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1930年協会展で急増する「落合風景」作品。 [気になる下落合]

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 1926年(大正15)から1930年(昭和5)まで、5回にわたって毎年開催された1930年協会展Click!には、落合地域とその周辺域の風景画がたくさん出品されている。1926年(大正15)5月15日~24日に開かれた第1回展(室内社)は、5人の画家たちClick!による滞欧作の風景画がほとんどだが、日本の風景作品としては、小島善太郎Click!の連作『四ツ谷見附』(冬)(夏)(曇)Click!や『相模川』などが目立っている。いまだ、東京郊外の風景に、画家たちがそれほど画因をおぼえなかったころだ。
 だが、1927年(昭和2)6月17日~30日に開かれた第2回展(上野公園内日本美術協会)では、佐伯祐三Click!を筆頭に数多くの東京郊外風景が出品されている。このとき、佐伯祐三が出品した作品の画面は判明しており、真冬の八島さんの前通りClick!を描いた『風景』Click!、妙正寺川の橋ごしに川沿いの小さな住宅群を描いた『風景』Click!八島邸Click!の赤い屋根と門を描いた『落合村風景』=『門』Click!、前年の晩夏には完成に近い画面を確認(二科受賞の記者会見Click!)できる、曾宮一念アトリエClick!の前につづくコンクリート塀を描いた『落合村風景』=『セメントの坪(ヘイ)』Click!、そして八島さんの前通りを北から描いた『落合村風景』Click!の計5点だ。
 ちなみに、佐伯祐三は作品に「落合村」とタイトルしているが、これは彼が渡仏前まで馴染んでいた呼称で、1924年(大正13)の町制施行により3年前から落合町になっていた。また、佐伯の出品作リストには『落合村風景』に「A」と「B」の区別があるが、それがどの画面のことを指しているのかはいまだ規定できていない。
 さて、同じ第2回展には、笠原吉太郎Click!の『青い屋根』と『大学構内』、『練馬風景』、『上州風景』が出品されている。この中で、『青い屋根』が落合風景の可能性がありそうだ。笠原が、いまだ『下落合風景』の連作Click!にかかる前のようで、このあと佐伯祐三と同様に下落合に拡がるあちこちの風景を描いていくことになる。ちなみに、『大学構内』は早稲田大学か立教大学のキャンパスだろうか。
 同展には、伊倉晋が『下落合風景』と『千駄谷風景』、『横浜近郊風景』の3点を出品している。この『下落合風景』がどのような画面だったかは、まったくわからない。伊藤晋は、1930年協会の会員である佐伯の影響を受け、下落合を訪れては描いていたのかもしれない。また、井上長三郎は『初夏板橋風景』を出品している。そろそろ東京近郊の風景を描くブームが、画家たちの間で起きはじめていたのがうかがえる。
 1928年(昭和3)2月11日~26日に開かれた第3回展(上野公園内日本美術協会)では、東京近郊の風景作品が急増している。特に落合地域の作品が多く、丸太喜八の『落合風景』や藤田嘉一郎の『下落合風景』、宮崎節の『文化村風景』、佐久間周宇の『落合風景』と『落合の工場』、田中修の『山の手風景』などが挙げられる。いずれも実際の画面は不明だが、宮崎節の『文化村風景』は目白文化村Click!のいずれかの場所を、佐久間周宇の『落合の工場』は目白崖線の麓、旧・神田上水か妙正寺川の沿岸で操業していた、いずれかの工場を描いていると想定できる。
井上長三郎「風景(下板橋)」1926-27.jpg
伊藤研之「黄色い建物」1929.jpg
小野幸吉「駅頭」1929.jpg
 藤田嘉一郎は『水辺風景』や『神田風景』、『高円寺裏』を同時に出品しているが、『水辺風景』は落合地域のいずれかの川沿いの風景かもしれない。また、戸田秀男は『庭』と『学習院寄宿舎の一部』、『道(冬)』を出品しているが、これらも落合風景の可能性が高い。特に『学習院寄宿舎の一部』は、同年に竣工間近な近衛町Click!学習院昭和寮Click!の一部を描いたのではなかろうか。さらに、鷲山宇一は『街景』と『角の食料品店』を出品したが、佐伯の風景画をコピーしていると展覧会評で批判されているので、これらも目白通り沿いの下落合風景を描いたものかもしれない。
 このように、第3回展では明らかに佐伯の連作『下落合風景』Click!を意識した、あるいは追随した画面が急増しており、画家たちの間には「落合の風景を描けば入選できる」というような、妙なブームないしはジンクスがあったのかもしれない。同展には、南風原朝光が『長崎町風景』を、竹原千男が『曇日の池袋』を出品するなど、郊外に目を向ける画家たちが増えているのがわかる。
 1929年(昭和4)1月15日~30日に開催された第4回展(東京府美術館)では、佐伯祐三の死去とともに作品が特別展示されている。ただし、第2次渡仏作ばかりで下落合の風景は見えない。同展では、前年に多かった落合の風景画は出品されておらず、東京近郊の風景作品が多かった。
 たとえば、井上長三郎は『樹立』と『金井窪風景』を出品しているが、おそらく双方とも板橋風景だろう。竹原千男は『長崎村』と『佃島風景』を、黒田祐治は『立教大学附近』を、南風原朝光は『哲学堂附近』を出品しており、落合地域に接した北側や西側の風景画が目立っている。竹原千男は長崎に住んでいたのか、1926年(大正15)に町制へ移行した長崎町を、佐伯の「落合村」と同様に従来から呼びなれた「長崎村」とタイトルしているのかもしれない。
林武「下落合風景(仮)」.jpg
靉光「屋根の見える風景」1929.jpg
中村節也「石置場風景」1929.jpg
 最後の1930年協会展となった、1930年(昭和5)1月17日~31日開催の第5回展(東京府美術館)には、林武Click!が『文化村風景』と『落合風景』を出品している。この『文化村風景』が、1926年(大正15)に制作された『文化村風景』Click!と同一の画面かはハッキリしないが、同展には林武の作品を41点も展示しているので、おそらく過去に描いた作品も展示されていると思われる。また、『落合風景』の画面もわからないが、妙正寺川沿いの下落合に建つ東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔を、上落合側から描いた『下落合風景(仮)』Click!と同じ画面の可能性がある。
 同展には、樋口加六の『落合風景』と外山五郎が描く『落合風景』も出品されているが、いずれもどのような画面だったかが不明だ。また、渡辺幸恵の『高田の馬場風景』や南風原朝光の『中野風景』と、落合の周辺風景も相変わらず画家たちのモチーフに選ばれている。ちなみに、南風原朝光は2年連続で中野地域の風景を画因にしているので、この時期は中野町ないしは野方町あたりに住んでいたのだろう。また、渡辺幸恵の『高田の馬場風景』は、幕府の練兵場だった高田馬場(たかたのばば)跡が残る早稲田通り沿いの住宅街を描いたものか、山手線の高田馬場(たかだのばば)駅Click!周辺の風景をモチーフにしたものかは不明だ。
 さて、1930年協会展に出品された、佐伯祐三をはじめとする画家たちの「下落合風景」あるいは「落合風景」は、ほんの一部の作品にすぎない。つまり、同展に入選した作品のタイトルのみが、今日まで伝わっているということだ。たとえば、下落合679番地にアトリエをかまえていた上掲の笠原吉太郎Click!は、このあと佐伯に劣らず数多くの連作「下落合風景」Click!を描いていくし、1930年協会とは接点のない画家たち、たとえば下落合623番地にアトリエを建てて住んだ曾宮一念Click!をはじめ、下落合584番地の二瓶等Click!や、下落合1385番地に住んでいた帝展の松下春雄Click!もまた、数多くの「下落合風景」作品Click!を残している。さらに、フランスから帰国した昭和初期の清水多嘉示Click!は、渡仏前に引きつづき「下落合風景」の連作Click!を残していると思われる。
小島善太郎「戸山ヶ原」1927.jpg
前田寛治「メーデー」1924.jpg
福沢一郎「風景(人間嫌い)」1928.jpg 「昭和洋画の先達たち」1994青梅市立美術館.jpg
 早くから落合地域の風景を描いていた画家たち、たとえば中村彝Click!曾宮一念Click!小島善太郎Click!鬼頭鍋三郎Click!里見勝蔵Click!清水多嘉示Click!など一部の作品を例外とすれば、やはり「落合風景」ブームに火を点けたのは1930年協会展であり、中でも佐伯祐三の影響がとりわけ大きいのだろう。

◆写真上:東京府美術館の前で、1930年(昭和5)1月に撮影された1930年協会第5回展の記念写真。メンバーはさま変わりしており前列右から中山巍、鈴木千久馬、伊原卯三郎、後列右から川口軌外、宮坂勝、林武、中野和高、小島善太郎。すでに佐伯祐三は2年前に死去し、里見勝蔵は前年に退会、前田寛治は病床で回復不能の重体だった。また、木下孝則と木下義謙、野口彌太郎は渡欧中で不在だ。
◆写真中上は、1926~27年(大正15~昭和2)ごろに制作された井上長三郎『風景(下板橋)』。井上は昭和初期に、板橋風景の連作を出品している。は、1929年(昭和4)制作の伊藤研之『黄色い建物』。は、1929年(昭和4)に描かれた小野幸吉『駅頭』。
◆写真中下は、第5回展の『落合風景』かもしれない林武『下落合風景(仮)』。は、1929年(昭和4)制作の靉光『屋根の見える風景』。は、1929年(昭和4)制作の中村節也『石置場風景』。郊外には、宅地造成用の石置き場が随所に見られただろう。
◆写真下は、1927年(昭和2)に描かれた小島善太郎『戸山ヶ原』。は、1924年(大正13)の渡仏中に描かれた前田寛治『メーデー』。下左は、1928年(昭和3)の渡仏中に描かれた福沢一郎『風景(人間嫌い)』。下右は、1994年(平成6)に青梅市立美術館で開催された「昭和洋画の先達たち―1930年協会回顧―」展図録。同図録には、5回にわたる1930年協会展で展示された作品の詳細が参照できる。

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相馬邸が下落合から中野へ移転した理由。 [気になる下落合]

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 下落合の相馬邸が、1939~1940年(昭和14~15)にかけ中野区広町20番地へ転居Click!した際、なぜ移転先に旧・中野町が選ばれているのか?……という疑問を、前回の記事の最後に課題として残しておいた。赤坂から下落合への転居に関しては、多彩な巫術的なテーマClick!から、あるいは下落合の神田明神分社Click!や葛ヶ谷(現・西落合)妙見山Click!の存在といった側面から考察してきたが、次の転居先である旧・中野町(古くは中野郷)については、いったい何が見えてくるだろうか。
 さっそく、旧・中野町(現・中野区の南部一帯)の伝承やフォークロア、江戸期の資料などを当たってみると、いろいろ面白い故事や伝承が見つかった。まず、中野地域の「七天神八第六」伝承から検討してみよう。ここでいう「七天神(ひちてんじん)」Click!とは、平安期以降に京で奉られた菅公Click!のことではなく、日本神話における第一天神のクニノトコタチから第七天神のイザナミとイザナギの、七天神を指していると思われる。その中で第六天神Click!に相当するのが、海陸の生き物や自然を形成するカシコネとオモダルの夫婦(めおと)神だ。
 明治政府は、皇国史観Click!と日本の社(やしろ)では比較的新しい伊勢社=伊勢神道を「国家神道」化するために、アマテラスの祖神(おやがみ)である第七天神のイザナミとイザナギのみを創造神として残し、第一天神から第六天神までの社を抹殺しようと試みている。「日本の神殺し」Click!といわれる、日本神話のご都合主義的な歪曲と改変が、明治の薩長政府によって推進された。古くは縄文期の七星信仰に由来するとみられる、日本古来の第一から第六天神までを含めた多種多様な神々の社が、おもに近畿圏を中心にして全国から抹殺されようとした。
 ここで留意したいのは、中野地域の古くからの伝承である「七天神八第六」の「七天神」が、江戸期あるいはそれ以前からつづく北斗七星信仰(のち妙見信仰へ習合)と結びついた、古来からの日本神話にもとづく天神7社であった可能性が高いということだ。また、カシコネとオモダルを奉った第六天社が、中野地域(現・中野区南部)だけで8社もあったということは、なおさら本来の日本神話で語られていた神々の痕跡が、色濃く残存していた経緯あるいは事実を裏づけている。「七天神八第六」の伝承を、1933年(昭和8)に出版された『中野町誌』(中野町教育会)から引用してみよう。
  
