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陸地測量部1/10,000地形図のゲラ校正。 [気になる下落合]

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 参謀本部陸地測量部が明治期より制作していた、1/10,000地形図の校正アカ入れ原稿を入手した。下落合が掲載されているのは、「東京府武蔵国/北豊島郡/豊多摩郡」という所属特設地区名称と呼ばれるものだが、そのうち「一万分一地形図東京近傍十七号(共二十七面)」つまり「新井」とタイトルされた地形図の校正原稿だ。
 地図の校正は、当該の地図が発行されるまでに何度か繰り返し行われていると思われるが、入手したアカ入れ原稿は初校=第1校紙版で、1929年(昭和4)10月16日の青いタイムスタンプが押されている。つまり、翌1935年(昭和5)に発行される1/10,000地形図のゲラ刷りに校正の“アカ”を入れたものだ。この校正作業には、校正科の水澤科長をはじめ6人の人物が校正作業にかかわっている。水澤科長は、校正科第1班の班長も兼務していたようで、第1班の要員3名と第3班の要員3名の計6名による校正で、それぞれ作業が完了したことを示す捺印が行われている。
 地図の校正とは、一般に出版や新聞、広告などの各業界で行われている作業とほとんど変わらない。すなわち、文字や線の欠け、かすれ、つぶれ、にじみ、抜けなどを指摘したり、余分な文字・線や紙面の汚れを「トル」にしたり、誤字・脱字や文字のゆがみ、地図記号の見やすさ、文字と線の重なりによる判読のしにくさをチェックすることだ。ときに、修正原稿と見比べて記号の抜けを指摘するような書きこみも見られる。
 たとえば、入手した校正アカ入れ原稿を参照すると、図面の右上枠外に記載されている「東京府武蔵国/北豊島郡/豊多摩郡」の「東」の文字がかすれ、「豊」の文字がつぶれているのが指摘されている。また、1/10,000地形図には欠かせない註釈、図面の右下枠外に記載される予定の2行の文章が、丸ごと欠落している。そこで、赤ペンでわざわざ「図郭外右肩ノ地名ハ本図所属特設地区ノ名称ナリ/真高ハ東京湾ノ中等潮位ヨリ起算シ米突ヲ以テ示ス」と、ていねいに挿入文を手書きで加えている。一般的な校正なら、タテに2本の棒を引いて文章が入ることを示し、「従前」あるいは「同前」と書き入れて、地図の前版を確認し同様の文章を挿入しろ……というような指示になるところだが、陸地測量部校正科の仕事は非常に厳密でていねいだ。
 また、戸山ヶ原Click!の西側に建設されている陸軍科学研究所Click!の敷地に、次々と施設の建物が増えているため、敷地内に記載してあった「陸軍科学研究所」の文字が読みにくくなってしまった。そこで、同研究所の北側に展開する戸山ヶ原Click!の余ったスペースへ、「陸軍」を省き新たに「科学研究所/技術本部」の文字を入れ、敷地内に記載された文字を「トル」ように指示している。また、市街地化が進み家屋が多く建ちはじめると、地形図では個別に家屋を収録・記載せずに、斜め線で市街地を表現するようになる。その斜め線=市街域記号を「囿線(ゆうせん)」と呼ぶようだが、1929年(昭和4)の時点で市街化が急だった、戸塚町上戸塚宮田エリアや長崎町大和田エリアでは、「囿線」の抜けやかすれが指摘されている。
 中には、なんの指示あるいは指摘だか不明なものもある。たとえば、目白通りの葛ヶ谷(西落合)に近い南側の道路端(下落合1555番地あたり)と、北側のなにもない等高線が描かれた斜面(葛ヶ谷57番地)の2ヶ所に、「電」という文字が記入されている。こんな位置に「電話局及自働電話」や「電信局」はないし、電力会社の「高圧電線」鉄塔や「無線電信電柱」もないし、ましてや「発電所及変電所」も存在しない。翌1930年(昭和5)に発行された1/10,000地形図を参照すると、「電」の指摘に対して特になにかが加えられたり、変更された形跡が見あたらないのだ。
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 さて、落合地域にしぼって校正原稿を見ていこう。ただし、同地形図「新井」には上落合や葛ヶ谷(西落合)の全域はカバーされているが、いちばん広い下落合(現・中落合/中井含む)の東側(目白駅側)の一部が切れている。大倉山(権兵衛山)Click!から東の山手線際までは、「一万分一地形図東京近傍十一号(共十九面)」すなわち「早稲田」に掲載されているのだが、当該地図の校正原稿は入手できなかったのでご紹介できない。
 まず、文字や記号の「かすれ」や「欠け」、誤字などが指摘されている。いちばん目につく誤植は、葛ヶ谷41番地の自性院Click!が「白性院」になっていることだ。さっそく、「自」という赤文字で修正が入れられている。また、落合町役場の「〇」記号に「欠」というアカ文字(記号が一部欠けている)が添えられているのと、目白通りをはさんだ北側の長崎町大和田4098番地(現・二又交番の位置)にある、「電話局及自働電話」記号がかすれているのがチェックされている。同様に、長崎町の天祖社にも「欠」のアカ文字が入れられているが、やはり鳥居マークの一部が欠けているようだ。さらに、氷川明神社Click!前の下落合駅には、「しもおちあい」の「し」が一部膨らんで記号のように見えるためか、「し」の赤文字が添えられている。
 そのほかの校正は、道路や等高線の線がかすれていたり、にじんでいたり、既存の線とズレていたり、あるいは曲がっていたりを指摘して修正するアカ入れが多い。川筋を眺めてみると、旧・神田上水や妙正寺川では、ところどころの土手が途切れ(かすれ)、まるで川が決壊しているように見える箇所にはアカ囲みがほどこされている。河川土手でインクの乗りが濃く、記号がつぶれて見えるところにも、ていねいにアカが入れられている。また、「妙正寺川」の「寺」の背後に家屋が重なって読みにくいので、製版上でなんとかしてくれるように丸囲みしている。同じく、線路に添えられた「西武鉄道」の「武」と「道」の背後にも道路が重なって読みにくいので、アカ丸が記されている。
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 わたしも校正のアカ入れは、1980~90年代にかけて仕事でさんざんやっているので、こういう校正原稿を見るとつい修正したくなる。すぐにも手直ししたいのは、目白文化村Click!からつづく谷名としてふられている「不動谷」Click!を、青柳ヶ原Click!西側の谷間(西ノ谷)の本来の位置へ移動するアカ入れとw、「前谷戸」を字名ではなく第一文化村からつづく谷戸名として、谷間の等高線上に配置するアカ入れ修正だ。ww また、1929年(昭和4)10月の時点で採取された目白文化村の家々があまりに少なすぎるので、「もっとマジメに調査・採取してね」と現場の要員に指示を出したくなる。w
 さらに、もっとも標高が高い城北学園(現・目白学園)の丘上(標高37.5m)の字名が、大正末の数年間だけ、なぜか低地にふられていた字名「中井」にされていたのが再び「大上」にもどっているのはよしとして、どうしてそのような大きな調査ミスないしは誤採取が発生したのかを徹底的に解明するよう、現場の調査員へ強く検証要求することだろうか。大正中期ごろ、堤康次郎Click!による目白文化村の開発と同期するように、不動谷が西へ移動しているのと、字名「大上」(大正中期以前)→「中井」(大正末)→「大上」(昭和初期以降)の再々変更には、多分に政治的な臭気が漂っているようだ。
 上記の、1929年(昭和4)10月16日(第1校)のような校正作業を踏まえて、翌1930年(昭和5)に発行された陸地測量部による1/10,000地形図(昭和四年第三回修正測図)を参照すると、アカ入れ校正をした部分の修正結果が観察できて面白い。前年の校正で指摘された部分、特に文字や記号、道路などに関しては、ほぼきれいに修正されているが、修正のミスや積み残しも見つけることができる。
 たとえば、大きなものでは長崎町大和田4103番地の表現だ。校正者は、区画にはすでに家々が建てこんでいるので1戸だけ採取された家を「トル」にして、道路に囲まれた区画全体を斜めの「囿線」=市街記号で覆えと指示しているように解釈できる。ところが、刷り上がった1930年(昭和5)の地形図では、区画全体に囿線をかけたものの「トル」に指定された1戸ぶんだけが削除され、その結果、囿線がかからない「トル」跡が“白ヌキ”状態になってしまった。こういうところ、製版担当者は融通のきかなかい生真面目な人物だったのかもしれない。
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 先に、目白文化村の家々がスカスカでちゃんと採取されていないと書いたが、昭和初期のこの時期、東京郊外を担当する取材調査員は次々と建設される住宅や商店を前に、てんてこ舞いの忙しさだったろう。変化した状態を克明に写しとろうとすれば、おそらく修正レベルではなく、もう一度イチから地図を作るほどの手間がかかったにちがいない。マンパワーもコストにも限りがある中、どこかで妥協をして入稿をしなければ、翌年の定期発行には間に合わなかったにちがいない。それは、ゲラ刷りを見つめてアカを入れつづけた、各班の校正者たちについてもいえることだろう。

