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版画の大衆化を進めた戦前の料治熊太。 [気になる下落合]

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 1928年(昭和3)から、会津八一Click!の弟子のひとりが落合地域に住みついている。落合町葛ヶ谷4番地(のち西落合1丁目3番地/現・西落合1丁目9番地)で、創作版画の雑誌「白と黒」や「版芸術」を白と黒社から発行していた美術家の料治熊太だ。料治熊太の名は、このサイトでも曾宮一念Click!の会津八一に関する証言や、中村忠二・伴敏子アトリエClick!をご紹介したときにも、すでに登場している。
 料治熊太は、自身でも創作版画を手がけたが、むしろ版画雑誌の発行者としてのほうが知られているだろうか。1928年(昭和3)に博文館を退社すると、葛ヶ谷4番地に家を建てて、翌1929年(昭和4)から「白と黒」を創刊し、つづけて「版芸術」を1941年(昭和16)まで西落合で発行しつづけている。彼が発行する版画雑誌を通じて、平塚運一や谷中安規、棟方志功、前川千帆などが作品を発表していった。
 また、料治熊太は古美術に関する評論でも活躍し、浮世絵や焼き物のコレクター・研究家としても知られている。このあたり、古美術に造詣が深いのは師の会津八一ゆずりなのだろう。葛ヶ谷(西落合)に転居してきた、1928年(昭和3)から1935年(昭和10)までは霞坂の秋艸堂Click!に、同年から1945年(昭和20)までは目白文化村Click!の第一文化村にあった秋艸堂Click!(旧・安食邸Click!)へと、足しげく通っていたと思われる。
 さて、友人に料治熊太の著名入りの書籍『明治の版画』(光芸出版/1976年)をいただいたので、同書を通じて落合地域における料治熊太の仕事と、彼がもっとも賞揚する小林清親の明治版画について少し書いてみたい。小林清親の光線画については、以前もこちらでご紹介Click!しているが、今回は彼が日本橋の米沢町、つまり両国橋西詰め近くの両国広小路沿いでのちの日本橋区(西)両国、つまりわたしの故郷である現・東日本橋の同じ町内に住んでいたことについて、そこで起きた惨事とともに少し触れてみたい。
 料治熊太の活動について、端的に表現していると思われる論文に日本女子大学の近藤夏来『創作版画運動と谷中安規』(2009年)がある。その一部を、少し引用してみよう。
  
 料治は、全6タイトル150冊もの版画雑誌を世に送った人物なのだが、彼が、『白と黒』と同時に手がけた『版芸術』は、機械刷りを採用して、部数を500部に広げ、50銭という安さをもって大衆化の意図をより鮮明にしたものであった。/版画人達が、いかに大衆を惹きつけるかを考え、その答えとしての表現方法に違いはあれど、大衆文化の急成長とは裏腹に、閉塞してゆく創作版画に焦燥感を抱え、多くはかつての錦絵のあり方に範を求めて模索した点は共通している。/そして、彼らの多くに、やがて転機が訪れる。30年代の後半、日本は軍国化への大きな一歩を踏み出す。そうした状況において、料治熊太は1934,5年頃から郷土玩具の採集と記録に傾倒するようになり、1938年には、版画界から身を退いている。
  
 戦後も、料治熊太は創作版画界へ復帰することなく、もっぱら古美術研究に没頭しているように見える。西落合の仕事場は、浮世絵や骨董などの蒐集品であふれ返ることになった。特に浮世絵は、江戸期に定着した浮世絵の手法や“お約束”には縛られないで、自由な表現で描けるようになった「横浜絵」や、新しい感覚の明治東京版画に注目している。
白と黒193705.jpg 版藝術193304.jpg
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 中でも、もっとも高い評価と賛辞を惜しまないのが光線画の小林清親だった。清親は、洋画風の写実を江戸期からつづく浮世絵の伝統に取り入れ、従来の作品には見られなかった風景や場の“空気感”をみごとにとらえて表現し、奥行きのある明治浮世絵を確立している。以降、浮世絵風の版画で風景を描写する作家たち、たとえば人気が高かった井上安次や小倉柳村たちは、すべて清親を規範とするようになった。
 料治熊太の清親に対する評価は、他の版画家たちに比べて群を抜いている。上掲の『明治の版画』から、当該箇所を引用してみよう。ちなみに、1980年代に清親ブームが起きたのは、料治熊太の清親研究や評価がその底流にあったからだろう。
  
 明治時代に小林清親が出たことは、明治の誇りといえるのである。なぜなら、いくら下村観山や狩野芳崖が当時偉い画家であったとしても、彼らの作品が明治の時代を謳歌していたわけでもなければ、その息吹があふれていたわけでもない。しかるに小林清親の作品になると、作品の中に明治十年の息吹が生きている。時が生きているばかりでなく、それを描いたその日の時刻が生きている。その日の気象が生きている。それはとりもなおさず、その時代に確かに生きていたということを物語っているのである。(中略) 明治の版画家として、小林清親の残した仕事は絶対のものであった。それから後、どんな偉大な版画家が出たとしても、清親ほど心の奥底から東京を愛した人は出ないであろう。それほど、彼はふるさと東京を、全霊を捧げて描いた人だった。
  
 清親の光線画と呼ばれた、およそ95作品の「東京名所図」シリーズは、1876~1881年(明治9~14)のわずか6年間、彼が日本橋米沢町で旗本出身の妻と暮らしているときに描かれている。年齢的には、清親が28歳から33歳までのことだ。米沢町のどこに自宅があったのかは不明だが、本所生まれの彼は大川(隅田川)Click!大橋(両国橋)Click!の近くを離れがたかったのだろう。
前川千帆「品川八ツ山」1929.jpg
平塚運一「新東京百景日本橋」1929.jpg
谷中安規「大川端」1940.jpg
 清親が光線画をやめたのは、1881年(明治14)に起きた両国大火で自宅が全焼してからだ。同年1月26日に、神田松枝町から出火した火事は強い北西風にあおられて、神田岩本町から大和町へ延焼し、やがて日本橋区から大川をわたり本所区、やがては深川区までを焼き尽くし、ようやく16時間後に消し止められた。焼失面積は実に42万m2を超え、焼失家屋1万数千戸という被害は、明治を通じて最大の火事被害となった。
 日本橋米沢町にあった小林清親の自宅は全焼しているが、彼は自宅にいた妻子を放り出したまま、火事場の写生に走りまわっていた。同じく、日本橋米沢町(現・東日本橋)にあった明治期のわたしの実家も全焼しているはずだが、両国大火について親父から話を聞いた憶えがない。おそらく、祖父母の世代は話を聞かされていただろうが、その後に起きた関東大震災Click!東京大空襲Click!の被害があまりにケタ外れだったので、両国大火は相対的に伝承の比重が下がったのだろう。神田区・日本橋区・本所区・深川区の52町を呑みこんだ大火で、4万人近い罹災者が出ている。
 以来、清親が「東京名所図」シリーズの制作をやめてしまったのは、大川をはさみ江戸情緒をたたえた街並みが両国大火で丸ごと失われ、モチーフの喪失と失望感から気力が萎えてしまったのかもしれない。それでも、両国大火のあとに再建された街並みは、いまだ江戸の雰囲気を強く継承していたはずだが、清親が再び「東京名所図」(いわゆる光線画)の筆をとることはなかった。同様のことが、関東大震災で再び旧・江戸市街地の情緒が失われた際にも、画家や作家を問わず表現者の間で少なからず起きている。
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清親「両国大火」1881.jpg
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 さて、料治熊太は描画から彫りや刷りまで作者が手がける、創作版画(新版画)の雑誌「白と黒」や「版美術」を発行していたが、それは1907~1911年(明治40~44)に発行されていた版画雑誌「方寸」(方寸社)を規範とし、その流れの継承を意識したものだろう。「方寸」は、石井伯亭Click!山本鼎Click!森田恒友Click!、戸張孤雁、岡本帰一、津田清楓、南薫造Click!斎藤与里Click!、坂本繁二郎、平福百穂Click!倉田白羊Click!、太田三郎、織田一麿Click!らが集まって、本格的な創作版画運動を推進する舞台となった。

◆写真上:葛ヶ谷4番地(現・西落合1丁目9番地)にあった、料治熊太邸(白と黒社)跡。
◆写真中上は、料治熊太が発行していた版画雑誌「白と黒」()と「版芸術」()。は、1976年(昭和51)に光芸出版から刊行された料治熊太『明治の版画』()と著者の署名()。は、西落合の自邸で蒐集品に囲まれる料治熊太。
◆写真中下は、1929年(昭和4)制作の前川千帆『品川八ツ山』。は、同年制作の平塚運一『新東京百景/日本橋』。は、1940年(昭和15)制作の谷中安規『大川端』。本所国技館と大川の角度から、浜町公園から眺めた風景だと思われる。
◆写真下は、1881年(明治14)1月26日のスケッチを木版画にした小林清親『両国大火浅草橋』。は、同日に浜町からスケッチした小林清親『両国大火』で、大橋(両国橋)の左手で炎上するのが清親の自宅やわたしの実家があった日本橋米沢町界隈。右手の水面が大川で、左手の水面が現在は日本橋中学校が建っている埋め立て前の薬研堀Click!の堀口だろう。は、火災の鎮火後しばらくたってから描かれたとみられる小林清親『両国焼跡』。左手に大橋(両国橋)の仮設橋らしい情景が描かれているので、日本橋側の両国広小路を焼けた吉川町から描いているとみられ、向かいの半焼けの家々が米沢町界隈。

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下落合で「気の狂った」画家の柏原敬弘。 [気になる下落合]

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 以前、脳に結核菌が入り、おそらく結核性髄膜炎を起こして精神的に錯乱状態となり、下落合のアトリエで死去した近藤芳男Click!について書いたことがある。同じく、下落合にアトリエをかまえていた洋画家に、大阪の八尾中学を卒業して東京美術学校に入学した、柏原敬弘(けいこう)がいる。この画家もまた、鈴木誠Click!によれば「気の狂った」ことにされているのだが詳細は不明だ。
 1918年(大正7)の当時、東京美術学校3年生で22歳だったというから1896年(明治19)生まれであり、同年代の画家には林武Click!村山槐多Click!が、また東京美術学校では田口省吾Click!前田寛治Click!と同級生だったことになる。藤島武二Click!に師事し、20歳の美校生時代から文展には連続して入選しているようで、アカデミックな分野では才能のある画家だったのだろう。文展が帝展に変わってからも、引きつづき出品をつづけていたようで、1922年(大正11)の第4回展までの帝展入選が確認できる。
 そんな柏原敬弘について、1967年(昭和42)発行の「みづゑ」1月号に掲載された、鈴木誠『手製のカンバス―佐伯祐三のこと―』から引用してみよう。
  
