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神近市子が観察する時雨の“座”。 [気になる下落合]

神近市子「わが青春の告白」1957.jpg
 1957年(昭和32)に毎日新聞社から出版された、神近市子Click!『わが青春の告白』の装丁が面白い。ひとつの時代が終焉し(敗戦で明治政府に由来する大日本帝国が滅亡し)、まったく新しい国家と時代を象徴するかのような写真だ。そこには、落合地域の細い道路をはさんで「隣人」同士だった“ふたり”が象徴的に写っている。
 ひとりは、1936年(昭和11)に竣工した帝国議会議事堂Click!(現・国会議事堂)であり、吉武東里Click!らの設計チームで造りあげた“作品”だ。関東大震災Click!で大手町の大蔵省Click!が壊滅したあと、しばらくは上落合470番地にあった吉武東里邸Click!で議事堂の設計業務が継続されている。そして、手前に写っているのが、1957年(昭和32)の当時は衆議院議員だった神近市子だ。ちょうど、市川房枝らとともに推進してきた売春防止法が、売春街(の利権)を残したくて反対する自民党を選挙に乗じて巻きこみ、ようやく前年に国会を通過させて施行される前後に撮影されたものだろう。
 一時期、議事堂を設計した上落合470番地の吉武東里Click!と、上落合469番地の神近市子は、細い二間道路をはさんで「隣人」同士だった。当時、神近市子夫妻の住んでいた家は、周囲の住民(というか当時の上落合の町会が主体だろう)から「アカの家」と呼ばれていたが、神近自身はかつて共産主義者だったことは一度もない。戦前は、共産主義者も民主主義者も、はたまた自由主義者もアナーキストも、政府に異議をとなえて反対する人物はすべて「アカ」、ないしは「非国民」と呼ばれたレッテル張りの時代だ。
 上落合の神近市子は、近くに住む佐多稲子(窪川稲子)Click!以上に、近隣からは冷たい目で見られていたのだろう。神近邸の南西側には吉武東里が大きな屋敷をかまえており、細い路地をはさんで東隣りの上落合467番地には古代ハスClick!で有名な大賀一郎Click!が、西隣りの上落合470番地には東京朝日新聞社の鈴木文四郎Click!記者と、三間道路をはさんだ上落合670番地の向こう隣りには古川ロッパClick!が住んでいたが、この中で神近市子と交流していそうなのは、彼女が元・新聞記者(東京日日新聞文化部)だった時代のよしみで鈴木文四郎ぐらいだろうか。
 さて、神近市子の『わが青春の告白』には、さまざまな人物たちが登場し描かれているが、ちょっと目についたのが長谷川時雨Click!の人物像だ。『女人藝術』Click!の編集部から、別の職業につくなら「救世軍の女士官」で、花にたとえるなら「うまごやし」などとされてしまった神近市子だが、彼女は『女人藝術』時代に長谷川時雨と周囲の女性たちを、ジャーナリストらしいクールな眼差しで観察している。
 同書に収録された「人の浮沈」から、少し引用してみよう。
  
 一枚の写真には、正面には今井邦子さんと長谷川時雨さんとが並んでいる。このふたりはハラでは仲のよい人達ではなかったが何か会合などの時にはきっと並ぶか近くにいる回り合わせになった。というのは、座席などということにやかましい人たちであったから、会の世話人は心得ていて、かならず上座とか目だつ席にふたりをつけさせたものである。今井さんはさすがにそうでもなかったが、長谷川さんは私どもを招待するような時でも、自分が正座につかれたものである。年齢が私どもとはかなり開いていたことと、長谷川さんのそれまでの環境――芝居、舞踊、ジャーナリスト関係の人たちの間では先生扱いをされてきた人であったから、その生活習慣には、下座にいることはなかった人と私どもは納得していた。が、それでもその変な作法にはクスクス陰で笑ったものである。
  
神近市子「わが青春の告白」奥付.jpg 神近市子.jpg
神近市子邸1936.jpg
 神近は、長谷川時雨が「先生扱い」されてきたので、その「生活習慣」からおのずと上座ないしは正座についてしまうのだろうとしているが、おそらくもっと以前からの、この地方ならではの根が深い習慣に気づかなかったのではないだろうか。特に長谷川家のように、娘を大切に育て上げてきた江戸東京の家庭では、“跡とり”としての女性はきわめて重要な存在だったろう。
 商家(というか武家でも見られた)では、たとえ男子が生まれたとしても、最初から跡継ぎとして育てられることはそれほど多くはなかった。いちばん仕事ができる男子(店舗なら店員で職人なら弟子、武家なら頭のいい二・三男などのいわゆる“やっかい叔父”候補)を、娘の婿養子に迎えて跡とりとすることが、江戸期の早い時期からこの(城)下町Click!では浸透し恒常化している。富裕な家庭で、なに不自由なく周囲から甘やかされて育った男子には、そもそも跡継ぎとして期待などしないという習慣は、明治期になってもさほど変わらなかった。また、男子が跡継ぎになったとしても、周囲の環境や状況から嫁いできた“上さん”がヘゲモニーを握るのが通常だった。
 この慣習は大江戸の町人に限らず、幕府の御家人や小旗本などの階層にも浸透しており、家庭内では代々女性がマネジメントやヘゲモニーを掌握するのが、江戸東京地方ではごく自然ななりいきだった。これは、薩長政府がいくら中国や朝鮮半島の儒教思想に由来する「男尊女卑」の規範を押しつけようとしても、彼らの地元ならともかく、足もとの江戸東京人にはほとんど浸透しなかったゆえんだ。
 いや、別に江戸東京地方Click!に限らず、古来からの原日本の性格が色濃く残る、あえて「東女(あづまおんな)」Click!などと呼称された古(いにしえ)の時代から、東日本ではあたりまえの風土や文化だったろう。ましてや、長谷川時雨が自身の起ち上げた『女人藝術』の集まりで上座ないしは正座につくのは、代々女性を中心にしてまわっていた社会環境や、身に染みていた生活習慣にしたがえば、なんら不自然でも特別なことでも、ましてや傲慢なことでもなかったにちがいない。
 また、こういう“親分肌”の女性は、江戸東京の(城)下町にはどこにでも必ずいるもので、別に長谷川時雨でなくても家庭や地域のマネジメントを一手にこなしている女性であれば、その中核の位置にいるのはなんら不自然ではない。この大前提となる江戸東京地方の(というか原日本の)基層・基盤Click!に由来する風土や文化が理解できなければ、長谷川時雨のような女性の感覚や姿勢、行動、思想などを理解することはむずかしいだろう。そういえば、手下(てか)を大勢使いながら、浅草寺の祭礼時に境内へ出る売(ばい)を一手に仕切っている、TVのドキュメンタリー番組にもなった女親分はいまだお元気だろうか?
青鞜社記念写真.jpg
女人藝術記念写真.jpg
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 ちょっと余談だが、いつだったか招待した女性といっしょに料理屋へ上がり、軸が架かる床を背に座らせようとしたら、一瞬ギョッとしてドギマギしていたのを思い出す。訊いてみたら、あんのじょう親世代が西日本方面の出身者だった。「招待してんのはこっち側だし、ここは江戸東京なんだから、中国や朝鮮半島のサルまね習慣など、とっとと棄てちまいな」といっても、上座には男が座るものと徹底して育てられた、子どものころからの哀しい性質(さが)なのだろう、しばらく居心地の悪い顔をしていた。江戸東京が地元の女性が同じ立場なら、スッと勧められるまま自然に上座へつくところだろう。
 また、『女人藝術』の集まりでは、目立ちたがり屋と酒の飲めない連中(れんじゅ)が前面に押し出されたようだ。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 席次などを気にしないようでやっぱり気にする人は、岡本かの子Click!さん、小寺菊子さんであった。これも私どもはたいてい上座のほうに押し出しておいた。林芙美子Click!さんが出席している写真には二枚とも前列にいる。これは偶然であろう。吉屋信子Click!さんも出ている写真では、たいてい前列である。うるさい人たちは上席のほうに追い上げておいて、私どもは末座の隅に陣どって勝手に楽しんだものである。/上座のほうはたいていお酒など飲めない人たちである。末座ではちょっぴりでも飲めないと幅がきかない。深尾須磨子、富本一枝、市川房枝、山高しげりなどという人なら、二、三杯の酒に別に迷惑がるようなことはない。その二、三杯の酒にごきげんになってユーモアやウィットがとび、ワヤワヤ、ガヤガヤはじめると、もうどこが上座かわからなくなる。話は末座が中心でしきりに進行してゆく。そして陽気な人たちがそこに集ってしまう。酒をのまない宇野千代Click!さんも、村岡花子Click!さんも来るし、小唄の春日とよさん、新派の河合の奥さん、舞踊の小山内登女さんもお愛想に来て下さるというふうである。
  
 この文章で、「下座」に集まって「ワヤワヤ、ガヤガヤ」やっている情景が、この地方の男たちの姿に近似しているだろうか。神近市子のように陽気な女性たちは、「下座」にいる男たちの輪に集まってきて飲みながら、いっしょに「ワヤワヤ、ガヤガヤ」するだろうし、酒が飲めない女性は自然にお開きとなって喫茶店にでも流れるか、家庭でもグループでも地域でも、明日の“仕切り”やマネジメントを気にかけなければならない“上さん”連中は、「しょうがないな」という目つきで「下座」を一瞥しながら、煙たがられないうちにスッと消えていなくなる(気持ちよくお帰りいただく)……。
長谷川時雨1931.jpg
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 神近市子が記憶にとどめている『女人藝術』の情景は、女性たちだけの集まりだからというのではなく、この地方なら特に男女をことさら意識することなく、どのような集まりでも昔から起こりうる現象であり、たまたま「上座」へ女性が座る情景が、神近の故郷である九州ではめずらしかったせいで、「座」を気にする女性たちの記憶とともに、ことさら印象深く残ったのではないだろうか。