◆写真上:1926年(大正15)7月発行の、陸地測量部による1/10,000地形図「新井」。
◆写真下:陸地測量部が制作した1/10,000地形図「新井」の、1929年(昭和4)10月16日付け「第一校紙版」と、翌1930年(昭和5)発行の「昭和四年第三回修正測図」。

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鈴木良三から清水多嘉示へ1928年。 [気になる下落合]

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 少し前に、パリの清水多嘉示Click!にあてた中村彝Click!の代筆による手紙Click!をご紹介したが、そのとき筆跡の比較用に青山敏子様Click!からお送りいただいた、鈴木良三Click!の手紙を掲載している。きょうは、1928年(昭和3)1月25日に書かれた、下落合に住んだ美術家たちも多く登場する、その手紙の内容について書いてみたい。なお、鈴木良三は手紙を書いた当時、落合地域の西隣りにあたる野方町江古田931番地に住んでいた。
 鈴木良三は、中村彝が死去すると丸3年間、下落合で中村彝画室倶楽部Click!の運営を手がけ、1926年(大正15)に岩波書店から彝の遺稿集『芸術の無限感』が出版され、茨城に彝の墓石が完成すると、虚脱状態に陥ってしまったようだ。医師の活動もやめ、帝展に落選して意気消沈しているとき、「洋行していらっしゃい」という妻の言葉に励まされてパリ行きを決意している。
 洋行費を捻出するために、彼は当初、佐伯祐三Click!と同様に画会を計画して資金を集めようとするが、郷里の水戸にいる知人から旧・水戸藩・徳川國順(侯)などのパトロン人脈を紹介され、毎月200円ずつのパリ滞在費を支援してもらえることになった。当時、パリをめざした洋画家の中では、彼は非常に幸運なケースだろう。1928年(昭和3)3月末、日本郵船の「白山丸」で日本を出港し、パリへ着いたのは5月の初めだった。船中では、1930年協会の木下孝則Click!や水彩画家の中西利雄、女優の長岡輝子らといっしょになった。すなわち、清水多嘉示は同年5月16日に帰国しているので、鈴木良三とはすれちがいだったことがわかる。
 清水多嘉示は、鈴木良三の手紙を落手したあとすぐに返事を書き、ほどなくパリを出発したのだろう。鈴木の手紙は、パリでの生活費に関する問い合わせだった。
  
 清水多嘉示様
 もう何年か前からあなたにお便りして、あなたからも巴里のお話でもお聞きしたいと思ひながら、つい怠けてゐました。もう随分おなれになつたことゝ思ひます。定めし、よい御勉強がお出来になつたことであらうとお察しゝてゐます。/あなたに最後にお逢いしたのは大正八年ごろの夏、平磯の海岸で、中村彝さんの療養中でしたね。あれか(ママ)此方彝さんの周囲も随分変りましたけれども、お話すれば長いことになりますが、彝さんの施設もゝう三年以上になります。氏の周囲にあつた友達やお弟子達によつて其の整理が恰度三年かゝつたわけです。/今では遠山五郎君も、曾宮一念君も、同じやうな病気で寝てゐます。中村画室倶楽部といふ名によつて旧友達が結ばれてゐましたが、その間に遺作展や、画集、遺稿集等の出版、墓碑の建設、などを完了していよいよ全部整理がつきましたので、俱楽部も愈々解散することになりました。私などもその整理委員になつてゐましたが、遺物の整理などに当つて随分淋しい気持で、涙新たなるものがありました。委しいことはお会ひした時にお話しいたしませう。
  
