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文化村に近接した武者小路邸の特定。 [気になる下落合]

武者小路実篤邸跡.JPG
 武者小路実篤Click!は、鈴木三重吉Click!の赤い鳥社と同じく引っ越しマニアだ。昭和初期だけでも、1936年(昭和11)のヨーロッパ旅行をはさみ10回以上は転居している。下落合には、1929年(昭和4)の4月から11月まで、およそ7ヶ月間ほど暮らしただけであわただしく転居していった。武者小路実篤が住んでいたのは、目白文化村Click!の第二文化村に通う振り子坂Click!の中腹、下落合1731番地だ。
 ここで、武者小路実篤が東京府内で転居を繰り返した、昭和初期の様子を見てみよう。
 1927年(昭和2)  2月に葛飾郡小岩井村に転居。同年中に築土八幡社脇に転居。
 1928年(昭和3)  1月に麹町下二番町40番地へ転居。
 1929年(昭和4)  4月に下落合1731番地へ転居。11月に祖師谷441番地に転居。
 1933年(昭和8)  北多摩郡砧村へ転居。
 1934年(昭和9)  3月に吉祥寺鶴山小路885番地に転居。
 1935年(昭和10) 1月に吉祥寺日向小路645番地に転居。
 1936年(昭和11) 4月~12月までヨーロッパ旅行。
 1937年(昭和12) 3月に三鷹村牟礼359番地に転居。
 1940年(昭和15) 9月に三鷹村牟礼490番地に転居。
 ずいぶん以前から、第二文化村の外れにあったとみられる下落合1731番地の武者小路邸を探す記事Click!を書いてきたが、かなり落合地域に関する知見や地勢、時代ごとの状況把握、地図や空中写真を使って“現場”を読み解くノウハウやスキルなどが蓄積されてきていると思うので、ここで改めてもう一度、下落合1731番地の武者小路邸の位置について規定を試みてみたい。
 まず、注意しなければならないのは、下落合1731番地という当時の住所だ。この地番は、第二文化村へと上る振り子坂が切り拓かれた、大正末(おそらく1925年に敷設)で一度新たにふり直され、1932年(昭和7)に淀橋区が成立すると同時に、1731番地の地番位置が丸ごと南へ移動してズレている。つまり、武者小路実篤が住んでいた1929年(昭和4)という時期は、大正末に地番がふり直され1932年(昭和7)に大がかりな地番変更を迎える、わずか7年間のうちのちょうど真ん中あたりということになる。したがって、同邸を探すには大正期の地図でも、また1932年(昭和7)以降の地図を用いても、決定的な誤謬の生じる可能性が高いというこだ。
 さて、もうひとつの手がかりとしては、1929年(昭和4)のおそらくは晩春か初夏のころに撮影されたと思われる、下落合1731番地邸の門前にステッキをついてたたずむ、武者小路実篤の写真だ。この写真には、邸の場所を特定する大きなヒントがとらえられている。まず、手前のカメラをかまえた撮影者の位置から推定すると、門前には少なくとも2間(約3.6m)以上はありそうな道路が接していること。文化村や当時の下落合に建てられていた家々に比べ、門から玄関までの距離がかなり短いこと。住宅の屋根が、手前の道路に対して平行であること、つまり切妻が道路面を向いていないこと。また、門に向かって傾斜している、主棟(大棟)とみられる屋根の傾斜面に対し、玄関庇(ひさし)は別にして、左手に隅棟と思われる大屋根より下の小屋根が見えていること。
 そして、当時もいまも下落合の多くの住宅は、東から南にかけての角度90度の間に、陽射しへ向けて家屋の主棟(大棟)がT字型になるよう(できるだけ多くの部屋に日光が射すよう)設計されており、写真の陽射しの様子からこの家もまた、東ないしは南の間のいずれかの方角を向いて建てられているとみられる。光の位置は、カメラマンの背後やや左手のように見えるので、その射し方から推測すると、午前中に散歩へ出ようとする武者小路をとらえた写真なら、この家のファサードは東向き、昼すぎの散歩に出ようとする姿なら、ファサードは南向きということになりそうだ。さて、上記のような条件に見合う住宅が、1929年(昭和4)現在の下落合1731番地に存在しているだろうか。
武者小路実篤邸1929.jpg
落合町市街図1929.jpg
武者小路実篤1936_1.jpg
 まず、1929年(昭和4)現在で発行された地図のみを用いて、下落合1731番地の位置を正確に特定してみよう。この時期、振り子坂の西側に通う矢田坂Click!の上部は、大きく東へ直角にクラックしたままで、1900番台の地番が1700番台の地番エリアへ大きく食いこんだままだ。したがって第二文化村のエリアである、振り子坂西側の最上段部に建っていた星野邸Click!(戦後は東条邸)は、下落合1724番地~1725番地にまたがって建設されていることになる。星野邸から、振り子坂の南に向いたひな壇敷地の1段下にあたる、のちの淀橋区長の山口邸は1724番地で、その1段下の第二文化村南端である安東邸Click!から振り子坂に沿って1731番地がふられている。同地番の終端は、現在の山手坂Click!の手前までということになる。
 一方、振り子坂の東側にも、1929年(昭和4)時点では1931番地の地番が三角形の敷地として残されている。まず、振り子坂東側の最上段部に建っていた杉坂邸から、2段目の調所邸が1739番地。その1段下にあたる、第二文化村最南端の嶺田邸の敷地から振り子坂に沿い、その下の敷地(のち栗田邸)のそれぞれ一部が、1731番地にかかっている。すなわち、両敷地は1929年(昭和4)の当時、1731番地と1737番地にまたがっていたことになる。ただし、南側の栗田邸は1936年(昭和11)以降に建設されているので、旧・武者小路邸の候補には入らない。
 さて、武者小路実篤が住んでいたのと同時期、下落合1731番地(敷地の一部含む)がふられた敷地には、全部で7棟の住宅が建っていた。このうち、第二文化村の開発当初から居住している安東邸と嶺田邸は、建物や敷地の風情が武者小路実篤が写る写真とまったく異なるので除外する。すると、小さめな住宅が振り子坂の西側に並んだ、残り5棟のいずれかが武者小路が借りていた家ということになる。ちなみに1938年(昭和13)作成の「火保図」では、この5棟は坂の上から下へ順番に、佐藤邸・石井邸・宮前邸・不明邸・(不明邸)となっており、同図ではまたもや住宅を1棟、丸ごと採取しそこなっている。
武者小路実篤1936_2.jpg
武者小路邸火保図1938.jpg
 幸運にも、この5棟は空襲からも焼け残り、戦後までそのままの状態で建っていたので、武者小路が住んでいた時期からあまりたっていない1936年(昭和11)と、戦後の1947年(昭和22)に撮影された高精細な空中写真を突き合わせて、5棟の様子を詳細に観察することができる。そして、写真に見られる先述の条件、すなわち……、
 ①門や玄関が、2間以上の道路に面していること。
 ②門から玄関までの距離が、かなり短いこと。
 ③主棟(大棟)の斜面が道路と平行であること=切妻が道路側を向いていないこと。
 ④主棟の左手に、隅棟とみられる小屋根が付属していること。
 ⑤門や玄関が、東から南にかけて面していること。(5棟の門はすべて東面)
 ……などを勘案すると、この条件に当てはまる邸は5棟のうち、たった1棟しか存在していない。すなわち、1932年(昭和7)の地番変更で下落合1727番地となり、第二文化村に建つ安東邸の南隣りに位置して、のちに佐藤邸となる小住宅だ。空中写真で確認すると、武者小路の写真でもハッキリわかるように軽量のトタン屋根を葺いた小住宅なので、南北に通る主棟の屋根が白っぽく光ってとらえられている。
 この近隣では、振り子坂の坂下にいた李香蘭(山口淑子)Click!の話はときどき耳にするが、武者小路実篤についてはかつて取材で一度も聞いたことがない。武者小路は、わずか7ヶ月間しか住んでいなかったので、周辺住民の記憶に残りにくかったか、あるいは女優とちがって地味なヲジサンの容姿なので、周囲に気づかれないまま転居してしまったのだろう。ちなみに、下落合に住んだ武者小路は、1929年(昭和4)当時は45歳だった。
武者小路実篤1947_1.jpg
武者小路実篤1947_2.jpg
武者小路実篤邸1947.jpg
 1932年(昭和7)に淀橋区が成立すると、下落合(3丁目)1731番地は従来の位置から南へ1区画スライドしてふられ、1938年(昭和13)の「火保図」を参照しても、その区画にはいまだ1棟の住宅しか建設されていない。その住宅とは、1931年(昭和6)1月に発表された洋画家・宮下琢郎の『落合風景』Click!に描かれた、モダンハウスこと佐久間邸だ。宮下琢郎は実質、『落合風景』を前年の1930年(昭和5)に制作しているので、それ以前から佐久間邸が建っていたとすれば、武者小路実篤もこの超モダンな邸を目にしているだろう。

◆写真上:振り子坂に面した、下落合1731番地(現・中井2丁目)の武者小路実篤邸跡。右手の大谷石の築垣から第二文化村のエリアで、その下の南隣りが旧居跡とみられる。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に撮影された下落合1731番地の自邸前に立つ武者小路実篤。は、1929年(昭和4)発行の「落合町全図」にみる下落合1731番地。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる1731番地の住宅群。
◆写真中下は、別角度で撮影した1936年(昭和11)の空中写真。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同区画。1932年(昭和7)の淀橋区成立とともに、大規模な地番変更が行われたあとで、「火保図」は旧1731番地の住宅1棟を採取し損ねている。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・武者小路実篤邸。は、同年に撮影された別角度の同邸。は、旧・武者小路邸の拡大と写真の撮影ポイント。
おまけ:今年もサクラが満開の、目白文化村は第二文化村にある安東邸。
安東邸.JPG


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特高に目をつけられていた佐伯兄弟。 [気になる下落合]

佐伯祐三「共同便所」1928.jpg
 佐伯祐三Click!を含む、1930年協会Click!の画家たちが特高警察Click!に目をつけられていたのは、実際に福本和夫との関係から検挙Click!されて拷問を受けた前田寛治Click!を除き、あまり知られていない。ある方から、旧・内務省の内部資料(警視庁特高警察資料)をいただいたので、フランスから革新的な表現を持ち帰った画家たちが、いかに特高警察の内偵を受け監視されていたのかを見ていきたい。
 ヨーロッパで展開された絵画表現の運動には、内部でリベラリズムやアナキズム、サンディカリズム、マルキシズムなどと、どこかで緊密につながっていたことは知られているが、当時の内務省もその側面を懸念して、特高警察に捜査の指示を出していたのだろう。特に東京美術学校や文展・帝展の「アカデミズム」を否定し、革命的な表現を手に入れたフォービストやキュビスト、シュルレアレスト、そのほかアブストラクト=反アカデミズムの画家たちを、「アカ」ではないかと見なし(どっちが「アカ」なんだかw)、内偵・監視・尾行をしていたようだ。
 旧・内務省の特高警察資料『社会運動の状況16』にまとめられた、1939年(昭和14)の「美術文化」項目から引用してみよう。ちなみに、ここでは1930年協会から前田寛治と里見勝蔵、佐伯祐三の名前が挙がっている。なお後述するけれど、佐伯祐三に関しては兄の佐伯祐正も、大阪府警の特高から要注意人物として監視されていたのがわかる。
  
 昭和二年頃前田寛治(常時帝展審査員)、里見勝蔵、佐伯裕三(ママ:祐三)等を中心とする、フォービズム(野獣主義)画家の一団は、反アカデミーを標榜して「一九三〇年協会」を結成したるが、同協会の設立と前後して福本和夫と親交し、マルクス主義的思想を抱持せる前記前田寛治は同協会の主義主張に憚らず、同協会と別個に同志金子吉彌(後ヤツプに加盟)、新居蘆治(〃)、杉柾央(〃)等の急進的分子を糾合し、「前田写実研究所」を創立し、其の絵画精神として十九世紀の革命画家クウルベーの精神を採用セリ。然るに其の後「一九三〇年協会」は中心人物たる前田寛治、佐伯裕三(ママ)の死亡に依り自然消滅の状態に至りたる処、当時予てよりフランスに遊学中の福澤一郎、清水登之、林重義、海老原喜之助、高畠達四郎等が相前後して、シュール・レアリズムなる新傾向を携へて帰朝し、茲に之等新帰朝者及「一九三〇年協会」会員たりし里見勝蔵、其の他前衛画家の一群を糾合して反アカデミーを標榜し、フランスの急進画家の一群なる所謂「アンデパンダン」(独立)に倣ひ、昭和五年「独立美術協会」を結成したる…(後略) (カッコ内引用者註)
  
