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三岸好太郎の遺作展芳名帳にみる人々。 [気になる下落合]

三岸アトリエ貝殻.JPG
 三岸好太郎・三岸節子夫妻Click!のお嬢様である陽子様Click!の長女・山本愛子様Click!より、アトリエを整理していたら「三岸好太郎遺作展」の芳名帳が見つかった旨、ご連絡をいただいた。さっそくお送りいただいた同展芳名帳のコピーに目を通すと、このサイトにかつて登場した画家や美術家たち、あるいは一時期の三岸夫妻Click!と同様に、落合地域とその周辺域にアトリエがあったお馴染みの画家たちや、美術関係者などの顔ぶれが27名ほど並んでいたので、さっそくご紹介してみたい。
 この「三岸好太郎遺作展」は、好太郎が31歳で急死した1934年(昭和9)7月の直後、完成した上鷺宮のアトリエClick!で同年11月に開かれた遺作展ではない。芳名帳に記載された来訪者の住所表記から、1947年(昭和22)3月に東京が22区(のち23区)になったあとに開催されたものだ。また、来訪者の居住地が東京とその周辺域に集中しているため、明らかに都内で開かれた遺作展に絞りこめる。1945年(昭和20)の敗戦ののち、「三岸好太郎遺作展」は何度か各地で開かれているが、東京地方だけを見ると以下の3回に限定できる。
 ●「三岸好太郎遺作展」1949年5月26日~6月1日…日本橋・北荘画廊
 ●「三岸好太郎遺作展」1950年3月7日~13日…日本橋・北荘画廊
 ●「三岸好太郎遺作小品展」1956年10月8日~14日…日本橋・三彩堂
 上記の展覧会の中で、芳名帳のタイトルから規定すると、おそらく日本橋の北荘画廊で開かれた1949年(昭和24)、ないしは翌1950年(昭和25)の遺作展の会場に置かれていたものではないかと思われる。
 ちなみに、日本橋の北荘画廊では、三岸好太郎遺作展に先だつ前年1948年(昭和23)11月に、下落合4丁目2096番地のアトリエClick!に住み同年6月に急死した松本竣介Click!の遺作展を開き、つづいて1949年(昭和24)6月には出征先の戦場で病没した靉光Click!の遺作展を開催している。まるで今日の中国洋画界のように、1945年(昭和20)8月まで発表の場を徹底的に奪われ、弾圧されつづけてきたシュールレアリストや前衛美術家たちの作品が、いっせいに注目を集めはじめた時期でもあった。
 当時の様子を、1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎―昭和洋画史への序章―』から引用してみよう。
  
 敗戦後の民主化風潮の高まりとともに、日本美術会の結成(二一年)、その主催によるアンデパンダン展の開催、日本アヴァンギャルド美術クラブの結成(二二年)、読売新聞アンデパンダン展開催(二四年)、二科会前衛派九室会の再発足、山口薫、村井正誠、矢橋六郎の自由美術家協会からの分離、モダンアート協会の結成(二五年)等々、昭和一〇年代後半期に圧殺された前衛芸術の芽は一斉にほころびはじめる。/こうしたなかで、三岸は再び公衆の前にその姿を現す。昭和二五年三月(七~一四日)、日本橋・北荘画廊での遺作展がそれであり、<水盤のある風景><少年道化><乳首><蝶と裸婦><オーケストラ>等二五点が出陳された。三岸の復活である。
  
 さて、このような状況を背景に、三岸好太郎遺作展を訪れた人々の顔ぶれを見てみよう。ちなみに、芳名帳にはそうそうたる画家や美術関係者が名を連ねているが、ここでは拙サイトに登場している人物のみにスポットを当ててご紹介したい。
三岸好太郎遺作展芳名帳1.jpg
藤川栄子(署名).jpg 中村忠二(署名).jpg
藤川栄子.jpg 伴敏子「忠二素描」.jpg
吉田兄弟&寺田政明(署名).jpg
吉田遠志1953.jpg 吉田穂高1948頃.jpg
 やはり真っ先に目についたのは、三岸節子の女性画家仲間では唯一の親友である藤川栄子Click!だ。大正末には、旧・神田上水(現・神田川)をはさみ下落合のすぐ南に隣接する、戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた三岸夫妻だが、このころからふたりは親しく交流していたと思われる。遺作展の案内状をもらった藤川栄子Click!は、さっそく戸塚3丁目866番地(現・高田馬場4丁目)のアトリエClick!から三岸節子のもとへ駆けつけているのだろう。
 当時、下落合にアトリエをかまえていた画家たちの名前も、チラホラ記載されている。まず、「米国に勝てるわけない」といいつづけていた洋画家の妻・伴敏子Click!に対し、戦争には絶対に勝つと敗戦間際まで大本営発表を信じつづけた中村忠二Click!の名前が見える。敗戦ののち、彼の内部ではどのような総括が行われたものだろうか、芳名帳の最初のページに名前があるので、三岸好太郎遺作展を待ちかねて来場しているように見える。コペルニクス的な転回を見せる敗戦後の美術界を前に、もう一度イチから出直しのつもりで“前衛表現”を学びに訪れたのかもしれない。妻・伴敏子の名前がないので、おそらくひとりで来場したのだろう。
 同遺作展の目録には、田近憲三が「三岸好太郎氏の遺作展によせて」という文章を寄せている。同書より、その一部分を孫引きしてみよう。
  
 世に鬼才を云うかぎり私達は故三岸好太郎氏に較べるべき才能を見出さない。この鬼才の制作とその慌しい逝去に対して、かつての画壇が久しく無関心でありえたとは何うした神経をゆぎさすものであらうか。三岸好太郎氏が逝いて一七年、その制作は、唯今となってはじめて知る芳烈な近代性に輝いている。それは作品の精神となり、香となって漂うている。しかもフォーヴからシュールレアリズムの運動にかけて、多くの作家が概念的にとらわれ、その形式に固着して、かたくなな渋滞を示したのに反して、同氏の制作と生涯は暗夜に彗星がよぎるにも似た爽快と奔放をあらわした。
  
寺田政明.jpg 吉岡憲.jpg
吉岡憲(署名).jpg 久保一雄(署名).jpg
久保一雄.jpg 高畠達四郎.jpg
野口彌太郎(署名).jpg
 下落合2丁目667番地の洋画家で版画家の吉田博アトリエClick!からは、目白文化協会Click!に参加していた吉田遠志Click!吉田穂高Click!の兄弟が、そろって芳名帳に記帳している。原精一Click!をはさみ兄弟ふたりが署名しているので、おそらく3人が連れ立って来場したものだろうか。同じページには、長崎アトリエ村の“桜ヶ丘パルテノン”Click!近く、長崎3丁目16番地に住んだ寺田政明Click!の名前も見える。この時期、寺田は自由美術家協会に属している。
 また、上落合1丁目(番地は不明)に住み、下落合の周辺や旧・神田上水沿いをスケッチしてまわる吉岡憲Click!も来場している。東中野の踏み切りで、中央線に飛びこんで自裁する6年前に当たり、ちょうど『目白風景』Click!をタブローに仕上げていたころだ。下落合の西隣り、妙正寺川に架かる北原橋西詰めの丘上(上高田422番地)にアトリエClick!をかまえていた、日展の耳野卯三郎Click!も同遺作展を訪れていた。
 さらに、下落合4丁目1995番地の川口軌外Click!アトリエに通いつづけた、洋画家で映画美術監督の久保一雄Click!も北荘画廊を訪問している。盟友の黒澤明Click!たちと、米軍(GHQ)の戦車や装甲車、航空機までが出動した東宝争議を闘ってから間もない時期で、1948年(昭和23)に独立美術協会Click!の会員になったばかりのころだ。ついでに、新樹会の画家・大河内信敬Click!も同遺作展を訪れているが、久保一雄の古巣である東宝から大河内の娘・桃子が、同展の4年後に映画デビューしている。もちろん、1954年(昭和29)に制作された『ゴジラ』Click!(本多猪四郎・円谷英二監督)のヒロイン・河内桃子だ。
 そして、拙サイトの記事に関連して登場している画家たちには、三岸好太郎らとともに結成した画会「麓人社」Click!つながりの倉田三郎Click!が、独立美術協会の関連では鈴木保徳Click!や高畠達四郎、野口彌太郎Click!が、そして自由美術家協会からは麻生三郎や鶴岡政男、難波田龍起Click!たちが遺作展を観にきている。
麻生三郎.jpg 鶴岡政男.jpg
麻生三郎(署名).jpg 森田元子(署名).jpg
森田元子.jpg 長谷川利行「四宮潤一氏」1936.jpg
ゴジラと河内桃子.jpg
 そのほか、このサイトに登場した人物には、美術評論家の江川和彦Click!や四宮潤一、三岸節子とは岡田三郎助の画塾時代からの知己で、美術をめざす女学生たちを前に「こんなところで勉強してちゃダメ」といって激怒させる女子美術大学の森田元子、プロレタリア美術の小林源太郎Click!、仏文学者の小松清Click!、そして日展(旧・帝展)では田村一男Click!小寺健吉Click!、鈴木栄三郎、鈴木千久馬Click!辻永Click!などが姿を見せている。このような顔ぶれに、大日本帝国の滅亡から新時代を迎えた美術界の、そして三岸好太郎の作品群を改めて見つめる彼らの眼差しから、いったいなにが読みとれるだろうか?