 文中の「彝さんの施設」というのが、中村彝の死後、酒井億尋の援助で運営されていた中村彝画室倶楽部(鈴木良三の著作によっては中村彝アトリエ保存会)のことだ。同俱楽部が、1928年(昭和3)の初旬に解散していることがわかる。そして、翌1929年(昭和4)4月より、佐伯祐三アトリエで留守番をしていた鈴木誠Click!一家が、彝アトリエを購入して住みはじめている。
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 1928年(昭和3)は、下落合623番地の曾宮一念が体調を崩し、夏になると八ヶ岳にある富士見高原療養所Click!で療養することになる。そして、新聞に掲載された佐伯祐三の遺作展Click!を滞欧作展と勘ちがいし、しばらくはその死を知らないままでいた。また、彝アトリエの常連のひとりだった遠山五郎Click!は、鈴木良三の手紙から数週間後の同年2月に病没している。
  
 今度の整理で解散となれば愈々私等も思ひ残すところが無くなりますから、私も、どうにかして巴里の方へ乗り出したいと、目下その準備中です。森田亀之助氏や大久保作次郎氏に会つてあなたのお噂さなどお聞きして憧れの情念を禁じかたきものがあります。で、この夏には大てい出かけられさうですが、それ迄に研一君や、あなたなども帰国なさるやうなことのないやうに願つてゐます。私はシベリヤを通つていきたいと思ひますが、それこそ西も東も分らないのですから何分、巴里着の上はよろしくお願ひしたいと思ひます。巴里着の上は出来るだけ切りつめた生活をせねばなりませんが、一体生活費はどの位あつたら足りるでせう。日本にゐて聞くのは大てい苦労なしの落ついた生活をして来た人達ばかりで、自炊生活のギリギリといふ経験をして来た人に逢ひませんので、本当の豫猶のない安価な生活の程度を知ることが出来ません。もし、あなたの知つて居らるゝ方で、そんな生活をして居らるゝ方がありますか、ありましたら、どの位の程度でやつてゐるかお知らせ下さいませんか。
  
 下落合630番地の森田亀之助Click!や、下落合540番地の大久保作次郎Click!は、清水多嘉示とはパリでいっしょだったが一足先に帰国しているので、鈴木良三はパリの様子を訊きに両人のもとを訪ねたものだろう。ふたりとも、あまりおカネの心配をする必要のない「苦労なしの落ついた生活」をしてきているので参考にならず、パリでの最低限の生活費を教えてほしいと問い合わせている。
 また、「研一君」とは中村研一Click!のことだが、パリのリヨン駅で鈴木良三を出迎えたのは、中村と角野判治郎のふたりだった。ただし、中村研一もほどなく同年中に帰国している。当時、パリの日本人会は薩摩治郎八Click!藤田嗣治Click!を中心とするサロンと、福島繁太郎Click!を中心とするサロンが存在し、互いが競い合っていた。鈴木が渡欧するとき、徳川國順は薩摩と藤田あてに紹介状を書いてくれたが、現地の熊岡美彦Click!などの情報から、彼は薩摩治郎八=藤田嗣治サロンには近づかなかったようだ。
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 鈴木良三は、熊岡美彦からファリゲールのアトリエにいる勝間田武夫を紹介されている。勝間田がいたアトリエは、少し前まで清水多嘉示が住んでいた部屋だった。その様子を、1999年(平成11)出版の梶山公平Click!・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社)から引用しよう。
  
 勝間田君のいるアトリエは、以前清水多嘉示君の住んでいたところで安物だろうが天井光線のいい住居兼アトリエで、頑丈なアトリエが一階と二階に五、六坪あったようだ。私の借りた部屋の通りの真向かいの建物の中に鈴木千久馬君がいて、同町内ということで時々私を訪ねてくれ、やがて近所の服部亮英君と勝間田君の四人で、スペイン旅行やイタリア旅行、それにひと冬をカーニュ・シウメールで一軒の庭付きの広い家を借りて楽しい共同生活を送ったこともある仲間となった。
  
 鈴木良三は、フランス語があまり得意でなかったためか、いろいろな要望を清水多嘉示に伝えている。つづけて、手紙から引用してみよう。
  
 尚もし御面倒でなかつたらいろいろ細々した御注意もお知らせ下さいませんか。/それから、もしお願ひすることが失礼でなかつたら、巴里の地図へあなたの簡単な説明でも加へて送つていたゞけたら、こんなうれしいことはありません。フランス語も簡単なものなら読めますからどうかお願ひ出来ないものでせうか。/私は出来るだけ永く行つてゐたいと思うんです。此方で習つた仏語なんて発音が駄目だらうと思ひますから、あなたの御経験のやうにしたいと思つてゐます。/それから私が行くにつきまして、あなたから何か御注文でもありましたらお聞かせ下さい。/どうぞ何分よろしくお願ひします。これで失礼しますが、研一君、熊岡氏、佐伯氏にお会ひでしたらよろしくお伝へ下さい。
     一月廿五日 / 東京市外野方町江古田(エゴタ)九三一 / 鈴木良三
  
 ちゃっかり、メモを添えたわかりやすいパリのガイドマップが欲しいなどと要望しているけれど、清水多嘉示がそれにどこまで応えてあげられたかはさだかでない。清水が鈴木良三の手紙を受けとった時期、5年ぶりの帰国準備に追われている最中だったからだ。パリでのガイダンスは、中村研一たちに任せて帰国しているのかもしれない。
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 さて、文中に登場する「佐伯氏」とは、もちろん下落合661番地の佐伯祐三のことだ。鈴木良三がパリへ到着してから、わずか3ヶ月後に死去することになる。鈴木は上掲の書籍で、こんなことを書いている。「佐伯君については、彼の親友山田新一君が本当のことを詳しく書いているので[『佐伯祐三』]、私の知っているだけを、感じたままをここに記した次第」。あえて「本当のこと」と書いているのは、佐伯の死後、にわかに「親友」になったらしい阪本勝Click!の、怪しげな「証言」類をさしているのにちがいない。

◆写真上:薬王院の森に面していた、下落合800番地の鈴木良三旧居跡(左手)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に撮影された画家たちの記念写真。は、1927年(昭和2)に藤田嗣治サロンで開かれた大久保作次郎送別会の記念写真。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに写生旅行をする曾宮一念(右)と鈴木良三(左)。中は、1979年(昭和54)に制作された鈴木良三『大洗の日の出』。は、1928年1月25日に鈴木良三が清水多嘉示へあてた手紙の前半部。
◆写真下は、1985年(昭和60)に『日の出』を制作する87歳の鈴木良三。は、1990年(平成2)に制作された鈴木良三『そなれ松』。は、同手紙の後半部。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。

