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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(8) [気になる下落合]

清水多嘉示「庭の一部」OP007.jpg
 冒頭の画面は、清水多嘉示Click!が渡仏する2年前、1921年(大正10)に制作した『庭の一部』(OP007)という作品だ。同作は、同年9月9日から開催された二科展の第8回展に入選している。この画面をひと目観て、これとよく似た構図の別の作品を、わたしはすぐに想い浮かべた。翌1922年(大正11)に描かれ、同年開催の第4回帝展(旧・文展)に出品された、牧野虎雄『百日紅の下』Click!だ。
 長崎村(町)荒井1721番地(現・目白4丁目)にアトリエをかまえ、のちに下落合へ転居してくる牧野虎雄Click!は、長崎のアトリエから東へ200mほどの近くに住む、帝展仲間で下落合540番地の大久保作次郎邸Click!を訪れては、その邸内や庭園へイーゼルを持ちこんで帝展出品用の作品を仕上げている。1890年(明治23)生まれで同じ歳のふたりは、東京美術学校Click!の西洋画科でも同窓であり、気のおけない親友関係だったのだろう。
 大久保作次郎は1919年(大正8)に下落合へアトリエを建設しており、当然、3年前にアトリエを建てていた文展/帝展の画家仲間である中村彝Click!とも、近所同士なので緊密に交流していた。大久保は彝の歿後、『美術新論』(1927年7月号)の中村彝追悼号へ文章を寄せているぐらいだから、それなりに親しかったにちがいない。当時、郊外の田園風景が拡がる下落合界隈に住んだ文展(帝展)系の画家たちを称して、「目白バルビゾン」Click!というワードが流行っていた時代だ。
 大久保作次郎Click!は、自邸のアトリエで画塾を開いており、プロの絵描きをめざす画学生から近所の油絵が趣味の人たちまで、多くの弟子や生徒を抱え、毎日5~10人が通ってきていた。岡田三郎助の画塾Click!と同様に、女性の画学生や生徒たちが数多く集まり、結婚した満喜子夫人Click!も絵を習いにきていた生徒のうちのひとりだ。彼女たちは、大久保邸の周囲に拡がる庭園やアトリエでキャンバスに向かっては、仕上げた作品を大久保作次郎に講評してもらっている。牧野虎雄の『百日紅の下』は、大久保邸の庭にあった鶏舎の前で、日傘をかざして写生に励む塾生のひとりを描いたものだ。そして、その様子は『主婦之友』の記者によって、秋の帝展記事用にリアルタイムで撮影されている。
 さて、冒頭の『庭の一部』(OP007)もまったく同じシチュエーションで、日傘をかざしながら写生にいそしむ女性の姿がとらえられている。落ち葉と土を積み上げ、庭園や花壇づくりの腐葉土をこしらえているのだろうか、女性とイーゼルの向こう側にはこんもりとした茶色い小山が築かれている。このような小山は、長崎にあった牧野アトリエでも築かれていたのが、1919年(大正8)の第1回帝展に出品された牧野虎雄『庭』でも確認できる。画面右上には、細長い窓がうがたれた洋風の住宅が確認できるが、この建物こそが下落合540番地に建っていた大久保作次郎邸の一部ではないか?……というのが、わたしの課題意識だ。しかも、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)は1921年(大正10)に描かれており、牧野虎雄の『百日紅の下』よりも制作が1年ほど早い。
 清水多嘉示は、中村彝の紹介で下落合464番地の彝アトリエから北へ240mほど、目白通りをわたったところにある大久保作次郎アトリエを訪ねてやしないだろうか。そして、広い庭のあちこちで写生する女生徒たちを見て、自身もキャンバスに向かいたくなったのではないか。しかも、ただ単に大久保邸の庭を写生するだけではつまらないと感じたのか、制作に励む女生徒を中央にすえて描いている。この女生徒は、牧野の『百日紅の下』の洋装女性とは異なり、絣の着物に袴姿の女学生のようなコスチュームをしている。モダンでハイカラな下落合でさえ、当時は洋装の女性がめずらしかった。1922年(大正11)に目白文化村Click!から洋装の女性が外出すると、周辺の住民たちが立ち止まって注目するような時代だった。
大久保作次郎アトリエ1926.jpg
牧野虎雄「百日紅の下」1922.jpg
牧野虎雄「百日紅の下」制作現場.jpg
大久保作次郎アトリエ1936.jpg
 清水多嘉示の『庭の一部』が、何日間かけた仕事なのかは不明だが、牧野虎雄もその間に大久保アトリエを訪ね、清水の仕事ぶりを観察していたのではないか。あるいは、1921年(大正10)秋の二科展第8回展の会場に出かけ、あらかじめ大久保作次郎から聞かされていた清水の画面を観て、強いインスピレーションを受けたのではないだろうか。それが、翌1922年(大正11)に帝展第4回展の牧野虎雄『百日紅の下』へと還流しているような気が強くするのだ。しかも、面白いことに両作は展覧会の記念絵はがきとして、美術工藝会の手でカラー印刷され、清水の『庭の一部』は1921年(大正10)の二科展会場で、牧野の『百日紅の下』は1922年(大正11)の帝展会場で販売されている。
 さて、以上のような単に画面が似ているという理由のみから、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)を、大久保作次郎アトリエの庭ではないか?……と想定しているわけではない。さらに、もうひとつ大久保アトリエを想起させる重要なファクターが、清水の作品群には含まれているのだ。それは、やはり渡仏前の作品で同じ庭先を描いたとみられる、『青い鳥の庭園』(OP018)の存在だ。画面がモノクロームでしか残されていないので、行方不明か戦災で焼けた作品だろうか。
 画面の右上に、『庭の一部』(OP007)と同一デザインの窓がうがたれた洋風の邸が見えているので、おそらく同一の場所だと思われる。そして、モノクロなのでわかりにくいが、庭の繁みの前へこしらえた止まり木に、大きめな鳥らしいフォルムを確認できる。「青い鳥」と書かれているので、「青」を江戸東京方言Click!“緑色”Click!ではなく、そのままブルーとして解釈すれば、足を止まり木につながれたオウムかインコのような大型鳥なのかもしれない。
大久保作次郎アトリエ1947.jpg
大久保作次郎「揺籃」1921.jpg
大久保作次郎「庭」1922.jpg
庭の一部絵はがき.jpg 百日紅の下絵はがき.jpg
 大久保作次郎は、多種多様な鳥を飼育するマニアとしても知られていた。牧野虎雄の『百日紅の下』には、キャンバスに向かう女性の向こう側に、鶏舎で飼われている数多くのニワトリを確認することができる。同様に、牧野虎雄は大久保邸で飼われていた大きなシラキジを1931年(昭和6)、ビール片手に大画面のキャンバスClick!へ描き、同年の第12回帝展へ出品している。キジのほか、大久保邸ではクジャクやシチメンチョウなどが庭で飼われていたらしい。大正後期から昭和初期にかけ、乃手Click!ではイヌやネコ、鳥などペットを飼育するのがブームになるが、大久保作次郎は大型のめずらしい鳥を飼うのが好きだったようだ。
 余談だけれど、中村彝も小鳥を飼育していたようだが、実際に描かれた画面の鳥かごの中にいるオウムかインコのような大型の鳥は、彝自身がこしらえた鳥の“フィギュア”Click!だった。また、刑部人アトリエClick!の北側に位置する姻戚の島津源吉邸Click!では、10羽以上のシチメンチョウが庭で放し飼いにされていたのを、刑部人のご子息である刑部祐三様Click!と孫にあたる中島香菜様Click!からうかがったことがある。佐伯祐三Click!は庭で7羽の黒いニワトリClick!を飼い、霞坂の秋艸堂Click!にいた会津八一Click!はハトとキュウカンチョウを飼っていたことでも知られている。
 『青い鳥の庭園』(OP018)の中央左寄りに描かれた、おそらくブルーで塗られている鳥らしいフォルムは、オウムのような南国の大型鳥だったものだろうか。ぜひカラーの画面で確認してみたいものだが、清水多嘉示の作品を網羅し2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室から刊行された『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』には、モノクロ画面でしか収録されていないので、作品が失われてしまった可能性が高い。
 以上のような経緯や前提をもとに検討を重ねると、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)と『青い鳥の庭園』(OP018)は同一場所(庭園)で描かれたのであり、それは多くの女弟子が通って庭で日々写生をする光景が見られ、しかも邸内や庭園には当時としてはめずらしい鳥たちが数多く飼育されていた、中村彝ともごく親しい下落合540番地の大久保作次郎アトリエではないかと思えるのだ。ひょっとすると、牧野虎雄や大久保作次郎ら目白通り北側に住む画家たちが参加して行われていた長崎町のタコ揚げ大会Click!へ、清水多嘉示も参加したことがあるのかもしれない。
清水多嘉示「青い鳥の庭園」OP018.jpg
牧野虎雄「白鸚」193109.jpg
大久保作次郎アトリエ跡.JPG
 さて、8回にわたって連載してきた、「下落合風景」を描いたとみられる清水多嘉示の作品群だが、わたしが気になった画面は、とりあえずすべて網羅させていただいた。だが、建物や地形が描きこまれてない森や林の中の小道など、まったくメルクマールが存在しない画面も少なくない。それらは、未開発の落合地域の外れならどこでも見られた光景であり、それは高円寺界隈を含む東京郊外でも同様だったろう。また、清水の故郷である諏訪でも、同じような風景が見られたにちがいない。次の記事では、下落合において想定できる清水多嘉示の“足どり”について、その作品の描画場所とともにまとめてみたい。

◆写真上:1921年(大正10)に制作された、清水多嘉示『庭の一部』(OP007)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる大久保作次郎邸。は、1922年(大正11)に描かれた牧野虎雄『百日紅の下』()と、「主婦之友」に掲載された大久保邸の庭で『百日紅の下』を制作する牧野虎雄()をとらえた写真。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大久保作次郎アトリエ。
◆写真中下は、戦災から焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる大久保邸。は、1921年(大正10)に自邸の庭で描いたとみられる大久保作次郎『揺籃』()と、1922年(大正11)に制作された大久保作次郎『庭』()。は、美術工藝会が印刷した清水の『庭の一部』二科展絵はがき()と、牧野の『百日紅の下』帝展絵はがき()。
◆写真下は、1923年(大正12)の渡仏前に制作された清水多嘉示『青い鳥の庭園』(OP018)。は、1931年(昭和6)に大久保作次郎邸で飼われていたシラキジをモチーフに帝展出品作の『白鸚』を制作する牧野虎雄。は、大久保作次郎アトリエ跡の現状
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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「事故物件」へ転居してしまう小山内薫。 [気になるエトセトラ]