 佐伯の名前をまちがえるなど、たいして注視していないように見えるのだが、のちの資料から欧州旅行を繰り返す佐伯兄弟が、ふたりともマークされていた可能性が高い。
 鳥取県が同郷の前田寛治と、「福本イズム」で有名な福本和夫とはフランスで知り合っているが、1926年(大正15)暮れから翌年にかけて住んでいた長崎町大和田1942番地の自宅には、前田寛治とともに福本和夫の表札が出ていたのを、訪れた木下謙義が確認している。福本は住んでいたわけではないので、アジトのひとつとして使っていたのだろう。1928年(昭和3)の「三・一五事件」では、それが原因で前田寛治は高田警察署Click!(現・目白警察署)の特高に逮捕され、執拗な拷問とともに福本のゆくえを追及されている。
佐伯祐三「工場」1928.jpg
特高資料1939.jpg
 佐伯祐三が警察から目をつけられたのは、第1次渡仏前にフランス文学者でアナキストの椎名其二Click!と知り合ったころからだろう。1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された山田新一『素顔の佐伯祐三』から、その証言を聞いてみよう。
  
 佐伯が椎名氏を知ることになったのは、佐伯がいよいよヨーロッパ行きを決意する前後のころであった。大正十一年、当時、椎名氏はフランスからマリー夫人を伴って里帰りし、フランス文学者の吉江喬松先生の推輓で、早稲田大学の文学部講師を勤めていた。佐伯がどういう伝手で椎名氏と近づきになったのか明確ではないが、この三十なかばの先輩のマダムからフランス語を教えてもらうことになった。若い頃から、アメリカに渡り、ミズリー州立大学の新聞科を卒業し、セント・ルイスやボストンでの新聞記者生活を経て、ロマン・ロランに傾倒してフランスに渡った椎名氏と佐伯は、最初から精神的に相触れあうものが実に深かった。(中略) しかし、不幸にも椎名氏はその後、左翼的思想のために日本に滞まることが困難になり、教職を辞して昭和二年、フランスに帰って行った。
  
 椎名其二は第2次渡仏をした佐伯とパリで再会し、死ぬまで身近に寄り添っている。
 また、佐伯が日本にもどっていた1926~1927年(大正15~昭和2)、急速に親しくなった友人に、小説『恐ろしき私』の著者・中河與一がいる。佐伯が挿画を担当した同書だが、中河はのちに佐伯との交流から、彼の心情を“代弁”するような文章を残している。1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『画集佐伯祐三』所収の、中河與一「佐伯祐三は生きている」から引用してみよう。
  
 私は仕事をすればよかつたのだ。キタナイ着物が好きだ、總て弱い痛められた者と親和にみちた心で生きたい。私は正しくして不遇なるものと一緒に居りたい。私は乞食が好きだ、乞食のやうな労働者が。匂ひのする裏町が好きだ。自分に信念がある時、人に笑はれる位は平気だ。なるべくキタナイ風をして歩きたい――
  
 いつも職工のような菜っ葉服を着て、佐伯は画道具を抱えながらパリの街角を歩き、メーデーのデモ隊に出会うと親しげに手をふってシンパサイズしていた様子も記録されている。反アカデミックな表現法を携えて、ヨーロッパからもどった佐伯の人脈や言動が、特高の目を惹かなかったとは思えない。同時に、セツルメント建設の名目で渡欧した、佐伯祐三の兄・佐伯祐正も警察から注視されていたようだ。
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佐伯祐三「カフェのテラス(カフェ・バー・ホテル)」1927.jpg
 特高資料「社会運動の状況16」の1941年(昭和16)の項目には、佐伯の実家である光徳寺(大阪)でセツルメントを経営し、演劇集団「国民芸術座」を主宰していた住職・佐伯祐正が、「要注意文化団体」としてマークされている。同資料から引用してみよう。
  
 ◆国民芸術座  所属員種類及其の概数:一二名/創立年月日:昭和十六、十一、一改名/綱領主旨:新国民演劇樹立を目的とす/主なる運動:新国民演劇協会名称変更し引続き勉強会四回を開催す/中心人物:佐伯祐正
  
 吉野作造Click!の民本主義を体現し、小林多喜二Click!の妻・伊藤ふじ子Click!も通っていた東京帝大セツルメントをはじめ、たとえそれが資本主義的な民主主義思想や自由主義思想、あるいはキリスト教や仏教などにもとづくセツルメント運動であっても、もはや国家に異議を唱える団体や人物を許容しない特高は、「アカ(系)」=「共産主義系文化団体」に分類して容赦なく弾圧していった。自国が依って立つ国家・経済基盤の政治思想を、自ら否定する特高(内務省)の矛盾、ひいては大日本帝国の「亡国」思想は破滅(敗戦)の日までつづくことになる。光徳寺のセツルメントにも昭和初期から戦時中にかけ、特高の刑事が何度か顔を出しているのではないだろうか。
 さて、佐伯の「左翼」に対するシンパサイズだが、特に明確な思想性があったようには見えない。なんとなく共感する、文字どおり「シンパ」のレベルで終わってしまったのではないかと思われる。それについて、1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『一九三〇年協会美術年鑑』に、前田寛治が的確な文章を残しているので引用してみよう。
  
 彼が工場を画こうとし労働を表そうとした数枚の作品も思想的に動かされてゐたと思はれる。然しそのことは彼の芸術には却つて障害になる位で、彼はそれよりも同じ題材に結びつく所謂汚さに存在する異様な感覚の魅力にひかれたので、この感覚が彼の芸術を他に類例のない独自的なものにしたのだと云つても差支へないと思ふ。(中略) 彼の外部からうけ入れられた思想は仮令一時彼の生活となり芸術となつてゐたとはいへ、遂にそれは桎梏となつて彼を苦しめたに過ぎない。彼の先天的の表現は法則を忘れた忘我製作であつたと思はれる。彼を動かした宗教は燦然とした太陽の様な健康さだつたらう。にも関らず彼自身は薄暮に消滅しようとする銀灰色に陶酔した。彼を動かした思想は力に満ちた労働だつたらう。にも関らず彼は休息と慰安と消散のキャフエ・テラスの光景に陶酔した。彼を動かした芸術は思索的なレアルの表現だつたらう。にも関らず彼は最も感覚的な表現に没我した。
 
光徳寺セツルメント.jpg
光徳寺セツルメント内部.jpg
 この特高資料が編纂された1939~1941年(昭和14~16)ごろは、戦争へと突き進む政府に異を唱える人物たちはすでにほとんどが刑務所の中であり、特高警察の仕事は“ヒマ”になりつつあったろう。そこで組織の存在や成果をアピールするかのように、「横浜事件」に象徴的される雑誌の記者や書籍の編集者、あるいは大学の学者など知識人をターゲットに、虚偽でかためた「治安維持法違反」事件をデッチ上げていくことになる。ちょうど、現代の中国が「民主派」や「人権派」と呼ばれる人々に対して行っている弾圧と、まったく同じ手口だ。
 ちなみに、今日の法制に照らしてみると、同郷の福本和夫をかくまい革命思想に共鳴しているとみられた前田寛治が、「危険」人物と判断され逮捕された時点で、同様に1930年協会のメンバー全員も「共謀罪」容疑で引っぱられ、警察の取り調べを受けているだろう。ある意味では、当時よりもシビアな状況に陥っているのに、改めて愕然とする。

◆写真上:1928年(昭和3)に制作された佐伯祐三『共同便所』。日本にいた1926~1927年(大正15~昭和2)にかけ、佐伯はアトリエに隣接した自邸の便所Click!も描いている。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の第2次渡仏期に描かれた佐伯祐三『工場』。は、特高資料『社会運動の状況16』の「美術文化」に記載された1930年協会と佐伯祐三の動向。この項目は、「プロレタリア文化運動」の章に分類されている。
◆写真中下は、1927年(昭和2)ごろに制作された佐伯祐三『靴屋』。は、同特高資料にみる光徳寺住職・佐伯祐正の国民芸術座で「共産主義運動」の章に分類されている。は、1927年(昭和2)に描かれた佐伯祐三『カフェのテラス(カフェ・バー・ホテル)』。
◆写真下:ともに大阪の光徳寺に佐伯祐正が建設したセツルメントで、外観()と内観()。室内の奥には、佐伯祐三の作品があちこちに架けられているのが見える。

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平和博覧会で売られた1922年の地図。 [気になる下落合]