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ご近所報道が多い1920年1月12日朝刊。 [気になる下落合]

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 約100年ほど前、1920年(大正9)の正月は、前々年から世界中で猛威をふるっていた「スペイン風邪」(インフルエンザ・パンデミック)の脅威が、相変わらずつづいている不安な年明けだった。世界で約5億人が罹患し、その5分の1にあたる約1億人が死亡したとされる、人類史上でも最悪のパンデミック重度指数5のインフルエンザ禍だ。
 東京でも、同様に一家全滅やオフィス・工場閉鎖のニュースが、新聞紙上で連日報道されるような状況だった。1920年(大正9)1月12日(月)に東京で発行された各紙にも、悲惨な事件が社会面にいくつか掲載されている。たとえば下落合の南側、淀橋町角筈ではこんな出来事が起きていた。同日に発行された読売新聞の紙面から、少し引用してみよう。
  
 感冒で一家殆ど全滅/父母兄弟が五人死んで一子残る
 流行性感冒の猖獗は云ふも更であるが茲に此感冒に依つて一家殆ど全滅の悲惨に遭つた事実が現れた 府下淀橋角筈六五二電気局運転手内山忠助(三九)は妻すみ(三六)の間に長男忠策(一七)桓爾(七つ)宗雄(四つ)平陸(一つ)の四人の子があつたが此度の感冒に罹つて先長男忠策が五日午前二時死亡し、続いて妻すみが同日午後死亡し当歳の平陸又一昨十日午前六時死亡し続いて忠助は同日午前十一時相次いで倒れ今四歳の宗雄一人も病床にあると云ふ始末で親近の者数名に電気局から二名の局員が出向いて世話をして居たが悲惨目も当られぬ有様である
  
 この内山家のような家庭ケースが、東京に限らず伝染病が流行しやすい日本の都市部ではあちこちで見られた。当時はウィルスによる伝染病の医学的な概念がなく、伝染性の強い「感冒」=風邪と考えられていた。日本では1,500万人が罹患し、約40万人が死亡している。
 同記事が掲載された、1月12日(月)の東京朝日新聞および読売新聞の社会面には、落合地域とその周辺域で起きた事件や関連する出来事が、くしくも集中的に報道されている。冒頭の写真は下落合の南、戸塚から大久保に隣接して展開していた戸山ヶ原Click!の正月風景で、1月11日(日)に行われた凧揚げ大会をする「少年団」を撮影したものだ。
 東京朝日新聞に掲載されている写真だが、画像が粗くておおよそ場所を特定できない。おそらく、山手線の西側に拡がる大正期には「着弾地」と呼ばれた戸山ヶ原Click!で、しじゅう子どもたちが入りこんでいたエリアClick!だろう。いまだ、陸軍科学研究所Click!陸軍技術本部Click!も板橋から移転してきていない。
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 下落合310番地の相馬邸Click!に建立されていた、太素神社Click!(妙見社)の神楽殿が不審火で炎上したのも、同日の新聞各紙で報道されている出来事だ。この事件については、すでに以前の記事で詳細をご紹介Click!している。この事件で、神楽殿の床下にいたとみられるひとりのホームレスが焼死したため、のちに同社が事件による穢れを祓うためか、相馬邸の敷地内で移築されている可能性についても触れた。
 また、同じ紙面には徳川義親Click!が、代々尾張徳川家で所蔵してきた美術品を1ヶ所に集め、名古屋に徳川美術館を起ち上げる構想・計画を発表した様子も掲載されている。そのインタビューの一部を、同日の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 義親侯が家宝の陳列館を設立
 新しく名古屋に侯自身の科学的研究から保存法の苦心を語る
 熊狩りに名高い徳川義親侯は御先祖代々倉庫の裡に秘むる数多の美術品をば今度旧藩地名古屋大曾根の本邸に移しそこに五六十万円をかけて新な一大美術館を建設して一般の為めに公開する筈である、侯はその家宝公開の話に熱心な態度で語る『尤もこれ迄も年に一度位は名古屋の本邸では書画なり刀剣なり漆器織物杯部分的に陳列して一般に見せた、一寸の間の事とて折角見ようと思ふ人にも物足りない心持で帰した気の毒を屡々感じて居たのが一つ大きく永久的に公開して見せたいと考へた動機である、建築家とも相談中でまだほんの私の腹案が出来上つたばかり、何時頃着工するか一向定めて居らぬ、陳列しようといふのは全部一万点もあらうが矢張り刀剣が多く彼是八百口もあらう、世の中にたゞ二三口といはれる銘の入つた正宗や不動正宗もある、また有名なあの南泉和尚が禅問答の中に猫を叩き斬つたといふその南泉正宗もあるかと見ると昔使った鉈のやうな物の果まで研究者の材料だけはあらう(後略)
  
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 徳川義親がインタビューで答えているように、尾張徳川家は特に刀剣類のコレクションが充実している。中でも包丁正宗Click!は、目白の細川家永青文庫に収蔵されている包丁正宗(武州奥平松平家伝来)とともに、国宝に指定されている名物だ。そのほかにも、国宝や重要文化財、重要刀剣に指定されている作品が、尾張徳川家には多数伝来している。
 さて、実際に徳川美術館がオープンしたのは、徳川義親の発表から1931年(昭和6)に尾張徳川黎明会が設立され、約15年が経過した1935年(昭和10)になってからのことだ。インタビューの当時、徳川義親は麻布の邸に住んでおり、目白通りをはさんで下落合の北に接した目白町の戸田邸Click!跡には、いまだ転居してきていない。徳川美術館が実現したのは、徳川邸Click!が目白町4丁目41番地に移転したあとのことだった。
 同日の東京朝日新聞には、興味深い記事もみられる。東京の川は下水のようであり、住宅は火災に弱い薪のようなものだから、なんとかしなければならないという東京市会議員の声を紹介している。そして、安心安全な都市的施設を整備するには、どれぐらいの予算が必要かを算出した「東京市大改造」計画を公表した。だが、どんぶり勘定で算出したずさんで法外な予算額に対し、当時の田尻稲次郎市長は「百年の大計を実行難とは受取れぬ」と、1世紀を費やしても取り組むべき課題として前向きな姿勢を示している。
 このとき、もし新たな「東京市大改造」計画に少しでも着手していれば、3年後に襲った関東大震災Click!の惨禍は多少でも低減できていたのかもしれない。だが、同計画はほとんどすべてが画餅のままで、1923年(大正12)9月1日を迎えることになる。1920年(大正9)から約100年が経過した現代も、東京市(東京15区→旧・大東京35区Click!→現・東京23区)は、当時とは比較にならないほどの課題やリスクを、相変わらず抱えつづけている。
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 東京朝日新聞と読売新聞に掲載された、同一のニュースを比較すると面白い。東京朝日がストイックでクールな表現なのに対し、読売はまるで現代の週刊誌のように煽情的でセンセーショナルな表現が目立つ。相馬邸の神楽殿炎上にしても、「焼跡より疑問の死體/下落合の火事で」(東京朝日)とあっさりなのにに対し、「相馬子爵邸内から黒焦の死體現る/昨夜邸内の神楽殿炎上/最初の発見者は宮本運転手」(読売)と、なにやら江戸川乱歩Click!横溝正史Click!の世界で起きた事件のようになってしまうのだ。