高輪車町化け物屋敷.jpg
 先年、高田馬場駅から田島橋Click!を経由し下落合方面へと抜けられる、栄通り沿いにあった古いふるい喫茶店の「プランタン」が、裏手から出火した火事のために延焼した。日本全国には、「プランタン(春)」と名づけられた喫茶店が、はたして何軒ほどあったものだろうか? 「プランタン」の嚆矢は、もちろん洋画家の松山省三Click!がフランスから帰国して、1911年(明治44)に銀座へ開店したカフェ「プランタン」Click!だが、その店名をつけたのは小山内薫Click!だ。
 大正末から昭和初期にかけ、新橋の「花月」で開かれていた怪談会Click!には、泉鏡花Click!長谷川時雨Click!柳田國男Click!里見弴Click!、平岡権八郎、小村雪岱らに混じって、小山内薫もよく出席していたらしい。この怪談会の一端は、1928年(昭和3)に発行された『主婦之友』8月号(主婦之友社)に詳しく記録されているが、さまざまな怪異現象や幽霊譚を夜更けまで(あるいは徹夜で)語り合う、1920年代の「百物語」あるいは「ほんとにあった怖い話」の集まりだった。小山内薫は、もともと怪談好きだったのだろう、いくつかの作品でもモチーフとして手がけている。
 ところが、小山内薫は怪談を創作したり集まりで語るだけでなく、自身がよく経験してしまう“体質”をもっていたようだ。それは、転居をする際に知らず知らず「事故物件」を選んでしまい、そこで不可解な現象や怖ろしいめに遭うという経験を何度か重ねているからだ。新しい家を探しにいき、とても魅力的に感じられる物件を見つけて喜び、いざ家族や親戚などとともに引っ越してくると、とたんに一家が多種多様な怪異や災難にみまわれる。おかしいと気づいてよくよく調べてみると、近所では有名な“化け物屋敷”だった……というような経緯だ。
 芝(西久保)明舟町(現・虎ノ門2丁目)の家が手狭になり、連れ合いの姉一家とともに住む家を探しているとき、高輪(芝)車町(現・高輪2丁目)に格好の屋敷を見つけた。大きな正門に、門番の住宅までが付属しており、大名屋敷を思わせるような玄関へとつづいていた。10畳を超える広さの台所や、20畳以上の座敷が4部屋以上、まるで宿屋のような風呂場や便所が2つずつ、土蔵が2戸にテニスができそうな空き地、海に面している回遊式庭園には築山や池までがあり東京湾が眼前に一望できた。
 しかも、家賃が月70円と格安だった。大正前期の70円はいまの感覚でいうと、これだけの屋敷を借りていながら家賃が10万円前後ということになる。この時点で、小山内薫一家は「なんか、おかいしぜ」と気づかなければならなかった。そう、この屋敷は住環境的にも、省線と市電の騒音がひっきりなしに響いてうるさかったのだ。新居を探しているとき、どうして門前を走る市電の音や、庭先にある山手線と東海道線の走行音が気にならなかったのだろうか。屋敷に棲みつくなにかに憑かれ、魅入られでもしたのだろうか?
カフェ・プランタン銀座.jpg
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 庭に面した応接室では、山手線や東海道線が通るたびに来客との会話が不可能になった。電車や貨物列車が途切れるのは、深夜の2~3時間のみという劣悪な住環境だった。しかも、家族たちは次々と怪しい体験や、おかしな出来事に遭遇するようになる。その様子を、1927年(昭和2)に東京日日新聞連載の小山内薫『芝、麻布』が収録された、1976年(昭和51)出版の『大東京繁盛記/山手篇』(講談社)から引用してみよう。
  
 成程、これは安いわけだと思っていると、私の家内が夜中にうなされる。白い着物を着た怪しいものを見る。裏の土蔵の戸前に「乳房榎」の芝居の番付がはってあったのを誰かゞ見つけて、愈々騒ぎ出す。その内に、初めて来た若い魚屋が置いて行ったバカのむきみに家中の者があたって、吐きくだしをする。しかもその魚屋はそれっきり勘定をとりに来ないというような変なことがあったので、女達が神経質になって、いろいろ調べると、なんでもこの家の元の持主は、事業に失敗して、土蔵の中で縊れたが死に切れず、庭の井戸へ身を投げて命を果てたのだというのである。そう聞いて見ると、今の持主が農工銀行で、家賃を毎月銀行へ収めに行くのも、変といえば変である。
  
 小山内一家があわてて麻布に転居すると、この大きな屋敷はさっそく解体されて自動車の「ギャレエジ」(駐車場)になってしまった。
 周辺の住民や商店では、もちろんその屋敷で起きた過去の経緯は周知の事実だったろう。初めてきた「魚屋」が、二度と顔を見せなくなったのは、当然、近隣の住民や商店から事情を聞かされて怖くなったせいだと想像できる。農工銀行では、自死した旧・住民の担保物件を貸し家にしていたのだろうが、なにも知らずに転居してきた小山内一家は、その「残穢」にみまわれてしまった……とでもいうのだろうか?
大東京繁盛記・山手篇1976.jpg 小山内薫.jpg
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 次に家を探して引っ越したのは、閑静な麻布森本町(現・東麻布1~2丁目)だったが、ここでも小山内薫は“ババ”を引いている。今度は、3人の子どもたちが次々と重篤な病気になった。鉄道の騒音や幽霊などよりも、よほどこちらのほうが深刻だったろう。近所の人たちは、高輪の屋敷と同様に沈黙して、一家にはなにも教えてはくれなかったようなのだが、訪ねてきた知り合いのひとりが「家がおかしい」と小山内薫に告げたらしい。その様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 森元の住居は高輪の化物屋敷と違って、鼻がつかえる程狭かったが、日当りがよくて、あたりが静かで、思いの外住心地がよかった。が、こゝで三人になった子供が、とっかえ引っかえ病気をした。/私は出先から電話で呼ばれて、何度自動車を飛ばしたか分らなかった。今でも、森元の話が出ると、何よりも先ず子供の病気を思い出す位である。私は枕を列べて呻吟している三人の子供の看護に、夜も寝なかったことが度々あった。/家の直ぐ前に井戸があった。この井戸がいけないのだという説が出て来た。或人が根岸の方の紺屋で家相に詳しい老人を連れて来て見せた。/「これは後家家屋というのです。直ぐ越さなければいけません」/老人はいきなりこういった。/「後家家屋といいますと……」/家内がこう訊くと、/「後家が出来るんです。みんな死んでしまうんです」
  
 小山内一家は、高輪の「化物屋敷」の経験もあったので、あわてて四谷坂町に家を見つけて転居した。転居の際は、病気の子どもを布団にくるんだままクルマに乗せて運ぶなど、かなりたいへんな思いをしたようだ。その後、小山内薫は「後家家屋」について調査してはいないので、この家で過去になにがあったのかは不明のままだ。
麻布森元町.jpg
麻布森元町1936.jpg
 おそらく小山内薫は、この話を新橋「花月」の怪談会でも披露していると思われるが、同会の記録は残念ながら『主婦之友』が取材した、1928年(昭和3)6月19日(火)の午後6時からの一度きりのみで、ほかに記録が見あたらないのが残念だ。

◆写真上:小山内薫の文章に合わせ、東京日日新聞で挿画を担当した洋画家・森田恒友の『無題』。小山内に取材し、高輪車町「化物屋敷」の塀を描いたものか。
◆写真中上は、小山が命名したカフェ「プランタン」内部。は、1931年(昭和6)発行の「ポケット大東京案内」にみる定期的に怪談会が開かれていた新橋「花月」。
◆写真中下は、1976年(昭和51)に講談社から出版された『大東京繁盛記・山手篇』()と小山内薫()。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる国道15号(第1京浜)と東海道線や山手線にはさまれた高輪車町界隈。は、同文章の挿画で森田恒友『芝浦ニテ』。
◆写真下は、高輪車町からの転居先を描いた森田恒友『麻布森元町』。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる麻布森元町界隈。

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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(7) [気になる下落合]

清水多嘉示「風景(仮)」OP594.jpg
 清水多嘉示Click!が描いた作品の中で、下落合の風景とみられる画面について1点ずつ検討を重ねてきた。今回は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、やはり『風景(仮)』(OP594)とタイトルされた、「不明(帰国後[1928年以降])」とされている作品だ。(冒頭画面)
 手前には空き地(住宅造成地ないしは畑)があり、その向こう側には急激に落ちこんだ谷間があるようで、谷底あるいは斜面には住宅の赤い屋根がのぞいている。右手には、少し盛り上がった地面の上に並木が植えられ、細い道路が通っているのがわかる。並木は、大正期から下落合の街路樹に多いニセアカシアではなく、異なる樹木のように見える。正面には、比較的大きな2階建ての日本家屋が建っていて、その左手の敷地にも物置か納屋だろうか、なにか建築物のようなフォルムが表現されているように見える。
 もし、これが昭和初期に見られた下落合の風景を描いたものだとすれば、わりと起伏のある地形や周囲の家々の様子も含め、このような地勢や風情の描画場所を、わたしは戦前の下落合(現・中落合/中井含む)で1ヶ所しか思い当たらない。手前に立てられている白い杭は、宅地造成の際に打ちこまれた敷地境界標だろう。昭和初期の当時でも、石やコンクリートによる背の低い境界標は存在していたが、このような木製の境界標が立てられているのは、住宅の建設工事が間近に迫っていることを暗示している。
 そのような目で手前の空き地を見ると、庭木用に低木を1~2本残し、敷地の境界を盛り土したような様子がうかがえる。ほどなく、大谷石かコンクリートによる“縁石”が設置されるのだろう。白い境界標の向こう側の空き地は、下落合1318番地の山田邸建設予定地であり、境界標の手前が北に入る細い路地をはさんで下落合1320番地の宅地だ。清水多嘉示は、盛り土を終えた後者(1320番地)の宅地へ入り、南東を向いて『風景(仮)』(OP594)を描いていることになる。
 すなわち、崖下の赤い屋根は下落合1284番地の山崎邸、そして正面の大きな屋敷は同番地の渡辺邸ということになる。そして、右手に通う道は十三間通りClick!(新目白通り)であらかた消滅してしまった市郎兵衛坂Click!の一部であり、この道路は右手の並木の向こうへ湾曲しながらつづいていく。画面の左手には、前谷戸Click!(大正後期から不動谷Click!)つづきの谷間が口を開け、谷底には中央生命保険俱楽部Click!(旧・箱根土地本社Click!)の不動園にある池からつづく小川が流れている。その谷間の対岸には、1928年(昭和3)にリニューアルされた落合第一小学校Click!の校舎がそびえ、あるいは霞坂沿いには会津八一Click!秋艸堂Click!が林間に見え隠れしていたかもしれない。
 画面右手の並木の向こう側は、緩斜面でなだらかに上がる地形をしており、昭和初期にはあまり住宅が建っておらず一面の草原が拡がっていた。このとき、すでに改正道路(山手通り)Click!計画の情報が、落合地域やディベロッパー間へ浸透していたのかもしれない。また、わずか100mほど離れた南の丘上には、津軽邸Click!(旧・ギル邸Click!)の巨大な西洋館の屋根が見えていただろう。
 清水多嘉示がイーゼルを立てている背後左手は、急斜面となって前谷戸(不動谷)へと落ちこむ地形をしている。その丘上には、昭和初期まで第一文化村の水道タンクClick!が設置されていた。急斜面は、雪が降ると目白文化村Click!の住民たちがスキーやソリ遊びを楽しんだ簡易“スキー場”であり、佐伯祐三Click!はその光景を谷底の対岸から「下落合風景」シリーズClick!の1作、『雪景色』Click!(1927年ごろ)として描いている。もし、『風景(仮)』(OP594)の描画場所が市郎兵衛坂であれば、佐伯の描画位置と清水多嘉示のそれは、渓流の対岸にあたる谷底近くの斜面(佐伯)と、市郎兵衛坂が通う谷上(清水)とのちがいこそあれ、わずか60mほどしか離れていない。
市郎兵衛坂1926.jpg
市郎兵衛坂1936.jpg
市郎兵衛坂1938.jpg
 少し前に、中央生命保険俱楽部を描いたのではないかと考察した『風景(仮)』(OP287)Click!がその通りであれば、清水多嘉示は同倶楽部の南側にある庭園「不動園」Click!から、谷間を南へたどって渓流沿いを歩き、やがて市郎兵衛坂が通う高台をよじ上ったところで、キャンバスに向かっているのかもしれない。この散策コースは、林泉園Click!の池からそのまま谷間の渓流をたどり、藤稲荷のある小丘へとよじ上って『下落合風景』(OP008)Click!を仕上げている経緯とそっくりだ。深い谷間に流れる渓流沿いの散策を、当時の清水はことさら好んでいたのかもしれない。また、同じようなコースを歩いて作品を仕上げていた画家に、大正末の松下春雄Click!がいる。
 現在、『風景(仮)』(OP594)の描画位置には住宅が建設されて立つことができないが、十三間通り(新目白通り)に大きく削られたとはいえ、画面右に通う市郎兵衛坂の一部はかろうじて残り、わずか130mほどだがたどることができる。画面右下の境界標の手前を、左手(北)へと入る細い路地は、いまは山手通り(環六)へと連結している。また、山田邸敷地の向こう側、谷間へ落ちこむ斜面に立てられていたとみられる山崎邸(屋根)の手前には、現在、谷間へと下りるバッケ(崖地)Click!坂が造られている。
 地図や空中写真を年代順に確認すると、画面手前の空き地(宅地)には1936年(昭和11)までに山田邸(1318番地)ともう1邸(1320番地)が建設され、また正面の渡辺邸はそのままだが、谷間に屋根だけ見えている川崎邸は、1936~1938年(昭和11~13)の間に解体されたものか、1938年(昭和13)の「火保図」には採取されずに消滅している。また、現状の川崎邸の跡地は、市郎兵衛坂とほぼ同じ高さに盛り土されているので、その後も手前の山田邸などの宅地と同様に、大規模な盛り土による新たな宅地開発が、引きつづき行われているのだろう。
 さらに、目白文化村の“スキー場”は、1930年代後半に入るとひな壇状に開発され、山手通り(環六)から谷間へと下る住宅街が形成されるが、いまでもバッケ(崖地)状の急斜面を観察することができる。以上のような状況を踏まえて考察すると、清水多嘉示は川崎邸が解体される以前、あるいは山田邸と1320番地邸が建設される直前、すなわち1930年(昭和5)前後に同作を描いたと推定することができる。
市郎兵衛坂1.JPG
市郎兵衛坂2.JPG
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 さて、もうひとつ気になった画面に『雪の路地(仮)』(OP637)がある。同作も、「不明(帰国後[1928年以降])か」と疑問形で分類されている。いかにも、昭和初期に見られた東京郊外の風景だが、下落合でこの風景に該当する場所を、わたしは見つけることができない。画面には、2棟の西洋館と数棟の日本家屋らしい建物が見えているが、そのうち奥に描かれた赤い屋根の西洋館がかなり大きい。どこか、第一文化村Click!渡辺邸Click!アビラ村Click!島津邸Click!を思わせる意匠だけれど、光線の角度(右手背後が南側)が合わないし、当時の空中写真にこのような家並みは確認できない。清水の作品にしてはめずらしく、電柱(電燈線)がハッキリと描きこまれている。
 遠景には緑が繁り、手前の地面に比べて少し高台になっているようにも感じるが、大きな西洋館と高い樹木の森や屋敷林があるため、そう錯覚して見えているだけかもしれない。降雪があった翌日、清水多嘉示は晴れ間が見えたので、さっそく画道具を手に散策に出たのだろう。昭和初期は現代とは異なり、冬になると東京でも雪が頻繁に降っていた。道はぬかるんで悪路だったと思われるが、清水はことさら雪景色が描きたくなったものだろうか。ただし、わざわざ降雪のあとの歩きにくい中を、高円寺から落合地域までやってきているかどうかは、はなはだ疑問だ。わたしには思い当たらないが、落合地域でこの風景の場所をご存じの方がいれば、ぜひご教示いただければと思う。
 こうして、帰国後に描かれたとみられる清水多嘉示の作品群を観察してくると、どうやら下落合の東部だけでなく、中部(現・中落合)界隈にかけてまで歩いている可能性を感じる。それは、下落合1443番地の福田久道Click!を訪ねた際、「もう少し西を歩けば、キミが好きそうな谷戸沿いの風景があちこちにあるよ」といわれ、画道具を手に目白文化村(第一/第二文化村)のあたりまで散策に出ているのかもしれない。
清水多嘉示「雪の路地(仮)」OP637.jpg
「雪の路地(仮)」想定描画ポイント.jpg
渡辺邸.jpg 島津邸.jpg
 清水の「下落合風景」とみられる画面から感じとれる、描画場所の連続性をたどることは、そのまま下落合において風景モチーフを探し歩いた清水の“点と線”、すなわち散策ルートを浮かび上がらせることになるのだろう。でも、それはまた、次の物語……。