 私は学校の卒業と同時に、駒込から目白落合に、二階ふた間もあるなにかわけのある家を法外に安く貸(ママ:借)りきることが出来たので、引越して住むようになったが、これより前にすでに彼(佐伯祐三)は、近所にアトリエを新築して住んでいた。その年の冬、通称洗い場という近所のお百姓さんがよく「ごぼう」を洗いに来る谷間、その南側に建てたこの家の日当りのよい縁側で、シャベルを借りに来た彼と、寝ころがって雑談をしていたようだった。(中略) 戦乱中だったか、戦後だったか目白通りの古道具屋で、片多徳郎氏や同じく落合に画室のあった気の狂った柏原敬弘の外数点の作品に混って額縁にも入ってない彼(佐伯)の画を見つけた。サインもないので道具屋から誰の作品か知らないまま、ただのように譲ってもらって今も大切に保存している。(カッコ内引用者註)
  
 諏訪谷Click!洗い場Click!近く、斜面に南向きで建てられた、どうやら「事故物件」と思われる2階家を借りてい住んだ鈴木誠だが、ときどき佐伯が顔を見せていたようだ。この文章を書いた当時は、もちろん鈴木は旧・中村彝アトリエClick!に住んでいる。
 佛雲堂Click!浅尾丁策Click!が見つけた、佐伯祐三の『下落合風景(便所風景)』Click!も池袋の古道具屋で発見されているので、戦後すぐのころは佐伯の作品が下落合周辺の骨董店に無造作に置かれていたのだろう。文中に登場している、下落合732番地の片多徳郎Click!もまた、アルコール中毒症が昂じて最後には自裁している。
 さて、柏原敬弘がアトリエをかまえていたのは、またしても下落合803番地、薬王院墓地Click!の西側にあたる一画だ。ここは、夏目政利Click!によるアトリエ建築が集中していた一画とみられ、洋画家たちが集中して住んでいた。ちょっと挙げただけでも、鶴田吾郎Click!(804番地)、鈴木良三Click!(800番地)、鈴木金平(800番地)、有岡一郎Click!(800番地)、服部不二彦Click!(804番地)、そして下落合803番地には柏原敬弘が住んでいたことになる。まるで、大正期の「アトリエ村」とでもいうべき家並みだったようだ。
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 柏原敬弘が、いつごろから精神的におかしくなったのか、正確なところはわからない。ただし、1924年(大正13)以降の活動がみられず、同年からは美術年鑑などに住所と名前も見えなくなっているようなので、どうやら関東大震災Click!の前後から「気の狂った」(鈴木誠)状態になったのではないかと想像できる。また、東京美術学校にも卒業制作の作品が残っていないので、在学中から発症していたのではないかとも想定できる。では、なにが原因で精神的な錯乱状態を招来してしまったのだろうか?
 それを推測できそうな手がかりが、1918年(大正7)に泰山房から出版された芳川赳『作品が語る作家の悶(もだえ)』という、すごいタイトルの本がある。画家たちの作品を挙げながら、その裏に隠された物語やエピソード、ゴシップ、ウワサ話などを記した、ほとんど現代のセンセーショナリズム週刊誌のような内容なのだが、中には本人に取材して書いていると思われる章もある。その中に、柏原敬弘が1918年(大正7)の第12回文展に出品した『森の古池』をめぐり、「恋の落伍者となつた青年画家/思ひ出多い『森の古池』」と、これまたすごい題名の記事が載っている。同書から、少し引用してみよう。
  
 此の画題となつた『森の古池』は、氏が生涯忘れる事の出来ぬ思ひ出多い森ださうで、此画が出来上る迄には其処に云ひ知れぬ血と涙が注がれて居る。丁度此若い美術家が大阪の八尾中学を卒業した頃であつた。彼れには美しい一人の恋人があり、而も其の恋は精神的のものであつた。青春の血に湧く若い男女は村端れの森の下蔭に人目を避けて蜜のやうな甘い恋に憧憬れて互の理想と楽しい未来を夢みたが夫も束の間二人の恋は一場の淡い夢と消え去つて了つた。女は遂に柏原氏の燃ゆるが如き期待を裏切つて他の男に心を移し柏原氏を捨てたのである。捨てられた柏原氏の若い心は甚だしく傷つけられた。そして女の薄情に声を揚げて泣き暮らした悲観の極度が次第に女に対する憎悪となつて、感傷的な反感は遂に芸術を以て此反逆者に復讐すべく固く心の裡に誓つたのである。
  
 今日からみれば、プラトニックな淡い恋に破れたからといって、相手を裏切り者の「反逆者」呼ばわりし、こともあろうに「復讐」を誓うなど、いったいこの男の内面はどうなっているのか?……と心配になるのだけれど、同時にささいなことを根に持つ、どこか執念深いストーカーじみた粘着気質が想定できて、とても気持ちが悪い。女が「裏切つて」と書かれているが、裏切るほど関係が深くもなさそうなので、単に柏原に魅力がなく他の魅力ある男へ惹かれていっただけの話ではないだろうか。
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 これだけのことを、著者である芳川赳がまったくの空想で書けるわけがなく、本人に対面して画題にまつわるエピソードを聞き出したか、親しい友人にでも取材しているのだろう。このあと、柏原は文展に入選して喜んだのも束の間、自分を振った女(特につき合いらしいつき合いもまったくしていないので、「振った」という表現も適切でないような気がするが)への「復讐」や「呪ひ」へと突き進むことになる。すなわち、彼にとっての「復讐」や「呪ひ」とはしごくまことに単純で、有名な画家になって彼女を見返してやろうというものだったようだ。
  
 けれども氏の此喜びの声は忽ちにして呪ひの叫びと化した 呪ひとは若い時忘るべからざる虐げを受けた女に対する憤激の迸りである。彼の女を呪へ……彼の女を征服せよ、此心が氏をして益々研究を続けさせたのである。そして氏は其一方此心の悩みから遠ざかるため、谷中の両忘庵の宗活禅師の許の(ママ)参禅して大悟の道を辿つた。果然女は氏の前に膝を屈したのである。氏の出品が入選となつた後は幾回となく氏の許に束なす謝罪の文が、其女から舞込んだが痛快な勝利者となつた氏は手にさへ触れずに小気味よい笑ひの裡に件の文殻を焼棄て了つたのである。
  
 自身が「虐げ」られ「捨て」られたなどと臆面もなく口にし、あらゆることがらは自分に責任があるのではなく、すべて相手のせいであり一方的な被害者こそ自分である……というような認識や感覚は、自己中心的な人間にはよくある稚拙な“被害者意識”なのだが、ここまでくるとすでに病的だ。彼の中で、巨大な女性コンプレックスないしは女性恐怖症のようなものが育ち、それが強い憎悪や嫌悪をともないつつ、“ひとり歩き”をはじめていそうな気さえする。
 文中では、相手の女性から「謝罪の文」が何通もとどいたことになっているが、これも柏原敬弘が取材にきた芳川赳に語った“妄想”のたぐいなのかもしれない。東京へとうに出ていった、過去に一時的で精神的なつき合いのみだった男の住所を、あえて彼女が知っているのも不自然だし、さっさと男を見かぎって取っかえるような女性が、過去のことにいつまでもこだわって憶えているとも思えないからだ。むしろ、文展入選後に「どうだ、これがキミの振った男、つまり前途有望な芸術家たるボクの姿だ」などという、どこか江戸川乱歩Click!を想起させるような、気色の悪い「復讐」の手紙を何通も書いていたのは、むしろ柏原敬弘のような気さえしてくる。
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 わたしは、少なくとも芳川赳が書きとめた「柏原敬弘」のような、いつまでもイジイジとじめついた男が大キライなのだが、下落合803番地で暮らした実際の柏原敬弘の姿とは少なからず異なっているのかもしれない。だが、少なくとも『森の古池』のエピソードから推測する限り、自身が不利な立場に立たされると、すべてが他人のせいに思えてくる強い「被害者意識」をもった人物像が、そこはかとなく浮かび上がってくる。自ら谷中の寺へ参禅しているのは、自身の内面にもやや異常さの自覚があったからなのかもしれない。

◆写真上:薬王院の塀に面した、下落合800番地区画の現状(右手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合800番地区画。は、1936年(昭和11)の空中写真と1947年(昭和22)の同写真にみる同区画。空襲の被害は受けておらず、戦後まで大正期の面影が残っていた。
◆写真中下は、第1回帝展に入選した1919年(大正8)制作の柏原敬弘『春の枯草』。は、第4回帝展に入選した1922年(大正11)制作の同『夏の輝き』。『春の枯草』の中央右手には水門があるが、いずれも大正中期の下落合風景を描いたのかもしれない。
◆写真下は、1918年(大正7)に出版された芳川赳『作品が語る作家の悶』(泰山房)で、同書の内扉()と柏原敬弘の記事「恋の落伍者となつた青年画家/思ひ出多い『森の古池』」()。は、画家たちが集った下落合800番地区画の現状。

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陸地測量部の班長たちが住む下落合。 [気になる下落合]

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 第三府営住宅の11号、すなわち下落合1542番地にアトリエを建てて住んでいた、帝展の洋画家・長野新一Click!のことを改めて調べているとき、ついでに周辺に住む住民についてもチェックしてみた。すると、同じ第三府営住宅の24号つまり下落合1599番地に、同じ帝展画家の江藤純平Click!のアトリエがあったことが判明してご紹介している。
 東京府が実施していた府営住宅制度Click!とは、その名称から今日イメージされるような、自治体が住宅を建てて家賃貸しするのではなく、おもにサラリーマンを対象に土地を確実に手に入れ、その上に自分好みの住宅を建てるのをサポートする、持ち家一戸建て建設・取得のための積立金制度のようなものだった。
 長野新一や江藤純平も、作品が確実に帝展などの展覧会へ入選するようになり、また美術教師などの収入も堅調だったので、府営住宅制度を利用して下落合にアトリエを建設しているのだろう。長野新一は、1933年(昭和8)に39歳で死去しているが、アトリエ周辺に拡がる大正期の「下落合風景」を制作し、江藤純平はおもにアトリエの中で人物や静物の作品を多く残している。
 さて、第三府営住宅を観察しているとき、長野新一アトリエの南側に隣接する住宅(16号=下落合1588番地)についても調べてみた。「若林」という戸名が採取されているので、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)で調べてみると、なんと陸軍参謀本部が所管する陸地測量部の班長で、陸地測量師だった若林鶴三郎の家であることが判明した。
 そのことが、頭に隅にずっとひっかかっていたので、改めて府営住宅内を調査すると、目白文化村Click!の第一文化村西側に接している第四府営住宅の20号、すなわち下落合1636番地には、同様に陸地測量部班長で陸地測量師の佐藤武道が住んでいた。第三府営住宅の若林邸と、第四府営住宅の佐藤邸は、直線距離でわずか100m余しか離れていない。このふたりについての記述を、『落合町誌』から引用してみよう。
  