平和博ライオン塔1922.jpg
 1922年(大正11)3月10日から7月20日までの4ヶ月わたり、上野公園で平和記念東京博覧会Click!が開催された。同博覧会は、第一次世界大戦が終結し平和をとりもどした記念という名目だが、戦後に招来した不況を打開するための産業振興の目的もあったのだろう。同博覧会については、文化村住宅Click!の展示や画家たちの展覧会Click!にからめて、こちらでも何度かご紹介している。
 同博覧会の会場では、1922年(昭和11)の東京の様子をリアルタイムで記録した、最新の市街地図が販売されている。その大判地図を友人がわざわざコピーしてくれたので、さっそく落合地域を含む新宿周辺の様子を観察してみたい。まず目につくのが、太い赤線で描きこまれた東京市電の路線だ。大正中期ともなると、市電は東京市の区部を突き抜け、すでに郊外の郡部にまで達していたのがわかる。
 たとえば、牛込区を東から突き抜けて戸塚町の早稲田電停まで、同じく牛込区と四谷区を北東や東から突き抜けて淀橋町の新宿電停まで、さらに小石川区を南から突き抜けて巣鴨町の巣鴨二丁目電停や西巣鴨町の大塚駅前電停までと、東京の中心部から市電が延長されて郊外まで連絡していた様子が描かれている。
 さらに、同地図には1922年(大正11)現在の東京市電の計画路線や、計画道路のルートが描きこまれている。市電の計画路線は赤い点線で、道路の計画ルートは赤い実線で描きこまれているが、その後、実際に敷設された市電路線や道路とほとんどまるで一致しない。目白駅から高田馬場駅、新大久保駅の東側、つまり山手線の内側に引かれた市電や道路の計画ルートがメチャクチャなのだ。
 高田町の目白駅Click!東側に通う目白通り(高田大通りClick!)は、学習院の敷地が途切れるあたりから南東へ斜めに直進し、ほどなく市電の早稲田電停へと合流している。戸塚町の高田馬場駅Click!前から計画された道路は、南東へ斜めに直進し現在の早稲田通りとはまったく重ならず、戸山ヶ原Click!近衛騎兵連隊Click!のあたり(現在の諏訪通り)から東へ向きを変えると、矢来町の神楽坂通りへと連結している。また、大久保町の新大久保駅前から南東へ直進する計画道路は、やはり大久保通りとまったく重ならずに、東大久保をへて高久町あたりから東へ向きを変えると、中央線の市ヶ谷駅へと到達している。
 このような道路に共通しているのは、各駅から道路が放射状に拡がっている点だが、大正当時もまた現在も敷設されていない。また、数年たった大正末の地図類にも、このような道路計画はすでに描きこまれていない。いくら博覧会のお祭り気分的な地図にしても、あまりにいい加減かつ適当な描きこみのように思える。計画道路の中には、地元自治体や企業の希望的な道路計画、さらには地域住民たちによる「あったらいいな」と打(ぶ)ち上げた、道路・市電誘致構想までが描きこまれているのではないかと疑いたくなる。
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 だが、東京市が統括しているはずの市電の計画路線もまた、その後、実際に敷設されたルートとはまるでちがっているのだ。西巣鴨町の大塚駅前から計画された市電は、そのまま南へ下ると護国寺の北側あたりで西へと向きを変え、雑司ヶ谷墓地の北辺を西進すると再び南へ下り、やや東へカーブするので現・都電荒川線と同様に早稲田電停へ合流するかと思えば再び南へ向かい、甘泉園の南西で早稲田通りとクロスし、西へほぼ直角に向きを変えて諏訪町を東西に横断している。そのまま高田馬場駅へ向かうかと思えば、山手線の手前で再び直角に南へ折れ、陸軍が戸山ヶ原Click!に敷設した貨物引き込み線Click!のルートを山手線と平行に南へ直進すると、新大久保駅の東側で南東に向きを変え、既設されている市電の新田裏電停に接続して、新宿電停へと連絡している。また、新田裏電停をすぎた同線は、京王電気軌道(現・京王線)の始点である追分駅(のち新宿駅)と連結する予定だった。
 東京市電のこのような計画ルートは、大正期の地図でも、また戦前の地図でもかつて一度も見たことがない。地図の制作者が、当時の道路敷設計画図や市電計画路線図を参照して描きこんだのだろうが、その計画図からしていい加減で適当だったのではないかと思えてくる。だが、平和博が開かれた1922年(大正11)という年に留意すると、これらのメチャクチャな計画路線が、実はなんらかの根拠があって描かれていたのだと推測できる。すなわち、翌1923年(大正12)9月に起きた関東大震災Click!の影響だ。
 これらの道路や市電の敷設計画は、関東大震災を境にすべてが白紙にもどり、震災後の復興計画でイチからの練り直しになった路線ではなかろうか。大正初期から中期にかけての、東京市電や道路計画について詳しくはないので不明だが、東京市あるいは東京府(道路計画の場合)に由来するなんらかの書類で、これらの路線が描きこまれた根拠のある資料を、地図の制作者がどこかで見ているのではないだろうか。そうでなければ、ここまで当時の市街図へ確信的に描きこめるとは思えないからだ。これらの計画は、大震災を契機にすべてがチャラになってしまった……そんな気が強くするのだ。
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 さて、同地図に描かれた落合地域を見てみよう。1922年(大正11)現在なので、下落合も上落合も自治体はいまだ落合村(1924年より落合町)の時期だった。同地図では、下落合は東半分までしか採取されておらず、下落合の西半分と西落合、そして上落合の大半は地図の枠外となっている。現・新宿区の東部は東京市(東京15区Click!)の郊外であり、1932年(昭和7)の「大東京」時代(東京35区Click!)を迎えるまでは、まだ少し間がある時代だ。当然、西武線Click!(現・西武新宿線)は存在せず、目白駅始点Click!の敷設計画が陸軍の要望で建設物資の搬入に好都合な、戸山ヶ原Click!に近い高田馬場始点に変更されたばかりとみられるころだ。
 東京府による下落合の道路計画も描きこまれていない。目白通りから南下し、佐伯祐三Click!が描く「八島さんの前通り」Click!を拡幅して西坂を下る補助45号線(中野板橋線)計画は、関東大震災の以前からあったと思われるが、平和博の市街図には描きこまれていない。補助45号線は、1931年(昭和6)になってルートを全面的に変更し、西へ移設Click!された下落合駅前へと向かう聖母坂Click!として敷設されている。
 また、同じく目白通りの子安地蔵から下落合を斜めに南下し、七曲坂を右折して下落合氷川社Click!の北側を境内沿いに通過して、田島橋から栄通りを抜けて早稲田通りへと合流する、東京府補助72号線(戸塚落合線)はすでに描きこまれているけれど、これは昭和期に入ると改めて拡幅をともなう再整備が予定されていたものだろうか。氷川明神社の南側にあった、西武線の旧・下落合駅Click!前を通過する補助72号線(同補助線を意識して旧・下落合駅が設置された可能性もある)は、のち1929年(昭和4)ごろに十三間道路(放射7号線)計画に吸収され、西落合からつづく大道路は旧・下落合駅前から田島橋をわたり、栄通りをへて早稲田通りへと合流する計画になっていた。
 さらに、落合村を細かく見ると、個人邸が3つ採取されている。のちに近衛町となる旧・近衛篤麿邸Click!(当時は近衛文麿Click!邸)と、御留山の相馬孟胤邸Click!、そして西坂の徳川義恕邸Click!だ。1922年(大正11)の当時、すでに東京土地住宅による近衛町開発Click!はスタートし、実際に敷地も販売されはじめていた時期だが、解体されたはずの近衛邸が母家の形状や家令宅とみられる別棟まで含めて採取されている。また、目白通りを越え下落合村に隣接する高田町雑司ヶ谷旭出(現・目白3丁目)には、相馬邸に匹敵するほどの大屋敷だった戸田康保邸Click!(1934年より徳川義親邸Click!)が、ちょうど豊島郡と豊多摩郡の境界線にかかって見にくくなっているが採取されている。
平和博地図5.jpg
落合町市街図1927.jpg
高田馬場仮駅跡.JPG
 平和博と同年の1922年(大正11)に電化された、池袋駅を始点とする武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)は当然描かれているが、上屋敷駅Click!(1929年設置)も椎名町駅Click!(1924年設置)も存在しないので記載されていない。ちなみに、追分駅を始点とする京王電気軌道は、当時の細かな駅名まで含めて記載されている。1927年(昭和2)に開業する小田原急行鉄道(現・小田急線)は未記載だが、新宿駅の北側には荻窪から淀橋町角筈まで通っていた、西武電気軌道(西武電車)の新宿駅までの延長予定線らしいラインが引かれている。だが、新たな道路計画と軌道が重なるせいか赤点線ではなく、赤実線として記載されている。

◆写真上:平和博第1会場に建てられた、奥から文具館・ライオン塔・建築館・平和館。
◆写真中上は、1922年(大正11)発行の平和記念東京博覧会で販売された地図から新宿周辺の様子。は、1923年(大正12)ごろに撮影された京王電気軌道始点の追分電停に停車する京王電車(上)と、新宿伊勢丹デパート前の追分電停跡の現状(下)。は、同地図より戸山ヶ原から大久保にかけての様子。
◆写真中下は、同地図より池袋から雑司ヶ谷にかけての様子。は、明治末か大正初期に撮影された大塚駅前(北口)で谷端川をわたる王子電気軌道の王子電車。は、同地図の下落合から上落合、戸塚町、高田町あたりの様子。
◆写真下は、同地図より下落合部分の拡大。は、同地図から5年後の1927年(昭和2)に制作された「落合町市街図」。陸軍鉄道連隊の演習で建設Click!された西武電鉄が、山手線・高田馬場駅の東側へと抜ける最後のガード工事Click!を行なっている。そのため、山手線西側には高田馬場仮駅が設置され、駅前から神田川をわたり早稲田通りまで木製とみられる長い連絡桟橋Click!が仮設されていた。は、高田馬場仮駅跡(正面)の現状。

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「だらだら長者」の御蔵米買い占め資金。 [気になる神田川]

築土八幡1.JPG
 ある日突然、羽ぶりがよくなってカネ持ちになり「〇〇長者」になったという伝説は、江戸東京はもちろん全国各地に類似の物語として伝承され現存している。以前、落合地域の南西側に伝わる「中野長者(朝日長者)」をはじめ、いくつかの長者伝説Click!をご紹介した。きょうは落合地域の東側、牛込地域で語り継がれた「だらだら長者」伝説について検討してみたい。
 「だらだら長者」の「だらだら」は、しじゅうヨダレをたれ流しオバカのようにふるまっていたので(一条大蔵卿Click!のように偽装だったという説もある)、そう名づけられたとされているけれど、後世の芝居がかった付会臭がして真偽のほどはわからない。「だらだら」は、もうひとつ別の意味としての「だらだら」していた、つまりひがな1日働きもせずゴロゴロしていた怠け者にもかかわらず、なぜか突然おカネ持ちになった「長者」だから、あえて付与された副詞なのかもしれない。同様の伝承は、信州の有名な「ものぐさ太郎」に物語の類似形をたどることができる。
 「だらただら長者」と呼ばれた(生井屋)久太郎は、築土八幡社や津久戸明神社の裏手に大きな屋敷をかまえて住んでいたという以外、本人の素性には諸説あってまったくハッキリしない。築土八幡社の周囲は、幕府の旗本屋敷がひしめき合うように建ちならび、それぞれ氏名まで含めて素性はあらかた知られている。かろうじて町場が形成されているのは、築土八幡社と津久戸明神社、そして万昌院のそれぞれ門前町のみだ。根岸や向島の別荘地とは異なり、乃手Click!であるこれらの町辻には、町人が大きな屋敷をかまえる余地はなさそうに見えるが、寺社の境内や旗本の屋敷地の一画を借りて、大きな屋敷を建てていたものだろうか。
 築土八幡社の裏手には、現在でも銀町(しろがねちょう=現・白銀町)の地名が残っているが、この「銀」が「だらだら長者」と具体的にどうつながるのかも不明で、また上大崎や青山に残る「黄金長者」や「白金長者」との近似性や関連性も、もはや途絶えたのかまったく伝わっていない。だが、「だらだら長者」が実在の人物だったのは確かなようで、町奉行所の与力上席・鈴木藤吉郎(市中潤沢係/20人扶持)らとともに、不正蓄財の容疑で町奉行・池田頼方から摘発・追及を受けている。
 不正蓄財とは、米の価格をつり上げる相場師のようなことを、「だらだら長者」と役人の鈴木藤吉郎が組んでやっていたのだ。ふたりは、江戸市中の御蔵米を大量に買い占めて市場に出まわる米の流通量を抑制し、米価が高騰したところで売り逃げするというボロい商売をしている。鈴木藤吉郎は町奉行所の役人なので、当然米の買い占めや出荷の意図的な操作を取り締まる側のはずだった。御蔵米の買い占めで貯めた財産は、両人合わせて膨大な額になると想定されていた。
 それを裏づけるかのように、奉行所の家宅捜査では築土八幡裏の「だらだら長者」屋敷にあった手文庫から200両の現金と絵図が、また摘発からしばらくたった1859年(安政6)には、同屋敷から道をはさんだ向かいの廃墟のような屋敷へと抜ける地下トンネルから、油樽に入った1,200両の小判が発見されている。
 さらに奇怪なことに、奉行所に捕縛され小伝馬町牢屋敷Click!の揚屋へ入牢した鈴木藤吉郎は、ほどなく急死(毒殺といわれる)している。御蔵米の買い占めが、単に久太郎と鈴木による犯行ではなく、それを黙認して上澄みをかっさらっていたらしい、老中をはじめ幕閣の存在が浮かんできたため、口封じに殺されたのだとする説が有力だ。当時、米穀の売買には幕府の認可が必要で、鑑札がなければできないはずだった。このあたり、幕府上層もからんだ不正売買の可能性が臭うので、“口封じ”説がリアリティをもつ。
 同様に、与力・鈴木藤吉郎の捕縛から間もなく、「だらだら長者」こと久太郎も屋敷内で変死(こちらも毒殺といわれる)している。こうして、御蔵米買い占めで貯めた莫大な利益が、いったいどこに隠されているのかが、江戸市中の話題をさらうことになった。
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 そのときの様子を、1962年(昭和37)に雄山閣から出版された、角田喜久雄『東京埋蔵金考』所収の「築土八幡の埋宝」から引用してみよう。
  
 とにかく、そのような奇怪な、長者屋敷のからくりが世に出たため、埋宝説は一層有力となって、土地の有志が先達で、長者屋敷のそちこちが掘り起されたのは、安政六年の夏からである。この時は、町奉行所でも後援したらしく、与力や同心が毎日のように現場を見廻っていたと伝えられている。そして、地下道の一部から、油樽にはいった小判千二百枚を発見したと言われているが、その処分がどんな風に行われたものかは伝わっていない。長者の豪勢な生活からみても、それが埋宝の全部でないことは、当時誰しもの一致した意見で、その後も個人的にたびたび発掘を計画したものもあるが、ほとんど得るところなく明治維新を迎えたのである。
  