◆写真上:三岸アトリエに残る、シャコガイの一種とみられる大きな貝殻。
◆写真中上は、「三岸好太郎遺作展」芳名帳の表紙/表4。中上は、藤川栄子()と中村忠二()の署名。中下は、このサイトでお馴染みの藤川栄子()と、伴敏子『忠二素描』=中村忠二()。は吉田遠志や吉田穂高、原精一、寺田政明らの署名()に、吉田遠志(下左)と目白文化協会時代の吉田穂高(下右)。
◆写真中下は、寺田政明()と吉岡憲()。中上は、吉岡憲()と倉田三郎や久保一雄()の署名。中下は、久保一雄()と高畠達四郎()。は、小寺健吉や仏文学者の小松清、1930年協会Click!からお馴染みの野口彌太郎などの署名。
◆写真下上左は、麻生三郎(後方)で手前は松本竣介。上右は、ガマガエルを持つ鶴岡政男。中上は、麻生三郎()と田村一男や森田元子()の署名。中下は、森田元子()と長谷川利行Click!が描いた『四宮潤一氏』()。は、1954年(昭和29)に東宝・砧撮影所でデビュー早々に“FRIDAY”された、大好きな“彼”とデートする大河内信敬の娘・桃子。w ちなみに、“彼”もこの作品がデビュー作だった。

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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(1) [気になる下落合]

清水多嘉示「下落合風景」1922.jpg
 これまで、さまざまな画家たちによる「下落合風景」Click!をご紹介してきたが、大正中期に下落合(現・中落合/中井含む)を描いた風景画は、下落合に実家があった小島善太郎Click!による大正初期からの諸作品Click!や、中村彝Click!によるアトリエ周辺の風景作品Click!大倉山Click!の北側斜面にあった森田亀之助Click!邸をおそらく渡仏直前に訪問したとみられる里見勝蔵Click!作品Click!、そして下落合に下宿していた鬼頭鍋三郎Click!初期作品Click!などを含め、たいへんめずらしい。いずれも大正末から松下春雄Click!佐伯祐三Click!笠原吉太郎Click!林武Click!二瓶等Click!など数多くの画家たちによる「下落合風景」の連作Click!がブームになる、少し前の作品群だ。
 今回ご紹介するのは、おそらく中村彝アトリエClick!へ立ち寄った際に描いたとみられる、1922年(大正11)に制作された清水多嘉示Click!の『下落合風景』だ。中村彝生誕130年記念会でお会いできた清水多嘉示のお嬢様・青山敏子様Click!から、さっそく画像をお送りいただいたので描画場所を特定してみたい。わたしは画面を一見して、この風景が下落合のどこを描いたものかが、すぐにわかった。このような風景が見られた可能性のあるポイントは、1922年(大正11)現在の下落合には2ヶ所しか存在しない。
 画面には、1922年(大正11)という時期にもかかわらず住宅が1軒も描かれていない。だが、まるで切り通しのようなV字型の狭い谷間ないしは坂道が、中央から右下に向かって下っている。崖地に表現された関東ロームの地層が見える右手の丘上近くは、木々が繁ってはおらず拓けた空間が拡がっているのがわかる。また、画面の左手から右手にかけては大きめな丘(山)が描かれ、遠方の木々の描き方を想定すると、かなり規模の大きな丘(山)であることがわかる。なぜこの風景が、下落合で見られた2ヶ所のポイントに絞られるのかといえば、イーゼルをすえている画家の立ち位置(視点)からだ。
 射しこむ陽光は画家の背後右手なので、その方角が南面なのは判然としている。つまり、この谷間ないしは切り通しは、丘上から南に向けて口を開けていることになる。そして、描かれたふたつの丘は、南へ向いた斜面を形成しているのも明らかだが、清水多嘉示はその南斜面を麓からではなく、再び地形が隆起しているかなり高い位置から写生していることになる。すなわち、左手の大きな丘(山)の南側に、谷間をはさんでもうひとつ小高い丘がある地形であり、その丘は少なくとも手前に描かれた木々の頂部よりも高い位置ということになるのだ。さらに画面の左下には、必然的に西側へと切れこんだ谷間ないしは窪みがあるということになる。
 以上のような地形把握を踏まえるならば、このような風景は林泉園Click!から流れ下った渓流沿いにある御留山Click!と、のちに近衛町Click!と呼ばれる丘の間の急峻なV字型渓谷か、西坂の徳川邸Click!が建つ斜面から眺めた、青柳ヶ原Click!諏訪谷Click!からつづく渓谷の2ヶ所しか存在しない。だが、のちに国際聖母病院Click!などが建設される青柳ヶ原の丘は、南へ向けて徐々に傾斜していく舌状のなだらかな丘であり、画面左手から右手にかけて描かれたようなこんもりと隆起した丘ではない。
 また、右手の谷間が諏訪谷つづきの渓谷だとすると、大正中期ともなれば右手の崖地上にはいくつかの住宅が建設されていたはずだ。しかも、西坂・徳川邸のバラ園を諏訪谷の出口を背景に眺めた情景は、松下春雄が1926年(大正15)に制作した『徳川別邸内』Click!で見ることができるが、谷全体の幅がかなり広めに口を開け、このような空間感ではない。したがって、この画面の風景は前者、すなわち林泉園の谷戸から南へと流れ下る、御留山の西側に接したV字型渓谷ということになる。
下落合風景1922.jpg
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下落合風景01.JPG
 清水多嘉示は、中村彝アトリエを訪問した際、付近の風景を写生するために画道具を持ちながら、アトリエの南側に口を開けた林泉園の谷戸へと下りていった。東西に細長い池沿いにつづく小道を東へたどっていくと、やがて旧・近衛篤麿邸Click!跡と相馬猛胤邸Click!との間に架かる橋のあたりで、渓谷は南へと直角に曲がり、彼はさらに谷底の渓流沿いを南へと歩いていった。やがて、御留山の南北の谷戸と東西の谷戸とが合流する向こう側(南側)に、藤稲荷社Click!の境内がある小高い丘が見えてくる。
 清水多嘉示は、かなり急な北側の斜面を上って藤稲荷の境内に入ると、本殿裏の木々がまばらな丘上に立ち四囲を見まわした。彼の南側には新宿方面の眺望が開け、北側に目を向けるといましがたまで歩いてきた狭いV字型の渓谷と、相馬邸の敷地である御留山東端の丘が左手(西側)からせり出している光景とが、眼前に展開していたにちがいない。ちなみに、清水多嘉示が画題を探しながら歩いたコースは、明治末に林泉園(当時は近衛家が設置した「落合遊園地」と呼ばれていた)から、藤稲荷のある丘上へとたどった若山牧水Click!の郊外散策コースとまったく同じだ。
 1922年(大正11)という時期は、東京土地住宅Click!による近衛町Click!の開発がスタートしたばかりであり、崖地のある右手の丘上には、すでに三間道路を敷設する工事は始まっていたかもしれないが、いまだ近衛町ならではのオシャレな住宅群Click!は1軒も建設されていない。画面右の丘上に見える、木々が見えない空き地状の空間は、解体された近衛篤麿邸の西端敷地だと思われる。もう少し視点が高ければ、旧・近衛邸の塀の一部が見えたはずだ。のちの近衛町でいえば、木々のない丘上のあたりには酒井邸Click!岡田邸Click!(のち安井曾太郎アトリエClick!)、藤田邸Click!などが建設されるあたりということになる。また、もう少しイーゼルの位置が右手(東側)に寄っていたら、近衛家の敷地と相馬家の敷地との境界、すなわち林泉園からつづく渓谷に架かる小さな橋が見えたかもしれない。
下落合風景02.JPG
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御留山土止め柵.jpg
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 近衛町西端の斜面が、まるで切り通しのように赤土がむき出しになった状態なのは、近衛町開発を推進する東京土地住宅が、のちの地形図などに描かれている擁壁を建設するために手を入れたものか、あるいは画面左手(西側)の御留山(相馬邸)のある丘の急斜面と同様に、土砂が崩れないよう土止めの柵を設けようとしていたものか、なんらかの整備工事中である可能性が高いように思える。ちなみに、ちょうどこの谷間に面した御留山側(相馬邸側)に設置された急斜面(というか崖地)の土止めは、酒井正義様が保存されている写真でハッキリと確認することができる。
 さて、現状の風景と重ねてみると、地形にかなりの変化がある。まず、いちばん大きな変化は、画面の左に描かれた丘(山)が大きく削られ、南北の三間道路が拓かれている点だ。現在では「おとめ山通り」と名づけられたこの坂は、1939年(昭和14)に相馬孟胤Click!が死去したあと、御留山の敷地を買収した東邦生命Click!が1943年(昭和18)ごろまでに敷設したものだ。また、残った丘の大部分も、東邦生命による宅地開発のために次々とひな壇状に均され、描かれているようなこんもりとした山状の風情はなくなってしまった。さらに、清水多嘉示がイーゼルを立てた藤稲荷社のある手前の丘も道路沿いをひな壇状に開発されて、現在では藤稲荷の社殿のある境内を除き、かなり削り取られた状態となっている。でも、戦後の竹田助雄Click!らが推進した「落合秘境」保存運動Click!により、画面右手の下に隠れている弁天池Click!の周辺と、画面左手(西側)へと入りこむ谷戸全体は、1969年(昭和44)に「おとめ山公園」として保存されることになった。
 決定的な地形改造は、戦後に行われたV字型渓谷の埋め立てだろう。東邦生命から土地を買収した大蔵省が、地下鉄丸ノ内線の工事で出た大量の土砂で、林泉園からつづくV字型渓谷のほぼ全域を埋め立て、その上に大蔵省の官舎(アパート)を建設している。したがって、画面の切り通しのような鋭い谷間は消滅し、左手の丘(山)の掘削とあいまって少し凹んだなだらかな斜面ぐらいの風情になってしまった。だが、建ち並んだ同省官舎の老朽化とともに、新宿区が財務省(旧・大蔵省)の敷地を全的に買収し、2014年(平成26)に「おとめ山公園」の大幅な拡張(1.7倍化)が実現している。現在、このV字型の渓谷跡は、雨水を浸透させて地下水脈を豊富にするための、広大な芝生斜面となっている。
下落合風景19450402.jpg
下落合風景05.JPG
下落合風景06.JPG
 清水多嘉示が描いた『下落合風景』は、1923年(大正12)の渡仏前に描かれているせいか、どこか草土社Click!岸田劉生Click!が描いた代々木の切り通しの風景画Click!か、我孫子に集った春陽会の画家たちClick!の作品を想起させるが、1928年(昭和3)の帰国後に描いたとみられる風景画の中にも、描画のタッチを大きく変えた下落合の風景とみられる画面が何点か確認できる。それらの作品を、またつれづれご紹介できればと考えている。