 昔より七天神八第六と唱へて、中野に天神七社第六天八社ありと云伝ふ。此の内第六天社には皆椿の木を植えて、椿明神と唱へたる口碑あるも、由来を詳かにせず。古老曰く、谷戸城山傍に藤の木ありし天神、打越天神、西町の天神。圍の神田男旧邸内、嵯峨の里関口氏の南高台、旧農事試験場内、中野氷川神社横、上ノ原浅田氏畑内及び原に在る第六天等にて、他は知らずと云へり。
  
 第六天8社の所在は、かろうじて昭和初期まで伝えられているが、天神7社の位置はまったく不明になっている。七天神の象徴である北斗七星は、もちろん北斗妙見信仰に篤い将門相馬家Click!に直結するフォルムであり、相馬家のシンボルそのものだ。
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中野相馬邸3.JPG
釜寺東遺跡段丘斜面.JPG
 もうひとつ、中野地域の古来からの伝説に、江戸期まで伝わっていた「中野の七塚」がある。江戸前期から中期にかけての地誌、『江戸砂子』から引用しよう。
  
 此辺に塚七つあり何の塚なるやしれず、かくいひ来るは古き事なりといふ、二三所はその所もしれたり云々……(以下略)
  
 すでに江戸時代になると、塚の所在地が不明になりつつあった様子がうかがえる。この「七塚」が先の天神と照応するのかも、江戸期の文献ではすでに規定できていない。また、江戸後期に編纂された『江戸名所図会』では、さらに伝承が錯綜し混沌としており、さまざまな周辺で語り継がれた物語と習合してしまっているのがわかる。つづいて、『江戸名所図会』から引用しよう。
  
 里諺に中野長者正蓮仏々供養の為め高田より大窪辺の間に、百八員の塚を築くと云ひ伝ふ、こゝに七塔といへるも其の類のものならんか、又中野の通りの右側叢林の中に三層の塔あり、七塔の一ならんか、伝へいふ、中野長者鈴木九郎正蓮が建つるところにして、昔は成願寺の境にありしを、後世いまの地へ移すといへり、
  
 「中野の七塚」の伝承が、いつの間にか戸塚や高田、落合、大久保の旧・神田上水沿いに伝わる、室町期の下戸塚(現・早稲田エリア)は宝泉寺の僧侶・昌蓮の「百八塚」Click!伝説と結びつき、さらに「中野長者」Click!伝説とも混同・習合してしまっている様子がうかがえる。
 江戸前中期の『江戸砂子』では、なんら「百八塚」や「中野長者」の伝説に連結しない記述なので、ここは素直に7つの塚(古墳)が並んで展開している土地が、古くから事実として中野地域内にあったと解釈したい。そこで想起したいのは、相馬家の故地である千葉(チパ:原日本語で「頭」=大半島)の「七星塚」の存在だ。なんらかの塚状古墳が、どのような形状をしていたか(七星を思わせるフォルムだったろうか?)はもはや不明だが、7基にわたって展開していた時代があったということだろう。ひょっとすると、縄文遺跡に関連するなんらかのメルクマールだったのかもしれないが、この伝説も相馬家が中野地域へと移転する、ひとつの理由として挙げられそうだ。
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相馬恵胤・雪香夫妻1941.jpg
 さらに、忘れてはならない歴史的な大事件が中野地域で起きている。もちろん、平将門Click!を中心とする坂東武者たちが一斉蜂起した、「天慶の乱」の古戦場のひとつが「中野ノ原」だったということだ。しかも、室町期の1300年代半ば(延文年間)には、古戦場に平将門一族の霊気がとどまっていたという伝承があり、一遍上人から3代目の僧侶・真教が中野地域へ立ち寄り、将門の霊を供養する行事を行っている。上掲の『中野町誌』から、再び引用してみよう。
  
 中野郷の内其地いづかたなるか知らず、天慶三年二月十四日平将門は、下総石井の里に於て平貞盛の矢に当りて藤原秀郷之を討つ、其頃将門の弟御厨三郎将頼、武州多摩郡の中野の原に出陣し、秀郷の男千晴と戦ひ、将頼利なくして同年七月七日、川越[中野ともいふ]に於て討死す。中野の古戦場に霊気とゞまり人民を煩す事件あり。延文の頃一遍上人三代真教坊、当所遊行のとき村民この事を歎く、その党の長なれば将門の霊を相殿に祀りて、神田大明神二座とす云々。
  
 とても興味深いのは、ここでも下落合と同様に神田明神の分社化が行われている点だ。この分社の事実は、『江府名跡志』や『武蔵名勝図会』などにも記載されており、1300年代中期(南北朝時代)に実施されていることから、ひょっとすると江戸期の文献に記載されている下落合の神田明神分社よりも古い社(やしろ)かもしれない。
 以上のように、古代からつづく北斗七星信仰(のち妙見信仰)を強く想起させる「七天神」社の存在、将門相馬家の故地である千葉の七星塚を想起させる「中野七塚」伝承、そして平将門・将頼兄弟ゆかりの古戦場と神田明神分社が存在していた中野地域……と、これだけの強い関連性や濃いつながりが確認できれば、相馬家が下落合の次に中野(旧・中野郷エリア)を選んで転居している動機づけとしては十分だろうか。
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 余談だけれど、前回の広町相馬邸の記事中で、神田川流域では最大クラスとなる古墳時代後期の集落遺跡「釜寺東遺跡」をご紹介しているが、同河川流域では最大級のタタラ遺跡が、中野地域で確認されている。広町相馬邸から、東へ1kmほどのところにある本郷氷川明神社と藤神稲荷社(下落合の氷川明神社と藤稲荷社に近似している点にも留意したい)に挟まれた沿岸一帯が、大規模なカンナ(神奈)流しClick!が行われたエリアだ。同遺跡からは、昭和初期の発掘調査で鉄糞(かなぐそ)はもちろん、古墳の副葬品とみられる鉄剣や鏡、鈴などが出土しているのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:広町相馬邸の崖下を流れる神田川で、向かいは東京メトロ中野検車区。
◆写真中上は、広町相馬邸跡の南側に拡がる草原。は、同相馬邸の北側に架かる駒ヶ坂橋から眺めた善福寺川の上流。は、釜寺東遺跡が発見された神田川の段丘。
◆写真中下は、御留山に残る下落合相馬邸の七星礎石。は、1915年(大正4)の竣工直後に撮影された下落合の相馬邸表屋敷で、1915年(大正4)制作の『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。は、中野の広町相馬邸で1941年(昭和16)に撮影されたとみられる相馬恵胤・雪香夫妻。(提供:相馬彰様)
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大規模なタタラ遺跡の周辺。は、『中野町誌』より1933年(昭和8)に旧・神田上水に架かる花見橋あたりから上流に向いて撮影されたタタラ遺跡一帯(右手)。は、現在の神田川に架かる花見橋から見た同所。

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佐伯祐三は守山珈琲牛乳を飲んだか。 [気になる下落合]

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 1927年(昭和2)の夏、佐伯祐三Click!は家族を連れて神奈川県中郡大磯町山王町418番地の借家Click!へ避暑に出かけている。直接の目的は、百日咳が治ったばかりの彌智子を、潮風が吹く気温が低めな海辺でゆっくり静養させるためだった。当時、結核や百日咳など肺の病気には、海岸地帯で療養するのが効果的だと信じられてい時代だ。
 佐伯一家が、なぜ避暑地に大磯Click!を選んだかは、佐伯自身が大阪との往来には東海道線沿いの地域が便利だったのと、おそらく米子夫人Click!が千代田城の御殿医だった松本良順(のち松本順Click!)が拓き、明治初期からの江戸東京市民にはお馴染みの、避暑・避寒地で別荘地Click!だった大磯にこだわったせいだろう。(城)下町Click!の尾張町(銀座)地付きの米子夫人にしてみれば、新興でにわか造りの避暑地・軽井沢よりは、昔ながらの伝統的な避暑・避寒地の大磯に、より魅力を感じたからにちがいない。
 このとき、佐伯一家は東海道線の駅に設置されたミルクスタンドで、「守山珈琲牛乳」Click!を飲んだだろうか? 新しもの好きな佐伯のことだから、どこかの駅で飲んでいるような気がするのだ。この時期、日本で初めてコーヒー牛乳を開発した東京府中野町(のち神奈川県大船)の日本均質牛乳は、関東大震災Click!の痛手から立ち直れず、省線での駅売りをはじめ市場のシェアを次々と守山商会に奪われている最中だった。日本均質牛乳が守山商会に合併・吸収されるのは、わずか3年後の1930年(昭和5)のことだ。以来、首都圏の駅売り牛乳は、守山商会が大きなシェアを占めることになった。
 大正末になり、駅売りを中心とした守山珈琲牛乳の人気が高まるとともに、乳製品が腐敗しやすい夏季の販売が問題化している。いまだ日本均質牛乳と守山商会が、駅売りのコーヒー牛乳でしのぎを削っていたころ、ホウ酸が混入された製品が発見され、警視庁衛生部に摘発されたようだ。ホウ酸混入のコーヒー牛乳は、警視庁の検査で両社ともに確認されている。事件の様子を、1925年(大正14)6月12日(土)の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 危険な牛乳を省線各駅で売る/板橋駅でも発見し発売元厳罰に処せられん
 警視庁衛生部では気候の変り目には兎角腐敗した牛乳を販売する向があるので十九日管内一斉に資量の検査を行つた結果、鉄道省各駅で売つてゐるコーヒー牛乳に多量のほう酸が混入されてゐるのを発見したのでその発売元である東海道平塚駅前守山商会主守山賢(ママ:守山謙の誤り)を警視庁に呼寄せ詰問したところ防腐剤として多量のほう酸を混入してゐた(こ)と申立てた/守山氏はほう酸は無害であるといふてゐるが警視庁衛生部ではほう酸は人体に有害で殊に胃腸を害することは確かであるところから即時鉄道省に通達して東京其他近県各駅で販売してゐた同コーヒー牛乳は全部捨てさせ尚府下板橋駅で販売してゐたコーヒー牛乳の中にも同様ほう酸が混入してあつた、これは東海道線大船駅前日本均質牛乳会社製造にかかるもので同線及び同町内へ売つてあつた四十箱をことごとく捨てさせ両者とも厳重な処罰をされるさうである(カッコ内引用者註)
  
