昭和2)に東京日日新聞へ連載された岸田劉生『新古細工銀座通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』より「歌舞伎座附近」。
◆写真下は、三圍土手の場で猿まわし(7代目・三津五郎)に久松(3代目・市川左団次)とお染(7代目・尾上梅幸)の『道行浮塒鷗(みちゆき・うきねのともどり)』(お染久松Click!)。は、松江出雲守屋敷の場で高木小左衛門(8代目・三津五郎)と松江出雲守(2代目・尾上松緑)の『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』(河内山Click!)。は、“校倉”のモアレで昔からカメラマン泣かせの国立劇場正面。

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船山馨の「孤客」と“ネット落ち”。 [気になる下落合]

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 下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んだ小説家・船山馨Click!の文章に、「孤客」というワードがある。川西政明Click!も、船山馨の文学について語る書籍に、同様のタイトルをつけている。船山馨の『樹里庵箚記』には、次のような詩ともつぶやきともとれる一文が書きとめられていた。
   
 われはこの世の孤客なれば
 一人何処よりか来りて
 束の間の旅に哀歓し
 一人何処へか去るのみ
  
 この詩は、死去する2年前の1979年(昭和54)4月6日に書かれたものだが、すでに船山馨は右目を失明しており、最後の作品となる『茜いろの坂』(1980年)をかろうじて書きつづけている最中だった。
 下落合がお好きな方なら、この一文を読まれたとたん、丘上から新宿駅西口の高層ビル群を眺めわたす情景とともに、すぐにも万理村ゆき子Click!の詩、「人はふと知り合い/つかのまの夢見て/やがてただ消えゆくだけなの」(1973年)というフレーズを思い浮かべてしまうのではないだろうか。
 深々とした諦めを含み、自身の生を思いきり突き放し、まるで他人事のように右肩の上空からクールかつ客観的に見下ろしているような、強烈な諦念とニヒリスティックな感覚が、どこかネット世界で感じる「孤独感」、あるいは「孤立感」とでもいうべき感覚に重なるものをおぼえた。どの辞書にも載っていないので、どうやら「孤客」は船山馨の造語のようだ。
 一昨年あたりから、ブログ(Weblog)の管理画面を眺めていると、新しいブログを起ち上げる増加率が目に見えて鈍っている。ネットメディアのひとつとして定着し、ようやく落ち着いた環境になったのだろうか。この「地域」ブログのカテゴリーでいえば、およそ2,980サイト前後を上下する状況になっている。ブログを通じて、不特定多数の読者に向けなにかを記録したい、表現したい、伝えたい、ないしはアフェリエイトで稼ぎたい人たちが残り、知り合い同士のコミュニケーションは自然にSNSあるいはSMSへと移行していったのだろう。
 So-netのみに限れば、ブログをやめてしまった人たちはサイトが閉じられると同時に、訪問先へ足跡を残す「読んだ!」(デフォルトは「nice!」)ボタンのブロガーアイコンが白くなり、X印が表示されることになる。おそらく、ブログをやめてSNSないしはSMSへと移ったか、ネットへの表現自体(や接続)を止めてしまったか、病気で意欲をなくしてしまわれたか、あるいは亡くなった方々なのだろう。ネットの中のバーチャルな空間では、ネット内で知り合った仲間の前から姿を消すことを、物理的な生死の別なく、よく「ネットで死んだ」などと表現された。
 現在でもつかわれているかもしれないが、インターネットが普及する以前、いまから25~30年近く前に全盛だったパソコン通信の時代では、よく「ネット落ち」という言葉が流行っていた。当初は、深夜のOLT(オンライントーク=Chat)などで「落ちます」というと、ネットへの接続をやめて「そろそろ寝ます」という意味につかわれていたのだが、その意味が徐々に拡大し、ネットでなにか事故や問題を起こして特定のメディア(sigやフォーラムなど)への訪問をやめてしまった人たちを、「あいつはネット落ちした」などというようになった。
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 そういう人たちは、ハンドル(ニックネーム)を変えて、新たに別のプロバイダが提供するメディアへアクセスして楽しんでいたのかもしれないが、ネット自体のバーチャルな人間関係が面倒でわずらわしくてイヤになり、そもそも接続をやめてしまった人たちも少なからずいたように思う。そういう人たちのことも含め、おしなべて「ネット落ち」という言葉がつかわれていた。
 また、「ネット社会は敗者復活戦のない世界」などともいわれていた。そもそも、ネットに接続する人々の絶対数が少なかったため、どこかである人物の悪い評判が立てば、たちどころにあちこちのメディアから排斥され、二度と同じ立ち位置へはもどれなくなってしまうことを、そのように表現したものだろう。当時は、ネット接続をやめてしまう「ネット落ち」をしても(ネットにつながなくても)、それほど困ることはなかったけれど、現在ではネットにつながないという状況は、まず考えられない。当時、日本で50~100万人といわれていたネット人口は、現在ではおそらく50~100倍近くに増え、ネット世界はほとんど無限の拡がりを見せている。
 ネットの世界が拡大すればするほど、リアルな友人・知人とともにバーチャルな仲間も増え、周囲は賑やかで楽しくなるはずなのだが、残念ながらPCやスマホなどデバイスの画面を見ながら、テキストや画像などのデータをアップロードしていると、「孤独感」「孤立感」に近い感覚が深まるのはどうしてなのだろう。SMSやIMなどで、「つながりたいから」「つながっていたいから」という言葉をよく聞くが、それは「孤独感」「孤立感」を怖れた、まさに裏返しの感覚そのものではないか。つまり、「孤独だ」「孤立してる」からこそ、そのような想いにより強くとらわれるのだろう。最近のネットをめぐる事件や事故を見ると、よけいにそのような感触を強くおぼえるのだ。
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 「連帯を求めて孤立を怖れず」の世代は知らないが、ネット社会の急激な進化は「連帯を求めて孤立を怖れる」時代へとシフトしているような気がしてならない。その「連帯」とは、特に深く落ち着いた人間関係や悲喜こもごものリアルで親しい間柄、同じような世界観や社会観、価値観でつながった友人同士では決してなく、かりそめの「つながり」であり、バーチャルな「友情」であり、また仮想の「恋人」や「家族」だったりするのだろうか。突き詰めれば、ちょうど数年に一度の法事で顔を合わせる、どこの誰だったか思いだせないが見憶えのあるオバサンほどの知己と、大差ない存在感や関係性に限りなく近いといえるのかもしれない。
 船山馨は『樹里庵箚記』の中で、つづけてこんなことも書いている。
  