◆写真上:渡仏する前年、1922年(大正11)に制作された清水多嘉示『下落合風景』。
◆写真中上は、ちょうど『下落合風景』と同年に作成された1/3,000地形図にみる御留山の谷戸と描画ポイント。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同所。は、清水多嘉示がイーゼルをすえた藤稲荷社のある画面手前の小丘。
◆写真中下の2枚は、丸ノ内線の土砂で埋め立てられたV字型渓谷とその現状。おとめ山公園拡張時に、芝庭の造成工事の様子をとらえたもの。清水多嘉示の画面でいうと、左手に描かれた丘(山)の中腹から深い渓谷を覗きこんでいることになるが、本来の谷底は埋め立て土砂のはるか下だ。は、画面左手に描かれた丘(山)の急斜面に相馬邸が設置した土止め柵。(提供:酒井正義様) は、清水の画面左手の丘(山)を崩して東邦生命が敷設した現・おとめ山通り。通り左手には、弁天池へと落ちこむ急斜面が残る。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された御留山の谷戸。東邦生命による宅地開発が進み、清水の画面左手に描かれた丘には道路が貫通し、道路の両側はひな壇状に宅地が造成されているのが見える。は、清水の画面手前に描かれた西側へと切れこむ谷戸の入口。左手の小丘の上には、藤稲荷社の本殿屋根の千木や堅魚木が見えている。は、清水の画面では右下の木々に隠れて見えない弁天池。池の左手(西側)には、丘の麓にあたる急斜面がかろうじて残っている。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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近衛文麿への盗聴工作を終えたら敗戦に。 [気になるエトセトラ]

兵務局分室1.JPG
 吉田茂Click!を中心とする、大磯Click!「ヨハンセングループ」Click!の辛工作(スパイ潜入)を終えた東輝次は、次に「コーゲン」こと近衛文麿Click!へのスパイ工作の任務についている。すでに東京は焼け野原であり、戸山ヶ原にあった兵務局分室(ヤマ)Click!も1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で焼け、乙工作(電話盗聴)も辛工作も不可能な状況になっていた。
 そこで、近衛文麿Click!には丁工作(盗聴マイク設置)が選ばれている。だが、近衛文麿は杉並の荻外荘Click!に落ち着かず、各地を転々とするような生活をしていた。天皇へ「敗戦必至」の「近衛上奏文」を提出して以来、陸軍の本土決戦を叫ぶ青年将校たちから、生命をねらわれていると考えていたからだ。東輝次が吉田茂邸へ潜入していた時期に、何度か「上奏文」の打ち合わせで大磯にもやってきていた。
 兵務局分室では、近衛文麿はおもに荻外荘Click!と軽井沢の別荘Click!、そして箱根の麓にある桜井兵五郎の別荘「缶南荘」を往来していることをつかんだ。この時期、下落合(1丁目)436番地(現・下落合3丁目)の近衛邸Click!は空襲で焼失している。そこで、もっとも居住する機会が多いとみられる、箱根の「缶南荘」へ盗聴マイクをしかけることに決めた。近衛の電話を通じて、“反戦和平運動”の動向をつかもうとするもので、1945年(昭和20)6月ごろに具体的な計画が立案されている。
 7月に入ると、神奈川県中郡大根村(現・秦野市)の鶴巻温泉にある旅館「大和屋」に、スパイ工作のベースアジトが設けられ、東輝次は「秘密兵器試験隊」の名目で一員として参加していた。さらに、前線の工作アジトとしては、箱根登山鉄道の箱根湯本駅前にある橋をわたった陸軍病院(現・湯本富士屋ホテル)に設置された。戦争も末期になると、箱根の陸軍病院ばかりでなく箱根にあるほとんどの旅館は、戦地から送還された傷病兵で超満員の状況だった。
 湯本の陸軍病院の1室に、「秘密兵器」の材料と称して盗聴に必要な機材や通信線などが運びこまれると、東輝次を含む3名の工作員は活動を開始した。小田原市入生田の山中にある「缶南荘」へ、山麓から延々と盗聴用の通信線を埋設し、近衛文麿が利用しているとみられる居室の縁の下まで引いていく計画だった。すでに缶南荘へは砂糖やバター、食油などを売りに、工作員のA曹長が「便利屋」として台所から接触し、2棟ある別荘内のおおよそ部屋数や見取図を作成していた。
 1945年(昭和20)7月10日の深夜0時すぎに、3人の工作員は箱根湯本駅前の陸軍病院を抜け出すと、吊り橋の三枚橋をわたり、国道1号線を小田急線の入生田駅方面へと下りはじめた。3人がかたまって歩くと目立つので、バラバラになって国道を下り、入生田の集落手前にある牛頭天王社の境内を集合場所と決めていた。以下、2001年(平成13)に光人社から出版された東輝次『私は吉田茂のスパイだった』から引用してみよう。
兵務局分室2.JPG
兵務局防衛課跡.jpg
  
 前を行く者も、道をはずれたのであろう。ザラザラ葉ずれの音は、もう闇の中に吸われて聞こえて来ない。ジイジイとなく声の音が気味わるい。落葉の中に燐が星のように光っている。/神社脇に出ると、杉の林もまばらになる。かすかながらも光がさし込んで来る。そこまで最初に来た者が、口笛を吹く。他の者はそれを聞きつけて寄って行く。ここで集合を完了するのである。/三人は携行品を点検して、中腹のこの神社前を国道に沿って進むと、前方に水の音が聞こえてくる。これが工作の起点になる貯水地である。/貯水池は三坪あまりの小さいものである。そこから送水管が二本、国道脇にあるポンプ場に送り込まれている。/その送水管の下から、工事をはじめるのである。(中略)軍用電線の端末を二十メートルばかり残して一ヵ所に埋め、それから缶南荘に向かって埋め進めていく。一人が円匙で方向を決め、土を左右に分ける。次が十字鍬でその中を浚える。次が電線を埋めて土をかむせ、その上に落葉や草を植えて行く。これはまったく手の感覚だけではなく、全神経の集中をしなければできない。
  
 貯水池の脇から外灯のまったくない暗闇の山中を、手探りで泥だらけになりながら円匙(スコップ)を手に通信線を埋設していく、気の遠くなるような作業だった。ポンプ小屋の近くからスタートしたのは、同設備から盗聴機器の電源をとる計画だったのだろう。午前5時になると、周辺が明るくなる夏季のため撤収しなければならず、実質ひと晩に5時間弱の作業しかできなかった。この小さな貯水池から、近衛文麿が滞在する「缶南荘」まで約300mもの距離があった。
 通信線の敷設は、缶南荘の周囲をめぐらす1mほどの石垣にはばまれ、その下を突破するのにひと晩かかっている。南西へと拡がる広い芝庭の石垣沿いに、通信線は缶南荘の北側斜面を大きく迂回して、建物の北東側から屋敷の縁の下へ引き入れることにした。芝庭へ入りこむのを避けたのは、番犬に獰猛なシェパードが飼われていたからだ。シェパードは、夜中に東輝次たちの気配を嗅ぎつけると狂ったように吠えたが、彼らは番犬対策に陸軍科学研究所から特別な薬品をもらっていた。以下、同書からつづけて引用してみよう。
箱根湯本陸軍病院1946.jpg
東輝次1944.jpg 貯水池ポンプ小屋.jpg
  