◆写真上:上落合つながりが面白い、神近市子『わが青春の告白』(毎日新聞社)の装丁。
◆写真中上は、同書の奥付()と著者の神近市子()。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「アカの家」と呼ばれていた神近市子邸とその周辺。
◆写真中下は、『青鞜』と『女人藝術』のメンバーが重なる記念写真。左から神近市子、平塚らいてう、岡田八千代Click!、富本一枝、長谷川時雨、生田花世。は、『女人藝術』の記念写真。左から奧むめお、帯刀貞代、神近市子、宮崎白蓮Click!、岡本かの子、長谷川時雨、平林たい子Click!、村岡花子。下は、中條百合子・湯浅芳子Click!帰国歓迎会の記念写真。前列左から2・3人目が中条百合子と湯浅芳子だが、前列の長谷川時雨と後列の吉屋信子が、こちらのカメラを向いて笑っているのがなんとなくおかしい。
◆写真下は、1931年(昭和6)の『女人藝術』3周年で撮影された長谷川時雨。は、1928年7月の『女人藝術』創刊号()と1931年(昭和6)7月の同誌3周年記念号()。

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下落合を描いた画家たち・刑部人。(4) [気になる下落合]

刑部人「睡蓮」1931.JPG
 刑部人Click!の孫にあたる中島香菜様Click!より、1931年(昭和6)に制作された『睡蓮』の画像をお送りいただいた。ちょうど、吉武東里Click!に依頼していた下落合(4丁目)2096番地(現・中井2丁目)のアトリエが竣工し、刑部人が島津鈴子と結婚した直後に描かれたものだ。キャンバスの裏には、中島様によれば「画題『睡蓮』刑部人(ルビ:オサカベジン)/東京市外下落合二〇九六」と記載されている。100号を超える、180cm(H)×130cm(W)の大画面だ。
 描かれた場所は、下落合2096番地にあった刑部人アトリエClick!西側の湧水池だ。このとき、新婚のふたりは刑部人25歳で鈴子夫人は22歳だった。水面(みなも)のスイレンが白い花を咲かせる池の畔に、日傘をさしてたたずむのはもちろん鈴子夫人だ。ふたりは、作品の制作年と同じ1931年(昭和6)3月28日に結婚し、竣工したアトリエへは4月7日に転居してきている。スイレンが咲いているところをみると、結婚から3~4ヶ月後の夏に描かれたもので、右手(南側)からの光線の具合から昼すぎあたりの情景だろう。
 画面の右枠外、つまり湧水池の東側には竣工したばかりの刑部人アトリエがあり、画面左手に見えかけている急斜面の上には、鈴子夫人の実家である島津源吉邸Click!の大きな屋敷が建っている。また、池の西側、すなわち画家の背後には島津家が敷地内に造成した階段のある四ノ坂が通い、右手(南側)の大谷石による築垣の下には中ノ道Click!(下の道=現・中井通り)が通っているという位置関係だ。
 島津家の湧水池は古くから形成されていたとみえ、大正中期にアトリエの敷地を探して下落合を訪れた、金山平三Click!らく夫人Click!も鮮明に記憶している。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 現在ではアヴィラ村など言っても誰も知らないであろう。しかし戦前は或る程度俗称として通用したらしく、当時の設計書には「阿比良村」Click!と書かれたものも残っており、私の書架の縮刷『大辞典』(平凡社)には、「アヴィラ…(一)-略(二)東京市下落合にある文化村。文人、画家主として住む。」と記されている。/らくによれば、麦畑に続く裏の草原には野兎が走り廻っていた。前方を見下ろすと、岡の下には滾々と溢れて尽きない天然の泉があり、ひろびろとした原野の中ほどには落合火葬場の煙突だけが目立っていた。
  
 刑部人の子息である刑部昭一様Click!によれば、戦後でさえ目白崖線の急斜面に鉄パイプを刺しただけで、飲料に適した清廉な地下水が噴出していたということなので、おそらく急斜面に堆積された関東ロームの数十センチ下には、豊富な地下水脈を含むシルト層が露出寸前の状態で横切っていたのではないかと思われる。
島津源吉1926.jpg
刑部人アトリエ1936.jpg
島津とみ・源吉・源蔵19320607.jpg
 この湧水池は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみられるように、大正期から昭和の最初期にかけ、島津家のテニスコートとして埋め立てられていたようだが、刑部人アトリエの建設とともに改めて庭の睡蓮池として造成されたようだ。
 そして、昭和10年代になると再びもとのように埋め立てられ、中島香菜様によれば再度テニスコートとして利用されていた時期があったらしい。厳密にいえば、池のある敷地は刑部人邸の敷地エリアではなく、丘上の島津邸が管理する土地だったとみられる。やがてテニスコートの跡地には、四ノ坂に面してハーフティンバーの印象的な西洋館が建設されている。この家で生まれ、3歳になるころまですごしているのが、刑部人のClick!の子息にあたる炭谷太郎様Click!だ。
 少し余談だが、目白崖線の斜面や麓に形成された天然の湧水池は、その多くが戦後の宅地開発で埋め立てられ暗渠化(下水道化)されたけれど、現在でもそのいくつかの名残りを観察することができる。下落合だけでも、御留山Click!には弁天池をはじめ昔ながらの池が連なっているが、目白崖線の東端にある椿山Click!には、椿山荘の麓にある池をはじめ蕉雨園の藪中の湧水池(手つかずで天然池のまま)、同じく関口芭蕉庵Click!の湧水池、細川庭園(旧・新江戸川公園)の広い庭園池、旧・田中角栄邸の庭園斜面にある湧水池、学習院の血洗池Click!など、降雨による河川への流出率Click!が高いとはいえ、いまでも崖線斜面からは滾々(こんこん)と清水が湧きつづけているのがわかる。
 1931年(昭和6)の『睡蓮』画面に、話をもどそう。先ほど、画家がイーゼルを立てていた位置をおおよそ推定したが、刑部人は湧水池の南西側から北東を向き、池畔にたたずむ鈴子夫人をとらえて描いていると思われる。画面を仔細に観察すると、泉からの小流れをうまく取りこんで造られた池の端には、いまだ造成間もない時期のせいか、分厚い板かトタンのようなものをタテに挿して(仮に?)縁どられているのがわかる。おそらく、刑部人アトリエの西側に改めて造成された池の、最初期の姿ではないだろうか。
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 ちょうど1年後の翌1932年(昭和7)6月に撮影された、島津源吉夫妻や2代目・島津源蔵が写る写真(バッケClick!の下にある睡蓮池なので、刑部アトリエ西側の池と同一のものだと思われる)を見ると、すでに池の端には板ではなく、石垣風のしっかりした縁石が組まれ変化している様子が見てとれる。同時に、池全体の規模も縁のカーブなどの様子などから、『睡蓮』に比べて写真のほうがより大きくなっている印象を受ける。ひょっとすると、刑部人の『睡蓮』はあまり人手が入れられず、ほぼ自然のままに形成された湧水池を描いたものであり、翌年の写真にとらえられた池は、庭園池として少しサイズも大きくなり、改めて造成しなおされたあとの姿なのかもしれない。
 刑部人アトリエの池については、忘れてはならないエピソードがある。下落合(4丁目)2080番地にアトリエClick!を建てて住んでいた、金山平三Click!の“水遊び”だ。刑部人アトリエの建設とほぼ同時期に、島津家の庭池が整備されてくると、金山平三はさっそく大きなタライを抱えながらやってきた。まるで、佐渡のタライ舟のように池へタライを浮かべると、それに乗っては池の水面で遊んでいる。タライに座りながら、佐渡おけさClick!でも唄って踊っていたのかもしれない。
 刑部人は、少々呆気にとられたかもしれないが、鈴子夫人は実家の島津邸で暮らしているころから奇妙奇天烈なことばかりする、“おかしなおかしな金山平三”Click!は周知のことなので、「金山先生、今度はそうきたのね」とニヤニヤしつつ、池の畔でお茶でも用意しながら「あらあら、先生、お気をつけあそばせ。この池、けっこう深くて冷たいんですのよ」と眺めていたのかもしれない。
 中島香菜様からは、刑部人が独身時代の1927年(昭和2)、4年後に結婚することになる鈴子夫人を描いた『島津鈴子像』もお送りいただいた。そして、刑部人の子息である刑部佑三様Click!が運営されている「刑部人のアトリエ」Click!には、同作を背景に座る学生服姿の刑部人をとらえた貴重な写真が掲載されている。『島津鈴子像』は、刑部人が東京美術学校の西洋画科4年生のころの作品だ。
刑部人「島津鈴子像」1927.JPG
刑部人1927.jpg 刑部人夫妻1931.jpg
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刑部人「睡蓮と金山先生」モノクロ.jpg
 さて、東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画の進展とともに、金山平三の東隣りには下落合753番地の満谷国四郎Click!が、西隣りには大久保百人町の南薫造Click!がアトリエを建てて転居してくるはずだったが、1925年(大正14)に起きた東京土地住宅の破たんで、アビラ村計画自体も白紙にもどってしまった。だが、その後も画家たちは、島津源吉邸や金山アトリエを訪れつづけている。特に島津源吉の子息である島津一郎Click!が師事していた満谷国四郎は、島津邸を訪問する機会も多かったのだろう。島津邸の庭先を描いたとみられる、特徴的な満谷作品もあるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1931年(昭和6)制作の刑部人『睡蓮』。以下、刑部人関連の画面や写真は、中島香菜様と刑部佑三様よりご提供の「刑部人資料」より。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる島津邸と刑部人アトリエ建設予定地。刑部邸敷地の西側に池はなく、いまだ島津家のテニスコートになっている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる刑部人アトリエ。木々に遮られて見えないが、アトリエの西側に池があった時代だ。は、同池の畔で撮影されたとみられる記念写真で島津源吉(中)ととみ夫人(左)、そして島津製作所の2代目・島津源蔵(右)。写真の裏には『睡蓮』が描かれた翌年、1932年(昭和7)6月17日の記載がある。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる描画ポイント。池を埋め立てた西洋館は、いまだ建設されていない。は、刑部人アトリエ解体後(2006年)に撮影した池があったあたりの様子と豊富な地下水脈が横切るバッケ(崖地)。は、目白崖線のあちこちに見られる泉のひとつで旧・田中角栄邸の庭園にある湧水源。
◆写真下は、1927年(昭和2)に島津邸内で制作された刑部人『島津鈴子像』。中左は、『島津鈴子像』とともに撮影された1927年(昭和2)の刑部人。中右は、1931年(昭和6)に撮影された新婚早々の刑部人・鈴子夫妻。は、制作年が不詳の金山平三『蓮』。おまけのは、刑部人アトリエ隣接の睡蓮池でタライ舟を浮かべて佐渡おけさを踊る金山平三と、「困っちゃうな。まさか……、毎日やってくるつもりなのかなぁ?」と呆れて見まもる鈴子夫人の想像図。(爆!)
炭谷太郎様より、池の位置はもう少し東寄りになるのではないかというご意見をうかがった。確かに『睡蓮』画面の左手には、バッケ(崖地)がそれほど迫ってはいない。また、のちに建設されるハーフティンバーの西洋館は、刑部アトリエよりもやや敷地が高かったという証言もいただいた。池の全景をとらえた写真かより高精細な空中写真があれば、もう少し正確に規定できるのだが……。
 以下、炭谷様が想定されたテニスコート(大正末時点)と池の位置関係を、GoogleMapの現状にあてはめた図版およびメール(抄)とともにご紹介したい。
地図(刑部アトリエ).jpg
メール(抄)--------
 コートのサイズが当時と今と大きく変わってないとすると添付の画像のようなイメージになります。黒い線は平地と崖の境目、島津家の三人が立っている位置もこの線上のどこかだと思います。空色の線は山から平地にかけて存在した深さ30~40cm溝(多分山から流れる水が削り取った溝)で、それがあるのでテニスコートはその西側にあったと思います。画像から推察するに、やはり刑部アトリエはテニスコートを潰しえ建てられたと思わざるを得ません。金山先生がオケに乗ったという池はあり得て青い楕円の位置であろうと思います。崖と接する部分は小さな池として残り我々の子供のころまでありました。
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大倉山(権兵衛山)の伊藤博文別邸。 [気になる下落合]

