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100円で買われた『盲目のエロシェンコ』。 [気になる下落合]

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 鶴田吾郎Click!が画業を離れ、ヨーロッパからシベリアを放浪し「満州」に滞在していたとき、中村彝Click!の伝言を携えて奉天まで迎えにきたのは、のちに鶴田の妻となる“その夫人”だった。中村彝からの伝言とは、「東京を出る時、中村彝さんのところへ寄ったところ、是非あなたに帰ってくるように伝えてくれ、帰ってくればお互いにまた昔の友達として一緒にやるから」というものだった。1920年(大正9)の3月、鶴田吾郎は3年間におよぶ海外の放浪生活をやめ、将来の妻とともにようやく帰国している。
 鶴田が海外へ出たまま、なかなか帰国せずにいたのは日本での生活の“重荷”、つまり生きるためには仕事をして稼がなければならないという日々が、イヤでイヤで仕方がなかったからのようだ。帰国すると、とりあえず鶴田は下落合にいたとみられる兄のもとに寄宿している。そのあたりの様子を、1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』から引用してみよう。
  
 彼女、すなわちそのは二十五歳、私は三十歳であり、たとえ中村が待っているといっても、東京に入った以上は世帯をもたなければならない。新婚生活という気分よりも冒険のような出発から始めなければならなかった。/目白の奥に室借りをしていた兄の室に、取り敢ず落ち着き、近くに新築の貸家ができたので、その家を借りて住んだのは大正九年の三月末であった。
  
 文中に登場する「新築の貸家」が、関東大震災のときまで鶴田吾郎夫妻が住んでいた、目白通り近くの下落合645番地のClick!のことだ。兄の家の「近く」と書いていることから、彼の兄も同じく下落合の東部に下宿していた可能性がある。この約半年後の1920年(大正9)9月に、鶴田吾郎は目白駅Click!のホームで新宿中村屋Click!に寄宿していたワシリー・エロシェンコClick!と初めて出会っている。それまで鶴田は、複数の知人からエロシェンコのことを耳にしており、マントを羽織ってバラライカを手にする姿を見て、すぐに彼だとわかったようだ。
 このとき、プラットホームにいたエロシェンコは、雑司ヶ谷町(現・目白台)にあった府立盲学校の帰りだったか、あるいは目白駅の近くに住む知人を訪ねた帰途だったのだろう。そのときの様子がもっとも仔細に書かれているのは、1959年(昭和34)9月にみすず書房から出版された『エロシェンコ全集』第1巻付録の月報Ⅰに寄せたエッセイだ。同月報に収録された、鶴田吾郎「エロシェンコと中村彝」から引用してみよう。
  
 当時下落合に住んでいた私が、目白駅のホームで電車を待っていると、フサフサとした金灰色の髪の毛が輝き、黒のマントを肩からつるして、バラライカを手にした一人の盲目のロシア人が悄然と入ってきた。/省線の電車はいまでは想像もつかぬくらいずっと閑散であり、そのころの目白駅もほんのチッポケなもので乗降客もわずか二、三人ずつぐらい、だからホームに立っている人もすくなかった。/このロシア人が、話にきいていたエロシェンコであることは、私にはすぐピンときた。/「あなたはエロさんですね」/私はあることが頭にきたので傍らによって声をかけた。/「ワタシ ソウデス アナタハ」/エロシェンコはうつむいたまま答える。/「僕はね、絵を描くツルタというものです。突然で失敬だけれど、あなたを描きたいのでモデルになってくれませんか。」/随分失敬な話で、これが他の人だったら、驚いたり、怒ったりすることもあるだろうと思えたが、彼がロシア人であるために、率直に言った方が、かえって承諾をえられる可能性があると考えたからである。/「ツルタ エエシッテイマス、ニンツアカラハナシハキキマシタ。ママサンニソウダンシテカラニシマショウ」
  
鶴田吾郎旧居645番地.jpg エロシェンコ.jpg
池袋駅1925.jpg
 その直後、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』Click!と中村彝の『エロシェンコ氏の像』Click!が、下落合464番地の彝アトリエで制作されるのだが、山手線で彝アトリエに向かう相馬黒光Click!エロシェンコClick!に偶然出会った曾宮一念Click!が、ふたりの制作過程を観察している様子はすでに記事Click!にしている。中村彝は当初、『エロシェンコ氏の像』をパトロンのひとりだった新潟県の柏崎に住む洲崎義郎Click!へ譲ったが、その直後に今村繁三Click!との間で作品の譲渡をめぐって“綱引き”が起こり、「エロシェンコ事件」Click!として語られていたことも記事にしている。
 一方、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』は、同年秋の第2回帝展に入選・展示されたあと、新宿中村屋の相馬愛蔵から100円で譲ってくれという話が持ちこまれている。大正中期の100円は、物価指数を基準にいまの価値に換算すると、およそ10万円弱といったところだろうか。新進画家の帝展入選作としてはあまりに安価なので、相馬愛蔵は不足分をいずれ支払うと約束している。『半世紀の素描』より、帝展で『盲目のエロシェンコ』が入選した直後の様子を引用してみよう。
  