 陸地測量師/陸地測量部班長 若林鶴三郎  下落合一,五八八
 陸地測量師/陸地測量部班長/正六位勲三等 佐藤武道  下落合一,六三六
  
 ふたりの班長のうち、佐藤武道は叙位叙勲を受けているので、すでに公務員を退職したか、あるいは退職間近だったのかもしれない。
 以前、陸地測量部が1929年(昭和4)10月16日に作成した、1/10,000地形図の校正用紙(第1校紙版)の詳細についてご紹介Click!している。製図科の第1班(水澤班長)および第3班(水谷班長)の班員たちが校正作業に当たり、製図科長を兼務していた第1班の水澤班長が最終決裁を行っている。つまり、製図科内はいくつかの班に分かれており、その中の有力な班の班長が製図科長を兼務するというのが、陸地測量部の部局内における組織的な慣例だったようだ。一般企業の役職に当てはめてみると、班長が「課長」に相当し、科長が「部長」職に相当するだろうか。
 つまり班長とは、陸地測量部の業務における実務レベルの最前線に立つ技師たちの責任者であり、現場の仕事をすべて掌握しているエキスパートということになる。今日の官公庁における課長と同様に、現場の仕事を取りまとめて稟議を上げ、決済印をもらって業務を具体的に実行する“実働部隊”のキャップということだ。陸地測量部の班長が、下落合に近接してふたりも住んでいるということは、その周辺には『落合町誌』には収録されていない、陸地測量師(科員や班員)たちが集まって住んではいなかっただろうか。
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 当時の陸地測量部の組織には、地図制作に関する主要部局として三角科、地形科、製図科の3つの科が存在した。三角科は、全国にある三角点Click!の管理・運用をする部門であり、地形科は地形測量・調査を行う部門、そして製図科はそれらのデータをもとに各種地図を制作する部門だ。以前ご紹介した1/10,000地形図の校正用紙は、地図制作に携わる製図科の仕事ということになる。上記ふたりの人物が、どこの科に属していたのかは不明だが、わたしは地形科ないしは製図科ではないかと疑っている。
 このサイトでは、10年以上前から陸地測量部が作成した1/10,000地形図における、地名(字名)の不可解な移動について、繰り返し何度も触れてきた。そのひとつは、大正初期までの地形図では青柳ヶ原Click!(現・国際聖母病院Click!の丘)の西側に口を開けた谷戸に、「不動谷」とふられていたものが、大正中期になると300mも西へ移動Click!して、第一文化村からつづく前谷戸の位置にふられるようになる。1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡史』付属の地図でも、青柳ヶ原の西側に刻まれた谷戸が「不動谷」とされているし、また1967年(昭和42)に新宿区教育委員会が発行した資料Click!でも、聖母坂の西側に食いこんだ谷戸が「不動谷」と規定されてもいる。
 だが、陸地測量部の1/10,000地形図では、なぜか1918年(大正7)から「不動谷」が前谷戸の位置へと大きく移動している。以降、地元でつくられる地域地図、たとえば「下落合事情明細図」や「落合町全図」などでは、陸地測量部の地図に合わせて「不動谷」は西へ移動したままとなっている。ちなみに、「前谷戸」は谷戸そのものを指すネームであり、谷戸自体ではなく「谷戸の前にある土地」を字名として呼称する場合は、江戸東京の地名に関する“お約束”にならえば、「谷戸前」にならなければおかしい。したがって、落合第一小学校Click!の前に口を開けた谷間は、本来「前谷戸」と呼ばれていたのだろう。
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 同じような不可解な地名(字名)に、「中井」Click!がある。江戸期には目白崖線の麓にある、低地の集落(現・中井駅北東100~150mほどの麓域)につけられていた通称「中井村」Click!が、なぜか下落合(旧・中落合/中井含む)でもっとも標高が高い、城北学園(現・目白学園)の東側一帯(標高37.5m)の字名「大上」に取って代わり、大正末から昭和初期のわずかな期間だけ「中井」にされていたからだ。具体的には、1923年(大正12)以前の1/10,000地形図では字「大上」となっていたものが、同年以降に字「中井」に変更され、1930年(昭和5)には再び「大上」へともどされている。すなわち西武電鉄Click!が開通し、下落合駅の次の駅名が「中井」駅に決定してからもどされている。
 「不動谷」あるいは「中井」の地名移動は、製図科の校正で記載ミスを発見した際のアカ入れ修正などではなく、明らかに地図制作側の作為的な意思を強く感じるのだ。両地名の移動には、製図科の班員または班長、さらには科長の意向が強く反映していたとすれば、いったい誰の意向を忖度して地名の改竄を行なったものだろうか。w
 たとえば、「不動谷」が西へと移動した大正中期は、箱根土地の堤幸次郎Click!が目白文化村の開発を準備し、目白通り沿いの土地を府営住宅地として東京府に寄付するとともに、「不動園」Click!(のち目白文化村の第一文化村エリア)と名づけた郊外遊園地を建設していた。そして、堤は1924年(大正13)には、衆議院議員に初当選している。また、「中井」が丘上の字名「大上」に取って代わったころ、西武鉄道Click!が最終的な軌道コースClick!を企画している最中であり、鉄道駅を誘致したい落合町長は、上落合側から付けられた地名ではなく、ことさら下落合側に記録が残る地名(字名)の実績をつくりたかったのではないか。当時の落合町長は、1903年(明治36)から1928年(昭和2)まで実に25年間も就任していた、ワンマンで有名な川村辰三郎Click!だった。
 もし、これらワンマンな地元の有力者たちが個々に、あるいは双方が連携して、下落合に住んでいた陸地測量部の実務責任者へ、地名変更に関する請願を朝な夕なに行ったとしたら、はたして聞く耳をもたずに断りきれるだろうか。あるいは、贈り物・接待攻勢にあっているのかもしれないが、政治的なモメゴトを起こさないために、あるいは「村八分」に遭わないためにも、地図制作上でなんらかの忖度(意向)が働かなかったとは、いいきれないのではないだろうか。
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 若林鶴三郎と佐藤武道のふたりが、どれほど1/10,000地形図の制作にかかわっていたかは不明だし、また、いまとなっては地形科ないしは製図科に属していたかもわからない。さらに、あとどれだけ陸地測量部に関わる有力者たちが、大正期の落合地域に住んでいたのかも、『落合町誌』のみの資料では不足している。でも、彼らが現場の実務をこなす“班長”というトップの立場にいる以上、同じ町内から自治体事業をより有利に導くための、なんらかの働きかけや仄めかしがあっても、決して不思議ではないだろう。

◆写真上:下落合1588番地の、第三府営住宅16号にあった若林鶴三郎邸跡。
◆写真中上は、1929年(昭和4)10月26日に行われた1/10.000地形図の校正第1稿。右側には校正を担当した各班員と班長の捺印に、科長「水澤」の決裁印が押されている。は、同じく校正中の1/10,000地形図の部分拡大で、偶然にも第三府営住宅にある陸地測量部班長・若林邸のヨゴレを「トル」指定が書きこまれている。は、下落合西部の大上斜面あたりから写生したとみられる長野新一『落合村』(1926年)。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる陸地測量部班長の2邸。は、大正中期に起きた「不動谷」の西への移動。
◆写真下は、大正末から昭和初期にかけて短期間に起きた「大上」→「中井」→「大上」の不可解な変更。は、大上の麓・御霊下(のち下落合5丁目)にあった稲葉の水車小屋Click!と養魚場を描いた長野新一『養魚場』(1924年)。は、目白文化村に接する下落合1636番地の第四府営住宅20号にあった佐藤武道邸跡。

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下落合を描いた画家たち・江藤純平。 [気になる下落合]

江藤純平「風景」1929.jpg
 下落合1599番地すなわち落合府営住宅内の、第三府営住宅24号に帝展画家・江藤純平Click!がアトリエを建てて住んでいた。第三府営住宅Click!は、1924年(大正13)前後から住宅の建設がはじまっているので、おそらく江藤純平はかなり早い時期からアトリエ兼自邸を建設しているのだろう。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にも、すでに名前が採取されている。
 江藤純平の名前は、これまで東京美術学校時代の佐伯祐三Click!深沢省三Click!の証言者として、このサイトでは何度か繰り返し登場Click!している。学生時代の佐伯祐三は、おかしなエピソードをたくさん残しているが、同時期に美校で身近にいた江藤純平もまた、佐伯の姿を強烈な印象とともに記憶しているひとりだ。彼は、大阪人の佐伯祐三が、めずらしく蕎麦屋へ出かけた様子を記録していた。
 1929年(昭和4)に出版された『一九三〇年叢書(一)「画集佐伯祐三」』所収の、江藤純平と田代謙助の共著による「学校時代の佐伯君」から引用してみよう。
  
 こんなこともあった。ある友達がホンのたわむれに、/「ざるがいゝの、天ぷらがうまいのと云つたところで、そばでは先づおあいに止めをさすね」/とかなんとか彼をからかつたところ、而も小さんの「うどんや」は知らなく共このおあいの愚にもつかない話はその時代の悪いシヤれ(ママ)で、誰も鼻につき過ぎて嫌味な位であつたに拘らず率直で気早い彼は早その友達を手近のそば屋につれ込んでしまつた。/「オイ、おあいを二人前あつくしてくれえ」/と大真面目で正々堂々と註文したのである。これは餘りに馬鹿馬鹿しく嘘くさい話であるが我が佐伯君の場合にのみ真実性があり、最も愛すべき笑ひ話として残つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 佐伯がめずらしく蕎麦屋に出かけ、まるで芝居の直侍Click!次郎吉Click!のような江戸東京弁のイキな台詞まわしで、蕎麦と思いこんだ「おあい」を注文している様子がおかしい。文中に登場している「小さん」は、大正期の3代目・柳家小さん(初代・柳家小三治)のことで、昭和の「目白の師匠」こと5代目・小さんClick!もよく演じた「うどん屋」は、十八番(おはこ)にしていた噺のひとつだった。
 わたしは当然、大正期の小さんの噺などまったく知らないので、マクラあたりで話されたらしいシャレの「おあい」がなんだったのかはわからないが、おあい(東京弁:おわい=糞尿)にひっかけた、なにか笑いを誘う臭いダジャレだったのではないか。
 粥(かゆ)Click!とまったく同様に、病気で寝こんでよほど重篤なときならともかく、ふだんからうどんの食習慣がない江戸東京地方では、小さんの演じる「うどん屋」Click!(5代目)に、江戸東京人らしい“うどんの定義”や食文化・美意識がよく表現されている。
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江藤純平「自画像」1923.jpg 江藤純平「アトリエにて」1924.jpg
 さて、1923年(大正13)に東京美術学校を卒業した江藤純平は、翌1924年(大正13)に開催された第5回帝展に早くも入選している。かなり順調な滑りだしだが、もともと大分県の実家が裕福だったものか、あるいは長野新一と同様に教師などの安定した収入の職業に就けたものか、卒業とほぼ同時に下落合1599番地の第三府営住宅内にアトリエ兼自邸をかまえている。
 帝展へ初入選したのは、その新築のアトリエで裸婦を描いたとみられる『アトリエにて』という作品だった。美校を卒業して、すぐに自分のアトリエがもてたことが、とてもうれしかったのだろうか。裸婦の周囲に置かれた家具調度や吊るされたカーテン、板張りの床などが明るく鮮やかな色彩で表現され輝いて見える。この作品以降、帝展では毎年入選する常連となり、1928年(昭和3)には『S氏の像』で、翌1929年(昭和4)には『F君の像』で2年連続の特選に選ばれている。
 残されている作品を観ると、もともと人物の肖像画を得意とする画家のようにも思えるが、『F君の像』を描いて帝展特選になった同年、めずらしく野外へ出て30号Fサイズをタテにした風景画を制作している。セザンヌばりの色彩やタッチで描かれた作品は、単に『風景』とだけ名づけられているが、自邸から離れずアトリエにこもって制作することが多かったこの時期、周辺に拡がる近所の下落合風景を描いた可能性が高いように思われる。木立ちの間から、手前の草原ないしは造成と区画割りが済んだばかりの住宅敷地の向こうに、西洋館とみられる建物が2棟とらえられている。
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 2棟の住宅は、濃いブルーかグレーのスレート屋根のように見え、手前の住宅にはフィニアルらしい小さな突起が、切妻の上に見てとれる。壁はベージュに塗られ、オシャレな白い鎧戸が設置された窓は、いかにも郊外に建てられた文化住宅の趣きがある。手前に拡がる草原の色合いや、変色しかかっている樹木の風情、空に浮かぶ雲の様子などから、空気が澄んでいる晩秋の風景だろうか。住宅の周囲には電柱が1本も描かれていないので省略しているか、あるいは目白文化村Click!の家並みなのかもしれない。
 このような情景は、画面が描かれた1929年(昭和4)の当時、下落合(現・中落合/中井含む)の中西部に位置する江藤純平のアトリエ周辺では、あちこちで見られただろう。制作から6年後の、1936年(昭和11)に撮影された空中写真でさえ、アトリエの南西部にはいまだ随所に草原や宅地造成地を見ることができる。
 画面の光線は、左手やや後方から射しこんでおり、それが南面に近い方角だとすると、描かれている住宅の切妻は東西を向いていることになる。光がやや黄色味を帯びているのは、午後のせいだろう。アトリエの南に拡がる目白文化村の一部を描いたものか、あるいは第三府営住宅または第四府営住宅の一部なのか、これらの住宅地の周辺には描かれたような草原や、残された木立ちがあちこちに散在していた。
 最初は、少し離れた場所から自身のアトリエを眺めた風景なのかと疑ったが、下落合1599番地の江藤純平邸は、このような屋根の形状をしていない。第三府営住宅は、ほとんど空襲による延焼の被害を受けておらず、1947年(昭和22)の米軍が撮影した精細な空中写真で、江藤純平邸をハッキリと確認することができる。それを観察すると、屋根は明らかに日本家屋のような形状をしており、北面の一部にアトリエの洋間が付属したような、和洋折衷住宅の意匠だったのだろう。
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 江藤純平は、佐伯祐三が下宿していた上戸塚(高田馬場)時代も、また下落合661番地にアトリエを建てて転居してきたあとも、同窓のよしみで彼のごく身近にいたようだ。高田馬場の下宿Click!では、佐伯が毎日ていねいに削っておいた鉛筆を、イタズラ好きな下宿の女の子が全部折ってしまう話や、新築したアトリエの柱を片っ端からカンナで削ってしまうエピソードClick!なども、山田新一と同様に細かく記録している。