伊藤博文邸跡1.JPG
 もともとは町会名簿に掲載されていた、時代的にはもう少し前の文章のようだが、1998年(平成10)に落合第一特別出張所から発行された『新宿おちあい―歩く、見る、知る―』には、長谷部進之丞Click!の興味深い文章がイラスト入りで掲載されている。『古事随想』と題されたそれには、大正末から昭和初期にかけて見られた下落合の風景や伝承が、少年時代の想い出とともに活写されている。
 1931年(昭和6)に国際聖母病院Click!と補助45号線(聖母坂)が竣工すると、青柳ヶ原Click!と名づけられた南へゆるやかに下る丘は消滅するが、第三文化村Click!がつづく谷間=西ノ谷(大正中期以前は不動谷Click!)は、相変わらず子どもたちの格好の遊び場になっていた。寺の息子である、西ノ谷(不動谷)の北側にアトリエをかまえた佐伯祐三Click!が、パーティー用の小ぶりなクリスマスツリーClick!を沼地の端から伐りだしていた谷戸だ。子どもたちにしてみれば、西ノ谷は虫たちの宝庫だったらしい。
 先の長谷部進之丞『古事随想』から、当該部分を引用してみよう。
  
 <聖母>病院の裏は急坂になっていて谷間があり、沼もあり、雑木林が茂っていました。この場所を通称「たにやま」と言っていました。この“たにやま”は、子供たちにとっては絶好の遊び場所でかぶと虫をはじめとして沢山の昆虫が棲息していました。又、赤土の崖があり、その下の方を掘ると、時々粘土が出て来るので、採掘し粘土細工として私たちの遊びの一つでした。雑木林と笹薮には人が歩いて自然に出来た細道があり、沼を見ながら釣堀を越えると目の前は徳川男爵家の静観園(現在の全農鶏卵・保谷ガラスの上の方です)という広い敷地の別邸でぼたんの花で有名です。毎年五月のぼたんの咲く季節になると開園し、竹の柵を巡らし順路にそって各種の色とりどりのぼたんが咲き乱れ、又下の方の池の向かい側の藤棚には薄紫の花が垂れ下がって、その奥一帯は、つつじが美しく咲き絶景でした。又、小さな茶屋があり、お茶の接待もありました。勿論近辺の人々、プロの写真家、画家など大勢押し寄せて賑わい、私も学校の図画の時間に写生に来たものでした。(<>内引用者註)
  
 「たにやま」という呼称は初めて聞いたが、小流れのある谷間に下ると周囲を山に囲まれているような風情の、当時は典型的な谷戸地形だったのだろう。第三文化村の家々も、大谷石による築垣はなされていたものの、森の中に点在するような光景だったのは当時の写真Click!からもうかがえる。赤土の下の「粘土」は、関東ロームの下にある地下水脈を含むシルト層のことで、同層が露出した斜面からは豊富な水が沁みだしていたと思われる。その清水を利用して、釣り堀Click!が開業していたのはご紹介ずみだ。
 西坂の丘上に建っていた徳川邸Click!のボタン園「静観園」Click!は、西ノ谷に面した東側の斜面に移動したあとの姿だ。徳川様の記憶によれば、もともと徳川邸(旧邸)の北側に展開していた静観園は、より規模の大きな新邸(西洋館)が計画されると、昭和初期に北側(現・西坂公園あたり一帯)からバラ園Click!の東側にあたる斜面に移された。その移設の過程で、植木屋ないしはドロボーの仕業だろうか、たくさんのボタンの苗が行方不明になったエピソードは、徳川様の証言としてこちらでもご紹介している。ちなみにHOYA(保谷硝子)本社は、クリスタル事業の終了とともに下落合から西新宿へと移転している。
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第三文化村2.JPG
 つづいて、長谷部進之丞『古事随想』から引用してみよう。
  
 聖母坂を目白通りに向かって上ると右手裏(現在のコンビニストアと調剤薬局)に「洗い場」(現在でも少しですが清水が湧いている)と言ってコンクリート造りの立派な貯水池があって、そこには冷たくて美味しい清水が音を立てて湧いて洗い場に注いでおり、バケツにアッという間にいっぱいになりました。近在の農家の人々や地域の人々が洗い物をしたりして便利に利用していた反面、地域の子供たちにとっては、格好の水泳場でした。ところが、水があまりにも冷たいので長い時間は泳げず、身体が冷えて来ると、近くにある石段に寝転んで甲羅干しをして身体を温めたものでした。また夕方になると大型のとんぼ(ぎん・ちゃん・鬼やんま等)の大群が産卵に水を求めて洗い場めがけて押し寄せるので、子供ばかりでなく親もいっしょにとんぼ捕りに熱中してしまう毎日でした。
  
 「コンビニ」は、すでに廃業して久しいヤマザキデイリーストアのことだが、そのあたりに昭和初期には諏訪谷Click!から移設されてきた新・洗い場Click!が形成されていた。諏訪谷にあった大正期の旧・洗い場は、曾宮一念Click!『冬日』Click!に描かれているが、その位置から80~90mほど南へ移設されている。
 現在でも雨が降ると地下水脈がふくらみ、湧水がどこからか沁みだすか地下からせり上がってくるのだろうか、低い窪みには建物が存在せず、ちょうど小さなプールの形状のままコンクリートで固められた半地下の駐車場になっている。また、長谷部のイラストに描かれた洗い場北側のコンクリート階段は、現在でも一部がそのままビルと家屋の間に細長く残されている。ちなみに「ちゃん」ヤンマとは、関東地方の方言だろうか、空色の帯が入らないギンヤンマの♀のことだ。
 さて、この記事のテーマである伊藤博文別邸の話は、『古事随想』の後半に登場してくる。わたしはその昔、大倉山Click!(権兵衛山)には伊藤博文の別荘が建っていたという伝承を、何人かの方からうかがっている。だが、いくら明治期の資料や地図をひっくり返しても、伊藤博文邸は採取されていない。
 わたしにとって伊藤博文の別荘といえば、横浜市の金沢地域にあったすでに現存しない別邸と、子どものころは中華料理レストランとなっていて、休日には親とともに通っていた湘南・大磯Click!別邸「滄浪閣」Click!(のち本邸)のことで、下落合のイメージはまったくなかった。だが、明治期には郊外別荘地として拓けた目白崖線沿いを眺めていると、椿山の山県有朋邸Click!(椿山荘Click!)や目白台の細川邸、先の徳川別邸(のち本邸)など、その斜面や丘上には当時の華族や政治家の本邸・別邸が建ち並んでいる。ほんの一時的な期間にせよ、伊藤博文の別荘が下落合にあってもなんら不自然ではないと感じている。
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新洗い場跡1.JPG
新洗い場跡2.JPG
 では、引きつづき『古事随想』から引用してみよう。
  
 三輪邸から細い道を右へ曲がり左側に伊藤伯爵邸(現在の落合中学) 右側に落合第四小学校(創立七〇年)があり、当時の第四小学校はまだ新しい校舎で綺麗で高台の校庭からは、新宿百人町、戸山町全景が一望に、戸山が原の三角山(今は無い)も目の前に見えました。今では高い建物が建って眺望を遮ってしまった事は寂しい限りです。突き当たりは、相馬邸跡、現在のおとめ山公園ですが、さすがに相馬の御殿の御屋敷は広大で立派な門構えが威風堂々とした緑の大きなかたまりの様に子供心に感じました。
  
 「三輪邸」はミツワ石鹸Click!社長の三輪善太郎邸、「三角山」Click!は山手線東側の戸山ヶ原Click!にある射撃場に築かれていた防弾土塁Click!のことだ。
 伊藤別邸が建っていたという伝承が大倉山(権兵衛山)だったということで、わたしは戦前まで大倉財閥が所有していた、現在の権兵衛坂から上る大倉山ピークあたりを想定していたのだが、この文章からするとピークから北東側にやや下がった落合中学校の敷地ということになる。いまだ近衛邸も相馬邸も存在せず、鎌倉期に拓かれた七曲坂を上がりきり右手へ少し入ったところに、ポツンと伊藤別邸が建っていたことになる。
 明治最初期からの地形図を順番にたどっていくと、のちに大倉山(権兵衛山)と名づけられた丘は、確かに戦前の大倉財閥の所有地エリアを越えて、落合中学校のあたりまでがひとつの丘の盛り上がりとして把握することができる。現在の相馬坂は、御留山Click!と大倉山(権兵衛山)の間のやや低くなったコル=乗越(のっこし)を利用して開かれたようだ。つまり、伊藤別邸が「大倉山にあった」という表現は、落合第四小学校Click!さえなかった大正期あたりの伝承が、そのまま後世にまで語り伝えられてきたと推定することができる。換言すれば、大正期以前は落四小学校と落合中学の敷地も、すべて大倉山(権兵衛山)と総称されたエリアであった可能性が高い。
 落合中学校の敷地に伊藤別邸が建っていたとしても、伊藤博文は1909年(明治42)に暗殺されているから、別荘の存在はそれ以前ということになる。だが、1880年(明治13)の1/20,000フランス式地形図から、1909年(明治42)の1/10,000地形図まで、建築物が採取された落合地域の地図は見たことがない。そして、1909年(明治42)の地形図では、この位置に建物は存在しないことになっている。
 もし伊藤別邸が建っていたとすれば、それ以前、明治中期の落合地図を参照したいのだが残念ながら存在しないのだ。落合中学の敷地に、やや大きめな建物が確認できるようになるのは、大正期に入ってからのことだ。明治期の地番でいうと、落合村(大字)下落合(字)本村334番地とその周辺域ということになる。