◆写真上:市郎兵衛坂の外れを描いたとみられる、清水多嘉示『風景(仮)』(OP594)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる市郎兵衛坂。いまだ川崎邸が谷底にかけて建っているのが採取されており、同坂の南側には並木の記号が付加されている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる市郎兵衛坂。山田邸ともう1邸が建設され、すでに清水多嘉示の描画位置はふさがれていて立てないが、斜面の川崎邸はまだ建っている。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる市郎兵衛坂界隈。川崎邸は解体されたのか消滅し、大きめな渡辺邸はそのまま残っている。
◆写真中下は、市郎兵衛坂の現状。左手に住宅が建ち並び、昭和初期と同じく清水の描画場所には立てない。また、右手につづく大谷石の擁壁は画面右手の土手跡。は、前谷戸(不動谷)の谷底へ下りるバッケ(崖地)坂で渓流は暗渠化されており、正面に見える修繕中の建物は落合第一小学校の校舎。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同坂界隈。空襲で多くの住宅が焼失しているが、渡辺邸はそのまま健在だ。
◆写真下は、下落合では思い浮かばない清水多嘉示『雪の路地(仮)』(OP637)。は、同作から想定される住宅配置。は、大屋根の切妻が特徴的な下落合1321番地の第一文化村・渡辺明邸()と、下落合2096番地のアビラ村・島津源吉邸()。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。

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久しぶりに「Stereo Sound」を眺めると。 [気になる音]

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 きょうは、落合地域やその周辺、さらに江戸東京地方とはまったく関係のない記事だ。音楽やオーディオに興味ない方は、どうぞ読み飛ばしていただきたい。
  
 昨年の暮れ、季刊「Stereo Sound」誌が200号を迎えたというので、久しぶりに買ってはみたけれど、そのまま読まずにCDラックの中へ入れっぱなしにしておいた。ベルリンPhレコーディングスが制作している、付録のSACDにも惹かれたのだが、“おまけ”のディスクだけ聴いて本誌は開かないままだった。だが、ほんとうに久しぶりに同誌を読んでみて、わたしがほとんど“浦島太郎”状況なのに気がついた。
 最後に「Stereo Sound」を手にして読んだのは、もう20年近くも前のことで、それ以来、特にオーディオ装置Click!には不満をおぼえず音楽を聴いてきた。だから、かなり高価な同誌を買って情報を手に入れる必要がなくなり、ごく自然に離れてしまったのだ。わたしはオーディオマニアではないので、先のベルリンPhでいえば、せいぜいC.アバドの時代ぐらいまでで、SACDをみずから制作するS.ラトル時代のベルリンPhは、さほど録音など気にすることもなく、そのまま現装置でふつうに聴いてきた。
 そもそもディスク会社(いわゆるレコード会社)が、確実に売れるCD(レコード)しか制作しなくなり、それも売れなくなって青息吐息なのは知っていた。だが、思いどおりのCDを制作してくれないレコード会社を見かぎり、オーケストラ自身がCDを制作し音楽データサイトを起ち上げて販売する「直販」システムが、ここまで広まりつつあるのは知らなかった。BPhレコーディングスもそうだが、ロンドンOのLSOライブやロイヤル・コンセルトヘボウOのRCOライブなども、みなオーケストラ直営のレーベルだとか。確かに、音楽のカテゴリーを問わず、オーケストラやビッグバンドの演奏を録音することは、莫大な経費の発生とリスクを覚悟しなければならない。
 いまの若い子たちは、そもそもCDさえ買おうとはしない。好きな曲があれば、アルバムではなく1曲ごとにダウンロードし、ローカルのスマートデバイスで気が向いたときに聴くだけだ。街中からレコード店が次々と消滅していったのと、スマートデバイスの普及はみごとにシンクロしている。さすがに、録音時間の長いクラシックはCDが主流だったが、それでも通信速度が1Gbps時代を迎えたあたりからPCや専用コンソールへダウンロードし、オーディオ装置に接続して直接データを再生するファンが増えている。つまり、ディスクというメディア自体が不要な時代を迎えたわけだ。
 音楽業界でも、本の世界とまったく同じ現象が起きていたことがわかる。つまり、あらかじめ売れると営業判断されたレコーディングしか行われず、できれば定評のある過去の「名盤」だけをプレスしていれば、なんとか各ジャンルごとの部門ビジネスをつづけられる……というような事業環境だ。だから、よほど売れそうなミュージシャン(の演奏)でないかぎり、新盤を制作するプロジェクトは「冒険」と考えられ、クラシック(JAZZも同様だろう)などのジャンルだと音楽家の想いどおりのアルバム(CD)など、まず制作することが不可能になった。だから、音楽家やオーケストラ自身が直接CDをプレスするか、音楽データサイトを構築してサウンドデータを直販するのは必然的な流れだったのだろう。1980年代から90年代にかけて、世界じゅうの音楽会社が競い合うようにいい録音を繰り返し、多彩なコンテンツを制作していたころが、まるで夢のような状況になっている。
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 ちょうど、ある分野では重要で十分に意味のある内容なのに、本の量販が見こめないため首をタテにふらない出版社を見かぎり、やむなく著者がネット出版に踏みきるのと同様の流れだ。これは、レコード会社や出版社にしてみれば、一時的に「リスクと赤字を回避した」ように見えるけれど、もう少し長めのスパンで考えた場合のより危機的で深刻なリスク、すなわちメディア(ディスクや本など)自体がそもそも消滅しつつある事態に拍車をかけている……ということになる。徐々に、ときには急激に、マーケットが縮小する「自主制作」へのシフトは、書籍よりも音楽の世界のほうが速いのかもしれない。
 いまの若い子たちは、オーディオ装置さえ持っていない。わたしのいうオーディオ装置とは、スマートデバイスに付随するイヤホンやヘッドホン、小型スピーカーではなく、TVモニターの周囲に展開され通常「AV」と呼称される、映像をともなうサラウンドシステムでもない。できるだけライブハウスやコンサートホールに近い空間のサウンドをめざし、純粋に音楽を再生する機器群、すなわちアナログ/デジタル各ターンテーブルやDAコンバータ、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカー、イコライザー、各種レコーダー……などの装置を組み合わせたものだ。
 いつか、子どもにFOSTEXの自作スピーカーとプリメインアンプ、CDプレーヤーを買ってあげたらほとんど興味を示さず、音楽はおもにヘッドホンで聴いていた。そのうち、お小遣いをためてステレオCDラジオを買っていたが、それもスマホが手に入るとあっさり不要になった。でも、音楽をちゃんと空気を震わせてリアルに聴きたいという欲求はあるらしく、ときおり椎名林檎Click!のCDやDVDを、わたしのオーディオ装置で聴いていた。
 なにが「いい音」なのか、あるいはどのような「音がリアル」なのか、おそらく音楽におけるサウンドの定義からして、わたしとはかなりズレがある世代なのだろう。深夜にヘッドホンで、大きめに鳴らすレスター・ケーニッヒの西海岸Contemporaryサウンドもいいけれど、やはりJAZZClick!やクラシックなどの演奏は実際の音で、空気をビリビリClick!震わせる少しでもリアルな空間で聴きたくなるのだ。
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 「Stereo Sound」200号を眺めていたら、SACDプレーヤーがずいぶん安価になり、手に入りやすくなっているのに気づいた。同時に、さまざまなオーディオ機器が目の玉が飛び出るほどの価格になっていることに唖然としてしまった。20年前と同じレベルの装置が、2倍あるいは3倍もするのに呆れ果ててしまった。ちょっとしたアンプやスピーカーは、100万円以下のものを探すのさえむずかしい。国産の中型スピーカーでさえ、従来は30~50万ほどでそれなりに品位が高く非常に質のいい音を響かせていた製品が、100万円を超えるのだからビックリだ。アンプにいたっては、もはや冗談としか思えないような値段の製品が並んでいる。これもまた、若い子のオーディオ離れとスマートデバイスの普及にシンクロした、先細りをつづけるマーケットにともなう現象なのだろう。
 それなりの品質をしたオーディオ機器は、各メーカーとも小ロット限定生産どころではなくなり、限りなく個別受注生産に近づいてしまったため、この20年間でとんでもない値上がりをしてしまったのだろう。また、大手オーディオメーカーの内部でさえ事業を支えきれなくなり、独立した技術者たちが新たにガレージメーカーを起ち上げ、良心的な製品を提供するとなると、「これぐらいの価格は覚悟してください」ということなのかもしれない。デフレスパイラルがずっとつづいてきた中、これほど高騰をつづけた製品分野もめずらしいのではないだろうか。
 そんな中で、がんばっているメーカーもある。高価なのでなかなか手に入れられず、せめてJAZZ喫茶やライブスポットなどでサウンドを楽しむだけだった、アンプ(とスピーカーXRTシリーズ)のマッキントッシュ(McIntosh)社だ。音楽好き(特にJAZZ好き)が「マッキントッシュ」と聞けば、アップル社のPCClick!ではなく、まずアイズメーターがブルーに光る同社のアンプをイメージするのは、いつかの記事にも書いたとおりだ。たまたま「Stereo Sound」200号には、同社の訪問記や社長・社員へのインタビューが掲載されているが、製品のラインナップと価格は20年前とそれほど大きく変わってはいない。一時期は日本のクラリオンに買収され、どうなってしまうのかと案じていたけれど、なんとか危機を脱して新社屋や開発研究拠点を建設し、米国の精緻な職人技を受け継いで、R&Dも含め経営は安定しているらしい。ちなみに、何十年にもわたって精緻な技術を支えている職人たちに女性が多いのも、同社の大きな特徴だろう。
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 残念な記事も載っている。わたしがサウンドの指針(師匠)として昔から頼りにしていた菅野沖彦が、数年来の病気で同誌の執筆を中止していることだ。このサイトでは、三岸節子Click!の再婚相手である菅野圭介の甥として、三岸アトリエClick!を訪れた菅野沖彦Click!をご紹介している。「Stereo Sound」誌を買うのは、彼が新製品や新たに開発された技術によるサウンドに対し、どのような受けとめ方や感想を述べるのかが知りたかったという側面も大きい。お歳からして無理なのかもしれないが、可能であれば執筆を再開してほしいと切に願うしだいだ。
 こんな記事を書いていたら、無性に音楽が聴きたくなった。夜中なので大きな音は出せないが、いまターンテーブルに載せたのはJAZZでもクラシックでもなく、丸山圭子の『どうぞこのまま』Click!。オーディオ+音楽文化が滅びませんよう、どうぞこのまま……。