◆写真上:アトリエ周辺を描いたとみられる、1929年(昭和4)制作の江藤純平『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合1599番地の江藤純平アトリエ兼自邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同アトリエ。下左は、東京美術学校の卒制で1923年(大正12)に描かれた江藤純平『自画像』。下右は、第5回帝展に初入選した江藤純平『アトリエにて』。
◆写真中下は、江藤純平アトリエ跡の現状。は、『風景』の奥に描かれた西洋館の拡大。は、1936年(昭和11)現在の江藤アトリエ周辺に展開する草原(宅地造成地)。
◆写真下は、1941年(昭和16)の斜めフカンから見た江藤純平邸。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸。は、1938年(昭和13)制作の江藤純平『牛』。

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100円で買われた『盲目のエロシェンコ』。 [気になる下落合]

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 鶴田吾郎Click!が画業を離れ、ヨーロッパからシベリアを放浪し「満州」に滞在していたとき、中村彝Click!の伝言を携えて奉天まで迎えにきたのは、のちに鶴田の妻となる“その夫人”だった。中村彝からの伝言とは、「東京を出る時、中村彝さんのところへ寄ったところ、是非あなたに帰ってくるように伝えてくれ、帰ってくればお互いにまた昔の友達として一緒にやるから」というものだった。1920年(大正9)の3月、鶴田吾郎は3年間におよぶ海外の放浪生活をやめ、将来の妻とともにようやく帰国している。
 鶴田が海外へ出たまま、なかなか帰国せずにいたのは日本での生活の“重荷”、つまり生きるためには仕事をして稼がなければならないという日々が、イヤでイヤで仕方がなかったからのようだ。帰国すると、とりあえず鶴田は下落合にいたとみられる兄のもとに寄宿している。そのあたりの様子を、1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』から引用してみよう。
  
 彼女、すなわちそのは二十五歳、私は三十歳であり、たとえ中村が待っているといっても、東京に入った以上は世帯をもたなければならない。新婚生活という気分よりも冒険のような出発から始めなければならなかった。/目白の奥に室借りをしていた兄の室に、取り敢ず落ち着き、近くに新築の貸家ができたので、その家を借りて住んだのは大正九年の三月末であった。
  
 文中に登場する「新築の貸家」が、関東大震災のときまで鶴田吾郎夫妻が住んでいた、目白通り近くの下落合645番地のClick!のことだ。兄の家の「近く」と書いていることから、彼の兄も同じく下落合の東部に下宿していた可能性がある。この約半年後の1920年(大正9)9月に、鶴田吾郎は目白駅Click!のホームで新宿中村屋Click!に寄宿していたワシリー・エロシェンコClick!と初めて出会っている。それまで鶴田は、複数の知人からエロシェンコのことを耳にしており、マントを羽織ってバラライカを手にする姿を見て、すぐに彼だとわかったようだ。
 このとき、プラットホームにいたエロシェンコは、雑司ヶ谷町(現・目白台)にあった府立盲学校の帰りだったか、あるいは目白駅の近くに住む知人を訪ねた帰途だったのだろう。そのときの様子がもっとも仔細に書かれているのは、1959年(昭和34)9月にみすず書房から出版された『エロシェンコ全集』第1巻付録の月報Ⅰに寄せたエッセイだ。同月報に収録された、鶴田吾郎「エロシェンコと中村彝」から引用してみよう。
  
 当時下落合に住んでいた私が、目白駅のホームで電車を待っていると、フサフサとした金灰色の髪の毛が輝き、黒のマントを肩からつるして、バラライカを手にした一人の盲目のロシア人が悄然と入ってきた。/省線の電車はいまでは想像もつかぬくらいずっと閑散であり、そのころの目白駅もほんのチッポケなもので乗降客もわずか二、三人ずつぐらい、だからホームに立っている人もすくなかった。/このロシア人が、話にきいていたエロシェンコであることは、私にはすぐピンときた。/「あなたはエロさんですね」/私はあることが頭にきたので傍らによって声をかけた。/「ワタシ ソウデス アナタハ」/エロシェンコはうつむいたまま答える。/「僕はね、絵を描くツルタというものです。突然で失敬だけれど、あなたを描きたいのでモデルになってくれませんか。」/随分失敬な話で、これが他の人だったら、驚いたり、怒ったりすることもあるだろうと思えたが、彼がロシア人であるために、率直に言った方が、かえって承諾をえられる可能性があると考えたからである。/「ツルタ エエシッテイマス、ニンツアカラハナシハキキマシタ。ママサンニソウダンシテカラニシマショウ」
  
鶴田吾郎旧居645番地.jpg エロシェンコ.jpg
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 その直後、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』Click!と中村彝の『エロシェンコ氏の像』Click!が、下落合464番地の彝アトリエで制作されるのだが、山手線で彝アトリエに向かう相馬黒光Click!エロシェンコClick!に偶然出会った曾宮一念Click!が、ふたりの制作過程を観察している様子はすでに記事Click!にしている。中村彝は当初、『エロシェンコ氏の像』をパトロンのひとりだった新潟県の柏崎に住む洲崎義郎Click!へ譲ったが、その直後に今村繁三Click!との間で作品の譲渡をめぐって“綱引き”が起こり、「エロシェンコ事件」Click!として語られていたことも記事にしている。
 一方、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』は、同年秋の第2回帝展に入選・展示されたあと、新宿中村屋の相馬愛蔵から100円で譲ってくれという話が持ちこまれている。大正中期の100円は、物価指数を基準にいまの価値に換算すると、およそ10万円弱といったところだろうか。新進画家の帝展入選作としてはあまりに安価なので、相馬愛蔵は不足分をいずれ支払うと約束している。『半世紀の素描』より、帝展で『盲目のエロシェンコ』が入選した直後の様子を引用してみよう。
  
 (前略)助かったことは、家主とか米屋、酒屋なども、余り借金の催促をしなくなったことである。その頃はまだいわゆるつけをしている時代だったから、現金をもっていなくとも、一ヵ月や二ヵ月は喰うには困らなかった。/いずれにしても帝展に出たということだけで、これから絵描きとして、どうやらやって行けるのではないかという覚悟をしたのである。/展覧会が終ると、新宿の中村屋の相馬愛蔵から百円で是非譲って貰いたいという言伝があった。その上、中村屋はいまだ苦しい時代だが、いずれ別に心持ちを出そうからというので、この絵は中村屋に買われ、暫くの間パンを売る奥の壁面に掛けてあった。
  
 余談だが、新宿中村屋が1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で焼けたとき、ショーウィンドウに飾られ中村彝の傑作といわれた風景画『曇れる朝』Click!は焼失したが、ロシア・チョコレート売り場から2階の喫茶部へと上がる階段の途中に架けられていた、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』はなぜか無事だった。この間、どのような物語があったのかは不明だが、相馬黒光の日記によれば、秋川渓谷近くの大悲願寺へ夫妻で疎開した際、絵画作品は店に置いたままであり持ち出されてはいない。
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 さて、鶴田吾郎が画家として生きる決心をした2年後、彼は池袋駅のホームで関東大震災Click!に遭遇している。1923年(大正13)9月1日のこの日、上野で同日から展示がはじまる院展や二科展を観に出かけようと山手線に乗るところだった。最初は、近くを通過する貨物列車の振動だと思ったらしいが、すぐに大きな地震だと気づいている。目白駅寄りに設置されていた、貨物線の蒸気機関車へ給水するための貯水タンクの水が、激しい揺れではじき飛ばされるのを見て、彼は跨線橋を走りわたると駅西口へと出た。
 当時の池袋駅は、周囲を畑に囲まれた中にポツンとあるような風情だったので、特に大地震が起きても人々が騒ぐ様子は見えず、駅前はひっそりしていたようだ。鶴田吾郎は、上屋敷(現・西池袋)から目白通りへと抜けて、下落合の自宅へと駆けもどっている。
  
 上り屋敷から落合の通りに抜けて家に戻ると、妻子は無事であったが、家は五度位傾き、壁は殆んど落ちて、足の踏み場もない。床の間に立てかけておいた三十号のスキターレッツ(ゴーリキー達の仲間だったロシヤの作家、大森に来ていたので描いた)の肖像画は壁の下敷きとなっていたが、これも無事だった。(中略) 関東大震災も一応落ち着いて、中村の画室に近くなったところへ、無理して小さな画室をその冬造って移ることにした。曾宮と中村の中間にある処だった。
  