伊藤邸1921.jpg
伊藤博文邸跡2.JPG
大磯伊藤別邸.jpg
 こうなると、明治初期のフランス式地形図Click!や陸軍士官学校の測量演習地形図Click!のように、特別な目的で作成された落合地域を描く地図でも発見できない限り、伊藤別邸の確認・規定はむずかしそうだ。伊藤博文の日記類や書簡を含む膨大な資料類には、下落合の別邸についてなにかの記録が眠っているのかもしれないが、わたしにはそこまで熱心に手間ヒマかけて調べてまわるほど、残念ながらこの人物に興味も関心もない。

◆写真上:左手が伊藤博文別邸跡とされる落合中学校で、正面が相馬邸跡の御留山。
◆写真中上は、長谷部進之丞が描いた昭和初期の西ノ谷(不動谷)。は、同谷へ下りる坂道で右手が吉田博アトリエClick!跡。は、第三文化村が開発された同谷の一画。
◆写真中下は、長谷部進之丞が描く新・洗い場。は、現在でも残る洗い場へのコンクリート階段の一部。は、いまだに湧水がある洗い場跡の駐車場。
◆写真下は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる伊藤博文別邸跡。敷地の北寄りに大きめな邸が描かれているが、大正期に入ってから建設された住宅だ。は、大倉山(権兵衛山)に通い七曲坂へと抜ける古い道筋で右手が伊藤別邸跡の伝承が残る落合中学校。は、子どものころからお馴染みの大磯・伊藤博文別邸「滄浪閣」(のち本邸)。

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すぐに「叩っ殺してやる!」の戸塚町議会。 [気になるエトセトラ]

戸塚町役場跡.JPG
 少し前、すぐに「斬ってやる!」と刃傷(にんじょう)沙汰になりそうだった高田町議会Click!の様子をご紹介したが、町長に高田警察署から3名の護衛はついたものの、特に何ごともなく時代はすぎた。ところが、その南に位置する戸塚町では、町議会が脅迫や殴り合いのケンカ場と化し、何度となく流血騒ぎを起こしている。
 そもそも3代目の戸塚町長だった早野教暢が、大量の公金を持ったままどこかへドロンし「行方不明」になったころから、戸塚町議会はもう統制がきかないほどメチャクチャになった。公金横領・着服はやまず、次には収入役がひそかに公金を「費消」し、税金の二重取りをして埋め合わせていたことも発覚するにおよび、「たたっ殺してやる!」の町議会はもはや収拾がつかなくなってしまったのだ。まるで喜劇かマンガのような状況だけれど、大正末に戸塚町議会で実際に起きていた事実だ。
 1931年(昭和6)に出版された大野木喜太郎・編『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)には、そのときの様子が議員の「声明書」(告発書)として、11ページにわたり克明に記録されている。編者の大野木喜太郎も、よほど腹にすえかねた事件だったのだろう。まず、『戸塚町誌』から、歴代町長の一部を引用してみよう。もうこれだけで、当時の町議会がいかに異常事態だったかが透けて見えるのだ。
 町 長  大正六年十月二十四日 同十二年二月二十四日 早野教暢
 臨時代理 大正十二年三月七日 同十二年三月二十日 太田資行
 臨時代理 大正十二年三月二十八日 同七月二十五日 久保田義朗
 町 長  大正十二年七月二十五日 同十四年二月六日 鮫島雄介
 事務管掌 大正十四年二月十六日 同三月十六日 村木経勁
 町 長  大正十四年四月十一日 同九月八日 大塚義太郎
 事務管掌 大正十四年九月八日 同九月十九日 江成濱次
 臨時代理 大正十四年九月十九日 同十月十二日 有田章次郎
 町 長  大正十四年十月十二日 昭和四年十一月十一日 横山襄
 歴代町長の紹介のはずなのに、やたら「臨時代理」や「事務管掌」が多いのに気づかれるだろう。このふたつの役職が記されている間、町長はといえば公金をドロボーして行方をくらますか、殴られて「入院」しているか、もう脅されるのがイヤになって町議会に出席せず、自宅で引きこもりになってしまったかのいずれかだと思われる。しかも、「臨時代理」や「事務管掌」の就任期間も、非常に短期間の人物がいるのにお気づきだろう。おそらく、脅されて無理やり辞任させられたか、殴られてイヤになった人たちだ。
 まず、1923年(大正12)2月に町長だった早野教暢が公金10,750円を持ったまま、どこかへ逃亡し行方不明になったところから、戸塚町の悲劇(喜劇?)の幕が切って落とされる。とても公式な町誌とは思えない内容だが、『戸塚町誌』から引用してみよう。
  
 偶々町長早野教暢氏が其の在職中公金一万七百五十円を横領費消し突如行衛を晦(くら)ましたる、綱紀の混乱に責を負ふて、同氏を除き連結総辞職となりたるら因り、大正十二年五月之が補欠選挙を行ひ、左の如く当選した、早野氏は残留である。
  
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早野教暢町長.jpg 横山襄町長.jpg
 早野町長は、議会へ辞任とどけを提出しないままどこかへ土地を売った(トンヅラした)ので、辞めさせることができずに戸塚町議会へ議員として残留扱いとなっている。ここからしてすでにおかしいが、刑事事件にすれば町長不適格で議会がクビにできたはずだ。戸塚町では、町長のカネの持ち逃げが公になれば格好の新聞ダネとなり、世間のいい笑いもんになるのを怖れて、被害届けとともに刑事告発をしなかった可能性がある。
 ところが、この処分の甘さが尾を引いて、公金の横領・着服はやまなかった。今度は税金の収入役が、戸塚町の公金を大量に横領・着服してしまい、税金の二重取りが行われていたことが発覚した。この「税金二重徴取」事件で、戸塚町議会は前代未聞の事態に陥った。同町誌に収録された、まともな議員たちによる「声明文」から引用してみよう。
  
 税金の二重取事件 更に税金の事にしても、収入役の助手が公金を費消して居つた。従つて誠に遺憾ながら、町民からは税金の二重取りが行はれたのであります。之れは前々理事者(鮫島雄介町長)時代からの継続的な犯罪であつたと云ふので、現理事者(横山襄町長)は熾(さか)んに前理事者(大塚義太郎町長)の失態を口汚く罵り、之れを発見した自己の功績を吹聴するけれども、焉(いずくん)ぞ知らん、現理事者(横山襄町長)が着任後尚依然として、税金の二重取りが行はれて居たのであります。そして此の事実に対しては一向責任を感じて居らないのであります。(カッコ内引用者註)
  
 横山町長は、自身の就任中に部下の横領・着服が発覚しているにもかかわらず、管理不行き届きを反省するどころか、まるでよその地域の他人事のような態度だったらしい。
 このほか、一部の議員が気に入らない助役が就任しそうになったとき、推薦した議員をボコボコに殴り倒した「助役問題で当局の暴行」事件、戸塚町が活用しようとしている金融機関をめぐり、議員が傍聴席へ踊りこんで傍聴人を殴って流血騒ぎとなった「町金庫問題」事件など、戸塚町議会はまるでK-1のマット上のようなありさまだった。さすが、「血闘高田馬場」の地元だなどと、冗談をいっている場合ではない。
 しかも、関東大震災Click!で町議会場が使えなくなったものか、臨時の町議会場にされていたのが戸塚第一小学校の教室だったので、町議会のぶざまな狂態は児童たちに常に目撃されていたのではないかとみられる。そのことも、まともな議員たちが結集して「声明文」(告発書)を書かせる一因となったのだろう。
戸塚町全図1929.jpg
明治通り荒井山附近1931.jpg
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 「町誌」としては前代未聞の記述なので、少し長いがその一部を引用してみよう。
  
 而して町長は自己の有する機能に拠つて、正式に発案推薦した人(助役)であるから、此の人に承認を与へやうとした時に、協議会に出席しなかつた人や、出席しても自ら助役の希望を持つて居た人々から、俄然反対が起り、単に言論で反対を為すならば兎も角、一部の人々は腕力に訴へ、議場を喧騒に陥らしめて議事の進行を妨害し、甚だしきは参与席にあつた某町吏員が洋服の上衣を脱ぎ棄てゝ腕を振るつて町会議員に暴言を吐きつゝ議員席に迫つても議長席にあつた町長は、何等何れを制止せざるのみか、却つて斯かる乱暴を煽動するが如き言動を為して……(以下略)
 何時でも町会に多少問題があると、町民以外の傍聴者の顔を見るのであるが、殊に十四日(1927年2月14日)には是等の人々が数名控えて居り、議場内と策応して、旺んに暴言を吐いて居た。其の時某町公民が傍聴席に現はれると、議席にあつた一議員は突如議席を離れて、傍聴席に闖入し、其の公民を殴打して議席に帰り、着席するや「今某々をブンなぐつて来た、アンナ奴は叩き殺して仕舞へ 我々に反対する奴は誰れでも叩き付けてやる」と揚言する始末であります。議長席にある町長は斯かる議員の暴行、暴言を制止せんとせず、何等の注意さへ与へないのは、実に奇怪千万と云はねばなりません。(カッコ内引用者註)
  
 もう戸塚町議会は、ほとんどヤクザか暴力団のシマ争いと変わらないようなありさまだった。1927年(昭和2)当時の町長は横山襄であり、昭和に入ってさえ大正時代から尾を引く暴力沙汰が、町議会場として使っていた児童たちの目がある戸塚第一小学校の教室でそのままつづいていた。『戸塚町誌』は、これら町内の「面汚し」たちや「恥っつぁらし」な出来事について、1931年(昭和6)に公然と記述しているので、そのころにはようやく批判が高まり異常事態が終焉して、まともな町議会へともどりつつあったのだろう。
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 戸塚町の近隣である落合町や長崎町では、このような大乱闘騒ぎや暴力沙汰を聞かないのは、決して品がよく常識人たちが多かったからではなく、高田町や戸塚町よりも市街化が遅れており、昔ながらの農村に多く見られる大地主など地域ボスの“しばり”がいまだ強く働いていて、農村共同体の中では鋭く対立する強い異論や反対意見が出にくかったのではないか?……と想像している。