◆写真上:1920年(大正9)1月11日(日)に、戸山ヶ原で行われた少年団の凧揚げ大会。
◆写真中上は、1920年(大正9)1月12日(月)の読売新聞に掲載されたインフルエンザ・パンデミック(スペイン風邪)の悲惨な記事。は、下落合の相馬邸神楽殿の炎上事件を伝える同日の東京朝日新聞。は、相馬邸の神楽殿炎上事件を伝える同日の読売新聞。
◆写真中下は、下落合の相馬邸内に建立された太素神社(妙見社)。相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵の『相馬家邸宅写真帖』より。は、同日の東京朝日新聞に掲載された徳川義親インタビューによる徳川美術館の建設構想。は、徳川美術館収蔵の名物包丁正宗()と目白台の細川家永青文庫収蔵の名物包丁正宗()。
◆写真下は、細川家の宝物を保存する永青文庫。は、同日の東京朝日新聞掲載の「東京市大改造」記事。は、凧揚げ大会が開かれた戸山ヶ原(山手線西側)の現状。

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飛行士は熊岡美彦アトリエを見たか。 [気になる下落合]

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 中村彝Click!が、下落合464番地へアトリエを建設する以前、地上駅だった目白停車場Click!の改札を抜け、豊坂を上りきったあたりの右手に、熊岡美彦がアトリエを建てて住んでいる。当時の住所でいうと、落合村下落合443番地ないしは高田村金久保沢1127番地あたりの村境だ。
 おそらく、洋風なアトリエ建築の意匠はしていただろうが、1917年(大正6)に初めて中村彝を訪ねた鈴木良三Click!はこのアトリエを見落とし、あとになってから気づいている。熊谷美彦は、1913年(大正2)に東京美術学校を卒業しているから、落合地域にアトリエを建てたのは画家としてスタートしたばかりのころ、盛んに文展へ作品を出品していた20代の時期だった。
 1889年(明治22)に茨城県の水戸で生まれた熊岡は、大きな料亭を経営していた裕福な実家の出で、おそらく目白駅直近のアトリエも実家の十分な援助で建設しているのだろう。同じ茨城出身の中村彝とは当時、どの程度交遊があったのかは不明だが、少なくとも中村彝が下落合にアトリエを建設する1916年(大正5)以前から、熊岡美彦は豊坂上の一画にアトリエを建てて住んでいたらしい。このあと、熊岡は巣鴨に転居し、やがて高田馬場へ大きなアトリエと絵画研究所を建設している。
 その様子を、1999年(平成11)に木耳社から出版された、梶山公平Click!・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』から引用してみよう。
  
 目白駅の裏手のダラダラ坂道を登って右側に熊岡美彦さんのアトリエがあったらしいが、大正六(一九一七)年に初めて私が目白駅に下車して叔父さんに連れられて中村彝さんを訪問したころはもう熊岡さんは巣鴨の方へ引っ越してしまっていたのではないかと思うのだが、或いはまだここで制作して居られたのかも知れない。その頃はまだ画壇のことなど何も知らなかったので、熊岡さんの名も、作品も、どこの人かも関心がなかったのだ。
  
 熊岡美彦は美校を出たあと、少しして満谷国四郎Click!牧野虎雄Click!と親しく交流していたようだが、大正初期にはふたりとも、落合地域へいまだ転居してきてはいない。目白駅前(西側)の丘上、まばらに点在する家々の間で、洋風だったとみられる熊岡美彦アトリエは、ポツンと周囲から目立っていただろうか。あるいは濃い緑の樹間に隠れ、ひっそりとしたたたずまいだったろうか。
 1916年(大正5)に、中村彝が屋根にベルギーの瓦を用いてアトリエを建てたとき、その意匠は近隣からかなり目立ったようだ。アトリエの南側には、細い道の桜並木越しに林泉園Click!の谷戸が口を開け、木々が繁っていたために見通しは悪かったかもしれないが、北側の目白通り側からは一吉元結製造工場Click!目白福音教会Click!の建物の間に、朱色の屋根や大きな採光窓がよく見えただろう。この朱色の屋根は、陸軍所沢飛行場から飛来する航空機からもよく見えたらしい。
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 そう証言するのは、鈴木誠Click!のご子息である建築家・鈴木正治様Click!だ。1988年(昭和63)に発行された、『常陽藝文』6月号から引用してみよう。
  
 (中村彝アトリエは)洋館といっても本式のものではなく、建築材料も悪い。しかし、ふつうの大工ではとても出来ないものです。当時の絵かきの収入では専門の建築科には頼めないはずだから、私が思うには、たぶん専門家の卵の学生に頼み、それと大工の裁量で造った建物じゃないでしょうか。部分的には専門的なところが見られますからね。当時、所沢の飛行場から飛んでくる陸軍の飛行機が飛行の目標にしたといわれる屋根の赤瓦はベルギーから取り寄せたものです。赤というよりオレンジ色の瓦です。一方、壁は日本の伝統的な土壁で、上に、しっくいに薄墨の色つけしたものを塗っています。(カッコ内引用者註)
  