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守山商会二十年史1938.jpg 守山謙.jpg
 ただし、この記事は前月19日の調査結果が発表された「ホウ酸混入事件」の第一報であり、記事中では専務の守山謙が「ほう酸は無害である」といったことになっているが、事情はそれほど単純でわかりやすい経緯ではなかったようだ。なぜなら、駅売りで人気のある日本均質牛乳と守山商会のコーヒー牛乳には、壜の意匠までそっくりそのまま模倣したニセモノが、数多く出まわっていたからだ。
 それらニセモノのまがい品の中には、腐敗するまでの時間かせぎにホウ酸が混入されていた可能性が高そうなのだ。守山のコメントは、「ホウ酸は無害なのか?」という記者の一般的な質問に対し、「少量なら無害だろう」と答えたものが、そのまま混入事件にからむ文脈上で報じられているのかもしれない。事実、守山商会も日本均質牛乳も、夏季に製品へホウ酸を添加している製造過程は存在しなかったようで、警視庁衛生部に呼ばれたのは製品管理の徹底化、あるいは安全管理の念押し確認、そして悪質なニセモノ製品を駆逐するための施策の企画・実施要請だったように思われる。
 ホウ酸混入事件の1週間後、守山商会はさっそく製造過程におけるホウ酸添加の否定と、夏季でも腐敗しにくい科学的な製造法を解説した詳細な広告を、同じ東京朝日新聞に出稿している。また、「御注意」としてホウ酸混入事件への関与否定と、自社製品の類似品や模造品に注意するよう消費者へ呼びかけている。1925年(大正14)6月18日(木)に同紙へ掲載された、守山商会の記事広告から引用してみよう。
  
 御注意
 一、最近「硼酸」を混ずる危険飲料との中傷説を宣伝して得々たるものがあります、勿論自己のためにせんとする奸策ではありますが、牛乳に等量の防腐剤を入れても、保存の不可能なることは、御実験なされても直ぐ判ります。
 一、内務省東京衛生試験所の、定量分析表及び何等防腐剤を含まずして、永久的耐久力ある御説明書は、弊社モリヤマタイムス紙上に公表してあります。他品と御比較御愛用願ひたい為特にお求めの際は、ハート印に御注意下さい。
  
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 同記事には、守山均質牛乳および守山コーヒー牛乳が腐りにくいのは防腐剤をいれているから、あるいは脂肪分を取り除いてしまったからだ……という世間のウワサを取り上げ、科学に無知な「暗中模索」の妄言だと批判している。
 搾りたての新鮮な牛乳を、ビタミン類が破壊されないよう低温度殺菌で消毒し、クーラー装置を通して「獣臭」を除去したあとオゾンを吸収させ、脂質組織を均等に混和するための装置「ホモゲナイザー」にかける。こうして製造するのが守山均質牛乳で、それに「モツカ」などを主成分とする純度の高いコーヒー銘柄のエキスに、しょ糖を添加したものが守山コーヒー牛乳だと解説している。
 また、わたしの世代には奇異に感じるのだが、いわゆる広口の牛乳壜に紙のフタではなく、まるでコーラかビールのように王冠コルクで“菊型長壜”の細口を密閉するという、通常の牛乳ではありえないパッケージ法が用いられていた。このような「理学的操作のみ」により、衛生的で腐敗しにくい壜詰め牛乳ができるのであり、「薬品等の化学的幇助は、絶対に必要を認めません」とまでいいきっている。
 守山商会の対応がすばやかったせいか、ホウ酸混入事件の影響による売り上げの低減はそれほど長くはつづかなかったようで、昭和に入ると駅のミルクスタンドは大流行することになる。その激しいシェア争いの過程で、守山商会は日本均質牛乳を圧倒し、ついに1930年(昭和5)に東京・中野生まれの同社を合併・吸収することに成功している。
 おそらく、ホウ酸混入事件を念頭に置いて書いているのだろう、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(非売品)には、「永い期間にはその盛名を妬んで、壜型レーベル迄模倣したものを造り、宣伝費だけを安くして各駅へ売り歩くものもあつたが、結局旅客の口は賢明であつた。そうした品は日一日と売れ無くなつて、二、三年で雲散霧消する事もあつた」と、自信たっぷりに回顧している。
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 守山商会はその後、牛乳だけではなく多種多様な乳製品を開発・販売していくのだけれど、平塚には海軍の火薬廠や横須賀海軍工廠分工場、海軍飛行機工場などが集中しており、また日本本土進攻のコロネット作戦の主要上陸地点として想定されたため、1945年(昭和20)7月16日夜の花水川河口への照明弾投下からはじまる平塚大空襲で、守山平塚工場は壊滅した。その様子は、1957年(昭和32)に出版された『守山乳業株式会社四十年史』(非売品)に詳しいのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戦後すぐのころに製造された、王冠コルクをかぶせる“菊型長壜”の細口。
◆写真中上は、富士山や大磯丘陵を背景に馬入川(相模川)河口の守山牧場にいた乳牛ホルスタイン。は、1938年(昭和13)ごろに撮影された平塚海岸からの眺め。右手の高麗山から千畳敷山(湘南平)Click!の向こうには富士山が大きく見え、わたしはこの風景を見ながら子ども時代をすごした。下左は、1938年(昭和13)出版の『守山商会二十年史』。下右は、当時の専務取締役・守山謙。
◆写真中下は、1925年(大正14)6月12日発行の東京朝日新聞より。は、守山商会が昭和初期に採用していた同社製品のイメージガール。は、コンビニで販売されている現行品「アフタヌーンティーチャイ」だが、わたしにはやはり甘すぎる。
◆写真下は、1925年(大正14)6月18日に東京朝日新聞に掲載された守山商会の記事広告。は、昭和初期の「富士ミルク」のポスター。は、均質牛乳にグリコーゲンを加えた「守山グリコ牛乳」()と、輸出用に開発された「ビタマウスミルク」()。

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駅売りコーヒー牛乳が流行った守山商会。 [気になるエトセトラ]

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 先日、知人から守山乳業(株)が販売していた「守山牛乳」の空き壜を2本と、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(守山商会/非売品)をいただいた。知人は、わたしが神奈川県央の海辺育ちClick!なのを知っているので、「これ、懐かしいでしょ」とプレゼントしてくれたのだ。
 2本の壜は、戦後すぐのころの仕様で、双方とも「守山文化牛乳」と書かれていて、気泡がたくさん入ったガラスの質が劣悪なところをみると、おそらく1940年代後半から50年代前半ぐらいの容器ではないかとみられる。色のついていない壜が、通常の牛乳を入れて販売され、まるでコーラの壜のように遮光の色がついているほうは、同社自慢のコーヒー牛乳を封入して売られていたものではなかろうか。守山牛乳は、鉄道駅のミルクスタンドでの販売が主流であり、一般の牛乳でよく見かける紙のキャップにビニールをかぶせた仕様ではなく、金属の王冠をかぶせ封入して売られていた。
 しかし、わたしは物心つくころから15歳まで、明治牛乳あるいは名糖牛乳しか飲んでこなかったので、地元でありながら守山牛乳の存在を知らなかった。湘南地方の平塚には、あちこちに牧場があることは知っていたし、それらの牧場が協同で主催する品評会が、海岸べりに多かった砂地の広い空き地で開かれていたのも記憶に残っている。でも、守山牛乳を飲んだ記憶はかつて一度もない。
 守山商会(のち守山乳業)の本社は、平塚駅北側の国道1号線に面した宮の前にあり、なんとなく街の風情や環境がちがう駅の南側エリアとは、東海道線に隔てられていて馴染みのないせいもあるのだろう。駅の南北では、小中学校の学区も異なっていた。
 また、駅売りの駅弁はあちこちで買って食べた記憶があるけれど、いっしょに買うのはたいがいお茶で、牛乳を飲んだことはなかったように思う。もし、親が東海道線のいずれかの駅で、牛乳かコーヒー牛乳を買って飲ませてくれていたら、おそらくそれが戦前から大流行していた守山乳業の製品だったのだろう。
 守山商会は、1918年(大正7)に神奈川の大山Click!(おおやま=阿夫利山)山麓、平安期の鉈彫りによる薬師三尊や十二神将で有名な日向薬師の近く、中郡高部屋村日向で創業している。のちに日向川の下流、七沢温泉の近くに事業所を移しているが、足が早い乳製品の物流には不便だったため、平塚駅北側へと移転してきた。1928年(昭和3)1月に、資本金40万円で株式組織に変更し、正式に(株)守山商会を名のるようになった。
 守山乳業というと、現在では日本初の「珈琲牛乳」を、東海道線の国府津駅で販売したことになっており、同社のWebサイトやWikipediaにもそのように記載されている。だが、日本で最初にコーヒー牛乳を販売したのは、東京府豊多摩郡の中野町に本社があった日本均質牛乳であり、1916年(大正5)出版の『豊多摩郡誌』によれば、「町内搾乳場十ヶ所、畜牛二百九十二頭(牝二三四、牡五八)あり、大正四年度の仔牛十四頭価額金二百六十円を挙ぐ」とあるように、中野は首都圏における酪農の先進地帯のひとつだった。日本均質牛乳は、鉄道省の指定品として認可を受け、すでに「クラブ印コーヒー牛乳」や「均質牛乳」を、東京内の省線や東海道線の主要駅で販売していた。
 『守山商会二十年史』(1938年)から、すでに最大のライバルとなっていた日本均質牛乳との、し烈な販売競争の様子を引用してみよう。
  
 その当時東京市外中野に日本均質牛乳株式会社なる先輩あり、クラブ印コーヒー牛乳、均質牛乳を造り東海道の主要大駅のみで販売し一大敵国の感をなしなかなかその堅塁は抜くことが出来なかつた。処が色々の事情があつて国府津駅の東華軒主飯沼相三郎氏、赤羽駅の都家故宮森六之助翁、組合長清水籐左衛門氏等の推奨、熱烈なる御後援があつて販路は俄然好転して来た。月末になると国府津駅迄飛んで行つて、その月中の品代金を貰つて帰り職工達の給料に充当したものであつた。
  
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 日本で初めてコーヒー牛乳を開発・製造したのは、中野町の日本均質牛乳であり守山商会でないのは明白だろう。また、東海道線の主要駅でコーヒー牛乳を販売していたのも、日本均質牛乳のほうが先であり、堤康次郎Click!が開発していた別荘地のある東海道線の国府津駅へ、初めてコーヒー牛乳を納入・販売したことのみが、守山商会の「初めて物語」だったことも明らかだ。
 では、どうして現在では「日本初」が守山乳業になってしまったのかというと、日本均質牛乳は関東大震災Click!で大きなダメージを受け、その直後から事業継続がうまくいかなくなってしまったのだ。そして、1930年(昭和5)になると大恐慌の影響もあって、守山商会へ合併・吸収されることになる。
 守山商会が日本均質牛乳を買収できるほど、なぜ急速に台頭しえたのかというと、関東大震災の際に製品を被災地の横浜や東京へ集中的に運び入れ、水や飲み物が不足している被災者に売って、莫大な利益を上げたからだ。このあたり、守山商会が理想として私淑していた三島海雲Click!カルピスClick!が、大震災が起きると同時にストックしていた全工場のカルピスと氷をかき集め、トラックで被災地へ配って歩いたのとは対照的な企業姿勢であり、「うーーん……」となってしまうところなのだが、あくまでも資本主義社会なので正当な商売なのだろう。
 守山商会が急成長をする経緯なので、その記述も詳細をきわめているが、関東大震災が発生した直後の様子を同社史から、少し長いが引用してみよう。
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 よし来たあの返品されたコーヒー牛乳を売りだせと兄弟は、一挙に何十箱も売つて了つた。幸に庭には壜が残つてゐた。よし造つて売れ、壜は拾つて来い、と許りに、四日目には工場から景気のよい煙が濛々として昇り始めた。仁徳天皇なら御嘉賞になる所であるが、近処の人は気が小さい。曰く『時節柄遠慮せい!』。毎日現金が捨てる程沢山集るが、焼け爛れた札や金の置き所に困つた。勿論銀行等明(ママ)きつこが無い。地下室へ金銀財宝を納れて、その上にどつかと坐り込んで、夢寐の裡にも伝家の宝刀を抱いてゐた。金持ち程辛いものは無いと思つた。(中略) その内、壜も、王冠も、珈琲も欠乏して来た。(守山)謙氏は東京へ行つて焼け出されの製造所の一家族を引率して来て、工場の一隅に製壜工場を急設した。(中略) 森氏の斡旋で砂糖や、珈琲豆を買ひ付けたが、陸路は絶対に送品が出来ない。海路を国府津に陸揚げして物資を関西に仰いだ。一ヶ年間虐められた日本均質会社は中野の工場が大破して、製造は当分見込みが付かないので、東海道線でも東北線方面でも、守山珈琲牛乳の配給を――この物資欠乏の秋にも奮闘してゐる――感謝の許に受入れて下すつた。(カッコ内引用者註)
  