◆写真上:早稲田通りの往来を見つめるネコの、右手が高田馬場駅前にある戸塚第二小学校で、戸塚町役場はネコの左手に見える街並みのすぐつづきにあった。
◆写真中上は、1931年(昭和6)ごろに撮影された戸塚町役場。下左は、同誌の歴代町長として紹介されている公金を費消して行方をくらました早野教暢町長で、ほとんど手配写真と化している。下右は、部下の収入役が町民に二重課税していたのに、まるで他人事のように前町長を「口汚く罵り」つづけた横山襄町長。
◆写真中下は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる町議会が開かれていた戸塚第一小学校と戸塚町役場の位置関係。は、1931年(昭和6)の明治通り沿い荒井山(現・西早稲田2丁目)あたり。は、1931年(昭和6)撮影の戸塚第一小学校。
◆写真下は、濱田煕Click!が描いた1935年(昭和10)ごろの戸塚第一小学校界隈。同小は、早稲田通り沿いから甘泉園寄りに移設されている。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる戸塚一小。は、谷間から戸塚一小の丘上へと抜ける古いバッケClick!階段。

もうひとつの佐伯祐三『堂(絵馬堂)』候補。 [気になる下落合]

南泉寺1.JPG
 この13年間、佐伯祐三Click!が描いた『堂(絵馬堂)』Click!のモチーフを探しつづけているが、この堂がどこに建っていたものなのか規定できないでいる。もっとも疑わしいのは、下落合(現・中落合/中井含む)の境界エリアから、西へわずか180m前後のところにある上高田の桜ヶ池不動堂Click!だが、現在の建物は戦後の1954年(昭和29)にリニューアルされたものだ。
 桜ヶ池不動堂は、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズClick!の1作、「制作メモ」Click!によれば1926年(大正15) 9月21日(火)の曇り空の下で制作された、『洗濯物のある風景』Click!の描画ポイントからも、南西へ210mほどしか離れていない。妙正寺川の土手で同作を描く佐伯の背後には、耕地整理前の広大な麦畑が拡がり、桜ヶ池とそのほとりに建つ小さな堂が、境内の樹間を透かして見えていたにちがいない。だが、同建物の写真を中野教育委員会に依頼して、リニューアル前(できれば大正期ごろ)の写真を探していただいたが、いまだに発見できていない。
 ところが、もうひとつ『堂(絵馬堂)』の候補場所が現れた。上野の東京美術学校Click!(現・東京藝術大学Click!)から北へ1,100mほどのところにある、南泉寺の境内に建立されていた菅谷不動堂だ。それに気がついたのは、1927年(昭和2)の夏に東京日日新聞に連載されていた、彫刻家・藤井浩祐の「上野近辺」の一文に目がとまったからだ。南泉寺は、以前にご紹介している西日暮里の諏訪台通りから西側の崖下へと下りる、富士見坂Click!の坂下南側にある寺で、同寺の入口(大正期は庫裏の建物のみで本堂と山門は存在しなかった)の右手には、小さな菅谷不動堂が建っていた。
 1976年(昭和51)に講談社から出版された『大東京繁盛記/山手篇』所収の、藤井浩祐「上野近辺」から南泉寺の様子を引用してみよう。
  
 唯一つ入口の右側、道に近く菅谷不動尊の小堂があって、女の御詣りが非常に多く、新しい納め手拭の絶え間がなかった。堂に向って左に半坪ばかりの小屋があって、格子戸には堅く鍵がおろされてあった。(中略) その不動堂の境内は狭かったが、堂の前には大きな芭蕉の一株があり、竹に結んだ納め手拭は斜に立ち並び、鴨居につられた赤の長い提灯も、丸いのも、皆それぞれに面白い対照をなして絵になっていた。
  
 さて、この一連の描写から受け取れる情景と、佐伯祐三が描いた『堂(絵馬堂)』の画面とを比較し検討してみよう。まず、女性の参詣が多い菅谷不動堂は、おそらく婦人病か安産(あるいは子授かり)などのご利益からだろうか、祈願ついでに手ぬぐい(女性だけの講中名でも染められた願掛け手ぬぐいかもしれない)が納められていたのがわかる。数多くの手ぬぐいは、竹でつくられた奉納専用の棒に結ばれるか、おそらく堂自体にも架けられるか、結わえつけられていたと想定できる。
 佐伯祐三の作品『堂(絵馬堂)』は、彼の死後につけられたタイトルであり、堂の正面になにか吊るされているので「絵馬」だろうと反射的に想像した、後世(おそらく戦後?)の命名によるものだ。だが、画面を拡大してよく観察すると、どうしても絵馬の質感には見えない。むしろ、菅谷不動堂の奉納品である手ぬぐいのように、布に近いような質感の表現で描かれているのがわかる。いつか、米子夫人Click!の足が悪かったことから、その症状を軽減するために足袋または履き物を吊るした、アラハバキClick!の社(やしろ)ではないかと疑ったことがある。これらの「霊験」は、桜ヶ池不動堂が描画場所であった場合でも、同様のテーマとしてつながるだろう。
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 また、堂の鴨居からは、赤くて長い提灯が吊るされていたようだ。佐伯の『堂(絵馬堂)』を確認すると、確かに右手の鴨居から下へ吊るされたように、なにか赤い物体が描かれている。だが提灯かどうかは、いまひとつ描写の曖昧さからハッキリしない。なにやら文字らしいかたちも見えるが、佐伯のパリ作品ほど精緻には拾われていない。
 さて、この菅谷不動堂が佐伯祐三の『堂(絵馬堂)』ではないかと疑ったのには、大きな理由がある。それは、明治から大正期にかけ、東京美術学校から歩いて10分ほどのところにある菅谷不動堂が、洋画科に通う画学生たちの伝統的かつ慣習的な写生場所として、広く知られていたからだ。
 つづけて、同書の藤井浩祐のエッセイから引用してみよう。
  
 私は今でも、美校時代洋画生の郊外写生の画を陳列した中に、いつでもこの不動が一枚や二枚必ずあった事を覚えている。私も或時そこを写生した事がある。私の父の所へ遊びに来た百花園の主人が、それを見て、うまくかけましたなあ。この芭蕉の植込み具合などは、何ともいえませんといって、しきりに植込みをほめて、画をほめてくれなかった事を覚えている。この多く画学生に描かれた不動堂も、また多くの中学生を喜ばした陰陽石も、今は綺麗に取片付けられて、跡形もないのは時勢であろう。
  
 佐伯祐三の『堂(絵馬堂)』は、もちろん美校生時代の作品ではなく、その描画の表現から第1次滞仏から帰国した1926年(大正15)3月以降に描かれているとみられる。そして、時代を経てボロボロになった菅谷不動堂や陰陽石を納めた小堂が解体され、新たに建設された本堂近くに移動したのも、どうやら大正末のその時期と重なりそうなのだ。
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 佐伯は帰国早々、東京美術学校時代に「写生練習の名所」だった菅谷不動堂が、そろそろ解体されるのを知り、懐かしくなって記念に描きに出かけたかもしれない……と想定することができる。美校時代に住んでいた佐伯の下宿からも、1,000mほどしか離れておらず、付近の街にも土地勘があっただろう。もちろん、恩師たちがいる東京美術学校にも帰国の挨拶に立ち寄っているのかもしれない。南泉寺の境内では、庫裏の解体工事や樹木の整理が進んでいたものか、同不動堂の手前にあった芭蕉の木はすでに除けられていた……。そんな情景を、画面から想像することができる。
 かなり傷みが激しかったようだが、大正期までは建っていた菅谷不動堂は、実際に佐伯の『堂(絵馬堂)』のような形状をしていたのだろうか? さっそく、富士見坂下の南泉寺に、佐伯の出力画像を用意して方丈をお訪ねしてみた。ところが……、ちょうど秋の法事シーズンでお忙しいらしく、インターホン越しにあっさり断わられてしまった。ひょっとすると、西日暮里の駅周辺はかなりの部分が空襲で延焼しているので、昭和初期にリニューアルされた伽藍自体さえ焼け、すでに大正期の菅谷不動堂など記憶の彼方に消えてしまっているかもしれない。
 大正期まで、庫裏のみだった南泉寺の境内に、菅谷不動堂はどのような向きで建っていたのだろうか。佐伯の画面を観ると、堂のバックに明るめな空間が大きく拡がっている。堂が西向き(向拝が東向き)に建っていたとみられる桜ヶ池不動堂(ちなみに現在でも同様の方角)では、なんら不自然でない表現なのだが、菅谷不動堂だとすると藤井浩祐の表現を踏まえるなら、山門が存在しなかった「入口」を入って右手にあることから、堂は南向き、向拝は北向きだったことになる。
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 菅谷不動堂の南側は、江戸期には新堀村の一部と延命院の境内が、つまり、その向こう側には中村彝Click!中村悌二郎Click!がしばらく住んでいた下宿や経王寺、静坐会Click!本行寺Click!などの門前にあたる、現在の「谷中銀座」が通っていることになる。

◆写真上:南泉院の山門と、正面に見える建物は本堂ではなく方丈。
◆写真中上は、1926年(大正15)に描かれたとみられる佐伯祐三『堂(絵馬堂)』。は、『堂(絵馬堂)』画面の部分拡大。「日本一」や「大正」などの文字が確認できるが、右手の赤い部分に書かれた文字は読みとれない。は、宝永年間に作成された「御府内往還其外沿革図書」に採取された南泉寺。北が右手で、富士見坂はまだない。
◆写真中下は、大正期まで菅谷不動堂が建っていたと思われる山門の右手。は、家屋と一体化した現在の不動堂。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる富士見坂と南泉寺。激しい空襲にさらされ、周囲の大部分が焦土と化している。
◆写真下は、千駄木の高層マンションの建設で富士山が見えなくなってしまった富士見坂。は、諏訪台通りの路地を入ったところにある長谷川利行Click!の旧居跡。は、彰義隊と薩長軍の戦闘Click!でたくさんの弾痕が残る経王寺の山門。

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空中写真の対空標識と二等三角点。 [気になる下落合]