 この「小さな画室」が、下落合804番地の鶴田アトリエClick!ということになる。鶴田吾郎は、「曾宮と中村の中間」と書いているけれど、中村彝アトリエから下落合623番地の曾宮一念アトリエまで直線距離で504m、下落合804番地の薬王院の森に近接する鶴田アトリエまで509mとほぼ等距離だ。大正当時の道順で歩いても、鶴田のほうが10mほど近いだけなので、「中間」というのは明らかに誤記憶だろう。
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 このあと、鶴田吾郎は下落合804番地のアトリエで、9月の帝展に出品した100号の作品が落選し、つづいて長男・徹一Click!を疫痢で喪い、間をおかずに中村彝の死Click!に接して下落合での生活がイヤになり、長崎町字地蔵堂971番地へ新たなアトリエClick!を建設して転居していくことになる。空き家になってしまった、建設して間もない下落合804番地のアトリエへ転居してきたのは、同じく帝展画家だった服部不二彦Click!だった。

◆写真上:鶴田吾郎が、下落合804番地に初めて建てたアトリエ跡の現状。
◆写真中上上左は、1918年(大正7)作成の陸地測量部1/10,000地形図にみる下落合645番地。上右は、1921年(大正10)9月にハルピンで撮影されたワシリー・エロシェンコ。は、1925年(大正14)に撮影された池袋停車場。
◆写真中下は、大正末ごろ撮影された新宿中村屋の記念写真。は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲により新宿中村屋で焼失した中村彝『曇れる朝』。まるで、草土社Click!岸田劉生Click!のような表現をしているのが興味深い。は、その5月25日夜半に米軍機から撮影された焼夷弾が着弾寸前の新宿駅東口と新宿中村屋。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合804番地の元・鶴田吾郎アトリエ(服部不二彦アトリエ)。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同所。は、ちょうど1920年(大正9)に新宿中村屋で撮影された脚本朗読会「地の会」の記念写真。エロシェンコの背後に、俳優の佐々木孝丸Click!がいるのがめずらしい。また、神近市子Click!は麹町の時代で落合地域に住みはじめるのは10年後のことだ。

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「森たさんのトナリ」と里見勝蔵の転居。 [気になる下落合]

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 以前、1920年(大正9)制作の里見勝蔵Click!『下落合風景』Click!についてご紹介した。下落合を描く風景画が、いまだ流行Click!していない早い時期の作品で、同作は大正半ばから1922年(大正11)まで下落合323番地に住んでいた森田亀之助邸Click!を描いたのではないかと想定した。のち、森田亀之助は曾宮一念アトリエClick!の北側にあたる下落合630番地へと転居し、里見勝蔵はその隣りの借家へ引っ越してくることになる。
 森田亀之助Click!は、東京美術学校の教師で英語を教えていたが、里見勝蔵も佐伯祐三Click!もその教え子たちだ。森田と里見は12歳ちがい、森田と佐伯は15歳ちがいで、佐伯が一度めのフランス留学から帰国した1926年(大正15)現在だと、森田亀之助は42歳、里見勝蔵は30歳、そして佐伯祐三は27歳ということになる。師弟の関係とはいえ、それほど極端に年齢が離れているわけでもなく、また授業では美術そのものではなく語学や美術史を習っていたせいだろうか、里見も佐伯もなにかと気軽に相談できる相手として、森田亀之助を捉えていたふしが見える。
 さて、1926年(大正15)10月10日(日)の、東京気象台によれば野外写生に適さないどんよりとした小雨もよいの日に、佐伯祐三は「制作メモ」Click!によれば「森たさんのトナリ」Click!という20号のタブローを描いている。この「森たさん」は、佐伯祐三のアトリエから北東へわずか140mほどしか離れていない、下落合630番地の森田亀之助邸の隣家を描いている可能性がきわめて高い。当日は日曜なので、東京美術学校が休みで自宅にいた森田を、佐伯はひょっとすると訪問しているのかもしれない。では、なぜ森田邸の隣家などを描いているのか、そして里見勝蔵はいつ下落合630番地へと転居したのか?……というのが、きょうのテーマだ。
 活字になって残された資料によれば、たとえば1927年(昭和2)に発行された「アトリエ」4・5月合併号で、里見勝蔵の転居はすでに同誌「雑報」の中に紹介されている。
  
 里見勝蔵氏 東京市外下落合町六三〇に移転。
  
 「下落合町」は誤りで、正確には落合町下落合630番地ということになるが、同誌が書店の店頭に並んだのは3月末から4月の初めごろの可能性がある。また、奥付には同年4月15日印刷/5月15日発行となっているが、このデイトスタンプも前倒しで記載されている公算が高い。今日でも同様だが、雑誌類の「〇月号」は実質的の当該月の前月に発行されるのが慣習となっているため、3月末には書店の店頭に並んでいたのではないだろうか。
 同じく、「中央美術」5月号(中央美術社Click!)にも里見の転居が記載されている。
  
 里見勝蔵氏 府下下落合六三〇転居。
  
 ちなみに、「アトリエ」が4・5月合併号になっている理由が、「中央美術」5月号を見るとわかる。アトリエ社を主宰していた北原義雄が、自宅と編集部を牛込の喜久井町に移している最中で、その移転作業のために1号ぶんを休刊せざるをえなくなったからだ。同じ「月報」欄には、「北原義雄氏宅と共に牛込区喜久井町三四に移転、電、牛、六四二一」と記載されている。
 それまで、京都の実家にいたとみられる里見勝蔵は、1926年(大正15)暮れか翌1927年(昭和2)の早い時期に、森田邸に隣接した下落合630番地の借家を契約していることになるのだろう。そして、少なくとも「アトリエ」の合併号が店頭に並ぶ、3月後半には引っ越し作業を終え、下落合で暮らしはじめていたことになる。また、アトリエ社と中央美術社に転居通知を出したのは、そのさらに前ということにもなりそうだ。
アトリエ19270405合併.jpg 中央美術192705.jpg
森田亀之助邸1926.jpg
 さて、佐伯祐三の「制作メモ」に残る、『下落合風景』の1作「森たさんのトナリ」にもどろう。佐伯が同作を描いた、1926年(大正15)10月10日の時点で、彼は里見が東京に家を探していることを当然知っていただろう。いや、1930年協会を結成したもっと以前から、里見が再び東京へやってくることはメンバーたちの間では共通の認識になっていたかもしれない。そして、里見勝蔵もまた同協会の会員たちに「いい家があったら紹介してくれ」ぐらいのことは、東京に出てきたついでに対面で、あるいは手紙で伝えていただろう。ひょっとすると、森田亀之助にも手紙で依頼していたのかもしれない。
 このあたりの経緯は、あくまでも想像の域を出ないのだが、森田亀之助か佐伯祐三のどちらかが、下落合630番地の「森たさんのトナリ」に、建設されて間もない借家があることを京都の里見勝蔵に知らせたのだ。その際、その借家がどのような様子なのかを、森田が写真に撮影したか、佐伯がハガキないしは手紙にスケッチしたかは不明だが、京都の里見に送っているのではないだろうか? わたしはかねがね後者のような気がしているのだけれど、里見はそれを見て東京へ出てきた際に、下落合630番地の借家を契約した……そんな気が強くしている。
 なぜなら、佐伯はそのときのスケッチがもとになって、あるいはスケッチから刺激されて、改めて『下落合風景』の1作に「森たさんのトナリ」を仕上げているのではないだろうか。「森たさんのトナリ」に比定できる画面は、現在でも個人蔵で伝わっているようなのだが、わたしは実際の画面をいまだ一度も観たことがないし、展覧会に出品された記録を確認した憶えもない。佐伯のサインも描かれておらず、おそらくは関西の頒布会を通じて販売された「売り絵」の1作なのではないだろうか。
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森たさんのトナリ解題.jpg
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 画面を見ると、特に佐伯が好きなパースのきいた風景モチーフでもなければ、構造物に硬質な質感のある構成でもなく、ただ単に東京郊外に建てられたなんの変哲もない住宅を2棟と空き地を、ふつうに描いているだけのように見える。下落合を歩く佐伯祐三の、いつもの眼差しであるなら、あえて見すごすようなモチーフなのだが、そのような場所を選んで描いているのは、その背景に里見勝蔵や森田亀之助にからむ、上記のようなエピソードがあったからではないだろうか。
 1927年(昭和2)の早々に、下落合630番地こと森田亀之助邸の南隣りへ転居してきた里見勝蔵は、近くに住む前田寛治Click!や佐伯との交流を深めることになる。当時の様子を、1979年(昭和54)に東出版から発行された『近代画家研究資料/佐伯祐三Ⅰ』所収の、里見勝蔵「佐伯と山本さんの蒐集」から引用してみよう。
  
 佐伯の下落合の画室では、前田も僕もその附近に住つて、毎日祭日の連続であつた。面白い遊技をした。前田の画室でゞもやつた、又、藤川勇造さんの家にもよく集つた。食料や蓄音機や色々おもちやを持つて、しばしばピクニツクに出た----一尺程の草の生へてゐる所で、馬のギヤロツプの如く足を上げてダンスをした。その草山が後に開かれて、今僕が住ふ井荻となつた。/ある時、二人はニ三日がかりで百幾十枚かの画布を製造した。又、二つの大きな画架を作つて、佐伯の画室に並べて、米子さんと三人は仕事に専念した。(生涯の中に無邪気に面白いといふ時代は、さう幾回もあるものではないらしい。)
  
 この時期の前田寛治Click!は、「美術年鑑」によれば下落合661番地、つまり佐伯アトリエに住んでいたことになっているが、わずか2ヶ月間の居候ないしは連絡先としていたようだ。1926年(大正15)8月に、前田は下落合1560番地から湯島1丁目20番地にあった「湯島自由画室」へと転居し、同年10月から12月まで佐伯アトリエ、そして同年12月から翌1928年(昭和3)6月までが長崎町大和田1942番地という動きをしている。したがって、里見や佐伯が遊びに出かけた前田寛治のアトリエは、下落合1560番地ないしは長崎町1942番地のアトリエだったろう。
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藤川栄子像1926頃.jpg
妙正寺池.JPG
 里見、佐伯、前田の3人は、戸塚町上戸塚866番地の藤川勇造Click!藤川栄子Click!夫妻のアトリエClick!へも、頻繁に出かけていた様子がわかる。ときに、妙正寺川の流れを湧水源(妙正寺池)Click!までたどり、井荻方面へピクニックに出かけた里見は、西武線が開通すると外山卯三郎Click!を誘って、アトリエ建設地Click!の下見にも出かけているのだろう。

◆写真上:佐伯と同じ小雨の日に撮影した、上智大学目白聖母キャンパスの庭になっている下落合630番地の現状。奥の突き当り左寄りが森田亀之助邸跡で、佐伯が描いた「森たさんのトナリ」は手前の敷地の家々を左手(西側)からとみられる。
◆写真中上上左は、1927年(昭和2)発行の「アトリエ」4・5月合併号にみる里見勝蔵の転居通知。上右は、同年発行の「中央美術」5月号にみる里見の転居通知。は、1926年(大正15)に発行された「下落合事情明細図」にみる森田亀之助邸のその周辺。
◆写真中下は、1926年(大正15)10月10日(日)の小雨もよいの日に制作された「森たさんのトナリ」とみられる画面とその改題。は、佐伯が制作した空き地には上智大学の校舎があるため現在描画ポイントには立てない。
◆写真下は、1927年(昭和2)7月に描かれた佐伯祐三『「恐ろしき私」の顔』。前月に刊行された中河與一『恐ろしき私』(改造社)の装丁・挿画を担当した佐伯が、それを意識して描いた自画像。は、1926年(大正15)ごろにスケッチされた佐伯祐三『藤川栄子像』。は、そろってハイキングに出かけたとみられる妙正寺川の湧水源・妙正寺池。