 (前略)助かったことは、家主とか米屋、酒屋なども、余り借金の催促をしなくなったことである。その頃はまだいわゆるつけをしている時代だったから、現金をもっていなくとも、一ヵ月や二ヵ月は喰うには困らなかった。/いずれにしても帝展に出たということだけで、これから絵描きとして、どうやらやって行けるのではないかという覚悟をしたのである。/展覧会が終ると、新宿の中村屋の相馬愛蔵から百円で是非譲って貰いたいという言伝があった。その上、中村屋はいまだ苦しい時代だが、いずれ別に心持ちを出そうからというので、この絵は中村屋に買われ、暫くの間パンを売る奥の壁面に掛けてあった。
  
 余談だが、新宿中村屋が1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で焼けたとき、ショーウィンドウに飾られ中村彝の傑作といわれた風景画『曇れる朝』Click!は焼失したが、ロシア・チョコレート売り場から2階の喫茶部へと上がる階段の途中に架けられていた、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』はなぜか無事だった。この間、どのような物語があったのかは不明だが、相馬黒光の日記によれば、秋川渓谷近くの大悲願寺へ夫妻で疎開した際、絵画作品は店に置いたままであり持ち出されてはいない。
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曇れる朝1915.jpg
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 さて、鶴田吾郎が画家として生きる決心をした2年後、彼は池袋駅のホームで関東大震災Click!に遭遇している。1923年(大正13)9月1日のこの日、上野で同日から展示がはじまる院展や二科展を観に出かけようと山手線に乗るところだった。最初は、近くを通過する貨物列車の振動だと思ったらしいが、すぐに大きな地震だと気づいている。目白駅寄りに設置されていた、貨物線の蒸気機関車へ給水するための貯水タンクの水が、激しい揺れではじき飛ばされるのを見て、彼は跨線橋を走りわたると駅西口へと出た。
 当時の池袋駅は、周囲を畑に囲まれた中にポツンとあるような風情だったので、特に大地震が起きても人々が騒ぐ様子は見えず、駅前はひっそりしていたようだ。鶴田吾郎は、上屋敷(現・西池袋)から目白通りへと抜けて、下落合の自宅へと駆けもどっている。
  
 上り屋敷から落合の通りに抜けて家に戻ると、妻子は無事であったが、家は五度位傾き、壁は殆んど落ちて、足の踏み場もない。床の間に立てかけておいた三十号のスキターレッツ(ゴーリキー達の仲間だったロシヤの作家、大森に来ていたので描いた)の肖像画は壁の下敷きとなっていたが、これも無事だった。(中略) 関東大震災も一応落ち着いて、中村の画室に近くなったところへ、無理して小さな画室をその冬造って移ることにした。曾宮と中村の中間にある処だった。
  
 この「小さな画室」が、下落合804番地の鶴田アトリエClick!ということになる。鶴田吾郎は、「曾宮と中村の中間」と書いているけれど、中村彝アトリエから下落合623番地の曾宮一念アトリエまで直線距離で504m、下落合804番地の薬王院の森に近接する鶴田アトリエまで509mとほぼ等距離だ。大正当時の道順で歩いても、鶴田のほうが10mほど近いだけなので、「中間」というのは明らかに誤記憶だろう。
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 このあと、鶴田吾郎は下落合804番地のアトリエで、9月の帝展に出品した100号の作品が落選し、つづいて長男・徹一Click!を疫痢で喪い、間をおかずに中村彝の死Click!に接して下落合での生活がイヤになり、長崎町字地蔵堂971番地へ新たなアトリエClick!を建設して転居していくことになる。空き家になってしまった、建設して間もない下落合804番地のアトリエへ転居してきたのは、同じく帝展画家だった服部不二彦Click!だった。

◆写真上:鶴田吾郎が、下落合804番地に初めて建てたアトリエ跡の現状。
◆写真中上上左は、1918年(大正7)作成の陸地測量部1/10,000地形図にみる下落合645番地。上右は、1921年(大正10)9月にハルピンで撮影されたワシリー・エロシェンコ。は、1925年(大正14)に撮影された池袋停車場。
◆写真中下は、大正末ごろ撮影された新宿中村屋の記念写真。は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲により新宿中村屋で焼失した中村彝『曇れる朝』。まるで、草土社Click!岸田劉生Click!のような表現をしているのが興味深い。は、その5月25日夜半に米軍機から撮影された焼夷弾が着弾寸前の新宿駅東口と新宿中村屋。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合804番地の元・鶴田吾郎アトリエ(服部不二彦アトリエ)。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同所。は、ちょうど1920年(大正9)に新宿中村屋で撮影された脚本朗読会「地の会」の記念写真。エロシェンコの背後に、俳優の佐々木孝丸Click!がいるのがめずらしい。また、神近市子Click!は麹町の時代で落合地域に住みはじめるのは10年後のことだ。

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