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 下落合とその周辺域には、明治期から三角測量のための三角点が数多く設置されている。1880年(明治13)に作成されたフランス式の地形図では、落合地域と近隣地域の三角点を合計すると、実に5ヶ所にものぼる。その中心となるのが、下落合のタヌキの森Click!のピークに設置されていた二等三角点Click!で、これはやや場所を変えて現在まで国土地理院や東京都によって活用されている。だが、残りの三等または四等三角点は、場所によっては形跡が残っているかもしれないが、ほとんどが住宅街の下になっている。
 落合地域には、なぜか三角点が3つもあった。ひとつは、先に挙げた下落合768番地のタヌキの森ピークにあった二等三角点だが、もうひとつ(おそらく三等または四等三角点/以下同)が下落合488番地あたり、いまの地理でいうとピーコックストアの西側、徳川好敏邸Click!(下落合490番地)跡のすぐ北側で、現在の目白が丘マンションのあたりだ。また、葛ヶ谷(西落合)と江古田村との境界あたり、和田山Click!(現・哲学堂公園Click!)の東端にも三角点がひとつ確認できる。
 さらに、葛ヶ谷(西落合)から少し江古田村側へ外れた、江古田210番地界隈にもひとつ設置されている。落合地域の北で、雑司ヶ谷の西端(現・西池袋2丁目)あたりにもひとつ確認できる。現在の東京電力池袋変電所が建っている、すぐ南側あたりだ。落合地域とそのすぐ外周域を探してみると、三角点は以上の5つで上落合や下戸塚には見あたらない。おそらく明治初期の陸地測量チームは、丘陵が東西へと長くつづく見晴らしのよい目白崖線沿いを歩きながら、点々と三角点を設置していったのだろう。
 明治も後期になると、落合地域にも参謀本部の陸地測量隊が、1/10,000地形図を作成するため測量に訪れているとみられるが、地図に記載される三角点は三等・四等の採取は省略され、すでに二等三角点以上のみの記載となっている。これは現在でも同様で、東京の西北部市街地に設置された二等三角点は、新宿区内では下落合と神宮球場に接した公園の2ヶ所しか存在していない。そのうち、下落合の二等三角点は1977年(昭和52)9月末に、タヌキの森のピークから北東へ100mほど移動している。
 タヌキの森に建っていた旧・遠藤邸Click!が解体される前後、わたしは母家に接した蔵のすぐ東側に設置されていた二等三角点の標識を確認している。各時代の地図に記載されているとおりの位置なので、当然、地理業務では活きているものと考えていた。ところが、わたしが同三角点を見た時点では、とうにその役割りを終えていたのだ。1977年(昭和52)に、遠藤邸の蔵横に設置されていた二等三角点は、落合中学校グラウンドの西端に“移転”したあとだった。どおりで、遠藤邸が解体され整地・掘削される作業工程で、なんの問題も持ちあがらずに破壊されたわけだ。
 自由に出入りができない、私邸の内部に設置されていた三角点は、おそらく国土地理院や東京都の測量業務には支障があったのかもしれない。あるいは遠藤邸の側でも、測量あるいは空中写真の撮影時に、いちいち三角点の確認や対空標識を設置するために作業チームが邸内へ入りこむのがわずらわしく、国土地理院へ二等三角点の移設を要望していたものだろうか。いずれにしろ、40年も前の古い話なので確認をとることができなかった。
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遠藤邸の旧二等三角点.JPG
 さて、このサイトでは各時代の空中写真を、さまざまな記事の中へ数多く引用してきている。戦前の古い写真の場合は、国土地理院(日本地図センター)に保存されている標定図Click!(撮影機の飛行コースと撮影範囲)を参考に目的のエリアを指定し、大判の印画紙へプリントしてもらい、さらにスキャナで読みこんで高精細データとして保存している。また、戦後の空中写真はデータ化が進んでいるので、標定図でエリアを指定したあとCD-RかDVD-Rに焼いて送ってもらっている。
 わたしのサイトでは、熱気球から撮影された「気球写真」、飛行機から撮影された「航空写真」、さらに人工衛星から撮影された「宇宙写真」などさまざまな写真を活用しているので、これらを総称して「空中写真」と表現する国土地理院の呼称を踏襲してきた。この中で、おもに各種地図を作成する際に必要となる、航空機から地表と直角に撮影される垂直写真が、このサイトの史的な事実や出来事を掘り起こし、人々の物語を記述するうえでは非常に役立ってきている。そして、空中写真と三角点は戦後に行われた撮影において、特に重要な関係にあるのだ。
 1969年(昭和44)に中央公論社から出版された、西尾元充『空中写真の世界』(中公新書)から引用してみよう。かなり古い本なのだが、現代ではICTシステムによる自動化や可視化、GPS活用などが大幅に進んでいると思われるものの、基本的に空中写真の撮影時における方法論は変わっていないだろう。
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対空標識(現在).jpg
各種空中写真.JPG
  
 (前略)五千分の一の地形図を作るための空中写真は、縮尺二万分の一である。いよいよ作業が開始される前に、綿密な計画が立てられ、周到な準備が行なわれる。飛行機の手配から、材料はもとより、現地に出張する人員の選抜から器材の準備、はては人夫の有無、また室内作業では、機械や人員の割り当てにいたるまで、いっさいの仕事のスケジュールが、あらかじめ予定表によって決められる。/最初の準備のなかで最大の仕事は、対空標識を現地に設置することである。対空標識というのは、測量の基準になる地上の三角点をはじめ、水準点や多角点などの位置が、空中写真の上ではっきりと確認できるように、基準点を中心にして、十字形に作る地上の標識のことである。杭を打って細長い板を打ちつけ、白ペンキで塗る。ときには、銀色のスチロール板を使うこともある。
  
 これだけ用意周到に準備を重ねても、当然、失敗することがままある。そもそも天候が晴れなければ仕事にならないのは、映画のロケーションに似ている。薄い雲がひとつでも湧き、それに影響されて地上の一部が隠れてしまえば、当該地域の写真はすべてが撮り直しとなる。もちろん、ほかは雲で覆われていても、目的の場所だけがハッキリと写っていればいいという用途なら、それほど手間はかからないのだろうが、地図の制作用の空中写真は全体がクリアでなければ意味がない。
 上記の文章に書かれている対空標識は、三角点などの周囲に4本の杭を立て、その上にペンキで白く塗った板を放射状に張りつける方法だが、ときには陽光が白く反射する銀板も使われていたようだ。地図の作成を前提とする空中写真へ、対空標識が本格的に導入されはじめたのは1960年代の半ばぐらいとのことなので、それ以降に下落合界隈を撮影した空中写真を確認してみたくなった。
 1977年(昭和52)以前に撮影された空中写真で、遠藤邸の蔵の右手(東側)に対空標識が確認できるかどうか探してみたが、1966年(昭和41)と1975年(昭和50)の写真では、残念ながらそのような工作は見られなかった。また、1977年(昭和52)以降の空中写真で、落合中学校のグラウンド西端に同様の工作が見られるか確認したけれど、1979年(昭和54)と1984年(昭和59)の写真ともに、やはり対空標識らしいものは写っていない。
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空中写真落中グラウンド1984.jpg
 おそらく、空中写真で対空標識が必要となるのは、目標物がなにもない山岳地帯や原野が中心で、目標となる建物や施設、構造物などが容易に特定できる市街地では設置されないケースが多いように思える。1977年(昭和52)までは遠藤邸の蔵横が、それ以降は落合中学校の西端が、2等三角点の“ありか”として規定されているのではないだろうか。

◆写真上:落合中学校の運動場に移設された、明治初期からある下落合の二等三角点。
◆写真中上は、1880年(明治13)のフランス式最初期地形図にみる落合地域とその周辺の三角点。は、1/10,000地形図に収録されたタヌキの森ピークの二等三角点。は、タヌキの森に建っていた解体中の遠藤邸。写っている蔵の横(東側)に、地中に埋められた旧・二等三角点の標識がそのまま残されていた。
◆写真中下は、空中写真を撮影する際に基準点に設置された対空標識。は、現在主流となっている対空標識いろいろ。(ともに国土地理院サイトより) は、戦前戦中の陸軍航空隊やB29偵察機が撮影したいろいろな写真類で印画紙へのプリントサービスが主流。特殊な写真はプリントのみだったが、そろそろデータでの提供がはじまるだろうか。
◆写真下は、1967年(昭和42)と1975年(昭和50)に撮影された下落合の空中写真。前者は、ちょうど西尾元充『空中写真の世界』が執筆されたころの写真だが、二等三角点には特に対空標識としての工作が施されていない。は、二等三角点が落合中グラウンドへ移設後の1979年(昭和54)と1984年(昭和59)に撮影された空中写真。こちらも、特に対空標識らしい設備は施されていないように見える。

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下落合を描く清水多嘉示の軌跡。 [気になる下落合]