 これって、人の弱み(罹災した日本均質牛乳)につけこんだ販路拡大であり、被災者の不幸や欠乏を見越したひどい商売じゃないか……などと憤ってはいけない。ムキ出しの資本主義社会は弱肉強食、たとえ天災とはいえ弱ったり、口に入るものが欠乏したり、不幸にみまわれたほうが「敗者」であり、どのような手段を用いても儲けたほうが「勝者」ということになるのだろう。わたしは、このような企業姿勢は好きじゃないので、被災者に無償で商品を配ってしまい周囲からバカにされた、カルピスの三島海雲のほうにより共感をおぼえるのだが……。
 さて、大震災肥り……いや失礼、千載一遇の天佑で事業拡大をなしとげた守山商会は、駅の売店を仕切る鉄道弘済会へ深く食いこみ、守山牛乳と守山コーヒー牛乳の販路を全国の省線各駅へと拡げていった。工場も大幅に拡張し、平塚町宮の前に本社機能を残したまま、馬入川(相模川)河口の左岸(茅ヶ崎町中島)へ、巨大な守山商会平塚工場&研究所を開設するまでになっている。
 そして、守山コーヒー牛乳や守山牛乳のほかに、新製品として国産無糖煉乳「富士ミルククリーム」、育児用煉乳「富士ミルク」、「アテナミルク」(輸出用)、「守山グリコ牛乳」、「守山アイスクリームの素」、「ビタマウスミルク」(輸出用)などを次々と開発していった。わたしが子ども時代をすごした、親しみのある懐かしい湘南の地場産業とはいえ、美辞麗句やウソは書けないので事実を記事にしてみたしだい。次回は、全国的に大ヒットした守山コーヒー牛乳にニセモノが現われ、警視庁衛生部を巻きこみ事件にまでなったエピソードをご紹介したい。
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 現在は、牛乳の市販をやめてしまったらしい守山乳業だが、スーパーなどではプラスチックカップに入った、「喫茶店の味ココア」や「はちみつレモネードティー」などを買うことができる。ためしに飲んでみたが、1960~70年代の砂糖をたっぷり入れた「非常に甘い=美味しい」時代の飲み物のような仕上がりで、わたしの口には合わなかった。

◆写真上:戦後間もないころの、守山乳業が製造していた「牛乳文化牛乳」壜。コーヒー牛乳(右)と通常の牛乳(左)で、封入には金属の王冠が用いられていた。
◆写真中上は、日向時代の守山商会で中央の人家あたりに工場があった。正面中央の山向こうには日向薬師があり、左手の高い山は江戸期の大山詣りで有名な大山(阿夫利山)。中上は、日向薬師へ向かう同所の現状。中下は、七沢時代の守山事業所兼工場で中央下の建物。は、冒頭の空き瓶の一部拡大。
◆写真中下は、帆船がもやう昭和初期の馬入川(相模川)河口。中上は、1938年(昭和13)撮影の茅ヶ崎町中島に建つ守山商会平塚工場&研究所。中下は、同年に撮影された守山酪農研究所。は、1946年(昭和21)に撮影された守山平塚工場。建物が残っているように見えるが、1945年(昭和20)7月16日夜の平塚大空襲で全焼している。
◆写真下は、農業と酪農を兼業する昭和初期にみられた大磯の典型農家。中上は、1923年(大正12)に撮影された関東大震災直後の馬入川(相模川)Click!の様子。国道1号線の馬入橋が崩落し、臨時に渡し舟が運行されていた。中下は、守山商会の空き壜に刻印された同社のトレードマーク。は、守山乳業の現行製品で「喫茶店の味ココア」(左)と「はちみつレモネードティー」(右)。

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清戸道の鶴亀松に登った景観は。 [気になる神田川]

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 かなり以前のことになるが、1857年(安政4)に発行された尾張屋清七版の切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」を見ていて、細川越中守の抱え屋敷Click!(現・目白運動場/肥後細川庭園界隈)の清戸道Click!(現・目白通り)門前に「鶴亀」の記載を見つけ、当時連載していた「ミステリーサークル」シリーズClick!で塚ではないかという記事Click!を書いた。
 すると、さっそくコメント欄で小江戸っ子さんより、松の大樹で「鶴松」と「亀松」と呼ばれていた名木だとお教えいただいた。その際、長崎大学図書館の古写真データベースに保存された、貴重な写真類もご教示いただいている。高田老松町のいわれにもなった鶴亀松の由来にはじまり、目白という地名に関する本来の故地らしい一帯にがぜん興味がわいて、その後、あちこちのフィールドワークや調べものを重ね金山稲荷Click!目白不動尊Click!の拙記事としてまとめてきた。その中で、もうひとつひっかかっていた資料類やテーマがある。
 天保年間に斎藤月岑が著し、長谷川雪旦の挿画で有名な『江戸名所図会/巻之四・天権之部』に目を通していたとき、古えには護国寺のある周辺一帯までが「西大塚」あるいは「富士見塚」と呼ばれた時期があり、執筆当時(天保期)の波切不動尊(本伝寺)が、その昔は塚の上に建立されていた……という伝承が収録されていることを知った。以下、市古夏生・鈴木健一の校訂による斎藤月琴『江戸名所図会』(筑摩書房)から引用してみよう。
  
 (前略)また南向亭(酒井忠昌、一八世紀中頃)云く、「安藤対馬侯[陸奥平藩主]の東の方、森川氏の構へのうちに一堆の塚あるといふ」とも。『紫の一本』[戸田茂睡、一六八三]に、「塚の上に不動堂あり」とあれば、いまの波切不動尊の地、大塚と称する旧跡にや。相云ふ、太田道灌(一四三二-八六)相図の狼煙を揚ぐる料に築きたる塚なり。ゆゑに、昔は太田塚と唱へけると。あるいはまた、鎌倉将軍守邦親王(一三〇四-三三)乱をさけて、武州比企郡大塚村に逝去す。その廟を王塚と称す。ここに大塚と号くるもこの類ならんといへども詳らかならず。(江戸の内に大塚の名多し。なほ考ふべし)。
  
 それによれば、後世に「塚」に関するさまざまな付会が創作されていることがわかるが、結局は不明として記述を終えている。著者が「大塚の名多し」としているとおり、落合地域とその隣接地域だけみても、すぐに3ヶ所の字名「大塚」を発見できる。江戸東京じゅうを見まわせば、「大塚」ないしは「〇〇大塚」と呼ばれる古くからの字名は、おそらく100ヶ所をゆうに超えるのではないだろうか。現在は平坦に整地された場所にある波切不動(本伝寺)が、『江戸名所図会』によれば江戸前期には塚の上に不動堂が建立されていたと伝えられており、小石川大塚とも呼ばれていたようだ。
 また、現在の行政区画ではなく、より古い時代の同所一帯はどこまでが「(西)大塚」と呼ばれていたのかに興味がわいてくる。いうまでもなく、目白から小石川にかけての地域は、旧石器時代から現代まで一貫して人が住みつづけてきた痕跡が見つかっており、明治以降の史観で植えつけられた無人に近い「武蔵野の原野」ではなかったことが、戦後の考古学的あるいは歴史学的な発掘調査の成果物によって裏付けられている。
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 そこで、同書の「なお考ふべし」を実践すると、上記にご紹介した拙記事のような風景が改めて見えてきた。それは、古代のタタラ(大鍛冶Click!)=製鉄との関連や、「目白」(砂鉄から精錬した鋼の古語)という地名考、そして金川=神奈川(弦巻川Click!カニ川Click!の古名)の由来などで書いたとおりだが、「金山」の南西に展開する「神田久保」(現・不忍通り沿い)の谷間にふられた字名、そして幸神社(荒神社)や目白不動などが建立されていた関口台(本来は目白台とも)に挟まれた地域、すなわち清戸道(現・目白通り)の北側は、これまで子細には観察してこなかった。先年に解体された東大病院分院の跡地や、筑波大学付属視覚特別支援学校がある目白台3丁目一帯だ。
 大正期に発行された古地図を見ていたら、ちょうど戦前には府立盲学校Click!(旧・盲学校永楽病院Click!)や東京帝大病院分院があったあたりに、大きな瓢箪型の盛り上がりがあるのを見つけた。その地形図を参照すると、その300m前後の大きな突起がきれいに採取されている。現在は、上掲の大規模な学校や病院の建設、または住宅地の造成による整地作業で、地形の盛り上がりは希薄になっているが、北は目白台3丁目24番地あたりから南は同3丁目7番地ぐらいまでの、北北西から南南東にかけて形成された地形の突起だ。江戸期の清戸道沿いにあった鶴亀松の枝に登ったら、おそらくこの瓢箪型に盛り上がった突起がよく見えたかもしれない。また、一帯は江戸期に「源兵衛山」とも呼ばれていたようで、台地の下には金川(弦巻川)が大きく蛇行しながら西から南へと方向を変え、旧・平川(のち神田上水)へ注いでいただろう。
 江戸後期には松江藩松平出羽守(16万8千石)の下屋敷になり、幕末には百人組同心大縄地にされていたようなので、射撃場などの設置により、すでに地形の大幅な改造が行なわれていたかもしれない。幕末は、頻繁に姿を見せる外国船や国内の政治的な緊張に備え、大江戸Click!の各地では土木工事が積極的に実施されていた時代だ。だが、大正期の地形図にも、その痕跡が明瞭に採取されているとおり、突起物を全的に消滅させるには至っていなかった。大正末から昭和期にかけ、大規模な学校や病院の建設(増築)で、より急速に整地開発が進捗したのだろう。そして、戦後はビル状のコンクリート建造物が一帯に林立するに及び、瓢箪型の突起はほぼ全的に消滅してしまった……、そんな気が強くするのだ。
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 現在、地形図に採取された瓢箪型に沿うかたちで歩いても、地面からの突起はほとんど確認できない。むしろ、規模の大きな東大病院分院があったせいか、地下階の設置で地面がえぐられているところさえある。また、瓢箪型地形の北西部にあたる住宅地も、おもに大正期の道路敷設や宅地開発で、本来の地形の面影は希薄となっている。ちなみに、瓢箪型の突起北西部には、腰掛稲荷が奉られている。なお、江戸期あるいは明治期に、このあたりの風情を記録した文献が残っていないか探しているのだが、いまだに見つけられずにいる。
 さて、瓢箪型の突起が北側に眺められたとみられる鶴亀松だが、その記述は寛政年間にまでたどることができる。金子直德の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
  
 六角越後守様御下屋敷 表御前に松の樹二本有り、有徳院殿御土産松と云て、道の上に覆ども枝を伐事ならず、寛政九年の春大雪降て、西之方の松倒れけるが、起して植ける。此松に十年斗前より蛇住て、木の空穴より出ては往来の枝の上に寝て、いびきの声高し。或時は男女縄のごとくなりて、三五日番居けるが、倒て後はその沙汰なし。
  