 われわれは戦場における匍匐(ほふく)前進と変わることなき全身をしなければならなかった。匍ったままにて、同じように線を埋めていった。/この芝生に入る日になると、A曹長はかならず訪問して、犬小屋に薬品をふりかけた。それは理科学研究所にて作った一種の媚薬にて、その薬品の臭いをかぐと、犬の生理に変調を来たして交尾期の状態になるのである。だから、いつもの警戒心もなく、邸の外に飛び回るのである。それでないと、われわれは、その芝生に近寄れないのである。/缶南荘の本家は、二棟からできており、渡り廊下にてつながっていた。「コーゲン」の居室は、その裏の方の一棟にて二間からできていた。そして建物は普通の日本家屋のそれではなく、鎌倉時代の神社仏閣のように縁が高くできていた。しかし、それに入る口を見つけねばならない。/一日、その縁の下を逼い回った。なかなか見つからなかった。(中略) 案の定、渡り廊下の下付近にがんどう返し式の出入り口を発見したのである。
  
 東輝次は「理科学研究所」と書いているが、イヌの媚薬を製造したのは陸軍科学研究所の登戸研究所で、「番犬防御法」を開発していた研究チームだ。ソ連国境に配備されている、国境警備隊の番犬用に開発された「警戒犬突破」用の「発情法」薬だった。
 ようやく、缶南荘にいる近衛文麿の居室の縁の下までたどりついた3人だが、使用した通信線は400mに達していた。縁の下には7月27日に到達しているので、工作開始から実に17日間もかかっている。1946年(昭和21)に撮影された空中写真を見ると、缶南荘の前には大きな谷戸が口を開けており、そこへ通信線をわたして山の中腹に建つ缶南荘までたどり着くのは、容易なことではなかっただろう。真鍮パイプの中に通信線を通し、渓流をふたつも越えなければならなかった。翌7月28日、近衛が滞在する二間を分ける敷居の下に支柱となる木材をかませ、マイクロフォンの設置を終えている。
近衛文麿.jpg 桜井兵五郎.jpg
貯水池1946.jpg
 こうして、小さな貯水池のそばにある番小屋へ受信装置を設置し、近衛文麿が現れるのを待ちかまえた。だが、近衛は8月14日まで一度も缶南荘に姿を見せなかった。この日の夜、東輝次たちは早くも敗戦を知り、虚しさを抱きながら翌15日の朝、急いで東京へともどると新宿の伊勢丹前で天皇のラジオ放送を聞いている。そして、ただちに戸山ヶ原にある兵務局の代用分室となった厩舎にもどると、膨大な機密工作の書類を焼却しはじめた。炎暑の中、すべての書類を灰にするまで丸4日もかかっている。

◆写真上:戸山ヶ原の兵務局分室があったあたり(左手)の現状で、右側の浅い穴は敗戦直後に防疫研究室(731部隊本拠地)による人体標本(人骨)埋設証言の発掘調査跡。
◆写真中上は、いまも残る近衛騎兵連隊の馬場と兵務局分室の間に遮蔽目的で築かれた土塁。は、国立国際医療センター(旧・陸軍第一衛戍病院)の上階から撮影した大久保通り沿いの兵務局防衛課跡(矢印の集合住宅あたり)で、向かいのビルは総務省統計局。
◆写真中下は、1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる箱根湯本駅前の旧・陸軍病院全景。下左は、1944年(昭和19)に撮影された軍人に見えない長髪の東輝次。下右は、いまも残る貯水池と箱根登山鉄道まで下る2本の送水パイプ。
◆写真下上左は、荻外荘応接室の近衛文麿。上右は、桜井兵五郎。は、1946年(昭和21)の空中写真に貯水池から缶南荘までの通信線を埋設した想定ルート。


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旧・吉屋信子邸が「撃墜王」の実家に。 [気になる下落合]

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 今年(2017年)の5月11日、京都の洛中Click!西陣局から投函された5月5日付けの1枚のハガキを受けとった。京都から新宿まで、配達に6日もかかっているのは、宛て名書きの住所が曖昧だったからだ。「東京都新宿区下落合/下落合公園近く/落合道人〇〇〇〇様」、地番が書かれていないまるで大正時代に出された下落合住民あてのハガキのようだけれど、なんとか迷子にならず手もとにとどいた。w 差出人名が記されておらず、郵便局では下落合の配達先を一所懸命に探したものだろう。ちなみに、わたしの家は「下落合公園」Click!よりも、「おとめ山公園」Click!のほうがかなり近い。
 ハガキに記された内容は、戦時中に陸軍航空隊の調布基地に勤務していた、B29の迎撃パイロットに関する情報だった。それによれば、下落合4丁目2108番地(現・中井2丁目)にあった吉屋信子邸Click!(1926~1935年住)が、敗戦直後より元・陸軍航空隊飛行244戦隊の隊長・小林照彦少佐の実家(大川家)になっていたというものだった。同時に、その詳細を記した書籍として、1970年(昭和45)に養神書院から出版された小林千恵子『ひこうぐも』が紹介され、該当ページまでが記載されていた。
 さっそく、同書を入手して参照してみると、大川家は小林照彦の妻である著者の実家であることがわかり、しかも1945年(昭和20)4月13日夜半から翌朝にかけての第1次山手空襲Click!の際は、上落合の南側である東中野にあった実家で罹災していることも判明した。そして、B29を迎撃(小林照彦日記では「邀撃(ようげき)」)していた飛行第244戦隊の空戦の様子も詳しく知ることができた。10,000m近くの高々度で飛来するB29を迎え撃つため、小林照彦が操縦していたのは三式戦闘機、愛称で「飛燕」と呼ばれた陸軍の新鋭機だった。
 戦闘の様子を、小林千恵子『ひこうぐも』(光人社版)に収録された小林照彦日記より、1944年(昭和19)12月3日の記述から引用してみよう。
  
 敵機大規模に関東地区に侵入す。邀撃のため離陸せるも一撃の下に撃墜さる。発動機に受弾せるなり。/予備機に依り、離陸せるも、完全武装のため、高々度に上れず(七五〇〇メートル以上不能)、銚子沖合に待機せるも、敵を補足するに至らず。/本日四宮中尉以下、特別攻撃隊はがくれ隊員勇戦せり。B29に体当りののち、片翼よく帰還せる四宮中尉。正面衝突ののち、落下傘降下せる板垣伍長。B29の尾部を噛り不時着生還せる中野伍長。全員生還せり。愉快この上もなし。/部隊の戦果。撃墜六機、撃破二機なり。
  
 大きな図体のB29に、小鳥のような戦闘機が機銃弾を浴びせてもなかなか墜ちない。機銃弾を撃ち尽くすと、自身の機体をB29に体当たりさせて撃墜していた様子がわかる。パイロットは、機体をB29めがけて巧みに操縦すると、衝突の直前にコックピットからパラシュートで脱出していた。脱出するタイミングを誤ると、衝突に巻きこまれて生還できなくなる、きわどい賭けのような体当たり攻撃だった。
 以前、山手空襲の際に長崎町にある仲の湯Click!(のち久の湯)の釜場に落ちてきた、日本の迎撃戦闘機Click!について書いたことがあるが、機体にパイロットの姿はなかった。おそらく、上記の「はがくれ隊」のような“特攻”を試みて脱出したものだろう。ただし、この体当たり攻撃は効果が大きい反面、貴重な戦闘機を失う消耗戦でもあった。大本営が「本土決戦」を意識しはじめるとともに、戦闘機を温存するためB29への迎撃は抑えられるようになる。
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 戦闘機をまとめて戦隊で出撃させるのではなく、少数機の飛行隊ごとに出撃させる散発的な迎撃作戦をとるようになると、逆にB29に加え護衛の戦闘機隊(F6F・P51など)が増えるにつれ、多勢に無勢で戦果を上げにくくなっていった。小林照彦は戦闘の現場を知らない司令部の命令に、強い怒りをぶつけている。
  
 昨日の戦斗に於て損害大、戦果僅少なりし所以のものは、部隊戦斗に徹せざりしに依る。少くとも戦隊は、纏りて上り、纏りて戦斗すべきなり。各飛行隊ごとに出動せしめたるは、対戦戦斗の真骨頂を知らざる愚劣極まる指揮たり。師団の戦斗指導の拙劣なりしこと、論外なり。B29に対する邀撃と特色全く異なるを以て、南方に於ける戦訓を活かし、戦隊は常に纏りて、戦斗し得る如く戦斗指導すべきなり。
  
 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲のとき、著者の小林千恵子は東中野にある実家に身を寄せていた。夫の小林照彦は、前日の4月12日に敵機と交戦して撃墜され、右足に盲貫創を受けて13日夜半の空襲では出撃できなかった。同日の空襲の様子を、同書の小林千恵子の文章から引用してみよう。
  