林泉園.JPG
 8回にわたり連載してきた、清水多嘉示Click!が描く「下落合風景」作品とみられる描画場所の特定ないしは想定から、彼が下落合に残した軌跡を改めてたどってみるのが今回のテーマだ。そして、清水が残した足跡からはなにが見えてくるのだろうか? このような試みは、同じく「下落合風景」作品を数多く連作している佐伯祐三Click!松下春雄Click!でも、これまで検討・考察してきたテーマだ。
 まず、清水多嘉示は下落合を散策する過程で、4つのエリアの風景を写しとっている可能性が高いことだ。その4つのエリアのうち3つまでが、下落合に深く切れこんだ谷戸そのものか、あるいは谷戸に近接した場所を描いていることがわかる。また、残りのひとつは目白通りを越えて下落合が北側に張りだしたエリア、すなわち下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!の庭を描いているとみられる。
 雨がそぼ降るなか下落合464番地の中村彝Click!アトリエを、1917年(大正6)6月23日に訪ねたときから(ただし中村彝は不在だった)、清水と下落合とのかかわりがはじまっている。以来、清水は中村彝のもとを頻繁に訪問することになるが、同時に彝アトリエに集っていた周辺に住む画家や美術関係者たちとも親しくなっただろう。つまり、彝アトリエへ出入りするうちに、下落合の画家たちとも顔見知りになり、また中村彝からもアトリエに来訪する画家たちを紹介されていたと思われるのだ。
 清水多嘉示が、彝アトリエを通じて知り合った画家が多かったことは、彝の歿後、親しかった画家たちが集まって中村会Click!(のち中村彝会Click!)を結成し、1926年(大正15)に『芸術の無限感』(岩波書店)を編纂する際、渡仏中の清水にまで日本からフランスにあてた彝の手紙を収録するので提供するよう、わざわざ声をかけていることでも明らかだ。清水は手もとにあった彝からの手紙を、日本の中村会あてに送還しているとみられる。換言すれば、『芸術の無限感』の編纂に参加していた画家たちは、清水多嘉示が中村彝とかなり親しく、頻繁に手紙のやり取りをしていることまで知っていた……ということになる。
 すなわち、清水多嘉示が下落合を訪れた際、立ち寄る先は中村彝アトリエ(彝歿後の1925~1929年までは「中村会」拠点)だけとは限らなかったということだ。ましてや、フランスでいっしょだった画家や美術関係者の何人かは、下落合にアトリエや住居があり(たとえば大久保作次郎Click!森田亀之助Click!など)、さらに昭和初期に下落合へ転居してくる人物(たとえば蕗谷虹児Click!など)も含まれている。
 1928年(昭和3)に清水多嘉示が帰国してから、下落合を訪れる目的は、当初は中村会の拠点となっていた中村彝アトリエが多かったのかもしれないが、1929年(昭和4)に同アトリエへ鈴木誠Click!が転居してくると、下落合に住む中村彝を通じて知り合った友人たち、あるいはフランスで親しくなった知人たちを訪ねている可能性が高い。それが、清水の連作「下落合風景」から透けて見え、なおかつ下落合を散策する清水の軌跡と重なってくるのではないかというのが、これまで記事を書いてきたわたしの感想だ。
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「下落合風景」OP008.jpg 「風景(仮)」OP595.jpg
御留山藤稲荷.JPG
 そしてもうひとつ、清水多嘉示は目白崖線に深く刻まれた谷戸地形を散策するのが好きだったという印象をおぼえる。以下、清水が好んで描いたとみられる3つの谷戸(の周辺)と、想定される作品を分類してみよう。
 ★林泉園谷戸
 『下落合風景』(OP008)Click!/『風景(仮)』(OP595・OP256)Click!
 ★諏訪谷
 『風景(仮)』(OP285・OP284)Click!/『民家(仮)』(作品番号OP648)Click!
 ★前谷戸(大正中期から「不動谷」)
 『風景(仮)』(OP594)Click!/『風景(仮)』(OP287)Click!/『風景(仮)』(OP581)?Click!
 まず、中村彝アトリエの前に口を開けていた、御留山へとつづく林泉園の谷戸だ。『下落合風景』(O008P)は渡仏前の初期作品だが、『風景(仮)』(OP595・OP256)と併せて中村彝アトリエないしは彝歿後の中村会を訪ねているのは明らかだろう。清水は、林泉園から谷戸の渓流沿いを歩いて御留山まで下り、藤稲荷社のある丘上から深い渓谷を描き、あるいは帰国後にまったく異なるタッチで東邦電力が開発した林泉園の湧水源を2画面描いている。
 また、林泉園から西へ500mほどの諏訪谷では、谷北側の尾根上に通う道沿いに建てられていた下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!、あるいは1933年(昭和8)ごろなら近接する下落合622番地の蕗谷虹児アトリエClick!が建つ界隈を『風景(仮)』(OP285・OP284)の2作に描いている。また、諏訪谷を形成している青柳ヶ原Click!の北側から、目白通り沿いの福の湯Click!とみられる煙突を入れて、『民家(仮)』(作品番号OP648)も制作している。
 これら一連の作品は、彝アトリエで頻繁に顔を合わせていた同じ二科の曾宮一念を訪ねたか、下落合1443番地にある木星社(福田久道)Click!のところへ画集の打ち合わせに出向いた道すがらか、あるいは渡仏中に知り合った下落合630番地の森田亀之助ないしは蕗谷虹児を訪ねたついでに、近所でイーゼルを立てて描いた作品群なのかもしれない。
諏訪谷1936.jpg
「風景(仮)」OP285.jpg 「民家(仮)」OP648.jpg
諏訪谷.JPG
 諏訪谷から、さらに西へ450mほどの前谷戸(不動谷)では、やはり谷の北側に建つ中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)とみられるレンガ造りのビルを、『風景(仮)』(OP287)に描いている。そして同社の不動園Click!伝いにか、または第四文化村の坂道から前谷戸(不動谷)へと下りていき、渓流沿いを100m弱ほど歩いたあと、南側の市郎兵衛坂が通う急斜面を登って『風景(仮)』(OP594)を制作しているように見える。この谷戸のたどり方は、『下落合風景』(OP008)を描いたときの林泉園から御留山へとたどった、清水の足どりとそっくりなことに気づく。
 さらに、第二文化村の松下邸を描いたのかもしれない『風景(仮)』(OP581)があるが(この描画場所は自信がない)、これらの作品群はおしなべて、清水が木星社の福田久道へ風景のモチーフ探しを相談し、彼の示唆を受けて下落合の中部域、前谷戸が刻まれた目白文化村Click!へと導かれた成果なのかもしれない。
 以上のように、清水多嘉示が描いた「下落合風景」とみられる作品の描画場所をまとめて検討すると、清水多嘉示は清廉な泉が湧く谷戸の風情が気に入り、積極的に下落合の谷間あるいは“水場”を好んで逍遥している可能性を強く感じるのだ。滞仏中の作品は細かく検討していないけれど、はたして谷間や水辺にかかわる風景が多いものかどうか、興味深いテーマなのではないだろうか。
 さて、渡仏前に描かれた作品に、1921年(大正10)の『庭の一部』(OP007)Click!と制作時期の不明な『青い鳥の庭園』(OP018)があるが、この2作品は大久保作次郎の庭で制作された可能性の高いことは、前回の記事でも書いたとおりだ。大久保アトリエは、谷戸地形や湧水源とはまったく無関係だが、おそらく中村彝の紹介で訪問しているのだろう。当時の大久保アトリエ周辺は、いまだ畑地が多く農家がポツンポツンと見られるような風情だった。その中の1軒で、大久保アトリエ直近の「百姓家」Click!を借りて住んでいたのが、出身地である大阪時代から大久保作次郎とは親しく、極度の貧血を起こして下落合で行き倒れていた小出楢重Click!だ。
 清水多嘉示と大久保作次郎は、渡仏中もパリでいっしょだったので、帰国後も清水はアトリエを訪問しているのかもしれない。だが、大久保アトリエを想起させる画面は、帰国後の作品には残されていない。
目白文化村1936.jpg
「風景(仮)」OP287.jpg 「風景(仮)」OP594.jpg
前谷戸.JPG
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 また、清水はモンパルナスにあったアカデミー・コラロッシのシャルル・ゲラン教室で学んでおり、同アカデミーで佐伯祐三Click!木下勝治郎Click!といっしょに記念写真に撮られているが、特に佐伯や木下と親しくなったというエピソードは残っていない。むしろ、のちに1930年協会Click!を設立する画家たちが意識的に距離をおいていたように見える、藤田嗣治Click!石黒敬七Click!たちグループの近くで制作していたようだ。
 ちなみに、朝日晃の書籍では同写真の撮影場所をアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールとしているが(『佐伯祐三のパリ』新潮社/1998年ほか)、清水多嘉示がこの時期に学んでいた美術研究所から考察すれば、この写真はアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールに隣接するアカデミー・コラロッシの誤りだろう。パリに着いたばかりの佐伯と木下は、さまざまな美術関連の施設を見学して歩いていたのかもしれない。

◆写真上:林泉園のテニスコート跡あたりを、北側に通う道路上から見下ろす。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林泉園周辺の清水多嘉示の軌跡。は、清水多嘉示の『下落合風景』(OP008/)と『風景(仮)』(OP595/)。は、御留山側から撮影した藤稲荷社の境内。拝殿・本殿の位置が戦前とは異なるが、清水は右手に見えている住宅のあたりにイーゼルを立てて『下落合風景』(OP008)を描いている。
◆写真中下は、同年の空中写真にみる諏訪谷周辺の清水の軌跡。は、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP285/)と『民家(仮)』(OP648/)。は、雪が降ったあと南へとつづく諏訪谷の情景で、遠景は新宿駅西口の高層ビル群。
◆写真下は、同年の空中写真にみる前谷戸(不動谷)周辺の清水の軌跡。中上は、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287/)と『風景(仮)』(OP594/)。中下は、前谷戸(不動谷)へ下りる坂沿いに築かれた第四文化村の宅地擁壁。は、1924年(大正13)に撮影されたアカデミー・コラロッシと思われる記念写真。清水多嘉示と、同年1月3日にパリへ到着したばかりの佐伯祐三と木下勝治郎が写っている。
掲載されている清水多嘉示の作品と資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。

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東海道線貫通の牛頭天王社(品川大明神)。 [気になるエトセトラ]

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 明治期に活版印刷された『新編武蔵風土記稿』Click!には、あちこちに破壊される前の古墳の様子を記録した記述が見える。特に、古墳のある地域に伝承された「怪談」や「ほんとにあった怖い話」の類も含めて、ところどころ紹介されているのが面白い。そこには、古墳(古塚)に近づき関わってしまったがために、「屍家」Click!の「呪い」や「祟り」にみまわれ、悲劇的な事件へと発展してした物語も記載されている。
 古墳が築かれた地域では、その場所が古来から禁忌的なエリアないしは異界として伝承・認識されており、そのエリアに近づいてはいけない、あるいは関わってはいけないというフォークロアが継承されている。それは、古墳が築造された1500~1700年ほど前から、死者の安息所を乱す禁止行為として、あるいは平安期以降には全国で横行した盗掘を防止するため、意図的に流布されつづけてきたものだろう。
 そのような「祟り」や「呪い」が起きた事件を、『新編武蔵風土記稿』(第137帳)の足立郡伊興村(現・足立区東伊興)の白旗塚古墳ケースから引用してみよう。
  
 白旗塚
 東の方にあり、此塚あるを以て、白旗耕地と字せり。塚の除地二十二歩百姓持なり。上代八幡太郎義家奥州征伐の時此所に旗をなびかし軍勝利ありしとて此名を伝へし由。元来社地にして祠もありしなれど、此塚に近寄らば咎ありとて村民畏れて近づかざるによりて、祠は廃絶に及べり。又塚上に古松ありしが、後年立枯て大風に吹倒され、根下より兵器其数多出たり。時に村民来り見て件の兵器の中より、未だ鉄性を失はざる太刀を持帰て家に蔵せしが、彼祟りにやありけん。家挙げて大病をなやめり。畏れて元の如く塚下へ埋め、しるしの松を植継し由。今塚上の両株是なりと云。今土人この松を二本松と号す。
  