 角田喜久雄は、戦前に活躍した大衆小説や推理小説の作者であり、その文章を読んでいると、まるで自身がその場に立ちあって見てきたような会話や情景が描かれており、あちこちに講釈師あるいは講談師の臭気を感じて、どこまでが史的な裏づけがある事実なのかはハッキリしない。だが、築土八幡社周辺の“宝さがし”は明治以降もつづけられ、昭和に入ってからも新聞ダネになっているのは事実だ。
 さて、この「だらだら長者」伝説で重要なポイントは、不正蓄財でもうけた大判小判の宝がどこに埋まっているか?……ではない。生井屋久太郎が、御蔵米を買い占められるほどの元手を、どうやってこしらえたのか?……という点だ。すなわち、しじゅうヨダレを流している、あるいはふだんはなにもしないで遊び呆けているような人物が、ある日突然、御蔵米の買い占めという大きな資金を必要とする“投機”に手をつけはじめ、町奉行所の与力を巻きこみつつ、雪だるま式に財産を増やしていき、やがて築土八幡社の裏にたいそうな屋敷をかまえる富豪にまで「成長」することができたのは、どのようないきさつやきっかけがあったのか?……ということだ。
 以前にも書いたけれど、もともと蔵をいくつも所有しているようなカネ持ちが、なにかの事業に投資し改めて成功しても物語としては成立しにくいが、もともと貧乏だった人物が、ある日を境に突然カネまわりが目に見えてよくなり、次々とビジネスにも成功して大富豪になる、あるいは立身出世するという話は、人々へ強烈な印象を残すので、後世までの語り草となり伝承されやすいものだ。
 また、そのような物語には周囲の妬みや嫉みが強くからみ、「悪行のむくい」「祟り」「バチ当たり」「憑き物」「因果応報」「凶事」など、怪談や妖怪譚などをまじえた不幸な教訓話が付随・習合することもめずらしくない。おそらく「だらだら長者」にも、当初はさまざまな付会=怪しげなウワサや尾ひれがついていたのではないかと思われるのだが、今日まで伝わる不吉な出来事やエピソードは、主犯の変死以外には残っていない。
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 さて、久太郎が暮らしていた築土八幡社裏の高台は、神田上水Click!(大堰から下流は江戸川Click!)沿いに形成された河岸段丘の北向き斜面であり、室町期に起因するとみられる昌蓮Click!がらみの百八塚Click!伝承のエリア内だ。特に、築土八幡社から西へ万昌院、赤城明神社へと連なる丘は、北側が絶壁に近いバッケ(崖地)Click!状の段丘地形をしており、古墳が形成されてもおかしくない地勢をしている。事実、筑土八幡町と白銀町は下落合とまったく同様に、縄文時代から現代まで人々が住みつづけている重層遺跡として、新宿区から指定を受けている。もちろん、古墳時代の遺跡もその中に含まれている。
 そのような視点から、戦後の焼け野原となった同地域一帯を、1947年(昭和22)の空中写真で観察してみたが、残念ながら古墳らしいフォルムはもはや発見できなかった。いや、むしろ築土八幡社や万昌院、九段へ移転してしまった旧・津久戸明神社跡(住宅地)、そして赤城明神社など寺社の境内がそれらの遺跡なのかもしれないのだが、戦前の発掘調査の有無とともに明確に規定することができない。
 しかし、すぐ西隣りの下戸塚(現・早稲田地域)では、江戸時代に富塚古墳Click!(戸塚富士Click!)ないしはその倍墳域から、周辺を開墾していた農民が「竜の玉」と「雷の玉」という宝玉Click!を見つけ、牛込柳町の報恩寺(廃寺)へと奉納している。これらの宝玉は、たまたま盗掘をまぬがれていた玄室から発見された副葬品とみられており、当時はかなりの価値をもつものだったろう。同様に、古墳の玄室には金銀宝玉を用いたさまざまなアクセサリー類の副葬品が埋蔵されており、それらの財宝を掘り当てる(盗掘する)ことを職業にしていたプロも存在していた。
 副葬品の金銀財宝はもちろん高額で売れ、もはやサビだらけで朽ちそうな鉄剣・鉄刀などの古墳刀Click!もまた、江戸時代にはかなりの高値で取り引きされている。なぜなら、古代のタタラで鍛えられた古墳刀の目白(鋼)Click!を、江戸期の鉄鉱石から製錬された鋼に混ぜて折り返し鍛錬をすると、より強靭で折れにくく、斬れ味の鋭い日本刀が製造できたからだ。江戸に住み、新刀随一の刀匠とうたわれた長曾根興里入道虎徹(ながそねおきさとにゅうどうこてつ)の「虎徹」は、寺社の古釘や古墳刀の目白(鋼)を、つまり「古鉄」を混ぜる独自技法を発明したからそう名乗っているのであり、のちに模倣者が続出して稀少な「古鉄」の価格は急上昇することになった。
 また、古墳刀についた赤サビは、刀の研師Click!の最終工程である「刃どり」を仕上げる際の、理想的な磨き粉として貴重かつ高価なものだった。古い目白(鋼)にわいた赤サビを粉砕してつくる粉は、現在でも日本刀の磨き粉として研師の間で珍重されており、江戸期とまったく変わらない技法が伝承されている。
 さて、これらのことを踏まえて考えてくると、働きもしないでだらだら怠惰に暮らしていた生井屋久太郎こと「だらだら長者」が、なぜ御蔵米を買い占める元手=資金を突然手に入れられたのかが、なんとなく透けて見えてきそうだ。それは、淀橋をわたって大型の古墳域だったと思われる柏木地域へ出かけていく「中野長者」が、日々裕福になっていった経緯と同一のものだったのではないだろうか。もっとも、「だらだら長者」伝説には、とりあえず「橋」にまつわる出来事は伝えられていないが、より古墳の羨道や玄室をイメージさせる、地下トンネルにまつわるエピソードがリアルに伝承されている。
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 全国各地には、動物の導きで地面を掘ったり、藪をかきわけて山(森)に分け入ってみたら、大判・小判や財宝がザクザク出てくるフォークロアが伝承されている。すぐに思いつくだけでも、有名な「花咲爺」や「舌切り雀」などが挙げられるけれど、みなさんの地元では「にわか長者」に関するどのような昔話や民話が伝わっているだろうか?

◆写真上:築土八幡社の西側に隣接する、平将門を奉った津久戸明神社跡の現状。津久戸明神社は戦災で焼けたため、1954年(昭和29)に九段へと遷座している。
◆写真中上は、築土八幡社の拝殿へと向かう階段(きざはし)。は、同社の拝殿。は、右側が築土八幡社で左側が津久戸明神社の階段があった跡。
◆写真中下は、築土八幡社の階段上からバッケ状の地形を見下ろしたところ。は、津久戸明神社跡の崖地。は、1852年(嘉永5)に制作された尾張屋清七版の切絵図「牛込礫川小日向絵図」にみる、築土八幡社と津久戸明神社の周辺域。
◆写真下は、「花咲爺」の挿画(作者不明)。は、1857年(安政4)制作の二代広重「昔ばなし一覧図絵」。は、明治期の制作とみられる河鍋暁斎『舌切り雀』。

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続・佐伯の「制作メモ」と描画位置を整理する。 [気になる下落合]

曾宮さんの前1.JPG
 10年前に、佐伯祐三Click!「制作メモ」Click!に記載された作品が、下落合(現・中落合/中井含む)のどこを描いたものかを整理Click!したことがある。10年余が経過したいま、新たに発見した画面や作品も増えているので、改めてまとめてみたいと思う。
 まず、10年前には確認できる「下落合風景」シリーズClick!(タブローに限定)が42作品、また展覧会の会場などで撮影され写真にとらえられた「下落合風景」と思われる作品が2点、落合地域の周辺を描いたとみられる作品が3点(『踏切』Click!『戸山ヶ原』Click!『絵馬堂』Click!など)という状況だった。ところが、現在は「下落合風景」とみられる画面が49点、実際の画面は未確認だが確実に存在したと思われる作品が4点の、つごう53点となっている。
 ただし、わたしがさまざまな資料類や証言、作品の描かれた時期などから推定した制作点数は、おそらく53点どころではなく、ケタちがいの数にのぼるのではないかということは、これまでの記事でも何度か触れてきたとおりだ。たとえば、佐伯は第1次対仏から帰国すると、さっそく下塗りしたキャンバスを600枚準備(渡辺浩三証言Click!)しているが、第2次渡仏までの帰国中に残した作品点数にまったく見合っていない。佐伯作品の頒布会を通じて、おもに関西方面へと大量に販売された作品点数や画面が不明な以上、「下落合風景」が50点あまりとするにはあまりに根拠が薄弱すぎるのだ。
 また、「制作メモ」に残された1926年(大正15)の9月から10月にかけての期間だけ、「下落合風景」シリーズを制作していたというのも明らかな誤りだ。二科賞を受賞した直後、同年9月1日に佐伯アトリエで行われた記者会見Click!には、少なくとも8月以前に制作された「下落合風景」のタブローが佐伯夫妻の背後にハッキリととらえられている。また、1930年協会第2回展Click!(1927年6月)へ出品するために、八島さんの前通りClick!を北側から描いた「下落合風景」Click!は、納三治邸Click!が竣工する前後、1927年(昭和2)5月ごろに描かれているとみられる。
 さらに、従来は『雪景色』Click!とされていた描画場所の言及がない作品の数々もまた、明らかに佐伯アトリエからほど近い下落合の風景を描いたものだ。つまり、佐伯は帰国後ほどなく自宅周辺の風景を描きはじめているのであり、また第2次渡仏へと向かう直前まで、「下落合風景」を制作しつづけていたことになる。
 さて、「制作メモ」に残る「下落合風景」の描画ポイントを改めて整理してみよう。新たに海外で見つかった作品や、その存在が確認できたものも含め、最新のデータをもとに1926年(大正15)9月~10月の、佐伯祐三がたどった足跡を見直してみよう。
曾宮一念「夕日の路」1923.jpg
曾宮さんの前2.JPG
佐伯祐三「雪景色」1926-27.jpg
▼9月18日(曇天) 「原」(20号)、「黒い家」(20号)
 「黒い家」は、「くの字カーブの道」Click!の東寄りから射す逆光に浮かびあがる黒い屋敷(宇田川邸?)の作品ではないかと考える。同日の「原」は、キャンバスが同じ号数のこともあり、「黒い家」が建っていたと思われる、六天坂上の原っぱのことではないか。
▼9月19日(晴天) 「原」(15号)、「道」(15号)
  「原」Click!「道」Click!は、きわめて近接している描画位置だ。第二文化村の北側に通う、葛ヶ谷(西落合)との境界の道筋を歩いているときに、佐伯の目にとまった2景。
▼9月20日(晴天) 「曾宮さんの前」(20号)、「散歩道」(15号)
  「曾宮さんの前」は、間違いなく曾宮邸の南側・諏訪谷のことを指している。秋と冬に何度か描かれた、諏訪谷風景Click!に相当するだろう。一方、「散歩道」Click!は先年に海外オークション(米国クリスティーズ)へ出品された作品で、諏訪谷から南へとつづく久七坂筋を描いたものだ。オークションでは、「下落合風景」の「散歩道」と規定して出品されていたので、キャンバスに裏書きが存在する可能性が高い。当作品の発見で、薬王院から諏訪谷にかけての佐伯が散歩をした道筋が透けて見えてきた。
▼9月21日(曇天) 「洗濯物のある風景」(15号)
  下落合の西端、中井御霊神社の下Click!まで出かけたせいか、この日はこれ1作しか描いてない。もう一度、雪が降った日に佐伯はここまで遠出Click!をして制作している。
▼9月22日(小雨) 「墓のある風景」(20号)、「レンガの間の風景」(15号)
  諏訪谷の南にある、薬王院の墓地Click!を描いたもの。同日の「レンガの間の風景」は号数が異なるので、アトリエへ一度もどっているようで薬王院の周辺とは限らない。
▼9月24日(小雨) 「かしの木のある家」(15号)
  現存する画像にそれらしい1作Click!があるけれど、いまだ描画位置を特定できない。大倉山(権兵衛山)にはカシの神木Click!が存在したが、同所の風景ではない。
▼9月25日(小雨) 「曇日」(15号)
  作品の画面も場所も不明のままだ。佐伯の描く絵の多くが曇り空なので、どれでも当てはまりそうだ。佐伯はどこで描いていたのかが、謎の1日。
▼9月26日(曇天) 「上落合の橋の附近」(20号)
  この作品は、いまのところ該当する画面が1作Click!しかない。描画場所は、昭和に入って妙正寺川の整流化工事で消えてしまった橋の付近、のちの昭和橋の情景とみられる。
▼9月27日(晴天) 「夕方の通り」(20号)、「遠望の岡」(20号)
  「夕方の通り」Click!は、おそらく城北学園(言・目白学園)北側の道筋を描いた作品だと考えている。また、同作品にはバリエーションのあることが、展覧会の写真Click!からも見てとれる。ただし、この日に描かれたのは「遠望の岡」のほうが先だ。アビラ村Click!付近で丘上から遠望のきく坂といえば、二ノ坂の上から百貨店ほてい屋が望める新宿方面を描いたものだろう。
▼9月28日(晴天) 「八島さんの前通り」(20号)、「門」(20号)
  この2作の描画位置は明白だ。佐伯アトリエから徒歩1分と離れていない、第三文化村の東側に接した通りClick!と、八島邸の門Click!の前を描いた作品だ。
▼9月29日(晴天) 「文化村前通り」(20号)、「切割」(20号)
  「文化村前通り」は、第二文化村の南端を通る道筋Click!だと思われる。また、「切割」はその道を西へと進み、左折した坂を下った二ノ坂下のカーブClick!のように思える。
▼9月30日(雨天) 「坂道」(20号)、「玄関」(15号)
  この2作も不明のままだ。下落合は「坂道」だらけだし、また「門」を描いた作品は何点か確認できるが、「玄関」を描いた画面は現存していない。雨降りの日なので、午後からアトリエ付近に建つ家の玄関を描いたものか?
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高嶺邸.jpg
清水多嘉示「風景(仮)」昭和初期.jpg
▼10月1日(小雨) 「見下シ」(20号)
  目白崖線の丘上から下を見おろす作品をいくつか描いているが、久七坂沿いの斜面に建っていた旧・池田邸の、鯱(フィニアル?)の載る赤い屋根の作品Click!に比定できる。
▼10月2日(快晴) 「晴天」(20号)、「遠望」(20号)
  快晴と思われる気象条件で描かれた作品は数えるほどしかないけれど、該当する画像は思い当たらない。また、快晴の遠望作品の画面も見たことがない。
▼10月7日(曇天) 「松の木のある風景(〇〇が畑/細道)」(15号)
  松の木が描かれた作品は現存しない。病気の直後なので、自宅付近を描いたものか。
▼10月10日(小雨) 「森たさんのトナリ」(20号)
  これは、下落合630番地の森田亀之助邸Click!の隣りにあった、里見勝蔵アトリエClick!として使われる家屋を描いたもの。佐伯邸から120mほどのごく近くだ。
▼10月11日(曇天) 「テニス」(50号)
  第二文化村に設置されていた、益満邸のテニスコートClick!を描いている。戦前から落合第一小学校の校長室Click!に架けられていたが、現在は新宿歴史博物館に収蔵されている。
▼10月12日(晴天) 「小学生」(15号)
  おそらく、落合第一尋常小学校Click!の界隈を描いていると想像できるが、小学生たちが登場するそれらしい画面は現存していない。
▼10月13日(快晴) 「風のある日」(15号)
  第一文化村の水道タンク近く、旧・宇田川邸の風景Click!だ。いまは、山手通りと十三間通りClick!(新目白通り)の交差点下になっており、描画ポイントに立つことができない。
▼10月14日(快晴) 「タンク」(15号)
  第二文化村の箱根土地社宅用地の近くに設置された、水道タンクClick!を描いたもの。現在の、下落合教会Click!(下落合みどり幼稚園Click!)に隣接した一帯だ。
▼10月15日(曇天) 「アビラ村の道」(15号)
  第二文化村をすぎて、アビラ村の尾根沿いの通りClick!を描いたもの。すでに佐伯が描いたときは、東京土地住宅によるアビラ村開発Click!は同社の経営破たんにより中止。
▼10月21日(快晴) 「八島さんの前」(10号)、「タテの画」(20号)
  またしても病気の直後だからか、佐伯アトリエに直近の通りClick!を描いている。
▼10月23日(晴天) 「浅川ヘイ」(15号)、「セメントの坪(ヘイ)」(15号)
  2作とも、曾宮邸のあった諏訪谷周辺を描いている。「セメントの坪(ヘイ)」Click!曾宮一念アトリエClick!の南側を描き、「浅川ヘイ」Click!は道を隔てた東側の浅川秀次邸を描いているが現存していない。また、「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言Click!する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!(習作?)が描かれている。
 以上のように作品の描画ポイントの特定をしていくと、期せずして佐伯祐三が下落合を歩いた軌跡が、時系列とともに浮かび上がってくる。判明している描画ポイントと、作品が描かれた1926年(大正15)9月~10月のデイトスタンプを、10年後の1936年(昭和11)にドイツから輸入された航空カメラClick!によって撮影された空中写真に記載してみよう。
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下落合中部.jpg
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 さて、「制作メモ」に書かれていない作品群を考慮すれば、あるいは作品や画面写真が現存しないものを含めれば、ここに記録されているタイトルは1926年(大正15)の秋に制作されたほんの一部だけの、きわめて限定的な作品の覚え書きにすぎないことがわかる。換言すれば、「制作メモ」に書かれた作品点数のみを数え、「佐伯は『下落合風景』を30数点制作した」……という記述もまた誤りだと考えている。