 この文中で、所沢飛行場から陸軍の航空機が飛来した「当時」とは、はたして大正期のいつごろの話だろうか。
 1911年(明治44)、所沢並木に陸軍所沢飛行場が完成すると、さっそく徳川好敏Click!がフランス製のアンリ・ファルマン機で所沢の空を飛んでいる。翌年、徳川好敏は所沢飛行場から「会式二号機」と呼ばれた国産機で、日本初飛行Click!を実現した代々木練兵場まで飛行し「帝都訪問飛行」を成功させた。そして、1916年(大正5)には所沢に陸軍飛行大隊が設置され、1920年(大正9)には所沢陸軍飛行学校が設立されている。
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 このような経緯をたどると、下落合上空に飛来した陸軍機は「帝都訪問」の目印として、山手線の目白駅と、その手前にある中村彝アトリエの鮮やかな朱色をした屋根を目標にした可能性がある。高い高度を飛べなかった当時の陸軍機は、目標が見えはじめると機首を真南へと向け、代々木練兵場Click!の仮設飛行場を眼下にとらえただろうか。所沢と代々木の連絡便として、また飛行大隊の設置後は隊員の訓練飛行として、さらに飛行学校の設立後は学生たちの実技飛行で、「帝都訪問」は繰り返し行われたのだろう。
 先日、陸軍所沢飛行場跡(現・所沢航空記念公園)を訪ねてみた。園内にある所沢航空発祥記念館に立ち寄ったのだが、そもそも同館には開設時から学芸員が不在なのか、残念ながら旧・陸軍所沢飛行場に関する紀要などの詳細な資料類は存在しなかった。また、日本における航空機(技術)の発達史的な展示は充実しているのだけれど、なぜか第二次世界大戦前後の展示がほとんど省かれていて、「帝都防衛」のために迎撃戦闘機が配備された経緯も、また1944年(昭和19)から敗戦までつづいて空襲の記録も展示されていない。
 ミュージアムショップには、かっこいい戦闘機や旅客機などのプラモデルとおもちゃ、航空関連のグッズばかりで、かんじんの資料類がほとんどまったくない。空に夢をふくらませる、子ども相手の記念館ならそれでいいのかもしれないが、少なくとも所沢飛行場の詳細な史的資料ぐらいは制作して、備えておくべきではないだろうか。
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 大正初期、中村彝アトリエが建設される少し前、所沢飛行場から「帝都訪問飛行」を行っていたパイロットたちは、なにを目標にしていたのだろうか。目白駅前の丘上に建っていた、熊岡美彦アトリエの屋根色は不明だけれど、住宅もまばらな樹間に見える西洋館は目白停車場とともに目立っていただろうか? それとも、低空とはいえ太陽の光を受けて輝く、1898年(明治31)に竣工した淀橋浄水場Click!や旧・神田上水などを、代々木練兵場の仮設滑走路へと向かう空路の目標にしていたのだろうか。

◆写真上:現在は公園となっている、1911年(明治44)に開設された陸軍所沢飛行場跡。
◆写真中上は、地上駅だった目白駅前から下落合の丘上へと通う豊坂。は、坂の途中に安置された金久保沢の弁天社(市来嶋社)。は、復元された中村彝アトリエの屋根。実際は、もう少しオレンジがかった朱色の瓦だったと思われる。
◆写真中下は、所沢飛行場の上空を飛ぶ徳川好敏のアンリ・ファルマン機。は、複葉機の操縦席で撮影された所沢飛行場の徳川好敏。は、いくつかに分解された飛行機を運ぶ所沢飛行場の牛列。滑走路上で、飛行直前に組み立てられていた。
◆写真下は、偵察機などに詰まれた九六式航空写真機。ここの記事で取り上げている1936年(昭和11)の空中写真は、このカメラで撮影されたとみられる。は、陸軍所沢飛行場の観測所や格納庫。右奥に見えているのは、陸軍航空技術学校と思われる。は、1946年(昭和21)3月撮影の米軍に接収された所沢飛行場。建物も破壊されているが、滑走路のあちこちには爆弾のクレーターを埋めた痕跡が写っている。

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巽聖歌が歩く屋敷林の落ち葉焚き。 [気になるエトセトラ]

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 いまでも晩秋から冬にかけて、近所にある旧家の庭先や畑地Click!の中で、落ち葉を燃やす香ばしい煙が立ちのぼることがある。厳密にいえば、落ち葉を低温で燃焼させる焚き火は、ダイオキシンやCOxなどの有害な物質をまき散らすことになり、東京都の条例違反あるいは消防法に抵触するのかもしれないが、季節を象徴させる風物詩的な情景や匂いが、わたしを含め近隣のみなさんも好きなのか、誰も文句をいうことはない。
 おそらく、戦前の落合地域では、ケヤキやクヌギなど武蔵野を代表するさまざまな落葉樹の落ち葉を燃やす焚き火の白い煙が、住宅街のあちこちから空へと立ちのぼっていただろう。近所に漂う落ち葉焚きの匂いや、風にのって運ばれてくる薄っすらとした煙から、暮れや正月が近いことを肌で感じとれたのではないだろうか。こちらでも、近衛町Click!にあった下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の安井曾太郎アトリエClick!で行われていた、イモをくべた焚き火Click!の様子をご紹介したことがある。
 わが家でも毎年暮れになると、ケヤキの落ち葉掃きClick!は欠かせない年中行事……というか、腰を痛める大仕事だが、45リットルのゴミ袋に入れ「燃えるゴミ」として処分している。東日本大震災時の福島第一原発事故Click!以来、線量計で放射線を測定Click!してレポートClick!をアップするのも恒例の行事Click!となってしまった。できれば、子どものころのように焚き火をして楽しみたいところだが、近隣の住宅事情がそれを許さない。
 小中学生のころ、よく焚き火をしてはキャンプの練習にと、飯盒炊爨(はんごうすいさん)をしたものだ。燃料にしていたのは、広葉樹の落ち葉ではなく海岸沿いに防風・防砂林として植えられた、クロマツ林の落ち葉や枯れ枝だった。マツ脂を含んだクロマツの枯れ葉は、火を点けるとアッという間に燃え上がり、焚きつけの新聞紙などいらず、焚き火にはとても面白くて重宝な燃料だ。松林と自宅Click!の庭との間に、草刈りをして焚き火ができる2畳ほどのスペースをつくった。周囲の草とりをして、砂地の地面を少し掘り下げた場所で、小学生のわたしはよく親に焚き火をせがんだ。
 なぜか、そこでイモやクリを焼いた憶えはないけれど(親たちがサツマイモClick!嫌いだったからだろう)、キャンプを想定した食事づくりはさんざん楽しんだ。クロマツの枯れ葉は、別に冬にならなくても1年じゅう樹下に落ちるから、季節を問わず燃料には困らなかった。焚き火は、ヒヨドリの鋭い鳴き声が響きわたる晩秋、あるいは息が目に見えるようになる初冬の趣きだが、山でのキャンプ好きClick!だったわたしはセミたちの声とともに、夏の想い出としてもオレンジ色をした炎がよみがえる。
 晩秋の焚き火は、どこか物悲しく悲劇的な物語をその情景に含んでいるようで、小坪港も近い逗子海岸で子どもたちが起こした焚き火へ、かがみこむようにして身体を温めている、ゆきずりの哀れな老人を描いたのは国木田独歩Click!だ。1978年(昭和53)に学習研究社から出版された、『国木田独歩全集』第2巻所収の『たき火』から引用してみよう。
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 げに寒き夜かな。独ごちし時、総身を心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌もて心地よげに顔を摩りたり。いたく古びてところどころ古綿の現われし衣の、火に近き裾のあたりより湯気を放つは、朝の雨に霑いて、なお乾すことだに得ざりしなるべし。/あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆も足袋も、紺の色あせ、のみならず血色なき小指現われぬ。一声高く竹の裂る音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁は足を引かざりき。/げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足を替えつ。十とせの昔、楽しき炉見捨てぬるよりこのかた、いまだこのようなるうれしき火に遇わざりき。いいつつ火の奥を見つむる目なざしは遠きものを眺むるごとし。火の奥には過ぎし昔の炉の火、昔のままに描かれやしつらん。鮮やかに現わるるものは児にや孫にや。
  