 寛政年間の鶴亀松は、細川家下屋敷ではなく六角家下屋敷の門前にあったことがわかる。大雪で西側の松が倒れたとあるが、そのダメージがのちのちまで尾を引き、幕末ないしは明治初期の落雷により樹体の脆弱化が進み、枯死が決定的になったのだろう。明治期には、西側の松は枯死して伐られ、東側の老松だけになってしまった時期があったらしい。
 ただし、残った東側の老松も明治のうちに枯死して伐採され、大正期には後継の若松に植えかえられていた様子が伝えられている。大正期が終わったばかりの、1927年(昭和2)に東京日日新聞に連載された、上落合685番地のプロレタリア作家・藤森成吉Click!『小石川』から引用してみよう。
  
 学校(日本女子大)の斜め向いには、旧大名細川邸の長い黒板塀が連なっている。その正門の両側に、「細川さんの鶴亀松」と呼ばれて名高い老松があった。私の記憶でも、その一本――あとでは確か後継の若松――は震災前まであった。が、あの天災で門が大破し、そこを潰して一連の塀に変ったと同時に、松の姿も消えて了った。(カッコ内引用者註)
  
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 明治期に、鶴亀松の向かいには「美人の評判が高かった」(同書)娘がいたそうだが、やがて蔦のからまる西洋館のカフェに変わり、茶屋の娘のそのまた娘が経営していたようだ。藤森成吉は、目白台に住む青年たちが訪ねてくると、「親に似た美人だ」という評判を昭和初期にさんざん聞かされているらしい。

◆写真上:広い草原が拡がる、帝大病院分院(のち東京大学病院分院)の跡地。
◆写真中上は、幕末か明治の最初期に日下部金兵衛が撮影した細川家下屋敷門前の鶴亀松。は、大正期と思われる地形図にみる源兵衛山の瓢箪型台地。は、帝大病院の分院時代から残るレンガとコンクリートの塀。
◆写真中下は、同じく東京大学病院分院の跡地。は、盲学校永楽病院(のち東京府立盲学校)へ向かう西側接道。大正期には、この道を新宿中村屋Click!に寄宿していたエロシェンコClick!が通った道だ。は、現在の筑波大学付属視覚特別支援学校。
◆写真下は、瓢箪型突起の西北側に建立された腰掛稲荷社。は、神田久保の谷間(現・不忍通り)へと下るバッケ(崖地)Click!坂。は、明治期に撮影された鶴亀松。

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大賀一郎がつづけたハスの開花音批判。 [気になる下落合]

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 ハスが開花するとき、「ポン」ないしは「ポッ」という音がすると信じていた人たちが数多くいたようだ。下落合の大賀一郎Click!は、植物学者の牧野富太郎Click!らとともに、大マジメでハスの「開花音論争」あるいは「開花音批判」を行なっている。
 いちばん最初に、「ハスの開花は無音である」と主張したのは植物学者の三宅驥一だったが、ほとんど周囲からは信じてはもらえなかった。今日から見ると、呆れてびっくりするような事実だが、戦前まではハスが開花する際には、「ポン」ないしは「ポッ」と音がすると、多くの人々に信じられていたらしい。戦後になり、改めて大賀一郎がハスの無音開花を発表すると、「開花音論争」にまで発展している。
 そもそも、ハスの花が開くとき音がすると記された文献は、大賀一郎によれば室町期以前には資料がなく、もっとも古いもので江戸中期の俳諧書だったらしい。
  暁に 音して匂う はちすかな  潮十子
  管弦にて 開くものかは 蓮の花  河輩
 明治以降では、正岡子規Click!や石川啄木もハスの開花音を詠った作品を残している。
 ハスの開花が無音であることを証明するため、大賀一郎Click!は1935年(昭和10)から上野不忍池で、戦争による中断をはさみながら、毎年欠かさず観蓮会を開催している。早くから開花の無音無声を主張していた三宅驥一も、同会へ参加している。観蓮会は、前夜から不忍池畔の料亭「揚出し」へ参加者が集合し、ハスをテーマとする研究発表や議論が行なわれた。大賀一郎は当初、参加者を50人ほどと見積もっていたが実際には150人が参加したため、料亭側では食事や飲み物の手配がたいへんだったようだ。
 当時の様子を、1999年(平成11)に日本図書センターから刊行された、『大賀一郎―ハスと共に六十年―』(人間の記録第106巻)から引用してみよう。
  
 この夜の会が終わった後、百人ばかりは、夏枯れで客のない上野駅前の名倉屋旅館に招かれ、わずかなチップで徹夜の清談、翌早朝五時を期し不忍池畔を逍遥して弁天島の東岸に佇んだ。そしてまさに開かんとする蓮花の前に聴き耳二百を立てたあとで、報道陣に対してハスの開花の無音無声の衆議を発表したところが、誠に、実に、天下の大問題となり、国の内外が喧々囂々、投書が東西各新聞の社会欄をにぎわした。この後、年と共に騒ぎは漸次に下火となり、世は無音無声に傾くようになったが、このおかげで私の観蓮会は世間にみとめられ、翌年は弁天堂、その翌年は……と爾来今日に至るまで、よく二十七年間連綿として休むことなくつづき、いつしか東京都の年中行事の一に…(以下略)
  
 不忍池の観賞会が有名になるにつれ、会は弁天堂の池に面した大書院で開かれるのが恒例となった。開花期ばかりでなく、春には根分け会、夏には例会や観賞会、秋には敗荷会とハスをテーマにさまざまな会合や研究会が開かれたようだ。
 戦時中は弁天堂が空襲で焼かれ、不忍池が干上がって食糧増産のための水田化されたのにともない、2年ほど中断されたが、大賀は下落合からの疎開先である府中で、小規模ながら観賞会を継続している。戦後は、不忍池のボート乗り場や水上音楽堂、水上動物園などを会場にして観賞会はつづけられた。
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 昨夏、大賀一郎が庭で育てていた古代ハスを観賞しに、府中の郷土の森公園に出かけてきた。府中本町駅からかなり歩くため、公園に着いたのは昼近くになり、古代ハスの花は閉じてしまったかと心配したが、なんとか開花する花々を観賞することができた。
 ハスは、たいがい4日間ほど咲きつづけて花弁を落とすが、未明(午前2~3時ごろ)から花弁が少しずつ動きはじめ、あたりが明るくなってきた午前4~5時ごろにかけて花弁が開きはじめる。そして、午前6~7時にはすでに満開になるが、開花する間、もちろん音はまったくしない。午前中には満開状態がつづき、昼が近づくにつれて花弁が閉じはじめ、正午ごろには完全に閉じてもとの蕾の状態にもどる。
 この開花の手順が、少しずつ時間を前倒しにして4日間つづき、4日めには真夜中に開花して未明にすでに満開となり、昼すぎからは花弁を落として散花する。したがって、ハスの観賞は早朝がもっとも美しいのだが、わたしは朝寝坊なので昼近くの古代ハスしか眺めることができなかった。つづけて、大賀一郎の同書より引用してみよう。
  
 もちろん花によって個性があるが、大体どの品種でも同じようで、音があるとすれば、第一日と第二日の花の開く四時か五時頃であるが、外側から一枚ずつ、一分間に一センチ位の静かな速さで咲く花びらに音などあるはずがない。/ハスの花は、このような音の有る無よりも、花そのものの清楚を賞すべきである。朝霧のしたたるところに、涼しい夏時最大の紅蓮と白蓮の咲ける姿は、何人のこころをも、うばいとらずにはおるまい。実に古来彩連観蓮が文人墨客の間に盛行したことは、和漢の数多の文献に見られる。
  
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 また、大賀一郎はハス(蓮花)の下に太いレンコン(蓮根)があるとする誤謬も批判している。当時の理科の教科書には、レンコンが太ければ太いほど水面には大きなハスの花が咲く……というような記述(図版?)があったようなのだが、ハスの花とレンコンは時期的にもぜんぜん別物で、まったく連動していないと講演やシンポジウムで否定してまわった。
 確かに、レンコンは初冬から春先にかけての蔬菜であって、ハスの花が開く初夏から初秋にかけては流通しない。ハスが開花している間、その地下茎は白くて細いものが横に伸びているだけだ。ややあきらめ気味の口調だが、同書から再び引用しよう。
  
 わが国のほとんど誰もが、冬型の太くて短かいレンコンの節から、夏型の美しいレンゲと大きな葉が出ていると思っているのである。/そこでいっておくが、決して太いレンコンからは、花や葉は出ない。(中略) 芽は左右に地下茎となって横に横に延びて分岐し、そこに生ずる多くの節々から、葉が立ち、六、七月になるとその立葉の後ろに接して花芽が立ち、それから一ヵ月ばかりすると花が咲くのであるから、花や葉の下には細い白い長い地下茎があって、太いレンコンはない。(中略) 私はすでに二十年前に、世の伝説を排してハスに開花音はないといいきったが、今日になってもまだ、広い世界の中で、日本人という国民だけに、ハスの開花音があると信じられている。実におかしな事であるが、悲しくも日本人は、かかる珍妙な特質を持っているのである。
  
 理学博士(自然科学者)がとらえた植生あるいは分析的なハスは、大賀一郎の主張する説明が全的に正しいのだろうが、情緒的かつ文学的な一部の「日本人」には、どうしても夏の早朝に美しく咲くハスの開花音は、ぜひあってほしいところなのだろう。
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 現在では、不忍池の観蓮会のほか、古代ハスの発見元である千葉市の千葉公園や、鎌倉は鶴岡八幡宮の源平池Click!、岡山市の後楽園、そして大賀一郎の疎開先である府中などでも、毎年、ハスが開花する夏になると観蓮会が開かれている。ただし、鎌倉の観蓮会は鶴岡八幡の境内にあった神奈川県立近代美術館で開催されていたが、同館の閉鎖とともに少し前から古代ハスも咲いている、材木座の光明寺Click!へと移動しているようだ。

◆写真上:府中市郷土の森公園の池に咲く、大賀一郎が栽培していた古代ハスの群生。
◆写真中:郷土の森公園の古代ハスと、池の端に設置された大賀一郎像。
◆写真下は、府中市の多摩川沿いに展開する古墳群から発掘された副葬品の鉄刀。下の2振りの鉄刀は芯まで錆が達していないようで、刀の研ぎ師に依頼すれば腐食していない折り返し鍛錬Click!の目白(鋼)地肌が観察できそうだ。は、初頭から春先まで出まわるレンコン。は、鎌倉鶴岡八幡宮の源平池。

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自在に浮遊する松本竣介の視点。 [気になる下落合]