 (孤客は)キザに云えば「孤独な旅人」とでもなるかもしれないが、凡庸だし、意味も少し違うつもりである。「客」だからである。おなじ死を生活の基底に意識するにしても絶望的、投げやりであるよりは、死と生と等しく自然なものとして、静かに受けとめ、それ故にこそ今を悔いなく全的に生きようとする積極的な思いがあるつもりである。茶のほうではどうであろうか。例えば、静かな夕景、打水に濡れた露地を、見知らぬ一人の客が草庵を訪れて、一服の茶を所望する。庵主が誰と問うこともなく、茶を点てて供すると、客はそれを服し終り、丁重に、しかし短く礼を述べて来たときと同じように静かに何処へともなく立去ってゆく。客と庵主の心に、もし人生の奥深い部分に触れた余韻が漂うとすれば、これを「孤客」の訪れと称していい。(カッコ内引用者註)
  
 ネットの中の人間関係は、船山馨が前提として書く家族を含めた生身の人間関係ではない。また、躙(にじ)り口をくぐってやってくる、リアルな茶席の客人でもない。あくまでも、テキストや音声・映像を通じた、相手の“体臭”がしないバーチャルな関係でありコミュニケーションだ。だから、「今を悔いなく全的に生きよう」としても、それはデバイスの向こう側に生身の人間がいるにせよ、またAI・IoTの基盤上でアルゴリズムやRPAが受け答えをしているにせよ、どこまでいっても仮想空間での“生(せい)”のまま……ということになる。
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 仮想空間の「孤独な旅人」は、船山馨にならえばつかの間の言葉を残しつつ、いつ消えてもおかしくない「仮孤客」ということになるだろうか。「みえない関係がみえはじめたとき、かれらは深く訣別している」とは、「仲間外れ」にされた吉本隆明の言葉だが、「弧客」や「ネット落ち」などについて考えていたら、ふいになんの脈絡もなくこの言葉が浮かんできた。まったくまとまりのない文章を書いているけれど、船山馨の随筆を読んでいると、ついネットでの脆いコミュニケーション基盤や人間関係を想い浮かべてしまうのは、なぜなのだろう?

◆写真上:陽射しが冷たく輝く、冬枯れの下落合の森。
◆写真中上は、1975年(昭和50)に撮影された下落合の自邸書斎で執筆中の船山馨。は、下落合4丁目2107番地(現・中井2丁目)の船山馨邸跡。
◆写真中下は、1967年(昭和42)ごろに北海道庁前で撮影された船山馨。は、下落合の丘上からは目立たなくなった富士女子短期大学(現・東京富士大学)の時計塔。
◆写真下は、1982年(昭和57)に北海道新聞社から出版された川西政明『孤客―船山馨の人と文学―』。は、同書所収の船山馨プロフィール。

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日本民話の会と「学校の怪談」。 [気になる下落合]