 さて、東京で落ち葉焚きが禁止されたのは、なにも現代ばかりではない。戦時中の東京では、落ち葉は重要な“資源”として位置づけられ、炊事や風呂焚きなどに使える“資源”を焚き火をして燃やすとはケシカランと、軍部からクレームが出て禁止されていた。また、焚き火の煙は「敵機による空襲の攻撃目標になる」ので全面禁止という、わけのわからない命令も軍部から出ている。
 米軍の空襲を経験し、その爆撃法を科学的ないしは論理的に分析・検証していれば、B29は精密な空中写真Click!や地図をベースにレーダーを用いて攻撃目標を補足し、正確に爆撃を行っていたことは明らかだったはずだ。これも、夜間に光るホタルは爆撃の目標になるから、川辺のホタルClick!をすべて殺せという錯乱したヒステリックな命令と同系統のものだろう。それとも、軍部に近い行政組織がその意向を先まわりをして「忖度」し、軍部からと偽って「命令」を伝えていたものだろうか。
 そんな不可解な命令を受けた人物が、落合地域の西隣りにある上高田地域に住んでいた。1941年(昭和16)に、JOAK(NHKラジオ)の依頼で童謡「たきび」を作詞した、詩人の巽聖歌(とまりせいか)だ。巽聖歌は、童謡の作詞依頼を受けると、いつも歩いている近所の通い道の情景をモチーフに、さっそく詩を創作した。初冬になると、空に手を拡げたような樹影から無数の落ち葉が降りそそぐ、ケヤキの大樹が繁った道沿いで、落ち葉焚きをする風景を詩にたくしたものだ。焚き火の中では、ときにクリやイモを焼く香ばしい匂いが漂ってもいただろう。
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 ♪かきねの かきねの まがりかど
 ♪たきびだ たきびだ おちばたき
 ♪あたろうか あたろうよ
 ♪きたかぜぴいぷう ふいている
 作詞・巽聖歌で作曲・渡辺茂による『たきび』は、戦時中は軍部の圧力で禁止されていたが、戦後になると唱歌として小学校の音楽授業でも唄われるようになった。
 巽聖歌は、1930年(昭和5)ごろから上高田にある萬昌院功運寺Click!に隣接するあたりに住んでいる。当時の住所でいうと、上高田306番地界隈になるだろうか、ほとんど上落合と隣接するエリアだ。ちょうど同じころ、上高田82番地には歌人の宮柊二Click!が転居してきて住んでおり、また、すぐ近くの功運寺北東側にあたる上高田300番地には、詩人の秋山清Click!が住みついてヤギ牧場Click!を経営していた。
 巽聖歌は、故郷の岩手にいた時代から、鈴木三重吉Click!が主宰する児童雑誌「赤い鳥」Click!に強く興味をもち、童謡や童話を創作するようになった。20歳のときに近くの教会で洗礼を受け、キリスト教徒(プロテスタント)として讃美歌318番『主よ、主のみまえに』なども作詞している。北原白秋Click!に師事し、東京へやってくると童謡作品を次々と「赤い鳥」へ投稿していった。
 JOAK(NHK)からの依頼で作詞した『たきび』は、巽聖歌の散歩道にあった上高田の旧家・鈴木邸(鈴木新作邸?)の屋敷林に繁る、樹齢300年を超えるケヤキの落ち葉焚きを見て作詞したものだ。新井薬師駅の南東、当時の地番でいうと上高田256番地あたりの敷地だ。下落合からでも散歩で歩ける距離圏だが、いまでもケヤキの大樹を含む濃い緑の屋敷林がそのまま残り、巽聖歌が散歩した当時の風情をしのばせてくれる。
 ♪さざんか さざんか さいたみち
 ♪たきびだ たきびだ おちばたき
 ♪あたろうか あたろうよ
 ♪しもやけ おててが もうかゆい
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 現在でも、「♪かきねの かきねの~」と唄われる明治期に造作された竹垣を、そのまま目にすることができる。おそらく、鈴木家が庭で焚き火をしても、近隣の住民は火にあたろうと集まりこそすれ、誰もクレームなどつけやしないだろう。