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疎開先の安倍能成と安井曾太郎。 [気になる下落合]

東大駒場キャンパス.JPG
 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、第二文化村Click!の下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)にあった安倍能成邸Click!は、膨大な図書や資料とともに全焼Click!した。このあと、安倍能成は目黒区駒場にあった第一高等学校の同窓会館2階へと避難し、そこで戦後まで“疎開”生活を送っている。当時、安倍は第一高等学校の校長をつとめていた。
 一方、近衛町Click!の下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)にアトリエがあった安井曾太郎Click!は、中国への写生旅行で体調を崩し、1945年(昭和20)3月に帰国すると、そのまま秩父鉄道の沿線にある埼玉県大里郡寄居(よりい)へと静養がてら疎開している。近衛町の安井アトリエClick!が焼けたのは、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!のときであり、安井は自宅やアトリエが全焼するのを目にしていない。
 敗戦の直後、ふたりの疎開先へ間をおかずに訪ねた人物がいる。当時は第一高等学校の教授だった、フランス文学者で随筆家の市原豊太だ。彼は一高の同窓会館2階へ安倍能成を訪ねた際、安井曾太郎が描いたあちこちが焼け焦げだらけの『安倍能成氏像』(1944年)を目にしている。肖像の顔面は、ほとんど損傷がなかったようだが、白い麻の背広を描いた部分は火の粉をかぶり、キャンパスに点々と焦げ跡や穴をあけていたようだ。現在、カラーで撮影された同作には、そのような損傷は見られないので、おそらく戦後しばらくして修復されたものだろう。
 市原豊太は、安井曾太郎が描いたイスに座る全身像の『安倍能成像』(1944年)と、白い麻製の背広を着た半身像の『安倍能成氏像』(同年)の双方を見ているが、一高の同窓会館で傷つきながらも保管されていたのは、半身像の『安倍能成氏像』だったことがわかる。安倍のもとを訪ね、同作と再会したときの様子を1947年(昭和22)に養徳社から出版された、市原豊太『内的風景派』から引用してみよう。
  
 自分は、安井さんの無比な精進の一成果が、他の貴賤さまざまな物財と同じく、人知れぬ間に、黙々として戦禍の犠牲になりかけたことを思つてゐると、この肖像画が恰も一つの生きものでもあるかのやうに、如何にもいぢらしく感ぜられるのであつた。その晩は偶々御馳走で少し酔加減でもあつたが、その暫く前、夏目(漱石)さん御自身の呈辞のある数々の小説の初版本や書画幅を始め、その他の貴いものが、下落合の空襲でムザムザと灰になつてしまつたことに対する愛惜か憤りのやうなものも手伝つて「これは先生だけのおたからではありませんから」といふやうなことを言ひながら、殆ど先生の許諾も待たず、その翌日秩父の山中へこの画を持つて行くことにした。併し先生は、秩父へ行くなら寄居(よりい)に疎開中の安井さんをも訪ねるやうにと言はれた。(カッコ内引用者註)
  
安井曾太郎「安倍能成氏像」1944.jpg 安井曾太郎「安倍能成像」1944.jpg
旧・一高同窓会館.jpg
安井曾太郎.jpg 安倍能成.jpg
 これによれば、市原豊太は駒場の一高同窓会館2階に避難している安倍能成を訪ねた翌日、秩父Click!の上長瀞駅の付近に住んでいた友人「堀口稔君」を訪ねて、頑丈な蔵の中へ焼け焦げだらけの『安倍能成氏像』を預けると、その足で秩父鉄道に乗って寄居駅近くに疎開していた安井曾太郎を訪ねている。なぜ、そのまま傷んだ絵を持参して、作者の安井曾太郎へ修復を依頼しなかったのかは不明だ。
 安井曾太郎が疎開をしていたのは、あちこちに煤けて黒い木材が見える農家を改造した、かなり小さめな2階家だったようだ。家具調度もあまりなかったようだが、市原豊太はタンスの前にポツンと置かれた文楽人形を目にしている。あいにく、安井曾太郎は荒川河畔の写生に出ていて不在で、市原豊太は文楽人形としばらく“対座”することになった。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 竹へぎを編んで黒漆を塗つたつづらのやうな面の箪笥、その扉には大きく「丸に剣酢漿草(けんかたばみ)」の定紋が朱漆で描いてある。この黒い箪笥の前に、そして座敷の隅になる所に文楽の人形が一つ坐つてゐる。丸髷の中年増で薄鼠色の小紋縮緬を着てゐるが、黒繻子の帯の下からはみ出した腰おびは実にやはらかなとき色であつた。「時雨の炬燵」のおさんにでもなれさうなこの人形は、つつましく膝を半ば折るやうにして、稍うつむき加減に手をつかへている。
  
 農家を改造した家らしいから、それほど室内が明るかったとは思えないが、通された座敷に文楽人形があったら、しかも首(かしら)Click!だけでなく心中天網島(しんじゅう・てんのあみじま)の「おさん」のような中年増(ちゅうどしま)が全身で座っていたりしたら、ふつうはギョッとするのではないだろうか。市原豊太は、さすがに不気味で気持ちが悪かったとは書けないので、仔細にすみずみまで観察した様子を記録している。
安井曾太郎「荒川風景」1945.jpg
安井曾太郎「寄居風景」1946.jpg
中年増1.jpg 中年増2.jpg
 やがて、荒川の写生からもどった安井曾太郎が、半袖の白シャツに鼠色のズボン姿で現れると、おそらく安倍能成の肖像画についての話が出ただろう。このとき、焼け焦げだらけになってしまった『安倍能成氏像』について、市原豊太は直接安井に修復依頼をしているのかもしれない。訪問のついでに、疎開先の画室を案内された市原は、1944年(昭和19)に描かれた安倍能成のデッサンを1枚、安井曾太郎から譲り受けている。寄居に疎開中の安井曾太郎画室の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 暫くして、仕事場を見せて下さるといふ思ひがけない言葉に、心を躍らせながら画伯について急な狭い階段を昇つた。毛布のやうな地にプリミチフな感じのとびとび紋様のある大きな布が----これは蒙古の毛織物ださうであるが----幾つも拡がつて居り「全身像」の灰青色の椅子もあつた。堅い窮屈さうな椅子だ。画架には山の手に赤屋根の多く並んだ港の小品が掛つてゐて、又傍には水彩画のやうな感じのする北京のやはらかな風景も貼つてあつた。
  
 文中の「全身像」とは、半身像の『安倍能成氏像』(1944年)と同時期に制作された『安倍能成像』のことで、安井曾太郎は下落合のアトリエからいくつかの調度や備品を、寄居の疎開先まで運んでいるのがわかる。
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市原豊太「内的風景派」.jpg 市原豊太「内的風景派」扉.jpg
六隅許六(渡辺一夫).jpg 加藤周一「ある晴れた日に」1950.jpg
 市原豊太が、近々一高のキャンパスで校内美術展が開催される予定なのを伝えると、安井曾太郎は「ソレはいいですな」と賛同している。プロの画家たちが満足に仕事もできない、物資が欠乏して食べるのにもこと欠く混乱した世相なのに、若い学生たちが美術に熱心なのは自分自身の励みにもなると感じたらしい。ほどなく、一高で開催された校内美術展には、市原が譲り受けた安井曾太郎のデッサン「安倍能成像」が架けられている。

◆写真上:第一高等学校があった、東京大学の駒場キャンパス。
◆写真中上は、1944年(昭和19)2月から夏にかけて制作された安井曾太郎『安倍能成氏像』()と、同『安倍能成像』()。は、安倍能成が2階に“疎開”していた現存する旧・一高同窓会館。は、安井曾太郎()と安倍能成()。
◆写真中下は、寄居へ疎開中の1945年(昭和20)に描かれた安井曾太郎『荒川風景』。は、1946年(昭和21)制作の同『寄居風景』。は、寄居の安井邸に置かれていた天網島時雨炬燵に登場する「おさん」に近い中年増の首(かしら)。
◆写真下は、秩父鉄道と八高線が乗り入れる寄居駅。は、1947年(昭和22)に養徳社から刊行された市原豊太『内的風景派』の表紙()と中扉()。同書の装丁や挿画は、同じフランス文学者の渡辺一夫(六隅許六)が担当している。は、六隅許六こと渡辺一夫()と、六隅許六が装丁した1950年(昭和25)に月曜書房から刊行された加藤周一『ある晴れた日に』()。

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下落合を描いた画家たち・宮本恒平。(3) [気になる下落合]

宮本恒平「落合風景」1929.jpg
 目白文化村Click!の第二文化村、下落合1712番地にアトリエがあった宮本恒平Click!は、下落合西部(現・中落合/中井)を描くのが好きだったようだ。残された作品を見ると、大正末から1940年代にかけ、市街化が進んだ下落合東部(現・下落合)よりも、西部へ足を向けて描いている画面が多いように思う。帝展や本郷絵画展に出品していた宮本は、緑や畑地が多く残る郊外風景を描くのが好きだったようだ。
 宮本恒平をめぐるこれまでの記事では、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に収録の、宮本恒平について記載している「人物事業編」について紹介していなかったので、改めて同書から全文を引用してみよう。
  
 洋画家 宮本恒平  下落合一,七一二
 東京府士族宮本得造氏の長男にして明治二十三年九月出世大正五年家督を相続す、同九年東京美術学校西洋画家(ママ:科)を卒業し、更に外国語学校専修科を卒へ外遊する事数年現に洋画壇中堅作家として知られてゐる。夫人ナカ子は東京月村徳之介の三女である、又令妹晴子は工学博士東京帝大教授田中芳雄氏に嫁せり。(カッコ内引用者註)
  