 妹は、ときどき(防空壕の)入口の戸を開けて父を呼んだ。そのうち、高射砲の音がし始めた。敵機がいよいよ来襲してきたらしい。やがて下腹に響く爆音で、大編隊の来襲と壕の中でも知られた。/「お父さん、危ないから早く中に入って、……早く」/妹と私は、夢中で叫んだ。もうすでに、爆音だけとは見えない投下弾のすさまじい響きが、地面を震わせていた。父がやっと、壕に飛び込んで、入口の戸を締めた瞬間だった。頭上で、/「ばばーん」/と、耳をつんざく大音響がした。同時に、あちこちから、/「焼夷弾落下! 焼夷弾落下!」/狂ったような叫び声が揚がった。人々が壕から飛び出したらしい。/「落ちた! 焼夷弾が落ちた!」/父が、いち早く壕から飛び出した。続いて妹と私が。(カッコ内引用者註)
  
 小林千恵子は、空襲を「四月十五日」と書いているが、4月13日夜から4月14日未明の記憶ちがいだろう。この日、東中野Click!は焦土となり彼女の実家も焼け落ちた。
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 翌朝、東中野から中央線で新宿に向かうと、大久保から先は爆撃の被害で不通になっており、一家は父親の会社がある新宿まで歩くことになった。その途中で、調布の244戦隊マークをつけた軍服を着る士官たちと出会う。兵士を率いていたのは、同隊の家族が多く住む東中野の様子を視察しにきた、整備隊に勤務する芥川比呂志Click!少尉だった。
 1ヶ月あまりののち、5月25日夜半の第2次山手空襲Click!のとき、小林照彦は調布基地から鹿児島の知覧基地へと移り、すでに東京の空には不在だった。同日に「義号作戦」が発動され、知覧から飛び立つ特攻隊を護衛するのが彼の任務となっていた。搭乗機も、三式戦(飛燕)から五式戦(愛称なし)へと変わっている。このあと、小林夫妻は運よく8月15日まで生きのび、やがて東京へともどってくることになる。
 下落合が登場するのは、小林千恵子の実家である市川と東中野の家が焼けてから、新しい住まいを探して移るあたりからだ。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 (1946年)八月に入ると、夫は真剣に就職口を探し始めた。家の経済もいよいよ底が見えてきたからでもある。私は、/「お父さまにお願いしてみたら」/と、何度か夫をうながした。父は下落合の高台に家具付きの家をみつけて移っていた。作家の吉屋信子女史の建てた家だそうで、市川の家とはおよそ対照的な洋風の家だった。(カッコ内引用者註)
  
 下落合(4丁目)2108番地に建っていた旧・吉屋信子邸Click!は、かわいいテラスのあるバンガロー風で平屋造りの洋館だったが、二度にわたる山手空襲からも焼け残っていた。彼女が1935年(昭和10)に転居したあと、何度か手が加えられているのかもしれないが、空中写真を年代順に参照する限りは、もと屋根のかたちをしているように見える。
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 さて、戦時中に調布基地にいた飛行第244戦隊の小林照彦を取材し、東京朝日新聞に記事を書いていたのは、同紙の矢田喜美雄Click!記者だった。矢田記者もまた、戦後になると下山定則国鉄総裁の謀殺説を追って、南原繁Click!を中心とした「下山事件研究会」のメンバーが住む下落合へと通ってくることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:調布基地への爆撃で吹き飛ばされたとみられる、調布飛行場の三式戦闘機(飛燕)。敗戦直後の撮影と思われ、付近の子どもが翼に乗って遊んでいる。
◆写真中上は、B29迎撃の「飛燕」を主軸とした飛行戦隊。は、機体に撃墜マークが描かれた小林照彦機。B29と飛燕が重なるマークは、体当たり攻撃による撃墜を意味する。下左は、1970年(昭和45)出版の小林千恵子『ひこうぐも』(光人社版)。下右は、1945年(昭和20)1月27日の体当たり攻撃で鼻を負傷した小林照彦。
◆写真中下は、調布飛行場で撮影された飛行244戦隊の記念写真で印が小林照彦。は、高々度で飛来するB29の迎撃戦闘機として多用された三式戦闘機(飛燕)。は、1944年(昭和19)の空中写真にみる陸軍の調布飛行場。
◆写真下は、1929年(昭和4)に撮影された吉屋信子邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・吉屋信子邸。は、1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」にみる小林千恵子の実家である大川邸。作家・船山馨邸Click!の3軒南隣り、髙島秀之様Click!の2軒南隣りにあたる。

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の落合散歩。 [気になる下落合]

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 わたしが、初めてラフカディオ・ハーン(小泉八雲Click!)の原文に接したのは、中学2年生のときだった。当時、英語の授業に使われていた教科書『New prince readers』(開隆堂)に、ハーンの『YUKI-ONNA』Click!が収録されていたからだ。
 考えてみれば、わたしと“出雲”とのつながりは、江戸東京総鎮守のオオクニヌシは別格にしても、おもに松江や出雲のフォークロアの語りべである妻の小泉セツから採集した、ハーンの『KWAIDAN(怪談)』が最初だったかもしれない。その後も、地域の総鎮守が出雲神のクシナダヒメを奉る氷川明神社Click!の下落合に住んだり、その目白崖線から出土した出雲の碧玉勾玉Click!を偶然にも譲り受けてお守りペンダントにするなど、なぜか代々が江戸東京地方のわたしと出雲地方Click!との因縁は限りなく濃い。
 中学校の英語授業で『YUKI-ONNA』を習ったとき、最後にユキが正体を現して、般若のような顔をした雪女へと変貌する際、「It was I-I-I……」といって天井までとどくような高さで浮遊するシーンは、その挿画とともにいまでも強烈な印象に残っている。(誰の挿画だったのだろうか?) このころから、おそらく文楽のガブClick!好きに加え、わたしはハーンの雪女好きになったのだろう。当時、大好きでとても気の合う女子が、わたしの真うしろの席にいて、なにかあると「It was I-I-I……」といっては、ふたりでじゃれ合い笑い転げていた。彼女はわたしとちがって、学校のお勉強がメチャクチャできたので屈指の進学高校に合格し、おそらく東大にでも進んでいるのだろう。
 さて、『YUKI-ONNA』の著者であるラフカディオ・ハーン(小泉八雲Click!)は晩年、いまわたしのいる下落合からわずか2.5kmほど南に下がった、大久保村西大久保265番地に住んでいた。同地番の家に転居してきたのは、1902年(明治35)3月のことで、それから死去する1904年(明治37)9月26日までそこで暮らしている。それ以前は、同じ新宿区内の市谷富久町21番地に、1896年(明治29)9月から1902年(明治35)3月まで住んでいた。現在、大久保小学校の西側に「小泉八雲記念公園」が開園しているが、同公園は西大久保265番地の小泉邸跡ではなく、小泉邸から北へ70mほど離れた西大久保245~246番地あたりに設置されているとみられる。西大久保265番地は、明治期から大久保尋常小学校の南側に接する敷地の地番だ。
 小泉八雲が落合地域を歩いたのは、西大久保265番地の自宅から新井薬師Click!へ詣でるのが、晩年の散歩コースのひとつになっていたからだ。セツ夫人を同伴したと思われる散歩は、直線距離でさえ片道4kmほどもあるが、明治人にとってはさほどの距離には感じなかったのだろう。落合地域から上野の東京美術学校Click!や谷中の太平洋画会研究所Click!まで、平気で歩いていくような時代だった。夏目漱石Click!でさえ、牛込の喜久井町から中央線沿いの寺田寅彦Click!が住んでいた百人町まで、頻繁に散歩をしている。
 そのときの様子を、2014年(平成26)に講談社から出版された小泉凡『怪談四代記―八雲のいたずら―』(講談社文庫版)から引用してみよう。
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 ハーンはセツと一緒に散歩をして新井薬師あたりまで出かけた時、落合の火葬場の煙突が見えると、自分も間もなくあそこから煙になって出るのだと語っていた。そして垣の破れ草が生い茂った小さな破れ寺への埋葬を心から願う人だった。/幸いこの発作は、大事には至らなかった。行水をしたいといって、風呂場で水行水をし、さらにウィスキーが飲みたいと言うので、心配しつつもセツは水割りをつくり、グラスを手渡した。アイリッシュのハーンにとってウィスキーはとても大切な飲み物だった。じっさい、アイルランド語ではウィスキーは「命の水」という意味である。
  