◆写真上:「Stereo Sound」の名機たちにはとても及ばない、わが家の迷機の一部。
◆写真中上は、読んでいるだけで楽しかった1980~90年代の「Stereo Sound」表紙。掲載されている製品は、当時からほとんど手が出ないほど高価だった。は、長期間にわたり「Stereo Sound」誌のリファレンスモニターだったJBL4344の“顔”。
◆写真中下は、ニューヨーク州ビンガムトンにあるマッキントッシュ・ラボラトリー本社。は、JAZZ用のアンプリファイアーとして憧れのコントロールアンプC52。
◆写真下は、ベルリンPhレコーディングが制作したS.ラトル指揮のベートーヴェン・チクルス。日本で買うと非常に高価なので、ドイツに直接注文したほうが安く手に入りそうだ。下左は、1967年(昭和42)の創刊号から数えて「Stereo Sound」創刊50周年・200号記念号。下右は、執筆活動を再開してほしい菅野沖彦。

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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(6) [気になる下落合]

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 前回につづき、清水多嘉示Click!が描いた帰国後の風景作品を検討していこう。まず、冒頭の画面は武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、『民家(仮)』(作品番号OP648)とタイトルされており、これも制作時期が「不明(帰国後[1928年以降])」と分類されている作品だ。この風景も、昭和最初期の下落合ならあちこちで見られた風情だろう。光線の射し方や、家々の屋根が向く切妻の方角から見て画家の背後が南側であり、平屋と2階建ての住宅がかなり密集している。
 手前は畑か、冬場の草原のような様子をしており、広めな空き地の向こう側に低木の生垣を隔てて住宅群が並んでいる。そして、清水の画面にはめずらしく電柱や、家々に建てられた長い竿状の細い柱、そして銭湯の煙突らしいものまで描きこまれている。これだけ、住宅の上空に賑やかな描きこみのある清水の作品はめずらしい。
 まず、家々に建てられた細い竿状の柱はなんだろうか? 大正期から住宅のトイレに、2階屋根よりもかなり高めな「臭突(臭い抜き)」Click!が設置される事例が急増している。トイレが水洗ではない、おもに東京郊外の住宅街で目立つ流行りの設備だった。だが、「臭突」だと先端に風を受けてまわり、筒内部の空気を逃がす風車のふくらみがないとおかしい。あるいは、画面左手と中央右寄りの住宅に描かれている2本の竿は、鯉のぼりを泳がせるために男の子がいる家が建てた掲揚竿だろうか? だが、右側の1本は、どこか電柱の横木を思わせるような表現にも見える。明らかに電柱とみられるフォルムは、中央に描かれた灰色屋根の2階家から、ちょこんと突き出ているのが確認できる。
 さて、関東大震災Click!を経験した東京らしい、トタンかスレートとみられる2階家の赤い軽量屋根の左端から突き出ている、太い棒状のものはなんだろうか? 先端から灰白色の煙のようなものが流れ出ており、空に描かれた右手へとたなびく異なる色彩の表現を考慮すれば、手前の密集した住宅街の存在とあいまって、風の強い日にとらえられた近くにある銭湯の煙突と想定しても、あながち不自然ではないだろう。昭和初期に落合地域で開業していた銭湯は、すべて把握している。
 それらの銭湯とその周辺に拡がる住宅街を、ひとつひとつ地図や空中写真で検証していくと、当時の下落合にはこの風景に合致しそうな場所が3ヶ所ある。画面には丘状の地形も、また坂道などの傾斜地も見られないことから、目白崖線の丘上と解釈してまちがいないだろう。そうすると、このように建てこんだ一般的な住宅街の北側に銭湯の煙突が見える場所は、下落合574番地の「富士の湯」か、下落合635番地の「福の湯」Click!、下落合1498番地の「菊の湯」の3ヶ所しかない。
 ただし、光線の射しこむ様子から画家の背後が南だとすれば、「菊の湯」Click!の南側には敷地も広く大きめな第一府営住宅Click!の屋敷街が展開しているので、このような風情には見えなかっただろう。同様に、「富士の湯」の南側は大正末から住宅が密集しており、手前に描かれたような広い空き地あるいは原っぱの存在が想定しにくい。すると、残るは「福の湯」の煙突ということになる。
 また、煙突が「福の湯」だとすれば、1931年(昭和6)以降のこの位置には、補助45号線Click!(聖母坂Click!)が通っていなければならない。そう考えると、『民家(仮)』(OP648)が制作された時期は帰国した1928年(昭和3)5月から、聖母坂の道路工事がはじまる1930年(昭和5)ごろまでの間……と想定することができる。以上のような状況を踏まえながら、改めて画面を眺めてみると、手前の空き地は畑でも宅地造成でできた原っぱでもなく、東京府が計画する補助45号線の買収を終え、家々が解体された道路用地にも見えてくる。
 清水多嘉示がイーゼルを立てている(とみられる)位置は、右手のキャンバス枠外に下落合630番地の森田亀之助邸Click!、画家の位置から右うしろへ70mほどのところに下落合622番地の蕗谷虹児アトリエClick!(1930年代前半だとすると未建設)、同じく右うしろ100mほどのところには下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!、また画家の左うしろ100mほどのところには下落合1443番地の木星社(福田久道邸)Click!……というような関係になる。以前にご紹介した、曾宮アトリエを描いたとみられる『風景(仮)』(OP284/285)Click!の、わずか西北西へ100mほど歩いた地点だ。
 1930年(昭和5)1月に、清水多嘉示は『清水多嘉示滞欧作品集』を木星社から刊行しているので、その打ち合わせに下落合の福田久道Click!を訪ねた際、1929年(昭和4)ごろにちょっと“寄り道”して制作された作品なのかもしれない。
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 1930年(昭和5)に入ってしまうと、聖母病院Click!フィンデル本館Click!の建設がはじまり、同時に補助45号線(聖母坂)の造成・掘削工事もスタートしていただろう。この道路工事によって、手前の空き地に建っていた家々と同様に、画面左手に見える家々は立ち退きを迫られ、ほどなく解体されることになったかもしれない。清水多嘉示がイーゼルをすえているのは、用地買収を終えた下落合655番地の山上邸の東側敷地か、同656番地の高田邸の跡地あたりということになる。
 だが、山上邸や高田邸の東側には、何ヶ所かが「く」の字にクラックする細い路地が通っていたはずなのだが、画面にはハッキリと表現されていない。手前の空き地に繁る枯草の間を、斜めに横切るような土面の表現がそれに相当するのだろうか? いずれにしても、道路建設の直前の情景だとすれば、周囲は空き地だらけになっていたはずであり、細い道路自体がまったく用をなさず、東京府が買収を終えた草原の中にまぎれてしまっていた可能性も否定できない。
 ちなみに、佐伯祐三Click!も近くの情景を「下落合風景」シリーズClick!で描いている。1927年(昭和2)の5~6月ごろ、八島邸Click!や竣工したばかりの納邸Click!を入れ、「八島さんの前通り」Click!を北側から描いた第2次渡仏直前の1930年協会第2回展Click!へ出展された作品だ。佐伯がイーゼルを立てているのは、清水多嘉示の描画位置から西へわずか140mほどのところということになる。清水の画面に描かれた当時は一般的な住宅群を、2~3年前に描いた佐伯の画面でも見ることができる。清水は南を背に、北へキャンバスを向けて制作しているが、佐伯は逆に北側から南を向いて仕事をしている。
 清水は、描く風景のメルクマールとでもいうべき、特徴的な道路や住宅、電柱、工場、煙突、坂道などを入れて描くことが少ない。『民家(仮)』(OP648)は、煙突らしいフォルムが描かれていたので描画位置を推定することができるが、もしこれが銭湯の煙突ではなくたとえば電柱だとすれば、落合地域の随所で、あるいは清水が帰国後に新居をかまえた高円寺でも、あちこちで見られた風景のように思える。
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 さて、次に『風景(仮)』(OP589)を見てみよう。この作品も、「不明(帰国後[1928年以降])」と分類されている。手前には丘へ上る坂道が描かれ、右手には丘上か斜面に建つ洋風の2階家がポツンと描かれている。画家の視点は、道路をはさんで反対側のやや小高い位置から坂道を見下ろしている点にも留意したい。いかにも、坂や斜面が多い下落合らしい風情だが、これに合致する場所は昭和初期の現在、地図や空中写真あるいは多様な資料を前提に考えても、なかなか思い当たらない。
 下落合は、南斜面と丘上を中心に明治期から拓けた別荘地であり、大正期から昭和初期にかけては新宿方面(南面)への眺望に優れ、冬は陽当たりがよく北風が防げて暖かな南へと下る坂道や斜面では、積極的な宅地開発が行われている。したがって画面のような坂道があれば、すでに昭和初期にはその両側に家々が建ち並んでいる場所が多い。ただし、わたしの知る限り例外が2ヶ所ほどある。
 ひとつは、大倉財閥が丘全体を買収し、明治期には伊藤博文Click!の別荘があったという伝承が残る下落合(現・中落合/中井含む)東部の大倉山(権兵衛山)Click!界隈と、ふたつめは改正道路(山手通り)工事が予定されていて宅地開発が進まず、のちに樹木が伐採されて「赤土山」Click!とも呼ばれ、同工事により坂道(たとえば矢田坂Click!振り子坂Click!など)の多くが全的に、または部分的に消滅してしまう下落合の中部一帯だ。
 まず、この情景が大倉山(権兵衛山)だとすれば、描かれている坂道は七曲坂Click!の最上部であり、見えている家は大正期中に下落合630番地へ自宅を建てて転居する、下落合323番地の旧・森田亀之助邸Click!の並びに建てられた家の1棟……ということになるだろうか。大倉山(権瓶山)のピークは画面右手の枠外にあり、清水多嘉示がイーゼルを立てるかスケッチしているのは、下落合775番地の大島久直邸Click!の敷地土手ということになる。なお、森田亀之助が転居した理由は明確でないが、大倉家がテニスコートなどのスポーツ施設を建設するために、周辺の借家を解体している可能性がある。
 この七曲坂を、そのまま目白通りのある北へと歩けば、途中で中村彝Click!アトリエのある林泉園Click!が右手に見えてくる。また、画面右上に描かれた住宅の北側には細い路地が東西に通い、七曲坂へと抜ける道沿いにはヒマラヤスギの並木Click!が植えられていた。画面の中央上から左にかけて、少し尖がり気味の樹木が描かれているのがそれだろうか?
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 また、『風景(仮)』(OP589)の画面が下落合中部の丘陵地帯の場合、わたしには描画場所が不明としかいいようがない。なぜなら、改正道路(山手通り)Click!の敷設によって地形が大きく改造されてしまった同エリアでは、消滅してしまった場所へ実際に立つことも不可能だし、1936年(昭和11)に撮影された空中写真と昭和初期の地形図からしか、消えた丘陵地「赤土山」を想像する以外に手だてがない。しかも、当該のエリアには住宅が少なかったせいか撮影された写真も少なく、現存する資料類もほとんど見当たらないからだ。

