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近所のワルガキに悩まされる中野重治。 [気になるエトセトラ]

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 1934年(昭和9)5月に、中野重治Click!は「政治運動はしない」という誓約書を書かされ、「転向」してようやく豊多摩刑務所Click!から出獄した。上落合481番地に住んでいた、前年4月に治安維持法違反の容疑で逮捕されてから、1年余の獄中生活だった。出獄した直後、四谷区永住町1番地の大木戸ハウスへ仮住まいをしていたが、同年暮れには上落合のほど近く、柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)へと転居している。
 柏木の家は、2年前まで淀橋町(大町)1130番地と呼ばれていた、旧・神田上水をはさんで小滝台(華洲園)Click!のすぐ南側にあたるエリアだ。小滝橋Click!から南西へ200mほど入った住宅街にあり、最寄り駅は直線で500mのところにある中央線の東中野駅だった。中野重治が柏木へ転居したころ、ちょうど旧・神田上水の蛇行を修正する直線化工事が進捗しており、沿岸は赤土の空き地が目立つ風情だったろう。
 この家で彼は、軍国主義と戦争へ向かって狂ったように突き進む政府へどのような抵抗を継続するか、「転向」後の活動を模索していたと思われる。近くの上落合2丁目549番地に住む壺井繁治Click!が結成した「サンチョクラブ」Click!へ、出獄して間もなく参加したのもその一環だろう。「サンチョクラブ」Click!の事務局は、上落合2丁目783番地の漫画家・加藤悦郎宅に置かれており、中野重治が2年前に逮捕されたときに住んでいた、上落合(1丁目)481番地のClick!からも500mほどしか離れていない。
 特高の徹底した弾圧がつづく当時の状況を、1968年(昭和43)に理論社から出版された、山田清三郎『プロレタリア文学史』下巻から引用してみよう。
  
 わたしは下獄にさいして、「プロ文壇に遺す言葉」(三四年一〇-一一月『文芸』)をかいていった。これは、一年半前に警視庁の中川・須田・山口らの特高に虐殺された多喜二の霊へ報告の形式で、ナルプ解体後のプロレタリア文学界の点検をおこない、題名通りあとの同志への期待をたくしたものである。(中略) わたしはまたそのなかで、執行猶予で出獄した村山知義の「白夜」(三四年五月『中央公論』)にふれ、「いわゆる“転向”時代のこの情勢の中で、その波を避けることのできなかった鹿野――それは作者の分身である――の、内面的苦悩と、それを救うものとしての精神的支柱」にふれて、この作の意義を解明している。そして、わたしはことのついでに、「窪川鶴次郎も、壺井繁治も、それから中野重治も、みな(伏字の六字は刑の執行猶予)になった。彼等は、夫々に健康もよくなかった」とかいている。かれらはナルプ解体前後に、こうして出獄していた。
  
 「ナルプ」とは「日本プロレタリア作家同盟」の略称だが、いかなるメディアを使いどのような表現をすれば、文学運動がつづけられるか暗中模索の時代だった。今日の文学史的にみれば、1935年(昭和10)という時点はプロレタリア文学が当局の弾圧により、息の根をとめられた年ととらえることができるだろう。
 中野重治はこの時期、当局へ「転向」したことを“証明”するために、政治的な文章ではなく叙事的なエッセイをいくつか残している。家の周辺に展開する光景や風情を描いた作品群は、下獄前の彼の活動を知る人間から見れば、「毒にも薬にもならぬものを書いて…」ということになるのだろうが、いまとなっては1930年代後半の新宿北部の様子を知るうえで、非常に貴重な記録という別の側面を備えている。
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 中野重治は柏木の家で、近所に住む小さなワルガキどもに悩まされている。庭先にある樹木の若葉をむしられ、鉢から庭へ移植して大切に育てていたバラの花を、片っぱしから摘まれてしまった。1959年(昭和34)に筑摩書房から出版された、『中野重治全集』所収の「子供と花」から引用してみよう。
  
 私の家の前にどぶがあって、そのどぶばたに背の低いアオキが立っている。春から夏へかけてきれいな芽が出てきて、それがどんどん葉になって行く。大いによろこんでいると、ある朝すっかりむしられてしまった。葉という葉をのこらずむしられて、下手なステッキのようになってしまったのでがっかりしていると、そのうちまた美しい葉が出てきたので安心した。するとまたそれがむしられてしまった。/いたずらをするのは近所の子供たちで、それがまだ幼稚園へも行かぬような小さいのばかりなので叱りつけることもできない。(中略) 夏になって私はバラの鉢を買ってきた。花盛りが過ぎかけたので外の垣根のところへ移しかえた。と、子供たちが今度はそれを摘みはじめた。花ざかりがすぎたといってもまだぽつぽつ咲くし、季節の最後の花でちょっとなかなかいいので、それが片っぱしから摘みとられるので今度は叱りつけた。
  