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 松本竣介Click!の画面を観ていると、その視点が空中を自由自在に浮遊して、風景作品ではあちらこちらへ飛びまわっているのがわかる。盛岡から生まれ故郷の東京へもどったころ、1927~1932年(昭和2~7/15~20歳)ごろまでの作品は、イーゼルをすえた位置からの、あるいはスケッチブックを手にして立っていた(座っていた)位置からの視点で、モチーフの風景が静的に写しとられている。モディリアーニやルオーの影響が濃いといわれる、1935年(昭和10)前後に描かれた風景作品も同様だ。
 ところが、1936年(昭和11)ごろからその画面が、表現方法や色彩とともにガラリと変化を見せる。この年は、2月に松本禎子Click!と結婚して下落合4丁目2091番地(現・中井2丁目)に自宅&アトリエをかまえ、10月からは「綜合工房」Click!と名づけたアトリエから、翌年の12月までつづく月刊誌「雑記帳」Click!を創刊している。この時期の作品は、いわゆる「蒼い」風景が多く描かれた東京の「郊外」シリーズが中心だ。下落合の目白崖線に連なる樹木や草原、地面などを独特なブルーグリーンの色彩で全面的に染め上げ、ほんの数年前の画面とはまったく趣きを異にしている。
 そして、キャンパスに向かう画家の視点は、実際にイーゼルをすえた位置(あるいはスケッチブックを手にした位置)よりは、やや高めに感じる画面が多くなっている。すなわち、視点のみが松本竣介の身体を離れて空中にフワリと浮きあがり、モチーフとなる風景の前を浮遊しながら、斜めフカンから見下ろした視点、ときには完全に鳥瞰視点のような表現が増えていくのだ。「郊外」シリーズや「街(都会)」シリーズなどに見られる、これらの表現法を「シャガールみたいだ」といってしまえばそれまでだけれど、丘が連なり谷間があちこちに口を開ける、緑が濃くて起伏が多い落合地域で暮らしはじめたからこそ、獲得できた視点のようにも思える。
 たとえば、1937年(昭和12)8月に描かれた『郊外』Click!は、上落合側の北向き斜面の坂を上がって、中井駅近くにある妙正寺川沿いの落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の校舎(デフォルメされている)を見下ろしながら描いたと思われる作品だ。校舎の背景には下落合の丘陵と、その緑が濃い南斜面に散在するモダンな家々(実際のリアルな住宅ではない)が描かれている。
 だが、宮本百合子Click!の旧居跡(上落合2丁目740番地)がある上落合の北向き斜面の坂上から、落合第二小学校(現・落五小)を見下ろしたとしても、ここまで高度があるようには見えない。実際の高さよりも、画家の目はさらに上昇しているように感じるのだ。ただし、現在ではこの高さの視点に近い位置(東側)から、現・落合第五小学校を見下ろすことができる。戦後、妙正寺川が流れる谷間に山手通り(環六)の高架が竣工し、その上から眺めた風景が『郊外』の視点と同じぐらいの高さになっている。
 わたしは、起伏に富んだ落合地域ならではの地形や風景の影響から、斜めフカンや鳥瞰に近い松本竣介の眼差しやインスピレーションが生まれ、空中を自在に浮遊する新たな表現法を獲得したのではないかと想像していたが、それは幼少時代からの原風景によって形成されたと分析する面白い資料を見つけた。松本竣介は、幼少時代を岩手県の花巻と盛岡ですごしている。1986年(昭和61)に用美社から出版された、村上善男『盛岡風景誌』から引用してみよう。
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 竣介にとってもう一つ大事な風景は、実は「山王山」という存在です。盛岡の東の方向にある小さな丘です。市営球場があります。小杉山ですね。そして、はるかに中津川、雫石川、北上川の合流点が見えます。/山王山のてっぺんにあった「測候所」(現・「盛岡地方気象台」)のすぐ下に竣介は移ります。なぜかというと、それは父親の銀行の社宅でした。竣介のお父さんは、花巻時代リンゴからお酒を造る商売だった。その仕事をやめて、盛岡では銀行をつくることになった。(中略) 竣介は盛岡中学まで歩いて通ったわけです。そこで、山王山のてっぺんから盛岡の町を見たときの<俯瞰の風景>というのが、竣介に決定的な視角上の影響を与えたのではないかと、私は想像するのです。/後年の代表作の「街」をはじめ、大作を一点ずつ、あたってみる。<山王山の俯瞰の景>の応用。もしかしたらそうじゃないかと、仮説を立てて作品に向きあったのです。
  
 当時、松本竣介の通学路には、煉瓦工場や消防署、知事公舎、白百合女学校などモダンで特徴的な建築や塔が建っていたらしく、それらの建物が少年に強い印象を残したのは想像に難くない。1931年(昭和6)に盛岡で制作された『丘の風景』には、頂上に測候所の白い建物が描かれている。もし、松本竣介の内部に丘上から盛岡の街中へと下る、原体験としてのフカン気味な風景が深く刻まれていたとすれば、アトリエを出て下落合の坂道を下るごとに、それを重ねて想い浮かべていたのだろうか。
 でも、下落合の坂から見下ろす眺望は大久保から新宿方面にかけての街並みであり、盛岡のそれとはかなり異なる印象だったろう。さらに、上掲の“村上仮説”を前提とすれば、松本は結婚してアトリエを建てる際、なぜ下落合の丘を選んでいるのか?……というテーマにもつながりそうだ。下落合のアビラ村Click!(芸術村)には、多くの画家たちが暮らしアトリエも多かったからという理由とは別に、丘上から眺める原体験としての<俯瞰の風景>に惹かれたから……とも解釈することができる。
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松本竣介「枯木のある風景」193801.jpg
松本竣介「郊外」193801.jpg
 さて、松本竣介は1938年(昭和13)9月の第25回二科展へ、『街』と『落合風景』の2作を出品している。だが、この『落合風景』がどの画面に相当するのかが、現在では不明となっているそうだ。ブルーグリーンの色彩が特徴的な、現存する「郊外」シリーズのいずれかの1作とみられるが、どの作品かが特定できないらしい。いったいどれが『落合風景』とタイトルされた作品なのか、ブルーグリーンで彩られた「郊外」シリーズを観ていると、場所が特定されていない画面はみんな怪しく見えてくる。
 先述した1937年(昭和12)8月の『郊外』は、同年の第24回二科展へ出品されているので、翌1938年(昭和13)1月の『枯木のある風景』と『郊外』のいずれかが相当するのかもしれない。そのほかにも、下落合の丘や斜面を描いたとみられる画面は、1940年(昭和15)ごろの作品まで目にすることができる。
 松本竣介の風景画は、地形から建物、樹木にいたるまでデフォルメやコラージュが奔放にほどこされているので、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!のように、「この風景はあそこだ」と明確に規定することができない。先述の『郊外』(1937年8月)は、かろうじて落合第二尋常小学校を上落合側の斜面から描いたものだと類推できるが、もうひとつ、1940年(昭和15)制作の『青の風景』も、「あそこかな?」と推定することができるめずらしい作品だ。丘上にコンクリート造りらしいビル状の建物が見えるのは、19歳のときに盛岡で描いた『丘の風景』(1931年ごろ)の盛岡測候所と同様だ。
 9年後の『青の風景』に描かれた建物は、ビルの屋上に突起と煙突らしいフォルムが描かれている。当時、下落合の丘上に建てられたビル状の建物で、この形状に合致するのは青柳ヶ原Click!の斜面に建設された国際聖母病院Click!フィンデル本館Click!だろうか。屋上に突き出ているのは、避雷針がついたチャペルの鐘楼と焼却炉の煙突のように見える。手前に下ってくる坂道は、頼りなげな補助45号線(聖母坂)であり、ほどなく妙正寺川に架かる落合橋をわたることになる。もっとも、実際の地形や道筋、建物の姿はまったくこのようではないし、山王山にあった盛岡測候所のほうが似ているといわれれば「はい、さようですね」なのだが、構成を重ねたイメージとして風景をとらえるとするならば、上落合側から聖母坂を眺めた当時の情景のようにも見えてくる。
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 だが、『青の風景』の画面もまた、画家の視点は2階家の屋根ほどもありそうだ。画家がスケッチしている位置は、聖母坂下だとすれば妙正寺川と旧・神田上水(現・神田川)が落ち合う低地Click!であり、このような高い位置からの画角は得られなかったはずだ。空中を自在に浮遊し、風景をイメージで写しとる松本竣介の視点は、1942年(昭和17)の『立てる像』Click!のように、ときに地面スレスレにまで降下することさえある。

◆写真上:1937年(昭和12)ごろ、下落合2091番地の自邸前庭で撮られた松本竣介。
◆写真中上は、1937年(昭和12)の第24回二科展へ出品された松本竣介『郊外』。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『郊外』の描画ポイント。は、上落合側の北向き斜面から眺めた現在の落合第五小学校。
◆写真中下は、戦前に撮影された盛岡市の山王山にあった岩手県営盛岡測候所絵はがき。は、1938年(昭和13)1月制作の松本竣介『枯木のある風景』。は、同時期に制作された松本竣介『郊外』。いずれかが『落合風景』とタイトルされ第25回二科展に出品された作品だと思われるが、わたしは後者の『郊外』のような気がする。
◆写真下は、1931年(昭和6)ごろに盛岡市の山王山を描いたとみられる松本竣介『丘の風景』で山頂に見えるのは県営盛岡測候所。は、1940年(昭和15)制作の松本竣介『青の風景』。は、戦後すぐのころの国際聖母病院。

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鶴田吾郎から清水多嘉示へ1922年。 [気になる下落合]

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 中村彝Click!の伝記といわれる書籍は、過去に何冊か出版されているが、その中で彝アトリエに集う画家たちが集まり、1922年(大正11)に結成された画会「金塔社」Click!について、詳しく書かれたものはない。どのような経緯や趣旨で金塔社が発足したのか、「中村彝が中心になって」と説明されることが多いが、彝は病床で動けないため名目上の代表であり、実質は鶴田吾郎Click!が会の運営・事務を仕切っていたようだ。
 彝の最晩年の時期でもあり、あまり多くは語られない金塔社について、その経緯を比較的詳しく書いているのは、やはり鈴木良三Click!の資料だろうか。金塔社は、1922年(大正11)6月23日~28日の6日間、第1回展を日本橋白木屋Click!(戦後の東急百貨店)で開催している。この第1回展に、中村彝は体調がすぐれなかったものか作品を出していない。翌1923年(大正12)の同時期に、今度は日本橋三越Click!で第2回展を開いているが、同展に中村彝はモデルの“お島”を描いた8号Sの『女』Click!(1921年)を出品している。
 金塔社について、鈴木良三が概説した文章が残っている。1999年(平成11)出版の、梶山公平・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社)から引用してみよう。
  
 そのうち安藤家に集まる連中が展覧会をやろうということになり、美校系の曽宮、寺内、耳野の他に鈴木保徳、遠山教円、中村研一、洋行帰りの遠山五郎、研究所系の鶴田吾郎、鈴木金平、鈴木信太郎、馬越枡太郎、ぼく等が加わり、中村彝さんを押し立てて金塔社を結成、白木屋で第一回展を開いた。彝さんは第一回展には出品出来なかったが、中村研一さんは百号の婦人像を出品して洋行してしまった。みんな二点ぐらいずつ出品したがぼくは彝さんに薦められて五、六点、三十号、二十五号といった大きさのものを並べて貰った。(中略) 第二回展は次の年に三越で開かれたが、この時彝さんは「エロシェンコ」と同じ大きさの少女像を出品された。/画壇では金塔社への期待感は大きかったようだが、この二回で解散してしまった。ぼくなどにそのいきさつは知らされなかったが、美校系と、研究所系との気持ちの相違から別れ話が出たものかと思う。残念なことだった。
  
 文中の「安藤」家は当時、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の上屋敷(あがりやしき)駅Click!近くに住んでいた安藤復蔵、「曽宮」はもちろん曾宮一念Click!、寺内は寺内万次郎、耳野は少し前まで高田町(大字)雑司ヶ谷(字)上屋敷(現・西池袋)にあった農家の離れを借りて住んでいた耳野卯三郎Click!のことだ。
 耳野が転居したあと、鈴木良三は同じ農家の離れを借り受けて住み、1923年(大正12)8月31日すなわち関東大震災Click!の前日に、下落合800番地Click!へ転居してくることになる。また、第1回展に出品した画家たちの名前に鈴木金平Click!があるが、彼の年譜によれば1923年(大正12)の第2回展に出品している。画壇からは「期待が大きかった」と鈴木良三は書いているが、金塔社の結成趣旨とはどのようなものだったのだろうか?
 清水多嘉示Click!のお嬢様・青山敏子様Click!より、金塔社展に関する非常に貴重な資料をお送りいただいた。金塔社の実質的な代表である鶴田吾郎から清水多嘉示へあてた、金塔社第1回展への出品をうながす1922年(大正11)5月29日の手紙だ。鶴田吾郎の筆跡は読みやすく、小石川にあった礫川堂(れきせんどう)文具店の原稿用紙に書かれている。ちなみに、中村彝の代筆Click!をした読みにくい筆跡とは一致しないようだ。
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日本橋三越(震災前).jpg
中村彝「女」1921.jpg
  