 わたしのオフィスに架けてある、宮本恒平『画兄のアトリエ』Click!(1945年1月)も落合西部……というか、目白学園の丘を背景に、上高田422番地に建っていた耳野卯三郎Click!アトリエを描いたものだ。昭和の初期、宮本恒平は森や田畑が多く残る落合地域の西部を散策しては、気に入った風景モチーフをタブローに仕上げていたのだろう。
 1929年(昭和4)発行の「美之国」2月号に掲載された、宮本恒平『落合風景』もそのひとつのように思える。『落合風景』は、第4回本郷絵画展に出品されているけれど、残念ながらカラーの画面では観たことがない。本郷展のあと個人所有となって行方不明か、戦災で失われてしまっているのかもしれないが、第二文化村の宮本恒平アトリエは空襲を受けていないので、そのまま保存されてるとすれば現存している可能性もある。あくまでも、印刷されたモノクロ画面なので、細かなマチエールや色づかいがわからないが、落合地域のどこを描いたものか、わたしなりにおおよそ検討してみたい。
 まず、画面でもっとも気になるのは、ちょうど中央に描かれていると思われる白いタワー状の構造物だ。落合地域とその周辺域にお住まいの方なら、すぐに野方町東和田は和田山Click!(現・哲学堂Click!)の北側にある、荒玉水道Click!野方配水塔Click!(水道タンク)を想い浮かべるだろう。ただし、野方配水塔は1930年(昭和5)から本稼働をはじめるので、前年の1929年(昭和4)に描かれた本作は配水塔が工事中か、あるいは配水前の稼働実験中の姿をとらえているのかもしれない。この配水塔が完成しても、落合地域では旧・神田上水沿いの段丘に湧く清廉な泉や地下水の家庭利用Click!は減らず、荒玉水道はあまり活用されなかったことは以前にも書いた。落合地域(特に下落合)で水道水が本格的に利用されはじめるのは、戦後になってからのことだ。
「落合風景」野方配水塔拡大.jpg
「落合風景」家並み拡大.jpg
「落合風景」落合用水拡大.jpg
 野方配水塔とみられる構造物の陰影を見ると、右側に影ができている。すなわち、描かれている情景は画面の左手が南側、あるいはそれに近い南東か南西ということになりそうだ。その手前には、モノクロでわかりにくいが左端から中央にかけ、やや上り勾配と思われる緩傾斜面には、家屋とみられるフォルムがいくつか確認できる。さらに、手前に拡がっているのは畑地ないしは草原で、その間を縫うように設置された階段のように見える道筋、あるいは用水の護岸のような窪地状のものが見てとれる。これが灌漑用水であれば、葛ヶ谷(西落合)の北西で旧・千川上水から分岐した落合分水Click!であり、手前に描かれた黒い筋は用水沿いの道路なのかもしれない。
 画家がイーゼルをすえているのは、前面に描かれた畑地ないしは草原よりもやや高い位置で、その小丘の上か斜面にある木立ちの間から、前面の畑ないしは原を見下ろすような視点だ。換言すれば、小高い位置だからこそ野方配水塔がよく見える構図が可能になったのだろう。落合地域の西部をよく歩くので発見できた、宮本恒平ならではの描画ポイントといえるかもしれない。
 さて、1929年(昭和4)現在で、これほど住宅が少なく畑地ないしは草原が拡がっているエリア、そして野方配水塔が木々の間から突き出て望見できる地域は、下落合の最西部から葛ヶ谷(のち西落合)にしか見られない風景だろう。もし、手前に描かれている窪みが落合分水であり、それに寄り添うように表現された黒い筋が道路だとすれば、画面に切りとられた風景の構成に見合う描画ポイントが1ヶ所思い浮かぶ。
葛ヶ谷1925.jpg
野方配水塔1936.jpg
野方配水塔1941.jpg
 やや小高い位置から、畑ないしは草原を見わたすことができる場所、遠景に野方配水塔が望見でき、しかも時間によっては塔の右手に影ができる角度、そして画家がイーゼルをすえた斜面下の、それほど離れてない位置を落合分水とみられる溝と道路らしいラインが横ぎる地勢、これらの条件をすべて満たしている場所は、下落合が飛び地状に大きく北側へ飛び出した自性院Click!のすぐ西側、下落合大上2332~2349番地(現・西落合1丁目)の斜面から西北西を向いて描いた風景ではないかと思われる。
 『落合風景』の画面に描かれた景色は、ほとんどが当時の葛ヶ谷(西落合)地域であり、手前の樹木のある森が自性院墓地の西側に接した広葉樹林だろう。その広葉樹の葉が落ちていないところをみると、発表されたのは1929年(昭和4)1月11日~30日の第4回本郷展だが、実際に描かれたのは前年1928年(昭和3)の晩秋以前である可能性が高い。画角から見て、画面の左枠外には、井上哲学堂や葛ヶ谷御霊社、オリエンタル写真工業Click!などが、画面右手の樹木の陰には、今日の新青梅街道が野方配水塔の下に向かって走っているはずだ。また、画家の右手枠外には、すでに信仰が忘れられかけている妙見山Click!の、緑深いうっそうとした斜面が見えていただろう。
 建物や樹木の影から見て、描かれたのは昼前後か、午後の早い時間帯だと思われる。コントラストの強さから、おそらく空には雲らしい表現が描かれているものの、左手つまり南側からの陽射しはあったのだろう。もし、本作が秋に描かれているとすれば、ところどころに鮮やかな紅葉が彩を添えているのかもしれない。いまでは、描かれた風景のほぼすべてが住宅街で埋まり、土地の起伏さえ確認するのが困難な風情となっている。
野方配水塔.JPG
自性院.JPG
松下春雄「初冬」1929.jpg
 なお、同じ「美之国」2月号には、第4回本郷展に出品された松下春雄Click!『初冬』Click!の画面も掲載されている。松下春雄が第一文化村の北側、下落合1385番地Click!に住んでいたころの作品で、同作もまた下落合西部を描いているとみられる。

◆写真上:1929年(昭和4)1月に、第4回本郷展へ出品された宮本恒平『落合風景』。
◆写真中上:『落合風景』の拡大画面で、野方配水塔とみられるタワー構造物()、その下に見える家並み()、落合分水と道に見える畑地ないしは草原の窪み()。
◆写真中下は、1925年(大正14)差食いの1/10,000地形図での描画ポイント。は、それぞれ1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる描画ポイント。
◆写真下は、現在の野方配水塔(現・災害用給水槽)。は、自性院山門で本堂裏手の住宅街が描画ポイント。は、第4回本郷展へ同時に出品された松下春雄『初冬』。
おまけ
このような樹間から風景を写生する画家が、下落合の丘にはあちこちで見られただろう。下の写真は、1925年(大正14)の暮れに下落合の林で写生する吉屋信子Click!のお気に入り洋画家・甲斐仁代Click!
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赤い鳥野球チームがスカウトした佐伯祐三。 [気になる下落合]

哲学堂グラウンド.jpg
 かなり前に、「赤い鳥」社が結成した野球チームに佐伯祐三Click!が強力な“助っ人”として呼ばれ、活躍していた記事Click!を書いていた。それは、いつごろの時期のことなのかを考察してみるのが、きょうの記事のテーマだ。それには、「赤い鳥」の編集部がいつどこにあったのかを規定しなければならない。周知のように、鈴木三重吉Click!は引っ越し魔だったからだ。
 鈴木三重吉が小説家らしく、あちこちを転々としていたのは、明治末から大正初期にかけてだけではない。自身の作品全集が岩波書店から刊行されたあと、突然筆を折って小説家を廃業してしまっているが、眼科医を舞台にした自身の小説『赤い鳥』というタイトルが気に入っていたのか、のちの児童書にも同じタイトルをつけている。そのあたりの事情を、安倍能成Click!の証言を聞いてみよう。
 1936年(昭和11)9月に発行された「赤い鳥」の最終号、同誌(鈴木三重吉追悼号/第12巻3号)掲載の、安倍能成『三重吉の小説其他』から引用してみよう。
  
 三重吉が作家として最もはやつた明治末から大正初のニ三年は、却て自然主義がやや飽きられて、三重吉や小川未明の作などが、ネオ・ロマンティシズムなどと持て囃された時である。その一例は、今読むとそれ程好いとも思はぬが、明治四十四年に出た「赤い鳥」の如きである。これは一方にぢめぢめした田舎の眼科院を描き、そのみすぼらしい病室の隣に居る、薄明の眼にかすかに見た女を、物語中の赤い鳥を飼つた女と一つに合せて夢想するといふ筋のものである。後年三重吉がその童話雑誌に「赤い鳥」といふ名を附けたのは、この作に対する好評に気を好くしたことも、一つの理由であつたらうと思ふ。
  
 安倍能成は、鈴木三重吉の「出鱈目」についても触れているが、鈴木の酒グセの悪さは、夏目漱石の門下仲間ではつとに有名だった。もっとも、安倍能成も酔っぱらうとタンスの上によじのぼって、「山上垂訓」Click!をはじめるのだからどっちもどっちなのだが、鈴木三重吉の酒はさらに悪質で、目つきがすわると人にからんではケンカを売る、酒乱に近い性癖だったようだ。
 上掲の「赤い鳥」の追悼号から、夏目漱石Click!の連れ合いである夏目鏡子の証言を引用してみよう。夏目鏡子の『鈴木さんを思ふ』より。
  
 鈴木さんは御酒がすきで、のんで気持よく眠くでもなるならよいがのめばくだをまき、人につかゝつてこなければ承知のできないのには、だれもこまらせられた事です。正月元旦と云へばいの一番に私の家へ来てくれるのです。朝の十時頃から三四時頃迄つぎからつぎとくる人々相手にのむので、ひる過にはきまつてだれかにつかゝりはじめるので、おこるやら又なく事もあり、いろいろと変るのです。しまひにはもう面どうになつて早く帰してしまはうと思ひ、車をたのみ玄関迄つれ出して外とうをおとしてしまひ、車にのせればおりてしまひ、そんな事をニ三度くりかへし、やつとのせて門を引出す、やれやれとほつとしたものです。後で車屋に聞けば、早稲田から目白の家迄行く間に三度位は車からおりて小用をするのださうです。
  
 夏目家もそうだが、酒乱で引っ越し魔の鈴木三重吉宅+赤い鳥社が少しでも自宅から離れてくれると、ホッと胸をなでおろしていた人たちがほかにもたくさんいただろう。
鈴木三重吉(学生時代).jpg 鈴木三重吉1928.jpg
赤い鳥193609.jpg 赤い鳥193609奥付.jpg
夏目漱石公園.JPG
 上記の頼んだ「車」は、もちろん俥(じんりき=人力車)Click!のことで、このエピソードに書かれている「目白の家」とは、1920年(大正9)に住んでいた山手線が目の前を走る、目白駅から線路沿いを北に200m余のところ、高田町3559番地の鈴木邸+赤い鳥社のことではないかと思われる。下落合にアトリエClick!を建てるまで、安井曾太郎Click!が住んでいた旧・アトリエ跡の並びだ。
 さて、鈴木三重吉の赤い鳥社が、どのように東京市内外を転々としていったのかを少し見てみよう。まず、児童雑誌「赤い鳥」は1918年(大正7)に創刊されているが、そのときの鈴木邸(編集部)が代々木山谷にあったのか、すでに山手線の線路際で上屋敷(あがりやしき)の家と呼ばれた高田町3559番地だったのかハッキリしない。ちなみに、創刊号の奥付は「高田町」になっている。以下、赤い鳥社の引っ越し先をたどってみよう。
 1918年(大正7)  代々木山谷から高田町3559番地
 1919年(大正8)  日本橋箔屋町(汁粉屋の2階)
 1920年(大正9)  高田町3559番地(最寄り駅は武蔵野鉄道・上屋敷駅)
 1921年(大正10) 高田町3572番地(現在記念プレートが設置されている場所)
 1924年(大正13) 市谷田町3丁目8番地(外濠通りに面した2階家)
 1926年(大正15)2月 長崎町荒井1880番地(長崎町事情明細図に収録された社屋)
 1926年(大正15)9月 日本橋2丁目(白木屋向かいの加島銀行ビルディング5階)
 1927年(昭和2)  四谷須賀町40番地
 1930年(昭和5)  西大久保461番地
 この中で、佐伯祐三が下落合のアトリエにいた時期と重ね、赤い鳥野球チームに参加できるのは、1922年(大正11)のアトリエ竣工時から1923年(大正12)の第1次渡仏までの期間、つまり赤い鳥社が高田町3572番地にあった時期と、1926年(大正15)に帰国した直後、つまり赤い鳥社が長崎町荒井1880番地にあった時期ということになる。
赤い鳥社跡1.JPG
赤い鳥社跡2.JPG
地形図1925.jpg
 おそらく、赤い鳥野球チームに佐伯をスカウトしたのは、東京美術学校でいっしょだった赤い鳥社の画家・深沢省三Click!だろう。彼は、佐伯が野球部のキャプテンだったことを知っており、美校では頻繁にキャッチボールをしている。その様子を、1929年(昭和4)に出版された『一九三〇年叢書(一)/画家佐伯祐三』所収の、江藤純平・田代謙助『学校時代の佐伯君』から引用してみよう。
  