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 わたしは、拙サイトで落合地域に現存する(した)店舗や企業の“宣伝”記事を意識的に書いたことは、過去に2~3件ほどしかなかったと思う。ひとつは、江戸期とあまり変わらない製法で胡麻油を製造している小野田製油所Click!と、なにかと原稿書きなどでお世話になった「カフェ杏奴」Click!などだ。きょうは加えてもうひとつ、企業でも店舗でもない組織(団体)の「日本民話の会」を加えてみたい。
 先日、「佐伯祐三生誕120年記念」の講演会+街歩きClick!には、日本民話の会の方もおみえだったようなので、印象深い同会の活動について少し書いてみよう。日本民話の会は、日本全国にわたる多彩な催しや、さまざまな語り部たちが紡ぎだす物語・フォークロアの類を記録し、出版する組織としてあまりにも有名だ。
 日本各地に残る多種多様な物語を採取したり、先の戦争や東日本大震災で生まれた物語などを記録しているので、わたしもその何冊かは目にしている。拙サイトには、地元の古老から取材した口承伝承や、この地域で生きていた人々が紡いだエピソード、地域に眠る物語などを発掘して記録するという側面があるので、どこか日本民話の会の仕事と相通じるところがあるように思う。もっとも、同会の記録作業は日本国内をとうにスケールアウトして、海外の民話や昔話、フォークロアにまで及んでいるのだが……。
 先の戦争の加害や被害については、これまでわたしの家族の体験Click!も含め、(城)下町や乃手Click!を問わず数多くの物語を取りあげてきている。戸山ヶ原Click!の陸軍施設を抱え、「軍都」とも呼ばれた新宿地域には、膨大な戦争にまつわる伝承が眠っている。おもに二度にわたる大空襲Click!で、現在の新宿区エリア(旧・牛込区/四谷区/淀橋区)は全区域の8割以上が焦土と化し、約6,700人が死亡している。また、1945年(昭和20)8月15日から数日間、戸山ヶ原Click!の陸軍施設や市ヶ谷の参謀本部では、膨大な資料が証拠隠滅のために焼却され、発生した大量の煙の量だけ加害の歴史があったのだろう。
 また、明治になって最大の火災である両国大火Click!東京大洪水Click!は個別に紹介しているが、関東大震災Click!については下町と乃手を問わず、繰り返しここで取りあげてきた出来事だ。15階までとどくハシゴ車が1台しかなく、あとは10階までがせいぜいの現状で、それ以上の階数がある高層マンションの火災をどうすればいいのか。また、大震災が起きた場合は地割れや家屋倒壊、駐車列などで道路が機能せず(関東大震災時がそうだった)、そもそも緊急車両が現場にいきつけない問題(東日本大震災で現実化した)や、水道管の破断により消火栓が機能しないのはどうするのか。1964年(昭和39)に開催された東京オリンピックの前後、河川や運河を埋めてしまい消火用水が確保できないのはもちろん、水運による救援物資ルート(関東大震災では最大限機能した)がなくなり、延焼止めや避難場所として設けられた広場や公園などの防災インフラが消滅したのをどうするのか……etc.。まったく誰も、なにも考えていない現状に愕然とする……というような記事を、これでもかというほど書いてきた。
東日本大震災を語り継ぐ.jpg 東日本大震災記憶と伝承.jpg
戦争の時代を語りつぐ.jpg 出雲かんべの里の語り.jpg
 これらの課題に対する“気づき”や問題意識、リスク管理意識は、被害に遭った肉親を含め語り部たちによる物語が伝承され、アタマのどこかで常に意識されているからこそ継承できるテーマなのだ。ちょうど、1933年(昭和8)に起きた昭和三陸大津波による被害の物語や伝承を継承し、住宅を海岸線近くから高台へと移した人々が、東日本大震災では被害を最小化できているのを見ても明らかだろう。もっとも、原発事故で漏れた放射性物質による被害や障害は、まったく防ぎようがないのが現実だが。
 日本民話の会では、『聴く 語る 創る』24巻で「戦後70年 戦争の時代を語りつぐ」を、同書21巻では「東日本大震災を語り継ぐ」、同書25巻では「東日本大震災 記憶と伝承」を刊行している。その中には、決して忘れてはならない、教訓化して孫子の代まで伝えなければならない物語が横溢している。東京は、1923年(大正12)の関東大震災以降にやってきた人たちが増え、それらの家庭では震災の物語がまったく継承されておらず、小林信彦Click!のコトバにならえば「いけいけドンドン」の「町殺し」Click!開発で、安全・安心への担保が街から駆逐される状況が進み、明日にでも現実化しそうな「いま、そこにある危機」が、まったく見えなくなっている。このような状況や“気づき”を問いかけても、多くの人たちはエポケー(判断停止)状態に陥るだけだ。
 このような断絶した伝承を、あるいは忘れられがちな物語を、肉親や経験者に代わって後世へと伝えていく作業は、非常に重要な仕事であり大きなテーマであると思うのだ。それは、ご都合主義的に整えられてしまった教科書的な「歴史」ではなく、資料室に眠る整理されてしまったレポートや論のたぐいでもなく、危機的な現実・現場に遭遇してなにを感じ、どのように考え、また、なにをどう判断して生きようとしたのかの「肉声」にほかならないからだ。これからも、下落合の聖母坂に本部がある「日本民話の会」Click!の仕事には、さまざまな催しも含め注目していきたい。
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 さて、うちの子どもたちが小さいころ、映画『学校の怪談』シリーズを観たことがある。わたしも、「ドラえもん」や「ドラゴンボールZ」などを見せられるよりは、よほど楽しく、ウキウキしながら画面を眺めていた憶えがある。校長先生が金の懐中時計を「か~えして~」と、どこまでも首を伸ばして廊下を追いかけてくるろくろっ首・岸田今日子Click!や、子どもたちの前に現れては脅かす怪しい坊主・米倉斉加年には、オシッコをちびりそうで「ヒェ~~~ッ」と叫んでは、子どもたちと狂喜したものだ。そう、前世紀末に大ブームを巻き起こした「学校の怪談」は、日本民話の会が監修した出版物『学校の怪談』シリーズが発信源なのだ。
 ちょっと本棚から、1994年(平成6)にポプラ社から出版された日本民話の会『学校の怪談⑩ 真夜中のミステリー・ツアー』を探し出して、少し引用してみよう。
  