◆写真上:明治期につくられ、そのまま継承されている鈴木邸の高い竹垣。
◆写真中上は、冬になるとオレンジ色の炎が恋しくなる焚き火。は、正月の“どんど焼き”Click!用に用意されている下落合氷川明神社の焚き火鉢。は、巽聖歌も目にしたかもしれない上高田氷川明神のどんど焼きが行われる結界を張った焚き火場。
◆写真中下上左は、上高田に住み『たきび』を作詩した巽聖歌。上右は、功運寺の近くにあった上高田の巽聖歌邸。は、師事した北原白秋の一門とともに。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる屋敷林が濃い鈴木邸とその周辺。
◆写真下は、現在の鈴木邸とその周辺の風情。は、『たきび』が発表された1941年(昭和16)の斜めフカン空中写真にみる巽聖歌の通い道(想定)。
昨年12月31日に測定した、南側のベランダ排水溝の放射線量。四谷地域つまり新宿区南東部にある原子力資料室が、2015年まで測定していた数値(0.06~0.10μSV/h)に比べ、北西部の緑が多い目白崖線沿いは、いまだに0.20μSV/hを超える倍以上の放射線量が、ケヤキなど樹林の葉へ濃縮されて含まれ、地上に降り注いでいるのがわかる。
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お獅子がくるから開けときな。 [気になる下落合]

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 あけましておめでとうございます。相変わらず拙い長文で読みにくく、ご迷惑をおかけしていますが、きょうは短めに。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
  
 子どものころ、正月になると家には獅子舞いがやってきた。わたしの海辺の家には、ときどき思い出したように訪れることはあったが、恒常的にやってくることはなかった。小学校の高学年になるころからは、一度も姿を見たことがない。ただし祖父の家には、毎年欠かさず獅子舞いは姿を見せた。
 1月2日に祖父の家を訪れると、午前中にはどこか近所から馬鹿囃子(ばかっぱやし=江戸祭囃子)の音色が聞こえてきて、徐々にこちらへ近づいてくる。門戸をガラガラと引き玄関を開ける音とともに、家じゅうにお囃子が鳴り響くと、家族たちは「お獅子だ!」と玄関へ駆けつけた。関東の獅子舞いは、竹の横笛と太鼓の囃子方をバックに、獅子のひとり舞い(+囃子方2人=計3人)が基本だ。江戸期の町内によっては、3人獅子で舞っていたようだが、わたしの知る限り祖父母の代からずっとひとり獅子だった。
 獅子に頭を噛んでもらうと、邪気(邪鬼)が払えるとか頭がよくなるとかいわれたけれど、噛んでもらっても特に頭がよくなったとも思えないので(逆に幼児のころは真っ白になってトラウマ化した)、ただ怖い思いをしただけの印象しかない。初めは、囃子方の笛と太鼓は生演奏だったが、わたしが10歳をすぎるあたりからだろうか、人手不足から録音テープになり、獅子舞いはたったひとりで各戸をまわるようになった。それでも、獅子舞いがやってくれば喜んで迎え入れ、当時のおカネで500円札か1,000円札を噛ませてやると、喜んでサービスのおどけた舞いを見せてくれた。
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 江戸東京(というか東日本全体)の獅子舞いは、民俗学的に分類すると「風流系獅子舞い」というのだそうだが、その原型となる歴史はさかのぼれないほど古い。中国や朝鮮半島からもたらされた獅子舞いとは異なり、古代日本から行われてきた「ひとりシシ舞い」が、その原型として基底にあるといわれている。ここでいうシシとは、中国で用いられている抽象化されたライオンの「獅子」ではなく、日本カモシカ(アオジシ)や日本鹿(シシ)、猪(シシ)など動物神(シシ神はときに山ノ神と結びつく)を模した頭(かしら)をかぶり、腹に太鼓をつけて打ち鳴らしながら舞う「ひとりシシ舞い」だ。
 その多くは、悪神(霊)退散や五穀豊穣、山ノ神やときに海ノ神へ大猟(漁)や安全などを祈願するおめでたい舞いで、古代日本からつづく祭礼のひとつといわれている。関東地方で古くから成立している「ひとりシシ舞い」もその系統で、必ず「シシ1匹=舞い手1人」の原則が踏襲されている。いつのころからか、頭にかぶるシシ頭(がしら)は中国のライオンを模した獅子と習合し、江戸期に入るとめでたい祭囃子(ばかっぱやし)と溶けあって、正月の縁起物であり風物詩として、大江戸の街中に定着していったのだろう。
国周「獅子舞」.jpg
 わたしが中学2年生のとき、祖父は1月2日の午前9時ごろに目をさますと、寝床で甘い葡萄酒(ポートワイン)をひっかけ、寝起きのタバコを一服吸い終えると、「きょうはお獅子がくるから、門と玄関のカギを開けときな」と、そばにいた伯父にいいつけた。伯父は、いわれたとおり門と玄関のカギを開け、祖父のもとへもどってみると、寝床で再び眠っている。しばらく、そのまま寝かせておいたが、いやに静かなので枕もとに近寄ってみると、すでに息をしていなかった。
 わたしの家に電話があったのは、その1時間後ぐらいだったろうか。それまで、伯父は心臓マッサージをしたり、かかりつけの医者を呼んだり、「救心」を口にふくませたりといろいろ救命処置を施したようだが、獅子舞いが訪問する直前に、祖父は80歳で他界した。この日が、祖父の家で獅子舞いを断わった唯一の正月だったろう。
 80歳の祖父が、医者を必要とする重篤な病気にもかからず、ポートワインをひっかけ一服してから眠るように死んでいけたのは、待ち遠しい獅子舞いを嬉々として迎え入れ、毎年噛まれつづけためでたい効用のおかげだろうか。世間は正月でもあり、また80歳のポックリ大往生でもあったためか、通夜や葬儀は暗くならずどこか陽気だったのを子ども心に憶えている。わたしもできれば、おしまいはこのように逝きたいものだ。
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 それから40年を超える歳月が流れ、街中で獅子舞いを見かけることは、ますます少なくなった。浅草や下谷地域では、いまだ獅子舞いが健在で各戸をまわっているとウワサで聞いたが、学生時代を含め38年にもなるけれど、わたしは落合地域でただの一度もお獅子を見かけたことがない。そのうち、町内をまわった獅子舞いのにぎやかしも、伝統芸能として無形民俗文化財に指定されたりするのだろうか。
 江戸祭囃子と獅子舞いの歯音や鈴音がしない正月は、やはりどこかさびしい。

◆写真上:江戸東京をまわった、獅子舞いの獅子頭(ししがしら)。
◆写真中上:江戸期の歌川国芳が描く、浮世絵『春のにぎわひ』(部分)。
◆写真中下:江戸から明治にかけて活躍した、豊原国周の浮世絵『獅子舞』。
◆写真下:残念ながらホンモノではなく、江戸東京獅子舞いの模型。

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