 彼(佐伯)は大阪北野中学の野球部の主将をしてゐた位だから勿論美校ではボールのピカ一であつた。深沢看三(ママ:深沢省三)君もボールの名人でよく二人でキヤツチボールをやつてゐるのを吾々はパレツトを置いてやじつたものである。(中略) 例の熱中癖は二人のキヤツチボールにさへ遺憾なく現はれていよいよ疲れるまでは決して止さなかつたので、流石の深沢君もかなりヘキエキしてゐた位であつた。二人はヘトヘトになつてアトリエにはゐり乍ら、その真つ赤にはれ上つた掌を見せ合つて苦笑してゐたものである。ニ三度「赤い鳥」のチームに頼まれて試合に出たこともあつた。目玉を異様にむき出してバツトをガムシヤラに振り廻す彼(佐伯)らしいバツター振りはたしかに異形であつた。それが為、敵の応援団によつて「目玉」と云ふ名を進呈され、盛んに弥次られたことであつた。(カッコ内引用者註)
  
 深沢省三と頻繁に顔を合わせていた、学生時代から間もない時期を強く意識するのであれば、赤い鳥社が高田町3572番地にあった期間、すなわち佐伯が赤い鳥チームに入って野球をしていたのは、1922年(大正11)ごろのエピソードではないかと思われる。
 下落合の周辺で、大正期から野球ができるところといえば、長崎町の西端にあった東京海上保険運動場(通称:海上グラウンド=現・南長崎スポーツセンター)か、葛ヶ谷(西落合)に隣接する井上哲学堂Click!グラウンド(現・哲学堂公園野球場)がある。立教大学のグラウンドもあるが、基本的に学校の運動場なので手軽に使えたとは考えにくく、目白文化村Click!簡易野球場Click!では本格的な試合は難しいだろう。
赤い鳥社跡3.JPG
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 ここはやはり、海上グラウンドか哲学堂グラウンドのいずれかだろうか。下落合に住んでいた帝展系の画家たちは、昭和初期から野球チームをつくって頻繁に試合をしていたが、金山平三Click!がよく審判Click!をつとめていたのは哲学堂グラウンドでの試合だった。

◆写真上:画家たちの野球大会が開かれた、哲学堂グラウンド(現・哲学堂公園野球場)。
◆写真中上は、夏目家に通っていた学生時代の鈴木三重吉()と、1928年(昭和3)に撮影された鈴木三重吉()。とても同一人物とは思えないが、耳の形状が同じだ。は、1936年(昭和11)9月発行の「赤い鳥」(鈴木三重吉追悼号/第12巻3号)の表紙()と奥付()。は、早稲田南町にある夏目漱石の旧居跡(現・漱石公園)。先年、記念館が竣工して夏目漱石の漱石山房(書斎)が復元されている。
◆写真中下は、高田町3559番地の赤い鳥社跡。は、高田町3572番地の同社跡。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる赤い鳥社跡。
◆写真下は、長崎町荒井1880番地の赤い鳥社跡。は、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」にみる赤い鳥社。は、海上グラウンド跡(現・南長崎スポーツセンター)。

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目白林泉園庭球部vs目白中学校庭球部。 [気になる下落合]

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 1923年(大正12)の12月2日(日)、林泉園Click!にある東邦電力Click!の運動場でテニスのダブルスによる勝ち抜き戦の試合が行われた。東京中央気象台によれば、当日は前日にも増して快晴だったと記録されているので、初冬の気持ちのいい1日だっただろう。関東大震災Click!からわずか3か月しかたっていない時期だが、落合地域はほとんど被害らしい被害を受けていない様子が、このテニス大会からもうかがえる。
 目白中学校の庭球部は、ほぼ学校創立と同時に設置されたクラブで、毎年「関東庭球大会」に出場しては、関東各地にある中学と対戦している強豪チームだった。この年も、5月19日には渋谷にあった名教中学校とダブルスの勝ち抜き戦で対戦して快勝し、5月20日には茨城県まで遠征して龍ヶ崎中学校と対戦し、接戦のうちに勝利している。
 つづいて6月の下旬、千葉県千葉市に遠征して千葉師範学校と千葉中学校の混成チームと対戦したが、目白中学校庭球部は近年にない敗戦の屈辱を味わっている。同部の対戦記録には、「当日選手と共に出向かれたる岩本先生、一柳先生、林先生に対し、又本校生徒に対し、選手の面目を失ふ」と口惜しそうに書いているので、よほどまれになっていた敗戦がショックだったのだろう。
 9月1日の関東大震災の直後Click!から、目白中学校ではクラブ活動がしばらく中止されていたが、授業が平常にもどると同時に部活も再開された。そして、12月2日の目白林泉園庭球部との試合を迎えることになる。目白林泉園庭球部へ試合の橋わたしをしたのは、目白中学校庭球部の選手だった山本という生徒だ。そのときの様子を、1924年(大正13)4月に発行された校友誌「桂蔭」第10号から、試合の結果とともに引用してみよう。
  
 九月一日、前古未曽有の大激震関東地方を襲ひ、運動も一時中止のあり様なりしも、間もなく復活し、選手は日々腕を練り、目白庭球部の発展を急ぐ。
 対林泉園戦
 十二月二日、選手山本の斡旋により目白林泉園庭球部と林泉園コートに於て試合を行ふ。優退二組、不勝二組を持して我校の勝利に帰す。
  
 1回戦は、目白中学の「五十嵐・大澤」のペアが、目白林泉園の「伊藤・帆足」ペアと対戦して3:0で圧勝。つづいて2回戦は、目白中学の同じペアが目白林泉園の「安武・若績」ペアと対戦して、再び3:0で圧勝。3回戦は、目白中学の「杉本・小谷野」ペアが、目白林泉園の「両角・小川」ペアと対戦して3:2で勝利。4回戦は、目白中学の同じペアが目白林泉園の「松前・占部」ペアと対戦し、またまた3:2で勝利している。
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 最後の5回戦は、目白中学の「清水・岩尾」ペアが、目白林泉園の「神谷・長谷川」ペアと対戦し3:0で圧勝と、目白林泉園庭球部は目白中学にまったく歯が立たなかったようだ。目白中学の「戸口田・倉賀野」と「山本・桑澤」の各ペアは、せっかく大震災後の初試合で活躍できると勇んで出場したにもかかわらず、応援するだけで終わってしまって残念だったろう。
 さて、目白中学校に惨敗した目白林泉園庭球部とは、どのようなチームだったのだろうか。東邦電力の運動場を利用していることから、またそれが同社の社宅が並ぶ敷地に設置されたテニスコートであることから、東邦電力の社員たちが結成した社内クラブのようにも思えるが、クラブの名称が「東邦電力庭球部」ではなく、「目白林泉園庭球部」というところが気になるのだ。
 つまり、隣接する社宅に住んでいる社員や、下落合以外の地域に住む社員たちばかりでなく、林泉園の周辺に住んでいる下落合住民も、自由に参加できるテニスクラブではなかっただろうか。大正期の古い話なので、「目白林泉園庭球部」の名称を憶えておられる方がいないのか、わたしは一度も同クラブについて聞いたことがない。もし、テニスが大流行した大正末から昭和初期まで存続していたとすれば、どこかに記録が残っているのかもしれないが……。
 目白中学との試合に参加した、目白林泉園チームの選手の中には、明らかに東邦電力の社員だと思われる人物が4人いる。すなわち、林泉園住宅地にある社宅ないしは邸宅で、その同一の名字を確認することができる、「伊藤」「安武」「小川」「神谷」の4名だ。伊藤邸と小川邸は、ともに林泉園テニスコートの西側、下落合368番地に同一仕様で建てられた洋館社宅の中に住む社員だったと思われる。
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 また、「安武」は管理職が住んでいたとみられる林泉園の南側、社長の松永安左衛門邸Click!(当時は副社長)つづきに並ぶ、少し大きめな邸(下落合367番地)で名前を確認できる、東邦電力会計課長の安武専助だろう。安武課長は東邦電力とともに、同じく松永安左衛門が設立した永楽殖産の監査役も兼任している。
 もうひとりの選手「神谷」は、下落合367番地の安武邸の斜向かい、松永安左衛門邸から2軒西隣りに住んでいた神谷啓三だろう。神谷は、東邦電力の理事であると同時に重役の秘書もつとめていた。1932年(昭和7)に出版された、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 東邦電力株式会社理事兼秘書役 神谷啓三  下落合三六七
 愛知県人神谷庄兵衛の令弟にして明治二十三年二月を以て出生、大正十一年分家を創立す、是先大正四年東京帝国大学政治科を卒業し、爾来業界に入り現時東邦電力会社理事兼秘書役たる傍ら永楽殖産会社監査役たり。夫人田代子は同郷松井藤一郎氏の令姉である。
  
 目白中学との試合が行われたとき、神谷啓三はすでに34歳であり、とても現役の中学生(現・高校生)プレーヤーの体力にはついていけそうもなかっただろう。だからこそ、最後のペアに配置されたのだろうが、やはり予想どおり3:0で惨敗している。
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 この4名以外の名前は、東邦電力の社宅+管理職宅の敷地内で確認することはできない。だが、中には助っ人として呼ばれた、別の地域に住む同社社員も含まれているのかもしれないが、周辺の下落合に住むテニス好きの住民も、一部混じっているのではないだろうか。残る目白林泉園庭球部の選手名には、1924~25年(大正13~14)の下落合町内名簿で重なる苗字が、いくつか散見できるからだ。

◆写真上:目白林泉園庭球部があった、東邦電力の社宅に隣接するテニスコート跡。
◆写真中上は、1924年(大正13)4月発行の目白町学校校友誌「桂蔭」第10号に掲載された対戦記事。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる林泉園界隈。東邦電力社宅に入居している社員名と、目白林泉園庭球部の選手名が一致する家が何軒か見える。は、林泉園の池を埋め立てて1970年代半ばに建設された低層マンション。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林泉園界隈。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」掲載の選手とみられる安武邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる林泉園界隈で、空襲による延焼がなく大正期の面影をよく残している。
◆写真下は、東邦電力の社宅があったあたりの現状。は、林泉園の北側に通う東西道で、右手が東邦電力合宿所や下落合家庭購買組合が建っていたあたり。

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