◆写真上:1928年(昭和3)の帰国後に制作された、清水多嘉示『民家(仮)』(OP648)。
◆写真中上は、同作品の空を拡大したもの。中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる推定描画ポイントで聖母坂は存在しない。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。は、補強された解体直前の福の湯煙突。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる福の湯とその周辺。は、1926年(大正15)9月20日制作の佐伯祐三『下落合風景(曾宮さんの前)』(部分)に描かれた福の湯の煙突。は、福の湯の南にあった下落合630番地の森田亀之助邸跡(右手)。
◆写真下は、同じく帰国後に描かれた清水多嘉示『風景(仮)』(OP589)。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる七曲坂上。中下は、同年の空中写真にみる山手通りの工事が計画されている赤土山周辺。は、1937年(昭和12)以降に赤土山から撮影されたと思われる風景。左側に見える電柱が並んだ坂道は、第二文化村の南端に通う振り子坂で、赤土山から北西の方角を見て撮影したと思われる。同写真は、「落合新聞」1967年(昭和42)3月1日号に掲載されたもので熊倉家所蔵の1枚。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。

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原稿料はまたあとでの松井直樹スタイル。 [気になる下落合]

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 戦前から戦後にかけ、オシャレな本の装丁や挿画、ファッションデザインを手がけた人物に、下落合に住んだ松井直樹がいる。彼が下落合に引っ越してきたのは、1933年(昭和8)ごろのことだが、大正末から落合地域には頻繁に足を向けており、マヴォやダダイズムの関係者が集っていたバー「アザミ」Click!のこともよく知っているようだ。
 吉行エイスケの妻・吉行あぐりClick!が経営していたバー「アザミ」は、平仮名で「あざみ」と表記していたと思っていたが、松井直樹をはじめ他の資料では「アザミ」とカタカナ表記のものも少なくない。どちらが正確な表記かは不明だが、仮名表記が一定しないところをみると看板が「AZAMI」と、ローマ字表記だった可能性もありそうだ。
 当時の松井を含む、先端の美術やデザインに惹かれていた若者たちは、銀座で飲んだあと六本木のバーに流れ、そこから東中野駅へとやってくるのがひとつの“お決まりコース”だったらしい。西武電鉄Click!が存在しない当時、上落合へと出るには東中野駅から北へ600mほど歩かなければならなかった。
 当時の様子を、1962年(昭和37)6月10日発行の「落合新聞」Click!に掲載された、松井直樹のエッセイ『落合あのころ』から引用してみよう。
  
 銀座のバーで酒をのむと、六本木からはるばる東中野まで流れていったものだ。東京にバーというものの少なかった頃で、銀座のほかにはこの二つの地区にしゃれたバーがあったからだ。/東中野駅におりたつと、あのころなにか、急に空気が明るくなって、光と風が澄み切ってさわやかだった。一九二〇年代の先鋭的な新風が吹いていた。ユーカリだのアザミだのという店があって、そこいらを中心に当時のヌーベルバーグはとぐろを巻いていた。村山知義氏が、意識的構成主義を独逸からもちかえり、マヴォの運動をはじめたのもあの頃で、彼のアトリエは上落合にあった。あのころは六本木族だの落合族だのといわなかったが、あのころの落合界隈は、たしかに当時のもっとも前衛的な画家や文人の巣窟だった。
  
 バー「アザミ」は、東中野駅の北側=上落合側にあり、バー「ユーカリ」は駅の南側に開店していたようだ。この“アヴァンギャルド”な2店は、大正末の「大日本職業明細図」あるいは昭和初期の「便益明細地図」を参照しても採取されていないので、ほんの短い期間しか存在していないのだろう。
 松井直樹が下落合へと転居してくるのは、上落合に住むプロレタリア美術家や作家たちの運動が、特高Click!の弾圧で壊滅状態となった1933年(昭和8)ごろだった。彼はそのころ、宇野千代Click!が編集していた雑誌「スタイル」の装丁や、彼女が書く小説の挿画を担当していた。だが、「スタイル」は赤字つづきで資金繰りがきびしく、共同編集者である彼の給与も滞りがちだった。松井は社長の宇野千代を引っぱりだすと、ふたりで落合地域を頻繁に訪れるようになった。
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 当時、下落合2108番地に住んでいた吉屋信子Click!や落合2133番地の林芙美子Click!、上落合503番地の壺井栄Click!などに原稿を書いてもらうためだ。もちろん、原稿料はいつ払えるかわからないのだが、それでもかまわないと「スタイル」を支援してくれる作家たちが、落合地域には多く住んでいたのだ。だから松井直樹自身も、下落合へ越してくるのにそれほどためらわなかったのだろう。
 最初は、西武線の中井駅から西へ300mほど歩いたところ、ちょうど林芙美子の「お化け屋敷」Click!が真向かいに見える、五ノ坂下の下落合850番地あたりだった。この借家は、ほんの短い間だけだったようだが、「若林」という大家の紹介で同じ下落合に家を建てて住んでいる。同エッセイから、再び引用してみよう。
  
 原稿料がいつもおくれるので原稿のたのみようがなくなると、社長の宇野さんをかりだして、吉屋さん、壺井さん、美川さんなどと、あちこち女流作家のところへも出かけたが、林さんのお宅へもそうして行ったのだった。宇野さんの人徳で原稿を手に入れようというわけだった。/私の住んでいた林さんの向いの家の家主さんは、若林さんという奥さんだったが(百代さんというお名前だったと思う)いまどうしていらっしゃるだろうか。その頃の私たち、妻との二人をユカイな似あいのカップルだといって、土地があるから二人に似あいの家を建ててやろうということになった。/その新しい家というのがまた、林さんの新居の方の向いだった。やがて戦局がしだいに緊迫して、隣組の防空演習がはじまり、米や砂糖や酒もタバコも窮屈になってきた。その頃私たちはその懐しい家と別れて、鎌倉の長谷の大仏裏へ引越してしまった。
  
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 この中で「美川」とは、三岸好太郎Click!と親しい画家・鳥海青児Click!の妻で作家の美川きよのことだ。大家が世話してくれた土地は、のちの1941年(昭和16)から林芙美子Click!手塚緑敏Click!夫妻が住むようになる新居Click!(下落合4丁目2096番地)の向かい、つまり四ノ坂下の下落合4丁目2041~2051番地あたりの一画だろう。中井駅から西へ200mほど歩いたところで、尾崎一雄Click!“もぐら横丁”Click!の近くだ。
 松井直樹は、空襲が近づくと鎌倉へ疎開してしまうが、二度にわたる山手空襲Click!でも四ノ坂下の家々はあまり焼けず、戦後までなんとか残っている。松井は下落合の暮らしがよほど気に入っていたのだろう、戦後になると再び落合地域へ家を建ててもどってくる。
  
 (前略)また落合に土地を見つけ、十二坪制限の家を建てて住むようになった。東京はまだ壕舎生活をしているようなときだったので、この小さな家が、ヤミぶとりで建てたようにみえるのではないかと気がひけたものだった。落合は変ったといっても、このあたりに二十年も三十年も前の昔から流れている親愛派の空気、幸福そのもののような生活的雰囲気はいまも変りなく、まだまだあちこちのすみずみに残っている。落合はアンチミストの町である。
  
 松井直樹がもどってきたのは下落合3丁目1384番地、すなわち目白文化村Click!の第一文化村の北に接する二間道路から少し入ったところの家だった。1963年(昭和38)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にも、確かに「松井」のネームが採取されている。
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 実は、「落合新聞」を発行している落合新聞社、すなわち竹田助雄Click!の自宅は下落合3丁目1385番地だ。1384番地の松居邸とは、南西側の敷地の角を接する隣り同士の間がらだ。つまり竹田助雄は、お隣りの松井直樹へ垣根ごしに原稿を依頼したことになる。

◆写真上:突き当たり右手に松井直樹邸があった、下落合3丁目1384番地の現状。
◆写真中上は、大正期に撮影された柏木駅(のち東中野駅)。は、1933年(昭和8)に撮影された東中野駅近くの踏み切り。下左は、松井直樹がデザインを担当した戦前のファッション誌「スタイル」。下右は、戦後に松井が活躍した「カラーデザイン」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる松井直樹邸があった五ノ坂下と四ノ坂下。は、1936年(昭和11)に撮影された作家たちで右から左へ宇野千代、吉屋信子、窪川稲子(佐多稲子)、林芙美子
◆写真下は、「落合新聞」1962年(昭和37)6月10日号に掲載された松井直樹『落合あのころ』。は、1963年(昭和38)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる松井直樹邸と竹田助雄邸(落合新聞社/竹田写真製版所)。


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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(5) [気になる下落合]