 おそらく松の根元を掘り、古墳の玄室に侵入して出土した鉄剣・鉄刀あるいは副葬品を、そのまま持ち帰ったのだろう。家族がみな大病を患うという「祟り」に遭い、あわてて埋めもどした様子が記録されている。
 その昔、下落合に存在した古墳出土の鉄剣・鉄刀Click!や、副葬品の碧玉勾玉Click!を譲り受け保存しているわたしには「祟り」などなさそうなので、どうやらこの地域に透けて見える古代の大鍛冶(タタラ製鉄)や小鍛冶(刀剣鍛冶)の事蹟Click!と、この地方一帯に展開する大規模な古墳の痕跡Click!を追究しながら大切にしているのが、消滅してしまった古墳の被葬者の「霊」にもどうやら理解されているのか、次々と興味深い資料も集まり、どこか応援してくれているような気配さえ感じる。w
 このような、「いわく」のあるエリアを伝え聞いた後世の人々が、同地を「祓い」、死者の魂を浄化して聖域化するために、寺社を建設している経緯は想像に難くないだろう。大型の古墳であれば、寺社の建設には格好の地形を提供していたにちがいない。また、大型古墳を取り巻く小塚(倍墳)の場合には、神道ないしは仏教の祠(ほこら)を設置してまわった。敬虔な仏教者(僧侶)であってみれば、そのような異界伝承を耳にするたびに、さまざまな祠を設けて供養をしたのだろう。落合や戸塚、高田、大久保、柏木など旧・神田上水沿いの各地域に展開する、室町期の僧侶・昌蓮Click!が形成した「百八塚」Click!とは、そのような経緯の延長線上に位置する事蹟ではないかとみている。
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 さて、幕末に外国船の来航に備え、御殿山の土で埋め立てられた「台場」(砲台)について調べているとき、面白い地図を入手した。明治初期に制作された地図類で、東海道線Click!が敷設された最初期の地図類だ。おそらく、1872年(明治5)からほどなく作成されたのではないかと思われる地図や地形図だ。そこには、巨大な塚と塚の間を貫通する東海道線が描きこまれている。
 東海道線をはさみ、西側のサークルは、いまでは山手線や住宅街となって現存しておらず不明だが、東側の塚状突起の一部は古くから出雲神のスサノオを奉った牛頭天王社、明治以降は品川神社(品川大明神)と呼ばれる社(やしろ)の境内だ。同社の境内は、明治初期には大きな瓢箪型(大正期以前の前方後円墳タイプ呼称)、すなわち鍵穴のような前方後円墳Click!のフォルムをしていたことがわかる。品川大明神は、この形状の前方部から後円部の手前にかけ建立されている。地形図から読みとれる瓢箪型突起の全長は、250mほどもある大きなフォルムの塚だ。
 しかも、品川大明神社の北側にも、東京湾を向いて同様の大きな塚状の突起(200m超)が存在していたことが、明治期に作成された別の地形図に記録されている。ちなみに、現存する品川神社の突起は、西側の後円部が削られて宅地開発がなされ、南側は板垣退助の墓所を含む広めな墓域になっている。古墳域がその禁忌的な伝承から、そのまま墓地になってしまった事例はほかにも多数あるので、この点にも深く留意したい。
 品川区の古墳について記した資料に、品川歴史館が発刊している「紀要」類がある。もともと品川区(旧・荏原区と品川区)は、東京湾に面した地域のせいか明治期から工場の誘致など殖産興業に熱心であり、江戸期の東海道は最初の宿場である品川宿としての事蹟は頻繁に紹介されてきたものの、それ以前の、特に古代史の研究については、ほとんど熱心に取り組まれてはこなかったように見える。その象徴として、2005年(平成17)に品川歴史館で開催された特別展「東京の古墳―品川にも古墳があった―」の「品川にも」というタイトルに、期せずして象徴的に表れている。
 実は、目黒駅の東側(現・品川区上大崎)にあるふたつの巨大な古墳状のフォルムClick!と同様に、あるいは品川区の北側位置する芝増上寺境内の芝丸山古墳Click!(最新調査では全長120mで陪墳14~15基と想定)と同様に、海に向かう斜面には大小の古墳群が存在していたが、それに気づかぬまま、あるいは戦前の皇国史観Click!の中で「関東に大型古墳などあってはならない」とされて、なんの調査もなされずに破壊され、工場街や住宅街にされつづけてきた可能性を否定できない。
 敗戦により非科学的な皇国史観の呪縛がとけた当初から、品川区に展開する古墳群について注目していた人物がいた。こちらでは、美術のテーマも含めて何度も登場している、目白の「徳川さんち」Click!でお馴染みの徳川義宣Click!だ。徳川義宜は1946年(昭和21)から、学習院の考古学チームClick!を引き連れて、品川区の大井林町古墳(2基)の発掘調査におもむいている。すでに墳丘はあらかた宅地開発や墓地設置のため破壊されていたが、全長50m前後の前方後円墳(1号墳は円墳の可能性も残る)が双子のように並んで築造されていた様子を記録している。
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 発掘の様子を、2006年(平成18)発行の『品川歴史館紀要』から引用してみよう。
  
 一号墳は、徳川氏の報告によると、昭和二一年(一九四六)の正月より昭和二八年(一九五三)春まで大井林町二四八番地(中略)の伊達家邸内の洋館に居住していた時に、その邸内の庭から縄文時代後期の土器片や相当数の埴輪片を採集したと報告されている。そして徳川氏はその報告の中で「表面採集のみで周濠調査もしてゐないので、存在したはずの墳丘の形式も、大きさも、基数も不明である。八百坪ほどの庭の全面から採集されたと云っても、台地先端部から二〇~六〇メートルの範囲が分布密度は高かったと記憶してゐるので、それほど巨大な墳丘が存在したとは考へられず、前方後円墳でも円墳でも、最長五〇メートル内外ではなかったかと推測される。」とし、「今回これを『大井林町一号墳』と呼ぶこととした。」と報告している。
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 伊達家の庭は、まるで大正期にみられた落合地域の畑地のような状況だったのがわかる。畑で土を掘り返すと、土器や埴輪の破片がたくさん出てくるので、梳きこんでみんな土中に埋めもどしたという証言が、落合地域のあちこちに残っている。
 また、大井林町2号墳は当時現存していた墳丘が41mで、大井公園に隣接した土佐藩山内家の墓所内にあった。やはり古くからの禁忌的伝承でもあったものか、大きな古墳域が近世でも死者を葬る墓地にされていたのがわかる。墓地開発をするために、墳丘がどれだけ崩されたのかは不明だが、41mの残滓から想定するともっと大きな古墳だったのではないかと推定できる。2号墳からは、古墳期の埴輪や土師器片が出土している。
 このほかにも、品川区では1960年代になって次々と古墳が発見されている。青物横丁駅の西側にある仙台坂では、直径20m前後の円墳群が見つかっているが、これが新宿角筈古墳(仮)Click!の女子学院キャンパスにあった陪墳Click!のひとつや、成子天神山古墳(仮)の陪墳(成子富士)Click!のように、大きな主墳に寄り添う一連の陪墳群だったかどうかは、すでに周辺の環境が宅地開発で地形まで改造されてしまったために不明だ。
 さて、品川区の古代の様子を、これらの発掘ケーススタディを踏まえた上で眺めてみると、明治期に記録された先の牛頭天王社(品川大明神社)の東西に連なる丘と、東海道線をはさみそれに寄り添うように採取された西側の大きなサークル、そして同社のすぐ北側に海へ向かって平行に並ぶように採取された、東西に延びる巨大な双子突起が、がぜん気になってくる。品川大明神は、平安末期に源頼朝Click!が正式に建立して以来(出雲のスサノオ伝承から、実は建立はもっと古い時代だと思うのだが)、墳丘(前方部と後円部の境にある羨門位置)に社殿が建設されているので一度も発掘調査は行われていないのだろう。同社に並ぶように位置する、東海道線西側の巨大なサークルや、北側の墳丘状の大きな突起もまた、なんの調査も行われずに明治期から破壊され開発されつづけてきた。
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 先日、旧・東海道の品川宿から御殿山下台場、そして品川大明神社を歩いてきた。境内への階段を上り、長い参道を歩くと、ようやく拝殿・本殿にたどり着く地形は、まさに前方後円墳をベースClick!に境内を造成した待乳山古墳Click!や、大手町(旧・エト゜岬=江戸柴崎村)の将門塚古墳Click!などの境内に見られる地勢とそっくりだ。ただし、品川大明神社のケースは、西側の開発されてしまったエリア(後円部)を含めれば250mと、その規模がかなり大きい。目黒駅東側の同じく品川区上大崎に痕跡が残る、森ヶ崎古墳(仮)に次ぐ規模だろう。境内に房州石があったかどうかは未確認だが、「品川富士」Click!も築かれている典型的な古墳臭がする地点なので、また機会があれば散歩してみたい。

◆写真上:西側の第一京浜から見上げた、品川大明神社の階段(きざはし)と境内。
◆写真中上は、1872年(明治5)ごろに作成された地図。東海道線が、ふたつの塚状突起の間を貫通して敷設されている様子がわかる。は、1881年(明治14)に作成された地形図。すでに品川社のある丘が、南北の開発で大きく削られ変形しているのが判然としている。また同社の北側にも、同様に海へ向かって張り出す丘が採取されている。は、1947年(昭和22)の空中写真に見る品川社。すでに西側の後円部とみられる丘は消滅し、同社の南側は削られて墓域になっている。
◆写真中下は、1880年代に作成されたとみられる地形図。品川社のある前方部とみられる丘と、西側の丘が分離し開発されはじめているのがわかる。また、同社北側の丘も開発されはじめているようだ。は、品川社の長い参道と広い境内。
◆写真下は、カーブを描いた前方部の北側斜面。は、境内に築かれた「品川富士」。は、同社南側にある板垣退助の墓。「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」の人なので、“西側”資本主義体制のきわめて重要な政治・社会思想のひとつ自由主義とは無縁な、よりによって国連から警告を受けるなど恥っつぁらしで「国辱」もんの、民主主義の根幹を揺るがす現代版治安維持法=「共謀罪」が早く消滅するようお参りする。わたしが生きている間に、いまさら明治期の自由民権運動家の墓に手を合わせたくなるような時代が招来しようとは実に情けない、思ってもみなかったことだ。


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