 自転車にのってたらけしきがかわって、たんぼがたくさんあって、人が一人うかんでた(ぜんぜんしらない人)。(東京都世田谷区 S・S 10歳 男子)
 ぼくとしんせきの人とで午前二時か二時半ぐらいに家を出発し、びわ湖にいくとちゅうでした。国道で道にまよったのでおばあさんにききました。「あっちだよ」といわれていってもつきません。やっとついたのがおばあさんのたっていたところ、またおばあさんがいました。またきいて、一〇回ぐらいいってもいけなく、なにげなく逆にいったらいけました。(京都府京都市 U・K 11歳 男子)
 友だちと家に帰るとき、きゅうに強い風がふいた。するととつぜんあたりの草がカマできられるようにきれていた。ふとたんぼをみると、カラスが三羽血だらけになっていた。ぼくの顔もそのとききられた。とてもいたかったよ。(岡山県勝田郡 K・T 9歳 男子)
 学校のブランコの二番めにのると、ぜったいおちてけがをします。今までほとんどの人がおちてひどい目にあっています。(愛知県春日井市 N・A 10歳 女子)
  
 中には、体育館の床を掃除しても掃除しても、血がポタポタとたれてくる……、あっ、あたしの鼻血だ!――というような、大ボケ怪談の「恐怖」もあるのだけれど。w
 その時代の子どもたちが、なにに興味をもち、なにを見て、なにに恐怖を感じていたのかがわかって、民俗学的にも非常に興味深い。これが半世紀前であれば、日常を超えたまったく異なる事件や出来事に怖れを抱いていた、わたしたちの姿と重なってくる。
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 わたしの子どもたちは、映像版『学校の怪談』は喜んで観ていたが、せっかく購入した本は読まなかった。しかたないので、わたしが代わりに読んで楽しんでたりするのだが、映像よりも想像力が無限に広がる本や語りのほうが、ほんとうはもっと怖いのだぞ。

◆写真上:下落合の聖母坂にある、「日本民話の会」本部の近くから。
◆写真中上:いずれも日本民話の会から出版されている『聴く 語る 創る』シリーズで、21巻の「東日本大震災を語り継ぐ」(上左)、25巻の「東日本大震災 記憶と伝承」(上右)、24巻の「戦後70年 戦争の時代を語りつぐ」(下左)と、『新しい日本の語り』13巻の「出雲かんべの里の語り」(下右)。
◆写真中下は、日本民話の会による『こども妖怪・怪談新聞』(水木プロダクション共同制作/)と、同会学校の怪談編集委員会による『学校の怪談⑩ 真夜中のミステリー・ツアー』()。は、『学校の怪談⑩ 真夜中のミステリー・ツアー』のコンテンツ。
◆写真下:1996年(平成8)に公開された『学校の怪談2』(東宝)より、岸田今日子の校長先生が怖すぎる。1998年(平成10)の『学校の怪談3』には黒木瞳や野田秀樹が出ていて、「あ、あ、あなたは、顔がないかもしれないけど、あ、あたしは胸がないんだからね~! キャーーッ!」といって逃げだす女教師が印象に残っている。w

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