清水多嘉示「風景(仮)」OP287.jpg
 前回もご紹介したように、清水多嘉示Click!の作品には1923年(大正12)3月に渡仏する以前と、1928年(昭和3)5月に帰国して以降に、下落合(ないしは東京郊外)を歩きながら描いたと思われる風景画が少なからず存在している。清水がしばしば下落合を訪れたとみられるのは、1929年(昭和4)まで中村彝Click!アトリエClick!中村会Click!(のち中村彝会Click!)として機能していたことと、多くの友人知人のアトリエが下落合にあったことが要因として挙げられる。
 今回ご紹介する作品もまた、はっきりとした道筋や地形、建物の特徴などが鮮明に描かれておらず、いかにも昭和の最初期の下落合をとらえたような作品ばかりだが、描画場所をピンポイントで規定できないものが多い。まず、冒頭に掲示した『風景(仮)』(作品番号OP287)から見ていこう。この作品も、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「滞仏期[1923-1928年]か」と疑問形で収録されている1点だ。
 この画面を観て真っ先に思い浮かべたのが、目白文化村Click!の第一文化村に接して建っていた、レンガ造り2階建ての箱根土地本社Click!のビルだ。同本社ビルは建設当初、まるで明治期の西洋館を彷彿とさせる赤いレンガの建物だったが、1925年(大正14)に箱根土地が国立へ移転すると同時に中央生命保険(のち昭和生命保険に吸収)が買収し、以後は「中央生命保険俱楽部」として利用されている。その際、赤いレンガだった外壁は全面をベージュに塗り直されているとみられ、また建物の東側に2階建てのウィングを増築していると思われる。
 下落合1328番地にあった赤レンガ時代の箱根土地本社ビルは、1925年(大正14)に松下春雄Click!『下落合文化村入口』Click!として描き、外壁をベージュに塗り直したあとの中央生命保険俱楽部の建物は、1926年(大正15)に林武Click!『文化村風景』Click!として制作している。いずれも、同ビルを南側にある庭園「不動園」Click!側から描いたもので、庭園の池に向けて南側へ下る地形の上にレンガ構造の建物が建っていた。建物は戦時中に解体され、不動園の斜面や池も埋め立てられ整地化されたが、現在でも南へ向けた傾斜はそのまま残っている。
 さて、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287)を見ていこう。この画面が制作されたのは、もちろん1928年(昭和3)以降だとみられるので、建物は外壁がベージュに塗り直された中央生命保険俱楽部の時代だ。門柱には、黒っぽい長めのプレートが嵌めこまれているような表現が見えるので、ネームにはそう書かれているのかもしれない。この門が正門だとすれば、北側から南を向いて描いていることになる。つまり、文化村派出所(交番)Click!のすぐ横から、中央生命保険俱楽部を向いて制作していることになる。
 画面左手(東側)には、すでに南の庭園「不動園」に向けて急傾斜の斜面上に、中央生命保険が増築した新たな東ウィングが見えている。手前の道路を右手(西北西)に歩けば、隣接する第一文化村の北辺へ、また左手(東南東)に歩けば、ほどなく落合第一小学校Click!や落合町役場の前へと抜けることができる。昭和初期なので、改正道路Click!(山手通りClick!)工事はまだはじまっていない。
 だが、確信をもって描画場所を規定できないのは、箱根土地本社時代のビルの全景写真は現存するので確認できるのだが、中央生命保険俱楽部時代の建物は東ウィングが増築された、1936年(昭和11)のぼやけた空中写真でしか見たことがないので、いまひとつ建物全体の姿を把握できないことだ。また、増築された東ウィングの部分写真なら、落合第一小学校の卒業記念アルバムで確認できるが、俱楽部の本館(旧・箱根土地本社ビル)に対して、東ウィングが北側の道路からどのように見えていたものか、あるいはどのような増改築の過程があったのか、はっきりと把握することができない。
 1925年(大正14)ごろから1928年(昭和3)まで、落合第一小学校は校舎の全面建て替え工事Click!のため、卒業アルバムの記念写真を中央生命保険俱楽部に南面する庭園で撮影していた。その撮影場所が、ちょうど東ウィング前の急斜面にあたる。
箱根土地本社ビル.jpg
松下春雄「文化村入口」1925.jpg
林武「文化村風景」1926.jpg
不動園池.jpg
 また、清水多嘉示は外壁をベージュではなく、おもにグレイで描いている。(部分的にベージュが使われてはいるが) 描かれているのは建物の北面であり、曇りがちの日であれば蔭りでグレーに見えたのかもしれないが、林武は西日を受けた同建物の南面外壁をタマゴ色に描いている。ちなみに、赤レンガの構造物を防水剤を混ぜたベージュのペンキで厚塗りする施工法は、佐伯祐三Click!が描いた新橋駅のレンガ造りガードClick!でも見ることができる仕様だ。
 さらに、同倶楽部の門からエントランスまで、やや距離がありすぎるようにも感じる。大正期でなく、もはや昭和初期の洋画であれば、実際の風景をそのまま忠実に写すばかりでなく、多分に“構成”やデフォルマシオンが加えられている可能性もあり、いまひとつ下落合1328番地の風景だ……と規定することがむずかしいゆえんだ。
 さて、次の『風景(仮)』(OP288)も描画場所の特定がむずかしい。『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「不明・帰国後[1928年以降]」とされている1枚だ。西洋館が3棟に、日本家屋が2棟ほど描かれているように見えるのだが、電柱が1本も存在していない。そのまま受けとれば、電力・電燈線Click!共同溝Click!に埋設した目白文化村の一部を描いたようにも思えるが、このような一般的でありふれた仕様の住宅が並んでいる様子を、わたしは目白文化村の内部では知らない。また、家々も文化村にしては近接しすぎていて、敷地の規模が小さすぎるように感じる。いかにも当時の下落合なら、どこにでも建っていそうな住宅群の一画だ。清水は、あえて電柱を省略して描いているのかもしれない。
 この作品が、まちがいなく東京で描かれているとみられるのは、中央に描かれた西洋館の尖がり屋根が白く塗られているからだ。別に、この家だけに雪が降ったわけではなく、昼間の光線を反射して屋根が光っているからだろう。1923年(大正12)の関東大震災Click!以降、下落合に建てられつづけた住宅(特に西洋館)は、地震で重たい瓦屋根が倒壊するのを防ぐために、軽いスレートやトタンで葺く屋根が急増していく。佐伯祐三が描く「下落合風景」シリーズClick!にも、住宅群をとらえた風景のところどころに、白く反射Click!するトタンかスレートの屋根が描きこまれている。これは下落合に限らず、東京じゅうの新興住宅街で見られた大きな特徴だろう。
 もうひとつ、画面には大正期から昭和初期にかけて大流行した、住宅建築(西洋館)の特徴がとらえられている。白い屋根の左隣り、赤い屋根の西洋館に設置された、尖がり屋根のかわいい玄関ポーチだ。これは、現存する大正期の西洋館(たとえば中谷邸Click!)でも実際に見ることができる。画面の西洋館は、中谷邸Click!に比べればかなりコンパクトだが、それでも当時のトレンドを積極的に取り入れたのだろう、自邸を建設できた住民のうれしさが伝わってくるような意匠の建物だ。
落一小卒業記念写真1928頃.jpg
箱根土地本社ビル1936.jpg
清水多嘉示「風景(仮)」OP288.jpg
佐伯祐三「遠望の岡?」1926.jpg
 だが、このような住宅は昭和初期の下落合では随所に見られ、描画場所を特定するメルクマールにはならない。強いていえば、住宅の周囲が空き地のような風情である点や、手前に農業用水の井戸(肥溜め?)のような施設が見えるところから、畑地が多く残る昭和初期の下落合(現・中落合/中井含む)西部のような気がする。もっとも同時代の高円寺風景といっても、なんら不思議ではない画面だといえよう。
 もう1枚の画面も、『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば「滞仏期[1923-1928年]か」と、疑問視されている『風景(仮)』(OP290)だが、わたしには下落合あたりの日本の風景に見えている。先述したトタンないしはスレートの光る屋根が、ここでは中央左に描かれた住宅の屋根として、よりはっきりとした質感や“てかり”とともに描写されている。どうやら、淡いブルーのトタン屋根のようだ。
 関東大震災時の市街地では、重たい瓦屋根を載せた住宅の倒壊や、瓦の落下による死傷者が相次ぎ、東京市では震災後に釘止めができる屋根瓦以外の使用禁止や、軽量なトタンあるいはスレートの屋根を奨励している。また、トタンやスレートよりもさらに軽量な「布瓦」(石綿スレート)Click!が発明されてブームになり、佐伯祐三アトリエも屋根の重量を軽くするために、防災仕様Click!の「布瓦」で葺かれていた時代があった。
 『風景(仮)』(OP290)の画面には、やはり電柱が描かれていないが、前出の『風景(仮)』(OP288)と同様に文化村かどうかは不明だ。右手に描かれている赤い屋根の住宅は、あめりか屋Click!あたりが建てそうな昭和初期の洋館のように見えるし、左手のトタン屋根の家は下見板張りの外壁にクレオソートClick!を塗布した、焦げ茶色の和洋折衷住宅のように見える。手前にはカーブする道が描かれているけれど、家々がまばらな様子から下落合東部の風情には見えない。これもまた、下落合西部に見られた街角風景だろうか。
中谷邸.JPG
清水多嘉示「風景(仮)」OP290.jpg
木星社跡.JPG
蕗谷虹児アトリエ跡.JPG
 清水多嘉示は、中村彝アトリエの周辺や曾宮一念アトリエClick!蕗谷虹児アトリエClick!、そして木星社Click!(福田久道Click!邸)の周囲を描いていると想定できるが、この中でもっとも西寄りなのが下落合1443番地の木星社だ。清水ははたして、そこからさらに西へ足を向けているのだろうか。もし福田久道などから、モチーフになりそうな風景が西にありそうだと奨められれば、画道具を抱えて積極的に出かけていたようにも思える。

◆写真上:帰国後に描いた可能性がある、清水多嘉示『風景(仮)』(OP287)。
◆写真中上は、下落合1328番地にあった竣工当時の箱根土地本社ビル。東側のウィングは、いまだ増築されていない。中上は、1925年(大正14)制作の松下春雄『下落合文化村入口』で箱根土地本社がレンガ色をしている。中下は、1926年(大正15)制作の林武『文化村風景』で中央生命保険俱楽部の外壁がベージュに塗り替えられている。は、1922年(大正11)ごろに撮影された不動園の池(手前)。池から西北西を向いて、目白文化村住民の親睦施設であるF.L.ライト風の「俱楽部」を撮影している。
◆写真中下は、1928年(昭和3)春に撮影された落合第一小学校の卒業記念写真。左手の斜面上に見えているのが中央生命保険俱楽部のウィング東端で、「おちあいよろず写真館」(コミュニティおちあいあれこれ/2003年)より。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中央生命保険俱楽部。中下は、帰国後に描かれた清水多嘉示『風景(仮)』(OP288)。は、トタンやスレートの屋根の“てかり”を表現したとみられる佐伯祐三が二ノ坂上を描いた『下落合風景』(「遠望の岡」?/部分)。当初、画面の洗浄でニスを洗い落とす際、薄塗りの絵の具まで洗ってしまった可能性も考えたが、ほかの作品表現も含めて考えるとどうもそうではなさそうだ。
◆写真下は、尖がり屋根の玄関ポーチがかわいい中谷邸。中上は、帰国後に描いていると思われる清水多嘉示『風景(仮)』(OP290)。中下は、下落合1443番地にあった木星社(福田久道邸)跡。は、下落合622番地の蕗谷虹児アトリエ跡で、現在は右手の洋館が和館に建て替えられている。また、道路の突き当たりは下落合630番地の敷地で里見勝蔵アトリエClick!森田亀之助邸Click!が建っていた。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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近所のワルガキに悩まされる中野重治。 [気になるエトセトラ]

中野重治邸跡.jpg
 1934年(昭和9)5月に、中野重治Click!は「政治運動はしない」という誓約書を書かされ、「転向」してようやく豊多摩刑務所Click!から出獄した。上落合481番地に住んでいた、前年4月に治安維持法違反の容疑で逮捕されてから、1年余の獄中生活だった。出獄した直後、四谷区永住町1番地の大木戸ハウスへ仮住まいをしていたが、同年暮れには上落合のほど近く、柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)へと転居している。
 柏木の家は、2年前まで淀橋町(大町)1130番地と呼ばれていた、旧・神田上水をはさんで小滝台(華洲園)Click!のすぐ南側にあたるエリアだ。小滝橋Click!から南西へ200mほど入った住宅街にあり、最寄り駅は直線で500mのところにある中央線の東中野駅だった。中野重治が柏木へ転居したころ、ちょうど旧・神田上水の蛇行を修正する直線化工事が進捗しており、沿岸は赤土の空き地が目立つ風情だったろう。
 この家で彼は、軍国主義と戦争へ向かって狂ったように突き進む政府へどのような抵抗を継続するか、「転向」後の活動を模索していたと思われる。近くの上落合2丁目549番地に住む壺井繁治Click!が結成した「サンチョクラブ」Click!へ、出獄して間もなく参加したのもその一環だろう。「サンチョクラブ」Click!の事務局は、上落合2丁目783番地の漫画家・加藤悦郎宅に置かれており、中野重治が2年前に逮捕されたときに住んでいた、上落合(1丁目)481番地のClick!からも500mほどしか離れていない。
 特高の徹底した弾圧がつづく当時の状況を、1968年(昭和43)に理論社から出版された、山田清三郎『プロレタリア文学史』下巻から引用してみよう。
  
 わたしは下獄にさいして、「プロ文壇に遺す言葉」(三四年一〇-一一月『文芸』)をかいていった。これは、一年半前に警視庁の中川・須田・山口らの特高に虐殺された多喜二の霊へ報告の形式で、ナルプ解体後のプロレタリア文学界の点検をおこない、題名通りあとの同志への期待をたくしたものである。(中略) わたしはまたそのなかで、執行猶予で出獄した村山知義の「白夜」(三四年五月『中央公論』)にふれ、「いわゆる“転向”時代のこの情勢の中で、その波を避けることのできなかった鹿野――それは作者の分身である――の、内面的苦悩と、それを救うものとしての精神的支柱」にふれて、この作の意義を解明している。そして、わたしはことのついでに、「窪川鶴次郎も、壺井繁治も、それから中野重治も、みな(伏字の六字は刑の執行猶予)になった。彼等は、夫々に健康もよくなかった」とかいている。かれらはナルプ解体前後に、こうして出獄していた。
  
 「ナルプ」とは「日本プロレタリア作家同盟」の略称だが、いかなるメディアを使いどのような表現をすれば、文学運動がつづけられるか暗中模索の時代だった。今日の文学史的にみれば、1935年(昭和10)という時点はプロレタリア文学が当局の弾圧により、息の根をとめられた年ととらえることができるだろう。
 中野重治はこの時期、当局へ「転向」したことを“証明”するために、政治的な文章ではなく叙事的なエッセイをいくつか残している。家の周辺に展開する光景や風情を描いた作品群は、下獄前の彼の活動を知る人間から見れば、「毒にも薬にもならぬものを書いて…」ということになるのだろうが、いまとなっては1930年代後半の新宿北部の様子を知るうえで、非常に貴重な記録という別の側面を備えている。
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 中野重治は柏木の家で、近所に住む小さなワルガキどもに悩まされている。庭先にある樹木の若葉をむしられ、鉢から庭へ移植して大切に育てていたバラの花を、片っぱしから摘まれてしまった。1959年(昭和34)に筑摩書房から出版された、『中野重治全集』所収の「子供と花」から引用してみよう。
  
 私の家の前にどぶがあって、そのどぶばたに背の低いアオキが立っている。春から夏へかけてきれいな芽が出てきて、それがどんどん葉になって行く。大いによろこんでいると、ある朝すっかりむしられてしまった。葉という葉をのこらずむしられて、下手なステッキのようになってしまったのでがっかりしていると、そのうちまた美しい葉が出てきたので安心した。するとまたそれがむしられてしまった。/いたずらをするのは近所の子供たちで、それがまだ幼稚園へも行かぬような小さいのばかりなので叱りつけることもできない。(中略) 夏になって私はバラの鉢を買ってきた。花盛りが過ぎかけたので外の垣根のところへ移しかえた。と、子供たちが今度はそれを摘みはじめた。花ざかりがすぎたといってもまだぽつぽつ咲くし、季節の最後の花でちょっとなかなかいいので、それが片っぱしから摘みとられるので今度は叱りつけた。
  