◆写真上:画家たちが好んで描いた、下落合623番地の曾宮一念アトリエ前の現状。
◆写真中上は、1923年(大正12)に建てたばかりの自身のアトリエを描いた曾宮一念『夕日の路』(提供:江崎晴城様Click!)。は、曾宮一念アトリエ前の現状。は、1926~27年(大正15~昭和2)に降雪後の諏訪谷を描いた佐伯祐三『雪景色』。
◆写真中下は、1926年(大正15)夏に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』とみられるプレ作品。同画面には10号と15号、40号の3作品があったとみられる。は、同作にも描かれているリニューアル前の高嶺邸。は、1928年(昭和3)5月の帰国後に描かれたとみられる清水多嘉示Click!『風景(仮)』Click!。曾宮アトリエは改築中のようであり、右手には諏訪谷に沿って築かれていた佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』と同一デザインのコンクリート塀がとらえられている。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真へ記す、佐伯祐三が歩く下落合の制作スタンプ。
掲載されている清水多嘉示の作品は、保存・監修/青山敏子様によります。

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下落合を描いた画家たち・南風原朝光。 [気になる下落合]

南風原朝光「風景」1930.jpg
 以前、1927年(昭和2)ごろから下落合(4丁目)2080番地(現・中井2丁目)にある一原五常アトリエClick!に住みついた、名渡山愛順Click!をはじめ沖縄の洋画家たちについて記事Click!を連載したことがある。同じころ、西武線・中井駅のすぐ近くに住んでいた、同じ沖縄出身の南風原朝光Click!(はえばるちょうこう)についても何度か触れていた。
 上落合の住所は不明だが、南風原朝光は1932年(昭和7)に萩原稲子(上田稲子)Click!が喫茶店「ワゴン」Click!を開店すると、他の画家仲間たちとともに常連になっている。その南風原が、1930年(昭和5)に制作した作品に『風景』というのがある。現在、板橋美術館で開催中の「池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展に展示されており、沖縄県立美術館に収蔵された風景画だ。同作品は、ちょうど南風原朝光が上落合に住んでいたころに描かれたことになる。
 画面を仔細に観察すると、かなりの急斜面から平地を見下ろすような位置にイーゼルを立てており、斜面が切れた先は家々の屋根の高度や、赤土の地面の途切れ具合から、バッケ(崖地)Click!状の地形をしていると思われる。陽光は、明らかに右手から射しており、画家は南向きに近い角度で写生しているのだろう。陽光は黄色味を帯びており、時間帯が夕方だとすると右手ないしはやや右手背後が西ということになる。換言すれば、画家は南ないしは南東の方角を向いてキャンバスに向かっていることになる。
 手前の崖下には、家々の建て方の様子から道が通っていそうで、その向こう側には両側を緑に挟まれた河川土手らしい情景が描かれている。街並みには、電柱や銭湯の煙突がまったく見えないので、南風原は突起物を省略して描いている可能性が高い。唯一、右手の奥に電柱か煙突を思わせる、タテの黒い線が確認できるだけだ。また、画面左手の遠景には、灰色で塗られた四角い大きな建物が描かれており、斜めの細かな筋が入った屋根の表現には工場のような趣がある。
 さて、これを落合地域に当てはめて考えてみると、午後とみられる太陽が右手に見える南斜面、崖地のすぐ近くを流れる川と思われる表現、1930年(昭和5)には開通していたはずの西武電鉄が見えにくい点、そして左手の遠景には工場のような大きめな建屋が見える点などを踏まえると、この情景にフィットする描画ポイントは、東西に広い下落合(現・中落合/中井含む)といえどもたった1ヶ所しか存在していない。中井駅から、中ノ道Click!(下の道Click!=現・中井通り)へと出て東へ250mほど歩いた見晴坂付近、すなわち下落合1794番地あたりの急斜面だ。
南風原朝光「風景」1930モノクロ.jpg
地形図1930.jpg
上落合空中写真1936.jpg
 南風原朝光は、夕暮れが近い時間帯に中ノ道から見晴坂へ上ると、おそらく左手(西側)の急斜面に入りこみ、そこから東南東の方角を向きながら写生している。見晴坂は、左端に半分描かれている邸(おそらく下落合1800番地の小野邸か)の手前を切通し状に拓かれており、崖下には中ノ道(現・中井通り)が通っている。その道路沿いには、下落合1820番地の家々が建ち並んでいる。その向こう側に見える緑に挟まれた窪地状の表現は、1935年(昭和10)前後から実施される整流化(直線化)工事前の妙正寺川であり、左手に描かれた樹木の陰には旧・昭和橋が架かっているはずだ。旧・昭和橋から、妙正寺川は急カーブを描きながら南東へと蛇行し、やがて3回ほど南北への蛇行を繰り返しながら旧・神田上水(1966年より神田川)へと合流している。
 蛇行した妙正寺川が崖下近くを流れるこの位置から、西武線の線路は非常に見えにくい。画面の右手に描かれた、灰色の屋根の2階家とみられる建物の向こう側から、画面左手の奥、灰色の大きめな建物のあたりへ向かって斜めに走っている。当然、線路沿いには電柱や、東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔などがあったはずだが、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!などとは異なり、住宅街の電柱と同じようにすべて省略されている可能性が高い。
 画面奥に見える樹林の景色は、上落合の旧家である福室家などが集まる八幡耕地Click!あたりで、福室軒牧場Click!の跡地や、建ち並ぶ旧家の周囲にめぐらした屋敷林の名残りだろう。これらの樹林は、1930年(昭和5)7月の下落合駅Click!の西への移設Click!と、翌1931年(昭和6)12月に開設された国際聖母病院Click!前の補助45号線Click!の開通とともに、急速な宅地化が進んで消滅している。この林の向こう側には、まさに1930年(昭和5)現在に整流化(直線化)工事が行われている最中の、旧・神田上水が南北に流れているはずだ。
画面拡大(妙正寺川).jpg
画面拡大(工場).jpg
画面拡大(アパート).jpg
 そして、左手の遠景に描かれている灰色の建物は旧・神田上水の西岸、すなわち上落合の前田地域Click!に建てられている工場の建屋のひとつ(昭和電気の建屋?)だ。以前にも、火災が頻発する同地区について記事にしているが、前田地域は旧・神田上水沿いに大正期から開発された、落合村(町)では有数の工業地区で、東京護謨Click!をはじめ、昭和電気や小松製薬など数多くの工場が建ち並んでいた。これらの工場は、二度にわたる山手空襲Click!で壊滅し、現在ではその広大な跡地にせせらぎの里公園や落合水再生センターClick!、落合中央公園など、東京都や新宿区の大規模な公共施設が設置されている。
 さて、関東大震災Click!で東京の市街地が大きなダメージを受けたため、大正末から市民の郊外への大移動がはじまっていたが、落合地域でも急速な宅地造成が進み、あちこちで住宅建設の音が響いていただろう。また、最新の意匠を取り入れた集合住宅、すなわちアパートメントの建設も流行し、こちらでは下落合の第三文化村Click!に建設された「目白会館文化アパート」Click!をご紹介しているが、上落合では最新式のコンクリート造りで耐火耐震アパートメント「静修園」Click!(上落合624番地)も記事にしていた。南風原朝光の画面右端にも、そんな急傾斜の屋根にドーマーを備えた、最新式のアパートメントと思われる建物が描きこまれている。
 昨年の秋、板橋区立美術館の学芸員である弘中智子様よりご連絡をいただき、落合地域に住んだ沖縄の画家たちに関連し、一原五常アトリエや昭和初期の周辺の様子、去来していた洋画家などについてお話をした。先日、ごていねいに「池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展の図録をお送りいただいた。ありがとうございました。>弘中様
 同展覧会には、こちらでもおなじみの佐伯祐三の『下落合風景(テニス)』Click!をはじめ、林武Click!『文化村風景』Click!中村彝Click!『落合のアトリエ』Click!『庭の雪』Click!刑部人Click!『裏庭雪景』Click!松本竣介Click!『郊外』Click!『風景』Click!、そして金山平三Click!満谷国四郎Click!など、落合地域に住んだ画家たちの作品がまとめて展示されている。
山手製氷(上落合2).jpg
アパートメント静修園.jpg
池袋モンパルナスとニシムイ美術村展図録.jpg 南風原朝光「窓」1954.jpg
 また、図録には島津一郎アトリエClick!を背景に、島津邸で飼われていたシチメンチョウClick!の写真も掲載されている。w 落合地域に住んだ画家たちの作品群を、まとめて鑑賞できる機会はあまりないと思うので、興味のある方はぜひ板橋区立美術館へ。「池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展は、4月15日(日)まで開催されているので、サクラが開花し暖かくなってから出かけても、まだまだ間に合う。
 同美術館に掲げられた今年の幟キャッチフレーズは、「永遠の穴場」だ。w 「永遠の」には、やや自虐的すぎるアイロニーを感じるけれど、駅から少し離れているせいか、人も少なくゆっくりと静かに作品を観賞できるので、確かに「穴場」にちがいない。