 清水多嘉示様
 未だお目にかゝりませんが お名前は承って居りました、/昨日中村君から兄が金塔社に御希望ある由且仝人として仲間に入られるに就いて招介をされて参りました、/早速曽宮君にも話しましたところ 無論異議のある筈はありません、尚且他の友人にも話しましたところ多数賛成なつて兄を仝人として加はって戴くに就いて一致した次第です、で 左の様なことをご承知置き願い度いと思います、/一体金塔社なるものは或る運動とか、革命とかいふ抱負のもとに成りたつたものではありません、/又藝術上に於て現画壇に対し偉大な宣言をなして突き進むやうな手段を用ひるものではないのです、/ただ 吾々自分たちの有つてゐるもの、自分等の才能を自由に生かし発表する為に集つたものと言ひ度いのです、/而し何れかと言へば吾々は緊実といふことが基準になり、藝術観の偏盲に陥らず、凡ゆる良き藝術を求め、そして自己を失はずして真面目に自然に対して考へて行き度いと思つてゐます、/お互に友情と厚誼とを以つて 仕事を深め拡げて行き度い希望です、
  
 上記の引用が手紙の前半だが、「中村君」は中村彝、「曽宮君」は曾宮一念のことで、この3者が相談して金塔社のメンバーを誘っていた形跡が見える。先の鈴木良三の文章によれば、「美校系」の幹事が曾宮一念、「研究所系」の幹事が手紙を書いている鶴田吾郎、そして名目としてかつがれている代表が病床の中村彝……という、金塔社の人的な構図がうかがえる文面だ。
 鶴田吾郎によれば、金塔社は芸術の「運動」や「芸術観の偏盲」にとらわれない、自由かつ穏健でゆるやかなつながりであり、思いのままの作品を展覧会へ出品できる画会なので、ぜひ気軽に参加してほしい……という趣旨だったようだ。
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 だが、このようなサークルや同好会のような仲間意識の“ゆるい”集まりは、メンバー同士のつながりが希薄で絆(人間関係の組織基盤)が形成されにくく、ひとたび中核(中村彝)を失うとほどなく瓦解してしまうのは、多くのメンバーたちにもわかっていたのではないだろうか。鶴田吾郎の手紙を、つづけて引用してみよう。
  
 それから吾々は毎月一回づゝ仝人の一人の宅に集つてお互に話し合ふことになつて来ました、/六月には七日の日に安藤君の家に一仝集つて展覧会の件に就いて具体的に相談することになつてゐます、/展覧会は六月廿三日より五日間、白木屋にて致します、/会場は御承知の狭いところですから一人が一間半位づゝ取れることになつてゐます。/従来展覧会をすることに就いて仝人は毎月一円づゝ会費として出すことになつてゐました、/而し確実に無理してまで出すといふまで義務的でもありません、/第一回の展覧会より是非御出品を願います、そして御上京下さらば尚好都合です、/以上簡単乍ら御報知まで
                   五月廿九日      鶴田吾郎
  
 結局、長野県で美術教師をしていた清水多嘉示は、金塔社第1回展へ作品を送ることはなかった。清水は当時、長野県の諏訪蚕糸学校に勤めていたが、1922年(大正11)は諏訪高等女学校で「中原悌二郎・中村彝作品展」を企画・開催したり、平和記念東京博覧会Click!へ出品する作品を制作したりと、参加している余裕がなかったのだろう。ちなみに同年には、林泉園Click!つづきの谷戸を描いた『下落合風景』Click!も制作している。翌1923年(大正12)6月の金塔社第2回展のとき、清水多嘉示はすでにパリへ留学していた。
 1924年(大正13)には第3回展が開かれるはずだったが、その前に金塔社は空中分解してしまう。原因は、中村彝が病状の悪化で出展作品を制作することができず、金塔社の代表でいることにも嫌気がさしたからだといわれる。また、鶴田吾郎がリーダーシップを発揮できず、結束力を高めメンバーたちの気持ちを牽引していく力がなかったからだともいわれているが、おそらくその両方だったのだろう。
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 金塔社が結成された1922年(大正11)、曾宮一念は静岡県の富士宮市大宮町へ鈴木良三をともない写生旅行に出かけている。このとき、曾宮は東京から牧野虎雄Click!大久保作次郎Click!熊岡美彦Click!、高間惣七、吉村芳松、油谷達ら6人を呼んで合流している。1924年(大正13)に結成された、帝展若手による槐樹社(かいじゅしゃ)の顔ぶれが多いのも興味深いが、二科会の曾宮を除き、残りのメンバーはすべて文展・帝展の画家たちだ。大宮町での詳細な記録は残されていないが、会派Click!にまったくこだわらず人物そのものとつき合うところ、曾宮一念らしいフレキシビリティが感じられていい。

◆写真上:大雪の中村彝アトリエの採光窓と、大正期のモダンな天井照明(レプリカ)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に金塔社第1回展が開かれた震災前の日本橋白木屋百貨店。は、1923年(大正12)に第2回展が開かれた震災前の日本橋三越百貨店。ともに、大正期の人着絵はがきより。は、お島をモデルに第2回展へ出品された中村彝『女』。
◆写真中下は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)で池袋からひとつめの駅だった上屋敷駅跡の現状。は、1922年(大正11)5月29日に鶴田吾郎から清水多嘉示あてに出された金塔社第1回展への出品を依頼する手紙。
◆写真下は、1923年(大正12)の渡仏前に長野で描かれたとみられる清水多嘉示『風景』。は、1922年(大正11)3月に撮影された諏訪高等女学校の記念写真。後列には清水多嘉示や土屋文明が写り、女学生の中に平林たい子Click!の姿がある。は、下落合623番地のアトリエ前庭で撮影された曾宮一念。(提供:江崎晴城様Click!) 背後に見えているのは、佐伯祐三Click!の制作メモ「浅川ヘイ」Click!で知られる浅川秀次邸の塀。
掲載している清水多嘉示の作品・資料は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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元気なカモの絵が欲しかったのに。 [気になる下落合]

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 1973年(昭和48)に、早稲田大学校友会の学報編集委員会から発行された「早稲田学報」に、佐伯祐三Click!に関する面白い文章が掲載されている。『佐伯祐三の手紙と鴨の画』と題する、同大学のOB池田泰治郎のエッセイだ。池田の母親である池田ヨシは、佐伯の妻である米子夫人Click!(池田ヨネ)の姉であり、佐伯米子Click!から見れば池田泰治郎は甥ということになる。
 佐伯米子は、1972年(昭和47)11月に死去しているので、同エッセイはその翌年、間をおかずに書かれたことになる。このとき、下落合のアトリエで佐伯祐三や米子夫人の遺品を整理したのも池田泰治郎であり、少なくとも1957年(昭和32)(『みづゑ』2月号に掲載)までは存在が確認できる、佐伯の「下落合風景」Click!に関する「制作メモ」Click!が失われたとすれば、おそらくこのタイミングだったように思われるのだ。ひょっとすると、遺品整理のために佐伯アトリエの庭で行われた焚き火Click!へ、他の資料ともどもくべられてしまったのかもしれない。
 さて、同エッセイでは遺品整理の際に出てきた、佐伯祐三から米子夫人の姉・池田ヨシへあてた詫び状について書かれている。おそらく、池田家の知人の誰かから頼まれたのだろう、池田ヨシは佐伯に「鴨の絵を描いてほしい」とオーダーしたようだ。その知人は当然、生きて水面を元気に泳いでいる美しい鴨の画面を想定していたのだろう。ところが、佐伯が描いてとどけたのは、正月の雑煮用に狩猟でしとめられたあとの、死んだ鴨の“静物画”だった。w それについて、佐伯があわてて詫びを入れている手紙らしい。
 以下、「早稲田学報」の池田泰治郎『佐伯祐三の手紙と鴨の画』から引用してみよう。
  
 私はこれらの資料に加えて、私がかねて大切に保持していた祐三から私の母に宛てた手紙を、美術評論家であり、祐三の研究で知られる朝日晃氏(昭和二十七年文学部卒)にお見せしたのであった。朝日氏の愕きと悦びは大変なものであった。/なかんずく、母宛ての文中『鴨の画のこと実に失礼な事を致しました』との件りに大変興味を持たれた。このことは、私も、つとに関心を抱いていたことであって、母によれば、母の友人が生きた鴨の画が欲しいと思っていたのに、祐三はたまたま正月の雑煮用にと歳暮に贈られた“死んだ鴨”を描いてしまったのだという。しかしこれは世に知られざる逸話であり、絵の存在すらほとんどの人に知られずにいたのであった。
  
 ここで少し余談だが、おそらく下落合の佐伯家に正月の雑煮用としてとどけられた死んだカモは、東京の(城)下町Click!方面からとどけられている可能性がきわめて高い。ひょっとすると、池田家とも交流のある親しい知人か、姻戚からの歳暮ではなかっただろうか?
 いつかも書いたけれど、江戸時代からの日本橋雑煮Click!には鶏肉ではなく、正式には鴨肉を用いる。わたしの家では、鴨肉の脂の多さが苦手な家族がいるため(ちなみに鴨肉の脂身は、鶏肉よりもコレステロールが少ない)、代わりに鶏肉を使うことが多いが、本来は香ばしく焼いた鴨肉が、雑煮のメインとなる具材だ。ひょっとすると日本橋Click!の隣りにあたる、もともと池田家があった尾張町Click!(銀座)でも、江戸期から同様の習慣がつづいていたのかもしれない。
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 1926年(大正15・昭和元)の暮れごろに、おそらく佐伯アトリエで描かれたとみられる『鴨』(8号F)だが、マガモの♂のようで足にタグが付いており、確かに白い器に載せられたそれは元気な様子には見えない。w 包装を解いて画面を目にした池田ヨシは、思わず「あら~ッ」と嘆息しただろうか。「……カモさん、寝てるカモ」、「あのな~、カモさん、死んでまんね。……そやねん」、「……まあ」。
 めずらしく、左下にバーミリオンで記載された佐伯のサインが見られるので、佐伯としてはうまく描けたという自信の一作だったのだろう。この作品は、現在でも個人蔵のままのようだが、1973年(昭和48)の当時も個人蔵で、おそらく池田家を通して絵を送った知人が、そのまま戦災をくぐり抜けて保存してきたのだろう。池田泰治郎は、朝日晃や「芸術新潮」の関係者を連れて、わざわざその知人宅まで『鴨』を観に出かけている。つづけて、同エッセイから引用してみよう。
  
 この四月六日、朝日晃氏と芸術新潮の方たち、そして私の計四人は、その所有者であるS様のマンションを訪れた。/まるで幻の恋人にでも逢うような、ふしぎな心のときめきである。確かに鴨の画であった。描かれて五十年ちかい歳月を経た画面は異様に燻り、小さな穴があき、傷ついていたが朝日氏が布でしずかに表面を拭うと、次第に祐三の息吹きが露れて来た。何ともいうぬ感動がはしり、皆が沈黙する中で、シャッターの音が響いていくのだった。
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 このほか、米子夫人が死去したあとの佐伯アトリエで行われた遺品整理では、ジャパン・ツーリスト・ビューロー大丸案内書(大阪)の、シベリア鉄道経由でパリまで出かける、1927年(昭和2)7月27日付けの運賃計算書や、パリでいっしょだった前田寛治Click!ら友人たちからの通信などが発見・保存されている。
 めずらしいのは、1923年(大正12)の夏、長野県の渋温泉で静養する佐伯夫妻のもとへとどけられた、関東大震災Click!の発生を知らせる池田象牙店の支店からのハガキだ。同エッセイによれば、ハガキのあて先は「サイキユーゾウ様」と妙なカタカナ表記で書かれていたらしく、鉛筆書きで文字も乱れがちな文面だったらしい。1923年(大正12)9月7日付けの急を知らせるハガキは、池田家の誰かではなく支店員か小僧に書かせたらしく、池田によればたどたどしい文章で「土橋の人命に変り無く御安心下さい。家は全焼しました。帰らずに下さい」というような内容だった。
 佐伯祐三は同ハガキを受けとると、米子夫人を宿に残したまま貨物列車に飛び乗り、単身で東京にもどった。すぐに池袋の山田新一Click!を訪ねると、ふたり連れ立って土橋Click!池田家Click!の様子を見に出かけている。そしてスケッチブックを手にすると、市街の様子を写生してまわったエピソードは、すでに河野通勢Click!震災記録画Click!とともにご紹介している。
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 「早稲田学報」にエッセイを寄せた池田泰治郎だが、昨年9月に逝去したとうかがった。どこか資料類の紙束にまぎれて、あるいはクローゼットの片隅の段ボール箱に、「制作メモ」は残ってはいないだろうか? それが、いまだにとても気がかりなのだ。

