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赤い鳥野球チームがスカウトした佐伯祐三。 [気になる下落合]

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 かなり前に、「赤い鳥」社が結成した野球チームに佐伯祐三Click!が強力な“助っ人”として呼ばれ、活躍していた記事Click!を書いていた。それは、いつごろの時期のことなのかを考察してみるのが、きょうの記事のテーマだ。それには、「赤い鳥」の編集部がいつどこにあったのかを規定しなければならない。周知のように、鈴木三重吉Click!は引っ越し魔だったからだ。
 鈴木三重吉が小説家らしく、あちこちを転々としていたのは、明治末から大正初期にかけてだけではない。自身の作品全集が岩波書店から刊行されたあと、突然筆を折って小説家を廃業してしまっているが、眼科医を舞台にした自身の小説『赤い鳥』というタイトルが気に入っていたのか、のちの児童書にも同じタイトルをつけている。そのあたりの事情を、安倍能成Click!の証言を聞いてみよう。
 1936年(昭和11)9月に発行された「赤い鳥」の最終号、同誌(鈴木三重吉追悼号/第12巻3号)掲載の、安倍能成『三重吉の小説其他』から引用してみよう。
  
 三重吉が作家として最もはやつた明治末から大正初のニ三年は、却て自然主義がやや飽きられて、三重吉や小川未明の作などが、ネオ・ロマンティシズムなどと持て囃された時である。その一例は、今読むとそれ程好いとも思はぬが、明治四十四年に出た「赤い鳥」の如きである。これは一方にぢめぢめした田舎の眼科院を描き、そのみすぼらしい病室の隣に居る、薄明の眼にかすかに見た女を、物語中の赤い鳥を飼つた女と一つに合せて夢想するといふ筋のものである。後年三重吉がその童話雑誌に「赤い鳥」といふ名を附けたのは、この作に対する好評に気を好くしたことも、一つの理由であつたらうと思ふ。
  
 安倍能成は、鈴木三重吉の「出鱈目」についても触れているが、鈴木の酒グセの悪さは、夏目漱石の門下仲間ではつとに有名だった。もっとも、安倍能成も酔っぱらうとタンスの上によじのぼって、「山上垂訓」Click!をはじめるのだからどっちもどっちなのだが、鈴木三重吉の酒はさらに悪質で、目つきがすわると人にからんではケンカを売る、酒乱に近い性癖だったようだ。
 上掲の「赤い鳥」の追悼号から、夏目漱石Click!の連れ合いである夏目鏡子の証言を引用してみよう。夏目鏡子の『鈴木さんを思ふ』より。
  
 鈴木さんは御酒がすきで、のんで気持よく眠くでもなるならよいがのめばくだをまき、人につかゝつてこなければ承知のできないのには、だれもこまらせられた事です。正月元旦と云へばいの一番に私の家へ来てくれるのです。朝の十時頃から三四時頃迄つぎからつぎとくる人々相手にのむので、ひる過にはきまつてだれかにつかゝりはじめるので、おこるやら又なく事もあり、いろいろと変るのです。しまひにはもう面どうになつて早く帰してしまはうと思ひ、車をたのみ玄関迄つれ出して外とうをおとしてしまひ、車にのせればおりてしまひ、そんな事をニ三度くりかへし、やつとのせて門を引出す、やれやれとほつとしたものです。後で車屋に聞けば、早稲田から目白の家迄行く間に三度位は車からおりて小用をするのださうです。
  