◆写真上:下落合に通う見晴坂の近くの急斜面から、上落合方向を東南東に向いて描いたとみられる1930年(昭和4)制作の南風原朝光『風景』。
◆写真中上は、画面からうかがえる風景要素。は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描かれたエリア。
◆写真中下:南風原朝光『風景』の一部拡大で、河川の土手とみられる緑に挟まれた窪地()、工場とみられる大きめの建屋()、当時は最先端の意匠だったアパート()。
◆写真下は、大正期から操業していた前田地区南部にあった上落合2番地の山手製氷工場。は、昭和初期に建設された鉄網入りコンクリートのアパートメント「静修園」。下左は、「池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展(2018年)の図録。下右は、戦後の1954年(昭和29)に描かれた南風原朝光『窓』。

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東京大空襲より大規模だった平塚大空襲。 [気になるエトセトラ]

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 守山商会Click!の『守山乳業株式会社四十年史』(1957年/非売品)を読んでいたら、1945年(昭和20)7月16日の夜半にみまわれた平塚大空襲の様子が記録されていた。子どものころ、親父の仕事Click!の都合で10年以上は住んでいた街Click!なので、同空襲のことは地元でも頻繁に耳にしていた。今回は、平塚大空襲の全貌を守山商会の被災とからめてご紹介したい。
 平塚市の空襲が、なぜ「大空襲」と呼ばれているのかを知らない方が多い。実は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!や、同年5月29日の横浜大空襲よりも、焼夷弾の投下数で比較すれば、その規模がはるかに大きかったからだ。湘南海岸に面した街は、戦争も終わりに近づくにつれ、頻繁に爆撃や機銃掃射の被害に遭っているが、平塚市への攻撃はケタ違いだった。東京大空襲で投下された焼夷弾は約38万本で、横浜大空襲は約35万本に対し、平塚大空襲は約45万本もの焼夷弾が投下されている。文字どおり、草木も残さない焦土化殲滅作戦だった。
 これは、同年8月2日の八王子大空襲(約67万本)に次いで全国で2番目の空襲規模であり、中規模な市街地に対する攻撃としては、八王子ともどもごくごく異例のものだった。その理由としては、これまで都市部への爆撃とは異なり爆撃目標が分散していたからとか、海軍の重要な施設があったからだといわれてきた。平塚には、確かに海軍の火薬廠や横須賀海軍工廠分工場、海軍飛行機工場などがあったのだが、それらを破壊するにはあまりに爆撃規模が大きすぎるのだ。では、なぜ平塚と八王子にだけ、類例のない大規模な爆撃が行われているのだろうか?
 わたしが子どものころ、湘南海岸の随所にはコンクリートでできた台状の塊や残骸、廃墟などが残されていた。それらは、地元の人々の話によれば、米軍の「オリンピック作戦」に備えた砲台やトーチカの跡だと説明されてきた。だが、「オリンピック作戦」は沖縄の次に予想された、九州への上陸作戦名だったことが明らかとなり、湘南海岸への上陸は「コロネット作戦」と呼ばれていたことが、米国公文書館の情報公開で明らかになっている。だが、この情報が公開されるまで、関東地方の海岸線への上陸作戦は「オリンピック作戦」とされていたので、おそらく敗戦前からの呼称、つまり軍部が戦時中からそう呼んでいた可能性が残る。
 1945年(昭和20)夏の時点で、軍部は湘南海岸が本土上陸の主戦場になるとは想定していなかった。それは、同時期に作成され国立公文書館に保存されている、海軍資料「聯合国移動艦隊ノ本土攻撃」からも明らかだ。「戦勢ノ推移ニ鑑ミ敵ガ対本土上陸作戦ヲ企図スルデアラウコトハ概ネ確実トナツタ」ではじまる同資料には、沖縄上陸の次は「予想上陸地区タル南九州及四国南西部」としている。だが、先の米国公文書館が公開した軍事資料によれば、南九州に上陸するオリンピック作戦と同時に、首都東京へまっしぐらに侵攻できる湘南海岸の中央部、すなわち平塚海岸への上陸が、コロネット作戦と名づけられて計画されていた。
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 コロネット作戦では、平塚海岸へ上陸した米軍は平塚を中心として湘南海岸に大規模な橋頭保を確保し、そのまま馬入川(相模川)沿いを北進して八王子を攻略、東海道(東海道線沿い)と甲州街道(中央線沿い)を進撃しながら、2方向から東京を攻略するというシナリオだった。そのためには、平塚市と八王子市をあらかじめ徹底的に焦土化、殲滅しておく必要があったのだ。米軍は、破壊が不徹底のまま上陸した沖縄戦で、膨大な死傷者が出たことに懲りており、本土上陸では上陸地点と作戦要所の市街地を、草木も残さぬ焦土と化しておくことにしたのだろう。このような作戦計画上の文脈から、7月16日の平塚大空襲と8月2日の八王子大空襲が実施されている。
 平塚大空襲は、7月16日の深夜から翌未明にかけ、138機のB29により行われた。B29の大編隊は平塚の南西側から侵入し、22時30分ごろ花水川の河口付近へ照明弾を投下すると同時に平塚の市街地に対する爆撃がはじまった。その様子を、『守山乳業株式会社四十年史』(1957年)から引用してみよう。
  
 愈々来るものが来た。昭和二十年七月十六日夜半、五百機(ママ)の大編隊は、平塚市を目標に、相模湾を北上中と、ラヂオはガンガン鳴り響いた。平塚市の南西部に曳光弾(ママ)が落下して全市真昼の明るさとなった。初めて聞く異様な音響と共に焼夷爆弾が雨の様に降って来る。焼夷弾の波状攻撃は二時間も続いた、妖焔は地を匐って数時間の内に全市の七割(ママ)を灰燼と化した。民家も軍需工場も焼け落ちて無辜の市民多数も犠牲となった。火葬場も間に合わない。無論棺桶も材料がない、惨憺たる戦禍の惨めさであった。(カッコ内引用者註)
  
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 当時、平塚市の全住宅10,419戸のうち約8,000戸が焼失し、また大小の工場や倉庫、商店はほぼ全滅しているので、被害は全市の8割以上にもおよんでいる。約2時間ほどの空襲で、343人の市民が犠牲になった。平塚を爆撃したB29の編隊は、通常の絨毯爆撃ではなく、外側からまるでスクリューを回転させるように内側へと攻撃範囲を狭めていく、渦巻き状の爆撃を繰り返している。
 これは、東京大空襲において本所区や深川区、向島区などで行われた爆撃法とまったく同様だ。あらかじめ市街地の外側を爆撃して火の壁をつくり、その内側で暮らす住民たちの逃げ道をふさいだあと、中央部に大量の焼夷弾や250キロ爆弾を投下して皆殺しにする爆撃手法だ。東京大空襲では、火で囲まれた市街地にB29から大量のガソリンがじかに散布されているが、平塚市の爆撃ではどうだったろうか。
 これほどの攻撃を受けながら、相対的に犠牲者が少ないのは、当時の平塚市はいまだ田畑や緑地、空き地などが多く、建物がそれほど密集してなかったのと、東京大空襲時のような強風が吹いていなかったため、大火流Click!が発生しなかったのも人的被害を少なくした要因だろう。ただし、同市の中心部だった平塚駅北側、国道1号線沿いの新宿と本宿の街並みは、ともに壊滅している。
 守山商会の工場は、どうなっただろうか。同社史から、つづけて引用してみよう。
  
 守山商会も工場並に尊天堂、社長住宅等も全焼の厄に会い、焼け野原の中に大煙突のみが吃然と立っていた。工員今井君は最後まで工場に頑張り、手押ポンプの腕木を握ったまま直撃弾の命中(ママ)を受け即死した。馬入川対岸の守山牧場も全焼して、多数の乳牛が焼死した。社長は余燼あがる市内の状況を調査し、翌朝から焼失した工場の灰掻きを行い、コンデンスミルク、粉乳などの焼け残りを、甘味に飢えた附近の住民に分配した。/工場の焼失により毎日集まる百余石の牛乳は処理を一応森永乳業平塚工場に依託して酪農家達の急場を救う事にした、百余名の全従業員に対しては、工場の焼失と尚戦争は熾烈を極めているので涙を揮って工場の解散を宣告した。(カッコ内引用者註)
  
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 コロネット作戦は、米軍100万人を動員しての上陸作戦計画だったが、平塚大空襲と前後して前線の米軍基地には、6万発もの毒ガス弾(サリン弾)が輸送されている。沖縄戦で20,000人を超える死者を出した米軍は、市街地の焦土化とともに生き残った軍隊や住民をひとり残らず殲滅する、空からのサリン攻撃を準備していた。

◆写真上:コロネット作戦計画で、米軍の上陸が予定されていた平塚海岸。
◆写真中上は、1946年(昭和21)に撮影された馬入川(相模川)近くの海岸線。は、敗戦後まもなく相模湾に集結した連合国軍の艦隊で、背景は真鶴半島から箱根・富士山。
◆写真中下は、1945年(昭和20)夏に作成された海軍の「聯合国移動艦隊ノ本土攻撃」(公文書館蔵)。は、風と波でできた平塚海岸の砂丘。は、平塚市の戦災地図。7月16日のほか、焼け残った地区に向け7月30日と8月2日にも爆撃が行われている。
◆写真下は、1946年(昭和21)撮影の平塚大空襲時に最初の照明弾が投下された花水川河口あたりの海岸線。すでに、戦後の住宅建設がはじまっている。は、平塚海岸近くのあちこちに残るクロマツ林。は、同年撮影の平塚駅周辺にみる市街地の惨状。

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大川の近くにいちゃダメだという教訓。 [気になるエトセトラ]

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 1945年(昭和20)3月10日深夜の東京大空襲Click!では、おもに大川(隅田川)の東側である向島・本所・深川一帯がB29による爆撃の目標とされ、あらかじめ意図的に避難経路を断ち無差別に東京市民の生命をねらう、徹底したジェノサイド(大量虐殺)攻撃が行われた。そのとき、本所側から両国橋をわたり、いち早く日本橋側へと避難した人々の中には「大川の近くにいちゃダメだ」という、1923年(大正12)9月1日の教訓が活かされていたケースが多々見られる。
 幅の広い河川沿いは障害物や遮蔽物が少なく、大火災による空気の急激な膨張で、大火流Click!火事竜巻Click!が起きて巻きこまれやすいという、関東大震災Click!の際に起きた事実を記憶し、教訓化していた人たちだ。ちなみに、大川の川幅は両国橋のところで約143m、大火流や火事竜巻で3万8,000人が亡くなった被服廠跡地Click!(現・震災復興記念館Click!一帯)では約125mほどある。わたしの東日本橋Click!にあった実家でも、もちろんその教訓はしっかり記憶されており、火災の方角と風向きを確認しながら大川(隅田川)とは反対方向へと逃げだした。日本橋人形町から日本橋川、東京駅、さらに山手方面へと逃れて、非常に幸運にも大空襲で命を落とした家族(親戚は除く)はいない。
 東京大空襲は、3月10日午前0時8分に第1弾が投下され、焼夷弾や250キロ爆弾、そして空襲の後半には低空飛行でガソリンが住宅街へじかにまき散らされ、2時間半後の午前2時37分に終わった。この間、本所区や深川区、浅草区、向島区の4区(現・台東区/江東区/墨田区)がほぼ全滅し、死者・行方不明者10万人以上、負傷者5万人以上、家を焼かれた罹災者100万人超という空前の犠牲者が出た。特に行方不明者に関しては、一家・姻戚全滅のケースや東京へ単身でやってきた独身者の場合は、親戚や友人など周囲の証言が残りにくく、実際の犠牲者数は1.2倍とも1.5倍ともいわれている。
 空襲がはじまるとともに、「大川の近くにいちゃダメだ」という生死を分けた逃避行の様子を、菊池正浩という方が書いた『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。この記録は、2015年(平成27)に日本地図センターが発行した、『1945・昭和20 米軍に撮影された日本』に収録されたものだ。著者は本所区千歳町、つまり両国橋の東詰めに住んでいて罹災している。そして、両国橋をわたりそのまままっすぐ西へ、できるだけ大川から離れるように避難しながら上野山をめざしている。
  