 でも、子どもたちの悪戯はまったく止まない。今度は、隣家のカシの木の幹を小刀で傷つけているのを見つけた。中野重治が庭に出て「何をしてるんだい?」と訊ねると、子どもたちは「蟻を切ってるんだぜ」と答えた。やめるようにいうと、「だって木にのぼっていけないじゃないか?」「蟻だけ切るんだから木を切らなけや(きゃ)いいだろう?」と、わけのわからない理屈が返ってきた。だが、中野がその後も観察していると、やはりアリを退治しているのではなく、カシの幹を傷つけては喜んでいるようにしか見えない。
 ここで面白いのは、大人に叱られてもまったく懲りずに動じない、逆に妙な屁理屈をひねり出して大人に“抵抗”しようとする小さな子どもたちが、つい数年前まで豊多摩郡と呼ばれて田畑が多く拡がっていた、東京郊外に出現しているということだろうか。こういう“ひねっこびれた”ワルガキどもは町場、特に市街地に多くいたはずなのだが、1930年代の淀橋区(現・新宿区の東側)北部にも現われはじめたということだ。
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中野重治邸1941頃.jpg
 1932年(昭和7)に東京35区の「大東京」Click!時代を迎え、また鉄道や市電、乗合自動車(バス)Click!など交通インフラの急速な整備により、市街地(旧・東京15区エリア)に住んでいたサラリーマン家庭が、1932年(昭和7)以前は郊外と呼ばれていた田園地帯へ転居するケースが急増していた。また、大きな企業では社宅を旧・郡部へ建設する事例も多かっただろう。山手線の西側には、次々とターミナル駅が形成され、都市部の風俗や習慣がいっせいに外周域へと流入した時期とも重なる。
 農村部の単純で素朴な子どもたちは姿を消し、大人に叱られてもちょっとやそっとでは懲りない「都市型ワルガキ」も、この時期に急増していったにちがいない。カシの幹切りからしばらくすると、中野重治の庭に咲くバラがまた被害に遭っている。
  
 その後五、六日してまたバラをむしるのを見つけた。「おい止せよ。」というと二、三人ばらばらと逃げ出したが、逃げおくれた小さい子が、ひっこみがつかなくて、「ね、おじちゃん、花とっちゃいけないんだね……」と媚びるような調子で言い出したのには閉口してしまった。へんなことをいうなよというわけにも行かない。乱暴なら乱暴でそれ一方ならいいが、へんに大人的に出られると参ってしまう。子供の方でもやはり気まずいらしい。言いわけにならぬ言いわけだということを何となく自分でも感じるらしい。不愉快とはいえないが、ちょっと辛いようなものである。
  
 こういうときは、奥さんの原泉Click!(原泉子=中野政野)に白装束で鉢巻きをしめ、榊(さかき)の枝をふりまわしながら登場してもらって、「鎧明神の将門様がお怒りじゃ~! おまえたち、呪われてしまうぞよ~!」と出ていけば、子どもたちはヒェ~~ッと逃げていって二度とやってはこなかったかもしれないのだが、彼女はいまだ怖くて妖しげな老婆ではなく、築地小劇場などで活躍する若くて美しい舞台女優だった。
鎧神社.JPG
東中野染め物洗い張り.JPG
 1930年代を迎えると、落合地域とその周辺域では市街地から続々と転入してくる子どもたちで尋常小学校が足りなくなり、次々と新しい学校が開校している。だが、それでも間に合わずに既存校舎の増改築を進めるが、さらに校舎からあふれた生徒たちは、周辺の公共施設や集会場などの「臨時校舎」を利用して授業を受けていた。

◆写真上:戦前に中野重治・原泉の自宅があった、柏木5丁目1130番地あたりの現状。戦後の区画整理で道路が変わってしまい、旧居跡の道筋は消滅している。
◆写真中上は、1932年(昭和7)作成の1/10,000地形図にみる柏木1130番地で旧・神田上水の直線化工事がはじまっている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中野重治邸。は、1930年代に西側の斜めフカンから撮影された同所。
◆写真中下は、1930年(昭和5)に撮影された中野重治と中野政野(原泉)。は、1941年(昭和16)ごろに撮影された柏木5丁目界隈。上部に見えている大邸宅群は小滝台(旧・華洲園)住宅地だが、この一帯は1945年(昭和20)の空襲で全焼している。
◆写真下は、柏木の中野宅から南へ200mほどのところにある鎧明神社。は、柏木から東中野にかけての神田川沿いにも「染め物洗い張り」の工房が展開している。


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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(4) [気になる下落合]

清水多嘉示「風景(仮)」OP580.jpg
 清水多嘉示Click!が渡仏する前の『下落合風景』Click!(1922年)、あるいは1928年(昭和3)5月に帰国して以来、明らかに「下落合風景」と思われる林泉園作品Click!などを検討してきた。ほかにも、おそらく下落合を描いたとみられる作品は少なくないのだが、道筋や地形がハッキリと描きこまれておらず、また特徴的な住宅などがモチーフになっていないため、描画場所をピンポイントで特定できない画面もある。きょうは、それらの画面について検討してみよう。
 まず、冒頭の清水多嘉示『風景(仮)』(作品番号OP580)だ。この画面は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「滞仏期[1923-1928年]か」と疑問形で収録されている。もし、この画面を佐伯祐三Click!がお好きな方がひと目観たとたん、「アッ、あそこでは?」と思われるだろうか。特に右手に描かれている、大正末から昭和初期に数多く建てられた日本家屋の意匠に注目し、佐伯の「制作メモ」Click!によれば、1926年(大正15)9月20日に描いた『下落合風景』Click!(曾宮さんの前Click!)、すなわち諏訪谷の南側の高台から北北西を向いて描いているのではないか?……と思われるかもしれない。ちなみに、佐伯の同作には微妙に角度を変えた2作と、降雪あとの諏訪谷を描いた2作の計4作が確認できる。
 ましてや、清水多嘉示は『風景(仮)』Click!(OP284/285)で、諏訪谷の北側に通う曾宮一念アトリエClick!前や、蕗谷虹児アトリエClick!近くの道を描いているとみられることから、よけいに諏訪谷のイメージが強く湧くのではないかと思う。だが、冒頭の『風景(仮)』(OP580)は諏訪谷ではない。確かに、手前の地面の向こう側が、地形的にやや落ちこんでいるように見えるが、諏訪谷ほどは凹地が深くない。また、家々の向こう側に佐伯が描いているような、諏訪谷の“対岸”にあたる丘、つまり清水が『風景(仮)』(OP284/285)で描いた道が通う高台が見えない。さらに、この角度からは必ず見えなければならない、銭湯「福の湯」Click!の煙突も見あたらない。
 太陽光の差しこみ方を見ると、右手から射しているように描かれており、家々の切妻の向きからすると、おそらく北側から南南東の方角を、かなり陽が傾いた午後の時間帯に描いているように見える。ひょっとすると、住宅群の先が南に向いた斜面になっているのかもしれないが、画面からはそこまでの地形はうかがい知れない。電柱が1本も描かれていないので、電力線・電燈線Click!を地下の共同溝に埋設した、いずれかの目白文化村Click!かとも考えたが、このように一般的な住宅群が密集して建てられている文化村の街角を、わたしは知らない。また、清水多嘉示は電柱を省略している画面もありそうなので、文化村だとはいちがいに規定できないのだ。
 また、少し西側に入りこんだ路地にある下落合1443番地の木星社(福田久道)Click!の道筋、すなわち佐伯の「下落合風景」シリーズClick!の作品群に沿った表現をすれば、木星社の周囲に見られた『八島さんの前通り』Click!沿いの空き地から、南南東を向いて描いた風景かとも考えたけれど、残念ながら1936年(昭和11)の空中写真をいくら検証しても、このような家々の配置も、また住宅の意匠も存在していない。いまいち、ハッキリとした特徴のある住宅が描かれておらず、昭和初期の下落合に展開していたごく一般的な住宅街では、あちこちで見られた風景だろう。または、戦時中に本格化する改正道路Click!(山手通りClick!)の工事で、丸ごと消えてしまった街角のひとつなのかもしれない。
下落合日本家屋.JPG
佐伯祐三「下落合風景」曾宮さんの前1926.jpg
鶴田吾郎「初夏郊外」不詳.jpg
諏訪谷と聖母坂.JPG
 次に、同じく『風景(仮)』(OP581)とタイトルされた画面を見てみよう。先の『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「不明・帰国後[1928年以降]」とされている作品だ。この画面を観て、わたしが真っ先に思い浮かべたのは、1925年(大正14)に建設された庭先に大きなソテツが繁る第二文化村の松下邸Click!だった。下落合1367番地の松下市太郎邸は、セメントを混ぜたグレーのモルタルスタッコ仕上げの外壁で、“T”字型をした大きな邸宅だ。
 手前に見える門は、松下邸の門ではなく隣家の敷地の門だとして、目白文化村で数多く作られたレンガの門柱に、四角いレンガかセメントの帽子をかぶせいてる。その門柱には、タテに黒っぽく表札が埋めこまれているような描写が見える。レンガの門柱から塀ではなく、低木の生垣がつづいているのも、いかにも文化村らしい風情をしている。
 だが、これが松下邸だとすると、周囲の空間がやや閑散としている雰囲気が馴染まない。清水多嘉示が帰国した1928年(昭和3)現在では、第二文化村に家々がかなりの密度で建ち並んでいただろうし、もう少し周囲の住宅が望見できてもよさそうな気がする。さらに、目白文化村であれば電柱が見えないのは当然としても、手前の道路の端に大谷石で造作された共同溝が敷設されていなければならない。悩ましいのは、文化村内の幹線道路である三間道路沿いには、もれなく共同溝が設置されていたかもしれないが、すべての二間道路沿いにももれなく敷設されていたかどうかが、いまひとつハッキリしない。
 松下邸は、第一文化村から南へと下ってきた二間道路沿いに建っていたので、宇田川家Click!が所有している箱根土地Click!未買収地Click!つづきの位置にある。だから、未買収エリアには電柱があったので、この二間道路沿いには電柱があった……と考えることもできる。ただし、松下邸がこのような角度に見えるためには、南西側か北西側から眺めるのがいちばん近い角度になるが、そこには路地は認められるが、描かれているような広めの道路が通っていない……という、もうひとつの課題もあるのだ。
清水多嘉示「風景(仮)」OP581.jpg
松下市太郎邸1925.jpg
文化村門.jpg
 つづいて、明らかに画家のアトリエを描いたとみられる、『風景(仮)』(OP612)の画面を観てみよう。この作品も、『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』では「不明・帰国後[1928年]以降」とされている。描かれている家の大きな窓が、北面する画家のアトリエの採光窓だとすれば、清水多嘉示は北西の方角から南東を向いて描いていることになる。陽光は右上から射しているように見え、採光窓がうがたれた外壁面の方角や、画家がイーゼルを立てている描画位置の方角とは矛盾しない。
 家を囲むように描かれている、おそらく大谷石を用いた背の低いオープンな石垣は、落合地域ではあちこちで目にする仕様だ。特に石垣の上にほどこされた、画面では白っぽく描かれている“装飾”は、大谷石を削って造る凝ったデザインの仕事で、大正末から昭和初期にかけて爆発的に流行した塀の施工法だろう。装飾部の大谷石が、なぜ白っぽいのかは不明だが、ペンキを塗るなどなんらかのカラーリングが施されているのかもしれない。
 さて、手前の道路は南へ向かってややカーブしているように見え、東へと向かう道路とでT字路を形成しているようだ。だが、わたしはこのような道筋の場所に建つ画家のアトリエを、下落合(現・中落合/中井含む)でも上落合のエリアでも、これまで古写真や資料類を含めて一度も見たことがない。
 最初は、第三府営住宅Click!(下落合1542番地)に住んだ帝展画家の長野新一Click!のアトリエか、下落合800番地の有岡一郎Click!のアトリエかとも考えたが、道筋の方角が合わないのだ。ひょっとすると、これは落合の風景ではなく、帰国後に住んだ高円寺の風景なのかもしれない。ただし、昭和初期の段階で、落合地域に住んでいた画家たちの、すべてのアトリエの形状を認識しているわけではないので、わたしの知らない落合エリアにあったアトリエ建築の可能性も高そうだ。
清水多嘉示「風景(仮)」OP612.jpg
文化村塀1.JPG
文化村塀2.JPG
 今回は、いかにも昭和初期の落合地域で見られたような、清水多嘉示の風景作品について書いてきたが、ほかにもまだ気になる画面が少なからず存在している。ひょっとすると、それらの画面は落合地域ではないかもしれないのだが、昭和初期の落合風景と重ね合わせることで、その可能性を探ってみたい。また、わたしが知らないだけで、1928~1935年(昭和3~10)ぐらいまでの落合風景で、「この風景は、きっとあそこだ!」とお気づきの方がおられたら、ご教示いただければ幸いだ。