◆写真上:1926年(大正15・昭和元)の暮れに描かれたとみられる、佐伯祐三『鴨』。
◆写真中上は、冬になると見られるマガモの番(つがい)。は、1920年(大正9)に制作された橋口五葉『鴨』。佐伯へ「鴨の絵」をオーダーしたクライアントは、このような画面を想定していたのではないだろうか。
◆写真中下は、1926~27年(大正15~昭和2)に描かれた佐伯祐三『人参』。は、おそらく1926年(大正15)の秋に描かれた佐伯祐三『ぶどう』。は、1970年代に撮影されたオープンして間もない母家が残る佐伯公園。(現・佐伯祐三アトリエ記念館)
◆写真下は、晩秋になると近所の池にたくさん飛来するカモ。は、下落合にあるカルガモClick!横断注意の道路標識。は、1957年(昭和32)の写真を最後に行方不明がつづいている佐伯祐三が記録した「制作メモ」。

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陸軍中野学校の演習旅行1941年。 [気になるエトセトラ]

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 戸山ヶ原Click!に設置された陸軍兵務局分室Click!(工作員の符牒“ヤマ”Click!)は、1937年(昭和12)の春に防衛課が発足するとともに、同年暮れには「後方勤務要員養成所」(のちの陸軍中野学校)が設立されている。同養成所は、陸軍の3大統括者だった陸軍大臣・参謀総長・教育総監のいずれにも属さず、陸軍の主要組織からは切り離された特異な存在だった。
 後方勤務要員養成所の募集は、陸軍士官学校Click!や陸軍大学など主要な学校の出身者ではなく、陸軍内の強い反対を押しきって予備士官学校や普通大学の卒業者、民間の勤労者などが優先して行なわれたのも、当時としては異例中の異例だったようだ。要するに、軍人の臭いがする人物は、すべて不合格としてハネられたことになる。同養成所は、1939年(昭和14)7月に中野区囲町に校舎が完成し、翌8月には第1期生を送りだしている。1940年(昭和15)8月になると、ようやく「陸軍中野学校令」が制定されて、後方勤務要員養成所という名称は消滅した。
 陸軍中野学校(養成所時代含む)が、戸山ヶ原の兵務局分室で誕生してから敗戦による消滅まで、その教育方針やカリキュラムをたどってみると、およそ3つの時代に区分できるだろうか。まず、1938~40年(昭和13~15)の3年間は、陸軍内部でも存在が厳密に秘匿され、平時に世界各地で暗躍する工作員(スパイ)を養成していた時期だ。集められた学生たちも、特に軍人らしくない人物から選ばれており、「自由主義」的な傾向の強い教育内容だった。模擬の議論では、天皇批判さえ行なわれていたのもこの時期のことで、軍人臭を徹底して排除するカリキュラムが組まれていた。
 つづいて、1940~44年(昭和15~19)の5年間は、陸軍中野学校令の制定でその存在が上層部にも認知され、戦時に戦争を陰で支援する諜報・謀略戦の工作員(スパイ)を養成する方針に変わっている。そして、1945年(昭和20)の敗戦までは、それまでの教育方針とはまったく異なり、日米戦をめぐる敗色が濃い状況下で、遊撃戦(ゲリラ戦)を中心とした教育内容が採用されていた。ルバング島から帰還した小野田寛郎は、陸軍中野学校卒といっても同校本来の教育目的ではなく、戦争末期のゲリラ戦を主体とした中野学校二俣分校(静岡県)の出身だ。したがって、彼のことを陸軍中野学校出身の諜報・謀略戦に通じた「工作員」とする記述は明らかな誤りで、遊撃戦教令にもとづく「ゲリラ戦の専門家」とするほうが正しいだろう。
 わずか7年間しか存在しなかった陸軍中野学校だが、その活動の中核的な拠点となっていたのは、一貫して戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)Click!だった。同校の歴史の中で、もっともスポットが当てられやすいのも、やはり1940年(昭和15)からスタートした戦時に諜報・謀略戦を遂行する工作員(スパイ)の養成課程だ。
 少し余談だけれど、大映映画に市川雷蔵が主演した『陸軍中野学校』シリーズというのがある。同シリーズがスタートしてしばらくたったころ、陸軍中野学校の出身者たちでつくるグループが、撮影現場の見学に招待されたことがあったそうだ。撮影現場へ出かけていくと、同映画を監修していた「中野学校」OBが、同じ中野にあった憲兵学校の卒業生であることが判明して大笑いになったエピソードが残っている。陸軍憲兵学校は、陸軍中野学校の東側に隣接していたが、その元・憲兵学校の出身者は「中野学校」=憲兵学校だと勘ちがいしていたらしい。憲兵学校側では、西隣りの陸軍施設を参謀本部史実調査部と、アンテナ鉄塔を備えた通信基地だと認識していた。
 中野学校の存在は陸軍内でも秘匿され、限られた一部の人々にしか知られていなかったせいか、同映画が撮影された当時でもこのような混乱が多かったらしい。事実、吉田茂邸へ潜入した兵務局分室のスパイClick!(中野学校出身)の存在を、憲兵隊本部でさえまったく把握していなかったことからもうかがえる。したがって、大映の『陸軍中野学校』シリーズは、私服憲兵の諜報活動サスペンス映画として観賞するのが正しいようだ。
兵務局分室跡.JPG
兵務局分室跡1970年代.JPG
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 さて、陸軍中野学校の最後の実習科目に「卒業演習」というのがあった。教室での講義を履修したあと、実地の訓練をするために商人や観光客に化けて、グループごとに海外(アジア地域)へと旅行する、いわば卒業試験旅行のような演習だ。旅行中には、多種多様な「候察」(レポーティング)の課題が出題され、卒業演習にパスしないと任務には就かせてもらえなかった。
 その貴重な卒業演習の模様を撮影した写真が、元・陸軍中野学校乙Ⅱ短期及特別長期学生だった塚本繁という方の手もとに残されている。中野学校や兵務局分室の資料類は、1945年(昭和20)8月15日の敗戦とともに、ほとんどすべてが証拠隠滅のため焼却されているので、これらの写真類は中野学校の実情を知るうえでは非常に稀少な記録写真ということになる。卒業生たちは、いちおう身分は軍人なのだが長髪で私服を着用しており、言葉づかいや挙動も軍人とはほど遠い様子をしていた。(そもそも当初は、軍人教育を満足に受けていない一般人を募集していた) つまり、怪しまれずに本物の商人やビジネスマン、観光客になりきれる“才能”のある人物でなければ、中野学校を卒業できなかった。
 したがって、旅先ではあちこちで憲兵隊や地元警察の不審尋問にあい、繰り返し身体検査や荷物検査を受けることになる。卒業演習は、ほとんど根まわしの行なわれていない、ぶっつけ本番のスパイ旅行だった。その様子を、1979年(昭和54)に毎日新聞社から出版された『日本陸軍史』所収の、塚本繁『中野学校“卒業演習”の旅―開戦直前の大陸をゆく―』から引用してみよう。
中野学校実技自動車(中野学校校庭).jpg
中野学校実技飛行機(所沢飛行場).jpg
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 天津、北京、張家口、大同、包頭と足跡をのばし、帰路は奉天を経て朝鮮経由で帰国した。/移動間には必ず兵要地誌の候察が課せられ、宿舎につくと作業に追われ、与えられた課題を消化したものであった。夜の巷に出掛ける時も民情候察がついて回った。(中略) 北京では紫禁城、天壇、天安門等々の歴史的建造物を見学、民族遺産を見てこの国の人々の民情を深く考えさせられた。/これらの見学行動にもいくつかの課題が与えられ、またその土地の憲兵の監視からいかに疑念を持たれずに行動するかも、演習の題目とされていた。不審尋問を受けたグループもあったが、巧みに偽瞞して身分の秘匿は貫き通した。
  
 この卒業演習は学生18名と教職員数名からなり、1941年(昭和16)8月に広島港を出発している。乗船と同時に乗組員から怪しまれ、すでに奇異の眼で見られはじめた。
 旅行の途中では、すでに任務に就いている中野学校OBとひそかに落ちあい、現地での体験談を聞いて取材したり、各地の特務機関のアジトに立ち寄っては研修を受けたりしている。卒業演習は、教官から頻繁に出題されるレポートの消化と、憲兵隊の追尾からいかに逃れるかが大きな課題だったようだ。おそらく、彼ら一行には制服憲兵ばかりでなく、私服憲兵も尾行に張りついていたのではないかとみられる。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 包頭は戦線の第一線で、駐屯する部隊もその住民も緊張していた。奥地より送られてくる麻薬の摘発は、各地とも厳重を極めたが、この包頭では特に厳しく、駅に降りたとたん一行は憲兵の臨検を受けてしまった。団長と憲兵とのやりとりを見ているわれわれの眼前で、嬰児を抱いた姑娘が憲兵に尋問されていた。(中略) 全行程を終わり関釜連絡船で下関に上陸した時点で、各人が携行していた旅行カバンの点検があり、莫大な資料と重要書類の内容を開陳されそうになった危機もあったが、何とかうまく切りぬけてこの集団が何者であったか露見することなく、中野の校舎に帰ったのである。
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 この一行は、おもに英語やマレー語を習得した「南方班」と、ロシア語を習得した「北方班」の学生が主体だったので、中国語を話せる人物がほとんどいなかったようだ。中野学校には、対中国作戦用に「中国班」と名づけられた専門クラスが存在したが、1941年(昭和16)8月の卒業演習では「中国班」から学生が選抜され、各チームに通訳として同行していたようだ。中野学校出身の諜報・謀略要員は、兵務局分室(工作室=ヤマ)を通じて陸軍科学研究所Click!の多種多様な「兵器」を装備し、戦地や占領地へと散っていくのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:卒業演習で北京駅ホームに立つ、陸軍中野学校の学生たち一行。
◆写真中上は、中野学校の実質“司令部”があった戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)跡の現状。は、1970年代の空中写真にみる兵務局分室跡。は、戦争末期に遊撃戦(ゲリラ戦)を専門に教授した静岡県の陸軍中野学校二俣分校。
◆写真中下は、中野学校校庭で自動車の運転実技演習。そのほか、電車・機関車・飛行機などの実技演習があった。は、所沢飛行場Click!の飛行学校で行われた飛行機の操縦実技演習。は、松竹の大船撮影所で実施された宣伝工作実技演習の記念写真。
◆写真下からへ、バスで目的地に到着した中野学校の卒業演習一行。北京の喫茶店にて。特務機関のアジト訪問。大同の石仏前での記念写真。先に潜入している中野学校OBとの接触取材。常に憲兵や軍人からうさん臭げに見られる卒業演習一行。

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