 祖父母の家は両国橋畔、隅田川沿いにあり、二階建てであった。ここまで辿り着く間の光景はあまり話したくない。これまでも人には話してこなかった。人口10万余人だったこの地が、翌日に確認できたのは僅か1千人ほどであったと知らされた。いかに凄まじい惨劇であったかがわかる。/防空頭巾と衣服が、周りの炎と火の粉で燃えだす。母は真綿入りの「ねんねこ」、私は半纏を着ていたので、布は焦げてもすぐには燃えないことがわかった。防空頭巾を被っていない女の人は、髪の毛が燃え出す。「熱いー助けてー」と叫びながら走っていく。気の毒だがどうすることもできない。コンクリート製か石なのか判らないが用水桶が家々の前にあった。火災に備えての水桶だが、その水を頭から被り濡らしてはまた走った。頭から被ってびしょびしょに濡らしても、すぐに炎の熱さで乾いてしまう。用水桶の中に身を沈め、難を逃れようとした人もいたらしいが、息継ぎのために顔を水面に出した途端、熱風と煙を吸い込み、気管を焼いて焼死したという。逃げる途中の家々では防空壕に避難したが穴の中に閉じ込められて、蒸し焼き状態になった人が多かった。両国橋まで逃げてきたが、すでに祖父母の家も風前の灯火だったので、そのまま両国橋を渡って難を免れた。
  
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本所回向院.JPG
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 菊池一家は、両国橋を西へわたると、そのまま両国広小路から靖国通り(大正通り)の大通りを進まず、右折して柳橋Click!から神田川をわたり、神田川と総武線にはさまれた道路を、できるだけ大川から離れるように真西へ向かっている。
 そして、万世橋から右折して旅籠町から末広町を駆け抜け、黒門町を通って湯島天神Click!の境内をめざした。ところが、本郷や湯島方面からの火の手が迫っていたので、湯島天神には寄らずに上野広小路の交差点を抜け、不忍池へとたどりつくと池沿いに上野山へとようやくたどり着いている。
 もし、柳橋をわたって浅草橋から蔵前、菊屋橋、松屋町を抜けて上野山方面へ最短コースで逃げようとしていたら、おそらく菊池一家は大火災に巻きこまれて助からなかっただろう。両国橋をわたり、神田川沿いをまず真西に向かって大川からできるだけ遠ざかったのが、大火流に呑みこまれないで済んだ大きな要因だとみられる。
 わたしの実家にいた家族たちは、やはり川向こうの本所側に大きな火災が発生しているのを確認すると、大川からできるだけ離れるために西へと向かった。日本橋両国から橘町、久松町、人形町とたどり江戸橋あたりで日本橋川に出ると、日本橋から呉服橋をへて東京駅北口に近い大手町側へと抜ける丸の内ガードをくぐり、東京駅前へと逃れている。そこから、どこで一夜を明かしたのかは聞きそびれているが、おそらく丸の内側の駅前広場か、近くの日比谷公園にでも退避していたのだろう。
 燃えるものはすべて燃え尽くし、なんとか火災が下火になってから自宅のあったあたりへと帰ったのは、菊池一家もうちの家族も同じだ。わたしの実家のなにもない焼け跡では、焼け落ちた蔵の中の小銭類までが溶けていた。親からもらったそのときの十銭銅貨Click!を、わたしはいまでも大切に保存している。
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 つづけて、『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。
  
 まだ燻り続ける中を両国千歳町へ戻った。(中略) 筆舌に尽くせない惨劇であった。母は「見るんじゃないよ」と言うが、そんなわけにはいかない。真っ黒焦げになっている人、半焼のような人、隅田川にぷかぷかしている人、水で膨らんでいる溺死体、小さな子供たちの死体、鎖に繋がれたままの犬、猫も毛が焼けて皮が剥き出し、鳥籠だけが燃え爛れて鳥の姿がなくなっている。人が生活していたということが全く嘘のような光景である。/地震、土砂崩れ、台風などの災害で亡くなった光景とは違う。広島、長崎の原爆とも違う。/想像を絶する光景である。読者は何もなくなった見渡す限りの大地、雀や鳥もいない世界、犬や猫もいない世界、樹木が一本もなく植木や草花もない世界。こういう世界を想像できるでしょうか。/どのくらい経過したのか思い出せないが、大人たちはまず生存者の確認、怪我人の保護、死体処理から始めた。臭気と野犬に食べられるのを防ぐため急ぐのだそうである。隅田川、堅川、横十間川に浮いたり沈んでいる溺死体を鳶口で引っかけては大八車やリヤカーに積んで、隅田川畔や公園、空き地に穴を掘って埋めていた。埋めていたというより、どんどん放り込んでいた。
  
 著者は先にも記しているが、このとき10万余人いた本所区の人口は、数日後にはわずか1,000人ほどしか確認できなくなっていた。おそらく、ほぼ全滅した浅草区や深川区、向島区でも同様の状況だったろう。10万人超とされている、東京大空襲の被害者の中にさえカウントされず、たった一晩でこの世から消滅してしまった人たち、家族全員や独身者、子どもたちがはたして何千人、何万人いたのかは現在にいたるまで、地元の自治体でさえまったく把握できていない。
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 東京市内(東京35区Click!=現・東京23区内)は、1944年(昭和19)11月から翌1945年(昭和20)8月の敗戦時まで、都合130回にのぼる空襲を受けている。これにより、死傷者・行方不明者は25万人以上にのぼり、罹災者は300万~400万人におよんだ。当時、東京市の人口は687万人だったが、敗戦時には253万人に激減している。もちろん、地方への疎開や徴兵・徴用による移動も含まれているが、消えた434万人のうち、戦後に再び東京へ生きてもどれた人々の数を差し引いても、消えてしまった人々の数に呆然とする。

◆写真上:「猫塚」のある、本所回向院の境内で眠るネコ。証言者の菊池一家は、空襲と同時に関東大震災でも焼け残った回向院の境内へ避難するが、同院の本堂が燃えだしたのを機に急いで両国橋を西へわたって逃げる決心をした。
◆写真中上は、1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろに米軍のF13偵察機から撮影された東京市東部の惨状。は、両国橋東詰めに近い本所回向院の山門。は、両国橋西詰めからつづく日本橋側の両国広小路。
◆写真中下は、神田川の柳橋から上流の浅草見附跡(浅草橋)を眺めたところ。は、神田川から万世橋を望む。は、冬枯れの上野不忍池とミヤコドリ(ユリカモメ)。
◆写真下は、菊池家とわたしの実家とがたどった1945年(昭和20)3月10日深夜の大川から離れる逃避経路。菊池家やわが家は逃げのびたので矢印を書けるが、逃げる途中で焼死して途切れた人々の線は10万本をゆうに超える。は、東京駅丸の内北口で正面は新丸ビル。命からがらたどり着いた親父たちが目にして、一息ついた東京駅はこの意匠だったが、同年5月25日夜半の空襲で駅舎は炎上している。は、丸の内北口のホール。

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芸妓まで勤労動員した戦争末期。 [気になるエトセトラ]

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 戦争の敗色が濃くなった1944年(昭和19)、学校の学生・生徒たちを学徒動員や女子挺身隊として組織し生産現場へ送りこんだ軍部は、花柳界の若い女性たち、つまり芸者・芸妓(げいしゃ)たちを「無為徒食」で暮らしているとして、勤労奉仕させようと狩り出している。それが彼女たちの仕事であり、さんざん軍人たちも宴会や会議の席などへ“勤労動員”しておきながら、いまさら「無為徒食」とはよくいったものだ。おそらく、何らかの理由から家庭内に残って勤労奉仕に出ていない、若い女性たちに対する見せしめの効果もねらっていたのではないか。
 確かに彼女たちは、各流派の日本舞踊や三味Click!小唄Click!長唄Click!清元Click!新内Click!、芝居台詞、そしてお酌をすることしか知らなかったかもしれないが、酒席でそれら日本文化の披露あるいは継承すること自体が職業であり仕事なのだから、それをいまさら「三味線とお銚子以外に能のない白粉の女芸妓」とか「労働力のない存在」、「邪魔者・厄介者」などと侮蔑的に表現するのは、いくら負け戦つづきで尻に火が点いてアタマの中が錯乱していたとはいえ、とんでもない軍部の言い草であり日本の文化・伝統への冒涜だ。
 芸妓たちが無理やり工場へ連れてこられ、慣れない製造ラインで働かされた記録は各地に残っているのだろうが、今回は江戸東京の花柳界Click!ではなく、わたしが子ども時代をすごした湘南・平塚の事例をご紹介したい。平塚は江戸時代からの宿場町であり、明治以降は神奈川県下でも有数の商業地として発展したため、旅館や料理屋の宴席へ呼ばれる芸妓の数も多かった。西隣りの大磯Click!は、避暑・避寒の別荘地Click!として江戸末期から発達したため、もう少し前から芸妓の需要があっただろう。ただし、大磯の別荘街へは江戸東京の芸妓が、わざわざ東海道線で“出張”してくるケースが多々みられた。
 戦争の末期、平塚の花柳界には70名ばかりの芸妓が登録されていた。「芸妓挺身隊」の動員が軍部から通達された際、彼女たちに働いてほしいと手を挙げた工場は、ただの1ヶ所も存在しなかった。工場主にしてみれば、軽作業ならこなせるだろうと考えたかもしれないが、美しくて艶っぽく目立つ彼女たちが職場へ現れれば、男子工員たちの風紀を乱し、気が散って生産性が低下しかねないことを懸念したにちがいない。少しでも生産性を上げるために、軍部の指示によって組織された「芸妓挺身隊」だが、逆に現場が浮き足だって生産効率が落ちるのを怖れたのだ。確かに、悩ましい「湘南ガール」たちが突然職場に何十人も現れたら、学徒勤労動員の歌「♪我等学徒の面目ぞ~ ♪ああ紅の血は燃ゆる~」の男子たちは、別の紅の血に燃えてしまうだろう。
 警察署が「芸妓挺身隊」を管轄していたが、どこの工場でも断られて引き受け手が現れないため、無理やり押しつけられたのが平塚市宮の前にあった守山商会Click!だった。同社の工場Click!では、いちおう軽作業をやってもらうことになったが、彼女たちは芸者を完全に廃業したわけではないので、お座敷や宴席など“本来業務”の連絡が入れば、おのおの作業を中断して帰ってしまう。このあたり、守山工場と平塚花柳界との“お約束”で、そのような勤務形態になっていたらしい。以下、1957年(昭和32)に出版された『守山乳業株式会社四十年史』(非売品)から引用してみよう。
  
 愈々作業にとりかかると、珈琲牛乳のレッテル貼り、牛乳箱の釘打ち、コンデンスミルクの箱の積み下ろし等々仕事は山程ある。馴れぬ仕事の不手際に社長も困ったが、俄仕立の女工さんもへとへとだ、最初は作業中も平気で煙草を喫い出して係長に注意されると、/「そうでしたの、作業中は煙草を喫っちゃいけないんですの まあ御免なさいね」、なまめかしい声での話のやりとりである。レッテルを逆さに貼って注意される、「釘がきいていない」などと……、係長が一番恐かったそうである。/工場長さん、電話がかかって来ましたからお暇を下さいね、/「なんだ、彼氏からお座敷がかかって来たのか」、/「そうなんですよ」、/こうした早退も屡々であった。月平均十五日工場で働けば精一杯であった。
  