 夏目家もそうだが、酒乱で引っ越し魔の鈴木三重吉宅+赤い鳥社が少しでも自宅から離れてくれると、ホッと胸をなでおろしていた人たちがほかにもたくさんいただろう。
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夏目漱石公園.JPG
 上記の頼んだ「車」は、もちろん俥(じんりき=人力車)Click!のことで、このエピソードに書かれている「目白の家」とは、1920年(大正9)に住んでいた山手線が目の前を走る、目白駅から線路沿いを北に200m余のところ、高田町3559番地の鈴木邸+赤い鳥社のことではないかと思われる。下落合にアトリエClick!を建てるまで、安井曾太郎Click!が住んでいた旧・アトリエ跡の並びだ。
 さて、鈴木三重吉の赤い鳥社が、どのように東京市内外を転々としていったのかを少し見てみよう。まず、児童雑誌「赤い鳥」は1918年(大正7)に創刊されているが、そのときの鈴木邸(編集部)が代々木山谷にあったのか、すでに山手線の線路際で上屋敷(あがりやしき)の家と呼ばれた高田町3559番地だったのかハッキリしない。ちなみに、創刊号の奥付は「高田町」になっている。以下、赤い鳥社の引っ越し先をたどってみよう。
 1918年(大正7)  代々木山谷から高田町3559番地
 1919年(大正8)  日本橋箔屋町(汁粉屋の2階)
 1920年(大正9)  高田町3559番地(最寄り駅は武蔵野鉄道・上屋敷駅)
 1921年(大正10) 高田町3572番地(現在記念プレートが設置されている場所)
 1924年(大正13) 市谷田町3丁目8番地(外濠通りに面した2階家)
 1926年(大正15)2月 長崎町荒井1880番地(長崎町事情明細図に収録された社屋)
 1926年(大正15)9月 日本橋2丁目(白木屋向かいの加島銀行ビルディング5階)
 1927年(昭和2)  四谷須賀町40番地
 1930年(昭和5)  西大久保461番地
 この中で、佐伯祐三が下落合のアトリエにいた時期と重ね、赤い鳥野球チームに参加できるのは、1922年(大正11)のアトリエ竣工時から1923年(大正12)の第1次渡仏までの期間、つまり赤い鳥社が高田町3572番地にあった時期と、1926年(大正15)に帰国した直後、つまり赤い鳥社が長崎町荒井1880番地にあった時期ということになる。
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 おそらく、赤い鳥野球チームに佐伯をスカウトしたのは、東京美術学校でいっしょだった赤い鳥社の画家・深沢省三Click!だろう。彼は、佐伯が野球部のキャプテンだったことを知っており、美校では頻繁にキャッチボールをしている。その様子を、1929年(昭和4)に出版された『一九三〇年叢書(一)/画家佐伯祐三』所収の、江藤純平・田代謙助『学校時代の佐伯君』から引用してみよう。
  
 彼(佐伯)は大阪北野中学の野球部の主将をしてゐた位だから勿論美校ではボールのピカ一であつた。深沢看三(ママ:深沢省三)君もボールの名人でよく二人でキヤツチボールをやつてゐるのを吾々はパレツトを置いてやじつたものである。(中略) 例の熱中癖は二人のキヤツチボールにさへ遺憾なく現はれていよいよ疲れるまでは決して止さなかつたので、流石の深沢君もかなりヘキエキしてゐた位であつた。二人はヘトヘトになつてアトリエにはゐり乍ら、その真つ赤にはれ上つた掌を見せ合つて苦笑してゐたものである。ニ三度「赤い鳥」のチームに頼まれて試合に出たこともあつた。目玉を異様にむき出してバツトをガムシヤラに振り廻す彼(佐伯)らしいバツター振りはたしかに異形であつた。それが為、敵の応援団によつて「目玉」と云ふ名を進呈され、盛んに弥次られたことであつた。(カッコ内引用者註)
  
 深沢省三と頻繁に顔を合わせていた、学生時代から間もない時期を強く意識するのであれば、赤い鳥社が高田町3572番地にあった期間、すなわち佐伯が赤い鳥チームに入って野球をしていたのは、1922年(大正11)ごろのエピソードではないかと思われる。
 下落合の周辺で、大正期から野球ができるところといえば、長崎町の西端にあった東京海上保険運動場(通称:海上グラウンド=現・南長崎スポーツセンター)か、葛ヶ谷(西落合)に隣接する井上哲学堂Click!グラウンド(現・哲学堂公園野球場)がある。立教大学のグラウンドもあるが、基本的に学校の運動場なので手軽に使えたとは考えにくく、目白文化村Click!簡易野球場Click!では本格的な試合は難しいだろう。
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 ここはやはり、海上グラウンドか哲学堂グラウンドのいずれかだろうか。下落合に住んでいた帝展系の画家たちは、昭和初期から野球チームをつくって頻繁に試合をしていたが、金山平三Click!がよく審判Click!をつとめていたのは哲学堂グラウンドでの試合だった。

◆写真上:画家たちの野球大会が開かれた、哲学堂グラウンド(現・哲学堂公園野球場)。
◆写真中上は、夏目家に通っていた学生時代の鈴木三重吉()と、1928年(昭和3)に撮影された鈴木三重吉()。とても同一人物とは思えないが、耳の形状が同じだ。は、1936年(昭和11)9月発行の「赤い鳥」(鈴木三重吉追悼号/第12巻3号)の表紙()と奥付()。は、早稲田南町にある夏目漱石の旧居跡(現・漱石公園)。先年、記念館が竣工して夏目漱石の漱石山房(書斎)が復元されている。
◆写真中下は、高田町3559番地の赤い鳥社跡。は、高田町3572番地の同社跡。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる赤い鳥社跡。
◆写真下は、長崎町荒井1880番地の赤い鳥社跡。は、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」にみる赤い鳥社。は、海上グラウンド跡(現・南長崎スポーツセンター)。

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