 でも、子どもたちの悪戯はまったく止まない。今度は、隣家のカシの木の幹を小刀で傷つけているのを見つけた。中野重治が庭に出て「何をしてるんだい?」と訊ねると、子どもたちは「蟻を切ってるんだぜ」と答えた。やめるようにいうと、「だって木にのぼっていけないじゃないか?」「蟻だけ切るんだから木を切らなけや(きゃ)いいだろう?」と、わけのわからない理屈が返ってきた。だが、中野がその後も観察していると、やはりアリを退治しているのではなく、カシの幹を傷つけては喜んでいるようにしか見えない。
 ここで面白いのは、大人に叱られてもまったく懲りずに動じない、逆に妙な屁理屈をひねり出して大人に“抵抗”しようとする小さな子どもたちが、つい数年前まで豊多摩郡と呼ばれて田畑が多く拡がっていた、東京郊外に出現しているということだろうか。こういう“ひねっこびれた”ワルガキどもは町場、特に市街地に多くいたはずなのだが、1930年代の淀橋区(現・新宿区の東側)北部にも現われはじめたということだ。
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 1932年(昭和7)に東京35区の「大東京」Click!時代を迎え、また鉄道や市電、乗合自動車(バス)Click!など交通インフラの急速な整備により、市街地(旧・東京15区エリア)に住んでいたサラリーマン家庭が、1932年(昭和7)以前は郊外と呼ばれていた田園地帯へ転居するケースが急増していた。また、大きな企業では社宅を旧・郡部へ建設する事例も多かっただろう。山手線の西側には、次々とターミナル駅が形成され、都市部の風俗や習慣がいっせいに外周域へと流入した時期とも重なる。
 農村部の単純で素朴な子どもたちは姿を消し、大人に叱られてもちょっとやそっとでは懲りない「都市型ワルガキ」も、この時期に急増していったにちがいない。カシの幹切りからしばらくすると、中野重治の庭に咲くバラがまた被害に遭っている。
  
 その後五、六日してまたバラをむしるのを見つけた。「おい止せよ。」というと二、三人ばらばらと逃げ出したが、逃げおくれた小さい子が、ひっこみがつかなくて、「ね、おじちゃん、花とっちゃいけないんだね……」と媚びるような調子で言い出したのには閉口してしまった。へんなことをいうなよというわけにも行かない。乱暴なら乱暴でそれ一方ならいいが、へんに大人的に出られると参ってしまう。子供の方でもやはり気まずいらしい。言いわけにならぬ言いわけだということを何となく自分でも感じるらしい。不愉快とはいえないが、ちょっと辛いようなものである。
  
 こういうときは、奥さんの原泉Click!(原泉子=中野政野)に白装束で鉢巻きをしめ、榊(さかき)の枝をふりまわしながら登場してもらって、「鎧明神の将門様がお怒りじゃ~! おまえたち、呪われてしまうぞよ~!」と出ていけば、子どもたちはヒェ~~ッと逃げていって二度とやってはこなかったかもしれないのだが、彼女はいまだ怖くて妖しげな老婆ではなく、築地小劇場などで活躍する若くて美しい舞台女優だった。
鎧神社.JPG
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 1930年代を迎えると、落合地域とその周辺域では市街地から続々と転入してくる子どもたちで尋常小学校が足りなくなり、次々と新しい学校が開校している。だが、それでも間に合わずに既存校舎の増改築を進めるが、さらに校舎からあふれた生徒たちは、周辺の公共施設や集会場などの「臨時校舎」を利用して授業を受けていた。

◆写真上:戦前に中野重治・原泉の自宅があった、柏木5丁目1130番地あたりの現状。戦後の区画整理で道路が変わってしまい、旧居跡の道筋は消滅している。
◆写真中上は、1932年(昭和7)作成の1/10,000地形図にみる柏木1130番地で旧・神田上水の直線化工事がはじまっている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中野重治邸。は、1930年代に西側の斜めフカンから撮影された同所。
◆写真中下は、1930年(昭和5)に撮影された中野重治と中野政野(原泉)。は、1941年(昭和16)ごろに撮影された柏木5丁目界隈。上部に見えている大邸宅群は小滝台(旧・華洲園)住宅地だが、この一帯は1945年(昭和20)の空襲で全焼している。
◆写真下は、柏木の中野宅から南へ200mほどのところにある鎧明神社。は、柏木から東中野にかけての神田川沿いにも「染め物洗い張り」の工房が展開している。