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 もう、絵に描いたような「非国民」Click!ぶりだが、当時は「ホタル殺し」Click!を叫んでいた自治体や町会の役員たちではなく、「非国民」や「アカ」Click!(資本主義的民主主義者・自由主義者含む)と呼ばれた人々にこそ、あたりまえの意識や感覚、事実を直視し筋道を立てて認識できる、まともな思考回路が残っていたのだ。近々書く予定でいるが、戦時中の内務省特高資料は吉野作造Click!の民本主義の流れでさえ、「アカ」=共産主義系運動に分類している。
 「芸妓挺身隊」にはつらい工場勤めだったが、たまには楽しいこともあったようだ。それは守山商会の得意先や取引先を招いて接待をする宴席が、戦争末期にもかかわらずつづいていたからだ。特に大切な得意先のときは、馬入川(相模川)に舟を浮かべ舟遊びに興じていたらしい。ひょっとすると、当時の経営陣は「芸妓挺身隊」が馴れない仕事で疲弊してくると、彼女たちの慰労や息抜き、気分転換のために大口顧客を招待して、一席設けていたのかもしれない。芸妓たちは、とたんに水をえた魚のように活きいきと接待の仕事を引き受け、馬入川(相模川)の川面には唄や三味の音色が響きわたった。
 なぜ料亭ではなく、宴会を馬入川の舟の上で催していたのかといえば、さすがに市街地の料亭から「非常時」にもかかわらず、賑やかな三味の音(ね)や唄が流れてきたら、戦争末期の時局がら非難が守山商会に殺到しかねなかったからだろう。つづけて、『守山乳業株式会社四十年史』から引用してみよう。
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 「今日はお得意さま御招待だから、これから馬入川え(ママ)いっしょに行ってくれ」、この時ばかりは天下一の女工さんだ。お化粧も素早やく済ませ、舟の中には忽ち三味も、酒も料理も運ばれる、彼女達は、/「毎日お客様が来てくれるとよいな……」/とかすかに洩れる声に社長も微苦笑。こうした宴席になると社長も工場長もあったものではない、宴酣となるにつれ酔がまわるにつれて、下手な箱の釘打ちにお小言を頂戴している鬱憤晴らしと言う訳けでもなかろうが、/「さァあ社長さん、モウさん」/「何か唄いなさいよ」/「工場で叱るだけが人生じゃないでしょう 水の流れと葦切(鳥の名)が聞いているだけよ」 彼女達は全く有頂天である。/「呑平工場長さん、飲んでばかりいないで、お客様に下手な唄でもお聞かせしたらどう」/「このお客様は、話せるわ」/「私にもついで頂戴ね」、/三味の音と唄声は広い河原に吸い込まれて行くのである。
  
 こうして、たまにストレスが発散できた「芸妓挺身隊」の面々は、翌日からまた黙々と牛乳や乳製品の製造現場で働きつづけた。彼女たちは敗戦の1ヶ月前、1945年(昭和20)7月16日夜の2時間にわたる平塚大空襲まで勤務をつづけている。
 同社史には、空襲による「芸妓挺身隊」の犠牲者についての記述がないが、おそらく深夜の空襲だったために芸妓の犠牲者は出なかったのだろう。記録では、最後まで守山平塚工場に残っていた工員のひとりが、焼夷弾の直撃を受けて即死しているほか、守山牧場で飼育していた数多くの乳牛が焼死している。守山商会は、国道1号線に面した宮の前の本社機能をはじめ、製造工場や研究所、乳牛牧場のすべてを一夜にして失ったことになる。
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 空襲の翌日、守山謙社長は焼け残った煉乳(コンデンスミルク)や粉乳などを集めると、平塚の罹災者へ分配したあと工場を解散した。工場が消滅しても、県内各地から送られてくる牛乳を処理するため、同じ平塚に工場があった森永乳業へ処理を依託している。

◆写真上:宮の前にある守山乳業の本社から、西南西へ直線距離で500m余の紅谷町公園内に残る、江戸期からつづく「番町皿屋敷」Click!のお菊さんの塚。
◆写真中上は、守山工場の「富士クリーム」製造ライン。芸妓たちは、これらのラベル貼りや牛乳箱づくりにまわされている。は、当時は東洋一といわれたコンデンスミルク製造用の守山式真空蒸発煉乳機。は、容器用の金属罐を製造するライン。
◆写真中下は、フランス製のホモゲナイザー(均質牛乳製造機)。は、工場で行われた就業前の体操。は、国府村寺坂(現・大磯町寺坂)にあった守山商会集乳場。中央左寄りにある電柱のうしろ、トタン屋根の白っぽい建築が集乳場建屋。
◆写真下は、1945年(昭和20)7月16日深夜の平塚大空襲で壊滅した平塚市街地。小さな家々は、戦後の焼け跡に建ったバラック。は、同空襲で全焼した守山商会本社。は、同空襲で壊滅した平塚市街地。

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織田一麿が夢みた「創作版画の大衆化」。 [気になるエトセトラ]

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 大正期から昭和初期にかけ、目白文化村Click!洗足田園都市Click!に象徴されるような、郊外のモダンな住宅街が形成されるにつれ、西洋館の壁面を飾る洋画が大流行した。でも、自宅の壁面に油絵を飾れるのは「中流」以上の家庭であり、多くの庶民にとっては油彩画は手のとどかない高嶺の花であり、また庶民の借家には大きめな油絵を飾れる書斎や応接室などの壁もなかった。
 そこで、新しい美術運動として登場したのが、「創作版画の大衆化」運動だ。そのきっかけをつくったのは、こちらでも『落合風景』(1917年)をご紹介している、「洋風版画会」を起ち上げた織田一麿Click!だ。洋風版画会は1929年(昭和4)に旗揚げしたが、1931年(昭和6)には同会と日本創作版画協会が合同し、さらにフリーの版画家たちを集めた「日本版画協会」が発足している。織田一麿は、1点ものの油絵は高価で一般庶民には買えないので、木版画やエッチング(銅版画)、リトグラフ(石版画)を主体とした相対的に安価な版画美術を、庶民の間へ浸透させようとしている。
 織田一麿は、江戸期に庶民のすみずみまで普及していた浮世絵を規範とし、創作版画の普及には次の6つの要素が重要だとして挙げている。1931年(昭和6)に発行された『みづゑ』1月号と2月号から引用してみよう。
 (1)大衆美術の版画は、自画自刻で、綺麗でなければならない
 (2)画題は日常各人の眼にふれる題材
 (3)描法は写実を旨とする事
 (4)価格は出来る限り安価
 (5)多量生産
 (6)異国趣味(エキゾチシズム)とエロチシズム

 織田一麿が「創作版画の大衆化」を呼びかけた背景として、当時の時代状況を考えないわけにはいかないだろう。世界大恐慌を境に、未曽有の不況を経験する中で貧富の差がますます拡大し、美術作品の売れいきは大きく減退していた。また、それまで美術家を支援していた多くのパトロンたちも、恐慌の波をまともにかぶって事業が危うくなり、美術界に目を向ける余裕がなくなりつつあった。
 換言すれば、織田一麿はそれまで美術家たちが消費先として主なターゲットにしていた、「中流」から上のクラスの購買力へ依存するのをやめ、より幅広く広大なマーケットと販路が見こめる「中流」以下の層も消費者として取りこもう……と提案していることになる。また、そうしなければ美術だけではとても生活できない、深刻な制作環境を迎えていたということもいえるだろうか。
 上掲の『みづゑ』に、織田一麿は「創作版画を大衆へ贈る」と題して、日本版画協会の結成にいたる趣旨を書いている。2012年(平成24)に世田谷文学館から出版された、「都市から郊外へ-1930年代の東京」展図録から現代仮名づかいの同文を引用してみよう。
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 これは(創作版画の大衆化は)甚だ突然かもしれませんが、別に今急に必要が起ったというのではないのです。ただ見渡すところ、現代には適当と思うような、大衆美術がないという有様ですから、必要を感じるというのです。いま大衆のもっているものはあまりに貧弱で、美術と称するに足りないものだからです。例えば、原色版の絵端書も活動俳優の絵端書、雑誌の口絵、新聞の付録、ペンキの懸額、というような、至って低級な、独立して美術と称呼なし得る体を備えていないもの、片々たる紙切の類しか、我大衆はもっていないものです。(中略)/如何に大衆でも、これでは余りに気の毒すぎます。衆人の中には、日常の生活に心身を過労して、美術鑑賞の余裕をもっていない人もありましょう。しかし、どんなに切迫した生活にでも、其家庭、其居室に一枚の額を懸けて、夕食後に眺める位の時間は、必ずあるにちがいないのです。これに対して、この寸隙を慰める為に、世間は何を彼等に与えているのでしょうか、現在では何も無いと答えなければなりません。/我々としては此際先ず創作版画の一枚を彼等に贈り、彼等の生活に僅かながら色彩を加えたいと希望するのも無理ではないのです。(カッコ内引用者註)
  
 現代であれば、美術家がこんな傲慢で「大衆」をバカにしたような文章を書いたら、いったい手前(てめえ)はどこの何様だと思ってんだい、どんだけ高いとっからモノをいってんだよう!…と、すぐさま反発を食らうにちがいない。
 「我々としては此際先ず創作版画の一枚を彼等に贈り」は、その「彼等」にしてみれば「阪妻Click!のブロマイドのどこがいけないってのさ。おとついおいでな!」の大きなお世話だしw、自らの販路が狭隘化して食うに困ってるのに、あたかも創作版画を安価にめぐんでやる新しい方法論や事業団体を考案中だから恩にきなさい……とでもいいたげな、さもしい根性を見透かされるような傲岸不遜の文章は、当時の「大衆」が目にしてさえも怒りをおぼえたのではなかろうか。
 ただし、織田一麿の弁護を少ししてあげるとすれば、当時、多くの美術家は「画壇」や「美術の殿堂」の中へ内的にかたく閉じこもり、一部のおカネ持ちだった美術愛好家だけしか相手にしない、高踏的で芸術至上主義的な状況が前提として存在していた。そのようなよどんだ美術界を版画という手法で打破し、より広範な人々へ美術作品をとどけようとした彼の姿勢は、その「思想」表現のしかたはともあれ、少なくとも評価されてしかるべきだろう。当時の生活に追われる一般庶民が、油絵を手に入れることなど夢のまた夢だったが、彼らの中にも美術ファンは数多く存在していたからだ。
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 つづけて、織田一麿の「創作版画を大衆へ贈る」から引用してみよう。
  
 何しろ、我々創作版画に聯るもので、大衆美術運動に共鳴する者は、速かに芸術の殿堂を飛び出して、市民の間へ混じて、大衆美術運動に躍進してもいゝ時季なのです。プロレタリア美術を叫ぶ者も、やはり版画大衆美術運動に参加していゝ性質だと思っています。創作版画改造の急務なのはいうまでもありません。大衆は待っています。我々はこの機をのがさず一気に前進して、徹底しなければなりません。研究に、実行に、甚だ多忙である筈だと思っています。日本創作版画協会創立満十年を過ぎました。版画が芸術というロマンチシズムから、一歩を踏み出す時は正に来たのです。
  
 プロレタリア美術の分野からは、すぐにも「大衆をなめんじゃないよ」という声が聞こえてきそうだけれど、織田一麿はそれほど創作版画の将来に危機感をおぼえていたらしい。おカネ持ちからは、1点ものではない版画の蒐集は敬遠され、一般庶民からはかなり高価で買ってもらえず、展覧会でも油絵の展示に押されて隅へ隅へと追いやられていた当時の状況が垣間見える。日本版画協会が発足した1931年(昭和6)、大恐慌から満州事変が起きる流れの中で、織田には創作版画消滅の危機と映っていたのだろう。
 だが、庶民が創作版画を身近に親しむ余地もなく、世の中の流れは戦争へと急速に傾斜していく。もはや、版画を楽しむ心のゆとりも経済的な余裕もなく、軍国主義のカーキ色一色に染められる時代が、すぐそこまで迫っていた。
  
 油絵のお情けで、(展覧会の)壁面を僅に占めているのも、あんまりほめたものでもありません。それよりも、版画は版画としての身分に合ったように、職人仕事の昔にかえった方が、生半可な芸術扱いよりも版画の生命が延びます。/一九三一年、今年あたりが好転期(ママ:転機)だと思っています。(カッコ内引用者註)
  
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 織田一麿が想像していたような、一般の庶民が手軽に創作版画を楽しめるようになったのは、戦後もずいぶんたってからのことだ。特に住環境の急激な変化の中で、現代的な住宅やマンションの壁面には、表現が重たすぎて存在感や主張が強すぎる油彩画は似合わず、リトグラフやエッチングなどライトな感覚の版画が好んで取り入れられた。1970年代末から80年代にかけ、バブル景気を背景に全国各地で建設ラッシュがつづき、空前の版画ブームを迎えることになる。

◆写真上:1930年(昭和5)制作の「新宿」シリーズで、織田一麿『新宿すていしよん』。
◆写真中上は、1922年(大正11)に制作された織田一麿『東京生活・歌劇』。は、1928年(昭和3)に制作された同『浅草の夜』。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に制作された織田一麿『銀座の夜』。は、昭和初期に制作された同『ニコライ堂』。
◆写真下は、1930年(昭和5)に制作された織田一麿『明治神宮参道』。は、1930年(昭和5)の「新宿」シリーズの1枚で同『新宿(第一図)』。


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