 心臓の悪い患者が、水を浴びてウィスキーをひっかけるなど、今日の医者が聞いたら目をむきそうな行為だが、それが八雲にとっては心が安らいでリラックスでき、落ち着きをとりもどせる最善の療法だったのだろう。
 散歩の途中、新井薬師までの道程で落合火葬場Click!(現・落合斎場Click!)の煙突を見ていることから、小泉八雲の散歩コースがおよそ透けて見える。まず、西大久保の自邸を出た八雲夫妻は、邸前にあった大久保小学校の西側接道を北上すると、大久保通りを左折した。そして、そのまま通りを西へと歩き、およそ10年後に設置される百人町駅Click!(現・新大久保駅)あたりから山手線を越え、百人町へと出た。当時は、いまだ江戸期の御家人たち(鉄砲組百人隊)が栽培していた名残りである、大久保のツツジ園Click!があちこちに見られる風情だったろう。
 百人町の整然とした南北道の1本を真北へ抜けると、山手線西側の戸山ヶ原Click!(当時は山手線東側の射撃場に対して着弾地Click!と呼ばれていた)に突き当たるが、陸軍科学研究所Click!や陸軍技術本部がいまだ移転してきていない当時、戸山ヶ原へ入り斜めに横断するのは、たやすいことだったにちがいない。
 山手線の西側で陸軍が射撃演習Click!をする日は、周辺の住民や子どもたちが散歩や遊びで入りこまないよう、そのつど高い旗竿に赤旗が掲げられていた時代だ。その赤旗Click!の有無を確かめながら、八雲夫妻は戸山ヶ原を百人町から小滝橋Click!の近くまで、斜めに突っ切るように歩いていった。のちの第1次世界大戦がはじまる10年以上前の時代なので、陸軍の塹壕戦演習Click!もいまだ大規模には行われておらず、戸山ヶ原の丘陵面は掘り返された跡もなく、八雲夫妻は歩きやすかったにちがいない。
西大久保地形図1910.jpg
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 やがて、戸山ヶ原の高圧鉄塔がつづく北西端から小滝橋通りへと出ると、できたばかりの豊多摩病院Click!の建物を目前に、牛がのんびり草をはむゲルンジー牧場Click!を左手に見ながら、ほどなく小滝橋を渡って上高田へと向かう街道(現・早稲田通り)へと入った。街道の左手には、華洲園Click!(お花畑)の切り立った崖地(小滝台Click!)があり、右手にはいまだ拡幅で崩されていない上落合の土手がつづく、切り通しClick!のような風情だったろう。それを北へカーブした道なりに西へたどると、途中で街道の右手に落合富士Click!が築かれた大塚浅間社Click!の境内をすぎるころから、上落合897番地にある落合火葬場の煙突が見えはじめたと思われる。
 しばらく歩いて、上落合643番地界隈の角を右折すると、落合火葬場が目の前に迫ってくる。火葬場を右手に見て、そのまま街道を西北西へとたどると、すぐに宝仙寺(通称・宝仙禅寺のことで、のち1922年以降は萬昌院功運寺Click!となる境内一帯)の門前へと出た。八雲夫妻は休憩がてら、宝仙禅寺の境内へ入り方丈に立ち寄っただろうか。
 宝仙禅寺をすぎると、すぐに街道は二股に分かれている。その左手の道を進むと、商店や人家が並ぶ上高田でもいちばんにぎやかな通りを経て、およそ800mほどで新井薬師の参道へ到着する。おそらく、八雲夫妻は新井薬師の門前に並ぶ茶屋で、ゆっくり休息をとっただろう。夏目漱石(三四郎Click!)は、“冒険心”を起こして帰り道を変え、新井薬師から上落合を抜けて道に迷い、下落合の雑司ヶ谷道Click!を歩きながらようやく山手線の線路土手までたどり着いているが、八雲夫妻は往路とまったく同じ道筋を帰途につき、迷わず確実に西大久保の自邸へ帰りついたと思われる。
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 もし、八雲夫妻が上高田の街道沿いにあった茶店で一服していれば、あるいは宝仙禅寺で休憩がてら住職と話をする機会があったとすれば、上高田は狐狸Click!幽霊Click!の怪談・奇譚が豊富に語り継がれている地域なので、さっそく採取したのかもしれない。そして、もう少し八雲が長生きしていたら、『KWAIDAN2』が編纂されていただろうか。上高田地域に眠るフォークロア、怪談・奇譚が中野区教育委員会の手で本格的に採取されはじめたのは、八雲の死後から80年ほどたった1980年代後半になってからのことだ。

◆写真上:西大久保265番地(現・大久保1丁目)にある、小泉八雲旧居跡の記念碑。
◆写真中上は、1904年(明治37)に米国で出版された『KEAIDAN』(Houghton, Mifflin & Co./)とラフスディオ・ハーン(小泉八雲/)。中左は、1776年(安永4)に描かれた鳥山石燕『図画百鬼夜行』の「雪女」。中右は、2014年(平成26)に講談社から出版された小泉凡『怪談四代記―八雲のいたずら―』(文庫版)。は、いまでも「雪女」を演じて歴代最恐だと思う『怪談雪女郎』(大映/1968年)の藤村志保。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる小泉八雲・セツ夫妻の落合地域における想定散歩コース。は、梅照院(新井薬師)の山門。
◆写真下:小泉八雲が愛してやまなかった、1970年代半ばに撮影の松江の街並み。は、小泉八雲の旧居に連なる松江城北側の北堀町武家屋敷街。は、7代目藩主・松平不昧が通った茶室・明々庵から眺めた松江城の天守。は、旧盆に行われる大橋川の灯籠流し。松江大橋南詰めあたりからの撮影で、前方の橋が新しい宍道湖大橋。

おまけ:竹田助雄の「落合新聞」Click!『御禁止山』Click!を読んでいると、「下落合のヒグラシ」が頻繁に登場する。その鳴き声は、静寂な風情が感じられて好きのだけれど、夜明けから家の近くで鳴かれるととってもうるさい。w

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なんだか変だよ「大東京の味覚」の味覚。 [気になるエトセトラ]

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 1933年(昭和8)に博文館から出版された『大東京写真案内』Click!には、東京35区の写真とともに東京の“うまいもん”Click!を出す食物屋(くいもんや=下町方言)が紹介されている。昭和初期に有名だった、代表的な店が紹介されているのだけれど、「牛すき焼き」Click!と「牛鍋」の区別がまったくついてないし、江戸後期の深川発祥である魚介類の練り物鍋=「おでん」の紹介が丸ごと欠落しているし、「柳光亭」Click!を「浅草」と書くなど、著者の感覚に江戸東京の匂いClick!がしないのだ。
 ちなみに、「柳光亭」は神田川に架かる浅草橋の近くにあるけれど、浅草橋はもともと千代田城外濠の浅草見附(御門)Click!跡の名称であって、地元では誰もその地域を「浅草」とは呼ばない。浅草から2kmも南へ下り、駒形や蔵前のさらに南に位置する同料亭を呼ぶとすれば、「柳橋の柳光亭」が正しいだろう。江戸期も昭和期も、また現代も「浅草」はもっとずっと北側の概念なのだ。ご近所でたとえれば、行政区画が高田町エリアにあった雑司ヶ谷鬼子母神Click!のことを、誰も「高田鬼子母神」と呼ばないのと同じだ。高田地域は、雑司ヶ谷の南西ととらえるのが昔からの地元の感覚であり“お約束”だろう。
 さて、筆名がないので誰が書いているのかは不明だが、東京の飲食店を紹介する「大東京の味覚」の一文を『大東京写真案内』から引用してみよう。
  
 夥しい「東京食物案内記」の記すところによると、先ず和食では山王台の星ヶ丘茶寮、浅草の柳光亭、築地の八百善。洋食では東洋軒に精養軒、帝国ホテルのグリルに中央亭にボントンか二葉、支那料理では日比谷の山水楼に虎の門の晩翠軒、建物の凄い目黒の雅叙園、朝鮮料理では赤坂山王下の名月、大阪料理の浜作に京都料理の栖鳳等々、挙って推奨されてゐる有名店ではあるが、洋食や支那、朝鮮、上方料理に江戸の風味を味ひ得る筈は勿論ないし、星ヶ丘茶寮や八百善や柳光亭のお料理では、余りに非大衆的で、物々しくて、億劫で、手軽には味ひ兼ねると云つた有様。
  
 紹介されている店は、いまは潰れてなくなってしまったものや、現在でもがんばって営業をつづけている店もある。わたしが子どものころまで残っていて、親に連れていってもらった店もあれば、わたしの生まれる前に閉店したところもある。著者が「余りに非大衆的」と書く、江戸期からの八百善や星ヶ丘茶寮は知らないが、柳橋の柳光亭へは親父と出かけたことがある。千代田小学校Click!の同級生で、のちに柳橋芸者になった女性の引退の宴席Click!へ招かれたとき、なぜか親父はわたしを連れていった。
 子どものうろ憶えなので、それほど正確ではないかもしれないが、著者が「余りに非大衆的」と書くほど、目黒雅叙園Click!のように浮世離れした悪趣味で野暮な雰囲気(もともと郊外温泉風呂の目黒雅叙園の場合は、あえて非日常的なそれを狙っている)でも、特別な風情でもなかった。当時もいまも(城)下町Click!にあるような、ふつうの料亭であり、刺身料理は驚くほど新鮮で美味だったような憶えがあるが、出される膳もくどく凝ったものではなかったように思う。著者は、一度も柳光亭を利用したことがないのではないか? もっとも、わたしが同料亭で飲食したのは戦後1960年代ことであり、戦前は店の風情(営業方針)が大きく異なっていた可能性もあるのだが……。
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 つづけて、寿司の一文を同書から引用してみよう。
  
 寿しは屋台に限るとよく云はれる。その朝仕入れた材料をその日の中に使つてしまつて、しかもお客のすぐ眼の前で握る、お客は直ぐそれをつまんで口に投込む。このリレーがうまく行けば行く程通(つう)と呼ばれたもので、そのつまみ方に又コツがある。(中略) もっともこれは一瞬の事で、すし屋の親爺が握る、手にとる、口へ投込む、握る、手にとる、投込むと、調子よくゆかねばほんたうのすし通(つう)とは云はれない。馬鹿に面倒な話であるが、かく程迄になれなくとも、たとへ真中に包丁を入れて貰つて、割箸でつまんで醤油に浸して召上るとしても、ほんたうに生きのいゝ中とろを、程よく握つた庄内米の御飯にのつけて、所謂煮きりのつけ醤油に味をつけて食つた味は、凡そ東京の味覚の中でも随一であらう。
  