◆写真上:1928年(昭和3)の帰国後に制作されたとみられる、昭和初期の下落合のような風情を感じる清水多嘉示『風景(仮)』(OP580)。
◆写真中上は、現在でも下落合に残る大正期から数多く建設された日本家屋。は、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『下落合風景』(曾宮さんの前)に描かれた同様の家屋(上)と、制作年不詳の鶴田吾郎『初夏郊外』にみる同じような日本家屋(下)。は、右手の諏訪谷へ落ちる絶壁と左手の青柳ヶ原を掘削して聖母坂(補助45号線)を敷設した際にできた絶壁。1931年(昭和6)に行われた工事で、実際の地面はこれらの擁壁の上にあたる。
◆写真中下は、清水多嘉示『風景(仮)』(OP581)。は、1925年(大正14)に竣工した松下市太郎邸。は、目白文化村に多いレンガで組み上げた門。
◆写真下は、清水多嘉示『風景(仮)』(OP612)。は、目白文化村に多い大谷石の塀に装飾を施した例で、第一文化村と第二文化村にあった邸の施工ケース。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。

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下戸塚(西早稲田)地域の関東大震災。 [気になるエトセトラ]

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 これまで、郊外の落合地域とその周辺域から東京市街地にいたるまで、関東大震災Click!によって記録されたさまざまな証言や現象を記事にしてきた。今回は落合地域の南西側、下戸塚から早稲田鶴巻町にかけての震災直後の様子をご紹介したい。自身が避難しながら周囲の様子を記録したのは、1923年(大正12)の9月1日現在、下戸塚(現・西早稲田界隈)の古い2階建ての下宿屋Click!に住んでいた井伏鱒二Click!だ。
 9月1日は、早朝にまるでスコールのような大雨が降ったが、昼が近づくにつれて雲がまったくなくなり、快晴となって気温が急上昇した……という記述をよく見かける。だが、この気象は東京の市街地、特に被害が大きかった(城)下町あたりで多く見られた天気の様子で、東京各地では異なった天候が記録されている。東京は広いので、各エリアで天候が少なからず異なっているのは、以前にも岸田劉生Click!が郊外風景を描いた作品の空模様や劉生日記Click!の天気と、永田町にあった東京中央気象台で記録された天候とのちがいでも書いたとおりだ。ちなみに、新宿区のみに限っても下落合では薄日が射しているのに、同時刻の飯田橋駅附近にいる知り合いの電話の向こうでは土砂降りの雨が降っていたのを、わたしも何度か経験している。
 東京中央気象台のある永田町では、関東大震災が起きた9月1日の天候を、降水量15.3mmをともなう「雨」と記録している。だが、永田町上空も昼前後はよく晴れていたと思われるが、午後からは気象情報の収集どころではなくなり、結局は午前中のみのデータにもとづく記録になってしまったか、あるいは震災後から市街地の上空を覆いはじめた大火災の熱い焼煙によって、午後から夜にかけ市街地上空には雨雲が形成され、実際に雨がパラついていたのかどうかはさだかでない。
 井伏鱒二も、のちの関東大震災について各種書籍に書かれた市街地の天候と、郊外の下戸塚(西早稲田)で自身が経験した天候とが、「それは少し違つてゐる」と書いている。夜明けごろから強い雨が降りだしたのは、下戸塚も市街地と同様だったが、そのあと午前中には抜けるほど青い空が一点の雲もなく四囲に拡がり、快晴となったとされている部分が少しちがっているとしている。彼は午前中、東の空に「今まで私の見たこともないやうな」大きな入道雲(積乱雲)を目撃しており、それは「繊細な襞を持つ珍しい雲であつた」と書いている。つまり、東京の東部域には積乱雲がかかり、雷をともなう雨が降っていた地域もあったらしいことがうかがわれる。
 さて、早大近くの下戸塚に建っていた古い下宿で、大地震に遭遇した瞬間を井伏鱒二は次のように記述している。ちなみに、井伏鱒二はあえて牛込区の早稲田鶴巻町ではなく豊多摩郡戸塚町の下戸塚と書いているので、彼が下宿していたのは早大キャンパスの西南側なのだろう。1986年(昭和61)に新潮社から出版された、『井伏鱒二自選全集』第12巻収録の『荻窪風土記』から引用してみよう。
  
 地震が揺れたのは、午前十一時五十八分から三分間。後は余震の連続だが、私が外に飛び出して、階段を駆け降りると同時に私の降りた階段の裾が少し宙に浮き、私の後から降りる者には階段の用をなさなくなつた。下戸塚で一番古参の古ぼけた下宿屋だから、二階の屋根が少し前のめりに道路の方に傾いで来たやうに見えた。コの字型に出来てゐる二階屋だから、倒壊することだけは免れた。/私たち止宿人は(夏休みの続きだから、私を加へて、四、五人しかゐなかつたが)誰が言ひだしたともなく一団となつて早稲田大学の下戸塚球場へ避難した。不断(ママ:普段)、野球選手の練習を見たり早慶戦を見たり体操したりしてゐたグラウンドである。(当時、早慶戦はまだ神宮球場で試合をしてゐなかつた) 私は三塁側のスタンドに入つて行つた。そこへ早稲田の文科で同級だつた文芸評論家の小島徳弥がやつて来て、私たちは並んでスタンドの三塁側寄りに腰をかけた。
  
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 文中に登場する「下戸塚球場」は「早大戸塚球場」Click!のことで、戦後は野球部長だった安部磯雄Click!の名前をとり「安部球場」と呼ばれたグラウンドだ。現在は、早大の中央図書館と国際会議場やホールなどになっているが、その前を通う坂道は相変わらず「グラウンド坂」と呼ばれて球場の名残りをとどめている。
 井伏鱒二の記述から、「一番古参の古ぼけた下宿屋」はどうやら早大キャンパスのすぐ近く、大字下戸塚字松原か字三島あたりではないかと思われる。以前、1923年(大正12)6月に戸塚球場で行われた早明戦の試合を、東京朝日新聞社がチャーターした飛行機から撮影した空中写真をご紹介Click!したけれど、この写真の中に井伏鱒二が暮らしていた下宿屋が写っているかもしれない。関東大震災のわずか3ヶ月前に撮影された空中写真なので、球場の観客の中には彼も混じっている可能性が高い。
 3塁側スタンド、つまり早稲田通り寄りのスタンドへ避難したということは、南側の早稲田通り側からグラウンド坂を下って戸塚球場に入り、すぐ左手のスタンドへ入って腰を落ちつけたとすれば、井伏鱒二の下宿屋は幕府の高田馬場跡Click!がある早稲田通り沿いの三島か松原、通りをわたった向こう側、穴八幡社Click!スコットホールClick!のある荒井山のいずれかということになる。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ここの野球グラウンドは、下戸塚の高台に上る坂の途中に所在する。三塁側のスタンドから見ると、女子大学のある目白台が正面に当り、そこからずつと右手寄りが伝通院の高み、その先が丸山福山町か本郷あたりといふ見当である。火事は地震と同時にそこかしこから出てゐたかもしれないが、目白台も伝通院の方にも本郷あたりにも、まだ火の手も煙もあがつてゐなかつた。すぐ目の下に見える早大応用化学の校舎だけは単独に燃えつづけてゐたが、その先の一六様の森から市電の早稲田終点の方では火の手も煙も出てゐなかつた。グラウンドの外の坂路には、火事を逃れた人たちが引きつづき先を急いでゐた。高田馬場の方へ逃げて行く人たちのやうであつた。(後からわかつたが、応用化学の校舎は薬品の入つてゐる瓶が独りで床に落ち、床を焦がして火事になつたものであるさうだ)/私と小島君が坐つてゐるすぐ下の段に、人足風の男が二人やつて来て、「お前、後で学校の事務へ行つて、ありのまま言つた方がいいぜ」と一人が言ひ、「それは言ふ。痛いもの」と一人が言つた。地震で早大の煉瓦建の大講堂が一度に崩れ、人足の一人が足を挫かれてゐるのがわかつた。
  
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 井伏鱒二は、目前を横ぎる目白崖線沿いの土地勘がありそうなので、おそらく周辺を散歩していたのだろう。早大の中で、地震により唯一出火したのが理工科応用化学教室の煉瓦ビルだった。薬品が棚から落下し、化学反応を起こして出火したのは下落合の佐藤化学研究所Click!と同じだが、同研究所がボヤだったのに対し早大の応用化学教室は薬品の量が多かったせいか、煉瓦造りの校舎が全焼している。下戸塚界隈で大きな火事があったのは、早大の応用研究室のみで、ほかは住宅や店舗の倒壊が何軒か記録されている。
 応用化学教室を消火したのは、地元の戸塚町消防組だった。当時の様子を、1976年(昭和51)に出版された『我が街の詩・下戸塚』(下戸塚研究会)から引用してみよう。
  
 早大応用化学科実験室より出火レンガ造りの周囲だけを残して全焼したが、戸塚町消防組の必死の消火活動で類焼は免がた(ママ:免がれた)、とその時の消防組の的確な働きに、感謝していたそうです。又校舎も倒れた所が多かった。又民家でも自転車屋さんが押しつぶされて二階が一階になったり、屋根瓦が落ちたりした家も少なくなく、又、水稲荷神社のお富士さんが崩れたり、三島通りの方でも魚藤さんとおもちゃ屋さんの二軒がつぶされました。/板金屋の本田清さんのお父さん等は、ある下宿屋の屋根に登って仕事中地震に会い、屋根にしがみついて、地震が終って気がついてみると、もうそこは、地面だった等と沢山の逸話がありますが、当町に於いては火事を出さなかったのが不幸中の幸いでした。(中略) 当時の三島通りは下町の方から、家財道具を荷車に乗せ転出地へ向う被災者の群で大変な混雑が二週間続いたそうです。
  
 文中に「校舎も倒れた所が多かった」と書かれているが、壁面などが崩れた校舎や講堂はあったが倒壊した校舎はなく、レストランや会議室などが入る大隈会館の屋根が崩落したのが最大の被害だったようだ。戸塚町は、落合地域と同様に関東大震災による損害が軽微だったせいか、むしろ市街地からの避難民を受け入れる側の立場になった。
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 1931年(昭和6)出版の『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)にも、大震災の記録が載っているかどうか調べたのだが、ほとんど記述されていない。大正中期から昭和初期にかけ、早野町長が公金を持ち逃げして行方をくらまし、収入役が引きつづき税金を町民から二重取りして着服・費消して大騒動となり、町議会では助役選出や町金庫の選定などをめぐる乱闘で流血がつづくなど、町政が前代未聞の「激震」状態だったため、町民たちは激怒して呆れはて、町会議員の大半も「バカらしくてやってらんねえや」と抗議辞職して、およそ関東大震災どころではなかったのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合から眺めた、夏の巨大な入道雲(積乱雲)。
◆写真中上は、関東大震災3ヶ月前の1923年(大正12)6月に撮影された戸塚球場の東京五大学野球決勝・早明戦。東京帝大(現・東京大学)野球部が準備不足のため、まだ六大学リーグにはなっていない。は、早大運動会開会式を3塁側から撮影した写真。式台背後には、東西を横ぎる目白崖線が見えている。は、早大運動会のカエル踊り。東京美術学校(現・東京藝大)のヨカチン踊りより、まだ少しは上品だと思われる。(爆!)
◆写真中下は、全焼した理工科応用化学教室の煉瓦ビル。震災前の早稲田大学大講堂()と、外壁が崩落した震災直後の同大講堂()。この震災被害により、正門前に新たな大隈講堂の建設計画が進捗することになった。
◆写真下は、屋根が崩落した大隈会館。は、1922年(大正11)ごろに撮影された早大キャンパス全景。戸塚球場は、画面右上の端に3塁側が見えている。は、関東大震災から1月余の1923年(大正12)10月10日に講義の再開を宣言する総長・高田早苗。

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