 なにを勘ちがいしているのか、別に寿司屋に入って「親爺」との間でせわしない「リレー」などしやしない。w 自分のペースで食べて、味わえばいいだけの話だ。講談や時代劇に登場する、昼間はなにかと忙しい日雇取(ひようとり)か、博徒や地廻りの輩じゃあるまいし、出入りの合い間にでも寿司を食っているのだろうか?
 1日じゅう外働きの職人に多い、冷えきった身体を温めるための「熱い風呂が好き!」Click!な習慣(木場を抱える深川あたりの冬場の習慣?)を、商人や武家を問わず「江戸っ子」(町名+“っ子”はいうが、こんな茫洋としたくくり方はしない)全体のイメージに敷衍化したのと同様、あるいは江戸期から下町の名物だった、すき焼き料理(鴨肉+豆腐や春菊・長ネギなど江戸近郊野菜の具が多かった)について、明治以降の牛鍋をほんのチラ見しただけで、「東京のすき焼きは汁を先に張る」などというトンチンカンな言質と同じように、架空の「江戸東京人」のイメージをつくってやしないだろうか?
 自身の出身地の文化や習俗、趣味、嗜好、生活と比べ、どうしても合わないし理解できない江戸東京地方の事象は、ほんの一部の街の慣習や一部の人々の嗜好などを、ことさら戯画化して揶揄しながら「笑いもん」にし、江戸東京の全域へとスリカエて敷衍化する、明治以降にさんざんやられてきた、いつもの“手”ではなかろうか。「江戸っ子」は「宵越しの銭は持たない」などと、バカをいっちゃいけない。確かに気風(きっぷ)や気前はいいかもしれないが、そんなことをしていれば江戸後期にはロンドンと並ぶ世界最大の都市など、とても構築できやしないのは自明のことだろう。
 文中で盛んに「通(つう)」という言葉を多用しているけれど、著者の記述に反して(城)下町の地元ではマグロの赤身は食べるが、もちろん「中とろ」の脂身など口にしない。これは、わたしが子どものころまで残っていた頑固な習慣なので、1933年(昭和8)の当時ならなおさら厳格に、江戸東京の食文化や美意識として守られていたはずだ。現代では信じられないかもしれないが、マグロの脂身(いわゆるトロ)は棄てるかネコ用のエサだった。ネコのエサを食う「通」など、かつて見たことも聞いたこともないが、親父は頑なに口に入れなかったものの、わたしは近ごろ口にするので、おそらく「通」ではないのだろう。
 つづいて、蕎麦について書いている箇所を同書より引用してみよう。
  
 そばも亦東京に限る。「そばは信州」と云はれ、現に軽井沢駅プラツトホームの一名物でもあるが、あの熱気舌を焼く美味さは夏なほ寒き彼地の気候の然らしめる所の美味さであつて、ほんたうのうまさとは云へまい。「そばは信州」とは、信州がそばの産地である謂であり、その食料としてのうまさは東京に勝るところはまづないと云つてよからう。そのそばももりに限る。厳冬猶冷たいもりに限る。(中略) もつともこれは手打ちのそばのことで機械うちだとうまくゆかない。
  
 著者は、蕎麦Click!は「東京に限る」「東京に勝るところはまづない」などと書いているけれど、そんなことはない。w 江戸東京蕎麦の故郷である信州の蕎麦はもちろん、野趣あふれる香ばしい太めの南部(岩手)蕎麦、こちらでは味わえない独特な風味の山陰(特に出雲)蕎麦など、それぞれに独自の味わいや趣きがあって美味しい。著者の感覚は、妙なところで無理やり「東京人」を気どっていて、キザ(気障り)で嫌味で不愉快だ。
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 ちょっと余談だが、最近「手打ち蕎麦」と銘打つ蕎麦屋があちこちにでき、期待して入るのだけれどガッカリするケースが多い。「腰がある」蕎麦を「硬い」蕎麦と勘ちがいしているのだろうか、もぐもぐグチャグチャClick!と汚らしく何度も噛まなければ、のどを通らないような蕎麦を「手打ち蕎麦」だと思っているフシさえ見える。そのようなおかしな店は、(城)下町よりも乃手のほうが多いのが現状だろうか。
 そのほか、「う」Click!や天ぷら、鍋料理、鳥料理などなど、江戸東京の食べ物をずいぶん羅列していろいろ書いているのだけれど、前述のように「鍋」料理と「すき焼き」料理の区別さえつかない点や、深川の生簀料理で出た余り魚から派生した、江戸期由来の“おでん”がリストにさえないなど、どこかで地元の感覚との大きなズレを感じるのだ。
 キリがないので、最後に天ぷらについて同書から引用してみよう。
  
 天ぷらは何と云つてもエビに止めを差す。前の独逸大使ゾルフさんが推賞したのも、チヤツプリンが感嘆の余り大切なステツキを折つたのもこのエビの天ぷらであつたと云ふ。エビの最上は東京湾一帯の車エビ、それも三寸五分から四寸の大さのもので、目方は六匁乃至八匁のもの、(中略) 衣のとき工合、つけ方、火加減、油の煮え工合、それから揚げ方に至つては、これも亦曰く言ひ難しで、中々の修練が必要であることは勿論である。
  
 エビの天ぷらをものすごく称揚しているけれど、太平洋へ口を開けて新鮮な、ありとあらゆる魚がふんだんに手に入る江戸前の天ぷらといえば、エビなどよりもまずキスやサヨリ、マハゼなどの活きのいい白身魚か、アナゴが挙げられるのではなかろうか。欧米人が好きだからといって、地元でも食の優先順位が高いとは限らない。
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 天ぷら=エビがことさら“高級”で“重視”されるようになったのは、わたしの認識によれば戦後のことであって、著者が書く時代の江戸東京の地元では、“魚”ではないエビのプライオリティはもっと低かったはずだ。芝沖で採れた、細かな芝エビを混ぜたかき揚げ天なら、もう少し人気があって順位が上かもしれないが……。
 そのほか洋食屋やベーカリー、水菓子屋Click!(フルーツ店)、菓子屋(喫茶店)などの紹介や捉え方もなんとなくチグハグで違和感をおぼえる。少なくともわたしの感覚からすると、「大東京の味覚」の味覚は少なからず、おかしいとこだらけのように映るのだ。

◆写真上:いまのところ近所の「う」では、気に入っている高田馬場「愛川」Click!。店主の体調がすぐれないのか、ずいぶん前から予約を入れないとなかなか食べられない。
◆写真中上:以下、ざっかけない東京の“うまいもん”。からへ寿司、明治以降は牛肉も加わる日本橋の鴨すき焼き、牛すき焼きと混同される先に汁を張った牛鍋、江戸期からアオジシ(ニホンカモシカ)とともに大江戸ではおなじみのシシ鍋=“ももんじ”Click!
◆写真中下からへ小腹満たしに最適な蕎麦、深川生まれのおでん、同じく柳川、明治期に早稲田の学生街で生まれた和洋のカツ丼Click!。ちなみに、おでんの具に魚介類の微妙な風味のちがいを台なしにする、獣肉を入れるのは絶対に許せない。
◆写真下からサツマイモClick!以外ならたいがい好きな天ぷら、江戸期からの吉原通いに人気があった蹴とばし屋の桜鍋、同じく江戸下谷(上野)のケコロ(岡場所)通いから生まれたやき鳥Click!。おまけのデザートは、滝沢馬琴の超ヲタクぶりで知られる向島は長命寺仕様の、大江戸はオオシマザクラの葉をつかった元祖桜餅Click!

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街の情報収集としての“こころづけ”。 [気になるエトセトラ]

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 今和次郎Click!は、よく「チツプ」あるいは「テイツプ」という言葉をつかう。昭和初期の当時は、チップという言葉が目新しく、流行語になっていたものだろうか。カフェやミルクホールの女給さんへ、サービスをよくしてもらうためにわたすのはチップでいいのかもしれないが、畳敷きの座敷がある和風の料理屋や料亭の仲居さんへは、やはりチップとはいわずに「こころづけ」と呼ぶほうがしっくりくるだろう。
 今和次郎は、考現学Click!研究のためにあちこちのカフェや料理屋に出入りしていたらしく、東京各地の盛り場で「チップ」の詳しい額を記録している。きっと、「研究費」だけで膨大な出費を余儀なくされただろう。1929年(昭和4)に中央公論社から出版された、今和次郎『新版大東京案内』から引用してみよう。
  
 銀座のカフエーで、一番名士のやつて来るのは、先づこゝの店だらう。それだけに、チツプを一円やつても、(銀座の表通りのカフエーに於ては、チツプの一円は常識である)軽く一礼する位のもので、梯子段のところ迄送つて貰ふやうなことは、一年通つても一円級では先づ絶望である。(中略) ……女給達も一様に藍色の袷衣を慎しやかに身に着けて、皆んなおとなしい上に親切である。そして彼女達が卑しく物欲しさうな顔を見せぬので、遠慮や気兼ねをしないで本当に気持よくビールを飲んで来られるのである。こゝのライスカレーは銀座では比較的評判である。チツプを五十銭置いて心からお礼をいはれるのは、このカフエー位であらう。
  
 女給(ホステス)さん相手ではないが、子どものころ親に連れられて芝居や散歩の帰りなどに、(城)下町Click!の料理屋や料亭へ出かけると、世話をしてくれる仲居さんへ親父は「チップ」ならぬ「こころづけ」を必ず手わたしていた。子どもなので額は知らなかったが、1960~70年代にかけてのころは、息抜きに喫茶店でコーヒーが2~3杯飲めるぐらいの額、すなわち60年代は岩倉具視(500円札)が、70年代は伊藤博文(1,000円札)が活躍したのではないかと思う。すると、料理屋や料亭の座敷を担当する仲居さんは、ほとんど部屋に付きっきりとなり、はりきって世話を焼いてくれることになる。
 でも、この「こころづけ」は、よりよいサービスを受けるための戦前からつづく料理屋や料亭での伝統的な慣習、あるいは客がよりていねいに面倒をみてもらうための仲居さんへの賄賂という意味合いを超えて、親父の理由にはもうひとつ別の側面があった。料理屋や料亭の仲居さんほど、ご近所はもちろん周辺の街の最新情報に詳しい人物はいなかったからだ。商売がら、さまざまな街の情報やウワサ話が仲居さんの耳へと入ってくる。もちろん、顧客の私的な事情や街に住む人々の極端なプライバシーなどは、口がかたい商売なので話してはくれないが、差しさわりのない範囲での街の情報や変化、推移についてはなんでも詳しく教えてくれる。
 どこそこの店は先代が糖尿で入院して、昨年から実質6代目が継いでいるだとか、どこそこの旅館が倒産して跡地が雑居ビルになってしまったとか、大川(隅田川)と神田川の悪臭で船宿がまたひとつ潰れたとか、あそこの洋食屋が流行って銀行から借金をし、今度は自宅を5階建てのビルにするらしいとか、どこそこの店でボヤ騒ぎがあったばかりで、消火のときに水が入り先祖伝来の看板が台なしになったとか、とうとう柳橋の芸者が30人を切り辰巳芸者よりも数が少なくなってしまった……とか、日本橋とその周辺域で流れているずいぶん細かな情報までが、仲居さんの口を通じてもたらされた。
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 戦前・戦中の話になると、仲居さんではわからないので店主が前かけを外して懐かしそうに出てきては、しばらく界隈の変貌を感慨無量に話しこんでいった。また、共通の友人知人も判明したりして、親父にとっては面白い時間だったのだろう。そして、たいがい東京オリンピック(1964年)前後からこっち、ずっと「郊外」(東京西部や東部)へ引(し)っ越す人が止まらなくて、店もいつまでつづけられるかわからない……というような話で、最後は落ち着くことになる。ちょうど、わたしの子ども時代は中央区の人口が、住環境の悪化により30万人から半減してしまうような時期で、河川や空気の汚濁に加え、「開発」という名の昔からつづく住宅街の破壊や、むやみやたらな(高速)道路建設など、街の急激な変貌(小林信彦Click!のいう「町殺し」Click!)が止まらなかった時代だ。
 料理屋でわたす親父の「こころづけ」は、つまり近隣の動向や最新情報を手に入れるための、いわば「取材調査費」のような役割りをはたしていたのだろう。このような「こころづけ」の役割りは、昔ながらの店が健在で、近隣にずっと住んでいる勤務歴の長い仲居さんがいてこそ可能であり、乃手の料理屋ではハナから無理な注文だったらしく、まずはほとんど経験のない情景だった。
 親父は紙幣を折りたたんで、畳の上をすべらすようにわたしていたが、仲居さんも心得たもので畳に手をつき深くお辞儀をすると、ややシナをつくるような滑らかな動作でスッとそれを受けとるや、襟合わせへすばやくスマートに挿んでいた。すると、席が鍋料理やすき焼き料理などの場合は、すべて仲居さんが座敷へ付きっきりで世話を焼いてくれ、わたしたち家族は箸と飯茶碗を動かして食べるだけでよかった。
 ちなみに、親父Click!は酒が1滴も飲めなかったので、仲居さんとのおしゃべりが座敷での楽しみだったのだろう。その世話焼きの合い間に、彼女は親父の質問に次々と答え、周辺のさまざまな話題を聞かせてくれるのだ。店主が出てくると、もう3月10日の大空襲Click!の話か先代の関東大震災Click!の話になって、厨房の調理は大丈夫なのかな?……と心配になるぐらい話しこんでいった。このような情景が、なんら不自然さもなく可能だったのは、いまだ江戸期からつづく地域の“コミュニティ”が健在だったからだろう。
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 さて、わたしも(城)下町の古い江戸期や明治期からの料理屋へ上がるときは、親父のマネをしてやや恥ずかし気に「こころづけ」をわたすようにしている。わたしの世代では、現金をむき出しでわたすのは品がないと感じるので、小さな祝儀袋のようなものをあらかじめ用意するのだが、貧乏なのでやはり包むのはコーヒーを2~3杯飲める程度の額だ。すると、昔とまったく同じように襟もとへスッとそれを挿み、かいがいしく世話を焼いてくれるのはベテランの仲居さんだ。
 店の歴史や界隈の情報にもよく通じていて、いろいろな話をしてくれる。店の周辺が描かれた、江戸の切絵図(レプリカ)をどこからか持ってきては、「うちはここ」「オレの実家はここ」「あたしはこっち」などとやっていると、アッという間に時間がすぎる。ときに、わたしも仲居さんも生まれていないのに、空襲のときは(親たちが)「どっち」へ逃げたかなどと話し、見てもいない情景を語り合うのだからちょっとおかしい。でも、それが古くから歴史を積み上げてきた街ではあたりまえの、広島や長崎や沖縄では当然の、地元で「語り継ぐ」という行為そのものなのだと理解している。
 でも、1990年代からこっち、そのような「こころづけ」が通用しない店が出てきた。店自体は江戸期あるいは明治期からあるのに、そのような地元の慣習を理解できない仲居さんが登場してきたのだ。裏返せば、街の情報ネットワークをまったく持っておらず、なにを訊かれてもわからず、そもそも地元ではないので答えられない。「こころづけ」は店へと報告し、先代からの客らしいとわかると、当代の店主がやってきて話相手になってくれるのだが、それでなくても人手不足の忙しい厨房を抱えているのだから、そうそう長話や細かな話もできない。仲居さんからも店主からも、近隣の最新情報がほとんど入手できなくなってしまったのだ。
 仲居さん(もはや就活で入社した女性社員だろう)の中には、「こころづけ」を渡してもどうふるまっていいのかわからず、どぎまぎしてしまう人もいる。特に、若い仲居さんは「契約」あるいは「腰かけ」の感覚なのか、ハナから料理屋が建っている街について詳しく知ろうとは思わないのだろう。近くの店々とも、商店会以外での交流がなくなり、また流行りを追うようなチェーン店が増えて、地元の小学校から同窓だったというようなつながりも消え、店主(もはや経営役員)同士がかろうじて顔を見知っているぐらいになってしまったのかもしれない。つまり、街のコミュニティが実質的に「壊れて」しまったのだ。
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 仲居さんが近隣の情報に不案内となるにつれ、「こころづけ」の効果はほとんどなくなり、先代からの客だと知ると店主やその息子さん、娘さんが座敷へ挨拶に現れるようになった。でも、店を切り盛りしながらの世間話だから落ち着かず、親父の時代の仲居さんとすごした濃密な時間に比べると、グッと会話の中身が薄くなる。だから、わたしはいまの日本橋界隈の様子を、昔ほどよくは知らない。

◆写真上:神田川のアユとモツゴで、今年は小ぶりですばしっこいのが多い。はたしてアユ料理の店が、神田川に復活する日はくるのだろうか。
◆写真中上は、今和次郎が1929年(昭和4)ごろに記録した『新版大東京案内』所収の銀座1丁目から尾張町(現・銀座4丁目)にかけての飲食店。は、1932年(昭和7)に制作された木村荘八『牛肉店帳場』(部分)。描かれているのは、明治期の両国広小路(現・東日本橋)にあった第八いろは牛肉店の仲居さんたち。
◆写真中下は、1933年(昭和8)ごろ撮影の日本橋。は、同じころ撮影の江戸期は「駿河町」あるいは「金座」と呼ばれた後藤家屋敷のあったあたり。左手は手前が日本銀行で奥が三井銀行、右手は手前が横浜正金銀行で奥が日本橋三越。は、同じころの撮影で右手に明治座が見える金座通り(現・清州橋通り)。
◆写真下は、おそらく1928年(昭和3)撮影の両国花火大会Click!で、下に見える丸いドームのイルミネーションは大橋(両国橋)向こうの本所国技館。は、神田川の出口にあたる柳橋・船宿の夕暮れ。は、日本橋のあちこちに残るビル状になった料理屋。

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